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2021年3月8日月曜日

 traverese19 2018 新建築学研究19

Shark and Crockodile

 ある都市の肖像:スラバヤの起源

Shuji Funo

布野修司

 

 今一冊の本を準備している。『スラバヤ物語―ある都市の肖像 時間・空間・居住』と仮に題する。スラバヤは、人口約300万人(都市圏人口は1000万人)、東部ジャワの州都であり、インドネシア第2の都市である。最初に訪れたのは19822月で、僕のスラバヤ通いは、この夏(20188月)[1]も含めると、22回(インドネシア渡航は27回)にも及ぶ。スラバヤをフィールドとして学位論文[2]も書いた。スラバヤのカンポンにすっかり魅せられた人生となった。スラバヤは、間違いなく、僕の第2の故郷である。このスラバヤの「肖像」を、重層的、立体的に描き出してみたいと思ったのが執筆動機である。

 最初にスラバヤを訪れたこの時から35年,10年後に上梓した『カンポンの世界』(1991)からも四半世紀を超えた。この間、アジアを中心に数々の都市を歩き回った。スラバヤの肖像を描くことによって、この間学んだことを縦横に盛り込む本は書けないか、「時間・空間・建築」ならぬ「時間・空間・居住」をサブタイトルとするのは、意気込みを込めてのことである。既に書き出して悪戦苦闘中なのであるが、ここではスラバヤという名前、その肖像(市章)、その起源についてまとめよう。

 

 鮫と鰐

スラバヤSurabaya(あるいはスラボヨSuraboyoという名前は,スロ"suro" ()とボヨboyo"()の合成語という。伝承によれば,スロとボヨは,その土地における最強者の栄誉をかけて戦い, お互いその強さを認め,海はスロの領域,陸はボヨの領域ということで合意した。しかし、ある日スロが餌を追いかけて河口から川を遡ろうとしたところ,内陸に繋がる河川は自分の領域だとボヨは激怒する。スロは,水中は自分の領域だと主張したが,戦いになった。熾烈な戦いの末,スロは敗北して海に退散し,ボヨは河口を制覇した。これが現在のスラバヤ,というのである[3]。このスラバヤという名前の「鮫と鰐」説は、広く流布しており、スラバヤ市の市章は,鰐と鮫をSの字に絡み合わせたものである(図①)。そして、スラバヤ動物園前などには,その巨大な彫刻が置かれている(図②)。実にインパクトがあるシンボル(市章)である。一般的に理解されるのは,鮫と鰐の物語が,スラバヤの立地,そして,その歴史において海と陸,外来者と先住者との間で繰り広げられてきた抗争の歴史を象徴していることである[4]

     


スラバヤ市は,ジャワの最後のヒンドゥー・ジャワ王国マジャパヒト王国の建国を都市の起源とする。ラデン・ウィジャヤがマジャパイト王国を建国するに当たって、海を渡って来襲してきたモンゴル軍を撃退するが、この歴史的な攻防を象徴するのがスロ"suro" ()とボヨboyo"()の物語である。

 僕の師といっていい長年のカウンターパートであるJ,シラス(スラバヤ工科大学名誉教授)が指摘するが興味いのは,スラバヤのカンポンの名前の中に,ウォノWonoすなわち森のつく名前とクドゥンKedungすなわち川あるいはクパンKupanすなわち二枚貝、あるいはシモSimoすなわち虎という名のつく名前が複数あることである(図③)。クパンについては、ラデン・シトゥボンドが森を切り拓いた時に二枚貝の巨大な山(貝塚)を発見したという伝承がある。シモについては、ラデン・シトゥボンドが森を切り拓いた際に虎が出てきて追い払ったという伝承がある。すなわち,スラバヤは,川の流域や沿海部にあった森を起源とするのである。


 

 ダイヤモンド岬

 スラバヤの名が初めてジャワの史料に現れるのは,マジャパヒト王国の宮廷詩人ラワイ・プラパンチャRawai Prapańca1365年に書いたとされるジャワの年代記『ナーガラクルターガマNāgara-Kertāgama[5]である。ただ,スラバヤの名は,4章「1359年の王室の発展」の17-4に一箇所出てくるだけである。

 「・・・ris jangala lot sabhā nrpati ris surabhaya manulus mare buwun(王がジャンガラにいる時は,スラバヤにある王子の宮殿を毎回訪れ,途中でブワンに立ち寄った)」。

 ジャンガラは,ブランタス川下流域からジャワの東南部の地域であり,カフリパンKahuripanを都とするカフリバン王国(10191045)を前身とするジャンガル王国(10451136)が支配した地域である。井戸を意味するブウンBuwunがどこかは不明であるが,マジャパヒト王国のスラバヤには,王子の離宮が置かれていたことがわかる。

 スラバヤの起源が,マジャパヒト王国の1359年以前に遡ることはわかるが,さらにその存在が確認されるのが,現在のスラバヤ市の南に接するシドアルジョ県のクリアン (クラゲン)で発見された1037年のカラマギアン碑文である。その碑文には,ウジュン・ガルーUjung GaluhHujung Galuhという名が記され,ブランタス川の河口,現在のスラバヤのカリ・マス河口部に比定されるのである。古ジャワ語で,「ダイヤモンド(宝石)岬」という意味である。

 カフリパン王国そしてジャンガラ王国の時代,スラバヤはウジュン・ガルーと呼ばれた港市であった。ウジュンは,スラウェシのウジュン・パンダンのように,端部,岬といった一般名詞であるが,現在のスラバヤのカリ・マス河口部にもウジュンという地名が残されている。1982年に最初に調査して以来,毎回訪れるカンポン(カンポン・ウジュン)である。

 ジャンガラ王国の歴史については,ジャワのヒンドゥー王国の歴史を遡る必要がある。ボロブドゥールやロロ・ジョングランを建設した中部ジャワのマタラム(・ヒンドゥー)王国は, 929年に即位した第13代シンドク MPu Sindok (在位929948)の時に東部ジャワに遷都する。シンドク王は,ジョンバン周辺のブランタス川河畔のワトゥガルーWatugaluhを都(ムダン(メダン))とし,国名をメダンに変え,王朝を開いた。この王朝はクディリ王朝と呼ばれるが、やがてシンガサリ、マジャパヒトへ拠点を移していくことになる(図④)。


