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2022年2月18日金曜日

まちの原風景 すまいの記憶は都市を変えるか,対論:陣内秀信:すまいろん61号,2002年冬

 まちの原風景 すまいの記憶は都市を変えるか,対論:陣内秀信:すまいろん61号,2002年冬


まちの原風景 すまいの記憶は都市を変えるか

               陣内秀信vs布野修司


 原風景にはさまざまな次元のものがありますが、個人を取り巻く、つまり経験によってつくられてきた原風景というのは、現在あまりにも不確かなものになってきているのではないか。かつては自然環境や地域と結びついた、空間としての、経験に基づいた原風景が個人個人にあったと思います。しかし、八〇年代、九〇年代のバブル経済期に子ども時代を過ごし、現在の高度情報化社会に生きていく二〇代、一〇代以降の世代には、経験された空間としての原風景はどういう形で形成されていくのかという疑問が起こってきます。

 これまでは、原風景の研究が住宅計画、都市計画になんらかの示唆を与えるのではないかということで、建築学、あるいは都市計画学のなかでとらえられてきたように思います。つまり、住み手と供給する側――住宅計画や都市計画を行なう側がストレートにかかわることができる回路として、原風景を持ち込もうとしたということがいえると思います。しかし、そういう原風景の変質は、これから住宅、都市をつくっていくうえで武器にはならないのではないだろうか。

 きょうは、体験された空間、自分の血肉化していった空間によってもたらされた住まいや都市の原風景についてもう一度掘り起こしてみて、さらに、これから原風景がすまいや都市を変える武器になるのか、ならないのか、といったことについて考えてみたいと思っております。

 七〇年代に研究者としての活動を開始され、以来、精力的に、おもにフィールドワークによって都市、住宅にかかわってこられたお二人をお招きしました。ご自分の原風景についての考えとか、それがその後の研究、住宅、あるいは都市のとらえ方にどういう影響を与えたのかということと、今後の住宅と都市のあり方について語っていただきたいと思います。                               (中嶋節子)


自分史のなかの原風景――都市居住の記憶

陣内 秀信

 そんなに語るような過去があるわけでもなく、気恥ずかしい感じがしますが、テーマとしては確かになかなか面白くて、ふだんなんとなく考えていることもたくさんこのなかに含まれるかと思ってお引き受けしました。

 原風景が私の研究のスタンスにどんなふうに影響しているか、あるいは少なからず影響しているのではないかということ。振り返ってみると、子どものころの体験を中心に、自分の奥のほうに眠っている、知らず知らずのうちに基底にあるもの、また成長の過程で出会ったいろいろな原体験みたいなことなどが、海外――イタリア、地中海――にいって向こうの風景をみたり、向こうの人と接触して自分を振り返るとき、そして、実際にいろいろな人と研究をやっていく場面で、さまざまな風景論や都市論や美術、建築をやっている人たちとディスカッションしながら、自分の奥のほうにある原風景なるものが姿をあらわしたり、意味づけられたり、つむぎ出されたりということで、単純に原風景が研究のスタンスを決めていくかどうかという設問はむずかしくて、いろいろなことが複合的に作用して、自分のやっていることや問題意識や方法論が方向づけられているのではないかなという気がしています。

子どものころ

 生まれは北九州市ですが、父親は土木のエンジニアで、ゼネコンにいて関門トンネルなんかを掘っていました。東京に出たいということで、私がまだ小さいころに出てきたんです。ちょっとの間、埼玉県にいて、すぐに杉並に引っ越し、今ふうにいえばミニ開発されてできた木造平屋の小さい家に住んだのですが、なかなか雰囲気のある場所で、そのへんが一つの原風景だと思います。

 杉並の成宗といいまして、中央線阿佐ケ谷駅の南側、現在は成田東といいます。杉並郵便局の近辺といったらおわかりいただけるでしょうか。昭和三〇年ごろの五万分の一の地図を見ると、何かと思い出される自分の原風景、ベースがそこにあるんです。昭和三〇年の地図というのは非常に意味があります。高度成長が始まる直前で、武蔵野の面影をまだ残している。江戸の近郊農村をベースに発展していった面影を見てとることができるからです。(昭和三〇年の地図)。

 青梅街道が通っているのは高台で、高台から市街化が進むんですね。南側を流れている善福寺川へ向かって斜面になっていて、かなり起伏がある。後に典型的な近郊住宅地になっていくところです。

 自分たちが住んでいたのは高台のほうですが、下りていくと一面田んぼ。春は一面のレンゲ草がすごくきれいで、善福寺川はしょっちゅう氾濫しました。そして、もう一度丘を登ったところに小学校があった。神社がいい位置にあるんですね。いつもテリトリーとして遊んでいたのは神社の境内であり、藪や原っぱ。本当に原っぱ幻想なんですね。山にカブトムシをとりにいく、ため池でザリガニをとる、バッタを追いかける。こういう典型的な近郊の生活をしていたわけです。東京の山の手から郊外まで全部同じような風景。まさに原風景だと思うのですけれども、そういうものがまだ骨格として残っていました。

 一方、迷宮的、下町的な生活空間もあって、自分たちが住んでいた周りは、戦後すぐできた木造平屋の家がかなりあって、道は狭い。初期のころはまだ共同水道があり、銭湯にも通っていました。紙芝居がくる。缶蹴りや宝探し、三角ベース。山の手ではないですが、お屋敷もずいぶんあり、それに下町みたいなものが相まっていた。東京はそういうところが多いと思うのですが、両方にある種親近感をもつ。振り返ってみると、自分が東京の研究を一九七〇年代の終わりごろから始めたのですが、山の手を歩くときに、ここの自分の風景をもうちょっと都心で、歴史の集積のあるところで体験しているような、足裏の感覚で歩くというのは非常に親近感がありました。後に迷宮空間に惹かれるようになったのも、この下町体験によるところがおおきいといえます。

 一方、都市の華やかさも記憶に非常に鮮明に残っているわけで、日本橋三越本店のパイプオルガン、日劇のダンシングチームの踊り、東横デパートの屋上遊園地にロープウエーみたいなものがあって、怖くて乗れなかったという記憶があります。勝鬨橋が開くのを写生に行ったり、ときどき都心に出ていってそういう華やかさを体験しました。ほどよい距離なんですね。阿佐ヶ谷にもパールセンターという商店街があって、各系列の映画館、洋画のオデオン座もあって、よく行きました。阿佐ヶ谷自体が、子ども心ながら街の華やかさをなんとなく感じさせてくれる空間。都市のエンターテインメント性にどこか関心があるというのも、東京の端っこだけれど、そういう経験を多少はかじったということもあったのではないかと思います。

 そのあと茅ヶ崎の祖父のところに引っ越してしまうのですが、当時は高度成長期の前ですから、湘南海岸は、非常にきれいな松林で、別荘地で、地引き網がしょっちゅう行なわれていて、自分自身ずいぶん引っ張りました。祭りでは海中渡御が有名なんですね。漁師の文化、そして花火。非常に自然が豊かで、東京では味わえなかった爽やかさ、だけどちょっと寂しいという感じが、東京から引っ越していくとしちゃったんですね。

 自分が住んでいたのは七〇坪ぐらいの敷地に平屋で、典型的な応接間がついて、南向きに開いて、廊下があって、お座敷があってという、和洋折衷のちょっとハイカラな住まい。茅ヶ崎らしいということだったかもしれないですが、後にだんだん風景論に関心をもつようになるのですが、なんとなくおおらかな自然、素敵な住宅がいっぱいあるというようなものが関心を育ててくれたといえなくもない。

 その後、親の転勤で、仙台と福岡にそれぞれ二年、一年半住みました。いずれも官舎というのは都市域のエッジにあるんですね。だからその背後は田園で、ヒバリの巣を探すというようなことばかりやっていました。官舎にはコミュニティが非常にしっかりあって、子どもたちは毎日遊びまくる。母親同士のつき合いも非常にあるという平屋の木造。だから、ほとんど平屋の木造住宅にばかり住んできたわけです。

 東京でも、茅ヶ崎でも、仙台、福岡でも、都市と自然が一体となったような生活空間で、都心派でもなければ田園派でもないという中途半端な位置。しかし、逆にみれば、それは自分自身のフットワークの軽さにもなったかなと思います。コミュニティの体験とか、町の中にいるのだけれど自然と一体となって遊ぶというのは、何か自分のベースになっていると思います。

 そうやってグルグルッと回って、東京には一九六二年、高度成長期の初期の段階に戻ったのですが、本当にショックを受けました。杉並のかつて住んでいたところが全部様変わりしていたんです。新宿から荻窪まで都電が走っていたのが地下鉄丸の内線に置き替わり、一気に開発されて、田んぼだったところに阿佐ヶ谷団地ができていた。藪も原っぱもない。ため池は埋められている。自然が全部なくなっちゃった。お墓もなくなっていたような気がします。残ったのは神社、宗教施設。ひっそりと部分的にお屋敷が森を残しているという形で、全部宅地化されて丘の上も下もなくなっちゃった。武蔵野の原風景が一気に消えていたんです。

 たぶんずっと住んでいた人たちにとっては、変化の過程のなかで少しずつ慣らされてわからなかったと思うのですが、五年ぐらい留守をしている間に風景が完全に一変してしまったというのは、自分自身にとっては非常にショックだった。だから、どこかで近代に対する懐疑心ができたのじゃないかと思います。

 一方で、子どものころ、日本の成長期、発展期の五〇年代を過ごし、未来主義的な都市のイメージに憧れながら、建築や都市を勉強したいなと漠然と夢を描いていたわけで、そういうギャップが相当インプットされたのではないかと思います。

 ところで、こういうリアルな原風景ではないのですが、父親は福岡県の人間で、鹿児島の七高で青春時代を送り、錦江湾でボートに乗ってという当時のバンカラ風のイメージをずいぶん語ってくれたのです。ここはナポリと姉妹都市で、錦江湾、桜島、歴史的な都市ということが、ナポリ湾があってベスビオ火山があってというのと、本当によく似ているんですね。で、オペラが大好きで、イタリアへの思いを語ってくれたのが、自分にとってはイマジネーションの中の原風景になって、イタリアに関心ができたのではないかなと思います。実際に生活したところだけではなくて、そういういろいろなイメージをインプットされる体験というのも非常に重要だろうと思います。

学生時代

 布野さんも同世代で、われわれの学生時代はほとんど勉強できない状況だったわけで、喫茶店でみんなとディスカッションしたりして、いろいろ学ぶことが多かったわけです。

 都市のなかにつくられる自由な空間、管理のなかでゲリラ的にできていく空間、あるいは集会に参加したり、デモに参加したりというときに垣間みられた自由な都市の空間というものが強烈でした。現実には、そういうものはコンスタントに続くはずがないし、どんどん潰され、都市のなかから完全に消えていくわけです。しかし、そういうものは本来的に都市のなかにほしいなという思いがあって、それもヨーロッパの都市に魅かれた一つの理由です。

 七一年の夏、大学は六月三〇日に卒業したのですが、すぐ五〇日間ヨーロッパ旅行に行きました。もともとヨーロッパの中世都市に関する卒業論文をやっていまして、文献がみつからないで本当に困ったのですが、幸い幾つかキーになる本と出会い、ヨーロッパ、特にイタリアを中心とした中世都市の空間的、形態的なことを少しかじっていたわけです。それで、片っ端から夢中になってイタリアの都市、ヨーロッパの都市をめぐりました。原風景というより原体験といったほうがはっきりすると思いますが、子どものころ以降に体験した原体験が自分を非常に大きく方向づけたという気がします。

 そして、都市空間がまさに人間の舞台となって使われていること、非常に象徴的な魅力のある場所がたくさんあること、近代都市――自分が常日ごろつき合っていた東京という空間が非常に薄っぺらであることに気づいたことなど、いろいろなことで強烈な影響を受けたわけです。これが自分で取り組みたいテーマだなというふうに確認できたのです。

 原体験が自分の生き方や作風に大きく影響するのはあたりまえのことですが、そこで重要なのは、原風景と、そのあとの重要なきっかけとなるような体験がどこかで結ばれているのではないか。もともとの根底に何かがあるから、原体験のなかで出会いがあったり、こだわりがさらに大きくなったり、「あ、これだ」と触発されるもとになったりという、何か内的関係があるのかなという気がします。

 それで、東京を脱出するようにイタリア留学したわけですが、いちばん東京と隔たりがありそうなところに行ってやろう、違うイメージの都市に行ってみようということで、あえてヴェネツィアを選びました。

 カナルグランデ、リアルト橋、サンマルコ広場など皆さんよくご存知でしょうが、運河をちょっと入ったところにヴェネツィア建築大学の本部が修道院を再利用してあります。当時、建築大学の規模は小さく、もう二カ所ぐらいに分散していました。まさに高密な迷宮の中に住んで、広場で楽しんだり、買い物したり、学生と交流したり、いろいろ調査をしていたのですが、その体験は強烈で、一回の旅行で訪ねていったのとは違う、原風景に近いものをここで自分自身にインプットすることになったわけです(ヴェネツィアの地図)。

 都心に住む面白さというのを日本の都市では味わったことがなかったので、その感覚は貴重だったなと思います。水上の迷宮都市の身体感覚。東京にいると何でも機能性ということになっちゃうのですが、ヴェネツィアはそんな便利な都市ではないわけで、それよりも感性を育む。人間の振る舞いがどこも舞台のような感じなんですね。そういう演じているような空間。それと、人と出会う場所が多いんですね。本当におおぜいの人としょっちゅう路上で行き合う。そして、車がない。そういうなかでいろいろなことを考える強烈な経験になりました。

 さらに後に、東京の「水の都」のコスモロジーということにこだわるようになるのですが、やはりここでの経験がそういう方向に自分の関心を育てていってくれたのだと思います。

 ヴェネツィアに行って初めて集合住宅に住んだのです。下宿屋に五家族ぐらいが住んでいました。窓から運河がみえる。そこにカモメがやってくる。運河の水のレベルが干満とともに変化する。街の中にいながら自然で、ちょっと庭先があった。都市のなかで集合住宅に住むという経験。これは関係性のなかに暮らすセンスということをつくづく思いました。それは簡単なことではないだろうし、単に楽しいというわけではなく、充実感、そこに暮らしているという実感、そういうものだったと思います。

 ヴェネツィアの研究をするときに、田島學先生(現・愛知産業大)がミラノに一九六〇年ごろに留学していたときに持ち帰られたヴェネツィアの調査をまとめた非常に素晴らしいテキストがありまして、それを貸していただいて、図面上で徹底的にスケールとか雰囲気、空間の形態とかを想像力たくましく読み込みながら、自分でヴェネツィア形成の論理を考察するという修士論文を書いていたんです。あとになってそのことがよかったのじゃないかと思います。つまり、いかにイマジネーティブに考えるかということ。

 いま、ヨーロッパに簡単に行けちゃうわけですね。自分のほうから場所や空間や街の様子、風景を限られた情報から思い切り描く、想像するというプロセスを体験しないで、いまの若い人たちはポンと簡単に行っちゃう。で、「これは東京にあるのと同じ」というふうに、全然感動もなければ、日本で得た情報を追認しに行くという人たちまで出てきちゃって、簡単に行けるということは不幸なんじゃないかという感じさえするのですが、われわれの代ぐらいまではなかなか行きにくかったので、むしろ図面で本当に想像していた。場所ごとにスケール感とか雰囲気が想像していたのとだいぶ違っていたりして……。風景というのは、自分の中でイメージを醸成するということが非常に重要であるということをつくづく思いました。

 そして、南イタリアのチステルニーノという小さな街に偶然行く機会があり、これはまたショックを受けました。中世の街ですが、石灰で白く塗られていて、まさにバナキュラ建築集落の原点みたいなところ。ヴェネツィアはまだ秩序が感じられる、まだ理解の内にある感じがしたのですが、もっと人間の隠れ家的な、根源的空間、場所、迫力。すごく感銘を受けました。この迷宮体験は、自分自身そのあとずいぶん影響されたなと思っています。

 人間の根源、歴史的なものがいっぱいあって、しかもシステムが近代産業革命以降に生まれてきたものとまったく違う様相を呈している。そのなかで人間が営みを続けているコミュニティがある。そういうものが平気で骨太に存在しているということにショックを受ける。別の意味の原風景に自分が戻っていくというような体験をしました。

 そういう迷宮空間の体験は、東京に戻って研究していくうえで、東京の中の迷宮性――木造で建て替えが激しいし、変化していく。けれど、その場所の雰囲気というものが時代を超えて受け継がれていく東京の不思議なあり方、アイデンティティのあり方――にだんだん興味をもっていくようになったんです。

 イスラーム世界との出会いは、これもまた大変幸運だったのですが、石井昭先生(当時・都立大学)が一年間、当時テヘランにあった日本学生振興会のアパートにいらしたんですね。七七年だったと思います。で、ヴェネツィアから訪ねていった。イスタンブールやテヘランを皮切りに、小さな村から巨大都市まで、日干し煉瓦でできた、象徴性もある、歴史が集積している都市を巡りました。都市の古層に向かっていくような経験でした。だけど、個と全体ということとか、ある種のプランニングが実にうまくできていて、これはなんだろうと、訳もわからず魅きつけられた。そういう強烈な異文化との出会いがありました。

 当時、東京は、世界の都市の空間のモデルからすると、外れているというか、都市の資格をもっていないというか、「巨大な村である」とか「汚くてごみごみしている」とか、本当に否定的な言い方が強くされていたと思います。たぶん自分自身もこういう異文化との経験をしながら、どこかで東京を考えるということもあったのだと思います。

中嶋 どうもありがとうございました。続いて、布野先生お願いします。


自分史の中の原風景――住宅遍歴

布野 修司

 振り返ってつくづく思うのは、こういうところで生まれたからこういう研究になったとは思いませんけれども、僕が研究と称してやっていることは、やっぱり自分が住んできたキャリアにすごく関係がある。私は吉武研究室という、戦後の日本の住宅のプロトタイプ、51C型の基本設計をやった研究室を出て、住まいのことをやろうと思ったのは、たぶんそういう研究室を出たからだと思いますし、京都大学では西山夘三先生がやってこられた講座、地域生活空間計画講座ということで、それも何かの縁だろうと思います。

 「原風景」というのですが、私の住宅遍歴を長じて振り返ってみますと、なんとも貧しいというか、戦後の日本の住宅のありとあらゆるとはいいませんが、そのパターンに住まわされてきたという気がしています。

 結婚して最初に住んだ家は世田谷区下馬、お茶の先生をされている邸宅の庭先に建てられた、木賃ではなくちょっとグレードのいい鉄筋アパート、庭先鉄賃でした。隣りの隣りに野球選手の張本が住んでいた。週刊誌にすごい豪邸だと写真が出たりしたんですが、みると大した豪邸じゃないんです。建て売りに毛がはえたぐらいで、大して大きくない。それから、その通りは朝丘雪路・津川雅彦夫妻がお子さんを連れて歩いていました。

 八九年に『住宅戦争』(彰国社刊)という本を書いたのですが、この本は、有名人がいったいどういう家に住んでいるのかというのを調べまくって書いたんです。ちょっと興味本位すぎるなと思って、自分の住宅遍歴をさりげなく差し込んだのがその中の「F氏の住宅遍歴」です。F氏と他人事みたいに書いてありますが、これをお読みいただければ、京都にいくまでの私の住居遍歴はわかるようになっています。

 生まれは出雲市です。西日本は四ツ間取りで、東日本は広間型という、これはいまでも定説なのかどうかわかりませんが、生まれて二~三カ月住んでいた家は、本当に四ツ間取り型の藁葺きの民家でした。出雲地方の民家がほかと違うということをわりと最近知ったのですが、出雲の棟は反っているんですね。これは新羅との関係が強いのかなという話をしていますけれど、出雲の建築家はわりとそれを意識して、棟に反りをつけたりします。本当にそういったような民家でした。それで、二~三カ月で松江に移りました。

 住まいの遍歴というのは、皆さんだいたい二代になるはずですね。親離れするまでは親の住居遍歴になって、それからが自分の住居遍歴にる。父が結婚して最初に構えた住宅は市営住宅です。僕は一九四九年生まれですから、51C型の前の公共住宅です。四畳半に六畳、板の間に台所、玄関が付いて、風呂はなし。団地ができると、近くに銭湯がペアでできたということですから、とりあえずという時代のものです。戦後住宅の原型といえると思います(図・公営住宅)。

 この家はいまでもありまして、ときどき帰るのですが、現在までのその変貌を図に描いてあります。セルフビルドで風呂場を建てたことを覚えています。父を手伝った覚えがあります。近くに大橋川という宍道湖と中海をつなぐ川があって、そのほとりで育ちました。ですから、陣内さんがおっしゃった原っぱとか川遊びはそこらじゅうにあった。田舎ですから当然ですが。その大橋川は世にも不思議な川で、両方に向かって流れる。当然海に向かって流れるのですが、あるときは海から流れてくる。要するに、シジミとかセイゴ、スズキがいる汽水圏ですが、そこの川原に行って石を取ってきて風呂場の土台をつくった。もしかすると、このセルフビルドが長じて建築をやる原点になったかもしれません。

 この狭い家で三人兄弟が次々と生まれたわけですが、増築したり、僕が出てから二階建てにしました。父が水回りだけはそのまま残して改築したので、いまでも帰ると、なんか家に帰った気がする。何か痕跡がないと、物理的には同じ空間に帰ってもなかなか記憶は蘇ってこないということをつくづく思っています。

 松江という町は、いま一五~一六万人の県庁所在地の小さな都市ですが、地方の中核都市を変えるのは、国体開催がわりと大きいですね。もちろんバブルもあり、新幹線とかいろいろあるかもしれません。私は団塊の世代の下のほうですが、ワーッと人口がふえて、以前の松江高校が松江南高と北高に分かれ、その松江南高校を出たのですが、いま帰ると、その高校の周辺はまったく記憶の手掛かりがない。すぐ近くに授業をサボっては遊びに行っていた八重垣神社があり、また、全国的にも有名な神魂神社があって、そこはかろうじてあるのですが、高校の周辺は、運動場ができたり、建て売り住宅ができたりして、新しく開発されたところはまったく知らない町と同じ。それは非常に戸惑うし、面食らう状況です。

 それで、一八歳で上京して、東京に二四年ほど暮らし、京都に移って一〇年が過ぎたところです。

 住んだという意味では、東京が曲者でして、転々としている。上京して最初は民間の寮みたいなところに住みました。いまでいうとワンルームマンション。だから一応ワンルームマンションも経験しているといいたいのですが、ちょっとシステムが違い、食堂がついていて、風呂は共同浴場でした。フルパッケージという意味では、ワンルームとは違いますね。

 そのあと、やっぱりそれが煩わしかったのか、賄い付きの下宿に移りました。たぶんいまはどこにもないですね。コンビニがあればいいわけですから。七〇年前後ごろには東京にまだ賄い付きがあったと証言できます。次は設備共用・トイレ共用のアパートです。関西でいうとアパート風にも住んでいます。

 それで、二年ほど東大の助手をしていた時代に、前述の結婚して世田谷区下馬の一〇坪ほどの2K。ここから自立した自分の住宅遍歴の始まりです。死語ではないと思いますが、「方・荘・号・字」――○○様方、○○荘、○○号、字。字で戸建てを建てて郊外に住むという、住宅住み替え双六なんていうのがありました。物の見事にそれにはまっているなという思いをしながら、そういう選択をしていった。

 そのあと、東洋大に移って、結局、上京して最初に住んだ寮が唯一山手線の内側で、あとは環七を内側に入ったり外側に出たりして、遂に都心に住めませんでした。そうして持ち家を持てたのが埼玉県の朝霞です。東京駅から二〇キロぐらいの分譲のマンション(図・マンション)。

 そのあと、もうちょっと広い九〇平米ぐらいの公団の分譲に移りました。駅でいうと国分寺で、藤森照信さんは駅の南側、僕は北側のちょうど同じぐらいの距離。そういうところにいました。

 住宅双六の順番でいくと、建築科の教師ですから、郊外に戸建てを設計してと思っていましたら、京都に来いということになり、急にふりだしに戻って、ここ一〇年ほど京都で住んでいたところは五四平米ぐらいの官舎。半分ぐらいに逆戻りしちゃった。一〇年間、えらい目にあいました(笑)(図・京都官舎)。

 つい最近引っ越しました。コモンを設けて連棟で並べたタイプの公団テラスハウスで、八〇平米ぐらいです。ここはわりと気に入っていまして、蚊のいるコモンがなかなかいいというふうに思っています(図・京都テラスハウス)。

 住まいだけの話をすると、このへんが陣内さんと対照的で面白いと思うのですが、いまごらんにいれたとおり、戦後の日本がつくってきたものをたいてい経験している。これは持ち家で育たれた方はあまり経験されていない。設備共用も経験したとか、民間も公団も官舎も経験した。そういうさまざまな空間を経験してきたというのが私でして、ただ、嬉々として住んできたという感じはまったくしない。「住まわされてきた」。自然にミクロな住宅選択を繰り返していたらこういうことだった、という感じが非常に強いです。

 このあとの議論のためにいいますと、戦後生まれの「団塊の世代」といわれている世代にとっての住まいの記憶、町の記憶というのは、藤森さんに聞いても、たぶん共有化されたものはあるのではないかという気がするんです。陣内さんのお話にあったように、東京の郊外でもああいう感じですから、いたる所に原っぱがあって、いたる所に水があるというところで育った。要するに、一九四五年段階の日本の空間のなかで話していけば、原風景みたいな話ができるかもしれないとは思います。

 ところが、住まいの記憶といったときに、たぶんそんなにバラエティは出てこないのではないか。戦後の場合、ステレオタイプ化された、何DKといえば済むようなイメージしか出てこないのではないかという気がするんです。簡単にいうと、つくり手も住み手もみんなひっくるめて共同で選びとってきたのは、「理想は庭付きの一戸建ての持ち家」というのがいまでもあって、議論すればいろいろな理屈があると思いますが、その原型は、武家住宅が一種の理想に据えられてきていて、住まいの記憶をザーッと探ってみると、意外にそういう記憶しか出てこないのじゃないか。これはわかりません。「おまえの住まい方、遍歴がまずいからだ」というふうにいわれるかもしれませんけれど、そういう気がします。

 きょうのテーマである「都市に住むということの記憶」が、たぶん日本の場合は薄いのではないか。僕はわざと住宅のプランだけの話にしましたけれども、集まって住む形式の記憶が日本の戦後で抜けているのではないかという気がします。

