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2024年8月4日日曜日

日本建築学会著作賞:韓国近代都市景観の形成ー日本人移住漁村と鉄道町ー,建築雑誌Vol.128,No.1648,201308

 



2013年日本建築学会著作賞候補推薦書

 

 

 

 

2012年 9月 5

著 書 名(( ふ り が な ))

(かんこくきんだいとしけいかんのけいせい にほんじんいじゅうぎょそんととてつどうまち)

韓国近代都市景観の形成 日本人移住漁村と鉄道町

刊行日

2010530

出版社

京都大学学術出版会

ISBN

ISBN978-4-87698-967-6

著 者(( ふ り が な ))

(ふのしゅうじ ) 

会員番号

(しがけんりつだいがく・ふくがくちょう・りじ・きょうじゅ)

布野修司

 

7710096

滋賀県立大学・副学長・理事・教授

(はん さむくん       ) 

会員番号

(かんこく・うるさんだいがくけんちくがくぶ・きょうじゅ )

 韓 三建

 

0237380

韓国・蔚山大学建築学部・教授

(ぱく ちゅんしん           ) 

会員番号

(かんこく・ちょんじゅだいがくだいがくいんけんちくがっか・とくにんきょうじゅ)

 朴 重信

 

 

韓国・清州大学大学院建築工学科・特任教授

(ちょ すんみん     ) 

会員番号

(かんこく・うるさんだいがくけんちくがくぶ・としけんちくけんきゅうしょ・けんきゅういん          )

 趙 聖民

 

 

韓国・蔚山大学建築学部・都市建築研究所研究員

連絡先

(〒522-0056) 彦根市開出今町1700 A-203

        布野修司

電話 0749-26-8464

FAX  0749-26-8464

推       薦       理       由

本書は,韓国都市の原像とその今日に至る変容の過程を明らかにすることを大きなテーマにし, 日本植民地時代に焦点を当て,朝鮮時代の都市あるいは集落がどのように変化してきたのかを「景観の日本化」を切り口として明らかにしている。具体的にとりあげているのは,かつての王都であり,朝鮮時代に邑城が置かれていた地方都市,慶州,また,日本植民地期に形成された鉄道町,そして日本人移住漁村を核として発展してきた都市,,三浪津,安東,巨文島,九龍浦,外羅老島である。

何故韓国の地方都市なのか、何故日本人移住漁村なのか、何故鉄道町なのか、何故、身近な居住空間や街区に眼を向けるのか。

 本書の第1の意義は、韓国近代都市の形成をめぐって明らかにされてこなかった地方都市に眼を向け、韓国の地方都市がどのような過程を経てどのように変化したかを明らかにしたことにある。

地方都市の変化を促した大きな要因となるのは、日本による植民地化、日本人の移住である。日本人は入植した各地にいわゆる「日式住宅」を建てて住んだ。本書の第2の意義は、韓国の近代的都市景観の「日本化」を「日式住宅」の移入と変容の過程に即して具体的に明らかにしたことにある。この「日式住宅」による風景の日本化は、朝鮮半島の日本による植民地化の象徴でもあるが、朝鮮半島の都市の近代化の象徴でもある。本書では、各都市に即して、街区構成を含めて明らかにした。これが第3の意義である。本書は以上のように日本人の移住に焦点を当てて、韓国における近代都市の形成の一側面に光を当てるものであるが、それでは、韓国のそれ以前の都市はどうであったのか、朝鮮半島に固有な都市はあるのか、という問いが基底にある。特に、慶州を取り上げ、邑城について考えたのは、韓国都市の原像を問うためである。韓国の都市史研究への貢献が第4の意義である。

