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2024年9月28日土曜日

nLDKの誕生 近代日本の都市住宅事情,(『都市の暮らしの民俗学3 都市の生活リズム』,新谷尚紀,岩本通弥編,吉川弘文館 所収),200612

LDKの誕生 近代日本の都市住宅事情,(『都市の暮らしの民俗学3 都市の生活リズム』,新谷尚紀,岩本通弥編,吉川弘文館 所収),200612

 

LDKの誕生-近代日本の都市住宅事情-

布野修司

 

はじめにーーー日本の住宅-2005年

一冊のパンフレットから始めよう。

 『住宅情報タウンズ』京都・滋賀版(平成一七年六月八日発行、発行:株式会社リクルート)、表紙を合わせて全一一六頁である。隔週刊で、書店や不動産販売店のみならずコンビニエンス・ストア、駅、各種チェーン店に販売台が設置され無料配布される。京都府と滋賀県をA~Kの一一地区に分けて、「一戸建て・土地」と「マンション」のそれぞれについて「物件」が「間取り」付きで掲載されている。極めて限定された地域の限定された情報にすぎないが、日本の住宅事情の一断面をみることができる。発行元は、自らも住宅販売を行う子会社をもつ大手の住宅情報会社であり、日本全国をカヴァーしている。インターネットの住宅情報サイトを用いれば、日本全国の住宅を概観することも不可能ではないが、その必要はないだろう。現代日本の住宅の「型」にそう大きな地域差があるわけではない。日本の住宅のあり方、その空間の「型」をリードしているのはプレファブ・メーカーであり、大手の住宅販売会社なのである。

このパンフレットに、カタログに先立って「特別レポート」として掲載されているのは、大手の住宅メーカー、マンション販売会社の「物件」である。「一戸建て・土地」と「マンション」について、典型的なものを挙げると図1、2のようである。改めて詳述する必要はない。いずれも身近に知っている「間取り」である。多少のヴァリエーションはあるけれど、3LDK,LDKという記号で示すことができ、事実そのように表示されている。強いて注目すべき点を確認しておくとすれば、nLDKという形で表記される・である。すなわち、リビング・ダイニングLDとキッチンKが分離されていることである。

カタログを眼で追うといささかうんざりする。歴史的古都京都の「物件」を含むことで、狭い間口の長屋建て風の都市型住宅が目立つくらいで、後は、驚くべきワンパターンである(図3)。敷地面積・建築面積、nLDKという記号、立地、価格、建設年の情報があれば、その住宅形態は間取りや写真がなくてもおよそイメージできてしまうのである。

このnLDKという住宅形式は、どのようにして成立し、日本に定着していったのか、そして、いささか大風呂敷ではあるが、その日本住居史上の位置づけはどのようなものか、それが本稿のテーマである。

 

1.「51C」の誕生

 

廃墟の光芒---バラックの海

一九四五年八月一五日、東京、大阪など日本の大都市は、敗戦直前に受けた米軍のB29爆撃機による空爆によって市街地の大半が焼かれ、まるで廃墟のようであった。しかし、その廃墟はすぐさまバラックで覆われ埋め尽くされることとなる。人々はシェルターなしに生きていくことはできない。とりあえず、何処かに住着かなければならなかった。あり合わせの材料で次々に建てられたバラックが都市全体を埋め尽くしたのは当然の成り行きであった。

戦災によって焼失した住宅が二四〇余万戸、疎開などで取り壊された住宅が六〇余万戸、戦時中に建設さるべくして建設されなかったもの、引揚者用などを合わせると、戦後まもなく全国で不足していた住宅は四二〇万戸と推定される(一九四六年四月)。

戦後まもなく、人々はどのような住居を建て、住んだのか、その創意工夫は、今日振り返ってみると、実に逞しく、興味深い。戦時中の地下壕をそのまま利用した「壕舎住宅」、下水管などの埋設管を利用した「鉄管住宅」、廃車を住居とした「汽車住宅」や「バス住宅」、材木が足りないので梁を省いてつくった「三角住宅」、・・・、なかなかユニークな住宅のかたちがあった。「移動家屋」と称して車の着いた住宅を考案して貸し出そうとした人もいる[1]。モビール・ハウスの先駆である。住居表示や停留所の看板、缶詰の缶などをつなぎ合わせたブリキで屋根を葺くなど、身近に入手できる材料を利用するのは当然であった。今日で言えば、廃物利用のリサイクルである。

しかし、この人々の創意工夫が新たな日本の住宅建設に結びつけられることはなかった。実際、深刻な「住宅問題」の解決を個々人に委ねることは不可能であり、圧倒的な住宅不足を前にして、短期間に大量の住宅をどのように供給するかは、日本国家にとっての大問題であった。日本の戦後住宅のあり方を規定したのは、この短期間に大量に住宅を供給するという枠組み、条件である。

結果として生み出されたのが「51C(ゴジュウイチ・シー)」であった。鉄道ファンに愛された蒸気機関車の型番D51(デゴイチ)ならぬ「51C」である。一般には耳慣れない「51C」とは、公営(村営、町営、市営、府営、都営)住宅の平面型(間取り)の一九五一年のC型という意味である。他にA型、B型があった。

わかりやすく言えば、「51C」とは2DK(ニー・ディー・ケー)の原型である。すなわち、DK=ダイニング・キッチンという日本独特の空間を生み出す元になったのが「51C」なのである。「51C」が特にとりあげられ、問題にされるのは、それ故にであり、結局、この「51C」がnLDKに結びついていくからである。

 

DKの誕生

この「51C」がどのように生み出されたのかについては、その提案者の一人である鈴木成文[2]が繰り返し振り返っている。西山夘三の『国民住居論攷』[3]などその理論的背景[4]についてここで詳述する余裕はないが、要するに、ある制約条件(三五平米という限られた面積)において、「食べる場所と寝る場所を分ける」(食寝分離)、「寝室を分ける(二部屋確保する)」(就寝分離)という単純な二つのルールをもとに設計されたのが「51C」型平面(間取り)である(図4)。西山夘三は、戦時中に関西、大阪を中心として大量の都市住宅調査、いわゆる「住まい方調査」(間取りをどのように用いているのかを中心にする調査)を行い、狭小であるにも関わらず以上のようなルール、法則が守られていることを明らかにしていた。また、『これからの住まい』[5]を書いて、戦後日本の住まいのあり方についてその指針を世に問うていた。2つのルールを厳守することにおいて、一定の面積は確保するという強い方針がそこにはある。「51C」の設計はその方針に沿うものだったといっていい。

51C」を特徴づけるのが、「食事もできる台所」=ダイニング・キッチン(DK)である。ある意味では苦肉の策であった。51A51B型が同時に提案されているように、唯一の解答とは言えないけれど、二つのルールを前提にすれば誰が設計しても大きな違いはない。しかし、そこには、一部屋を壁で囲い独立性の高い部屋にする、台所を少し拡げて食事もとれるようにする、台所ともう一部屋はつなげて使えるようにする、という細かな配慮が込められていた。「51C」が想定したのは、都市における若い勤労者夫婦からなる核家族である。共稼ぎが多いとすれば、朝食は簡単にとれればいいのではないか、という判断もあった。

一九五五年に、住宅供給機関として日本住宅公団が設立され、「51C」を原型とする2DK形式の住宅が標準住戸として採用される。そして、この2DKは、2DKを階段室を挟んで並べ(バッテリー型という)積み重ねる集合住宅形式、すなわち「団地」という形式とともに全国に蔓延することになった。それどころか、「51C」によって生み出されたこのDKという空間形式は、日本の近代住宅(戦後住宅)の象徴として広範に受容れられていく。日本住宅の封建制を象徴する「玄関」や「床の間」に代わって、DKが「住宅近代化」のシンボルとなるのである。戦後まもなく、浜口ミホは、『日本住宅の封建制』[6]を書いて、「玄関」「床の間」の追放を訴えた。当時、実際に「玄関」も「床の間」もない住宅を設計した建築家は少なくない。替わって推奨すべきものとなったのがDKであり、「モダンリビング」であった。

一九五〇年には住宅金融公庫法が成立し、戸建住宅の復興が軌道にのり始める。本来、集合住宅の住戸モデルとして提案された「51C」であるが、DKは家事労働軽減の空間的提案として、都市のみならず農村部にも導入され普及していくのである。

 

51C」からnLDK

この標準化された画一的な住宅形式とそれが建ち並ぶ「団地」の光景は、戦後日本の象徴のひとつである。建設当初、「花の団地族」という言葉とともにある種の憧憬の念をもって受容れられたことは戦後史のひとコマである。ただ、その後の日本の住まいは必ずしも豊かに展開してきたとはいい難い。

日本住宅の標準モデルとしての「51C」以降の展開を単純に図式化すれば以下のようになる。「51C」に結晶化した「建築家」の創意は、規模(面積)拡大の論理へと接続されていくのである。

単純化すると、「食寝分離」「隔離就寝」→「公私室分離」→「個室確保」という流れとなる。

「食」と「寝」の分離が実現した後は、「公」と「私」の分離、すなわち、住居内における家族団らんの場としてのリビング(居間)=Lの確保が目指された。こうして2LDKあるいは1LDKというタイプが供給されるようになる。「モダンリビング」と呼ばれた居間=LDKとともに日本の戦後住宅のもうひとつの象徴である。住宅の工業生産化を目指すもうひとつの回路においては早くから提案されてきた。

そして、家族の集う公的な場としてのリビングが確保された次の段階として、家族成員個々の個室の確保が目指された。すなわちnLDKの誕生である。面積に従って個室nの数を増やしていくのである。

日本住宅公団の供給した住宅の平面型(間取り)を追いかけてみればはっきりする。一九六〇年代前半には2DKとともに3DK3LDKが一般的となる。nLDKという標準型は「51C」以降の約一〇年で確立するのである。

 

「最小限住宅」

戦後まもなく、圧倒的住宅不足を解消する大量建設の前提として問われていたのは、どのような住宅を供給するのか、である。「51C」以外に戦後日本の住宅モデルの提案がなかったわけではない。新たな住宅や生活のイメージを求めて、当時、建築界では、「小住宅」コンペ(競技設計)が相次いで行われ、多くの若い建築家たちが情熱を込めて参加している。「最小限住宅」の様々な提案があるし、例えば、水回りなどユーティリティをまとめて配置して残りは基本的に一室とする「ワンルーム・コア」の提案は今日振り返っても素直である。

具体的な住居形式の追求は、主として二つの方向で行われた。ひとつは、以上のように「51C」を生んだ、公的な住宅供給を前提とした回路における新たな住宅モデルの提示である。もうひとつは、住宅の工業生産化を前提とした回路における、新たな住宅プロトタイプの提示である。もちろん、二つの方向は最初から分離していたわけではない。いずれも、住宅の大量供給が前提であり目標であった。しかし、一方が、集合住宅を対象として、住まい方の標準化との対応で住宅の型を考えたのに対して、他方は、建築家が直接アプローチしうる戸建て住宅を対象とし、住宅生産技術にウエイトを置いていたという違いがある[7]

住宅生産の工業化を目指す回路においても様々な平面形式が提案されたが、DKという発想は希薄である。量の問題を第一義的に前提とするのでなければ、解答は無限である。例えば、「住宅No.1」から番号を振りながら百を超える個人住宅を設計し続けた池辺陽[8]がいる。住宅は本来、それぞれの家族のかたちに合わせて、その要求に従ってつくられればいい、住宅を単に平面形式に還元するのではなく、材料、設備、構造、形態を含めてトータルに捉える視点、限られた条件においても、生活の質を落とさない「近代化」へ向けての提案を個々の住宅設計において積み重ねることによってしか問題は解決しないという姿勢がそこにはある。個を充実しながら全体へ向かうか、標準化によって全体に対応するか、「建築家」のアプローチにも大きな違いはあったのである[9]。「51C」が前提にしていたのは明らかにひとつの「型」の提案である[10]

 

2.「nLDK家族」

住宅の型と家族の型

しかし、問題は、この住宅の型が何故かくも画一的に受容れられていったかである。言うまでもなく、それを受容れる家族にも一定の型があった(あるいは成立した)からである。

戦前期の日本は、一般に「家父長制」を基本とし、いわゆる「大家族制」を採っていたとされる。「核家族」という形態は、戦前期のみならず、江戸時代に遡っても少なくなかったけれど、明治民法(一八九八年)が規定する「家」制度が大きく家族のあり方を規定してきた。「家」制度についての議論は少なくないが、家父長(戸主権)の強さ、その先祖祭祀義務、家族の扶養義務、家督相続における直系卑属男子優先原則などを特徴とする。

具体的には、家長以下三世代が同居する拡大家族がモデルとなる。家長の座る「囲炉裏」端を中心とする農家住宅が、「大家族」に対応する住宅形式であった。明治期前半において、日本社会の八割は農村人口によって構成されており、第二次世界大戦直後でも、日本の総人口の六割は農業に従事していたのである。日本には町屋、そして長屋の伝統があるけれど、新たな都市型住宅が必要とされるのは明治以降である。

日本の近代住宅史を型に着目しながら簡単に振り返るとおよそ以下のようになる。開国から、文明開化、殖産興業の流れの中で、西洋風住宅が導入される。「洋館」と呼ばれたその新しい住宅は、しかし、基本的には「武家住宅」を基礎にしていた。すなわち、「洋館」は「武家住宅」の玄関の横に「洋間」を付け加えるかたちであった。主人(家長)の書斎、そして応接間として使われたのが「洋間」である。椅子座の導入が洋風化のひとつのシンボルとなった。「洋館」に住んだのは、もちろん、限られた上層階級である。

産業化の進展とともに都市化が起こる。大きな社会変動である。東京、大阪に「貧民窟」(スラム)が生み出されるのは1890年代のことである。流入人口を引き受けたのが「木賃宿」であり、「下宿屋」であり、「長屋」である。「長屋」の起源は江戸時代に遡るが、明治期のものは「百軒長屋」「千軒長屋」と呼ばれるほど大規模なものとなる。

やがて都市に居住する中間層、サラリーマン層が成立してくるが、彼らが住んだのが、いわゆる「中廊下式住宅」である。南面して8畳、六畳の続き間をとり、中廊下を挟んで北側に玄関、トイレ、台所、茶の間をとる。新しい型の住宅が生み出されたと言っていい。ベースとなったのは農家住宅である。しかし、それまでの農家住宅における「囲炉裏」を中心とする住居形式から「茶の間」を中心とする住居形式へ、という変化がある。都市型住居成立のひとつの萌芽である。

さらに、大正期に入って、生活改善運動、文化生活運動が展開される中で、居間中心型の住居形式、「(核)家族(家庭)本位」の住居形式が提案される。必ずしも定着したとは言えず、実際、「中廊下式住宅」は昭和戦前期まで都市型住宅の主流であり続けるが、「家」から「家庭」へという流れは徐々に一般的となっていくことになる。

