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2022年6月15日水曜日

スマランーーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,1994年1月

 スマランーーコロニアル建築「インドネシア18701945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at19941


インドネシア・コロニアル建築

1870~1945

                                           

Ⅲ スマラン        

                                    京都大学アジア都市建築研究会

 

 中部ジャワのスマランは、パシシール(北海岸地域)の中核として古くから重要な位置を占めてきた。二〇世紀にはいると、オランダ植民地政府は各地に自治政府(ゲメーンテ)を設立させるのであるが、バタヴィア(一九〇五年)に続いてスマランも、スラバヤ、バンドンとともに一九〇六年自治政府が設立される。中でもスマランは、都市問題に対する取り組みが活発であり、極めて注目すべき都市となった。戦後のカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)につながるカンポン改善事業をいち早く実施するのである。カールステンとポントがスマランを拠点としたのは決して偶然ではない。

 一九〇九年、市議会は市の北西部の生活状況、住宅状況に関する広範囲の実態調査を行なう。議長は      ウェスターフェルドであり、一九一四年五月にその結果を議会に報告している。ジャワ人の住宅不足は厳しく約七%が他人の家を間借りしており、全てのカンポンにおいて空家は全くなかったという。

       ウェスターフェルドを助けて大活躍したのが薬剤師であった    ティレマである。彼は、スマランからはじめ、バタヴィア、スラバヤ、さらにインドネシア全体の衛生問題に関心をもち数多くの著作を残したことでも知られる。最初の本が『住居と居住:建物、住宅、庭』(一九一三年)であり、それに続いて上梓したのが大著『クロモブランダ:クロモの広大な国の生活実態問題』五巻(一九一六~一九二二年)である。この『クロモブランダ』は、イラスト、写真が満載されている貴重な資料だ。驚くべきことに、全てティレマの自費出版である。

 「沢山の綺麗なガイドブックを抱え、インド諸島の文化のすばらしい数々を見て眼がくらんでいる旅行者には知られない状況を活写するのが目的である。医者として長年を過ごした者の眼には、眩しい光の背後に、特に海岸部の低地帯の町々に暗い影が落ちているのが見えるのである。広いメイン・ストリートを歩いていたのではわからない。狭いカンポンの道を歩けばわかる。カルティニが正しく指摘したように、ヨーロッパ人がインド諸島を知らないのは、オラン・クチールの住む場所に入ってみたいと思わないからである」。

 『クロモブランダ』の一節である。オラン・クチールとは小さな人、庶民のことだ。カルティニとは、中部ジェパラの出身の民族主義運動、女性開放運動の先駆者(土屋健治 『カルティニの風景』 めこん社 一九九二年参照)。ティレマは、理想主義者として住宅改善の必要性を訴え続けたのである。さらに、一九二六年には、『熱帯無しのヨーロッパはない』を出している。

 カンポン・フェアヴェタルング(居住環境改善事業)さらにインドネシアの都市計画のパイオニアとなったのがトーマス・カールステンである。彼は、建築家として数多くの作品を手掛けるのであるが、むしろ、その貢献は都市計画の分野に大きかったと言えるかも知れない。才能は一九二〇年にバンドンで開かれた第一〇回地方分権会議において「インド諸島における都市計画」という報告を行っている。この報告は都市計画技術的にも美学的にも重要なものとされ、一九三八年の都市計画法の制定にも大きな影響を与えたものである。 
スマラン旧市街の形成

ウカ・チャンドラサスミタ

Old City Semarang

                 

 

 ヒンドゥー王国ーイスラーム王国ーゲメーンテ

 地形図からスマランの古代の海岸線を定めた丘陵地帯の端を容易に確認することが出来る。自然の湾がガラン川の河口に形成されており、プンギリン山とベルゴタ山が側にある。ベルゴタ山はもとのティラン島である。ガラン川は現在のスマラン川の源流もしくは上流であった。この地域は土着の集落をともなった古代ヒンドゥー マタラムの港であると考えられている。港は徐々に浅くなり、それがこのヒンドゥー王国と集落が衰退する理由となったのであった。

 チェン・ホーという海軍大将が中国の明王朝より来て、スマランの東方の古い港であるマンカンに上陸した時(         )、シモン地区は既に中国人の居留地であった。チェン・ホーにはマ・ホアとフェ・チンが同行した。彼らはグドン・バトゥにあるシモンに中国人のモスクを建設したハナフィ派のイスラム教徒であった。後年、彼らの記念として、サム・ポ・トンまたはクレントゥン・グドン・バトゥという寺院が建てられている。

 地方史によると、スマラン原住民の長は、キアイ・パンダン・アランといい、デマクのスルタンつまりパンゲラン・サブラン・ローの息子の一人であった。イスラーム教徒の植民地は、その指導のもと、海岸沿いの街として発展した。キアイ・パンダン・アラン一世が没したとき、その息子であるキアイ・バンダン・アラン二世が、パンゲラン・ハンディヴィジョヨによって、スマランのブパティ(統治者)として任命された。一五四七年五月二日のことである。この日付はスマランの誕生の日とされている。

 キアイ・パンダン・アラン二世またの名をブパティ・スマラン一世は、一五五三年まで統治したが、地方史によると都市を発展させるという目的を達成したのであった。彼の後はキャイ・パンダン・アラン三世=ブパティ・スマラン二世が継承した。そして、彼は西暦一五七五年に行政の中心をブバカンの東方へ移し、その海岸地域のジュルナタンに宮殿を建てた。彼は一五五三年から一五八六年まで統治した。彼の後は息子つまりスマラン三世としてのキャイ・カリファ/パンゲラン・マンクブミ二世が継承した。残念ながら彼はマタラムのスルタンであるスナン・アマンクラに嫌われ、そのため任を解かれ、三人の賢人、つまりアストラユダ、ディパティ・メンゴロそしてナヤメルトの一人に位を譲った。以後、マス・トゥメングン・タンビ(         )、マス・トゥメングン・ウォンソレジョ(         )、マス・トゥメングン・プラウィロプロヨ(            )等々が続く。

 そして自治政府(ゲメーンテ)が一九〇六年四月一日に設立されるまで他の者が続いた。市長として任命されるような特別な長は一九一六年までいなかった。スマランの最初の市長として任命されたのはジョングであり、在任期間は一九一六年の八月から一九二七年の五月であった。一九〇九年の自治議会の構成員は、ド・フォーゲル博士、エンガーバード、ウェスターフェルド、サイモン・トーマス、ティレマ、ソエナージョそしてマイオ・タン・シアウの様な偉人達であった。彼らはスマランの街の住居と衛生状態を進んで改善していくのである。

 オランダーチャイニーズーカンポン

 スマランの旧市街の発展過程についてみよう。時代によって都市行政の中心の変遷が起こっている。キアイ・パンダン・アラン一世によって率いられた最初の行政中心は、ベルゴタとティラン・アンペールであった。ブパティ・スマラン一世もしくはキャイ・パンダン・アラン二世の間、行政の中心は海岸地域、おそらくブバカンへ移され、一五七五年に宮殿がジュルナタンに建てられた。スルタン・アグン・ハンヨクロ・クスモ(            )のもとでスマランの港はマタラム・イスラーム王国への主要入口港としての重要な役割担うよう改修されている。

 一六二八年にスマランの中国人たちがマタラムに対する反乱を起こす。マタラムのスルタンはオランダ東インド会社(      )に救助を求め、謀反人を打ち破るように要請した。中国人を率いたソウ・パン・ジアンは殺され、全ての中国人居住者はシモンガンから立ち退きを命じられ、交易場所である東インド会社の近くの新しい地域に移住させられた。この地区は、その北と西と南の境界をスマラン川に囲まれていた。

 形態学上の観点より、十七世紀の後半には、スマランには三つの異なる要素、つまり交易所としての城壁を巡らしたオランダの街、商業の中心としての中国のカンポンそして農業の後背地としての閉鎖的で組織的でない土着の集落よりなる小さな都市にすでになっていた。スマラン川は主要な輸送通路として重要な役割を担っており、二つの経済中心、いわゆる中国とオランダの居留地をバタビア、他の地域もしくはヨーロッパや中国などの外国と結び付けていた。

 クラトンーアルン=アルンーパサール

 オランダ東インド会社は一六七八年にスマランとその周辺地域に統制を敷いた。スマランはマタラムのスルタンであるアマンクラット二世によって東インド会社に譲渡されたのである。スマランの要塞が完成すると、中央ジャワの行政の中心は一六九七年にジャパラからスマランへ移された。一六九五年の地図を見れば、明かに当時のスマランの市街は既に開発されていたことがわかる。スマランの摂政の行政機関はジョホー(パサー・ジョホー)市場の近くに位置していた。そこには今なお巨大なモスク、カンジェンガン(地方行政官の宮殿)の地名、アルン アルン(広場)、プンクラン(摂政の宮殿の後ろの場所)そしてブンテン(要塞)などを見ることが出来る。

 形態学上の観点からすると、ヨーロッパの影響以前の街の配置を我々は復元することが出来る。ジャワにおける古い街の配置は普通次のようなもので構成されている。

   アルン―アルン(公的集会場としての広場)

   クラトン(政治と行政の中心としての宮殿)

   マスジッド(宗教的中心としてのモスク)

   パサール(経済の中心としての市場)

   カンポン・パシナン(中国人の居留地)、パコジャン(グジャラート、ペルシア、アラブ等からのイスラム商人の居留地)

   バンダール(日用品の輸出入のための貿易の中心としての)

 チャイナタウン

 一七〇二年六月九日、スマランは北海岸の領土であるマタラムの首都として公に明言された。それまでは中国人が保持していた税に対する多くの独占権はオランダ東インド会社に譲渡され、中国人は唯一塩と木材に対して独占権を持つことが出来た。十八世紀の初めには「パシナン ロー」と「パシナン ウェタン」に沿って建てられた瓦屋根の沢山の中国人商店が存在した。「パシナン ロー」に沿っている家の多くは店舗として一列に建てられ、この通りは最も活気のある商店街となりつつあった。

 バタヴィアで一七四〇年に起こったオランダ中央政府に対する中国人の反乱の影響は、スマランにも及ぶが、一七四二年には東インド会社が事態を正常化することに成功している。戦後、多くの中国人はスマランに戻り、中国からの新しい移民の流入のため町の人口は急激に増えた。バタヴィアから新しい中国人の首領としてクィー・ガンが任命された。

