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2021年5月10日月曜日

 「寄せ場」から世界へ 「横浜ホステルヴィレッジ(YHV)」  岡部友彦

 進撃の建築家 開拓者たち 第6回 開拓者05 岡部友彦(前編) 「寄せ場」から世界へ「横浜ホステルヴィレッジ」 『建築ジャーナル』 20172(『進撃の建築家たち』所収)


 

 「寄せ場」から世界へ

「横浜ホステルヴィレッジ(YHV)」  

布野修司

 




 

 八巻秀房(開拓者03、前号)は、独立して「コミュニティ・アーキテクト ラボ」を立ち上げると、「くじら(鯨)の会」を再開、元祖まちづくり伝道師・林泰義(前号註 開拓者04飯島昌之・元計画技術研究所所員)とともに「コミュニティ・ア-キテクト研究会」[1]を始めた。その第2回目の会で若くて実に頼もしい建築家に出会った(2007127日)。『ソ-シャルデザインと地域再生』-寿町再生プロジェクト-」と題して講演した岡部友彦である。横浜・寿町といえば、大阪・釜ヶ崎、東京・山谷に並ぶ「寄せ場」[2]である。今でもそうであるが、「寄せ場」のドヤは3畳一間、日本の最小限住居である(図①)。


東南アジアを歩き始めて様々な出会いがあって[3]日本寄せ場学会の設立(19874月、年報『寄せ場』19883月創刊(図②)に当初から参加することになった。そして、東京山谷の調査を行う活動を続けるなかで、山谷労働者会館建設の話が持ち上がり、宮内康の指揮のもと、研究室あげて設計建設に取り組むことになる(19891月土地取得、19899月建築確認申請受理着工、199010月竣工。『寄せ場に開かれた空間を』社会評論社、1992年、図③)。当時、山谷は、日本国粋会金町一家と全国日雇労働組合協議会とが激しく抗争し、騒然としていた。日雇い労働者の過酷な労働と生活を描くドキュメンタリー映画を撮ろうとした佐藤満夫監督が虐殺され(1984年)、その志を引継いで映画を完成させた山岡強一監督も凶弾に倒れた(1986年)ばかりであり、調査中や建設中にも発砲事件が起きる、そんな状況である。「寄せ場」でまちづくりを展開するなど当時は思いもかけないことであった。

     

 

都市解析からまちづくりへ

 11月中旬の今にも雨の降りそうな土曜日(2016年)、西川編集長とともに横浜寿町のYOKOHAMA HOSTEL VILLAGEYHV)を訪れた。ホステルのフロントには泊り客が次々にチェックイン賑やかだった2016年図④⑤⑥⑦)。岡部友彦君に会うのは3度目であった。「コミュニティ・ア-キテクト研究会」で出会った2年後、岡部友彦君と再び彦根で会った。僕は全く関与していないのであるが、滋賀県立大学の「談話室」がゲストとして招いたのである。その時のレクチャーと議論(「コトづくりから始めるまちづくり」)は『雑口罵乱』④号(20113月)に記録されている[4]





岡部友彦君[5]は、神奈川県藤沢生まれ、神奈川大学建築工学科で学んで(山家京子研究室)、東京大学生産技術研究所の修士課程に進学(藤井明研究室)する。原広司先生は定年退職、藤井・曲渕研究室体制で、都市解析について研究、修士論文は『都市の時空間変動―パーキング空車情報による記述』(20053月)である。

原広司研究室は、隈研吾、竹山聖、宇野求以下多くの建築家、大学教員を輩出してきた[6]。僕は、原さんとは東大の学部生の頃出会って、博士課程に来ないかと言われたこともあるぐらい身近だったから(『建築少年たちの夢』「第八章 集落から宇宙へ」)、山本理顕(『建築少年たちの夢』「第四章 家族と地域のかたち」)、入之内瑛(都市梱包工房)、北川フラム[7]らが蝟集する初期の頃はよく知っている。1970年代の原研究室は、住居集合論として成果がまとめられる世界集落調査を展開する一方、AC(活動等高線Activity Contour)論という数学的トゥールを用いた都市建築事象の解析を2本の柱にしていたが、それはそのまま藤井明研究室に引継がれていて、後者の流れに属したことになる。集落調査にも関わったけれど、渋谷の駅前地区のテナントの変遷を調べたりしたという。また、当時東京大学国際都市再生研究センター特任研究員をしていた太田浩史(ヌーブ)のもとで「PopulouSCAPE」というCG作品制作と展覧会「世界都市~都市は世界へ~」(20032006に関わっている。そうした岡部君が、どうして修士修了と同時に会社設立((株)Funnybee)に関わって設計事務所を立ち上げ、寿町のまちづくりに関わるようになったのか。

  

寿町の「さなぎ達」

  大学院時代にたまたまアルバイトの仕事で横浜と関係することになった。そして、寿町で生活保護を受ける日雇い労働者の支援活動を展開するNPO法人「さなぎ達」のメンバーと出会ったという。「寄せ場」には、実業家とか大学教師とか、実に様々な人たちが集まってくる、そうした中に、哲学者というか、独特な考え方をするカリスマ的な人もいる。寿町では大学では教えてくれないことばかりだった。都市を解析しながら、実践的にやりたいと思っていたこともある、そのまま寿町に飛び込んだ。

  そうした寿町の路上生活者たち、生活保護受給者たちを支援するために結成されたのがNPO法人「さなぎ達」(2001http://www.sanagitachi.com/)である。初代理事長となった桜井武麿が1980年代に始めた、週一回、関内駅、横浜公園周辺を夜回りし、路上生活者に必要な物を提供しながら安否確認を行った木曜路上パトロール(通称木パト)が原点という。この路上パトロールは現在も続けられているが、支援活動は、医、衣、食、職、住の各分野にわたる。寄付の衣類や日用品を提供する「さなぎの家」という路上生活者の立ち寄り所を設け、生活相談をワンストップで行う「寿町なんでもSOS班事業」、安価にバランスのとれた食事を提供するとともに、雇用の場所にもなる「さなぎの食堂」の経営などが展開されている「さなぎの食堂」は、決められた時間に交換しないといけないパン券をいつでも食べられるチケットに交換するとか、コンビニやスーパーで処分されてしまう食材を安く仕入れるなど[8]、先進的できめ細かい支援活動が行われている[9]。岡部友彦君は、現在、NPO法人「さなぎ達」の理事を務める。

 

「影」のデザイン

 寿町に関わりだしてまもなく、岡部友彦は「「影」のデザイン」[10]という一文を書いている。

日の当たる地域の周囲には、それを支える、または支えていた影ともいえる部分が存在するのだ。光の部分も、影の部分もどちらも積み上げられてきた歴史が存在する。影の地域を無理矢理光に変えようとすれば、他の地域に新たな影が創られることになるだろう。影の地域は、影としてデザインしていくことが重要なのだろう。

「影の地域」を「影」としてデザインしていく、とはどういうことか。岡部友彦はいきなり「寄せ場」をめぐるアポリアに向き合ったように思える。「影」を「光」に変えれば別の「影」ができる、とすれば、その「影」をなくそうと普通考える。「影」を「影」としてデザインするといっても、「光」と「影」の支配-従属関係を前提とするということ、すなわち「影」のままに押しとどめて置くというのではないだろう。その文章には、「影」の地域を「影」のままにデザインする地平を突破していく視点が既に示されている。要するに、「影」の地域を地域(「影」)としてデザインするということである。「影」であればこそ、それを逆手にとる地域性もある、ということである。