一方、小住宅の系譜として長屋もいくつかの形式が現れてくる。昭和初期以降、一般庶民の住宅形式として大量に供給され出したのが、関西では「文化住宅」と呼ばれた長屋である。

いわゆる、集合住宅の形式は、早い例として、軍艦島と呼ばれた高島炭坑の労働者住宅(一九一一年)のような例が見られるが、本格的な導入の契機となったのは、同潤会による「アパートメントハウス」である。関東大震災の義援金をもとに設立(一九二三年)された同潤会は、日本最初の公的住宅機関であり、様々な事業を展開したが、その名をとりわけ高めたのが、「アパートメントハウス」事業である。青山、代官山、清洲、下谷・・など下町を中心に建設されたが、中でも興味深いのは江戸川アパートである。

単身者住宅と家族用住宅が組み合わされており、社交室など様々な共同施設が用意されている。共同生活について明確なイメージが示されていたことは記憶されている。戦後、同潤会を引き継ぐかたちで設立された日本住宅公団の団地は、nLDKを積み重ねるだけで共同生活のイメージは希薄と言わざるを得ないのである。

いささか単純化しすぎたかもしれないが、家族の容器としての住居の型はおよそ以上のようである。

日本の国土の全体を眺めれば、敗戦に至る昭和戦前期までは、江戸時代に遡りうる景観が維持され続けていたと見ていい。すなわち、農家住宅にそう大きな変化はない。都市化の進展の一方で農村の疲弊があり、地方の改善、生活改善はテーマとされてきたが、その空間形式は大きくは変わらなかった。一方、都市においては、新たな形式として、洋館、中廊下式住宅が現れ、徐々に定着していくことになるのである。

 

「近代家族」とnLDK

51C」の設計に当たっては、一定の家族像が想定されていた。すなわち、2DKという限られた面積であり、家族人数は二~四人、夫婦と若年の子からなる核家族が最も一般的な対象となるのは当然である。核家族という家族形態が以前から存在してきたことは以上にも触れた通りであるが、2DKという容器が核家族を対象としていたことの意味は大きい。

もとより、「51C」そして2DKは戦後住宅の標準型を目指したものではない。公共住宅供給の位置づけとしては、いわゆる「橋の論理」が前提であった。公共住宅に居住するのは、人生の一定期間だけであり、いずれ引越しをして移住する、公共住宅はその掛け渡しの「橋」の役割をするだけであるという論理である。「終の棲家」と考えられていたのは、「庭付き」の「一戸建住宅」である。一般にも、「方荘号字」(ホウソウゴウジ)という「住み替え双六」を「あがる」ことが平均的庶民の住居遍歴と考えられていた時代である。○○様方→○○→○○号→字(字)○番地と、最後は「持家」を建てるのが、個々人の責任というのが住宅政策の誘導方針であった。

ところが、51C→nLDKという系列は、仮の住まいではなく、「終の棲家」として定着していくことになる。戦後半世紀を経て、生まれて以来団地育ちという世代が次第に支配的になりつつあるのである。

この推移の背景には様々な要因が絡むが、大きいのは日本の家族のあり方、その制度である。家父長制に基づく大家族から近代家族(核家族)の自立、そして、家族という制度から個の自立へ向かう過程は、一方で、戦後復興と高度成長を支える産業システムの編成、労働力再生産の仕組みの形成過程でもあった。

日本全体で、世帯数を住戸数が上回るのは一九六八年(全都道府県では一九七三年)である。戦後まもなく不足していた四二〇万戸を回復するのにほぼ四半世紀を要したことになる。

何故、それだけの年月を要したかについて第一に指摘されるのは、日本全体における大規模な社会変動、都市化である。農村から大都市へ移動した層によって日本の戦後復興、高度成長は支えられることになるが、都市における急速な人口膨張は住宅不足のさらなる要因となるのである。

第二は、「大家族」世帯の世帯分離、いわゆる「核家族」化の進行、という指摘である。都市へ移動したのは、農家の次男、三男であり、彼らは都市で新たな世帯を形成するに至る。結果として、世帯数そのものが増えたために必要な住戸数もまた増加したのである。

こうして、大家族制から近代家族(核家族)制へ、家族のあり方が大きく変わる中で、その家族を受容れる容器として機能したのが、51C→nLDKの系列による空間編成であった。nLDKがかくも画一的に日本全国に蔓延した理由は、とりあえず以上のように考えることができるだろう。

 

「nLDK」批判

 少子高齢社会の到来とともに、核家族を主体とする社会編成は多くの問題を露呈し始める。個の自立という方向についての評価はともかく、顕著になったのは単身者(高齢単身者(独居老人)および晩婚化による単身者)の増大である。高齢化、晩婚化、少子化の進行によって、高齢単身者のケア(介護)の問題が浮上してくるのは当然である。高齢者の老後について「家族」が責任を持つ従来のシステムが破綻し始め、地域社会によって、あるいは公的介護によってそれをカヴァーせざるを得なくなるのである。

そこで同じように問題となるのが、nLDKを主体とする日本の都市の空間編成である。ケア付き住宅、単身者が集まって住むコレクティブ・ハウスあるいはシェア・ハウス、高齢者のためのグループ・ハウス(ホーム)など新たな住居形式が模索されるように、nLDKモデルだけでは対応できないのである。

近代家族批判をラディカルに展開してきた上野千鶴子[11]は、nLDKは、結果的に、夫婦とn-1人の子からなる家族のための容器である、という。そして、近代家族モデルを前提としてnLDKモデルによってあまりに画一的に社会空間を編成してきた「建築家」にその責任があるのではないかという[12]。そして、「51C」にその責任はなかったか、をめぐって議論も行われた[13]

「建築家」の側に大きな問題があるとすれば、課題を住戸計画という閉じた世界にのみに設定したことである。すなわち、住宅地計画、地区計画、都市計画へと空間計画を主体的に展開し得なかったことである。結果的に、単なる住戸の平面形式の提案に止まったことである。しかし、そこには、ひとり「建築家」の責任問題に帰せられない、まして「51C」の提案者を問いつめてすませられない背景がある。

すなわち、問うべきは社会全体の産業的空間編成の問題である。いくら提案があっても、それを受容れる居住者、消費者がいなければnLDKが蔓延することは無かったはずである。テーマとなるのは、空間の需要・供給のシステム、生産消費のメカニズム全体なのである。

 

3.プレファブ住宅の誕生――住宅生産消費のメカニズム

 

住宅産業の成立

日本の社会を構成する基礎的単位としての家族と住居は、以上のように、画一的にパターン化されてきたのであるが、それを決定づけたのは住宅産業の成立である。そして、その象徴となるのがプレファブ住宅の誕生である。

戦後まもなくバラックで埋め尽くされていた大都市の景観は、朝鮮戦争の特需によるビルブームとともに一変し始める。敗戦後十年を経て、『経済白書』が「戦後は終わった」と宣言した一九五五年以降、日本の高度成長期が始まる。その同じ年、日本住宅公団が設立され、本格的に住宅供給を開始するとともに2DKが全国に普及していったことは以上に述べた通りである。公団住宅の建ち並ぶ団地は、郊外住宅地として建設され、新たな住宅地の景観となるのである。

しかし、団地がカヴァーしたのは、量としてはごくわずかでしかない。団地に住んだのは「花の団地族」であり、その住居形式が蔓延するのは少し後のことである。

高度経済成長とともに、都市の膨張が始まる。いわゆる郊外スプロールである。とりわけ、首都圏における人口は著しく増加する。東京都の人口は、戦中一九四〇年に七三五万人であり、敗戦時に三四九万人に半減していたのであるが、一九六二年には一〇一八万人を超えるのである。結果として出現してきたのは、戸建住宅が建並ぶ郊外住宅地の風景である。

一九五九年は、日本の住居史の閾として記憶すべき年である。すなわち、日本にプレファブ住宅が誕生したのが一九五九年である。日本のプレファブ住宅第一号は「ミゼットハウス」と呼ばれる。

プレファブとは、プレ・ファブリケーションPre-Fabricationの略である。予めつくること、を意味する。その起源は一九世紀半ば、ロンドン万国博のクリスタルパレス(一九五一年)に遡るとされるが、プレファブ住宅の起源となる試みがなされるのは一九二〇年代である。バウハウスの初代校長W.グロピウスが提案した「トロッケン・モンタージュ・バウTrocken Montage Bau(乾式工法)」と呼ばれる構法がその嚆矢とされ、日本でも戦前期に研究されている。「乾式工法」とは、すなわち、漆喰壁や土壁など塗り壁を用いず、部材を組み立てるだけの構法で、プレファブ住宅は組立住宅とも呼ばれる。上述のように、戦後まもなくも、住宅生産の工業化の方向が追求されている。戦後建築を主導することになる前川國男が率いたMID同人による「プレモス」がその代表である。そして、工業化住宅の提案は、一五年を経て具体化されることになる。その第一号が「ミゼットハウス」なのである。

「ミゼットハウス」は、しかし、「ハウス」と呼べる代物ではなかった。わずか十一平米、三坪あまりで、庭先に建てる「勉強部屋」として売りに出されるのである。「ミゼットハウス」は、当時の住宅事情を物語っている。すなわち、庭先に小屋を建てる敷地の余裕があったこと、しかし、住宅の方には子供のための空間の余裕がなかったこと、である。一九六〇年前後、大都市周辺でも一般庶民のための住宅は基本的に平屋であったこと、また、その大半は、大工工務店によって建てられていたのである。

しかし、「ミゼットハウス」以降の二、三年の間に相次いで今日知られるプレファブ・メーカーが設立される。そして、各メーカーは、一九六〇年代を通じて成長を遂げることになる。平行して、建売住宅業者あるいは民間ディヴェロッパーが大量に住宅を供給し始めることになった。プレファブ住宅が成立するためには、すなわち工業化によって住宅を大量生産するためには、住宅の型は標準化されている必要がある。ヴァリエーションが多いと高価になる。プレファブ住宅の誕生にとって、nLDKという型の成立は好都合であり、逆にその型の一般化を強化していくことになるのである。

一九六〇年代後半には、住宅産業が成立する。プレファブ住宅メーカーによる住宅供給は、一九七〇には一〇パーセント近いシェアを占めるに至るのである。

 

大転換

こうして、日本住宅史の決定的な区切りとなるのは、一九六〇年代の一〇年である。最も象徴的なのはアルミサッシュの普及である。この十年でゼロからほぼ百パーセントとなる。要するに、住宅の気密化によって空調によって室内気候が制御されるようになった。すなわち、日本の住宅が自然との関わりを失い始めるのが一九六〇年代である。

また、日本列島から茅(藁)葺き屋根がほぼ消えることとなった。とって替わったのは、プレファブ住宅に代表される、新建材と呼ばれた工業材料を用いた住宅である。住宅生産の工業化の流れは、すなわち工具や構法、材料の変化は「伝統的」な木造住宅を大きく変質させた。木構造が変質するのみならず鉄骨造、鉄筋コンクリート(RC)造など様々な構法が導入されることによって、住宅地の風景も雑然としたものになると同時に、似通ったものとなっていく。世界中同じように生産される工業材料を用いることで、住宅地の風景-例えばその色彩-が似てくるのは当然である。住宅の地域性が失われ始めたのが一九六〇年代である。

一九六〇年代初頭以降、大都市圏を中心にニュータウン開発が開始されたことも大きい。もともとは、一九世紀末にE.ハワードによって提唱された「田園都市(ガーデン・シティ)」の理念に基づいたものであったが、日本においては、自立的な都市としてではなく、巨大な「田園郊外」、「ベッドタウン」として定着していくことになる。また、一九六〇年代末に至ると、「面開発団地」と呼ばれる高層住宅が建並ぶ住宅団地が主流となっていく。

一九六〇年代の十年は、間違いなく、有史以来の大転換期である。

その大転換の根底にあるのが、土地と住宅の分離である。本来、住宅は、それぞれの土地で、気候や地形、風土に合わせて建てられてきたのであるが、プレファブ住宅のように工場でつくられ、ただ組み立てるだけのものとなるのである。それとともに、住宅は自ら建てるものではなく買うものになる。住空間がひとつの商品となったことがはっきりするのが一九六〇年代なのである。

近代家族を容れる容器として、社会の産業的編成の空間的装置として成立し、受容れられていったのがnLDKなのである。

 

「家」の産業化

一九六〇年の一年間に、日本全国で建設された住宅は、およそ六〇万戸であった。そして、一九七三年には一年で二〇〇万戸近い住宅が建設されている(図5)。この年、全都道府県で全世帯数を全住戸数が上回ったことは前述の通りである。

そして、同じ年の突然のオイル・クライシスとともに、住宅についても「量から質へ」ということが盛んに唱えられるようになった。新規開発から既成市街地の再開発へ、高層住宅から低層住宅へ、画一性から多様性へ、というように住宅をめぐる言説のパラダイムは大きく変化するのである。

しかし、七〇年代における二度のオイルショックにも関わらず、住宅生産に関わる基本的趨勢は変わらなかったように思われる。興味深いのは、「商品化住宅の様式化」現象が顕著になったことである。画一的なプレファブ住宅には「安物」のイメージがあり、個性を売り物にする様々なスタイルの住宅が商品化されるのである。しかし、それにも関わらず平面形式としてのnLDKは揺らぐことはなかった。何故か。一言で言えば、生活そのものが標準化されているからである。また、「入母屋御殿」と呼ばれる地域の伝統、その固有性を標榜する住宅が地方で数多く建てられたことも興味深い。意匠は多様化したように見えて、ここでも、平面形式は大差がないのである。

八〇年代に入って、バブル経済が日本列島を覆う中で日本の住宅のあり方をさらに大きく主導するようになったのはプレファブ・メーカーであり、住宅生産の工業化の流れは大きく揺らぐことはない。

一九六〇年代に続いて区切りとなるのが一九八五(昭和六〇)年である。この年、年間新築戸数(フロー)のうち借家が持家を超えた。また、集合住宅が賃貸住宅を超えた。さらに、木造住宅が五割を切った。すなわち、一般的に手に入れることが出来る住居は、賃貸の非木造の集合住宅となったことが、指標としてはっきり示されるのである。

この間一貫するのは住宅を支えるテクノロジーの「進化」である。ハウス・オートメーション(HA)、ハウス・セキュリティー(HS)など、コンピューター制御による住宅機器が様々に開発されつつある。三種の神器(洗濯機、テレビ、冷蔵庫)の時代や3C(カー、カラーテレビ、クーラー)の時代に比べると、まさに隔世の感がある。住宅の設備は随分と高度になり、そして便利になった。掃除、洗濯、裁縫、炊事など家事労働の形は、家電製品の登場で大きく変わった。家事労働の時間は大幅に削減されることになったのである。