中嶋 陣内先生にはご自分の小さいころの家、周りの環境の話、そして学生時代に出会ったヨーロッパの街、それらが現在の研究にどういうふうなパクトを与えているかということをお話しいただきました。そして、布野先生にはご自分の住宅遍歴というものを語っていただき、さらに、いまの日本の都市において集まって住むということについての問題提起をしていただきました。お二人とも、研究のフィールドを海外にお持ちです。続いて、研究のテーマと原風景について、お話を伺いたいと思います。


ヴェネチアから東京へ――都市研究と風景論

陣内 秀信

都市研究に取り組むなかで

 ヴェネツィア建築大学というところはなかなか面白い大学でした。常に新しい方法論、学派が出てきて、設計やデザインの分野でも、都市の歴史的な解読でも、都市計画でも、あらゆるジャンルで非常に実験的な教育、研究をやっていました。

 そのイタリアの学者たちとの出会いのなかで、自分自身にとって本当によかったのは、歴史が重なって存在し続けている既存のものへの深い関心をみんながもっていたことです。「都市を読む」ということをみんなキーワードとしていた。しかもそれは、タウンスケープというような表層をなでることではなく、原風景を解読する、原構造を読み解く、その意味を思索する、そして、歴史的にどういう系譜で発展してきたのかを考えながら、今後の都市づくり、地域づくり、設計を考えるというスタンスがかなり広まりつつある段階でした。「都市の記憶の大切さ」というのをそろそろ言い始め、あるいは「風景(paesaggio)」という言葉を使う専門家もそろそろ出ていた。

 アルドロッシーもヴェネツィアで教えていて、ヒポロジーやタイポロジー、モルフォルジーという体系を考え、後に都市の記憶、連想ということへいったと思います。そういう雰囲気が七〇年代前半のイタリアにあったということは自分にとって大変ありがたかったわけです。

 東京に帰って建築史の研究室に戻り、歴史的な都市、広島県竹原の調査にとりかかりました。「景観」とか「風景」という言葉を使うのは建築史の研究室ではタブーで、町家、住宅の平面形式、空間形式、そして、集合市街区をつくり、都市がある種のモルフォルジーをもっているという、地形との関係、土地利用、そういうアプローチがどうしても進む。日本の都市は土地の資料が中心に出てきて、あまり立体的にいかないということもあったのかもしれないですが、それよりも何よりも一方で街並み保存の修景とか、都市計画の人たちが「景観」といっているときに、歴史研究室では景観、風景というのはあまり表に出しにくいフィールドだったんですね。

 ところが、自分としては幸いにも、まったく違う場面で樋口忠彦さんたちと一緒に、「東京の文化としての都市景観」という研究プロジェクトを五年ぐらい続けました。当時、都市を読むというのは、文学、哲学、民俗学、美術史、文学、歴史学などの人たち――前田愛さん、宮田登さんなど――から先にスタートした。一般の都市居住者、あるいはユーザーが感ずる都市というのは、風景、景観からいくわけで、構造を理解するということはありえない。文学に描かれる世界、そういう領域を奥野さんたちがつくっていたのだと思うんです。

 樋口忠彦さんはじめ、中村良夫さん、篠原修さん、むしろ土木系の人たちが、みんな文学青年だったのだろうと思うのですが、文学作品あるいは万葉集などをテキストにしながら、非常に思索的に日本人としての原風景、集団の記憶、集団の原風景、そういう領域を大きく切り開いて、建築より先にその世界を描いたのではないかと思います。で、多木浩二さんが使った言葉だったと思いますが、「生きられた空間」というものが風景を通じて語られるようになった。

 それよりちょっと前、七〇年代に原風景論が展開されました。奥野健男さんの『文学における原風景』は非常に早くて、七二年。原っぱ、隅っこが、あらゆるジェネレーションを通じて、どこに住んでいたかを問わず、日本人の心象風景のなかに非常に強く残っていると言っています。そして、日本人は農耕民族、弥生的だといわれる面があるかもしれないけれど、「非常に野性味のある縄文的な、狩猟民族的な文化も本来あるはずだ」ということをいっています。

 この作品から影響を受けた建築家、建築評論家、建築研究者の方はたくさんいらしたわけで、川添登さんの『東京の原風景』は、当時、東京はまだ巨大な村落である、都市のクオリティをもっていないと否定的にみられていたけれど、彼は「庭園モザイク都市」とネーミングして、都市モデルは西洋型だけではないよと。つまり、東京をポジティブにみることを初めてやってのけた。「楽天的だ」という批判もあるのですが、居住空間、都市空間というものがそれぞれの地域に長い歴史的経験とか風土に結びついて、空間のあり方があるのだ、ということを言った。

 芦原義信さんは、『街並みの美学』を七九年に書かれる。槇文彦さんは、『見えかくれする都市』の中で、「奥」の思想を語り、吉武泰水さんは、『原記憶のフィールドワーク――夢の場所・夢の建築』を書かれる。

 というわけで、七〇年代というのは、自分の過去を表に引っ張り出してきて、自分の方法論、思索の立場、スタンスの形にしていくという、それぞれ活躍の場所が違うので向きは違うのですけれども、原風景論が非常に力をもった時代、あるいはジェネレーションだったのではないかと思います。

 原風景論が力をもつということは、いろいろな段階であった思うのですが、私自身が非常に感銘を受けた本のなかに、西村真次さんの『江戸深川情緒の研究』があります。大正一五年に出た本で、ヴェネツィア=深川論なんですね。冒頭の部分で、イギリス人のアーサー・シモンズが書いたヴェネツィアに入っていく光景を、彼は永代橋を越えて深川に入っていくイメージと重ねている。たぶん西村さんはヴェネツィアに行ったことはないと思いますが、深川をヴェネツィアに見立てて、ほかの原風景を借りてきて自分の原風景をリアルに描いていく一つの手段として使った。

 また、「パリの会」というのがあって、文学者や文化人が隅田川とか日本橋のあのへんの水辺でサロンをやっていて、パリを語る。そういう原風景論というのも非常に重要で、いろいろな段階であったかと思います。

 文学のほうでよく聞くのは、地方から出てきた作家が自分のふるさとの川と隅田川を二重写しにして創作活動をしていく。白秋が柳川を思い、室生犀星は金沢ということですね。私自身も、江戸とヴェネツィアを重ね合わせながら考えていくということが、いろいろ物事を進めていくうえで非常に力になりました。そういう意味では、外国での出会いが自分のルーツを確認する、アイデンティファイするきっかけになっている面があったと思います。

 フランス文学の清水徹さんは、「都市を読む」ということを日本で最初に言った人の一人ですが、実は、新宿副都心の高層ビル街に夕暮れどきにいたときに、高層ビルのガラスに反射する夕暮れどきの風景、シルエットが美しくみえた。それがパリのセーヌ河のほとりで西日を受けているノートルダムのファサードをみたときの感動と二重写しになって、都市論が面白いということで始めたのだ、ということを書いています。


世代論的には?

 世代論的にはどうかというと、不思議なことに同世代に都市史の研究者が多いんですね。住総研の江戸東京フォーラムで一緒に研究している波多野純さんとか、玉井さんとか、京都の高橋さん、建築史、都市史の初田亨さんとか、藤森照信さん。

 町歩き派として冨田均さんという面白い人物がいます。『東京徘徊』は、荷風の跡を追いかけて、東京論を同世代として書いたものです。荒川区尾久の出身で、いつも上野から飛鳥山に伸びていく丘を下から見上げて、エロチックな姿を思い、上の世界に憧れるというスタンスで東京徘徊をするんですね。『乱歩と東京』の松山巌さんは作家になっちゃったけど、建築出身で、愛宕神社の近くで生まれ育った。いずれも、変化していく東京、日本の風景をまざまざと見てきている世代であるがゆえに歴史に関心をもったのかなと、自分と照らし合わせるとそういうふうにも想像するのですが、ご本人に聞いてみないとわかりません。

 事実として、都市史研究者がわれわれの世代に非常に集中している。それ以前は少なかったわけです。

 しかし、原風景のあり方が研究のスタンスでどうなっているか、対象の選び方、方法がどう反映されているかというと、さまざまだと思うんです。藤森さんは信州から出てきて、田舎はイヤだ、近世や前近代はイヤだという形で、近代の東京に憧れ、東京の輝く近代、かっこいい大都会、その建築ということで、明治以後の輝く近代、国家、ブルジョワジーが中心になってつくりあげた近代をまずは手掛けた。それからだんだん路上派になっていって、看板建築になり、職人とか市井の人びと、生活者。後になって自分の本性が出てくるわけですが、だんだん民家とか始原的な古いところに遡り、いよいよ自然素材を使った非常に独創的な建築家として活躍するところへ至った。原風景を自分の中でどう受けとめて、どうそれぞれの年代で仕事をしていくかということを、彼ほどうまく見事にやりのけている人はいないと思う。

 初田亨さんは下町派で、下町での体験を大切にベースにして、非常にユニークな建築論、都市論を展開されている。

 橋爪伸也さんは同世代ではないのですが、大阪の通天閣の下で生まれ育ったという、まさに祝祭的であり、エンターテインメントであり、あらゆる要素がごった煮になっている迫力のある大阪の都心。アウトローもたくさんいる世界だと思いますが、そういうところをベースに非常にユニークな研究をしている。ある意味で、原風景が研究にこんなにストレートに結びついている人も珍しいのではないかと思うんです。

 私自身はどうかというと、ちょっと根が弱いんですね。杉並からスタートして、山の手的な面の良さもかじり、下町的なところ、迷宮的なところも体の中に入っているけれど、ちょっとフラフラしている。そういうスタンスのなかで比較しながら自分なりにやっていきたいなと思ってきたわけです。

東京郊外の原風景を探る

 最近、東京の郊外の研究を学生たちとやっているんです。ヨーロッパの場合、本当に歴史的な建物がたくさん集積して、歴史的なイメージがそのままみえている。もちろん、中身や細部はどんどん時代に合わせて変化して、逆に古い器の中の新しい機能やプログラム、そしてデザイン感覚が本当にシャレているわけですが、日本の場合はそうはいかないので、どんどん目まぐるしく変化していく(東京郊外の基盤となる構造)。

 そのなかで、原風景はどういうものなのか。もちろん、若い世代には、コンビニとか、家の中の大きい冷蔵庫、コンクリートをそのまま仕上げた壁面に囲われた空間が原風景という人たちはたくさんいるでしょう。

 自分自身の原風景をたどって、もう少し本来的な原風景に遡ってみますと、明治三〇年の阿佐ヶ谷はまだ自然がいっぱいあって、江戸時代のままで、青梅街道、五日市街道沿いにちょこちょことしかない農家、そして点在する民家、神社。そのほかは、低いほうは田んぼ、上のほうは畑です(明治三〇年の地図)。

 子どものころ遊んだ神社に池があって、よく玉虫をとりにいっていた。当時なぜ池があるのかはわからなかったのですが、ここは非常に重要な湧水池で、そこに弁天が祀られていた。そういう武蔵野の古い構造と結びついた価値のある場所だったということが、ここ数年、このへんをもう一回調査してわかりました。

 大宮八幡は鎌倉時代にできた神社ですが、ここは古来から非常に重要な場所で、縄文、弥生の集落がたくさん出てくる。川沿いのちょっと高台。水が湧く、聖なる水。で、宗教空間になる。

 大宮八幡からずっと延びていくのは鎌倉古道だといわれていて、中央線は定規で真っ直ぐひいたようにできましたが、駅の場所はたいてい古道とリンクするところにあるわけですね。高円寺しかり、阿佐ヶ谷しかり。そして、青梅街道が交差するところに荻窪ができる。駅というのは当然その場所の古い風景と結びついてできているわけです。鎌倉古道が青梅街道とぶつかるところに田端交番があり、お地蔵さんがある。阿佐ケ谷のパールセンターは、実は鎌倉古道の上にできているアーケード街です。などなど、いろいろなことがわかってきて、すごく面白い(大宮八幡を中心とする古道)。

 結局、東京の近郊――杉並、世田谷、原宿、代官山あたりも面白いですし、国分寺あたりまでずっと似たようなことがいえるのですが、湧水が重要なんですね。で、川、崖が重要です。古代があり、その上に中世ができ、その上に現代と、層を成していることが明らかになってきます。


〈個人〉〈集団〉にとっての原風景

 原風景が〈個人〉〈集団〉にとってどういうふうな意味をもつか、あるいは方向性をもつかということですが、自分自身、東京のディテールを掘り起こしていく作業をどんどんやっていくのは非常に面白いのじゃないかと思っています。

 江戸の中心地に関しては、われわれもやったし、みんなもやっていて、本当にたくさんの情報が掘り起こされ、原風景が描かれる、絵画的資料も多い、古地図も多い。だけど、近郊農村――自分たちが一般的に暮らしている場所、あるいはもっと郊外はイメージが描けないわけですね。しかし、実際はものすごくある。そして、明治以後全部地図でたどれるんです。というわけで、個人にとっての原風景、集団にとっての原風景というのを描いていく必要がある。

 個々の住宅の作品のなかにどういうふうに原風景を織り込むかというのは、また重要な面白い議論があると思うのですが、とりあえず東京のようなところでも、もっともっと地域でこういうイメージをつむぎ出していく必要があって、地域づくりに想像力が必要である。機能的な面ばかり追求して抽象空間化してしまった歴史的都心、地方都市は特に重要だと思いますが、その記憶の詰まったイメージ豊かな場所に読み替えていく、意味づけていくということが非常に重要です。千住、谷中、神楽坂など、東京のいくつかの地域でそういう動きがあります。

 八五年以後の東京の新しい動きで、原風景を描く。それはみんなの中に眠っている。ジェネレーションごとに違っているので、語り継ぐことも必要だろうと思う。あるいは、そういうことを新鮮な目で若いジェネレーションが描き直すということも必要で、そういうディスカッションをし、そういう領域が非常に面白いということをもっともっとアピールしていくことが必要です。で、「原風景は都市を変えるか」という設問ではなくて、「どうすれば変えられるか」というふうに考えたいなと思っています。

中嶋 ありがとうございました。続いて布野先生.お願いします。

アジアへ――我が住体験とは別の集住を探る

布野 修司

 僕が最初にインドネシアに行ったのは、先ほどお話ししたような、私が住まわされてきた日本のある種のステレオタイプ化した住宅形式とは全く違うものをみたいという意図があったわけですね。

 住総研からも助成をいただいて、行きだしたのは三〇歳ぐらいからですが、戦後の五〇年間の、一種の追体験をするという気が非常に強かったです。要するに、インドネシアは非常に貧しい状況にあった。そこらじゅうにバラックが建っている。戦後の貧しさの中で西山先生、吉武先生が提案をされたのが51Cという形式だったわけですが、そこには集合の論理が抜けていた。これははっきりしていると思います。そうではない住宅のあり方、「集住形式」に対する期待があって行ったということで、それは間違っていなかった。貧しい住まい体験と、住まいのことを研究する研究室に入ったことと、全部重なっていますが、整理していくとそういうことかなと思っています。

 その後、この五年間ぐらいはむちゃなことをやっていまして、植民都市研究ということで、去年、今年と世界一周をしたのですが、世界じゅうの都市を追いかけるという無謀というか、手を広げすぎましたけれども、そのなかでもいちばんの興味は、都市型の住宅です。アジアでどういう形式をつくってきたか。これはたぶん陣内さんとも共有していると思うのですけれども、中国、台湾です。いくつか図を持ってきています。

 バラナシ(ベナレス)。基本的にはコートハウスになるわけですが、イスラムにも似ているかもしれない。ヒンズーの聖地ですけれども、こういう形式をもっている(図・バラナシ)。

 植民都市コーチン。都市型の住宅を発展させた国オランダはいまでも人口密度が大変高いわけですが、そのオランダがアジアにきてつくった都市型住宅はオランダ本国とは違うんですね。むしろ中国系といいますか、コートハウス、外屋に近い(図・コーチン)。

 同じインドでもジャイプールという町はなかなか面白くて、イスラムの住む地区と、ヒンズーが住む地区で、住まい方が違う(図・ジャイプール)。

 台湾もなかなか面白いところで、間口が狭いなかで、トウテンといって、階段室を直行でバーッと通して、各階プランが違う。これは都市住宅が相当定着しています(図・台湾)。

 かと思うと、ネパールの集落はすごく古くから集合住宅というか、都市型住宅を発達させてきています。ネパールの家はいちばん上がキッチンになっています。ちょっと信じられない。

 アジアはそもそも都市型住宅の形式の伝統が薄いところですけれども、アジアだけみても地域でいろいろ発達させている。それに対して、わが貧しい住宅遍歴を振り返ってみて、ちょっと専門家として情けない。日本でどうして住む形式、記憶とか原風景になるようなものを生み出してこなかったのかということを考えています。

中嶋 どうもありがとうございました。


ディスカッション


中嶋 ここからは、会場の皆さまからも質問、ご意見をいただきながら討論を進めていきたいと思います。

新井(よろず住まいの相談) 「よろず住まいの相談」という厚かましい看板で、この近くに六五年ほど住んでいます。私のように一つのところに長く住んでいる人間の記憶と、お二人のようにフットワークのよい方たちのまちの記憶はちょっと違うかもしれないという気がします。たとえば「すまいの記憶は都市を変えるか」というテーマ自体、私にとっては、いかに都市を変えないで住むかという見方もあるのではないかと思います。

 私は世田谷ですが、自分が住んでいた中村村の田園耕地整理に時間がかかったために、最初から住んでいた方が皆さんそのまま住みついておられる。したがって、私のまちの記憶は、フィジカルな記憶よりも、人との交流の記憶のほうが多い。現実に起こったまちの変化を必ずしもトレースしていない、そういう記憶のまちというのもあるのではないか。

 もう一つ、私どもは戦中、戦後の食料難に、リュックサックをしょって買い出しにいきました。また同じようなことが起きるのじゃないかという予感がしてしようがないんです。こんなに飽食の時代が続くわけがない。人口はいずれは減るだろうと思いますが、それまでいったいわれわれが生き延びられるかどうか。世界貿易がいつどんな形で崩壊するやもしれないというのが現実のものになってきています。

 そうなったときに、われわれはどこに買い出しにいくのだろうかということを考えたとき、私は家の周りの現在もまだ残されている農地をこれからどれだけ残していくかという観点で、日本流の都市づくりを視野においておく必要があるのではないかなと思うんです。

陣内 私自身はしょっちゅう引越しをしていましたし、外国もヴェネツィアにトータル三年、五年以上住んだのは東京だけです。先ほどお話した東京杉並の小さい家に親と一五年以上いました。それから、結婚して三カ所移って、いま杉並区役所の近くにいるという状況で、本当に移っている。だから、家の記憶というと薄いかもしれないけれど、杉並の成宗の記憶はかえってあるんですね。ですから、自分自身かなりこだわっている原点は杉並の成宗にかなりあると思っています。

 それで、あまりにも変わるんですよね。布野さんが、自分が住んでいたところにいってみたら、神社しかなかったと。実は私も茅ヶ崎とか仙台は怖くて住んでいたところに行けない。完全になくなっていると思う。福岡には行ってみたけれど、周りが本当に変わっている。

 一方、ヴェネツィアは、ときどき戻る機会があるのですが、もちろん住人が変わった、レストランの経営者が変わったというのはあっても、たたずまいは変わらない。本当に精神的に安定して迎えてくれる。

 変化ということで非常に思うのですが、日本では社会、価値観、消費の動向、世の中の動き、まちの表情、すべてが変化するということがベースになって動いているところが否が応でもあって、変化を促進し、それに乗っかって引っ張っていくのは若者の世代ということで、どうしてもローティーンの文化になっちゃう。これは大変きついことかなと。面白がって若い文化についていくところは自分の中にあるのですが、それだけの社会、都市の風景、居住のあり方ということになってしまうと、根本的に大きなものがどんどん失われていくのじゃないかという不安もある。

 やっぱり欧米のいいところは、大人の価値観がしっかり根づいている。行く場所もある。まちの中、いろいろな都市施設やレストランでも、主役として社会の中で立ち振る舞える。そういうまちの風景の変化というのは、誰が担うか、誰が消費動向をつくるか、ターゲットはどうなっているのか、マーケットはどうなのかということは、文化、社会の奥深いところで結びついているのじゃないかと思っていて、そのへんがヨーロッパと日本の決定的に違う面ではないか。

 ところが、一方で日本の社会は変わらない面が非常にあって、私は文化人類学の川田順造さんとおつき合いがあって、川田さんは深川の高橋のお生まれですが、深川は震災でも戦災でも焼けて、古い建物は一つも残っていない。でも、みんな居住歴は長いんです。震災以前からずっと住んでいる人、商店を経営している人が半分以上いる。ですから、人間関係はしっかりしている。お祭りはしっかりしている。商店街の営みが非常に骨太に展開している。

 深川はそういう記憶をいっぱいもっている。日本の都市の記憶の受け継がれ方はヨーロッパとは全然違っていて、逆にヨーロッパはそういう伝承ができませんから、建物に非常にこだわるわけです。形、器を残さない限り、自分たちの記憶が受け継がれないというふうに考えるんですね。日本の場合、だからといって物を壊してもいいというふうになっちゃうとまずいですが、できるだけ物にもこだわりながら、しかし、本質的には人と人との関係とか、祭りの運営とか……。実際に千住のコミュニティ雑誌、あるいは『谷根千』の活躍というように、あんなに地域の記憶がどんどん掘り起こされるのは、それだけ人びとが受け継いでいる。住んでいる人々の間に知識とか認識とか、記憶、物語がたっぷりあるんですね。一つの地域で何年も地域雑誌が可能になるということは、ヨーロッパの都市では考えられない。雑誌『東京人』もそう。八五年に創刊して以来、毎月特集を組んでいますが、こんなに記憶がいっぱいあるまちってないのじゃないか。それをもっと自覚化して、すまいづくりやまちづくりに結びつける必要がある。

中嶋 日本の都市のつくり方は、何を残して、何を残さないかという選択を常に迫られる都市づくりがずっと進んできている。原風景のほうに戻すと、そういうものを掘り起こして、それが物である必要はないかもしれないのですが、人との交流とか独自の歴史、あるいは共有できるものを掘り起こすのが新しいまちづくりの方法ではないか、というような話ではないかと。

布野 基本的に都市というのは、集団の作品、しかも歴史の作品。いろいろな人がかかわってできている。記憶とか原風景といったときに、誰にとっての記憶であり、誰にとっての原風景なのか。そこで、住み続けている人の原風景と、ちょっとだけ住んで通りすぎただけの記憶がどうかということですが、たぶん答えは「共有されている」ということですね。中嶋さんが問題にされているのは、共有された原風景なり、共有された記憶が何かまちづくりの手掛かりになるのではないかと。

 それは僕もそう思います。特にまちづくりという立場に立つと、方法論の問題の議論があって、たとえば文化人類学では二年住まないとそこについて論じてはいけないというある種のルールが全世界的にできています。じゃ、二年住めばその地域社会がわかるのか、余所者には永久にわからないのか、たぶんそういう問題にもつながっていくと思います。

 一つは、個人でもイメージとか印象が変わることがある。たとえば僕が学生時代に帰省したときに、松江の町が東京っぽくなるのが嫌で嫌でしようがなかった。やっぱり地域は地域であってほしい。そういう面と、逆に「松江っていいところですね」といわれると、またそれに反発したり……いろいろ複雑です。個人でも、年によっても違ってきているということ。

 もう一つ、京都の話をしたらわかりやすい。京都は一二〇〇年の都ですから、京都生まれと余所者ではすごく違うんですね。簡単にいうと、京都生まれで京都を憎んでいる人、愛しまくっている人、余所者で京都が好きな人、きらいな人と、マトリックスで四つに分けられる。そういうものが絡んで京都のイメージとか原風景が語られているわけです。京都の町で非常にやりにくいのは、京都生まれで京都を愛している部分がなかなか言葉になって出てこない。方法論的にはそこをどうすくいとるか、住んでいる人と、ツーリストでくる人、そういうものの共有のイメージをどうつくるかということだと思うんですね。これはどこの地域でもそうだと思います。

 千葉に波崎という漁港があって、日本一投票率が低く、離婚率が高いので有名です。そこのまち起こしを頼まれたのですが、「港だから、うちには歴史がありません」というのですが、調べると、江戸時代の新田開発の話とか、二宮尊徳がどうしたとか、いろいろな話が出てくる。基本的にはあらゆる地域に歴史があり、記憶が詰まっている。これは絶対に手掛かりにすべきだと思っています。東京はすでに四〇〇年のすごい歴史があるわけで、掘り起こせばたくさんあるんです。

 具体的に何が手掛かりになるのかが、たぶんきょうのテーマだと思いますが、確かに土地の力にかかわるものもあるのですが、一つは自然の景観ですね。僕の故郷に帰ると、宍道湖があって、それを囲んで山があると、それが一つの手掛かりになるなというふうには思います。

陣内 いま布野さんが京都の話をされたわけですが、原風景が嫌で否定したいと思う人、あるいはそういう時期はかなりあるのではないか。よっぽどいい原風景をしょって、すくすくと育ってきても、挫折とか、人との出会いとかと結びついてネガティブに考えることがあるかもしれない。たとえば森まゆみさんだって、「若いころは谷中は嫌で嫌でしようがなかった」という話をよくされます。で、ある年齢になり、子育ても始め、良さがだんだんわかってくる。

 川田順造さんは、深川が嫌で嫌でしようがなかった。で、パリに脱出した。レヴィ=ストロースのもとで勉強して、西アフリカのサバンナでフィールドワークを一〇年ぐらいやって、ある年齢になって自分の故郷――小名木川沿いの深川高橋という非常に雰囲気のあるところで、昔はまるで駅のターミナルの盛り場みたいに船の発着場が栄えたところ。子どものころは嫌で嫌でしようがなかったところ――が非常に懐かしくなって、ある年齢になってから調査を始めた。「三角測量」と彼はいうのだけれどもパリ、西アフリカ、深川と。

 そういう構造のなかで原風景が生き生きと蘇ってくるということは非常にあるのではないか。原風景というのはいっぱいあって、対象化する必要がある。ベタベタのなかでつき合っているだけではだめなのじゃないかと思うんです。そこにずっと長くいて、原風景がずっと好きでという立場もあるかもしれない。ずっといてこだわって、自分の中で反芻してという良さも当然あると思いますが、いっぺん立体的に対象化するということが非常に重要です。

