このブログを検索

2023年11月13日月曜日

歩く、見る、聞く―――臨地調査(Field Survey)のために 調査心得7ケ条、調査必携、2004

 歩く、見る、聞く―――臨地調査(Field Survey)のために

 

  調査心得7ケ条

 

 1 臨地調査においては全ての経験が第一義的に意味をもっている。体験は生でしか味わえない。そこに喜び、快感がなければならない。

 

 2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか、どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。

 

 3 臨地調査において必要なのは、現場の臨機応変の知恵であり、判断である。不測の事態を歓迎せよ。マニュアルや決められたスケジュールは応々にして邪魔になる。

 

 4 臨地調査において重要なのは「発見」である。また、「直感」である。新たな「発見」によって、また体験から直感的に得られた視点こそ大切にせよ。

 

5 臨地調査における経験を、可能な限り伝達可能なメディア(言葉、スケッチ、写真、ビデオ・・・)によって記録せよ。如何なる言語で如何なる視点で体験を記述するかが方法の問題となる。どんな調査も表現されて意味をもつ。どんな不出来なものであれその表現は一個の作品である。

 

6 臨地調査において目指すのは、ディテールに世界の構造を見ることである。表面的な現象の意味するものを深く掘り下げよ。 

 

7 臨地調査で得られたものを世界に投げ返す。この実践があって、臨地調査は、その根拠を獲得することができる。

 

 

 

 

 

 


調査必携

 

 0命

  パスポート

  航空券

③ 現金(円、USドル) カード トラベラーズ・チェックなど

    以上3点セットは常に確認できるよう身につける。

 基本的に①②は下のD,Eで管理する。③現金については、分散する必要がある。財布の他、下のB、Cに分けてもつ。スーツケースには入れない。トラベラーズ・チェックは面倒くさい。最近では大抵の国で(タイ、インドネシアでも)キャッシュ・ディスペンサーで現金を引き出せる。円とキャッシュ・カード(Visa Master card)でOK。但し、イラン、ミャンマーのようにカードが使えず,USドルしか信用しない国もある。USドルはもっておいた方がいい。空港で使えるというメリットもある。

 

 Ⅰ 基本構成

  A スーツケース

  B  ハンド・ラゲージ

  C  デイ・バッグ(リュックサック):調査用

  D  ウエスト・バッグ

  E パスポート・ケース

 

    A⊃B⊃C⊃D⊃E

 

    移動時 Ⅰ A(⊃C)+B+D(E)

  調査時 Ⅱ C

  常 時     D(E)は身につける。

 

  基本的にABの2つに収める。3つ以上を持つと忘れる確立が増す。

 

 A スーツケース・・・以下の分類毎に収める

 A-1  衣類

下着類4日分基準 正装(人に会う場合を想定)一着 

 A-2  洗面用具 歯ブラシ、石鹸等一式  

 ○洗剤、洗濯物乾し用ロープ、折り畳みハンガー:ロンドリー料金が安い所では選択に時間をかけず、作業した方がいい。

 A-3 化粧品、爪切り用具、整髪料その他 必要に応じて 

A-4 文具:4色ボールペン、カッター、油性マジック、トレーシング・ペーパー、コピー用紙、三角定規、物差し、安く買えるから予備はなくてもいい。

 A-5 薬:胃腸薬 バンドエイド 頭痛薬 痛み止め、

     タイガーバーム 飲んでもいい 正露丸     

 A-6 土産(本、扇子、・・・)、調査御礼(絵葉書、・・・)、名刺、紹介状、依頼状

 A-7 ノート・パソコン関連グッズ:各種プラグ、電話線ジャック、電池、CD-RomMoなど、保存媒体。

 A-8 その他

     荷造りセット ガムテープ ヒモ、封筒各種 ビニール袋(衣類を分けるのに使う)、風呂敷

 A-9 文献資料等 

 

  ハンド・ラゲージ(移動中、どこでも仕事ができるものを入れておく) 大きさは航空各社が規定している手荷物の大きさ(50cm×20cm×30cm)。

B-1 ノート・パソコン

 B-2 電気器具等

     ●変電器(トランス)

     ●各種コンセント、電話ジャック、ケーブル、延長コード、乾電池(予備、ほとんど現地で調達できる)

 B-3 デジタル・カメラ

     バッテリー メモリー・カード 充電器 

B-4 各種文献、資料。移動中に読む

 B-5 日誌用ノート 小型ノート

     時間があれば、どこでも気のついたことをメモする。

     また、領収書やチケットの類はノートに貼り付ける

 B-6 文具一式 特にノリとホチキス

 

C デイ・バッグ(リュックサック):調査用、移動時はスーツケースに収める。

 

 C-1 スケール(5m)、磁石

 C-2 赤外線計測器 最近性能はいいが、屋外では使いにくい。歩測器(ゴロゴロ)は不正確。歩測を身につけること。また、タイル幅(30cm15cm40cm)を利用する。

 C-3 、調査用紙(方眼紙)、ベースマップなど 4色ボールペン

C-4 小型ノート(スケッチブック)