 小さな船はスマラン川に沿ってパシナンの西南の端まで航行でき、下流の北側に港が形成された。コウ・ピン所有の陸揚げの機能を持った倉庫の複合体は、パシナンの東角で発達した。中国人街の中央の空地は、パシナン・テンガ(中央通り)とブレカン・パシナン・テンガ(ベセン通り)という名前の二つの新しい南北の通りに沿って住区に分けられ、中国人の人口の急激な増加に対応した。この期間、一七四六年のベラカン通りにおけるカン・イム・ティンのように、多くの寺が建てられた。このカム・イン・ティンは、後に川の対岸に新しい寺が建立されてその場所をとって代わられ、後世にはロンボク通りと呼ばれるようになった。

 中国人は「タイ・コク・シー」という寺を建てた。この寺はスマランの中国の寺の中でも最大のものの一つであり、設備の整った開放的なものであった。一七八二年にリエウテナン・ホウ・ピンは川の近くのタン・キー(パシナン・ウェタン)の北の角に寺を建てた。一七九二年年にマン・ファイ・クー(後のパサー・バル通り)に六つの寺が建てられた。一七九六年にゲドン・バトゥの寺が中国人の共同体によって修復された。

 ダエンデルスーイギリス支配

 パシナンの外側のスマランの町は、イスラームの商人(コジャ)の住むパコジャンのように広がった。その中にはペトゥガンというたくさんの茶椀やトゥダンが売られているところ、プサントレンというイスラームの学者やサントリ(イスラーム教徒)の住むところ、そしてアンベンガンというパシナンへ続く主要道路に沿っているため活気のあるところなどがあった。

 オランダ東インド会社の廃止(一七九九年)の後、ヘルマン・ウィレム・ダエンデルスはバタヴィアの総合的な統治者になった。人々は、アニヤーからパナルカンへのジャワの北海岸沿いに、最初の内陸の巨大な郵便道を建設し、オランダ人による地方行政のための主要な情報伝達システムとして活用した。一八一一年の九月一日にジャンセン大将がスマランへ来たときに、オランダ人はボジョンの居住用の宮殿の前に、軍の本部を設立した。いくつかの砲台もまたスロンドルの丘陵地帯に建設された。アンガランにもまたもう一つの司令部を築いた。しかし偉大なるサミゥエル・オウマトリー卿に率いられた英国軍が一八一一年の九月九日にスマランに上陸した後、アンガランの砦をおとした。ジャンセン大将とその軍隊はサラティガの砦に撤退したが、一八一一年の九月十八日にジャワは英国の統治下となった。

 英国支配下のスマランには、ジョン・クロフォードという英国駐在総督代表である権力者がいた。この当時の中国人社会は、一八二九年に第一等階級を受けるタン・ティオン・ツィン大尉(ホク・ゴアン)に率いられ、もともとの統治者(ブパティ)が地元住民を支配した。この時期のスマランのブパティはアディパティ・トゥメンガン・スロハディニングラット(    年前後)である。

 この短い英国支配の間、中国人の経済の極と英国 オランダの軍事支配の極の周辺に、いくつかの土着のカンポンが成長した。これらのカンポンには、次のようなものが含まれてた。デリシオン(しゅろ糖製造)、ブブタン(木靴製造)、プスパラガム(R M T プスポロゴ王子の住居)、ロゲンデラン(ロゲンダー王子の住居)、クランガン(地元のロンゴ卿の住居)、ウォトガンダル(吊橋)、ジャガラン (屠殺小屋)、クリタン(皮鞣し)。

 主要道に沿ってさらに南方に、カラン・ウェタン、カラン・トゥリ、カラン・サリ、ベンコン、ペテロンガン、ジャムラン等のようないくつかの土着の村落があった。また、スマランには英国、オランダそして中国に領有されているいくつかの大きな地区があった。パシナン・キダルを横切る英国の区画はタン・ティアンへ売却され、それから砂糖倉庫がこの土地に建設され、そしてそれはゲドン・グラと呼ばれた。セバンダラン橋の南詰めの二つの店の入口の門衛詰め所と、また川沿いに洪水を防ぐために強固な壁が建設された一八一四年にパシナン・ロア橋と共にタイ・コク・シー寺院が修理された。

  ジャワ戦争

 一八二五年から一八六〇年の間、オランダに対してパンゲラン・ディポネゴロに率いられたジャワ戦争は、中央ジャワで起こり、スマランは広範囲に広がった反乱の抗争の中心となった。スマランにおいて、多くの軍隊がオランダの中央の要塞としての要塞と共に、東西の歩道の軸に沿って町のなかに広がった。一八三五年にオランダはポンコルに「フォート・プリン・ヴァン・オランジェ」という名前の要塞を建設した。土着の居住地は、オランダ人と中国人が密集する東西の方向へ広がっていった。土着の統治者の住居は、アルン・アルンと市場の後ろにあった。一八二九年に瓦葺きで組石造の恒久住居の数は約一四九二戸であった。

 中国の共同体に対するジャワ戦争の影響で、スマランは社会的不安に陥った。そのためタン・ティアン・ツィン将軍は、中国人街の四つの入口に大きな門を建設する許可をオランダに求めた。これらの門はジャガランとの角であるセバンダランと、パシナン・ローとパシナン・キダルの端、そしてパコジャン橋を横切る中国人街への北入口に建てられた。数カ月の間、これらの門は常に毎晩中国人の大人達によって閉ざされ、警護されていた。これら全ての門は大体一八九〇年に修復された。

 一八三九年に、バゲレンの将軍であるベ・イン・ツィオエはスマランに居を替え、ピンギル通りにいくつかの土地を購入した。そこで彼は大きな庭付きの豪邸を一八四一年に建てている。

 一八五〇年に、オランダ人街の中心にある古い市役所が焼け、川の対岸に建てられた新しい市役所に取って代わられた。    ルーダ・ヴォン・エイシンガの時代に、スマランの町はジャワの内地に対する重要な貿易拠点となった。植民地行政の移動はより健全な方向へ向かったのである。

 一八五九年にオランダのインド領における公式の支払い方法として、最初の銀行手形が導入されたが、一八八八年になってジャワ銀行は最初の支店をスマランに開いている。

 二〇世紀都市へ

 一八六二年、スマランにおいて公的な郵便事業が開設された。一八六四年、スマランからスラカルタとジョクジャカルタへの最初の鉄道が、      (オランダ、インド領鉄道会社)、つまり公営鉄道会社によって建設された。海岸近くで古いオランダ人街の北方のタンバク・サリに、最初の駅舎を建設している。一八八二年から一八八三年に、もう一つの鉄道会社である      が、もう一つの鉄道網を建設した。ジュルナタン(中央駅)を起点として、ブルという町の西角と、ジョンブランという町の南角、そしてまたジュワナまでであった。一八九四年に鉄道網は東方のデマクまで延長され、ブロラ       は一九〇八年にスマラン チレボン鉄道を開いた。一九一四年にタワンに新しい駅舎が完成し、旧タバク・サリ駅はこれ以上使われることはなかった。

 一八五四年から一八七五年の間、運河が掘られ、カンポン・ムラユから外海へ、直接スマラン川が繋がった。湾岸公司が、河口から東岸を    mとスマラン川の水門から   mに沿って、建設された。

 一八八四年に最初の電信網がスマランに引かれ、この町と、バタヴィアとスラバヤが結ばれた。一八九七年にガス会社がスマランにおいて営業を始め、裕福な中国人とヨーロッパ人がそれ以来古めかしいオイルランプに替わり、照明にガスを用いた。一八八五年に運河(ブヤラン運河)がスマランからカラン・アンヤー(デマク)に、潅漑と舟運のために築かれた。馬や水牛、そして牛に引かれた多くの船がこの運河を航行した。洪水を防ぐための二つの運河が、スマランの西と東の境界線上に一九〇〇年前後に築かれ、バンジャール・カナル・バラットとバンジャール・カナル・ティムアーとして知られた。西運河は東運河が掘られる数年前に掘られた。これらの通信と輸送の革命はスマランを衝撃的に変貌させ、急速に地域的中心となり、スマランは非常に重要な貿易拠点となった。

 一九〇四年に高地へ続く馬車街道と平行する南北の道が再整備され、北部のカルテンから南部のペテロガンまで延び、カラン・テンプル村を横切っていた。それはカレン通りと名付けられ、そしてこの道に沿って見かけのよい邸宅が発展していったのであった。(抄訳 吉井康純)

 

保存対象の認定

  スマランの旧市街の歴史的概観から、文化的教育や文化的観光事業の発展に利用するために、保存されるべき対象が認定されてきた。スマランの旧市街地での古い建物とその周囲に関する研究をスマラン市が    年 月にしている。この中で都市における歴史的な建物と遺跡の保護と保存の状況が見て取れる。認定された重要な歴史的な建物と遺跡は以下の通りである。

 1.土地や敷地は植民地化の形態学上の過程の形跡を表している。例えば古い沿岸都市や町の一部(アルン・アルン、港、宮殿、市場、そして、パチナン、パクリンガン、パコジャン、カンポン・アラブ、カンポン・ムラユ、土着の集団といった様々な集団)や、ブルゴタ丘、シモンガン、プンギリン丘などである。こうした対象は形態学上そして、沿岸の都市あるいは町の構築物としてとても重要である。

 2.歴史的な建物がその周囲と共に、興味深い強い魅力を表現しているのだが、オランダのコロニアル建築の性質と様式は、以下のようにリストアップされゾーン形式で3つのグループに分けられている。

       第一優先地区(地区1)    ブルンドゥック教会                   タワン駅                         大教会                    ヤヤサン・キャニシウス大学                            マルバ          ジワスラヤ保険会社                       プンジャディラン・ヌグリ                         スアラ・ムルデカ社                         ボールスマイ社                  ダガン・ヌガラ銀行                   など

       第二優先地区(地区2):  国立技術学校                          ブル刑務所                知事事務所                                              ムダ塔              マコダム・Ⅶ・ディポネゴロ                               コダム・Ⅶ・ディポネゴロ局の表門                                     など

      第三優先地区(地区3):  知事代理事務所                               南ガジャ・ムンクール通りの住居                                        S.パルマン通り  番地の住居                                   S.パルマン通り  番地の住居                               など

  3.歴史的建物の他にも、都市の内部や、他の場所とをつなぐ歴史的な道も強い魅力がある。たとえば、   により         に造られた線路、市街地からチャンディの丘までの市電、運河などの港の構築物である。これらの活動は、  世紀の半ばから  世紀の初頭までの間、都市の発展を活気づけた。

