traverese19 2018 新建築学研究19
Shark and
Crockodile
ある都市の肖像:スラバヤの起源
Shuji
Funo
布野修司
今一冊の本を準備している。『スラバヤ物語―ある都市の肖像 時間・空間・居住』と仮に題する。スラバヤは、人口約300万人(都市圏人口は1000万人)、東部ジャワの州都であり、インドネシア第2の都市である。最初に訪れたのは1982年2月で、僕のスラバヤ通いは、この夏(2018年8月)[1]も含めると、22回(インドネシア渡航は27回)にも及ぶ。スラバヤをフィールドとして学位論文[2]も書いた。スラバヤのカンポンにすっかり魅せられた人生となった。スラバヤは、間違いなく、僕の第2の故郷である。このスラバヤの「肖像」を、重層的、立体的に描き出してみたいと思ったのが執筆動機である。
最初にスラバヤを訪れたこの時から35年,10年後に上梓した『カンポンの世界』(1991)からも四半世紀を超えた。この間、アジアを中心に数々の都市を歩き回った。スラバヤの肖像を描くことによって、この間学んだことを縦横に盛り込む本は書けないか、「時間・空間・建築」ならぬ「時間・空間・居住」をサブタイトルとするのは、意気込みを込めてのことである。既に書き出して悪戦苦闘中なのであるが、ここではスラバヤという名前、その肖像(市章)、その起源についてまとめよう。
鮫と鰐
スラバヤSurabaya(あるいはスラボヨSuraboyo)という名前は,スロ"suro" (鮫)とボヨboyo"(鰐)の合成語という。伝承によれば,スロとボヨは,その土地における最強者の栄誉をかけて戦い, お互いその強さを認め,海はスロの領域,陸はボヨの領域ということで合意した。しかし、ある日スロが餌を追いかけて河口から川を遡ろうとしたところ,内陸に繋がる河川は自分の領域だとボヨは激怒する。スロは,水中は自分の領域だと主張したが,戦いになった。熾烈な戦いの末,スロは敗北して海に退散し,ボヨは河口を制覇した。これが現在のスラバヤ,というのである[3]。このスラバヤという名前の「鮫と鰐」説は、広く流布しており、スラバヤ市の市章は,鰐と鮫をSの字に絡み合わせたものである(図①)。そして、スラバヤ動物園前などには,その巨大な彫刻が置かれている(図②)。実にインパクトがあるシンボル(市章)である。一般的に理解されるのは,鮫と鰐の物語が,スラバヤの立地,そして,その歴史において海と陸,外来者と先住者との間で繰り広げられてきた抗争の歴史を象徴していることである[4]。
スラバヤ市は,ジャワの最後のヒンドゥー・ジャワ王国マジャパヒト王国の建国を都市の起源とする。ラデン・ウィジャヤがマジャパイト王国を建国するに当たって、海を渡って来襲してきたモンゴル軍を撃退するが、この歴史的な攻防を象徴するのがスロ"suro" (鮫)とボヨboyo"(鰐)の物語である。
僕の師といっていい長年のカウンターパートであるJ,シラス(スラバヤ工科大学名誉教授)が指摘するが,興味いのは,スラバヤのカンポンの名前の中に,ウォノWonoすなわち森のつく名前とクドゥンKedungすなわち川あるいはクパンKupanすなわち二枚貝、あるいはシモSimoすなわち虎という名のつく名前が複数あることである(図③)。クパンについては、ラデン・シトゥボンドが森を切り拓いた時に二枚貝の巨大な山(貝塚)を発見したという伝承がある。シモについては、ラデン・シトゥボンドが森を切り拓いた際に虎が出てきて追い払ったという伝承がある。すなわち,スラバヤは,川の流域や沿海部にあった森を起源とするのである。
ダイヤモンド岬
スラバヤの名が初めてジャワの史料に現れるのは,マジャパヒト王国の宮廷詩人ラワイ・プラパンチャRawai Prapańcaが1365年に書いたとされるジャワの年代記『ナーガラクルターガマNāgara-Kertāgama』[5]である。ただ,スラバヤの名は,4章「1359年の王室の発展」の17-4に一箇所出てくるだけである。
