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日本建築
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イエガタハニワ
家形埴輪(いえがたはにわ)
古墳から出土した住居の形態を模した埴輪。埴輪家とも言う。佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡(かおくもんきょう)などとならんで先史時代の住居形態を立体的に伝える資料である。茶臼山古墳(4~5世紀)からは8個の埴輪家が出土し、切妻造の屋根に堅魚木を揚げた主屋や副屋は竪穴住居で高床住居の倉庫とあわせ地方豪族の住居の構成をも示している。西都原古墳からは四方に出入口をつけた子持屋根を持つ家形埴輪が出土している。
アイノマ
相の間(あい-ま)
2つの部屋の間の空間をさし、神社では本殿と拝殿の間を言い、特に八幡造の前殿と後殿の間や権現造の本殿と拝殿の間の空間をさす。権現造社殿においては本殿と拝殿の間を一段低く床を張り、石の間という。元来は土間あるいは石敷きとしたためにこの名がある。北野天満宮社殿は慶長12年(1607)の再建であるが記録より平安時代末期には石の間の存在が知られている。
モン
門(もん)
建築の外囲いの出入り口に設けた建造物。柱間数によって五間三戸(間口五間、戸口三間)、三間一戸(間口三間、戸口一間)、一間一戸(間口・戸口一間)などと表わされる。門の位置によって、寺域を囲む築垣に設けられた南大門(なんだいもん)、禅宗では総門(そうもん)、北・東・西大門、廻廊に設けられる中門(ちゅうもん)、禅宗では山門(三門:三解脱門)、また、中門や三門に安置される金剛力士像から仁王門(におうもん)などの呼称がある。一重の門には上土門(あげつちもん)、棟門(むなかど)、腕木門(うでぎもん)、薬医門(やくいもん)、八脚門(はっきゃくもん)、四脚門(よつあしもん)、唐門(からもん)、冠木門(かぶきもん)、高麗門(こうらいもん)、塀重門(へいじゅうもん)、長屋門(ながやもん)などがあり、二重の門には二重門、楼門(ろうもん)、櫓門(やぐらもん)がある。江戸時代の武家屋敷の門は石高・身分によってその形式や規模が制限されていた。
オシイタ
押板(おしいた)
厚い板の意味。転じて床(とこ)と同様の場所を言う。床の起源と考えられ、床より奥行が浅く框が高い位置に設けられる。初期には造付けではなく掛け軸の前に机を置いたものが見られる。「慕帰絵詩」の文明14年(1482)に補われた部分に造付けの押板が描かれている。押板は13~14世紀に流行した軸装の宋元画を鑑賞するためにつくられたとされる。光浄院客殿の床がこの押板形式のものである。
ガケヅクリ
懸け造(がけづくり)
崖や池などの上に建物を建てる際の、長い柱と貫で固めて床下を支える建築方法。清水の舞台で知られる清水寺本堂や室生寺金堂に見られる。社寺建築の他に、江戸時代、浜地や堤防上に建てられた町家などにも使われている。
マチヤ
町家(まちや)
民家のうち、農家に対して商家や職人の住まいを指し、直接道路に面して建つ集住型都市住宅。古代官衙町の下級役人宿舎・寺院下級僧坊に見られる棟割長屋形式の住居に築地や溝の位置に現れた付属屋・門屋の要素を加えて10世紀末から11世紀初めに出現する桟敷屋に原形を見る。11世紀から12世紀にかけての都市中間層の台頭と共に町家が成立したとされる。中世に発展する門前町や港町、さらに自治的都市である真宗寺内町において広まり、近世城下町や宿場町・港町などにおいて各地域の地方性を加えて多様な町家を生み出した。京町家は平安時代の様子が「年中行事絵巻」に見られ、中世京都を描いた「洛中洛外図」には2階建のものもあった。一般に中世までの町家は敷地にゆとりがあり、菜園などを持つものもあったが、しだいに建詰まり奥行きの長い「鰻の寝床」と呼ばれるものとなった。京都や高山など木材を表に見せる真壁造町家や、川越の土蔵造や瀬戸内沿岸に広く分布するなまこ壁の町家など防火のために外壁を大壁とするものも多い。
