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2021年6月14日月曜日

日本建築 TBSブリタニカ

 

 

日本建築

 

 

 

 

イエガタハニワ

家形埴輪(いえがたはにわ)

 古墳から出土した住居の形態を模した埴輪。埴輪家とも言う。佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡(かおくもんきょう)などとならんで先史時代の住居形態を立体的に伝える資料である。茶臼山古墳(4~5世紀)からは8個の埴輪家が出土し、切妻造の屋根に堅魚木を揚げた主屋や副屋は竪穴住居で高床住居の倉庫とあわせ地方豪族の住居の構成をも示している。西都原古墳からは四方に出入口をつけた子持屋根を持つ家形埴輪が出土している。

 

アイノマ

相の間(あい-ま)

2つの部屋の間の空間をさし、神社では本殿と拝殿の間を言い、特に八幡造の前殿と後殿の間や権現造の本殿と拝殿の間の空間をさす。権現造社殿においては本殿と拝殿の間を一段低く床を張り、石の間という。元来は土間あるいは石敷きとしたためにこの名がある。北野天満宮社殿は慶長12年(1607)の再建であるが記録より平安時代末期には石の間の存在が知られている。

 

モン

門(もん)

  建築の外囲いの出入り口に設けた建造物。柱間数によって五間三戸(間口五間、戸口三間)、三間一戸(間口三間、戸口一間)、一間一戸(間口・戸口一間)などと表わされる。門の位置によって、寺域を囲む築垣に設けられた南大門(なんだいもん)、禅宗では総門(そうもん)、北・東・西大門、廻廊に設けられる中門(ちゅうもん)、禅宗では山門(三門:三解脱門)、また、中門や三門に安置される金剛力士像から仁王門(におうもん)などの呼称がある。一重の門には上土門(あげつちもん)、棟門(むなかど)、腕木門(うでぎもん)、薬医門(やくいもん)、八脚門(はっきゃくもん)、四脚門(よつあしもん)、唐門(からもん)、冠木門(かぶきもん)、高麗門(こうらいもん)、塀重門(へいじゅうもん)、長屋門(ながやもん)などがあり、二重の門には二重門、楼門(ろうもん)、櫓門(やぐらもん)がある。江戸時代の武家屋敷の門は石高・身分によってその形式や規模が制限されていた。

 

オシイタ

押板(おしいた)

厚い板の意味。転じて床(とこ)と同様の場所を言う。床の起源と考えられ、床より奥行が浅く框が高い位置に設けられる。初期には造付けではなく掛け軸の前に机を置いたものが見られる。「慕帰絵詩」の文明14年(1482)に補われた部分に造付けの押板が描かれている。押板は13~14世紀に流行した軸装の宋元画を鑑賞するためにつくられたとされる。光浄院客殿の床がこの押板形式のものである。

 

ガケヅクリ

懸け造(がけづくり)

 崖や池などの上に建物を建てる際の、長い柱と貫で固めて床下を支える建築方法。清水の舞台で知られる清水寺本堂や室生寺金堂に見られる。社寺建築の他に、江戸時代、浜地や堤防上に建てられた町家などにも使われている。

 

 

マチヤ

町家(まちや)

民家のうち、農家に対して商家や職人の住まいを指し、直接道路に面して建つ集住型都市住宅。古代官衙町の下級役人宿舎・寺院下級僧坊に見られる棟割長屋形式の住居に築地や溝の位置に現れた付属屋・門屋の要素を加えて10世紀末から11世紀初めに出現する桟敷屋に原形を見る。11世紀から12世紀にかけての都市中間層の台頭と共に町家が成立したとされる。中世に発展する門前町や港町、さらに自治的都市である真宗寺内町において広まり、近世城下町や宿場町・港町などにおいて各地域の地方性を加えて多様な町家を生み出した。京町家は平安時代の様子が「年中行事絵巻」に見られ、中世京都を描いた「洛中洛外図」には2階建のものもあった。一般に中世までの町家は敷地にゆとりがあり、菜園などを持つものもあったが、しだいに建詰まり奥行きの長い「鰻の寝床」と呼ばれるものとなった。京都や高山など木材を表に見せる真壁造町家や、川越の土蔵造や瀬戸内沿岸に広く分布するなまこ壁の町家など防火のために外壁を大壁とするものも多い。

 

カワラ

瓦(かわら)

日本建築の屋根葺材の一つ。飛鳥時代に仏教とともに百済より伝わり、現存最古の瓦は元興寺極楽坊本堂に残る行基葺(ぎょうきぶき)で飛鳥時代のものとされる。平瓦と丸瓦を交互に葺く本瓦葺と本瓦葺を簡略化してつくられた桟瓦葺がある。桟瓦は延宝2年(1674)に現在の滋賀県大津市三井寺下の西村半兵衛の発明とされる。軒先の瓦は瓦当(がとう)を付けて文様を描く。棟の端には鬼瓦と鳥衾(とりぶすま)または鴟尾(しび)を置いて納める。そのほか桟瓦の軒先瓦の下方を直線にした一文字瓦(いちもんじがわら)などがある。

 

コウジョウイン

光浄院(こうじょういん)

 滋賀県大津市にある園城寺の子院の一つ。客殿は慶長6年(1601)の再建で国宝。正面軒唐破風のついた車寄部分や中門など寝殿造の名残を留める主殿造の典型。部屋は2列に並び、各室とも畳を敷きつめ上座の間に床・棚・帳台構を設け、上段には床・付書院を設ける。「匠明」の「主殿の図」とほぼ同じ形式で、桃山時代の上層住宅の形式手法を示すものと考えられる。

 

ショウレンジ

照蓮寺(しょうれんじ)

 高山市堀端町所在の真宗大谷派の寺院。現本堂は永正元年(1504)の造立と伝えられ真宗寺院本堂最古の建築で重要文化財。飛騨地方の有力寺院で、1958年に岐阜県大野郡荘川村中野から移建。簡素な住宅風の形式で上段に押板を設けた内陣と左右余間をつくり、下段の下陣を大きくとった近世真宗本堂の原型を示している。

 

センネンヤ

千年家(せんねんや)

 兵庫県の山間部に江戸時代から千年家と呼ばれる農家が数軒あったが、現在残るものは2棟である。神戸市兵庫区の箱木家住宅と兵庫県穴粟郡安富町の古井家住宅でいずれも重要文化財。箱木家は「摂陽奇観」元祿5年の項に大同年間に建設されたとされるが、確証はない。平面形式、架構方

法、柱の表面仕上など近世民家とは大きく異なり少なくとも室町後期までは遡り得る遺構と考えられる。古井家も同様で近世以前の建築と推定され、中世の民家の形式を伝える貴重な遺構である。

 

ハッカクドウ

八角堂(はっかくどう)

 平面が八角形の仏堂で八角円堂(はっかくえんどう)とも言う。日本建築は木材を取材料とするため方形の平面形が主で、多宝塔の塔身が円形であるほかは六角、八角のものは稀である。現存遺構で八角形の平面を持つ遺構は、天平11年(739) 造立の法隆寺東院夢殿と天平宝字4~8年(760764)に建築されたと推定される永山寺八角堂などが代表的である。

 

ミョウキアンタイアン

妙喜菴待庵(みょうきあんたいあん)

 千利休作と伝わる茶室の唯一の遺構で国宝。京都府乙訓郡大山崎町所在。天正10年(1582)頃の建築で現存する最古の草庵茶室。屋根は切妻造に土庇を付けた柿葺(こけらぶき)で、2畳隅炉に1畳板畳付の次の間、左脇に1畳の勝手がつている。床は柱を出さない室床(むろどこ)や次の間の釣棚、勝手の隅三重釣棚などは利休好みの優れたものである。なお書院は文明年間の建築で重要文化財。

 

ユウイン

又隠(ゆういん)