 4.歴史的な場所や建築物でさえ、短い占領期間(         )中は日本軍に使われていた。その時スマランは完全に軍政府の管轄下にあった。この期間の例として、トゥグ・ムダが建てられた場所とその周辺が挙げられる。なぜなら、そこには、人々が日本軍と連合軍(イギリス軍とオランダ軍)に対抗した五日間戦闘(        から  日)の記憶に関係する重要な価値があるからである。

 5.そのほかにも、文化、歴史、科学、観光などの視点から見て重要と思われる建築や場所は、選び出し、認定すべきである。また、文化的な観光を発展させるためには、町の中の博物館といった強い魅力が、それが新しい建築であっても、古い展示物が観光客にとってはとても重要であるので、考慮されるべきである。(抄訳 坂田昌平)

 

保護、保存、文化的な観光開発の為の提案

 以上のように実地研究で選ばれた歴史的な建築とその場所を認定した上で、保護、保存、文化的な開発のための提案をいくつか行ってみたい。

 1.ブルゴタ丘の一部、ジョハール市場のアルン・アルンの一部、オランダ植民都市が建設された時代に属する建築が建つポンコルの一部、ブルンドゥック教会やジワスラヤ保険会社、マルバ・ビルのある場所の一部といった旧市街地は、その歴史的発展を表現するために、形態学的視点から非常に大きな意義を持つ。

 2.個々の歴史的建築あるいは建築群を認定、リスト・アップ、分類する。分類は地区単位で、保存・保全のための三つの優先順位をつける。 地区1、2、3は、地方あるいは国家レヴェルの適切な規制、立法、法律によって保存・保護することを強く提案する。

 3.重要な建築の所有者あるいは使用者における、法人/個人所有、公共/私有の問題、あるいは開発に対する反対、無知の為に、こうした歴史的建築とその場所の価値がなくなる恐れある。そこで、保護・保存の予防策として、こうした場合に国の法律を参照しないで命令を下すことを地方政府に提案する。地方政府がプルダ       (地方条例)を立法できるなら、最も効果的な方法である。しかし、歴史的建築とその場所の認定にもっとも責任ある主体は、モニュメント法                                       に基づいた教育文化大臣である。

 4.予めリストアップされ法律で定められた歴史的建築とその場所は、所有形態や歴史的背景を含めた正確な記録や目録づくりの活動によってフォローされる。

 5.現存する文献、財産、歴史的背景の研究の結果は、文化的な観光のための特別なガイドブックを発行するための資料として使う。

 6.パチナン、パコジャン、カンポン・ムラユ、カンポン・アラブといった外国人居留地、さらには旧市街の形態学的な構造の重要な要素となっている歴史的な場所の地名学的研究が、保護、保存、観光アトラクションのために、考慮されるべきである。関係するカンポンや郊外に現存する歴史的文化的意義を持つ建築は保護、保存されるべきである。古い市場を含んだ各郊外を、短い情報を載せた掲示板を置くことで、特定するのは簡単なことである。

 7.活動の中心として過去に作られた歴史的な場所の一つ、例えば今日のジョハール市場にある小さな広場(アルン・アルン)などに、観光情報センターが建てられるなら、観光開発の目的では興味深いことである。観光客の興味を引くような視聴覚設備を備えることを提案する。この建物の中で、観光客は、町を観光する前に、町の歴史的発展についての正しい知識を得ることができるのである。また、少なくとも歴史上の町の模型を置くことができる。

 8.旅行者のアトラクションとして、古い都市や、その歴史的建造物や歴史的景観を活気づけることは、容易なことではない。それ故、ガイドの役割はたいへん重要である。その役割とは、都市の文化的かつ歴史的背景に基づいた知識を、改良し、促進することである。

 9.これまで述べてきた項目に付け加えて、ジョハール市場の近くのプ ムダ通にあるディブヤ・プリ・ホテル(昔の名前はパリロン・ホテル)のようないくつかの古いホテルが、旅行者を楽しませて、そこに滞在させることができるようなものに修復されなければならない。もう一つ、チャンディ・バル・ホテルも、また、観光事業のために保存し、促進されなければならないだろう。そのほかのおもしろい建物としては、プムダ通りにあるオエン商店があるが、それは、特にヨーロッパの旅行者のために、古い店やレストランでヨーロッパスタイルのランチやディナーを楽しめるように保存されなければならないだろう。

 10.さらに我々は次のような提案を行なう。すなわち、伝統的な演劇や他のアート・パフォーマンスのようなソフト面でのアトラクションを含め、他のハード面でのアトラクションを促進すべきである。スマランを文化的な観光旅行の中核として位置づけるならば、イスーラムの文化的価値を継承するデマックやクドゥス、ジュパラにも、歴史的な場所の観光のために行けるようにするのが望ましい。

 11.文化教育や、文化的観光事業の発展のために、スマランの旧市街おける、文化遺産としての歴史的建造物の保護、保存、修復、促進が完遂されるように、協力団体や文化遺産委員会が発足されるべきである。そして、そのメンバーには、地方の政治権力者や、社会の代表者が含まれていなければならない。(抄訳 筈井孝一)








ハーマン・トーマス・カールステン

                               

堀 喜幸

 

 ハーマン・トーマス・カールステンは、    年オランダに生まれる。デルフト工科大学で建築工学を学び、    年に卒業する。初めてインドネシアに渡ったのは    年である。インドネシアでのカールステンは建築家であり、都市計画家であった。建築家としての出発は    年のニルマイ保険会社ビル(現スラヤ生命保険会社)である。ポントのテガルの事務所ビルと同様に、その設計はインドネシアの気候に対応するものであり、その当時としては珍しいものであった。    年になると、ソロにあるマンクヌガランのプンドポ拡張工事の建築家に選出される(~    )。この時の仕事を見ると、彼のインドネシアの土着の建築に対する理解が生まれていることが伺える。事実、彼は、伝統的な建築様式が出来るだけ踏襲されるべきであるとに主張して、拡張工事の一環として建てられた食堂(小プンドポ)の設計において、それを実践している。この食堂は、周囲に庇を持ち、八角形の平面を持つ。層状の屋根は三段に重なり、機能的に換気を促進させるとともに、全体の印象を伝統的なものにしている。軸組構造が採用されたことと、三段の屋根によって高い屋根裏空間が獲得されたことは、伝統的な内部空間の形成に大きく貢献した。そして同じ敷地内の優れたジャワ建築であるプンドポ・アグンの内部空間と調和している。

 これ以降も、伝統的な形態が目立っている。    年から    年にかけて建設されたソボカルティ劇場は、舞踏劇のための理想的な建築であった。その屋根形態は食堂と同じく層状三段の伝統的なものである。    年には、ジャワ島の歴史都市であるジョグジャカルタのアルン・アルン(広場)にある古い家の改築を行っている。現在この建物はソノブドヨ博物館として知られるが、この建築も非常に伝統的な形態をしている。カールステンは、その竣工式のスピーチの中で、博物館においては、博物館の構成が展示品の文化を反映していることが重要であるという。そのためにカールステンは、エントランスとパフォーマンスの空間を作り出すために母屋の前面にプンドポを建てたのである。この建築においては、伝統的形態の使用が単なる形態の模写というだけではなく、空間的にも象徴的意味においても成功している。

 カールステンは新しい建築の展開として、伝統的な建築技術を、新しい物質と新しい建築型に適用させようとした。    年に建てられたソロ駅では、駅といった現代的な建築型と伝統的な形態を結びつけるために材料に鉄を使用している。同様の試みが、    年のソロの中央市場や、    年から    年にかけて建てられたスマランの闘牛場に見られる。こうした建築、特にソロ駅には、確かに伝統的な屋根形態が認められるが、すでにそこには伝統への回帰は感じられない。むしろ、現代の要求に対して、積極的にデザイン追求した結果に獲得された形態である。その意味において、これからのインドネシア独自の建築を模索する過程の中で非常に意味ある作品となっている。

 こうしてインドネシア建築の理念として、カールステンは、土地の文化に根ざした建築のみが、発展するその社会の要求に答えられるとした。また、その建築の設計者も、土着の建築家であってこそ初めて、発展は健全になると考えていた。さらに、自身を含めた西洋建築家の立場についても、西洋人による発展は臨時的なものにすぎないとしていたのである。

 カールステンの都市計画家としての活動は、建築設計と平行して行われた。むしろ都市計画やハウジングのほうが、理論を具体的に表現する機会が多かったほどである。  年代、  年代には、スマランやマランをはじめとして、インドネシア各地で都市計画のアドバイザーとして活躍した。特にスマランは、カールステンにとって最も重要な実践的経験の場となった。カンポンにおける生活環境の改善を問題としていた議会が、丘地(海抜  メートル)である南部(現チャンディ地区)への拡張計画を、    年にカールステンへ依頼した。アドバイザーであるカールステンの影響は    年の都市拡張計画によく現れている。特に居住地の分割は、これまでの民族によるものから、経済階級に従うように変化した。その結果、高い場所は裕福なヨーロッパ人や中国人の住居で占められ、低地に政府によってカンポンが計画された。道路は比較的幅が広く平坦な主要道路と、狭い二次的な道路に明確に分けられ、さらにそうした道路、広場、建物の配置は自然の等高線に沿うように意図されている。

 スマランの経験から、インドネシアでの都市計画理念が確立された。都市計画は三つのプラン(詳細、都市景観、全体)で構成され、三つの有機的な調和が望まれる。カールステンは全体プランに関する限り、合理的な計画を主張している。そしてそれは主幹道路、鉄道、建築区域等に表れることになる。内容に関しては、スマランでみられた経済階級分割、広い低層建築、植栽、地域内交通の制限などに加え、建築規則も挙げられる。こうした要素は、都市景観に貢献するものであり、計画家の義務として都市に「性格」を持たせることを主張しているのである。

 こうした建築と都市計画の仕事を見ていくと、カールステンの中に、全体と部分の両方の視点が見えてくる。しかし、全体から部分、部分から全体への移動はそう関係はないように思われる。各段階にはそれに見合った計画理念が独自に存在するようである。言い換えれば、理想主義と現実主義をうまく使い分けているのである。それは建築家と都市計画家という町の計画における全体と部分の仕事を実際に経験してきたことにも深く関係するであろう。こうした結果として、建築、都市計画両面において成功をおさめていることは評価していい。今、オランダのデルフト大やジョグジャカルタのガジャ・マダ大学でカールステンのマスター・プランが研究されている。インドネシアの人々によってカールステンの遺産が継承されつつあるのは、カールステンの願いであり、歓迎すべきことである。






