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2021年6月6日日曜日

フォルマリズムの探求-異化・同化・転化 「庭路地の家」 進撃の建築家 開拓者たち 第27回 竹口健太郎(開拓者34)山本麻子(開拓者35) アルファヴィル

 進撃の建築家 開拓者たち 第27回 竹口健太郎(開拓者34)山本麻子(開拓者35) アルファヴィル フォルマリズムの探求ー異化・同化・転化「庭路地の家」201811(『進撃の建築家たち』所収)



開拓者たち第27回 開拓者34 竹口健太郎 開拓者35 山本麻子            建J  201811

アルファヴィル

 フォルマリズムの探求-異化・同化・転化

「庭路地の家」

布野修司

 

 アルファヴィルの2人、竹口健太郎[1]、山本麻子[2]もまた僕が京都大学建築学科で最初に出会った学生たちである。このシリーズでは、渡辺菊真(開拓者01)、森田一弥(開拓者14)、平田晃久(開拓者17)、丹羽哲矢(開拓者26)、水谷俊博(開拓者29)をとりあげてきた。いずれも1970年代初頭生まれで、僕の学生時代に生まれ、育った世代である。もうすぐ50歳に手が届く。早いものである。同世代の建築家として、藤本壮介(1971年生)、小堀哲夫(1971年生)、吉村靖孝1972年生)などが思い浮かぶ。


 竹口くんは加藤邦男研究室で、設計演習のエスキス・チェックの際、今もそうだけど、矢鱈に理屈っぽかった記憶がある。麻子さんは布野研究室配属であるが、修士論文のために大連南山地区の満鉄社宅を孫躍新(天津在住)、王勝さん(北京在住)と一緒に調査したことがなつかしい[3]。北京滞在中に、先頃その実行犯が相次いで死刑執行された「地下鉄サリン事件」(1995321日)が起こった。当時の中国は、北京や天津の車道を多数の自転車が埋め尽くしており、かつての満鉄幹部の住宅には数世帯が雑居する、そんな時代だった。南山地区は、再開発が課題になっており、当時大連市長をしていた、2012年に失脚した元重慶市長、薄熙来と偶然会って握手したことを思い出す。2014年に20年ぶりに訪れて、「南山風情旅游街」への変身にただただ驚いた。


 麻子さんは修士を一年休学、文部省給費留学生としてパリ建築学校ラ・ヴィレット校へ留学、同時期に竹口くんはAAスクールへ。当時から2人は仲がいい、という噂があった。19969月に帰国して大連調査をもとに修士論文[4]を書いたけれど、時間が足りず不本意だったと思う。博士課程に入って学位論文に書くことを進めたような気もするが、本人は設計まっしぐらである。山本理顕さんが埼玉県立大学のコンペで勝って人が欲しいというので推薦、スタッフとなったが、1年足らずで京都に戻り、19984月アルファヴィル設立に至る。京都を拠点に設計活動を開始して、今年、20周年となる。

 

  アルファヴィル

 アルファヴィルと言えば、J.L.ゴダールの映画、1965年のベルリン映画祭金熊賞を受賞した『アルファヴィル、レミー・コーションの不思議な冒険』である。日本公開は1970年で、公開時に新宿アートシアター[5]で観た。1960年代末から70年代にかけて、ヌーヴェルヴァーグの映画、特にJ.L.ゴダールの映画を見るのは学生たちの必修科目?だった。『気違いピエロ』『中国女』も続いてみた。しかし、どんな映画だったかというと心許ない。魅力的主演女優アンナ・カレーニナは覚えているけど、難解だったことだけが記憶に残る。ゴダール・リヴァイバル?があったのだろう[6]、わが娘の部屋にアンナ・カレーニナのポスターが貼ってあったことを思い出す。

 J.L.ゴダールの映画では「感情や思想の自由など個人主義的な思想が排除された都市」がアルファヴィルである[7]。アンチ「アルファヴィル」の思いが込められているのか?事務所名の由来について改めて尋ねてみると、フランス語の造語で、英語では〈アルファ・シティー〉、日本語では〈ある(A)都市〉という意味で、やはり、ゴダールの映画にヒントを得た、という[8]。「〈ALPHAVILLE〉はSFで、近未来のどこかの都市を舞台にしていますがセットは使わず、パリのようでパリでないような、なにか違和感のある場所選びが絶妙です。見慣れた都市を改めて見直す視線、異化する視線を常にもって建築設計に取り組んでいこうという所信表明です」という。

 事務所設立20周年を迎えるに先だって、2人は、英文の作品集“Alphaville Architects, EQUAL BOOKS(2015)を上梓している。既に数々の作品[9]があり、受賞歴[10]がある。

 