 シンドク王後70年近く刻文の発布がなく不明な点が少なくないが,その後王位はバリ生まれのアイルランガ(Airlanga=水を飛び越えるの意)(9911049)の時代となる。アイルランガは,王位につくと,各地に軍事行動を展開,ブランタス流域を中心に,都をカフリパンに置いて,北はトゥバン,南はインド洋岸,東はパスルアン,西はマディウンにおよぶ領域を支配し,東ジャワの再統一を果たした(1037年)。そして,バリそして東ジャワから中部ジャワにかけて一大王国を築くことになる。スラバヤ,トゥバンといったジャワ北岸の港市が発展するのはアイルランガ王の時代である。そして,後継者問題に悩んだアイルランガが2人の息子に領土を二分して与え、クディリ王国はジャンガラ王国とパンジャルPanjal王国に2分されるのである((図⑤))。


 12世紀に入って,ジャンガラ王国は,クディリ王国に併合されるが,中国史書にはそれ以後にもジャンガラの名が見られる。南宋の泉州市舶司,趙汝适Zhao Ruquaが書いた地誌『諸蕃誌』Zhu fan zhi1225年頃)には戎牙路(姜加拉jiang jia la)とあり, 元の航海家,汪大渊13111350)の『島夷志略』(1339年頃)には重迦庵Jung-ya-anがスラバヤとされる。鄭和の南海遠征(140533)に参加した馬歓(13801460)が書いた瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』[6]には,蘇魯馬益(あるいは蘇兒把牙)[7]と記される。

 碑文は,アイルランガ王がブランタス川の氾濫を防ぐための大堰建設を讃えるものであったが,ウジュン・ガルーが既に海外交易のための重要な港となっていたことがわかる。アイルランガ王が海外交易に大きな関心をもっていたことは,この碑文以前に発布したチャネ刻文(1021年)などに外国人の名を列挙していることで窺え,ウジュン・ガルーにはジャワ島以外からの商人が居留していたのである。ウジュン・ガルーの他には,スラバヤの北西のトゥバンに港市が存在したことが後の刻文で知られる[8]

 アイルランガ王の時代すなわち11世紀前半にはスラバヤは港市形成の歩みを開始していた。ジャンガル王国がパンジャル王国に統合されて以降,クディリ(ダハ)を都とするクディリ王国が栄えるが,13世紀に入ると凋落し始め,1222年にケン・アンロックがクディリ王国のクルタジャヤ王を倒して,ラージャサ王朝をたてる。この間の王都はいずれもブランタス川の流域に位置し,スラバヤはその河口に位置する。すなわち,スラバヤは東ジャワ内陸のヒンドゥー王国の外港として発展してきた。

 

 誕生日1293.05.31

スラバヤ市は,1293年を創立年とし,しかも月日を特定して,531日をスラバヤ誕生の日とする。1293年はマジャパヒト王国建国の年であり,その日は,初代国王クルタラージャサ・ジャヤワルダナKertarajasa Jayawardhanaとなるラデン・ウィジャヤがクビライの派遣したモンゴル軍をスラバヤで撃退した日という[9]

クビライ Khubilai(Kublai)が,シンガサリ王国を武力制圧するために遠征軍を送ったのは129293年のことである。クビライは,1280年以降,シンガサリ王国に対して元の宗主権の承認と元朝への来貢を求める使者を度々送る。その執拗な要求をクルタナガラ王(125492)は悉く拒絶し,1289年の使者,孟琪Men ShiMeng-qi)に対しては,盗賊扱いし,顔面に焼印(入墨)して耳を削いで送り返したという。これに激怒したクビライは,ジャワ侵攻を決断,軍船を派遣するのである。2万~3万人の兵が集められ,1,000隻の船団が泉州を出発してジャワに向かったのは129212月である。指揮を執ったのは,モンゴル人のシービShi-bi, ウイグル人のイケ・メセIke Mese,中国人のGaoxingである。どのような船団であったか『元史』は伝えないが,川を遡る小舟を建造させたとしているから,現地の地勢を十二分に把握し,周到な戦術を立てた上での編成であったと思われる

シンガサリ王国は,ムラユ王国(11831347)を破り(1290年),当時のジャワ海域で最強国家となる。しかし,1275年頃からのスマトラ遠征で手薄となった首都の防護の隙をついて,クディリ(カディリ)ジャヤカトワンが叛乱を起こす。ジャヤカトワンは,マドゥラ島スメナップを拠点にしていたアルヤ・ウィララジャの援助を求め,シンガサリの首都クタラジャ (トゥマペル,マラン近郊)を南北から挟み打ちする作戦をとるが,この時,北の防御に派遣されたのがクルタナガラ王の娘婿ラデン・ウィジャヤである。ラデン・ウィジャヤは北からの攻撃を食い止めたが,南からのカディリ軍によって王都は攻略され,クルタナガラ王は殺されてしまう。ラデン・ウィジャヤは,マドゥラ島に逃れ,アルヤ・ウィララジャの監視下に置かれることになったが,マジャパヒトと呼ぶことになる村に居留することを許される。モンゴル軍を迎え撃ったのは,マジャパヒトの地に逃れてきていたラデン・ウィジャヤである。

『元史』の記述は少ないが,泉州の港を出航したモンゴル軍は,大越,チャンパの沿岸を航行して,タイ湾奥のパタヤのコーランKo-lan (Billiton)に寄港している。同じ頃(12901292年),マルコ・ポーロ(12541324)が泉州を発って帰国の途につき,チャンパ,そしてスマトラの北部に寄ってインド洋を迂回し,ホルムズへ向かっている。ジャワには寄港していないが,「甚だ裕福な島であり,胡椒,ナツメグ,ジャコウ,ガンショウ,バンウコン,クベバ,クローブなど,世界中の香料がここで生産され,極めて多くの船舶と商人がこの島を目指し,大量の商品を仕入れて巨利を得ている」といった伝聞を『東方見聞録』(『百万の書イルミリオーネ (Il Milione)』あるいは世界の記述 (Devisement du monde))に記している(図⑥)

台風に襲われ,チャンパのウィジャヤ王国に入港を拒否されるなど苦難の行程であったとされる。服従するマレーやスマトラの小国にはダルガチdarughachis(統治官)を残しながら,スラバヤ西方100kmに位置するトゥバンTuban沖に到達する。シービはクビライ軍を分け,一隊をトゥバンから陸路を南下させ,一隊はジャンガラの港からカリ・マスを小舟で遡行させた。両隊はパチュカンで合流,マジャパヒト(滿者伯夷)に到達する(図⑦)。