 裏千家茶室。京都市上京区所在。重要文化財。利休の孫の千宗旦が利休の聚落屋敷の四畳半を再現したもの。現在の建物は天明8年(1788)火災焼失後の再建であるが床の間、道庫、躙口(にじりぐち)を設け、正面左の壁隅を柳柱(やなぎばしら)とするなど利休四畳半を今日に伝える。

 

リュウギンアン

龍吟庵(りゅうぎんあん)

 京都市東山区にある東福寺塔頭。国宝。方丈は応永35年(1428)頃の建立で、現存最古の方丈である。正面中央の部屋の奥が壁でその裏が暗い部屋となる点など住居的要素を残す。古制を窺わせる遺構である。そのほか庫裏と表門が重文。

 

エヨウ

絵様(えよう)

 建築の細部に施された彫刻や彩色模様などの装飾。古代にはすべての造形芸術における姿図や手本を指した。動・植物や人物などの具象的なものから、渦文や若葉文など抽象化されたものまで変化に富む。各時代・様式の特徴をよく表わし、蟇股(かえるまた)や虹梁(こうりょう)、木鼻(きばな)などの彫刻は建築の編年指標ともなる。桃山期には透かし彫りなどの装飾彫刻や華やかな彩色が多用され、後の江戸時代の社寺建築の装飾へとつながる。

 

チョウダイガマエ

帳台構(ちょうだいがまえ)

 書院造の上段の間、床・違棚をはさんで付書院の反対側に一段高く敷居を入れ、せいの低い襖を立てた座敷飾をいう。初期のものでは奥は閉鎖的で納戸(寝室)となっていることから納戸構とも呼ばれる。寝殿造の寝室である塗籠(ぬりごめ)には帳が置かれ浜床(はまゆか)と呼ばれる台が付いていたことからこの名がある。帳台構は寝室の入口が装飾化されたものと考えられる。

 

ナカゾナエ

中備(なかぞなえ)

 日本建築の組物と組物の間にあって各種桁を受ける支持材を言う。本来構造材であるが装飾的要素が強い。桁の上に束を立てた間斗束(けんとづか)があり、揆束(ばちづか)、蓑束(みのづか)など装飾を施したものがあり、間斗束の左右に装飾を描いたものを笈形(おいがた)と呼ぶ。和様では蟇股(かえるまた)を用いることもあり、室町以降、動植物文様も現れ、透し彫りや丸彫りも行われるようになった。桃山、江戸時代には彫刻が更に大きくなり華美になった。

 

ツマカザリ

妻飾(つまかざり)

 切妻造又は入母屋造の屋根の妻部分の装飾を言う。二重虹梁蟇股や豕叉首の形式は架構をそのまま表したもので、平安時代以後天井の出現とともに次第に装飾的となり、住宅風の建物では狐格子、神社では豕叉首、禅宗建築では虹梁大瓶束が用いられた。

 

ケンメンキホウ

間面記法(けんめんきほう)

 古代の建築の平面規模・形式を表現する方法。中世前期までの建築は身舎(母屋)と庇からなる構成であった。身舎の間口(梁行)柱間を「何間」と表し、奥行き(梁間)は通常柱間2間であったから省略され、身舎に「何面」の庇が付いているかで表記した。庇は、1~4面まで建物の用途や格によって様々であった。例えば、「五間四面」とあれば間口5間・奥行き2間の身舎に4面に庇を付けたもので、総間口は7間、総奥行きは4間になる。『南都七大寺巡礼記(諸寺縁起集)』の記載から足立康が解明した。

 

キョウゾウ

経蔵(きょうぞう)

 経典を納めておく建物で、2階建てのものは経楼と呼ばれる。鐘楼とともに寺院の必須の施設であり、古代寺院においては、講堂の前方に鐘楼と経蔵は対をなして配された。

 

ジキドウ

食堂(じきどう)

 斎食のための堂で、文殊菩薩および賓頭盧尊者を安置する。平安期に僧坊の制度がなくなるまで寺院には必須の施設であった。寺院の全僧侶が食事をする空間であり、講堂とほぼ同規模であった。東大寺や興福寺では厨・竃屋(大炊屋)など炊事をする建物や食料や薪を入れる雑舎をまとめて食堂院をなしていた。東大寺二月堂付属の食堂が修二会の際に用いられる唯一の例である。

 

チョウゲン

重源(ちょうげん)

 俊乗坊重源。建永元年(1206)、86歳で東大寺に入寂。鎌倉東大寺再興時の大勧進を指揮した。入宋帰朝後、東大寺大仏殿再建に際し宋様式である大仏様を取り入れたことで日本建築史上著名。和様隆盛の藤原建築界に宋の新様式を持ち込んだ。大仏改鋳に宋人陳和卿(惣大工とも記される)を起用し、僧位を持たない快慶、定覚(運慶の弟)を仏師として登用したのも重源によるとされる。東大寺南大門、同開山堂、浄土寺浄土堂、京都醍醐寺経蔵(昭和9年焼失)はいずれも重源によって建てられたもので大仏様。『南無阿弥陀仏作善集』を表している。

 

ヤマダデラ

山田寺(やまだでら)

 奈良県桜井市所在の飛鳥時代の寺院跡で特別史跡。皇極2年(643) に金堂建立とされる。昭和51年より奈良国立文化財研究所により発掘調査が進められる。伽藍配置は中門・塔・金堂・講堂を一直線に並べる四天王寺式に近いが、北面回廊は講堂まで伸びず、金堂背面で閉じると推定されている。第4・5次調査で東回廊跡から倒壊した回廊が発見され、ほぼ完全な姿で飛鳥時代の建築部材が出土した。発掘によって建築部材が完全な形で出土する例は珍しく貴重な資料となっている。

 

ライドウ

礼堂(らいどう)

 仏堂において正堂の前に建てられた礼拝のための堂。東大寺法華堂において別棟の礼堂が建てられていたことが知られ、双堂(ならびどう)形式と呼ばれる。中世密教本堂において正堂の前面の庇を広げ、礼堂を付加し下陣とした。当麻寺曼陀羅堂は古代の双堂から内陣と礼堂密着させた形式への変化を示す遺構である。

 

ハイデン

拝殿(はいでん)

 神社本殿の前面に建てられた参拝のための建物。祭典時に神供、祝詞を行う祭員着座の施設で、平安時代中期までには成立していたとされる。遺構は鎌倉時代以降のものが残っている。横長の建物が多いが、石上神社摂社出雲建雄神社拝殿は、拝殿中央部を通路として開けた馬道(めどう)とする割拝殿の形式で平安末期には成立していたと考えられている。

 

ミンカ

民家(みんか)

広義には貴族や上層武士住宅に対して一般庶民の住まいを言う。農家や商家・職人の住居である町家、漁師の住まいのほか、中下級武士の住まいも含むが、農家を意味することも多い。中世まで遡る民家は兵庫県に千年家と呼ばれる2棟が残るのみで、そのほかのものは江戸時代以降のものである。平面形式、架構形式、外観デザインともに各地域ごとに独自の発展を遂げ、地方色を示す。農家では、竃屋と居室を別とする分棟型は南九州や房総半島などに分布し、山形・秋田県の中門造や岩手県の曲屋、長野県の本棟造や岐阜県白川郷の合掌造、滋賀県北部の土座住い、奈良県の大和棟、佐賀県のくど造など多くの形式がある。

 

ソウフクジ

崇福寺(そうふくじ)

長崎市、寛永6年(1629)に長崎在住の中国福州出身者が創建し、正保・慶安年間に黄檗宗の伽藍として整備された。大雄宝殿の前面1間を吹放しにして回廊が取りつく手法や、組物や絵様などに明の建築様式を示す。第一峰門は元祿7年(1694)の再建であるが、中国で細工したものを船で運び建立したと言い、大雄宝殿とともに国宝。そのほか三門・護法堂・鐘鼓楼・媽姐門が重文となっている。黄檗宗の寺院としては長崎の福済寺や京都府宇治市の万福寺があり、多くの指定文化財を有する。

 