2022年6月14日火曜日

バンドンーーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,デルファイ研究所,199312

 バンドンーーコロニアル建築「インドネシア18701945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,atデルファイ研究所,199312


インドネシア・コロニアル建築

1870~1945

その2 バンドン

                京都大学アジア都市建築研究会編

 

 ハーマン・トマス・カールステンとヘンリ・マクレーン・ポントといっても、もちろん知る人は少ないだろう。二人はインドネシアの近代建築の歴史に大きな足跡を残したオランダの建築家である。インドネシアで活躍した建築家というと、前回に挙げたC.シトロエンやEd.キュイペルス、その他いくつかの事務所が挙げられるが、なんといっても代表はこの二人である。    年、H.P.ベルラーヘがインドネシアを訪れ、「オランダの近代建築の発展に匹敵するほど重要となるであろう、来るべきインドネシア建築に全てを捧げた二人の建築家」として言及したのがこの二人である。二人は、実は、デルフト工科大学の同級生であった。

 H.M.ポントがインドネシアを訪れるのは    年、  才の時のことである。しかし、もともと彼が生まれたのは、ジャカルタである(    年)。本国で教育を受け、デルフト工科大で建築を学んだのち、いわば帰ってくるのである。    年に卒業した後、アムステルダムの建築事務所で二年実務に携わった後、ジャワへ赴くのである。この仕事を終えた後、H.M.ポントはスマランに個人事務所を開設する。そして次第に仕事が増えていく。そこで、招いたのがH.T.カールステンである。H.T.カールステンがスマランにやってきたのは    年の暮れのことであった。

 しかし、二人のパートナーシップは、わずか二年しか続かない。性格が合わなかったらしい。H.T.カールステンは、アクティブであり、H.M.ポントはどちらかというと学究肌である。それに、H.M.ポントの健康がすぐれなかったことも大きい。彼は、    年にオランダに戻り、    年まで戻らない。    年には、H.T.カールステンに事務所の権利を売ってしまう。その後、二人は別々の道を歩むことになったのである。

     年、帰国中のH.M.ポントは工科系の教育機関の設計を以来される。    年に竣工した、現在のバンドン工科大学(ITB)である。 H.M.ポントは、インドネシアに着いて以来、時間をみつけてはインドネシア中を旅行し、土着の建築について調べている。余程魅せられたのであろう、その探求は徹底していた。やがて、ジャワ建築の研究にウエイトを移したほどである。H.M.ポントは、ジャワ建築の起源を探り、その本質を明かにしようとする。その架構の原理を解明し、それを現代建築に生かそうとする。伝統的建築の空間構成の方法を読み取り、それをうまく用いようとするのである。

 ITB以降の彼の作品は、そうした試みの積み重ねである。    年から    年まで、彼は東ジャワのトゥラウラン(       )に住んだ。マジャパイト時代について、考古学的、歴史的研究を行うためである。このためポントは、結果的に建築の仕事から遠ざかることになるのであるが、それでも珠玉のような作品を残している。トゥラウランの野外博物館の建物がそうである(    年)。そして、何よりも傑作だと思うのが、東ジャワのクディリの近郊にあるポサランの教会である。H.M.ポントの最後の作品である(         年)。        布野修司


バンドンとその都市遺産 

                               

ストリスノ・ムルティヨソ(アディチャワルマン工科大学講師)

                                                                       

 

 

1. 歴史

     年に極東におけるイギリスに対する拠点としてジャワを強化するために、当時のオランダ国王ルイ・ナポレオンの詳細な指示を携えて、オランダ総督H.W.ダーンデルスがジャワへ到着した。彼は鎖状につながる軍事防衛ユニットを考案し、これをジャワ北部の海岸に沿って効率的な交通手段で互いに連結した上で配置した。

しかし、バタビアとチレボンの間の海岸は全域に渡って湿地帯であったため、彼は南回りの道をとる方が容易であると判断した。これがプリアンガン高地を横断するグロートポスト道路(大幹線道路)                                 である。この道路は当時のカブパテン(県)の首都クラピャック         のバンドンの北、約    のところを通っていたことが判明した。 ダーンデルスは率直にブパティ(首長)にその道のそばへ移るように指図した。

 ブパティのウィラナタクスマル二世                       Ⅱは、古代の女神 ニイ・クントリング・マニック                    によって守られているとされるスムル・バンドン               と呼ばれる一対の聖なる泉に近いチカプンドゥン             川の西側の土手の、その道の南の敷地を選び、そこに彼はダレム(宮殿)とアルン・アルン          (広場)を造った。伝統に従って西側にはメスジッド・アグン             (大モスク)、東側には伝統的な市場(パサール)が置かれた。このようにして 花の都は誕生した。

   世紀の初頭以来、マタラム         の支配者によって、ジャワ西部はバタヴィアに引き渡されていたが、オランダは積極的にこの状況を利用しようとせず、やっと    年に エンゲルハート           がプリアンガン          でコ-ヒ-を栽培しようと試みただけであった。  世紀半ば頃カークホーフェンス            が、アッサムから紅茶の見本を輸入し、ユンフーン          が南アメリカからキナ皮          を紹介した。世紀末までに、プリアンガン高地は、コ-ヒ-、紅茶、キナ皮、ゴムの最も広く豊かな産地になっていた。

 こうして生まれた新興の富豪達は、彼らの週末の社交の舞台となる場所を必要とした。彼らは、自然に、街の中心で、かつ主要な道路に近いバンドンに集まることになった。    年代までに既に彼らは、シカプンダン川の東岸近くに 社交クラブを造りあげていた。その付近には、ホテル、パン屋、小売店、劇場、クラブハウス、そしてあらゆるはやりの娯楽施設が出来ていった。やがて今世紀の初めの十年のうちにパックス・ネルランディカ                 (「オランダの平和」)が宣言され、軍事政権から市民政権への移行をもたす。新政権は中央政府の行政負担を軽くするために非中央集権

政策をとった。最初に    年にバンドン自治体が設立された。当然の事ながら、こうした事情の変化は、都市としてのバンドンの表情に大きな影響を及ぼすことになった。

 ブラガ       通りの北端のさらに先に、中央から独立した新自治体政府を収容するための市役所が建設された。その後まもなく    年頃、こうした開発の動きは、軍司令部がバタビアからバンドンへ移された時点で、より大規模に行われるようになり、市民ホ-ルの東側の敷地に最高司令官の官邸、様々な役所、兵舎、住宅地区が建設された。  年代初めまでに、熟練した技術専門家の養成の必要から、バンドンの市民によって工業高校が設立された。時を同じくして 蘭領インドの首都をバタヴィアからバンドンへ移す計画が立てられ、街は、北に向かって拡張されることになった。

 首都地域は北東部に位置し、大通りが、名高いグヌン・タンクバン・プラフ                        に面しながら、南端に グドゥン・サテ              、他方の端に巨大なモニュメントを配して     の長さに渡って計画された。この大通りの両側の建物に植民地政府の本部が置かれることになったのである。

 シカプンダン川の東岸に沿って、現在のダゴ      通りと平行に、今なお見られる自然の風景のなかに工科大学のキャンパス、寄宿舎、職員用住宅がある。キャンパス内の古い建築物と外溝造園計画の巧みさには、その著名な設計者である ヘンリ・マクレーン・ポント                     の才能が感じられる。北西部には古いキナ皮工場に隣接して、市民病院とパスツ-ル研究所のための用地が確保された。

 こうした開発は、配置計画のレベルに止まらず、建築物、ひいてはメンテナンスの詳細についてまで丹念に計画された。戦争の直前の数年間はバンドンの黄金時代であった。老人や当時の都市計画者達は、今もそのときのことを懐かしく語る。それは我々全てにとって今なお古き良き時代              である。

 独立後は困難な時代だった。東プリアンガンで政治的に不安定な状態が、頂点に達し、その結果、人々は治安の保たれたバンドンに集まった。人口は、    年の  万人から、    年までに   万人に跳ね上がった。ところがこれで収束がついたわけではなかった。  年代のオイルブ-ム後の経済発展は人口増加をさらに加速し、    年には人口   万人に達したのである。

 独立後の時代の第一段階は、大まかに区切れば    年ぐらいまでで、古い建物の外装工事などを除いて、目立った建設活動は余りされなかったと言っていい。しかし新しく建物が建てられない代りに、古い建物が壊されることもなかった。    年以後の第二段階では、開発は郊外へ著しい拡がりを見せ、宅地開発は実質的に政府の管理を超え外れて激しく進んだ。主な通りでも道路幅の拡張計画が原因で、それに面した数え切れないほどの建物のファサードが、野蛮にも壊されることになった。

   年代中頃までに、それまで幾分安全だった古い市街地が今度は開発の波にさらされ始めた。経済の好景気はより広い場所と地位の象徴としての新しい建築的語彙を必要とするようになる。政府はこうした状況への対応策をたてるまでには至らず、社会も未だ意識的でなかった。しかし、商業論理は一人歩きを続け、結果として多くの儀性が出た。この間に今世紀初めの四半世紀の代表的な都市建築物がいくつか永遠に失われたのである。ごく最近の傾向としては、主に財政や銀行業務に関連する政策に拍車をかけられ、オフィス空間(主に銀行)が、著しく求められる。グロート・ポスト通り別名ヒガシ ヤマト通り(アジア・アフリカ通り)に沿って高層建築が建ち並んだ。今日ではバンドンはどんどんジャカルタに似てきている。もう一つ、どことも解らないようなメトロポリスができることになるのだろうか?

