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2023年8月14日月曜日

2023年7月26日水曜日

風の通る家,周縁から63,産経新聞文化欄,産経新聞,19901231

風の通る家,周縁から63,産経新聞文化欄,産経新聞,19901231

63 台風                  布野修司

 

 今年は日本列島を襲った台風が実に多かった。とりわけ一一月末の台風には驚かされた。地球はやはりどこかおかしくなりつつあるのではないか、と思う。建築の内部空間は次第に人工環境化しつつあるのだけれど、都市や地球規模の環境は完全にコントロールすることはできない。台風はいまさらのようにそのことを思い知らせてくれる。

 先頃、ビル風を防ぐために中程に風穴を設けた高層ビルが竣工して話題となった。超高層ビルが林立する地区を歩くとビル風は相当ひどい。ビル風が問題になって久しいけれど、現代都市は風のことを忘れつつあるような気がしないでもない。

 伝統的な民家は、本来、風に対する備えをもっていた。台風銀座と呼ばれるような毎年台風が上陸するような地域では当然のことだ。防風林や石垣を設けたり、屋根に石を置いたり、瓦を風向きに合わせて左右違えて葺いたりしてきたのである。

 極めて興味深いのは、そうした地域の住宅が、他の地域より必ずしも丈夫につくられているわけではないことだ。梁を二重にしたりして構造を強化する工夫もあるけれど、むしろ、家の周囲に樹木を植える効果が大きい。住宅の構造を強くするだけでは限界があるのだ。

 強風に対するのと同様、さわやかな風をとりいれるためにも、住まいの周囲の環境が重要である。夏を旨とすべしという、日本の住まいは、もともと風が抜けるそうした構造をしていた筈だ。しかし、日本の、とりわけ都市の住居は、ますます自然の風とは無縁になりつつある。内に閉じ、内部だけを空調設備によって制御する、そんな考え方が支配的である。

 地球規模の環境や都市全体を考えるとき、もう少し自然の風通しをよくすることが必要ではないか、と思う。台風が吹き荒れるのは困るのだけれど。 



2023年7月25日火曜日

ミニ地球,周縁から62,産経新聞文化欄,産経新聞,19901224

 ミニ地球,周縁から62,産経新聞文化欄,産経新聞,19901224

 62 ミニ地球              布野修司

 

  パオロ・ソレリがやってきた。「地球環境時代」を考えるシンポジウムへ出席するためである。パオロ・ソレリといえば、アリゾナの砂漠にアーコサンティーと呼ばれる都市を延々と建設していることで知られる。僕も十年ほど前に訪れたことがあるのであるが、そのスケールの大きさに度肝を抜かれた記憶がある。エコロジカルな観点から建築を考える巨匠だ。

 ところで、その同じアリゾナのツーソンに「バイオスフィア2」と呼ばれる「ミニ地球」がつくられ、八人の研究者が外部との接触を一切断って二年間暮らす実験が開始されたのだという。一年半ほど前、そうしたニュースを読んで興味深く思っていたのであるが、実際に実験が開始されたとなるとますます興味がつのる。

 「バイオスフィア2」とは、「第二の地球」という意味だ。建物の中には、砂漠やサバンナ、海や熱帯雨林、農地がつくられている。このミニ地球のなかに、世界各地の植物や小動物、昆虫が生息する。海のなかには魚もいる。そこで八人は、家畜を育て、耕作し、完全に自給自足の生活をするのである。

  パオロ・ソレリの試みが、雄大で厳しい自然のなかで生きるという素朴な実験であるのに対して、「バイオ・スフィア2」は、ハイテックな科学技術をベースとする壮大な実験である。

 果して、この実験は成功するのか。スペース・コロニーの建設や地球環境の保全の問題に多くのデータを得るのが目的なのであるが、建築の問題としても貴重である。もちろん、二年程度では、あくまで実験にすぎないとはいえる。広大な施設に、たった八人というのも問題かもしれない。しかし、様々な示唆が得られるかもしれない、そうした期待がある。エコロジカルにこの施設が自立できるとすれば、建築や都市についての考え方は大きく変わる筈なのである。


