このブログを検索

2023年3月31日金曜日

2002年4月 中国建築学会訪問 第4回アジア建築交流国際シンポジウム 9月 重慶開催 経費削減 広告が欲しい  とにかく 早く届けたい 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌                          布野修司

 

20024 中国建築学会訪問 第4回アジア建築交流国際シンポジウム 9月 重慶開催

経費削減 広告が欲しい

       とにかく 早く届けたい   

 

 

200241

テキスト ボックス: 建築学院ロビー:
右 梁思成像
 北京。午前中、精華大学、建築学院訪問。秦佑国院長、毛其智教授(人居環境研究中心副主任、建築与城市研究所副所長)、王路教授(『世界建築World Architecture』編集長)、張Zhang Jie副教授と会見。第4回アジア建築交流委員会(ISAIA)についての意見交換が主目的であったが、トウ君がこの9月から精華大学のポスト・ドクターになることもあって、話題は、当然、北京に関する都市研究についての意見交換にも及んだ。特に、張先生は、北京の都市計画の寸法関係に興味を持っていて、「北京古城城市設計中的人文尺度Human Scale in the Planning and Design of Ancient Beijing」を『世界建築World Architecture2月号に書いたばかりであった。王先生が主宰する雑誌である。トウ君の関心(トウイ(神戸大学),布野修司,重村力:乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察,日本建築学会計画系論文集,536,p163-170, 200010月)と極めて近い。精華大学に戻った後は、当然共同研究することになるだろう。

 会見の途中に突然日本からの訪問団が見えるという。誰だろう、どこの団体だろうと身構えると、なんと、京都工芸繊維大学の西村征一郎先生の顔。学長の木村光佑先生を団長に交流のための視察だとおっしゃる。奇遇であった。京都工芸繊維大学は精華大学と学術交流を開始されるという。

精華大学に、僕と会ったことのある若い先生が何人かいるというので王路教授の部屋に移動。狭いけれど居心地良く設計されている。しばらく歓談。教授というけれど王先生はかなり若い。ハノーバーで学位を取ったというが、期待されているのであろう。切れると同時にセンスがいい、という印象。建築賞の創設など中国建築界の情報を得る。『世界建築World Architecture』と『建築雑誌』の交流も約す。

隣の美術学院には、東京芸術大学の六角鬼丈先生が研究室を持っている。タイミングが合えば、六角さんとも会いたいと思っていたが、北京入りした前日帰ったという。ちょっと残念。

 

 

 午後、中国建築学会にて打ち合わせ。

 出席:唐犠清Tang Yiqing 副秘書長、張百平Zhang BaiPing 国際交流部主任 、王賤京Wang Xiaojing 国際交流部項目主管

布野修司/孫躍新/トウ・イ/モハン・パント/羅頸

 

 第4回アジア建築交流国際シンポジウム(ISAIA)について確認した主要なポイントは以下の通り。

1. JAABEについて

・・・・早く出てうれしい。

a.   2号について、中国国内へ連絡しているが時間が足りない。58の締切は一ヶ月程度伸ばして欲しい。締切に間に合わなかったものは3号に回すことも考えて欲しい。

b.   20冊至急中国建築学会に送って欲しい。レフェリー用

c.   宣伝したいが、航空便を加えると1500円がいくらになるか。

2. 4回ISAIAについて

a.   規模:100150を想定 国内 7080名 日本 3050名 韓国 1020名。200人を超えると会場等で問題がでるかもしれない。

b.   参加者:中国建築学会のホームページに随時参加者リストを公表する。大臣の参加は未定。重慶市長、会長は参加。日本代表6人は登録費無料。基調講演者、レセプションでの挨拶者。

台湾、北朝鮮、欧米など個人参加は歓迎する。

c.   組織委員会:仙田会長、布野アジア建築交流委員会委員長の2名が加わる。

d.   基調講演者:特に要望はない。日本に委ねる。

e.   ツアーについては日本にまかせる。中国国内は中国にということであればサポートする。エクスカーションについても自由に考えて欲しい。重慶市が検討中。旅行社を選んだ方が安いとのアドヴァイス。

f.   日中国交回復30周年について特別な儀式は考えない。韓国が参加していることもある。→中国側で会長と相談する。

g.   スケジュール:916日レセプション スピーチと代表者紹介。17日 日中韓、各国数名の代表によるミーティング

h.   論文はまとめて送って欲しい。

i.   30,000元(約48万円)は日本建築学会へ提供する。

3.  今後

2004年 日本、2006年 韓国、2008年北京オリンピック年 中国、という予定で行う。協定延長について確認。

 

 終始、友好的な会談であった。7年前に来た時は、学会はまだ隣の建設部(建設省)の中にあったが、1999年のUIA大会を機に建てられた隣の「中国建築文化中心China Architectural Culture Center」に移っていた。それにしても、全てがスマートになったという印象である。

 

 以上で中国での主要な仕事はほぼ終了である。ほっとする。

 夕刻には若干時間があるので、SOHO現代城のモデル・ルームに行く。山本理顕さんから現場を見てくれと言われていたのである。紅石(レッド・ストーン)社の大規模開発団地で山本理顕さんがコンペで勝って、この1月からスタッフが常駐している。スタッフのひとり、坂本一成さんの研究室の出身だという迫さんに色々話を聞いた。

 モデル・ルームは、日本で言えば、億ションである。中国のプロジェクトとはとても思えない。わずかにメイド部屋があるのでそれと知れる。そのメイド部屋にもシャワールームがあり、自動乾燥機がついている。白を基調とし、面で収めた室内は、日本から取り寄せたという家具が置かれている。売れ行き好調というから驚きである。

 しかし、現場は大変だ。設計施工の体制がまるで違うのである。基本的には設計者は現場には口を出せない。施工制度にも不安がある。通訳を介しての打ち合わせだけで膨大な時間をとられていると迫さんはいう。

 王さんから、『青年建築師・中国』という昨年の暮れに出たばかりの作品集を頂いた。33人の「青年建築家」が選出されている。45歳が最年長である。中国は確実に世代代わりである。デザインの能力も格段の進歩がある。

 理顕さんに先駆けてSOHO現代城を手掛けたのは、朱小地・北京市建築設計研究員副院長であるが、1964年生まれである。もちろん、33人の内の一人だ。

 

 

200243

 北京にいても、ばんばんメールが飛んでくる。日本にいるのと一緒である。学年末から新学期にかけてだから、校務に変わるメールも多い。編集委員の間でも相変わらずメールが飛び交っている。8月号のインド特集が佳境である。インドの大建築家ドーシさんへのメール・インタビューが実現しそうだ。新居さんがドーシさんに送ったメールが転送されてきた。現時点の目次も伝えられている。

 

Dear Mr.Doshi,

We are enclosing details of the Indian issue as it now stands. Also some requests regarding the article and 5 questions from one of the editors in charge, for the mail interview.

Please give us your opinion.

Along with the official letter requesting you for the article and interview, a sample copy of the journal will soon be sent to you for your reference.

The questions are just a guideline of what the Board is hoping you will elaborate on. They are not fixed and you may change or add to them depending on what you want to emphasize on. It will be re-edited and covered in 2 pages.

 We request you to please do the following either in the main article or in the interview:

1. Refer to general trends in India, to old Jaipur and Chandigarh also. Since Mr.Raje is talking about Kahn, we hope you will balance the coverage with Le Corbusier's role in India.

2. To focus on Vidyadharnagar as a concrete case even in the main write-up, if possible.

3.To send visual material by post in good time and to reduce the write-up to make space for them. We think that without visuals it would be very difficult to understand the article.

Thanking you,

With regards,

Nii and Vasanti

 

Proposed title: THE WORLD OF INDIAN ARCHITECTURE ƒ~ (24 pages, visuals included)

1.Introduction:ƒWater and Architecture; the Mountain and Architecture; the Earth and Architecture - a reflection on origins‚ (tentative title)

      - Terukazu Nii and Vasanti Menon, architects   (4 pages, based on visuals)

2.Main Feature:                                   (7pages,tentatively, visuals included) 

  Beyond sustainable cities: Strategies for Regional and Global sustenance

                                               - B.V.Doshi, architect   (5 pages)

Mail  Interview with Mr. Doshi                                     (2 pages)

3.The diverse world of architecture in the Indian sub-continent:(tentative) 

                                                   (11pages, visuals included)

*Buddhist Architecture:  - Atsushi Nonogaki, scholar (1 page, including visuals)

*Hindu architecture and Islamic architecture?

       George Michell, scholar, with Snehal Shah, architect          (3 pages, including visuals)

*Islamic Architecture:      - Naoko Fukami, scholar  (1 page, including visuals)

*Step-wells  - Shuichi Takezawa, architect & scholar (1 page, including visuals)

*Urban dwelling: the haveli    - Shu Yamane, scholar (1 page, including visuals)

*Colonial Architecture:        - Kiyo Izuka, scholar (1 page, including visuals)

*Modern Architecture:

Louis Kahn - IIM, Ahmedabad and The Capital Complex, Dacca (tentative title)

      (one or both works?)   - Anant Raje, architect  (2 pages, including visuals)

*Nepali Architecture: Japanese scholar under consideration (1 page, including visuals)

*Srilankan Architecture:       - Hiromasa Kurokochi, scholar (1 page, including visuals)

4.Data on Indian architecture         -Akihito Aoi and Shu Yamane  (1 page)

 

200244日~6日 

 6日の帰国の前に、鉄道で大同へ一泊旅行。大同は洛陽遷都以前の北魏の首都、平城である。市内にまだ明、清時代の城壁が残っている。お目当ては雲崗の石窟と応県の木塔(仏宮寺釈迦塔、1056年)。さらに、懸空寺もある。大同市内には、上・下華厳寺(上:金1140年、下:遼1038年)そして善化寺(1128年)がある。といっても、ピンとこない人が多いかもしれない。しかし、学会建築史委員会編纂の『東洋建築史図集』(彰国社、1995年)を開いて見て欲しい。いずれも取り上げられて田中淡先生(京都大学人文研究所)による解説がある。また、村田治郎先生の著作集三『中国建築史叢考 仏寺仏塔篇』(中央公論美術出版、1988年)にはそれぞれについての論文が収められている。もちろん、2冊は持ってきた。

応県の木塔は八角五重の堂々たる塔であった。6重に見えるが初層に裳階がついている。中国に現存する最古の木塔である。内部は9層だが4層は天井裏で5層に塑像が収められている。村田先生が実測されたのは1938年のことである。

懸空寺は、崖にへばりついた懸崖づくりのお寺。三朝温泉の三仏寺投入堂もびっくりの代物であった。中国はさすがにすごい。華厳寺も善化寺も実に迫力があったが、上華厳寺が工事中で見られなかったのは残念。

京都大学で「世界建築史Ⅱ」という講義を開始したのが1995年の後期である。Ⅱというのは、Ⅰがあって、Ⅰが「西欧」、Ⅱが「非西欧」を扱う。かつての講義名でいうと「東洋建築史」である。建築史を専攻したわけでもないのに、アジアを歩き回っているのだからやれ!ということになった。俄勉強を続けながら、四苦八苦しながら続けてきたが、もう7年になる。ようやく教科書を書く段階に達し、今年の秋には出せると思う。『アジア都市建築史』(仮)である。

 つくづく思うに建築というのは実際見ないとわからない。『東洋建築史図集』に載っている建築は全部視ようと機会を捉えて建築行脚を心掛けてきたが、道未だ半ばというところか、中国など西安、北京を見た程度で、今回ようやく大同までたどりついたというわけだ。

 まず手掛かりにしたのは、東洋建築史学の始祖、伊東忠太、そして、関野貞の軌跡である。知られるように、伊東忠太が最初に赴いたのは北京であり、最初に手掛けたのは紫禁城の実測である。19012月のことである。

そして翌19023月から19056月にかけて、忠太はユーラシア大陸横断の大旅行を敢行する。325日東京を出発し、4月より7月まで北京を中心として、大同、五台山を調査した。そして、発見したのが雲崗の石窟である。奇しくも丁度百年後、雲崗石窟を訪れることができた。写真は最も有名な第20窟である。

 

200248

情報委員会で上京。未だ中国呆け。入稿されていない4月号の原稿があって唖然。会員には届いていないといけない日程である。建築雑誌の現状のペースをご存じの執筆者の原稿はついつい遅れる。編集部は真っ青である。編集長として初めて催促のメールを打つ。帰宅すると入稿があったというメール。ちょっと胸を撫でおろす。

 

2002410

授業開始。何年も教師をしていると新学期といってもどうこうないのであるが、新入生の初々しい姿を見るのは気持ちがいい。2月号特集「公開空地 なんでこうなるの?」について、簡単な意見がメールで寄せられる。若干要領を得ないので、意見をまとめて投稿して欲しい旨伝えてもらう。

 

2002411

近畿支部卒業設計コンクール審査のために近畿支部へ。はじめてである。正直こんな活動が続けられていることを知らなかった。半世紀になる活動だという。すばらしい。

審査委員は7人。大阪大学の木多道宏先生を除いて旧知の先生方であったので和気藹々の審査となった。もちろん、厳正なる審査が行われたのは言うまでもない。以下の報告の通りである。いささか気になったのは意見が揃いすぎたことである。そして、僕の意見がいささか浮いていたことである。実施コンペではないので、また、とりまとめ役に指名されたので、自説に固執した議論に持ち込むことは遠慮したけれど、設計コンクールにおいてまず大事なのは審査委員の構成であることをいまさらのように思った次第。これは学会賞の作品賞の委員会に二年参加した実感でもある。短大、工専、専修学校、工業高校といえども力作が少なくない。やはり指導者の熱意が大事であることを痛感したのであった。