 原風景というのは、イメージの中で増幅されたり変化するもので、客観的な原風景というのはあるわけない。非常に主観的であり、でも集団で共有されている。その共有のされ方だって、誰がどういうふうにつくったかとか、史実そのもので忠実に検証していくというものではないわけです。だからこそ駆り立てる力があり、戦略的にまちづくりや計画論のなかでつくっていく方法があるのではないかと思うのですけれども。

 そういうふうに考えると、原風景というのは、みんな人生においてずっとポジティブということは絶対になくて、かえってネガティブで脱出したいという原動力になっている。だけど、そのなかでまちづくりの大きな力になるのじゃないかと思います。

中嶋 ポジティブなものとネガティブなものと、原風景がもつ力というのは否定できないというふうに思うのですが、陣内先生のお話のなかで、子どものころからずっと意識せずに育った原風景が、もう一度成人してからの体験によって掘り起こされていくという、追体験というわけではないですけれども、もう一度掘り起こす刺激みたいなものを与えるきっかけをつくっていくことがまちづくり、すまいのなかで必要なのかなというふうに思うのです。そういうことが研究者の役割であり、建築計画をしていく人間の仕事ではないのかなと。そういう意味で、原風景というものを大切に考えたいなと思うのです。

布野 「原風景とは何ですか」。もしそれが共有されてあるのなら話は早いですね。

永橋(中央設計) 私は逗子で生まれて、いま文京区弥生町、根津の後ろの異人坂の前に住んでいるんです。逗子にもいったりきたりして、数えてみたら一六回転居している。谷中にも子育ての時期に住んでいたことがあるんですが、お祭りで浴衣を着て、子どもは神輿を追うとか、幼稚園の保護者会の副会長をやるとか、その地域に住んで、人とのつながりみたいなものがとても大事です。極端ですが、三階以下の低層に住む、自家用車は使わない、職住接近という三つがきちんとあればまちは変わっていくし、日本の都市の質も変わるのじゃないかと思う。

 いま異人坂にはローンを組んで住んでいる。それは、逗子から一時間半かけて通ってくることが体力的に自信がないものですから、やむをえず借金をして、砂上の楼閣に住んでいるみたいなもので実に不安定なわけです。借金をして持ち家をもつというようなことは、すまいとかまちを良くしていかないと思うんです。

 それから、陣内さんが窓からみえるものについておっしゃっていましたが、私の家からは遠くに隅田川の花火がかわいらしくみえる。すぐ後ろは根津小学校で、三階建てだと子どもたちが動いているのがみえる。やっぱり窓から何がみえて、どんな住まい方が楽しいのかというのを、もっともっと経験している人たちがしゃべったり、書いたりすることが大切です。この町のこの坂道、あの崖、あの緑がどれほどよいかということを、子どもたちも含めて語り合っていく。そういうふうにして、自分が育った子どものときの住まいのあり方、遊び場がどれほど大事なのかということが自覚できるようにしていくということがとても大事じゃないかという思いがしています。

 もう一つ、保育園とか診療所、病院、高齢者の施設、学校など、そういう公共的な施設を、あとあとまで懐かしめるようにつくっていくということが大事だと思います。私は横須賀高校を卒業しましたが、コンクリートになってからは行ったことがない。私の横須賀高校は木造の建物。みんなそんな思いで原風景を呼び起こすことが大事じゃないかなと思っております。

服部(千葉大学) 「原風景とは何か」というのが非常に大きな問題だと思います。そして、原風景から価値をどういうふうに出して、どういう都市をつくり、どういう建築をつくるかというプロセスの問題があると思うんです。

 中嶋さんは「記憶は都市を変えるか」というところを問題にされていますので、原風景の考え方とか、計画論なり設計論にどういうふうに結びついてくるかということで持論を述べさせていただきます。

 パリにいる日本人に、パリのイメージマップを描かせた研究があるんです。そうしたら、中心部に建物が密集してあるけれど郊外にいくと緑が延々と広がっているという絵を描く人がほとんどなんだそうです。実際にパリは、周辺には高層の公共的なニュータウンがいっぱいあり、とても緑なんかないぐらい郊外は広がっている。東京と非常に似ている。それにもかかわらず、都心と郊外について、建物と自然という対比を感じているのが日本人だ、というんですね。統計的にとったときに、日本人はそういう都市の風景をイメージしているということです。

 ドイツに原風景学というのがあります。原風景学でいうと、最も根源的な風景意識。広く日本人にとってそういうものがあるのかないのか、という問題ですね。

 僕の研究ですが、多摩に行っていろいろな高層、低層の住まいをみせて、「どこがいちばん好きですか」と聞くと、だいたい「戸建てがあるところがいい」というんですね。それは原風景と関係しているかどうかわからないですが、逆に伊豆の山の中に住んでいる人に聞くと、「高層住宅に住んでみたい気がする」というんですね。低層で緑の中に住んできた、いわゆる都市に流入した人にとっては、高層・高密、あるいは緑のない空間というのはそんなに拒否反応をもたないで受けとめられたのではないかと思う。それが原風景かどうかわかりませんけれども。もっとオーバーにいうなら、憧れてくる。それで、千葉は東京でマンションに住んでいた人が戸建てを集中的に買う場所ですが、そこで調査をしてみると、「二度といきたくない」となるんです。やっぱり緑が多いところがいいんですね。そのあたりの議論をもう少しやっていただけるといいなと、まず一つ思います。

 原風景の共通したイメージとはいったい何なのか、日本人にとっていったい何なのか。そういうものをわれわれが共有できないというのが非常に大きな問題だと思います。だからこそ都市はどんどん変わっちゃうし、極端にいうと、どこに行ったって同じというふうになるのではないかと私は思うんです。

陣内 服部さんは日本人共通の原風景という設定をされましたが、樋口忠彦さんはそういう形を追求していて、一つのタイプではなくて、いろいろなバリエーションがある。地形の構造が全国で違っていたり、山の奥と海辺では違っている。ですから、バリエーションが出てくるのですが、たとえば山の辺にあって水の辺にあるとか、そこでは共通しているわけですよね。そういうのは説得力があって、万葉の時代からずっと好ましい、精神的にも安定した居住ができる場。だけど、いつもみんながそこに住めるわけではないわけですね。工業の発達とか、城の構え方などが歴史的に変わってくると、全然違うパターンにいって、どこかからとめどもなくそういう原型にこだわらないで、都市をどんどんつくっていっちゃう。あるいは、せっかく水の辺や山の辺という可能性があったところを全部ならして埋め立てて、全然違う抽象的な世界をつくってきたということで、いまの議論はいままでにあったのではないかと伺っていました。

服部(千葉大学) 陣内さんが問題にされている見解は、直接風景を問題にすることですね。僕が問題にしているのは、原風景学というのをやっている人、もう少し人類学とか方法論なんかをやっている人たちは、「日本人には原風景はない」という感じに近い発言が多いですね。いわゆる移り住んでいく過程で得た知識、記憶というのは原風景であるというふうに断定してしまえば、みんなバラバラですよね。もっともっと根源的だというと、万葉とか、もっと前からきているものかもしれないので、それはちょっと話としては整理のしかたがむずかしい。

陣内 中嶋さんが提起されているのは、日本人が普遍的にみんなが共有する原風景というのはありうるけれども、そうじゃなくて、それぞれの場所や地域の人たちがいろいろなバラエティをもちながら、個々の事情に応じて抱く原風景のことをいっていると思う。そうしないと、抽象的なモデルづくりみたいな話になっちゃって、実践的な面白さが導き出されないのじゃないか。僕は中嶋さんの問題提起は好意的に受けとめたのですが。

布野 僕が「原風景っていったい何ですか」といったのでこういう展開になったと思うのですが、僕は、日本人という構えはあらゆる議論でしたくないので、樋口さんの研究は日本列島の景観の構造を原型を幾つかに分けるという話で、それは当然ありえますし、意識に遡ってそれをということを聞こうとしたわけではないんですね。

 ちょっと横にそれますが、高層を容認するとかおっしゃったので、はたと思ったのですが、僕は一階主義者で、だいたい一階を選択して住んでいるので、たぶん高層は嫌いなんだろうなと思ったんです。それより茶化していいたいのは、たとえば京都で町家を守れとか、職住近接だとか言っている先生が高層マンションに住まわれていたりして、いったいなんなんだというのに思い当たったりしましたけれども、それは原風景に関係するか、しないのか。

 僕が聞きたかったのは、中嶋さんがこのミニシンポジウムの趣旨として、「没個性化した現代の都市やすまいに……かつてそれはもっていた固有の」とあります。かつては共有されたものが何かあって、それが失われたという立て方ですね。そうすると、いま没個性化した都市で育った若い人たちの原風景はいったいどうか、ということを裏で聞きたかったのですけれども。

中嶋 無防備に「原風景」という言葉を使っているのは私も意識しております。私の中で原風景をどういうふうに考えているかということですが、服部先生のお話にもありましたように、日本人が共有しているような、あるいは地形が覚えているような根源的、現象的な原風景というのがベースとしてあると思っております。それは歴史的な景観でしたり、地形だったり、そういうものがまずベースにあって、その上に個人の経験的な原風景というのがつくられていくというふうに思っています。その上で展開してきた自分史のなかでの、自分を中心座標として形成されていく原風景というものを取り上げてみたいと考えて、今回のシンポジウムはフィールドワークを中心に研究されている先生方をお二人お呼びしたということです。

 もう一つは、私は研究自体は歴史的環境のほうが専門でして、歴史的な環境みたいなもの、それぞれが個性をもっていたものが均質化されていっているのが現在ではないかという意味で、その均質化した空間に住んでいる若い世代の人びとがこれからもつであろう自分を軸とした原風景というものは、非常に貧しいものではないのか。都市をつくるある手掛かりにしようとわれわれは考えていたものが失われているのではないか。そうだとしたら、どういう方法で原風景を掘り返したらいいのか、ということを考えてみたいと思っているのがこの趣旨なのです。

陣内 そのとおりだと思うのですが、どんどん変化して、均質化して、没個性的になったというような、こういう失われていくものを嘆く、批判するというのは……。この間オランダからきた都市の研究をしている学者と話をしていて、「いつの時代の人もそういってきた」というんですね。だけど、「日本は変化が激しいんだから」といったのだけれど、「いや、そういうことはないだろう」といっていた。そういう視点にドキッとしたんです。だから、必ずしもいまだけの問題ではないのかもしれない。永井荷風が昭和の初期に『日和下駄』のなかで、急速に近代化して、江戸が失われていくことをすごく嘆いて、クリティカルに書いている。だから、クリティカルな視点をもつことは非常に重要だと思うんだけれども、いまの時代だけの固有の問題というふうには考えないほうがいいのかなと、オランダ人の話を聞いて思ったんですね。

 それから、外国から来た連中を日本の郊外に連れていくと、面白がるんですね。うちの杉並の周りの住宅地、戸建てでそれなりに庭があったり、緑があったり、坂があったり、そんなに僕らは個性があると思っていないのですが、もっと古い中心部の山手の本郷とかにいけば、すごい個性があるとリアルにわかるのだけれども、特にヨーロッパ人、アメリカ人は、アメリカにはない、ヨーロッパにはない、ある日本の何かを受け継いでいる面白さ、個性があると。

 非常に単純な設計方法で、山を切り崩し、碁盤目状、車優先、住宅が立ち並んでいるパターンも幾つかしかない……、そういう意味では非常に均質的なのかもしれないけれど、この生産システムとか、こういう風景は、ある意味で一九七〇年代、八〇年代、九〇年代、日本にしかないものかもしれないんですね。だから、もうちょっとそこがもっている質というのをちゃんと考えないといけないのではないか。

 実は、郊外に育った連中で、郊外の中の面白さをどうやって自分たちの世代のアイデンティティとして発見しなければいけないかみたいな問題意識をもって、修士論文とか、卒業論文で、調べた連中が何人かいるんですね。

 われわれの世代は頭ごなしに「個性がない」、「空間として質が落ちている」というのだけれども、もう少し何が問題なのかを、それはフィジカルなものだけではなく、人間関係もあるだろうし、都心からの距離とか、機能がどれだけ交ざっているかとか、いろいろなことがあって、ちゃんと検討しながらそのクオリティを判断するのはむずかしいですけれども。

 郊外研究というのは、三浦展さんが、郊外学はないということで、社会学の立場からやっていたり、ホンマタカシさんの写真に魅かれて郊外研究をやる若者も多いんですね。だから、いろいろなジェネレーションの人が郊外研究をやらなきゃいけないのじゃないか。郊外で育った人は、自分たちのアイデンティティそのものなので、そこに愛着もあるんですね。そのへんは非常に重要なテーマだろうと僕はみているんです。

中嶋 各世代がもつアイデンティティみたいなものを発掘するということが、今後の都市の中の質をみていく力になっていくということですね。

布野 力といわれれば、一言いわないといけないのですが、三浦展さんは、前はパルコにおられて、アクロスで商品の売れ行きの分析をされていたんですね。郊外に人口が張りつくから、そこに商品が出ていくわけですね。それを分析するなかで、彼は郊外学へと発展する独自の展開をされた。要するに、没個性化しようが何しようが、一方で現実の都市をつくっていくメカニズムがあるわけです。先ほど紹介した僕のつまらない住宅遍歴も、あるメカニズムのなかで自分はそれなりに最良の住宅選択してきたつもりだけれど、手のひらの上で動いていたというところがあるわけですね。日本列島全体がそういうメカニズムで動いてきた。市場原理というのがあるわけですから、それが強いから日本列島全体が同じようになってきたわけですから、それに楔を打ち込むような概念とか手法というものに結びつけていかないと、力にはならない。

 ですから、議論すべきは、一元的に東京なら東京が変わっていく、地上げがあって建て替わっていく、効率でいくというのに対して、ウォーターフロントがあるじゃないかと。産業構造が転換して、当時用なしになっていた土地といったって水辺があるじゃないか、細かくみたら緑もたくさんあるのじゃないかというのを読んでみせて、そういうものも逆に取り込んで住宅開発をやろうとか、そういうふうなメカニズム。

 そのときに、下手な記憶というとすでにいっぱいあるじゃないですか。テーマパークみたいな一種のキッチュ的なやり方。なぜここにヨーロッパの街なのというような商店街がいっぱいあったりするわけだから、本気でやるのなら、そこまで立ち入って議論したほうがいいかなと。

陣内 高層に住むかどうかという話があって、谷中にもいらっしゃったという永橋さんから大変重要なお話をいただいたのですが、いま実際に都心回帰で、地価が下がったということもあって、ずいぶんマンション建設が活発になっています。窓からみる風景の大切さをおっしゃったわけですが、僕も、東京の場合、窓からみる楽しさ、価値観がちょっと違う方向にいっていると思います。高層の住棟からみる眺望はものすごく価値があるわけですね。それに魅かれて高くても買っちゃう。で、もっと低い、谷中とか千駄木とかの景観とか、周りの環境とちゃんと協調できるような高さ。本当に低層、中層の集合住宅からのながめというか、そういうものが壊されていっている……。

 先ほど自分の話のなかで関係性のなかで生きる面白さということを申し上げたのですが、窓からみえる風景というのはまさにそうで、ヴェネツィアとかローマの集合住宅に住んで、みんな四階ぐらい、せいぜい五階なんですが、すごく窓からのながめがいいんです。周りの家並み、瓦、煙突、窓、生活の気配、路上の人のざわめき、恋人同士の語らい、みんなひしひしと伝わってくるんです。そういうことに都市に住む実感を得て、日本では狭い平屋の一戸建て経験が多かったですが、そういうものと違う都市に住む面白さを体験したんですね。

 で、日本のいまのマンション設計にはそういうものがほとんど入っていない。自分の建物の論理で勝手に建っているわけですね。周りを壊している。だけど、マンションもたくさん集まってくると、もう少しお互いにいい関係で並んで、しかも周りにうまく開かれて、眺望も楽しめるというゆるやかないい関係をどうやってつくるかというイメージがないとまずいのではないか。

 もう一つ、布野さんのお話のなかで、どうも住まわされてきた、あるいは狭い家にという、どうみても豊かな経験とは言いにくいというお話がありました。もう一つの角度からいいますと、比較文化の研究者、芳賀徹さんが、信貴山絵巻などの中世の絵巻物に非常に質素な木造のあばら家みたいな絵が描かれているのだけれども、そのなかで家族が本当にアットホームに暮らしている場面が描かれているというんですね。フィジカルには狭くて、ヨーロッパの家のように立派じゃないけれども、そこに温もりがあって、家族、人間関係の場があって、周りに木立があったり、庭があったり、路上にも開かれていたりする。そういう柔らかい住まい方のイメージというのは、必ずしも狭くて住まわされてきた貧困な日本の戦後の住宅というだけでは片づけられない、いい面もあるのじゃないかと、楽天的にいえばね。

布野 アジアにはまだいっぱいありますよね。

陣内 そういう面はスピリットとして大切にして、集合住宅のなかに盛り込んでいかなければならないのではないかと思います。

荒居(千住蔵研究会) 千住をフィールドにして、まちを元気にさせるような仕組みをやっています。

 長野の海野、福島の大内などという歴史的な町に行くと、たとえば「海野方式」という一言で言ってしまえるような、土壁がもろにみえている土蔵が並んでいるだけの、本当に没個性化の町なんです。けれど、その町を一歩出て、もう一回見直すと、それはその町の個性として成立している。ですから、中嶋さんがおっしゃっている「没個性化した現在の都市や住まい」というのは、それも個性じゃないかなという気がしているんです。

 千住で駅前の再開発をしているのですが、かれこれ一〇年以上前の基本計画をそのまま形にしている。まちの方にお話を伺うと、みんな首をひねってしまうのですが、じゃどういう形で持ち上げていけば、自分たちが本当にほしいまち、住みたいものができるかがまったくみえない。そういう手法が行政のなかにもないし、コンサルのなかにも出てこない。そういうことがまちがだんだん貧しくなっていく原因なのかなという気がしています。

 まちの中を自分の意思で物をみて歩いて、お話を伺っていると、共通の思い、共通の感性があることを感じます。それが計画なり、建築なりにうまく反映されていないということがものすごく気になっている。どうしたらいいのかはよくわからないのですが、それを解析していけば、おそらく記憶が都市を変えていくのじゃないかと思います。いい方向に、住みやすい方向に変えていくと思うんです。気持ちのいい空間ができあがってくると思うんですね。ともかく話を聞いて、そこから汲み上げるという、自分の意思の目線がすごく必要なのかなという感想を持っているんですね。

石田(東京都立大学) きょうは都市計画畑の人が少ないようですので、一言だけ発言させていただきます。私自身は七〇年生きているのですが、そのうち六七年は基盤整備が計画的に行われたところに住んでいるんです。そのうち三十数年は近代的な区画整備でやられたところ。三〇年弱が江戸時代の新田開発のところで武蔵野市の吉祥寺。あとの三~四年が軍用地の跡地が計画的に開発されたところに住んでいるんです。ですから、近代の都市計画によって原風景みたいなものを常に壊してきた画一的なところに住んできたので、きょうの議論は私の生活体験にはつながりません。

 ただ、原風景と関係して仕事をしているのがたった一つあって、三富新田の保存の問題をここ一〇年ぐらい関わってきているんです。吉祥寺が新田開発をやられたのとまったく同じシステムでやられたところで、僕にとって三富新田はまさに原風景なんです。これは江戸時代ではあるけれども、きわめて画一的に、きわめて広域に計画開発したところなんですね。それがなぜか知らないけれども、三富新田の人たちにとってみても、原風景として非常に貴重に思われている。また、外からきた人も非常に高く評価して、なんとか保存しなければいけないということで運動している都市住民もいるんです。

 このへんが画一的とかいうなかで、いかに原風景的なものをつくり出していくのかということのヒントになるのか、ならないのか。きょうは自分が計画開発をいろいろやってきた立場で、原風景という考え方に立って、計画開発というのはどうやってやるのかということをじっと考えて座っていました。

布野 敷地割にしても、僕はどちらかというと上物を含めた型に興味があるのですが、ある型をもって景観をつくっているところでないと、風景として記憶に残るものはできないじゃないかという気がしています。要するに、画一的だから悪いという話はまったくなくて、むしろ景観をつくっている……。

陣内 条理性のある地域は美しいところが多いし、それを飛行機の上からみると、感激しちゃう。だから、規則性とか計画性、均一というのとは違うのじゃないかと思うんですね。計画的にできた原風景でいいところはいっぱいあると思いますよ。

中嶋 何が悪くて何がいいものになるのかというのは、それはどこにあるのでしょうか。

陣内 僕はイタリアの都市の形成史をやっているのですが、平野部にローマ人が最初はカストロムという駐屯地みたいなところをつくるわけですね。札幌のスタートと似ているかもしれないです。それはある意味で非常に画一的で、規則的で、計画的で、それだけだと最初はなんの面白さはなかったかもしれないけれど、しっかりした型はあった。その中で住みこなし、変化し、成熟し、いろいろな物語が加わり、フィジカルにもいろいろな要素を加えてということで、そのなかにしっかりした型があるということは、布野さんがおっしゃったように非常に重要で、時代が変わると型への考え方が変わるわけですよね。しかも、建築レベルの型がその上に重なってきて変わるわけですね。都市のストラクチャーとしては、ある時代に開発された型がそこにあって、また別の時代の型があってという、そういう全体を面白がっちゃうというか、そういうものをきちっとみつめて、自分の思い出や風景と重ねていくような風土というか、雰囲気をつくらないといけないのじゃないかと思うんです。

布野 型と言ったのは少し強すぎるので、ルールといったほうがいいのかもしれないですね。ある町なら町でルールが共有される。

 たとえばヨーロッパ人がみて、日本の街や、香港のようなところは、すごい猥雑で混沌としているという……。

陣内 でも、喜ぶ。夜なんか夢中でネオンを撮りまくりますね。

布野 建築の型というと狭すぎますので、日本の繁華街でもああいうのがあって、ああいう美学が共有されていればいい、というぐらいに広げておきたい。それが原風景だったり記憶だったりするかもしれませんけれども、そういうのをみんなが共有して、ルールにのっとって街並みをつくっているというのなら、感動を与えたり、外人が面白がったりする。

陣内 たぶん外国に長くいる日本人がいちばん懐かしく感じるのは、それこそネオンがいっぱいある祝祭的な繁華街だと思いますね。だから、そこも原風景になると思う。僕は縁日のシーンというのは原風景の一つだと昔から思っているんですけど、それがいまの都市からどんどんなくなっていっている。

 だから、いろいろなレベルがあると思うんです。郊外が新田開発され、集落があって、神社なんかも当然ある。街道沿いに並木がある。全体にシステムがうまくできているんですよね。それは生産、農耕という営みと結びついている。そういうすべてのシステムがなんともいえないいい風景をつくっていると思うんです。その有機的な関係がどこかからずれちゃって、ある論理だけで開発が進んじゃう。スペキュレーションも起こる。地域全体のバランスのいい土地利用とか、関係性をつくるという開発ができなくなって、逆にあったものが壊されていくということですね。そういうもののなかから原風景は生まれないと思うんです。型というよりは、いろいろなレベルの関係性ですね。それはフィジカルな景観だけではなくて、自分的な記憶はみんなしょっているわけだし、生産システムと結びついている。

中嶋 「原風景」という言葉で都市をみようということで始めたのですけれども、それがフィジカルなものであれ、もっと人的なものであれ、ルールとか、あるゆるやかなレベルの関係性のなかで共有されるようなものというふうに置き換えたほうがいいのではないかということと、共有している感性を反映する、汲み上げるシステムというものがすまい、まちを動かしていくということではないかと、今回の議論で考えさせていただいたと思います。どうもありがとうございました。                  (文責=編集部)



 住総研ミニシンポジウム


まちの原風景――

すまいの記憶は都市を変えるか

全文


 中嶋  皆さん、こんにちは。大阪市立大学の中嶋と申します。きょうは、「まちの原風景・すまいの記憶は都市を変えるか」ということでシンポジウムを開かせていただきたいと思います。

  いまなぜ原風景なのかということですけれども、一九七〇年代から八〇年代、九〇年代の初頭にかけて、たとえば奥野健男先生の『文学における原風景』をはじめとする、文学のなかに原風景を読み取ろうとする試みですとか、川添登先生の『東京の原風景』という、都市を歴史的なコンテクストのなかから読み込もうとする試みなど、文学、文化人類学、心理学、建築学、さまざまな方面から風景論、あるいは原風景論みたいなものが展開されてきました。こういった動きというのは、高度成長期のあとの安定期に、それまでの急激な都市化ですとか、あるいは高度機能主義、機械化のなかで、その開発の先にみえたものが均質で没個性的なすまいであり、都市であったわけです。それに対するアンチテーゼとして生まれた一つの動きが原風景論の展開だということがいえるかと思います。

  たとえば建築や都市環境に限っていいますと、歴史的コンテクストのなかから集落や都市の構造を読み解こうとする動きですとか、あるいは記号論、現象学、パターンランゲージといったものによる空間構造の解析ですとか、風景の解読とか、定量的な分析、こういったものが行われてきていました。これまでは、そういった原風景の研究が住宅計画とか都市計画になんらかの示唆を与えるのではないかということで、建築学、あるいは都市計画学のなかでとらえられてきたように思います。つまり、住み手と供給する側―住宅計画や都市計画を行う側がストレートにかかわることができる回路として、原風景を持ち込もうとしたということがいえると思います。

  原風景には様々な次元のものがあって、一言でいうのは乱暴なんですけれども、現象的な、あるいは根源的な原風景といったものはともかく、たとえば個人を取り巻く、つまり経験によってつくられてきた原風景というのは、現在あまりにも不確かなものになってきているのではないかという疑問が起こってきます。かつては自然環境や地域と結びついた空間としての、経験に基づいた原風景が個人個人にあったと思います。しかし、九〇年代のバブル経済期に成長期を過ごして、現在の高度情報化社会に生きていく二〇代とか一〇代以降の世代には、そういった経験された空間としての原風景はどういう形で形成されていくのかという疑問が起こってきます。

  では、そういうふうな原風景の変質というのは、計画する側が拠り所にしていたものが、今後、住宅とか都市をつくっていくうえで武器にはならないのではないか、あるいは武器になるのではないか、そういうことをちょっと考えてみたいと思いました。