 

2.歴史的地域

2.1 中核地区

 この地区は東西には、レンコン・ブサ-ル                 通りからアスタナ・アニャ-ル               通りあたりまでで、南はバスタ-ミナル(クボン・カラパ             )、北は鉄道線路がその境界である。この内側がもともとの市街の中心であり、広場(アルン・アルン)もこの中にある。近代の中心商業地域は東側に、伝統的な商業地域(主に中国人所有)は、西側へ拡がる。南の地域は土着のカンポンであり、カンポン改善事業の残した跡が現在もみられる。また有名なブラガ通りもここにある。

 この中核地区は、近代化に伴う開発によって、最も多くの犠牲を払っている場所である。プンバングナン(建設)のために近隣の住宅地区さえすべて破壊されている。伝統的に一市街地の構成は周辺部をとりまき道路に面した商業建築物と、その背後に隠れたカンポンからなっている。無秩序な開発は、致命的にも商業部分が街区の内側にむかって侵食することにつながり、街区内には、ところどころに通りとの直接的な関係を絶たれた離れ島のようなカンポンが残っている。

 土着の建築物はこうした共食いとも言える状態の下で、最も苦境に立たされている。ダレム・カブパテンでさえすでに、自治当局自身の建物によって侵食されており、プンドポのみで分けられている。ダレム・カウム            とその近くの カパティハン           は、高層のショッピングプラザに変わってしまった。パサール・バル付近の古い中華街には、興味深い所もある。辛抱強く、そして少し運が良ければ、今でも奥まった所や間隙を縫うような所に、おもしろい家が見つかる。

 しかし、現存する重要な建築物を見るのにより適した場所は、東部である。建物の正面の多くはモダーンな看板で覆われてしまっているが、ブラガ通りがそのいい例である。昔の雰囲気を守りたいと言う多くの要望に答えて、市長はこうした場所に特別な注意を払っている。ブラガ通りがアジア・アフリカ通りにぶつかる付近は、最も良く町並みの保存されている場所である。地図を参照されたい。

 

2.2 官庁街

 市役所は、ヨ-ロッパ街の最も古い場所にある。しかし、建物は新しく、ほとんどの部分は  年代に建てられ、  年代から残っているのは、中央ホ-ルと市長公邸だけである。この複合建築は、市役所とそれを取り巻く公共建築物の前に位置する公園のあるもともとの市の中心と向かい合うように意図された。

 東南の角地にはカトリック教会があり、その建築様式は新ロマン主義である。ブルガ通りに面して、公園の南西の角を占めるのはインドネシア銀行であり、その反対側にブトル        教会が位置する。そして銀行と教会の間に、公立、私立の有名な学校が挟まれている。さらに北に進むと、軍の最高司令官の住居をちょうど越えた所に美しく保存された郊外住宅(ラントハァィス          )がある。その住宅の向かいのプルナワルマン             通りの角に現在はモスクに転用されている郊外住宅が、もうひとつある。

 アチェ通りを通って東へ行くと 軍事複合施設があり、最初にみえるのは、旧司令官の邸宅、次に美しいラル・リンタス             公園を囲むように国防省がある。さらに東には、今はスポ-ツグランドとして使われているマルク公園があり、そこからやや南に下った所に以前、年度行事に使われていた建物がある。その間を埋めるように将校のための住宅、兵舎と兵站、指令部の建物が建っている。こうした建築物のほとんどは、今もそのまま残されているが、内部に入る事は出来ない。

 北部はいわゆる首都たるべき場所で、    年代の不況によって計画が中断した時点では、たったひとつの建物しか出来ていなかった。それが有名なグドン・サテで、現在は、西ジャワ州の州知事の役所となっている。バンドンを訪れた際には、この美しい建物を是非、見ていただきたい。    年にJ.ゲルベル          によって設計された時は、平面図で左右に対称な翼廊が造られる事になっていたが、片翼のみが完成に至った。

 この建物の周りには公務員の住宅があり、高級将校の邸宅は、チラキ        通りとチサンクイ           通りに挟まれた川の土手部分にある。少し小さい規模の住宅は、チマヌック         通り、チルタヤサ           通り、バンダ       通り沿い付近に、最低ランクの住宅は、一般にもとからそこに居住していた人々のものだが、道を介して素晴らしい袋小路と接する環境のゲンポル        複合施設を与えられた。一部、全体的な景観に無配虜に、建物が修繕されたり、建て直されたりした事は惜しむべき事だが、なおかつこの場所は、訪れるに値するだろう。

 

2.3 科学公園

 今世紀初頭、オランダ領インドネシアは、科学研究活動の中心地としてその名をわ挙げていた。ほとんどの研究施設は、バタビア、バイテンツォルク            (ボゴール)とバンドンに集中していた。こうした施設のうち、バンドンにおける例としては、パスツール研究所と工業高等学校が挙げられる。

 パスツール研究所は、東方での医学的治療の必要を満たすために設立された。この美しい建物は、両側に塀を廻らした短い通りにある。この研究所は、市立病院の隣に建てられた。病院の正面部分はもとからのものだが、他の部分は後に付け加えらたものである。病院に勤める職員のための居住施設は、インドネシアで最も素晴らしい通りのひとつであるチパガンティ           通りに沿って建てられた。古いマホガニーの樹に覆われ、規則的な形態と壁面の深い彫りをもつ家々は静寂な印象をかもしだし、あたりの雰囲気に似つかわしい。

 パスツール研究所は川の西側に位置し、工科大学はその東側に位置する。

学校の一番の魅力は、キャンパスの一番主要な建物であり、デザインと技術に真に秀でたものである。その形態は、幾重にも重なった屋根と彫刻を施された庇を持つ、よく研究された伝統的なジャワの様式が用いられており、辺りの風景と完全に調和している。

 マクレーン・ポントの才能が本当に評価されるべきは、その内部空間においてである。建物全体が、鉄筋コンクリートの基礎の上に、鉄板、ワイヤー、ボルトで繋がれた集製材による近代的な構造で支えられている。この建物の周りに住宅施設があり、そのなかでも上等なものは、ダゴ通りに沿って造られている。現代建築家によって建てられた郊外型の住宅がここには多くある。その中でもウォルフ・シューマッハー                   が本当に素晴らしい住宅を建てている。

 

3 重要建築物

   中核地区

1A グドゥン・ムルディカ              

 この威風堂々とした建物は、社交クラブとして公式に使われた。独立後は、議会              がこれを利用したが、大きな行事が行われたのは    年のアジア・アフリカ会議が開かれたのが最初だった。

1B ホテル・グランド・プレアンゲル                    

 ウォルフ・シューマッハー による    年代に建てられた豪華なホテル 。シューマッハーハインド・ヨーロッパ・スタイル を追い求め、インドネシアとヨーロッパの様式を融合したスタイルで建てられた。    年代に、趣味良く改装された。

1C ホテル・サヴォイ・ホマン                 

 伝説的なホテルの再現として近代表現主義により建てられたが、近年、大幅に改装された。しかし、偉大なる  年代の雰囲気をいまだに伝えている。

1D ブラガ南通り                 

 その黄金時代の有名なショッピング・ストリートの古い部分であるが、ほとんどの建物は、他地域のものより新しい。ブラガホテル、サリナデパート、角地の前のデニスビル(現在の州立銀行)などがある。

1E ブラガ北通り                 

      年代に念入りな計画のもとに造られた。第二次大戦の少しあとまで、高級品を扱う商業の中心地であった。この敷地を改善し、保存しようとする計画は、技術的、法律的な問題に直面している。

 

3.2 官庁街

2A グドン・サテ             とその周辺

 官庁街の中心として大通りの南端に計画された。  最近になって現代的な趣になった。大通りには、西ジャワ記念碑、イスラムセンターができる予定である。

2B  ゲムポル        の住宅

 植民地政府の職員を収容する広い敷地の一部にこの美しい住宅はある。設計を担当したP.E.ウェナー           が、インドネシア人の一般の職員のための植民地住宅のデザインにおいて、土着の建築語彙を使用したことは興味深い。

2C 市役所 

  現在のような複雑な姿は近年の開発によるものだが、この区画は、もともと デ・ロー        により    年代に ムルデカ公園(旧                公園)と統合されたかたちでデザインされた。

2D 軍司令部

 最高司令官の堂々たる邸宅、国防省、年度行事の行われる広場をともなう大規模な複合施設で、その敷地内には美しい公園が散在する。

2E インドネシア銀行

 主要な建物は、エド・キュイペルス            によってジャワ銀行として設計された。現在は、中央銀行であるインドネシア銀行として使われており、最近になって東側に拡張された。

 

3.3 科学公園

3A ビオファルマ         (パスツール研究所)

 古典的な熱帯の大通りの例であるパスツール通りのそばにパスツール研究所は位置している。まだ完成までに  年以上を要するのはいたしかたないが、その古い敷地はもともとのデザインを残している。

3B 市立病院

 市街中心部のその前身である病院が、拡張の必要にせまられたときに、北西部郊外に病院を移転した。現在は、ハサン・サディキン                病院と呼ばれているが、より新しい設備を伴い、依然としてその役割を果たしている。

3C  チパガンティ通り               

  もともとの広がりは、パスツール研究所          と市立病院をその中心に据えた科学公園を収容する大きさであった。

3D バンドン工科大学                          

 インドネシアで最も古い、技術に関する第三段階の教育施設であり、静かな雰囲気が、ヘンリ・マクレーン・ポントによってデザインされた古い方の敷地に広がっている。しかしここでも、近代的な諸設備が、既に全体の計画を破綻させている。

3E ダゴ通り          

  まさにヨーロッパ地区の中心であり、依然として最も権威のある住宅地区として、その威光を放っている。近代の野蛮な建物の建設や商業施設の侵入を伴う無秩序な開発は、その存在を脅かしている。

 












2022年6月13日月曜日

スラバヤーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,デルファイ研究所,199311

スラバヤーコロニアル建築「インドネシア18701945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,デルファイ研究所,199311


 

インドネシア・コロニアル建築

1870~1945

                                           

Ⅰ スラバヤ         

                 京都大学アジア都市建築研究会編

 

 日本とインドネシアは様々な歴史の糸で結ばれている。一九四二年から三年に及ぶ日本占領は不幸な歴史であった。日本軍政下の記憶はインドネシアの人々の心に深い傷跡を残している。

 もちろん、日本とインドネシアの歴史的関係ははるかそれ以前に遡る。その鍵を握るのがオランダだ。オランダは、一六世紀末にコルネリス・ド・ハウトマンの艦隊がバンテン沖に到達して以降、世界最初の株式会社と言われるオランダ東インド会社(VOC)を中心にアジア貿易に積極的に乗り出す。当初、バンテンをはじめ、ジャワのグレシク、ジェパラ、マレー半島のジョホール、パタニ、スラウェシのマカッサルなどに商館を建て、根拠地を捜すのであるが、永久的根拠地として選んだのがバタビア(現ジャカルタ 一六一七年占領)であった。