ショウコクジ

相国寺(しょうこくじ)

京都市上京区、禅宗。京都の禅宗伽藍としては大徳寺や妙心寺とならんで桃山から江戸初期に再建整備された。相国寺法堂(はっとう)は、豊臣秀頼の寄進で慶長1年(1605)に再建されたが、現存する法堂の中で最古のものである。法堂は仏殿の背後に位置し、住持が説法を行う建物で、本尊は置かず、法座のみをしつらえている。

 

ホッカイジ

法界寺(ほっかいじ)

京都市伏見区、永承年中、日野資業が山荘を寺としたことに始まる。平安末期には多くの堂塔を備える寺院であったが、国宝の阿弥陀堂と室町時代の薬師堂(重文)が残るのみである。阿弥陀堂は様式上平安末期の建築とされるが鎌倉時代とする説もある。方5間裳階付の方形造りの住宅風の仏堂で阿弥陀信仰の仏堂として貴重な遺構で

ある。

 

ダイジョウキュウ

大嘗宮(だいじょうきゅう)

天皇の即位後初めての新穀を神と共に食する祭祀が大嘗祭で、そのための殿舎を大嘗宮と呼び、悠紀院・主基院を設け、それぞれ正殿は黒木造(皮つき柱)掘立柱、切妻造妻入で、屋根は青草葺、天井にはむしろを張った。内部空間は室と堂の2室に分けられ、社殿形成期の神社の形式を示すものとされる。応仁・文明の乱のあと後柏原天皇から霊元天皇までの9台21年間中絶したが貞享4年(1687)東山天皇の時に再興された。昭和60年には大嘗宮と推定される遺構が平城宮朝堂院跡から出土し、元正・聖武・称徳天皇3代のものと推定されている。

 

トウサンジョウデン

東三条殿(とうさんじょうでん)

東三条殿は藤原氏歴代の邸宅で、平安時代の寝殿造を代表する邸宅で、摂関家の邸宅として里内裏にもなり儀式場の性格を持っていた。中央の寝殿は平入で、東対は妻入で身舎内に2間四方の塗籠を有する同様の平面を構成する。東対から南には中門廊がのび、間に中門を開く。さらに東には二棟廊、侍廊、車宿、随身所が建てられたが、西対は設けられず、透廊が南にのびて釣殿に至る。東三条殿は永久4年(1116)に大臣大饗が執り行われ、「年中行事絵巻」にその図があり、また日記などを合わせ寝殿造の邸宅と儀礼の関係を知り得る邸宅である。

 

リョウセンジ

霊山寺(りょうせんじ)

奈良市中町、本堂は弘安6年(1283)の建立で国宝。中世密教本堂では方5間を標準としたが、霊山寺本堂では前面2間通りを下陣とし、奥行き3間の内陣と1間の後陣として深くし、脇陣を設けている。内下陣ともに天井を小組格天井を一面に張り構造を一歳見せず、内下陣境に格子戸と菱欄間を入れ、側回りの開口部には蔀戸や板戸を入れ和様を主とした保守的な意匠を見せる。室町時代の建築である三重塔と鐘楼は重文。

 

チャヤ

茶屋(ちゃや)

茶屋には、(1)屋敷庭園内に設けられた田舎家風の建物で茶室より古く15世紀には存在が知られ、(2)室町時代の社寺門前の一銭茶屋にその始まりが見られ、のち掛茶屋・休み茶屋、水茶屋、茶店とも言う、(3)客に飲食を供する料理茶屋など、(4)社寺の施行茶屋、(5)芝居茶屋や相撲茶屋など、(6)近世以後遊廓における揚屋茶屋など、(7)戦国大名の休泊施設としての御茶屋、(8)近世大名領国に於ける茶屋本陣などがある。

 

ナンド

納戸(なんど)

(1)収納のための小室、(2)寝室の意。古くは「納殿(おさめどの)」とも称し、寝殿造では帳台あるいは塗籠(ぬりごめ)とも言う。民家ではナンド、チョウダ、ネマなどと称した。納戸は閉鎖的で、入口は狭く、敷居を高くして鴨居を低くする帳台構(納戸構)とした。

 

クルマヨセ

車寄(くるまよせ)

住宅に玄関や式台が設けられるのは中世以降で寝殿造においては牛車で直接建物の庇部分に乗りつけた。車寄が正式の出入口でであった。書院造になっても車寄せは形式的に残り出入口の開口部を板扉として、軒唐破風を付けた。

 

シュデンヅクリ

主殿造(しゅでんづくり)

中世住宅の形式で、中心となる建物が主殿と呼ばれている。寝殿造の簡略化した形式に始まり、中門や車寄せが設けられる。近世武士住宅の形式である書院造りの成立を考える際に主殿造をその原形とする説があったが、現在では否定されている。

 

 

2021年6月13日日曜日

日本の建築家 戦後 近現代建築 TBSブリタニカ

                      

日本の建築家 戦後

 

 

                     

 

 

白井晟一

白井晟一▼しらい・せいいち▼《1905京都~83》◇建築家。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)卒業。その後、ハイデベルク、ベルリンの両大学へ留学、ヤスパースやシュプランガーなどに師事し、ヨーロッパ中世精神史、建築史を学んだ。35年より建築設計に従事し始め、60年「松井田町役場」「善照寺」の設計で高村光太郎賞、69年「親和銀行本店」で建築年鑑賞、日本建築学会賞、74年「ノア・ビル」で日本サインデザイン賞を受賞。独特の精神世界の表現によって「情念の建築家」と称された。文章家、書家としても知られ、主なエッセイに「縄文的なるもの」(56)がある。

 

吉阪隆正

吉阪隆正▼よしざか・たかまさ▼《1917東京~80.》◇建築家。1940年早稲田大学建築学科卒業。50年に第一回仏政府給費留学生としてパリに留学。ル・コルビュジエのアトリエで学ぶ。主な作品に、「ヴェネチア・ビエンナーレ日本館」(55)、「ヴィラ・クゥクゥ」(56)「大学セミナーハウス」(71)などがある。多才であり登山家としても活躍した。「象設計集団」など多くの弟子を育て、その影響力は大きい。『ル・コルビュジエ』(54)以降、著書も多く、死後「吉阪隆正集」(117巻)(8486) がまとめられている。

 

磯崎新

磯崎新▼いそざき・あらた▼《1931大分~.》◇建築家。東京大学建築学科卒業。丹下健三に師事する。1963年磯崎新アトリエ設立。作品として、「大分県医師会館」(63)以降、「群馬県立近代美術館」(74)「筑波センタービル」(83)「バルセロナ・スポーツ・パレス」(90)など多くの話題作がある。1970年代から80年代にかけて、一貫して近代建築批判を展開し、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」など様々なキーワードを提示するとともに日本の建築界をリードした。著書も『空間へ』、『建築の解体』、『建築の修辞』、『建築という形式』など極めて多い。

 

原広司

原広司▼はら・ひろし▼《1936長野県~》◇建築家。東京大学生産技術研究所教授。東京大学建築学科卒業。「田崎美術館」で日本建築学会賞(86)。「ヤマトインターナショナル」(87)で村野藤吾賞。91年「JR京都駅ビル再開発設計競技」において一等入選。「飯田市美術博物館」(88)「新梅田シティー・スカイタワー」(92)「内子町立大瀬中学校」(92)など作品多数。また、世界の住居集落についての研究を展開してきた。主な著書に「建築に何が可能か」(67)「空間<機能から様相へ>」(87)などがあり、建築理論家としても知られる。

 

 

槙文彦

槙文彦▼まき・ふみひこ▼《1928東京~》◇建築家。東京大学建築学科卒(52)。ハーバード大学等で学ぶ。SOM建築事務所、ジャクソン建築事務所に勤務の後、ワシントン大学、ハーバード大学助教授を経て、65年槙総合計画事務所設立。7989年東京大学工学部建築学科教授。59年メタボリズム・グループ結成に参画。群造形理論で知られる。「名古屋大学豊田講堂」(62)、「藤沢市秋葉台文化体育館」(84)で日本建築学会賞。「代官山集合住居」(67)、「幕張メッセ」(88)、「SPIRAL(84)、「京都国立近代美術館」(86)など作品多数。著書に『記憶の継承』(92)などがある。