 C-5 デジカメ、予備の電池 予備の記憶カード

C-6 帽子(日射防御) 折り畳み傘(簡易雨具)、ジャケット、セーターなど必要に応じて

C-7 調査御礼用品(絵葉書など)

   

 

 

 

2023年11月12日日曜日

2023年11月11日土曜日

大腸癌 布野哲郎 記 父の発病から永眠まで (昭和五十三年八月・九月のメモから) 1978

 祖父 布野寛蔵 死去 の記録

丸山ワクチンに頼る、そんな時代があった。食道顔

        布野哲郎 記                           

 父の発病から永眠まで              (昭和五十三年八月・九月のメモから)

 

  八月十日(木)晴  夜晩く帰宅すると、知井宮(宣さん)から十時過ぎ電話があったとのことでこちらからかけてみる。

  父が身体の不調を訴え、七日県立中央病院で診察を受けた。今日再審でレントゲン写真を撮った結果、食道癌と診断された。明十一日更に胃カメラを呑む予定だが本人はもとより誰にも内密にしていると云うことだった。  こちらから、手術その他治療について、また入院等の対処の仕方について、明日医師に万事相談してみるように云って、十一時前電話を切る。大変ショックだった。

  十一日(金)晴  休暇を取って終日在宅、高校野球のテレビを見る。父の件詳細わからないまま、雑賀町小室と、広島寛威さんに電話して置く。

  十二日(土)晴  六時半ころ宣臣から、今日午後から出てくると電話があった。九時半出社、午後一時半退社、石原に行って癌に良いという酵素を分けて貰って帰宅する。

  宣臣が出松来宅、父の様子を詳しく聞く。春頃から不調だったようだが、最近はご飯が喉に詰まって食が進まない。七月末頃から病院で診て貰うように云っていたけれどなかなか行かなくて、やっと今月の七日に初めて県立中央病院で診察を受けた。はっきりしないので、十日の再診には宣臣がついて行った。内科の診察の後レントゲン写真を撮った。宣臣にだけ食道癌だと告げられた。十一日の再診は内科、外科、放射線科を回った。どの医師の所見も病状が進んでいて手の施しようがない、高齢でもあるし、手術も放射線治療も出来ないということであった。

  母には勿論話さないことにする。光恵さんには良く話して協力して貰うことにする。夜小室に来て貰って協議する。総合病院で積極的な治療がないなら、今後は自宅療養で開業医(加藤先生が良い)に診て貰うことにして、予め加藤先生の了解を得て置いて中央病院から回して貰うことにする。

  十三日(日)晴  知井宮に電話して、十五日隆栄と裕子と三人で仏様拝みに行くと連絡する。序でに加藤先生に連絡して盆休中でもお願いにお邪魔させて貰うように頼ませる。夜十四日十一時頃会って貰えると連絡が入る。

  十四日(月)晴  九時過ぎ小室に来て貰って出雲市加藤医院に出かける。日本生命にダイヤモンド婚の記念プレゼントを申し込むため、出雲市役所で父母の戸籍抄本を取って、宣臣と待ち合わせして十一時加藤医院に行く。先生は十二時過ぎに往診から帰宅、経過と事情を説明して父は自宅療養として、先生に往診して貰うよう頼む。先生は、明治は辛抱強いからネ!と飽きれていたが快く引き受けて貰った。寿司を馳走になり一時半に医院を辞して、更に三人市役所で打ち合わせして、三時半頃松江に帰宅。留守中修司が電話してきていて、広島の寛威さんから連絡を受けて東京で会ったら、溺れるものは藁をも掴むのたとえで、丸山ワクチンのことを云っていたと。

  十五日(盆休)晴  十時前日本生命松江支社で、父母ダイヤモンド婚プレゼントの申し込みをして、一畑デパートで蜂蜜を買って、十二時前の汽車で隆栄と裕子と三人で知井宮に仏様拝みに行く。お墓にも参り、田岐屋え仏様拝みに行く。父、母ともゆっくり話す。父は自分の室で布団は敷かず小さな扇風機をかけて横になっている、便所には一人で行く皆と一緒にお茶は飲まない。五時半のバスで出雲に出て松江に八時頃帰る。裕子が結婚したいと云う相手の人について詳しく聞く。

  十六日(水)晴会社は休む。物置から丸山ワクチンの記事が載っている文藝春秋を引っ張り出す。隆栄と裕子は帰京乗車券の買い求めと、泰広の蒲団をチッキで発送するため街に出る。夜修司と丸山ワクチンのことで電話連絡、裕子の結婚相手についても話して合えたら合ってみてくれと頼む。修司は九月初めに帰松すると云う。裕子に知井宮のお祖父ちゃんの病状について話す。結婚相手については、今の段階では面識もないので、一般論だとして自分の意見を話しておく。

  十七日(木)晴  会社から外出の序でに今井書店、園山書店で『癌は征服された』の本を探すも見当たらず、退社帰宅途中黒田書店で丸山ワクチンの本を買う。裕子は<やくも3号>にて上京する。