 一方、オランダと日本の出会いも一七世紀初頭のことだ。ロッテルダムの航海会社がアジアへ送ったリーフデ号が遭難し、九州の豊後に漂着したのである。一六〇〇年四月で、航海長がイギリス人ウイリアム・アダムスであった。そして、平戸にオランダ商館が開かれたのが一六〇九年、一六二四年には台湾西岸の安平にゼーランディア城を築いている。様々な経緯を経て、オランダはひとり鎖国後も交易を許されことになる。こうして日本はバタビアを通じて唯一世界へつながることになるのであるが、その交流の跡は、バンテンやジャカルタで発掘される古伊万里などの夥しい出土品が示しているところだ。

 インドネシアの今日の都市の骨格をつくりあげたのはオランダである。その影響は極めて大きかった。ジャカルタ、スラバヤ、バンドン、スマランといった都市には、オランダによる植民地建築が残されており、その歴史を偲ぶことが出来る。特に、近代建築の展開が興味深い。アムステルダム・スクール、ロッテルダム・スクール、デュドックなどの影響をみることができるのである。否、影響と言うのは誤りであろう。オランダ本国と同時に、あるいは先駆けて、近代建築の作品がつくられていたのがインドネシアである。日本もまた日本分離派建築会にみられるように、オランダの近代建築の影響を強く受けてきた。ここでも三角関係が面白いと思う。

 ところで、この間の急速な都市化の波の中で、歴史的な都市遺産の問題がインドネシアにおいて大きくクローズアップされつつある。近代建築の保存の問題はいち早く日本は経験してきたのであるが、インドネシアの場合、植民地建築をどう評価するかをめぐってより複雑である。植民地建築をどう自らの伝統とするかは大問題なのである。

 ハウジングの問題を中心にインドネシアに通い出してもう久しいのであるが、カウンターパートであるスラバヤ工科大学のJ.シラス教授から都市遺産の問題の重要性と日本からの協力の要請を受けたことをきっかけに、とりあえず、主要な都市の現況を共同で考えてみることになった。第一回は、スラバヤであるが、J.プリヨトモ氏に寄稿していただいた。また、冒頭に、基本的かつ重要なポイントをJ.シラス教授にまずまとめて頂いた。                          布野修司
インドネシアにおける都市遺産の保存問題

                                                   

ジョハン・シラス(スラバヤ工科大学教授)

                             

 

 近年、インドネシアは、経済活動において他の多くの発展途上国より大きな改善を成し遂げてきた。それとともに、これまでに到達した次の段階として、古いもの、新しいもの、様々なタイプの建物を含む質的達成が開発において重要視されるようになった。都市発展の先進都市として、ジャカルタはいち早く都市の歴史をきざむ物理的要素を活性化することに努めてきた。一九七〇年代初頭、時のジャカルタ市長は、いくつかの地方自治体条例を発行し、バタビア(現在のジャカルタ)が「フォーマルな」(西洋の)モデルに従い開発された時に遡って往時をしのべる歴史的重要性を持った、住宅建築や公共建築を含んだ、古い、都市の「内部」の保存に努めようとした。しかし、この条例の履行は困難であり、とても効果的とはいえないものであった。

 最近になってインドネシアでは、保存に関する関心が徐々に技術的なものから歴史的な問題へと移りつつある。また、西洋建築を主とする保存から、地方の建築を含むより全体的なものへ、その認識や環境を含んだ保存へと移ってきた。ジャカルタとスラバヤは長い歴史を持つ都市であり、近年、高い経済成長と都市成長を享受している。両都市はヨーロッパ人の入植以前のずっと昔の時期から、    年の独立戦争の時期にいたるまで、独自の歴史を刻み続け、現在におよんでいる。インドネシアの諸都市は、かなり早い時期から自由国家としての目的を果たすために重要な役割を果たしてきた。これは、「近代」インドネシアの歴史の一部であり、一般にこのことが5つの主要な保存問題をもたらす。

 ●全体的な歴史的文脈の理解

 ●歴史における「近代」インドネシアの重要性

 ●手段とコンセプトの欠如

 ●開発と保存の競合

 ●実行と開発の制約

 インドネシアの諸都市は他の国の平均より比較的高い経済成長を続けてきた。そして、徐々に都市計画政策も都市の文化並びに歴史的遺産の保存、活性化を優先するようになってきた。市民団体が結成され、文化および歴史の存在に対する人々の関心が高まってきた。かなり早くから都市文化を扱う手段も発達してきた。しかし、これらが地域社会においてより広く、正しい理解を得られるようになったのはごく最近のことである。過去の文化的遺産を活性化するための真の支持はまだ得られていない。戦前の規則に取って代る文化保存条例(no. /    )の制定は、都市遺産の保護にこれからその効果が期待されるところである。明らかに、この新しい条例が、全体的な開発目的の中で有効に作用しうるためには、より強く明確な政府の規制が必要である。このことは、上述した問題点を議論するなかで、より練り込まれていくであろう。

 

 ●全体的な歴史的文脈の理解

 

 インドネシアの都市開発の歴史について現存する文献の多くは、ヨーロッパ人によって、インドネシア(オランダ領東インド)の現存する古記録に基づいて書かれたものである。これらの資料は町の発展の歴史、特にヨーロッパ人の到着に先立つものを、ほとんど考慮にいれていない。この観点からいえば、たとえばジャカルタは、オランダ人が現在の都心部に建設した部分をもって、初めて生まれたことになる。しかしながら、ジャカルタの歴史はヨーロッパ人がバタビアに足を踏みいれるはるか以前から刻み続けられている。この地にジャヤカルタ王子がしっかりとした集落を築きあげ、そして、その民達はオランダ人がこの地域の支配を目論んだ際、非常に激しい抵抗を示したのだ。

 他方、スラバヤはより長い歴史を持っている。    年、地方の長ラデン・ウィジャヤは、強力なフビライ・ハーンによって送られた軍隊を苦節の末打ち破り、追い返した。この出来事をもって、スラバヤが公式に設立された日とみなす。   年前のことである。それゆえ、スラバヤはインドネシアで最も古い、現存する都市である。しかし、ジャカルタと異なり、スラバヤはその名を維持し、町は同じ場所で発展し続けた。  世紀初頭には、オランダ人旅行者による記述によると、スラバヤは 万もの世帯、言い替えるならば約 万の人口をかかえていた。つまり、日本やヨーロッパ、アメリカの都市に匹敵する大都市であったといえる。

 同時に重要なことは、植民都市政府が、政府自身の必要と民間の商業のために住居と都市施設の開発に関心をはらったにもかかわらず、地域の住民は、多くの住居と施設を土着の伝統的なやりかたで計画し、建設した点である。さらに大事なことは、都市の文化的遺産への全体的なアプローチは、つくる人間や構築された環境のみではなく、それを知覚する人間や遺産として与えられた自然をも含むものなのである。

 

 ●歴史における「近代」インドネシアの重要性

 

 もし保存が戦前の法規や新しい保存法に基づいたものなら、インドネシアの歴史上の重要な部分を見逃すことになるだろう。つまり、今世紀初頭の解放運動からインドネシアが自由な国家を形成する能力を問われた  年代に至るまでの、インドネシアの「近代」の歴史である。特にスラバヤは、当時、 つの重要かつ最新の建築物の建設により、具体的な段階へと踏み出していた。市場(ウォノクロモ)、「国際的」ホテル(オリンピック)、そしてスラバヤの戦い(        日~  月 日)とそれに続く戦闘による 万人を越える犠牲者を弔う英雄モニュメントである。

 この業績の重要な点は、西洋の支配から解き放たれたインドネシア人の「建築家」達、特に市の行政機関で働く人々によって果たされた役割であったことである。彼らはまた、この時期に、世界の他の地域では知られていない独創的でユニークな建築様式を生み出した。強い熱帯の建築原理と「近代的」建設法を持ったいわゆるヤンキーあるいは「イェンキ」        建築である。アールヌーボーにも似て、この建築様式は中に備え付ける家具の様式や色彩計画、(近代的な)合成材料(プラスティク)の多用などにも影響を及ぼした。これらの建物の多くは現存するが、その大部分は荒れ果て、放置された状態にある。

 

 ●手段とコンセプトの欠如

 

 手段の欠如の問題は3つの異なる角度から認識される。すなわち、建築の所有権、保存に対する援助、そして保存のための専門家と専門的技術である。古い建物の多くは政府に所有されていない。特に、地方の建築はそうである。政府所有の建物は、いまだその役割が必要とされていて、保存のために妥協することは困難である。もし建物が地価の高い地域に立地するのなら、この状況はより複雑になる。政府の政策は、文化的または歴史的価値を有する建物の所有者になんらかの形で保存を行うよう刺激するほど強くはない。普通、古い建築は新しい機能に適応させるため、またエアコンといった新しい設備を取り付けるためなどといった目的で、破壊的なやりかたで改修される。

 保存への興味関心と足並みを揃えて、公共並びに政府が適切な維持管理を行うことは、これらの努力を支援するための公共予算がほとんど得られないために、ますます困難になってきている。当然ながら、民間のの建物も同様の問題に直面している。民間人は、今だ、その建物を自分自身で維持しなければならない。この状況においては、保存はいかなる利点も持ち得ない。はるか「近」未来においても、その重要性にもかかわらず、保存を行うための財政上の手段はまだ確立されていないであろう。それ故、民間部門を保存に巻き込むことは奨励されるべきであり、計画的に活用さるべきである。

 他方、財源に関わらない重要な手段として、効果的で能率のよい建物保存を行う専門家と、専門技術があげられる。その最前線には、ほとんどが植民地支配者によって建てられた(恒久的な)古い建物のみに興味を払う、といった保存を行う際の誤った認識の問題がある。結局のところ、植民地化の歴史にまつわるヨーロッパ建築の保存は、インドネシアの国家としての歴史にとって重要性を持たない保存の努力となるだろう。多くの人々にとって、インドネシアの歴史の「暗い」側面を保存することは受け入れ難く、また反対にナショナリズムへの興味を生み出すのである。この論理は先に論じられた最初の問題と緊密な関係を持ち、全体的な歴史的アプローチを通じて解決されるべきものである。

 先に述べたように、保存についての既存の知識は、ほぼ恒久的な構造を持つ西洋の建築様式に関するものに限られる。他方、たいていが開放的で恒久的な材料を使っていない「熱帯」建築の保存に関する取り扱いの方法はほとんど発展してこなかった。この建築様式はインドネシア文化の基礎をなす、環境的な要求をみたすという概念の一部であり、ダイナミックに成長し続ける社会の、機能に対する変わりゆくニーズに効果的に適応するものである。非恒久的な材料を使うことが質の悪さを示すという見解が熱帯建築に対する正しい評価を抑圧したが、バリやそのほかの地域の「伝統的」建築がそうではないことを証明しているのである。