2023年7月24日月曜日

地域職人学校,周縁から61,産経新聞文化欄,産経新聞,19901210

 地域職人学校,周縁から61,産経新聞文化欄,産経新聞,19901210

 61 地域職人学校            布野修司

 

 職人不足、建築技能者不足は建築界にとってますます深刻化しつつある。しかし、ではどうすればいいのか。方策は今のところまとまっていないのではないか。外国人労働者に頼ればいい、職人のいらない新たな建築工法を開発すればいい、という主張はあるのであるが、議論としてはいささかイージーだ。

 自分たちの生活環境を形づくる、その実際の建設を直接担う職人さんたちを自ら養成訓練していく仕組みをもたなければ、建築文化の行く末は相当怪しい。何故、若者が職人になりたがらないか、それははっきりしている。今こそ新しい仕組みをつくるべきではないか。

 例えば木造住宅を考えてみると、今なら伝統的な技術を教えうる職人さんたちは各地に存在するのであるが、もう五年もすればその伝達の場がほとんど失われてしまうのだ。

 職業訓練校のような公的な機関に期待するのにも限界がある。大工技術のようなコースは、コンピューターを使うコースに置き換えられ、各地で閉鎖されつつあるのである。

 そういう中で、地域で職人の養成訓練を行おうという試みがある。問題は、ただ教育訓練機関をつくって、建築技能者を養成すればいいというわけではないということだ。建築技能者がそれにふさわしい待遇を受け、生きていける条件が地域毎にできなければならない。そのためにはどうすればいいか。

 かって、建築職人の養成訓練は、地域毎に行われてきた。徒弟制ということで、戦後は否定されてきたのだけれど、建築の技能というのは、やはり現場が基本ではないか。座学では限界がある。野の学校がどうしても必要だ。学校という施設をつくるより、師匠のいるところへ行って学べばいいのではないか。

 地域でそんな師匠の野の教室を結ぶネットワークができないか、そしてそこで育った職人さんたちが一生地域で生きて行ける条件を創り出せないか、そんなことを少しずつ考え始めているところである。




2023年7月23日日曜日

犯罪防止と建築,周縁から60,産経新聞文化欄,産経新聞,19901203

 犯罪防止と建築,周縁から60,産経新聞文化欄,産経新聞,19901203

60 建築と犯罪               

                布野修司

 

 ある県の警察本部から、建築界に、今後の新しい団地づくりや街並みの整備、住宅の新築、改築に際して、「犯罪のない安全な街づくり必携」を参照して欲しいとの要望が出されている。最近になってその要望書と必携を手にしたのであるが、建築と犯罪についていささか考えさせられた。

 犯罪に対する抑止機能の高い街並みは、第一に、その地域の住民には自分達の街という感じを抱かせ、外来者には遠慮感を抱かせる、領域性の高い街であり、第二に、いつどこで誰に見られているかわからないという感じを抱かせる、監視性の高い街であるという。そして、必携は、領域性、監視性のそれぞれを高めるための方策を列挙している。

 ざっとみてまず感じたのは、領域性を高めることと監視性を高めることは、場合によると矛盾しはしないかということである。宅地を道路より高くし、塀や生け垣で囲い、門を設け、窓に格子を付け、雨戸を付け、というのだが、領域的に閉じることは、その領域内に一旦入れば、逆に外部からの監視の眼からはのがれることになる。だから、必携は、塀にはできるだけ多くの開口部を設けるともいう。問題は、どれだけ閉じ、どれだけ開くか、そのバランスではないのか。