 京都から世界へ

 作品集の冒頭の「アルファヴィル」論(解説)(英文)で倉方俊輔が触れているので思い出したのであるが、設立以前、修士在学中に手掛けた作品に山本(有造)[11]家の別荘がある。図面を見せられた記憶がある。倉方によれば、既に、斜め線による空間分割、内と外とのシームレスな連結というアルファヴィル建築の特性をみることができる。2人ともどこかで建築修業をすることなく独立したから、学生時代のまま設計活動を続けてきた印象がある。しかし、いきなり独立といっても仕事がなければ始まらない。最初の仕事N-Convent Extensionについては、健太郎くんの父竹口和男さんのサポートがあったのだと思う。京都大学建築学科出身の構造設計家であり、京都の建築家ネットワークで活躍されていて、僕も何度かあったことがある。それでも、事務所を立ち上げたばかりの頃、僕の当時の自宅近く、高野で設計したカフェを見せてもらったことがあるが、苦労している様子であった。作品集に掲載されている作品の中では、白川通りの、いかにもローコストの美学を追究したかのようなCafe House(図②)が初期の佳品である。


  1990年代半ば、ソ連邦解体後のヨーロッパが若き建築学徒にとって実に刺激的な場所であったことをこのシリーズ(大島芳彦(開拓者27)、伊藤麻里(開拓者28)など)で再確認したのであるが、短いとはいえ、2人は胎動する何かを受け止めたのだと思う。そして同時に、生まれ育った世界の古都・京都を拠点とすることも決意した。以降、京都から世界へ向けた発信が常に意識されている。Web Siteによるグローバルな情報発信は、建築ジャーナリズムの世界を大きく変えてきたが、いまや世界中からアルファヴィルを訪れる学生、インターン生、建築家がいる。

 「アルファヴィル」のウエブ・サイトは次のようにうたう。

 「京都を中心に、常に空間の新しい可能性を考えながら活動しています。・・・・・スケールの違いによらず3次元的に自由な発想、そして光に留意したシンプルでありながら陰影と奥行きのある空間を心がけ、国内外へ提案してきました。」

 作品集の冒頭には、「建築=窓=構造」「幾何学的手法」「3D建築を目指して」とある。

 

 斜線・斜面・斜壁

 作品集に採りあげられた作品群をみると、全体を貫いているのは明らかにフォルマリスティックな手法である。かたちの自律性が追求されているように思える。そして、やたらに斜め線が目立つ。House Folded(図③)、House Twisted(図④)など、まるでXYZの直交座標軸を憎むかのようである(3次元的に自由な発想!)。New Kyoto Town House(図⑤)やSlice of the Sky(図⑥)にしても、ファサードは近隣に合わせながら、内部には斜め線が挿入される。確かに、倉方のいうように、デコンストラクションの時代に建築の遺伝子が組み込まれて、その面白さに没入してきたように思える。


    

                     

 1960年代末から1970年代にかけて、近代建築批判を標榜する多彩な表現が生み出された。その批判の方向は大きくはコンテクストかコンセプトかということになるが、歴史的様式(プレモダン)へ、装飾へ、地域へ、ヴァナキュラー建築へ、バラックへ、概念建築へ・・・と様々であった。しかし、それらはモストモダン・ヒストリシズム(あるいはリージョナリズム)、○△□の建築などと仕分けされはじめ、「ポストモダンの建築」と総称されることになる。

 近代建築批判という課題は、デザインの問題にとどまるものではない。建築の産業主義的生産消費のシステムが問題である。形態操作の水準にとどまるとすれば、限界は予めはっきりしている。 通常、形態のみの操作には建築家自らが飽きる。そして、ディテールの洗練、材料や構法の探求へと建築を深化させていく。新奇な形態を追い求め続ける伊東豊雄について「かたちの永久革命」(『現代建築水滸伝 建築少年たちの夢』(2011))と評したことがあるが、当の本人が「新たなかたちを生み出し続けるのは疲れるよ」と呟くのを直接聞いたことがある。「みんなの家」に一旦行き着いたのもわからないわけではない。「常に空間の新しい可能性を考えながら」という意気やよし!である。しかし、その行き着く先は見えているのであろうか?

