労働者たちの町づくり,山谷の労働者福祉会館建設の意義,望星,東海教育研究所,199012 (布野修司建築論集Ⅱ収録))
山谷労働者福祉会館の竣工
布野修司
山谷労働者福祉会館が一〇月一三日竣工した。建設に関わった多くの仲間たちが集まり、盛大な宴(落成祝い)が夜遅くまで開かれたのであった。翌、一四日には、日本キリスト教団日本堤伝導所としての献堂式(けんどうしき)も行なわれた。建設の母体となった日本キリスト教団関係者をはじめ、カンパした人びと、釜ケ崎や名古屋の笹島の仲間たちも駆けつけて完成を祝った。その竣工は、奇跡に近い。
鉄筋コンクリート造、地上三階建てで、延床面積は百坪に足りない。超高層の林立する大都市のなかでは、ささやかな建物にすぎないかもしれない。しかし、その建設に込められた思いはとてつもなく大きい。一階には、医務室と食堂が置かれている。二階には、多目的の広間と事務スペース、相談室、三階には、宿泊もできる和室、印刷室、図書室などが配される。屋上は、休憩スペースである。夏には屋上ビアガーデンともなる。期待される機能の割にスペースが足りないのはいかんともしがたいが、福祉活動、医療活動など労働者のための多彩な活動の拠点として構想されたのが山谷労働者福祉会館である。
一見、ただの建物ではない。手作りの不思議な味がある。ファサードは、A.ガウディーには及ばないけれど、砕いたタイルで奇妙な文様が描かれている。みんなでひとつひとつ張りつけたのである。また、ファサードには、様々なお面が取り付けられている。笠原さんという女性彫刻家の作品で、人物にはそれぞれモデルがある。山谷の人たちだ。さらに、みんなが思い思いのメッセージを刻んで焼いた瓦がところどころに使われている。カンパを募って開いたコンサートのときに粘土に描いて、淡路島の山田脩二さんのところで焼いたものである。
山谷に労働者のための会館を建設しようという話が出て、募金活動が始められたのは三年ほど前のことである。山谷に自前の労働者会館を建設するというのは、もともとは、映画「山谷(やま)ーーやられたらやりかえせ」を撮影制作中に虐殺された(一九八六年一月)山岡強一氏の発想であった。その遺志をついで山谷労働者福祉会館設立準備会が設立されたのである。完成された山谷労働者会館のエントランス上部には、一対のお面が掲げられている。山谷に住む夫婦のレリーフなのであるが、山岡氏と同じく虐殺された(一九八四年一二月)映画監督佐藤満夫氏を祈念してのものである。
八九年一月、山谷の中心に土地を確保することができた。建設そのものが具体的なものとなり、募金活動に拍車がかかった。しかし、それからが長かった。一年半、建設にかかって一年余り、竣工に至った過程は波乱万丈である。設計を行い、設計施工の監理を行ったのは宮内康建築工房である。僕自身は、その身近にいて全プロセスを見守っていたにすぎない。また、「日本寄せ場学会」の一員として募金活動に協力したにすぎない。実際の建設については、学生たちとともに、タイルや瓦を張るのを少しばかりお手伝いしただけである。しかし、それでもその困難性はひしひしと感じることができた。ほんとに奇跡に近いと思う。
まず、建築の確認申請の問題がある。また、近隣への説明もある。それ以前に建設の主体をどうするか、施設の内容をどうするかが問題であった。近隣の理解も得、諸手続きもクリアした段階で、最大の問題となったのは施工者の問題である。いろいろあたっても引受け手がないのである。三つの建設会社にかけあったのであるが、いずれも断わられた。無理もない。お金は、わずか三千五百万円しかありません、あとはカンパでなんとかします、というのである。また、山谷の労働者を使って下さいというのも大変な条件であった。紆余曲折の上、最終的に採られたのが、直営という方式である。日本キリスト教団を建設主として、一切、労働者自身による自力建設を行うことにしたのである。