 

近畿支部卒業設計コンクール審査報告

審査経緯

 平成13年度、近畿地区短大・高専・専修学校並びに工業高校「卒業設計コンクール」(第56回)の審査は、平成14411日、大阪科学技術センター会議室において、7名の審査員全員の出席によって行われた。

 本コンクールの主旨、前年度の実績、13年度コンクールの応募状況、審査に関する内規を確認した後、互選により布野を審査員長に選出した。応募総数は、「短大・高専・専修学校の部」17作品、「工業高校の部」8作品で、昨年度に比し、前者は4作品減、後者は1作品増であった。一昨年と比べると、前者は5作品減、後者は3作品増である。

 審査に当たっては、各部門3作品を必選することをまず確認し、審査方法について議論した。結果、まず、個々の審査員が全作品を入念に評価した後、それぞれすぐれていると考える作品を各部門3点以内記名投票することとし、その後の進め方については投票結果を踏まえて議論することとした。

 ほぼ1時間半の審査の後、記名投票を行った結果は、「短大・高専・専修学校の部」では、no.8-6票、no.5-5票、no.7-4票、no.9,no.15-2票、no.11,no.17-1票、「工業高校の部」では、no.7-7票、no.8-5票、no.4-3票、no.2-2票、no.1,5-1票であった。以上の投票結果を踏まえ、まず「工業高校の部」について、続いて「短大・高専・専修学校の部」について検討することとした。 各部門とも、まず投票の無かったものについて、委員それぞれがコメントし、入選作品とはならないことを確認、続いて得票の少ない順に、推薦者の評価理由を中心として議論を行った。

「工業高校の部」については、満票を得たno.75票を得たno.8を入選とし、残る一点についてさらに議論を重ねた。No.1については、ほのぼのとしたセンスが、no.2no.4については、手堅いまとまりが、no.5については図面の密度が評価された。しかし、それぞれ欠点も指摘され全員一致とはならなかったため再度記名投票を行い、no.4-4票、no.5-2票、no.2-1票という結果、no.4を入選作に加えることとした。

 「短大・高専・専修学校の部」では、まず、同様に団地再生をテーマとするno.3no.7の評価が議論になった。現実性の高いno.31票も得ていないが、スケルトン、インフィル分離などビルディング・システムの提案が全くなく「再生」というテーマも自覚されていないno.7の問題点も指摘され、二つの作品の優劣が問題となった。また、1票も得ていない作品で気になるものとして、no.16no.4があげられた。議論の末、まず、町工場地区の再生という今日的テーマを高水準にまとめたno.8を入選作品とすることとし、さらに議論を重ねた。まちづくりをテーマにするなかではno.5の評価が高かったが、no.17の作業を高く評価する意見もあった。また、no.7への疑問から、新たにコミュニティ・スクールの提案no.15の評価も加えられた。議論の末、過半数以上を獲得したno.5,no.7,no.8 の三作品を入選作とする方向が確認されたが、いずれも「再生」をテーマとする点で入選作のバランスが議論された。最終的に記名投票で決することとし、投票の結果、no.5,no.74票、no.9,no.153票となった。僅差ではあったが、no.5,no.7,no.8を入選作品とすることと決定した。

 

 審査概評

 入選作に「まちこうば再生」「団地再生計画」などが並ぶように、再生、リノベーションをテーマとする作品が目立った。時代の流れであろう。

団地再生をテーマとするものは2作品もあった。また、既成市街地に新しい要素を組み込もうとするもの、既存のストックを巡礼の道に沿って整備しようとするもの、かつての万博会場をリノベートしようとするもの、歴史的街区を寺子屋として蘇生しようとするものなど、時代の流れを敏感に感じながらの提案はそれぞれ好感がもてた。時代との応答という意味では、池田小学校問題を背景とするコミュニティ・スクールの提案、不況を重く受け止める起業家学校の提案、コーポラティブ・ハウスの提案、高齢社会を背景とする老人センターの提案などもある。

身近なまちを見直しながらまちづくりについて提案するものもひとつの傾向である。詳細なサーヴェイを展開するものに力作があった。問題は、具体的にどのような空間を提起できるかである。そういう意味では、新たな歩道橋空間の提案など具体的に身近な新しい空間を提案するものにも好感をもった。

最大の議論になったのは、団地再生の2作品である。すなわち、個々の作品の評価を超えて、団地再生について議論を喚起させる力が2作品にはあったといえるであろう。戦後日本の居住地景観をつくった団地については、オイルショック後、その増改築が現実的課題となったことがある。そして、いくつか事例がある。しかし、結局は建て替えた方がいい、というのが当時の結論であった。しかし、団地再生という課題はより現実的な課題と成りつつあるというのが現在である。

 「短大・高専・専修学校の部」のno.3はその課題に真摯に答えようとしたようにみえる。よりスマートにしたファサード・エンジニアリングへの期待を予感させた。しかし、審査員の票を集めたのは「短大・高専・専修学校の部」no.7であった。この作品は、むしろ、新たな集合住宅の提案とみなすべきであろう。多様な住戸を組み合わせ、豊かな団地景観をつくりだそうとする試みが魅力的であったということであろう。ただ、ビルディング・システムへの配慮がなく、「再生」の意味が希薄となっているのが残念であった。

審査員会が一致してひとつの傾向を推すということにいささか危惧があり、USJ的発想であるが、太秦の映画村をロス・アンジェルスに持っていこうとする作品としてアイディアを買える「短大・高専・専修学校の部」のno.11、道頓堀川の再生に関わる作品として水準の高い「短大・高専・専修学校の部」のno.9を推したが賛同を得られなかった。

給水設備設計をテーマとした作品は力作であったが、評価の軸が異なり、作品群の中に位置づけることができなかった。

                                                             

平 成 13 年 度 近 畿 地 区 卒 業 設 計 コ ン ク ー ル 審 査 表

                                                         H14411

        <短大・高専・専修学校の部>         <工業高校の部>                  

作品番号

審査員名

1

2

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

13

14

15

16

17

 

1

2

3

4

5

6

7

8

 

笠原 一人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

木多 道宏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

木村 博昭

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

末包 伸吾

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

竹原 義二

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

布野 修司

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山本 光良

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

合  計

 

 

 

 

 

(5)

(4)

 

(4)

(4)

(6)

(6)

(2)

(3)

 

(1)

(1)

 

 

 

(2)

(3)

 

(1)

(0)

(1)

(1)

(2)

(1)

 

(3)

(4)

(1)

(2)

 

7

5

 

○印入選

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(短・高・専)1次審査:(○)

2次審査:(◎)

(工業高校)1次審査:(○)

2次審査:(◎)

 審査が終わって、『建築雑誌』が話題になった。編集長日誌読んでますと、事務局の児玉さんがおっしゃる。反応を聞くのは悪くない。しかし、まだ、3月号を見ていないという。もう書きすぎで、小野寺さんも片寄せさんもうんざりだろうけれど、現状把握をお願いする。

 入之内瑛さんから作品集『住まいの風姿体入之内瑛と白鳥健二の軌跡』(住宅建築別冊・53)送ってもらう。随分会っていない。ほのぼのとした作風は健在である。

 

2002415

アジア建築交流委員会で上京。上京の友は、亀井俊介『ニューヨーク』(岩波新書)、入江敦彦『京都人だけが知っている』(洋泉社)、吉川忠夫『秦の始皇帝』(講談社学術文庫)。いつも京都駅の二見書房に寄って新書、文庫を二三冊買い込む。もちろん、全部読むわけではない。集中しても一冊読みきるのが精一杯である。新幹線の中ではぺらぺらとめくるだけで、必要に応じて読み直す。大抵は寝る前である。『ニューヨーク』は亀井先生の名前でつい手が出た。このアメリカ文化研究の大家に大学時代に英語を習った。読んだのは、グレアム・グリーン?の“A Passage to India”ではなかったか。否、『インドへの道』は高橋康也先生だった。かつてのニュー・アムステルダムということもあったし、WTCも頭にあったのかもしれない。ニューヨークを歩く時にはもう一度手にすることになろう。『秦の始皇帝』は中国の余韻である。

『京都人だけが知っている』というのは、どうしても手が出てしまう。今年で京都は11年目だけれど、未だに余所者意識が抜けないと言うことか。著者の入江さんは西陣生まれの41歳。現在ロンドン在住。京都生まれの京都愛憎論である。

 

「京都人は知っている。

外からくるものは、かならず悪いものである。

外からくるものに、とりあえず逆らってはいけない。

外からくるものは、この街の法則が判らなくて当然。

外からくるものは、いつか外へ帰ってゆく。

外からくるものも、いずれは京都人になる宿命がある。

外からくるものの名、それは、よそさん。」

うなずきながら一気に読んだ。

 

 読書が専門の分野に限定されるのはいかたしかたないか。あとはこうした新書、文庫などで、世の中にアンテナをはるぐらいである。もうひとつ読むべきなのが送られてくる友人達の本だ。しかし、これがなかなか読めない。いつかまとめてと思うのだけれど、特に建築関係の本となると、いずれそのうちにとつい思ってしまう。困ったものだ。柏木博さんからは、さらに『20世紀はどのようにデザインされたか』(晶文社)を送っていただいた。また、飯島洋一さんから『現代建築・アウシュヴィッツ以後』(青土社)という刺激的なタイトルの評論集を送っていただいた。20世紀の建築を僕なりに総括してみたいとは思うのであるが時間がとれない。要は、優先すべき関心が別にあるということであろう。

 

アジア建築交流委員会は、阿久井先生、飯塚先生、松本先生、石道先生、中川先生、八木先生、片桐先生、友田先生など主立った先生にお集まり願った。栗原さんの周到な準備のもとに、中国での協議を報告、日本での準備について議論した。エクスカーションは、三峡下り、来年貯水されると、永久に景観が失われるかも知れない。ラストチャンスである。三峡下りも目当てに、奮って参加をお願いしたい。

 

4回アジアの建築交流国際シンポジウム開催のお知らせ

開催日:2002917日~19

開催地:中国 重慶

  催:中国建築学会,大韓建築学会,

    日本建築学会

◆論文募集◆

論文書式:JAABEの書式に準ずる(http://www.aij.or.jp/eng/jaabe/)

日:712日〔金〕必着(郵送)

先:日本建築学会 アジア建築交流委員会 担当:栗原宛

◆◆参加登録について◆◆

参加を希望される方は,日本建築学会事務局宛に会員番号と氏名をお知らせください。シンポジウム公式参加団を構成し,団体登録する予定でおります。現在三峡下りをして武漢他をめぐるツアーを企画中。詳細はホームページまたは,次号雑誌にてお知らせします。奮ってご参加ください。

※長江の中流域の大峡谷。三峡ダム建設に向けて2003年以後三峡下りはなくなります。絶景を背景に中国の歴史,文化に触れる旅です。

申込・問合先:アジア建築交流委員会 担当:栗原 izumi@aij.or.jp 03-3456-2016

Call for papers

You are cordially invited to contribute papers to the ISAIA. Please be informed on the following instructions for preparing the manuscript.

-- The deadline for submission of paper is July 15, 2002. Please send your paper in one printed copy with a disk to the symposium secretariat by registered airmail or EMS.

(→日本から提出する場合は,日本建築学会で原稿をまとめて提出します)

-- The official language for the paper and presentation is English.

-- The length of the paper is recommended in 4 pages of A4 size. The maximum length of paper should be limited within 6 pages. Figures and tables can be inserted into the lines of paper, or placed at the rear of the paper.

-- All papers will be reviewed and selected by the Scientific Committee of ISAIA. The selected papers will be published in the proceedings and part of selected papers will be presented at the symposium. The authors will be informed before August 20th, 2002.

--All measurements should use the metric system.

--Typing instructions: The manuscript should be arranged as follows (1) Title of the Paper (2) Name of the Author (3) Affiliation of the Author (4) Abstract of the Paper, maximum 300 words (5) Main Text Including Figures and Tables (6) References. Please use plain white A4 paper and leave 25mm margin on top and bottom, leave 20mm margin on left and right sides; the full type area is 170mmX245mm.

 

Announcement

The International Symposium on Architecture Interchanges in Asia (ISAIA) is a biannual international symposium co-sponsored by the Architectural Society of China (ASC) together with the Architectural Institute of Japan (AIJ) and the Architectural Institute of Korea. The 4th ISAIA plan to be held in Mid September 2002 in China and hosted by ASC. The Organizing Committee of ISAIA welcomes architects, structural engineers, economists, faculty of school of architecture and engineering, scholars and professionals in the field of architecture and engineering to take part in the symposium and contribute papers.

 

Main Theme: Resource Architecture and Modern Technology

Sub-theme:

1. Economy and Building Development

2. Local Culture and Architectural Context

3. Urban Ecology System and Green Building

4. Modern Structure and Technology

Proceedings: published before the opening of the symposium in English version with Chinese abstract.

