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2021年3月21日日曜日

現代建築家批評07 建築探偵から建築家へ 藤森照信の軌跡

 現代建築家批評07 『建築ジャーナル』20087月号

現代建築家批評07 メディアの中の建築家たち

建築探偵から建築家へ

藤森照信の軌跡

 

布野修司

 

メディアの中の「建築家」たちとして、安藤忠雄に継ぐ、あるいはそれを超える存在は藤森照信である。『建築探偵の冒険 東京編』(1986年)以降の一連の「建築探偵」シリーズのポピュラリティは群を抜いている。 

建築史家として出発して、40歳を過ぎて建築家としてデビューした、その軌跡自体は一般に思われるほど奇異ではない。村野藤吾にしても独立は40歳を超えてのことである。丹下健三でもデビュー作は40歳近い。それまでを修行期間と考えれば、藤森は「建築家」になるべくしてなったのである。

日本の建築史学の祖である伊東忠太を持ち出すまでもなく、建築が先であって、建築史は後である。建築史が史学となるのは実証主義史学に取り込まれることにおいてである。

一方、建築家にとって建築の歴史は自らが拠って立つ存在基盤である。安藤忠雄が徹底して学んだのは近代建築の歴史である。毛綱毅曠、石山修武、渡辺豊和といった建築家たちが建築史の研究室の出身であることも決して偶然ではない。日本建築学会でも「歴史意匠」という(分野、委員会があるだけである)。建築史学会が別に結成されているが、歴史と意匠は本来不可分である。

もともと建築家になりたかったのだ、と考えれば、その軌跡は一貫するものとして理解できる。安藤が「建築少年」であるのと同様、藤森照信も「建築少年」である。底抜けに建築好きなのは共通している。一般の人々の心を打つのは、「建築」を「つくる」(そして「見る」)素朴かつ根源的な楽しさである。

藤森が向かったのは、建築の過去であり、明治であり、原始であり、自然である。

 

 諏訪郡宮川村高部

1946年、敗戦1年後に長野県諏訪郡宮川村高部に生まれた。団塊の世代である。3年後輩ではあるが、同じように出雲の田舎から上京した僕は、都会生まれとは異なる感覚をなんとなく共有しているのだと勝手に思っている。『ザ・藤森照信』(2006年)に小学二年生まで住んだという幕末に建てられた生家の平面図があるが、僕が生まれたのも出雲の「四つ間取り」の民家だ。母方の祖父が大工だというが、僕の父方の祖父も大工だ。そもそも『古事記』には、建御名方命(たけみなかたのみこと)が出雲から州羽(諏訪)に進入し、諏訪大明神になったというのだ。もっとも、『タンポポの綿毛』(朝日新聞社、2000年)を読むと僕が3歳年下であることを割り引いても、テルボ(藤森)少年の育った諏訪郡宮川村高部は僕の育った簸川平野より20年は「遅れていた」ような気がしないでもない。「ニワトリをつぶす」のは見たことがあるが、トンボやチョウは食べたことがない。

東大闘争の余波で卒業が一ケ月遅れ、6月入学であったが、1972年に東京大学の大学院に入学して僕は藤森照信に出会った。太田博太郎先生の「建築史学史」の授業だったと思う。一緒に「闘った」り、議論したりした仲間とは違う学部では見かけなかった顔だったから、よく覚えている。年表を見て知ったのだが、東北大学で2年留年したのだという。一年前の修士課程入学であった。建築史研究室では、陣内秀信、渡辺真弓、六鹿正治らと同学年である。

一年後、「雛芥子」同人であった三宅理一、杉本俊多が稲垣栄三研究室に進んだこともあって、常に身近にいるという感覚が今でもある。東洋大学に移って国分寺に居(公団の分譲住宅)を構えたとき、同じ国分寺に住んでいた縁で、子供連れで訪ねて来てくれた記憶がある。逆に、まだ大野勝彦設計の「セキスイハイムM1」に住んでいて、やっぱり「家には屋根がないと」と木造の一棟を増築したばかりの藤森邸を訪ねたことがある。中央線を挟んで北と南、ほぼ同じ距離にそれぞれの根拠地は今でもある。「布野は皇居に向かって左、俺は右だ」というのが藤森照信の言い草である。

その後、広島大学に藤森客員教授、布野客員助教授というコンビで通ったことがある(1997-98年)。既に『丹下健三』を構想、執筆中で、「広島平和記念公園」の軸線計画や未発表であった淡路島の「戦没学生記念館」について随分と聞かされたものである。

京都に移って、しかもアジアを飛び回りだして、一緒に仕事をすることはあまりなかったが、ほとんど全ての著書は送ってもらってきた。その眩いばかりの軌跡を着かず離れずはらはらしながら僕は見てきた。

「歴史家」としての性(さが)なのであろうか、還暦を前にして藤森は既に自分史(自筆年譜)を書いてくれている(「特集*藤森照信 建築快楽主義」『ユリイカ』、200411月号)。多くの評伝を手掛けてきたから、後世現れるであろうもうひとりの「藤森照信」に多くの手がかりを残しておいてやろうということなのであろうか。自らを自ら神話化する言説集『ザ・藤森照信』(エクスナレッジ、2006年)も既に編まれている。

故郷をめぐって「日々の暮らしは江戸時代の延長のようなもんだったと思う」と藤森はいう。「江戸時代と明らかにちがっていたのは、明かりが灯火ではなく電灯、井戸にかわって水道、障子の真ん中にガラスがはまっていたくらいだ。・・・・全国どこでも田舎の暮らしは、高度成長の前までは、そんなもんだった。」(『タンポポの綿毛』「あとがき」)

藤森の建築観の基底には故郷・諏訪がある。『タンポポの綿毛』に描かれた少年テルボの世界がある。処女作「神長官守矢資料館」(1991年)にしても、「高過庵」(2004年)にしても故郷に建っている。NHK番組「課外授業へようこそ 家は自分で建てよう」(2001年)は、故郷に縄文住居を建てるというものであった。「高過庵」の敷地は、実験考古学と称して家族で「自家用縄文住居」(1987年)を建てた場所(畑)だ。

 

「山添喜三郎伝」

 造形系に進みたい、絵や彫刻ではなく、工芸とか工作的な分野、だから、工学部に進んだのだという。上述したように母方の祖父が大工棟梁で、小学2年生の時に家の建て替えを手伝わされた経験が大きいという。安藤忠雄もそうだけれど、家が出来ていく現場に立ち会うことは「建築家」を生む原点だと言っていい。

 旧制高校のような高校生時代から「へんな幻想的な世界」を生きていて、大学に入って文学の世界にのめり込んだという[i]。そして、歴史をやろう、と思った。「現実から身を引きたいという気持ちがあった」というのはよくわかる。僕が、全共闘時代に学んだ最大のものは、現実の世界の醜悪とも思える政治的な力学である。「建築の分野には歴史があるから助かった」というのもほとんど共有している。三宅理一、杉本俊多もそうである。僕もまた歴史の方へある意味で向かったのである。今日に至るまでまとめる機会を持たずに(サボッテ)きたけれど、吉武研究室という建築計画という分野に席を置いたおかげで、その起源、その成立根拠を探ることになるのである。来る日も来る日も図書室に籠もった。明治に遡って『建築雑誌』をはじめ全ての雑誌にまず眼を通した。『満州建築』や『台湾建築』の目次を全部コピーしたのも学生時代だ。それ以外にやることはなかったのである。