はっきり直感されているのは、片手間や副業、ヴォランティア活動に頼るだけでは「寄せ場」という地域は動かないことである。つまり、地域が自立できる仕組みがなければならない。そして、モノや空間を供給したり整備したりするだけでは地域は活性化しないということである。次のように文章は締め括られている。

「地域を活性化するのに建物や特産物など“モノ”を再生することは第一義的な課題ではないだろう・・・地域の現状に対し、まず何が“資源”となりえるかを再発見することにより、その地域特有のビジネスやしくみなどの“コト”を創り出し、無理なく継続できる環境作りをすることで、その地域に活力を取り戻すことが大切なのではないか。そして、その“コト”が、継続して行なわれることにより、物質的な“モノ”が築き上げられていく。このように元来の街やコミュニティの形成過程とも考えられる一連の流れを、地域や建築に再投入することによりデザインしていくことが必要なのではないか。分野を超えた連携、三位一体となる体系、コトづくりとモノづくりとの融合のかたちをこれからも追求していきたい。」

岡部友彦が「コトラボ合同会社」を設立するのは2007年である。その命名に初心が示されている。

 

横浜ホステルヴィレッジ

YOKOHAMA HOSTEL VILLAGE

まず始めたのはホステルの経営である。寿町には、200m×300mほどの空間に、110軒ほどのドヤ(簡易宿泊所)があり、約8000室の部屋がある。8000室は、ほとんど全て3畳一間である。ドヤ街といっても、今や鉄筋コンクリート造の数階から9階建てのビルが建ち並ぶ大都会の街区である(図⑧⑨⑩)。しかし、街の雰囲気は他とはいささか異なる。現在は約6000人程度の住民がいるが、そのほとんど(95%)が単身者である。また、高齢者は半数を超える。そして、80%以上が生活保護の受給者である。寿町は、関外ではあるが、関内に隣接し、中華街、元町、みなとみらい21地区など横浜を代表する観光地には便利がいい。高度成長期には1万人を収容したけれど、今では1500室を超える空き部屋が存在する。外国人のバックパッカー、横浜球場や横浜アリーナの試合やコンサートで需要は見込めた。この空き部屋をホテルに転換するプロジェクトが開始されることにより、岡部友彦は全面的に寿町再生のプロジェクトにインヴォルブされることになる(YHV:http://yokohama.hostelvillage.com/ja/)。以降、その拠点は、YHVを運営するコトラボ合同会社に置かれている(図⑪)。






フロントの置かれている向かいに20部屋のホステル(「林会館hostel hayashi」図⑪⑫⑬⑭)、他に長期滞在用に2棟(LB flat(2007), Room ASIA(2011))、全部で60室、一時期は4棟管理していたという。宿泊費はオーナーとYHVで折半、オーナーが建物、YHVが経営と清掃など維持管理を受け持つという極めて明快な契約である[11]。問題は、その活動資金で何を展開するかである[12]




「この手があったか!」と手を打ったのが「選挙に行こう」キャンペーンである。

生活保護を受給するための条件に住民票をその地域におくことが必須条件となっているため、寿町には6000票もの票が埋もれている。政治家にとっては魅力でもあり、脅威でもある。区の選挙管理委員と協働で選挙啓発キャンペーンを展開、キャンペーン自体が街のイメージ変革の一端を担うことをねらいながら、一方で政治家の寿町への関心を引きつける。実に巧妙な戦術である。その後、この選挙キャンペーンについては各地からの引き合いがあるという。コトからの発想である。

 

コトラボ合同会社-拡大するネットワーク

 寿再生プロジェクトは、立ち上げ早々多くの関心を引きつけた。内閣府地域再生伝道師に任命されたし(2007年)、横浜文化賞文化・芸術奨励賞も受賞した(2008年)。様々な研究会に呼ばれ、大学で講演する機会も増えた。韓国から講演の依頼もあった。視察も数多い。外国メディアの取材もある。何よりも若い学生たちやアーティストの参加があった。それだけ日本社会の問題の核心をついていたといっていい。しかし、全てうまくいくほど現実は甘くないのではないか。「寄せ場」を取りまく環境がそう簡単に突破できるとは思えない。事実、リーマンショックの後、横浜市中区の生活保護費が200億円も増えたという。社会の歪みが一定の地域に皺寄せされるそうした構造は簡単には揺らがないのである。

 しかし、そうした危惧を吹き飛ばすような新たな展開があった。ひとつは、愛媛県松山市の三津浜における都市再生プロジェクトである。そしてもちろん、寿町にも新展開がある。ひとつは、レンタル・スペースRental space(kadobeya)を設け、慶応大学とのコラボレーションを開始したことである。この地域と大学との連携については、YHVがスペースを用意するというのは大学にとっては願ったり叶ったりである。ツーリストだけでなく、若い学生たちが地域と交流することで新たな展開が期待できる。

 そしてもうひとつは、木賃アパートを改造してもう少し広い空間(HanareHanare2)を用意したことである(図⑮⑯⑰⑱)。リノヴェーションはそれぞれクリエイターに委ねた。クリエイターにも仕事が入り、外国人留学生が長期に借りるなど、寿町への新たな風を期待することが出来る。この既存ストックのリノヴェーションの流れは山手にも広がり始めている。





 「影」を「影」としてデザインするのではなく、あくまで寿町を拠点としながらも、「影」を多様に開いていくことが選び取られつつあるのであろうか。同じように地域で活動する人たちとも交流が広がり、ローカルサミットを続ける場所文化フォーラム(一般社団法人http://www.basyobunka.com/)といったネットワーク組織ともつながりがある。



[1] くじらの会第1CA研究会,「住む人が生き生きする家づくり,まちづくり」,講師黒崎洋二,林泰義,東京都しごとセンタ-,2007314日。第2CA研究会「『ソ-シャルデザインと地域再生』-寿町再生プロジェクト-」,講師:岡部友彦,林泰義,東京芸術劇場会議室,2007127日)。第3CA研究会「集まって住むためのデザイン」講師 杉浦敬彦,林泰義,東京芸術劇場会議室,713日:コメンテーター:第4CA研究会「ファシリテ-タ-の役割」講師 伊藤雅治,INAX GINZA2008718日。第5CA研究会「モダニズム建築の保存」,兼松紘一郎,東京芸術劇場会議室,20081010日:第6CA研究会「一軒から始められる 畑つきエコアパ-トづくり」平田裕之:「スラバヤ・エコハウス」,銀座INAXギャラリ-,2009123日。第7CA研究会:「高島平団地の再生」:長谷部勉・八巻秀房他,銀座INAXギャラリ-,2009529日。

[2] その名称は「人足寄せ場」に由来する。日雇い労働者をリクルートする場所、戦後は職業安定所(ハローワーク)の周辺にドヤ街が形成された。九州では博多・築港、中部では名古屋・笹島が知られた。