ラデン・ウィジャヤは,大元ウルスへの朝貢を約すことでモンゴル軍と同盟協定を結び(1293315日),クディリのジャヤカトゥワン軍を制圧,降伏させる。ウィジャヤは戦勝祝いと朝貢の準備としてマジャパヒトへ帰還,一転,モンゴル軍を急襲,敗走させる。スラバヤからモンゴルを撃退したのが,531日という。これがスラバヤの誕生日とされるのである。モンゴル軍は,モンスーンの風向きのために,慌てて帰国することになる。多くのモンゴル兵が取り残され,3000の精鋭を失ったとされる。

鮫と鰐の戦いという伝承は,このモンゴル軍との戦いを暗示しているのである。 



[1] 日本建築学会建築計画委員会夏期研究集会(20180817-25)。スラバヤ他、バリ、ジョクジャカルタ、ジャカルタをめぐる。

[2] 布野修司『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学,1987年)がもとになっている。

[4] 鮫と鰐が戦うというモチーフについては,12世紀にクディリKederi(カディリKadiri)王国のジャヤバタという予言者が巨大な白い鮫と巨大な白い鰐が戦うと予言したという伝承もある。他に,ジャワ語のスラ・イン・バヤsura ing bayaに由来するという説がある。「勇敢に危機に臨む」という意味である。スロは,サンスクリット語のスールヤsurya(太陽)に由来するという説もある。この説に依れば、インド神話に由来するということになる。

[5] ナーガラクルターガマとは「聖なる教えの国」という意味である。『ナーガラクルターガマ』がチャクラヌガラの王宮から言語学者,J.ブランデスBrandesによって発見されたのは18941118日のことである。このロンタル椰子の葉に書かれた作品については,T.G.ピジョーの『14世紀のジャワ』5巻(Ⅰ.ジャワ語テキスト,Ⅱ.英訳・註,Ⅲ.翻訳,Ⅳ.注釈・要約,Ⅴ.用語集・索引)(Pigeaud, Theodore G.(1960))によって知ることができる。その後,1979年にバリで,H.I.R.ヒンツラーHinzlerJ.ショテルマンSchotermannによって異本が発見され,『デーシャワルナナDeśśawarnana』(Robson S.1995, Desawarnana (Nagarakrtagama) by Mpu Prapanca, translated by Stuart Robson,KITLV Press Leiden)として公刊された。「デーシャワルナナ」とは「地方の描写」という意味であり,もともと『ナーガラクルターガマ』も本文に明記されている名前は『デーシャワルナナ』である。『デーシャワルナナ』は,シンガサリ王国の創建者ラージャサ王の誕生に始まり,1343年のバリ遠征で終わる。ジャワの歴史については,もうひとつ,17世紀初頭に古ジャワ語でかかれた作者不詳の王の事績を編年体で記した年代記『パララトンPararaton(諸王の富)』(Brandes J.L.A.1920, “Pararaton(Ken Arok)”, Martinus Nijhoff, The Hague)が知られる。で,ラージャサRajasa王の誕生に始まり,クルタブミKertabhumi 王の1486年の記事で終わる。ジャワの歴史については,その他,近世ジャワ語で書かれたジャワの年代記『ババド・タナ・ジャウィBabad Tanah Jawi(ジャワ国縁起)』,『スラト・カンダSelat Kanda』がある。その他,Kidung Panji Wijayakrama, Kidung Rangga Lawaなどの中世ジャワ語の詩篇,そして多くの碑文が編年のために利用される。Stametmuljana(1975)が史資料を列挙している。

[6] 鄭和の 前後7回の航海のうち,馬歓が参加したのは第467次の3回であったが,その主要部分は第4次航海(1413年冬~14157月)の報告と考えられる。占城(チャンパ)から天方(メッカ)に至る20か国の風俗,物産,制度,住民などを詳しく紹介している。いくつかの系統の版本があるが,馮承釣(ふうしょうちょう)校注の『瀛涯勝覧校注』(1955・中華書局)に定評がある([寺田隆信]『小川博訳注『馬歓・瀛涯勝覧』(1969・吉川弘文館)』)

[7] 爪哇國:瓜哇國者,古名闍婆國也。其國有四處,皆無城郭。其他國船來,先至一處名杜板。次至一處名新村,又至一處名蘇魯馬益。再至一處名滿者伯夷,國王居之。其王之所居以磚為牆,高三丈餘,週圍約有二百餘步。其內設重門甚整潔,房屋如樓起造,高每三四丈,卽布以板,鋪細藤簟,或花草席,人於其上盤膝而坐。屋上月硬木板為瓦,破縫而蓋。國人住屋以茅草蓋之。家家俱以磚砌土庫,高三四尺,藏貯家私什物,居止坐臥於其上。・・・・於杜板投東行半日許,至新村,番名曰革兒昔。原係沙灘之地,蓋因中國之人來此剏居,遂名新村,至今村主廣東人也。約有千餘家,各處番人多到此處買賣。其金子諸般寶石一應番貨多有賣者,民甚殷富。自新村投南船行二十餘里,到蘇魯馬益,番名蘇兒把牙。其港口流出淡水,自此大船難進,用小船行二十餘里始至其地。亦有村主,掌管番人千餘家,其間亦有中國人。其港口有一洲,林木森茂,有長尾猢猻萬数,聚於上。有一黑色老雄獮猴為主,卻有一老番婦隨伴在側。其國中婦人無子嗣者,備酒飯果餅之類,往禱于老獼猴,其老猴喜,則先食其物,餘令衆猴爭食,食盡,隨有二猴來前交感為驗。此婦回家,卽便有孕,否則無子也,甚為可怪。

[8] 青山亨(2001a)「東アジア統一王権―アイルランガ王権からクディリ王国へ」(岩波講座『東南アジア史』2「東南アジア古代国家の成立と展開(1015世紀)」,岩波書店。

[9] スラバヤ市が条例(Mo.02DPRD-Kep-75)で531日を誕生の記念日とするのであるが、史実として確認されているわけではない。Slamet Muljana(1976)A Story of Majapahit”、Slamet Muljana(1979)Negarakertagama dan Tafsir Sejarahnya”は、モンゴル軍が撃退されたのは、1293424日だとしている。そして、マジャパヒト王国の設立が宣言されるのは129311月とされる。

2021年3月7日日曜日

壁のない住居-タイ系諸族の伝統的住居 House without Walls – Traditional Houses of Thai Tribes

 traverse18 2017 新建築学研究18


House without Walls – Traditional Houses of Thai Tribes
壁のない住居-タイ系諸族の伝統的住居

Shuji Funo

布野修司

 