Symposium Program:

Sep.16 - Arrival of Delegates and Registration

        Evening: Welcome Reception

Sep.17 - AM Session (1) Opening Ceremony, Keynote Lectures

        PM Session (2) Invited Paper Presentations

Sep.18 - AM Session (3) Invited Paper Presentations

        PM Session (4) Invited Paper Presentations

Sep.19 - Architectural and Cultural Tours in Congqing city.

Sep.20 - Departure of participants

Language: English (brief translation into Chinese on site).

Registration Fee:

120 US dollars for each participant (including lunch and dinner of 3 days, one copy of proceedings and architectural tour on Sep.19th). You may send a bank draft (personal check and credit card are not acceptable) to ISAIA Secretariat by registered mail. Or, you can pay the registration fee on your arrival in Chongqing (it is suggested that you pay the fees in cash on arrival).

 

出来るだけ多くの参加者があって欲しいといくつかメールを送ったら、ピーターから返事が来た。ピーターは、ヴァージニア工科大学で建築を勉強した後、京都で大工修行をした変わり種である。

 Funo-sensei,

Thank you for taking the time to answer my questions!  I am excited about the conference and have been in contact with Ray Kass.  I will shortly be contacting Paul Knox to see if he is available to attend the conference as well.  The opportunity to participate in and contribute to this conference is important to us, and we look forward to the chance to foster our relationship with you and develop new ones.
Best regards,
 Peter Lau

 Ray KassというのはJ.ケージとも親交のある芸術家である。ヴァージニア工科大学にいて、年に一回は京都にやってくる。大倉二郎氏と懇意で、研究室を動員してワークショップもやったことがある。Paul Knoxというのは有名な地理学者で、ヴァージニア工科大学で学部長をしている。彼らが参加となると賑やかになる。

 

アジア建築交流委員会の後、大文(田中文男)さんに電話。明日の座談会の確認である。するとすぐ来い!ということになった。新宿の事務所にお邪魔すると、即ビールである。ひとしきり話すと、一軒行こう、と当然のようになった。飲み続けるうちに、曽根(幸一)を呼べ、松山巌を呼べ、となった。東京芸大グループとは随分懇意の様子。二人とも幸か不幸か不在、その代わり、松山さんのかつての相棒井出健さんが捕まった。井出健さんとは久しぶりであった。しこたま飲んでフラフラの夜となった。東京泊。

 

2002416

理事会。二日酔い。何故か理事会の時に多い。

18:30より6月号座談会。坂本功、田中文男、渡辺邦夫の異色の組み合わせ。編集部からは藤田、大崎両委員の他、山根、布野が参加。座談開始の時間になっても気分が悪い。進行は藤田委員に任せる。仕掛けておいて失礼ながら、予想以上に面白い座談会となった。乞う、ご期待である。

鼎談終了後、坂本先生から『木造建築を見直す』(岩波新書)を頂く。もちろん買って眼を通していたのであるが、もう一度ちゃんと読みなさいということと解して有難く頂く。大文さんからも、『旧堀田邸保存整備工事報告書』(佐倉市教育委員会)など沢山の資料を頂いた。その熱心さ、タフさには驚嘆するばかりである。

 

2002419

10回編集委員会。松山さんが、東京芸術大学での講義とかち合い欠席。いささか寂しい。それに、10月号「建築の寿命」、11月号「都市の行方」の議論がしたかったけれど、担当の野口、北沢の両委員が欠席であった。9月号建築年報の決定が主となった。7月号「シックハウスから健康住宅へ-室内空気汚染問題の今」(仮)は原稿待ちである。8月号「インド亜大陸建築」は報告してきた通りである。

9月号「建築年報2002」については、まず「研究レビュー」の執筆者を決定した。問題は、トピックスと【デザイン界総括座談会】である。【建築界の動向と展望】について、テーマとして、下記が挙げられた。

 ・WTC

 ・バーミヤン

 ・ものつくり大学

 ・空前の海外プロジェクト(中国を含めて)

 ・ワールドカップと建築

 ・新宿ビル火災

 ・建設不況

 ・談合問題

 ・資格・教育問題

 

 考えて見るとほぼ一年が過ぎた。来年の今頃には二年分の企画が終わっていなくてはならない。来年2月号は1500号記念号になる。「英文論文集」の刊行が11月に繰り上がるため、通巻1500号は20032月号となる。通常、2月号には大会報告が掲載されるため、特集は小特集となる。来年度の大会は例年より1カ月早い開催となるため、大会報告を12月号掲載に前倒ししたうえ(特集は小特集)、20032月号(1500記念号)を通常特集とすることにする。来年の9月号も建築年報だから、残りは10号分。来年1月号では、「公共建築」「公共事業」に関わるテーマはどうかと考え始めている。最終号は、建築学を全体として問いたい。

 会社更生法の適用という事態となった佐藤工業の岩松準委員が出席、元気そうであったが、じっくり話を聞く時間がなかった。大変だろうと思う。

 3月号は随分スリムであった。経費削減はあらゆる面から検討中である。といっても、専ら検討しているのは事務局である。「委員会活動報告」「支部報告」は極力減らしたい。ページ数が多い割には内容が薄く、会誌の誌面を割いての掲載に対しては以前から疑問が指摘されてきた。原稿は毎月の理事会資料をそのまま転載しているもので、情報としては別途担保される、という判断である。一方、会員に対する委員会活動情報として、報告すべき事項を随時掲載するよう努力し、委員会活動情報の一層の充実を図ることを方針としたい。ホームページもある。また、委員会および支部の活動報告は「活動レポート」欄で積極的に紹介するつもりであることはいうまでもない。

 広告を如何に増やすか、も話題となった。編集委員会が広告を気にするのは問題だと思うけれど、それだけ学会も深刻と言うことである。

 懇親会では、建築計画委員会の積田洋先生のWGと隣席。余程虫の居所が悪かったのか、酔いに任せて暴言。多謝。小野寺さん片寄さん仕事に追われて参加できず。なんとなくうしろめたい。代わりに研究部長、真木さん参加。引き上げようとするところで、高橋鷹志先生とばったり。懐かしさに銀座をねだる。山根、青井委員と共に、銀座、新宿を彷徨する夜となる。

 

2002423

もう何年も続けている留学生のための特別授業「日本の都市と建築」。日本語でやるから楽だし、色々質問があるから楽しい。最近、スエーデン、フィンランドなどアジアに加えて東欧からの留学生が目立つ。

『建築雑誌』4月号届く。執筆者向けだけれどうれしい。小野寺、片寄さんが相当頑張ったと思う。

 

2002425

文化庁 アジア・太平洋地域文化財建造物保存修復協力委員会で上京。上京の友は、千田稔『海の古代史』(角川選書)、新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ』(講談社選書メチエ)、上垣外憲一『文禄・慶長の役』(講談社学術文庫)である。委員会では、研究室出身の田中禎彦君とこの四月から文化庁に入った田村景子さんに会う。大河先生、栗田先生、石澤先生など諸先生の話が聞けるのが楽しい。

 

2002426

52回アジア都市建築研究会。角橋徹也先生による「オランダの国土・地域政策~計画がすべてに優先する国」。角橋徹也先生は、研究室出身の角橋彩子さんの父上。かつて大阪府住宅供給公社におられて千里ニュータウンを手掛けられた。その後、大阪府知事選にも二度立たれた強者でもある。1965年にオランダ、ハーグの社会科学研究所に留学、さらに19982000年に再留学され修士号を取られた。現在神戸大学大学院博士課程に在学中である。大先達であるが、今尚勉学意欲衰えず、立命館大学でも非常勤講師をされている。

オランダのことをやっているということでお呼びしたのであるが、そのオランダへの惚れ込みようはすさまじいものがあった。また、話が面白い。オランダ研究の意義を今更のように自覚された夜となった。

『建築雑誌』が通常ルート(宅急便)で届く。少しは改善されたのではないか。事務局も5月号と6月号は同時進行の構えである。

 

2002427

 CDL設立1周年。京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)春季シンポジウム、参加者役150人、京都商工会議所にて盛大に開催。基調講演は、西川幸治先生(滋賀県立大学学長)の「歴史都市の保存修復が見据える京都の未来」。30秒のビデオでそれがどこかを当てるクイズや俳句やスケッチなどもあって楽しい企画もあった。

「景観」は京都を救うか、と題した、決闘ディスカッション(パネリスト:平尾和洋(立命館大学)布野修司(京都CDL事務局長)リムボン(立命館大学)、中林浩(平安女学院大学)渡辺菊眞(京都CDL運営委員長)、司会:柳沢究(京都げのむ第2代編集委員長))は、結構本音が出て面白かった。京都タワーの評価に始まり、小路を挟んで対面する高松紳、高田光雄・江川直樹両先生設計のマンション、京都ホテル・・・問題になるけれど議論がいつの間にか消えてしまう、その問題を議論。

 つづいて千代鈴で行われた懇親会には約70人が参加。

懇親会までの間に高松・高田両先生の現場をみんなで除く。知らなかったけれど、布野修司が共同通信に書いた(京都新聞に載った)原稿も看板に張ってあった。以下がその原稿である。

 

見聞録21 京都都心の惨状:林立するマンション:消え逝く町家:覆いがたい理念の分裂

布野修司

京都の、堀川、烏丸、河原町の南北通り、そして御池、四条、五条の東西通りで囲まれる地区を通称「田の字」地区という。祇園祭ゆかりの山鉾町が含まれる京都の核心域である。訪れる機会があれば、とにかく歩いてみて欲しい。なんともちぐはぐな光景を目の当たりにして考え込んで欲しい。

「田の字」地区はいま騒々しい。ここそこに工事現場がありクレーンが聳えている。不況にも関わらず、未曾有のマンション建設ラッシュなのだ。虫食い状に空き地と駐車場が蔓延り、ビルの谷間に町家が埋もれつつある。

この間喧々囂々たる非難を浴びているのが高松伸の手掛ける巨大なマンションだ。一棟のマンションの東西で学区が分かれる。京都の街割りには明らかに大きすぎる。それに新規さを売ってきた高松にしては何の変哲も工夫もない。皮肉というべきか、真向かいに高田光雄・江川直樹によるマンションが同時に建設中だ。町家型集合住宅を謳い、前面を低く押さえる工夫がある。話し合いを重ねた経緯もあって近隣住民は受け入れつつある。

しかし、いずれにせよ町家の規模ではない。一方で書割でもいいからかつての街並みを維持すべきだという主張がある。また、京町家再生研究会のように現存する町家の再生を手掛ける集団もある。マンショ・ブームの一方で、それに抗するかのように大変な町家ブームだ。町家に住みたいという若者が増えている。また、町家改造の店が増えている。かくして、てんでばらばらの建物が並んで収拾がつかない。いかんともし難い。

大きな問題は全国一律の法規定である。市としては都心に人口は増えて欲しい。地主は、建蔽率、容積率一杯に建物を建てる。京都で起こっていることは全国の大都市で起こっていることと同じだ。街並みが崩れるのは当然である。そして致命的なのは、京都に相応しい建築形式についての理念が分裂していることだ。京都にかつての面影を期待するなかれ。

 

2002429

京都CDL、布野チーム、南区調査。布野チームは山科区と南区が担当。11区の内2区はきついが、いいだしっぺだからがんばらなくちゃ。一年目は南区には手をつけることができなかった。集まったのは20人強。5組に分かれて歩く。京都駅のすぐ南なのに荒れている。駅前は駐車場だらけだ。パチンコ屋、カラオケ・・・地上げがどんどん進んでいる。しかし、その中に下町らしい住宅地が残されている。御輿をかついだお祭りに出くわした。京都にも様々な地区がある。

 











 

京都大学建築系教室 地域生活空間計画講座―生活空間設計学講座 布野研究室 OBOG関係者諸君へ 京都大学建築系教室離脱について、200503

 

京都大学建築系教室

地域生活空間計画講座―生活空間設計学講座

布野研究室

OBOG関係者諸君へ

 

京都大学建築系教室離脱について

 

布野修司

 

前略 ご無沙汰しております。

諸君諸嬢、元気にご活躍のことと思います。

 

 突然ですが、この2005年3月末をもって、1991年9月から13年半お世話になった京都大学建築系教室を辞することになりました。縁あって、4月以降は、滋賀県立大学にお世話になることになります。

 布野研究室に在籍した諸君諸嬢には、京都大学の拠点を維持することが出来ず、誠に申し訳ない気持ちで一杯なのですが、以下、この間の事情をいささか踏み込んで記して、とりあえずの報告とさせてください。新天地からは、改めて挨拶する予定です。

 

 修論の審査、博士課程への入学をめぐって(あるいは研究室への配属、予算、人員配置をめぐって)嵐のような時代があったのは、山本麻子、渡辺菊真、森田一弥前後数年の時代でしたが、この間の、外部(第三者)評価、改組、JABEE対応、桂移転、独立法人化、さらには学会選挙などが絡んで、また教室の雰囲気がおかしくなったのは四年ほど前ぐらいからでした。小生は2001年から2003年にかけて、『建築雑誌』の編集長を務め、対外的には華々しく?動いていたのですが、実は、様々な問題で教室は火の車のようでした。諸君がお世話になった秘書の皆さんは一人やめ(させられ)、一人やめということで誰もいなくなってしまいました。