[3] 東南アジアを歩き始めてしばらくして『スラムとウサギ小屋』(青土社,198512月)という評論集を上梓した。アジアの大都市のスクォッター・セツルメント(不法占拠地区)を歩き回って居住問題の深刻さに直接触れ、振り返って日本の居住問題を考えるのは当然である。「ウサギ小屋」とは、日本の住宅の代名詞である。ヨーロッパ共同体(EC)の非公式報告書(1979)が「日本人は「ウサギ小屋」に住む「働き蜂」」と日本の居住水準を揶揄していたことが背景にある。引き寄せられるように向かったのは日本のホームレス、「寄せ場」の存在であった。

[4] 学生たちの関心と岡部友彦君の活動が共鳴しあっていることにある種の感慨があった。滋賀県立大学の布野研究室には、大阪・釜ヶ崎をテーマに修論(『あいりん地区(釜ヶ崎)の変容とその整備手法に関する研究~簡易宿泊所に着目して~』(20093月))を書いた岡崎まりさん(現アルパック・地域計画研究所)がいて、何回か研究室で地区を歩き回った経験があったことも大きかったのかもしれない。

[5] 1977年 神奈川県藤沢生まれ。2004年 東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士前期課程修了。岡部友彦建築設計事務所/Funnybee株式会社取締役。2007年 コトラボ合同会社 設立。内閣府地域再生伝道師。2008年 横浜文化賞文化・芸術奨励賞。2009年 NPO法人 アクションポート横浜 代表理事就任。2011年 関内イノベーションイニシアティヴ株式会社 取締役就任。

[6] シーラカンスを立ち上げる故小嶋一浩(東京理科大学、横浜国立大学)、堀場弘(東京都市大学)、工藤和美(東洋大学)、立命館大学の及川清昭、東京理科大学の郷田桃代、伊藤香織、国士舘大の南寿裕、神戸大学の橋修、近畿大の松岡聡、日本大学の山中慎太郎、そして岡部友彦の指導教官となった神奈川大学の山家京子など。

[7] 1946年新潟県高田市(上越市)生まれ。アート・ディレクター。東京芸術大学美術学部卒業。仏教彫刻史専攻。1971年「ゆりあ・ぺむぺる工房」発足。1982年「アートフロントギャラリー」創設。1997より越後妻有アートネックレス整備構想に携わり、2000から開催されている「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」「瀬戸内国際芸術祭」の総合ディレクターを務める。

[8] 「さなぎ食堂」は、住民の食環境改善を目的とし、300円という低価格で通常の定食を提供する。またパン券と呼ばれる行政が生活保護受給者以外に発行するある種の地域通貨を利用して食事を提供する仕組みを作るなど地域の条件に即した運営体系がとられている。さらには、大手コンビニエンス・ストアのローソンとの提携により、工場から出荷されない余剰食品などを、食材として食堂で有効活用するネットワークも構築されている。

[9] その他、家族もなく、簡易宿泊所に住み、孤独で不便な生活を余儀なくされている人々への見守りサービス「寿みまもりボランティアプログラム(KMVP)」、身体、精神・知的など各種障害のため社会に適合できず、路上生活を余儀なくされている人、家族の支えがない状況で依存症とたたかいながら簡易宿泊所等で生活を続けている人々の就労支援をする「寿JUMP」活動、「就労継続支援B型事業てふてふ」、 簡易宿泊所内で、ひとり死を迎える人への介護や看護、往診の提供や必要時の入院先への交渉やお見舞い、役所が開いてない時間帯の葬祭会社への取り次ぎなど。

[10] 10+1 Ten Plus One No.45 都市の危機/都市の再生アーバニズムは可能か?(200612月)。

[11] 滋賀県立大学の談話室での議論を読み返してみると、僕は、「貧困ビジネス」についてどう思うかとしきりに聞いている。山谷にしても、釜ヶ崎にしても、ある時期から、ビジネスホテル街に変貌していく経緯がある。その結果、日雇い労働者が排除される事態も出現する一方で、生活保護費を搾取するドヤの事例も現れた。釜ヶ崎では簡易宿泊所をアパート(サポーティブハウス)に転用する行政対応も行われてきた。もちろん、YHVのプログラムは、「影」のビジネスとは一線を画している。あくまで対象は域外のツーリストである。

[12] 3畳一間、いかにも狭い。しかも、屋外空間も貧困で公園や公共施設もない。それどころか、不法投棄された廃棄物や廃車が街の外から運び込まれたりする。そうした中で、横浜市、自治会、住民を交えてまず取り組んだのは外部空間の改善である。プランターを置く緑化運動を皮切りに、縁台を設置したり、街灯を設置したりするなど、街路を住民の憩いの場とする試みが行われた。岡部は、地域のステレオタイプ化した「寄せ場」のイメージを払拭し、再生の方向を示すここでプロモーション・ヴィデオ『KOBOBUKI Promotion』(制作=岡部友彦+福島慶介+川瀬浩介)を作製している。


2021年5月9日日曜日

京都論の現在,新建築,199711

京都論の現在,新建築,199711

 

 

京都論の現在

布野修司

 

 

 JR京都駅の複合ビルが全面開業した(9月11日)直後の休日、昼食でも、と出かけて驚いた。大階段広場は、鈴なりといおうかなんと形容していいのか、ものすごい人出であった。レストランは軒並み一時間半から二時間待ち。駅周辺のレストランも同様の状況であった。まずは物見高い一般の関心は高いと見た。

 屋上広場に佇んでいると、いろんな声が聞こえてくる。「年寄り連中はえらい怒っとるんやけど、若いもんはそうでもないんや」。「こないなってたんかあ。これがえらい不評なんやて」。・・・JR京都駅の評価は、単に高さ(壁)をめぐった攻防から、具体的な空間体験を踏まえたものへ、また具体的なインパクトを計る段階へと移行しつつある。

 開業の日、四条周辺の百貨店も多くの客を集め、相乗効果があったと伝えられている。10月には御池通りに地下商店街が、地下鉄東西線の開業に先立ってオープンした。建都1200年を超えた京都が、確実にひとつの変化を経験しつつあることは間違いない。

 もちろん、JR京都駅周辺の商圏、人の流れがどうかわるのか、JR京都駅の大空間がどう使われていくのかはこれからの問題である。大空間は大道芸人の蝟集する活き活きとしたパーフォーマンス空間であり続けるかもしれないし、ホームレスが屯(たむろ)し、ダンボール住居が立ち並ぶ空間と化すかもしれない。24時間解放された空間でありうるかどうか、クライアントのプログラム次第といえ、建築家の提案した空間の構想力の問題でもある。

 「とにかくどう使われるか見て欲しい」「子ども達の反応に期待したい」といった建築家原広司の言い方にはいささかがっかりしながら、村野藤吾の「赤い光、青い光」というエッセイを思い出していた。新興(近代)建築家諸君へ向けて、理念を振り回してもネオンの店の集客にかなわなければ負けだよ、とつぶやくように自らを納得させる内容だったと思う。ほとんど使われない公共建築が多いなかで、単純に利用者の数によって(究極的にはプログラムの質によって)公共建築が評価されるのは当然である。商業建築であればより現実的にそれが問われる。

