スマランーーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,1994年1月
インドネシア・コロニアル建築
1870~1945
Ⅲ スマラン
京都大学アジア都市建築研究会
中部ジャワのスマランは、パシシール(北海岸地域)の中核として古くから重要な位置を占めてきた。二〇世紀にはいると、オランダ植民地政府は各地に自治政府(ゲメーンテ)を設立させるのであるが、バタヴィア(一九〇五年)に続いてスマランも、スラバヤ、バンドンとともに一九〇六年自治政府が設立される。中でもスマランは、都市問題に対する取り組みが活発であり、極めて注目すべき都市となった。戦後のカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)につながるカンポン改善事業をいち早く実施するのである。カールステンとポントがスマランを拠点としたのは決して偶然ではない。
一九〇九年、市議会は市の北西部の生活状況、住宅状況に関する広範囲の実態調査を行なう。議長は ウェスターフェルドであり、一九一四年五月にその結果を議会に報告している。ジャワ人の住宅不足は厳しく約七%が他人の家を間借りしており、全てのカンポンにおいて空家は全くなかったという。
ウェスターフェルドを助けて大活躍したのが薬剤師であった ティレマである。彼は、スマランからはじめ、バタヴィア、スラバヤ、さらにインドネシア全体の衛生問題に関心をもち数多くの著作を残したことでも知られる。最初の本が『住居と居住:建物、住宅、庭』(一九一三年)であり、それに続いて上梓したのが大著『クロモブランダ:クロモの広大な国の生活実態問題』五巻(一九一六~一九二二年)である。この『クロモブランダ』は、イラスト、写真が満載されている貴重な資料だ。驚くべきことに、全てティレマの自費出版である。
「沢山の綺麗なガイドブックを抱え、インド諸島の文化のすばらしい数々を見て眼がくらんでいる旅行者には知られない状況を活写するのが目的である。医者として長年を過ごした者の眼には、眩しい光の背後に、特に海岸部の低地帯の町々に暗い影が落ちているのが見えるのである。広いメイン・ストリートを歩いていたのではわからない。狭いカンポンの道を歩けばわかる。カルティニが正しく指摘したように、ヨーロッパ人がインド諸島を知らないのは、オラン・クチールの住む場所に入ってみたいと思わないからである」。
『クロモブランダ』の一節である。オラン・クチールとは小さな人、庶民のことだ。カルティニとは、中部ジェパラの出身の民族主義運動、女性開放運動の先駆者(土屋健治 『カルティニの風景』 めこん社 一九九二年参照)。ティレマは、理想主義者として住宅改善の必要性を訴え続けたのである。さらに、一九二六年には、『熱帯無しのヨーロッパはない』を出している。
カンポン・フェアヴェタルング(居住環境改善事業)さらにインドネシアの都市計画のパイオニアとなったのがトーマス・カールステンである。彼は、建築家として数多くの作品を手掛けるのであるが、むしろ、その貢献は都市計画の分野に大きかったと言えるかも知れない。才能は一九二〇年にバンドンで開かれた第一〇回地方分権会議において「インド諸島における都市計画」という報告を行っている。この報告は都市計画技術的にも美学的にも重要なものとされ、一九三八年の都市計画法の制定にも大きな影響を与えたものである。
スマラン旧市街の形成
ウカ・チャンドラサスミタ
Old City Semarang
ヒンドゥー王国ーイスラーム王国ーゲメーンテ
地形図からスマランの古代の海岸線を定めた丘陵地帯の端を容易に確認することが出来る。自然の湾がガラン川の河口に形成されており、プンギリン山とベルゴタ山が側にある。ベルゴタ山はもとのティラン島である。ガラン川は現在のスマラン川の源流もしくは上流であった。この地域は土着の集落をともなった古代ヒンドゥー