「・・・ris jangala lot sabhā nrpati ris surabhaya manulus mare buwun(王がジャンガラにいる時は,スラバヤにある王子の宮殿を毎回訪れ,途中でブワンに立ち寄った)」。
ジャンガラは,ブランタス川下流域からジャワの東南部の地域であり,カフリパンKahuripanを都とするカフリバン王国(1019~1045)を前身とするジャンガル王国(1045~1136)が支配した地域である。井戸を意味するブウンBuwunがどこかは不明であるが,マジャパヒト王国のスラバヤには,王子の離宮が置かれていたことがわかる。
スラバヤの起源が,マジャパヒト王国の1359年以前に遡ることはわかるが,さらにその存在が確認されるのが,現在のスラバヤ市の南に接するシドアルジョ県のクリアン (クラゲン)で発見された1037年のカラマギアン碑文である。その碑文には,ウジュン・ガルーUjung Galuh(Hujung Galuh)という名が記され,ブランタス川の河口,現在のスラバヤのカリ・マス河口部に比定されるのである。古ジャワ語で,「ダイヤモンド(宝石)岬」という意味である。
カフリパン王国そしてジャンガラ王国の時代,スラバヤはウジュン・ガルーと呼ばれた港市であった。ウジュンは,スラウェシのウジュン・パンダンのように,端部,岬といった一般名詞であるが,現在のスラバヤのカリ・マス河口部にもウジュンという地名が残されている。1982年に最初に調査して以来,毎回訪れるカンポン(カンポン・ウジュン)である。
ジャンガラ王国の歴史については,ジャワのヒンドゥー王国の歴史を遡る必要がある。ボロブドゥールやロロ・ジョングランを建設した中部ジャワのマタラム(・ヒンドゥー)王国は, 929年に即位した第13代シンドク MPu Sindok 王(在位929~948)の時に東部ジャワに遷都する。シンドク王は,ジョンバン周辺のブランタス川河畔のワトゥガルーWatugaluhを都(ムダン(メダン))とし,国名をメダンに変え,王朝を開いた。この王朝はクディリ王朝と呼ばれるが、やがてシンガサリ、マジャパヒトへ拠点を移していくことになる(図④)。
シンドク王後70年近く刻文の発布がなく不明な点が少なくないが,その後王位はバリ生まれのアイルランガ(Airlanga=水を飛び越えるの意)(991~1049)の時代となる。アイルランガは,王位につくと,各地に軍事行動を展開,ブランタス流域を中心に,都をカフリパンに置いて,北はトゥバン,南はインド洋岸,東はパスルアン,西はマディウンにおよぶ領域を支配し,東ジャワの再統一を果たした(1037年)。そして,バリそして東ジャワから中部ジャワにかけて一大王国を築くことになる。スラバヤ,トゥバンといったジャワ北岸の港市が発展するのはアイルランガ王の時代である。そして,後継者問題に悩んだアイルランガが2人の息子に領土を二分して与え、クディリ王国はジャンガラ王国とパンジャルPanjal王国に2分されるのである((図⑤))。
12世紀に入って,ジャンガラ王国は,クディリ王国に併合されるが,中国史書にはそれ以後にもジャンガラの名が見られる。南宋の泉州市舶司,趙汝适Zhao Ruquaが書いた地誌『諸蕃誌』Zhu fan zhi(1225年頃)には戎牙路(姜加拉jiang jia la))とあり, 元の航海家,汪大渊(1311~1350)の『島夷志略』(1339年頃)には重迦庵Jung-ya-anがスラバヤとされる。鄭和の南海遠征(1405~33)に参加した馬歓(1380~1460)が書いた『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』[6]には,蘇魯馬益(あるいは蘇兒把牙)[7]と記される。