 必携はまた街並に見通しのきかない凹凸をできるだけ少なくするとか、団地内への入口をできるだけ少なくするとか、行き止まりの道路を多く設けるとか、いうのであるが、景観やサービス、他の防災などの側面を考えると一概にそうだといえない。考えるに、建築のあり方と犯罪発生の関係を立証するのは難しいのではないか。領域性とか監視性の問題は、まずはコミュニティーの問題であって建築の問題ではないのではないか。

 犯罪を前提として設計するとなると、日本の街や住まいは相当変わっていく筈だ。あるいは、日本も犯罪という点で欧米に近づきつつあることをこうした要望や必携は示しているのであろうか。



2023年7月21日金曜日

都市デザイン賞の問題点,周縁から59,産経新聞文化欄,産経新聞,19901126

 都市デザイン賞の問題点,周縁から59,産経新聞文化欄,産経新聞,19901126

59 都市デザイン賞 布野修司

 

 多くの都市で、毎年建てられる建築を対象として、都市デザイン賞、まちづくり景観賞、建築文化賞、街角スポット賞等々、様々に呼ばれる表彰制度が設けられ始めている。

 日本建築学会賞のような作品賞と違って、そうした賞の場合、常に街全体との関係が問題となる。作品そのものを自立したものとして評価するのではなく、各都市の街づくりの方針に照らして評価が行われる。あるいは、作品の評価をめぐって街づくりの方向を見出していくというのが共通のテーマとなる。

 継続的に、毎年、あるいは二年に一度、賞を出していく。そうした意味でも、評価の指針が共有されている必要がある。審査員の構成が変わるとよくあるのであるが、前の年と次の年の評価基準がまるっきり異なってしまうといささか問題なのである。しかし、一方、評価基準が固定的になると、街づくりのダイナミズムが失われてしまう恐れもある。よくあるのは、伝統的な建築様式や建築の地域性に拘りすぎる場合である。ある特定の傾向のみに偏った評価がなされると、応募も減るし、せっかくの賞なのに該当作品なし、ということになりかねない。そのあたりが難しい。

 ほとんどの場合、賞といっても、多額の賞金や建築の維持費が出るわけではない。賞を与えられたのだけれど、もう壊されて跡形もないという例が実際にある。そうなるとなんのための賞か問われかねない。

 建築の評価というのは、本来多様であるべきである。しかし、その多様性は、それぞれの都市の、それぞれの地区において、ゆるやかに統合される必要がある。そして、全体として、都市毎に独自の表現としての街並みが生み出されていくことが期待される。都市デザイン賞の試みは、市民を巻き込んだ、街づくりの方向をめぐる議論を続けていく場として大きな意味をもっている。全国同じような街並みは御免である。しかし、街並みは一朝一夕にできるものではない。歴史をかけた取り組みとして、表彰制度も粘り強く続けて欲しいと思う。



2023年7月20日木曜日

サイト・スペシャリスト,周縁から58,産経新聞文化欄,産経新聞,19901105

サイト・スペシャリスト,周縁から58,産経新聞文化欄,産経新聞,19901105

58 サイト・スペシャリスト        布野修司

 

 サイト・スペシャリストという言葉がつくられようとしている。日本語にすれば現場専門技能家ということになろうか。耳慣れないのは当然である。まだ建築界のほんの一部で使われ始めたばかりだからである。

 サイト・スペシャリストという言葉をあえて用いようとしているのは、ゼネコン(総合建築業)に対してサブコン(下請建築業)と呼ばれる専門工事業者の集まりである。建築業界は重層的な下請構造からなっているのであるが、実際に現場を担っているのはサブコンである。3K(きたない、きけん、きつい)とか、6K(加えて、休日が少ない、給料が安い、暗い)とかいわれ、建設現場の人気は極めて悪い。若者の現場離れ、職人不足はマスコミでも大きく取り上げられるところだ。

 しかし、現場がなければどんな美しい建築作品もできるわけがない。現場が馬鹿にされるのは我慢がならない。現場で働く技能者の待遇を改善し、その重要性を訴えたいという思いがサイト・スペシャリストという言葉に込められているのである。