  十八日(金)晴  五時半退社。知井宮から電話連絡、十七日中央病院再診、十八日加藤医院初診。

  十九日(土)晴  市立病院吉岡事務局長に連絡して、杉原先生に会って貰えることになり、十時前から約一時間丸山ワクチンについて聞く。病院では使用しないと。

  二十日(日)晴  中林恒夫氏を見舞う、生協病院退院につき古志原の宅に。随分悪いのか本人に会えず。夕方丸山ワクチンの本を小室に回す。

  二十一日(月)曇  知井宮から今日も連絡なし。

  二十二日(火)晴  縁側敷居直しと雨戸直しに八時に大工さん来る九時過ぎ出社。石原で酵素を分けて貰って七時帰宅。夜美智子さん、裕子より見舞いの電話。知井宮に電話して様子を聞く。

  二十六日(土)晴  二時半帰宅。知井宮から宣臣が出て、丸山ワクチン使用について加藤先生にお願いした結果や、父の様子について聞く。酵素2000cc渡す。

  二十七日(日)晴  夕方小室が来たので丸山ワクチン使用その他昨日宣臣との話伝える。費用等纏め役頼むと。

  二十八日(月)晴  宣臣から加藤先生にお願いした丸山ワクチン関係の書類が整ったと電話連絡があり東京え行くことにする。

  二十九日(火)晴  八時松江駅で特急券寝台券申し込み、八時半東京修司に電話して、三十一日上京するので、日本医大の受付日を確認の件頼む。二時特急券、寝台券購入、五時半退社。宣さんからレントゲン写真、医師の証明書届いている。夜修司、宣臣と電話で打ち合わせ。東京行き準備、疲れていて眠い。

  三十日(水)晴  朝合銀駅前支店で預金引き出し九時二十分出社。専務に三十一日休暇の了解をとり三時退社。入浴その他支度して五時三十七分出雲号で丸山ワクチンをとりに行く。

  三十一日(木)晴  七時東京駅に着く。七時半修司と待ち合わせ朝食後日本医科大学付属病院へ、八時三十分受付後、しばらく待ってスライドを見たりいろいろ説明を聞いて、十一時三十分丸山ワクチンを受け取り病院を出る。八重洲口に回り<やくも5号>の特急券が取れたので、修司と昼食後一時三十六分の<ひかり>で離京八時四十分帰宅する。

  九月一日(金)曇  会社を休む。知井宮に電話して宣臣十時過ぎに来る。丸山ワクチンを渡して打ち合わせして十一時半頃より出雲市加藤医院へ同道する。先生にワクチン注射の件頼み打ち合わせして、一時医院を辞して中央病院へレントゲン写真を返納する。一時半出雲市駅で宣臣と別れて汽車で四時頃帰宅。新聞切り抜き休養。

  二日(土)曇  六時十分~七時二十分隆栄と自転車で竹内神社に参拝する。夜知井宮より電話、父加藤医院へ連れて行って丸山ワクチンA皮下注射。以後九月四日より自宅で光恵さんが注射する。

  四日(月)晴  古志原栄子から電話で、三日知井宮に行って来たと様子を知らせてくる。

  五日(火)曇  父散髪に行ったと。

  六日(水)晴  石原から見舞いの葡萄が届けられる。宣臣から二日以降の様子知らせてくる。

  七日(木)晴  夜大阪恵之から電話して来たので知井宮の状態を話す。見舞いに酵素を分けて貰って送ってくれと頼まれる。

  九日(土)晴  二時退社、ユニコンに寄って四時頃まで江沢社長から食道癌で亡くなられた母堂の治療経験について聞く。猿の腰掛けの煎じ薬、痛み止の注射と、医師と、看護婦と、付き添い家族等々。夜宣臣から電話、今日加藤先生に往診を頼み二時頃から先生が来て腹水を五00ccくらいとってぶどう糖の点滴をして貰った。江沢さんの話を少しする。

  十日(日)曇時々雨  九時過ぎに家を出て十一時知井宮へ。父の様子今日は痛みがなくお粥が一杯食べられた、石原からの葡萄美味しく食べられた。ぶどう糖点滴二本目、ワクチン今日五本目、咳も少い。五時過ぎのバスで出雲に出て汽車で帰宅。夜小室と、大阪恵之と、広島寛威に電話して知井宮の様子を知らせる。

  十一日(月)雨  五時四十五分退社、夜十時宣臣から電話、父発熱(三十七度八分)加藤先生往診腹水抜き取りは止めて、ぶどう糖に利尿剤を入れて点滴栄養補給する。先生が良い抗癌剤があるがと云って、帰り際に薬をとりに来いと云われたので、行ったら朝夕使用の新しい坐薬三日分渡された。

使用すべきかどうか。(抗癌剤と丸山ワクチン併用の問題)父は鬼門の清めとりんご汁を盛んに云う、懸命である。

  十二日(火)小雨後曇  今日は熱なし、点滴、丸山ワクチン(B)六本目。

  十三日(水)晴  夜泰広から電話明日帰松する。十時半宣臣から電話、本日三時往診腹水八00ccをとった二回目、ぶどう糖点滴。咳はひところより回数はうんと減り、弱くなっている。粘液がたくさん咳と共に上がる。食事は殆ど喉を通らない、重湯のようなお粥を茶碗に少し。岡田の叔母が見舞いに見えた。小室に連絡して置く。

