1. はじめに
「アジアにおける場所性・地域継承空間システム」というのが与えられたタイトルである。加えて、アジアの近代化と都市・集落およびその場所性、アジアの各地域で継承されてきた空間システム、建築・街区・都市といったスケールの階層性と場所性、アジア型の都市、居住地の持続的な更新システムといったテーマについて論じて欲しいという。いささかピンと来ない。そもそも「アジア」「アジア型」というのがおおくくりに過ぎる。「場所性」「地域」「継承」「空間システム」というのも概念規定の幅が広い。
本稿が手掛かりとするのは「更新システム」である。建築物、それによって構成される居住地区(街区)、そして集落、都市の形態や景観がどう更新されていくのか、そのメカニズムについて考えたい。大きな視点とするのは更新システムにおいて変わるものと変わらないものである。考察の具体的資料とするのは都市組織Urban Tissue研究として展開してきた臨地調査で得られたデータである。オムニバス的にならざるを得ないが、重要と思う点を列挙してみたい。
要するに、建築と時間、都市と時間、時間の中の都市と建築の問題だと考える。時間(歴史)の中で、建築(空間)はどう変化していくのか、何が継承されるのか、何が継承されないのか、である。結論を予め述べれば、建築の遺伝子としての建築類型、土地の形、その所有の形態、集合の形式(街区形式)、コミュニティ(地域共同体)のあり方が重要だということである。全体を都市(集落)組織と呼ぶが、人類はそれぞれの地域でそれぞれのかたちをつくりあげてきた。それがどう継承されていくのか、あるいは継承されていかないのか、そのメカニズムを深いレヴェルで理解する必要があるということである。
東日本大震災で壊滅的被害を受けた地域(市町村)を見ると呆然とせざるを得ない。全く「白紙還元」されたような土地にどのような再生の契機を見出すことができるのか、継承の芽をどこに見出すことができるのか、あるいは全く新たな「空間システム」、都市(集落・街区)組織をどのように生み出すことができるのか、が問われているのだと思う。
2.
廃墟とバラック
建築と時間をめぐる基本的な問題について考えたことがある注[1])。第一に取り上げたのがA.シュペアーの「廃墟価値の理論」である。永遠の建築物を自らの名の下に残したいというA.ヒトラーの夢を実現すべく生み出されたのが、永遠の建築を建てるためには予め廃墟となった建築を建てればいい、という理論である。永遠の建築を残したいという建築家の夢は途絶えることはなく、それが不可能であることを知るが故に、廃墟となった自らの作品を予め描く建築家は少なくないのである。
もうひとつ永遠の建築をつくる方法として思い当たるのは、日本の神社(伊勢神宮)の式年造替である。形式保存の手法は、オーセンティシティを絶対化する西欧流の考えからすれば、永遠でもなんでもないということであるが、これは見事な更新システム、継承システムである。
誤解を恐れずに言えば、これは壊して建てるバラックのシステムである。上の論考では次のように書いた。
「仮設的で、アモルフで、廃材を寄せ集めてつくられるバラックは、いってみれば建築の死体である。いったん、死亡宣告を受けて、バラバラに解体された建造物の断片を寄せ集めて、それはつくられる。重要なのは、それが決して、死体置場としての廃墟ではないことである。どんなにみすぼらしいものであろうと、そこで死体の断片は生き返っているのである。そこには明らかに再生への契機がある。」
3.