 しかし、建築家には空間の論理(言説)で説明すべきことがある。まして、鋭い理論家と目されてきた原のJR京都駅についての沈黙はいかにも不自然だったと言わざるを得ない。彼はこれまでの京都にないヴァーティカルな空間を挿入することを戦略化したのであり、単に高さだけの議論にとどまるレヴェルでは話にならない。京都は常に新しい空間を導入してきたのであり、そうだとすればどこにもないその空間の質をめぐって議論はなされるべきなのである。

 安藤案の「門」に対して、原案は「山」(あるいは壁)、というのが、一般の、少し訳知りの受け止め方だろう。原は、三山に対して南山を構想したのだ、というのに対して、それは全く風水を理解しない案だ、などという議論がある。「京都は歴史への門である」と原案もまた「門」をコンセプトとしていることなど誰も知らない。このレヴェルでは、「羅生門」ー「朱雀門」をイメージさせる「門」のシンボリズムの方が圧倒的にわかりやすく支持が多いだろう。

 しかし、そうした議論はそれ以上に拡がらない。現実の諸条件が何事か考慮され、コンペの審査が行われた経緯がある。そして、当選案が公表されてから今日に至るまで、巨大な山(壁)ができるというひとつの事実に対して反射的な反撥が大きな声となってきた。また、その反撥を増幅させたのが七条口の「ゴテゴテした」「ポストモダン風」のファサードである。足場がとれた瞬間、さらに「評判は悪くなった」ようなのだ。

 正直、まだ、新幹線側のファサードがおとなしくていい。壁のようでありながら、烏丸通りなど主要な通りの突き当たる地点には穴(小門)が開けてある。烏丸小路、室町小路、町尻小路に対応する。だから、門といっても小路への入口にすぎない。「京の七口」など都の入口を象徴するのではなく、町屋街区の写しがそこにある。原のいう「地理学的コンコース」なるものはそういうことではないか。新幹線側からは従って路地の奥を覗き見る風情がある。京都タワーもくっきり見える仕掛けがある。空中歩廊や大吹き抜け空間も透けて見え、新しい空間を予感させていた。それに対して正面ファサードは大きく破綻しているように見える。「北面のファサードは、いわば門の表層であるが、広場から見れば暗い陰の面になりがちである。提案では明るく輝く立面を実現すべく、ほとんどガラス面として、建築はかつ消えかつ浮かんで、輸送された北の空と重なり、人びとは二度と同じ形象を見ることがない」というのが設計意図であるが、完全な失敗である。建築は消えもしないし、浮かびもしない。重苦しい壁に駅前の雑然とした景観を醜く歪めて映し出しているだけである。「巨大な壁」と「不格好なファサード」、JR京都駅批判はいまなおこの二点を根拠にしているといっていい。

 ヴァーティカルな空間という時、それは単に垂直的空間ということではない。単に空間の規模や配置が目新しいというのではなく、その空間を身体で直接甘受するレヴェルで、より深度をもった原理を提出しえているかどうか、が問題なのだ*1。西谷啓治が、戦後まもなく、「京都感想」と題して、「高い歴史的文化の伝統を担った古都としての品格は、ほとんど見られない。よく植民地的と言われるが、植民地でも気の利いた都市はもっとましである。いちばん悪いのは浮ついた新しさのうちに妙に垢の抜けない古くささが混じっていることである」と痛烈な京都批判*2を展開していることを最近知った。京都の景観を考える上で繰り返し反芻すべき文章だろう。

 深度をもった空間原理の提出、そんなことはもちろん容易なことではない。しかし、原広司の「均質空間」(批判)論はそれをこそ問題にしてきた筈だ。「均質空間」論はどこへいったのか、が問われるべきなのである。*3

 原のこの間の沈黙にはそれなりに理由がある。まず、京都という政治風土におけるリアル・ポリティックスがある。また、京都をめぐる独特の言説の構造がある。要するに、内外からの視線、愛憎が半ばし、議論がオープンになっていかないブラックボックスのような京都論を支える構造がある。さらに、「集落への愛」を語り続けてきた理論家原広司が梅田スカイビル、JR京都駅、サッポロドームと立て続けに巨大建築を手掛ける違和感がある。嫌悪感と言っていいかもしれない。匿名の大手組織事務所がJR京都駅のデザインを手掛けていたら、問題の質は同じであるにしろ、建築界の反応は異なっていたであろう。しかし、そうした脈絡とは別の次元で空間の構想力と質が終始問われていることは言うまでもないことである。

  JR京都駅をめぐって問題にすべきことはさらにある。原がドンキホーテとなることにおいて、建築の設計施工、生産の仕組みそのものの問題がクローズアップされる。巨大な組織による巨大な複合構築物をつくる場合に、建築家に何ができるか、あるいは建築家はどういう役割を果たすべきかを否応なく考えさせる筈である。施工の過程や建築生産システムについては『施工』がよくフォローしている。「みんなよく頑張った」というトーンは拭えないにしろ、どれだけ多くのエネルギーと時間がどのような決定システムにおいて積み重ねられたかを窺うことが出来る。京都で不評の原の擁護を敢えてすれば、原(その構想力に、コンペの勝利者、東大教授という肩書きも加えてもいい)でなければ出来なかったことがあると思う。例えば、原でなければあれだけの公共空間を確保できたかという気がしないでもない。原の不幸なのは、そうした決定を自ら市民に公開する場を持ち得なかったことである。いずれにせよ、「高さ」と「壁」と「ポストモダン」風デザインということでファッショ的に断罪する風土は困ったものである。

 

 

 しかし、それにしても、JR京都駅をめぐって、京都をめぐって問題にすべきことは依然として多い。例えば、総合設計制度の導入に先だってコンペが実施されたという事実は消えない。京都がまちづくりに対して積極的でないというわけではないけれど、他の日本の都市に比して、その決定プロセスが閉鎖的で不透明であることは常々感じるところである。

 いま京都ではセーヌ川に架かる橋(ポン・デ・ザール 芸術橋)を模した3.5条大橋のデザインがまたしても「景観問題」(第三次景観論争?)として騒がれ始めている。そこにも同じような紋切り型の反応と議論の構造が既に透けて見える。なぜ、京都にパリの橋のデザインをコピーしなければならないのか。どうもこの国の建築デザインに対する一般の理解のレヴェルは低い。もちろん、その責任の大半は建築家にあると思っておいたほうがいい。深度のある空間の原理を提示できていないのである。

 事態はこういうことだ(らしい)。もともとから先斗町と祇園を歩行者路でつなごうという構想が「地元」あった。一度ならず耳にしたことがある。繁華街を交流させたい、ということである。そうした潜在するニーズを背景に、京都市は、京都・パリ友好都市提携40周年(1998年)の記念に格好の事業として、歩道橋建設を行うことにした、ということである。ややこしいのは、その事業が昨年京都を訪れたフランス大統領ジャック・シラクの提案を受けて決定された、とされることである。