  十四日(木)曇  点滴、丸山ワクチンA七本目、粉薬も水で飲めない。錠剤にしてもらってくれということで、丸薬をなめているように云われて貰ってくる。坐薬はなかった。重湯程度のものも殆ど喉を通らない。泰広帰松、知井宮のお祖父ちゃんの病気、大学院の試験、今後の進路等について話し十二時半就寝。

  十五日(敬老の日)晴  朝宣臣から電話、十四日母また脛が悪く勝部先生に行った。父は加藤先生の往診がないのを心細く思っており、入院して良くなるんだったら入院したいらしい。易で云う崇りを気にして、須佐の大宮さんに行ってお払いして貰うよう頻りに頼むので、これから(十五日)横丁の姉と一緒に須佐に上がる。医者はそろそろ入院をと云うが、どうが良いだろうかと。

  もうしばらく入院しないで自宅で頑張るよう宣臣に云って、午後古志原の栄子に来て貰って父の病状を詳しく話し、協力を頼む。夕方六時頃修司帰松、父の病状経過、裕子の結婚、修司のマンション購入、頭金預貯金等々話して十二時半就寝。

  十六日(土)曇  修司、泰広知井宮に見舞いに行かせる。隆栄が知井宮からの連絡で新聞社に電話してくる。父は昨夜から痛くて苦しむ。朝加藤医院で坐薬と痛み止めを出して貰って注射した。だらだらと眠りと覚めとの繰り返しだと。五時半退社帰宅、修司から知井宮の様子を聞く。入院を考えていて明日知井宮で相談したいと。午後二時半頃加藤先生が往診されて腹水一000ccくらい抜き取り点滴する。丸山ワクチン八本目注射。入院は中央病院を当たってみることにする。

  十七日(日)晴  修司、泰広、やよいで二十世紀梨を購入、手荷物にして発送、十四時五十二分やくも五号にて上京。

  小室の車で栄子と三人知井宮に行く。十五日父が苦しみ、十六日腹水をとって小康を得ているが、十八日には入院させるか、病室次第とゆうことで看護体制を協議する。恭子が夜昼付き添うと云うので頼むことにした。松江に三人帰ったのは七時半頃。夜宣臣から電話があって、あの後で恭子は自分とこの孫を預かると云うことでもめて御破算。この件小室に電話して置く。

  十八日(月)晴  十時過ぎ宣臣から新聞社に電話。昨夜から父の様子がおかしいハア ハア 云って口開けて眠り続ける、声を掛けると薄目を開けてまたすぐ眠る。とても大儀でもの言う気力もなさそう、顔色も悪く医者の往診を求めているが、遠方は通知したが良いかと。医師の往診の結果にするように云う。その後電話なし。帰宅後宣臣から電話、広島、大阪、郁子に知らせた。血圧最高七0、点滴二本続ける、丸山ワクチン。医者は危険な状態で今は動かせない。遠方は通知したが良いと云う。広島大阪に通知。

  十九日(火)曇  知井宮に電話して昨夜からの様子を聞く。変わったことなし、今朝のところ昨日より良いようだ、痛みもないと云っている。食事は全然喉を通らない。昨夜十時過ぎ広島の寛威、今朝大阪の八木の叔母さんと恵之が来ていると。九時半出社五時半退社。電話なくこちらから宣臣に電話を入れて様子を聞く。医師の往診あり、熱三十七度一分、血圧少し上がる、痛みはなし、咳もあまり出ない、粘液も上がらない、食物は全然喉を通らない、渇きに氷をなめていて氷を欲しがる。医者は頚部が固くなっていてそこにも転移していると云う、昨日より良いがもう痛みもあれっきりだろうとのとのことである。点滴のみ。

  二十日(水)雨  小室に電話して知井宮の様子を知らせて置く。いつものとおり出社。隆栄が知井宮に電話して栄子に様子を聞く。加藤先生往診点滴、丸山ワクチン十本目。寛威、恵之それぞれ帰る。夕方江津のきくえ叔母さん来て一泊。

  二十一日(木)曇  三時過ぎユニコンの山田さん、江沢社長からの猿の腰掛け届けてくれる。夜電話して様子を聞く。今日は痛まなかった、朝煎茶碗に一杯重湯が喉を通った。父は絶えず食べよう食べようと意欲を持っている。酵素を催促する、氷を欲しがる。朝中央病院の病室が開いたので今日午前中に入院しないかと連絡があったが、当分動かせないということで断った。加藤先生往診。隆栄、知井宮の煮豆をする。

  二十二日(金)曇  隆栄知井宮に障子貼り手伝い。

  二十四日(日)曇  十一時四七分の汽車、出雲からタクシイで知井宮午後一時、見舞金五万円、二十世紀梨一箱。恭子、小室来ている。足、手が腫れている。手は二、三日前から、目を開いたりつむったり、口が乾く氷をなめる、一時間に一回くらい寝返り、起きて座りたがる。腹水が溜っている。時々起こしてくれとせがむ。