東南アジアの住居―その起源・伝播・類型・変容

東南アジアを歩き出しておよそ40年、その最初の成果である学位請求論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究-ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学,1987年)-そのエッセンスをまとめたのが『カンポンの世界』(パルコ出版,1991年)である-を書いてからも既に30年になる。東南アジアの民家(ヴァナキュラー建築)については、『地域の生態系に基づく住居システムに関する研究』(主査 布野修司) (Ⅰ: 1981年,Ⅱ:1991年,住宅総合研究財団)以降、『アジア都市建築史』(布野修司編、アジア都市建築研究会,昭和堂、2003年:『亜州城市建築史』胡恵琴・沈謡訳,中国建築工業出版社,2009)、『世界住居誌』(布野修司編、昭和堂、2005年:『世界住居』胡恵琴訳,中国建築工業出版社,2010年)などによって概観はしてきたけれど、ようやく独自に、『東南アジアの住居 その起源・伝播・類型・変容』(布野修司+田中麻里+ナウィット・オンサワンチャイ+チャンタニー・チランタナット、京都大学学術出版会、2017年)をまとめることができた。「壁」を念頭に、そのエッセンスを紹介しよう。

 

顔のない家

R.ウォータソンは、その名著『生きている住まい-東南アジア建築人類学』(Waterson, Roxana (1990), 布野修司監訳(1997))で1章を割いて、ヨーロッパ人が、東南アジアの住居を見て如何に嫌悪感に近い違和感を抱いたかについて書いている[1]。住居は暗くて、煙たく、混雑しすぎで、天井や壁はすすで汚れ、隅には蜘蛛の巣がはり、床は鶏の糞やビンロウの実のカスで覆われ、アリやゴキブリやムカデやサソリが這いまわっており、床下には豚や鶏が飼われていて平気で残り物が捨てられ、不潔だ・・・云々は、さもありなんであるが、興味深いのは、住居そのものが死んだようにみえた、ことである。

 タニンバルの住居の「足の上に屋根がかぶさるというというその形態」(Drabbe(1940))が「死んでる」ように思えたというのであるが、建物が「足」を持っていること、すなわち高床であることに違和感があった。そして、足すなわち高床の杭(基礎)柱であるが、それ以外は頭(屋根)だけで、顔と胴体すなわち壁がない、眼(窓)がない、というのが気持ち悪いのである(図①)。

 「彼らの住居は、床と屋根以外なにもないが、とても巧妙な構造をしている…ほとんどすべてのものが、素晴らしい趣味と驚くべき技術でつくりあげられる彫刻によっていかに精巧に覆われているかをみたあと、…彼らが野蛮人であるのか。…野蛮人とは何か」(Forbes(1885))という極めて高い評価もあるけれど、ヨーロッパ人には、東南アジアの住居には壁がなく、従って窓もないことは、実に奇妙に思えたのである。


 

オーストロネシア世界

われわれが人類の地球規模の居住の歴史と世界中のヴァナキュラー建築を総覧することができるのは、P.オリヴァーの『世界ヴァナキュラー建築百科事典EVAW』全3巻(P. Oliver (ed.) 1997))を手にしているからである。一線の研究者・建築家によるA4版で全2384頁にも及ぶこの百科事典は,今のところ世界中の住居についての最も網羅的な資料である[2]

煉瓦造と木造(図②)の分布図をみれば、壁の文化圏は一目瞭然である。大きくみれば、東南アジアは木造の軸組(柱梁)構造の文化圏に属する。そして、高床式住居が一般的である(図③)。高床式住居は、さらに、西はマダガスカルから東はイースター島まで,東南アジア諸島全体,ミクロネシア,ポリネシア,そしてマレー半島の一部,南ヴェトナム,台湾,加えてニューギニアの海岸部にまで分布する。この広大な海域に居住する民族はプロト・オ-ストロネシア語と呼ばれる言語を起源としており、その語彙の復元によって、住居は高床式であり,床レヴェルには梯子を用いて登ること,屋根は切妻型であり,逆ア-チ状に反り返った屋根をしており,ヤシの葉で葺かれていたこと,炉はたき木をその上に乗せる棚と共に床の上につくられていたことなどが明らかになっている。



 東南アジアの住居の起源については,ドンソン銅鼓(図④)と呼ばれる青銅鼓の表面に描かれた家屋紋やアンコール・ワットやボロブドゥールの壁体のレリーフに描かれた家屋図像によって窺うことができる。さらに,中国雲南の石寨山などから発掘された家屋模型や貯貝器(図⑤)がある。日本にも家屋文鏡(図⑥ABCDAは、いわゆる竪穴式住居であるが、屋根だけで壁はない),家屋模型が出土している。 



原始入母屋造

 東南アジアの伝統的住居は、以上のような図像に描かれた住居とよく似ている。木材を用いて空間を組立てる方法は無限にあるわけではない。荷重に耐え,風圧に抗するためには,柱や梁の太さや長さに自ずと制限があり、架構方法や組立方法にも制約がある。歴史的な試行錯誤の結果,いくつかの構造方式が選択されてきた。興味深いのはG.ドメニクの構造発達論[3]である。G.ドメニクによれば,実に多様に見える東南アジアの住居の架構形式を,日本の古代建築の架構形式も含めて,統一的に理解できるのである(図⑦)。


G.ドメニクは,東南アジアと古代日本の建築に共通な特性は「転び破風」屋根(棟は軒より長く,破風が外側に転んでいる切妻屋根)であるという。そして,この「転び破風」屋根は,切妻屋根から発達したのではなく,円錐形小屋から派生した地面に直接伏せ架けた原始入母屋住居とともに発生したとする。この原始入母屋造によれば基本的に(構造)壁は要らない。東南アジアのような熱帯・亜熱帯の気候であれば、断熱のために密封する必要はないのである。北スマトラに居住するバタック諸族の住居の壁は垂木と床の側板で挟んだ板パネル(カーテン・ウォール)にすぎないのである(図⑧)。


 

タイ系諸族の住居

 「東南アジアの住居」というタイトルを冠しているけれど、特に焦点を当てているのは、タイ系諸族の住居であり、都市住居としてのショップハウスである[4]