 裏事情をいくら書いても愚痴のようになりますが、また、対外的に書けない非道いことも多いのですが、離脱を決断する直接のきっかけとなったのは、昨年の新人事です。とりわけ、古阪秀三先生の上に一歳しか違わない教授、大崎純先生の上に二歳しか違わない教授が配されたことです。これまで、「こんなことまで、やるのか」という眼には度々あってきましたけれど、これには絶句しました。われわれはJリーグというのですが、助教授7人で『traverse新建築学研究』という研究誌を出しているのですが、これに関わるものは上げない、ということのようです。京都大学建築教室はおかしい、と学会やお隣の土木系教室から言われてきたのですが、これはちょっと非道すぎる、動いてメッセージを伝えるべきだというのが今回の決断の一つのきっかけになっています。

 より具体的には、まず、学位論文の審査の問題があります。これまで、苦労しながらも、牧、青井を先駆に、脇田、パント、山本直彦、田中麻里、佐藤、トウ・イ、そしてぎりぎりで朴、山根とセットしてきましたが、常に綱渡りの状況でした。これからこの状況が改善する見込みは薄く、新たに留学生を含めた人材を育てる時間がありません。柳沢、山田、ナウィット、丹羽哲矢、下平先生(さらに、必要なら山本麻子、菊真、森田・・・)の学位論文は側面援助ということになります。

 さらに、大学院修士の枠は来年度から一人ということがあります(助教授は全てそうで、布野だけではありません)。また、校費は独法化と桂移転で、これまでの半額、年40万円が当初配当となります。こんなことをわざわざ書きたくないのですが、桂の空間を含めてこれまでのように教育研究を展開する環境ではなくなった、という判断があります。

 在籍学生は、M2が6人(修了)、M1が4人、新M1が2人、Dが5人、悩みましたが、いくつかの大学からお誘いがあるなかで、新天地の熱意(公募です。誤解なきよう)に感じるところがあって、決断した次第です。学生たちは大パニックでしたが、なんとか理解してくれ、それぞれアフターケアの目処も立ちつつあります。

 かなり歳をとりましたが、布野は布野で気だけは少しも変わってないつもりでおります。後ろ向きにやめるのではなく、前向きに動いているつもりです。幸い山本直彦(立命館大学)が同時に動くことになりました。また、山根周(滋賀県立大学)が講師に昇格します。アジア都市建築研究の一大拠点を目指してはりきっています。学生たちも元気が良さそうで楽しみにしております。

京都大学はすばらしい大学です。ただ、建築系教室にはかなり非道いところがあります。変な噂が流れると嫌なので、実際のところを具体的に以上のように書きましたが、14年の大半は楽しい思い出で充ちています。特に海外調査は最高です。これだけはやめられません。また、諸兄のおかげで14年で相当の仕事をすることが出来たと自負しております。つい2月末には、『近代世界システムと植民都市』(布野修司編著、京都大学出版会)を上梓しました。続いて『世界住居誌』が5月頃出ます。

大学のすぐ近く(彦根)に既に宿舎を確保しましたが、当面京都を拠点にすることは変わりません。京都CDLは菊真、佐藤、柳沢、高橋俊也・・・を中心とする新体制でやります。また、木匠塾も持続する中で、京大の学生たちとはつきあうことになると思います。また、建築系ではないのですが、防災研究所の巨大災害センターの助教授として牧が赴任します。布野は、助教授どころか助手ですらつくれなかったのですが、布野研初代でもある牧がなんらかの精神を京大に繋いでくれることを期待したいと思っています。マイケルもこの四月から武蔵野大学人間関係学部環境学科講師になります。また、将来、流れがかわるでしょうし、布野スクールから京大に戻る諸君諸嬢が出ることを夢見たいと思います。

 諸君諸嬢の今まで以上の活躍を期待しています。また、これまで以上におつきあい下さい。

 

草々

   

 


 

                      様             

 

 

 前略

 

 ご無沙汰しております。

 この度、『近代世界システムと植民都市』(布野修司編著、京都大学出版会)を上梓いたしました。1998年度から続けてきました「植民都市研究」も一段落となります。ご批判いただければと思います。

本のあとがきにも書きましたが、昨年末の大津波の折、スリランカのゴールというオランダが造った要塞都市に居て命拾いいたしました。悪運が強いというか、九死に一生、その場ではそうでもなかったのですが、帰国して様々な情報を得てぞっとした次第です。

 

 ところで、死んでいたかもしれない命というわけではありませんが、心機一転、この三月末で京都大学を辞することに致しました。1991年9月から13年と6ヶ月、丁度東洋大と同じ年数勤めたことになります。この間、孤軍奮闘ということでもなかったのですが、この間の親しい同僚に対する相次ぐ理不尽な対応に、さすがの小生もこれ以上耐えられない、と判断した次第です。学生たちは大パニックですがなんとか理解してくれ、それぞれアフターケアの目処も立ちました。

 何人かの弟子も育ち、おかげさまで多くの仕事をすることができました。本書に続いて上梓する予定の『世界住居誌』が京都大学での最後の仕事ということになります。

 この4月からは、縁あって滋賀県立大学(環境科学研究科・環境計画学専攻)にお世話になります。連絡先等あらためてお知らせしますが、今後ともよろしくお願いいたします。もう一仕事も、二仕事もするつもりで張り切っています。面白い仕事、プロジェクトあれば、お声をかけていただければと思っております。

しばらくは京都に住む予定にしております。お越しの折にはお声をおかけください。積もる話を聞いていただければという心境でもあります。

 

 

 

草々

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 京都大学大学院工学研究科
 建築学専攻:生活空間設計学講座
 Dr.Shuji Funo
  Department of Architecture and Environmental Design

Faculty of engineering
  Kyoto University
 funoshuji@aol.com 

吉田キャンパス 研究室 京都市左京区吉田本町 〒606-8317

 tel=fax +81-(0)75-753-5755

京都市左京区高野玉岡町1-144 Res. tel=fax 075-712-3829

 

 

 Dr. Shuji  Funo            布野修司

The University of Shiga Prefecture

2500 Hassaka-cho, Hikone City, Shiga Prefecture

滋賀県立大学大学院環境科学研究科・環境計画学専攻

環境科学部・環境計画学科・環境建築デザイン専攻 滋賀県彦根市八坂町2500 〒522-8533

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 京都大学大学院工学研究科
 建築学専攻:生活空間設計学講座
吉田キャンパス 研究室 京都市左京区吉田本町 〒606-8317

 tel=fax +81-(0)75-753-5755

京都市左京区高野玉岡町1-144 Res. tel=fax 075-712-3829

 

 

 Dr. Shuji  Funo            布野修司

The University of Shiga Prefecture

2500 Hassaka-cho, Hikone City, Shiga Prefecture

滋賀県立大学大学院環境科学研究科・環境計画学専攻

環境科学部・環境計画学科・環境建築デザイン専攻

 滋賀県彦根市八坂町2500 〒522-8533(代表)

funoshuji@aol.com 

 

何もない原っぱ,周縁から06,産経新聞文化欄,産経新聞,19890717

 何もない原っぱ,周縁から06,産経新聞文化欄,産経新聞,19890717



2023年3月30日木曜日

建設廃棄物の行方,周縁から05,産経新聞文化欄,産経新聞,19890710

 建設廃棄物の行方,周縁から05,産経新聞文化欄,産経新聞,19890710


建設廃棄物の行方

                布野修司

 

 首都圏のある町で、ちょっとした騒ぎが起こった。もう四年ほど前のことだ。首都圏といっても辺りには田園風景が広がる、都心からは数十キロ離れた町でのことである。

 どうも稲の生育がおかしい、というのが発端であった。農業用水が汚染されているのではないかというので、調べてみると果して有害物質が検出された。原因は近くの沼にあった。その沼には山のように廃棄物が捨てられていたのである。

 不法投棄である。捨てられていたのは、解体された建築物、建設廃棄物である。新建材に含まれていた化学物質が流れ出したらしい。不法投棄を行った業者は、同時に沼の底から砂を採取していた。砂を採取するためにバキュームカーで沼を引っかきまわしたのである。周辺の水田に有害物質が流れ出したのはそのせいだ。業者は、解体業者として建設廃棄物を運んで来て、帰りには建設資材として砂を運んでいた。一石二鳥のボロ儲けの商売である。

 こんな騒ぎは珍しいのかも知れない。しかし、建設残土や建設廃棄物をめぐる騒動はその後各地で起こった。バブル経済が産んだ未曽有の建設ブーム、再開発ラッシュによってマネーゲームが繰り広げられる一方、その背後で排出されたのが膨大な量の建設廃棄物である。都心の地上げはひとつの町が消滅するほどすさまじいものであったのだ。解体業者、廃棄物業者は大忙しである。そして大問題になったのが、廃棄のための場所である。解体しても運ぶところがないのだ。

 関東だと栃木県、群馬県まで行かなければならない。さらに、東北にまで廃棄のための場所が求められたという。不法投棄が頻発したのはそのせいである。それどころか、フィリピンへ廃棄物を持って行こうという業者まで現れた。日本の建設廃棄物でマニラ湾を埋め立てる、ここでも一石二鳥をねらおうというのである。

 もし、ビルやマンションが一斉に建て替えねばならない時期がきたらどうなるのか、という問題はかねてから意識されてきた。膨大なコンクリートの塊は、東京であれば東京湾に埋め立てるしかないのではないか。それでも大丈夫だろうか、という声は実は以前からあった。

 しかし、ただ声があった、というだけのことで何も手がつけられてきたわけではない。再生コンクリートのような建設資材のリサイクルも考えられ、実用化されつつもあるのだが、ほんのわずかな動きでしかない。

 もちろん、いま建築界において本質的に問われているのは、スクラップ・アンド・ビルドを前提にして建設資材のリサイクルを考えることではない。

 建設廃棄物をめぐってこの間起こっていることが突きつけるのは建築のありかたそのものである。また、それを支える思想である。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返すだけで果していいのか。耐久消費財化した建築のありかた、仮設建築物であり続けている日本の建築のあり方が最終的に決定的に問われているのである。

 



2023年3月26日日曜日

職人が足りない! 周縁から01、産経新聞文化欄,産経新聞,19890605

 周縁から  産経新聞「文化欄」連載 1989060519910128 全66

職人が足りない! 周縁から01、産経新聞文化欄産経新聞19890605




漂流する日本的風景,磯崎新VS原広司 司会 布野修司、学芸出版社,建築思潮05,1997

 漂流する日本的風景,磯崎新VS原広司 司会 布野修司、学芸出版社,建築思潮05,1997


  漂流する日本的風景                  磯崎新+原広司 司会:布野修司           


  布野  ・・・「漂流する日本的風景」という詩的なタイトルなんですが、具体的には建築家と地域計画というテーマを考えたいと思います。地域計画の在り方はどうあるべきか、建築家の役割なんなのか、いま何を手掛かりに、何を根拠に設計していくのか、さらに日本の建築家は何を為すべきかというところまで拡げて議論できればと思います。明日香は日本の原点、あらゆる意味での原点というところがあります。この歴史的風土と景観、地域・自然というところに絡めて、原さんから口火をお願いします。

    

空間の捉え方ーーー容器と場

     ・・・・建築家が空間を、そして地域とか場所というものを考えていく時には、大きく二つの捉え方があると思います。一つは、空間は容器である、入れ物であるという考え方です。たとえば、明日香村ならば、まず村の境界があり、奈良県という境界があり、次に日本という国の境界がある。それぞれの境界、入れ物をはっきりさせていく捉え方です。もう一つは、場という考え方です。大きくても小さくともかまわないが、中心という捉え方です。その場合、どこからどこまでが、という境界がありませんから、ここら辺りが山のピークであるとか、あるいは文化の中心であるとか、そういうことになる。この二つの捉え方が、空間をあつかう場合に昔からあります。

 一般的に、文化を発信していくときには、場に期待をするわけです。そうすると場所に対する考え方というのは、じつは本来非常に拡がりをもっているのではないかということがいえる。仮に境界というものを考えたとしても、その境界を常に大きくして考えていく。「自分たち」というところを限定しないで、段々容器を大きくして考えていく。そういうふうに、文化とか、歴史とか、風景とかを考えていくことが重要ではないかと思います。とかく区画されたなかで考えると、この地域ではこれをしてはいけないとか、何かというと、ゾーニングの理論で展開されがちです。

 僕らは日常的には、行政的な捉え方というものに慣れています。国家の境界というものが今日では最強の境界としてあります。どちらかというと空間とか地域という場合には、容器として捉える癖があると思います。地域計画を考えた場合、ある行政区画のなかで上手くやっていかねばならないということになります。行政的な慣習に慣らされて、入れ物としての空間だけを考えがちである。でもそれでいいのか、という感じがします。

 「日本的風景」というものも同じです。僕らは、空間の性質を考えるときには、常に二つを同時にもっている。境界の中で考えることと、連続的に拡がっていく中心という考え方とを、同時にもっている。地域を考える時にも、それを同じに捉えていくことが必要ではないか。「日本」であるとか、「明日香村」ということを考えたときに、あまり、ここからここまでということにこだわるのはどうか。

 自分たちの場所の歴史を掘り下げていく、考古年代までも掘り下げていき、ある一つのものを探しだしたとします。すると探したものが普遍性をもたないで、その場所、限られた境界の中だけでの話になりがちになるのではないかと思われるわけです。場として考えてみれば、それは中心ですから、拡がりがどんどんでてくる。自分たちの場所性というか、それは限られたものではなくなってくる。