 図面を描くだけでふんぞりかえっている建築家は先生と呼ばれても現場では馬鹿にされる。現場を知らない建築家は建築家ではない。また、有能な現場専門技能家がいない建築に傑作はない。現場をまとめあげる能力や技能は大変なものである。しかし、その重要な職能を総称する言葉がない。個別でバラバラで、場合によると差別的な言葉が多い。

 もちろん、横文字にすればいいというわけではない。ファッショナブルなユニフォームをデザインすれば現場のイメージがあがるということではない。しかし、現場の仕事が尊敬に値し、社会的にも高い評価をうけ、それなりに高い報酬が得られるようになるとすれば、その職能にふさわしい名称が生み出される筈だ。サイト・スペシャリストという名称が一般化して行くかどうかはそうした意味で興味深いことである。



 

2023年7月19日水曜日

パトロンの意味,周縁から57,産経新聞文化欄,産経新聞,19901022

 パトロンの意味,周縁から57,産経新聞文化欄,産経新聞,19901022

57 建築家とパトロン          布野修司

 

 建築家は、建築の仕事があってはじめて建築家でありうる。建築を全く建てない建築家、図面だけ、絵だけ残すだけの建築家や建築論を著すだけの建築家もありうるけれど、それはあくまで特殊な建築家である。建築家が建築家と呼ばれるためには、時代の技術の水準や社会経済の仕組みの制約のなかで、建物を具体的に建てる過程が必要である。

 従って、建築家は仕事を受注する事業者としての側面をもつ。しかし、大きな建築物の場合、仕事をとるのはそんなに容易ではない。時にうさんくさい様々な努力が必要とされる。

 かっては、建築好きで、建築をよく知った、普請道楽のパトロンがいて、一個の才能を見抜き、建築家として育てるというパターンがあった。しかし、今日、そうしたパトロンは少なくなった。

 確かに建築にお金をかける企業は増えてきた。建築家には好ましい状況なのであるが、金をかけるからいい建築ができるとは限らない。建築を見る眼をもった建築主は、むしろ、少なくなっているのではないか。建設の主体は多くの場合、委員会である。大企業の場合、即決できないということもある。建築家の才能を見抜き、育てるという態度はなく、話題性をねらって、ジャーナリズムなどで既に著名な建築家を使うというセンスが支配的である。

 公共建築の場合、建築好きの首長が建築家を育てたという例は少なくない。しかし、特定の関係がしばしば政治的に問題となるし、実際、首長が変わればがらっと方針が変わるといった事例が多い。持続性、一貫性に乏しいのだ。

 建築家というのは建築主が育てるものである。建築主の建築についての素養に見合った建築家しか育たないといってもいい。金をふんだんに使って自由にやれ、という成金的なパトロンが必要なのではない。建築の楽しさ、面白さを理解するクライアントがいななければ、建築文化の華が開くはずはないのだ。



2023年7月14日金曜日

小さな金物にも大きな力,周縁から56,産経新聞文化欄,産経新聞,19901015

 小さな金物にも大きな力,周縁から56,産経新聞文化欄,産経新聞,19901015

 56 型枠緊結金物            布野修司

  内田(祥哉)賞というのがある。建築界には様々な顕彰制度があるが、最もユニークな賞だ。授賞作品を挙げてみればそのユニークさがわかる。第一回が「目透し張り天井板構法」、第二回の今年が「プラスティックコーン式型枠緊結金物」である。すなわち、顕彰の対象は、個人や団体ではなく、建築作品そのものでもなく、ものや技術が対象なのだ。

 内田賞というのは、国内の建築における事績で、構法に関する技術開発に対する影響が顕著なものを評価し、その内容を記録することによって、建築の進歩と発展に寄与することを目的として設けられたものなのである。