マタラムの港であると考えられている。港は徐々に浅くなり、それがこのヒンドゥー王国と集落が衰退する理由となったのであった。
チェン・ホーという海軍大将が中国の明王朝より来て、スマランの東方の古い港であるマンカンに上陸した時( )、シモン地区は既に中国人の居留地であった。チェン・ホーにはマ・ホアとフェ・チンが同行した。彼らはグドン・バトゥにあるシモンに中国人のモスクを建設したハナフィ派のイスラム教徒であった。後年、彼らの記念として、サム・ポ・トンまたはクレントゥン・グドン・バトゥという寺院が建てられている。
地方史によると、スマラン原住民の長は、キアイ・パンダン・アランといい、デマクのスルタンつまりパンゲラン・サブラン・ローの息子の一人であった。イスラーム教徒の植民地は、その指導のもと、海岸沿いの街として発展した。キアイ・パンダン・アラン一世が没したとき、その息子であるキアイ・バンダン・アラン二世が、パンゲラン・ハンディヴィジョヨによって、スマランのブパティ(統治者)として任命された。一五四七年五月二日のことである。この日付はスマランの誕生の日とされている。
キアイ・パンダン・アラン二世またの名をブパティ・スマラン一世は、一五五三年まで統治したが、地方史によると都市を発展させるという目的を達成したのであった。彼の後はキャイ・パンダン・アラン三世=ブパティ・スマラン二世が継承した。そして、彼は西暦一五七五年に行政の中心をブバカンの東方へ移し、その海岸地域のジュルナタンに宮殿を建てた。彼は一五五三年から一五八六年まで統治した。彼の後は息子つまりスマラン三世としてのキャイ・カリファ/パンゲラン・マンクブミ二世が継承した。残念ながら彼はマタラムのスルタンであるスナン・アマンクラに嫌われ、そのため任を解かれ、三人の賢人、つまりアストラユダ、ディパティ・メンゴロそしてナヤメルトの一人に位を譲った。以後、マス・トゥメングン・タンビ( )、マス・トゥメングン・ウォンソレジョ( )、マス・トゥメングン・プラウィロプロヨ( )等々が続く。
そして自治政府(ゲメーンテ)が一九〇六年四月一日に設立されるまで他の者が続いた。市長として任命されるような特別な長は一九一六年までいなかった。スマランの最初の市長として任命されたのはジョングであり、在任期間は一九一六年の八月から一九二七年の五月であった。一九〇九年の自治議会の構成員は、ド・フォーゲル博士、エンガーバード、ウェスターフェルド、サイモン・トーマス、ティレマ、ソエナージョそしてマイオ・タン・シアウの様な偉人達であった。彼らはスマランの街の住居と衛生状態を進んで改善していくのである。
オランダーチャイニーズーカンポン
スマランの旧市街の発展過程についてみよう。時代によって都市行政の中心の変遷が起こっている。キアイ・パンダン・アラン一世によって率いられた最初の行政中心は、ベルゴタとティラン・アンペールであった。ブパティ・スマラン一世もしくはキャイ・パンダン・アラン二世の間、行政の中心は海岸地域、おそらくブバカンへ移され、一五七五年に宮殿がジュルナタンに建てられた。スルタン・アグン・ハンヨクロ・クスモ( )のもとでスマランの港はマタラム・イスラーム王国への主要入口港としての重要な役割担うよう改修されている。
一六二八年にスマランの中国人たちがマタラムに対する反乱を起こす。マタラムのスルタンはオランダ東インド会社( )に救助を求め、謀反人を打ち破るように要請した。中国人を率いたソウ・パン・ジアンは殺され、全ての中国人居住者はシモンガンから立ち退きを命じられ、交易場所である東インド会社の近くの新しい地域に移住させられた。この地区は、その北と西と南の境界をスマラン川に囲まれていた。