  布野  ・・・原さん、ちょっとよろしいですか。いきなり難しい話から始まりましたが、地域とか地域性をどう捉えるかという問題をまず説明されようとしたわけですね。その前提として、空間というのには容器としての空間と、場、場所としての空間の二つ大きくあるという話から始められた。わかりやすいのは、行政的な区画を予め決めて発想するのは、限界があるということですね。限界という言葉はお使いにはなりませんでしたが、多少問題があると指摘された。地域とか地域性をいう場合は、概念そのものに問題がありますよ、そういう問題提起ですね。

    ・・・・そうですね。

  布野  ・・・例えば「景観」といったときには、行政的な区画とは違い、歴史的な風土とか自然とかに関わるわけですね。行政的な区画とは必ずしも一致しない。「景観」ということで少し先回りすると、そういうことですか? 「日本的な風景」といったときには、明日香とか奈良とか、あるいは京都といった、盆地的な景観がある種の共通の特性を形つくっている。それが日本の地域性をつくっている、という指摘もあるわけですけど、「場」から発想していくとどこまで拡がって行くんでしょう。地理的に離れていても共通性をもつということもあるわけですね。

 

    

「日本」という呼称

 

    ・・・・ここで問題にしようとしているのは「日本的」とか「明日香的」とかいったことが、何処から出てきているのかが問題です。「日本」とか「明日香」というある境界があって、そういうものが出てくるのではない。空間的境界に捕らわれすぎているのではないかと危惧するわけです。そういうものから解放されていく手段として、場が片一方にあるわけです。そこで考えると、風景というのはどうなるのか。新たな空間の概念を必要とするようになってくるのではないか。それはなんだろうということを、まず最初の問題提起としたかったんです。

  磯崎  ・・・前置きを用意してきたんですが、それは後にします。原さんに続けて、僕なりのお話をしてみようと思います。いま議論されているなかで、「日本的な景観」あるいは「明日香的な景観」という特定の場所の名前のついた景観を、われわれはどう解釈していけばいいのかというの問題がでてきました。それと同時に「何何的」という場所を特定する場合の、境界の輪郭の捉え方をむしろ問題にしておかないといけない、そうおっしゃったんだと思います。これは議論を整理する上で、明解な問題設定のしかただと思います。

 そこで一つの具体的な例を申し上げます。いま「日本的」という表現がでてきていますが、「日本的」というのはどういう風に生まれてきたのか? 実はこれは「日本」という呼称がどうやってでてきたのかを考えてみればいいのではないかと思います。おそらく七世紀ぐらいまでは、「日本」なんていうものはなかった。そういう呼称もなかったのではないか。ところが七世紀半ばに、中国と衝突して、百済の応援にいって負けて帰ってくるという事件が起こります。帰ってきて外圧の危機にさらされる。その直後、とうとう新羅と唐の連合軍の何千人かが、北九州に駐留するという事態になる。そういうなかで天智天皇が亡くなり、壬申の乱が起こるという大変動がありました。この大変動のあと、こうした外圧に対して「ここ」を守らなくてはならない、あるいは「この場所」を独立させてゆかねばならないという、一種のナショナリズムが生まれる。その時に、初めて「日本」という呼称がでてきた。これが僕が歴史から学んだことです。もちろんその前に聖徳太子が「日出ずるところの……」とか言ったということはありますが、その時はまだ「日本」とは呼んでいなかったと思います。

 そういうふうに、外に対して、外部に対して内部の、ひとつの共同体が自分自身を関係においてはっきりさせるときに、初めて「何何」という呼称が生まれ、「何何的」という表現がでてくる。それは特定の場所、たとえば「明日香」とか、たとえば「奈良」とかという具合に、地域の呼称が生まれてくるときも同じです。この呼称を外に対して、「ここまでは自分の領域なんだ」ということを名前で示そうとするわけです。「みはらすかぎりのあの範囲まで…」と、昔は決めていたようですが、そういうことを聞くと、特定の呼称は自分自身が外との対応をするときに初めてでてきたことだというがわかると思います。

    

反復される原初の景観

 

  磯崎  ・・・そう考えていくと、たとえば明日香村の風景、奈良の風景、京都の光景、景観という呼び方をする、その呼び方は何から起こったのか、という問題がでてきます。その地域に文化が発生したときに、まわりの山や海や川や野原を組み合わせて出来上がってきたものと、なにがしかの人工物が当時は必ずあったわけですが、その関係において景観はできたわけです。景観というのは僕の考えでは、その文明が特定の場所に発生した時の光景を、ずっーと呼び続けている。つまりその後は、文化の発生した状態を反復するために、「何何的」という呼称を常に呼び続ける。こういうことになってきているのではないか。ですから常に景観を議論するときに、たとえば「京都的」といえば、東山、西山、北山という山で囲まれたあの平地と桂川と鴨川の流れる場所というのが議論のベースになります。それは京都を組み立てたときに、既にその景観はあった。それとの関係において成立した景観ですから、それをいまに至るまで反復しようとする。もし議論があるとすれば、それを崩すものを排除しようとするときでてくる。それだけのメカニズムで、いまの一般的な議論は動いているのではないか。奈良に関してもまったく同じではないか。

 では、明日香の場合はどうか。やはり一つの時代に、この明日香に文明というか文化が、特定の文化が生まれたわけですね。その時にここで生活した人が、いちばん最初に文化が出来たときに見ていた景色が、おそらく明日香村の景観であった。いまはそれに比べてどうなったか、単純に比較において議論がなされていくのだろうと思います。

 それ以外の問題の設置の仕方というのは、ほとんど現実問題として、一つ特定の場所で議論するときには無理があるという気がします。

 僕は今日初めて明日香村を訪れ、時間があったので石舞台までは足をのばしました。それほどたくさん拝見できたわけではありませんが、少なくとも僕は地図をみるかぎりでは、明日香から昔の藤原京付近の光景はつながっているものだと思っていました。が、実は違うということが、今日よくわかりました。写真にはこの景観はほとんど映りませんから、来てみて初めてわかった。来てみて初めて、「ああそうか、そうだったのか」というのが理解できました。というのも、奈良の南半分と吉野の間は、古代の歴史とその時代の記録、たとえば万葉集などにでてくる、いろいろな言葉や光景や叙述や事実を手掛かりにイメージを組み立てているわけです。保田与重郎     ★1   という桜井で生まれて育った人がおられますが、個人的にはこの人の文章をたくさん読んでいます。彼の文章で、これは明日香の光景だと思っていたわけですが、実はそうではなかったようです。明日香というのは別の光景だったのだということが、今日わかりました。それが実感なんです。

 おそらく橿原や桜井という地形から奈良三山といわれる山を見ながら、どのように景観との関係をつくりだしてきたのか。たとえば三輪山がどうだったかという景観の考え方は、常に万葉集や古事記にたち返っていく。そのなかで、はじめてイメージが浮び上がってきます。おそらく明日香村の光景には、そのもう一つ前、あるいはそれと重なる時代の別の光景があったんだと思います。それをどう解釈していくのか、彼らはどう解釈していたのか、それをいまもう一度、今日の状況のなかでどう見ていくか、そういうことじゃないか。

 すると原さんの出された境界という問題設定、輪郭をどこに設定するのかということが重要になります。これは、おそらく行政単位ではないだろう。その時期に発生していた文明のひろがり方、そこで共通の光景として見ていた一定の範囲の古代の人たちが、そういうものから生まれてきた共通の感覚、頭の中に焼き付いたあるイメージでもって、いまのここ範囲でどうだということではなかったと思います。村の境界がどこまで拡がっているのか、どこまで他の要素が入っているのか、それはいろいろな形で勉強してみる必要はありますが、行政区画とは違う形であった。おそらく特定の文化が生まれたときの地域の拡がりとの関係においてでてきているというのが、僕の感じていることなんです。

 

    

外部からの視線

 

  磯崎  ・・・景観というときに、その内部ではなく、常に外部の視線のほうが重要なんですね。いま景観というのは、なぜ議論されるのか。そこに住んでいる人は、もう見慣れている。自分の身のまわりで、自分の必要に応じて組み立て直していく。それがごちゃごちゃ言われる必要もないんじゃないかと思っている。おそらくそう考えているでしょう。それに対して、特定の場所の呼称、あるいは国の呼称が、外部との関係で生まれたということは先ほど言いました。いまその外部とは観光客の視線です。外から来た人が、明日香はこういうものだった、と思いながら見にくる。この外の目に対して、いまの景観や環境的なものが、どのような特徴をもっているのかを説明をしなきゃいけない。あるいはその景観を守る、景観を固めていく時の、その原型をとらなきゃいけない。明らかにこれは外からくる視線なんだろうと思います。それは村の外ということではなく、ここで生まれてきた文化的な領域、ある拡がりの外ということです。逆に言うと、六世紀、七世紀、八世紀という、その時代の景観だったかもしれない。その時代にとっては外部である現在、二〇世紀という別の距離から、われわれの住んでいる今から、もう外である昔を振り返ってみる。これも外部の視線だろうと思います。こういうものが、どのように絡んでいるのかを見ればいいのだと思います。

 僕の考えでは、出発点つまり物事のはじままりの地点に、時間的にも空間的にも返っていく。それを見ることによって、われわれは単純に反復させている。そういう点で景観の問題を具体的にとりだせば、簡単明瞭になるんではないかと思います。

  布野  ・・・景観や地域をめぐっての、大きな理論的な枠組みをいただきました。たとえば明日香に百済から宮廷人などの渡来人がきたときに、自分たちの都であった扶余(ふよ)の記憶というか原型をもとめて、明日香を捜し当てたという説があります。藤原京についても、発掘が進むなかで、“大藤原京”とでも呼ぶ説が浮上してきています。奈良に匹敵する規模があったのではという、立ち上がりのところでの考古学的な知見がでてきています。そうなると地域の原イメージも変わってくるのでしょうか。

 少し、プラクティカルな質問をしてみます。そのなかで、地域起こしや、地域計画、景観を考えるときに、どういう仕掛けができるか。具体的に明日香という舞台でどのような地域計画なり、まちづくりが可能か。如何ですか?

  磯崎  ・・・その扶余の都というのは?

  布野  ・・・明日香の地形が、扶余の都とそっくりだという説があるわけです。

  磯崎  ・・・百済から移住した人たちが組み立てた場所、国といえば国であると。国をつくるときに昔の光景を思いながら、その場所を探したということですね?

  布野  ・・・こんなこと言っていいんでしょうか? 村長如何ですか?

  会場  ・・・(明日香村の関村長)はずれてはいませんね。

  布野  ・・・そうですか。ナラというのはクニという意味ですよね。韓国語では。

  磯崎  ・・・そういう形で、似た景色を探してつくるという例は、歴史上ほかでも見つかるように思います。あの時代の人たちの持っていた、自分たちのコミュニティ「失われた世界」に対してのノスタルジーを、この明日香で現実に組み立てようとしたんだと思います。少なくともこの特定の場所というものを考えれば、すでに選ばれてしまった場所というか、それがいちばん最初にスタート地点として考えることですね。そのオリジンはそうだったと言えますが、議論としてはこの場所に来てから、設営して設備して、一つの文化というか文明を組み立てていった。

  布野  ・・・常に地域なり景観は外から決められる。あるいは文化が発生する原初の景観なり、構えが反復されるだけだという、鋭い指摘がありました。原さんの言葉で再度整理されるとどうなりますか。

 

 

    

歴史の遡行と系列

 

    ・・・・問題を整理するというよりは、もっと拡張したほうがいい。境界というのが内と外の視点でちがうことは、磯崎さんの話で明解になりました。漠然としているけれど、歴史にあるクライマックスというものがあるとします。たとえば律令制度が出来あがったときには最も高揚した時期があって、それがある場所性を規定する起源になっているという意見があります。そんなふうに考えてみると、クライマックスというのは常に過去にある、古いところにあるという考え方にならざるを得ない。そこから如何に解放されていくのかが課題ではないかと、僕は思っているわけです。

 歴史というのは、ある見方をつくっていくことであり、時間的な系列がある。しかし、歴史というものをわれわれは、とかく根源的なるものというか、溯行したものというように捉えがちですが、必ずしもそういうものではない。クライマックスというのは過去にあったと考えがちだが、はたしてそうなのだろうか? 生きるというのは、そういうふうに物事を捉えることだろうかな、というのが基本的に僕にはあります。それは系列ではないか。系列自体が、時間的に変化していくものということなんですが、その系列をどういうものとして考えるのかということです。

 よく話すんですが、南米の文学者であるボルヘス     ★2   がこう言ってるんです。彼に「カフカと先駆者たち」という論文があり、こう書いています。世間の人々はカフカがどういう系列からでてきたのかという理解の仕方をする。ところがカフカ自身が、その前に書いた作品でもって、その次に書く作品を説明するものではない。系列というものを歴史を辿って説明しようとすると、絶対にできない。それは逆である。カフカが、たとえば『城』という小説を書いたときに、初めて系列は生まれる。つまり、歴史とか時間的系列というものはそういうものである。ある事件が起こったときに、その事件が系列というものを作りだすんだ、そういう考え方をボルヘスは言っているわけです。僕はこれはまったく正しいと思っている。

 クライマックスはどこかにあるかもしれない。僕らも建築をつくって、それじゃ歴史のクライマックスになれるようなものをつくれるのかというと、そうではないと重々知っているけれども…。知っているけれど、われわれがつくるということは、常にその系列を逆に溯行する方向にある、そういうものを整理することにあるんだと考えた方がいいんじゃないかと思います。だから、風景といったときに、たとえば景観といったときに「記念すべき景観」というものがあるということはよくわかります。わかりますが、それがどういうものであるかというのは、ある時だれかが上手く振り分けたとか、歴史家が整理したということがあって、初めてそれは「記念すべき」だといえる。

