進撃の建築家 開拓者たち 第25回 大井鉄也(開拓者30)木之本から:近江環人の行方ーレトロ・フィット建築の体系 「オフセット町家」 2018年10月(『進撃の建築家たち』所収)
開拓者たち第25回 開拓者30 大井鉄也 建J 201809
木之本から:近江環人の行方―レトロ・フィット建築の体系
「オフセット町家」
布野修司
大井鉄也(図⓪a)[1]は、滋賀県立大学環境科学部環境計画(環境建築デザイン)学科の3期生である。大学院に進学、内井研究室に所属した。内井先生が急逝(2002)されるも、生前から決まっていた内井昭蔵建築設計事務所に入所する。僕は、内井先生とは京都大学で3年間同僚としてご一緒した(1993~1996)。また、滋賀県立大に行かれた後も、京都市公共建築デザイン指針検討委員会(1999~2000)をお手伝いする機会があった。そして、滋賀県立大学に10年(2005~2015)務めたが、大井君とはすれ違いである。直接会ったのはごく最近だ。
僕が京都から彦根に引っ越した2005年3月に出迎えてくれた4人がー何故か4人とも坊主頭で、「四天王」ならぬ「四坊主」と呼ぶのだけれど(中川君は坊主じゃなかったらしい)-、川井操(滋賀県立大学助教)、中川雄輔(日建設計)、中浜春洋(西倉建築事務所)、中村喜裕(Vans)である。川井・中川が6期生、中浜・中村が9期生である。彼らは、僕の最初の設計演習のTAとなる中村(小島)奈苗さん(Vans)など徒党を組んで、南彦根駅前の「遊楽太郎」という洒落た店の内装工事(セルフビルド)を請負っていた。「遊楽太郎」は度々利用することになるのであるが、京都で修業した若い大将の料理の腕前は相当なものである。
川井・中川の両君はM1で、すぐさまアジアのフィールドを連れ回ることになる。中川君はいきなりインド・スリランカを一緒に回って[2]、インド洋大津波後のスクオッター地区の復興をテーマに修論[3]を書き、日建設計に就職する。学会の「作品選集新人賞」を受賞するなど将来を期待されている。川井君は、西川幸治研究室出身の西安工程大学の段錬儒教授のところへ留学することになるが、北京、西安、澎湖島、台湾、福建、ハノイ・・・と連れ回り、結局、学位論文[4]の取得までつき合うことになった。この川井操君が、滋賀県大出身の建築家のエースは大井先輩です、と会う機会をつくってくれた(5月18日)。そして、是非、作品を見に行きましょう、となり、川井夫妻、新婚の中川夫妻、そしてわが相棒も一緒に、木之本に出かけることになった(7月7日~8日)。
サラダパン
全ては看板(立体サイン?)から始まったのだという(つるやパン本店改修)(図①abc)。「つるやパン」は実は2度目であった。沢庵をマヨネーズ和えした「サラダパン」[5]は、評判の美味しいパンというので、家族でわざわざ買いに行ったことがあるのである。滋賀県のごく一部の地域のローカルフードが2000年代のご当地グルメブームによってマスコミに取り上げられ、滋賀県発の変わり種パンとして全国的にも知られるようになった。今や渋谷のヒカリエで毎月特売日がある。この看板、抜群の発信力があった。
大井君の双子の兄福也さん(ANDAND代表、クリエイティブ・ディレクター)と専務((有限会社つるや)西村豊弘さんが虎姫高校の同級生で、本店の改修を依頼されたのが発端、看板のデザインと販売戦略は3人で取り組んだ。高岡(富山県)のアルキャスト・メーカー竹中製作所には随分通った。微妙な皺、曲面を表現するのに苦労したのである。この竹中製作所が将来を期待される建築家である能作文徳・淳平兄弟の実家なのだというから世の中狭い。
看板製作と本店の改修の後、依頼されたのが「オフセット町家」という豊弘さんの弟、工場長の西村達朗さんの家である。もとは「サラダパン」を考案した祖母西村智恵子(旧姓安達)の実家で、1952年の建設である。そして、並行して、「つるやパン二号店、まるい食パン専門店」の改修を依頼された。店長は従兄弟の西村洋平さんである。看板は、同じ型枠で展開できればと当初思っていたけれど、10年の時を経た長浜の2号店は、まるい食パンをモチーフにすることになった(図②abc)。
木之本