 既に、市当局はイメージ・パースを公表、都市計画審議会の縦覧手続きを採った。マスコミの論調は、まず、反対が基調である。JR京都駅の時と同じである。

 「ポン・デ・ザールはポント町の風情台無しに」「鴨川には似合いまへんな」「世界遺産の一部 調和が乱れる」「フランス模倣友好にあらず」「国際文化交流への誤解」

 「ポン・デ・ザール」という具体的なイメージがあるから反対の論拠はわかりやすいかもしれない。川幅も流量も違い、周囲の景観も全く異なるところに「同じ」橋というのはいくらなんでもというのがまともだろう。もちろん、「フランス」「パリ」の橋、しかも、「芸術橋」ならいいじゃないか、という意見もある。キッチュの精神は、どこにも潜んでいるのである。

 歌舞伎好きのシラク大統領と個人的な縁があった志明院の田中真澄住職が手紙を書いた。その返信にはこうある。

 「京都のように長い伝統をもつ都市では、こういう大規模なプロジェクトが必ず議論を起こすはずです。それは当然のことで、また、のぞましいことです。私は、お国の民主的なルールを深く尊重しますので、お手紙の内容に直接に返事することによって、その議論に関与することを是非とも避けたいと存じます。」

 もっともな返答というべきか。問題はまず「お国の民主的なルール」の方である。しかし、シラク大統領も議論の巻き込まれざるを得ない。ル・モンドが一面(9月10日)で、「シラク大統領のアイディアで京都に変貌の危機が」という東京発の批判的記事を扱っているのである。

 しかし、事態はどんどん進む。縦覧期間中に提出された意見書は1400通を超えたという。JR京都駅の時の10倍以上である。わかりやすいからであろうか。必ずしもそうではない。

 1420通のうち、賛成が1027通、反対が373通。賛成意見の大半は歩道橋建設推進の区議の後援会が集めたという。これを受けて市は都市計画審議会の審議を年内に終え、来年度内に着工する構えだ。これが「お国の民主的ルール」の実態である。外部の権威に発案を委ね(た形をとり)、「地域」に潜在する利害関係を覆い隠す。デザインの問題や必要性をめぐる議論を骨抜きにする周到なプロセスである。

 「この橋をつくることに決まったらば、その実現に参加することを、フランスは名誉と見なします」とシラク大統領の田中真澄住職への返信の最後には書かれている。

 

 3

 その京都がいま21世紀へむけてのそのグランドヴィジョンを問う国際コンペを実施中である(10月末締め切り)。7月末に、応募登録数は2000を超えた。海外からも50を超える国・地域から登録があったという。果たして最終的にどれだけの応募があるかは不明であるが、極めて大きな関心を集めているといっていい。そして、おそらく、応募案の中には多くの建設的提案が含まれているに違いない。

 しかし、決定的問題は多くの提案を具体的に実施していく仕組みがオープンに設定されていないことである。3.5条大橋をめぐる決定プロセスが現実である。

 多くの建設的提案を受けて、具体的な事業を誰が決定し、誰が実施するのか、集団無責任体制である。何も担保されていない。これでは絵に描いた餅に終わりかねない、という不安が当初からある。そこで、何(提案内容)よりも、「権威ある」「グランドヴィジョン委員会」あるいは「アーバン・デザイン・コミッティー」といったボードの恒常的設置を、というのが僕の主張なのであるが、なかなか大きな声にならない。小さなアイディアのバラバラの動きがあるだけでまとまった動きにならない。まことに京都的である。

 京都グランドヴィジョンをめぐっては日本建築学会建築計画委員会の1997年度の春季学術研究会*4で議論する機会があった。「一極集中の都市構造」「京都の二重構造・・・南北問題、都市と農村の問題」「京都らしさをめぐる呪縛の構造」「京都をめぐる虚と実」等々をめぐって京都の抱える諸問題が出された。また、様々な具体的な提案もなされた。その詳細は学会の記録に委ねたいが、それなりの密度の議論が展開できたように思う。

 まず強調すべきは、京都がはっきりと「停滞」の症候を示していることである。人口減少、高齢化、地域社会の弱体化、女性と高齢者の就業問題、都心の空洞化。京都の地域構造、人口構造に歴史的な変化が起こっている。拡大と成長の時代は去ったのであり、縮小と均衡の時代が始まる。京都はこれまで全く違う発想で都市計画を考える必要があると力説するのが広原盛明である。京都は、ある意味で京都は日本の都市の未来を先取りしている。京都こそひとつのモデルとなるべきだと思う。

 これからの京都をめぐってはまず虚心坦懐に現実をみる必要がある。京都は大都市として、日本の大都市固有の問題を抱えている、ところがしばしば語られるのは、京都の町の特殊性である。大都市固有の問題と、京都固有の問題、お互いに相互に影響しあいながら、お互いを見えにくくしているという状況がある、というのが橋爪伸也である。

 京都の着倒れ、というけれど家計に占める衣服費の割合は決して多くはない。観光産業はGNPは1割にすぎず、有数(全国第9位)の工業都市である。京都は物づくりの町である。日本最大の内陸型の工業都市である。西陣織とか清水焼のような伝統的な産業だけではなくて、京セラ、オムロン、任天堂、ワコールがある。重工業では、島津製作所、三菱自工があり、重たい物から軽い物、最先端から伝統工業までありとあらゆる工業、物づくりでこの町は成り立ってきた。

 実際、京都市明治以降の政策を見ると、ひたすら近代化、ひたすら工業都市化を果たそうとしてきた。いわゆる三代事業と呼ばれる事業が、明治維新以降衰えた京都の町を再生させる。明治以降の京都策というのは、京都固有の町づくりの方針であるが、その根幹にあるのは工業化なのである。ところが一方でこの本質を覆い隠すように、例えば歴史の町であるとか古都であるとか、あるいは大学の町であるとか、観光で町は成り立っているとかいう風な言説で、この都市が対外的なイメージを醸造してきた。実質と外から見たときの京都像は全くちがう。北部保存、南部開発と言うけれど、南部に開発の余地はない。外部の視線は往々にして京都のイメージにとらわれすぎている。いささか無責任である。

 

 4

 そうした出発点を確認した上で、京都が依拠すべきはその特権性ではないかと思う。日本の他の都市にないアイデンティティに徹底して拘るべきだ、というのが僕の主張である。既に、『建都1200年の京都 日本の都市の伝統と未来』*5を編んだときに思いついたのであるが、そう揺らいではいない。その後、京都グランドヴィジョン策定の研究会においても同じような主張をしている*6

 京都の特権性とは何か。ひとことで言うと「世界都市としての京都」という理念である。要するに、世界の中心としての都市という「フィクション」にもう少し徹底してこだわるべきではないか、ということである。具体的に言うと、「京都」の特権性として、センター機能をどう維持し続けるかが問題ではないか、ということである。事実、京都市の掲げるスローガンにはそうした理念が忍び込んでいるのである。

 日本文化の中心としての「文化首都」、学術の中心としての「学問の首都」(ノーベル賞、京都学派)、「修学旅行のメッカ」、国際文化観光都市、「世界文化遺産都市」(歴史都市(古都)としての景観資源)、「小京都連合のセンター」、・・・・

 実は、「天皇の所在地としての京都」という「都(みやこ)」の虚体化という大テーマが京都の特権性の主張の背後にには隠されている。また、政治首都が移転した、という首都喪失の事実がある。しかし、政治首都としての機能を失って久しいし、「虚」の中心として京都は成り立ってきた筈である。