  原風景にもいろいろあるのですけれども、体験された空間、自分の血肉化していった空間によってもたらされたすまいや都市の原風景についてもう一度掘り起こしてみて、さらに今後の原風景がすまいや都市を変える武器になるのか、それともならないのか、といったことについて考えてみたいと思っております。

  きょうは、体験された空間ということで、七〇年代に研究者としての活動を開始されて、八〇年代、九〇年代、そして現在と精力的に、おもにフィールドワークによって都市、あるいは住宅にかかわってきたお二人の先生をお招きいたしました。両先生方には、きわめて個人的なことも含めて、ご自分の原風景についての考えとか、それがその後の研究、すまい、あるいは都市のとらえ方にどういう影響を与えたのかということと、今後のすまいと都市のあり方について語っていただきたいと思っております。

  ご講演をお願いする両先生のご紹介をさせていただきたいと思います。私がご紹介するまでもなく皆さんよくご存じかと思いますけれども、まず最初にご講演いただくのは陣内秀信先生です。陣内先生は一九四七年に福岡県北九州でお生まれになりまして、その後、東京大学を出られまして、ヴェネツィア建築大学に留学されて、現在、法政大学工学部建築学科の教授をされております。イタリア、東京を中心に、あるいはイスラム都市とか中国など、国内外で精力的に都市研究を進めていらっしゃいます。そして、フィールドワークを通じて、学際的な研究でわれわれに新しい都市の見方を提示していただいております。

  次にお話しいただく布野修司先生は、一九四九年に島根県松江市でお生まれになりまして、東京大学工学部建築学科をご卒業になりまして、現在、京都大学大学院工学研究科の助教授をされております。お二人は大学では学年が一年違うということで、同世代の先生方にあえてお話を伺いたいということでお呼びしました。布野先生の活動としましては、皆さんもよくご存じのように、アジアのすまいと都市を対象に幅広い研究活動を展開されております。近年では京都のほうもフィールドワークとして精力的な建築活動を行っていらっしゃいます。

  早速ですけれども、陣内先生、布野先生の順でご講演をお願いしたいと思います。陣内先生、よろしくお願いいたします。

  陣内  陣内でございます。そんなに語るような過去があるわけでもないし、気恥ずかしい感じが非常に強くするわけですが、確かにテーマとしてはなかなか面白くて、ふだんなんとなく考えていることもたくさんこのなかに含まれるかと思ってお引き受けいたしました。しかし、話を組み立てなければいけないとなると、どうしたものかなという気がしています。

  私の場合は、研究ということで、原風景がそのスタンスにどんなふうに影響しているか、あるいは少なからず影響しているのではないかということですけれども、振り返ってみると、いろいろな意味でしているなと思うのですが、レジュメのなかにもあるように、子どものころを中心にあると思うんです。しかし、それはある意味で自分の奥のほうに眠っている、基底のなかにはあるのですけれども、知らず知らずのうちに背後にあるものであって、それがまた次のステップでいろいろな原体験みたいなことをしたり、特に自分自身では海外にいって向こうの風景をみたり、あるいは向こうの人と接触して自分を振り返る。それはイタリア、地中海だったのですけれども。そして、実際にいろいろな人と研究をやっていくフェーズで、様々な風景論や都市論や美術、建築をやっている人たちとディスカッションしながら、自分の奥のほうにある原風景なるものが姿をあらわしたり、意味づけられたり、つむぎ出されたりということで、単純に原風景が研究のスタンスを決めていくかどうかという設問はむずかしくて、いろいろなことが複合的に作用して、自分のやっていることや問題意識や方法論が方向づけられているのではないかなという気がしています。

  そういうことで、自分の子どものころからのこういうテーマに関しそうなことを少しレジュメで並べてみました。生まれは北九州市ですが、父親は土木のエンジニアで、ゼネコンにいて関門トンネルなんかを掘っていたらしいのですが、東京に出てきたいというので、早いころから出てきちゃったんです。ちょっと埼玉県にいたのですが、すぐに杉並に引っ越しまして、当時は今風にいえばミニ開発されてできた木造の平屋の小さい家に住んだのですが、なかなか雰囲気のある場所で、そのへんが一つの原風景だと思います。

  話を具体的にしたほうがいいので、地図をおもちしたのですが、江戸の近郊農村だったあたりなんです。杉並の成宗といいまして、ここが中央線です。これは昭和三〇年ごろの地図ですが、もとが五万分の一の地図なので情報が乏しいのですけれども、何かと思い出される自分の原風景、ベースがここにあるんですね。いま現在は郵便局のすぐ裏ぐらいに住んでいるのですが、このへんをウロウロしていました(OHP・昭和三〇年の地図)。

  昭和三〇年の地図というのは非常に意味があります。高度成長が始まる直前で、武蔵野の面影をまだ残している。江戸の近郊農村をベースに発展していった面影がまだある。このへんが高台ですけれども、高台から市街化が進むんですね。ここに青梅街道があって、ここに五日市街道があります。ここに善福寺川という川があって、かなり起伏があるんです。典型的な近郊の住宅地になっていくところですが、ここを下りていきますと、全部田んぼなんです。春は一面のレンゲ草がすごくきれいで、善福寺川はしょっちゅう氾濫する。

  自分自身はここに住んでいまして、こう下りてきて、ここに神社があったのですが、神社がいい位置にあるんですね。東京の山の手から郊外全部同じような風景。まさに原風景だと思うのですけれども、そういうものがまだ骨格として残っていました。下りていくと一面田んぼ。そして、下りて、丘を登って、ここに小学校がある。ここにも神社がある。いつもテリトリーとして遊んでいたのは神社の境内であり、このへんの藪、原っぱ。本当に原っぱ幻想なんですね。そして、この山にカブトムシをしょっちゅうとりにいく。このへんのため池でザリガニをとるとか、バッタを追いかける。こういう典型的な近郊の生活をしていたわけです。

  一方、下町的な生活空間がありまして、自分たちが住んでいた周りは、戦後すぐできた木造の平屋の家がかなりあって、道は狭い。初期のころはまだ共同水道がありました。銭湯にも通っていた。紙芝居がくる。缶蹴りや宝探し、三角ベースを日常的にやっている。結局、自分自身で考えてみると、山の手ではないですけれども、お屋敷もずいぶんありました。それから、下町みたいなものが相まっていた。東京はそういうところが多いと思うのですけれども、両方にある種親近感をもつ。振り返ってみると、自分が東京の研究を一九七〇年代の終わり、二三年ぐらい前から始めたのですが、そのときに山の手を歩くときに、ここの自分の風景をもうちょっと都心で、歴史の集積のあるところで体験しているような、足裏の感覚で歩くというのは非常に親近感がありました。それと、このへんは非常に迷宮的、あるいは下町的な空間だったので、そういうものにどこか魅かれていったということはすごく感じます。

  それで、街に出て、都市の華やかさも記憶に非常に鮮明に残っているわけで、三越の日本橋本店のパイプオルガンとか、日劇のダンシングチームの踊りとか、あるいは東横デパートの屋上遊園地にロープウエーみたいなものがあって、怖くて乗れなかったという記憶があります。それから、勝鬨橋が開くのを子どもたちが写生にいくとか、ほどよい距離なんですが、ときどき都市に出ていってそういう華やかさを体験する。阿佐ヶ谷自体は、ここはパールセンターという商店街で、このへんに各系列の映画館があり、オデオン座という洋画もあって、よくいっていました。ですから、阿佐ヶ谷自体が、子ども心ながら街の華やかさというものもなんとなく感じさせてくれる空間。やはり都市のエンターテインメント性にどこか関心があるというのも、東京の端っこだけれども、そういう経験を多少はかじったということもあったのじゃないかと思います。

  そのあと茅ヶ崎に引っ越してしまうのですが、茅ヶ崎の湘南海岸というのは、東京のこことは全然違って、当時、高度成長期の前ですから、非常にきれいな松林で、別荘地で、海があり、地引き網がしょっちゅう行われていて、自分自身もずいぶん引っ張りました。それから、海中渡御が有名なんですね。漁師の文化、そして花火。非常に自然が豊かで、東京では味わえなかったような爽やかな、だけどちょっと寂しいという感じが、東京から引っ越していくとしちゃったんですね。

  自分が住んでいたのは祖父がいたところですけれども、七〇坪ぐらいの敷地で平屋で、戦前の建物だったと思うのですが、典型的な応接間がついて、南向きに開いて、廊下があって、お座敷があってという、和洋折衷のちょっとハイカラな住まい。茅ヶ崎らしいということだったかもしれないですけれども、そういうのは風景を考えるときに、後にだんだん風景論に関心をもつようになるのですが、なんとなくおおらかな自然、素敵な住宅がいっぱいあるというようなものが関心を育ててくれたといえなくもないわけです。

  そのあと、親が公務員だったので転勤しまして、仙台と福岡に二年、一年半住みました。いずれも官舎というのは都市域のエッジにあるんですね。ですから、その背後は田園で、ヒバリの巣を探すとか、そういうことばかりやっていました。でも、官舎にはコミュニティが非常にしっかりありまして、子どもたちは毎日遊びまくる。あるいは、母親同士のつき合いも非常にあるという、平屋の木造。だから、ほとんど平屋の木造住宅に住んでいたわけです。

  それで、東京でも、茅ヶ崎でも、仙台、福岡でも、都市と自然が一体となったような生活空間で、都心派でもなければ田園派でもないという中途半端な位置なんですね。しかし、逆にみれば、それは自分自身のフットワークの軽さにもなったかなとは思います。でも、コミュニティの体験とか、町の中にいるのだけれども自然と一体となって遊ぶというのは、何か自分のベースになっていると思います。

  決定的だったのは、そうやってグルグルッと回って、東京には一九六二年、高度成長期の初期の段階に戻ったのですが、本当にショックだったんです。ここが全部なくなっていたんですね。ここに新宿から荻窪まで都電が走っていたのですが、全部丸の内線に置き替わりました。一気に開発されて、田んぼだったところに阿佐ヶ谷団地ができた。杉並高校はできていたのですけれども、全部自然がなくなっちゃった。もちろん、藪はない、原っぱはない、ため池は埋められている。お墓もなくなっていたような気がします。というわけで、唯一残ったのは神社、宗教施設だけ。あとはひっそりと部分的にお屋敷が森を残しているという形で、全部宅地化されて、上も下もなくなっちゃった。要するに、武蔵野の原風景が一気に消えていたんですね。

  たぶんずっと住んでいた連中にとっては、変化の過程のなかで少しずつ慣らされてわからなかったと思うのですが、五年ぐらい留守をしている間に完全に風景が一変してしまったというのは、自分自身にとっては非常にショックだった。だから、どこかで近代に対する懐疑心ができたのじゃないかと思います。

  一方で、自分自身は、子どものころ五〇年代を過ごしたわけですから、当然、日本の成長期、発展期なので、未来主義的な都市のイメージがイラストで示されたりして、そういうものに憧れながら、建築や都市を勉強したいなと漠然と夢を描いていたわけで、そういうギャップが中に相当インプットされたのではないかと思います。

  もう一つは、こういうリアルな原風景ではないのですが、父親は福岡県の人間ですが、鹿児島の七高で青春時代を送って、いつも錦江湾でボートに乗ってというバンカラ風の当時のイメージをずいぶん語ってくれたのですが、ここはナポリと姉妹都市ですけれども、本当にナポリとよく似ているんですね。ナポリ湾があって、ベスビオ火山があってというのが、錦江湾、桜島、歴史的な都市ということで非常に似ている。で、オペラが大好きで、イタリアへの思いを語ってくれたのが、自分にとってはイマジネーションの中の原風景になって、イタリアに少し関心ができたのじゃないかなと思います。そういうことが非常に重要なのじゃないか。実際に具体的に生活したところだけではなくて、いろいろなイメージをインプットされる体験というものも非常に重要だろうと思います。

  次に、学生時代ですが、布野さんも同世代ですけれども、われわれの学生時代はほとんど勉強できない状況だったわけで、かえって喫茶店でみんなとディスカッションしたりして、いろいろ学ぶことが多かったわけです。

  それで、都市、風景ということからすると、都市のなかにつくられる自由な空間、管理のなかでゲリラ的にできていく空間とか、あるいは集会に参加したり、デモに参加したりというときに垣間みられた自由な都市の空間というものが強烈で、現実にはどんどん潰されるし、そんなものはコンスタントに続くはずがないし、都市のなかから完全に消えていくわけです。しかし、そういうものは本来的に都市のなかにほしいなという思いがあって、それもヨーロッパの都市に魅かれた一つの理由なんです。

  それで、七一年の夏、大学は六月三〇日に卒業したのですが、夏休みに入ってすぐ五〇日間ヨーロッパ旅行にいきました。もともとヨーロッパの中世都市に関する卒業論文をやっていまして、このころ文献がなかなかみつからないで本当に困ったのですが、幸い幾つかキーになる本と出会って、ヨーロッパの、特にイタリアを中心とした中世都市の空間的な、形態的なことを少しかじったわけです。それで、片っ端から夢中になってイタリアの都市、ヨーロッパの都市をめぐりました。ここでは原風景というより原体験といったほうがはっきりすると思いますが、子どものころからあとになって体験した原体験が自分を非常に大きく方向づけたなという気がします。

  そういうところを訪ねたとか、そういう指向性をもっていたということはすでに芽生えていたわけですけれども、これが自分で取り組みたいテーマだなというふうに確認できた。都市空間がまさに人間の舞台となって使われているということとか、非常に象徴的な魅力のある場所がいっぱいある。あるいは、近代都市―自分が常日ごろつき合っていた東京という空間が非常に薄っぺらであるとか、いろいろなことで強烈な影響を受けたわけです。

  原体験というふうに考えれば、それこそ地中海から非常にインスパイアされた建築家たちはいっぱいいるわけで、コルビュジエの東方への旅から、芦原さんのシエナの広場で体験したことが街並みの美学につながっているとか、あるいは安藤忠雄さんの作品のなかにもいっぱい出てくるし、山本理顕さんとか、原さんもそうかもしれません。そういうふうに考えれば、原体験が自分の生き方や作風に大きく影響するはあたりまえのことですけれども、そこで重要なのは、原風景とそのあと体験する重要なきっかけとなるような体験というのがどこかで結ばれているのじゃないか。原風景、あるいはもともとの根底に何かがあるから、原体験のなかで出会いがあったり、こだわりがさらに大きくなったり、「あ、これだ」というインスパイアされるもとになったりという、何か内的関係があるのかなという気が今回ちょっとしました。

  それで、東京を脱出するようにイタリアにいったわけですが、ヴェネツィアを選んだのですけれども、どうせ東京を脱出するなら、いちばん東京と隔たりがありそうなところにいってやろう、違うイメージの都市にいってみようということで、あえてヴェネツィアを選びました。

  これはカナルグランデで、街の中心部です。このへんにリアルトというのがあって、こっちのほうがサンマルコですが、このへんに駅があります。運河をちょっと入ってきたここにヴェネツィア建築大学の本部が修道院を再利用してあります。トレンティーニというのですが、当時、建築大学の規模は小さかったので、これプラス二カ所ぐらいに分散していました。これは一八〇〇年代の地図で、二〇世紀になってからぶち抜いた運河ができて、私はこのへんに住んでいて、学生食堂はこのへんにあった。この広場でいつも楽しんだり、買い物したり、学生と交流したりということで、まさに高密な迷宮の中に住んで、いろいろ調査をしていたのですが、その経験というのは強烈でして、「水上の迷宮都市の身体感覚」ということで、これは一回の旅行で訪ねていったのとはちょっと違う、原風景に近いものをここで自分自身にインプットすることになったわけです(OHP・ヴェネツィアの地図)。

  それから、都心に住む面白さというのを日本の都市では味わったことがなかったので、その感覚は貴重だったなと思います。ヴェネツィアという街は、東京にいると何でも機能性ということになっちゃうのですが、そんな便利な都市ではないわけで、それよりも感性を育む、あるいは人間の振る舞いがどこも舞台のような感じなんですね。そういう演じているような演劇的な空間。それと、人と出会う場所が多いんですね。二年ぐらい住んでいるだけでも、本当におおぜいの人としょっちゅう路上で行き合う。そして、車がない。そういうなかでいろいろなことを考える強烈な経験になりました。

  さらに、あとで研究を始めたときに、東京の「水の都」のコスモロジーということにこだわるようになるのですが、やはりここでの経験がそういう方向に自分の関心を育てていってくれたのじゃないかと思います。

  それから、集合住宅に初めて住んだんですね。杉並にまた戻ってきたときには、最初は平屋だったのを、高度成長期でどの家も二階建てに建て替えていった時期にあたって、二階の木造の家に住んでいたわけですが、集合住宅に住むのは初めてで、下宿屋に五家族ぐらいが住んでいました。

  それで、窓から運河がみえるんですね。そこにカモメがやってくる。あるいは、運河の水のレベルが干満の差とともに変化する。街の中にいながら自然で、ちょっと庭先があった。自然もあるのだけれども、都市のなかで集合住宅に住むという経験。これは関係性のなかに暮らすセンスというか、そういうことをつくづく思いました。それは簡単なことではないだろうし、単に楽しいというわけではなく、充実感というか、そこに暮らしているという実感というか、そういうものだったと思うんです。

  それから、ヴェネツィアの研究をするときに、いま愛知のほうで教えていらっしゃいますが、田島學先生がミラノに一九六〇年ごろに留学していたときに持ち帰られたヴェネツィアの調査をまとめた非常に素晴らしいテキストがありまして、それを貸していただいて、一回旅行では訪ねていたのですが、図面上で徹底的にスケールとか雰囲気、空間の形態とかを想像力たくましく読み込みながら、自分でヴェネツィア形成の論理を考察するという修士論文を書いていたんです。あとになってそのことがよかったのじゃないかと思います。つまり、いかにイマジネーティブに考えるか。

  中嶋さんはさっき、「若い人たちがいま感じる原風景はずいぶん違っているのではないか。われわれが思っているようなものはなくなっているのではないか」と。彼らはいまヨーロッパに簡単にいけちゃうわけですね。自分のほうから場所や空間や街の様子、風景を限られた情報から思い切り描く、想像するというプロセスを体験しないで、ポンと簡単にいっちゃうわけですよね。で、「これは東京にあるのと同じ」とかというふうにいって、全然感動もなければ、ただ日本で得た情報を追認しにいくという人たちまで出てきちゃって、かえって簡単にいけるということは不幸じゃないかなという感じさえするのですけれども、われわれの代ぐらいまではなかなかいきにくかったので、むしろ図面で本当に想像していた。場所ごとにスケール感とか雰囲気が思っていたのとだいぶ違っていたりして……。つまり、風景というのは、自分の中でイメージを醸成するということが非常に重要であるということをつくづく思いました。

  そして、「地中海都市での迷路空間体験」というエッセイは、一九八七年の『都市住宅』で「旅から学ぶ」という特集が出たときに、七〇年代から八〇年代前半ぐらいに自分がいかに地中海からインスパイアされたかということを書いた気楽な文章です。

  まず、南イタリアのチステルニーノという小さな街に偶然いく機会がありまして、これはまたショックを受けました。ショックをあちこちで受けている単純な人間なんですが。

この迷宮体験というのは、自分自身そのあとずいぶん影響されたなと思っております。ヴェネツィアはまだわかりやすい、まだ秩序が感じられる、まだ理解の内にある感じがしたのですが、もっと人間の隠れ家的な、根源的空間、場所、迫力。中世の街ですけれども、白く石灰で塗られていて、まさにバナキュラ建築集落の原点みたいなところで、すごく感銘を受けました。

  これは丸ごと調べちゃえというので、ヴェネツィアからしょっちゅう通って調査をしたのですが、そういう迷宮空間の体験というのは、東京に戻って研究していくうえで、東京の中の迷宮性―また全然違うのですけれども、木造で建替えが激しいし、変化していく。だけれども、その場所の雰囲気というものが時代を超えて受け継がれていく東京の不思議なあり方、アイデンティティのあり方、そういうものにだんたん興味をもっていくようになったんです。人間の根源、歴史的なものがいっぱいあって、しかもシステムが近代産業革命以降に生まれてきたものとまったく違う様相を呈している。そのなかで人間が営みを続けているコミュニティがある。そういうものが平気で骨太に存在しているということにショックを受けるわけです。別の意味の原風景に自分が戻っていくというような体験をしました。

  それから、イスラム世界との出会いというのは、これもまた大変幸運だったのですけれども、都立大学で教えていらした石井アキラ先生が一年間、当時テヘランにあった日本学生振興会のアパートにいらしたんですね。七七年だったと思います。で、一二月にヴェネツィアから呼ばれ出掛けていった。当時、ホメイニが出てくる前のパーレビ国王の最後の安定した時期だったのですが、イスラム都市と初めて出会って、イスタンブールやテヘランを皮切りに、小さな村から巨大都市まで、歴史が集積している日干し煉瓦でできている都市で、象徴性もある。都市の古層に向かっていくような経験でした。だけど、個と全体ということとか、ある種のプランニングが実にうまくできていて、これはなんだろうと、訳もわからず魅きつけられた。そういう強烈な異文化との出会いがあったわけです。

  当時、東京というのは、世界の都市の空間のモデルからすると、外れているというか、都市の資格をもっていないというか、「巨大な村である」とか、「汚くてごみごみしている」とか、本当に否定的な言い方が強くされていたのだろうと思います。一方で、都市を大改造して高速道路を通すとか、インフラを整備するとか、いわゆる都市の限られた空間にまともに光があてられていなかったわけだけれど、やがてそういうところにみんなの関心がいくのですが、たぶん自分自身もこういう異文化との経験をしながら、どこかで東京を考えるということもあったのじゃないかと思います。

  三番目ですけれども、イタリアに留学して、ヴェネツィア建築大学というところはなかなか面白い大学だったんです。常に新しい方法論、学派が出てきて、それは設計やデザインの分野でもそうですが、歴史学、あるいは都市の歴史的な解読、都市計画、あらゆるジャンルで非常に実験的な教育、研究をやっていました。

  そのイタリアの学者たちとの出会いのなかで、自分自身にとって本当によかったのは、歴史が重なって存在し続けている既存のものへの深い関心をみんながもっていたということです。だから、「都市を読む」ということをみんなキーワードとしていっていたわけです。しかも、それは表層をなでるのではない、タウンスケープというのではなくて、ある意味で原風景を解読する、あるいは原構造を読み解く、その意味を思索する。そして、歴史的にどういう系譜で発展してきたのかということを考えながら、当時として、今後の都市づくり、地域づくり、設計を考えるというスタンスがかなり広まりつつある段階でした。「都市の記憶の大切さ」というのもそろそろ言い始め、あるいは「風景(paesaggio )」という言葉を使う専門家もそろそろ出ていた。

  アルドロッシーもヴェネツィアで教えていたんです。ヒポロジーやタイポロジーとか、モルフォルジーという体系を考え、後に都市の記憶、連想ということへいったと思いますけれども、そういう雰囲気が七〇年代前半のイタリアにあったということは自分にとって大変ありがたかったわけです。

  次に、東京に帰ってきて調査をいろいろ始めたのですが、細かいことははしょりますけれども、建築史の研究室に戻って、竹原という広島県の歴史的な都市の調査を始めたりしていたわけですが、どっちかというと「景観」とか「風景」というのは、建築史の研究室ではその言葉を使うのはタブーな感じで、町家、住宅の平面の形式とか、空間の形式。そして、集合市街区をつくり、都市がある種のモルフォルジーをもっているという、地形との関係、土地利用、そういうアプローチがどうしても進む。それは日本の都市は土地の資料が中心に出てきて、あまり立体的にいかないということもあったのかもしれないのですけれども、それよりも何よりも一方で街並み保存の修景とか、あるいは都市計画の人たちが「景観」といっているときに、歴史研究室では景観、風景というのはあまり表に出しにくいフィールドだったんですね。

  ところが、自分としては幸いにも、まったく違う場面で樋口忠彦さんたちと一緒に、「東京の文化としての都市景観」というのを研究プロジェクトとして五年ぐらい続けて、民俗学、美術史、文学、歴史学などなどの人たち―前田アイさんもそのときいたわけですけれども、宮田登さんとか、当時、都市を読むというのは、文学、あるいは哲学の連中から先にスタートしたと思うのですが、そういう意味で一般の人たちと都市居住者、あるいはユーザーが感ずる都市というのは、風景、景観からいくわけで、構造を理解するということはありえないので、文学に描かれる世界。そういう領域を奥野さんたちがつくっていたのだと思うんです。

  それで、樋口忠彦さんは土木の出身ですけれども、中村良夫さんとか、篠原修さんとか、むしろ土木系の人たちが、結構みんな文学青年だったのじゃないかと思うのですが、非常に思索的に文学作品をテキストにしながら、あるいは万葉集などもテキストにしながら、日本人としての原風景、集団の記憶、集団の原風景。個人がどうのこうのという議論はあまりなかったように思うのですけれども、そういう領域を大きく切り開いて、建築より先にその世界を描いたのではないかと思います。で、多木浩二さんが使った言葉でしょうけれども、「生きられた空間」というものが風景を通じて語られるようになった。

  それよりちょっと前だと思うのですが、先ほど中嶋さんから紹介がありましたけれども、原風景論というのが日本で展開されました。奥野健男さんの『文学における原風景』は非常に早くて、七二年なんですね。亡くなる数年前から大変親しくさせていただいて、ご本人から聞いたような気がするのですけれども、「原風景」というのは彼の造語です。その本をもう一回読み直してみると、先ほど布野さんは「隅っこ」というのがキーワードだったという話をしていましたけれども、原っぱ、隅っこ。あらゆるジェネレーションを通じて、どこに住んでいたかを問わず、日本人の心象風景のなかに非常に強く残っているもの。

  そして、日本人は農耕民族、弥生的だといわれる面があるかもしれないけれども、彼は「非常に野性味のある縄文的な、狩猟民族的な文化も本来あるはずだ」ということをいっています。実際に奥野健男さんにくっついていって、彼の自宅は恵比寿の駅からちょっと歩いて高台に登ったところですけれども、本当に原風景の片鱗がまだ残っていまして、ケヤキの大木とか、旧道が曲がるところに祠があったり、そういうものがあってそういう論が生まれたということが非常によくわかりました。