内井事務所(2003~2008)[6]から遠藤克彦建築研究所(2008~12)[7]を経て独立する。「つるやパン」のネットワークを中心に木之本町が建築家としての出発点となった。「つるやパン」は木之本の街づくりの核でもある。西村福也さんに工場について説明を受け、街も案内してもらった(図③ab)。
木之本が東浅井郡虎姫町・湖北町・伊香郡高月町・余呉町・西浅井町とともに長浜市へ編入されたのは2010年である。北国街道沿いの馬市が立った宿場街で、織田信長の眼にとまる名馬を買うお金を差し出した山之内一豊の妻のエピソードは有名である。秀吉と柴田勝家が信長の跡目を争った賤ヶ岳の戦い(1583)もよく知られ、その先陣を切った加藤清正ら七本槍に因む清酒「七本槍」は地元ブランドである。
歴史的町並み(図④)を維持する木之本であるが、多くの地方都市同様、高齢化と人口減に悩む。滋賀県立大学は「近江楽座」そして「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)」という、COC(地域中心)プログラムの一貫でまちづくり支援のプロジェクトを続けてきているのであるが、地域再生の課題は容易ではない。「黒壁」のまちづくりで知られる長浜であるが、全てがうまくいっているわけではない。木之本でも、空き家を安く賃貸して外部から人材を招く事業を展開してきたが、なかなか仕組みとして定着していかない。街角の町家を改修して共同の土産屋(南政宏[8]設計)をつくったが、今は閉鎖されている。川井操研究室でも「近江楽座」の助成を得て、連携を模索しつつあるところという。
屋根上の休憩所―工場改築
どうしたらいいのか。近江環人=コミュニティ・アーキテクトとは一体何者か、何をするのか、何ができるのか、近江環人地域再生学座の設立に関り、10年間議論だけはしてきたけれど、奥の手を見いだせたわけではない。実は、20数人市町村長(現在は19市)を育てるということを密かに目的としてきたけれど、既に100人を超える修了生を出した。共通の認識となったのは、近江環人の創意工夫とそのネットワークが鍵となること、ステレオタイプ化したマニュアルは役に立たない、ということである。どこでもやるような観光客誘致策が息切れすることははっきりしていた。
木之内には、「つるやパン」をはじめいくつかの有力な種がある。時計屋さんの空き家に越してきた陶芸家七尾佳洋夫妻がいる(図⑤ab)。それぞれが自立したサイクルを確立することを優先し、それを重ね掛け合わせるのが基本なんじゃないか、などと話しながら街を歩いたのであるが、西村福也専務の話もまさにそうであった。
つるやパン工場のすぐ近くに伊香高校の野球グラウンドがある。かつては甲子園の常連校であった。今年一年生大会で優勝したというから名門復活も近いかもしれない。野球部員は、帰りに「つるやパン」本店によってイートイン・コーナーで団欒するのだという。「サラダパン」が全国に知られるようになって、パートも増え、駐車場も必要になった。また、休憩場も必要になった。そこで大井くんが提案してSDレビュー2017に選定されたのが「屋根上の休憩所」である(図⑥)。この屋根上からは伊香高校の野球場が見物できる。
その後、工場増築から工場見学も含んだ駐車場も一体化する計画へと構想は膨らみつつある。すなわち、「つるやパン」本店と工場を回遊することによって、客を街で受け入れる計画へと展開しつつある。
そもそも創業者の祖父西村秀敏がいわゆる「ヤリ手」だった。戦後はパン食が主となる、という読みのもとでパン屋を始めるのである。それでいて後には米飯組合も設立したという。教育長も務めた地域のリーダーであった。
オフセット町家
こうして、看板から始まった活動は、やれること、できたことを積み重ね、拡大していく、近江環人地域再生学のひとつのモデルになりつつように思える。そうした中で、「オフセット町家」は、街並研究会の会合、地元書店による本の読み聞かせの会、展覧会のギャラリーなど、街に開かれた場としても計画された(図⑦abcdef)。
戦後まもなく1952年に建設された町屋は、骨太の材木で組まれた新町家で、珍しい青(ライトブルー)漆喰や繊細な組子の建具など当時としては洒落た家であったと思う。基本的に大きな変更は加えてはいない。北国街道に面した8畳の続き間2つを土間にした。後方の平屋部分を住居の基本部分(LDK+バス・トイレ)とし、母屋の2階に寝室・居間を置いた。これを小町家といい、町家に小町家を入れ子状に組み込んだ。内井昭蔵仕込みというべきか、新旧材料の取り合わせ、ディテール、卒なくまとまっている。ただ、母屋の土間の天井、2階の小町家という切妻屋根の小屋(2つの寝室)の床下が銀色に塗られていて、いささかブルータルにずれが強調されている。