 ところで今年の授賞作品であるプラスティックコーン式型枠緊結金物とは何か。打ち放しコンクリートの平面を見てみてほしい。直径三センチ、深さ一センチほどの穴が規則正しく空いている筈だ。その穴がプラスチックコーン、通称「ピーコン」の跡である。すなわち、コンクリートを打設するための型枠を緊結する金物一式を表彰しようというのである。

 いまや、鉄筋コンクリート造の現場には必ず使われている。なんだと思われるかもしれない。しかし、それが生み出されるのには創意工夫と試行錯誤の歴史があるのである。

 都心の小中学校は同じ様な状況にあるのであるが、子供がいない町というのはやはり不自然である。計画者も子供の数が一割にもみたないなんて思いもしなかったに違いない。

 子供のいない町も不自然だけれど、若い世帯だけの町もこれまた不自然である。かって、ニュータウンの計画において、全く逆の現象が起こったことがある。予想を遥かに超える子供たちが入学し、教室が足りなくなったのである。あちこちのニュータウンで、あわててプレファブ校舎が建てられたのであった。同じ様な世代が一斉に入居するのだから当然なのだけれど、それに合わせて学校を計画するなんて思いもかけなかった。計画というのはどうもうまくいかないものだ。各世代がともに生活できるまちづくりができないのは、果して豊かか。根本的に何かがおかしい。



2023年7月13日木曜日

安易な設計思想と変更,周縁から55,産経新聞文化欄,産経新聞,19900924

 安易な設計思想と変更,周縁から55,産経新聞文化欄,産経新聞,19900924


55 ファシズムと様式             布野修司

 

 小さな新聞記事が眼にとまった。記事は小さいけれど建築の問題としては極めて大きい。もっと一般に議論されていいと思う。

 あるビール会社が経営する仮設ビアレストランは、一九三六年のベルリン・オリンピックのスタジアムの様式を外装に用いている。それに対して、ナチス時代の建築様式をイメージしているのは問題だと外人女性らから抗議があった。協議の結果、ビール会社は外装の変更を決定した。その記事の要点は以上のようだ。

 まず、双方ともあまりにもイージーである。特に、外装を取り替えればいいという態度は事なかれ主義だ。ビール、ドイツ、ベルリン、オリンピック・スタジアムという安易な連想で、他意はなかったとデザイナーや経営者は言いたいのかもしれないけれど、その連想でナチスを想起しないのはあまりにもうかつである。

 しかし、ナチス時代の建築様式をイメージさせるから駄目だというのも問題ではないか。二流の建築家であったヒトラーは、シュペアーをお抱え建築家として数々の建物を建設し、構想するのであるが、彼が全面的に採用したのは一般的にいえば古典主義建築の様式である。国際様式は否定された。一方、近代建築を採ったのがムッソリーニである。

 古典主義建築一般が駄目だとは、抗議者も言わないだろう。ファシズム建築だって、国によって以上のように違うのである。日本の場合、帝冠様式という様式が問題となった。九段会館や東京帝室博物館(現国立東京博物館)のように、日本古来の神社や寺院の瓦屋根を冠のように載せることが、コンペ(設計協議)などでもとめられたのである。

 ある特定の様式を絶対視する態度こそファッショ的である。しかし、様式というものは、簡単に取り替えられるものではないだろう。単なる装飾や取り替えられるファッションとしてではなく、建築を支える思想やつくる過程は、もう少しじっくり問題にすべきである。



2023年7月12日水曜日

熱い都市の不思議,周縁から54,産経新聞文化欄,産経新聞,19900917

 熱い都市の不思議,周縁から54,産経新聞文化欄,産経新聞,19900917


 54 熱くなる都市             布野修司

 

 自慢じゃないけどわが研究室にクーラーはない。身体がなまって温度調節機能が低下する、昔はクーラーなんかなかった、自然がいいのだ、と理屈をいって無理してやせ我慢している。当然学生には評判は悪い。