 

 異化するコンテクスト

  10年ほど住んだ彦根に「アルファヴィル」の作品が3つある。Skyhole(2014)という戸建住宅(図⑦abc)、Hikone Studio Apartment(2015)という集合住宅(abc)、そして教会である。戸建住宅はオープニングの時に見せてもらった。作品集の最後に掲載されている「アルファヴィル」らしい作品である。ただ、住宅スケールの建築にしては「幾何学的手法」を優先しすぎている印象をもった。彦根では、キャッスルロード(戸所岩雄)あるいは四番町スクエア(内井昭蔵)のような歴史的町並みを復元するかのようなファサード・コントロールの手法が展開されてきた。彦根の2つの作品は、その立地において、そうした規制を逃れているかにみえるが、京都では至る所でその規制と闘うことが課題となる。




 ファサードはコンテクストに合わせながら、内部空間は3D-CADで自在につくり出すというのはひとつの手法である。New Kyoto Town Houseはそうした例である。しかし、ファサードに縛られすぎるとファサードと建築(空間)構造が分離されることになる。商業建築には一般的に見られるファサーディズム、虚偽構造(シャム・コンストラクション)、看板建築の系譜である。峻拒すべきは、勾配屋根を一律規制するといったファッショ的な景観規制である。「アルファヴィル」のフォルマリズムの探求は、もとより、皮相なファサーディズムとは無縁である。しかし、形態の自律性のみを追求するわけでもない。一般に、フォルムが生成されるコンテクストをどう捉えるか、異化するコンテクストとは何かが問題となる。



 京都で新しい作品ができたというので、一日足を運んだ(78日)。見せてもらったのは「絆屋ビルヂング」(図⑨)「庭路地の家」(図⑩)「粋伝庵ゲストハウス」(図⑪)の3作品である。いずれも、作品集にまとめられたこれまでの作品の印象と異なり、外に向かってその存在を強調する構えがない。木造であり、木造で斜線、斜壁の妙味を追求しようとする「絆屋ビルヂング」の他は「アルファヴィル」にしては温和しい。一皮むけたような気がしないでもない。








 図と地

  「絆屋ビルヂング」の場合、ビルジングといいながら、街区のいわゆる「あんこ」に立地しており、景観に関わる規制はそう厳しいわけではない。容積率は、クライアントの要求に対して余裕がある。ジュエリーアーティストの地石浩明さんの話を聞いて、故人を偲ぶ形見としてつくられるモーニング・ジュエリーという世界があることを初めて知った。全国から依頼者が尋ねてくる、そして故人の一生に向き合う、そういう仕事の工房、ギャラリー、そして住居が一体となった空間が日本の古都京都のど真ん中にあることはなんとなく相応しいように思えた。ここかしこに宿泊施設が増えつつある京都であるが、街区のあんこ部分にこうした工房が組み込まれた建築類型が新たに成立する可能性はあるのではないか。 

 アルファヴィルのこれまでの作品は、専ら、既存のコンテクストを異化することに重点を置いて、コンテクストにおけるひとつの型(プロトタイプ)をつくる姿勢は希薄であった。魚谷繁礼・みわ子(開拓者0607)あるいは森田一弥(開拓者14)の仕事とはいささか目指す方向を異にしてきたように思える。






 しかし、「庭路地の家」「粋伝庵ゲストハウス」2つはこれまでと少し異なる。京町家の建築類型(プロトタイプ)として地の一部となっていく可能性がある。図と地を区別して方法展開するのもひとつの選択である。

 「庭路地の家」は、大家さんと学生中心のコレクティブハウス、「粋伝庵ゲストハウス」は民泊施設である。狭い敷地、狭小な空間に新たな関係を育む集合空間を作り出そうと格闘していることがよくわかる。「庭路地の家」は、山本理顕さんに褒められたという。一貫して「一住宅一家族」批判を展開してきた山本理顕からみれば、「庭路地の家」はひとつのオールタナティブの提案である。1階の細長い住宅は、東孝光の「塔の家」に拮抗しうる最小限住居であり、二階に個室群を搭載することにおいて集合化の契機を内蔵している。「粋伝庵ゲストハウス」は、ベッド空間を立体的に組み合わせるおしゃれな「ドヤ」である。

 

 こうしてアルファヴィルのこれまでの作品について考えながら、作品集の冒頭の「建築=窓=構造」というのが気になってきた。それを解説するらしい断面図が示されるが、「ビルディング・エレメント論」をもとにした「有孔体理論」(原広司)のような理論ではなさそうである。形態言語はそれ自体強いメッセージ力をもっている。インターナショナルな関心を引きつけるのはその力である。しかし、断片的な言葉、概念によって形態を説明するだけではものたりない。リーディング・アーキテクトとしてステップ・アップしていくことを目指すとすれば、形態生成の理論をより丁寧に展開する必要があるのではないか。そして、そろそろ本格的な「図」としての建築をみたいと思う。 



[1] 1983.4-1989.3 洛星中高等学校。1990.4-1994.3 京都大学工学部建築学科。1994.4-1998.3 京都大学大学院工学研究科建築学専攻。1995.9-1996.7 AAスクール留学; Diploma Unit(=FOA) (イギリス、ロンドン、ロータリー財団奨学生)1998.4 アルファヴィル設立。神戸大学、立命館大学非常勤講師 一級建築士 日本建築設計学会理事