 

 ●開発と保存の競合

 

 いうまでもないが、急激な経済成長を経験した国の都市はすべからく、「新しい」重要な経済的需要に対応すべく古い建物が道を譲らなければならない、という問題に直面する。第一に、ほとんどの経済人は、文化的、歴史的遺産を活性化することの持つ、長い目で見た重要性にほとんど全く気づいていない。そして、気づいたときにはもう遅すぎるのである。最初から、政府もまた安定した経済成長を確実にすることに傾倒し、特にそれが直接な国民の関心を得ていない場合には、古い建物の存続に対し不利になるような立場に立ってきた。現状は変わりつつある。しかし、それは非常にゆっくりとしたペースである。

 こういった状況の背景にある主たる原因は、一方では、経済見通しが、いまだ短期間の展望に備えたものであると受け止められていることであり、他方では、ビジネスマンが、限られた理解力しか持ち得ず、国の社会的、政治的安定性を確固たるものにする国民としての強い自覚が、長期にわたって求められるべきであるという観点に乏しいという点である。徐々に変化は現れるだろう。しかしそれは、二度と繰り返すべきでない大きな犠牲のもとにである。特に、経済成長を始めたばかりであり、多くの歴史を刻む古い建物を残す都市においてはそうである。

 もし、専門家や専門技術の果たす役割が開発により深くかかわっていたのなら、古い建物も経済の必要性を満たす競争力を持ち得るし、現に持っているという理解が衰退することはなかっただろう。実際は、わずかに古い建物が商業目的に効果を発揮した限られた例を残すばかりである。  年代後半に銀行が急速な広がりを見せたとき、古い建物が利用された。しかし、これは保存というよりも商業上の考慮の下になされたものにすぎない。これらの建築の多くは賃貸を基本としており、わずかな経費で最大限に外観を整えるために、保存的なアプローチが最も安くついたのだ。建物が入手されると、保存の原理とは相矛盾して、徹底的な「修理」がなされる。もとの建物はほとんど残らない。一方で、ジャカルタやスラバヤにおいては、いくつかの公共の建物が、新しくよりよい機能に適合する形で保存されている。

 

 ●実行と開発の制約

 

 新しい保存法が作られ、意識の高い市民が数の上でも地域的にも増えてきている。政府の支援もますます大きくなっている。しかし、真の保存計画は未だ実行に移すべき具体的な(実験的な)計画案を持たず、準備中のままである。上に述べてきたような制約の多くは近い将来でも未解決のまま残されているだろう。この状況は発展が最も急進行していた  年前の都市発展の状態に似ている。多くの都市のマスタープランが、海外のコンサルタントのみならず、インドネシアからの「専門家」の助力を得て、準備された。新たなマスタープランが用意されるべき時までには、多くの初期の計画が、真に示唆的な開発の手段であったというよりも、官僚的な査定によってのみ評価され得るものであった、という評価結果が明らかになった。

 明らかに、この状況が繰り返されることは避け難く、克服も困難である。現在重要なことは同じ間違いを繰り返さないことと、保存政策とそのプログラムの、開発と実行を「習得する」過程を短縮することである。大多数の拘束と困難は未だ官僚制の中に潜んでいる。この点に関しては効果的な国際的支援が必要とされ、また効果的な役割を演ずることができる。しかし地方のグループの専門技術とのより強力な関わりあいもまた必要である。現在インドネシアの都市間に存在するネットワーク、特にジャカルタとスラバヤ間のものは、京都やベルリン、パリといった他の国々の都市との友好関係をも巻き込んで、利用されるべきである。(訳 堀 喜幸 坂根智)

 

 

 
スラバヤのコロニアル建築 

                                    

ヨセフ.プリヨトモ(スラバヤ工科大学講師)

                                       

 

    世紀の終わりから、スラバヤは都市として発展してきた。例えば、    年のこの都市の地図をみると、ヨーロッパのコロニアル建築の集中した地域が二ヶ所あることがわかる。ひとつは、ジュムバタン・メラ               (赤い橋)地域、もうひとつは、トゥンジュンガン-シムパン                   地域である。記録によると、このスラバヤの都市計画の責任者は、ダーンデルス         (オランダ-インドネシア政府総督、         )となっている。ジュムバタン・メラ地域は、城壁に囲まれていた地域で、その内側の地域は比較的稠密である。カリマス         川は、この地域を二分しており、オランダ人は自分達のためにカリマス川の西側の地域を確保する機会を得、また、東側の地域は中国人とアラブ人のために確保されている。オランダ人居留地は、市庁舎、事務所、工場、孤児院、住宅などが建ち並ぶスラバヤの都心になる。トゥンジュンガン-シムパン地域は、カリマス川の上流に位置し、そこもまた、人口が増加し始めている。この つの地域を結ぶ道路があるにも関わらず、カリマス川は依然としてスラバヤの重要な輸送路であり、ほとんどの建物のファサードが川に面しているのも不思議なことではない。オランダの歴史学者達は、この時期の建築様式を「帝国様式」すなわち「ラントハァィス         様式」と呼んでいる。それは、広大な敷地の真ん中に立つ新古典主義様式の建築のことである。主屋の両側には、その後部に連なって、馬小屋、馬車置き場、奴隷小屋といった機能を持つパビリオンがある。グラハディ         ・ビル、すなわち  世紀初めから今日まで存続している総督官邸は、まさにそのいい例である。。写真(図 )は、本来はその建築物の裏側にあたる。かつてはそのファサードはカリマス川に面していのである(現在のスラバヤ市長は二つのファサードを設けるという案、すなわち一方は通りに面し、もう一方は川に面する、という案を持っているといわれている)。    年代の取り壊しによって、ジュムバタン・メラ地域には、実際にはこの様式の建築物は存在しない。ジュムバタン・メラ地域のカリマス川東側には、改変された別の建築様式をみることができる。中国人は、新古典様式と中国の様式を結合させた建築様式を用いて建設するのである。こうした建築物の機能は、オランダ人のものとは異なる。一般にショップ-ハウス(上階が住居で下階が店舗もしくは事務所)として知られているものである。この種の建築物もこの地域に完全なものはほとんど残っていない。

   年後の    年、スラバヤは城壁を破壊する。トゥンジュンガン-シムパン地域が北へ発展していくのに対し、ジュムバタン・メラ地域は現在南へ発展していく。この つの地域は、 つのより大きなスラバヤ市へと溶解し始めていくのである。かつて城壁の西側部分であった場所は、現在スラバヤ港へと導く鉄道線路となっている。いまだに建築様式の記録が全く発見されていないので、建築様式にいかなる発展もみられなかったということを我々は推測するしかない。我々は建築家の名前も見いだすことができない。ハンディノト          は次のように述べている。おそらく、この時期の建築家は、スラバヤで実践を始めた完全な職業建築家ではなく、ジャカルタ出身、あるいはオランダ出身の建築家である。あるいは勤務外の時間を使った公共事業部の職員のどちらかであり、彼らが設計・建設の委任を受けたものと思われる。

  スラバヤが「建築様式の戦い」といわれる中で、トゥンジュンガン-シムパン地域の南部を発展させたのは、  世紀建築における最初の  年間のことであった。州及び市行政の中心は、ジュムバタン・メラ地域からそれぞれ別の離れた場所へ移動した。州行政官庁は現在、パラワン          通り(ジュムバタン・メラ地域の南外縁部)に位置し、スラバヤ市行政官庁はトゥンジュンガン-シムパン地域に位置している。ジュムバタン・メラ及びトゥンジュンガン-シムパン地域は、双方共に商業地域として発展してきた。この独特なコロニアル建築の時代の新しい住宅地域はダルモ       地域(トゥンジュンガン-シムパン地域南部)とクタバン          地域(市庁の周辺)である。ンガゲル        地域、特にカリマス川流域は、現在工業地域として確保されているため、港とこの工業地域を繋ぐカリマス川の機能は維持されている。

 「建築様式の戦い」について述べよう。我々は、この戦いが異なる建築家たちの間だけでなく、一人の建築家の中でも行われたことがわかる。次の二者が挙げられる。フルスウィット,フェルモント&エド・キュイペルマ                              建築事務所と建築家C.シトロエン          である。ジュムバタン・メラ地域にあるジャワ銀行                (現在は地方開発銀行)の事務所のために、ハルスウィット,フェルモント&エド・キュイペルマ事務所は屋根窓やヨーロッパ建築の装飾的要素を用いた精緻な新古典様式の建築物(        年)を設計した。一方、今日では   ビル(ムラッワ通り)として知られている   砂糖精製会社)の事務所のために、この建築事務所は中央ジャワのヒンドゥー教-仏教寺院から借用した装飾モチーフで飾られた近代主義的建築を設計している。また、ダルモ地域において、この建築事務所は、上述した建築物とは全く異なった様式で三つの建築物を設計した。それは、セントルイス学校及び修道院サンタマリア学校及び修道院、そしてカトリック大聖堂(すべて    年代に設計)の三つである。それらは、我々に一種のアールデコ様式、あるいは一種の新古典主義から近代への過渡的な様式を想起させる、幾何学的帯飾りや繰形で装飾された近代的建築物である(この建築様式は、ジュムバタン・メラ地域の外縁部に位置し、これらよりは新古典主義的な趣が強いが、今日ではニアガ-パウラワン銀行ビルとして知られる事務所の設計においても実践されている)。こうした独特の近代建築様式のアレンジは、    年に公式に祝典が行われた(最初の設計は         年になされているが、変更を受けてきた)G.C.シトロエンによるスラバヤ市庁の設計にも見られる。シトロエンは建築様式の多様性という点において、上述の建築事務所と類似している。ダルモ地域のある病院における彼の設計は、実質的には無装飾であり、装飾や繰り形はこの建築物においては全く目立たない。州政府ビル      を設計した建築家レメイ       もこういった建築家の範疇にはいる。彼の設計は、デュドックによるヒルベルスム市庁舎に非常に類似しており、確かにヘンリー・マクレーン・ポント                     設計の   (バンドン工科大学)とかなりの類似点を示すマランの高校における設計とは著しく対照的である。