 一方、家の中での仕事は、どんどん、家の外へ追放された。すなわち、サービス産業によって代替されるようになってきた。食事の宅配サービスやハウス・クリーニングなど、家では何もすることがないほどである。その究極の形態はと問われれば、それはまるでホテルのような住まいである。ベッドメーキングからなにからなにまで、あらゆるサービスがついた住まいである。実際、そうした、ホテル型のマンションは既に建設されつつある。

 もちろん、そうした住まいが一般化していくのは簡単ではない。しかし、その前に問われるのが家族の関係である。あらゆるサービスが外化され、住居が単なる個室の集合となるとすれば、家族の結びつきの意味が改めて問われる筈だからである。

 

おわりにーーーポスト「nLDK」:集合の論理と共用空間

現在、高齢化、少子化、介護、年金・・・その社会編成システムの綻び、破綻が明らかになりつつある。nLDKという空間単位によって構成される社会が多様化する家族関係、流動化する社会編成に対応できないことははっきりしている。

では、どのような空間モデルが可能なのか。空間編成の上でキーとなるのは、集合の論理である。あるいは共用空間である。

第一に、多様な関係、多様な生活を許容する空間形式を追求することがひとつの指針となる。そして、問題となるのは、その基礎となる空間単位である。核家族の容器としてのnLDKという空間単位では機能しないとすれば、おそらく個人のための空間を基礎空間単位として、それをどう集合させるか、そのためにどういう空間を媒介(共有空間)とするか、が問われるのである。

また、住宅とそれが立地する場所との関係をどう考えるかがテーマとなる。住宅形態は、そもそも地域の生態系に基づいて多様であったのであり、土地との固有な関係は見直す必要がある。環境を完全に人工的に制御することはあり得ないであろう。それとともに、住宅生産の仕組みも再編成される可能性がある。プレファブ住宅が支配的となる地域はそんなに多くはないのである。

さらに、住居の形式としては、まちの形との関係が問題となる。すなわち、集合形式がさらに集積されてできあがるのがまちであり、要するに、住居のあり方は都市景観として表現されるのである。

こうした問題は、明らかにひとり「建築家」に問われている問題なのではない。適切な解答を生み出せるかどうかが、日本社会全体に問われているのである。

 

 

40枚

写真 5,6点

4 nDKの誕生-近代都市の住宅事情-  布野修司(滋賀県立大学)

 日本特有の「nDK住宅の誕生」とその歴史的背景について、また団地暮らしを中心とした近現代の日本の住まい方の歴史的変遷や社会的要因、さらに近代家族のあり方を規定する住居に関して、全体的に論じて下さい。

 節 3

 項 1200字

 


 



[1] 拙著、『住宅戦争』、彰国社、『戦後建築論ノート』、相模書房、

[2] 鈴木成文、『住まいの計画住まいの文化 : 鈴木成文住居論集』、彰国社、1988年他。

[3] 伊藤書店、1944

[4] 拙稿、「西山夘三論序説」、『国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』(布野修司建築論集Ⅲ)、彰国社、1九九八年

[5] 相模書房、194七年

[6] 浜口ミホ、『日本住宅の封建制』、相模書房、1949年。浜口ミホの主張にも関わらず、日本の住宅から「床の間」も「玄関」も必ずしも無くなったわけではない。また、浜口ミホが主張したのも、「玄関」とか「床の間」という名前を止めよう、ということであった。

[7] 様々なアプローチがあった。建築行政、都市計画行政のレヴェルで住宅建設と都市復興を関連づけ、諸施策、諸事業の展開を考えるもの、公営住宅の直接的供給を前提とし、その方法、モデルを提示しようとするもの、住宅生産の工業化を目指しながら、「最小限住宅」という一つのプロトタイプを提出しようとするもの、住宅困窮者の運動を基盤としながら、「住宅生協」といった住宅供給のための組織をつくりあげようとするもの、などである。前者の方向を担ったのが、西山夘三とそのシューレおよび吉武泰水・鈴木成文とそのシューレであり、後者の方向を追求したのが池辺陽、増沢殉、広瀬鎌二らの「最小限住宅」プロトタイプの模索、また様々な組立住宅の試み、中でも、日本の近代建築を主導してきたと言っていい前川國男を中心とするMID(ミド同人)や山口文象を中心とするRIAなどのアプローチであった。

[8] 池辺陽、『すまい』、一九五四年など

[9] 戦後まもなく住宅の問題に取組んだ「建築家」たちの関心はやがて住宅から離れていく。朝鮮戦争の特需によるビルブームとともに、少数の建築家を除いて、多くは大規模な公共建築や民間のオフィスビルへ眼を向けていく。ひとつには、一九五五年に日本住宅公団が設立され、公的な住宅供給が軌道にのりだしたことも大きい。そして、一九六〇年前後に相次いで住宅メーカーが設立され、住宅産業が成立していったことも大きい。すなわち、実際の住宅供給は公団や自治体、住宅メーカーに委ねられるのである。篠原一男の「住宅は芸術である」(一九六二年)、八田利也の「小住宅設計ばんざい」(一九五八年)が象徴的である。六〇年代初頭には、「建築家」にとって住宅は、極めて私的な回路において対象とすべきものとなるのである。

 

[10] 51C」を産んだ建築計画学の基礎にあるのは、ひとことで言えば、「生活と空間の対応」という理念である。生活様式と空間形式の間に一定の対応関係があることを「住まい方(使われ方)」調査によって発見し、それを「型」として提示する「型」計画の方法がその基本である

[11] 『家父長制と資本制』、岩波書店、1990年、『近代家族の成立と終焉』、岩波書店、1994年など

[12] 『家族を容れるハコ家族を超えるハコ』、平凡社、2002

[13] 鈴木成文他著、『「51C」家族を容れるハコの戦後と現在』、平凡社、2004年 

2024年9月26日木曜日

「51C」:その実像と虚像―戦後日本の住宅と「建築家」―、鈴木成文・上野千鶴子・山本理顕・他:「51C」家族を容れるハコの戦後と現在,平凡社,2004年10月8日

  鈴木成文・上野千鶴子・山本理顕・他:「51C」家族を容れるハコの戦後と現在,平凡社,2004108

51Cは呪縛か

「51C」:その実像と虚像―戦後日本の住宅と「建築家」―

布野修司

廃墟の光芒---バラックの海

戦災によって焼失した住宅が二四〇余万戸、疎開などで取り壊された住宅が六〇余万戸、戦時中に建設さるべくして建設されなかったもの、引揚者用などを合わせると、戦後まもなく全国で不足していた住宅は四二〇万戸と推定される(一九四六年四月)。この圧倒的な住宅不足を前にして、「建築家」がいかに「住宅の問題」に取組むかを最大の課題にしたのは当然のことであった。

この課題に対する「建築家」のアプローチには、現実への回路がどのように想定されているか、すなわち、どういう主体(居住者)へヴェクトルが向けられ、どういう方法とプロセスが想定されていたかによって、いくつかのレヴェルがあった。建築行政、都市計画行政のレヴェルで住宅建設と都市復興を関連づけ、諸施策、諸事業の展開を考えるもの、公営住宅の直接的供給を前提とし、その方法、モデルを提示しようとするもの、住宅生産の工業化を目指しながら、「最小限住宅」という一つのプロトタイプを提出しようとするもの、住宅困窮者の運動を基盤としながら、「住宅生協」といった住宅供給のための組織をつくりあげようとするもの、などである。

大量の住宅建設という課題の一方で、また、その前提として求められていたのが、新たな住宅や生活のイメージである。「小住宅」コンペ(競技設計)が相次いで行われ、多くの若い建築家たちが情熱を込めて参加している。西山夘三の『これからのすまい』(一九四八年)、浜口ミホの『日本住宅の封建制』(一九五〇年)が示すように、建築家は、新たな住宅像の確立をまず目指し、それを具体化する様々な回路を現実の諸条件のなかで求めていたのである[1]

具体的な住居形式の追求は、主として二つの方向で行われた。一つは、公的な住宅供給を前提とした回路における新たな住宅モデルの提示、もうひとつは、住宅の工業生産化を前提とした回路における、新たな住宅プロトタイプの提示である。もちろん、二つの方向は最初から分離していたわけではない。いずれも、住宅の大量供給が前提であり目標であった。しかし、一方が、集合住宅を対象として、住まい方の標準化との対応で住宅の型を考えたのに対して、他方は、建築家が直接アプローチしうる戸建て住宅を対象とし、住宅生産技術にウエイトを置いていたという違いがある。

前者の方向を担ったのが、西山夘三とそのシューレおよび吉武泰水・鈴木成文とそのシューレであり、後者の方向を追求したのが池辺陽、増沢殉、広瀬鎌二らの「最小限住宅」プロトタイプの模索、また様々な組立住宅の試み、中でも、日本の近代建築を主導してきたと言っていい前川國男を中心とするMID(ミド同人)や山口文象を中心とするRIAなどのアプローチであった。

 

「51C」から「nLDK」へ

一面のバラックの海を眼前にして、いかに多くの住宅を公的に供給するか、どのような住宅を供給すればいいのか、「51C」誕生の背景は、およそ以上のようである。

西山夘三の『国民住居論攷』など理論的背景[2]についてここで触れる余裕はないが、要するに、ある制約条件(三五平米という限られた面積)において、「食べる場所と寝る場所を分ける」(食寝分離)、「寝室を分ける(二部屋確保する)」(就寝分離)という単純な二つのルールをもとに設計されたのが「51C」型平面(間取り)である。そして生み出されたのが、「食事もできる台所」=ダイニングキッチンDKである。ある意味では苦肉の策であったといっていい。51A51B型が同時に提案されているように、唯一の解答とは言えないけれど、二つのルールを前提にすれば誰が設計しても大差ない提案であろう。しかし、そこには、一部屋を壁で囲い独立性の高い部屋にする、台所を少し拡げて食事もとれるようにする、台所ともう一部屋はつなげて使えるようにする、真摯な思索と人間味溢れる配慮が込められていた。

問題はその後の展開である。「51C」が生み出したDKは、日本の近代住宅(戦後住宅)の象徴として広範に受け入れられていく。日本住宅の封建制を象徴する「玄関」や「床の間」に代わって、DKが住宅近代化のシンボルとなるのである。一九五〇年には住宅金融公庫法が成立している。本来、集合住宅の住戸モデルとして提案された「51C」であるが、DKは家事労働軽減の空間的提案として農家住宅にも導入され普及していくのである。

一九五五年に日本住宅公団が設立される。「51C」を原型とする2DK形式の住宅は、それを階段室によって積層する集合住宅形式とともに採用され、全国に蔓延する。この標準化された画一的な住宅形式とそれが建ち並ぶ「団地」の光景は、戦後日本の象徴のひとつである。建設当初、「花の団地族」という言葉とともにある種の憧憬の念をもって受け入れられたことは記憶されていい。

日本住宅の標準モデルとしての「51C」以降の展開を単純に図式化すれば以下のようである。「51C」に結晶化した「建築家」の創意は、規模拡大の論理へと接続されたとみていい。

「食寝分離」「隔離就寝」→「公私室分離」→「個室確保」

「食」と「寝」の分離が実現した後は、「公」と「私」の分離、すなわち、住居内における家族団らんの場としてのリビングLの確保が目指された。「モダンリビング」はDKとともに日本の戦後住宅のもうひとつの象徴である。住宅の工業生産化を目指すもうひとつの回路においては早くから提案されてきた。そして、次の段階として、家族成員個々の個室の確保が目指された。

日本住宅公団の供給した住宅の間取りを追いかけてみればはっきりするであろう。一九六〇年代前半には2DKとともに3DK3LDKが一般的となる。nLDKという標準型は「51C」以降の一〇年で確立するのである。

 

「nLDK家族」批判

51C」以外に戦後日本の住宅モデルの提案がないわけではない。「最小限住宅」の様々な提案があるし、例えば、水回りなどユーティリティをまとめて配置して残りは基本的に一室とするワンルーム・コアの提案は今日振り返っても素直である。また、住宅生産の工業化を目指す回路においても様々な平面形式が提案されたが、DKという発想は希薄である。量の問題を第一義的に前提とするのでなければ、解答は無限である。「住宅No.1」から番号を振りながら百を超える個人住宅を設計し続けた池辺陽がいる。その『すまい』(一九五四年)には、住宅を単に平面形式に還元するのではなく、材料、設備、構造、形態を含めてトータルに捉える視点がある。また、限られた条件においても、生活の質を落とさない「近代化」へ向けての提案を個々の住宅設計において積み重ねることによってしか問題は解決しないという姿勢がある。個を充実しながら全体へ向かうか、標準化によって全体に対応するか、「建築家」のアプローチにも大きな違いはあったのである。「51C」が前提にしていたのは明らかにひとつの「型」の提案である。

51C」を産んだ建築計画学の基礎にあるのは、ひとことで言えば、「生活と空間の対応」という理念である。生活様式と空間形式の間に一定の対応関係があることを「住まい方(使われ方)」調査によって発見し、それを「型」として提示する「型」計画の方法がその基本である。住宅計画に限らない。学校でも、病院でも、同じような方法が採られてきた。

上野千鶴子の「51C」=nLDK批判にはいくつかのレヴェルがあるが、その第一には、以上のように空間形式を特権的に扱う建築計画学への批判である。この批判も、「建築家」に対する根源的批判となる「空間帝国主義」批判のレヴェルと具体的なnLDK(という空間形式)批判のレヴェルがあるが、中心は後者にある。空間の規定力(暴力)を思考と方法の基礎におく「建築家」は、「空間帝国主義」という批判は予め認めざる(居直らざる)を得ないだろう。空間を生活が裏切る(想定通りに使われるとは限らない)というのも前提である。問題は、空間の「型」は一定の制度を前提にしてしか成立しないのではないか、という点である。

施設(=制度:インスティチューション)計画の場合がわかりやすいであろう。学校建築における、同一学年が教室単位で、黒板を背にして教師と生徒が向き合うという空間形式はある教育制度が前提である。ノン・グレーディング(無学年制)やティーム・ティーチングなどを理念とするオープン・スクールは、現実の学校の使われ方をいくら調べても発想されないであろう。同じように、51C→nLDKというモデル提示にはある家族の型=近代家族という制度が想定されていたのではないか。こうして上野千鶴子のnLDK批判は、もうひとつのレヴェルの批判、近代家族批判へと接続することになる。

日本全体で、世帯数を住戸数が上回るのは一九六八年(全都道府県では一九七三年)である。戦後まもなく不足していた四二〇万戸を回復するのにほぼ四半世紀を要したことになる。人口増とともに世帯分離が大規模に進行したからだとされる。戦前における大家族中心から核家族中心へ、社会を構成する基礎的な集団単位が変化するのである。