カワラ
瓦(かわら)
日本建築の屋根葺材の一つ。飛鳥時代に仏教とともに百済より伝わり、現存最古の瓦は元興寺極楽坊本堂に残る行基葺(ぎょうきぶき)で飛鳥時代のものとされる。平瓦と丸瓦を交互に葺く本瓦葺と本瓦葺を簡略化してつくられた桟瓦葺がある。桟瓦は延宝2年(1674)に現在の滋賀県大津市三井寺下の西村半兵衛の発明とされる。軒先の瓦は瓦当(がとう)を付けて文様を描く。棟の端には鬼瓦と鳥衾(とりぶすま)または鴟尾(しび)を置いて納める。そのほか桟瓦の軒先瓦の下方を直線にした一文字瓦(いちもんじがわら)などがある。
コウジョウイン
光浄院(こうじょういん)
滋賀県大津市にある園城寺の子院の一つ。客殿は慶長6年(1601)の再建で国宝。正面軒唐破風のついた車寄部分や中門など寝殿造の名残を留める主殿造の典型。部屋は2列に並び、各室とも畳を敷きつめ上座の間に床・棚・帳台構を設け、上段には床・付書院を設ける。「匠明」の「主殿の図」とほぼ同じ形式で、桃山時代の上層住宅の形式手法を示すものと考えられる。
ショウレンジ
照蓮寺(しょうれんじ)
高山市堀端町所在の真宗大谷派の寺院。現本堂は永正元年(1504)の造立と伝えられ真宗寺院本堂最古の建築で重要文化財。飛騨地方の有力寺院で、1958年に岐阜県大野郡荘川村中野から移建。簡素な住宅風の形式で上段に押板を設けた内陣と左右余間をつくり、下段の下陣を大きくとった近世真宗本堂の原型を示している。
センネンヤ
千年家(せんねんや)
兵庫県の山間部に江戸時代から千年家と呼ばれる農家が数軒あったが、現在残るものは2棟である。神戸市兵庫区の箱木家住宅と兵庫県穴粟郡安富町の古井家住宅でいずれも重要文化財。箱木家は「摂陽奇観」元祿5年の項に大同年間に建設されたとされるが、確証はない。平面形式、架構方
法、柱の表面仕上など近世民家とは大きく異なり少なくとも室町後期までは遡り得る遺構と考えられる。古井家も同様で近世以前の建築と推定され、中世の民家の形式を伝える貴重な遺構である。
ハッカクドウ
八角堂(はっかくどう)
平面が八角形の仏堂で八角円堂(はっかくえんどう)とも言う。日本建築は木材を取材料とするため方形の平面形が主で、多宝塔の塔身が円形であるほかは六角、八角のものは稀である。現存遺構で八角形の平面を持つ遺構は、天平11年(739) 造立の法隆寺東院夢殿と天平宝字4~8年(760~764)に建築されたと推定される永山寺八角堂などが代表的である。
ミョウキアンタイアン
妙喜菴待庵(みょうきあんたいあん)
千利休作と伝わる茶室の唯一の遺構で国宝。京都府乙訓郡大山崎町所在。天正10年(1582)頃の建築で現存する最古の草庵茶室。屋根は切妻造に土庇を付けた柿葺(こけらぶき)で、2畳隅炉に1畳板畳付の次の間、左脇に1畳の勝手がつている。床は柱を出さない室床(むろどこ)や次の間の釣棚、勝手の隅三重釣棚などは利休好みの優れたものである。なお書院は文明年間の建築で重要文化財。
ユウイン
又隠(ゆういん)