タイ系諸族の起源については諸説あるが,最も有力なのは長江の南部から雲南にかけての地域を起源とする中国南部起源説である。タイ系諸族はもともと長江南部地域において稲作を生業基盤としていた。中国の史書に「百越」「越人」と記される民族がその先人と考えられている。前漢時代に,福建に「閩越」国,広東,広西,ヴェトナム北部に「南越」国を建てたのが「百越」「越人」である。中国でタイ系諸族が集中的に居住しているのは雲南である。

タイ系諸族は,やがてインドシナ半島へ下り,稲作技術を東南アジアに伝える。このタイ系諸族の移動には,安南山脈の東側を下る流れと,メコン河の渓谷と盆地およびさらに西のサルウィン川に沿って下る流れの二つの大きな流れがあるが(図⑨)稲作が可能な低地を居住地としてきたことから,タイ系諸族は「渓谷移動民」と呼ばれる(Heine-Geldern, Robert1923)13世紀までに,タイ系諸族は,西はインドのアッサムにまで居住域を拡げている[5]


言語のみならず他にも「タイ文化」と呼びうる同じ文化を共有してきた。タイ研究者の所説を合わせると,伝統的なタイ系諸族は,①タイ語を話し,②仏教を信仰し,③一般に姓をもたない,④低地渓谷移動の稲作農耕民で,⑤「封建的」統治形態をもつ人々の集団といった共通の特性をもつ。①~⑤以外にも,⑥伝統的には高床式住居に住むこと,⑦親族名称について祖父母名称が4つあること,両親の兄弟について5つの名称があることなどもタイ系諸族の特色として挙げられる[6]

 このタイ系諸族がそれぞれ居住する住居は同じではない。その起源地における形態と移住していった各地域の形態はそれぞれ異なっている。その環境適応の諸形態、その諸要因についての解明が『東南アジの住居』の主要なテーマのひとつである。

 

西双版納(シプソンパンナー)の住居

タイ系諸族の原型と一般的に考えられるのは,その起源地と考えられている西双版納のタイ・ルー族の住居である。それは入母屋屋根の高床式住居で,一棟で構成され(「版納型」),屋根がある半開放的なヴェランダ(前廊),炉が置かれる居間(堂屋),寝室(臥室),そして高床下の4つの空間から構成される(図⑩)。そして,この4つの空間は,明快な連結関係をもっており,入母屋屋根の1棟を構成している。桁行方向と梁間方向のスパン数によってヴァリエーション (図⑪)があるが,ひとつの型として成立している。しかも,1棟からなる原型に加えて,複数の棟で構成される住居形式(「孟連型」)も西双版納で見られる。住居単位とその組合せのシステムが成立している。

この空間構成システムはタイ系諸族の中でも極めて高度であり,タイ系諸族が,これを原型として,南下していったとは考えられない。「原型Architype」として考えられるのは,もう少しプリミティブな、もともと「竹楼」と呼ばれた簡素なつくりの,炉のある一室空間であった。「原型」に近いのは,ミャンマーのシャン族の住居(図⑫)である。「原型Architype」が1棟の住居のかたちで具体化した住居形式,「基本型Prototype」のひとつが「版納型」そして「孟連型」である。     


シアム族の住居

炉のある11室の「原型」が,寝室が分化することで一定の形式「基本型」が成立すると,様々な「変異型Variant」が派生する。

「基本型」からさらに炉のある居間から厨房が分化していくことになる。一般に見られるのは「基本型」の増築というかたちで厨房部分を分離していくパターンである(V1)。そして,やがて厨房棟として独立することになる。すなわち,厨房棟を別に設けて2棟(母屋棟と厨房棟)からなる住居形式が成立する(V2)。この2棟からなる分棟型は,東北タイのタイ系諸族に見られる。また,寝室の拡張や付加も「基本型」を増築すること一般的に行われる(V3)。そして,さらに多くの住棟で住居を構成するパターンが成立する(V4)。その代表がシアム族の住居形式である。一定の住居類型というのではなく,地域によって様々な住居類型を生み出す一次元上の空間構成システムがシアム族の住居形式である。

シアム族の住居では、高床上の大きなテラスを中心に生活が展開される。基本的に、ルアン・ノーンRuean Non住棟,寝室棟)、ラビァーンRabeang ヴェランダ)、チャーンChan(テラス)、ルアン・クルアRuean Krua(厨房棟)、という4つの空間から構成される(図⑬)。


多くの事例を省略したのでいささか舌足らずであるが,第一に指摘できるのは,炉を居室に置く「原型」に近い住居形式が山間部,5つの大河川の上流部のみに見られることである。また,西双版納においては,現在も炉を置く居室が維持されていることである。そして,丘陵部からデルタ部にかけては,寝室棟と厨房棟を分離する住居形式がみられることである。すなわち,ヴェランダ,テラスが増え,住居がより開放的になることである。言うまでもなく,この変容は寒冷な気候から蒸し暑い気候に対応するためである。第二に指摘できるのは,山間部に比べて,下流部では建築材料として小径木の樹木しか利用できないことである。それ故,1棟の空間単位が小規模で,「基本型」のような住居形式を1棟では実現し得ず,1棟の空間を連結させたり,複合化したりする方法が採られるようになるのである。

タイ系諸族の住居形式の原型,伝播,変容(地域適応),地域類型の成立の過程はおよそ以上のようであるが、「壁」のウエイトは総じて軽い。バンブーマットがしばしば用いられることがそれを示している。ポーラスで大きな気積の住居が成立したのは熱帯・亜熱帯の環境が大きい。精緻な開口部のディテールを発達させる必要はなかったのである。



[1] 2 建築形式の知覚:土着とコロニアル」(布野修司監訳:生きている住まい-東南アジア建築人類学(ロクサ-ナ・ウオ-タソン著,アジア都市建築研究会,The Living House An Anthropology of Architecture in SouthEast Asia,学芸出版社,1997).