家父長制に基づく大家族から近代家族(核家族)の自立、そして、家族という制度から個の自立へ向かう過程は、一方で、戦後復興と高度成長を支える産業システムの編成、労働力再生産の仕組みの形成過程でもあった。nLDKは、結果的に、近代家族モデルを理想化し、産業的社会編成の仕組みを完成する空間的装置となった。そして現在、高齢化、少子化、介護、年金・・・その社会編成システムの綻び、破綻が明らかになりつつある。近代家族モデルを前提としてnLDKモデルによってあまりに画一的に社会空間を編成してきた「建築家」にその責任があるのではないかというのが、乱暴に要約すれば、nLDK批判、「nLDK家族(近代家族)」批判の骨子であろう。

 

「nLDK」を超えて――住宅生産消費のメカニズム

51C」にその責任はなかったか、と言えば、ないとは言えない、と思う。致命的であったのは、課題を住戸計画という閉じた世界にのみ設定したことである。すなわち、住宅地計画、地区計画、都市計画へと空間計画を主体的に展開し得なかったことである。結果的に、単なる住戸の平面形式の提案に止まったことである。しかし、そこには、ひとり「建築家」の責任問題に帰せられない、まして「51C」の提案者を問いつめてすませられない背景がある。

戦後まもなく住宅の問題に取組んだ「建築家」たちの関心はやがて住宅から離れていく。朝鮮戦争の特需によるビルブームとともに、少数の建築家を除いて、多くは大規模な公共建築や民間のオフィスビルへ眼を向けていく。ひとつには、一九五五年に日本住宅公団が設立され、公的な住宅供給が軌道に乗りだしたことも大きい。そして、一九六〇年前後に相次いで住宅メーカーが設立され、住宅産業が成立していったことも大きい。すなわち、実際の住宅供給は公団や自治体、住宅メーカーに委ねられるのである。篠原一男の「住宅は芸術である」(一九六二年)、八田利也の「小住宅設計ばんざい」(一九五八年)が象徴的である。六〇年代初頭には、「建築家」にとって住宅は、極めて私的な回路において対象とすべきものとなるのである。

住宅がnLDKという容器に還元され、一個の商品と化していったことは、社会全体の産業的空間編成の問題である。いくら提案があっても、それを受け入れる居住者、消費者がいなければnLDKが蔓延することは無かったはずである。問うべきは、空間の需要・供給のシステム、生産消費のメカニズム全体である。

こうして、「51Cは呪縛か」という問いの出発点に共通に立つことになる。

一九七〇年代初頭、日本の住宅メーカーは住宅建設の一五%弱をカヴァーするまでに成長する。一九七三年には一年で二〇〇万戸近い住宅が建設されている。そして、同じ年の突然のオイル・クライシスとともに「商品化住宅の様式化」現象が顕著になった。画一的なプレファブ住宅には「安物」のイメージがあり、個性を売り物にする様々なスタイルの住宅が商品化されるのである。しかし、平面形式としてのnLDKは揺らぐことはなかった。何故か。それが問いの出発点である。

そして、その問いを愚直なまでに問い続けている「建築家」の代表が山本理顕である。一九八〇年代初頭から二〇年、石山修武、大野勝彦、渡辺豊和らとともに、『群居』[3]なる雑誌を出して、それなりに考えてきたのであるが、住宅を中心テーマとする建築家はそう多くはないのである。山本理顕の拘りは、戦後建築家の最も良質な志を引き継いでいると言っていいと思う。

その『住居論』[4]が明らかにするように、nLDK家族モデルとは全く異なった住居で育ったこと、世界中の住居集落を見て回った経験が大きいのであろう。むしろ、日本のnLDKが理念(擬態)にすぎず、現実の住まい方、住居形態が遥かに多様であるという確信が一貫してある。「GAZEBO(雑居ビルの上の住居)」で「建築家」としてデビューする以前、「都市に寄生せよ」とか「愛人が同居する家」とか即日設計の課題を一緒に担当していたから証言できるが、住宅に限らず、個々の設計におけるテーマは、常に「nLDK的なるもの(制度)」を如何に超えるかなのである。

 

集合の論理と共用空間

一九七九年に東南アジア諸国を歩き出して、強烈なインパクトを受けたのは、セルフヘルプ・ハウジング(自力建設)あるいはハウジング・バイ・ミューチュァル・エイド(相互扶助)と呼ばれる供給手法である。中でも、コア・ハウス・プロジェクトと呼ばれる住宅供給の方法に眼から鱗が落ちる思いがしたことを思い出す。

コア・ハウス・プロジェクトとは、ワンルームと水回り(トイレと洗面台)のみを供給し、後は居住者に委ねるという手法である。それぞれの経済的余裕に従って、後は勝手に増築する。間取りは自由である。財源が乏しく、やむを得ない創意工夫である。コア・ハウスの形態はプリミティブではあるけれど実に多様である。思ったのは、日本の戦後まもなくの「51C」であり、「最小限住宅」である。オールタナティブはいくらでもあり得たのではないか。

その後、インドネシアで集合住宅のモデルを考える機会があった[5]。結果として、コモンリビング、コモンキッチンをもつインドネシア版コレクティブ・ハウスとなった。nLDKをただ積み重ねたり、並べたりするだけの日本の住宅がむしろ特殊であることは明らかである。

キーとなるのは、集合の論理である。あるいは共用空間である。

51C」以降、鈴木成文の仕事の主テーマは、一貫して、集合と共有空間、「いえ」と「まち」をつなぐ論理をめぐっている。それを充分展開し得たのか、という問いは、同時に自ら引き受けるべきであろう。山本理顕の保田窪団地や東雲の提案が「51C」を超え得ているかどうかは冷静に判断されていい。

上野の近代家族批判はラディカルである。しかし、近代家族という擬制も諸制度によって裏打ちされており強固である。そして、住居もまた極めて保守的である。しかし一方、nLDKという空間単位によって構成される社会が多様化する家族関係、流動化する社会編成に対応できないことははっきりしている。

では、どのような空間モデルが可能なのか。

あらゆる機会において、「建築家」には問われ続けているのである。

 



[1] 拙著、「Ⅱ 近代化という記号 住宅の近代化」、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、1995

[2] 拙稿、「西山夘三論序説」、『国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』(布野修司建築論集Ⅲ)、彰国社、1998

[3] 198212月に創刊準備号を出し、2000年までに50号刊行した。

[4] 山本理顕、『[新編]住居論』、平凡社ライブラリー、2004

[5] 拙著、『カンポンの世界』、パルコ出版、1991

2024年9月25日水曜日

『京都げのむ』と『建築雑誌』あるいは『都邑通信』, GAJapan 2002 0201

GAJapan 2002

『京都げのむ』と『建築雑誌』あるいは『都邑通信』

 

布野修司

 

 昨年、京都コミュニティ・デザイン・リーグ(京都CDL:http://www.kyoto-cdl.com)という京都のまちづくりに関わる組織を発足させ(20011月)、『京都げのむ』という雑誌を創刊した(1014日)。平行して日本建築学会の会誌の編集委員長に就任することとなり(61日)、今年の1月号から2年間、24号、『建築雑誌』の編集に携わることになった。編集部からの注文は、「建築雑誌というあるエスタブリィッシュした名門の全国規模の(でも、一つの業界内部の)メディアと京都CDLの新しい、挑戦的な、またある種地域的な雑誌に同時に関わられて」、一体なにを考えているのか、ということである。

 メディアということであれば、1850号続けた『群居』に区切りをつけて『都邑通信』(http://www.archi.kyoto-u.ac.jp/funo_lab/)という雑誌も創刊した(2001128日)ばかりだ。また、京都大学では『Traverse---新建築学研究』(20006月創刊:  http://www.archi.kyoto-u.ac.jp/TRAVERSE.html/)の編集委員でもある。編集好きなのかもしれないけれど、何も特別なことをしているつもりはない。様々な次元で考えることがあり、動くことがあり、それを記録しておきたいと思うだけだ。

個々のメディアの目指すところの詳細はそれぞれのウエッブ・サイトに委ねたい。『建築雑誌』については、1月号にその基本的スタンスを書いた。また、編集長日誌(http://news-sv.aij.or.jp/jabs/)を見ていただければ何を考えて編集しているのかお分かり頂けると思う。瓢箪から駒で、全頁カラー化が実現した経緯もそこにある。

京都CDLは、簡単に言えば、タウン・アーキテクト制のシミュレーションであり実践である。各チーム(大学の研究室)がそれぞれ地区を担当し、毎年ウォッチングし、提案を競う。それを記録するのが『京都げのむ』である。基本的に若い仲間の手に編集権がある。京都にとってかけがえのない遺伝子を発見し維持したいという思いがその命名に示されている。

半年ほど編集委員会で議論を重ねた末に1月号の特集テーマは「建築産業に未来はあるか」となった。日本の建築生産の仕組みが今こそ問われているときはないという判断がある。そして、日本の建築界が大きく転換しつつあることと京都CDLの動きは無縁ではない。というより、日本の建築家の職能の行方(生き延びる道)を鋭く直感するが故の京都CDLの運動なのである。

見るところ建築ジャーナリズムは軒並み元気がない。要するに面白くない。不況で建築作品に力がなく、広告が経るのだから仕方がない、と言うなかれ。常にテーマはあり、やることは山ほどある。どんな時代であれ、時代の根を記録すべきだし、建築の方向をめぐって議論を先導すべきである。

はっきりしているのは、建設投資が国民総生産の2割を占めるそんな時代は最早あり得ないことだ。先進諸国をみても明らかなようにそれは半減してもおかしくない。そして、スクラップ・アンド・ビルドではなく、建築ストックの再利用、維持管理が主体となっていくことも明らかである。地球環境全体の問題が大きく主題化され、省資源、リサイクルなど既に大きなテーマになりつつあるところだ。そして、建築家の多くは地域社会との結びつきを強めて行かざるを得ないことも見えている。だから、タウン・アーキテクト(コミュニティ・アーキテクト)であり、まちづくりなのだ。そして、もうひとつ挙げるとすれば、海外だろう。地球を広く見渡せば、まだまだ日本の建築家を必要とする多くの地域がある。すなわち、維持管理、まちづくり、国際化は日本の建築家のめざすべき方向に関わる3つの分野である。

そして、それ以前に建築界全体に求められることがある。歴史的に問われ続けてきた建築産業の体質が最終的に問われているのだ。公共事業に対する説明責任、設計そして施工に関わる業務発注の適正化、建築家の資格、報酬、保険、・・・要するに、建築界をめぐってテーマは目白押しなのである。建築ジャーナリズムは時代を遙かに透視する作品(言説、活動)を視ているかどうか、どう組織できるかが勝負であろう。

『建築雑誌』は従って特集テーマに困ることはない。学会、会長の掲げる方針をこなすのでも大いに忙しい。『京都げのむ』の方も、具体的な地域で何が起こっているかを記録するだけで大変である。例えば、都市再生の大合唱は果たして何を意味するのか。不況だというのに、京都の都心にマンションが林立している。考える事はいくつもあって、住んでいる場所を問うのが原点となる。『都邑通信』では、京都について一冊ものするつもりで、連載を開始したところである。

  

2024年9月24日火曜日

Shuji Funo: The Spatial Formation of Cakranegara, Lombok, in Peter J.M. Nas(ed.):Indonesian Town Revisited,Muenster/Berlin, LitVerlag,2002

 Shuji Funo The Spatial Formation of Cakranegara Lombok in Peter J.M. Nas(ed.)Indonesian Town RevisitedMuenster/Berlin LitVerlag2002

 

The Spatial Formation of CAKRANEGARA, LOMBOK, INDONESIA

 

Dr. Shuji FUNO

Kyoto University, Japan

Graduate School of Architectural and Environmental Design

 

The major purpose of this article is to consider the principles of space organization of houses, villages and cities, and the prevailing cosmology that has decisive influence on their physical arrangement. We selected Cakranegara in Lombok island, Indonesia, as a case study. Lombok island attracts us from several viewpoints. As it is well known there runs Wallace line1 between Lombok and Bali Island. Lombok island is also interesting in terms of religion. Most of Balinese are Hindu although more than 80% of the populations in Indonesia are Muslim. Islam is dominant in Lombok island, but there is a strong influence of Bali Hindu in the western part of the island. The fact that Hindu and Muslim people coexist in a small island is worthy to be investigated. Incidentally this study is also the first to discover the historic context of Cakranegara and its importance in the history of Indonesian cities. Karangasem kingdom in Bali built Cakranegara as a colonial city in 18th century. Although Cakranegara was in the far east of Indian civilization, we assume that the construction of Cakranegara might have been based on the ideal of ancient Hindu city. It is very interesting that Nagara-Kertagrama2, the lontar (coconut leaf) document that describe the Jawa and Majapahit kingdom in the 14th century, was discovered within the Kraton (palace) of Cakranegara. Especially, to compare the configuration of Cakaranegara and the description of the capital of Majapahit kingdom in Nagra-Kertagama may give us some cues to reveal the history. On the other hand, the street pattern of Cakranegara resembles those of ancient Chinese cities and a Japanese city such as Kyoto, which is also one of the reasons Cakranegara attracts us. Anyway, we consider that this kind of gridiron city like Cakranegara exits in Indonesia has not been well known.

 

Introduction

This paper will analyze the principles of space organization of Cakranegara city of Indonesia. In particular it will study (1) street pattern and the plot divisions, (2) neighborhood structure, (3) distribution of religious facilities, (4) organization of neighborhoods, (5) residential segregation, and (6) explain the development of the form of the city in its physical and social dimensions based on the field surveys. The ultimate objective of the study is to compare the ideals of Hindu city planning principles and the form of the Cakranegara city. 

The forms of the dwellings and their organization in the Lombok Island are of peculiar significance. Our research so far has made clear some of the features of the settlements of Lombok Island3: The house form of Lombok raised on stilt represent a culture that is typical in the islands of Southeast Asian region. However, in general, the house forms of Java, Lombok and Bali are built of solid ground floors. The house forms raised on stilt in Lombok are characteristics of Sumbawa and Bugis people, while there are also dwelling styles bordering between the two forms of house culture. In similar manners as with house forms there also exists differences in the religious beliefs. Although a relatively small island, in Lombok it is possible to observe the influence of both the Islamic and Hindu cultures. While Islam is the dominant religion of Indonesia, It is only in Bali Island that the influence of Hindu religious belief is strong. Similarly, despite the Islamization of the Lombok Island, the strength of the Hindu religion can still be felt in Cakranegara, a city at the western part of Lombok bordering the Bali Island.

Cakranegara4 was built as a colonial city by the Karangasem kingdom of Bali in the fist half of the 18th century. Although Cakranegara is at the eastern fringe of Hindu civilization, yet it appears that the construction of the city was an attempt to realize most faithfully the ideal of Hindu culture. The available research works on the Indonesian cities and Indonesia have not yet drawn the attention on the spatial forms and organization of Cakranegara. This study is the first to point out the fact that Cakranegara embodies the Hindu planning ideals and that the city is laid in a grid street pattern.