碑文は,アイルランガ王がブランタス川の氾濫を防ぐための大堰建設を讃えるものであったが,ウジュン・ガルーが既に海外交易のための重要な港となっていたことがわかる。アイルランガ王が海外交易に大きな関心をもっていたことは,この碑文以前に発布したチャネ刻文(1021年)などに外国人の名を列挙していることで窺え,ウジュン・ガルーにはジャワ島以外からの商人が居留していたのである。ウジュン・ガルーの他には,スラバヤの北西のトゥバンに港市が存在したことが後の刻文で知られる[8]。
アイルランガ王の時代すなわち11世紀前半にはスラバヤは港市形成の歩みを開始していた。ジャンガル王国がパンジャル王国に統合されて以降,クディリ(ダハ)を都とするクディリ王国が栄えるが,13世紀に入ると凋落し始め,1222年にケン・アンロックがクディリ王国のクルタジャヤ王を倒して,ラージャサ王朝をたてる。この間の王都はいずれもブランタス川の流域に位置し,スラバヤはその河口に位置する。すなわち,スラバヤは東ジャワ内陸のヒンドゥー王国の外港として発展してきた。
誕生日1293.05.31
スラバヤ市は,1293年を創立年とし,しかも月日を特定して,5月31日をスラバヤ誕生の日とする。1293年はマジャパヒト王国建国の年であり,その日は,初代国王クルタラージャサ・ジャヤワルダナKertarajasa
Jayawardhanaとなるラデン・ウィジャヤがクビライの派遣したモンゴル軍をスラバヤで撃退した日という[9]。
クビライ Khubilai(Kublai)が,シンガサリ王国を武力制圧するために遠征軍を送ったのは1292~93年のことである。クビライは,1280年以降,シンガサリ王国に対して元の宗主権の承認と元朝への来貢を求める使者を度々送る。その執拗な要求をクルタナガラ王(1254~92)は悉く拒絶し,1289年の使者,孟琪Men Shi(Meng-qi)に対しては,盗賊扱いし,顔面に焼印(入墨)して耳を削いで送り返したという。これに激怒したクビライは,ジャワ侵攻を決断,軍船を派遣するのである。2万~3万人の兵が集められ,1,000隻の船団が泉州を出発してジャワに向かったのは1292年12月である。指揮を執ったのは,モンゴル人のシービShi-bi, ウイグル人のイケ・メセIke Mese,中国人の高興Gaoxingである。どのような船団であったか『元史』は伝えないが,川を遡る小舟を建造させたとしているから,現地の地勢を十二分に把握し,周到な戦術を立てた上での編成であったと思われる。
シンガサリ王国は,ムラユ王国(1183~1347)を破り(1290年),当時のジャワ海域で最強国家となる。しかし,1275年頃からのスマトラ遠征で手薄となった首都の防護の隙をついて,クディリ(カディリ)のジャヤカトワンが叛乱を起こす。ジャヤカトワンは,マドゥラ島スメナップを拠点にしていたアルヤ・ウィララジャの援助を求め,シンガサリの首都クタラジャ
(トゥマペル,マラン近郊)を南北から挟み打ちする作戦をとるが,この時,北の防御に派遣されたのがクルタナガラ王の娘婿ラデン・ウィジャヤである。ラデン・ウィジャヤは北からの攻撃を食い止めたが,南からのカディリ軍によって王都は攻略され,クルタナガラ王は殺されてしまう。ラデン・ウィジャヤは,マドゥラ島に逃れ,アルヤ・ウィララジャの監視下に置かれることになったが,マジャパヒトと呼ぶことになる村に居留することを許される。モンゴル軍を迎え撃ったのは,マジャパヒトの地に逃れてきていたラデン・ウィジャヤである。