 こうして、京都の特権性に拘るべきだ、という主張は混乱してくる。「世界都市としての京都」が実は「虚」でしかないことをうすうす皆が感じているからである。従って、その他所者の主張は嫌みに聞こえる。

 しかし、京都のアイデンティティに関わる「世界都市としての京都」という理念を失うと、京都はただの「地方都市としての京都」でしかない。全国で何番目かの大都市にすぎないのである。上位計画に縛られ、他の大都市をはるかに凌ぐ施策など展開できるわけがない。それ故、その特権性に拘るべきだ、というのは極めて論理的な主張である。

 京都の実態を冷静に見つめ、なおかつ「フィクション」としての「世界都市」理念に拘る時、何が構想しうるかが、京都に固有の問題なのである。

 ではどうすればいいか。繰り返しになるけれど、その鍵  になるのは「世界都市理念」を常に議論し続ける仕組みの構築である。世界都市文化センター、世界木の文化センター・・・等々既に多くのヴィジョンがある。今回の京都グランドヴィジョン・コンペへの応募案のなかにも数多くの提案が含まれている。問題は、それをどう持続的に実現していくか、その現実化のプロセスと仕組みである。

 京都グランドヴィジョン・コミッティ、京都賢人会議、あるいは京都百年委員会。百年後の京都を想定しながら、持続的に京都像を提示し続けるそうした仕組みがどうしても必要なのである。

 こうして、京都について考えていることは、決して日本の他の都市の抱える問題と無関係なのではない。実際、京都で問われていることの大半は日本の全ての都市において問われていることだ。

 それを問わずして、京都にのみ過剰に期待するのはアンフェアである。自らの依って立つ根拠を問え。「地域」の現実に眼をつむり、結論を他に委ねて先送りするある種の怠慢がそこにありはしないか。

 

*1 田中喬+布野修司 「京都という場所」、GA97「特集 景観としての京都」、1997AUTUMN。ここでいうヴァーティカルは、田中喬のいう意味にも繋げたい。

*2 西谷啓治、「京都感想」、『風のこころ』(新潮社、1980年)、『宗教と非宗教の間』(岩波書店、1996年)。

*3 拙著、『戦後建築の終演 世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995年の最終章「Ⅲ 世紀末建築論ノート・・・デミウルゴスとゲニウス・ロキ」は、原の「均質空間論」の行方を問うたつもりである。

*4 1997年6月24日。「京都の未来と都市景観」、コーディネーター、布野修司、パネラー樋口忠彦、陣内秀信、松政貞治、広原盛明、古山正雄、橋爪伸也。

*5 拙稿、「京都というプロブレマテーク」、1994年2月号

*6 拙稿「」京都百年計画委員会の設立を」、『「21世紀・京都のグランドヴィジョン」策定に向けて 中間報告』、京都市総合企画局、1997年4月

 

 

 

2021年5月8日土曜日

 アーキテクト・ビルダー、地域住宅工房、そしてコミュニティ・アーキテクトへ 「ひきいるハウス」  八巻秀房+飯島昌之+「鯨の会」の仲間たち

 進撃の建築家 開拓者たち 第5回 開拓者0304 八巻秀房+飯島昌之 「鯨の会」の仲間たち アーキテクト・ビルダー,地域住宅工房そしてコミュニティ・アーキテクト「ひきいるハウス」 『建築ジャーナル』 2017年 1(『進撃の建築家たち』所収)


開拓者たち第5回 開拓者03 八巻秀房+飯島昌之+「鯨の会」の仲間たち

  アーキテクト・ビルダー、地域住宅工房、そしてコミュニティ・アーキテクトへ

「ひきいるハウス」  八巻秀房+飯島昌之+「鯨の会」の仲間たち

布野修司

 

「蟻鱒鳶ル」を見て,岡啓輔に「アーキテクト・ビルダー」の行方を問いながら否応なく思い起こしていたのは,新米の教師になった頃のことである。大学の学部の4年はあっという間に過ぎた。「三里塚」という現場で実に多くのことを学んだがろくに講義を受けてはいない。卒業は1ヵ月遅れ,就職どころではなく,思い悩む間もなく大学院に進学することになった。大学院では専ら図書室に籠ってコピーばかりしていた[1]。卒業論文で,C.アレグザンダーのNotes[2]を読んで,グラフを解くコンピューター・プログラミング(HIDECS)に取組んだのであるが,当時,C.アレグザンダー自身も「アーキテクト・ビルダー」など言い出していない。『住宅の建設』[3]を出すのは1985年のことだ。その後の経緯は省略するが,ドクターに入って2年して思いもかけず助手にしてもらうことになった[4]。そして,さらに2年して東洋大学に移ることになる。強力に誘ってくださったのは故内田雄造[5]さんである。


アーキテクト・ビルダーの原像

 1978年の4月の中頃,東京大学工学部一号館から1台の古びた小型トラックにそう多くない荷物を積んで川越(鶴ヶ島)の東洋大学川越キャンパスへ向かった。トラックを手配し運転してくれたのは中村良和,僕が最初に出会った東洋大生である。その最初の印象は強烈であった。いまや,大野勝彦さんが初代所長(現所長:倉片恒治)を務めたJKK住環境研究所の代表取締役だ(図②)。


川越街道はひどく混んでおり随分と話し込んだ記憶がある。中村君は,前田尚美研究室の研究生であったが,同時に,北区の滝野川で工務店を営んでいる親父さんの元で大工の修行中であること,続いて,電気屋,建具屋など下職の見習いを数カ月ずつ続けるつもりであること,そうした上で,親父の跡をつぐつもりであること,全く新しい建築家のタイプを目指すことなどなどを語り続けた。その時,一つの世界が開かれたような気がした。振り返ってみれば,僕自身も,祖父は大工で,親父は工業高校の建築学科卒業である。大東京にもそういう世界があるというのは新鮮であった。

ひとつの構想が芽生えた。アーキテクト・ビルダーという言葉は使わなかったけれど,そうした職能の確立に関わっていた。中村君と僕とのその構想は次第に膨らんでいく。そして,着々と実現するかにみえた。

中村良和君が,その後何故,JKKに入社し,積水化学工業に異動,ツーユーホームの開発販売に携わり,100人にも及ぼうとする部下を指揮した後,今のポジションに至ったかについては,人の運命は分からないものだというしかない。中村君は有数の山男でもあった。 川越へ向かう車の中で,中村君は山男としての夢,ヒマラヤ登山の夢を語っていた。海外登山の実績のある山岳会に属していたのである。出会って4年後,登山中に遭難者を助けようとして二重遭難に会い,足腰の骨を複雑骨折,現場作業ができない身体になってしまったのである。彼をセキスイハイムに推薦してくれたのは大野勝彦さんである。

 東洋大学の学生たちは多様であった。寿司をにぎらせたら,包丁を持たせたら,本職はだしがいる。音楽にかけてはセミ・プロ級が何人もいたし,野球では甲子園のベンチに入ったものもいた。最初に出会った学生のひとりである本村晃もユニークであった。「建築家は建築を触らないと駄目だ」と宣言,学業をホッぽりだして経師屋のまねごとを始めだしたのである。経師屋といっても,当時,内装工事の学生アルバイト仕事があり,それにのめり込んだのが実情だと思う。職人論を書くよう指導してなんとか卒業だけはしてもらったのであるが,一時期は「先生の年収の数倍だよ」とすごい鼻息であった。その本村晃は今も内装工事業を続けている。先日,我が家の改装を頼んだ。初心を貫いている姿に感銘を受けた。今は,埼玉を拠点として活躍する八巻秀房そして田口隆一,池野健らと「鯨の会」[6]のネットワークとも連携しながら仕事をしているという。今やリノベーションの時代である。