 僕の上の世代は基本的に大学から出た、あるいは出された。僕の学年ですら博士課程に残ったのは、環境工学の分野で将来を嘱望されながら交通事故で死んだ内田茂と三宅、杉本、布野の4人だけである。卒業論文を書く余裕など無かった。混乱に乗じて書かずに卒業した連中もいる。

 藤森の場合、東北大学の建築史講座の坂田泉教授の下で「山添喜三郎伝」という卒業論文(1969年)を書いている。新潟の角海浜出身の船大工で、東京に出て建築大工に転じ、師匠に従って「澳国万国博覧会」の日本館を建てた、その後、宮城県の技師になって多くの公共建築を手掛けた山添喜三郎の評伝である。藤森自ら、この卒論において「現場を歩くとか、文献を探すとか、実物を見るとか、関係者に会うとか、その後に僕がやることはみんなやってる」という。本文は引用に註も出典もなにもない、詳細な年表に資料番号が付されている。確かに藤森流である。

 一方、卒業設計は「幻視によってイマージュのレアリテをうるルドー氏の方法」と題される。「仙台の既存市街地を廃墟と化し、広瀬川沿いの自然を回復し、新たにストリート性のある端を架けようとした」ものだが、その橋のアーキグラム風のメカニカルな表現は、「明治建築」研究やこの間の建築作品とはかなりのギャップがある。はっきりしているのは、藤森が設計に並々ならぬ意欲をもっていたことだ。ルドゥーへの関心も早い。当時、コンペイトウ(井出、松山)と雛芥子(杉本、三宅、布野)で「ルドゥー研究会」をやるのは、もう少し後のことである。藤森の卒業設計作品は全国卒業設計展に出展される。その時、早稲田からは重村勉の「酔いどれ天使」が出ていた。藤森の中には、自らの設計の才能についての、ある思い、自負がある。

 

 建築探偵団 

 村松(貞次郎)研究室に入室するのは、卒業論文の流れからすると自然である。村松研究室は、近代建築史研究の一大拠点であったし、その拠点は藤森の参加を得て、さらに確固としたものとなるのである。

 自ら不出来という修士論文『日本人居留地洋風建築の研究』(1974年)から博士論文『明治期における都市計画の歴史的研究』(1979年)までの間、村松貞次郎の下で、「明治の洋風建築」[ii]、コンドル、辰野金吾、長野宇平治などの評伝[iii]を書く一方、堀勇良と「建築探偵団」を結成、東京のフィールドワークを展開し始める。

 デザイン・サーヴェイの残り香がまだ漂っていた。既に書いたが、「遺留品研究所」「コンペイトウ」・・・学生たちは、近代建築批判のネタを求めて皆街をあるいた。「書を捨てて、街に出よう」という寺山修司のアジテーションを「建築少年」たちは受け入れていた。

 もうひとつ、建築ジャーナリズムのパラダイムが大きく転換を遂げつつあった。その最初の一撃を打ち下ろしたのは、長谷川堯の『神殿か獄舎か』(1972年)である。

 復刻された『神殿か獄舎か』(SD選書、2007年)の解題(「長谷川堯の史的素描」)で、「影響力はほんとうに大きかった」と書いている。確かに、『神殿か獄舎か』は、磯崎新の『建築の解体』とともに当時の若い建築、学生たちの必読書となった。藤森の場合、村松貞次郎の導きもあって、すぐさま「弟分の盃」を受けるのであるが、「雛芥子」もまたその衝撃にすぐさま反応している。誰かが「長谷川堯は面白い!」といい、講演を頼みに連絡をとり、新宿歌舞伎町の喫茶店で会った。議論は弾んだ。初対面の記憶は今でも鮮烈である。

建築ジャーナリズムの平面において、『神殿か獄舎か』に続いて、村松貞次郎などによって主導された『日本近代建築史再考』(『新建築』臨時増刊、1974年)そして『日本の様式建築』(同、1976年)などによって長谷川堯はスターとなった。堀勇良は、藤森にとって「当面のターゲットは長谷川堯さんだった」という。そして、「長谷川さんよりも先に、近代建築を見尽くす、関係資料を読み漁る、建築家の遺族を捜し出して原資料を集めまくる」ことを「日本近代建築史研究三大プロジェクト」として、「建築探偵団」を始めたのだという。

しかし、まとめられたのは『明治の東京計画』であり、都市計画史の範疇であった。何故、近代建築史でなく都市計画史であり、東京であったのか、後に触れよう。

 

 路上観察学会

 藤森の「日本近代建築史研究三大プロジェクト」は、彼のその後の展開にとって巨大なストックになった。建築家・藤森照信が誕生する大いなる源泉ともなるのである。

 『明治期における都市計画の歴史的研究』によって学位を得、東京大学生産技術研究所の講師となり、学位論文をまとめた『明治の東京計画』が毎日出版文化賞(第37回)、東京市政調査会藤田賞(第9回)を得る(1982年)と、ジャーナリズムを舞台とした大活躍が始まる。

 1970年代において、藤森は「近代の建築しか見ない。古建築は見ない。現代の建築は見ない。」という禁制を自ら課していたという。また、「設計には手を出さない」と言っていたという。裏を返せば、そして振り返って見れば、並々ならぬ関心が現代建築にも、設計にもあったということである。第一、街を歩いて、「近代建築(明治大正昭和戦前期の建築)」にのみ関心を集中するのは不自然である。何故、学位論文が都市計画史であったか、ということも、街歩きがそのベースになっていると考えることによって理解できるだろう。

 「建築探偵団」が「路上観察学会」に結びつくのはある意味必然であったと思う。赤瀬川原平とその「美学校」の教え子であった南伸坊らは、路上に残された意味不明の物体を収集して「超芸術トマソン」と称した。当時、読売巨人軍に在籍して三振ばかりして役に立たない大リーガーがトマソンである。まだトマソンというネーミングがなされる前に、宮内康と一緒に、赤瀬川原平から何十枚もの写真を見せられたことが懐かしい。

 同じように都市の「落とし物」に着目した「遺留品研究所」の例もある。路上への関心は当時から今日にまで潜在し続けていると思う。ただ、その眼の向かう対象は極めて多様であった。「デザイン・サーヴェイ」と呼ばれた大きな流れは、各地に残された「伝統的」な集落や街並みに向かい、そのデザイン手法に学ぼうとした。また、街並み保存や修景へと向かった。一方、変転する都市の表層を記号学的に読み解く一派もいた。藤森がまず与したのは歴史的建造物のインヴェントリーを作成する流れである。その公式の成果は、村松貞次郎を代表とする『日本近代建築総覧―各地に遺る明治大正昭和の建物』(1996年)に結実することになる。