One of the conclusions that can be derived from the research literature on Islamic cities5 is that there exists no definite characteristic that can be said to be an identity that embodies the concept of an Islamic city. In particular it is to be noted that there exists no definite relationship that is common among the cities of such countries as Indonesia and its neighborhoods, which has the largest Islamic population of the world, and the cities of Arabian countries. However certain characteristic principles on the capital cities (in particular cities that had been the seats of ruling house and built the necessary defense fortification such as city wall) of Asia, Europe and Africa, and the cosmology that guided the building of these cities and city life, may be outlined as following:

a. There are two types of cities--the first that mirror a cosmology that enshrines the seat of royal power at the pivot and the second, which are not governed, by such a cosmology. In the east, south and Southeast Asia there are planning ideologies and classical literatures prescribing the features of the capital cities with the seat of ruling power. But in west Asia such ideals and literatures on the cities are not to be found.

b. On the one hand there exist ideal forms of cities as models, and serve as metaphor for the planning and construction of real cities. On the other hand there are cities that are governed more by the practice of life and functional relationships. There are only few instances that have been built according to the concept of the ideal city forms. It is also to be seen that there is a changing relationship between the city form and the concept of the ideal city in the history of the city development.

c. The concept and the ideal of the city form is found to be more developed and adherence to it more strong in the periphery than at the center of that civilization. For example, cities that are thought to reflect the ideals of Arthasastra6 or Manasara7, the two Hindu classics that describe the forms of royal cities, are the places like Angkor Wat and Angkor Thom in Southeast Asia at the east end of Hindu cultural sphere.

d. The relationship of the prevailing cosmology and the forms of the settlements provides a broad framework in studying the diversities of the cities that are the result of temporal and physical particularities. Thus it may be assumed that Cakranegara as a colonial city of Balinese Hindu kingdom reflects in a certain manner the concept of the planning of the ideal Hindu city and the traditions of Hindu society.  One of the interesting fact of major significance is that the Lontar chronicle 'Nagara-kertagrama' that describe the Majapahit Kingdom was discovered in the kraton--the royal palace of Cakranegara. It is of no doubt that this work was referred in the building and planning of the city of Cakranegara.

The study is based on the fieldworks in Lombok Island conducted at four different periods as noted below:

1. The first survey between the period 1991, Dec 6-Dec 24 (members: Toshiaki Ohji, Tsutomu Sakamoto, Kiyonori Kanasaka, Shuji Funo, Koji Sato, Yoshihisa Wakita, Norio Maki). Reconnaissance of the cities and settlements of the whole island. A field survey measurement of the sacred site--Pura Meru.

2.  The second survey between the period 1992, Sep 6-Oct 3 (members: Toshiaki Ohji, Shuji Funo, Yoshihisa Wakita, Nobuaki Matsui, Akihito Aoi, Yoshiyuki Hori, Yumi Kanki). Interview with the local researchers related on the history of the old city. Field measurements of the plot divisions, survey on the structure of residential quarter and residential segregation.

3. The third survey between the period 1993, Nov 24-Jan 20 (members: Toshiaki Ohji, Norio Maki, Yoshihisa Wakita, Yasuzumi Yoshii, Naohiko Yamamaoto). Survey of the plot divisions community organization, and caste structure.

4. The fourth survey during the period 1994, May 2-May 18 (members: Shuji Funo, Toshiaki Ohji). Detail survey of ethnicity, religion and caste of each household.

 

Street System and Structure of Residential Quarters

1. Cakranegara and the cities of Lombok

1-1. Mataram

The administrative center of Lombok island is the city of Mataram. It is the state capital of Nusatengara Barat and in its region includes the nearby cities of Ampenan and Cakranegara, which are the lower administrative units known as kecamatan (kecamatan is derived from kelurahan)8. Ampenan flourished as a port town during the colonial period of Holland. While Mataram, C, Pagasangan and Pagutan were built as the colonial towns of the Bali Hindu Kingdom. The other major cities are Praya in the central region and Selong at the eastern region of Lombok. Praya was a base of Sasaks in the revolt against the Balinese regime. Selong is located at the strategic point at the east. It has a huge mosque at its central district and unlike the cities of the western Lombok that have strong influence of Bali; it exhibits a similarity with the cities of Java and other Islamic cities of Indonesia. The locations of cities of Lombok Island are shown in Fig. 1-1.

The total population of Mataram consisting of kecamatan Mataram (7 kelurahan), kecamatan Ampenan (7 kelurahan) and kecamatan Cakranegara (9 kelurahn) is 274,765 (1990)9. This is about one third of the total population including other kecamatans of west Lombok, which is 858, 996.

1-2. Cakranegara

In Sanskrit, cakra means the 'wheel of Law' or simply the wheel and 'negara' is the state10. It is clear that the name 'Cakranegara' indicates its Indian origin. The central temple of the city is known as Pura Meru. Meru is the sacred cosmic mountain in the Hindu cosmology. Pura Meru was constructed in 1720 at the center of the city and similarly Pura Mayura beside the royal palace was built in 174411. It can be said that the foundation of the city was laid down at the beginning of the 18th century.

During those periods of colonization, the Karangasem of Bali continued to expand towards the east of Lombok. However it failed at its quest to bring into its control the neighboring island of Sumbawa at the east as it was already under the influence of East India Company of Holland (VOC). However the king of Sasaks of the indigenous people of Lombok already submitted to the Karangasem regime in the early years of 1740's.

The Karangasem regime became divided into a number of kingdoms in a period between the end of 18th and 19th century. In the west Lombok Pagasangan, Pagutan, Mataram and Cakranegara (Karangasem) separated into four by the beginning of 19th century. The influence of the regime in the east of Lombok was considerably weakened.

At the beginning of 19th century the regions of eastern and western Lombok developed into different societal forms. Most of the Balinese settled in the previous four cities at the west. Majority of the Sasaks lived in the villages at the peripheral regions of these four cities. In addition there were palaces of Narmada, Lingsar and Gunungsari away at the hinterlands. The region under the direct influence of Bali was within the area of Ampenan, the most important port town at the west, the central jungle of Jurin of Lombok at the east, the Plateau of Linjani Mountain at the north and the region of Presak Kuripan village at the south. The eastern part of Lombok was left under the administration of local governor.

Fig. 1-2 is a survey map made by the land survey department of the military headquarters of Japan in 194212. It is clear from this map that the city of Cakranegara exhibits a distinct grid pattern in the layout of its streets.

At present there are some sectors where this grid pattern has been lost. There now is a mosque at the north of Pura Meru and in the areas around the mosque there are already narrow maize of lanes that has developed into the settlement of Muslim community. At the eastern end of the city the majority of the population is also of Muslim community, and there are only few dwelling plots with sanga deity at the northeast corner of dwelling plot that is characteristic of the settlements of Bali. The greater part at the southern end is still unbuilt and the field is utilized to grow vegetables. At the northwest sector, there is a majority of the Hindu community and the dwelling plot is enclosed by fence. The house form of Bali with sanga deity at the northeast corner of the plot is a characteristic of this area.

 

2. The Structure of Residential District of Cakranegara

The analysis of the residential district of Cakranegara is based on the field survey. There are still the remains of old walls in the housing plots of Cakranegara. These walls known as tembok are built with adobe bricks. In order to understand the form of the city at the early stage of its planning and construction, the sites with remains of tembok were selected and the dimensions of the plots and the width of the streets were measured. Fig. 1-3 shows the locations of these areas. The quarter at the western half shows a clear grid pattern while such grid pattern is weakened at the eastern quarter. Yet there are remains of tembok at the northeastern part of the eastern quarter indicating its planning at the early period. The clear width of the streets including tagtagan (see below) was measured from wall to wall between the housing plots.

2-1. Street System and the Divisions of the Housing Plots

 While taking a walk around the city, it can be observed that Cakranegara is built with three hierarchic levels of streets (Fig. 1-4). The streets are categorized as marga sanga, marga dasa and marga according to their width with marga sanga being the widest13. The meaning of sanga is 914 and that of dasa is 10. Marga sanga are those two streets that cross through the center of the city15. The two streets are exactly oriented to the cardinal directions running north south and east west and divide the city into four quarters. Marga dasa divides these quarters into urban blocks while marga is the streets that run within the urban blocks.

The measured dimensions of marga sanga running east-west is 36.50m, and that of marga sanga running north-south is 45.00m. There are almost no remains of tembok along marga sanga and the dimensions were measured at the neighborhoods of the intersection of the two streets as it is found in the present state. The width of individual marga dasa among 12 marga dasas measured varies from 12.86m to 21.60m. Given the disparity in the individual widths, the average value of 17.20m is not of much significance. However, if we consider those streets which show clear grid structure as well as have the remains of old walls, the widths are 18.70m, 18.56m, 18.54m, 18.36m, 18.07m, 17.80m, 16.90m giving an average of 18.13m which shows a planned construction of marga dasa. In similar manners, although there are variations in the width of marga in the city, the widths of the marga where there are remains of old walls are 8.52m, 8.38m, 7.89m, 7.87m, 7.71m, and 7.52m. The widths are fairly consistent with an average width of 7.98m. Thus it is seen that the three levels of streets of Cakranegara was planned with widths of approximately 8m, 18m and 36m (and 45m).

One important aspect in the planning of the street system of Cakranegara is tagtagan. Tagtagan is the green belt on either side of the streets16. It is said that the ownership of tagtagan between the tembok and the street belongs to the king17. However, according to the traditional custom, tagtagan belonged to the neighboring housing plot--pekarangan, and coconut trees, sugarcane and other fruits were planted which were used for the upacara ritual ceremonies. Thereafter, ceremonies were prohibited within the pekarangan and beginning from 1867-68 ethnic Chinese bought the strip of tagtagan along marga sanga and the belt was used as the shopping space18. Tagtagan was thus originally a ritual and ceremonial space as well as an extension of greenery in the cityscape. But at present almost all part of tagtagan along the marga sanga is occupied by the shops of ethnic Chinese while there are many examples where tagtagan along marga dasa and marga is being incorporated within the individual housing plots--pekarangan. The variations in the widths of the streets owes to these changes in the use of tagtagan. The measurement shows that the width of tagtagan is 11.60m in marga sanga and 4--6m in marga dasa.

The planned execution of Cakranegara is most evident from the dimensions of pekarangan. The number of plots measured with the remains of tembok is 112. The average length of the plot along east-west direction is 26.43m with individual dimensions ranging from a maximum of 30.44m to a minimum of 25.08m. The average width along north-south direction is 24.96m with 27.03m and 21.55m the maximum and minimum widths respectively. If we take the most frequent dimensions in round off meter figures the plot dimension is 26m-east west and 25m-north south.

That the dwelling plots were a planned division was also clear from the interview with the old peoples of the city. According to the old peoples living at the center of the city, the planning dimension of pekarangan is 25m * 25m19. The scale used was called tomba. Tomba is the measuring rod of about 2.5m in length. 25m are a length of 10 tomba. Tagtagan is 2 tomba of about 5m. Further inquiries answer that one pekarangan is a square size plot of 8 are (800 sqm)20 or again 6 are (600 sqm.)21 varying according to the informants. The measurement shows that the plot is not an exact square as it is thought by the informants. But if the tomba is the measuring rod it makes sense in the saying that the plot is of square shape. Anyway it is certain that a standard dimension was fixed in making the divisions of the housing plots. According to the above measurement data the area of the pekarangan is in average 26.43m × 24.96m = 659.69 sqm (25m × 26m = 650 sqm) which generally accords to the view of the informants.

Further investigation based on the above data highlights the dimensional articulation in the planning of the city with tomba as one of the standard measuring unit.

The urban block enclosed by marga dasa is divided into four smaller strips of blocks longitudinally by margas. Each strip of block is then divided in a back-to-back manner giving 10 housing plots on either side with a total of 20 plots in the strip block. If we take the measure of tomba as 2.5m, the width of the plot in the north-south direction is 10 tomba, which are 25m. Further, the length of the block enclosed by marga dasa will be 10 times the width of the housing plot (= 250m). The meaning of dasa in Sasak is ten and it seems that the meaning is derived from this standard of 10 used in the measurement employed in planning the divisions of the urban blocks. The width of the block along the east-west direction is the plot length 26m × 2 × 4 + the width of marga 8m × 3 = 232m.  If we add to this length the width of marga dasa which is 18m, the width of the urban block measured from center to center of marga dasa comes to be 250m. Thus it can be considered that the planned dimension of the urban block is a square of 250m ×250m. In this module, the north-south dimension is the inner clear dimension of the block while at the east west is a center-to-center measurement. Anyway it is clear that a modular system of 10 × 10 and 100 × 100 was used with tomba as the basic unit of measurement in planning the housing plot and the urban block.

2-2 The Unit of The Residential Quarter

The observation of the street pattern and the analysis of the planning dimensions indicate that the block enclosed by marga dasa is the unit of residential neighborhood. Another basis for this assumption is that the boundary of the present spatial unit—karang22, also is defined by marga dasa. Our inquiry to the people further clears the concept on the planning of the residential neighborhood.

According to the elder peoples23, the basic neighborhood unit is made up of two groups of 10 dwelling plots each lining face to face on either side of the marga running north-south. This cluster of 20 plots arranged along the two sides of a marga makes the basic unit known as marga. Two marga then make a unit called kriang. In Bali kriang is a title for the chief of a community unit called banjar. Further two kriang that is made of 80 dwelling plots, make the unit of the neighborhood district known as karang. At present karang corresponds to the unit of RW24 in Indonesian administrative organization.

However, it is thought that karang was one of the hierarchical units in the ritual ceremonies. At the early phase of the building of the city a karang was an area where inhabitants coming from the same locality of Bali settled together. Cakranegara is said to have 33 karang during that period and there was built a pura in each karang. Ritual ceremonies were held in each pura by the community of karang that was again related to the Pura Meru at the center of the city. And it is also said that there was one chief representative in each karang25.

In Bali, there are no settlements where there are no neighborhood districts called karang. Karang in Balinese means the 'dwelling plot Sudra26'. According to Pigeaud27, karang is derived from kalgyans, which is found in the sixth stanza of 76th section of 12th chapter (The territory belonging to the palace and religious communities) of Nagara-kertagrama discovered in the royal palace of Cakranegara. The author of Nagara-kertagrama states, " What is not mentioned here is kalagyans (the place of the workers) which is now spreading all the deshas (villages, territories) of Java. In Bali the neighborhood unit is called banjar. Banjar is a community unit and its functions are the management of the community facilities, maintenance of security and conflict resolutions and finding solutions to the community problems. The chief of this community is kriang banjar. At present banjar and karang is in use among the community of Bali in Cakranegara. However, if banjar is a unit of community organization, karang is a geographical unit. Karang also denotes that common locality for the inhabitants as born of the same place.