  加藤先生六時頃往診、静脈注射痛み止め、後で点滴しようとするも血管が出なくて入らない。出来なかった。十一時半頃小室と共に知井宮を辞し帰宅、一時過ぎ就寝。

  二十五日(月)曇  朝栄子に電話して知井宮に行って貰うことを頼む。隆栄も朝預金引き出しの後

知井宮に行かせる。

  二十六日(火)  五時七分電話で起こされる小室知井宮から。自転車で南口へ出て五時四十分の下り列車で出雲市、タクシイで知井宮に六時四十分に着く。七時過ぎ皆起きてきて加藤医院へ電話を入れておく。八時様子が変わる。皆枕元に集まる。加藤先生来られて八時八分父は永眠する。

  八時四十分頃栄子、隆栄来る。親戚関係宣臣が通知する。あり合わせのもので交替で朝食だけ済ませると、隣の勝部正さんに諸事取り仕切ってもらうようお願いする。光明寺さんに枕経を上げて貰う。それぞれ手続き連絡の上、出棺は明日、葬儀は光明寺二十八日十時と決定する。広島からも来て通夜。

  二十七日(水)晴  朝までに大阪からも城崎からもみんな来て、九時から納棺する。一ノ谷火葬場

で火葬する。遠方の親戚も多く着替えもあるので、二十七日は小室の車で松江に帰宅する。

  二十八日(木)曇  五時過ぎ起床、六時家を出て小室の車で幸子さんと隆栄と四人で知井宮へ、七時過ぎ着いて朝食、九時二十五分胎泉寺から来られる。法名釈浄寛居士。花輪、弔電整理、係の人と打ち合わせ、十時葬儀。

  二十九日(金)昨夜来雨昨夜は母と共に父のやすんでいた室で寝た。夢は見なかった。雨はかなり降る、朝、市の典礼から来て祭壇を片付ける。十一時頃から会葬の御礼回りのため松江に向かう、十二時半帰宅。中電、松陽ビル、県庁、市役所、新聞社、ユニコンと回り三時半頃帰宅。小室は宣臣と共に再び知井宮へ、十時頃就寝。


新たな空間形式の創造・・・土地と建物の根源的関係を見直すタウンアーキテクトとしての建築家の役割,建築雑誌,日本建築学会,200012

  新たな空間形式の創造・・・土地と建物の根源的関係を見直す タウンアーキテクトとしての建築家の役割,特集 行く世紀,来る世紀,建築雑誌,2001年1月

新たな空間形式の創造・・・土地と建物の根源的関係を見直すタウンアーキテクトとしての建築家の役割

 布野修司(京都大学)


 松山巌に『世紀末の一年』(朝日選書、2000年)という仕事があって、その仕事をもとに100年前の日本を考えたことがある(『GA』2000年春号)。20世紀は人類史上最も激しい変化の世紀であった。にも関わらず、あまり変わらない、というより、全く「金太郎飴」だ、という思いがした。人間そう変わりはしない。100年後も、おそらく僕らは同じことを繰り返しているだろう、という思いがある。

 もちろん、この百年間における決定的な変化はある。百年前には飛行機も自動車もなかった。コンピューターについては、その変化を身をもって証言できる。パンチカードからカセット・テープ、CD-ROMまで、この間のめまぐるしい変化は想像を絶する。漢字をコード化して、ワープロソフトのプログラムを書いて喜んでいたのが馬鹿みたいだ。20世紀を主導し、支配してきたのは科学技術である。近代建築を主導してきたのも基本的には建築技術である。従って、来る世紀を占う上でも建築技術のあり方がひとつの鍵となるのであろう。情報技術(IT)が建築を変えるのだ!と扇動する建築家が既に跋扈している。しかし、百年後にも現在と同じような建築物が日本の町並みをつくっていることには変わりはあるまい。 


 建築家にとっての基本的テーマは空間の形式である。20世紀は、新たな都市や住居の形式を生み出してきた。その空間形式に未来はあるのか、が問われるべきだと思う。


 20世紀において決定的となったのは土地と建築の関係である。すなわち、建築と具体的な土地や地域社会との関係が切り離されてしまったことが大きい。ひとことで言えば、「社会的総空間の商品化」の進行である。建築生産の工業化といった方がわかりやすいかもしれない。工場生産された部品や材料でどこでも同じように建築がつくられる。結果として、世界中で同じような都市景観をわれわれは手にした(しつつある)のである。近代建築は基本的にそうした世界を目指してきたのではなかったか。だから、建築家にとって中心的課題は、依然として、近代建築の理念をどう評価批判するか、なのである。

 もちろん問題は産業社会の編成そのものである。問題は建築の領域を遙かに超えている。脱産業社会が呪文のように捉えられて既に久しいが、必ずしも行く先が見えたとは思えない。近代建築批判の課題は宙づりされたままである。

 ひとつの大きな手がかりは、「地球」という枠組みである。一個一個の建築の設計においても地球のデザインが問われているということである。『戦後建築の終焉』(1995年)で少し考えたけれど、具体的な指針は定かでない。警戒すべきは、なんでもエコロジーと言いくるめるエコ・ファシズムである。自律的(セルフ・コンテインド)な空間単位はどのような規模で成立するのか。おそらく「世界単位」論の言う地域的な圏域がグローバルに確立される必要があり、その圏域の基礎となる空間単位を具体的に提示する役割が建築家にはある、というのが直感である。