 

安藤忠雄

安藤忠雄▼あんどう・ただお▼《1941大阪~》◇建築家。独学で建築を学び、1969年に安藤忠雄建築研究所を設立。デビュー作「住吉の長屋」(76)で日本建築学会賞(79)。自然と建築の調和を追求する建築家として知られ、「タイムズ」(83-91)、「水の教会」(88)、「光の教会」(89)など数多くの傑作がある。また、92年には、「セビリア万国博覧会日本政府館」の設計を手がけた。アルヴァ・アアルト賞(85)、フランス建築アカデミー大賞(89)など数々の賞を授賞。イエール大学、コロンビア大学、ハーヴァード大学の客員教授を歴任。

 

篠原一男

篠原一男▼しのはら・かずお▼《1925.》◇建築家。東京工業大学建築学科卒業。清家清に師事。「久我山の家」(54)以降、傘の家」「大屋根の家」「土間の家」「白の家」と一連の住宅を発表、住宅作家として知られる。「未完の家」以降の一連の住宅作品で日本建築学会賞受賞(71)。独自の住宅論を展開し、「住宅は芸術である」というテーゼが有名。その後、一般建築にも活躍の場をひろげ、「東京工業大学百年記念館」(87)、「熊本県中央警察署」(91)など多くの作品がある。

 

 

吉村順三

吉村順三▼よしむら・じゅんぞう▼《1908東京~.》◇建築家。東京芸術大学名誉教授。東京美術学校(現東京芸術大学)卒業。A.レーモンド建築設計事務所に学んだ後、41年に吉村設計事務所を開設。戦後、東京芸術大学で教鞭をとり、多くの弟子を育てた。坂倉準三、前川國男とともに設計した「国際文化会館」で日本建築学会賞を受賞(55)した。住宅作品を中心とした活動で知られ、「森の家」など、戦後住宅のモデルとなるような住宅作品を数多く手掛けた。「湘南茅ヶ崎の家」で表彰建築物設計賞、72年「ジャパンハウス」でニューヨーク建築家協会デザイン優秀賞。

 

 

菊竹清訓

菊竹清訓▼きくたけ・きよのり▼《1928久留米~.》◇建築家。早稲田大学理工学部建築学科卒業(50)。竹中工務店、村野・森建築事務所を経て、53年菊竹建築研究所設立。川添登・黒川紀章・槙文彦・大高正人らと共にメタボリズム・グループを結成。「か・かた・かたち」論、「代謝建築論」など独自の建築論を展開した。「出雲大社庁の舎」(61)で日本建築学会賞受賞。「スカイハウス」(57)、「ホテル東光園」(63)など多くの作品がある。また、「塔状都市」(59)、「海上都市」(60)といった都市プロジェクトも多く、沖縄海洋博覧会(75)において、アクアポリスを実現させた。

 

黒川紀章

黒川紀章▼くろかわ・きしょう▼《1934.名古屋》◇建築家。京都大学工学部建築学科卒(57)。東京大学大学院で丹下健三に師事し、62年より黒川紀章建築都市設計事務所を主催。60年代の日本の建築界をリードしたメタボリズム・グループの旗手として知られる。後に「中銀カプセルタワービル」(72)に実現されるようなカプセル住宅によって構成される未来都市のイメージをいち早く提示した。「広島市現代美術館」(88)で日本建築学会賞受賞。「国立民族学博物館」、「国立文楽劇場」など作品多数。海外の作品も多い。多彩な活動で知られ、『共生の思想』など著書も多数ある。

 

 

 

大谷幸夫

大谷幸夫▼おおたにさちお▼《1924東京~.》◇建築家、都市計画家。1946年に東京大学建築学科入学、以後60年まで丹下研究室に在籍する。56年、建築家の運動体である五期会の設立に参加、その中心的な存在として活躍する。その後も一貫して、建築、都市のあり方をめぐって発言を続けている。61年、株式会社・設計連合を設立。64年~84年東京大学都市工学科で教鞭をとる。「国立京都国際会館競技設計」において最優秀賞を受賞(63)。「金沢工業大学」(66)「川崎市河原町高層公営住宅団地」(68)、「沖縄コンベンションセンター」など作品多数。

 

池辺陽

池辺陽▼いけべ・ひろし▼《1920東京~.死亡》◇建築家。東京帝国大学建築学科卒業(44)。坂倉建築研究所を経て、東京大学で教鞭をとる。新日本建築家集団(NAU)の創立(47)に参加。住宅建築生産の工業化に取り組んだ建築家、住宅作家として知られる。戦後まもなくの「立体最小限住居」が著名。No.1住宅から番号をつけて百を超える住宅作品を残した。「モデュール研究会」を設立(55)し、空間の寸法体系についての研究を展開した。また、60年代以降、建築と産業界をつなぐ研究会を組織し、その実践を企図した。また、建築設計の方法論についての研究でも知られる。

 

 

 

 

 

清家清

清家清▼せいけ・きよし▼《1918.》◇建築家。東京工業大学建築学科卒業(43)。62年同教授、78年東京芸大教授を経て、デザインシステム主宰。開放的なワンルーム形式のなかに、畳、障子などの伝統的要素を持ち込んだ、50年代初頭の「森博士の家」で注目を集める。近代住宅と伝統をどう考えるか、いわゆる伝統論争のきっかけとなった。その後の「斉藤邸」、「宮城邸」、「坪井邸」、「自邸」など一連の住宅で日本建築学会賞受賞(54)。多くの建築を手掛けたが、一方で、住宅に関する一般への啓蒙に果たした功績が大きい。著書は「家相の科学」(69)「住まいのシステム」(70)など多数に登る。

 

 

浦辺鎮太郎

浦辺鎮太郎▼うらべ・しずたろう▼《1909倉敷~91》◇建築家。34年京都帝大建築学科卒業。倉敷レイヨンを経て、66年浦辺建築事務所を設立。「大原美術館分館」(61)「倉敷国際ホテル」(63)など、地域性を考慮した多くの作品がある。倉紡社長であった大原孫三郎・総一郎父子と共に、故郷倉敷の文化的景観の保存および環境形成に貢献した建築家である。倉紡発祥の工場を開発的保存の手法で転用に成功した「倉敷アイビー・スクエア」(74)は、その代表作品となった。

 

 

坂倉準三

坂倉準三▼さかくら・じゅんぞう▼《1904岐阜~1968.》◇建築家。1927年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。29年に渡仏し、コルビュジェに学ぶ。40年坂倉準三建築研究所を創設。戦前の「パリ万博日本館」(37)は、鋼、ガラス、石綿スレート版などの現代的材料を用い、しかも日本的情感を生かしたものとして絶賛されグランプリを受賞した。日本への近代建築理念の定着を象徴するものとされる。作品に、「神奈川県立美術館」(51)、「新宿西口広場・ターミナルビル」(66)など多数。55年の「国際文化会館」、60年の「羽島市庁舎」で日本建築学会賞授賞。

 

今井兼次

今井兼次▼いまい・けんじ▼《1895東京~.》◇建築家。1919年早稲田大学理工学部建築学科卒業。翌年同大学の助教授となり、以後65年に退職するまで早稲田大学で教鞭をとった。作品に「早稲田大学図書館」(25)「大多喜町役場」(59)「日本26聖人殉教記念館」(62)「桃華楽堂」(66)など。大正末期から昭和の初期にかけて欧州の表現派の建築家やアントニオ・ガウディ、ルドルフ・シュタイナーを日本に紹介した。自らも彼らの手法を巧みに用い、陶片モザイクなどを多用した装飾的細部の豊かな建築を数多く残した。60年の「大多喜町役場」、63年の「日本26聖人記念館」で日本建築学会賞受賞。。