裏千家茶室。京都市上京区所在。重要文化財。利休の孫の千宗旦が利休の聚落屋敷の四畳半を再現したもの。現在の建物は天明8年(1788)火災焼失後の再建であるが床の間、道庫、躙口(にじりぐち)を設け、正面左の壁隅を柳柱(やなぎばしら)とするなど利休四畳半を今日に伝える。
リュウギンアン
龍吟庵(りゅうぎんあん)
京都市東山区にある東福寺塔頭。国宝。方丈は応永35年(1428)頃の建立で、現存最古の方丈である。正面中央の部屋の奥が壁でその裏が暗い部屋となる点など住居的要素を残す。古制を窺わせる遺構である。そのほか庫裏と表門が重文。
エヨウ
絵様(えよう)
建築の細部に施された彫刻や彩色模様などの装飾。古代にはすべての造形芸術における姿図や手本を指した。動・植物や人物などの具象的なものから、渦文や若葉文など抽象化されたものまで変化に富む。各時代・様式の特徴をよく表わし、蟇股(かえるまた)や虹梁(こうりょう)、木鼻(きばな)などの彫刻は建築の編年指標ともなる。桃山期には透かし彫りなどの装飾彫刻や華やかな彩色が多用され、後の江戸時代の社寺建築の装飾へとつながる。
チョウダイガマエ
帳台構(ちょうだいがまえ)
書院造の上段の間、床・違棚をはさんで付書院の反対側に一段高く敷居を入れ、せいの低い襖を立てた座敷飾をいう。初期のものでは奥は閉鎖的で納戸(寝室)となっていることから納戸構とも呼ばれる。寝殿造の寝室である塗籠(ぬりごめ)には帳が置かれ浜床(はまゆか)と呼ばれる台が付いていたことからこの名がある。帳台構は寝室の入口が装飾化されたものと考えられる。
ナカゾナエ
中備(なかぞなえ)
日本建築の組物と組物の間にあって各種桁を受ける支持材を言う。本来構造材であるが装飾的要素が強い。桁の上に束を立てた間斗束(けんとづか)があり、揆束(ばちづか)、蓑束(みのづか)など装飾を施したものがあり、間斗束の左右に装飾を描いたものを笈形(おいがた)と呼ぶ。和様では蟇股(かえるまた)を用いることもあり、室町以降、動植物文様も現れ、透し彫りや丸彫りも行われるようになった。桃山、江戸時代には彫刻が更に大きくなり華美になった。
ツマカザリ
妻飾(つまかざり)
切妻造又は入母屋造の屋根の妻部分の装飾を言う。二重虹梁蟇股や豕叉首の形式は架構をそのまま表したもので、平安時代以後天井の出現とともに次第に装飾的となり、住宅風の建物では狐格子、神社では豕叉首、禅宗建築では虹梁大瓶束が用いられた。
ケンメンキホウ
間面記法(けんめんきほう)
古代の建築の平面規模・形式を表現する方法。中世前期までの建築は身舎(母屋)と庇からなる構成であった。身舎の間口(梁行)柱間を「何間」と表し、奥行き(梁間)は通常柱間2間であったから省略され、身舎に「何面」の庇が付いているかで表記した。庇は、1~4面まで建物の用途や格によって様々であった。例えば、「五間四面」とあれば間口5間・奥行き2間の身舎に4面に庇を付けたもので、総間口は7間、総奥行きは4間になる。『南都七大寺巡礼記(諸寺縁起集)』の記載から足立康が解明した。
キョウゾウ
経蔵(きょうぞう)
経典を納めておく建物で、2階建てのものは経楼と呼ばれる。鐘楼とともに寺院の必須の施設であり、古代寺院においては、講堂の前方に鐘楼と経蔵は対をなして配された。
ジキドウ
食堂(じきどう)
斎食のための堂で、文殊菩薩および賓頭盧尊者を安置する。平安期に僧坊の制度がなくなるまで寺院には必須の施設であった。寺院の全僧侶が食事をする空間であり、講堂とほぼ同規模であった。東大寺や興福寺では厨・竃屋(大炊屋)など炊事をする建物や食料や薪を入れる雑舎をまとめて食堂院をなしていた。東大寺二月堂付属の食堂が修二会の際に用いられる唯一の例である。
チョウゲン
重源(ちょうげん)