 しかし、それにしても今年の夏は熱かった。東南アジアに毎年のように出かけて暑さには慣れているつもりが、さすがに参った。年のせいかもしれない。

 都市は確実に熱くなりつつある。統計的なデータは知らないけれど、実感ではそうだ。みんながクーラーを使う。今年のクーラーの販売台数は大変なものだったそうだ。電車に乗ってもどこへいってもクーラーが効いている。地下鉄にも冷房がつきだした。しかし、室内を冷やすということは室外を暖めるということである。屋外の温度が上がっているのは誰が考えても間違いがない。屋内は長袖で上着がいるほど冷えていて、外の温度が上がっているのだから、外へでると余計暑い。とてつもない悪循環だ。

 都市には、緑がますます少なくなり、川や土もどんどん覆われる。建物は密閉化し、風は抜けない。都市そのものの熱循環も既に相当おかしくなっている。

 先日、太陽熱や雨水、井水や地下水、地熱や風力など自然エネルギーの利用をめぐって葉山成三(テーテンス事務所)氏の話を聞く機会があった。上智大学中央図書館や自邸(サーマルハウス)など天井輻射冷暖房、躯体輻射冷暖房を用いた設備設計で知られ、熱環境の語り部と呼ばれる氏の熱弁には、省エネについて実に考えさせられることが多かった。

 かって、オイルショックで省エネルギーが話題になった。以降、ソーラー・システムなど省エネ技術は様々に開発されてきた筈だ。しかし、現実の都市は、ますますエネルギー浪費型の構造になっていく。何故なのか。

 今回のイラク問題で中東湾岸地域が危機だというと、また省エネの声が起こってくる。実にいいかげんである。



2023年7月3日月曜日

木のパッチワーク,周縁から53,産経新聞文化欄,産経新聞,19900910

 木のパッチワーク,周縁から53,産経新聞文化欄,産経新聞,19900910



のどもと過ぎれば,周縁から52,産経新聞文化欄,産経新聞,19900903

 のどもと過ぎれば,周縁から52,産経新聞文化欄,産経新聞,19900903

 52 天水と中水(ちゅうすい)            布野修司

 

 心配された首都圏の水不足も、台風による大雨で一息ついた。というより、もうすっかり忘れ去られたかのようだ。大雨による洪水や崖崩れを心配しながら、一方で雨を歓迎する。奇妙である。つくづく僕らの生活が自然に依拠していることを感じさせられるのであるが、のどもと過ぎればなんとやらで、呑気なものである。

 僕らは水はあたりまえのもの、蛇口をひねればでてくるもの、無限にあるもの、とつい思っている。水は従順で、完全にコントロールされたものとして、日常生活において意識されることは少ない。

 かって水はこわいものだったし、大切なものであった。治水、利水は全ての基本あった。水を制するものが世界を制す、という言葉もある。水は万物の根源なり、といったのは古代ギリシャ、ミレトスのタレスである。しかし、僕らにとって、水は単なるHOでしかない。

 水が足りない、地球規模の問題がある、兆候もでている、にもかかわらず、水の大切さが日常的に意識されない。もう少し水を原初的に、根源的に、命や自然との関わりにおいて考えてみる必要がある。そして、流しで洗う、トイレで水をながす、蛇口をひねることがどういう問題につながっているか考えてみることが重要だ。               

 水に恵まれない地域は世界に多い。毎日、少しづつ水を買って生活している多くの人々が発展途上国の大都市にはいる。僕らはあまりにも贅沢に、無駄に水を使っていはしないか。まだ実現していないのであるが、飲料水以外は、家庭用排水を再利用しようという中水利用のプログラムがある。上水、下水でなく、中水である。そうした身近な工夫をすぐにでも実行すべきではないか。

 天水利用も個々の家庭で考えられていい。所詮、僕らの生活は天水依存である。そのことを嫌というほど意識させられるのが毎年恒例の水不足なのだ。

 