直営方式というのは、建築主が建築材料を支給し、職人さんたちを手間賃で雇って建設する方式で、木造住宅ならそう珍しくはない。今でも行われている地域はある。しかし、大都市で、しかも鉄筋コンクリート造の建築で、直営方式というと極めて特異である。その上、自力建設ということになれば、全く例がない。実に希有なプロジェクトとなったのであった。
住宅でもいい、全く自分一人で建築することを考えてみて欲しい。ほとんど無数に近いことを考え、決定し、手配をしなければならない筈だ。実際は、トラブルの連続であった。山谷には労働者が沢山いるとはいっても、働きながらのヴォランティアである。また、得手、不得手の仕事もある。スケジュール通りに進むのがむしろ不思議である。ましてやカンパを募りながら、資金調達もしなければならない。ハプニングも起こった。例えば、ある運送会社は、「山谷」というだけで、建築資材である瓦の搬送を拒否したのである。ひどい差別である。
そうした気の遠くなるような困難を克服し、ともかく完成にこぎつけたのは驚くべきことだ。僕自身、こんなに早くできるとは思っていなかった。正直言って予想外である。未完成の美学もある、永遠に造り続けるのがいい、なんて言い続けて現場の人たちからは顰蹙を買い続けてきたのであった。
山谷といえば、「寄せ場」である。日雇労働者の町として知られる。日本でも有数の「ドヤ街」である。いま山谷は空前の建設ブームの中で仕事は多い。路上で酒盛りする労働者の様子は一見活気にみちているようにみえる。しかし、抱える問題は極めて大きい。
第一、好況にも関わらず、必ずしも、労働者の賃金は上がっていないのである。職安で日当一万一千円、路上で一万二千円ぐらいが平均であろうか。型枠大工であれば、人手不足で三万円も五万円もすると言われるのであるが、山谷には落ちない。あいも変わらず、中途で抜かれる構造があるのである。高い労務費を支払ってもリクルートの費用に消えてしまう。建設業界の重層下請けの構造、高労務費・低賃金の体質は変わってはいない。山谷はその象徴である。
第二、生活空間としての山谷はいま急激に変容しつつある。地価高騰の余波は山谷にも及び、再開発のプレッシャーが日増しに強くなりつつあるのである。例えば、ドヤは、次第にビジネスホテルに建て替わりつつある。宿泊費は、当然上がる。宿泊費があがれば、労働者の生活にも大きな影響が及ぶ。日雇労働者も、ドヤ住まいとビジネスホテル住まいとに二分化されつつあるのだ。また、山谷から追い立てられる層もでてきている。
第三、山谷地区に居住する日雇労働者は八千人から一万人と言われる。その日雇労働者は、どんどん高齢化しつつある。日本の社会全体が高齢化しつつあるから、当然とも言えるのであるが、単身者を主とする寄せ場の場合、また、日雇という不安定な雇用形態が支配的な地域の場合、高齢化の問題はより深刻である。山谷労働者福祉会館が構想されたのは高齢化の問題が大きな引金になっているといえるだろう。
山谷にも山谷の地域社会がある。日雇労働者だけでなく、その存在を支え、共存する地域社会がある。二年程前、日雇労働者ではなく、地域住民を対象とした調査を「日本寄せ場学会」で行なったことがあるのであるが、ドヤの経営者にしろ、酒屋や飲食店にしろ、日雇労働者に依拠して成立したきた構造がある。日雇労働者を差別する構造もあるけれど、日雇労働者と共存してきた構造もあるのである。しかし、再開発の波が及び、そうした構造そのものが大きく崩れつつあるのが現在の山谷である。
こうして、山谷労働者福祉会館の自力建設の意味が明らかになってくる。再開発によって、地域の生活空間が大きく変わりつつあるのはなにも山谷に限らないはずだ。東京の下町では、地上げによって壊滅してしまった地区がいくつもある。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返すだけで果していいのか、自分の住む町をどうするのか、どう考えるのかは、決して人事ではないのである。