『元史』の記述は少ないが,泉州の港を出航したモンゴル軍は,大越,チャンパの沿岸を航行して,タイ湾奥のパタヤのコーランKo-lan (Billiton)に寄港している。同じ頃(1290~1292年),マルコ・ポーロ(1254~1324)が泉州を発って帰国の途につき,チャンパ,そしてスマトラの北部に寄ってインド洋を迂回し,ホルムズへ向かっている。ジャワには寄港していないが,「甚だ裕福な島であり,胡椒,ナツメグ,ジャコウ,ガンショウ,バンウコン,クベバ,クローブなど,世界中の香料がここで生産され,極めて多くの船舶と商人がこの島を目指し,大量の商品を仕入れて巨利を得ている」といった伝聞を『東方見聞録』(『百万の書イル・ミリオーネ (Il Milione)』あるいは世界の記述 (Devisement du monde)』)に記している(図⑥)。
台風に襲われ,チャンパのウィジャヤ王国に入港を拒否されるなど苦難の行程であったとされる。服従するマレーやスマトラの小国にはダルガチdarughachis(統治官)を残しながら,スラバヤ西方100kmに位置するトゥバンTuban沖に到達する。シービはクビライ軍を分け,一隊をトゥバンから陸路を南下させ,一隊はジャンガラの港からカリ・マスを小舟で遡行させた。両隊はパチュカンで合流,マジャパヒト(滿者伯夷)に到達する(図⑦)。
ラデン・ウィジャヤは,大元ウルスへの朝貢を約すことでモンゴル軍と同盟協定を結び(1293年3月15日),クディリのジャヤカトゥワン軍を制圧,降伏させる。ウィジャヤは戦勝祝いと朝貢の準備としてマジャパヒトへ帰還,一転,モンゴル軍を急襲,敗走させる。スラバヤからモンゴルを撃退したのが,5月31日という。これがスラバヤの誕生日とされるのである。モンゴル軍は,モンスーンの風向きのために,慌てて帰国することになる。多くのモンゴル兵が取り残され,3,000の精鋭を失ったとされる。
鮫と鰐の戦いという伝承は,このモンゴル軍との戦いを暗示しているのである。
[1] 日本建築学会建築計画委員会夏期研究集会(20180817-25)。スラバヤ他、バリ、ジョクジャカルタ、ジャカルタをめぐる。
[2] 布野修司『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学,1987年)がもとになっている。
[3] Irwan Rouf & Shenia
Ananda. Rangkuman 100 Cerita Rakyat Indonesia dari
Sabang sampai Merauke: Asal Usul Nama Kota Surabaya (in Indonesian).
[4] 鮫と鰐が戦うというモチーフについては,12世紀にクディリKederi(カディリKadiri)王国のジャヤバタという予言者が巨大な白い鮫と巨大な白い鰐が戦うと予言したという伝承もある。他に,ジャワ語のスラ・イン・バヤsura ing bayaに由来するという説がある。「勇敢に危機に臨む」という意味である。スロは,サンスクリット語のスールヤsurya(太陽)に由来するという説もある。この説に依れば、インド神話に由来するということになる。
[5] ナーガラクルターガマとは「聖なる教えの国」という意味である。『ナーガラクルターガマ』がチャクラヌガラの王宮から言語学者,J.ブランデスBrandesによって発見されたのは1894年11月18日のことである。このロンタル椰子の葉に書かれた作品については,T.G.ピジョーの『14世紀のジャワ』5巻(Ⅰ.ジャワ語テキスト,Ⅱ.英訳・註,Ⅲ.翻訳,Ⅳ.注釈・要約,Ⅴ.用語集・索引)(Pigeaud, Theodore G.(1960))によって知ることができる。その後,1979年にバリで,H.I.R.ヒンツラーHinzlerとJ.ショテルマンSchotermannによって異本が発見され,『デーシャワルナナDeśśawarnana』(Robson S.(1995), Desawarnana (Nagarakrtagama) by Mpu Prapanca, translated