 そして、その流れは、研究室に村松伸を得て、東アジアのフィールドに広がる。その集大成が『全調査東アジア近代の都市と建築』(筑摩書房、1996)である。この間、一般誌向けに西洋館をテーマにした多くのエッセイを執筆し、写真家の増田彰久とコンビを組んで多くの著作を出している。多くは、求めに応じてであろうが、それまでのストックをはき出すように、書きに書いている。

 

 建築家デビュー

 厄年を迎えた1989年、藤森照信は「神長官守矢史料館」の設計を始める。幼なじみであった守矢家78代当主守矢早苗によれば、「モダンな建造物が自然の中にできる」ことに違和感があり、「近年建築の分野で特有な考えをもたれているようだ」という照信さんなら「大方私の家のことも知っていてくれますから、史料館の意義も十分理解いただける」と依頼したのだという[iv]。この機会がなければ、建築家藤森照信の誕生はなかったかもしれない。故郷が建築家・藤森を生んだということである。

 上述のように、設計についての密かな意欲を「設計には手を出さない」という禁制によって押しとどめてきた藤森の創作意欲は以後堰を切ったようにほとばしり出ることになる。続いて、すぐさま取りかかったのが自邸「タンポポハウス」(1995年)である。

藤森が最初に住んだのは、大野勝彦設計の「セキスイハイムM1」である。振り返って「私にとって予期せざる満足をもたらしてくれたのは、ハイムM1の無表情であった。住み始めた当初、こんなにブッキラボウなただの箱なんかすぐ嫌になる、と予想していたが、事実はむしろ逆だった」という[v]。建築家でありながら「セキスイハイムM1」を買って住見続けているのが林泰義・富田玲子夫妻である。富田玲子の珠玉の建築論集『小さな建築』(みすず書房、2007年)によると21ユニットも購入したのだという。安価で増築が自在であることに加えて、二人とも建築家だからまとまらないということも「セキスイハイムM1」購入の理由である。大野勝彦の「セキスイハイムM1」をめぐっては、『群居』で考え続けてきた。スケルトン・インフィル方式あるいはコア・ハウス方式など建築家と住み手の関係をめぐる本質的問題がある。

それはともかく、藤森は、しばらくして、手狭になった自宅に木造の一棟を増築する。僕がお邪魔したのはこの頃である。近所の子供たちに「屋根がないのはおかしい」と言われたからだという。そして、おそらく自らつくるべき建築を確信したのであろう。自宅なら自由に出来る。「タンポポハウス」の誕生である。建築をつくる快楽に目覚めたのである。



[i] 「歴史の方へ」(『ザ・藤森照信』p96
[ii] 『近代の美術』 第20巻 昭和491月号 「明治の洋風建築」 (村松貞次郎編) 至文堂、1974
[iii] 『日本の建築 - 明治大正昭和』 第3巻 「国家のデザイン」 (写真:増田彰久)、三省堂、1979
[iv] 『ザ・藤森照信』p29
[v] 「トラックに乗ってやって来たわが家」『家をつくることは快楽である』 王国社、1998

2021年3月20日土曜日

現代建築家批評06  コンクリートの幾何学と自然   安藤忠雄の建築手法

 現代建築家批評06 『建築ジャーナル』20086月号

現代建築家批評06 メディアの中の建築家たち

コンクリートの幾何学と自然

安藤忠雄の建築手法

 

布野修司

 

結局、建築は言葉ではない。

「正直、私自身はいわゆるポストモダンムーブメントにはまったく興味はなかった。むしろ言葉ばかりが先行する風潮にある種の嫌悪感を抱いていた。しかし、ゲリラを名乗ったのは、モダニズムという建築主義に抗うためではなかった。私が挑みたかったのは、モダニズムの透明な論理で御しきれない矛盾に満ちた現実の都市であり、つくりたかったのは剥き出しの生命力に満ちた不条理の空間であった。今思えば建築というよりも彫刻をつくっているような感覚だった気がする。」[]と安藤忠雄は振り返る。

安藤忠雄の作品は、大きく見れば、驚くほどワンパターンである。住宅でも公共建築でも、打ち放しコンクリートの壁、あるいは箱によってつくられる。この建築手法は、日本のどこであれ、海外であれ、同じように用いられる。この愚直なまでの単純性、そしてその一貫性は、驚くべきことである。しかも、安藤は、建築の「地域性」、「場所性」を口にする。

近代建築を一言で言えば、「鉄とガラスとコンクリートの四角い箱形の建築」である。これは、まさに「安藤建築」そのものではないか。安藤が著名になり始めるにつれて、各地に打ち放しコンクリートの「安藤もどき」の作品が建つことになった。打ち放しコンクリートを綺麗に打つことができるのであれば、安藤の作風を真似することはそう難しくないように思える。実際、「安藤作品」のヴァナキュラー化が起こってもおかしくないし、既に起こっているようにも見える。近代建築批判の課題を自らに課すとすれば、「安藤建築」を批判すること、既に、そのことこそが若い世代に求められている。

 

打ち放しコンクリートの壁と箱

安藤忠雄に「加子母村ふれあいコミュニティセンター」(岐阜県中津川市)という作品がある。1991年に「木匠塾」という藤沢好一、安藤正雄の両先生と始めて、毎夏学生たちと岐阜の山中に通う。加子母村に拠点を構えて既に15年になる。長年通っているのだから、学生たちと一緒につくったら面白い、と熱心に訴えたけれど、村の人たちは「世界の安藤」を設計者に選んだ。「東濃ひのき」で知られ、伊勢神宮のための神宮備林を持つ林産の村だからコンクリートというわけにはいかない。安藤忠雄には数少ない木造建築である。

「唐座」(1988年)や「セビリア万博日本館」(1992年)、さらに「兵庫県木の殿堂」(1994年)「南岳山光明寺本堂」(2000年)「野間自由幼稚園」(2003年)など、他にも木造建築はあるけれど、安藤には「木」そのもの、また「木造架構」そのものに興味はない。用いるのは集成材であり、均質な構造材料としての「木質材料」である。安藤のコンクリートへの拘りは徹底していると言っていい。

ただ、安藤は「コンクリートにこだわっているのではない、20世紀の建築というものにこだわっているのだ」という。

コンクリートそのものは、建築材料として古代ローマから用いられてきた。広くはセメント類、石灰、石膏などの無機物質やアスファルト、プラスチックなどの有機物質を結合材として、砂、砂利、砕石など骨材を練り混ぜた混合物およびこれが硬化したものをいう。しかし、鉄筋コンクリート(RC)造の発見あるいは発明[]は、建築デザインの世界を根底的に変化させ、今日の建築界を決定づけるものであった。そして、その出現は、まさに近代建築の成立に関わっている[]

この新たな素材と構造は、「近代建築」の未来を約束するものと確信された。戦前期に遡る話は省かざるを得ないが、日本の近代建築が華開く戦後、鉄筋コンクリート造と打ち放しコンクリートの仕上げは、その象徴であり、多くの建築家が拘った。英国では「ニューブルータリズム」と呼ばれたが、型枠の木目が残るコンクリート建築は1950年代から1960年代の建築を特徴づける。