  あとから考えてみると、この作品から影響を受けた建築家、建築評論家、建築研究者の方はたくさんいらしたわけで、川添登さんの『東京の原風景』―これは彼の本のごく一部をコピーしたものですが、川添さんは明らかに奥野さんの本から影響を受けたと書いているのですけれども、当時、東京はまだ巨大な村落である、都市のクオリティをもっていないとおおかたみられていた。でかいばかりで田舎っぽいと否定的だった。だけど、彼は逆に居直っていて、「庭園モザイク都市」とネーミングして、都市モデルは西洋型だけではないよと。つまり、東京をポジティブにみることを初めてやってのけたのじゃないかと思うんです。もちろん、「楽天的だ」という批判もあるのですが、そういう居住空間とか、都市の空間とか、そういうものがそれぞれの地域に長い歴史的経験とか風土に結びついて、空間のあり方があるのだ、ということをいったと思うんですね。それはやっぱり「原風景」という奥野さんの言葉と結びついていた。

  ただ、奥野さんは「山の手には伝統がない」というふうにいっていたのを、川添さんはその発想を不満として、自分が育った山の手の染井、巣鴨の歴史を掘り起こして、そこに固有の地域文化が成立していたことを発見していくんですね。川添さんの軌跡というのは、私よりもっと上の世代の方々はよくご存じでしょうけれども、評論家であり、文明史家であり、生活学みたいなこともおやりで、考現学に発展していった。メタボリズムのイデオローグだったかもしれません。

  そういうなかで、時代の転換点、七〇年代に入る前後にこのジェネレーションの方々はみんな模索していたのではないかと思います。そのときに奥野さんの本とも出会ったし、いろいろな出会いがあって、きっかけがあって、自分の中に眠っていた原風景が呼び覚まされたのじゃないかと思います。つまり、冒頭にいいましたけれども、原風景がずっと後の時代に自動的に研究の方向を決めるとか、作風に影響するという単純なものではなくて、いろいろなその後の経験や出会いや思索が積み重なってフェーズを構成して、それがもともと意識下にあった、あるいは奥のほうに眠っていた原風景のイメージが掘り起こされ、大きくふくらみ、意味づけられ、力を発揮していくようになるのではないかなというふうに思います。

  芦原さんは、『街並みの美学』を同じ七九年に書かれるわけですが、奥野さんの「原風景」に影響を受けたと強くおっしゃっていました。学生にも、「自分の原風景とはどういうものか、絵にしなさい。文章にあらわしなさい」という課題をずいぶん出しておられました。原っぱや大木、水辺を書いてくる人が多いという話をしていたように思います。

  槇先生も、『見えかくれする都市』、「奥」の思想は、最初は『展望』に書かれたのだと思いますが、三田の山の手の鬱蒼とした樹木の間に地形を利用して坂があり、裏を抜けていく道みたいなものがあったり、石垣があったり、そういう迷宮性をもっているところで生まれ育ったという体験をよくお話しされると思いますが、『見えかくれする都市』はそういうなかから確実に生まれていて、奥野さんの原風景論からインスパイアされているようです。

  吉武先生については、布野さんからお話を聞いたほうがいいと思いますが、『原記憶のフィールドワーク  夢の場所  夢の建築』で、やはり奥野さんからも影響を受けているということを書いていらっしゃいます。

  というわけで、七〇年代というのは、自分の過去というものがあったのだけれども、それを表に引っ張り出してきて、自分の方法論、思索の立場、スタンスの形にこしていくということはなかなかなかったのが、七〇年代にきて一気にそういう方向性をもって、それぞれ活躍の場所が違うので向きは違うのですけれども、そういう原風景論が非常に力をもった時代、時期、あるいはジェネレーションだったのじゃないかと思います。

  原風景論が力をもつというのは、いろいろな段階であった思うのですけれども、私自身が非常に感銘を受けた本のなかに、西村真次という人の『江戸深川情緒の研究』というのがあるのですが、これは大正一五年に出た本で、ヴェネツィア=深川論なんですね。冒頭の部分で、イギリス人だと思うのですが、アーサー・シモンズという人が書いたヴェネツィアに入っていく光景を、彼は永代橋を越えて深川に入っていくイメージと重ねている。たぶん西村さんはヴェネツィアにいったことはないと思いますけれども、深川をヴェネツィアに見立てて、ほかの原風景を借りてきて自分の原風景をリアルに描いていく一つの手段として使う。

  私はそれは非常に重要なことだと思うのですけれども、「パリの会」というのがあって、文学者や文化人が隅田川とか日本橋のあのへんの水辺でサロンをやっていて、パリを語る。そういう原風景論というのも非常に重要で、いろいろな段階であったかと思います。

  それから、文学のほうでよく聞くのは、地方から出てきた作家が自分のふるさとの川と隅田川を二重写しにして創作活動をしていく。白秋が柳川を思い、室生犀星は金沢ということですね。自分自身も、江戸とヴェネツィアを重ね合わせながら考えていくということが、いろいろ物事を進めていくうえで非常に力になりました。そういう意味では、外国での出会いが自分のルーツを確認する、アイデンティファイするきっかけになっている面があったのじゃないかと思うんです。

  フランス文学の清水徹さんは、「都市を読む」ということを日本で最初にいった人の一人ですが、実は彼はパリ・フランス派ですけれども、新宿副都心の高層ビル街に夕暮れどきにいたときに、ガラス面の高層ビルの壁に反射する夕暮れどきの風景、シルエットが美しくみえた。それがパリのセーヌ河のほとりで西日を受けているノートルダムのファサードをみたときの感動と二重写しになって、都市論が面白いということで始めたのだ、ということを書いているのですが、そういうことはあるのじゃないか。

  世代論的にはどうかというと、不思議なことに同時代に都市史の研究者が多いんですね。住総研で一緒に研究している江戸東京フォーラムの波多野純さんとか、玉井さんとか、京都の高橋さん、建築史、都市史ということで初田亨さんとか、藤森さん。藤森さんは建築史からスタートして都市もということですが。

  それから、町歩き派として冨田均さんというなかなか面白い人物がいまして、『東京徘徊』。荷風の跡を追いかけて、東京論を同世代として書いた最初が彼だと思います。それから、松山さんは作家になっちゃったけど、建築出身で、『乱歩と東京』。冨田さんは荒川区の尾久の出身で、いつも上野から飛鳥山に伸びていく丘を下から見上げて、エロチックな、色っぽい姿というものを思い、上の世界に憧れるというスタンスで東京徘徊をするんですね。松山さんは愛后神社の近くで生まれ育ったという話だったと思います。いずれにしても、変化していく東京、日本の風景をまざまざと見てきている世代がゆえに歴史に関心をもったのかなと、自分と照らし合わせるとそういうふうにも想像するのですけれども、ご本人に聞いてみないとわかりません。事実としてわれわれの世代に非常に集中している。それ以前は少なかったわけです。

  しかし、原風景のあり方が研究のスタンスでどうなっているか、対象の選び方、方法がどう反映されているかというと、みんな様々だと思うんです。たとえば藤森さんは信州から出てきて、田舎はイヤだ、近世や前近代はイヤだという形で、近代の東京に憧れ、まずは仙台で勉強したわけだけれども、東京に出てきて、東京の輝く近代、かっこいい大都会、その建築ということで、明治以後の輝く近代、国家、ブルジョワジーが中心になってつくりあげた近代をまずは手掛けました。それからだんだん路上派になっていって、後になってくると自分の本性が出てくるわけですが、看板建築になり、職人とか市井の人々、生活者。で、だんだん民家とか始原的な古いところに遡り、いよいよ自然素材を使った非常に独創的な建築家としての活躍と、原風景を自分の中でどう受けとめて、どうそれぞれの年代で仕事をしていくかということを、彼ほどうまく見事にやりのけている人はいないと思うんです。

  ここにご子息がいらっしゃるのですが、初田さんは下町派で、下町での体験をベースに大切にして、非常にユニークな建築論、都市論を展開されている。

  橋爪伸也さんというのは、同世代ではないのですけれども、大阪の通天閣の下で生まれ育ったという、まさに祝祭的であり、エンターテインメントであり、あらゆる要素がごった煮になっている迫力のある大阪の都心。ちょっと下町っぽいんでしょうか。あるいは、アウトローもいっぱいいる世界だと思いますが、そういうところをベースに非常にユニークな研究をしている。ある意味で、原風景が研究にこんなにストレートに結びついている人も珍しいのじゃないかと思うんです。

  自分自身はどうかというと、さっきいったように、ちょっと根が弱いんですね。杉並からスタートして、山の手的な面の良さもかじり、下町的なところ、迷宮的なところも体の中に入っているけれども、ちょっとフラフラしている。そういうスタンスのなかで比較しながら自分なりにやっていきたいなと思ってきたわけです。

  最後に、最近、東京の郊外の研究を学生たちとやっているんです。ヨーロッパの場合、本当に歴史的な建物がいっぱい集積して、歴史的なイメージがそのままみえている。もちろん、中身とか細かいところはどんどん時代に合わせて変化して、逆に古い器の中の新しい機能やプログラム、そしてデザイン感覚が本当にシャレているわけですけれども、日本の場合はそうはいかないので、どんどん目まぐるしく変化していく(OHP・東京郊外の基盤となる構造)。

  そのなかで、原風景はどういうことなのか。もちろん、若い世代にとってのコンビニとか、家の中の大きい冷蔵庫、あるいはコンクリートをそのまま仕上げた壁面に囲われた空間が原風景という人たちはいっぱいいるでしょうけれども、もう少し本来的な原風景に遡ってみますと、これは自分の原風景をたどってみているのですが、明治三〇年の阿佐ヶ谷です。まだ自然がいっぱいあって、江戸時代のままで、青梅街道沿い、五日市街道沿いのちょこちょことしかない農家、そして点在する民家、神社。あと、低いほうは田んぼ、上のほうは畑です(OHP・明治三〇年の地図)。

  実は、子どものころ遊んだ神社がここにあるのですけれども、ここに池があるんです。われわれはよく玉虫をとりにいっていたのですが、なぜ池があるのかよくわからなかったのですが、ここは非常に重要な湧水池で、そこに弁天が祀られていた。隣りに須賀神社というのがあります。そういう武蔵野の古い構造と結びついた価値のある場所だったということが、ここ数年、このへんをもう一回調査してわかりました。

  それから、ここに大宮八幡というのがあるのですけれども、ここは古来から非常に重要な場所で、縄文、弥生の集落がいっぱい出てくるんですね。川沿いのちょっと高台。鎌倉時代にできた神社ですけれども、水が湧く、聖なる水。で、宗教空間になる。このへんは古墳があるかもしれません。

  実は鎌倉街道が延びているんですね。鎌倉街道というのはあちこちにあるのでむずかしいところがあるけれども、大宮八幡からずっと延びていくのも鎌倉古道だといわれていて、練馬区の円光院から、つまり、中央線というのは定規で真っ直ぐひいたようにできましたけれども、駅の場所はたいてい古道とリンクするところにあるわけですね。高円寺しかり、阿佐ヶ谷しかり。そして、青梅街道が交差するところに荻窪ができるわけです。だから、駅というのは当然その場所の古い風景と結びついてできているわけです。面白いのですが、青梅街道とぶつかるところに田端交番があるんです。この古い道と交わるところにお地蔵さんがある。パールセンターというのは、実は鎌倉古道の上にできているアーケード街なんですね。ということとか、いろいろなことがわかってきて、すごく面白い(OHP・大宮八幡を中心とする古道)。

  結局、東京の近郊―杉並、世田谷、原宿、代官山あたりも面白いですし、国分寺あたりまでずっと似たようなことがいえるのですが、湧水が重要なんですね。で、川、崖が重要です。古代があり、その上に中世ができ、その上に現代があると、層を成していることが明らかになってきます。阿佐ヶ谷もそういうことで、これが青梅街道で、ここに戦後幹線道路ができて、いま二重構造が回遊性を生んで面白いです。

  六番の原風景というのがどういうふうな意味をもつか、あるいは方向性をもつかということですが、自分自身、東京のディテールを掘り起こしていく作業をどんどんやっていくのは非常に面白いのじゃないかと思っています。

  江戸の中心地に関しては、われわれもやったし、みんなもやっていて、本当にたくさんの情報が掘り起こされ、原風景が描かれる、絵画的資料も多い、古地図も多い。だけど、近郊農村―自分たちが一般的に暮らしている場所、あるいはもっと郊外はイメージが描けないわけですね。しかし、実際はものすごくあるんですね。そして、明治以後全部地図でたどれるんです。というわけで、個人にとっての原風景、集団にとっての原風景というのを描いていく必要がある。

  個々の住宅の作品のなかにどういうふうに原風景を織り込むかというのは、また重要な面白い議論があると思うのですが、とりあえず東京のようなところでも、もっともっと地域でこういうイメージをつむぎ出していく必要があって、地域づくりに想像力が必要である。機能的な面ばかり追求して抽象空間化してしまった歴史的都心、地方都市は特に重要だと思いますが、その記憶の詰まったイメージ豊かな場所に読み替えていく、意味づけていくということが非常に重要で、きょうは千住でコミュニティ雑誌をやっている大野さんがいらしているわけですけれども、東京の幾つかの地域でやっていると思うんです。谷中の『谷根千』、神楽坂もそういう動きが出てきました。

  八五年以後の東京の新しい動きで、原風景を描く。それはみんなの中に眠っているわけです。ジェネレーションごとに違っているので、語り継ぐということも必要だろうと思う。あるいは、そういうことを新鮮な目で若いジェネレーションが描き直すということも必要で、そういうディスカッション、あるいはそういう領域が非常に面白いということをもっともっとアピールしていくことが必要です。で、「原風景は都市を変えるか」という設問ではなくて、「どうすれば変えられるか」というふうに考えたいなと思っています。


  中嶋  どうもありがとうございました。続きまして、布野先生にお願いしたいと思います。

  布野  いつもここへくると申し上げるのですが、私は住総研には足を向けて寝られない立場でございまして、ずいぶん助成をいただいて、アジアにいって大変勉強させてもらったということがあります。そういう縁で、『すまいろん』ということであれば、何回か登場させていただきました。その前身の『研究所だより』の創刊号に司会役で出させていただいて、そのときは陣内さんの先生にあたる稲垣栄三先生、野口徹先生―お二人とも亡くなりましたけれども、大変刺激的な話が聞けたという記憶をいまでも思い出します。

  それは、先ほど陣内さんがイタリアからキポロジアというのを持ち帰られたというのは結構話題でして、竹原の調査を稲垣研で始めたというときだったのを思い出したのですが、そのころ、僕もすでにここの助成をいただいて、スラバヤという街に二〇年ほど通っているのですが、そこの話を非常に向こう見ずに稲垣先生と野口先生にかなり挑発的にしゃべったことを思い出します。

  というのは、そういう発展途上地域の都市を読む場合に、文献がないんですね。文献がないところでどうするのかということで相当やったわけです。そのあと、東京で気になる研究室は陣内さんのところが第一で、あとは西村先生のところぐらいですけれども、先輩でもありますし、ライバルというのはおこがましいのですけれども、京都に移ってからは、いろいろ切磋琢磨する作業をされているなとお見受けしています。

  実をいうと、中嶋さんは知らなかったのですが、これはいっぺんやっているんですね。きょうは場所が違うのでいいとは思うのですが、そのときは研究の方法の話だったんです。ですから、きょうはそっちの用意を全然していませんで、準備不足でまったく申しわけないのですが、あとは中嶋さんの切り盛りで、ない頭を働かせてあとの論戦に多少なりとも加わりたいと思います。

  中嶋さんは、私が京都にいったときに、M1の学生さんでして、そういう先生から頼まれると、これまた断れないということだったのですが、実はあまり考えてきていません。中嶋さんの口調で勝手に思ったのですけれども、布野はいっぱい住宅について書いているけれども、いったいおまえはどういうところに住んで育ったのか、どういうところに住むとそういう関心をもつのか、この際しゃべってもらおうじゃないか、というふうに聞いたんですね。ああ、そうか、自分史というか、そういうことをしゃべらされる年になったのかと思いながら、それは半分以上義務だなと思って、首を洗ってここへきたわけです。「さあ、殺せ」というような調子です(笑)。

  ただ、いろいろ文句はあるんです。どうやったら原風景とか記憶についての話がきょうの話題になるかというのは、文句をいいながらも多少メモはつくってきたのですが、まず、おまえはいったいどういうところに住んで、どういう関心で研究してきたのか、ということですが、中嶋さんが書かれた趣旨のなかで、振り返ってつくづく思うのは、僕が研究と称してやっていることは、やっぱり自分が住んできたキャリアにすごく関係がある。

  そういうところで生まれたからこういう研究になったとは思いませんけれども、ちょっとだけいいますと、大先輩の服部先生もおみえですが、私は吉武研究室という、ある意味でいうと、戦後の日本の住宅のプロトタイプ、51C型の基本設計をやった研究室を出て、研究室時代の話は延々ありますが、住まいのことをやろうと思ったのは、たぶんそういう研究室を出たからだと思っていますし、京都大学では西山夘三先生の講座におりまして、地域生活空間計画講座ということで、それも何かの縁だろうというふうには思います。京都にいった責任は住総研にありまして、この間アジアのことをいろいろやってきた。大ざっぱにいうと、そんなような脈絡です。

  まずは、「さあ、殺せ」の私の住まい遍歴をご紹介したいと思います。お手元にコピーがありますが、八九年に『住宅戦争』という本を書いたのですが、たまたま結婚して最初に住んだ家は世田谷の下馬にありまして、庭先鉄賃だったんです。お茶の先生をやられている邸宅の庭先に、木賃ではなくてちょっとグレードのいい鉄筋のアパートを建てられていた。そこに住んでいたときに、隣りの隣りに野球選手の張本が住んでいたんです。いまでも同じところに住んでいますが、週刊誌にすごい豪邸と写真が出たりしたんですね。でも、みると大した豪邸じゃないんです。建売りに毛がはえたぐらいで、大して大きくない。それから、その通りは朝丘雪路と津川雅彦夫妻がお子さんを連れて歩いていた。

  それで、『住宅戦争』という本は、有名人がいったいどういう家に住んでいるのかというのを調べまくって書いたんです。ちょっと興味本位すぎるなと思って、自分の住宅遍歴をさりげなく差し込んだのが「F氏の住宅遍歴」です。F氏と他人事みたいに書いてありますけれども、これは事実でありまして、これをお読みいただければ、京都にいくまでの私の住居遍歴はわかるようになっています。

  先ほど中嶋さんから、松江市で生まれたというふうに紹介いただきましたが、正確にいうと出雲市です。生まれて二~三カ月住んでいた家は、いまでもプランを書けといわれれば書けるのですが、それは死ぬ間際になって一冊ぐらい書く余裕があればと思います(笑)。

  あらかじめいいますと、「原風景」というのですけれども、私の住宅遍歴を長じて振り返ってみますと、なんとも貧しいというか、住まわされてきたというか、戦後の日本の住宅のありとあらゆるとはいいませんけれども、そのパターンに住まわされてきたかなという気がしているわけです。

  最初は、それこそ藁葺き屋根で四ツ間取りです。これはいまでも定説があるかどうかわかりませんけれども、西日本は四ツ間取りで、東日本は広間型ということで、出雲は西日本ですので、本当に四ツ間取り型の藁葺きの民家で生まれました。これも長じてからの話ですけれども、出雲地方の民家がほかと違うというのは、わりと最近知ったのですが、出雲だけとはいいませんけれども、出雲の棟は反っているんですね。ご存じでした?  これは新羅との関係が強いのかなという話をしていますけれども、出雲の建築家連中はわりとそれを意識して、棟の反りをあれしたりしますけれども、本当にそういったような民家でした。それで、二~三カ月で移りました。

  住まいの遍歴というのは、皆さんだいたい二代になるはずですね。親離れするまでは先代の住居遍歴になって、それからが二代になると思います。いまみていただいているのは、お手元のコピーのなかにありますけれども、親父が結婚して最初に構えた住宅ですけれども、いちばん左の上は市営住宅です。僕は一九四九年生まれですので、ほぼ一緒です。51C前の公共住宅です。島根県の田舎で供給された四畳半に六畳、台所があって、玄関があって、風呂はないんです。51Cもないですね。ですから、団地ができると、近くに銭湯がペアでできたということですから、むしろ銭湯がなくても、とりあえずという時代のものです。ですから、戦後住宅の原型という程度の意味です(OHP・公営住宅)。

  その間いろいろありますけれども、結局、いまでもこの家はありまして、ときどき帰るのですが、その変貌を描いたものです。風呂がないものですから、ここに風呂場を建てた。それは覚えています。セルフビルドなんですけれども、親父を手伝った覚えがあります。近くに大橋川という宍道湖と中海をつなぐ川があって、そのほとりで育ちました。ですから、陣内さんがおっしゃったような原っぱとか川遊びはそこらじゅうにあった。田舎ですから当然ですけれども。

  その大橋川は世にも不思議な川でして、両方流れるんです。当然海に向かって流れるのですが、あるときは海から流れてくる。要するに、シジミとかセイゴ、スズキがいる汽水圏ですけれども、そこの川原にいって石を盗んできて土台をつくった。もしかすると、このセルフビルドが長じて建築をやる原点になったかもしれません。これは記憶がございます。

  この狭い家で三人兄弟が次々と生まれていくわけですけれども、増築したり、僕が出てから二階建てになった。原稿のなかにも書いてあると思いますけれども、親父が水回りだけはそのまま残して改築してくれて、いまでも帰ると、なんか家に帰った気がする。つまらない話ですけれども、何か痕跡がないと、物理的には同じ空間に帰ってもなかなか記憶は蘇ってこないということをつくづく思っています。

  ついでにいいますと、松江という町は、一八までいましたけれども、いま一五~一六万人の県庁所在地の小さな都市ですが、その後、もちろんバブルもあり、地方の中核都市を変えるのは、国体というのがわりと大きいですね。あと、新幹線とかいろいろあるかもしれません。私は松江南高校を出たのですが、松江南高と北高に分かれて五期生です。以前は松江高校といいまして、旧制高校です。ベビーブーマーで団塊の世代の下のほうですが、ワーッと人口がふえて、普通高校が南北に分かれたところで学んだのですが、いま帰ると、その高校の周辺はまったくわかりません。まったく記憶の手掛かりがない。すぐ近くに八重垣神社というのがありまして、授業をサボっては遊びにいったりしていた。全国的にも有名な神魂神社というのがあるのですが、そこはかろうじてあるのですけれども、高校の周辺は、運動場ができたり、建売りができたりして、新しく開発されたところはまったく知らない町と同じ。それは非常に戸惑うし、面食らう状況です。

  それで、一八で上京して、簡単にいいますと、東京に二四年ぐらいいまして、京都に移って一〇年とひと月が過ぎたところです。ですから、住んだという意味では、松江と東京。東京が曲者でして、転々としている。いまからそれをお話します。それから京都ということです。その間に、先ほど来いっていますように、住総研のおかげで二〇年ほどアジアを中心に出まして、いちばん通ったのはスラバヤという街でして、この間数えましたら、二〇年間で一六~一七回通っていました。住んだということではないですが、滞在日数を計算すると、たぶん二年ぐらいいたことになります。場所でいうとそういうことです。

  それで、上京してからは、最初は民間の寮みたいなところに住みました。いまでいうと、ワンルームマンション。寮の真ん前の部屋に佐伯啓思というのがいまして、いま京大にいますけれども、経済評論家。たまたま東大だったですが、そこに入った一年生がワーッと住むような寮でした。ですから、一応ワンルームマンションも経験しているといいたいのですが、ちょっとシステムが違いまして、食堂がついていて、風呂は共同浴場でした。フルパッケージという意味では、ワンルームとは違いますね。

  そのあと、やっぱりそれが煩わしかったのか、賄い付きの下宿に移りました。たぶんいまはどこにもないですね。コンビニがあればいいわけですから。七〇年前後ぐらいは東京にまだ賄い付きがあったと証言できます。次は設備共用・トイレ共用のアパートです。関西でいうとアパート風にも住んでいます。

  それで、結婚して世田谷区下馬の一〇坪ほどの2K。ここからは自立した自分の住宅遍歴の始まりなわけです。死語ではないと思いますけれども、「方・荘・号・字」―○○様方、○○荘、○○号、字。字で戸建てを建てて郊外に住むという、住宅住替え双六なんていうのがありましたけれども、物の見事にそれにはまっているなという思いをしながら、そういう選択をしていったというのがあります。二年ほど東大の助手をしていた時代に、下馬の一〇坪ほどの2Kから出発しました。

  あとは、絵に描いたような話であれですが、二〇坪ほどの民間のマンションに住みまして、管理組合をやったり、マンション関係も経験しました。そのあと、東洋大に移って、これは首都圏の郊外ですが、結局、上京して最初に住んだ寮が唯一山手線の内側で、あとは環七を内側に入ったり、外側に入ったりして、遂に都心に住めませんでした。下馬は環七のちょっと内側ですが。一応、分譲の持ち家をもてたのがこれでして、朝霞です。東京駅からすると二〇キロぐらいの分譲のマンション(OHP・民間マンション)。

  そのあと、これよりもうちょっと広い九〇平米ぐらいの公団の分譲に移りまして、駅でいうと国分寺で、これはいまでももっています。先ほど名前が出ていた藤森先生は国分寺の南側、僕は北側で、ちょうど同じぐらいの距離で、ときどき一緒になって、「おまえは皇居を向いて左側、俺は皇居を向いて右側」といって、遊びにいったりきたりしていました。そういうところにいました。九〇平米ぐらいの公団のスペースであがりかな、これ以上はちょっと無理だと。

  順番でいくと、建築家ですから、郊外に戸建てを設計してぐらいに思っていましたら、急にふりだしに戻りまして、京都にこいということになりまして、ここ一〇年ぐらい京都で住んでいたところです。こういうところに逆戻りしました。これは五四平米ぐらいで、半分ぐらいになっちゃった(OHP・京都官舎)。一〇年間、えらい目にあいました(笑)。

  ふりだしにもどって、つい最近引っ越したのが、陣内先生はご存じですけれども、オオジ先生が家を建てられまして、コモンをとって連棟で並べるタイプで、多摩とか浦安でやった時代の公団テラスハウスで、知っている人に借りてほしいということでした。八〇平米ぐらいです。ここはわりと気に入っていまして、蚊のいるコモンがなかなかいいというふうに思っています(OHP・京都マンション)。