 そのスタイルに強い一貫性を持った建築家達も大勢いる。我々は、ジョブ&スプレイ             建築事務所や   建築事務所、あるいはウィースマ          や B.V.デ・ビスタリニ                  そしてレメイといった個人建築家達を挙げられるだろう。ジョブ&スプレイ建築事務所は見たところ、インドネシアの伝統的建築を非常に好んでいる。彼らのデザインは近代的かつ伝統的である。実例として、かつては銀行役員の住宅として設計されたが、現在は博物館(タントゥラール          博物館)に改造されているものやタマン・ビントロ               通りの住宅が挙げられる。そこには美しい様式の結合がある。   事務所は、今日、インテルナシオ            として知られる貿易会社事務所の設計にみられるような近代主義的様式がいっそう強い。装飾はきわめて乏しく、建物の機能的要素(           や換気装置のような)に対する必須の解決法としてのみ表現される。バスキ・ラマット               通りにあったこの建築事務所の設計によるもののひとつは取り壊されている(今日、そこには多層階の銀行がある)。それは、美しいキュービズム様式で設計された事務所だったが、波状のプランとファサードを持ち、キエフホーク          ハウジングにおけるアウト     のデザインと多くの類似点を持っていた。このキュービスト的方法は、グンテンカリ             通りのクラブハウス(現在、バライ・サハバット               として知られている)やエムボン・ウング              通りのキリスト教学校を設計したB.V.デ・ビスタリニによっても実践されている。学校におけるデザインはよりキュービスト的であるが、クラブハウスはそれほどキュービスト的ではない。ビスタリニはシトロエンが建築物の設計において実践した対照的な表現を行ってはいない。近代様式として分類されるこうした建築家達の名前や作品は、         年代に設計・建設された。しかし、それは建築家ウィースマにはあてはまらない。彼の設計は実質的には  世紀の最初の  年から始まっているが、彼はグラハディのちょうど   メートルほど東に位置するバライ・ペムダ              ビル(    )とジュムバタン・メラ地域のカトリック教会(    年建設)の両方共に新古典様式からのモチーフを豊富に用いている。

 オランダ人建築家による建築作品目録を作成する際に、こうしたコロニアル建築に関して、現在二つの問題を指摘しておくことが適切だろう。  世紀、スラバヤの建築物は公共事業部の職員、またはジャカルタか、あるいはオランダで実際に設計している建築家のどちらかによって設計されていた、と述べた。建築物の設計は職業建築家のみに認可された仕事ではなかった。この慣習は  世紀に入ってずっと続いている。  世紀前半のカンポンやスラバヤ郊外の村落において、都市の中心地の建築物と共通点のある新古典様式の建築物の存在を目撃することができる。問題は、こういった建築物が職業建築家によって設計されたのか、それともその州の行政部職員によって設計されたのか、ということである。前者は実質的には行っていない。一方、後者についても上述の地域へのアクセスの可能性があったかどうかがいまだに疑問である。最もありそうなのはスラバヤの現地の人々がデザインしたということである。建設労働者として自分自身で経験し、建築物を注意深く観察して質を高めることによって、こうした現地の人々は、カンポンの住民や村民の中で一種の職業建築家になった(この方法は今日でもまだ実際に多くみられる)。その結果、例えば、カンポン・ブブタン         とプンガンポン           などでは新古典様式の要素が豊富なのである。第二次世界大戦の終わりまでスラバヤの外部の村落であったシワラン・クルト              ,クラムピス・ンガセム                とグバン        でも、同様の建築物をみることができる。こういった村落の建築物のいくつかは、新古典的要素と伝統的要素を結合させようとさえしている。上述の証拠はすべて、ある建築様式を実践する技術がオランダ人でない建築家から学ばれ、実践されていることを示しているのである。

 こうした能力については、インドネシア独立の為にオランダ人建築家が徹底的に減らされた時代である    年代に著しい証拠を残している。エムボン・プロソ              通りの住宅やパサール・ウォノクロモ                (ウォノコロモ市場)はイェンキ様式             (すなわちヤンキー様式 )として知られ、特色づけられている。この様式は、インドネシア人独自の発明であった。これには、スラバヤ、更にインドネシアのオランダ人が表現したあらゆる建築様式がほとんど参照されていないのである。    年代以後、インドネシアの近代建築はオランダ近代主義を置き去りにし、アメリカ近代主義へとその方向を転換した。さらに驚くことに、この様式はアメリカ人でなくインドネシア人によって導入されたのであった。現在、コロニアル建築はその破壊と記憶が主題となりつつある。そのことは我々をコロニアル建築の第二の問題、つまり、建築物の保存へと導くのである。

 スラバヤにおいて、保存はまだその初期段階にある。スラバヤの         年のマスタープランでは、保存の資格を有する建築物をリストに挙げているが、実質的には実際の活動は全く真剣に行われていない。その結果、重要な建築物は取り壊され、ダルモ地域のような環境は、高層建築の建設と機能の変化によって脅かされてきた。保存に関する実際の活動は、 度の調査と 度の修理が    年に始められたのみである。   (スラバヤ工科大学)と        (スラバヤ観光事業発展委員会)間の協力によってジュムバタン・メラ地域とトゥンジュンガン地域の一部の  の建築物が調査され、リストが作成された。現在、このリストはスラバヤの保存活動をする立法会議のための基礎データの一部となっている。    年代のクンバン・ジュプン               通り(この地域の主要幹線道路の一つ、「日本の花」という意味)の拡張や現在のバスターミナルのちょうど北にあるスーパーブロックの建設のため(このバスターミナルは新しい場所に移動される予定で、その位置はこのスーパーブロックの街区になるだろう)、ジュムバタン・メラ地域を保存するのは見たところ困難である。    年初旬、ある民間銀行(ニアガ銀行           )の二つの支店(一つはパウラワン通り、もう一つはラヤ・ダルモ            通りにある)を、また    年にはトゥンジュンガン           通りにある別の銀行(ハガキタ銀行         )を修復するという決定は、スラバヤのコロニアル建築保存を特徴づけている。    年 月、東ジャワ知事とスラバヤ市長がカリマス川沿いに研修旅行を行った。旅行の終わりには、両者ともカリマス川の可能性に感銘を受け、スラバヤにおける輸送手段と観光名物のひとつとしてカリマス川を再生させる、という案に着手した。また、彼らには、カリマス川沿いの建築物のファサードを川に面するようにしよう、という案もある。そして、    年 月中旬、ついに情報相はアムペル・モスク              の修復の仕上げを開始した。現在、スラバヤでは保存に関する叫び声は大きくなっている。それは、    年 月  日に行われるスラバヤ700回記念祝典への貴重な贈り物になっていくのだろうか。(訳 荒 仁 岩本聰)








2022年6月12日日曜日

ホームレス願望!?,21世紀を住む Vol. 19, ハウジングガイド・ネットワーク, 20030710

  ホームレス願望!?,21世紀を住む Vol. 19 ハウジングガイド・ネットワーク, 20030710

ハウジングガイド 21世紀を住む

ホームレス願望?

布野修司

 

一応「住宅建築」の専門家である。卒業したのが、日本の戦後住宅の雛型「2DK」住宅を設計した研究室で、なんとなく住宅を専門に考えることになった。これまで書いてきたのはほとんど住宅に関する本だ。しかし、「住まい」の専門家かというと、いささか恥ずかしい。家のことなど相棒にまかせっきりだからである。それにあんまり住宅に執着がない。

『住宅戦争』という本を10年以上も前に書いたけれど、「人生のために住宅があるのではなく、住宅のために人生がある。全く転倒してしまっている。どこかおかしい。」というのがテーマだ。その本にこっそり自分の住宅遍歴を書いたのだが、「藁葺き屋根の民家」で生まれ、「公営住宅」で育ち、大学入学後は「寮」、「賄い付き下宿」、「設備共用のアパート」、結婚して、「鉄筋賃貸アパート」、「民間マンショ」ン、「公団分譲住宅」と住み替えてきた。俗に「方荘号字(ほうそうごうじ)」といって、「○○様方」→「○○荘」→「○○号」→「字○○」というのが「住み替え双六」で、どこかに庭付きの一戸建てを建てれば、一応「あがり」の筈であった。ところが、京都に移って「宿舎」住まいということで「振り出し」に戻ってしまった。今は借家だけれど、共用庭を囲む「テラスハウス」に住んで、専用庭で人参やオクラをつくるまで戻った。しかし、この先どうするのかあんまり展望はない。

若い頃、発展途上国の住宅事情に触れたのが大きいのかもしれない。カンポンと呼ばれるインドネシアの住宅地に通いだしてもう四半世紀になる。貧しいけれど活気がある。コミュニティ組織がしっかりしていて、相互扶助の仕組みがちゃんとある。仕事も分け合う、今風に言うと、ワークシェアリングが行われている。感心したのは、コアハウスと呼ばれる水回りと一室だけの、しかもスケルトン(骨組み)だけの住宅をまず建てて、徐々に住宅を完成させていくやり方である。住宅を所有することのみに固執するのは間違いではと思った。柳田国男に「人間必ずしも住家を持たざること」(「山の人生」)という文章もある。

『カンポンの世界』では、カンポンの貧しいけれど豊かな世界について書いた。カンポンとはムラという意味で、カンポンガンというとイナカモン(田舎者)というニュアンスである。大都市のど真ん中の住宅地もカンポンという。このカンポン、なんとコンパウンド(囲い地)という英語の語源である。以来、世界中の様々な居住地を見て歩いている。

時々、理想の住宅とは何か、と考える。答えは「ホテル」である。全てのサーヴィスが完備していて、自由に暮らせる。世界中を泊まり歩けたらどんなに素晴らしいだろう。しかし、大金持ちならいざしらず、普通の人はそうはいかない。ホテルに住むためには、例えば、昼間は他人の家に行って、ベッド・メイキングしたり、掃除をしなくては生計が成り立たない。ホテル住まいは容易ではない。いっそ気ままに家を出て街をさまようのはどうか、などと思って、口を手で押さえる。

 

建築評論家。アジア各地で住宅、都市に関する調査活動を展開。一九四九年、島根県生まれ。東京大学工学部建築学科を卒業して、同助手、東洋大学助教授などを経て、現在京都大学大学院助教授。生活空間設計学専攻。主な論文・著作物に、『カンポンの世界』,パルコ出版,1991:『住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論』,朝日新聞社,1997年:『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』,建築資料研究社,2000年:『布野修司建築論集Ⅰ~Ⅲ』,彰国社,1998年:『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学、学位請求論文),1987  日本建築学会賞受賞(1991)』など。