 日本の建築界については、戦後50年(1995)を契機に考えたことがある。休憩なしの3時間のシンポジウムを3回、司会を務めた。その記録『戦後建築の来た道行く道』(東京建築設計厚生年金基金、1995年)を読み返してほとんど付け加えることはない。この十時間に及ぶ真摯な議論を是非読んで欲しい。通奏低音となっているテーマは、建物の生命(寿命)である。端的に言って、建物をそんなに簡単に壊していいのか、ということである。資源問題、エネルギー問題など地球環境の存続が全体として問われるなかで建築と土地の関係は再度根源的に問い直されることになるであろう。

  具体的な指針としては、『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社、2000年)を書いた。日本の産業社会の再編成が進行する中で、日本の建築界の構造改革(リストラ)も必然である。20世紀後半のスクラップ・アンド・ビルドの時代からストックの時代への転換が起きるとすれば、建築家の役割も変わらざるを得ない。はっきりしているのは、建築を維持管理していく仕事が増加していくことである。また、建築家がタウンアーキテクトとして地域との関係を強めざるを得ないということである。世紀半ばまでには死に逝く世代としては百年の展望は必要ないだろう。

建築雑誌2000年12月

2001年1月 行く世紀、来る世紀 








2023年11月9日木曜日

長谷川堯 『神殿か獄舎か』、相模書房、一九七二年、?、1999

 長谷川堯 『神殿か獄舎か』、相模書房、一九七二年

キーワード:神殿、獄舎、昭和建築、雌の視角


 本書を最初に読んだときの衝撃は今も忘れない。本を読んで著者に会いに行ったのは後にも先にもこの一書である。ちなみに徒党を組んで会いに行ったのは杉本俊多、三宅理一、千葉政継の面々である。六〇年代末の世代として、僕らはまず原広司のいささか難解な『建築家に何が可能か』を貪るように読んだ。しかし、時代が現前させたのは、「建築家に何も可能ではない」、「建築とは暴力である」というテーゼであった。

 神殿か獄舎か!。

 運動の後退期にこのスローガンは実にわかりやすく耳に入った。近代建築家を「神殿志向」として切って捨てる。そして、建築家は所詮「獄舎づくり」だ、と言い切る。その宣言は妙に時代の気分に合っていた。本書は日本における最初の近代建築批判の書である。日本における近代建築批判の書として、僕はこの『神殿か獄舎か』と磯崎新の『建築の解体』(美術出版社、一九七五年)をあげる。いずれも六〇年代末の雰囲気の中で書かれた。もちろん、二書の近代建築批判の位相は異なる。長谷川堯は磯崎新を神殿志向として予め切って捨てている。

 『神殿か獄舎か』の第一の意義は、「昭和建築」という範疇を提出したことである。すなわち、「昭和」の戦前戦後を通じて連続するものとして日本の近代建築思想を捉えたことである。具体的に、「建築の<昭和>の中央を汚す傷のようにかなりの数の歴史様式の建築と、さらにはあのファシズムの横行に付随したいわゆる帝冠式といわれる建築が分断している」が故に「<昭和建築>を戦後建築に顕著な合理性にもとづく近代的な建築の流れとして総合的に把握し、一つのカテゴリーとすることに無理があるように思われる」なかで「昭和のはじめに国際的に起こった近代合理主義建築運動の中で、特にそれが後発工業資本主義国において展開する時、ある歴史生理的必然から生ずるいわば正常な排泄物に近いものが歴史様式特に帝冠様式ではないか」として、<昭和建築>=近代合理主義の建築という規定を行うのである。

 長谷川堯が<昭和建築>なる範疇を提出したことの意味は、日本の近代建築を<昭和>という具体的なコンテクストに置いたことである。また、戦前戦後を通じて一なるものを対象化したことにある。

 そこで彼が意図したのは、「大正建築」を救うことであった。具体的に『神殿か獄舎か』において大きな評価が与えられているのは豊玉監獄の設計(獄舎づくり!)で知られる後藤慶二のような建築家である。また、前川國男、丹下健三といった近代建築の主流(神殿志向)ではなく、分離派や村野藤吾のような大正期に出自をもつ建築家である。

 長谷川堯の評論のわかりやすさはAかBかというディコトミーにある。続いて出された評論集は『雌の視角』(相模書房、一九七四年)と題されるが、「昭和に対する根源的批判は、メスの思想の存在によってのみ可能である」というのがテーゼである。明治以降、日本の建築のあり方を大きく規定してきた構造派を支えた思想をオスの思想、大正期の後藤慶二や分離派を支えた思想がメスの思想である。さらに言えば、メス性とは、自己性であり、想像性であり、身体性である。「外から上から」に対する「内から下から」という言い方もなされている。

 こうした単純な図式の反転には当初から違和感があった。ひたすら「内へ」「自己へ」向かえば、近代建築批判が達成できるとは到底思えなかったのである。長谷川堯の一撃は必要であった。続いて上梓された『都市回廊』(相模書房、一九七五年)も含めてその歴史の読み直し作業の意義は大きかった。しかし、その安易な二者択一の図式とその反転がポストモダンの建築を自閉の回路に導き入れたのはおそらく間違いないのである。

