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2024年6月4日火曜日

X twitter 2024年6月2日  共同体論

 

大塚久雄『共同体の基礎理論』をひっぱりだした。いかにも古色蒼然としているが、資本主義社会以前は、全社会はあまたの「共同体」=「局所的小宇宙」(マルクス)の連結体として構成されていたージャワの「デッサ」や旧ロシアの「ミール」が「共同体」と同時に「世界」をいみしたことを思えーと書く。

ジャワの「デッサ」とはdesa、インドネシアでは市町村の村で行政単位である。いわゆるジャワの伝統的村落共同体をいう。スンアダではクルラハンkerlahanである。デサは果たして「世界」?もとはサンスクリットで地方。世界はヌガラ。オーストロネシア語ではバヌア(ワヌア)詳細は拙著『スラバヤ』参照

ロシアのミール共同体は?ミール(Мир)は、ソビエト連邦の宇宙ステーション(1986年2月~2001年3月)の名であるが、ロシア語で「平和」「世界」を意味するという。この名が村落共同体の名に使われてきたことは確かに興味深い。マルクスがその可能性について注目してきたことは知られてきたのである。

佐々木隆治『カール・マルクスー「資本主義」と闘った社会思想家』(2016)は、晩期マルクスは物質代謝論から共同体論へ向かい、その到達点は「ザスリーチへの手紙」(1881)だという。ロシアの革命家ヴェラ・ザスーリチは、ロシア共同体は没落するのか?社会主義へ発展できるのか?と問うたのである。

ザスーリチへのマルクスへの解答:単線的、近代主義的発展史観を明確に否定。英国の植民地主義がインドの前近代的社会制度を破壊するのを進歩とした見解を撤回・原住民を後退させる文化破壊と批判。前近代共同体の生命力を評価・ロシア共同体を「原始共同体」と異なる「農耕共同体」として高く評価。

マルクスは、最晩年、コヴァレフスキー『共同体的土地使用』、シーウェル『インドの分析的歴史』、マニー『ジャワ』などの共同体の生命力(保守性ではなく)に関する箇所を抜粋ノートに記しているという(佐々木隆治)。マニー『ジャワ』はすぐには見つからない!けれど。誰か教示を!

大塚久雄「共同体の基礎論」の核にあるのはマックス・ヴェーバーの共同体の構造的二重性(内と外:内部経済と外部経済)理論である。その内部過程は「共同態規制」を媒介として維持されていく。その基本原理は共同態的「平等」Gleichheit法則であるーあの「恭順」Pietät意識をおもえー。Pietät信仰心?

ヴェーバーの共同体の構造的二重性(内と外:内部経済と外部経済)理論:共同体は、外部からの侵害や錯乱に対して防衛することが必須である。物質的基礎である「土地」は独占=封鎖が基本原理である。内部は規制・保護、外部は他所者・敵として排除される。対内道徳vs対外道徳の構造的二重性である。

ヴェーバーの共同体の構造的二重性理論:全社会が構造的二重性をもつ諸「共同体」によって構成されるとすれば、構成単位である諸「共同体」相互の中間に「共同体」の規制力の及ばぬ一種の社会的真空地帯がかたちづくられることは明らかであろうーいわゆる「村はちぶ」をおもえー、と大塚久雄はいう。

共同体の構造的二重性:山本理顕の「閾論」が「共同体」相互の中間の社会的真空地帯に関わっていることは明らかであろう。理顕が依拠するハンナ・アレントのいうノーマンズ・ランド(無主の土地)である。ただ、この社会的真空地帯の克服が資本主義形成の地盤をつくってきたと大塚久雄がいうのは鋭い?



放水装置,都市(東京)のディテール(1),春秋,春秋社,198810

 都市(東京)のディテール 『春秋』 春秋社 198810月~19899

 

放水装置,都市(東京)のディテール(1),春秋,春秋社,198810




標識,都市(東京)のディテール(2),春秋,春秋社,198811

屋台,都市(東京)のディテール(3),春秋,春秋社,198812

山,都市(東京)のディテール(4),春秋,春秋社,198902

納骨堂,都市(東京)のディテール(5),春秋,春秋社,198903

井戸,都市(東京)のディテール(6),春秋,春秋社,198904

ゴミ箱,都市(東京)のディテール(7),春秋,春秋社,198905

小屋,都市(東京)のディテール(8),春秋,春秋社,198906

鳩おどし,都市(東京)のディテール(9),春秋,春秋社,198907

生産緑地,都市(東京)のディテール(10),春秋,春秋社,198909

 

2024年6月1日土曜日

再開発の21世紀像を問う 伊東豊雄・藤本壮介・平田晃久・佐藤淳『20XXの建築原理へ』、書評、共同通信、200911

  東京都心の一等地、伊東豊雄の事務所の隣にあった病院が再開発のために壊された。築40年、老朽化したとはいえ、いまだ十分使用に耐える建物が無残に打ち砕かれ、日ごとにがれきの山と化していく姿を見て、建築家の心は痛んだ。更地となった敷地には、やがて、高層住宅やオフィスビルが林立するであろう。これでいいのか。本書は、世界的に著名な建築家のごく素朴な自問から始まる。

 建築家は、同じ敷地に架空のプロジェクトを立ち上げ、三人の新進気鋭の建築家を招集する。そして、一年にわたる濃密な議論の末に提案がまとめられた。それを評価する討論には、日本を代表する二人の建築家を招いた。この一年の議論の全過程を記録したドキュメントが本書である。

 小著ではあるけれど、建築をめぐる最も知的で良質な議論がここにある。そして建築の原理と手法をめぐる真摯な思索と提案がある。

 半世紀前、本書の若手と同じ年ごろの若い建築家たちが、先を争って次々に都市プロジェクト(「塔状都市」「海上都市」「垂直壁都市」…)を発表したのを思い出す。1960年代の日本は高度成長を続け、提案はさまざまに実現していった。その末が、われわれが現在目にする高層ビルの林立する風景である。架空のプロジェクトが目指すのは全く異なった都市の風景である。

 若い建築家たちの提案は一見、かたちをもてあそんでいるように見える。しかし、追求されるのは全く新たな環境と建築との関係なのである。あらかじめ拒否されているのは、全体を経済原理によって一元的に決定するシステムである。「巨樹」のような建築、「山」のような建築、自然と共生する生命体のような建築が共通に目指されているように思える。

 身近な環境を見つめなおすことで、日本の建築のあり方が大きく転換していく、そんな予感が本書にはある。問題は、しかし、その先にある。若い建築家たちのこの思考実験が数多くに共有され、具体的なプロジェクトに実際に生かされていくことを期待したい。(布野修司・滋賀県立大教授)

 (INAX出版・2205円)


新潟日報 20091108
福井新聞 20091101