2-3 The Organization of the Residential District

The distribution of karangs of Cakranegara at present is shown in Fig. 1-5. It is seen that the area of karang enclosed by marga dasa is not necessarily the common pattern as stated in the above model. Rather there are more instances where the area of karang further expands and crosses marga dasa both in the north south and the east-west directions. But it is clear that karang consists of the units called kriang, which is within the area enclosed by the marga dasa. Alternatively, it can be said that the areas where the organization of marga and kriang are not clear or are lost, were outside the initial planning or have undergone great changes during the later periods.

 

 Summary

a. Cakranegara has three hierarchic levels in its street pattern--marga sanga, marga dasa and marga. The urban block and the residential districts are divided by the grid layout pattern of these streets.

b. The individual blocks are divided following a system of planned dimensions. The dwelling plots and the urban blocks are arranged according to the standard measuring unit known as tomba (2.5m).

c. The conceptual planning of the residential district consists of 20 dwellings for a marga unit; 40 dwellings for a kriang and 80 dwellings for a karang.

d. In the east-west direction run marga dasa of 18m widths at an interval of 250m and the marga sanga is 36m, two times the width of marg dasa.

 

Ⅱ STREET PATTERN AND BLOCK SYSTEM

 

Cakranegara was built as a colonial city of Karangasem kingdom in Bali in 18th century. Pura Meru, the central biggest and impressive Hindu temple, dedicated to Brahumana, Vishunu and Siva, was built in 1720 by the king of Karangasem, Agung Made Ngurah, to unite all the Balinese small kingdoms in Lombok. Enclosing three towers, there stand 33 small shrines in the temple precinct. The name of each small shrine is derived from the name of karang (neighborhood unit), which has been maintaining the building. We can consider that the distribution of temples (puras) indicate the original area of the city. This paper clarifies the distribution of karangs and the area planned at the initial phase of the construction of Cakranegara.

This part of the paper will analyze the distribution of religious facilities and the organization of neighborhoods. The largest unit of the community organization in Cakranegara is called karang and the karang is also a community unit in relation to the ritual ceremonies of Pura Meru. We intend to discuss the following four aspects in relation to the community organization of Cakranagara:

1) A historical account on the relationship between Lombok and the Karangasem of Bali that constructed the city of Cakranegara;

2) The relationship of the neighborhood community organization with respect to the ritual community related to the central temple Pura Meru;

3) The process of formation of the community organization and its relevance with the place names of Bali and karang; and

4) Identification of the area planned at the initial phase of the construction of C from the conclusion drawn from the above 3 aspects related to the history of the Cakranagara community.

 

1. Historical Relationship of Cakranagara with the Karangasem of Bali28

A political and economical history on the control of Lombok by Bali is given by Alfons van der Kraan29. We here will mention those aspects pertinent to the relationship of Cakranegara and the Karangasem of Bali. In the first quarter of 17th century, Balinese were gaining political control in some of the regions of west Lombok. During the same period Makkasars from Sumbawa crossing the Alas strait had come to control the east Lomobk. During 17th century Lombok Island has been a battlefield in the conflicts between the Karangasem of Bali and the Makkasars loyal to Sumbawa. The battle finally yielded to Karangasem of Bali. However, later from the second half of 17th century to 19th century there were frequent conflicts between the Sasaks, the indigenous people of Lombo who were Muslims, and Bali. According to Kraan, the protracted conflict between Sasaks and Bali can be divided into four phases:

The first phase is a period between 1678-1740 when Balinese continued to expand forward towards the east. Bali marched east up to Sumbawa but failed in gaining the control. Bali succeeded to rule Lombok and all the regions of Sasaks were in its effective political control. The Lombok chronicle assigns the defeat of Sasaks to the mutual distrust of its aristocracy.

The second phase covers the regime of Gusti Wayan Tegah from 1740 to 1775. In this period, Balinese control in Lombok was strengthened and there were no uprisings of Sasaks against Balinese, and got almost no opportunity for their independence. This is the period that laid the groundwork for the control of Lombok Island by the Balinese. While the temple of Pura Meru was built in 1720, Pura Mayura was built in 1744. Most of the other temples of Cakranegara were also built during this time. It is thought that the basic structure of Cakranegara was laid out by the first half of the 18th century.

The third period is from 1775 to 1838 when the Karangasem regime disintegrated. Conflicts ensued among the rival factions of Balinese following the death of Gusti Wayan Tegah. The division in the palace finally brought the division of the kingdom by the first decade of 1800 and there were four rival kingdoms in west Lombok by the beginning of the 19th century. The main kingdoms were Cakranegara (so called Karangasem-Lombok), Mataram, Pagasangan, and Pagutan. In this period the control of Bali in east Lombok was weak and the Sasaks seizing this opportunity succeded to get independence. Fig. 2-1 shows the locations of the cities of Pagutan, Mataram, Pagasangan and Cakranegara.

The fourth period is from 1838 to 1849 during which Bali Karangasem was again reunited30. At the beginning there occured battle between Cakranegara and Mataram. Mataram won the battle and then united the four-seperate kingdoms. Immediately following the unification the sovereign Rado Agun II of Mataram of Karangasem kingdom march forward to the east Lombok finally leading the island towards unification with Karangasem31.

 

2. Ritual Facilities of Cakranegara

2-1 Lombok and Pura

Although there is a dominance of Muslim population in Lombok Island, puras may be found in all the places of west Lombok (Fig. 2-2). In Bali pura indicates a Hindu shrine, while in Lombok there are shrines sacred both to Hindu and Muslims and are known as pura Lingsar. The deity who is the object of devotion to both the religious community is called Kumarik. The puras of west Lombok including pura Lingsar are laid in such a way as to orient towards the holy mountain of Linjani32. The laying out of Pura Meru is considered to have great significance even in the selection of the site for building Cakranegara.

Pura Meru is at the center of Cakranegara (Fig. 2-5). As Meru symbolizes the cosmic mountain and the center of the cosmos, it is the biggest pura among all the puras of Lombok. The temple is located along the major street running east west and is encircled by high red burnt brick masonry wall. As it has been noted earlier, the pura was built by the king of Kanrangasem of Bali, Agung Made Ngurah as a symbol of unity of all the kingdoms of Lombok.

Cakranegara has pura dalem (the temple of death) and at the west end and pura sveta at the east end. A set of three temples--pura dalem, pura desa and pura puseh--known as kayangan tiga is one definite characteristic that can be found in all the settlements of Bali. However, in South Bali, the kayangan tiga, in principle, is laid at the north and south of the settlement. In the case of Cakranegara, this is laid in the east and west of the city. The holy mountain of Rinjani lies at the northeast of Cakranegara and this is one important aspect that draws the attention in the organization of the whole city.

Pura Meru is dedicated to the Hindu trinity of gods--Brahmana (Bramha), Vishunu (Visnu) and Siva. The temple precinct from east to west is divided into three sectors and is known as Swah (the heaven, called Jero Pure or Jeroan in Lombok), Bwah (the world, called Jabe Tengah), and Bhur (the nether world, called Jabayan in west and Jabe Pesan in east Lombok) (Fig. 2-3). This organization of Pura Meru symbolically represents the concept of the three worlds in the Hindu religion.

There is a gate at the north side of the precinct of Bhur and at its northwest corner is located a bell tower built with round lumber, and is known as bale kulkul. The precinct is divided into two areas with a level difference. The eastern part is on a higher level and is called Jabe Pesan while the west is Jabayan. There is a bringin33 tree at the middle of Jabayan. The gate is in the typical form of candi bentar with multiple divisions that can be found in the puras of Bali.

In the central precinct of Bwah, there are two buildings--Bale Gong Kembar and Bale Panggungan, and bringin trees with a way in the middle for the devotees. In Bali these buildings are for the purpose of preparations in the festival and for the playing of gamran devotional music.

In Swah, the eastern precinct of Pura Meru, there are numerous towers and shrines dedicated to various deities. Among them the central tower is 11-storied high and is dedicated to Siva. The roof of the temple is covered with arang-arang while the structure is built from a kind of jack wood called nunka34 The structure of the tower is like a layer of boxes arranged one above the other (Fig. 2-4). The tower at the north is dedicated to Vishunu and is nine stories high while the 7-storied tower at the south is dedicated to Brahmana. Both of these towers are covered with roofing tiles.

In addition, at the northeast corner there is a small tower built of stone dedicated to a male deity, Sambhu. Similiarly, there are three other small towers in stone in front of the main towers and are dedicated to Rinjani mountain, a mail deity Ungerurah and Sanga-Agun (the principle shrine) located respectively from north to south. Again there are 13 shrines at the north and 16 at the east lining in such a manner so as to encircle the three main temple towers of the precinct. These 29 shrines are built of wood and deity of each karang (sanga) is enshrined here with the name of the respective karang inscribed in each shrine.

According to the keepers of the Pura, the three main temples and 33 shrines are maintained and looked after by 33 karangs which includes Cakranegara with the villages located at its sub urban periphery. The list of these 33 karangs is given in Table 2-1.

There are instances that the number of shrines and the karangs do not always have strict correspondence. For instance, Bj Mantri of No. 11 and Kr Aron Aron of No. 30 are in reality the same karang. Likewise, Bj Pande (north) and Bj Pande Selatan (south) were later divided from a single karang of early period. Also it is found that the karang Sempalan of No. 13 looks after both shrines. The exact relationship in the number of karang and the shrines that were built at the early period of foundation is not clear.

The number 33, which is the number of shrines, has its significance in that it represents the number of constellations in the southern sky. The number is also symbolic of 33 gods residing in the cosmic mountain, Meru. It was also a mark in the appointment of government officials, such as those in the regime of Javi Pegu of Kaming dynasty of Burma. Another significant aspect is that there is 33 fountains built in the Pura Mayura that lies at the north side of the major east-west street.

Although, in the case of Cakranegara, the exact reason on the use of number 33 is not yet clear, but the number bears similar symbolic significance in both the Hindu and Buddhist religions. Since there are numerous mountains in Java bearing the symbolism of Mount Meru, it is only natural to think that such cosmology is reflected in certain manner in Cakranegara. At least since Pura Meru is the center of religious belief of the city, it can be concluded that the small shrines built in Swah symbolises the unity of the community of Cakranegara.

 

2-2. Pura and Karang

In general, each karang of Cakranegara has its respective pura. The location of pura and karang of the city are shown in Fig. 2-5. Although there are karangs either without such standard structural relationship with pura or even without it, yet it is still possible to discern a basic pattern in the organization of karang with pura as its community center. Among 33 karangs related to Pura Meru, eight are found to be located in the district of Kederi at the southern suburb of the city.

A comparison between the present name of the karangs and those inscribed in the three major temples and 33 shrines indicates certain changes that did occur in the intervening historical periods. One of them is the community with shrines in Pura Meru but which has since disappeared and the karang itself in no more in existence. The second is that there is both the existence of the shrine in Pura Meru and the corresponding karang, but there is no pura in the karang itself. It thus indicates that there have occurred changes in the constitution of karangs. However, the greater numbers of karangs are still in existence and have been there from the initial stage of their establishment in 18th century. This part of the history was explained to us in an inquiry made to the grandson of the king of Karangasem.

 

3. The Process of Formation of Karang

Cakranegara was built as a colonial city in the first half of 18th century by the king of Karangsem of Bali. We have been told that each karang of the city was called after the name of the settlement of origin in Bali and that the original inhabitants of each karang came from that settlement. A map of Bali Island drawn by the survey department of the Japanese Cavalry in 1943 was checked in order to confirm this relationship of community structure of Cakranegara35. The area that has been checked is shown in Fig. 2-6. It is found that 15 karangs of Cakranegara have the same name with the settlement of Karangasem prefecture of Bali. One is found in Buleleng, and with yet another one is bearing the name of the Buleleng prefecture itself. The seventeen karangs thus confirmed shows that karangs of Cakranegara were, in general, named after the settlements of Bali. It is a general phenomenon in the colonial towns that a migrating colonizing community plants the name of its place of origin to the soil of the new settlement. Our inquiry to the inhabitants of the city also suggests that there is still strong memory of the inhabitants to relate themselves with the villages and settlements of Bali, an additional support that the karangs of Cakranegara were settled by the peoples coming from the same villages of Bali.

 

4. The Process of Development and The Initial Planned Area

Among the 17 karangs whose names were verified from the settlements of Bali, 12 have their shrines in Pura Meru. It may be said that at least, these 12 karangs were planned and settled at the initial phase of the development of Chakranegara. Most of these karangs are found to be concentrated on the western sector of the city. This along with the fact that the western sector has streets of regular grid pattern suggests that the city was first developed along the western sector. Fig. 2-7 shows the areas that are named after the settlements in Bali and the areas that have their respective puras in their karang, and the shrines built in Pura Meru. In addition to the planned clusters at the western sector, there is one karang--No. 20 (Kr. Abiantubuh Selatan)-- at the southern tip of the city, which has similar block division pattern as in the central areas. Similarly, there is No. 21 (Kr. Jero) in the north and No. 23 (Sweta) in the east. Cakranegara did suffer severe damage in its war with Holland, and thus, there are some difficulties in making definite statements on the original planning concept by analyzing the existing structure of the city. Yet it would be reasonable to consider that the areas that have puras and respective shrines in Pura Meru broadly indicate that area of Cakranegara that was planned at its initial stage of development.

 

Summary

Cakranegara planned in a regular gridiron pattern was built as a ceremonial city with Pura Meru as its ritual center. Following characteristics of the planning of Cakranegara can be outlined from the shrines dedicated to various Hindu deities in Pura Meru and the distribution pattern of the karangs that maintain these shrines:

a. The residential districts of Cakranegara were organized into karangs, and as ritual communities of the central temple, Pura Meru, of the city.

b. Karang represents the socio-spatial organization of Home communities of Bali in Cakranegara.

c. The area of development at the initial phase of the construction of Cakranegara can be inferred from the distribution of karangs that maintain the temple towers and shrines. However, it should be noted that this tradition did continue to cover the wider area of kecematan Cakranegara. It is especially apparent from the areas that are at the extended tips at the south, east and north of the city, which have puras in karangs and the respective shrines represented in Pura Meru.

d. The fact that the original settlers of Cakranegara came from Bali and that the name of the karangs of the city inscribed in Pura Meru were derived after the names of respective settlement and villages (banjar) that they came from enables us to broadly outline area of initial development of the city. While the western sector of Cakranegara was developed at the beginning phase, it is also thought that the northern part of the city was included in the initial planning.

We intend to analyze, in the next paper, (1) the residential segregation between the Hindu and Muslims, and among the casts of Hindu community and (2) the general planning concepts and principles in the building of Cakranegara by comparing our analysis with the royal capital as described in Nagara-kertagrama, the chronicle of Majpahit kingdom of 14th century, and found in the palace of Cakranegara.