by Stuart Robson,KITLV Press Leiden)として公刊された。「デーシャワルナナ」とは「地方の描写」という意味であり,もともと『ナーガラクルターガマ』も本文に明記されている名前は『デーシャワルナナ』である。『デーシャワルナナ』は,シンガサリ王国の創建者ラージャサ王の誕生に始まり,1343年のバリ遠征で終わる。ジャワの歴史については,もうひとつ,17世紀初頭に古ジャワ語でかかれた作者不詳の王の事績を編年体で記した年代記『パララトンPararaton(諸王の富)』(Brandes J.L.A.(1920), “Pararaton(Ken
Arok)”, Martinus
Nijhoff, The Hague)が知られる。で,ラージャサRajasa王の誕生に始まり,クルタブミKertabhumi
王の1486年の記事で終わる。ジャワの歴史については,その他,近世ジャワ語で書かれたジャワの年代記『ババド・タナ・ジャウィBabad Tanah Jawi(ジャワ国縁起)』,『スラト・カンダSelat Kanda』がある。その他,Kidung Panji Wijayakrama, Kidung Rangga Lawaなどの中世ジャワ語の詩篇,そして多くの碑文が編年のために利用される。Stametmuljana(1975)が史資料を列挙している。
[6] 鄭和の 前後7回の航海のうち,馬歓が参加したのは第4,6,7次の3回であったが,その主要部分は第4次航海(1413年冬~1415年7月)の報告と考えられる。占城(チャンパ)から天方(メッカ)に至る20か国の風俗,物産,制度,住民などを詳しく紹介している。いくつかの系統の版本があるが,馮承釣(ふうしょうちょう)校注の『瀛涯勝覧校注』(1955・中華書局)に定評がある([寺田隆信]『小川博訳注『馬歓・瀛涯勝覧』(1969・吉川弘文館)』)・
[7] 爪哇國:瓜哇國者,古名闍婆國也。其國有四處,皆無城郭。其他國船來,先至一處名杜板。次至一處名新村,又至一處名蘇魯馬益。再至一處名滿者伯夷,國王居之。其王之所居以磚為牆,高三丈餘,週圍約有二百餘步。其內設重門甚整潔,房屋如樓起造,高每三四丈,卽布以板,鋪細藤簟,或花草席,人於其上盤膝而坐。屋上月硬木板為瓦,破縫而蓋。國人住屋以茅草蓋之。家家俱以磚砌土庫,高三四尺,藏貯家私什物,居止坐臥於其上。・・・・於杜板投東行半日許,至新村,番名曰革兒昔。原係沙灘之地,蓋因中國之人來此剏居,遂名新村,至今村主廣東人也。約有千餘家,各處番人多到此處買賣。其金子諸般寶石一應番貨多有賣者,民甚殷富。自新村投南船行二十餘里,到蘇魯馬益,番名蘇兒把牙。其港口流出淡水,自此大船難進,用小船行二十餘里始至其地。亦有村主,掌管番人千餘家,其間亦有中國人。其港口有一洲,林木森茂,有長尾猢猻萬数,聚於上。有一黑色老雄獮猴為主,卻有一老番婦隨伴在側。其國中婦人無子嗣者,備酒飯果餅之類,往禱于老獼猴,其老猴喜,則先食其物,餘令衆猴爭食,食盡,隨有二猴來前交感為驗。此婦回家,卽便有孕,否則無子也,甚為可怪。
[8] 青山亨(2001a)「東アジア統一王権―アイルランガ王権からクディリ王国へ」(岩波講座『東南アジア史』2「東南アジア古代国家の成立と展開(10-15世紀)」,岩波書店。
[9] スラバヤ市が条例(Mo.02-DPRD-Kep-75)で5月31日を誕生の記念日とするのであるが、史実として確認されているわけではない。Slamet Muljana(1976)“A Story of Majapahit”、Slamet Muljana(1979)“Negarakertagama dan
Tafsir Sejarahnya”は、モンゴル軍が撃退されたのは、1293年4月24日だとしている。そして、マジャパヒト王国の設立が宣言されるのは1293年11月とされる。