[2] 1987.4-1990.3 京都教育大学附属高等学校。1990.4-1994.3 京都大学工学部建築学科。1994.4-1997.3 京都大学大学院工学研究科建築学教室。1995.9-1996.7 パリ建築学校ラ・ヴィレット校留学 (文部省給費留学生)1997.4-1997.12 山本理顕設計工場勤務。1998.4 アルファヴィル設立。現在:京都大学、大阪工業大学非常勤講師 一級建築士

[3] 199503190401:中国 北京 天津 大連:中国建築学会訪問:大連調査:布野修司・孫躍進・山本麻子 ・王勝

[4] 山本麻子、『中国・大連の南山地区に残る日本近代住宅に関する研究』修士論文(京都大学)、19973月(図①)。

[5] 当時、名画座(渋谷)、文芸座(池袋)など各地にあった小規模な映画館のひとつで毎週のように通った。日本のヌーヴェルヴァーグと呼ばれた大島渚、篠田正浩、吉田喜重らの映画もここで見た。

[6] 『現代思想』(青土社)の臨時増刊号に「総特集 ゴダールの神話」(199510月)があり、2002年に4刷されている。ドイツのバンドに「アルファヴィル」(1982年結成)というのがあるらしいとか、村上春樹が『アフターダーク』(2004)という小説の中で映画『アルファヴィル』に触れている。

[7] コードナンバー003を持つシークレット・エージェント、レミー・コーションがアルファヴィルを建設したフォン・ブラウン教授を逮捕抹殺し、アルファヴィルを管理する人工知能アルファ60を破壊する物語である。

[8]京大時代からパリ留学時を通じて古いのから新しいのまでゴダールの映画はかなり見ていまして〈ALPHAVILLE〉では映像の背景について(成功しているかは別にして)試行しているのではと考えて選んだ名前です。」(山本麻子)

[9] W-Window House2005,Hall House 2(2007),Hall House 1(2008), House Twisted(2008),New Kyoto Town House, Roof on the Hill(2010)  ,House Folded(2011), Dig in the Sky, Slice of the City(2012), 高野山ゲストハウス(2013),

Spiral Window House(2014), Skyhole(2015), New Kyoto Town House2(2013) , カトリック鈴鹿教会(2015), 絆屋ビルヂング, 庭路地の家(2017),粋伝庵ゲストハウス(2018), 西大路タウンハウス(2018).

[10] DFAA デザインフォーアジアアワード2013 金賞x2 (香港)SDレビュー2013入選JCDアワード2013 銀賞NICHIHA SIDING AWARD 2013 GOLD prize 第一回京都建築賞 優秀賞(京都府建築士会)日本建築家協会関西建築家新人賞Architectural Review House Award 入賞(イギリス)第57回 大阪建築コンクール 渡辺節賞(大阪府建築士会)など。

[11] 1940年京都市生まれ。京都大学名誉教授、元中部大学特任教授。数量経済史、日本経済誌、日本帝国史、日本植民地史、貨幣・金融史。博士(経済学)。1967年京都大学大学院経済学研究科修士課程修了。三和銀行を経て、京都大学人文科学研究所助手、神戸商科大学助教授、京都大学人文科学研究所助教授、同教授、中部大学人文学部教授を経て、同大学特任教授。(20113月退職。主要著作に『日本植民地経済史研究』(名古屋大学出版会、1992年)『両から円へ 幕末・明治前期貨幣問題研究』(ミネルヴァ書房、1994年)『「満州国」経済史研究』(名古屋大学出版会、2003年)『「大東亜共栄圏」経済史研究』(名古屋大学出版会、2011年)など。

 

2021年6月5日土曜日

2021年6月4日金曜日

2021年6月3日木曜日

木賃アパート改修戦略―ソーシャルスタートアップの実験 「モクチンレシピ」  進撃の建築家 開拓者たち 第26回 連勇太郎(開拓者31) 川瀬英嗣(開拓者32) 中村健太郎(開拓者33) 山川陸(開拓者34)   NPO法人モクチン企画

 進撃の建築家 開拓者たち 第26回 連勇太郎(開拓者31) 川瀬英嗣(開拓者32) 中村健太郎(開拓者33) 山川陸(開拓者34)   NPO法人モクチン企画 木賃アパート改修戦略ーソーシャル・スタート・アップの実験「モクチンレシピ」201810(『進撃の建築家たち』所収)



開拓者たち第26回 開拓者31 連勇太郎 開拓者32 川瀬英嗣 開拓者33 中村健太郎 開拓者34 山川陸    建J  201810

NPO法人モクチン企画

 木賃アパート改修戦略―ソーシャルスタートアップの実験

「モクチンレシピ」

布野修司

 