この間の、東京大改造の様々な動きはいまだとどまることをしらないかのようである。膨大な金余り現象の生んだこの首都の狂乱が意味するのは、都市のフロンティアが消滅しつつあることである。東京の改造が大きなテーマとなったのは、少なくとも、都市の平面的な広がりが限界に達したことをその背景にもっていた。都市のフロンティアがなくなることにおいて、新たなフロンティアが求められる。ひとつは、ウオーター・フロントである。海へ、水辺へ伸びて行く発想である。ウオーター・フロント開発は、既にすさまじい勢いで進められている。数々のプロジェクトが進行中である。山谷の立地する隅田川沿いにも再開発プロジェクトが目白押しである。東京湾岸の風景は既に一変しつつある。産業構造の転換で未利用地が多く、都心に近接しながら地価が安かったせいもある。埋め立てによって広大な土地がまとまっていることも大きい。
さらに新たフロンティアとして眼がつけられるのは、空であり、地下である。二千メートルもの超高層ビルのプロジェクトや数十万人を収用する地下都市開発のプロジェクトが次々に打ち上げられているのがそうである。こうした巨大なプロジェクトは、もちろん、必ずしも具体化されつつあるわけではない。実際に進行しつつあるのは、様々な再開発である。まず、眼がつけられたのが未利用の公有地であった。公務員宿舎や国鉄用地が民間活力導入を口実に次々に払い下げられ、地下狂乱の引金になったことはまだ記憶に新しい筈である。
東京の再開発の動きはあっという間に全国に波及することになった。投機目的の東京マネーが日本列島全ての土地をそのターゲットにしたのである。リゾート開発ブームもまた資本にとってフロンティアが消滅しつつあることを示すのである。
こうして日本列島全体がバブル経済に翻弄され、かき回される中で山谷に労働者福祉会館が全くの自前で建設された。余程地に足のついた試みといえるのではないか。この間の地価高騰で、一般庶民にはとても住宅がもてない、という悲鳴が聞こえてくる。しかし、一向にその声は一つにまとまらない。豊かさの幻影のなかで階層分化が進行しているからであろう。資産を持つ層はちっとも困っていないのである。また、資産を持たないサラリーマン層だって、ワンルーム・リース・マンションに投資したりして、住テク、財テクに走っている。目先の、私の利益を求めて争うところには町づくりもなにもないのである。
東京大改造、再開発を支えるのは言ってみれば山谷の労働者たちである。一度に数多くの建設労働者を集め、職人不足を加速した、東京改造の象徴である新都庁舎にしても、山谷の労働者がいなければできないのである。しかし、山谷のような空間の存在は常に無視され、差別されてきた。若い労働者たちはまだしも、歳をとって病気になり、仕事もままらなくなると、追い立てられ、ボロ雑巾のように捨てられる。そうした、労働者たちが自前の拠点を全くの自力建設でつくった。つくづく、すごいと思う。
一見豪華に装われた新都庁舎と一見手垢にまみれた山谷労働者福祉会館、実に対比的である。日本の町づくりの方向をその二つのどちらにみるのか、いまひとりひとりに問われているのだと思う。
附記
山谷労働者福祉会館は竣工したといっても、その内容をつくっていくのはこれからである。土地の代金や工事費(材料費)の支払いにもまだまだ苦慮している。また、施設を維持し、福祉活動や医療活動を展開するのに月々かなりの費用がかかる。会館では、その主旨に賛同し、活動を支えてくれるヴォランティアや賛助会員(月額二千円)を求めている。援助の手を差し伸べて頂ければと思う。
山谷労働者福祉会館 東京都台東区日本堤1~25~11
電話 03-876-7073
郵便振替口座 東京2-178842 山谷労働者福祉会館設立準備会