形態学上の観点より、十七世紀の後半には、スマランには三つの異なる要素、つまり交易所としての城壁を巡らしたオランダの街、商業の中心としての中国のカンポンそして農業の後背地としての閉鎖的で組織的でない土着の集落よりなる小さな都市にすでになっていた。スマラン川は主要な輸送通路として重要な役割を担っており、二つの経済中心、いわゆる中国とオランダの居留地をバタビア、他の地域もしくはヨーロッパや中国などの外国と結び付けていた。
クラトンーアルン=アルンーパサール
オランダ東インド会社は一六七八年にスマランとその周辺地域に統制を敷いた。スマランはマタラムのスルタンであるアマンクラット二世によって東インド会社に譲渡されたのである。スマランの要塞が完成すると、中央ジャワの行政の中心は一六九七年にジャパラからスマランへ移された。一六九五年の地図を見れば、明かに当時のスマランの市街は既に開発されていたことがわかる。スマランの摂政の行政機関はジョホー(パサー・ジョホー)市場の近くに位置していた。そこには今なお巨大なモスク、カンジェンガン(地方行政官の宮殿)の地名、アルン
アルン(広場)、プンクラン(摂政の宮殿の後ろの場所)そしてブンテン(要塞)などを見ることが出来る。
形態学上の観点からすると、ヨーロッパの影響以前の街の配置を我々は復元することが出来る。ジャワにおける古い街の配置は普通次のようなもので構成されている。
アルン―アルン(公的集会場としての広場)
クラトン(政治と行政の中心としての宮殿)
マスジッド(宗教的中心としてのモスク)
パサール(経済の中心としての市場)
カンポン・パシナン(中国人の居留地)、パコジャン(グジャラート、ペルシア、アラブ等からのイスラム商人の居留地)
バンダール(日用品の輸出入のための貿易の中心としての)
チャイナタウン
一七〇二年六月九日、スマランは北海岸の領土であるマタラムの首都として公に明言された。それまでは中国人が保持していた税に対する多くの独占権はオランダ東インド会社に譲渡され、中国人は唯一塩と木材に対して独占権を持つことが出来た。十八世紀の初めには「パシナン
ロー」と「パシナン ウェタン」に沿って建てられた瓦屋根の沢山の中国人商店が存在した。「パシナン ロー」に沿っている家の多くは店舗として一列に建てられ、この通りは最も活気のある商店街となりつつあった。
バタヴィアで一七四〇年に起こったオランダ中央政府に対する中国人の反乱の影響は、スマランにも及ぶが、一七四二年には東インド会社が事態を正常化することに成功している。戦後、多くの中国人はスマランに戻り、中国からの新しい移民の流入のため町の人口は急激に増えた。バタヴィアから新しい中国人の首領としてクィー・ガンが任命された。
小さな船はスマラン川に沿ってパシナンの西南の端まで航行でき、下流の北側に港が形成された。コウ・ピン所有の陸揚げの機能を持った倉庫の複合体は、パシナンの東角で発達した。中国人街の中央の空地は、パシナン・テンガ(中央通り)とブレカン・パシナン・テンガ(ベセン通り)という名前の二つの新しい南北の通りに沿って住区に分けられ、中国人の人口の急激な増加に対応した。この期間、一七四六年のベラカン通りにおけるカン・イム・ティンのように、多くの寺が建てられた。このカム・イン・ティンは、後に川の対岸に新しい寺が建立されてその場所をとって代わられ、後世にはロンボク通りと呼ばれるようになった。
中国人は「タイ・コク・シー」という寺を建てた。この寺はスマランの中国の寺の中でも最大のものの一つであり、設備の整った開放的なものであった。一七八二年にリエウテナン・ホウ・ピンは川の近くのタン・キー(パシナン・ウェタン)の北の角に寺を建てた。一七九二年年にマン・ファイ・クー(後のパサー・バル通り)に六つの寺が建てられた。一七九六年にゲドン・バトゥの寺が中国人の共同体によって修復された。
ダエンデルスーイギリス支配