 とにかく会いにいきませんか?と、連勇太郎[1]くん(図⓪a)を紹介してくれたのは川井操くんである。このシリーズ、「計画学への問いかけ、建築 史の検証、アジアへのまなざし、スラム・寄せ場・セルフビルドへの共感、タウンアーキテクト待望など、布野修司の自分語りも重ね合わせて建築家論、建築家職能論を展開する」という編集部の指令のもとに開始したのであるが、「自分語り」に拘ると内輪話に堕す。だから、これを機会にネットワークを広げる方向で考えたいと思ってきた。「トモダチ」の「トモダチ」の「輪」を広げる芋づる式である。とはいえ、そうそう若い建築家に出会う機会があるわけではない。そこで頼りにしてきたのが、日本建築学会の『建築討論』の作品小委員会のメンバーであり、日頃接する学生たちである。滋賀県立大学の談話室(『雑口罵乱』0109号、20072017年)で出会った建築家たちはこの連載の幅を広げてくれたと思う。




 「モクチン企画」のオフィス「カマタ_クーチ」(図①aに出かけて、連くんから『モクチンメソッド 都市を変える木賃アパート改修戦略』(学芸出版社、2017年)をもとにレクチャーを受けた(43日)(図①b。大島芳彦(開拓者27)さんから連くんは「木造賃貸アパート再生ワークショップ」の時の学生だったと聞いていた。「木賃アパート」のリノヴェーションを専門にしている企画設計集団と思い込んでいたのであるが、説明中C.アレグザンダーの『パターン・ランゲージ』(図①c)が出てきて、俄然、関心が深まる。僕の卒論はC.アレグザンダーの設計方法論なのである[2]。「パターン・ランゲージ」については45年前にそれなりの決着をつけたつもりであった。いくつか具体的な「作品」?あるいは「現場」が見たいというと、改めて戸田公園(埼玉県)を拠点とする「モクチンパートナーズ」の平和建設(川邊政明社長)を紹介するというので、西川直子編集長と一緒に出掛けた(717日)。

 







 モクチン

 モクチン=木賃とは、木造賃貸アパートの略語である。「木賃」はモクチンと呼び慣らされる以前はキチンと読まれた。木賃宿のキチンである。本来、江戸時代に宿場制度として街道筋に設けられた安宿、旅籠を意味する。基本的に大部屋で宿泊者が食材を持ち込んで薪代相当分を払って料理してもらった、薪すなわち木を賃料として払ったから木賃宿である。木銭宿ともいった。明治に入って産業革命とともに都市化が進行すると、東京、大阪、名古屋に「貧民窟」が出現、木賃宿は「貧民窟」すなわち労働者や無宿人を畳一枚程度で雑魚寝させる貧民の巣窟の安宿を意味するようになる。「やど」を逆にした「ドヤ」という言葉ができる。この系譜は、ドヤ街に繋がる。

 モクチンは、この「ドヤ」の系譜とは異なる。日本にアパート形式の住宅が現れ始めるのは大正末から昭和の初めであるが、住宅ストックとして大量に建設されるのは、戦後復興から高度成長期にかけてである。戦後まもなく住宅不足数は420万戸と推計された。建築家たちが最小限住宅に取り組んだことはよく知られる。建築家の戦略は、公共集合住宅のモデル設計、工業化住宅のプロトタイプ設計へ向かう流れと個別住宅設計を積み重ねる方向の大きくふたつに分かれる[3]。日本住宅公団が設立されるのは1955年であり、プレファブ住宅の供給が開始されるのは1950年末以降である。そして、曲がりなりにも全国の住宅数が世帯数を超えるのは1968年、全都道府県で住戸数が世帯数を上回ったのは1973年である。その間、日本の住まいを支えてきたのが木造賃貸アパートである。

 

 木造賃貸アパート再生ワークショップ

  60年代末から70年代初頭にかけて、若い建築家や建築を学ぶ学生たちは、何かに憑かれるように東京の街を這いずり回った[4]。「デザイン・サーヴェイ」と総称されることになるが、その対象、視点、目的は様々であった。その中でモクチンへのある種のシンパシーをもって調べ回ったグループが、『モククチンメソッド』も触れるが、重村力らの東京探検隊(『都市住宅』「木賃アパート-様式としての都市居住」、19732月号)である。当時、木賃アパートは上京してきた学生たちや若いサラリーマンたちの受け皿だった。まだ、「賄い付き下宿」も一般的であった。ワンルームマンションが登場するのは後の時代である。