  

セルフビルダー群像

  東洋大の仲間に加えて頂いて,磯村栄一学長の特別研究プロジェクト「東洋における居住問題に関する実証的理論的研究」にいきなり加わることになった。前田尚美,太田邦夫,上杉啓,内田雄造の諸先生を核としたチームが編成され,切盛りを任された。片腕になってくれたのが中村良和君と同級生で親友の当時大学院にいた岡利実(ユー・エス・ピー都市空間研究所代表取締役)である。東洋といっても雲をつかむようであったが,当面のターゲットは東南アジアに絞った。最初に向かったのはインドネシアそしてタイである。19791月のことである。東南アジアといっても,ヴェトナム,ラオス,ミャンマーはとても調査を行う状況にはなかった。

アセアン諸国を歩き始めて,強烈なインパクトを受けたのは,各国で行われていたセルフ・ビルドによる住宅建設のプロジェクトである。コア・ハウジングといって骨組み(スケルトン)だけ供給して後は居住者に委ねる方法(図③),そして,フリーダム・トゥ・ビルド(マニラ)(図④),ビルディング・トゥゲザー(バンコク)(図⑤)というインフォーマル・グループの活動はとりわけ刺激的だった。この頃,フリーダム・トゥ・ビルドのW.キース,ビルディング・トゥゲザーのS.エンジェルのリーダー(図⑥)と出会い,“Housing by People[7],“Freedom to Build[8]J.F.C.ターナーにも会った。S.エンジェルは,C.アレグザンダーの『パターン・ランゲージ』[9]の共著者である。発展途上国の大都市を埋め尽くすバラックを目の当たりにして,建築家がどういう方法を組み立てるかは,以降,大きなテーマであり続けている。

 

生産組織研究会

 八巻秀房[10]が布野研究室に加わるのは1981年である。布野研究室3期生ということになる。研究室は東南アジアプロジェクトにフル回転し始めていたが,一方で,日本のフィールドについて,住宅生産組織研究会の活動が大きな軸になりつつあった。そして並行して,大野勝彦,石山修武,渡辺豊和,そして布野修司で開始したHPU(ハウジング計画ユニオン)の活動を基に『群居』を創刊しようとするまさにその渦中であった(198212月に創刊準備号を出して19834月創刊,図⑦)。

 住宅生産組織研究会とは,地域の住宅生産組織のありかたを総合的に明らかにすることを目的に結成された研究会である[11]吉武鈴木研で西山計画学も含めて住宅計画学とその歴史を学んだのであるが,その型計画の方法に大いに疑問を感じていたことも大きい。作り手の世界を押える必要がある,という問題意識は,アーキテクト・ビルダー,セルフビルダーへの関心とまさに重なり合っていた。

 思い出深いのは,「熊谷うちわ祭り」そして「秩父夜祭り」の調査である。祭りを支え,地域を支える大工さん鳶さんの活き活きとした姿にある種の啓示を受けた。八巻君は修士課程に進学して丸二年間(19821984),生産組織研究会の活動にそれこそ朝から夜中まで取り組んだ。そして書いた修士論文が「木造住宅の生産組織に関する研究」(1985)である。

 

全国住宅消費者連盟

 こうして,東洋大学布野研究室の初期の問題意識を一身に受け止めた八巻君は全国住宅消費者連盟という組織に飛び込む。内田雄造さんの紹介である。「全国」の「消費者連盟」をうたうが,実態は,神奈川を中心とする首都圏の工務店の「組合」で,消費者教育の一方で顧客獲得が目的だったという。セミナー開催やヴィデオ制作などに腕を奮い,『家づくりみんなここで失敗する』(かんき出版,1988年)を出版する。

先日(2016929日),斎藤公男先生が主催されるA-Forum[12]のアーキテクト/ビルダー研究会に,八巻君とともに泉幸輔さんや松澤静男さんの「家づくりの会」を招いて議論する機会があったけれどが[13],「家づくりの会」は,建築家は建築家として主体性を持ち,大工工務店と連携するという構えである[14]。直接刺激を受けたかどうかはわからないけれど,「連盟」を離れて,1991年に大野建築アトリエにいた山中文彦と共同で「家づくりネットワーク」を設立する。実体は設計事務所である。しかし,なかなか利益が出ない。一生懸命図面を描いても見積金額が全くあわず,それを調整して行く間に設計が何だかわからなくなる,という悪戦苦闘だったという。

 

産直住宅―地域住宅工房のネットワーク

 そこで,設計だけではなくて施工もやろうということになった。アーキテクト・ビルダーを具体的に目指そうということである。HOPE計画[15]を背景にした大野勝彦の『地域住宅工房のネットワーク』(彰国社,1988年)が輝ける指針になったという。地域で地域らしい住宅をつくろうと思い始めたけれど,東京で地域住宅とは何かということになる。手掛かりを探しあぐねている時,たまたま山形県金山町という杉の産地の山林所有者と知り合いになる。素晴らしく良い杉があり,しかも大工さん達の優れた技能がある,金山町の木材を金山町で刻み,首都圏で組み立てもらう,金山町の大工さんには刻みから上棟して野地板を葺くまでやってもらい,その後は首都圏の大工さんに引き継いで行くという仕組みをつくった。いわゆる産直住宅である。約16年間で90棟程建てたという(図⑦abc)。

 そして,次の展開を始める。

 

地域を循環させる

歳を取ってきた両親の住む実家すなわち生まれ育った地域に拠点を移し,独立するのである。当初しばらくは「コミュニティアーキテクト・ラボ(一級建築士事務所)」を名乗った。本人に言わせると,布野先生のいうことを忠実にやってきただけですと冗談めかすが,『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』(2000)以降の京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の活動や滋賀県立大の近江環人の活動が念頭にあったらしい。「鯨の会」でも「コミュニティ・アーキテクト」をめぐって議論する機会があった[16]


実家の近くとはいえ,縁もゆかりもつながりもない地域では,まず人と人との繋がりを自分達でつくって行かなければならない。自分達の思いに共感してくれる人をとにかく集める,地域の中で自然循環できるようなコミュニティをつくること,それが目標となった。そして,いろんなことを始めた。ペレットストーブで間伐材を燃料に地元の食材で鍋パーティーを開いたり,「協同組合 彩の森とき川」と連携して伐採見学会で立ち木を伐採して希望者に進呈するとか,「ピッカリひきの市」という市場(月一回)も続けている(図⑧⑨)。徐々に仕事が増えてきて,研究室の後輩すなわち「鯨の会」の飯島昌之[17](図⑩)に声をかけた。長野県諏訪市在住で,設計事務所を営む。この飯島君もアーキテクト・ビルダーを目指したひとりである。林泰義さんの計画技術研究所に勤務後,故郷に帰って大工修行の上,一級建築士の資格をとった。『群居』では漫画の連載で評判をとった。僕の『住宅戦争』にもイラストを描いてくれた(図⑪)。いいコンビである。「鯨の会」には、今回触れるスペースがなかったが、宮内康設計工房で「山谷労働者福祉会館」の現場を仕切った、現在、静岡を拠点にする松田和優紀もいる。