オフセットとはカーボン・オフセットのオフセットすなわち「相殺する」あるいは「埋め合わせる」という意味かと思ったのだけれど、どうも違う。図像(イメージ)版と紙が直接接しないオフセット印刷、すなわち「転写する」という意味でもないらしい。基準からずらす、という意味だと、大井君はいう。「閉じつつ開く」「切断しながら関係をつなぐ」ということか。しかし、腑に落ちたわけではない。オフセットという概念が設計の新たな手法に繋がっていくのかどうかは今後の展開を待とう。
一方、「すでにある」形式を編集する、と大井君はいう。リノヴェーションの仕事を出発点にする若い建築家にとって、既存の建築、「すでにある」空間をどう評価し、どう編集するかは共通のテーマである。
談話室
滋賀県立大学に「談話室」という建築学生の組織がある。ゲスト講師による講演会を主とする活動で、1999年に開始されて、現在まで続く。その第68回に卒業生として初めて大井君は招かれた(2017年12月13日)。そのタイトルが「「すでにある」形式を編集するープロトタイプとタイポロジーの間ー」である。実は、談話室の活動を開始したのが、大井君と同級生の丹治健太[9]君なのだという。僕が着任した2005年までに19回開催されており、記録集を出すことを条件に旅費を支援し始め、僕も20回から57回(2014)まではほぼ全て参加した。記録集『雑口罵乱』は現在9号まで出版されている。
木之本の長治庵に一泊、大井君に現在の研究テーマについてあれこれ聞くなかで、談話室の講演で何をしゃべったの?と聞いたら、161枚にも及ぶパワー・ポイントの資料とこれまでの仕事の詳細[10]を送ってくれた。高校生時代から卒業設計「遺跡の現在 安土山遺跡ミュージアム」(大井+丹治の共同設計)(図⑧)、大学院の設計「修道院」、「東京大学生産技術研究所アニヴァーサリーホール」(今井公太郎+遠藤克彦+大井鉄也)そして、木之本の仕事が紹介されている。
常に仕事を、原点、すなわち卒業設計―「すでにある」遺跡を編集する 復元を否定してみる―に遡って確認しながら、振り返る姿勢には理論家としての資質がうかがえる。ともすると、クライアントの要求、社会の趨勢に身を委ねるままの建築家も少なくないのである。もちろん、建築家の仕事はクライアントがあってのものであり、確たる理論があってそれを応用すればいいというものではない。常に後付けであると磯崎新は言うが、大切なのは、振り返って、自ら、自らの仕事を位置づけ続けることである。
リノヴェーション建築の体系へ
「形態は機能に従う」(L.サリヴァン)「形態は機能を喚起する」(L.カーン)「形態だけではなく、利用形態(プログラム)まで射程に入れなくては、建築はとらえきれない」(B.チュミ)・・・どういう説明がなされたかは推測するしかないが、講演の冒頭には、建築の世界ではよく知られたアフォリズムが並べられ、「形態は、機能が変わっても、普遍的な価値を得て、その形態は、後の機能にも対応する」とある。最後は、大井鉄也のテーゼであろう。
プロトタイプとタイポロジーそして編集をめぐっては以下のように考える。すなわち、プロトタイプ(原型)が「何らかの必要から(?)」空間となって出現し、それを編集することによって、住居、学校、工場・倉庫、美術館・・・のような様々な形式(建築類型?)が生まれる、そうして生まれた「すでにある」形式を新たな利用形態を可能にする建築(空間)へとさらに編集する、のである。原初、人々の全ての活動は住居を中心とする未分化な空間において行われていた、その空間はやがて分化し、いくつかの形式(建築類型)が生まれ、さらに近代的制度=施設として成立する。編集とは、その再編成に関わるのである。