パシナンの外側のスマランの町は、イスラームの商人(コジャ)の住むパコジャンのように広がった。その中にはペトゥガンというたくさんの茶椀やトゥダンが売られているところ、プサントレンというイスラームの学者やサントリ(イスラーム教徒)の住むところ、そしてアンベンガンというパシナンへ続く主要道路に沿っているため活気のあるところなどがあった。
オランダ東インド会社の廃止(一七九九年)の後、ヘルマン・ウィレム・ダエンデルスはバタヴィアの総合的な統治者になった。人々は、アニヤーからパナルカンへのジャワの北海岸沿いに、最初の内陸の巨大な郵便道を建設し、オランダ人による地方行政のための主要な情報伝達システムとして活用した。一八一一年の九月一日にジャンセン大将がスマランへ来たときに、オランダ人はボジョンの居住用の宮殿の前に、軍の本部を設立した。いくつかの砲台もまたスロンドルの丘陵地帯に建設された。アンガランにもまたもう一つの司令部を築いた。しかし偉大なるサミゥエル・オウマトリー卿に率いられた英国軍が一八一一年の九月九日にスマランに上陸した後、アンガランの砦をおとした。ジャンセン大将とその軍隊はサラティガの砦に撤退したが、一八一一年の九月十八日にジャワは英国の統治下となった。
英国支配下のスマランには、ジョン・クロフォードという英国駐在総督代表である権力者がいた。この当時の中国人社会は、一八二九年に第一等階級を受けるタン・ティオン・ツィン大尉(ホク・ゴアン)に率いられ、もともとの統治者(ブパティ)が地元住民を支配した。この時期のスマランのブパティはアディパティ・トゥメンガン・スロハディニングラット( 年前後)である。
この短い英国支配の間、中国人の経済の極と英国 オランダの軍事支配の極の周辺に、いくつかの土着のカンポンが成長した。これらのカンポンには、次のようなものが含まれてた。デリシオン(しゅろ糖製造)、ブブタン(木靴製造)、プスパラガム(R
M T プスポロゴ王子の住居)、ロゲンデラン(ロゲンダー王子の住居)、クランガン(地元のロンゴ卿の住居)、ウォトガンダル(吊橋)、ジャガラン (屠殺小屋)、クリタン(皮鞣し)。
主要道に沿ってさらに南方に、カラン・ウェタン、カラン・トゥリ、カラン・サリ、ベンコン、ペテロンガン、ジャムラン等のようないくつかの土着の村落があった。また、スマランには英国、オランダそして中国に領有されているいくつかの大きな地区があった。パシナン・キダルを横切る英国の区画はタン・ティアンへ売却され、それから砂糖倉庫がこの土地に建設され、そしてそれはゲドン・グラと呼ばれた。セバンダラン橋の南詰めの二つの店の入口の門衛詰め所と、また川沿いに洪水を防ぐために強固な壁が建設された一八一四年にパシナン・ロア橋と共にタイ・コク・シー寺院が修理された。
ジャワ戦争
一八二五年から一八六〇年の間、オランダに対してパンゲラン・ディポネゴロに率いられたジャワ戦争は、中央ジャワで起こり、スマランは広範囲に広がった反乱の抗争の中心となった。スマランにおいて、多くの軍隊がオランダの中央の要塞としての要塞と共に、東西の歩道の軸に沿って町のなかに広がった。一八三五年にオランダはポンコルに「フォート・プリン・ヴァン・オランジェ」という名前の要塞を建設した。土着の居住地は、オランダ人と中国人が密集する東西の方向へ広がっていった。土着の統治者の住居は、アルン・アルンと市場の後ろにあった。一八二九年に瓦葺きで組石造の恒久住居の数は約一四九二戸であった。
中国の共同体に対するジャワ戦争の影響で、スマランは社会的不安に陥った。そのためタン・ティアン・ツィン将軍は、中国人街の四つの入口に大きな門を建設する許可をオランダに求めた。これらの門はジャガランとの角であるセバンダランと、パシナン・ローとパシナン・キダルの端、そしてパコジャン橋を横切る中国人街への北入口に建てられた。数カ月の間、これらの門は常に毎晩中国人の大人達によって閉ざされ、警護されていた。これら全ての門は大体一八九〇年に修復された。