2010年から2011年にかけて,これまでの蓄積をもとに地元の杉材を使った「ひきいるハウス」というモデルハウスをつくった(図⑫)。現在の拠点である。2013年には(株)山の木を設立,建設業登録も行った。地域でエネルギーもつくって行こうということで,完全にオフグリッドで,電気は全てソーラーバッテリーでまかなっている。民家を再生する仕事もぼちぼち出てきた。




 

いさましく「進撃」する建築家というイメージはないかもしれない。むしろ,悪戦苦闘の軌跡が浮かび上がる。しかし,アーキテクト・ビルダーとしての未来を確信する八巻秀房,飯島昌之両君の顔つきは明るい。おそらく,日本の各地にこうしたネットワークが存在しているのだと思う。そうしたアーキテクト・ビルダーたちの仕事に期待し続けたいと思う。



[1] 入ったのは吉武(泰水)研究室である。松川淳子そして下山真司,曽田忠宏の助手の先生たちとの学部での交流が大きかったのだと思う。大学院に入って,何か研究したいということではなかった。同級生の長澤悟は,いまや学校建築の大御所であるが,入室当初から学校建築をテーマにすると決めていて,吉武先生から直接指導を受けていたけれど,僕の場合ほったらかしの感じであった。ただ,吉武先生は,当時「夢」にそれこそ夢中で[1],現象学や精神分析についての本や文化人類学の本を随分読まされた。槇文彦さんの事務所(槇総合計画事務所)で夏休み一ヵ月アルバイトをしたし,月尾さんの事務所(都市システム研究所)で丹下さんの松江の仕事を手伝った。下山さん,曽田さんの事務所で模型をつくったし(筑波町立筑波第1小学校),石井和紘,難波和彦の事務所にいって図面を引いた(54の窓と直島幼稚園)。なんとなく,設計をやっていくのかなあ,という感じであった。

[2] クリストファー・アレグザンダー(1978)『形の合成に関するノート』稲葉武司訳,鹿島出版(C.Alexander(1964), “Notes on the Synthesis of Form”, Harvard University Press.)。

[3] Chritpher Alexander(1985), “The Production of Houses”, Oxford University Press.

[4] 修士論文はどうしたものかと思っていたら,吉武先生が突然東大をやめて筑波大の副学長になるという青天の霹靂のような事態が起こる。「君はドクターに行きなさい」といきなり告げられたのであった。原広司先生に来ないかと誘われたことも思い出す。吉武研究室(建築計画第一講座)を引継いだ鈴木成文教授,高橋鷹志助教授体制の初代助手である。初見学助手(東京理科大学名誉教授)も同時就任であった。研究室には,植野糺,田村優樹以下,宇野求(東京理科大学教授),村松伸(東京大学教授),土居義岳(九州大学教授),江幡修(鹿島建設)ら錚々たるメンバーが蝟集してきた。

[5] 内田雄三さんについては,内田雄造追悼論文集『ゆっくりとラジカルに』(私家本,2012年)がある。1969118/19日の安田講堂闘争に参加,逮捕され,公判中の身であった内田さんを助手に採用したのは前田尚美先生他東洋大学の教師陣である。この前田先生,内田先生に声をかけて頂いたのであった。

[6] 東洋大学布野研究室を核とする同窓会。その名は,川越キャンパスが鯨井中野台であったことに因む。1988年以降「鯨の会」という同窓会を組織して,毎月講師を招いて研究会を開いてきた。そして,僕が還暦を迎えようとするころから再開しており,現在,A-Forumのアーキテクト/ビルダー研究会に移行しつつある。

[7] Turner, John F. C. (1976), “Housing By People: Towards Autonomy in Building Environments. Ideas in Progress”, London: Marion Boyars Publishers. 

[8] Turner, John F. C. & Fichter, Robert, eds. (1972), “Freedom to Build, dweller control of the housing process”, Macmillan.

[9] Christopher Alexander, Sara Ishikawa, Murray SilversteinShlomo Angel 1977“A Pattern Language: Towns, Buildings, Construction ”Oxford University Press(クリストファー・アレグザンダー(1984)『パタン・ランゲージ環境設計の手引』平田翰郎訳,鹿島出版会)

[10] 1959年生れ。1982年 東洋大学工学部建築学科卒業/1884年 同大学院修士課程修了/1884年 全国住宅消費者連盟勤務。木造住宅の企画・開発及び設計業務/1986年一級建築士免許取得/1988年 「家づくりみんなここで失敗する」(かんき出版)出版/1991年山中文彦と共同で「家づくりネットワーク」を設立。/2002年「木材供給システム優良事例コンクール」において林野庁長官賞受賞/2006年 独立,コミュニティアーキテクト ラボ一級建築士事務所を設立/MIDworks飯島昌之と共同で設計監理業務を開始/2013年株式会社山の木を設立。

[11] ,芝浦工業大学藤沢好一研究室,,千葉大学安藤正雄研究室,工学院大学吉田拓郎研究室,都立大学深尾精一研究室,職業訓練大学校松留慎一郎研究室,東京大学松村秀一研究室,大野アトリエおよび布野研究室の8グループである。東洋大学布野研究室が加わることになったのは,大野勝彦さんから藤沢好一先生を紹介されたのがきっかけである。それにクラスメートであった安藤正雄の存在も大きかった。

[12] Archi-neering Design Forum. アーキニアリング・デザイン(AND)とはArchitectureEngineering Designとの融合・触発・統合の様相を意味する言葉で,AForumは,このANDの理念の実現のための「集いの場(フォーラム)」となることを目指す。 http://a-forum.info/

[13] AF=Forumアーキテクト/ビルダー研究会・日本建築学会『建築討論)共催)「建築の設計と生産:その歴史と現在の課題をめぐって03日本の住宅生産と建築家」」。http://touron.aij.or.jp/2016/11/2989

[14] 僕は,昭和から平成へ時代が変わる頃,「家づくりの会」に招かれて連続講演をする機会があった(「住宅生産の構造と建築家」19890930,「建築家と住宅の戦後史」19891021工業化住宅と住宅設計」19891202地域住宅計画」19900127,「ハウジング計画論の展開-東南アジアのセルフヘルプ・ハウジング」,19900224)が,それには八巻君も参加していたのだという。

[15] HOPE」は「地域住宅計画housing with proper environment(地域固有の環境にともなう家づくり)」をいい,1983年に建設省が施策展開を行った。

[16] 布野修司「裸の建築家/タウンア-キテクトの可能性」,「鯨の会」講演会,2006526

[17] 1967年生れ。1990年東洋大学工学部建築学科卒業/1990年〜1993年(株)計画技術研究所勤務/1993年〜1997/塚田大工で大工修行,古民家の移築を学ぶ/1999年一級建築士事務所 エムアイディーワークス 開設/2008年事務所名をMIDworksへ変更 ・ コミュニティアーキテクト ラボ一級建築士事務所 八巻秀房と協業開始。