2023年6月23日金曜日

東京論批判の東京論、書評、鈴木博之『東京の地霊』、文化会議、199009

東京論批判の東京論、書評、鈴木博之『東京の地霊』、文化会議、199009

東京論批判の東京論

東京論ブームの去った後で   残されたもの

鈴木博之『東京の地霊』をめぐって                                          布野修司 

 

 『乱歩と東京』の松山巌、『東京の空間人類学』の陣内秀信、『建築探偵の冒険 東京編』の藤森照信を、僕(の周辺で)は秘かに「東京論の三人」と呼んでいた。この間の東京論ブームのなかで読まれた本は多いし、論者も多い。しかし、建築の分野でいうと、東京論は三人が代表である。それに東京論ブームに火をつけたのは建築の分野ではなかったかという気もある。少し先行して川添登の『東京の原風景』があるけれど、八〇年代半ばに相次いで出され、世代も近いことから、なんとなく東京論というと三人がすぐ思い浮かぶのである。しかし、そこにもう一人、もう一冊加わった。『東京の地霊』の鈴木博之である。

 東京論ブームは既に去ったと僕は思う。僕のみるところ、東京論はおよそ三つに分類された(  )。すなわち、レトロスペクティブな東京論、ポストモダンの東京論、そして、東京改造論の三つである。路上観察の東京論、俯瞰する東京論、というような視線の置き方によって分けたり、レヴェルや次元を様々に区別する必要もあろうが、およそ以上の三つで全体の傾向は把握できる。そして、実は、三つは同じ根をもち、東京改造論という大きな流れに収れんしていった。東京論ブームが去ったというのは、そうした脈絡においてである。

 レトロスペクティブな都市論においては、ひたすら、過去の東京が堀り起こされる。東京の過去とは、江戸であり、一九二〇年代である。また、微細な地形であり、水辺であり、緑であり、自然である。そうしたものを失ってしまった東京がノスタルジックに回顧されるのである。一方、ポストモダンの都市論は、ひたすら、現在の東京を愛であげる。いま、東京が面白い、世界で最もエキサイティングな都市、東京というわけだ。路上観察に、タウンウオッチングに、パーフォーマンスである。

 この二つの都市論が同根であることを見るにはポストモダンの建築デザインがわかりやすい。都市の表層を覆うのは過去の建築様式の断片である。安易で皮相な歴史主義のデザインだ。近代都市の単調なファサード(モダン・デザイン)を批判すると称して、すなわち、ポストモダンを標榜して、様式や装飾が実に安易に対置されるのである。レトロな東京論が回顧する過去や自然はいとも容易に掘り起こされて、現在の都市は、そのまがいもので飾りたてられ始めたのである。

 この二つの東京論が結果として覆い隠し、覆い隠すことにおいて支持し、促すのが東京改造の様々な蠢きである。都市の過去や自然、水辺の再発見は、巧妙にウオーターフロント開発や再開発へと直結される。二つの東京論は、結果として、東京改造論の露払いの役割を結果として果たすことになったのである。

 さて、そうした中で、鈴木博之の『東京の地霊』は、どのような位相を提示するのか。レトロな東京論でもなければ、ポストモダンの東京論でもない、まして、東京改造論でもない。東京論ブームが去ったのを見極めた上で書かれただけのことはある。ある意味では、東京論批判の東京論の試みと言えるかもしれない。

 「土地の「運」「不運」を支配するのは何か? 単に地勢だけでは分からない 土地の個性を左右するものーーそれが「ゲニウス・ロキ=地霊」だ。都内  カ所の個性的な土地に潜むゲニウス・ロキを考察した、興趣溢れる新しい「東京物語」」。内容は的確に「帯」にうたわれている。東京の微細な地形、微細な自然を読んでみせたのは陣内秀信なのだけれど、距離が置かれている。もう少し、方法レヴェルで、鈴木の意図を「まえがき」から抜きだせば、以下のようである。