 

 

                        

建築家戦前                      

 

 

                     

 

 

後藤慶二

後藤慶二▼ごとう・けいじ▼《1883東京~1919.》◇建築家。1909年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、司法省に入り、東京中野の「豊多摩監獄」を設計(15年完成)した。その作品には、イギリスでラスキンらが唱えた中世主義の影響が色濃く、当時の建築界のクラシカルな作風とは一線を画していた。村野藤吾、今井兼次らに強い影響を与えた。夭折であった。主な作品に「豊多摩監獄」(15)、「明治神宮宝物殿コンペ案(三等一席)」(15)、「東京区裁判所」(19)などがある。劇場史研究でも知られ、著書に『日本劇場史』がある。

 

 

吉田鉄郎

吉田鉄郎▼よしだ・てつお▼《1894.死亡》◇建築家。1919年東京帝国大学建築学科卒業。逓信省に勤務し、逓信建築の基礎を築いた。鉄筋コンクリート造の特性を活かして、日本独自の表現を模索することにおいて日本の近代建築史に果たした功績は大きい。31年「東京中央郵便局」は、日本で最初のモダニズム建築として話題となった。柱と梁の真壁造で、日本の木造建築を抽象化した美学がそこにある。洋行後、39年に「大阪中央郵便局」を完成。それ以後北欧建築への傾倒を作品にみせている。著書にドイツ語による「日本の建築」、「日本の住宅」、「日本の庭園」があり、日本建築の海外への紹介という点でも大きな役割を果たした。

 

 

レーモンドアントニン

レーモンド,アントニン▼Raymond,Antonin▼《1881チェコスロバキア共和国・グラドノ~1976.》◇建築家。チェコスロバキア工科大学、プラーグ大学で学び、パリにてA.ペレーに師事する。1915年からフランク・ロイド・ライトに学ぶ。19年、帝国ホテルの設計管理のためにライトとともに来日。以後日本で仕事を行なう。前川國男や吉村順三など多くのすぐれた建築家を育てた。主な作品に、日本に於いてコンクリート打ち放しの住宅として先駆的であった 「レーモンド自邸」(24)や、「聖ポール教会」(34)、「リーダースダイジェスト東京支店」(51)などがある。

 

 

妻木頼黄

妻木頼黄▼つまき・よりなか▼《1859東京~1916.》◇建築家。1878年工部大学校造家学科入学。82年渡米、コーネル大学に学ぶ。84年に卒業。東京府へ勤める。86年臨時建築局からドイツへ留学。88年に帰国。90年から内務省技師。作品には、「東京府庁舎」、「広島仮議院」(ともに94)、和風の「日本勧業銀行」、「東京商工会議所」(99)、さらに「横浜正金銀行」(1904)、「日本赤十字社」(12)など。大蔵省営繕局にあって活躍した明治建築界の巨匠である。帝国議事堂(現国会議事堂)の建設をめぐる、妻木と日本建築学会の辰野金吾の対立は有名である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                     

日本近代建築学者

 

 

                     

 

 

内田祥三

内田祥三▼うちだ・よしかず▼《18851972》◇建築家、建築学者。東京帝国大学卒業(1907)後、三菱地所入所。丸の内の三菱13号館の現場など担当。その後大学院で鉄筋コンクリートおよび鉄骨構造学を研究し、その開拓者となる。同大教授、さらに総長を歴任した教育者として著名。建築界の指導者として、辰野金吾、佐野利器に続く位置を占めた重鎮。安田講堂をはじめ、東京大学キャンパスの計画および建築の設計を行った。また、関東震災の際には、震災復興の陣頭指揮にたった。研究分野は家屋防火、建築法規、都市計画におよび、建築学の諸分野の基礎づくりに貢献。日本建築学会、火災学会、都市計画学会の会長などを歴任した。72年文化勲章授賞。

 

 

今和次郎

今和次郎▼こん・わじろう▼《1883弘前市~1973》◇建築家。建築学者。東京美術学校卒業後、創設直後の早稲田大学の建築学科に赴任、多くの建築家を育てる。民家研究の創始者の一人。また、考現学の提唱者として知られる。さらに、服装の研究家としても知られ、自身は、ジャンパーにズック靴のスタイルを通し続けた。衣食住すべてを総合した生活へのトータルなアプローチがその学の特徴である。大震後には「バラック装飾社」をつくって活動している。「考現学」の提唱によって柳田國男に破門されたエピソードは著名。建築作品はないものの、独自の都市研究、生活研究によって、建築界に新たな局面を開いた。

 

 

藤井厚二

藤井厚二▼ふじい・こうじ▼《1888.広島県福山~1938》◇建築学者、建築家。東京帝国大学卒業。京都大学に招かれ(21)、教鞭をとる。自邸を実験台にして通風、熱音、設備などの自然科学的な側面と美的側面との両面から住様式を探求。27年の自邸「聴竹居」は、木造平屋の主屋と閑室から成り、洋風生活を基本に和風生活の雅趣を取り込む。和・用の住様式の狭間で揺れ動いた日本近代住宅の試みの中にあって、ひとつの到達点として評価されている。その研究成果は、住宅論『日本の住宅』(28)に結実した。

 

 

 

西山卯三

西山卯三▼にしやま・うぞう▼《1911.》◇建築学者、建築家。京都大学名誉教授。京都大学建築学科卒業(33)後、石本喜久治事務所、住宅営団研究部を経て、京大講師、営繕課長。戦後同大学助教授、教授を歴任。学生時代にDEZAMというグループを組織して以降、青年建築家連盟を始め、戦後の新日本建築家集団(NAU)など、一貫して建築運動に関わる。食寝分離論に代表される住宅計画理論を確立するなど、日本における住宅研究、住宅問題の理論的研究の権威としての位置を占めてきた。『国民住居論攷』(43)、『これからのすまい』(47)を始めとする住居論の他、地域空間論、建築論、建築家論などに関する著作も多い。

 

 

 

吉武泰水

吉武泰水▼よしたけ・やすみ▼《1916.大分》◇建築学者、建築家。現国会議事堂の意匠を担当した吉武東里の長男として生まれる。東京帝国大学建築学科卒業(39)。同大学助教授、教授を経て、筑波大学副学長に転出(74)。以後、九州芸術工科大学、神戸芸術工科大学の学長を歴任。公共建築の計画、特に病院建築計画の権威として知られる。建築計画学という学問分野の設立と体系化に最も大きな功績があり、多くの建築計画研究者を育てた。作品に、「茨城県立中央病院」(1956)「東大病院全体計画」(60)「青山病院」(60)「栃木ガンセンター」(71)などがある。

 

 

 

 

 

村田治郎

村田治郎▼むらた・じろう▼《1895.9.23山口~1985.9.22》◇建築史家。京都帝国大学建築学科卒業(23)。南満州鉄道会社入社(24)、南満州工業専門学校教授として建築史、建築意匠を担当。この間旧満鉄沿線の歴史的建築遺構の調査、朝鮮の民家研究に努め、アジアにおける住居の発生と展開、中国大陸を中心とする住居形式の地域的交渉と変遷を論じた論文『東洋建築史系統史論』(31)を結実させる。37年に京都帝大教授に就任。中国建築の調査研究を続行し、『支那建築の研究』(41)を著す。さらに日本と中国の間の建築文化の交流を研究、法隆寺研究に新たな局面を開き、同寺金堂の火災後修理を指導するなどして49年に名著『法隆寺研究史』を発表した。日本、朝鮮、中国、インド、イスラームに関する広範な研究で東洋建築史の分野に多大な功績を残す。

 

 