カンポン・ハウジング・システム
都市組織研究の出発は、カンポンkampung(都市集落Urban Village)についての調査研究である注[2])。その全容は、学位請求論文『インドネシアの居住環境の変容とその整備手法に関する研究―ハウジング・システムに関する方法論的考察―』(1987年)、そして『カンポンの世界』(1991年)に譲りたい。
①住居の型と更新システム:「空間継承システム」という点で、第一に指摘すべきは、一見雑然と並んでいるように見える住居群が、それぞれ共通の更新(増改築)システムを持っていることである。そしてそれ以前に原型があり、標準型が成立していることである。原型とはワンルームの小屋掛け(方丈庵)であり、一部屋さらにテラスが増築され、間口に規定されて標準型ができる。標準型は敷地の条件に応じて道路に沿って増築される(図1)。単純といえば単純である。しかし、ヴァナキュラーな住居集落の空間システムとそれを支える建築形式は基本的には単純である。
②権利関係の重層性:カンポンのコミュニティの維持にとって、極めて重要な役割を果たしているのは土地建物の所有利用の諸関係の重層性である。インドネシアの場合、1960年代前半に近代的な法体系は整備されているのであるが、スラバヤのような大都市の都心でも外部の人間には把握するのが困難な権利関係が複雑に絡み合っている。この点についての評価は分かれる。自治体にとっては徴税の大きなネックになっている。しかし、コミュニティの存続が土地建物の権利関係の規定に関わっていることははっきりしている。クリアランスのための地上げは用意でなく、居住環境整備もコミュニティの同意が予め必要である。
③コミュニティの力:カンポンのコミュニティの相互扶助(ゴトン・ロヨン)活動、無尽・頼母子講の仕組み(アリサン)、町内会(RT,RW)システム、職住近接・・・は、その持続の基本システムである。しかし、この伝統を継承するコミュニティ・システムは、日本の場合、一貫して衰退してきた。その再生が問われつつある。カンポンの世界も、カンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)の実施によって、新しく移住してくる層ともともとのカンポンガンの、二つの層に大きく分かれつつあり、変容しつつある。コミュニティが変容していくこと事態は自然なことである。
4. イスラームの都市原理
インドネシアのカンポンに通い続けるなかで、「イスラームの都市性」注[3])についての重点領域研究に参加することになった。インドネシアがイスラーム圏に属していたという縁である。この研究会がきっかけでロンボク島にしばらく通うことになった。チャクラヌガラというバリの植民都市を発見したことが大きい。以降、ヒンドゥー都市の原理とイスラーム都市の原理の比較が大それたテーマとなった。
イスラーム都市に関わるその後の展開を含めた総括は『ムガル都市―イスラーム都市の空間変容』に譲りたい。本稿の脈略で、継承システムとしてとりあげるべきは以下である。
④相隣関係のルール:「イスラーム都市」は,迷路のような細かい街路が特徴で、全く非幾何学的で,アモルフである。全体が部分を律するのではなく,部分を積み重ねることによって全体が構成される,そんな原理が「イスラーム都市」にはある。「イスラーム都市」を律しているのはイスラーム法(シャリーア)である。また,様々な判例である。道路の幅や隣家同士の関係など細かいディテールに関する規則の集積である。全体の都市の骨格はモスクやバーザールなど公共施設の配置によって決められるが,あとは部分の規則によって決定されるという都市原理である。部分を律するルールが都市をつくるのであって,あらかじめ都市の全体像は必ずしも必要ではないのである。イスラームが専ら関心を集中するのは,身近な居住地,街区のあり方である(図2)。
⑤ワクフ(寄進)制度:コミュニティの持続にとって、最終的に鍵を握るのは財政的裏付けである。イスラームの教えには、平等原理があり、裕福になったムスリムはワクフ(寄進)財として資産をコミュニティに寄付をする仕組みがある。イスラーム世界の、モスク,バーザール,マドラサなどの公共施設を建設する場合に,ワクフ(寄進)制度を基本とする都市計画手法は注目すべきである。
5. ヒンドゥーの都市原理
チャクラヌガラから学んだことは諸論文注[4])にまとめたが、チャクラヌガラは、バリ・ヒンドゥーに基づく都市原理によって構成されている点で、アジアにおけるもうひとつの都市計画の脈略を想起させてくれた。チャクラヌガラは18世紀前半に計画建設されたが、ほぼ同じ時期にインドで建設されたのがラージャスタンのジャイプルである。さらに、ヒンドゥー都市の原型としてタミル・ナードゥのマドゥライの臨地調査を加えてまとめたのが『曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』である。