一八三九年に、バゲレンの将軍であるベ・イン・ツィオエはスマランに居を替え、ピンギル通りにいくつかの土地を購入した。そこで彼は大きな庭付きの豪邸を一八四一年に建てている。
一八五〇年に、オランダ人街の中心にある古い市役所が焼け、川の対岸に建てられた新しい市役所に取って代わられた。 ルーダ・ヴォン・エイシンガの時代に、スマランの町はジャワの内地に対する重要な貿易拠点となった。植民地行政の移動はより健全な方向へ向かったのである。
一八五九年にオランダのインド領における公式の支払い方法として、最初の銀行手形が導入されたが、一八八八年になってジャワ銀行は最初の支店をスマランに開いている。
二〇世紀都市へ
一八六二年、スマランにおいて公的な郵便事業が開設された。一八六四年、スマランからスラカルタとジョクジャカルタへの最初の鉄道が、 (オランダ、インド領鉄道会社)、つまり公営鉄道会社によって建設された。海岸近くで古いオランダ人街の北方のタンバク・サリに、最初の駅舎を建設している。一八八二年から一八八三年に、もう一つの鉄道会社である が、もう一つの鉄道網を建設した。ジュルナタン(中央駅)を起点として、ブルという町の西角と、ジョンブランという町の南角、そしてまたジュワナまでであった。一八九四年に鉄道網は東方のデマクまで延長され、ブロラ は一九〇八年にスマラン チレボン鉄道を開いた。一九一四年にタワンに新しい駅舎が完成し、旧タバク・サリ駅はこれ以上使われることはなかった。
一八五四年から一八七五年の間、運河が掘られ、カンポン・ムラユから外海へ、直接スマラン川が繋がった。湾岸公司が、河口から東岸を mとスマラン川の水門から mに沿って、建設された。
一八八四年に最初の電信網がスマランに引かれ、この町と、バタヴィアとスラバヤが結ばれた。一八九七年にガス会社がスマランにおいて営業を始め、裕福な中国人とヨーロッパ人がそれ以来古めかしいオイルランプに替わり、照明にガスを用いた。一八八五年に運河(ブヤラン運河)がスマランからカラン・アンヤー(デマク)に、潅漑と舟運のために築かれた。馬や水牛、そして牛に引かれた多くの船がこの運河を航行した。洪水を防ぐための二つの運河が、スマランの西と東の境界線上に一九〇〇年前後に築かれ、バンジャール・カナル・バラットとバンジャール・カナル・ティムアーとして知られた。西運河は東運河が掘られる数年前に掘られた。これらの通信と輸送の革命はスマランを衝撃的に変貌させ、急速に地域的中心となり、スマランは非常に重要な貿易拠点となった。
一九〇四年に高地へ続く馬車街道と平行する南北の道が再整備され、北部のカルテンから南部のペテロガンまで延び、カラン・テンプル村を横切っていた。それはカレン通りと名付けられ、そしてこの道に沿って見かけのよい邸宅が発展していったのであった。(抄訳 吉井康純)
保存対象の認定
スマランの旧市街の歴史的概観から、文化的教育や文化的観光事業の発展に利用するために、保存されるべき対象が認定されてきた。スマランの旧市街地での古い建物とその周囲に関する研究をスマラン市が 年 月にしている。この中で都市における歴史的な建物と遺跡の保護と保存の状況が見て取れる。認定された重要な歴史的な建物と遺跡は以下の通りである。
1.土地や敷地は植民地化の形態学上の過程の形跡を表している。例えば古い沿岸都市や町の一部(アルン・アルン、港、宮殿、市場、そして、パチナン、パクリンガン、パコジャン、カンポン・アラブ、カンポン・ムラユ、土着の集団といった様々な集団)や、ブルゴタ丘、シモンガン、プンギリン丘などである。こうした対象は形態学上そして、沿岸の都市あるいは町の構築物としてとても重要である。
2.歴史的な建物がその周囲と共に、興味深い強い魅力を表現しているのだが、オランダのコロニアル建築の性質と様式は、以下のようにリストアップされゾーン形式で3つのグループに分けられている。
第一優先地区(地区1)