俊乗坊重源。建永元年(1206)、86歳で東大寺に入寂。鎌倉東大寺再興時の大勧進を指揮した。入宋帰朝後、東大寺大仏殿再建に際し宋様式である大仏様を取り入れたことで日本建築史上著名。和様隆盛の藤原建築界に宋の新様式を持ち込んだ。大仏改鋳に宋人陳和卿(惣大工とも記される)を起用し、僧位を持たない快慶、定覚(運慶の弟)を仏師として登用したのも重源によるとされる。東大寺南大門、同開山堂、浄土寺浄土堂、京都醍醐寺経蔵(昭和9年焼失)はいずれも重源によって建てられたもので大仏様。『南無阿弥陀仏作善集』を表している。
ヤマダデラ
山田寺(やまだでら)
奈良県桜井市所在の飛鳥時代の寺院跡で特別史跡。皇極2年(643) に金堂建立とされる。昭和51年より奈良国立文化財研究所により発掘調査が進められる。伽藍配置は中門・塔・金堂・講堂を一直線に並べる四天王寺式に近いが、北面回廊は講堂まで伸びず、金堂背面で閉じると推定されている。第4・5次調査で東回廊跡から倒壊した回廊が発見され、ほぼ完全な姿で飛鳥時代の建築部材が出土した。発掘によって建築部材が完全な形で出土する例は珍しく貴重な資料となっている。
ライドウ
礼堂(らいどう)
仏堂において正堂の前に建てられた礼拝のための堂。東大寺法華堂において別棟の礼堂が建てられていたことが知られ、双堂(ならびどう)形式と呼ばれる。中世密教本堂において正堂の前面の庇を広げ、礼堂を付加し下陣とした。当麻寺曼陀羅堂は古代の双堂から内陣と礼堂密着させた形式への変化を示す遺構である。
ハイデン
拝殿(はいでん)
神社本殿の前面に建てられた参拝のための建物。祭典時に神供、祝詞を行う祭員着座の施設で、平安時代中期までには成立していたとされる。遺構は鎌倉時代以降のものが残っている。横長の建物が多いが、石上神社摂社出雲建雄神社拝殿は、拝殿中央部を通路として開けた馬道(めどう)とする割拝殿の形式で平安末期には成立していたと考えられている。
ミンカ
民家(みんか)
広義には貴族や上層武士住宅に対して一般庶民の住まいを言う。農家や商家・職人の住居である町家、漁師の住まいのほか、中下級武士の住まいも含むが、農家を意味することも多い。中世まで遡る民家は兵庫県に千年家と呼ばれる2棟が残るのみで、そのほかのものは江戸時代以降のものである。平面形式、架構形式、外観デザインともに各地域ごとに独自の発展を遂げ、地方色を示す。農家では、竃屋と居室を別とする分棟型は南九州や房総半島などに分布し、山形・秋田県の中門造や岩手県の曲屋、長野県の本棟造や岐阜県白川郷の合掌造、滋賀県北部の土座住い、奈良県の大和棟、佐賀県のくど造など多くの形式がある。
ソウフクジ
崇福寺(そうふくじ)
長崎市、寛永6年(1629)に長崎在住の中国福州出身者が創建し、正保・慶安年間に黄檗宗の伽藍として整備された。大雄宝殿の前面1間を吹放しにして回廊が取りつく手法や、組物や絵様などに明の建築様式を示す。第一峰門は元祿7年(1694)の再建であるが、中国で細工したものを船で運び建立したと言い、大雄宝殿とともに国宝。そのほか三門・護法堂・鐘鼓楼・媽姐門が重文となっている。黄檗宗の寺院としては長崎の福済寺や京都府宇治市の万福寺があり、多くの指定文化財を有する。
ショウコクジ
相国寺(しょうこくじ)
京都市上京区、禅宗。京都の禅宗伽藍としては大徳寺や妙心寺とならんで桃山から江戸初期に再建整備された。相国寺法堂(はっとう)は、豊臣秀頼の寄進で慶長1年(1605)に再建されたが、現存する法堂の中で最古のものである。法堂は仏殿の背後に位置し、住持が説法を行う建物で、本尊は置かず、法座のみをしつらえている。
ホッカイジ