ヒンドゥー都市の原理とイスラームの都市の原理はある意味では対極的であり、チャクラヌガラもジャイプルも中心部は整然としたグリッドパターンで構成されるが、周辺のイスラーム街区は雑然とアモルフである。
⑥コスモロジーと空間システム:ヒンドゥーの都市原理として継承される基礎となるのはそのコスモロジーである。チャクラヌガラは、各街区に寺院が配置される祭祀都市として、また整然と街区が分割されるヒンドゥー的都市計画がなされたのであるが、それがそのまま空間継承原理につながるかどうかは予断を許さない。バリ・ヒンドゥー社会も現代のグローバリゼーションの波の中にあり、急速に変容しつつある。
⑦身体寸法と空間システム:バリ・ヒンドゥーの住居・集落・都市を貫くコスモロジカルな秩序として、ミクロコスモスと考えられる身体を基礎とする寸法体系(図3)は、バリ島の景観を維持していく上で極めて有力かつ有効である。バリ島の住居集落の空間構成はこの間急激に変容しつつある。しかし、身体寸法に基礎を置く建築システムが維持される限り、集落景観は自ずと維持されていくはずだからである。
ネパール盆地についての“Stupa &
Swastika”は、まさに建築のディテールから都市空間構成まで一貫する秩序(空間システム)があることを明らかにした著書である。
6. オランダ植民都市の計画原理
カンポンが実はコンパウンドCompoundの語源であるという有力な説がある(OEDはそう説明している)ことを知ったのはカンポン研究を開始して随分たってからである。カンポンというのは、ヨーロッパ人から見てアジアの都市の極めて閉じた自立的な住区(都市組織)を指す言葉となったというのである。アフリカの集落をコンパウンドというのはカンポンに由来するのである。
それと、インドネシアの宗主国がオランダであり、そのオランダが海禁政策をとる日本と出島を通じてつながり続けたということで、オランダ植民都市研究に赴くことになった。
実は、最初の2年集中したのはイギリスの植民都市である。しかし、ロバート・ホームRobert Homeの“ Of Planting and Planning The
making of British colonial cities”(布野修司+安藤正雄監訳:植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバート・ホーム著:アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会,2001年7月)を知って、我々には親しい近代都市計画の理念と手法を確認、近代世界システムのヘゲモニーを最初に握ったオランダの都市計画の伝統へ向かったのである。その成果の大要は『近代世界システムと植民都市』に譲りたい。本稿の脈絡で確認すべきは以下である。
⑧都市の成立根拠―都市の原型―:産業革命以降の都市がそれ以前の都市と全くその基盤を異にすることはいうまでもない。イギリスの植民都市計画がそのまま近代都市計画につながり、現代にまで直結することは前提である。オランダ植民都市の歴史を追いかけると、その建設のプロセスが都市の起源、その成り立ちを示していることである。
問題は、近代以前の都市のあり方とそれを支える仕組みが大きく異なってしまっていることである。
⑨低地の都市基盤整備:『近代世界システムと植民都市』では、触れているけれど、オランダの都市計画が得意なのは基本は低地、湿地である。明治政府が、デ・レーケ、エッシャーなどオランダの土木技術者を招いたことはよく知られているが、そこで導入された治水技術が継承可能かどうかは、東日本大震災の結果を得て、再評価すべきである。
7. 韓国近代都市景観の形成
植民都市研究は何も西欧植民都市が対象となるわけではない。都市計画の理念、手法、原理として、日本植民地都市を扱ったのが『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』である。
以上では触れなかったのであるが、植民都市の本質は、植民(支配)する側の空間システム(原理)である。日本は、朝鮮半島に日本の住宅形式(日式住宅)を持ち込んだ。また、朝鮮社会の地方支配の拠点である邑城を支配の拠点に変換した。近代において、空間の編成を決定するのは基本的に政治力学である。
⑩型の受容と変型:例えば、鉄道町の定型化された住居形式によって、畳の部屋とか押入れ、玄関といった日本の空間システムが朝鮮半島に移入され、韓国の住居は明らかに変わった。しかし、日本の住居の型がそのまま受容されていったわけではない。継承システムの問題としては、その葛藤のメカニズムに注目する必要がある。
4. まとめ