  で、「さあ、殺せ」ですが、すまいだけの話をすると、このへんが陣内さんと対照的で面白いと思うのですが、町の話をその周辺の環境を含めてしていけばきりがないわけですけれども、いまごらんになったとおり、これは誰でもわかるぞと。要するに、戦後の日本がつくってきたようなところをたいてい経験している。これは持ち家で育たれた方はあまり経験されていない。設備共用も経験したとか、民間とか公団も経験したとか、一つ前は官舎ですから、陣内さんと一緒に官舎も経験した。そういう様々な空間を経験してきたというのが私でして、ただ、嬉々として住んできたという感じはまったくしないですね。先ほどいいましたように、「住まわされてきた」。自然にミクロな住宅選択を繰り返していたらこういうことだった、という感じが非常に強いです。

  ちょっとだけあとの議論のためにいいますと、すまいについてだけいいますと、戦後生まれの「団塊の世代」といわれている世代にとっての住まいの記憶というか、町の記憶というのは、藤森さんに聞いても、たぶん共有化されたものはあるのではないかという気がするんです。東京の郊外でああいう感じですから、至る所に原っぱがあって、至る所に水があるというところで育った。要するに、一九四五年段階の日本の空間のなかで話していけば、原風景みたいな話ができるかもしれないとは思います。

  ところが、いまみていただきましたが、これが典型的かどうかわかりませんけれども、すまいの記憶といったときに、たぶんそんなにバラエティは出てこないのじゃないか。戦後の場合、ステレオタイプ化された、何DKといえば済むようなイメージしか出てこないのではないかという気がするんです。簡単にいうと、つくり手も住み手もみんなひっくるめて共同で選びとってきたのは、理想は庭付きの一戸建ての持ち家というのがいまでもあって、議論すればいろいろな理屈があると思いますけれども、その原型というのは、武家住宅が一種の理想に据えられてきていて、すまいの記憶をザーッと探ってみると、意外にそういう記憶しか出てこないのじゃないか。これはわかりません。「おまえの住まい方、遍歴がまずいからだ」というふうにいわれるかもしれませんけれども、そういう気がします。

  言いたいのは、きょうのテーマである都市に住むということの記憶が、たぶん日本の場合は薄いのではないかという気がするんです。僕はわざと住宅のプランだけの話にしましたけれども、集まって住む形式の記憶が日本の戦後で抜けているのではないかという気がします。

  そこで、こじつけですけれども、研究史については、一つは、いろいろ研究費をとったりするときの口実ですが、僕が最初にインドネシアにいったときは、そういう日本のある種のステレオタイプ化した住宅形式とは違うオルターナティブをみたいという口実をプロポーザルに書いているわけですね。

  それで、いきだしたのは三〇ぐらいですが、戦後の自分が生まれてから五〇年ぐらいの、一種の追体験をするという気が非常に強かったです。要するに、インドネシアは非常に貧しい状況にあった。そこらじゅうにバラックが建っているなかで、そこに西山先生とか吉武先生がある種の提案をされたのが51Cという形式だったわけですけれども、そこには集合の論理が抜けていた。これははっきりしていると思いますけれども、そうじゃない住宅のあり方といいますか、いまの流れでいうと「集住形式」に対する期待があっていったということで、それはあまり間違っていなかった。貧しい住まい体験と、住まいのことを研究する研究室にいったことと、住総研にお金をもらったこととか、全部重なっていますが、整理していくとそういうことかなと思っています。

  その後、この五年ぐらいはむちゃくちゃなことをやっていまして、去年、今年と世界一周をしたのですが、いま植民都市研究ということで、世界じゅうの都市を追いかけるという無謀なというか、手を広げすぎましたけれども、そのなかでもいちばんの興味は、都市型の住宅です。アジアでどういう形式をつくってきたか。これはたぶん陣内さんとも共有していると思うのですけれども、中国、台湾です。

  こういう流れになるとは思っていなかったのですが、多少もってきていますので、幾つかおみせしていったん切ります。これはバラナシ(ベナレス)の一角です。基本的にはコートハウスになるわけですが、イスラムがきたりして、イスラムにも似ているかもしれない。ヒンズーの聖地ですけれども、こういう形式をもっている(OHP・バラナシ)。

  植民都市でいいますと、コーチンという街です。オランダが都市型の住宅を発展させた国で、いまでも人口密度が大変高いわけですけれども、そのオランダがアジアにきてやった都市型住宅はオランダ本国とは違うんですね。むしろ中国系といいますか、コートハウス、外屋に近い(OHP・コーチン)。

  それから、一段落したので最近はいっていませんけれども、同じインドでもジャイプールという町を相当調べました。ここはなかなか面白くて、ここがイスラムクォーターで、こっちはヒンズーが住んでいるということで、住まい方が違う(OHP・ジャイプール)。

  近くでいいますと、台湾もなかなか面白いところで、間口が狭いなかで、トウテンといって、階段室を直行でバーッと通して、各階プランが違う。これは都市住宅が相当定着しています(OHP・台湾)。

  かと思うと、ネパールの集落はすごく古くから集合住宅というか、都市型住宅を発達させてきています。ネパールの家はいちばん上がキッチンになっています。ちょっと信じられない。アジアはそもそも都市型住宅の形式の伝統が薄いところですけれども、アジアだけみても地域でいろいろ発達させている。

  それに対して、わが貧しい住宅遍歴を振り返ってみて、ちょっと専門家として情けない。日本でどうして住む形式、記憶とか原風景になるようなものを生み出してこなかったのかということを考えています。これで切ります。

  中嶋  どうもありがとうございました。講演のほうはこれで終わらせていただいて、一〇分ほど休憩してから討論に入りたいと思います。


    ディスカッション


  中嶋  それでは、後半の討論を始めさせていただきたいと思います。前半の講演のなかでは、陣内先生にはご自分の小さいころの家、周りの環境の話、そして学生時代に出会ったヨーロッパの街、それらが現在の先生の研究にどういうふうなインパクトを与えているかということをお話しいただきました。そして、布野先生にはご自分の住宅遍歴というものを語っていただきまして、いまの日本の都市の集まって住まうということについての問題提起をしていただきました。後半の討論では、会場の皆さまからも質問、ご意見をいただきながら進めていきたいと思います。

  まず、前半の講演の部分でご質問等がありましたら、挙手してご発言いただけますでしょうか。

  新井(よろず住まいの相談)  「よろず住まいの相談」という厚かましい看板で、この近くに住んでいる新井と申します。私はたまたま前回こちらで開かれた郊外住居についてのミニシンポに参加させていただいて、大変刺激を受けました。自分が六五年ほど郊外住宅に住んでいるということと、自分史ではないのですけれども、すまいの記憶、まちの記憶というものがどんなふうにこれからのまちづくりに関係するのかなということを考えたものを、『建築とまちづくり』という雑誌の一一月号に載せていただくことになっています。

  そういうことで、お二人の先生方に質問というか、ひょっとすると意見を伺うということになると思うのですが、私のように一つのところに長く住んでいる人間が考える記憶というものと、お二人のようにフットワークのおよろしい方たちの考えるまちの記憶はちょっと違うかもしれないなという気がするわけですね。どういう点が違うかというのは、いろいろあると思うのですけれども、たとえば「すまいの記憶は都市を変えるか」ということですが、このテーマ自体、私にとってはいかに都市を変えないで住むかという見方もあるのではないかと思います。

  私は世田谷にいますけれども、自分が住んでいた中村村の田園耕地整理に時間がかかった。時間がかかったために、最初から住んでいた方が皆さんそのまま住みついておられるという状況がある。したがって、私のまちの記憶というのは、フィジカルな記憶よりも、人との交流の記憶のほうが多いわけですね。そういう形で、私の記憶というのは、現実に起こったまちの変化を必ずしもトレースしていないわけですけれども、そういう記憶のまちというのもあるのではないかなと。それが一点。

  もう一つ、郊外ということに関係があるのですけれども、私どもは戦争中、戦後は非常な食料難で、食べ物をみつけるのにどうするか。具体的にいうと、リュックサックをしょって買い出しにいったわけです。また同じようなことが起きるのじゃないかという予感がしてしようがないんですね。これは皆さんそれぞれご意見があると思うのですが、こんなに飽食の時代が続くわけがないということです。人口はいずれは減るだろうと思いますけれども、それまでいったいわれわれが生き延びられるかどうか。世界貿易がいつどんな形で崩壊するやもしれないというのが現実のものになってきています。

  この後そうなったときに、われわれはどこに買い出しにいくのだろうかということを考えたときに、私は家の周りの現在もまだ残されている農地をこれからどれだけ残していくかという観点で、本流の都市づくりというか、東洋風の都市づくりというか、そんなことも視野においておく必要があるのではないかなと思うんです。できればご意見がいただければと思います。

  後先になりましたけれども、きょうのお二人のお話は、私にとっては自分が書いた原稿をチェックして、頭の中を整理するのに非常に役立ったということで、感謝を申し上げたいと思います。

  中嶋  いま住み続ける人にとっての原風景というのは、移動されている先生方とは違うのではないかと。あと、そういうものを含めて、人との交流とか自然環境みたいなものを守っていくような、日本流の新しい都市づくりがあるのじゃないか、ということがご質問にあったと思いますけれども、両先生方、いかがでしょうか。

  陣内  私自身はしょっちゅう引越しをしていましたし、外国もヴェネツィアにトータル三年、二カ所に住んだり、ローマにいったりして、五年以上住んだのは東京だけなんですね。先ほど地図に出てきた東京杉並の小さい家に親と一五年以上いたと思います。それから、結婚して三カ所移って、いま区役所の近くにいるという状況で、本当に移っているんです。だから、家の記憶というと薄いかもしれないけれども、杉並の成宗の記憶はかえってあるんですね。ですから、自分自身かなりこだわっている原点は杉並の成宗―いまは成田東というんですけれども、そのへんにかなりあるのじゃないかと思っています。

  それで、あまりにも変わるんですよね。さっき布野さんが、自分が住んでいたところにいってみたら、神社しかなかったと。実は私も茅ヶ崎とか仙台は怖くて住んでいたところにいかれないのですが、完全になくなっていると思う。それから、福岡にはいってみたけれども、周りが本当に変わっている。ただ、住宅の周りは残っている。そういうなかで、本当に変わっていくということをどういうふうに考えるのか。

  一方、ヴェネツィアは、ときどき戻る機会があるのですけれども、もちろん住人が変化している、レストランの経営者が変化しているというのはあるのですが、たたずまいは変わらない。本当に精神的に安定して迎えてくれる。

  変化ということで非常に思うのですが、日本の社会、価値観、あるいは消費の動向、世の中の動き、まちの表情、すべてが変化するということがベースになって動いているところが否が応でもあって、結局、変化を促進し、それに乗っかって引っ張っていくのは若者の世代になってしまうということで、どうしてもローティーンの文化になっちゃう。これは大変きついことかなと。面白がって若い文化についていくところは自分の中にあるのですけれども、それだけの社会、あるいは都市の風景、居住のあり方ということになってしまいますと、根本的に大きなものがどんどん失われていくのじゃないかという不安もあるわけです。

  やっぱり欧米がいいのは、大人の価値観がしっかり根づいている。いく場所もある。まちの中で、あるいはいろいろな都市の施設やレストランでも、主役として社会の中で立ち振る舞える。そういうまちの風景の変化というのは、それは誰が担うか、誰が消費動向をつくるか、ターゲットはどうなっているのか、マーケットはどうなのかということは、文化、社会の奥深いところで結びついているのじゃないかと思っていて、そのへんがヨーロッパと日本の決定的に違う面じゃないか。

  ところが、一方で日本の社会は変わらない面が非常にあって、先ほど人間の交流との記憶が重要だというお話があって、私は文化人類学をやっている川田順造さんという方とおつき合いがあって、ここの研究会でもいっぺん、深川の高橋という、まさに下町的なところの記憶の話をしていただいたのですけれども、震災でも戦災でも焼けて、古い建物は一つも残っていないんですね。でも、みんな居住歴は長いんです。震災以前からずっと住んでいる人、商店を経営している人が半分以上いる。ですから、人間関係はしっかりしている。お祭りはしっかりしている。商店街の営みが非常に骨太に展開している。

  それで、川田さんというのは、西アフリカの文字のない社会でフィールド調査をやっていて、無文字社会でどうやって歴史や伝統が受け継がれていくかという研究、方法論を打ち立てて、大変な仕事をされたデビストロスの弟子なんですが、深川でそういうことをやっているんですね。

  深川はそういう記憶をいっぱいもっているということで、日本の都市の記憶の受け継がれ方というのはヨーロッパとは全然違っていて、逆にヨーロッパはそういう伝承ができませんので、建物のことに非常にこだわるわけです。形、器を残さない限り、自分たちの記憶が受け継がれないというふうに考えるんですね。だから、物にこだわる。日本の場合、だからといって物を壊してもいいというふうになっちゃうとまずいですけれども、できるだけ物にもこだわりながら、しかし、本質的には人と人との関係とか、祭りの運営とか……。

  それで、実際に千住のコミュニティ雑誌、あるいは『谷根千』の活躍というのは、あんなに地域の記憶がどんどん掘り起こされるのは、ヨーロッパの都市では考えられないことだと思うんです。それだけ人々が受け継いでいる。住んでいる人々の間に知識とか認識とか、記憶、物語がたっぷりあるんですね。一つの地域で何年も地域雑誌が可能になるということは考えられない。雑誌『東京人』もそうですね。八五年ぐらいに創刊してずっとやっているのですが、月刊で毎月特集を組んでいますけれども、こんなに記憶がいっぱいあるまちってないのじゃないかと思うんです。だけど、それをもっと自覚化して、すまいづくりやまちづくりに結びつける必要があるのじゃないかということを感じました。

  中嶋  都市の記憶をいかに掘り起こしていくか。そして、日本の都市のつくり方というのは、何を残して、何を残さないかという選択を常に迫られる都市づくりがずっと進んできていると思うのですけれども、原風景のほうに戻すと、そういうものを掘り起こして、それが物である必要はないかもしれないのですが、人との交流とか独自の歴史、あるいは共有できるものを掘り起こすのが新しいまちづくりの方法ではないか、というような話ではないかと思うのですけれども、布野先生はそのへんはいかがでしょうか。

  布野  ご質問に対しては、単純に、ある都市なりある地域に住み続けている人の原風景と、その地にとって余所者だったりする原風景はどうかというふうに質問を置き換えますと、いまの話とも絡むと思うのですが、基本的に都市というのは、集団の作品、しかも歴史の作品。いろいろな人がかかわってできているわけです。その場合に、きょうのテーマである記憶とか原風景といったときに、誰にとっての記憶であり、誰にとっての原風景なのか。そこで、住み続けている人の原風景と、ちょっとだけ住んで通りすぎただけの記憶がどうかということですが、たぶん答えは「共有されている」ということですね。中嶋さんが問題にされているのは、共有された原風景なり、共有された記憶が何かまちづくりの手掛かりになるのではないかと。

  それは僕もそういうふうに思います。特にまちづくりという立場に立つと、方法論の問題の議論があって、たとえば文化人類学では二年住まないといけないというある種のルールが全世界的にできていますけれども、じゃ、二年住めばその地域社会がわかるのかという問題とか、余所者には永久にわからないのかとか、たぶんそういう問題にもつながっていくと思います。一つ言いたいのは、京都の町の話がいちばんわかりやすいと思います。

  もう一つは、個人の話を先にしますと、個人でもイメージとか印象が変わるということがあると思うんですね。具体的にいうと、たとえば僕が学生時代に帰省したときに、松江の町が東京っぽくなるのが嫌で嫌でしようがなかったんです。要するに、東京にありそうなシャレた喫茶店がいっぱいできていくとか、僕は藤森さんほど憧れていったわけではないけれども、やっぱり地域は地域であってほしい。そういう面と、逆に「松江っていいところですね」といわれると、またそれに反発したり……いろいろ複雑です。個人でも、年によっても違ってきているということです。

  もう一つ、京都の話をしたらわかりやすいというのは、京都は一二〇〇年の都ですから、京都生まれと余所者ではすごく違うんですね。簡単にいうと、京都生まれで京都を憎んでいる人と、京都生まれで京都を愛しまくっている人と、余所者で京都が好きな人と、マトリックスで四つに分けるとわかりやすい。だいたいそういうものが絡んで京都のイメージとか原風景が語られているわけです。ですけれども、京都の町で非常にやりにくいのは、京都生まれで京都を愛しているという部分がなかなか言葉になって出てこないので、方法論的にはそこをどうすくうかとか、これはどこの地域でもそうだと思いますけれども、住んでいる人と、ツーリストでくる人とか、そういうものの共有のイメージをどうつくるかということだと思うんですね。

  東京はすでに四〇〇年からのすごい歴史があるわけで、掘り起こせばいっぱいあるんです。僕の経験を一個だけいうと、千葉に波崎という漁港があるんですね。日本一投票率が低くて、離婚率が高いので有名です。そこのまち起こしを頼まれたのですが、とにかく町は砂ばかりなんです。そこに日立の工場がきたりということもあって、「港だから、うちには歴史がありません」というのですが、調べると、江戸時代の新田開発の話とか、二宮尊徳がどうしたとか、いろいろな話が出てくるんですね。基本的にはあらゆる地域に歴史があり、記憶が詰まっている。これは絶対に手掛かりにすべきだと思っています。

  具体的に何が手掛かりになるのかというのが、たぶんきょうのテーマだと思いますが、陣内さんは神社とおっしゃいましたけれども、確かに土地の力にかかわるものもあるのですが、一つは自然の景観ですね。これはさっきいいませんでしたけれども、市街地景観はガタガタにやられても、自然景観も京都のようにほとんど大景観的には意識できなくなっていても、僕の故郷に帰ると、宍道湖があって、それを囲んで山があると、それが一つの手掛かりになるなというふうには思います。あと幾つか考えはありますけれども、いったん切ります。

  中嶋  このシンポジウムで大前提としてというか、確認したかったことは、タイトルにもありますように、まちの原風景とか、すまいの記憶というのが、本当に今後のまちづくりを進めていくうえで力になるのかということだったのですが、お二人の先生は、それはもちろん力になるということでよろしいのでしょうか。

  陣内  いま布野さんが京都の話をなさったわけだけど、原風景が嫌で否定したいと思う人、あるいはそういう時期はかなりあるのじゃないか。よっぽどいい原風景をしょって、すくすくと育ってきても、挫折とか、嫌な人と出会ったりとか、必ず結びついてネガティブに考えることがあるかもしれない。たとえば森まゆみさんだって、「若いころは谷中は嫌で嫌でしようがなかった」という話をよくなさいますよね。で、ある年齢になり、子育ても始め、良さがだんだんわかってくる。

  さっき僕が紹介した川田順造さんという文化人類学者は、深川が嫌で嫌でしようがなかった。で、パリに脱出したわけですね。で、デビストロスのもとで勉強して、西アフリカのサバンナでフィールドワークを一〇年ぐらいやって、ある年齢になって自分の故郷―

小名木川沿いの深川高橋という非常に雰囲気のあるところで、昔はまるで駅のターミナル盛り場みたいに船の発着場が栄えたところなんです。それで、子どものころは嫌で嫌でしようがなかったところが非常に懐かしくなって、ある年齢になってから調査を始めて、「三角測量」と彼はいうのだけれどもパリ、西アフリカ、深川と。

  そういう構造のなかで原風景が生き生きと蘇ってくるということは非常にあるのじゃないかと思うし、原風景というのはいっぱいあって、対象化する必要がある。ベタベタのなかでつき合っているだけではだめなのじゃないかと思うんです。そこにずっと長くいらっしゃって、原風景がずっと好きでという立場もあるかもしれない。あるいは、ずっといてこだわって、自分の中で反芻してという良さも当然あると思いますが、いっぺん立体的に対象化するということが非常に重要です。

  そういうなかでの原風景というのは、イメージの中で増幅されたり変化して、客観的な原風景というのはあるわけないので、非常に主観的であり、でも集団で共有されている。その共有のされ方だって、誰がどういうふうにつくったかとか、史実そのもので忠実に検証していくというものではないわけですよね。だからこそ先に駆り立てる力があり、戦略的にまちづくりや計画論のなかでつくっていく方法があるのじゃないかと思うのですけれども。

  そういうふうに考えると、原風景というのは、みんな人生においてずっとポジティブということは絶対になくて、かえってネガティブで脱出したいという原動力になっている。だけど、そのなかでまちづくりの大きな力になるのじゃないかと思います。

  中嶋  ポジティブなものとネガティブなものと、原風景がもつ力というのは否定できないというふうに思うのですが、先ほどの陣内先生の話のなかで、子どものころからずっと意識せずに育った原風景が、もう一度成人してからの体験によって掘り起こされていくという、追体験というわけではないですけれども、もう一度掘り起こす刺激みたいなものを与えるきっかけをつくっていくことがまちづくり、すまいのなかで必要なのかなというふうに思うのですが、そういうことが研究者の役割であり、建築計画をしていく人間の仕事ではないのかなと。そういう意味で、原風景というものを大切に考えたいなと思うのですけれども、布野先生、いかがでしょうか。

  布野  まず、「原風景とは何ですか」と。要するに、地域でもいいですし、いまいっている原風景というのは何をいっているのだろうと。実をいうと、新幹線の中でそれを考えていたのですが、もしそれが共有されてあるのなら話は早いですね。

  永橋(中央設計)  私は弥生町、根津の後ろの異人坂の前に住んでいるんですね。もともと一九三七年に逗子で生まれて、逗子にもいったりきたりして、数えてみたら一六回転居しているんです。戦時中は江田島の海軍兵学校の官舎に住んでいて、原爆の光と音に驚いた覚えがあります。数年前に、『建築とまちづくり』で「都市の記憶」ということで原稿を書かされまして、それといま郊外と都心に住んでどうかというのを書けといわれて、きょうは大変興味をもってきました。

  いまの原風景という話ですが、私が江田島にいたときは、なんとか逗子に帰りたいという思いがあったんです。ところが、四一年たって友だちと江田島を歩いてみると、坂道からお寺から小学校、もろもろがたまらない思いになるわけですね。そして、逗子でまちづくり条例というのをつくるのに、一二年間やっているまちづくり研究会が関係しているのですが、逗子でいえば海と斜面緑地。谷中にも六九年から八四年まで子どもを育てるので住んでいたことがあるんですが、人間関係でいえば、お祭りで浴衣を着て、子どもは神輿を追うとか、幼稚園の保護者会の副会長をやるとか、そういうことですね。その地域に住んで、人とのつながりみたいなものがとても大事です。極端ですが、三階以下の低層に住む、自家用車は使わない、職住接近という三つがきちんとあればまちは変わっていくし、日本の都市の質も変わるのじゃないかと思うんですね。

  いま異人坂にはローンを組んで住んでいるわけです。それは、本郷三丁目にある事務所まで一時間半かけて逗子から通ってくることが体力的に自信がないものですから、やむをえず借金をして、砂上の楼閣に住んでいるみたいなもので実に不安定なわけです。借金をして持ち家をもつというようなはすまいとかまちを良くしていかないと思うんです。

  それから、陣内さんが窓から何がみえるかということをおっしゃっていましたけれども、たまたま私の家からは遠くに隅田川の花火がかわいらしくみえるんですね。すぐ後ろは根津小学校で、三階建てだと子どもたちが動いているのがみえる。やっぱり窓から何がみえて、どんなふうな住まい方が楽しいのかというのを、もっともっと経験している人たちがしゃべったり、書いたりすることが大切です。それから、この町のこの坂道、あの崖、あの緑がどれほどということを、子どもたちも含めて語り合っていく。そういうふうにして、自分が育った子どものときの住まいのあり方、遊び場がどれほど大事なのかということが自覚できるようにしていくということがとても大事じゃないかという思いがしています。

  いまは、保育園とか診療所、病院、高齢者の施設、学校などが大事だと思うんですね。そういう公共的な施設を、あとあとまで懐かしめるようにつくっていくということが大事だと思います。私は横須賀高校に途中から入って、小泉さんは後輩ですけれども、コンクリートになってからはいったことがないですね。私の横須賀高校は木造の建物。みんなそんな思いで原風景を呼び起こすことが大事じゃないかなと思っております。

  服部(千葉大学)  理解が及ばないものですから、私なりに問題を整理してお伺いしたいのですけれども、まず、途中まで問題になっていたように、「原風景とは何か」というのが非常に大きな問題だと思います。それから、いまの方、前の新井さんの話にあるように、原風景というところから価値をどういうふうに出して、どういう都市をつくり、どういう建築をつくるかというプロセスの問題があると思うんです。

  後半のほうはみんな得意なので、自分の好きなことを述べればいいのですけれども、中嶋さんの問題設定からいうと、「記憶は都市を変えるか」というところを問題にされていますので、前半の原風景の考え方とか、計画論なり設計論にどういうふうに結びついてくるかということで持論を述べさせていただいて、お伺いしたいんです。

  これは、パリの日本人に、パリの都市はどういうものかというイメージマップを描かせた研究があるんですね。そうすると、もちろんパリで生まれ育っているわけではないのですが、中心部に建物が密集してある。だけど、郊外にいくと緑が延々と広がっているというような絵を描く人がほとんどなんだそうです。実際にパリというのは、中心部があって、周辺は高層の公共的なニュータウンがいっぱいありまして、とても緑なんかないぐらい郊外は広がっているわけです。日本の東京と非常に似ているわけです。しかし、それにもかかわらず、都心と郊外というと、建物と自然という対比を感じているのが日本人だ、というんですね。これはいいかどうかわからないけれども、統計的にとったときに、日本人はそういう都市の風景をイメージしているということです。

  ドイツに原風景学というのがあるのですけれども、原風景学のなかでいうと、最も根源的な風景意識なんですね。それはパリで日本人の調査をしただけなのでわからないのですが、日本人にとってそういうものがあるのかないのか。陣内さんとか布野さんというのは、遊民というか、それなりにバラエティに富んだ経験をもっておられると思いますが、日本人ともっと広く含めた場合に、はたしてそういうものがあるか、という問題ですね。

  これは僕の研究ですけれども、多摩にいっていろいろな高層群のある住まいとか、低層の集落のある住まいをみせて、「どこがいちばん好きですか」と聞くと、だいたい「戸建てがあるところがいい」というんですね。それは原風景と関係しているかどうかわからないですけれども。たとえば伊豆の山の中に住んでいる人に聞くと、「高層住宅に住んでみたい気がする」というんですね。これはまた不思議なことで、先ほど布野さんは島根からという話で、布野さんはあまり高層住宅を拒否していないと直観的に思っていたのだけれども、低層で緑の中に住んでいる日本人という、いわゆる都市に流入した人にとっては、高層・高密、あるいは緑のない空間というのはそんなに拒否反応をもたないで受けとめられたのではないかと思う。それが原風景かどうかわかりませんけれども。