 

Ⅲ CHARACTERISTICS OF HABITAT SEGREGATION

We consider that Cakranegara was constructed based on the idea of Bali Hindu City. This part clarifies the characteristics of habitat segregation among Muslims, Chinese and Balinese. The segregation of living according to caste among the Balinese is also clarified. The structure of segregation pattern in Cakranegara is clear. The basic structure is as follows: (1) Balinese live in the central parts while Muslims live at the periphery of the city. The housing lot and the street pattern are completely different between the areas of Balinese and those of Muslims. (2) Each community unit, known as karang, has a pura, a Hindu temple or a Masjid. (3) Chinese are scattered in all the areas of Cakranegara. Chinese basically work in the commercial sector. (4) Balinese make segregation in the living area according to the caste hierarchy. Brahmana live in the north and eastern part of the city. Ksatriya are in the west while Gusti live in the south. People related to the royal family live in the vicinity of the place where previously the palace was located.

This part will make a study of the principles of the structure of residential quarters by analyzing the settlement segregation patterns in the living quarters of the city of Cakranegara in the island of Lombok, Indonesia. The term 'segregation', as used in this paper, implies the separation of living areas of the various communities as identified in terms of religion, ethnicity and caste.

It is thought that the city of Cakranegara, built in a regular grid pattern, as a colonial town by the Karangasem kingdom of Bali in the first half of 18th century was constructed according to certain ideals of the Hindu city planning principles. The first part of this research, using the survey measurement data on the street pattern and the plot divisions demonstrated that the city was a planned construction based on a standard module of measurement. The second part analyzed the central temple of Cakranaegara, Pura Meru36. The study of the organization of shrines within the temple complex, their maintenance and their respective communities shows that the shrines were built by the inhabitants of Cakranegara who were regional communities migrated from certain regions, known as karang, of Bali.

Here, we will first give a general outline of the segregation of living quarters between the Muslims and the Hindu community and then make an analysis of the characteristics of the segregation among the various castes within the Hindu community. With respect to the study of segregation, a general survey on the pattern of land divisions and the segregation of living quarters was conducted covering the whole area of kecamatan Cakranegara. In particular interview records on the religion and ethnicity of the inhabitant of each plot surveyed were noted. The castes among the Hindu communities were noted by enquiring the name and surname of the inhabitants. The results are shown in Fig. 3-2, 3 and Fig. 3-5 to Fig.3-8, which show the segregation pattern as delineated in the units of residential plots.

 

1. Inhabitants of Lombok Island

1-1. Ethnicity in the Lombok Island

The indigenous people of Lombok Island are Sasaks and occupy nearly 90% of the population of the island37. Following the adaptation of Islamic religion in Lombok, Sasaks have been divided into 3 community groups--Bodha, Waktu Telu and Waktu Lima. Bodhas who continued their local religion are no more in the scene while there is still a differentiation between Waktu Telu (also known as Waktu Tiga38) and Waktu Lima. Waktu Telu are those who accepted the Islamic rule but did not change their religion while Waktu Lima are those who changed their religion as well.

In the rest of the population of the island, Balinese constitute the major community group. Balinese have continued their Hindu life style and made a strong cultural influence in the Sasak community. Almost all of the Balinese population is concentrated in the Western Lombok with Cakranegara as the center, and most of them preserve memory of their relationship with the ancestral place--the karang and the Karangasem of Bali. The animosity created by the historical encounters39 of Sasaks with Bali, and the conflict with the Hindu and Islamic religions continues to be a problem up to modern times.

Other communities of minority are Chinese, Javanese, Arabian, Maccasar (Bugis), Sumbawa and others. In the harbor town of Anpenan, there are still special localities of these communities with names such as Arab kampong, Bugis kampong and Malay kampong, etc.

The Makkasars engage in fishing and its trade, and their peculiar dwellings raised in timber stilt can be found distributed in the small isles and at the coastal lines. Most of these settlements are the developments of recent times.

Most of the inhabitants of Chinese origin came from Canton and play vital role in the island. At the beginning, Chinese are said to have come with the Dutch in the island as cheap laborers. Later they became an important economic force in the island. At present, they are concentrated in Ampenan and Cakranegara, the two commercial centers of the West Lombok. Until 1966, there was a Chinese settlement district in the harbor town of Labuhan Haji in East Lombok. But following the September 30 incident in 1965, the hatred among the orthodox Muslims against the ethnic Chinese grew to such an extent that all the houses of the Chinese people were burnt down. Following this incident, all the Chinese moved to the suburban areas of Ampenan with a result that Labuhan Haji stopped to function as a harbor. The crucial economic position the Chinese held in Lombok is demonstrated by this historical event.

The Javanese are mainly engaged in the government bodies and military organs. The Arabians hold special role in the religious life of Lombok. Known as the children of Mohammed, they perform priestly roles and receive special privilege in the religious matters. They live in an area called Arab kampung, separate from other communities. They conduct marriage within their own community and, in commerce; Arabs have a rival relationship with the Chinese.

The 1990 census of Indonesian government states the population of Lombok island as 2, 403,025. Within it, the population of West Lombok is 858,996, Central Lombok is 678, 746, and East Lombok is 865, 283. Although the exact population of the island at the end of 19th century is not known, according to the data estimated during those periods by Willemstijn40 of Holland, the total population of the island was 656,000 (Sasaks--600, 000, Balinese--50, 000, others including Bugis, Madura, Arabs, and Chinese--6000). However, Ten Have41 in 1894 gives the population to be 405, 000 (Sasaks--380, 000, Balinese--20, 000, Bugis and Chinese--5000). A. v. d. Kraan42 suggests a medium population of the above two reports giving a total population of the island to be 530, 000 (Sasaks--490, 000, Balinese-- 35,000 and others--5000).

The census data of the early 1920's records a total population of 617, 781. Half a century later, the census of 1971 gives the population as 1, 581,193 (348, 099 households with 4.5 members per households). The population according to the administrative zones is--West Lombok, 509,812; Central Lombok, 476, 986; East Lombok, 594, 595. In this census, 94% are Sasaks, the rest 6% include Balinese, Sumbawa, Makkasar, Chinese, Javanese and Arabs. The regional distribution of the ethnic population is given in Table 3-1. It is evident that Balinese are concentrated in the west while Sumbawa and Makkasars are in the East Lombok.

1-2. The Social Structure of Lombok Island43

A general introduction of the social structure is considered as a prelude to understand the survey analysis of the structure of the city of Cakranegara to be followed.

In the later half of 19th century, the Balinese King and the ruling elite known as Triwangsa44 were the powerful class of Lombok. The beaurocracy of administration--baudanda, the court of justice--pedanda and the custom and tax supevisory body--sedahan, all was within the hand of the class belonging to Triwangsa. The supreme head of Sasaks--punggawa, was only acting as a village head or the tax collector for the chief district officer who was a Balinese.

The rule of the Balinese in Lombok was somewhat different in the East Lombok. Balinese have firmly consolidated themselves in West Lombok and since there were no Sasak kingdoms in the region, there was a relatively amicable relationship between the ruling Balinese and the Sasaks. The Sasak peasants belonged to Waktu Telu and participated in the religious rituals with Balinese in the same temples and shrines. In addition, there were occasional intermarriages between the two communities. The two communities were also involved in the same irrigation network and organization, called subak, for the rice cultivation. It means that there was a process of social and economic integration in the West Lombok between Sasaks and the Balinese.

However, in the East Lombok, although the Balinese rule was established in 1840's, there was a general dissatisfaction among the aristocratic class of Sasaks, and their relationship with the Triwangsa class was not peaceful. The aristocratic Purawangsa belonged to Waktu Lima and there continued bitter religious struggles with the Balinese. The Sasak peasants, on the other hand, did have strong cultural bond with the Purwangsas as their leaders. But East Lombok was also firmly in the hand of the Balinese rule and it is thought that during those times, there were around 50 pungawas with puri as the center in the hands of Balinese authorities.

The agricultural fields were, in general, divided into two kinds. One is the land, known as druwe dalem, directly belonging to the king and the other was druwe jabe, which belonged to the people other than the palace.

Druwe dalem was divided into three different types of land-- (1) the land given to the peasants in return to their annual labor and tax in kind. This kind of land, called pengayah, could not be sold. (3) The third type of the land called wakap exacted both the tax and the labor. These lands were to support the religious institutions such as temples and mosques, and could not be sold.

Druwe jabe was also divided into two kinds of land. (1) druwe jabe Bali was the land belonging to the noble families related to the royalty. The king did not collect the tax and revenue from these land but the nobles themselves collected the tax for their own purpose. (2) druwe jabe Sasak belonged to the noble families of Sasaks but other regulations pertaining to this kind of land was same as to druwe jabe Bali.

In the second half of the 19th century there existed two pyramids in the social structure of Lombok. The first, there was the Balinese king at the top followed by the Triwangsha class with Balinese peasants at the base of the pyramid. The next pyramid had the Balinese king at the top with Sasak noble families below and supported by the Sasak peasantry. The position of the Balinese pyramid was relatively high in the hierarchical status of the society of Lombok.

 

2. The Inhabitant Structure of Cakranegara

The population of kechematan Cakranegara is around 74,000 (1990). The population structure by kerurahan, according to religious belief, within the kechematan divided by the grid structure of the city shows that the majority of the inhabitants in the four sectors, viz., West Cakranegara (Cakranegara Barat), East Cakranegara (Cakranegara Timur), North Cakranegara (Cakranegara Utara), South Cakranegara (Cakranegara Selatan), are Hindus. Hindu population is in the majority in more than 80% of the karangs in West and East Cakranegara, while it is more than 55% in the North and South Cakranegara (Fig. 3-1, Table 3-2).

In particular, there is an evident characteristic in the distribution of Muslim population. Muslims live at the peripheral area of the city (Fig 3-2). In the western sector, the quarters of Muslims run at the border of the city blocks enclosed by marga. One kriang at the west of Bj. Pande Utara and another at the west of Bj. Pande Selatan are inhabited by Muslim communities. The area at the north of Kr. Sampalan is thought to have been developed as a Muslim settlement in later times. In the south, Muslims are found at the periphery of Kr. Abiantubuh. Kriang Getap is known for iron works and is settled by Muslims of lower income group. In the east, Desa Seganten can be divided into four kriangs that are all settled by Muslims. The breakdown of the regular grid pattern more apparent in this eastern part of the city area is explained by this distribution of the Muslim settlement. In the north, Muslim is, in similar manner, settled in the peripheral zone. It is seen that the Hindu population of the city is surrounded by the communities of Muslims residing at the periphery. Muslims are found at the central area of the city only in certain part of the kampung Java and karang Bedil.

The ethnic Chinese are settled in all the areas of the city but their major concentration is found in two areas--one in the adjacent belts of the city central areas and next is along the belts of the major streets. In the central areas line up money shops are managed by Chinese. Most of Chinese of Cakranegara are primarily involved in the commercial sectors.

 

3. The Structure of the Residential Quarter and The Distribution of Facilities

Although karangs in an urban block is one unit of residential quarter with around 20 households, it has various forms with instances where a karang even crosses the major street--marga dasa. There is certain pattern in the distribution of urban facilities such as mosques, puras and shops, and the structure of karangs. The distribution of mosques and puras are related to the distribution pattern of the Muslim and Hindu communities. Mosques are located in the settlement areas of Muslims. In addition, there are 3 mosques built at the central part of the city. There are also 3 Christian churches, and Buddhist temples of the Chinese communities.

 Market centers called pasar, selling foods, fresh fish and vegetables and other daily necessities are evenly distributed with one at the center and 4 others located at the north, east, south and the west sectors of the city. Other commercial shops are concentrated along the major street--marga sanga. Schools are located in each residential sector with one for several karangs.

 

4. The Structure of Segregation

4-1 The Hindu and The Muslim Settlement Areas

There are differences in the spatial structure of the Hindu and Muslim settlement areas45. In contrast to the regular grid pattern of the settlement areas of Hindu community, the areas inhabited by the Muslims have no such regularities in the street pattern and appear to be haphazard. The streets become zigzag and get narrow and finally end to a cul-de-sac. Accordingly the dwellings also face in all directions. The residential density is high and number of households in a neighborhood unit also differs considerably.

In the Hindu community quarters, although the structure of residential plots is not the same as the typical form of the Bali Majapahit, but all the plots have their sanga--the deity of the dwelling plot, at the northeast corner of the plot. In the recent times, the original plots have been divided or merged thus changing the original structure.

In some of the Muslim areas, the divisions of the residential units were in regular grid as it is in karang Seraya. It is because, in the northern part, there are plots of Hindu community inhabitants divided in regular grids. But this pattern was changed to a great extent by the new pattern of narrow lanes and the construction of houses along these lanes. There are also many lanes with dead ends. There is a distinct contrast between the areas where individual houses are built to form a cluster within an enclosed quarter, and where houses are built along with the extending of the street.

4-2. The Distribution of the Caste

In Cakranegara, as in India, there is a caste, the waruna system, with four hierarchical levels--Brahmana, Ksatriya, Wesya, and Sudra. In the Brahman community, the men are called Ida Bagus and the woman Ida Ayu or Dayu. The offspring from the intercaste marriage, where the mother is of lower caste than the father, is not a Gusti but Gusti Bagus (the female offspring is called Ida Made or Ida Putu). Although the categories among the Ksatriyas is a complex matter, but, in general, they have titles such as Prdewa, Pengakan, Bagus and Prasangiang.  Titles like Dewa Agung, Cokorda, and Anak Agung are also found in history. Almost all the Vaisyas are called Gusti. Sudras, as they constitute about more than half of the Hindu population, are known as Bali biasa (the common Balinese) or Jaba46 In India, in accordance with Manasara, it is a basic pattern to find Brahmanas at the north, Ksatriyas at the east, Vaisyas at the south and the Sudras at the west of the settlement.

In Cakranegara, Brahmana communities are found more concentrated at the north of the city. There are also Brahmans in the east and at the northeast of the block at southern tip of the city and at the central part of the western sector. It is of significance that the greater concentration is at the northern sector. At the northeast direction of Cakranegara, there is the holy mountain Rinjani, and it can be said that the location of the mountain was in the consciousness of the planning, as it is clear from the orientation of puras around the city of Cakranegara, which take into account the direction of the holy mountain. It is also of relevance that sanga deity of each dwelling plot is enshrined at the northeast corner of the plot. This structure of orientation reflects the Bali Hindu idea of orientation than the Indian concept as such.