  布野  ・・・ものすごくわかりやすく言いますと、ある地域計画を新しく立てたとする。するとその瞬間に、そういう系列が見えてくるということですね。必ずしも歴史の筋道をたてて、たとえば歴史的な環境を保存していく、守っていくのとは違う系列がある……。

    ・・・・違うんじゃないか……という気がしてるんです。

  布野  ・・・これも重要な視点ですね。建築家の役割は、むしろ、新しい系列を提起する役割があるわけですね。

 

    

ロストパラダイスとユートピア

 

  磯崎  ・・・原さんの発言を反復することになりますが…。僕は時間の問題はこのように考えています。いわゆる近代という時代になって、われわれが思考を開始した時点と、それより前の時点では、物事の捉え方はかなり違っていたのではないか。少なくとも、一八世紀とそれ以前には断絶がある。断絶が起こった理由というのは、このようなことです。

 時間というものを、本来は絶対時間が過去から未来に向かって、均等の順序で流れていっているという概念があった。それに対して、思考の形式というものはまったく逆らっていて、一つの時点から過去に向かって溯行していく。つまり「遡っていく」という思考の仕方をはじめたのが一八世紀です。その時に何を考えはじめたのかというと、いわゆる「ロストパラダイス」ですね。失われた何か、何かあった素晴らしい時点、時を捜していく、回復していくという考え方です。このロストパラダイスという考え方は、別な意味で、われわれの思考の出発をどこにもつかという、ものの考え方の出発点を探すという時に時間を遡っていくのとまったく同じ形式のものとしてでてくる。

 実は時間というものが過去に向かって遡っていくことができるのならば、未来に向かって加速することもできるはずだと、おそらくは考えただろうと思います。それが「ユートピア」の考え方です。ユートピアというのは、未来にある場所を先取りするという考え方です。これは時間を短縮して、未来を現在に引きもどそうとしていく考え方です。これはロストパラダイスという、失われた時、失われた場所に対する思い入れ、ノスタルジーという風なものとは、まったくベクトルを反対にした考え方です。近代の特徴というのは、私の考えでは、これを同時にはじめたということなんだと思います。背景には、科学的な思考としては時間が過去から未来に流れていくことは知っていながら、われわれの思考の形式というものは、それを短縮したり溯行したり逆行したりしている。そうなってくると、遡り方や短縮の仕方、そのやり方が各人で違うわけです。各人で違うということは、別のやり方で遡るということもあるわけです。別のルートで未来を探しているということもあるわけです。各人各様であって、時間が実は一つではなくて、歴史というのは多様な時間で成り立っている。歴史は、無数の時間がよりあわさってできている。一人一人の歴史解釈は違ってくる。一人一人の未来イメージは違ってくるのは当然なのです。

 こういうことをやり始めたのがどうも近代で、これが一本であると思わせた体制が、ついこの前までありましたけれど、いまはバラバラの違う糸なんだとみんなが見ている。だから常に過去の解釈は変ってくる。その時に誰が言い当てたのかということが、もっとも強力で説得力があるということになる。そうするとかなりそこで道筋が見えてくる。だけどそれは必ずひっくり返されるというのが、歴史の常識だと思います。

 そういうふうに解釈していけば、先ほど原さんがだされたボルヘスの例。ボルヘスはまさに、未来へ行くのか過去に行くのか、時間の中で動こうとする時に、あるルートをひとつバンとどこかに設定する。そこから生まれてきたチャンネルが全部に流れていく、そういう時間の中の動き方を発見するということが重要なんだと言ったんだと思います。

 ですから、おそらく原さんの意見と僕の意見が共通するところは、特定の誰もが承認すること、たとえば八世紀の時点の明日香というものが、誰もが共通として認めることはおそらく不可能だと思うところなんです。ただ、八世紀の明日香に接近する仕方を、各人各様がもっていて、各人がいまそれを見ている。僕はそのことを、一つの場所が常に立ち返るような引力をもっている、思考を共有しているということを、さきほど反復を繰り返しているんだと言ったわけです。

 

    

解釈としての地域計画

 

  布野  ・・・ではそうしたなかで、建築家はどいう仕事をしていけばいいのでしょうか。たとえば、さきほど村長が、挨拶の中で、明日香村は日本の原点ということで景観保存を施策としてずっーと展開されてこられたと言われた     ★3    。地域とか自然とか歴史や文化を大事にしながら、それは展開してきたということでした。景観保全ということでは、村長も開発規制や高さ制限の問題を指摘されました。それをやると、一方で産業が衰退してしまい、あるいは過疎の問題がおき、農業がへたりこんだり、結局はそもそもの景観が維持できないということが生じる。非常に戯画化した言い方ですが、そんなことも考えられます。そうした地域計画の課題に対して、建築家というのはいったい何をやればいいのか?

    ・・・・ひとつの地域計画というものは、ひとつの解釈であるということです。解釈を新たに設計するものだということです。だから景観というものは、明日香村なら明日香村の歴史の総体、飛鳥の時代から今日までは飛んでいるのではなく、ちゃんとした歴史が脈々とあって、その歴史自体を現状をも含めてどのように解釈すればいいのかを示すこと、それが地域計画であると思います。だから明日香の景観はどのようなものかというと、こういうものだという決まった定式があるのではなく、それに対する新たな定式を見せるような何かができればそれでいいのではないか。仮に大失敗すれば、その次のまた歴史を建て直せばいいわけです。再興すればいいわけで、それをずっーと繰り返してやっていくことが、景観計画とか地域計画というものではないか、という気がするわけです。修正ができないとすれば、それは歴史の内容だと思います。

 建物のことならば簡単に修正できるのではないでしょうか。前に「京都」をテーマに磯崎さんと話したことがありますが     ★4    、端的に言えば、建物は壊せばいいわけです。大失敗だったら壊せばいい。景観の問題というのはたいしたことはないと僕は思っているんです。たいしたことがないというのは、人間の生死に絡む都市の問題と比べればということです。たとえば交通事故で、いま約一万人の人間が毎年、都市で死んでいるわけです。こういう問題には建築家はお手上げです。ようするに難しい問題には言及しないで、まあ「タバコでも禁止させおくか」というような、禁止を徹底することで共同体を維持してるような最近の傾向に非常に似ていると思います。重要な問題は解決しないでいるわけです。

 だから景観の問題は、一人の人生、命の問題に比べれば問題ではないわけですよ。そういうふうに考えると、壊すことはできるだろうと思います。まあ社会がそれを簡単に許すかどうかはわかりませんが…。ある程度、大胆に解釈をやってみて、そのように考えればいいんじゃないかと思います。それで駄目であれば、もう一度やり直す、次の世代へ託すというように、多様な解釈を次の世代へ伝えるようなやり方が、僕はいいと思います。

 

失敗したら壊せばいい?・・・評価基準の問題

 

  布野  ・・・壊せばいいと言われたのは、建設中の京都駅ビルのことでもありますね。いささか大胆というか、乱暴な意見なような気がしますが、原理的にはそうなりますね。地域計画というのは一つの解釈であって、そのつど新たに設計し直せばいいというのはよくわかります。壮大な無駄をしては困りますけど、うまく共有できる解釈を行うのが建築家ということなのでしょうか? 磯崎さんは、明日香というもののイメージは、誰もがある反復を共有することによってなりたってきたといいながら、一方、近代においては誰もがある共有をすることは有り得ないんだということを言われました。地域計画というのは解釈だ、そうした設定というのをやるのが建築家だと考えていいのでしょうか?

  磯崎  ・・・この建物も壊さなくてはならないかもしれない(笑)。おそらく解釈をさまざま加えていくと、この場所には大きすぎるとか、姿を考えなくてはいけないということは起こるでしょう。そういう議論が、さきほど言った解釈であり批評である。また計画を組立る原理を探すときの手掛かりにするようなものだと思います。そうすると建築家として、どういう視点から、いまこの時点で何かの評価基準を組み立ってていかないといけない。単純に間違ったら壊せばいいというだけでは、簡単で無茶苦茶やって誰かに壊してもらうことになる。やりたい放題やっておけばいいというのでは困る。とりあえず何かの評価基準をつくらなくてはならない。この評価基準のつくりかたが、いちばん混乱して難しい状態になっているんだと思います。

 と言いますのは過疎の問題がでましたが、文化的な施設あるいは生活環境が乏しいと、また労働環境が乏しいと、どうしても過疎化して離村するということが簡単に起こります。それに対して引き留める方法は何かということが、常にでてきます。そして、これは全国様々なところで「村おこし」とか「まちづくり」という議論がなされているのと、まったく共通の問題なんです。僕の生まれた湯布院の街もそうです。湯布院は一望のもとに見渡せる小さな盆地で、数件の宿がある寂れた場所だったんです。村おこしが成功して、そこが何件かのスポットができたことによって観光地になってきた。そこまではいいんですが、今度は類似の施設がどんどん増えていく。たくさんの人が入ってくる。そうなると、いま問題になっているのは環境が壊されるということです。つまり新しい意味での環境破壊が、成功したが故に街に抱え込んでしまったという矛盾が起きています。湯布院の中心部は、週末になると一種の盛り場のようになって、みんなしょうがないからここから逃げようなんて論議にもなってきている。マイナスがあるんだけれど、それをプラスに転化すると、こんどはしすぎちゃって過剰になってしまった。

 そんなことから考えると、新しいことを付け加えなければならないということは言えるけれど、それはある意味でのバランス、均衡のなかで動いていくと思うのです。個々でどういう問題が起こっているのかはわかりませんが、たとえば一〇メートルなり一二メートルの建物規制は結構だ。地域で様々な建築素材を規制するのも、まあいいだろう。イタリアのトスカーナ地方では、何か建物を追加しようということであれば、伝統的な赤瓦と石積み以外の材料を使ってはいけないということがある。日本でもそれに近いことをやっている所はたくさんあります。ただ、それがいいかどうかという議論はやりにくくて、やっておけばマイナスにはならない。ただそれだけの理由で規制はやっているような状況です。その条件をさらに超えるようなよい提案はあるのかと言えば、一般論としてはやりにくくて、現在はできるだけ新しい施設はやめろというのが一般的な風潮になっている。それが極端にいくと、チャールズ皇太子が歴史的な様式をもったものしかロンドンにはいらないといって、新しい建築を排除していったようなことが起きる 

   ★5    。排除のなかで、あれこれ無理してハイテク建築が進出していくという構図がありました。

 湯布院は歴史がありませんから、雰囲気だけの問題でしかありませんが、明日香は歴史遺産もあり、その絡みのなかで都市化の問題もあります。それと上手くいくような建築様式というか素材というか、そういうものがはたして議論されているのか、いいと見られているのかという問題がある。大袈裟にいうと、僕からみると戦争前の帝冠様式の問題、日本様式はこう、東洋様式はこうで、だから屋根をつけなさいというのと、ほとんど同じ議論にしか見えてこない。おそらく景観の問題を建築家として議論するならば、そういう所へ立ち返って建築の問題を議論してもらったほうがいいのではないかと思います。

    

全国一律の景観行政

 

  布野  ・・・景観行政の問題でしたら、私も多少意見を持ち出しています。日本の約二百ほどの自治体がいま「景観条例」を持った段階です。ここ数年で四百ぐらいにはなるだろうという状況だそうです。その「景観条例」たるもの、ほとんどどこも同じだということです。「景観マニュアル」がつくられ、磯崎さんが言われたように高さを決める、あるいはもう少し踏み込んで素材を決めて、色を決めていくということがなされる。ところがそれは矛盾するわけです。「地域に固有の…」と言いながら、全国一律の規定だったりするわけです。どこかの先進県なり、先進自治体の真似をしてつくるわけで、都市計画コンサルは同じ文章に写真だけを入れ替えて提案するというおかしなことが起こっている。そういうものであれば、むしろ能力のあるアーキテクトに任せたほうがいいという考えが、たとえば磯崎さんの「熊本アートポリス」であったんではないかと思うんですがどうでしょう。

 以前に磯崎さんともお話しましたが、条例やマニュアルをつくるよりも、建築家がもう少し地域の景観に責任を持つような仕組みが日本でもできないか、ということを考えたことがあります。熊本アートポリス以降、仕組みの面でも磯崎さんはいろいろな仕掛けをなさってます。たとえばコミッショナーシステムとかプロデューサーシステムなどがあります。建築家が何をしていけばいいのかという話で、そのあたりの評価、現時点での考えをお聞かせ願えませんか?