2023年11月8日水曜日

棲み分けの理論へ・・・「形の論理」と構想力、平良敬一氏の「『空間論』から『場所論』へ」をめぐって、C&D、1999

棲み分けの理論へ・・・「形の論理」と構想力

・・・平良敬一「「空間論」から「場所論」へ」をめぐって

布野修司

 

 やはり「西田哲学」にいくんですか、と思わずうなった。平良さんのヴァナキュラーなものへの注視、風土性・土着性・田園性のデザイン言語への期待は、かねてより直接話を聞く機会もあり、大いに共感し自分なりに理解してきたところだが、その哲学的基盤への思索が「西田哲学」へ向かいつつあるとはいささか意外であった。

 かって「西田哲学」を「社会的実践の理論としてはあまり有効性をもたない」と考えていたマルクス主義者平良敬一が「西田哲学」に向かうのにはもちろん理由がある。マルクス主義あるいはマルクス主義の進歩史観と親和性の強い近代的知(諸学)のフレーム(パラダイム)がその有効性を失いつつあるのである。考えるに「近代の超克」という方向性についてはマルクス主義と「西田哲学」には共通性がある。マルクス主義は資本主義の生産力を媒介にして、「西田哲学」は東洋思想を媒介にして「西欧近代」を超えようとしたのである。マルクス主義が歴史の発展段階、系譜や時間に関心を集中したとすれば、「西田哲学」は西欧の知的体系では捉えきれない異質の地域や世界、場所へ向かったのである。

 と、訳知りに言い切るほど「西田哲学」を理解しているわけではもちろん無い。京都に移り住んでいつかは「西田」を読まなければという強迫観念にとりつかれたままである。周辺には「西田哲学」をじっくり学んだ碩学が少なくなくないから、可能ならば触れたくないという気もある。難解な哲学的思索に耽るよりは、アジアのフィールドを飛び回っている方が性に合っている。

 専ら必要に応じて読んでいるのは、哲学的思索の平面を一歩も出ようとしない西田よりも、今西錦司以下の生態史観に関わる京都学派の著作である。とくに「棲み分け理論」に興味がある。人間の主体性を含み込んだ社会の「棲み分け理論」がおそらく建築や都市計画にとっての理論になるだろうという直感がある。具体的には、「世界単位論」「総合的地域研究」の方法が現在の最大の関心である。

 ただ、「西田哲学」についてはその最良の継承者であった三木清はじっくり読まなければと思う。西田の「場所の論理」とともに「制作(ポイエーシス)の論理」が気になるのである。要するに三木の「形の論理」と「構想力の論理」が棲み分けの生態学と地域社会をつなぐ大きな手掛かりを与えてくれるように思うのである。



 

2023年11月4日土曜日

水牛ー風景のかけら 世界の集落を切りとる 鞍(鞍形屋根),KAJIMA月報,200604

風景のかけら 世界の集落を切りとる 鞍(鞍形屋根),KAJIMA月報,200604

 

鞍(鞍形屋根)  角、水牛、舟 トンコナン 

  トラジャToraja族、スラウェシSulawesi、インドネシア,Indonesia

 

建築物の屋根の形は、古今東西、実に様々である。しかし、基本的には、使用可能な材料によって、また、建築構造力学的条件によって、さらに雨風や暑さ寒さを凌ぐために限定されるから、その形に無限のヴァリエーションがあるわけではない。ドーム、ヴォールト、アーチ、方形、入母屋、寄棟、切妻など、基本的な型を人類は創り出し、用いてきた。しかし、そうした中で、このサダン・トラジャSa’dan Toraja族の屋根の形は世界中にそう例がない。鞍形屋根という言葉は、日本語にはないけれど、英語ではサドルsaddle・ルーフという。棟の反りがカヌーの様な小舟の側面に似ているということで、舟形屋根ともいうが、鞍の形がまさにぴったりである。

この鞍形屋根が連続的に並ぶサダン・トラジャ族の集落景観は実に壮観である。トンコナンtongkonanと呼ばれる住居の高床の空間は基本的に間仕切りが無くワンルームで、床に段差がつけられて3つに分かれ、中央が低く、前面と後方が高くなる。中央に1m角で高さ30cm程の炉Api Dapoが置かれる。中央のサリSaliが、居間、食堂・厨房兼用の多目的空間で、奥のグンブンsumbungが家長の空間、人口前面のパルアンpaluangは客もしくは家族の空間となる。興味深いことに、のみならず、倉も、そして棺も同じ形である。大切なお米を収蔵する倉、死者ための住まい、そして生きている住まいに共通する思いが鞍の形に込められているのである。

サダン・トラジヤ族の居住する地域は、標高800m1600mの山地であり、今世紀初頭まで外界の影響を受けることが比較的少なく、ルウ(ブギス)人の居住する沿岸部とは、極めて異なった固有の文化を保持してきた。トラジヤとはもともと「山の人」を意味し、スラウェシ島内陸山地部の民族の総称である。ト通常、パル峡谷を中心とする「西トラジヤ」、ポソ湖を中心とした「東トラジヤ」(バレエ・トラジヤ、ポソ・トラジヤ)そして、サダン川上流部の「南トラジヤ」(サダン・トラジヤ)の3つのグループに分けられる。ひときわ目を魅くサダン・トラジャの住居と他の2つの住居は全く形が異なる。東(ポソ湖周辺の)トラジヤ族の住居は急勾配の屋根が直接床から建ち上がり、壁をもたない。また、土台・基礎を丸太で井桁に組んだものも見られる。