  きょうみたいないいかげんな原風景の定義でいえば、過去の経験程度のお話でしょう、いまここで提起されているのは。僕がいった日本人共有の原風景感みたいな話からきているわけじゃないから。過去の経験的なことでいうなら、たとえば伊豆の何とか町の人たち、緑が鬱蒼と繁ったような空間にいる人にとって、高層・高密空間はなにも怖くない。いきたいという感じになるんですね。もっとオーバーにいうなら、憧れてくる。それで、千葉は東京でマンションに住んでいた人が戸建てを集中的に買う場所ですが、そこでやってみると、「二度といきたくない」となるんですね。やっぱり緑が多いところが多いんですね。そのあたりの議論をもう少しやっていただけるといいなと、まず一つ思います。

  原風景の共通したイメージとはいったい何なのか、日本人にとっていったい何なのか。そういうものをわれわれが共有できないというのが非常に大きな問題だと思います。だからこそ都市はどんどん変わっちゃうし、極端にいうと、どこにいったっていいというふうになるのではないかと私は思うんです。私はこれで帰りますけれども、これがきっかけで話が弾めばいいと思って、あえて長々としゃべらせていただきました。

  陣内  いまの服部先生のような、日本人共通の原風景という設定をするのだとすると、樋口忠彦さんがそういう形を追求していて、それも一つのタイプではなくて、いろいろなバリエーションがある。それは地形の構造が全国で違っていたり、山の奥と海辺では違っている。ですから、バリエーションが出てくるのですが、たとえば山の辺にあって水の辺にあるとか、そこでは共通しているわけですよね。そういうのはわりと説得力があって、万葉の時代からずっと好ましい、精神的にも安定した居住ができる場。だけど、いつもみんながそこに住めるわけではないわけですね。工業の発達とか、城の構え方などが歴史的に変わってくると、全然違うパターンにいって、どこかからとめどもなくそういう原型にこだわらないで、都市をどんどんつくっていっちゃう。あるいは、せっかく水の辺や山の辺という可能性があったところを全部ならして埋め立てて、全然違う抽象的な世界をつくってきたということで、いまの議論はいままでにあったのではないかと伺っていましたけれども、それではまずいんですか。

  服部(千葉大学)  陣内さんが問題にされているような識者の見解というのは、直接風景を問題にする人ですね。僕が問題にしている、原風景学というのをやっている人、もう少し人類学とか方法論なんかをやっている連中の世界にあるんですね。その人たちにとっては、「日本人には原風景はない」という感じに近い発言が多いですね。

  陣内  そうですか。それは勝手な誤解じゃないですか。

  服部(千葉大学)  誤解ですか。

  陣内  と思いますね。日本人は原風景はすごくあると思いますけどね。

  服部(千葉大学)  じゃ、それが問題だと思います。それから、中段でいった、いわゆる移り住んでいく過程で得た知識というか、記憶というのは原風景であるというふうに断定してしまえば、みんなバラバラですよね。もっともっと根源的だというと、万葉とか、もっと前からきているものかもしれないので、それはちょっと話としては整理のしかたがむずかしい。

  陣内  ただ、僕は中嶋さんが提起されている地平というか、場というのは、日本人が普遍的にみんなが共有する原風景というのはありうるけれども、そうじゃなくて、それぞれの場所や地域の人たちがいろいろなバラエティをもちながら、個々の事情に応じて抱く原風景のことをいっていると思うんですね。そうしないと、事は抽象的なモデルづくりみたいな話になっちゃって、実践的な面白さが導き出されないのじゃないかと思って、僕は中嶋さんの問題提起はわりと好意的に受けとめたのですけれども。

  服部(千葉大学)  いや、僕も好意的に受けとめていますよ(笑)。

  布野  僕が何もいわずに、「原風景っていったい何ですか」といったのでそういう話になったのですが、僕の意図は、日本人という構えはあらゆる議論でしたくないので、陣内さんがいうのは、樋口さんの日本列島の景観の構造を原型を幾つか分けるという話で、それは当然ありえますし、意識に遡ってそれをということを聞こうとしたわけではないんですね。

  ちょっと横にそれますけれども、高層を容認するとかおっしゃったので、はたと思ったのですが、僕は一階主義者で、だいたい一階を選択して住んでいるので、たぶん高層は嫌いなんだろうなと思ったんです。それより茶化していいたいのは、たとえば京都で町家を守れとか、職住近接だとか、それはいいのですけれども、それをいっている先生がえらい高層マンションに住まわれていたりして、あれはいったいなんだというのに思い当たったりしましたけれども、それは原風景に関係するか、しないのか。

  僕が聞きたかったのは、中嶋さんが書かれた冒頭に、「没個性化した現代の都市やすまいに……」というのがあって、「かつてそれはもっていた固有の」とありますけれども、かつては共有されたものが何かあって、それが失われたという立て方ですね。そうすると、いま没個性化した都市で育った若い人たちの原風景はいったいどうか、ということを裏で聞きたかったのですけれども。

  中嶋  「原風景」という言葉のほうにお話が移っているのですけれども、おそらく聞かれるだろうなと。少し無防備に「原風景」という言葉を使っているのは私も意識しておりまして、私の中で原風景をどういうふうに考えているかということですが、先ほどの服部先生のお話にもありましたように、万人が共有しているような、あるいは日本人、あるいは地形が覚えているような根源的、現象的な原風景というのがまずベースとしてあると思っております。それは歴史的な景観でしたり、地形だったり、そういうものがまずベースにあって、その上に個人の経験的な原風景というのがつくられていくというふうに思っていまして、この二つの位相というか……。

  まず最初の根源的、現象的というのは、心の中の問題であったりとか、場所を座標とした原風景みたいなものが一つあって、その上に生活する個人を中心とした軸の原風景が重なり合いながら、あるイメージをつくっていく。そういうことが原風景の構造ではないかと、自分の中ではそういうふうに考えていまして、今回、そのなかでも根源的とか現象的なものの原風景はひとまずおいておいて、その上で展開してきた自分史のなかでの、自分を中心座標として形成されていく原風景というものを取り上げてみたいと考えて、今回のシンポジウムはフィールドワークを中心に研究されている先生方をお二人お呼びしたということです。それがまず第一点、今回の原風景というものに対する私なりの解釈です。

  もう一つは、いま布野先生がおっしゃったように、「没個性化した」と趣旨のほうに書かせていただいているのですが、「没個性化した現在の都市やすまいにかつてそれらがもっていた」というのは、私は研究自体は歴史的環境のほうが専門でして、歴史的な環境みたいなもの、それぞれが個性をもっていたものが均質化されていっているのが現在ではないかという意味でこの文章を書かせていただいていまして、その均質化した空間に住んでいるわれわれ、私は三〇代なんですけれども、それ以下の世代の人々がこれからもつであろう自分を軸とした原風景というものは、非常に貧しいものではないのか。いままで原風景というのは、都市をつくるある手掛かりにしようとわれわれは考えていたのだけれども、そういったものが失われているのじゃないか。そうだったら、どういう方法で原風景を掘り返したらいいのか、ということを考えてみたいと思っているのがこの趣旨ですけれども、いかがでしょうか。

  陣内  そのとおりだと思うのですが、どんどん変化して、均質化して、没個性的になったというような、こういう失われていくものを嘆くというか、批判するというか、そういうのは……。実はこの間オランダからきた都市の研究をしている学者と話をしていて、「いつの時代の人もそういってきた」というんですね。そうかもしれない。だけど、「日本は変化が激しいんだから」といったのだけれども、「いや、そういうことはないだろう」といっていた。そういう視点にドキッとしたんです。だから、必ずしもいまだけの問題ではないのかもしれない。永井荷風がすでに昭和の初期に『日和下駄』のなかで、急速に近代化して、江戸が失われていくことをすごく嘆いて、クリティカルに書いている。だから、クリティカルな視点をもつことは非常に重要だと思うんだけれども、いまの時代だけの固有の問題というふうには考えないほうがいいのかなと、オランダ人の話を聞いて思ったんですね。

  それから、外国からくる連中を日本の郊外に連れていくと、面白がるんですね。あるいは、うちの杉並の周りの住宅地、戸建てでそれなりに庭があったり、緑があったり、坂があったり、そんなに僕らは個性があると思っていないのですが、もっと古い中心部の山手の本郷とかにいけば、すごい個性があるとリアルにわかるのだけれども、杉並のうちの周辺は本当にニュートラル状態に思っていて、個性があるなんて誰も思っていない。だけど、外国人を連れていくと、外国の人にもいろいろ種類があって、特にヨーロッパの人、アメリカの人ですが、アメリカにはない、ヨーロッパにはない、ある日本の何かを受け継いでいる面白さ、個性があると。

  これは郊外の分譲住宅地がどうなのかという議論はあると思うのですが、非常に単純な設計方法で、山を切り崩し、碁盤目型とか、車優先とか、住宅が立ち並んでいるのもパターンは幾つかしかなくて選んでいるとか、そういう意味では非常に均質的なのかもしれないけれども、この生産システムとか、こういう風景というのは、ある意味で一九七〇年代、八〇年代、九〇年代、日本にしかないものかもしれないんですね。だから、もうちょっとそこがもっている質というのをちゃんと考えないといけないのじゃないかと。

  実は、郊外に育った連中で、修士論文とか、卒業論文で、郊外の中の面白さをどうやって自分たちの世代のアイデンティティとして発見しなければいけないかみたいな問題意識をもって調べた連中が何人かいるんですね。

  これはなかなかむずかしいのですけれども、われわれの世代は頭ごなしに「個性がない」とか、「空間として質が落ちている」というのだけれども、もう少し何が問題なのかということをちゃんと検討しながら、それはフィジカルなものだけではなく、人間関係もあるだろうし、都心からの距離とか、機能がどれだけ交ざっているかとか、いろいろなことがあって、そのクオリティを判断するのはむずかしいですけれども。

  郊外研究というのは、コマーシャルなレベルから、マーケットリサーチで三浦展さんという人がやっていますね。彼は郊外学はないということで、社会学の立場からやっていたり、ホンマタカシさんの写真に魅かれて郊外研究をやる若者も多いんですね。だから、いろいろなジェネレーションの人が郊外研究をやらなきゃいけないのじゃないか。郊外で育った人は、自分たちのアイデンティティそのものなので、そこに愛着もあるんですね。そのへんは非常に重要なテーマだろうと僕はみているんです。

  中嶋  われわれの世代というか、各世代がもつアイデンティティみたいなものを発掘するということが、すぐ方法論に結びつけるのはどうかと思うのですけれども、それが今後の都市の中の質をみていく力になっていくということですね。先生はいかがですか。

  布野  力についてといわれれば、一言いわないといけないのですが、いまの三浦展さんというのは、前はパルコにおられて、アクロスで商品の売れ行きの分析をされていたんですね。郊外に人口が張りつくから、そこに商品が出ていくわけですね。それを分析するなかで、彼は独自の展開をするのですけれども、要するに、没個性化しようが何しようが、一方で現実の都市をつくっていくメカニズムがあるわけです。それを抜きにして、記憶が力になるとかならないというのは、たぶん無防備すぎて、現実のメカニズムのなかで、先ほど紹介した僕のつまらない住宅遍歴も、あるメカニズムのなかで自分はそれなりに最良の住宅選択してきたつもりだけれども、手のひらで動いていたというところがあるわけですね。日本列島全体がそういうメカニズムで動いてきた。バブルがはじけるまで、土地のスぺキュレーションで動くというような、市場原理というのがあるわけですから、それが強いから日本列島全体が同じようになっていくということですから、それに楔を打ち込むような概念とか手法というものに結びつけていかないと、力にはならない。

  ですから、議論すべきは、たとえば陣内さんがやられた、そういうふうに一元的に東京なら東京が変わっていく、地上げがあって建て替わっていく、効率でいくというのに対して、ウォーターフロントがあるじゃないかと。産業構造が転換して、当時用なしになっていた土地といったって水辺があるじゃないか、細かくみたら緑もたくさんあるのじゃないかというのを読んでみせて、ちょっと変わってくるというか、そういうものも逆に取り込んで住宅開発をやろうとか、そういうふうなメカニズムがあるから。

  そのへんのときに、下手な記憶というとすでにいっぱいあるじゃないですか。テーマパークみたいな一種のキッチュ的なやり方。住宅もそうですよ。なぜここにヨーロッパの街なのというような商店街がいっぱいあったりするわけだから、本気でやるのなら、そこまで立ち入って議論したほうがいいかなと。

  中嶋  確かに、そういうメカニズムという前提以前の話で今回進めてきたわけですけれども、陣内先生、布野先生がそれぞれ東京、京都で進めていらっしゃるような、それをどうシステムに乗せていくか、それをどういうムーブメントとして結びつけていくかというのがわれわれの非常に大きな課題で、それを少し議論しただけで進むものではなくて、やはり活動というか、運動を通じて広げていくべきものだとは思います。それで、今回、その前提として原風景をもう一度ということでお話しいただいたのですけれども、布野先生にまとめていただいたのですが、今後、こういうものをいかにシステムに乗せていくか、あるいは力となるような動きに乗せていくかということが、今回、確認できたかなと思っているのですが、いかがでしょうか。

  陣内  高層に住むかどうかという話があって、谷中にもいらっしゃったという方から大変重要なお話をたくさんいただいたのですが、いま実際に都心回帰で、地価が下がったということもあって、ずいぶんマンション建設、あるいは高層の住宅建設が活発になっていますよね。窓からみる風景の大切さをおっしゃったわけですけれども、僕も東京の場合、窓からみる楽しさ、面白さ、価値観がちょっと違う方向にいっている。つまり、高層の住棟からみる眺望はものすごく価値があるわけですね。それに魅かれて高くても買っちゃう。で、もっと低い集合住宅、谷中とか千駄木とかの景観とか、周りの環境とちゃんと協調できるような高さ。本当に低層、中層の集合住宅からのながめというか、そういうもの……。

  さっき自分の話のなかで関係性のなかで生きる面白さということを申し上げたのですが、窓からみえる風景というのはまさにそうで、ヴェネツィアとかローマの集合住宅に住んで、みんな四階ぐらい、せいぜい五階なんですが、すごく窓からのながめがいいんです。つまり、周りの家並み、瓦、煙突、窓、生活の気配、路上の人のざわめき、恋人同士の語らい、みんなひしひしと伝わってくるんですよね。そういうなかに都市に住む実感を感じて、これは僕自身、日本では狭い平屋の一戸建てというのが多かったわけだけれども、そういうものと違う都市に住む面白さというのを体験したんですね。

  で、日本のいまのマンション設計にはそういうものがほとんど入っていないのじゃないか。勝手に自分の建物の論理で建っているわけですね。周りを壊しているわけです。だけど、マンションもたくさん集まってくると、もう少しお互いにいい関係で並んで、しかも周りにうまく開かれて、眺望も楽しめるというゆるやかないい関係をどうやってつくるかというイメージがないとまずいのじゃないか。

  そういう意味で、できたら自分も日本で暮らすときにはいままで木造の庭付きの家しかなかったのですが、集合住宅に住んでもいいなという気持ちはありますが、そういうものができてくればいいかなと。

  もう一つは、布野さんのお話のなかで、僕自身の体験とものすごく重なる面が多いのですが、どうも住まわされてきた、あるいは狭い家にという、どうみても豊かな経験とは言いにくいというお話があったのだけれども、もう一つの角度からいいますと、芳賀徹さんという比較文化の研究者も研究会でずいぶん議論していたのですが、彼が信貴山絵巻とか中世の絵巻物をもってきて、そのなかに非常に質素な木造のあばら家みたいな絵が描かれているのだけれども、そのなかで本当に家族がアットホームに暮らしている場面が描かれているというんですね。そういうフィジカルには狭くて、ヨーロッパの家のように立派じゃない、なんでもないところなんだけれども、そこに温もりがあって、家族、人間関係の場があって、周りに木立があったり、庭があったり、路上にも開かれていたりするんですね。そういう柔らかい住まい方のイメージというのは、必ずしも狭くて住まわされてきた貧困な日本の戦後の住宅というだけでは片づけられない、いい面もあるのじゃないかと、楽天的にいえばね。

  布野  アジアにはまだいっぱいありますよね。

  陣内  そういう面はスピリットとして大切にして、集合住宅のなかに盛り込んでいかなきゃならないのじゃないかと思います。

  中嶋  日本にはそういうものはないのでしょうか。石田先生がいらしているので、できれば一言いただければ……。

  石田(東京都立大学)  きょう参加しているなかで都市計画が専門だというのはあまりいなくて、建築系の人が多いのですけれども、話しだすと長くなるので、二つのことだけいっておきますと、私自身は七〇年生きているのですが、そのうち六七年は基盤整備が計画的に行われたところに住んでいるんです。そのうち三十数年は近代的な区画整備でやられたところ。三〇年弱が江戸時代の新田開発のところで武蔵野市の吉祥寺。あとの三~四年が軍用地の跡地が計画的に開発されたところに住んでいるんですね。ですから、近代の都市計画による画一的で原風景みたいなものを常に壊してきたようなところに住んでいるので、きょうの議論は私の生活体験にはつながらない。

  ただ、原風景と関係して仕事をしているのがたった一つあって、サントメ新田の保存の問題をここのところ一〇年ぐらいつき合ってきているんです。実は武蔵野市の吉祥寺が新田開発をやられたのとまったく同じシステムでやられたところで、僕にとってサントメ新田はまさに原風景なんです。ただ、これは江戸時代ではあるけれども、きわめて画一的に、きわめて広域に計画開発したところなんですね。それがなぜか知らないけれども、サントメ新田の人たちにとってみても、原風景として非常に貴重に思われている。また、外からきた人も非常に高く評価して、なんとか保存しなければいけないということで運動している都市側の住民もいるんですね。

  このへんが画一的とかなんとかというなかで、いかに原風景的なものをつくり出していくのかということのヒントになるのか、ならないのか。きょうは自分が計画開発をいろいろやってきた立場で、原風景という考え方に立って、計画開発というのはどうやってやるのかということをじっと考えて座っていました。

  中嶋  どういう開発ができるか、お答えは出ましたでしょうか。

  布野  僕の脈絡でいうと、型を提出するということだと思っているのですが、それでは見当外れでしょうか。要するに、敷地割にしても、僕はどちらかというと上物を含めた型に興味があるのですが、ある型をもって景観をつくっているところでないと、風景として記憶に残るものはできないじゃないかという気がしているのですが、いかがでしょうか。

  石田(東京都立大学)  いや、私は答えを出しているわけではなくて、議論の足しになればいいと思って……。

  布野  要するに、画一的だから悪いという話はまったくなくて、むしろ景観をつくっている……。

  陣内  条理性のある地域は美しいところが多いし、それを飛行機の上からみると、感激しちゃうぐらいの……。だから、規則性とか計画性、均一というのとは違うのじゃないかと思うんですね。計画的にできた原風景でいいところはいっぱいあると思いますよ。

  中嶋  何が悪くて何がいいものになるのかというのは、それはどこにあるのでしょうか。

  陣内  たとえば僕はイタリアの都市の形成史をやっているのですけれども、平野部にローマ人が最初はカストロムという駐屯地みたいなところをつくるわけですね。札幌のスタートと似ているかもしれないですけれども。それはある意味で非常に画一的で、規則的で、計画的で、それだけだと最初はなんの面白さはなかったかもしれないけれども、だけどしっかりした型はあった。その中で住みこなし、変化し、成熟し、いろいろな物語が加わり、フィジカルにもいろいろな要素を加えてということで、そのなかにしっかりした型があるということは、布野さんがおっしゃったように非常に重要で、そういうものが時代が変わると型への考え方が変わるわけですよね。しかも、建築レベルの型がその上に重なってきて変わるわけですね。だから、都市のストラクチャーとしては、ある時代に開発された型がそこにあって、またこうという、そういう全体を面白がっちゃうというか、そういうものをきちっとみつめて、自分の思い出や風景と重ねていくような風土というか、そういう雰囲気をつくらないといけないのじゃないかと思うんですね。

  布野  でも、型は少し強すぎるので、訂正します。ルールといったほうがいいのかもしれないですね。ある町なら町でルールが共有される。そういうふうに置き換えたほうがいいかなと。自分の持論のほうにもっていきますけれども、

  たとえばヨーロッパ人がみて、日本の街や、特に香港のようなところは、ヨーロッパ人の目からみるとすごい猥雑で混沌としているという……。

  陣内  でも、喜ぶ。夜なんか夢中でネオンを撮りまくりますね。

  布野  日本の繁華街でもああいうのがあって、ああいう美学が共有されていればいい、というぐらいに広げておきたい。建築の型というと狭すぎますので。それが原風景だったり記憶だったりするかもしれませんけれども、そういうのをみんなが共有して、ルールにのっとって街並みをつくっているというのなら、感動を与えたり、外人が面白がったりする。

  陣内  たぶん日本人で外国に長くいる人がいちばん懐かしく感じるのは、それこそネオンがいっぱいある祝祭的な繁華街だと思いますね。だから、そこも原風景になると思う。僕は縁日のシーンというのは原風景の一つだと昔から思っているんですけど、それがいまの都市からどんどんなくなっていっている。

  だから、いろいろなレベルがあると思うんです。郊外の田園が新田開発され、集落があって、神社なんかも当然ある。街道沿いに並木がある。全体にシステムがうまくできているんですよね。それは生産、農耕という営みと結びついている。そういうすべてのシステムがなんともいえないいい風景をつくっていると思うんです。その有機的な関係がどこかからずれちゃって、ある論理だけで開発が進んじゃう。スペキュレーションも起こる。全体の地域のバランスのいい土地利用とか、関係性をつくるという開発ができなくなっちゃって、逆にあったものが壊されていくということですね。そういうもののなかから原風景は生まれないと思うんです。型というよりは、いろいろなレベルの関係性ですね。それはフィジカルな景観だけではなくて、自分的な記憶はみんなしょっているわけだし、生産システムと結びついている。

  荒居(千住蔵研究会)  千住をフィールドにして、千住というまちを元気にさせるような仕組みをやっています。ちょっと違う視点でお話ししていただきたいのですが、まず、「没個性化した現在の都市や住まい」と簡単に中嶋さんは書いていらっしゃいますが、実は「没個性化したのは誰だ」という話が別にあるわけです。

  歴史的な町の話をさせていただくと、たとえば長野の海野、福島の大内などという町にいかれると、「海野方式」ということで一言で解決できる、土壁がもろにみえている土蔵が並んでいるということで解決できるような、本当に没個性化の、それだけの町なんです。だけども、その町を一歩出て、もう一回見直すと、それはその町の個性として成立しているというのがあるんですね。ですから、中嶋さんがせっかくおっしゃっている「別個性化した現在の都市やすまい」というのは、それそのものも個性じゃないかなという気がしているんです。

  先ほど陣内先生は漢字のお話をなさっていましたけれども、それでパッと思い出したのは、『ブラックレイン』という映画のなかで、大阪の街の夜景をすごくきれいに取り上げていて、「あ、大阪だ」というのがネオンのイメージでわかる。それも一つのキャラクターだなという気がしているんですね。

  それから、千住というところで駅前の再開発をしているのですが、かれこれ一〇年以上前の基本計画をそのまま形にしている。まちの方にお話を伺うと、みんな首をひねるんです。首をひねってしまうのですが、じゃどういう形で持ち上げていけば、自分たちが本当にほしいまち、本当に住みたいものができるかというのがまったくみえない。そういう手法が行政のなかにもないし、コンサルのなかにも出てこない。そういうことがまちがだんだん貧しくなっていく原因なのかなという気がちょっとしているんです。

  私たちはまちの中を自分の意思で物をみて歩いて、お話を伺っていると、共通の思いがあったり、共通の感性があったりしているんです。それがなんらかの形で計画なり、建築なりというところにうまく反映されていないということがものすごく気になっている。どうしたらいいのかというのはよくわからないのですが、それをそもそも解析していけば、おそらくおっしゃるとおり記憶が都市を変えていくのじゃないかと思います。いい方向に、住みやすい方向に変えていくと思うんです。気持ちのいい空間ができあがってくると思うんですね。

  たまたまですけれども、今年の秋から東京理科大学の理工学部で、前に「こんぺいとう」をやっていらした井出先生が学生さんを千住に連れてきて、千住の方のお話を聞いて、徹底的に聞いて、そのなかから建築計画をやろうじゃないかというゼミを開くというお話があったんです。そういうような形とか、ともかく話を聞いて、そこから汲み上げるという、自分の意思の目線がすごく必要なのかなという感想を持っているんですね。結論になったのかどうかよくわからないですけれども、そんなイメージをもちました。どうもありがとうございました。

  中嶋  結局、収束したのかしなかったのかわからないのですが、今回の議論で、いろいろなことがわかってきたような気がしております。「原風景」という言葉で都市をみようということで始めたのですけれども、それをつくっているものを最後に両先生方にまとめていただいたのですが、それがフィジカルなものであれ、もっと人的なものであれ、ルールとか、あるゆるやかなレベルの関係性のなかで共有されるようなものというふうに置き換えたほうがいいのではないかということと、最後に荒居さんにもいっていただきましたように、共有しているある感性というものを反映する、汲み上げるようなシステムというものがすまい、まちといったものを動かしていくということではないかと、今回の議論で考えさせていただいたと思います。進行が悪くて申しわけございませんでしたけれども、きょうのシンポジウムはこれで締めさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

                                                                      ―了―


講演:日本の伝統的住居とアジアー高床式住居をめぐって,韓・日国際シンポジウム,理想建築 韓国釜山,19941111

 講演:日本の伝統的住居とアジアー高床式住居をめぐって,韓・日国際シンポジウム,理想建築 韓国釜山,19941111

出雲建築フォーラム









2022年2月17日木曜日

アンベール城の鏡の間 INAX, 1988

 アンベール城の鏡の間 INAX, 1988

布野修司



 インド・ラージャスターンの州都ジャイプルは、別名ピンク・シティという。町中が赤砂岩色をしているからである。18世紀前半に、すぐれたマハラジャ(藩王)であり、数学者であり、天文学者でもあったジャイ・シンⅡ世によって建設された計画都市だ。町の中央に天文台(ジャンタル・マンタル)が置かれているように、独特のコスモロジー(宇宙観)に基づいたグリッド・プランが面白くてしばらく通った。実に活気に満ちた魅力的な町だ。