[2]『世界ヴァナキュラ建築百科EVAW』全3EVAW(P. Oliver (ed.)1997)))は,地球全体をまず大きく7つに分け,さらに66の地域を下位分している。下敷きにされているのは,スペンサSpencerとジョンソンJohnsonの『文化人類アトラスAnthropological Atlas』,ラッセルRussellとナイフェンKniffenの『文化世界Culture World』,G.P.ドックMurdockの『民族誌アトラスEthnographical Atlas』,そしてD.H.プライスPriceの『世界文化アトラスAtlas of World Culture』である。加えて,ヴァナキュラ建築の共通特性を考慮すべく,地政分と分を重視している。そして,北から南へ,東から西へ,世界から新世界へ,というのが配列方針である。念的には,文化の散,人口移動,世界の張を意識している。地中海南西アジア()を中核域と考え,いわゆるヨロッパ(),そしてアジア大陸部(),島嶼部オセアニア()を別した上で,ラテンアメリカ(),北アメリカ(),サハラ以南アフリカ()を別する構成である

[3] G.ドメニク:構造達論よりみたび破風屋根入母屋造の伏屋と高倉を中心に-」(杉本次編(1984)。

[4] 本書を「東南アジアの住居」と冠することにしたのは,この間一貫してお世話になってきた京都大学学術出版会の鈴木哲也さんの,個別専門分野でのみ通用する議論ではなく、骨太の議論が欲しいという示唆が大きい。また、東南アジアの住居集落に関する著作として今のところ最も優れたと思われる上述のR.ウォータソンの『生きている住まい東南アジア建築人類学』が大陸部についての記述が薄いというのも大きい。

[5] 現在は,主にブラフマプトラBrahmaputra流域(インド),サルウィンSalween流域(ミャンマー),メコン流域(中国・タイ王国・ラオス),紅河流域(ヴェトナム),チャオプラヤChao Phraya流域(タイ王国)5つの流域に居住している。

[6] しかし,以上は必ずしも全てのタイ系諸族にあてはまるわけではない。姓()に関しては,1930年代までのタイ系諸族に関しては妥当であるが,今日,タイ王国やラオス国に住むタイ系諸族は姓を用いている。統治形態()についても,タイ,ラオスのような国家形態をとるタイ系諸族に対してはもはや当てはまらない。仏教()についても,タイ系諸族の中には非仏教徒が多数存在する。ラオスの北部山地,ヴェトナム山脈以東ないしは以北に住むタイ諸族(黒タイー,白タイー,トー,ヌンなど)および中国南部のタイ系諸族のほとんどは仏教徒ではない。南タイのタイ人の多くはムスリムである。

2021年3月6日土曜日

アレクサンドロスの都市 Cities of Alexander the Great

traverese17 2016 新建築学研究17 


 Cities of Alexander the Great 
アレクサンドロスの都市 
Shuji Funo
 布野修司 

アジア三部作(『曼荼羅都市-ヒンドゥ-都市の空間理念とその変容』(2006年)『ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容』(2008年)『大元都市-中国都城の理念と空間構造-』(2015年))を上梓して、『世界都市史』も射程に入ったなあと思っていたところ、『世界都市史』(仮)執筆の依頼があって一気に書き出した。そして、世界中の都市にそれぞれの歴史がある、本の骨格を彩る形でコラムとか、囲み記事で都市を紹介したらどうかと思いついたのが運のつきであった。編集部にいっそのこと『世界都市史事典』(仮)にしようと言われて、総計2000頁近くなる企画になってしまった。2分冊になるという。その全体構想を紹介したいのだけど、紙数が限られるというから、ひとつの都市だけ紹介しようと思う。つい最近(20162月)訪れる機会があったエジプトのアレクサンドリアである。アレクサンドリアを設計したのは、言うまでもなくアレクサンドロス大王である。彼の名を冠する都市は一説に拠れば数十に登るという。それを追いかけてみよう。彼に匹敵するほど多くの都市を建設した建築家は世界史上何人いるのであろうか[1]

 

アレクサンドリア

アレクサンドロス大王(356323BCE)が建設したアレクサンドリアは、プルタルコス『対比列伝』「アレクサンドロス伝」は70以上といい,ストラボン(紀元前63年頃~23年頃)(『地理書(誌)』全17巻)は8,ローマ帝国の歴史家ユニアヌス・ユスティアヌス(『ピリッポス史』)は12という。N.G.L.Hammond(1981)18というが、Fraser, P.M.(1996)は,諸文献から57の候補を挙げた上で12の場所を同定する[2]

アレクサンドリアは,アレクサンドロスの軍事拠点であり植民都市である。既存の都市を拠点とした場合も少なくないし,70という場合は当然それを含んでいる。しかし,アレクサンドロス自ら計画した都市となるとそう多くはない。滞在は1年を超えることはなかったから,建設を見届けるということはなかった筈だ。森谷公俊(2000a)は,新たに建設されたアレクサンドリアは,①エジプトのアレクサンドリア(アル・イスカンダレーヤ,②アレクサンドリア・アレイアAria(na)(アリアナ:現ヘラート),アレクサンドリア・ドランギアナ(フラダ:現ファラーFarah),アレクサンドリア・アラコシアArachosia(アラコシオルム:カンダハル近郊シャル・イ・コナ),⑤アレクサンドリア・カピサ(カウカソス(コーカサス):現ベグラム?),⑥アレクサンドリア・オクシアナ(オクソス:現アイ・ハヌム?),⑦アレクサンドリア・エスカテEschate(最果てのアレクサンドレイア,ホジェント,現レニナバード),アレクサンドリアアケシネスアレクサンドリア・オレイタイ(旧ランバキア:現ソンミアニ),⑩スーサ南部のアレクサンドリア(スパシヌ・カラクス)の10都市という(図a)。


アレクサンドロスが13歳になった時,父フィリッポスⅡ世が帝王教育のためにアリストテレスを教師に招いたことはよく知られる[3]。マケドニアの王になるのは20歳の時であるが、それ以前,16歳の時に,自らの名を冠した都市アレクサンドロポリスを建設している。アレクサンドロスが軍事に優れ,あらゆる技術に精通した政治家であり,さらに建築,都市計画の才があったことは疑いがない。先のリストに、マケドニアに設計したというアレクサンドロポリス(を加えると11となる。

 

エジプトのアレクサンドリア

 アレクサンドロスの東征は, 紀元前334年の遠征開始から紀元前330年夏のダレイオスⅢ世の死亡によってハカーマニシュ朝ペルシアが滅亡するまで(Ⅰ),紀元前330年秋の中央アジア侵攻から紀元前326年にインダス川を越え,遠征を中止し反転を決定するまで(Ⅱ),紀元前326年末から紀元前323年のその死まで(Ⅲ)の3期に分けられる。