鞍形屋根は他に例がないと書いたが、わが国の古墳から出土する家形埴輪によく似たものがある。ただ、棟が直線的である(もっとも、簡易なトンコナンには棟が直線的なものがなくはない。棟が反り返り出したのは、外界との接触以降という説がある)。そして、もうひとつ、日本の住居との関連で興味深いのが、住居前面の棟持柱である。水牛の角がいくつも飾られて、その数が家の格を表わすと考えられている。水牛がサダン・トラジャ社会において持つ意味、とりわけ、その葬送儀礼の持つ意味、風葬を行う死生観などサダン・トラジャ族についての興味はつきないが[i]、この棟持柱は、鞍形屋根とともにサダン・トラジャの住居を特徴づける建築要素である。そして、この極めて象徴的な柱は、伊勢神宮に見られる棟持柱の原型ではないかとも言われるのである。

果たして、この鞍形屋根や棟持柱は日本の住居のルーツと直接関わるのであろうか。こうした楽しい推測に理論的根拠を与えてくれるのが、日本の竪穴式住居(「原始入母屋造り」)から東南アジア一帯に見られる多様な木造架構形式を統一的に説明する、G.ドメニクの「構造発達論」である。東はイースター島から西はマダガスカル島まで広がるオーストロネシア世界を見渡すといくつかの系統図が描けそうである。

北スマトラの、バタク・トバ族の住居の屋根は、サダン・トラジャ族とは一見異なるが、叉首構造を基本とする架構形式は基本的には同じである。屋根が滑らかな曲線となるのは割竹が用いられ、二重、三重に葺かれることによる。「切妻転び破風屋根」と呼ばれるが、屋根が前後に転ぶ(迫り出す)形はよく似ているし、相似形の住居棟と米倉が向き合う形で平行に並べられる集落構成も同じである。トラジャは、トバ・ラジャ(トバの王)から来ているという説もあるが真偽は定かではない。

ヴァナキュラー建築の世界の大きな魅力は、多様性の中にある体系が存在すること、地域毎に実に多様なあり方をする住居が一方で共通の要素をもつことである。同じバタク族でも、バタク・カロ、バタク・シマルングンといった種族の架構形式は同じような気候風土でありながら異なる。サダン・トラジャ族の場合は、バタク諸族と大きくは架構の原理を共有しながら、南スラウェシの風土の中で鞍形屋根という独特の形を生み出したのである。

 



[i] 布野修司編著、『世界住居誌』、昭和堂、2005年。布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会、『生きている住まいー東南アジア建築人類学』、ロクサーナ・ウオータソン著, The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,1997年。




 

2023年11月3日金曜日

大腸癌 日本オストミー協会

 

一人で悩まず仲間と共に | 日本オストミー協会 (joa-net.org)



日本オストミー協会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公益社団法人日本オストミー協会
英称: Japan Ostomy Association Inc.
前身互療会
後継日本オストミー協会
設立1969年7月1日
種類公益社団法人
法人番号8011805002073 ウィキデータを編集
法的地位公益法人認定法
目的オストメイトの社会復帰支援
本部東京都葛飾区東新小岩1-1-1
トラスト新小岩901
貢献地域日本の旗 日本
会長谷口 良雄[1][2]
ウェブサイトwww.joa-net.org ウィキデータを編集
テンプレートを表示

公益社団法人日本オストミー協会(にほんおすとみーきょうかい、英称: Japan Ostomy Association Inc.)は、人工肛門人工膀胱の講演会・講習会、オストメイトの社会適応訓練事業を通して、人工肛門・人工膀胱を必要とする人たちを支援するために活動している公益法人。以前は厚生労働省所管であったが、公益法人制度改革に伴い2011年4月1日公益社団法人へ移行した。

沿革[編集]

1969年7月1日
オストメイト団体「互療会」設立
1976年
国際オストミー協会 (IOA) に加盟
1986年
都道府県・指定都市より委託の「オストメイト社会適応訓練事業」開始
1989年1月27日
社団法人化(厚生省所管)、日本オストミー協会に名称変更
2003年
中央障害者社会参加推進協議会に加盟
2004年
日本身体障害者団体連合会に加盟
2011年4月1日
公益社団法人に移行

事業[編集]

  • 医療講演会、講習会、相談会、体験交流会、補装具展示会、研修旅行、全国大会
  • 電話相談、相談支援活動、会報の発行、ホームページ公開、刊行物の発刊
  • オストミー関連情報の収集、各種調査研究、オストメイト生活実態調査

出典[編集]

  1. ^ 協会プロフィール”. 公益社団法人 日本オストミー協会2021年1月18日閲覧。
  2. ^ 第29回全国大会(2017年6月11~12日)”. 公益社団法人 日本オストミー協会 大阪府支部2021年1月18日閲覧。

関連項目[編集]