  磯崎  ・・・熊本の例でいえば、葉祥栄さんがやったガラスが多くて木材を使った建物、石井和紘さんは構造が変っているんだけど木造と瓦屋根という建物、伊東豊雄さんは本当に軽い鉄骨がでてくる建物、安藤忠雄さんは相変わらずコンクリートが地下に埋まっているという建物。こうしたまったく違う建物がアートポリスでは生まれてきている。これはどういうことかというと、一つの様式で、一つのスタイルで解決というのはできない。むしろそれぞれの建築家が、その場所をどのように解釈して、自分のデザインがうまく適合するかということを、自分自身に問いながら、上手くいったものだけが評価されている。

 建築に関していうと、さきほど無理に帝冠様式の議論をしたように、日本で瓦屋根を載せるのは多かれ少なかれ帝冠様式とコンセプトは同じですから、こういうことがはたしていちど議論されながら、そのまま宙づりになって、姿を代えていま現われているという、歴史的な経緯もあります。その基本的な問題というのは、建築というものの理解の仕方、解釈の仕方というものが、あくまでスタイル、見かけのスタイルだけにこだわり、あるいはそこだけが評価基準になっていることが多いことにあるのではないか。それがポピュラーでわかりやすい手掛かりなんだけど、議論があまりにもそれに引きずられているのではないかというように思います。瓦屋根だけがいいというのはマイナス側を押えている。そこにガラス張りの建物があっても、上手くあう解決方法があるのではないかと、僕は個人的には思ったりしています。

     

帝冠様式と佇まい

 

  磯崎  ・・そうやってみると、建築の佇まいみたいなもの、あるいは道路や公園や庭園といったものがつくられときに生まれてくる、特定の気配みたいなもの。そういう、言葉にならないけれど、われわれがその場所に行って感じられるもの。本当は建築が環境と関わっていて、さらにその中から独特の繋がりをだそうというようなことを考えていく時には、僕は個人的には、いい佇まいがあるかないかということが評価に影響していいんではないかと思います。だけど「いい佇まい」というのは、なんでみたらいいのか。一見では見えなくて、感じなくてはならない。感じるというのは人によって違う。そうすると評価基準にはならないという意見もあるのですが、最終的にはそういうものとして環境を感知している。いま流行りの現象学的な視点を追いつめてゆけば、そういうものをちゃんと評価できる基準がでてくるだろうと思います。

 みんな難しいことを言うけれど、プラクティカルな問題から避難するわけにはいかない。とにかく、帝冠様式とは違う視点をださないといけないということは、ひとつ決定的にあるのではないかと思います。

  布野  ・・・佇まいを評価する方法を、アーキテクトに任せることのほうが早いのではないか、というのが僕の意見です。

  磯崎  ・・・それはまったく同じ意見です。つまり文書にしたり、指導要綱にしたりということではまったく駄目で、ある独特の個性をもった解釈のできる建築家の判断に個別の委ねることが必要です。

  布野  ・・・チャールズがロンドンに責任をもつと言ったら、彼に任せるわけです。チャールズに建築家の資質があるとすればですよ。彼は、建築学校つくったんですよね。C.アレグザンダーなんかはチャールズの好みらしいですね。ただそれが永久にというわけにはいかない。五年任期で、任期が終わった段階で次のシティアーキテクトなりが気に入らなければ、原さん流に言うならそれをぶっ壊すと。少々乱暴な話ですが…。若い建築家が、個々の地域計画とか景観に関わっていく時にどうすべきかについては、原さんは如何ですか?

     

法制度を変えよ・・・マスタープランはいらない

 

    ・・・・問題は、ある都市、地域において離散的に配置された施設の良し悪しの問題だと思います。この問題というのは、まったく局小的な景観とか佇まいの問題ですから、かなり建築家に任されていいんじゃないかと思うのです。ところが、ある広いゾーンをどうするのかということがでてくる。そういう時にどうするのか。あまり上手い方法というのを持っていない。ある行政域で条例を決めてやるといっても、条例というのはあまり信用できないという感じがあります。なぜ信用できないかというと、ものとは関係しないレベル、理念のようなところでものを決めているところが法律にはある。すごく悪いものを規制するのにはいい方法かもしれませんが、それによって全体が歴史的に浮上するチャンスがあるにも関わらず、それを殺しているということがあると思うんです。

 すると、あるゾーンの構想を立ててみる作業というのが、絶対に必要になんだと思います。その形式をどのようにするのか。いわゆるマスタープランといわれていたものを、どのような形で描くのか。描き方はいろいろあるとは思います。それを描いてみて、軸にして検討していくことが絶対に必要なんじゃないですかね。

  布野  ・・・離散的に配置されるというのは、具体的には公共建築のことをいわれているのですか?

    ・・・・たとえば、都市において、他は砂漠でも知らないよと、こことここに建てる場所だけは面白く建てればいいじゃないかというのが、現実問題としてあります。しかし、あるいは広い原野の中で、昔のように間隔をおいて建てるというならそれでもいいでしょう。

  布野  ・・・公共建築というか、都市のモニュメンタルな建物について誰がやるのかという問題はあるかと思います。ようするに、能力のある建築家がやればいいということですが、一方で「広いゾーン」と言われたのは、たとえば住宅だったりするわけですね。われわれはよく「地と図」という言い方をしますが、グラウンド(地)をつくっていくようなところをどうやっていくのか、それが問題ですね。マニュアルをつくったり、形態や色を規制したりすることでコントロールしようとするアーバンプランナーの立場からは、世の中は優秀な建築家ばかりではないから規制が要りますよという議論になって、なかなか収斂していきません。最後に言われた、マスタープランは要りますよということについては、以前にもお二人のなかで話題にでたことがあるかと思います。

 磯崎さんはむしろ、マスタープランは止めなさいと言われている。岐阜県で女性四人に公営住宅団地の建て替えをやらせたときに、マスタープランなしでやってくださいと言われた。能力ある建築家が集まってやれば、マスタープランなしでもある種の全体のコーディネイトションができる。そんなことが、「地」の部分でも考えられるのではないかと思います。僕が、タウン・アーキテクトを発想するのもそうしたねらいからなんです。

  磯崎  ・・・行政が、特に建設省がいま使える法律は二しかなくて、一つは建築基準法ともう一つは都市計画法です。これに派生している条例はたくさんあって、いろいろな個別の開発方針や補助金もそこからでてくる。これはどういうことかというと、マスタープランを上からつくって、能力のない街の建築家たちは、それに基づいて、その枠の中でやりなさい…というお上の発想がそのまま法律になっている。これが僕のいまの二つの法律に対する解釈です。この二つをつぶして変えない限り、ほんとうは行政の人たちも困るんですね。それしか実際に住民に対する手段がないわけです。もともと悪い法律しかないにも関わらず、それを良いがごとく言いくるめなくてはならない、二枚舌を使わざるを得ないような状況が現実に起こっている。建設省の人たちにも、それは全部わかっている。わかっているけど、どうしょうもない。改正しても枠は変えられないので、重箱の隅をほじくるようなことになる。みんな頭がいいから、小さい部分をほじくるような法律をたくさんつくる。つくればつくるほど、ものが動きにくくなる。こういう矛盾を過去五十年くらいやってきたのが日本である。いま本当に行き詰まってきたのは、そこに原因があると本気で思っています。

     

マスター・アーキテクトとタウン・アーキテクト

 

  布野  ・・・マスター・アーキテクト制ということをおっしゃったことがありますね。一人が全体を統括する形の内井さんのいうマスター・アーキテクト制と違う発想ですよね。

  磯崎  ・・・審議会でそういうことを言っても、やりますとは言うんだけれど、実際に何時になったらできるのかわからない。そういう実状です。それを見て感じるのは、上から決めていくしかできないマスタープランだけしかないんだけれど、それを一度忘れて、その場その場で、これの方がより面白い、いい解決方法ではないかというものを探す。それがじわじわ動いてできあがるほうが、ネットワークが将来できあがるほうがいい。そのほうがリアリティがあるし、現実問題として無理が起こらない。できるだけマスタープランをつくろうとしている上の悪い作用を及ぼさないようにしてくれと…。少なくともそれをサスペンドしてほしい。そういうことをいつも考えるわけです。熊本の場合でもマスタープランはつくりませんでした。岐阜の場合もマスタープランなしで、四人で議論しているうちに、何時の間にかマスタープランらしきもの、同じものができあがる。そいうやりかたが実際にやろうと思えば、できるはずなんです。そして、それをより効果的にするには、基本的な大きな枠組みを法律のレベルから変えて欲しいというのは、いつも思います。

  布野  ・・・いまの脈絡でいきますと、原さんが必要だといったマスタープランは、少し違うようですね?

    ・・・・磯崎さんのも実はマスタープランであり、そういうやり方があるんだと思います。従来の意味で、それはマスタープランと呼びたくないんだと、磯崎さんはおっしゃるんだろうとは思います。言葉、概念として、いままでと違うことをやったんだから、それはマスタープランと呼びたくない。そういうことだと思うんです。しかし、何らかの形で全体に対する言及は欠かせるかといえば、そうはならない。磯崎さんは、おまえら勝手にやれというようにまかしたという決定をしたわけですよね。そこが極めて重要ですよね。そこの所を、いろいろな段階でどのようにやるべきかを考えたものこそがマスタープランだと思います。言葉がまずければ、計画の作り方というのが、おそらく必要ではないのかなと思います。

  磯崎  ・・・マスタープランというと語弊があるかもしれませんが、そういう種類のものはいったい何だろうかと僕は思っていたんです。たとえば大昔に、藤原京はここでいいんじゃないかというのを、誰が決めたのか? 何故ここがいいんじゃないかと決めたのか? 平城京もそうですし、平安京も同じことです。そう決めたときに、ここはなかなかいいと見つけてきた人がいるはずです。平安京の場合には、それは風水師らしい、道教のコンセプトがあって…などと、少しずつ復元がなされつつあるようです。彼らはその場所へ行って、この場所はいけるとかいけないということを、感でもいいんですが、理屈づけて決める。ただ一番最初に、ここはいけるというふうに思う、何かがあったと思うのです。たとえば吉野などは、誰も風水理論で説明していなくて、山岳密教や山城云々で言われたりしますが、やはりあの場所へ行くと、何か不思議なものがたちあらわれてくるような、山の佇まいも含めて、そうした気配がたちこめています。おそらくそれを感じたから、あそこを探したのだと思います。

 だから、いまマスタープランをやれる人は、そういうものがわかる人、理屈じゃなくて、感じられる人。昔は陰陽師がいて役をもらっていましたが、いまは都市計画家として図面を引いたというレベルではなく、もっと別のレベルでの感覚をもった人が、判断力をもっている人がでてくればいいと思うんです。世の中を見渡すと、職業的に僕はそれは建築家がいちばん近い存在だと思います。建築家という領域の中から、それを養成する以外にしようがないと思います。

  布野  ・・・かなりの層が必要だと思います。そうでないとタウン・アーキテクトはなりたたない。

     

分散論の限界と高層建築

   会場  ・・・明日香という地域からは少し離れますが、原さんの新梅田シティや建築中の京都駅ビルを見せていただくんですが、その建築哲学のようなものを聞かせていただけませんか?

  布野  ・・・短い時間で建築哲学を語れというのはずるいですが、原さんいかがですか?

    ・・・・それは非常に長い話になると思います。なぜああいうこと、高層化をするのかというのは、地域計画ということとも、日本の原風景ということとも密接に関わることなので、お答えしようと思います。

 日本では分散論がさかんで、集中というのは間違いで、いろんなものを分散したほうがいいんだという議論が基本的あります。その考え方は、僕らがいろいろな形でみている日本の原風景、日本的風景というものは、自然の中に調和的にものがあって、比較的ものが離散的に配置された、のどかな風景であるから、人間の快適な生活のために今日まで続けているんだということですね。では近代化ということが、いったい日本の状態、分散という問題にどう影響を及ぼしたのか? われわれのなかにある景観、日本的・村落的な、ある景観のイメージを引きずって都会に集まってきた人たちが、どんどんスプロールしていく。そういう現象の結果、いまでは自然が都市化される面積は、一年あたり三三〇平方キロメートルほどの速度をもって侵食していくんです。それは、東京都の都市化された面積が約一千平方キロですから、三年に一つ東京都ができてくるというスピードで、都市化が進んでいる。過疎などの問題があるんですが、そういう現実が数字として示されています。ワールドウオッチ研究所というところがだしてきたデータによれば、たとえば日本と台湾と韓国については一九五〇~六〇年代から今日までに、農耕耕作面積を半分に減らすということになっています。

 だから景観とかいう問題もありますが、僕はどちらかといえば、人間が生きる環境領域を限定していったほうがよいという考え方にたちます。いま砺波平野や出雲平野にみられるような散居村形式で住もうとすれば、その分散論のモデルをつくってみると、空きが二十メートルほどしかとれないわけです。のどかな散村型の風景の延長で、人間の欲望の解決策を追求していったときに、どのようになるのか? 都市と農地をぜんぶ足して、そのなかにバァーと人間をばらまくモデルを描いてみると、日本における昔の離散型集落での平均距離は、およそ八十メートという結果が得られました。それが現在では大幅に縮まってきて、分散的に生きる構図自体は危機になってきています。

 

  布野  ・・・いまのお話は関心は日本の国土レベル、地球環境レベルでの考えかたと理解していいですか。

    ・・・・いや地球全体に及ばないように話しているつもりです。それはもっと大変な問題があるんです。日本に限定して考えてみても、おそらく、新梅田シティとか京都駅ビルとかでいちばんわかりやすい話は、なぜ高層化するのかということだと思います。僕はその話をしているつもりですが、単純に言えば、人間はもう住む領域をここで止めて、限定した都市再開発をせよということです。少なくとも日本はそうすべきだ。もしみんなが、快適さのために広い面積が必要だといえば、その限定した中で生きるべきだということなんです。世界は一年に九千万人の人口が増える、一日二五万人が増えるというスピードが現実なわけです。