法界寺(ほっかいじ)
京都市伏見区、永承年中、日野資業が山荘を寺としたことに始まる。平安末期には多くの堂塔を備える寺院であったが、国宝の阿弥陀堂と室町時代の薬師堂(重文)が残るのみである。阿弥陀堂は様式上平安末期の建築とされるが鎌倉時代とする説もある。方5間裳階付の方形造りの住宅風の仏堂で阿弥陀信仰の仏堂として貴重な遺構で
ある。
ダイジョウキュウ
大嘗宮(だいじょうきゅう)
天皇の即位後初めての新穀を神と共に食する祭祀が大嘗祭で、そのための殿舎を大嘗宮と呼び、悠紀院・主基院を設け、それぞれ正殿は黒木造(皮つき柱)掘立柱、切妻造妻入で、屋根は青草葺、天井にはむしろを張った。内部空間は室と堂の2室に分けられ、社殿形成期の神社の形式を示すものとされる。応仁・文明の乱のあと後柏原天皇から霊元天皇までの9台21年間中絶したが貞享4年(1687)東山天皇の時に再興された。昭和60年には大嘗宮と推定される遺構が平城宮朝堂院跡から出土し、元正・聖武・称徳天皇3代のものと推定されている。
トウサンジョウデン
東三条殿(とうさんじょうでん)
東三条殿は藤原氏歴代の邸宅で、平安時代の寝殿造を代表する邸宅で、摂関家の邸宅として里内裏にもなり儀式場の性格を持っていた。中央の寝殿は平入で、東対は妻入で身舎内に2間四方の塗籠を有する同様の平面を構成する。東対から南には中門廊がのび、間に中門を開く。さらに東には二棟廊、侍廊、車宿、随身所が建てられたが、西対は設けられず、透廊が南にのびて釣殿に至る。東三条殿は永久4年(1116)に大臣大饗が執り行われ、「年中行事絵巻」にその図があり、また日記などを合わせ寝殿造の邸宅と儀礼の関係を知り得る邸宅である。
リョウセンジ
霊山寺(りょうせんじ)
奈良市中町、本堂は弘安6年(1283)の建立で国宝。中世密教本堂では方5間を標準としたが、霊山寺本堂では前面2間通りを下陣とし、奥行き3間の内陣と1間の後陣として深くし、脇陣を設けている。内下陣ともに天井を小組格天井を一面に張り構造を一歳見せず、内下陣境に格子戸と菱欄間を入れ、側回りの開口部には蔀戸や板戸を入れ和様を主とした保守的な意匠を見せる。室町時代の建築である三重塔と鐘楼は重文。
チャヤ
茶屋(ちゃや)
茶屋には、(1)屋敷庭園内に設けられた田舎家風の建物で茶室より古く15世紀には存在が知られ、(2)室町時代の社寺門前の一銭茶屋にその始まりが見られ、のち掛茶屋・休み茶屋、水茶屋、茶店とも言う、(3)客に飲食を供する料理茶屋など、(4)社寺の施行茶屋、(5)芝居茶屋や相撲茶屋など、(6)近世以後遊廓における揚屋茶屋など、(7)戦国大名の休泊施設としての御茶屋、(8)近世大名領国に於ける茶屋本陣などがある。
ナンド
納戸(なんど)
(1)収納のための小室、(2)寝室の意。古くは「納殿(おさめどの)」とも称し、寝殿造では帳台あるいは塗籠(ぬりごめ)とも言う。民家ではナンド、チョウダ、ネマなどと称した。納戸は閉鎖的で、入口は狭く、敷居を高くして鴨居を低くする帳台構(納戸構)とした。
クルマヨセ
車寄(くるまよせ)
住宅に玄関や式台が設けられるのは中世以降で寝殿造においては牛車で直接建物の庇部分に乗りつけた。車寄が正式の出入口でであった。書院造になっても車寄せは形式的に残り出入口の開口部を板扉として、軒唐破風を付けた。
シュデンヅクリ
主殿造(しゅでんづくり)
中世住宅の形式で、中心となる建物が主殿と呼ばれている。寝殿造の簡略化した形式に始まり、中門や車寄せが設けられる。近世武士住宅の形式である書院造りの成立を考える際に主殿造をその原形とする説があったが、現在では否定されている。