ブルンドゥック教会 タワン駅 大教会 ヤヤサン・キャニシウス大学 マルバ ジワスラヤ保険会社 プンジャディラン・ヌグリ スアラ・ムルデカ社 ボールスマイ社 ダガン・ヌガラ銀行 など
第二優先地区(地区2):
国立技術学校 ブル刑務所 知事事務所 ムダ塔 マコダム・Ⅶ・ディポネゴロ
コダム・Ⅶ・ディポネゴロ局の表門 など
第三優先地区(地区3): 知事代理事務所
南ガジャ・ムンクール通りの住居 S.パルマン通り 番地の住居 S.パルマン通り 番地の住居
など
3.歴史的建物の他にも、都市の内部や、他の場所とをつなぐ歴史的な道も強い魅力がある。たとえば、 により に造られた線路、市街地からチャンディの丘までの市電、運河などの港の構築物である。これらの活動は、 世紀の半ばから 世紀の初頭までの間、都市の発展を活気づけた。
4.歴史的な場所や建築物でさえ、短い占領期間( )中は日本軍に使われていた。その時スマランは完全に軍政府の管轄下にあった。この期間の例として、トゥグ・ムダが建てられた場所とその周辺が挙げられる。なぜなら、そこには、人々が日本軍と連合軍(イギリス軍とオランダ軍)に対抗した五日間戦闘( 年 月 から 日)の記憶に関係する重要な価値があるからである。
5.そのほかにも、文化、歴史、科学、観光などの視点から見て重要と思われる建築や場所は、選び出し、認定すべきである。また、文化的な観光を発展させるためには、町の中の博物館といった強い魅力が、それが新しい建築であっても、古い展示物が観光客にとってはとても重要であるので、考慮されるべきである。(抄訳 坂田昌平)
保護、保存、文化的な観光開発の為の提案
以上のように実地研究で選ばれた歴史的な建築とその場所を認定した上で、保護、保存、文化的な開発のための提案をいくつか行ってみたい。
1.ブルゴタ丘の一部、ジョハール市場のアルン・アルンの一部、オランダ植民都市が建設された時代に属する建築が建つポンコルの一部、ブルンドゥック教会やジワスラヤ保険会社、マルバ・ビルのある場所の一部といった旧市街地は、その歴史的発展を表現するために、形態学的視点から非常に大きな意義を持つ。
2.個々の歴史的建築あるいは建築群を認定、リスト・アップ、分類する。分類は地区単位で、保存・保全のための三つの優先順位をつける。
地区1、2、3は、地方あるいは国家レヴェルの適切な規制、立法、法律によって保存・保護することを強く提案する。
3.重要な建築の所有者あるいは使用者における、法人/個人所有、公共/私有の問題、あるいは開発に対する反対、無知の為に、こうした歴史的建築とその場所の価値がなくなる恐れある。そこで、保護・保存の予防策として、こうした場合に国の法律を参照しないで命令を下すことを地方政府に提案する。地方政府がプルダ (地方条例)を立法できるなら、最も効果的な方法である。しかし、歴史的建築とその場所の認定にもっとも責任ある主体は、モニュメント法 に基づいた教育文化大臣である。
4.予めリストアップされ法律で定められた歴史的建築とその場所は、所有形態や歴史的背景を含めた正確な記録や目録づくりの活動によってフォローされる。
5.現存する文献、財産、歴史的背景の研究の結果は、文化的な観光のための特別なガイドブックを発行するための資料として使う。
6.パチナン、パコジャン、カンポン・ムラユ、カンポン・アラブといった外国人居留地、さらには旧市街の形態学的な構造の重要な要素となっている歴史的な場所の地名学的研究が、保護、保存、観光アトラクションのために、考慮されるべきである。関係するカンポンや郊外に現存する歴史的文化的意義を持つ建築は保護、保存されるべきである。古い市場を含んだ各郊外を、短い情報を載せた掲示板を置くことで、特定するのは簡単なことである。