Ⅰ期に建設されたのがエジプトのアレクサンドリアである(b)。アンキュラ(現アンカラ)から南下,フェニキア地方の大半の都市を開城、ガザも破ってエジプトへ侵攻,さらに聖都ヘリオポリスを経てメンフィスに至り,川を下ってナイル・デルタの西端のカノボスに到達して都市建設を決定する。自ら計画図を引いたとされるが、選地などに神意を問うた占師としてアリスタンドロス、また,建築家の名としてディノクラテスが知られる[4]。紅海,地中海を繋ぐ絶好の場所に位置したアレクサンドリアは,ヘレニズム世界最大の都市に成長していくことになる。ただ、完成するのは,プトレマイオス朝になってからである(図c[5]。現在のアレクサンドリアは、点々と歴史的遺構が残されているが、周辺地域を合わせれば1000万人を超える、カイロに次ぐ大都市である(図d,e)。

 

 
  


バクトアリアのアレクサンドリア

アレクサンドロスは,紀元前3314月にエジプトを発ち,ダレイオスⅢ世をエクバタナに敗走させる。ユーフラテス川、ティグリス川を渡ってバビロンに入城,さらにスーサ,続いてペルセポリス(図f)を占領,帝国の財宝を略奪接収して,ペルセポリスに火をつけ、廃墟とする。


以降,アレクサンドロス独自の進軍が開始される[6]。アレクサンドリアが各地に建設されるのはこれ以降である。その建設は一般に東西融合政策の一環とされるが,一方で,傭兵としてきたギリシャ兵の処遇が問題であり,植民都市建設の第1の目的は,彼らを住まわせ支配拠点とすることであった。アレクサンドリアの住民となったのは,地元住民の他,退役したマケドニア人,そしてギリシャ人傭兵であり,アレクサンドロスに反抗する不満分子を隔離する機能もあった。

紀元前330年末、冬のヒンドゥークシュ山脈に入り,カーブルに到達して冬を越すが,この間建設したのがカウカソス(コーカサス)のアレクサンドリアである()。ハカーマニシュ朝ではカピサと呼ばれていた交通の要所にあった町を再建したとされる。アレクサンドリア・カピサは,後にグレコ・バクトリア王国,そしてクシャーナ朝の都となる。アリアノス(2001)は記述しないが,バクトリアのアレクサンドリアとされるのが,ヘラート([7],ファラー([8],カンダハル(④)である。ガズニーそしてバルフ(バクトラ)にもアレクサンドリアが建設されたとされるが,カンダハル,ヘラートも含めて,アレクサンドリアの当初の痕跡は残されていない。

そうしたなかで,当初の様子がうかがえるのが,ヒンドゥークシュ山脈の北に位置し,アレクサンドリア・オクシアナ (Alexandria on the Oxus)(⑥)に比定されるアイ・ハヌムAi-Khanoum, Ay Khanum)遺跡である[9]。様々な工芸品や建築物,ギリシャ様式の劇場,ギュムナシオン,ポルティコに囲まれた中庭のあるギリシャ様式の住居の遺構などが見つかっている。

 

最果てのアレクサンドアリア

アレクサンドロスは,紀元前329年春,カワク峠を越えてバクトリア地方に入り,ソグディアナへ向かい、タナイス(ヤクサルテス,現シルダリア)川に「アレクサンドリア・エスカテ(最果てのアレクサンドリア)(⑦)」を建設する。シルダリア川は当時アジアの果てと考えられていた。現在のタジキスタンのホジェンドに比定される[10]

最果てのアレクサンドリアの後、アレクサンドロスはインドに向かう。紀元前326年にインダス川渡ってタキシラに入り、川の両岸にニカイア(現モング付近)とブケバラ(現ジャラルプール)という2つの都市を建設する。これがアケシネス河畔のアレクサンドリア()である。そしてさらに進軍するが,部下に造反され,ついに進軍を断念、退却する。インダス川を河口まで大船団を仕立てて下り、デルタの先端部のパタラに着いたのが紀元前325年,ここからはネアルコスを指揮官とする沿岸探索航海[11]を別立てとし,自らの本隊は沿岸を陸行し、アレクサンドリア・オレイタイ([12]を建設したとされる。アレクサンドロスは,紀元前3241月ペルシア帝国の旧都パサルガダイ[13]に到着,さらにスーサに至る。スーサ南部にもアレクサンドドリア(⑩)を建設したとされるが詳細は不明である。帰還したアレクサンドロスは,帝国をペルシア,マケドニア,ギリシャ(コリントス同盟)の3地域に再編し,同君連合の形をとる。そして,アラビア半島周航を目前に熱病に倒れたのであったる。

 

紀元前5世紀には確立していたギリシャのグリッド都市の伝統は,アレクサンドロス大王の長征によって,東方に伝えられた。その具体的な形態は知られないが,ギリシャ風の都市計画,すなわちヒッポダミアン・プランが伝えられたことは大いに想定される。中央を幹線大路が南北に走り,それに直交して東西に小路を設ける魚骨(フィッシュ・ボ-ン)型の街路構成をとるパキスタンのタキシラにある都市遺構としてシルカップが知られるが,ヘレニズム期に属し,ギリシャ人の影響のもとに建設されたとされている。グリッド都市は敵国の領土に新たな都市を短期間に建設するのに適した形式であり,軍事都市の性格をもっていたアレクサンドリアは,おそらくシルカップ(図g)のモデルとされたのである。


 

主要参考文献

アッリアノス(2001)『アレクサンドロス大王東征記』上下、大牟田章訳、岩波文庫。

N.G.L.Hammond(1981), “Alexander the Great; King, Commander and Stateman”London

P.M. Fraser(1996), “Cities of Alexander the Great”, Clarendon press Oxford.

森谷公俊(2000a)『アレクサンドロス大王 「世界征服者」の虚像と実像』講談社選書メチエ

森谷公俊(2000b)『王宮炎上 アレクサンドロス大王とペルセポリス』吉川弘文館

 



[1] ホセ・デ・エスカンドンが、ヌエヴォ・サンタンデール入植地(メキシコ、タマウリパス)に建設したのは25都市である(布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン(2013)『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』京都大学学術出版会)

[2] 最も信憑性が高いとされるアリアノス(2001)を邦訳で読んでみたが、辛うじて8つを確認できた。

[3] アリストテレスは,王位についたアレクサンドロスに『王たることについて』と『植民地の建設について』という諭説を送ったとされる。

[4] 「彼は自分でも,アゴラは町のどのあたりに設けるべきか,神殿はいくつ程,それもどんな神々のために神殿を建立すべきか…,それにまた町をぐるりと囲むことになる周壁は,どのあたりに築いたらよいかなど,新しい町のためにみずから設計の図面を引くなどした。」,そして,「これから築造される周壁のおおよその線引きを,自分の手で現場の技術者に残したいと考えたが,地面にその印をつけてゆく手段が身近になかった。そこで…大麦をあるだけ容器にとり集め,先に立ってゆく王が道々指示する場所には,その大麦を地面に撒いていく・・・」方法がとられた(アリアノス(2001)))。そして,エジプトの最高神アモンAmon(アメンAmen)を祀る神殿のあるリビア砂漠のシーワ・オアシスに参詣,神託を受けた後,メンフィスに戻る途中にアレクサンドリアの起工式を行っている。