太田博太郎

太田博太郎▼おおた・ひろたろう▼《1912東京~.》◇建築史家。1935年東京帝国大学建築学科卒業。43年に同助教授、60年東京大学教授、73年同名誉教授。74年九州芸術大学工科大学長。武蔵学園長。社寺、宮殿、民家、工匠など日本建築史のあらゆる領域に及ぶ研究を展開する。著作としては、『日本建築史序説』、『建築学体系ー日本建築史』、『奈良六大寺大観』のようにその時代の建築史研究の水準を総括するもののほか多数にのぼる。この他、法隆寺、平城宮跡などの建造物保存事業に多大の寄与をなしている。妻篭宿保存計画を指導し、町並み保存の先例としてこの方面の基礎を築いたことも特筆される。

 


                     

近現代建築

 

 

                     

 

 

明治生命館

明治生命館▼めいじせいめいかん▼東京都千代田区にある生命保健会社の本社ビル。1934年竣工。明治以来の半世紀にわたる様式建築習熟の頂点とされる。設計は様式建築の鬼才といわれる岡田信一郎。ルスティカ積みのベースメント、五階分通したコリント式の大オーダー、二段重ねのアティックという三層構成による堂々たるファサード(正面)と共に、秀逸な全体のプロポーション、細部装飾の充実が注目を引く。構造設計は内藤多仲が担当、設備は所員をアメリカに派遣して最新技術の導入を図った。岡田は遺作となったこの建物の完成を見ることなく1932年永眠した。

 

国立屋内総合競技場

国立屋内総合競技場▼こくないそうごうきょうぎじょう▼1964年竣工。同年に開催された東京オリンピックの水泳競技場として建設された。設計は丹下健三。構造設計は坪井善勝。高張力ケーブルおよび鋼材による吊屋根が二つの三日月形を互いにずらした平面を覆い、15,000人収容の大空間をつくり出している。構造と機能と表現が明快にまとめあげられた希有な建築物である。この建物は丹下の代表作のひとつであるとともに高度成長期の日本を象徴する大架構となった。

 

赤坂離宮

赤坂離宮▼あかさかりきゅう▼東京都港区赤坂にあった紀伊藩上屋敷を1872年に建物、敷地とも旧藩主徳川茂承が献上し、同年、赤坂離宮と命名されたのが始まり。1973年皇城の焼失により、89年まで仮皇居となる。現在の建物は皇太子時代の大正天皇のために計画されたもの。片山東熊が設計を担当し1909年完成。建築様式は当時の欧米の宮廷建築の通例であったネオ・バロック様式が採られた。建築構造では地震を考慮して煉瓦造、石張りの構造体を米国製の鉄骨で補強した点が注目される。室内は最高級の輸入調度品と今泉雄作、浅井忠、黒田清輝など当時の一流芸術家の作品で豊かに装飾された。現在は迎賓館となっている。改修を担当したのは村野藤吾である。

 

    

築地本願寺▼つきじほんがんじ▼東京、築地にある真宗寺院。1934年竣工。伊東忠太(18671954)設計。日本の仏教寺院の中にあってインド・イスラム様式を採る特異な建築。本堂平面は左右対称で中央に円筒状の屋根を持つ。外部は石造で古代インド仏教建築の様式を基本にし、細部にボロブドゥール寺院などの手法が折衷されるが、内部は概ね古来の日本仏寺建築の手法に準拠した造作を持つ。日本建築史、東洋建築史の創始者で、数多くの寺社建築を手がけた伊東の作品のなかでも奇異な作品の一つ。

 

 

筑波センタービル

筑波センタービル▼つくば-.▼筑波研究学園都市における最初の都心施設。1983年竣工。日本初のプロポーザル・コンペ方式によって選出された建築家磯崎新が設計を担当。ローマのカンピドリオ広場のパターンや古典建築の様式など、西欧の歴史的モチーフの不完全な形での引用による様式の相対化が試みられている。また斜めの壁など様々な仕掛けで、ヒエラルキーの欠如、喪失感を感じさせることに成功している。日本のポストモダニズムの初期の代表的建築として位置づけられる。

 

東京文化会館

東京文化会館▼とうきょうぶんかかいかん▼上野公園にある、建築家前川國男の代表作の一つ。1961年竣工。コンクリート打ち放しの独立柱とそれによって支えられた大庇が、両者の垂直性と水平性の特徴的な対比を生み出すとともに、大ホールや小ホールといった各機能を統合している。大ホールは六角形の平面形であり、音響的な評価も高い。ロビーやホワイエの空間は、林立する独立柱、ブルーの天井とライト、落ち葉模様の床タイル等、あたかも上野の森が連続するように配慮されている。また、専門家による、ホール内部の装飾、彫刻、造園などのデザインがこの建築の空間をよりいっそう豊かなものにしている。地下二階、地上四階。

 

開智学校

開智学校▼かいちがっこう▼松本出身の大工棟梁であった立石清重により設計・施工された、初期洋風小学校を代表する遺構。1879年竣工。漆喰塗りの擬洋風建築で、正面中央に、車寄せ、玄関、バルコニー、上部に八角塔を備える。特にバルコニーまわりの装飾、唐破風屋根と天使の装飾の組み合わせなどに当時の洋風建築の特徴がよくあらわれている。木造二階建。重要文化財。

 

 

広島ピースセンター

広島ピースセンター▼ひろしま-.▼資料館と記念館は1955年、国際会議場は89年に竣工。広島平和記念公園内に建つ記念館群の総称。設計は丹下健三。第二次大戦後の日本建築の出発を象徴する建築物。三つの建物から構成され、中心の「広島平和記念資料館」を挟んで、その西側に、「広島国際会議場」、東側に、図書室、集会室等の複合した機能を持つ「広島平和記念館」が建つ。資料館はピロティにより地面から浮き上がり、アーチ状の慰霊碑を通じて、原爆ドームを見通すことができる。ルーバーやピロティ柱のリズミカルな形態が全体的にモニュメンタルな景観を生み出している。

 

名護市庁舎

名護市庁舎▼なごしちょうしゃ▼沖縄県名護市にある鉄骨鉄筋コンクリート造、地上三階建の市庁舎。Team ZOO(象設計集団)+アトリエ・モビルの設計。81年度日本建築学会賞授賞作品。沖縄の強い日差しを遮り、通風を確保し、自然の風と換気によって屋内の居住環境を確保しようとした半外部空間「アサギテラス」と室内を通る「風の道」がこの建築の最大の特徴。伝統的な組積造を表現するために地場産業のブロックが内部、外部に多用される。地域に根差した建築として計画され、ポストモダニズムのひとつの方向性である「リージョナリズム」建築の代表的作品とされる。

 

 

霞が関ビル

霞が関ビル▼かすみがせき-.1968年竣工。三井不動産と山下寿郎の設計。耐震構造学の権威、武藤清が構造設計を担当。世界最初の耐震超高層ビル。建設技術の発達、コンピュータ技術の発展による剛構造から柔構造への構造解析方法の進展によって、地震国日本での超高層ビル建設の道は開かれたが、その可能性を初めて具現化させたものがこのビルである。そして、建築物の高さ制限が撤廃されたことの意味も大きい。これ以降、日本の都市の景観は大きく変わることになる。超高層ビル時代到来の幕開けを記した建造物である。

 

 

東京都新庁舎

東京都新庁舎▼とうきょうしちょうしゃ▼東京都新宿区にある地下3階、地上48階の都庁舎。19864月、9者の指名コンペの結果、丹下健三案が実施案となり、91年に竣工。最高高243mの第一庁舎と163.3mの第二庁舎、都民広場を囲む議会棟から構成され、議会棟-広場-第一庁舎-中央公園という軸が新宿新都心の新たな中心軸となり、国際都市東京のシンボルとなることがうたわれた。スーパーストラクチャー方式が採用され、柱のないフレキシブルな空間、情報機能の充実、災害時の防災拠点としての堅牢性を可能にしている。外壁には濃淡2種類の御影石が採用され、ゴシックリヴァイヴァルともいえる造形が異彩を放つ。

 