 「どのような土地であれ、土地には固有の可能性が秘められている。その可能性の軌跡が現在の土地の姿をつくり出し、都市をつくり出してゆく。(略)都市の歴史は土地の歴史である。

 本書はその意味で東京という都市の歴史を描いたものである。ところが一般には、都市史研究といわれるものの大半が、じつは都市そのものの歴史ではなく、都市に関する制度の歴史であったり、都市計画やそのヴィジョンの歴史であったりすることに、かねがね私は飽きたらなさを感じていた。都市とは、為政者や権力者たちの構想によって作られたり、有能な専門家たちによる都市計画によって作られたりするだけではない存在なのだ。現実に都市に暮らし、都市の一部分を所有する人たちが、さまざまな可能性を求めて行動する行為の集積として、われわれの都市はつくられてゆくのである」

 要するに、ゲニウス・ロキが土地の歴史を支配している、都市の歴史は、ゲニウス・ロキを読むことによって書かれるべきだ、というのである。港区六本木一丁目の林野町宿舎跡地、千代田区紀尾井町の司法研修所跡地、護国寺、上野、御殿山、三田、新宿御苑、椿山荘、日本橋室町、目黒、東大キャンパス、世田谷区深沢、広尾、読まれているのは、以上の一三ケ所だ。

  東京の鬼門を鎮護するために上野に寛永寺が建てられたというようなよく知られた話もあるが、へぇーという因縁話が多い。東京生まれには、よく知られたエピソードかなとも思うのであるが、出雲生まれの僕には、東京の歴史について学ぶことが多い。護国寺と松平不昧公との関係など、実に興味深かった。まさに、へぇーである。なるほど、土地には土地に固有な物語があるものである。

 しかし、不満もなくはない。幸せな土地、薄幸な土地、売れる土地、売れない土地というのがある。何故だろうと思うと、その奥にひそむのが地霊なのだ、という。はぐらかされたような気がするのだ。ただ、運、不運があるというだけでは、そうか、といって終りである。一方で、地霊は意図的に作り出すこともできるというのだから、その地霊を作り出す秘密に迫ってみたくなるではないか。絶対、売れない土地、必ず不幸になる土地があるとすれば、その理由、その力とはなにかを知りたくなりはしないか。この間一貫して土地の帰趨を支配しているのは、経済原理であり、土地価格上昇のメカニズムである。地霊は消えつつあるのではないか、土地の価格の力が地霊の力を陸駕しつつあるのではないか、そんな状況のなかで、地霊はどうなるのか、いま地霊はどうつくり出されるのか、否応なく考えさせられるのである。『東京の地霊』がつきつけるのはそういうことだ、と僕は思う。

 都市は確かに様々な人々の様々な行為の集積としてつくられる。そして、人々の無限の行為は土地に刻みつけられる。そうした意味で、都市の歴史は土地の歴史である。建物の移り変わりは激しい、建物の歴史だけでは都市の歴史は書けないというフレーズが繰り返されるのであるが、そこには藤森照信の仕事への距離感が表明されているようにも思う。ただ、もうひとつだけ不満を言うとすれば、都市の歴史は必ずしも土地を所有するもののみの歴史ではないのではないか、という点だ。例えば、日本橋室町は、弾左衛門の囲い地のあったところである。その囲い地は、江戸の拡張に従って鳥越へ、そして、新町(今戸)へ移っていく。こうした、追われていくものについて、その物語を綴る視点もいるのではないか。松山巌の仕事には追われていくものへの共感があるように思う。東京大改造の狂騒の裏側で追い立てられつつある人々がある。それ故、余計そう思うのかもしれない。東京論に欠けてきたもののひとつは、東京を愛しきれずに、それでも住み続けざるを得ない人々の眼である。

 

*1 拙稿 「ポストモダン都市・東京」 『早稲田文学』 一九八九年九月号