 その時代から40年、「木造賃貸アパート再生ワークショップ」というプロジェクトが立ち上げられたのは2009年という。首都圏の様々な大学から学生が集まり、木賃アパートを自分たちの手で、自分たちの住みたくなるようなものに改修しようというプロジェクトである。大島芳彦(ブルースタジオ、開拓者27)、土屋貞雄(コンサルタント:株式会社貞雄、元ムジネット取締役)の仕掛けらしいが、連くんは22歳、SFC(慶応大学湘南藤沢キャンパス)の学生として主体的、主導的に参加した。このプロジェクトには大いに共感を覚えた。フィールド・サーヴェイは、建築計画研究そして都市組織研究の基本である。ワークショップは毎月開催、下北沢、高円寺、千駄ヶ谷などを歩き回り、実際に「物件探し」も行い、1年かけて北沢の築40年のアパートを改修することができた(20103月)。結局、このプロジェクトがNPO法人モクチン企画の設立(2012)に繋がる。代表理事連勇太朗、副代表理事川瀬英嗣(図⓪b)[5]大島、土屋はその理事に名を連ねる。

 

 モクチン企画

 モクチン企画は、設立6年の若い組織体である。連くんは、もともとは物書き(小説、評論)になりたかったという。父親から建築にもこんな世界があるよとレム・コールハウスの『錯乱のニューヨーク』を渡され、慶応大学SFC(湘南藤沢キャンパス)に入学したのだという。難解な『錯乱のニューヨーク』によって建築を志すとは「タダモノ(只者)」ではない!が、父親とは建築家、連健夫[6]である。幼い頃から建築は身近にあった。学部を出て、修士、博士課程に進む。小林博人[7]研究室に所属したという。一緒に仕事をする機会はなかったけれど、京都大学で3年間(19966月~1999年)僕は博人先生と同僚であった[8]博士課程に進学するとともに、川瀬とともに「モクチン企画」を立ち上げた。助教を務めながら、2015年に博士課程を単位取得退学、その後もSFCY-GSAで非常勤をつとめる。2014年にシステムエンジニアとして中村健太郎[9](図⓪c)が加わった。また、2016年から山川陸[10](図⓪d)が参画する。スタートダッシュ中の組織である。

 2013年秋に自ら改修して事務所として入居した「カマタ_クーチ」(図②)を訪れたときには4人そろって作業中であった(図①a)。事務所前の「クーチ(空地)」に卓球台が置かれている、生け垣や塀もない、?と思ったけれど、その時もらった『モクチンメソッド』の最後に、大家さんの茨田禎之さんとの出会いやその大いなる意図が記されていることを知った[11]

 レクチャーを受けながら考え続けたのは、「木賃アパート」を重要な社会資源として捉え、それを再生する意味である。そして、モクチンレシピなるものを支えるビルディング・システムである。直感的に思ったものは、「木賃アパート」という共用空間を最小限とする都市型住宅としての形式と低所得階層の受け皿としての役割を固定化することにしかつながらないのではないか、という疑問である。連くんとの最初の議論はその直感をめぐっていた。

  

 モクチンレシピ

 C.アレグザンダーの“Notes”から“Pattern Language”そして“House Production”への展開は、基本的には建築の企画設計から生産へ至る一般に開かれた方法論の展開である。“Notes”は決定論的に過ぎるし、“Pattern Language”はパターン(言語)が普遍的に設定されすぎていて(方言を認めない?)辞書的に過ぎる。もう少し、緩やかに建築言語の関係を規定するカスケードのようなシンタクスが必要ではないか、というのが40年前の僕の評価である。モクチンレシピなるものが単品メニューではなく相互関連をもつカスケードのような形でシステム化されているとすれば面白い!?と瞬間思った。しかし、モクチンメソッドは、どうやら建築家による設計方法論、建築生産論という建築のオーソドックス(オールド)・パラダイムの位相とは異なる。予めターゲットとされているのは、社会システムであって建築システムではない。閉じたシステムではなく、開いたシステムである。モクチンレシピとは、部分的で汎用性のある改修アイディアという。それをウエブ上で公開し、流通させ、様々な人に使われる状況をつくることで、単独で改修を一個一個積み重ねていくよりも圧倒的に多く、そして早く木賃アパートの改修を実現していくことができ、物件オーナー、不動産会社、工務店など木賃アパートに関係する様々な主体にアイディアを提供しエンパワーすることで、木賃アパート全体の質の底上げを狙うのだというのである。

 モクチンレシピは、C.アレグザンダーの「パターン」といっていいと思う。そして、レシピ同士の取り合わせ(関連性)も合わせて示される点で「カスケード」が意識されている(図③ab)。問題はその使い方である。「モクチン企画」の仕事は、モクチンレシピの開発ということになるが、その具体的中身は何か、である。



 