東京駅

東京駅▼とうきょうえき▼1914年竣工。辰野金吾後期の代表作。皇居の正面、丸の内の入り口に位置する。国家の表玄関として、中央玄関を天皇家専用、左右を民間用として造られる。当時、多くの追従者を生み、強い視角的効果を持つリズミカルな壁面の構成にその特徴を示す「辰野式」の建築作品である。ゴシック的な赤煉瓦の壁面を、開口部まわりの古典様式的ディテールや、ストリングコースなどの白の石、テラコッタが縦横に分断する。二つの大ドームを含む最上階は戦災にあって失われたままであるが、竣工時の壮大さを惜しみ、両翼ドームの復元を求める声がある。

 

 

住吉の長屋

住吉の長屋▼すみよし-ながや▼建築家安藤忠雄設計。1976年竣工。79年日本建築学会作品賞授賞作。大阪市住吉区の古い木造長屋の連なる一画に建つ。コンクリートの直方体を三つの部分に分割し、中央に中庭を配す。正面ファサードはコンクリートの壁に長方形の入り口が設けられただけで、極めて閉鎖性が高い。一方住居内では、中庭を中心に各部屋が配置され、空に開かれた空間を創造している。単純な形態と装飾を全く廃した打ち放しのコンクリートに特徴がある。都市住宅に自然を取り入れることに成功した珠玉の建築作品。

 

幕張メッセ

幕張メッセ▼まくはり-.▼ 別名日本コンベンション・センター。1989年竣工。槙文彦の設計。東京のウォーターフロント、幕張新都心開発の主要施設となる見本市会場である。国際会議場を中心とした巨大コンプレックスがのびやかな構成のうちにまとめられている。その中核となる大展示場は全長約600mの大空間を曲率約1kmの大屋根が覆う。槙は圧倒的な非人間的なヴォリュームの施設を、ヒューマンなスケールとして感じさせる工夫を試みている。

2021年6月12日土曜日

東南アジア建築 南アジア建築 TBSブリタニカ

 

 

東南アジア建築
南アジア建築

 

 

 

  『マーナサーラ』

 『マーナサーラ』▼"Manasara"▼インドでシルパシャストラ(Silpasastra)と呼ばれる古典的建築文書群の一つであり、サンスクリット語で書かれている。シルパは手工芸、シャストラは科学を意味するとされる。マーナサーラは、人名であるという説もあるが「寸法の本質」を意味する。全体は70章からなるが、内容は、寸法計画、マンダラ、都市・要塞・村なの配置計画、建築の形式、家具の形式と寸法、神像の形式と寸法などであり、建築全般にわたっている。成立年代は、紀元後500700年頃とされるが、異説もある。

 

クラトン

クラトン▼Kraton▼ジャワ語で王宮を意味する。また、広義には王都全体を指す。現存するのはジョグジャカルタおよびソロ(スラカルタ)の四王家のものであるが、かっては各地のヒンドゥー土候国に建設された。クラトンは、アルン・アルン(広場)を囲む形で、ダラム(王の館)、回廊、内廷、謁見所、式台所などからなる。ジョグジャカルタ(Yogyakarata)の王宮は1682年に建てられたものであり、敷地は14000㎡にも及ぶ。また、敷地の南北端に二つのアルンアルンをもつ。ジョグロと呼ばれるジャワの伝統的な建築形式の建物が用いられている。

 

 

トロウラン

トロウラン▼とろうらん▼Trowulan▼インドネシア、東部ジャワのモジョケルト市の南西約10キロに位置するマジャパイト王朝の遺跡。マジャパイト王国は、13世紀末から15世紀中頃までの約150年間続き、最盛期にはその勢力をマレー半島にまで及した。ジャワの叙事詩『ナーガラクルタガマ』には、14世紀当時の王都の様子が描かれている。周辺には、当時のヒンドゥー遺跡であるチャンディ・パナタラン、チャンディ・スロウォノ、チャンディ・ティゴワンギがある。

 

チャンディ・セウ

チャンディ・セウ▼Candi Sewu▼インドネシア、ジョクジャカルタ近郊にあるヒンドゥー遺跡。中部ジャワ期のプランバナン遺跡群の一つ。8世紀後半から9世紀初頭に建設されたと考えられている。「セウ」とは千を意味し、一般に「千仏寺」として知られている。敷地は南北185メートル、東西165メートルの方形で石垣に囲まれている。正面入口は東に有り、東西南北の各門には二体の巨大な守門神像がある。中央祠堂を囲むように四方に214の仏堂が規則正しく配置されている。四方四仏の配置法が建築のプランに適応され、密教系寺院とも考えられる。

 

ディエン高原遺跡群

ディエン高原遺跡群▼でぃえんこうげんいせきぐん▼Dieng plateau▼インドネシア、ディエン高原、プラウ山の南側にある遺跡群。中部ジャワ期の遺跡で、チャンディ・アルジュナ、チャンディ・セマール、チャンディ・スリキャンディ、チャンディ・プリタディヴォ、チャンディ・スンバトラ、チャンディ・タラヴァティ、チャンディ・ガトッカチャ、チャンディ・ビマの8基の建物が残っている。8基ともシバ神を祭ったもので、建立年代は異説もあるが、7世紀末から8世紀に建てられた考えられている。

 

タキシラ

タキシラ▼Taxila▼パキスタン北部、イスラマバード北西約40キロにある都市遺跡。BC.6世紀~AD.6世紀に栄えた。最古のものが、ビル・マウンドであり、B.C.65世紀に建設された。その東北方向に第二番目の都市シルカップ(Sirkap)がある。B.C.2世紀にバクトリア・ギリシア人によって建設された。都市は城壁に囲まれ、北部の街路が碁盤目状に配置された下町、南部の丘陵がある上町からなる。西南隅にはアクロポリスがあり、ヘレニズム文化の都市計画を踏襲している。北の城門から南に約500mの東側に王宮がある。王宮は正面が106m、奥行きが120mあり、中庭式建築である。

 

プラ・ブサキ

プラ・ブサキ▼Pura Besakih▼インドオネシア、バリ島最大のヒンドゥー寺院。バリ島で最も聖なる山とされるアグン山の山麓に位置し、一万数千に及ぶとされるバリのヒンドゥー寺院の総本山の役割を果たしている。斜面に沿って大きく三つの神域が順番に設けられ、ヴィシュヌ、シヴァ、ブラーフマの三神を象徴する三つの塔が深奥の内陣に置かれている。建立は14世紀のヒンドゥーの侵入以前のことで一千年以上前とされるがはっきりしない。現在見られる寺院を構成する数多くの建造物は、1963年のアグン山の大噴火によって大きな被害を受けた後再建されたものである。

 

 

ハイバク石窟

ハイバク石窟▼はいばくせっくつ▼Haibak cave▼アフガニスタン、ハイバクの西南約2キロ、タクティ・ルスタムの寺院跡の石窟群。4世紀から5世紀にかけてつくられたとされる。僧衆窟以外の仏像窟は、それぞれ長方形の前室の奥に主室がある。円形でドーム天井に大蓮華、壁に小蓮華を配した主室がある。また、方形で三方に厨子を設けたものもある。さらに、四角にスクインチ・アーチをもつものがある。石窟群の中心と思われる丘の頂上にはストゥーパが置かれている。

 

 

トンコナン

トンコナン▼とんこなん▼Tonkonan▼インドネシア、スラウェシ島、内陸山間部に居住するサダン・トラジャ族の伝統的家屋。棟が両端で反り、妻側を長く張り出した鞍型の屋根が特徴的である。屋根は竹を細かく割ったもので二重、三重に葺かれている。また、前後に棟持ち柱をもつ。棟持ち柱には水牛の角が飾られ、その数によって家の格式が示される。米倉も家屋と同じ形態、構造をとる。トンコナンとそれに付随するいくつかの米倉は平行に並べられて、トンコナン5~10棟でひとつの集落となる。高床の居住面は、入り口の客間を兼ねた寝室、中央の一段低くなった居間兼食堂、奥の家長のスペースの三つの部分からなっている。