  布野  ・・・東京が九つ、一年でできるわけですね。

    ・・・・そう。そのなかで日本人が、いったい何を主張し、何を理念として生きていくのか? 大袈裟なんですが、それに僕は国家とかは好きではありませんが、そういうことだと思います。環境問題などで、発展途上国でも何をしては駄目、あれは駄目といわなければならない現実が目に見えているわけです。だけど温暖化の問題にしろ、なんにしろ解決しなくてはなりません。いまは餓死した人は無視したりしていますが、その状況の中で都市に住む人たちに、餓死してはいけない、住居はみんな平等にもたなくてはいけない、という理念をたてたならば、いったい世界でどういう都市形態を考えればいいのか? その時に、やはり分散論は駄目だ、無理だと僕は思いました。

 いろいろデータを調べると、日本は特にアウトなんです。だからわれわれの中にある、幻想的な日本的風景とか地域性とかは、根本的に誤っている、錯覚しているのではないかということを、僕はズーっと長いあいだ思っているわけです。それは集落調査をしたとき、アフリカの餓死していく子供たちに遭遇し、帰国してすぐ食料自給率や人間が生きていくうえでの農地の必要性について調べてみたんです。そしたら大変なピンチであることがわかった。そのことを「朝日ジャーナル」などで発表すると、お前は農本主義者だと言われたんです。時あたかも、外国産の食料がすごい勢いで入ってきて、飽食の時代が始まったんです。公害問題こそみんな注意しましたが、世界の農耕地のピンチについては誰も言及しなかったんです。

 リアリティとしてはいまでも、誰もこうした意識をもっていない。だけど遡っていくと、今日の最初の話にもつながりますが、世界的状況でもし物凄い飢餓状態がでてくれば、その時に「日本的風景」とか何かは、いったいどういうものになるのか。それは、今とはガラッと変るわけです。

   

「持ち家政策」の欺瞞

 

  磯崎  ・・・結論はかなり似ているんですが、プロセスが違うんです。僕は、日本政府が過去四十年くらいとり続けてきた「持ち家政策」をずっーと批判してきたつもりなんです。諸問題の根源はすべてここにあると思ってもいる。たとえば政治は五五年体制、官僚機構は四〇年体制というようにいわれていますが、その状況は依然として変らない。五五年体制がつくった最大の政治的課題というのは、日本中を総中産階級化するために「庭付一戸建住宅を持つことができるよ」という幻想を、まず組み立てた。それがすべての政治的課題であるとして、歴代政府がずっーとやってきた。かれこれ四十年ほどになるわけです。それは、大きな会社にみんな所属し、そこで土地取得、住宅建設のローンを組み、それを銀行が保証する。とはいえ、それを裏書するのは自分の所の会社であるから、永久雇用をしなければ、それはできない。つまり会社が縛ることができる。と同時に、あらゆる金融、担保の取り方、一切合切が、各人が庭付一戸建住宅が持ち得るんだという幻想に向かって、日本の政治や経済が組み立ててスタートした。これが五五年体制で始まったんですね。その末端とでもいうべき後始末が、後始末さえできないのですが「住専」です。銀行がパンクしてダウンしているのも、バブルが崩壊したのもその後始末です。ちょうど過去五年くらいの間に、日本政府がとり続けてきた問題が壊滅状態になってきたことは誰もが知るところです。

 その根源は、実は都市政策であり、住宅政策である。それに関わってきているわれわれ、建築家や都市計画家が、その細部を埋めるためこれまで作業をさせられてきたという関係の中でできあがってきている。大都市が壊滅していったというのは、おそらく庭付一戸建というものがとり得ないにもかかわらず、依然としてそれを持っている。細かくやって細部を穴埋めしようとはしています。高層化して立体分譲ができるようになるまでに、ものすごく時間がかかって、いたしかたなく立体分譲をやるという政策をとらざを得ないことになる。結局、本質的な解決にはならなくて、五五年体制のときに持った一戸建の推進に、すべて戻ってきているんだと思います。

 原さんの言われたことは、このようにして出来上がったものが、もう少しマクロに見たらそれ以上の危機が押し寄せているということだと思います。僕は個人的にそこの問題に関しては、土地とその他に住みわけするという考えが必要で、適切な考え方だと思います。都会で住む人でさえ、大都市で働かなければならない人でさえ、同じ条件をということで同じ幻想を与えてしまったことにいちばんの問題があった。彼らを第一次機械時代のロンドンのような、劣悪な生活条件に置くこと。都市とはそういうものなんだ、劣悪な生活条件なんだということを、冷たく認識させるようにする。近代の都市計画は“太陽と緑と空間へ”ということが、あるいは田園都市が一般化したように、第一次機械時代の都市の劣悪条件に対する批判としてのみ組み立てられた。そこで組み立てたられた法則というのは、いままで構造的な変化をもたらすことが、実はできなかったわけです。それをいじましく日本は解釈し、政策にしてしまった。それがいまの元凶なのではないか。

 そこから跳ね返って、いまの都市計画の構成の仕方、政策のつくられ方、それを受けとる住民サイドの意識、庭を諦めるとか、緑を諦めるとかいう、幾つかの条件をやらない限り都市には住めないということをはっきりしたほうがいいのではないか。都市に住むには、それだけの利便があるわけです。それに対して、こちらが何かを捨ててそれをもらわなくてはならない。それは空間と緑と太陽かもしれない。近代都市計画が狙った、この三つの幻想としてのスローガンをぜんぶ捨ててもらって都市に住み、たとえば文化であるとか便利さであるとか、新しいメディアであるとかをもらっていく。そんなことしかないのではないか。上手い具合にバランスをとって両方できるというふうに言うのは、これは政治的詐欺である。理論的にも、成り立たないものを言いくるめるという詐欺である、そういう状態がいま起きていると思います。

   布野  ・・・ほぼ時間が尽きました。以上でこのシンポジウムを終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

           (一九九六年一〇月二六日、明日香村中央公民館)   

   

★1 昭和初期(一九一〇~八一年)の評論家。亀井勝一郎らとともに「日本浪曼派」を創刊、その中心的指導者として活動した。古典への思慕とドイツロマン派を切り結んだ独自の発想による飛躍の多い硬質な文体が魅力的。

★2 アルゼンチンの詩人・作家(一八九九~一九八六年)。ヨーロッパで教育を受け、二〇年代にラテンアメリカに前衛詩の派をつくる。幻想的な小説で知られ、多くの詩集、小説がある。

★3 公開シンポに先立ち、明日香村長関義清氏に発言をいただいた。日本書記、古事記の舞台となっている明日香村は、都市計画法で「明日香村歴史的風土保存地区」として守(=規制)されている。建物規制もおこなわれており、高さ、形態、色などにも規制がある。

★4 磯崎新+原広司「京都あるいは消滅する都市」、「建築文化 特集“建都一二〇〇年の京都”」一九九四年二月号、彰国社

★5 プリンス・オブ・ウェールズ(チャールズ皇太子)著の『英国の未来像・建築に関する考察』で、伝統的なイギリスの建物や風景が、近年次々とこわされていく事実に直面して、彼はこれではイギリスは滅びると感じた。そこで破壊を食い止め、再び古き良きイギリスの美しさを取り戻すために、「何世紀もの間、建築家や建設業者を導いてきた規則やパターンを少し発展させる」必要があるとして、その「規則やパターン」を「一〇原則」にまとめた。

ж

 この記事は、建築フォーラム主催「建築思潮・明日香村会議」として、一〇月二六日、奈良県明日香村と吉野山・東南院で開催された公開シンポジウムを収録している。同イベントでは、磯崎新+原広司「“漂流する日本的風景”~地域計画と建築家の役割」と題する公開シンポジウムと、お二人を含む建築家五〇人の合宿会議が行われた。

 


2023年3月24日金曜日

植民地化という視点を日本の近代建築史に持ち込む,書評西澤泰彦著『日本植民地建築論』,『図書新聞』,20080614

 植民地化という視点を日本の近代建築史に持ち込む,書評西澤泰彦著『日本植民地建築論』,『図書新聞』,20080614

西澤泰彦 『日本植民地建築論』 名古屋大学出版会 2008

布野修司


 

もう四半世紀前、毎日のように図書館に籠もって建築関係の古い雑誌を当たっていた大学院生の頃、気になって仕方がない雑誌の合本があった。『台湾建築会誌』『満州建築雑誌』『朝鮮と建築』という三つのバックナンバーである。日本建築の戦前・戦後の連続・非連続に焦点を当てていたのであるが、とても手を出す余裕はなかった。ただ、ここには大変な「世界」があると思った。いつか手をつけなければならないという直感から全て目次だけはコピーをとった。時を経ずアジアを臨地調査のために歩き回ることになり、結局は手つかずになった。中国にしても、韓国にしても、そして台湾にしても、当時はとても臨地調査を展開する関係になかったということもある。

アジアに向かって、すぐさまインドネシアのカンポン(都市集落)に出会った(『カンポンの世界』)。そして、カンポンの世界に導かれて、植民都市研究に赴くことになった(『近代世界システムと植民都市』)。西欧列強による植民都市や植民地建築の研究に手をつけはじめて、大きな課題として蘇るのが日本の植民都市であり、日本の植民地建築である。評者にとって、本書は、以上の経緯と関心に照らして、待望の書である。

何故、日本の植民地建築か。日本人の建設した建築物を復元・記録し、日本による支配との関係(を論じた上)で、歴史上に位置付けること、そして、旧日本植民地における建築物の再利用やそれをもとにした都市再開発を側面から援助することが目的だと、著者はいう。建築物に関する過去の情報について提供することは、侵略・支配とは直接には「無縁な」世代、すなわち「戦後世代」ができる数少ない償いだという。

日本植民地(台湾、満州、朝鮮半島)における過去の日本人による建設活動、その結果建設された建築物に関する情報ついては、本書は、現在までのところ、最も体系的なものと言っていい。本書に先行して、著者自身も参加した『中国近代建築総覧』、そしてそれを含む『全調査東アジア近代の都市と建築』(藤森照信・汪坦編、筑摩書房、一九九六年)があるが、それらはインヴェントリーに過ぎず、しかも、必ずしも網羅的なものではなかったのである。

本書は、「植民地建築とは何か」と題した序章で、問題意識や既往の研究を整理した上で、台湾総督府、朝鮮総督府などの官衙(庁舎)建築(第1章)、朝鮮銀行、台湾銀行などの銀行、満鉄などの国策会社(第2章)、学校、病院、図書館、公会堂、博物館、駅舎といった公共施設、百貨店や商店街、劇場や映画館といった民間施設(第3章)を順次取り上げている。植民地の政治、経済、社会というフレームであるが、必ずしも主要な建築物を列挙するにとどまらず、その建設活動に関わった建築家(建築技師)、建築組織を詳細に明らかにしてくれている。また、建築費についても触れられている。大連、台北、ソウルといった支配の要となった都市の全体像が欲しいというのはおそらく無いものねだりである。『岩波講座 近代日本と植民地』全八巻、そして『岩波講座 「帝国」日本の学知』全八巻などを背景として読まれるべきであろう。ただ、越沢明の『植民地満州の都市計画』(アジア経済研究所、一九七八年)『満州国の首都計画』(日本経済評論社、一九八八年)『哈爾浜の都市計画』(総和社、一九八九年)といった先行研究を批判的に捉え返すためには、都市全体の構成(計画)にも触れる必要がある。また、青井哲人著『彰化 一九〇六年』(アセテート、二〇〇六年)のような様々な都市の都市史(誌)を明らかにする具体に即した作業は残されている。

個別の建設活動をつなぐ視点としてまとめられているのが「建築活動を支えたもの」(第4章)と「世界と日本のはざまの建築」(第5章)で、建築生産技術の様々な局面(蟻害対応、気候対応・・・)、建築材料、建築規則などが比較される。おそらく、本書の真骨頂は、建築技術、建築生産という建築の下部構造に関わる視点と、それを「世界建築」史に位置付けようとする視点である。もっとも、この二つの章がうまく整理されていないのが残念である。建築の様式と意匠についての記述が浮いているのも気になる。

本書が少なくとも日本の近代建築史に対して、「植民地化」という大きな視点を持ち込んだことは疑いがない。日本植民地が日本の近代建築の先駆的な実験場だ、ということはこれまで様々に指摘されてきたけれど、ここまでその実相に迫ったのは本書の大きな功績である。何故、朝鮮総督府は解体され、台湾総督府は大統領府として使われ続けるのか。旧日本植民地の現在にとっての近代とは何であったのか、本書は実に多くのことを考えさせてくれる。ただ、本書が支配とは直接「無縁な」世代の「償い」だという言い方には引っかかる。植民地建築研究そして植民都市研究は、そもそもが支配と被支配の間の文化変容に関わる研究である。植民都市は、支配する側の価値観、イデオロギーを被支配者に強いるメディアであり、植民都市はその表現である。著者が、日本の地方の建築家の建築活動と植民地の建築家の活動との同相性を指摘するように、本書のテーマはより普遍的なテーマに接続しているのである。

日本の「明治建築」も西欧から見れば植民地建築である。西欧―日本―日本植民地の相互関係をめぐって、日本植民地建築は、より複雑な様相を呈する。日本植民地という限定によって、東アジアというフレームにやはり捕らわれていると指摘せざるを得ないけれど、「世界建築」という切り口を示すところに強い共感を覚える。