 トダ_ピース:モクチンパートナーズ

 平和建設は、戸田公園(埼玉県)の駅前で不動産業を営む。約600戸の不動産を管理するという。見せて頂いたのはいずれも戸建住宅である(図④ab)。川邊政明社長は、「モクチン企画」のモクチンレシピ(図⑤abc)を知ってすぐに飛びついたという。空家対策は、大家にとって、駅前(地域)の不動産屋にとって日々の大きな問題だからである。





 レシピとして専ら使われているのは、「のっぺりフロア」と「ぱきっと真壁」そして「まるっとホワイト」「チーム銀色」のようである(図⑥abc)。平和建設が手掛けたリフォームのビフォー、アフターをいくつかスライドで見せてもらったが、マンションもプレファブ住宅も手掛ける(図⑦ab)。インテリアは白に仕上げるのが基調であった。レシピにも「ホワイトニング」「チーム銀色」といった白、シルバーといった色に関わるレシピが少なくない。一旦、骨組に戻してリノヴェーションをするということではない。借り手と借り手の間にお色直しが可能なレシピが基本である。3ヶ月あるいは半年も借り手が突かない場合、大家さんにリフォームを勧めるのだという。



 川邊政明さんは、「トダ_ピース」というネットワークを仮構する(図⑧ab)。スローガンは「「空き箱」を「宝の箱」へ」、空き部屋、空き家に、新しい価値を生み出し、住みたい部屋、魅力的な戸田の街をつくる、人と建物と街の平和で良好な関係(PEACE)をつなぎ合わせて(PIECE)いくのだという。そして、そのネットワークは実体化しつつあるように思えた。レシピは確実に機能している。少なくとも不動産さんの需要には応えている。かつて大野勝彦が構想した地域住宅工房のような街の核となるコーディネーターの役割を、ポスト・スクラップ・アンド時代の現在、地域の不動産屋さんが果たす可能性があるのではないか。

 「モクチン企画」は現在21のモクチンパートナーズの年会費とレシピの閲覧料によって支えられている。

 

 ソーシャルスタートアップ

 「モクチン企画」は、「建築家個人の名前をブランドとするアトリエ系事務所でもなければ、組織設計事務所でもない」。「ソーシャルスタートアップ[12]としての建築組織」だという。「スタートアップ」とは、「明確な目的やビジョンを持って事業に取り組み、ミッションを達成するために短期間のうちに組織をつくり成長する一攫千金を狙った組織形態」である。「モクチン企画」が社会的なニーズ、少なくとも地域の不動産業の空家対策といったニーズに応えていることは各地のパートナーズが実証していると思う。いまのところ「一攫千金」を得るところまではいっていないように見えるが、その可能性はあると思う。

 ただ、確認すべきはそのミッションである。また、モクチンレシピによってそのミッションが達成可能かどうかである。岡部照彦(開拓者05)の「寄せ場」での取り組みを思い起こすが、その「ソーシャル・ファイナンスト・デザイン」とは違う。実に挑戦的なのは、「モクチンレシピのユニークな点は、今までの「まちづくり」というキーワードから想像される合意形成やワークショップというものとは違ったかたちで環境を改変していけるところです。関係者全員で話合ったり、協議する必要はなく、一人一人の家主や不動産管理会社の担当者が家賃収入を向上させるためにレシピを使えばよいのです」「一つ一つのアイディアの中にモクチン企画が大切にしているまちや建物に対する思いが込められているので、結果的にレシピの適用によっていくという無意識の良質なサイクルが生まれることです」という宣言?である。合意形成を基本とする藤村竜至(開拓者13)とクロスすることはないのか?。レシピに込められている「思い」とは何か。この「思い」はどこまでの射程を持っているのか。近代建築計画学の標準設計や標準仕様、住宅メーカーの顧客対応のシステム、あるいは住宅部品や住宅建材のオープンシステムと個別設計をめぐる歴史的基本的問題がここにある。


 『モクチンメソッド』は、最後(PART4 つながりを育むまちへ)に、まちへの展開を示唆する。その担い手は誰なのか、そしてレシピにまちづくりへつながる契機が含まれているか、それが問題の核心なのだと思う。「一攫千金」の夢が叶うことを大いに期待したい。



[1] 1987 神奈川県生まれ。2012 慶應義塾大学大学院 修士課程修了。2015 慶應義塾大学大学院 後期博士課程単位取得退学。2012-2013 慶應義塾大学大学院 助教(有期・研究奨励Ⅱ)。2012- モクチン企画設立、代表理事に就任。2013 C-Lab Collaborator(アメリカ、NY)。2013-2014 横浜国立大学大学院Y-GSA非常勤教員。2015- 慶應義塾大学SFC 特任助教 (SFC-SBC)2015- 横浜国立大学大学院客員助教 (IAS/Y-GSA) 