2021年6月11日金曜日

中国建築 TBSブリタニカ

 

 

中国建築

 

 

                     

 

 

四合院住宅

四合院住宅▼しごういんじゅうたく▼SYU HER YUANN JUH JAIR▼中国の住宅建築の典型。中国北方を中心に,吉林、陜西、河南、江蘇、浙江、福建、さらに湖南、湖北、四川、広東、雲南の各省に広範に分布している。「四合院」は,「四合房」とも呼ばれ,文字どおり東西南北に四棟を配して,中央の「院子」を取り込む平面のものをいう。こうした平面配置は住宅だけではなく,紀元前7世紀ごろの宮殿にも、廟にも使われていたことがわかっている。典型的な四合院とされる北京城内の遺構は最も古くて清朝中期であるが,山西省の太行山脈西側の襄汾丁村や平遥城内にある四合院は明代に遡る。

 四合院の4棟の呼称は,地域や年代によって異なる。北京では一般に北側の主屋(母屋)を「正房」とか「堂屋」、東・西に向かい合う脇棟を「(東・西)廂房」、南側の棟を「倒座」と呼ぶ。この四合院を南北方向の中軸線上に幾重にも繰り返して重ねてゆき,縦に奥行の深い「院落=(中庭群)」を形成する場合が多い。その中庭群の奥行の重なりを「進」で数え,「一進」「二進」「三進」と称する。

             

 

客家住宅

客家住宅▼はっかじゅうたく▼KER JIA JUH JAIR▼中国の江西省、福建省、広東省、広西省、湖南省などに分布する客家の住宅。四合院のような閉鎖的中庭式住宅をとるものもあるが、特徴的なのは主に山間部に分布する四角形もしくは円形の「土楼」建築である。4、5階の版築(はんちく)壁の建物で囲まれ、壁の厚さは一m以上になる。下部の2、3階には窓など入口を設けず,城塞のようである。中庭の中心には平屋建ての冠婚葬祭などが行われる集会所が置かれる。規模が大きくなると、三重の「土楼」で囲まれるものがあり、7、80戸の家族が住む。

 

 

 

徽州住宅

徽州住宅▼きしゅうじゅうたく▼HUEI JOU JUH JAIR▼中国の安徽省東南部徽州地区の、明代から発展してきた住宅。徽州住宅は基本的に四合院をベースにした二階建てであるが、客間、書斎、倒座のほかに庭などの空間が設けられていない。また、増築を繰り返すのではなく完結的である。清代の銭詠氏に著された『履園叢話』には「雕工随處有之,寧國徽州,最盛亦最巧……」と記載され,正門、扉、欄干などの建築細部の彫刻が重要な特徴として注目されている。

 

 

 

抬梁式建築

抬梁式建築たいりょうしきけんちく▼TAIR LIANG SHYH JIANN JWU▼構造の観点から見た中国古代の建築類型。「抬梁」、「穿斗」、「井幹」(校倉)という三類型のうちの一つ。奥行き方向に向かって、礎石の上に柱を立て並べ、柱の上に虹梁を架ける。幾重かの束と虹梁を重ね、棟木を束で支える。その柱梁組を横に並べて桁を渡す。桁はすべて梁で支える。並行するふたつの柱梁組で作られる空間を「間」という。この木組を基本にして,三角形、方形、五角形、六角形、八角形、円形、扇形、万字形、田字形などの建築及び楼閣や塔などがつくられる。中国の北部を中心にして,抬梁式の構造は春秋時代(紀元前770403)からすでに完成していたと言われている。       

 

 

穿斗式建築

穿斗式建築▼せんとしきけんちく▼CHUAN DOOU SHYH JIANN JWU▼構造の観点から見た中国古代の建築類型。「抬梁」、「穿斗」、「井幹」(校倉)という三類型のうちの一つ。奥行方向に向かって柱を立て並べ、「穿」()で各柱を貫く。柱と柱の間隔は、抬梁式建築より狭い。桁は直接に柱で支えられる。主に揚子江以南の中国の南部に分布する。漢時代からすでに行われていたといわれる。

 

 

 

明堂建築

明堂建築▼みんどうけんちく▼MING TARNG JIANN JWU▼『周礼・考工記』(紀元前1100年頃)に記載されている古代中国の宮殿や宗教建築の原型。「夏后氏世室」「殷人重屋」「周人明堂」という記述は宮廷建築に関する最も古い文献とされている。後漢時代の『考工記』に関する鄭玄の注釈に基づいた、清代の戴震、焦循、江永、洪頤順、任啓運、王国維などのによる明堂復元論争が有名であるが、その形態が明らかにされたのは近年のことである。明堂建築は五室の構成で、中央に一段高い「台」形式の「堂」があり、四周にそれぞれ四室を配する形式である。各建物はほぼ正方形の重層建築である。近年、秦代の咸陽第一号宮殿址、漢の長安城南郊礼制建築址などが発掘され,考古学の方面からもその存在が証明されつつある。

 

平江府図碑

平江府図碑▼へいこうふずひ▼PYNG JIANG FUU TWU BEI▼宋代に彫刻された平江(蘇州)の地図。『平江府図』は『天文図』『理図』『帝王紹運図』と併称四大石刻からなる貴重な都市資料。平江は春秋(紀元前770403)末期、呉国の首都である。江南平原の南北交通の要所にある。紹定2(1229)年に,蘇州の郡守に着任した李壽朋が『呉郡志』を増補して出版させ,同時に坊市の故実を重建させた。この『平江図』はその事業の記念碑として建立されたものであるとされている。

 

 

山西晋祠聖母殿

山西晋祠聖母殿▼さんせいしんしせいぼでん▼SHAN SHI JINN TSYR SHENG MUU DIANN▼宋代の道教建築。山西省太原西南懸翁山にあり、春秋時代に建てられたとされる。周の成王の弟である叔虞を祀るために晋祠と呼ばれた。聖母殿と殿前の「飛梁」は北宋の遺構で、献殿は金代の建築である以外、すべて明清以後の建物である。聖母殿は天聖年間(10231031)に創建され,崇寧元年(1102)に改築された。幅7間奥行6間(実は幅5間奥行4間で、副階周匝 (裳階が付いている)入母屋式である。前二間が拝殿となるため,繋虹梁によって中央の4本の側柱が省略されている。こうした構造は中国建築の中では極めて特殊である。

 

 

 

河南開封市祐国寺塔

河南開封市祐国寺塔▼かなんかいほうしゆうごくじどう▼HER NAN KAI FENG SHYH YOW GWO SYH TAA▼中国河南開封市の北門内にある磚塔。現在は北宋の塔しか残存されていない。塔の表面は濃い茶色の瑠璃瓦で覆われているので「鉄塔」と俗称される。八角十三層、高さは約55米ある。東西南北にそれぞれ門が設けられているが、北門には階段があり、上の各階へのぼることができる。各階の東西南北の各室に窓が設けられているが、ただ一つを除いて、偽の窓(俗称盲窓)である。塔の表面に飛天、降竜、麒麟、菩薩、仏龕などの装飾が施されている。

 

江蘇蘇州市寒碧山荘(留園)

江蘇蘇州市寒碧山荘(留園)▼こうそそしゅうしかんへき さんそうりゅうえん▼JIANG SU SU JOU SHYH HARN BIH SHAN JUANG[LIOU YUAN]▼中国の蘇州門外にある明代に造られた庭園。明時代の嘉靖年間(15221566)の徐泰時の東園であったが、清時代の嘉慶年間(17961820)の劉恕に帰して、改造され寒碧山荘と改称された。園内には十二怪石がある。光緒2年(1876)年再び拡張され、留園と名づけられた。全園の面積は約81アールである。十余本の樹齢2、3百年に及ぶ大木があり、雄大と感じられる黄石を積み重ねて山としている。曲渓楼、五峰仙館、揖峰軒、還我読書処、清風池館、林泉耆碩などの建築が有名であり、戯台、楼館、書房などの建物が多く構築されている。