しかし、その施工、仕上げ、そして維持管理には技術的な問題があった。その問題を真正面から受け止め、「打ち込みタイル」を生み出したのが日本の近代建築をリードしてきた前川國男である。そして、剥き出しのコンクリートの肌は、タイルその他で覆われるようになる。そして、実際にも、アルカリ骨材反応など鉄筋コンクリートの限界が明らかになった。海砂を用いた鉄筋コンクリートはもろい。鉄筋コンクリート建築は決して永遠ではないのである。

近代建築批判が顕在化するのと建築の表層が再び多彩に覆われ出すのは平行している。その先駆けは「スーパーグラフィック」と称するペンキで表層を塗り立てる建築であった。

そうした中で、安藤はあくまでコンクリートに拘った。そこにユニークさがある。「安藤建築」を成立させる絶対の根本にその打ち放しコンクリートの仕上げの美しさがある。このコンクリートの仕上げの精度について、水セメント比、スランプ値、鉄筋と仮枠との間隔、鉄筋間の間隔などをめぐって悪戦苦闘の末の経験値をもっていることが大きな武器である。ここで安藤が先駆とするのは、「グランドツアーにおいて最大の衝撃であった」というル・コルビュジェの「ロンシャン礼拝堂」ではなく、ルイス・カーンの「ソーク生物学研究所」であり「キンベル美術館」である[]

安藤は、しかし、「ぼく自身はコンクリートをどっしりと重く見せたいという意識はほとんどありません」[]という。また、どうしても「汚く汚れてしまう」外壁の維持管理、補修、清掃に拘る。

安藤忠雄は、素材感を徹底的に斥ける。彼が関心をもつのは、コンクリートの肌合いではなく、滑らかな面である。この点、自然素材に徹底して拘る藤森照信と対極的である。『連戦連敗』のなかで、

安藤忠雄が「厚さをもった等質な材料」であるコンクリートを捨てることは最早ないかもしれない。

しかし、一方で僕らには鉄筋コンクリートに対する確たる信頼感は最早ない。

 

正方形と円

安藤の建築的嗜好(テイスト)は上述のようにはっきりしている。いわゆるモダニズムの建築の建築に対する偏愛は変わることがない。ガウディやオルブリッヒのストックレー邸、オルタの作品などアール・ヌーヴォーやR.シュタイナーなど表現主義の作品にも触れるが、自らがそうした方向へ踏み出すことはない。装飾あるいは歴史的様式には興味がない。従って、歴史主義的ポストモダニズム(ポストモダン・ヒストリシズム)に与することはない。また、以上のように素材そのものの表現に関心を払わないことははっきりしている。

しかし、鉄筋コンクリートの発明(発見)の当初、期待されたのはその可塑性である。鉄筋コンクリート造は鋳型にコンクリートを打ち込む形をとる。建築の骨組みは継目のない一体構造である。鋳型さえ出来れば、自由自在に形をつくることができる。しかし、どのような形をつくるのか、それが問題であった。

しかし、安藤は鉄筋コンクリートの可塑性をもとにした造形には興味がない。そして、概念建築(コンセプチャリズム)とは一線を画す。「関西の三奇人」の二人、渡辺豊和と毛綱毅曠が根源的な形の力を求めるのに対して、安藤は「形の力」に頼るところがない。

安藤が依拠するのは単純な幾何学である。曲線を用いるにしても、円もしくは円弧、せいぜい楕円といった初等幾何学的な図形を用いるだけである。中之島プロジェクトで用いられる楕円体が眼を引くが、一般的にもプラトン立体が用いられることはほとんどない。

安藤は、画家アルバースの「正方形礼賛」と名付けられたシリーズに触れながら、「私は、建築における形態として、単純な円や正方形を選ぶ」[]とはっきりいう。

何故、こうした正方形と円による単純な構成がかくもポピュラリティを獲得するのか。不思議である。人々の欲望は基本的にキッチュ[]である。

安藤は、「囲われた面を全て等質な材料で仕上げてしまうことによって、空間の持っている意味をそれ以上に問うことのできないところまで追い込んでみたらどうなるかということを考えてみた」のだという。また、「単純性の中に複雑な空間を生み出せないか」という。さらに、「コンクリートという現代を代表する材料と幾何学による構成、言い換えれば誰にも開かれた材料と構法をもって、誰にでもは決してできない建築空間を生み出したいと思っているのです。」[]という。これは作家の論理であり、美学である。

 

擬似的自然としての光、水、緑・・・

 素材感を消した極めて抽象的な線と面によって構成される空間を規定するのは、結局、その規模(スケール)であり、容量(ヴォリューム)である。規模について、F.O.ゲーリーが次のように語っている。

「安藤が姫路につくった「こどもの館」は驚き以外の何物でもありませんでした。私はどうして子供のためのミュージアムが他の彼の作品と同じでなければならないのか理解できませんでした。そこには彼の一貫した建築言語が使われ、非常に頑な感じがしました。実際、私は自分の子供を連れていきましたが、彼らは普通の子供の博物館に行けると思って期待して張り切っていたので、少しがっかりしたようです。」[]

安藤の大規模な公共建築については、同じような感じを抱かされる。スケール・アウトとは言わないまでも、「模型がそのまま建った」違和感がある。

安藤の真骨頂は、やはり、住宅スケールのインティメイトな空間である。そこで、唯一テーマとなるのが開口部である。開口部を除いて、基本的にコンクリートの打ち放しの壁なのであるから、開口部は決定的に意味を持つのである。開口部によって制御されるのは、光であり、風であり、・・・要するに自然である。古山正雄に、安藤忠雄を素材にした自らの建築論ともいうべき『壁の探求』(鹿島出版会、1994年)[10]なる安藤論があるが、書かれるべきは『穴(開口部)の探求』である。安藤忠雄論はそう多くはないが、最も本格的なものは、ヤーン・ヌソムの『安藤忠雄と環境(ミリュー)の問題』[11]である。彼はそこで「自然、敷地、伝統」を執拗に問うている。オーギュスタン・ベルクの弟子でもあるヤーンは京都大学の建築論研究室で安藤忠雄論と格闘したが結局日本流の学位(工学)を拒否され、フランスに帰国して安藤論を書いた。再来日して、しばらく僕の研究室にいて、近代日本の環境に関わる建築論集[12]を編んでフランスで出版するというすばらしい仕事をしてくれた。

 「単純な直方体の抽象性ヴォリュームに自然を導入することによって、建築を肉体化するのだ」[13]と安藤はいう。あるいは、「抽象を具象化する」という。

 極めて抽象化された幾何学的な空間構成であれ、具体的な場所に置こうとする場合、その場所を取り巻く「自然」との関係が決定的である。その関係を制御するために幾何学的な形態操作によって、「建築」を成立(肉体化、具象化)させる、一言で言えば、これが安藤の建築手法である。

 第一の鍵は「光」である。「視覚」ではなくて「光」である。単純に「明るさ」ではなくて「光」である。ここにいつどんな「光」差し込むか、それが空間構成の第一原理である。