7.活動の中心として過去に作られた歴史的な場所の一つ、例えば今日のジョハール市場にある小さな広場(アルン・アルン)などに、観光情報センターが建てられるなら、観光開発の目的では興味深いことである。観光客の興味を引くような視聴覚設備を備えることを提案する。この建物の中で、観光客は、町を観光する前に、町の歴史的発展についての正しい知識を得ることができるのである。また、少なくとも歴史上の町の模型を置くことができる。
8.旅行者のアトラクションとして、古い都市や、その歴史的建造物や歴史的景観を活気づけることは、容易なことではない。それ故、ガイドの役割はたいへん重要である。その役割とは、都市の文化的かつ歴史的背景に基づいた知識を、改良し、促進することである。
9.これまで述べてきた項目に付け加えて、ジョハール市場の近くのプ ムダ通にあるディブヤ・プリ・ホテル(昔の名前はパリロン・ホテル)のようないくつかの古いホテルが、旅行者を楽しませて、そこに滞在させることができるようなものに修復されなければならない。もう一つ、チャンディ・バル・ホテルも、また、観光事業のために保存し、促進されなければならないだろう。そのほかのおもしろい建物としては、プムダ通りにあるオエン商店があるが、それは、特にヨーロッパの旅行者のために、古い店やレストランでヨーロッパスタイルのランチやディナーを楽しめるように保存されなければならないだろう。
10.さらに我々は次のような提案を行なう。すなわち、伝統的な演劇や他のアート・パフォーマンスのようなソフト面でのアトラクションを含め、他のハード面でのアトラクションを促進すべきである。スマランを文化的な観光旅行の中核として位置づけるならば、イスーラムの文化的価値を継承するデマックやクドゥス、ジュパラにも、歴史的な場所の観光のために行けるようにするのが望ましい。
11.文化教育や、文化的観光事業の発展のために、スマランの旧市街おける、文化遺産としての歴史的建造物の保護、保存、修復、促進が完遂されるように、協力団体や文化遺産委員会が発足されるべきである。そして、そのメンバーには、地方の政治権力者や、社会の代表者が含まれていなければならない。(抄訳 筈井孝一)
ハーマン・トーマス・カールステン
堀 喜幸
ハーマン・トーマス・カールステンは、 年オランダに生まれる。デルフト工科大学で建築工学を学び、 年に卒業する。初めてインドネシアに渡ったのは 年である。インドネシアでのカールステンは建築家であり、都市計画家であった。建築家としての出発は 年のニルマイ保険会社ビル(現スラヤ生命保険会社)である。ポントのテガルの事務所ビルと同様に、その設計はインドネシアの気候に対応するものであり、その当時としては珍しいものであった。 年になると、ソロにあるマンクヌガランのプンドポ拡張工事の建築家に選出される(~ )。この時の仕事を見ると、彼のインドネシアの土着の建築に対する理解が生まれていることが伺える。事実、彼は、伝統的な建築様式が出来るだけ踏襲されるべきであるとに主張して、拡張工事の一環として建てられた食堂(小プンドポ)の設計において、それを実践している。この食堂は、周囲に庇を持ち、八角形の平面を持つ。層状の屋根は三段に重なり、機能的に換気を促進させるとともに、全体の印象を伝統的なものにしている。軸組構造が採用されたことと、三段の屋根によって高い屋根裏空間が獲得されたことは、伝統的な内部空間の形成に大きく貢献した。そして同じ敷地内の優れたジャワ建築であるプンドポ・アグンの内部空間と調和している。
これ以降も、伝統的な形態が目立っている。 年から 年にかけて建設されたソボカルティ劇場は、舞踏劇のための理想的な建築であった。その屋根形態は食堂と同じく層状三段の伝統的なものである。 年には、ジャワ島の歴史都市であるジョグジャカルタのアルン・アルン(広場)にある古い家の改築を行っている。現在この建物はソノブドヨ博物館として知られるが、この建築も非常に伝統的な形態をしている。カールステンは、その竣工式のスピーチの中で、博物館においては、博物館の構成が展示品の文化を反映していることが重要であるという。そのためにカールステンは、エントランスとパフォーマンスの空間を作り出すために母屋の前面にプンドポを建てたのである。この建築においては、伝統的形態の使用が単なる形態の模写というだけではなく、空間的にも象徴的意味においても成功している。