以上、あまりにも紙数が足りない。問題が絞れれば、集中して議論ができると考えるが、これまでの研究展開の中で、本号テーマに関連して議論すべき点を①~⑩にまとめた次第である。
私見ははっきりしている。何か守るべきもの(理念や歴史的記憶や現代的既得権・・・)があって、それを継承すべきであるという議論の流れには組みしないことである。全て変化していく。継承すべきものをある時点、ある形態で固定化する、というのは不自然である。
物理的な存在としての建築物は死す運命にある。その死んだ建築物を再生させる、その仕組みは人の人生の限られた時間をもしかすると遙かに超えるかもしれない。継承システムは、建築の生と死、そして再生システムをいかに構築するかどうかの問題である。地域にその再生のための遺伝子をどう組み込むかが常に問われていると考えている。
参考文献
1) 布野修司,『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学),1987年
日本建築学会賞受賞(1991年)
2) 布野修司,『カンポンの世界』,パルコ出版,1991年7月
3) 布野修司編+アジア都市建築研究会:アジア都市建築史,昭和堂,2003年8月(『亜州城市建築史』胡恵琴・沈謡訳、中国建築工業出版社、2009年12月)
4) 布野修司編,『近代世界システムと植民都市』,京都大学学術出版会,2005年2月
5) 布野修司編,『世界住居誌』,昭和堂,2005年12月(布野修司編:『世界住居』胡恵琴訳、中国建築工業出版社、2010年12月)
6) 布野修司,『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』,京都大学学術出版会,2006年2月
7) Shuji Funo & M.M.Pant, “Stupa & Swastika”, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007
8) 布野修司+山根周,ムガル都市--イスラーム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008年5月
9) 布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民、『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』京都大学学術出版会、2010年5月
注
注[1]) 「Ⅰ章 廃墟とバラックー建築の死と再生」(布野修司建築論集Ⅰ『廃墟とバラックー建築のアジアー』彰国社,1998年所収)
注[2])布野修司:カンポンの歴史的形成プロセスとその特質,日本建築学会計画系論文報告集,第433号,p85-93,1992年3月。布野修司,高橋俊也,川井操,チャンタニー・チランタナット,カンポンとカンポン住居の変容(1984-2006)に関する考察,Considerations on Transformation 1984-2006 of Kampung and Kampung
Houses,日本建築学会計画系論文集,第74巻 第637号,pp.593-600,2009年3月。
注[3]) 「比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究」(研究代表者,板垣雄三,文部省科学研究費,重点領域研究1988-91)で,C班:景観(班長,応地利明)に参加した。
注[4]) Shuji Funo: The Spatial Formation in
Cakranegara, Lombok, in Peter J.M. Nas
(ed.):Indonesian town revisited, Muenster/Berlin, LitVerlag, 2002。布野修司,脇田祥尚,牧紀男,青井哲人,山本直彦:チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の街区構成:チャクラヌガラの空間構成に関する研究 その1,日本建築学会計画系論文集,第491号,p135-139,1997年1月。布野修司,脇田祥尚,牧紀男,青井哲人,山本直彦:チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の祭祀組織と住民組織 チャクラヌガラの空間構成に関する研究その2,日本建築学会計画系論文集,第503号,p151-156,1998年1月。布野修司,脇田祥尚,牧紀男,青井哲人,山本直彦:チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)における棲み分けの構造 チャクラヌガラの空間構成に関する研究その3,日本建築学会計画系論文集,第510号,p185-190,1998年8月