 そのジャイプルの北に、デリーへの街道が通る険しい峡谷を睨んだ城塞がある。ジャイ・シンⅠ世が建てた華麗な城、アンベール城である。ジャイ・シンⅡ世はここで生まれた。

 六代皇帝アウラングゼーブが没し(1707年)、ムガール帝国が衰退の坂を転げようとするとき、その栄光を引き継ぐかのような華麗な建築をつくりだしたのがジャイ・シン親子であった。

 めくるめくようなタイルの饗宴である。鏡が多用されているからであろうか、切り立つ山岳城塞という立地のせいであろうか、謁見の間の意匠はデリーやアグラの宮殿よりも幻想的に感じられる。ペルシャ風の庭園が設えられており、ペルシャの影響が見られるのはいうまでもないが、ラージプートの建築的伝統、すなわちヒンドゥー芸術の臭いも濃厚である。あるいは、ムガール・イスラーム建築のバロック化というべきか。

 タイルの技術がイランのカーシャン地方から東西にひろまったことはよく知られているが、インドの石造の伝統においては当然表現は異なってくる。赤砂岩、白大理石をベースとするタージマハールを思い起こしてみればいい。細かい装飾で全ての壁面が覆われるようになる傑作はアグラのイティマード・アッダウラ廟であろうか。アンベール城のタイル装飾はその延長にあるようにも見える。 



 インド・ラージャスターンの州都ジャイプルは、別名ピンク・シティという。町中が赤砂岩色をしているからである。18世紀前半に、すぐれたマハラジャ(藩王)であり、数学者であり、天文学者でもあったジャイ・シンⅡ世によって建設された計画都市だ。町の中央に天文台(ジャンタル・マンタル)が置かれているように、独特のコスモロジー(宇宙観)に基づいたグリッド・プランが面白くてしばらく通った。実に活気に満ちた魅力的な町だ。

 そのジャイプルの北に、デリーへの街道が通る険しい峡谷を睨んだ城塞がある。ジャイ・シンⅠ世が建てた華麗な城、アンベール城である。ジャイ・シンⅡ世はここで生まれた。

 六代皇帝アウラングゼーブが没し(1707年)、ムガール帝国が衰退の坂を転げようとするとき、その栄光を引き継ぐかのような華麗な建築をつくりだしたのがジャイ・シン親子であった。

 めくるめくようなタイルの饗宴である。鏡が多用されているからであろうか、切り立つ山岳城塞という立地のせいであろうか、謁見の間の意匠はデリーやアグラの宮殿よりも幻想的に感じられる。ペルシャ風の庭園が設えられており、ペルシャの影響が見られるのはいうまでもないが、ラージプートの建築的伝統、すなわちヒンドゥー芸術の臭いも濃厚である。あるいは、ムガール・イスラーム建築のバロック化というべきか。

 タイルの技術がイランのカーシャン地方から東西にひろまったことはよく知られているが、インドの石造の伝統においては当然表現は異なってくる。赤砂岩、白大理石をベースとするタージマハールを思い起こしてみればいい。細かい装飾で全ての壁面が覆われるようになる傑作はアグラのイティマード・アッダウラ廟であろうか。アンベール城のタイル装飾はその延長にあるようにも見える。 

2022年2月16日水曜日

「待てしばしはない」と「しばし待て」の間 東畑建築事務所70周年 日刊建設工業新聞 2004

 「待てしばしはない」と「しばし待て」の間

                               布野修司

 

 『待てしばしはない―――東畑謙三の光跡』(日韓建設通信新聞社、1999年)をまとめさせて頂いてもう5年の月日が流れた。この間、設計事務所を取り巻く環境は実に厳しい。2001年から2003年にかけて、日本建築学会の『建築雑誌』の編集長を務めた(20021月号~200312月号)のであるが、明るい展望は見えてこなかった。建設業界の構造改革は、未だ進行中のように見える。

 極めて奇妙に思われたのは、建設不況にもかかわらず、未曾有の建設ラッシュが続いたことである。東京のウォーターフロントの再開発、京都都心のマンション林立がその象徴である。「2003年問題」とも呼ばれたけれど、供給過剰であることは誰の目にも明らかであるのに、止められない。仕事を維持するのが第一だから、とにかくこなすしかない、という状況が続いてきた。

 「待てしばしはない」というのは、設計は瞬間瞬間の的確な決断が必要だということであるが、これからはどんどん建てる時代ではないとすれば、じっくり時間をかけて考えることも要請されるだろう。いずれにせよ、設計事務所としての新たな戦略が必要なのではないか。『東畑建築事務所ビジョン』には、そうした新たな方向が模索されていることが窺える。

 公共建築の設計施工者の選定において、PFIが大きな流れとなる中で、組織事務所の役割が大きく問われつつある。場合によると、そのシステムに埋没し、変質を余儀なくされる可能性もある。「安くていいものを」というのは当然であるけれど、とにかく「安ければいい」という流れが既に見え始めている。設計事務所は、その存在基盤を再確認することを求められているといっていい。

 東畑建築事務所の新たなスタートにあたっては、新たな組織事務所のあり方を示す役割を大いに期待したいと思う。

2022年2月14日月曜日

コンペもいや審査もいや,百家争鳴,室内,199702

 コンペもいや審査もいや百家争鳴,室内,199702

コンペもいや審査もいや,百家争鳴,室内,199702

 

コンペの審査なんかやるもんじゃない

布野修司

 

 コンペ(設計競技)の審査委員なんかやるもんじゃない。ひとりの当選者には喜ばれるかもしれないけれど、落選した建築家には必ずうらまれる。あることないことをいいふらされるのは全くもって頭にくる。

 建築家というのは実に自惚れが強い。自分の案が一番いいと思い込んでいる。また、そうでなくては建築家なんかになっていないのであろう。それはそれでいいけれど、自分が落とされたのは何か不正があったに違いない、と思い込むのはいいかげんにしてほしい。少なくとも僕が審査委員として参加する場合は、審査経過を公表することが原則である。さらに可能な限り、密室で質疑するのではなく、市民にも判断の情報を提供する公開ヒヤリング方式をとるようにつとめている。それでも怪文書の嫌がらせの類が横行するのである。

 ひとつには、日本のコンペの風土の問題がある。公共建築の設計者選定の制度としては、未だに設計入札が横行しており、首長などの特命入札の形が多い。特定のコネクションが巾を効かしているから、スター建築家も水面下では暗躍することになる。また、コンペといっても、結果の決まっている疑似コンペが少なくない。全てのコンペが勘ぐられる、そういう土壌があるのである。

 また、建築家が審査委員となるのも、常に勘ぐられる要因である。建築家がある時は審査員になり、ある時は応募者になる。建築家の間に貸し借りの感覚が生まれるのは当然だろう。仕事のやりとりをしているように見える。審査委員の資格と審査委員会の構成についてルールが全く確立していないのである。

 以上のような風土の中で、なんで審査員をやるかというと(求められるからにすぎないのであるが)、偉そうに言えば、なんらかのルールづくりに寄与したいと思うからである。ヴォランティアである。それなのに文句ばかりでは割に合わない。

 いきなり審査の依頼が来る。聞いてみると、当日出かけていって札入れをするだけである。全てが決められており、応募要項や審査方式、当該建築のプログラムについて意見をいう余地がない。こういう場合は断ることにしている。実は一度、全く以上のような、総工費百億円を越える公共建築の審査員になったことがある。指名料にしろ、審査のやり方にしろ、プログラムにしろ、唖然とすることばかりであった。事前に固辞したけれど、それなら欠席してくれと言われ、癪だから出かけて言いたいことだけは言ったけれど、収まらない。

 全て決定済みの場合は仕方がないのであるが、少しでもルールづくりにつながるものは引き受けるようにしてきた。ヴォランティアだけれど意地でもある。それでも建築家には不満だらけで意地の張り甲斐がない。

 公平、公正、公開という基本原則を主張するだけである。審査経過の透明性を高めていけば自然に悪徳審査員?も淘汰され、ルールもできるだろう。ある審査員がどういう判断をするのかが公開される必要があるのである。文学賞の場合を見ていればいい。水面下で色々あっても(全ての賞はコネクションである)、作家が作家生命を賭けた判断をすればそれでいい。審査員は、審査員生命を賭けて判断すればいいのである。問題があれば、次から審査員失格である。ところが、建築界には不思議なことが多い。

 ある県の公共建築の二段階の公開コンペだけれど、いわゆる大手の組織事務所の参加がほとんどなかったのである。五〇〇〇㎡以上の実績が応募条件にされていたから、組織事務所に有利である。忙しすぎて人員を割けないというのであろうか。審査委員の顔ぶれによって当選可能性を読むというのは当然のことである。しかし、組織事務所が敬遠する審査委員会の構成とは一体なんだろう。建築界に奇妙な棲み分けがあるのだろうか。もしそうだとすると、ほんとに審査員なんかやっていられないのである。

 





2022年2月13日日曜日

僕たちの内なるアジア建築,建築ジャーナル,199608(布野修司建築論集Ⅰ収録)

  僕らの内なるアジア建築,建築ジャーナル,199608(布野修司建築論集Ⅰ収録)


僕たちの内なるアジア建築

布野修司

 

 ジャカルタのホテルでこの原稿を書き始めた。インドネシアの社会科学院(LIPI)主催の「都市コミュニティの社会経済的問題:東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発」*1と題された国際会議(ワークショップ)に出席するためジャカルタに一週間滞在することになった。その機会を捉えて、ジャカルタからの視点で、「日本の建築家にとってアジアとは?」という与えられたテーマを考えようというのである。何も忙しがって格好をつけてみようというわけではない。僕らに必要なのはそういう視線なのだ、と思うからである。

 まず言いたいのは、東アジアや東南アジアの国々は既に身近であるということだ。そして、その諸問題に無知であることは許されないということだ。

 このシンポジア●ママムに、先進諸国の都市計画の経験を導入しようなどという構えは最早ない。建築や都市の問題について、同時代の共通の課題を同じ次元で考えようとしている。そうした場所から見ると、ずいぶん日本での議論は閉じている。そして、日本の建築家や建設会社が東南アジアに出かけて実施するプロジェクトがひどく危なっかしいものに見えてくる。

 

 デザインの輸出!?

 まず、一、二、例をだそう。前から不思議に思っているのであるが、ジャカルタの中心街に建つビル(FOA)のファサード・デザインは東京の新橋駅前のあるビルのデザインと同じである。どうしてこんなことが起こるのか。時代は下って、最近ほぼ同じ時期に建った、設計者も同じ、シンガポールのある超高層ビルと東京新都庁舎の外装材は同じであるように見える。そこにはどんな関連性があるのか。何も同じファサード・デザインや同じ外装材を使うのが悪いといおうというわけではない。ある企業がコーポレート・アイデンティティのために店舗やオフィスビルのデザインを統一することはあり得ることである。僕にとっては不愉快であるが、ジャカルタとスラバヤに全く同じようなある銀行のオフィスビルがある。これは同じアメリカ人の建築家による例だが先の日本人建築家の例と少し次元が異なる。気候風土、文化歴史を全く異にする場所で、何故、デザインや素材が同じなのか。

 それこそモダニズムの論理だというのであれば、そこら中同じデザインが繰り返されなければならないはずだ。しかし、理論以前に、東南アジアの建築家たちがこの事実を知ったら、どう考えるのか、という想像力は働かないのだろうか。さらにひどいのは、こうしたことが全く日本の建築界で議論されないことである。日本の超高層ビルが、皆アメリカのどこかでみたことがあるように、日本のデザインをそのまま輸出すればいいとどこかで考えられているのであろうか。

 

  「ポスモ」の森

 ジャカルタは、今、急速に変わりつつある。シンガポール、バンコクに続いて、びっくりするような現代都市に生まれ変わりつつある。目抜き通りには、ポストモダン風(ポスモ)の高層ビルが林立する。その建築家はほとんどがアメリカ、イタリアの外国人である。彼らは「ポスモ」を発展途上国の首都で実現しているのである。日本の設計事務所、ゼネコンもその新たな都市景観の創出に関わっている。ポール・ルドルフの名前もその中にある。どうしてポール・ルドルフがジャカルタなのかと思っていたのであるが、90年代になって林立しだした「ポスモ」の森の中ではかえってそれらしく好ましく見えてくる。最近の超高層ビルがすべてミラーグラスのカーテンウオールで頂部だけ(帝冠様式!あるいはニューヨーク・アールデコ!)デザインされるのに対して、彼のは庇が出たり構造が露出したり、かっての面影を引き摺っているし、熱帯の気候もそれなりに考慮したのかもしれない。

 たった今テレビのニュースでインドネシア建築家協会が「理想の家96」というコンペとシンポジウムを行ったと伝えている。様々なモデル住宅が紹介されている。住宅を購買する層が確実に育ってきたことを示している。

 一方、窓の外を見れば、僕にとっては見慣れたカンポンの風景が拡がる*2。都心に聳える超高層の森と地面に張り付くカンポンの家々は実に対比的である。それぞれの地域で、どのように風景がつくられていくのかを説明するのは簡単ではないけれど、その構造を抜きにして、外の論理を持ち込むことの問題(少なくとも、様々な軋轢を産むであろうということは)は明かなことではないか。

 

 「スラム」クリアランスと日本の援助

 会議の二日目、第Ⅲセッション「東南アジアの都市計画」において、「地域の生態バランスに基づく自律的都市コミュニティ」と題して、たどたどしくしゃべった。阪神大震災の経験と日本のニュータウンの歴史と問題点を指摘した上で、カンポン型コミュニティモデルの重要性を力説したのである。手前味噌であるが、反応はかなりのものであった。少なくとも、インドネシア、タイ、フィリピン、シンガポールおよびオーストラリア、フランス、オランダからの社会科学者やプランナーたちが僕の関心をそのまま受けとめて議論してくれたのである。しかし、問題はこのように簡単ではない。というより、日本の問題なのだ。

 矢のように次々と質問が飛んできた。地震で日本はどう変わったのか、東京についてはどう考えているのか。最もシビアなのが日本が援助する都市開発のケースだ。ジャカルタの都心にあったクマヨラン空港の跡地にいまニュータウン計画が進行中である。そのプロジェクトは、「都市の中の都市(タウン・イン・タウン)」計画として、また、既存のカンポンをクリアランスしないで、様々な社会政策と合わせて住宅供給を行う点で興味深いものである。J.シラスがスラバヤで実験してきたルスンの理念も生かされている。ルスンとはルーマー・ススン(積層住宅)の略であるが、共有空間を最大化する共同住宅である。カンポンの構造を替えない新たな都市型住宅モデルでカスン(カンポン・ススンの略)と呼ばれ始めている*3。そのプロジェクトについて、「何故、日本の専門家チーム(建設省、住宅都市整備公団などから派遣される)のレポートはカンポンをクリアランスしろと書いたのか」というのである。また、「同じく日本の専門家の関わったクボン・カチャンの団地開発のケースをどう思うか」というのである。

 クボン・カチャンというのは、ジャカルタの中心地区、日本大使館のすぐ裏にあるカンポンで、クリアランスが行われ、倉庫のような団地が建った件である。これについては、当事者であった横堀肇氏の真摯な総括がある*4。ジャカルタで大きな議論になり、日本でも僕らが議論したのであるが、どれだけ知られているであろうか*5

 同じ日、クマヨランの現場に参加者全員で見に行った。二度目である。最初の時はまだ建設当初でデザインの拙さだけが目についたのであるが、印象は一変した。実に生き生きと空間が使われている。詳しい紹介は省くけれど、一方で高級住宅がならび、日本の企業がそれを買い占めている一方で、カンポンのためのユニークな実験が行われていることは記憶されていい。

 

 日本のサテライトタウン

  次の日、郊外型のニュータウンを見に行った。民間開発のニュータウンで、そう目新しいところがあるわけではない。眼から火の出るような思いをさせられた。日本と韓国の投資によるニュータウンで、名の通った日本の大企業の工場が並んでいたからである。参加者のなかからすかさず野次が飛ぶ。「FUNO、これは日本のサテライト・タウンなのかい」。「ワールドカップより一足先に、日韓のジョイント・ベンチャーかい」。

 「直接、僕は関わっているわけではないのだよ」というのは簡単である。それぞれ同じような構造の中で生きているのである。しかし、そんなことは分かった上で、お前は何をしているんだという、そういう問いが共有されている。日本産業の空洞化の最先端がジャカルタのニュータウンにある。そして、それは様々な軋轢を生んでいる。どう考えるのか。

 インドネシアのニュータウン開発にあたっては「1:3:6」規則がある。住宅供給を高所得者層1:中所得者層3:低所得者層6にするというルールである。低所得者層向けの住宅はRSS(ルーマー・サガット・スデルハナ 簡易住宅)という。18㎡~36㎡のワンルームと60㎡の敷地の最小限住居である。ところがRSSはどこにも建設されていない。日本の工場で働く労働者はどこに住むのか。周辺のカンポンである。カンポンの人たちはRSSにも入ることはできないのである。

 ワークショップ参加者の視線を痛く感じるのは、余程の鈍感でなければ当然ではないか。安価な労働力を求めて生産拠点を移し、社会各層の格差を拡大する資本の論理の体現者が日本人なのである。雇用機会を与えるというのは全くの口実である。日本の企業などなくてもきちんと自律的に生活してきた地域が破壊されてしまう。ワークショップの議論は、もちろん、インドネシアのニュータウン開発をめぐる問題が中心であるが、集中砲火を浴びているのは専ら日本なのである。言葉の不如意を理由に場を繕うのは実につらいことである。

 

  歴史との遭遇

 1979年に初めてジャカルタを訪れて以降、東南アジアを歩き回ってきた。レヴェルは異にするけれど、必ず以上のような場面に遭遇する。

 インドネシアでベチャ(輪タク)ーベチャは大都市の都心からは追放されたーーに乗る。日本人と解ると、突然、ベチャの運転手さんが「海ゆかば」を謡い出す。一緒に唱うべきか。

  カンポンの調査をしている。突然、「ハンチョウサン」「キンロウホウシ」「ケンペイタイ」と話しかけられる。どういう顔をして何を答えればいいのか。ジャワの山奥の村を尋ねる。いきなり、「ラジオ体操第一!」である。一緒に体操をはじめるのかどうか。インドネシアは、僕の経験だけに基づけば、まだいい。もっとクリティカルな国々はある。従軍慰安婦の問題を見ても明らかなように、戦後半世紀を経て、未だに日本は第二次世界大戦の重い歴史を引きずっている。にも関わらず、僕らはあまりにも無神経である。

 スラバヤの知事公舎に招かれる。広間の壁一杯に油絵が飾られている。日本兵が竹槍で突き刺される場面がある。その前で、僕らは何を話せるのか。オランダの研究者が同じ場にいる。その絵を見て、僕を笑う。日本軍がやられる絵より、オランダ人がやられる絵の方が圧倒的に多いにも関わらずである。どう答えればいいのか。

  スラバヤのチャイナタウンの南にはクンバン・ジェプン(日本の花)通りと名づけられた通りもある。どういう意味か。繁華街トゥンジュンガンにあるマジャパイト・ホテルは元ヤマトホテルである。デュドック(分離派)風の綺麗な建物だ。そのヤマトホテルにはかって、日本の憲兵隊本部が置かれていた。ヤマトホテルは、オランダ軍に対するインドネシア独立戦争の発端となり、その象徴となった場所でもある。そのロビーにはその時の写真が三葉掲げられていた。焼けて赤茶けた白黒写真である。その写真の一枚は屋上のポールに掲げられたオランダの三色旗を一人の男が引き裂いている瞬間の写真だ。その時の模様を描いたのがイドルスの『スラバヤ』(1947年)である。オランダの三色旗を引き裂くと赤と白のインドネシア国旗になる。

 東南アジアを歩けば至る所、日本の侵略の歴史に出会う。こういう歴史に無知であることは、許されないのではないか。

 

 「大東亜建築」

 近代日本の建築にとってアジアとはどのようなものであったのか、日本の建築家にとって「アジア」はどのような意味をもつのかについてはそれなりに振り返ってみたことがある*6。伊東忠太の軌跡を軸としながら、戦前の東洋史学の展開、あるいは「大東亜建築様式」をめぐる議論などが、どう今日の問題につながっているかを問うた。基本的には、戦前戦中期における建築のアジアをめぐる議論の構図が繰り返されつつあること、否、旧朝鮮総督府(韓国中央国立博物館)の解体撤去問題のように今日まで問題は引き継がれていること、などを指摘した上で、「アジアはひとつ」といったイデオロギーや「西欧VSアジア」といった対立構図が最早無効であることを確認したにとどまる。しかし、それは前提ではないのか。

 

 「超級 アジア・モダン」

 アジアの現代建築について、僕らが何を知っているのか、あるいは、どう向き合おうとしているのか。村松伸の『超級 アジア・モダン 同時代としてのアジア建築』*7がそのひとつの地平を示している。アジアへの「通勤」と称する建築行脚の報告という形をとったアジアの現代建築紹介なのであるが、アジア各国の建築界の一端は垣間みることができる。そこでの村松の視線と戦前期に「東洋建築」あるいは「大東亜建築」に向かった建築家たちの視線と比較してみることは興味深いことである。また、そのアジア建築情報の水準は、穂坂光彦の『アジアの街 わたしの住まい』*8と比べればはっきりしよう。読み比べて欲しい。

 僕は、村松のセンスを愛するけれど、彼の視線が届かない地平にいらいらする。僕らは一体どこにいて何のために仕事をしているのか。村松の本が、日本人の仕事に触れないのはアンフェアである。黒川紀章のアユタヤの美術館はともかく、日タイ交流センターについては触れるべきではないのか。在盤谷日本文化会館をめぐる議論は解かれずに、半世紀続いているのである。ナショナリズムとそのシンボリズムについて、僕らはもう半世紀以上考え続けているのである。

 

 誰のための慰霊碑

 痛い話をもうひとつ思い出す。僕ら(アジア都市建築研究会)は、中国でひとつの本を企画し、編集し、出版しようとしている。この7月には出る筈だ。下らないと笑うなかれ。「当代日本建築家百選」ということで百人の日本の建築家に協力頂いた。紆余曲折があったけれど、最大の問題は、戦没者記念の施設であった。僕らは、余りにも鈍感である。シーラカンスの「大阪ピースセンター」にしても、各地にピースセンターが建つ。僕らは何を記録し、展示しようとしているのか。中国から当然の如くチェックが入った。掲載しようとしていた、靖国神社前の作品は差し替えである。差し替えない限り、出版そのものを取りやめるという。作品の選定は各建築家に委ねたとはいえ、編集者としての僕らは、一体、何を考えていたのか。

 東南アジア各地に慰霊碑が建ちつつあるという。デザイン以前の問題である。どういう思いでデザインができるのか。建築家に聞いてみたいものである。

 旧朝鮮総督府の解体問題については、既に触れた。その保存を訴えるナイーブな建築家を僕は愛するけれど、どんなにすぐれた建築作品でも解体さるべきケースはある。それがPC問題(ポリティカル・コレクトネス)である。救いは、その建設に疑問を投げかけた今和次郎であり、柳宗悦である。「やっちゃあいけない」建築はあるのである。

 僕の尊敬するオランダ人建築家T.カールステン*9は、インドネシア日本の捕虜収容所で死んだ。彼の功績は、今日のインドネシアの建築界にとって掛け替えのない宝である。彼が生きていれば、オランダとインドネシアの建築界は確実に変わったであろう。『建築文化』が一冊特集を編み、『錯乱のニューヨーク』の日本語訳も出た、今をときめくコールハウスだって、バタビア生まれだ。僕らは、こうした歴史のコンテクストにもう少し敏感であるべきではないのか。

 

 僕らの内なるアジア

 インドネシア、ジャワ、スラバヤとの往復運動をベースに、しかも、ハウジングあるいは都市計画の問題を中心に東南アジアと関わってきた僕にとって、その経験は限定されている。しかし、もう問題がグローバルであることは明かなことだ。しかし、ボーダレスというのは嘘である。資本の論理が国境を越えるけれど、一方が一方的に差異を利用して、ボーダーを越えるのであって、それは新たなボーダー(階層差)を生み出すのである。そうしたコンテクストに日本の建築家たちは余りにも無防備である。少なくとも、無防備であることを意識して欲しい。

 ワークショップは、僕にとって最高であった。しかし、この経験を共有してくれる建築家がいないのは実に寂しいことである。

            ジャカルタ 1996年6月29日 













 

2022年2月12日土曜日

歴博国際シンポジウム 日韓比較建築文化史の構築 ─宮殿・寺院・民家─ 2006年12月12日~13日

         日韓比較建築文化史の構築 ─宮殿・寺院・民家─ 

        Creating the framework for a comparative history of  Japanese and Korean architecture          ──palaces, religious structures, dwellings 

 

スケジュール

 

■第1日目 20061212()

 

10:0010:30

  開会挨拶                                   平川 南(国立歴史民俗博物館長)

  主旨説明「東アジアにおける日韓建築文化」  玉井哲雄 (国立歴史民俗博物館)

10:3012:20

   基調講演「韓国からみた日韓比較建築史」   金 東旭  (韓国京畿大学校)

12:2015:00

    昼食休憩               博物館展示見学 (解説 玉井哲雄)

 

15:0017:00

  セッション1 宮殿建築            川本重雄 (京都女子大学)

                                          李 康根 (慶州大学校)

17:3020:00

    懇親会                    

 

■第2日目 2006 1213()

 

09:3011:30  

  セッション2 寺院・宗教建築        藤井恵介 (東京大学)

                          金 奉烈 (韓国芸術綜合学校)

11:3013:00

    昼食休憩

13:0015:00

  セッション3 住宅・民家            田 鳳煕 (ソウル大学校)

                        玉井哲雄  (国立歴史民俗博物館)

15:0015:30

    休憩

15:3017:00

  総括討論               コメント1 李 相海  (成均館大学校)                                         コメント2 仁藤敦史  (国立歴史民俗博物館)

                                     コメント3  岩淵令治 (国立歴史民俗博物館)

 

   閉会挨拶                     久留島 浩(国立歴史民俗博物館)

 

                       司会  玉井哲雄 小島道裕 小野正敏