カールステンは新しい建築の展開として、伝統的な建築技術を、新しい物質と新しい建築型に適用させようとした。 年に建てられたソロ駅では、駅といった現代的な建築型と伝統的な形態を結びつけるために材料に鉄を使用している。同様の試みが、 年のソロの中央市場や、 年から 年にかけて建てられたスマランの闘牛場に見られる。こうした建築、特にソロ駅には、確かに伝統的な屋根形態が認められるが、すでにそこには伝統への回帰は感じられない。むしろ、現代の要求に対して、積極的にデザイン追求した結果に獲得された形態である。その意味において、これからのインドネシア独自の建築を模索する過程の中で非常に意味ある作品となっている。
こうしてインドネシア建築の理念として、カールステンは、土地の文化に根ざした建築のみが、発展するその社会の要求に答えられるとした。また、その建築の設計者も、土着の建築家であってこそ初めて、発展は健全になると考えていた。さらに、自身を含めた西洋建築家の立場についても、西洋人による発展は臨時的なものにすぎないとしていたのである。
カールステンの都市計画家としての活動は、建築設計と平行して行われた。むしろ都市計画やハウジングのほうが、理論を具体的に表現する機会が多かったほどである。 年代、 年代には、スマランやマランをはじめとして、インドネシア各地で都市計画のアドバイザーとして活躍した。特にスマランは、カールステンにとって最も重要な実践的経験の場となった。カンポンにおける生活環境の改善を問題としていた議会が、丘地(海抜 メートル)である南部(現チャンディ地区)への拡張計画を、 年にカールステンへ依頼した。アドバイザーであるカールステンの影響は 年の都市拡張計画によく現れている。特に居住地の分割は、これまでの民族によるものから、経済階級に従うように変化した。その結果、高い場所は裕福なヨーロッパ人や中国人の住居で占められ、低地に政府によってカンポンが計画された。道路は比較的幅が広く平坦な主要道路と、狭い二次的な道路に明確に分けられ、さらにそうした道路、広場、建物の配置は自然の等高線に沿うように意図されている。
スマランの経験から、インドネシアでの都市計画理念が確立された。都市計画は三つのプラン(詳細、都市景観、全体)で構成され、三つの有機的な調和が望まれる。カールステンは全体プランに関する限り、合理的な計画を主張している。そしてそれは主幹道路、鉄道、建築区域等に表れることになる。内容に関しては、スマランでみられた経済階級分割、広い低層建築、植栽、地域内交通の制限などに加え、建築規則も挙げられる。こうした要素は、都市景観に貢献するものであり、計画家の義務として都市に「性格」を持たせることを主張しているのである。
こうした建築と都市計画の仕事を見ていくと、カールステンの中に、全体と部分の両方の視点が見えてくる。しかし、全体から部分、部分から全体への移動はそう関係はないように思われる。各段階にはそれに見合った計画理念が独自に存在するようである。言い換えれば、理想主義と現実主義をうまく使い分けているのである。それは建築家と都市計画家という町の計画における全体と部分の仕事を実際に経験してきたことにも深く関係するであろう。こうした結果として、建築、都市計画両面において成功をおさめていることは評価していい。今、オランダのデルフト大やジョグジャカルタのガジャ・マダ大学でカールステンのマスター・プランが研究されている。インドネシアの人々によってカールステンの遺産が継承されつつあるのは、カールステンの願いであり、歓迎すべきことである。