Ksatriyas and Vaisyas, although are a distinct concept, the differentiation in social practice among the inhabitants is not so clear. In particular, it is more ambiguous among the Vaisyas. If Gusti is to be considered as Vaisyas, their distribution is even in all the areas with a greater proportion in the east. While those who consider themselves Ksatriyas are distributed more at the west of the city. Families related to the royal court such as Agun, Ratu, and families with titles Cokorda, Dewa, which are few in number, are located around the vicinity of the royal palace at the east. The areas of major concentration of Ksatriya in the west and Gusti in the east are as shown in Fig. 3-7 and Fig. 3-8. If Gusti is considered as Vaisya, the distribution indicates clear pattern in the segregation of settlement according to caste structure.

Sudras, the Bali biasas, are distributed in all the areas of the city. At the initial phase of the settlement as has been shown in the previous paper (part 2), they were settled in the karangs of the communities related to the original ancestral place of habitation in Bali.

 

Summary

The characteristics of segregation pattern in the settlement quarters of Cakranegara, as described above can be summarized as follows:

a. The Hindu population occupies the central areas of the city while Muslims are settled at the periphery. The difference in the pattern of streets and the residential plots between the two areas is distinct.

b. There are puras and mosques in each karangs, as well as a mosque at the center of the city.

c. Ethnic Chinese are settled in all the areas of the city. They are mainly involved in the commercial sector and are more concentrated along the major streets of the city.

d. There has been segregation in the living areas according to the caste system within the Hindu community.

e. Brahmanas, as the priest class in the Hindu community, live at the northern and eastern part of the city.

f. Among the several categories of Ksatriya, the major concentration is at the west, while Gusti is more concentrated at the eastern sector.

g. The families of Agun, Ratu and others related to the royal family live in the vicinity of the palace.

 

 Now, we have got some materials to discuss the space formation of capital of Majapahit Kingdom described in Nagara-Kertagama.  In the next paper we intend to analyze Nagara-Kertagama to make further studies on the planning concept of Cakranegara and compare the characteristics of settlement planning with other Indian cities, in particular with the city of Jaipur, which was planned and constructed during the same period.

 

Acknowledgement

This research work was conducted with the financial assistance of Housing Research Foundation (no. 9102). We received the guidance from T. Ohji (Southeast Asia Research Center, Kyoto University) as a collaborator in the research. We express our sincere thanks to all of them.

 

 

End Notes   

1. The climate, wildlife and vegetation changes at the east and west by the Wallace line. Bali has the marine climate of the east Pacific while Lombok Island belongs to the Australian climatic zone.

2. Nagara-Kertagrama is an ancient chronicle on the Majapahit kingdom of Java of 14th century written in coconut leaf and is preserved in Leiden University Library. It was discovered. It is significant that J. Brandes, a linguist, discovered the chronicle in the palace of Cakranegara in Nov. 18, 1894. . Pigeaud, Th. G. (1960) has given the translation and explanation of this work in 5 volumes. Th. G. Piegeaud, "Java in Fourteenth Century" vol. 1-5, The Hague.

3. Studies on the cities, settlements and house form have been done by Funo Shuji (1992, 1994) and Yoshihisa Wakita (1995).

4. Following Ref2-9 are the notable works on Cakranegara: These works are on the history and geography of Cakranegara and do not describe the spatial structure of the city.

5. See "A comparative approach on the integrated study of Islamic urbanism"--The Key Regions Research Program of Ministry of Education (1988-1991).

6. See Kautirlya, Utilitarianism--The Kingship in Ancient India (Uemura Katsuhiko Iwanami Bunko, 1984). This work was the basis in the reconstruction of the ancient city by P. V. Begde and W. Kirk. However, T. Ohji has proposed an explanation based on the concept of Mandala (1990).

7. Ancient Indian classic of Architecture. Silpasastra is the general science on the art of city planning, architecture, art and sculpture and collectively denotes the Sanskrit literature on these fields. The most complete work on Silpasastra is Manasara while other 9 works are Mayamata, Casyapa, Vayghanasa, Schaladhicara, Viswacarmiya, Sanatkumar, Saraswatyam, and Pancatantram.  The author of Mayamata is said to be Maya. Maya is considered to have edited the astronomical work Suryasiddhanta. The contents of Mayamata do not differ much from Manasara. Casyapa is the name of the author himself. But he, according to the mythology, is a legendary ancestor said to be the first of the seven seers who escaped the great flood and thus is a mythical personality. Vayghanasa is also the author's name and is the founder of Vainava priesthood. The content of the book are more religious in nature than architecture itself. Schaladhikara is said to be authored by Agastya. This work is unique in some of its content and is an excellent work on Sculpture. Other works are not much different from Manasara.Viswacarmiya is based on Mayamata and is close to Manasara in its description. Sanatkumar is based on Viswacarmiya and is within the tradition of Manasara. Accordingly, Manasara has been the most referred work in Silpasastra. In the work titled Manasara Silpasastra, 'mana' means the measurement and 'sara' is the essence. Thus 'manasara' is the essence of measurement. But Manasara being the title of the work is also said to have been named after its author. Again, 'silpa' means the code and 'sastra' is the science; 'vastu' is architecture and 'vastusastra' is the science of architecture. Thus Manasara should have properly been called Manasara Vastusastra. According to P. K. Acharya Manasara was completed during the period 6th and 7th century in South India. Murata Jitaro however considers that the work was a recension of recent centuries when considering its descriptions of architectural forms.

Another work in Sanskrit giving a detail account on the constitution of the city is Arthasastra. Its expositions on the ideal form of the capital city are plainly stated. Arthasastra is a work arguing for the prosperity of a nation. The author is said to have been the prime minister of the famed Chandragupta I of Maurya dyanasty during 4th century BC. and is thought to be the Kautilya--the ancient hero. This work was edited during a period between 2nd century BC. and 2nd century AD.

There are a number of research publications on Manasara. Among them, the works of P. K. Acharya is considered to be encyclopedic. See P. K. Acharya (1934).

8. The administrative organization of Indonesia is in the following hierarchic order: the lowest basic neighborhood community unit RT (Rukun Tetanga with 30 to 100 households), RW (Rukun Warga, the neighborhood association), kerulahan (ward) and kechamatan (district).

9. Tim Departmen Dalam Negari (1977)

10.In the esoteric Indian concept on the psychic energy of the human body the energy is concentrated on, and channalised from the nodes located at certain stations of Susumna nadi--the spinal chord of the body. These nodes are known as cakra.

11. Arumugam, S. (1990), Departmen Pendidikan dan kebudayan (1990).

12. The map produced by the land survey department of the headquarter of the Japanese cavalry force (1942, Jan). The map is considered to have been based on the work done by Holland. There are 6 sheets of map that link from Ampenan to Cakranagara.

13. Informations from Ide Bagus Alit, a senior (Pengusap) of Cakranegara. Marga means street and is a Sanskrit word. Marga is used for street and as a community unit also in the city of Jaipur in India.

14. In Bali, there exists a concept known as nawa sanga regarding spatial orientation, which is a system of 4 cardinal and 4 intermediate directions with the center.

15. The street running north south is called JL. SLI Jasanudin, and that running east west is called JL. Selaparang. Cakranegara is situated at latitude of 8 degree south of the equator and setting of the sun was observed with the course of the sun along the path of the east-west street during the time of our field survey in the month of September.

16.  Tagtag in Balinese means the standard of level or height.

17. Information from Ide Bagus Alit who worked as the head carpenter.

18. Information from the ex-priest P. Jelantic.

19. Information from the ex-priest Lala Lukman.

20. Ibid. note 17.

21. Ibid. note 18.

22. At present, karang corresponds with the RW, a unit in the administrative organization of Indonesia. 23 Ibid. note 19.

24. Ibid note 8.

25. The personal inquiry to the old peoples and relevant literatures indicate that karang was a community unit in the ritual ceremonies of Cakranegara.

26. Yoshida, Teigo (1992), p 54.

27. Pigeaud, Th. G. (1960).

28. The history of Lombk Island before the invasion of Karangasem of Bali, in brief, is as follows:

The Javaisation: There are not yet direct evidences to prove the control of Lombok by Java kingdom, but the Nagara-kertagrama notes that Lombok Island belonged to the Majpahit kingdom. R Goris mentions that the people of Sembalun at the northeast of Lombok believe that they are the descendents of the Hindu Java and relate the grave of one of the member of the royal family of Java located in the nearby of the region. Some form of historical link is presumed since there is a strong influence of Javanese Hindu in various aspects of Sembalun Valley inhabitants, such as language, music and dance, mythology and the names of sacred objects.

There existed a kingdom of Sasak nationality in between the period from 9th to 11th century. According to a chronicle known as Babad Lombok, the most ancient kingdom of Lombok was in the village of 'Lae' in kecematan Samperia, but later a kingdom came into being in Pamatan of kecematan Aikumeru. It is thought that this place was in Sumparu Valley. The influene of Java in Lombok was within this historical background.

It is said that a prince of Majapahit kingdom, Laden Majapahit established a kingdom called Palang. This kingdom is thought to be Serapalang, which, up to present time, is the alternative name of Lombok Island. Further, a state called Purigi is known from 13th century. It was established by the people who migrated from Java, and Lombok Island, during those times, was also known as Purigi. It is also known that there was one state called Kudaro of Burungas. Several small kingdoms in Lombok are also noted by Nagara-kerutagrama.

By the middle of 14th century Majapahit begins to invade Lombok Island. It invaded Bali in 1343, and by 1344 Lombok falls within its sphere of influence with Surapuran and Kudaro belonging to the kingdom of Majapahit. The fall of Majpahit kingdom was followed by the formation of many small kingdoms in Lombok. The most renowned among them is the kingdom of Rabuhan Lombok.

Islamization: Islam was introduced in Lombok by the middle of 16th century in the period between 1506 and 1545. According to Lombok chronicle, Susuhunan Ratu of Giri ordered for the propagation of Islam and it was Susuhunan Pangeran Prapen who carried the order in Lombok. When Prapen used force for the conversion to Islam, he then moved forward towards Sumbawa and Bima people. It is said that in this period, the natives of Lombok again reverted to their local religion. The return of Prapen to Lombok re-established and consolidated the Islamic influence but a certain part of the population escaped away from the Islamic control and moved to the mountain hills. Some of the population, although submitted to the Islamic control, but did not convert to its religion.

Van Eerde and G. H. Bousquet, the sociologists at the beginning of 20th century, say that there were three religious groups in Sasak tribes--Bodhas, Waktu-Telu and Wakt-Lima. Until the beginning of 20th century Bodhas could be found in several villages in the northern and southern mountain ranges of Rinjani plateau Bodhas, committed to their tribal religion, were Sasaks by language, culture and nationality, and are thought to be those people who escaped to the mountains from the Islamic invasion. While, according to Lombok chronicle, Waktu-Telu are those groups who accepted the Islamic control but did not converted into their religion. It was the group of Waktu-Lima who converted into the religion of Islam.

29 Ref 2

30 As the animosity among the four kingdoms reached its climax, the king of Mataram kingdom, Gusti K'tut Karangasem, supported by the Karangasem military, the puppet king of the English merchants and the Islamic Bugis led a war against the king, Ratu Ngurah Panji, of Cakranegara. It resulted in the capture of the palace of Cakranegara by the Mataram forces, and the battle ended with the mass suicide (puputan) of the king Ratu Ngurah Panji and 300 others in the palace.

31The king of Mataram leaves the throne to his eldest son Ratu Agung K'tut Karangasem. Besides, Dewa Agung of Krungkun who was the susuhunan of Bali installed Ide Rato in the vacant throne of Cakranegara... With the end of the war, Ratu Agung was, in reality, at the center of power in the region of West Lombok. This challenged the royal authority of Ide Ratu, which brought a collision between the king Ratu Agung and Dewa Agung of Krungkung.

Ratu Agung then used the conflict between Dewa Agung and Dutch East India Company, and between Krungkung and Bureren kingdoms. He sent hia army to Bali and played intrigue corrupting the Karangasem family. He finally installed his man on the throne of Bali.

The kingdom of Karangasem Lombok that existed in 18the century was totally reorganized. In this new order, Gusti Wayan Tega became the ruler of Cakranegara region subordinating to the Ratu Agun, the king of Bali Karangasem.

32. Wakita, Yoshihisa Spatial orientation in the settlements of Balinese and Sasaks in the island of Lombok, Indonesia. Transactions on Architecture, Planning and Environmental Engineering, AIJ, Nov., 1996.

33. Beringin is a Gajumal tree, and is considered sacred in Bali and Lombok. Beringin is grown in Pura and Puri (the residential quarter of the ritual communities related to Pura), and at the four corners of karangs.

34. Nunka is a jack wood belonging to Futabaki family.

35. In Indonesian language the vowel 'e' is pronouned as' u'. Thus we consider that kebe = kube and Sidemen = Sidumen. Likewise, kebong and kemong also have similar pronounciation. 

36  It is located at the center of Cakranegara city, and symbolizes the world cosmic axis Mount Meru. Pura Meru is the biggest temple in all the puras of Cakranegara. The pura facing the main east-west street of the city is enclosed by high compound walls with red roofing tiles. It was constructed by the king Agung Made Ngurah of Bali Karangasem kingdom in 1720 as a symbol of unity of all the small kingdoms of the Lombok island.

37 Wakita, Yoshihisa (1995) Spatial Structure of the Settlements of Desa Bayan of Lombok Island, Indonesia. Journal of Architecture, Planning and Environmental Engineering, AIJ, No. 478, p61-68.

38. 'Tiga' in Indonesian (Malay) language means three and which is 'Telu' in Sasak. Telu means 3 and Lima means 5. It is so said because Waktu Lima are the devout Muslims who make their prayer 5 times in a day, while Waktu Telu are so called because they have faith in all the three religions--animism, Hinduism and Islam.

39 The Sasaks consider that Holland helped to liberate them from the Rule of Bali and do not necessarily criticise the Dutch colonialists.

40 H. P. Willemstijin, "Militair-aardrijkskundige beschrijving van het eiland Lombok', IMT, 1891 (Alfons van der Kraan, "Lombok: Conquest, Colonization and Underdevelopment, 1870-1940", Heinemann Asia, 1980).

41. J. J. ten Have, " Het eiland Lombok en zijine bewoners", Den Haag, 1894 (Alfonso van der, "Lombok: Conquest, Colonization and Underdevelopment, 1870-1940", Heinemann Asia, 1980).

42. Ref2 Alfonso van der Kraan, "Lombok: Conquest, Colonization and Underdevelopment, 1870-1940", Heinemann Asia, 1980.

43 on the social structure of Lombok Island see Ref. 2 and Ref. 6.

44 Wakita, et. al., The Sacred Places, Settlements and Orientation of Balinese and Sasaks in Lombok Island, Indonesia. Journal of Architecture, Planning and Environmental Engineering, AIJ, No. 489, pp. 97-102.

45. Fred B. Eiseman, Jr.: BALI Sekala and Niskala, Vol. I, Periplus Editions, Berkeley, Singapore, 1989, pp. 25-38.

 

References

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