[2] 布野修司(1973)『構造・操作・過程―構造分析の試み―』(卒業論文(東京大学))。C.Alexander1964, Notes on the Synthesis of Form”をもとにグラフを解くHIDECSというプログラムを書いた。卒業設計はそれをもとに大学キャンパスを設計した(戸部栄一と共同設計)。

[3] 後者の方向を代表するのが延々とNo.住宅を作り続けた池辺陽である(「住宅の近代化」「第三章 二近代化という記号」『戦後建築の終焉-世紀末建築論ノート』)。

[4] 『戦後建築論ノート』(1981年)で、富田均の『東京徘徊』(1979)を枕に列挙しているけれど、元倉真琴、井出健、松山巌ら「コンペイトー」、真壁智春、大竹誠らの「遺留品研究所」、望月照彦らの「マチノロジー」、そして重村力の東京探検隊など、膨大な時間をかけて実測し、詳細な実測図を作製したのであった。

[5] 1988年生まれ。武蔵野美術大学空間演出デザイン学科卒。2009年より当活動に参画。 在学中より家具・インテリアプロダクトのデザイン製作や展覧会等の企画運営を行う。現在、 様々な領域を横断しながら活動を展開中。2009年黄金町バザール「cagg&zakkana」企画運営、  2010年銀座ギャラリー悠玄「回展」企画出展、2011TDW2011「木造賃貸アパート再生 ワークショップ」ブースデザインなど。

[6] 1956年京都市生まれ。多摩美術大学美術学部建築科(現環境デザイン学科卒業東京都立大学大学院修了後、建設会社に勤務、10年間、建築設計実務に携わる。1991年に渡英、ロンドンにあるAAスクールに入学、大学院優等学位取得の後、同校助手、東ロンドン大学非常勤講師、在英日本大使館嘱託を経て96年に帰国、有限会社連健夫建築研究室・一級建築士事務所を設立する。1996-1999多摩美術大学非常勤講師。1996-1998東京都立大学非常勤講師。1997-1999東京電機大学非常勤講師。2001-2004明治大学兼任講師。2001-2009ルーテル学院大学非常勤講師

[7] 1986 3月 京都大学工学部建築学科卒業 1988 3月 同大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了 1991 9月−1992 6 Harvard University Graduate School of Design Master in Design Studies 修士課程修了 2000 9月−2003 3月 同大学院 Doctor of Design Program修了 Doctor of Design学位取得 1988 4月−1996 6月 株式会社 日建設計 設計部 1996 6月−1999 3月 京都大学大学院工学研究科建築学専攻助手 同キャンパス計画助手。2000 2月− 2002 1Harvard University Graduate School of Design, Teaching Fellow 2003 4月− 株式会社 小林・槙デザインワークショップ代表 (槇直美と共働)。2005 4月ー20123月 慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科准教授 20124月ー現在 慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授 

[8] 夫人は槇直美(父は槇文彦)、兄は小林正美(明治大学副学長)、甥は小林恵吾早稲田大学准教授、建築ファミリーである。小林恵吾先生は一昨年(2016年夏)スラバヤを案内する機会があった。

[9] 1993年大阪府生まれ、和歌山県育ち。慶応義塾大学SFC卒業。学部一年次より同大学松川昌平研究室にてアルゴリズミックデザインの研究を行っている。2014年よりモクチン企画システムエンジニア。

[10] 1990年 埼玉県生まれ、神奈川県育ち。2009-13年 東京藝術大学美術学部建築科。2013-15年 松島潤平建築設計事務所。2016年よりモクチン企画へ参画。在学時は会場構成・舞台美術・店舗内装の設計施工を中心に活動。松島事務所での担当作に育良保育園(2016年日本建築学会作品選集新人賞)TritonText等。設計活動と並行して建築理論研究/実践検証のユニットとして超ポストモダン研究会/山田橋を共同主宰。

[11] 木賃アパートの改修を如何に街の再生につなげていくかは、様々なかたちでリノヴェーションに取り組む若い建築家にとって共通の大きなテーマである。「計画的小集団開発」(延藤安広)「ゼロロットライン」(巽和夫・高田光雄)の提案など僕らの世代も考えてきた。京都で町家の再生を試みる魚谷繁礼・みわ子(開拓者0607)や森田一弥(開拓者14)の場合、木造の柱梁構造の再生ということが前提で、シェアハウスへの展開や他用途への転換を個別に解いていくのが方針である。

[12] 投資家の孫泰蔵と社会起業家支援を行うETIC.が立ち上げた社会起業家向けのプログラムSUSANOOというソーシャルスタートアップのためのアクセラレータプログラム。着実な成長を積み重ねていく組織体は「スモールビジネス」であり、新しいビジネスモデルやサービスの開発によって短期間で急成長を目指す組織体を「スタートアップ」だという(馬場孝明(2017)『逆説のスタートアップ思考』中央公論新社)。