[5] プトレマイオスⅠ世(紀元前323より太守。位:紀元前304282)は,シーワ・オアシスのアモン神殿に運ばれるアレクサンドロスの遺体を略奪し,大十字路の交点に埋葬する。そして,学問,音楽,芸術の都とすべく大事業に着手する。プトレマイオスⅡ世(紀元前282246),Ⅲ世(紀元前246221)と引き継がれて,アレクサンドリアは絶頂期を迎える。ファロス島の東端には高さ120mを超えるファロス大灯台が建設された。新都の位置を示すランドマークであり,監視塔であり要塞でもある。建築家としてソストラトスが知られるが,彼は,エラトステネスとユークリッドの同時代人である。西の沿海部に宮殿群,官庁群のコンプレックスとして王宮があり専用の港をもっていた。広大な敷地に図書館,観測所,動物園,講堂,研究所,食堂,講演などが建ち並ぶ学園ムセイオンは,カノポス通りとソマ通りの交点,アレクサンドロ大王の廟の向かい側にあったとされる。中心神殿であるセラピス神殿は南西部に建てられ,劇場と競馬場は王宮のある北東部にあった。ディノクラテスの設計計画は,1世紀かけて完成するのである。

[6] 東征開始からハカーマニシュ朝滅亡までの進軍経路において,アレクサンドロスの名に因む都市に,アレクサンドリア・ニア・イッサス 後の時代にアレクサンドレッタと改称,イスケンデルン,トルコ),そして,バグダードの南にあるイスカンダリア(イラク)がある。イスカンダル Iskandar は,アラビア語・ペルシア語で,もともとアリスカンダールAliskandarであったが,語頭のアルal-が定冠詞と勘違いされ,イスカンダルとなった。アラビア語では定冠詞をつけてアル・イスカンダル al-Iskandar と言うのが普通である。ksが入れ替わった理由は不明とされる。この2つの都市は命名のみで新たに建設されたものではない。

[7] 。ハライヴァと呼ばれていたヘラートの地に建てられたのはアレクサンドリア・アレイアである。ハライヴァはギリシャ語でアレイアAreia,ラテン語でアーリヤAriaである。セレウコス朝の支配下になり,パルティアを経て,サーサーン朝ペルシアに併合される。652年にイスラームの支配下に入り,ウマイヤ朝そしてアッバース朝のもとでは,東方イスラームを代表する交易都市として栄えた。12世紀後半,ゴール朝がヘラートを奪取し,事実上の首都となる。1221年と翌年,モンゴル軍が2度にわたってヘラートを襲い,徹底的な破壊を受けてほとんど廃墟と化したが,フレグウルスの地方政権となったクルト朝が首都とすることによってめざましい復興を遂げる。その後,ティムールが征服(1380年),ティムール朝の首都となったことでヘラートは歴史上でもっとも繁栄した時代を迎える。16世紀に入ると,ウズベクのシャイバーン朝とサファヴィー朝の争奪に翻弄され,衰退していくことになる。

[8] アレクサンドリア・ドランギアナ(フラダ:現ファラー)は,ヘラートからカンダハルへ回り込む道筋に位置するが,遺構の詳細は不明である。カンダハルの名前は,アレクサンドロスAlexandorosxandorosが転訛したとの説がある。ペルシア帝国の属州アラコシアに建設され(アレクサンドロス・アラコシア),分裂後セレウコス朝の支配下に入り,マウリヤ朝のチャンドラグプタに割譲された。アショカ王在位紀元前268~前232年)の法勅碑文も残され,クシャーナ朝のもとで仏教文化が栄えるが,7世紀にはイスラームの支配下に入る。9世紀から12世紀にかけて,サッファール朝,ガズナ朝,ゴール朝に支配され,1222年にはチンギス・カンによって大モンゴルウルスの版図に組み入れられる。1383年以降,ティムール帝国に支配下に入るが,16世紀初頭にティムール朝の王子バーブルが南下してきて,カーブルを拠点とするムガル帝国を建てると,サファヴィー朝との抗争の最前線となる。18世紀末サファヴィー朝に変わってアフシャール朝が建つと,アレクサンドロス以来のカンダハルは徹底的に破壊される。18世紀半ば,ドゥッラーニー朝が建って,旧市の東5km離れた位置に新たな城塞都市が建設され,18世紀末にカーブルに移るまでドゥッラーニー朝の首都として使われた。

[9] アイ・ハヌムは,長さ約3kmの城壁に囲われており,中央の丘に城砦と塔が建っていた。また,数千人収容可能な直径約84mの円形劇場があり,ペルシアの宮殿を思わせる巨大な宮殿があった。ギュムナシオンも100m四方の巨大なものであった。セレウコス朝とグレコ・バクトリアの主要都市として存続したが,紀元前145年ごろに破壊され,その後再建されなかった。1964年から1978年までアフガニスタン考古学フランス調査団が発掘し,ロシアの科学者も発掘を行ってきたが,アフガニスタン戦争で発掘は中断し,その地は戦場と化したために遺跡はほとんど原形をとどめていない。

[10] その後,8世紀にイスラーム化され,ホジェンドと呼ばれるようになる。10世紀には,中央アジアでも有数の都市となったが,大モンゴルウルスの版図に入り,14世紀にはティムール朝の支配を受けた。

[11] この探検航海によりこの地方の地理が明らかになると同時に,ネアルコスの残した資料は後世散逸したもののストラボンなどに引用され,貴重な記録となっている。

[12]アレクサンドロスⅢ世が,当時のオレイタイ地方にあった大集落ランバキアを拡充させ,アレクサンドリアと命名したとされる。ランバキアの所在地は不明である。

[13] ペルセポリスの北東87キロメートルに位置する,ハカーマニシュペルシアの最初の首都であり,キュロスによって紀元前546年に建設された。キュロスⅡ世の墓と伝えられる建造物,丘の近くにそびえるタレ・タフト要塞,そして2つの庭園から構成される。建造物は2004年,庭園は2011年,世界文化遺産に登録された。