 「光の教会」(1989年)、「光の教会・日曜学校」(1999年)、そして「地中美術館」(2004年)がそれを鮮明に示している。

世界中の「建築作品」を見尽くしたという写真家二川幸夫は、「巨匠と言われている建築家は、皆、「光」の使い方が上手」という。そして、「ぼくなりの建築家リストで、日本の中では、安藤さんが一番悪賢く「光」を利用している」という[14]

 安藤が建築行脚の旅において最も学んだのは「光」のあり方なのである。近代建築の傑作のみならず、古典的建築を体感してきたことが作品に滲み出ているといっていい。

 そして、次に「水」である。

 「水の教会」(1988年)が代表的であるが、「TIME’S」(1984)に遡って、安藤作品に「水」は頻繁に登場する。高瀬川という京都の都心を流れる川の川面へぎりぎりまでの接近を試みた「TIME’S」は衝撃的であった。しかし、安藤の「水」は必ずしも「流れる水」ではない。「水の教会」にしても、「兵庫県立子どもの館」(1989年)にしても、敷地内の自然の流れを利用するのであるが、多くは「張った水」である。安藤は、ここでも平面、「水面」に拘っているように見える。安藤の水は、「人工の水」であり、「操作された水」である。「ビオトープ」などという発想はない。

 安藤にとって「自然」とは何か。

 都市に緑を!と、安藤は言う。しかし、安藤が敷地に残すのはしばしば1本の樹木にすぎずせいぜい庭である。「六甲の集合住宅」の屋上を覆う緑は奇麗に刈り揃えられた「緑の面」である。

阪神淡路大震災後に花や樹を植える運動を展開したことはよく知られる。それ自体賞賛すべきことかもしれない。しかし、ますます人工環境化する都市に対して何が本質的なのかは別問題である。

 

プロトタイプ

「住吉の長屋」に結晶する小住宅における格闘の当初から、安藤は都市について語り続けている。講演などで決まって見せるのが「大阪駅前プロジェクトⅠ 地上30mの楽園」(1969年)である。シングルラインによる断面図にところどころ林立する樹木が描かれている一枚のスケッチである。事務所設立当初のスケッチであり、安藤のもうひとつの原点である。「都市ゲリラ住居」の初心である。大阪に拘り続け、冨島邸を改築して大淀のアトリエとして使い続ける安藤忠雄には一貫する志と執念があるようにみえる。

安藤忠雄について最終的に問うべきは、「住吉の長屋」とこの一枚のスケッチの間である。

「淡路花博」の会場構成(「淡路夢舞台))がファテープルシークリーを下敷きにしたものであることは上に触れたとおりである。幾何学を駆使したアクバルのこの都市構成はいかにも安藤好みである。そして、博覧会といえば、都市のイメージである。安藤は、おそらく、一枚のスケッチを実現する機会をもったのである。野外劇場、「奇跡の星の植物園」と題された温室、百段園と称した花壇、主立った建物は全て彼の手になる。安藤忠雄ワールドである。しかも、「淡路花博」は「自然」の再生をテーマとしていた。京阪神臨海部の埋め立てのために大量の土砂が採掘されて無惨な姿になった。その禿げ山に自然を蘇らせるのが花博の真のテーマだ[15]

その時次のように書いた。

「自然の再生をうたう会場に溢れる擬石や擬木、造花にいささか辟易しながら、夢舞台ゾーンに向かうと、・・・緑の山が再生されようとしていた。まずは壮大な実験に敬意を表する。日本中の禿げ山、コンクリートで固めた醜悪な崖面も即刻緑に復元すべきだ。安藤は一貫して自然との共生をうたう。しかし、彼は積極的に緑を取り込むことはしない。むしろ、自然をどう見せるか、自然と人工物である建築とをどう際だたせるかに意が用いられる。コンクリートとガラスと水の絶妙の配列が全体を形作る。圧巻は水面の下に敷かれた煌めく百万枚ものホタテ貝だ。本質的に、自然を傷つけることによって建築は成り立つ。傷つけて癒す、矛盾に充ちた行為だ。だから安易に建築に自然を取り入れればいいというわけではない。安藤は建築の本質を直感的に知っているのである」[16]

最後は、もちろん、皮肉であり、疑問である

結局、安藤建築の評価は、「住吉の長屋」が、あるいは「六甲の集合住宅」が、日本の都市住宅のプロトタイプになりうるかどうかに帰着するのだと思う。

安藤は、「小篠邸」において、明らかに転換の契機をつかんでいる。それまでの仕事は「猥雑な都市環境の中にある極小の敷地でいかに<豊かな>住空間を切り取れるかだった」のであるが、「小篠邸」は、「広大な敷地で、規模設定もプログラムも縛りのない」「住吉の長屋とはまったく正反対の視点で、自身の目指す建築の原型を追求できる好機」となったのである[17]

都市の「地」か「図」か。安藤忠雄が「抵抗の砦」を出て、「図」へ向かってしまったのだとすれば、新たな若いゲリラが「地」と格闘を開始している筈である。

 




[] 『安藤忠雄の建築1 住宅』、TOTO出版、2007年・p73

[] この鉄筋コンクリートは、引張りに強い鉄と圧縮に強いコンクリートを組み合わせる実に都合のいい合成材料であるが、いくつかの「偶然」がその「発明」の条件としてあった。鉄とコンクリートとの付着力が十分強いこと、コンクリートはアルカリ性であり、鉄はコンクリートで完全に包まれている限りさびる心配がないこと、そして鉄筋とコンクリートの熱膨張率が非常に近いことである。鉄筋コンクリート造建築は、耐久性があり、耐震耐火性のある理想的な構造方法と考えられたのである。拙稿、「100年前の建築デザイン/国家を如何に装飾するか」、特集 100年前のデザイン、『季刊デザイン』no.8、太田出版、2004年7月参照。

[] セメントとは、元来は物と物とを結合あるいは接着させる性質のある物質を意味するが、その利用そのものは古く、最も古いセメントはピラミッドの目地に使われた焼石膏CaSO4H2O と砂とを混ぜたモルタルである。しかし、鉄筋コンクリートは、せいぜい百五十年前に「発見」され、百年前から使われ始めたに過ぎないのである。

1850年頃に、フランスの J. L. ランボーが鉄筋コンクリートでボートをつくったのが最初で、その後1867年にJ. モニエが鉄筋コンクリートの部材(鉄筋を入れたコンクリート製植木鉢や鉄道枕木)を特許品として博覧会に出品したのが普及の始まりである。J. モニエは1880年に鉄筋コンクリート造耐震家屋を試作する。その後ドイツのG.A.ワイスらが86年に構造計算方法を発表し、実際に橋や工場などを設計し始め、建築全般に広く利用されるようになった。建築作品として、最初の傑作とされるのがA.ペレのパリ・フランクリン街のアパートで、建てられたのが百年前(1903年)のことである。