建築を「すでにあるもの」として出発するとすれば、これまでの建築のパラダイムは大きく転換せざるをえない。大井鉄也が考えているのは「レトロ・フィット建築の大系」である(図⑨)。新築(リファイン)―既存(レトロ・フィット)、介入(インテルヴェント)―継承(レスタウロ)で張られる空間に建築行為を位置づけようとする。レトロ・フィット建築の体系というと既存建築の保存度が高いケースが強くイメージされているように思えるが、一般的に求められているのは、建築リノヴェーションの体系であり、サスティナブルな建築システムである。研究者(理論家)としての大井鉄也にはその体系化を期待したい。
こうして、大井鉄也にタイする期待は二分化される。木之本に拘りながら近江環人の行方を突き詰めて欲しいという期待とレトロ・フィット建築の体系を突き詰めて欲しいという期待である。しかし、はっきりしているのは、具体的な実践を欠いた理論は理論に留まる可能性が高いということである。大井鉄也はそのことを十分分かっていると思う。
[1] 1978年滋賀県生まれ。2001年滋賀県立大学環境科学部環境計画学科環境・建築デザイン専攻卒業。2003年同大学大学院環境科学研究科環境計画学専攻修士課程修了(内井昭蔵研究室)。同年内井建築設計事務所入所。2009年遠藤克彦建築研究所入所。2012年大井鉄也建築設計事務所設立。同年東京大学生産技術研究所特任研究員。2013年大井鉄也建築設計事務所一級建築士事務所。
[2] 20050720-0811: Kolkata Bhubaneswa Puri Chennai Kanchipram
Madrai Srilangam Tanjor Nagapatnam Pondicherry Mahabaripuram Chennai, Colombo
Galle:布野修司・中川雄輔・前田昌弘。20060715-0726:
Delhi Lahore Colombo:布野修司・山根周・中川雄輔。
[3] 中川雄輔(2007)『インド洋スマトラ沖地震津波被災地における住宅復興過程に関する研究~スリランカ・南西沿岸被災者の居住環境変容を事例として』滋賀県立大学修士論文。
[4] 川井操(2011)『西安旧城・回族居住地区の空間構成とその変容に関する研究』学位論文(滋賀県立大学)。
[5] 1957年、初代主人の妻が塩気のある惣菜パンのアイデアを思い付いたのが始まりで、当初は「サラダパン」の名の通り、マヨネーズで和えた刻みキャベツを挟んだものであった。その後、キャベツよりもたくあんを挟む方が食感が良く保存も利くことから、現在のスタイルに変更された。しかし、「たくあんも野菜だから、サラダじゃないか」ということで名称は変更されず、現在に至っている。
[6] 内井昭蔵建築設計事務所で関わった主な仕事は、ポプラ社本社屋ビル改築工事(基本設計・実施設計・工事監理)、四谷アパートメント新築工事(基本設計・実施設計・工事監理)、学校法人法輪学園こころ認定こども園新築工事(基本設計・実施設計・工事監理)などである。
[7] 遠藤克彦建築研究所で関わった主な仕事は、ユーキャン代々木別館新築工事(基本設計・実施設計・工事監理)、長崎県新上五島町しんうおのめ温泉荘改築工事(基本設計・実施設計・工事監理)、東京大学生産技術研究所アニヴァーサリーホール改修工事などである。
[8] 南政宏君も滋賀県立大学環境建築デザインの出身の2期生である。数々の受賞が示すようにプロダクト・デザインに分野で活躍している。
[9] 1978 年、福島県福島市生まれ。滋賀県立大学環境科学部環境建築デザイン学科卒業。1年間ヨーロッパを自転車で遊学。㈱渡辺富工務店、㈱プラットフォームを経て、2007 年、タンタブル一級建築士事務所設立。
[10] 受賞歴 2000年 「遺跡の現在 安土山遺跡ミュージアム」滋賀県立大学 卒業設計優秀賞 ※丹治健太との協同設計。2001年 「遺跡の現在 安土山遺跡ミュージアム」ランドスケープ6大学展 001 ランドスケープデザイン賞受賞。2008年 第一回コミーミラーコンペティション 佳作 [新建築2008/7 掲載]。2013年 東京大学生産技術研究所アニヴァーサリーホール[日本建築学会 作品選集 2014 掲載] [新建築 2013/3 掲載]設計:今井公太郎(東京大学大学院
工学系研究科 建築学専攻 教授)+遠藤克彦(遠藤克彦建築研究所)※遠藤克彦建築研究所 勤務時 担当2014年 釜石市民ホール(仮称)及び釜石情報交流センタープロポーザル
次点 ※矢野青山建築設計事務所との協同設計