追悼・宮内康
布野修司
建築家、宮内康が逝った。一九九二年一〇月三日、午後八時。享年五五才。
宮内康といえば、「日本寄せ場学会」の会員であれば、あるいは本誌の読者であれば、さらに山谷の労働者諸君であればもちろんご存じであろう。山谷労働者福祉会館の設計者であり、その企画から竣工に至るまでなくてはならぬ建築家であった。また、「寄せ場」の現実を真正面から見つめ続ける建築家であった。僕らはまたしても偉大な友人を、リーダーを失ったことになる。実に悲しい。
五月一二日の入院以来、経過を知らされていたものにとっては、遠からずこの日が来ることは予感もし、覚悟していたことであったが、それにしても早すぎる。若すぎる。残念である。
宮内康さん(本名は、康夫、康(こう)は言うなればペンネーム。何故か、本人自ら「康」の名を好み、みんなも「康さん、康さん」と呼んだ。)は、神戸で生まれ、長野県の飯田で育った。高校の一年先輩に、建築家、原広司がいる。東京大学の建築学科、吉武・鈴木研究室で建築計画を専攻し、建築家としての道を歩み始める。大学院時代の研究室における設計活動、あるいは、原広司、香山寿夫らと集団を組んだ「RAS」(設計事務所名)での活動がその母胎になっている。しかし、僕のみるところ、康さんがオーソドックスな建築家になることを志した形跡はない。
何故、建築を選んだのか、今にして思うと残念なのであるが、本人に聞いたことが無い。僕の知る限り、康さんは、建築を狭い限定した枠組みで語るのを極度に嫌った。一九七六年の暮れに、「同時代建築研究会」(通称「同建」。当初、「昭和建築研究会」と仮称)を始めるのであるが、「建築」じゃないんだ、「時代」を語りたいんだ、というのが口癖であった。僕自身は、「同建」の結成からのつきあいなのであるが、少なくとも、建築を空間的にも時間的にもより広大な視野から捉え直す意味をことあるごとに康さんから学んだように思う。
考えてみれば、康さんの建築界におけるデビューは「建築批評」であった。その批評あるいは建築論の展開は、六〇年代初頭に建築界の注目を集める。おそらく、六〇年安保の体験が決定的だったと思う。また、続いて、六八年が、そして自ら引き受けることになった理科大闘争が決定的だったと思う。その建築論の展開は全く新たな建築のあり方を予感させるそんな迫力があった。六〇年代における評論をまとめたのが『怨恨のユートピア』(井上書院)である。
『怨恨のユートピア』は、多くの若い建築家や学生に読まれた。もちろん、建築の分野に限らないのであるが、宮内康の名はこの一書によって広く知られることとなったといっていい。磯崎新の『空間へ』、原広司の『建築に何が可能か』、長谷川尭の『神殿か獄舎か』と並んで僕らの必読書となったのである。
何よりも言葉が鮮烈であった。宮内康は、ラディカルな建築家として生き続けたのであるが、必ずしもアジテーターであったわけではない。文字どおり、建築を根源的に見つめる眼と言葉がその魅力であった。『怨恨のユートピア』には、「遊戯的建築論」など僕らの想像力をかき立てた珠玉のような文章が収められている。
建築批評家としてみると、宮内康の著作は決して多くない。単行本としては『風景を撃て』(相模書房)があるだけである。様々なメディアに書き続けられた原稿は第三の建築論集として纏められる機会を失ったのである。後は、同時代研究会編の『悲喜劇・一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室)など共著となる。同じく、同時代建築研究会編の『現代建築』(新曜社 近刊)が生前上梓できなかったのはいかにも残念であった。
六八年において、社会変革へのラディカリズムと建築との絶対的裂け目を確認したのだ、と、「アートとしての建築」へと赴いたのが、あるいは「建築」を自律した平面に仮構することによって「建築」の表現に拘り続けたのが磯崎新であり、原広司である。それに対して、裂け目を認めようとせず、全く新たな建築のあり方を深いところで考え続けてきたのが宮内康である。もっと書いて欲しい、という期待は常に宮内康に注がれ続けたのであるが、もとよりその作業は容易なことではなかったように思う。
極めて、大きかったのは、理科大との裁判闘争である。その経緯については、記録集『鉄格子の大学から』もあるし、『風景を撃て』にも詳しい。知られるように、彼の裁判闘争は勝利であった。当時「造反教師」と呼ばれた友人達の裁判の中でほとんど唯一の勝訴である。にも関わらず、宮内康は大学を辞めねばならなかった。苦渋の決断があった。彼は、その後のかなりの時間を救援連絡会議の事務局を引き受けることにおいて割くことになるのである。
建築家としての活動の場は池袋、そして鴬谷に置かれた。当初、「設計工房」、続いて「AURA設計工房」と称し、数年前から「宮内康建築工房」を名乗った。イメージは、梁山泊である。千客万来、談論風発の雰囲気を彼は好んだ。酒を愛し、議論を愛した。議論を肴に酒を飲むのが何よりも好きであった。また、そうした宮内康を愛する仲間がいつも集まってきた。
作品はもちろん数多い。住宅が多いのであるが病院や事務所など妙に味のある作品を残している。この作品という言い方を康さんは嫌ったが宮内康風がどこかに感じられる仕事ばかりである。つい最近発表された「数理技研 オープンシステム研究所」も康さんらしい。近年の代表作といっていい出来映えを示している。天井輻射冷暖房を取り入れるなど他に先駆けた工夫もある。
しかし、振り返って代表作となるのは、やはり「山谷労働者福祉会館」ではないか。寿町、釜ケ崎と「寄せ場」三部作になればいい、というのが希望であった。この「山谷労働者福祉会館」の意義については、いくら強調してもしすぎることはない。資金も労働もほとんど自前で建設がなされたその行為自体が、またそのプロセスが、今日の建築界のあり方に対する異議申し立てになっているのである。康さんは結局最後まで異議申し立ての建築家だったのである。
そのプロセスとそれを支えた諸関係は自ずとそのデザインに現れる。ベルギーの建築家、ルシアン・クロールが一目見て絶賛したのも、共感する臭いを一瞬のうちに感じとったからであろう。
建築ジャーナリズムの「山谷労働者福祉会館」に対する反応は鈍かったように思う。バブルで浮かれるポストモダン・デザインの百鬼夜行を追いかけるのに忙しかったのだ。しかし、遅ればせながら、「建築フォーラム(AF)賞」という賞が宮内康を代表とする「山谷労働者福祉会館」の建設に対して送られることになった。おそらく、宮内康にとって初の受賞ではないか。しかし、これまた間に合わなかった(一一月一九日受賞式)。つくづく、不運である。
遺作になったのが、七戸町立美術館(青森県)である。無念ながら、その完成を待たずに逝くことになった。かなり大きな公共建築の仕事であり、事務所の経営も軌道に乗り始めた矢先の死であった。ただ、少なくともその完成までは、その遺志を継ぎながら、宮内康建築工房は運営されつづける予定である。
合掌