[] 型枠をとどめるセパレーターをそのまま化粧とし、パネルの継ぎ目をあえてVカットして出目地として表現する手法は構造家オーガスト・コマンダントとの協働によって生まれた。

[] 『家』、住まいの図書館出版局、1996年。Appendix 「生活空間とコンクリート」p12

[] 「抽象と具象の重ね合わせ」『新建築住宅特集』、1987年。P102

[] 「キッチュという言葉が新しい意味で使われ始めたのは、1860年頃のミュンヘンである。南ドイツで広く使われたこの言葉は、「かき集める、寄せ集める」といった意味を表すのだが、さらに狭い意味では、「古い家具を寄せ集めて新しい家具を作る」という意味に使われていた。そして、キッチュという言葉から派生したフェアキッチュン(Verkitchen)という語は、「ひそかに不良品や贋物をつかませる」、「だまして違った物を売りつける」といった意味に使われていた。それ故、キッチュという言葉には、もともと、「倫理的にみて不正なもの」、「ほんものではないもの」という意味合いが含まれていたのである。十九世紀後半のドイツにおいて、まがいもの、不良品、贋物、模造品、粗悪品、といった意味合いで使われていたキッチュという言葉は、次第に広範に使われ始め、より一般的な概念となっていくのであるが、そこでは、キッチュは必ずしも具体的なもの-ニセモノやコピー-を意味するわけではない。また、単に一つの様式-一定の様式にこだわらない寄せ集めの形式-をさすわけではない。キッチュとは、一つの態度、すなわち、人が物に対してとる関係のあり方の一パターンでもある。

[] 『連戦連敗』、p209

[] 『安藤忠雄建築展 新たな地平に向けてー人間と自然と建築ー』図録、1992

[10] 安藤論はそう多くはない。他に、松葉一清『アンドウ―安藤忠雄・建築家の発想と仕事』19969月、講談社、ISBN 4062075938/平松剛『光の教会―安藤忠雄の現場』200012月、建築資料研究社、ISBN 4874606962/フィリップ・ジョディディオ「安藤忠雄」(Shoko Yamashita訳)、20016月、タッシェン・ジャパン、ISBN 4887830394Philip Jodidio, Tadao Ando (Architecture & Design). 1997, 11, Taschen America Llc.など、

[11] Yann Nussaume, “Tadaô Ando et la question du milieu Réflexions sur l’architecture et le paysage”, Le Moniteur, 1999

[12] Yann Nussaume, “Anthologie critique de la theorie architecturale japonaise le regard du milieu”,  Ousia, 2004

[13] 「抽象と具象の重ね合わせ」『新建築住宅特集』、1987年。P102

[14] 『建築手法』、p118

[15] 石灰岩の採掘で荒廃した山を蘇らせたバンクーバーのブッチャート・ガーデンがモデルだ。ジオウエーブ工法というのだという。

[16] 淡路夢舞台 安藤忠雄      空のテラスから再生された斜面を望む 兵庫県淡路島  緑再生の巨大な実験 傷つけて癒す・・・建築の本質

[17] 『安藤忠雄の建築1 住宅』、p75

2021年3月19日金曜日

現代建築家批評05  ゲリラという建築少年 安藤忠雄の建築思想

 現代建築家批評05 『建築ジャーナル』20085月号

現代建築家批評05 メディアの中の建築家たち

ゲリラという建築少年

安藤忠雄の建築思想

布野修司

 

 

 安藤忠雄の発する建築的メッセージは実にわかりやすい。

建築に夢を!緑を!自然を!地域性を!日本精神を!

難解な建築理論や手法は安藤とは無縁である。安藤忠雄は、文章は苦手である、と自ら言う。そして実際、建築家同士が議論を展開するシンポジウムやパネル・ディスカッションは遠ざけてきたように見える。安藤の言うことは、多くの建築家にとってごく当然だから議論にならないのである。

通常の「建築家」だと照れてしまうような実に素朴な言葉を安藤は一般に向かって語りかける。安藤のテレビ・メディアを通じた話には実に説得力がある。そこに安藤忠雄の真骨頂がある。

しかし、安藤作品がその素朴な主張に答えているかどうかは別問題である。安藤論序説として既に書いたのであるが、コンクリートを主要な素材にする安藤にとって安藤にとって「自然」とは何か。安藤忠雄の「もっと緑を!」というのは、いささか薄っぺらではないか。例えば、「淡路花博覧会」というのに、建築は実に人工的である。帆立貝を百万枚集めたというけれど、死貝であって、コンクリートで固めたにすぎない。言ってることとやってることが違う、これは一般の人々の直感でもある[]

 

都市ゲリラ住居

安藤忠雄最初の文章は「都市ゲリラ住居」(別冊都市住宅『住宅第4集』、1972年)と題される。そして、「個を論理の中心に据えること、あるいは、また・・・」と書き出される。生硬な、というか、初々しい、というか、最初に作品を発表する意気込みに満ちた文章である。

論旨は明快である。

「経済的エフィシェンシーの原理」「技術進展の原理」に対して、如何に「個を論理の中心に据える」か、がテーマである。「近代資本主義論理の浸透」「高度な<情報化>と、それに伴うビューロクラシー」の中で、「<個>を思考の中心に据えること、あるいはまた、肉体的直感を基盤に据えた、自己表現としての住居をもとめること」が課題と宣言される。

同時に提示されているのは、ゲリラⅠ、ゲリラⅡ、ゲリラⅢという三つの住宅作品である。いずれも「猫のひたいほどのエリア」に建てられた独立住居である。

「中途半端な偽善的なコミュニティ論よりは、そのような都市に、それでも住みついていこうとする人々の意志と、その時の唯一の解決策を、より有効に吸いあげることの方が、はるかに、地についた行為ではないか」と安藤は明快にいう。

「外部環境の劣悪化の故に、たとえば、<ドラマティックな、内外空間の相互観入>を、空間的テーマとして追求するといったことが、幻想であり、無意味であることが、あまりにも明白である以上、・・・外部環境への<嫌悪>と、<拒絶>の意思表示としてファサードを捨象し内部空間の充実化をめざすことによって、そこにミクロコスモスを現出せしめ、あらたなリアリティをその空間に追い求めることになる」

シャープと言っていい。

東孝光の自邸「塔の家」が発表されたのは1967年である(1995年「塔の家から阿佐谷の家に至る一連の都市型住宅」として日本建築学会賞受賞)。猫の額ほどの土地でも都心に住みつく、という強烈な意志を表現する先例である。若い建築家が住宅作品によってデビューするのは常である。安藤のゲリラ住居が発表された1972年には、上述のように毛綱毅曠の「反住器」がある。『日本の住宅 戦後50年 21世紀へ』(彰国社、1995年)を編んだが、選定した50の作品の内に70年代初頭の作品が数多く含まれている。その時に「変わるものと変わらないもの」と題して次のように書いた。

1970年代の前半に時代の転換点がある。それを象徴するのが毛綱毅曠の「反住器」であり、石山修武の「幻庵」である。それ以降、建築のポストモダンの流れが住宅において明らかになっていく。また、原広司の「最後の砦としての住宅設計」という意識、あるいは「住居に都市を埋蔵する」という方法意識が状況を表している。すなわち、第一次、第二次のオイルショックを経験した1970年代は、一般の「建築家」にとって住宅の設計が限定された表現の場であるという意識があった。そこで、近代住宅、モダンリビング、nLDKを超える試みが住宅設計における課題とされた。そして、1980年代になって、バブル期をピークに、歴史的様式や装飾の復活、地域主義、ヴァナキュラリズム、コンセプチュア・・・百花繚乱のポストモダン状況が訪れる。」

しかし、安藤の向かったのはポストモダンの方向ではなかった。

 

方法としての旅

安藤忠雄による著作は数多いが[]、大半は作品集であり、直接書いた文章はそう多くはない。活字になっているのは作品発表に伴う原稿と、あとはインタヴユー、対談、講演の記録である。現在までに、講義録と呼びうるものが3冊ある。東京大学大学院での講義録『建築を語る』(1999年)『連戦連敗』(2001年)とNHK人間講座の『建築に夢を見た』(2002年)である。この3冊を中心に安藤忠雄の建築論、建築観をみよう。3つの講義はほぼ同時期に行われたものであり、当然ダブリも多い。また、それぞれの連続講義は必ずしも体系的ではない。自らの作品を中心として様々な事例を個別テーマあるいはキーワード毎に紹介するという構えがとられている。

インタビューを中心とする著作の中で、安藤はたびたび「旅」について語る。

『建築を語る』は5回の講義からなるが、本にするにあたって「序」が付され、「発想する力」と題される。最初のヨーロッパ旅行は横浜から船でナホトカに渡りシベリア鉄道で行く。帰りはマルセイユから象牙海岸、ケープタウン、マダガスカルを経由してボンベイに至り、そこで降りてベナレス(ヴァーラーナシー)に寄っている。講義はガンガの辺で「人生」「死」を思い、「ゲリラとして生きようと思った」ところから始まる。今でこそ130万円程(「ピースボート」)で世界を一周する若者向けの船旅があるが、海外渡航が自由化されたばかりの時代に、大航海時代的な旅をしたことは特筆されてもいい。大袈裟にいえば、空海が長安で「世界」を見た!と思ったような思いがあったに違いない。本人にとってこの24歳の旅が強烈なものであったことは、繰り返し彼自身が語るところである。

安藤には、『安藤忠雄の都市彷徨』(マガジンハウス、1992年)という旅そのものを主題にした本がある。『ブルータス』という一般向けの雑誌の連載をもとにしたものだ。この『ブルータス』というメディアは建築家を一般に開いていく上で大きな役割を果たすことになる。

「旅は人間をつくる。・・・旅はまた、建築家をつくる」と、安藤は冒頭に書いている。実際に建築を見ること、空間を体験すること、しかも、自らの育った文化とは異質の空間に触れることは、建築家の基本である。安藤は旅にこだわり続けてきた。後年、自らの処女世界旅行を英国の良家の子女が古典的教養を身につけるために行った「グランド・ツアー」になぞらえている。

仕事の関係でその足跡は世界に広がるが、アジアへの関心は少なくない。最初の海外旅行はボクシングのためのバンコクへの一人旅だったし、上述のように最初の洋行帰りにはインドに寄っている。また、『都市彷徨』は、NHKの番組絡みであるがベトナムのフエが最初に取り上げられている。後にも触れるが、淡路花博の会場設計にはムガル帝国第三代皇帝アクバルの設計したファテープルシークリーが下敷きにされている。

安藤建築の出発点は、おそらく名建築をトレースすること、なぞること、そして、それを敷地に適応させる(ずらす、変形させる)ことであった。

「おまえの建築はレファレンスである。それが勅諭ではなく、引喩だからいい」と、レンゾ・ピアノに言われている。そして、安藤は「過去に見たもの、自分の側にあったもの、そういうものたちが僕の血の中で凝縮され、混合され、濾過されて、あるとき突然、熱狂的なスピードで噴出してきたということであろうか」という[]

 

テキストとしての近代建築

しかし、旅先は圧倒的に欧米である。正規の建築教育を受けていない安藤忠雄にとって、旅の第一の目的は、巨匠たちの作品に学ぶことであった。具体的な内容として取り上げられるのは、専ら近代建築史に関わる建築作品である。

『都市彷徨』に取り上げられている主要な都市と建築家、作品を列挙すると、パリ、バルセロナ、セヴィリア、グラナダ、ハーグ、ベルリン、バーゼル、ウィーン、アテネ、アーメダバード、ニューヨーク、ボストン、ロスアンジェルス、マルセイユ、ローマ、ミラノ、ヴェネツィア、イスタンブール、カッパドキア、コルビュジェ、ガウディ、リートフェルト、ミケランジェロ、パラディオ、シナン、ミース、アドルフ・ロース、キースラー、フランク・O・ゲーリー、ハンス・ホライン、ファンズワース邸、ワッツ・タワー、ストックレー邸、タッセル邸、マジョリカ・ハウス、ロンシャンの教会、サグラダ・ファミリア、オルタ邸、タージ・マハル・・・となる。

それぞれについて簡単に述べよ!というと建築を学ぶ初心者たちへの試験問題になるであろう。そして、安藤忠雄の建築的関心、あるいは建築的テイストと呼びうるようなものを理解することができるだろう。

「講義」には、同じように彼が関心を抱く建築家や作品が出てくる。建築家は、誰でも、他の建築家たちの作品との距離、差異を測りながら仕事をするのである。この計測の手法が建築の土俵を分ける。安藤にとって、当初から計測の基準は近代建築の巨匠たちの作品、とりわけコルビュジェの作品だった。

安藤は次のように振り返っている。

「当時、日本の同世代の建築家の多くは、いかにしてモダニズムを彫刻するかというテーマで、それぞれ独自の展開を試みようとしていた。いまだモダニズムの問題を整理し切れていなかった私は、彼らの活躍を横目に、モダニズムをもう一度原点から問い直し、その可能性を見つめ直すことを自身の建築の目標に据えた。このスタート時点におけるモダニズムとの距離の測り方の違いが、それぞれのその後の建築活動のありようを決定づけることになったのだと思う。」[]

 

素朴なナショナリズム!?:近代建築批判の位相

 一方、ヴァナキュラー建築の世界についての関心も表明される。『建築に夢を見た』では、冒頭、建築の原点としての「住まい」をめぐって「集落との出会い」を語っている。また、続いて、集まって住む、集合住宅の原点として、中国福建の客家の「円形土楼」やエーゲ海のサントリーニやミコノスの集落に触れている。

1960年代の初頭以降、上述のように、日本には「デザイン・サーヴェイ」という流れがあり、各地の民家や集落への関心は存在してきた。また、グローバルには、B.ルドフスキーの『建築家なしの建築』以降、ヴァナキュラー建築への関心は存在してきた。

 日本の建築家の中で「集落への旅」を方法として、住居集合の論理をつきつめ、「集落の教え」をもっぱらその建築手法としてきたのは原広司である。また、山本理顕である。もっぱら空間の形式、空間を成り立たせる制度を問題とする山本理顕に比べると、安藤の関心は一般的なレヴェルに留まっている。

安藤が述べるのは、多様なヴァナキュラー建築に対する画一的な近代建築といったわかりやすい二交対立の図式だけである。コルビュジェを敬愛し、その作品について繰り返し述べる安藤は、当然、近代住宅の基本テーゼであるその「住宅は住むため機械」「近代建築の五原則」「ドミノシステム」に触れる。そして、R.ヴェンチューリ以降の近代建築批判の潮流についても触れる。

問題は、安藤忠雄はどちらに与するのか、ということである。

そして、『住吉の長屋』を、近代を乗り越えようとする試みだという。しかし、果たしてそうか。

安藤忠雄は、当初、アドルフ・ロースのラウム・プランに傾倒しながら、小住宅設計ににとり組む。また、コルビュジェのサヴォア邸やリートフェルトのシュレーダー邸について語る。

安藤は明らかにヴェンチューリ流の近代建築批判の潮流には与しない。そして、 「僕とアール・ヌーヴォーの様式ほど不釣り合いなものはない」[]という。

 

クリティカル・リージョナリズム?

安藤が自らの立場を説明する唯一のキーワードがK.フランプトンの「クリティカル・リージョナリズム」である。安藤は『建築を語る』の第1講「インターナショナリズムとナショナリズム」の中で、K.フランプトンの「批判的地域主義に向けて、抵抗の建築に関する六つの考察」[]を引いている。K.フランプトンは、サブタイトル通り、「文化と文明」「アヴァンギャルドの興亡」「批判的地域主義と世界文化」「場所―形式の抵抗」「文化対自然―地勢、コンテスト、気候、光、構造的形態」「視覚性対触覚性」についてすぐれた考察を展開しているが、安藤の要約によると「批判的地域主義」とは以下になる。

近代化に対して批判的でありながら、近代建築の進歩的な遺産を受け入れ、それを周縁的な実践に反映させること

場所性に根ざし、風土性を生かした建築であること

構造的真理に適った建築であること

視覚だけでなく五感に訴えかける建築であること

地域性を無批判に直接的形態として翻案するのではなく、モダニズムの実践として再解釈された地域性を反映させること

建築の実践が、現代建築に対する積極的なクリティックとなり得ること

K.フランプトンの言説のなかには納得しかねる点もあると安藤は言うが、具体的に掘り下げられることはない。「伝統」「地域性」を一般的に対置しているにすぎないように見える。日本の近代建築の行方をめぐって、「丹下vs白井」あるいは「弥生的なるものvs縄文的なるもの」を主軸として争われた1950年代における日本の伝統論争にも触れるが、それに立ち入って論評することはない。「K.フランプトンの提唱クリティカル・リージョナリズムの論理のように系統だてたもの」ではなく、「丹下先生が言われた伝統論とはまた別」のもので、「形態の継承ではなく、精神風土の受け継ぎ方というか、町に対する建築の対処の仕方ということをどのように実際に建築に表現できるか」「日本のもののあり方、考え方、そして精神のあり方のようなもの」をどう建築に置き換えるか」が問題だというだけである。

 

安藤忠雄は、しばしば政治状況について触れる。事務所開設の前年、1968年の5月には、2度目の欧州旅行の途中、パリの「五月革命」のただ中にいた、という。また、ベルリンの壁の崩壊(1989年)について触れる。さらに、9.11の「同時多発テロ」についても語る。「ゲリラ」として出発した初心は、「状況に楔す」[]「抵抗の砦」[]といった初期の文章に見ることが出来る。しかし、以上のように、安藤の建築論は、必ずしも「ゲリラ」的でも、「抵抗」的でもない。底にあるのは、ラディカルと言うより、ナイーブな「建築少年」の「夢」である。

 



[]「拝啓 安藤忠雄様 世界一美しい街とは何ですか 東京オリンピックと建築家職能」、『建築ジャーナル』

[] 『安藤忠雄』(SD編集部編)、鹿島出版会、19823月/「安藤忠雄のディテール―原図集 六甲の集合住宅・住吉の長屋」、彰国社、19841月/『交感スルデザイン』、六耀社、19859月/日本の建築家編集部『安藤忠雄―挑発する箱』、丸善、19861月/『旅―インド・トルコ・沖縄』(住まい学大系20)、住まいの図書館出版局(発売:星雲社)、19893『安藤忠雄2: 19811989』(SD編集部編)、鹿島出版会、199012月/『安藤忠雄の都市彷徨』、マガジンハウス、19925月/『安藤忠雄3: アンビルト・プロジェクト (1975-1991) 』(SD編集部編)、鹿島出版会、199311月/『安藤忠雄ディテール集』(二川幸夫企画編集)、A.D.A.Edita Tokyo199110月 /『サントリーミュージアム天保山』(三宅理一と共著)、鹿島出版会、199510月/『安藤忠雄の夢構想―震災復興と大阪湾ベイエリアプロジェクト』、朝日新聞社、199510月/『現代デザインを学ぶ人のために』(嶋田厚ほかと共著)、世界思想社、19966月/『家』(住まい学大系76)、住まいの図書館出版局(発売:星雲社)、19967月/『直島コンテンポラリーアートミュージアム』(三宅理一と共著)、鹿島出版会、19969月/東京大学工学部建築学科安藤忠雄研究室『建築家たちの20代』、TOTO出版、19994月/『建築を語る』、東京大学出版会、19996月/『淡路夢舞台―千年庭園の記録』、新建築社、20005月/『大工道具から世界が見える―建築・民俗・歴史そして文化』(西和夫ほかと共著)、五月書房、20014月/『連戦連敗』、東京大学出版会、20019月/『建築に夢をみた』(NHKライブラリー149)、日本放送出版協会、20024月/Tadao Ando : light and water. New York : Monacelli Pres. 2003./『格闘わが建築 : 安藤忠雄 : Tadao Ando』(DVD)、NHKソフトウェア・コロムビアミュージックエンタテインメント、20033月/『ル・コルビュジエの勇気ある住宅』、新潮社、20049月/『光の色』(リチャード・ペア撮影)ファイドン、200410月/『安藤忠雄建築手法』(二川幸夫企画・編集・インタヴュー)、エーディーエー・エディタ・トーキョー、20052月/『住宅の射程』(磯崎新ほかと共著)、TOTO出版、200610月/『安藤忠雄の建築1 住宅』、TOTO出版、2007

[] 『安藤忠雄の都市彷徨』、p49

[] 『安藤忠雄の建築1 住宅』、TOTO出版、2007年。P72

[] 『安藤忠雄の都市彷徨』、1992年、p154

[] ハル・フォスター編、『反美学―ポストモダンの諸相』、室井尚+吉岡洋訳、勁草書房、1987年(Foster, Hal(Ed.),”The Anti-Aesthetic: essays on postmodern culture”,Bay Press,1983

[] 『新建築』、19782月号

[] 「新建築住宅設計競技、審査員からのメッセージ」、『住宅特集』、1985年冬号