本書のもとになっているのは,韓三建『韓国における邑城空間の変容に関する研究ー歴史都市慶州の都市変容過程を中心にー』(京都大学,199312月)、朴重信『日本植民民地期における韓国の日本人移住漁村の形成とその変容に関する研究』(京都大学,20053月)趙聖民『韓国における鉄道町の形成とその変容に関する研究』(滋賀県立大学,20089月)の3つの学位請求論文である。共著者である布野修司は、序章,Ⅰ章,終章を執筆したが、この3本の学位請求論文の全てに指導教官として,また共同研究者として関わり、それぞれの論文の基になったほとんど全ての臨地調査を共にした。長期にわたる国際的共同研究の高水準の成果としても本書の意義を評価していただきたいと考えて、自薦する次第である。

本書の意義を的確に認めて頂いた書評(青井哲人、『日本図書新聞』)を添付させて頂く。

 

推薦者

 自薦(布野修司)

所 属

滋賀県立大学

 

* 自薦の場合は推薦者欄に「自薦」と記入し、自ら推薦理由を記入すること。



2024年8月2日金曜日

復興まちづくりとコミュニティ・アーキテクト『BIO CITY』No.49,20111228



Bio City49号[12月下旬刊行]:テーマ:災害コミュニティ・デザイン(仮題)5,000

復興まちづくりとコミュニティ・アーキテクト

布野修司

 

 三月一一日一四時四六分、たまたま自宅にいて国会中継をみていた。国会議事堂が揺れて大騒ぎになって、少し間を置いて遠く離れた彦根の自宅も揺れた。続いてテレビの仙台の若林区を襲う津波の映像に釘付けになった・・・・二〇〇四年一二月二六日、スリランカのゴールにいてインド洋大津波に遭遇、危うく命拾いをしたときのことをありありと思い出した。その時、気がつくとバスや車、そして船が転がっていた。ゴール周辺で五〇〇人が亡くなった。

悪夢の再現である。否、確実にそれ以上である。加えて、一度起これば全てを失う原発の致命的問題(メルトダウン)が起こってしまった。世界は人類始まって以来の経験を共有しつつある。

あまりの事態に言葉を失う中で、やがてある思いがこみあげてきた。

被災地の最も深い現場から、無数のコミュニティ・アーキテクトたちを育てよ。

 

裸の建築家

阪神淡路大震災によって建築家の無責任と無力を強く感じさせられ、また、コミュニティ(地域社会)のもつ力(潜在力、復元力、絆力)について再認識させられて『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(二〇〇〇年)を書いた。そこで、地域診断からまちづくりまで一貫して担う新たな職能の必要性を提起した。そして、言っているだけでは始まらないと、京都コミュニティ・デザインリーグ(京都CDL)の活動を開始した。京都CDLは、様々な事情に翻弄されてあえなく活動停止に追い込まれたが、その活動の記録は『京都げのむ』1~6号(二〇〇一~二〇〇六年)に残されている。その後、懲りもせず、新たな職能の必要性を説いて、近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座(滋賀県立大学)を設立することになった(『地域再生 滋賀の挑戦 エコな暮らし・コミュニティ再生・人材育成』新評論、二〇一一年)。

この間、インド洋大津波に遭遇し、その復興支援に通う中で、また、西スマトラ地震(2009年)の復興まちづくりに関わる中で、地域社会を支える新たな職能の必要性をますます強く感じた。安心・安全のためのまちづくりの主体はコミュニティである。地域再生、地域活性化のためには、地域社会に基礎をおいたまちづくりを組織する職能、コミュニティ・アーキテクトが必要である。そして、東日本大震災を前にして確認すべきは、まちづくりの仕組みの大転換こそが必要であるということである。復興は、単なる復旧であってはならず、日本再生、地域社会再生のためのシステム構築でなければならない、と心底思う。

番屋と会所

震災直後から、仙台に住む宮城大学の竹内泰准教授から次々に報告があがってきた。都市別、建物種別、地区別に被災状況が実に的確でよくわかった。この状況に対して何ができるのか。報告を受けとり続ける誰もが考えた。そこで開始されたのが「番屋プロジェクト」である。漁を再開するためには、仮設でも、漁師が集まる番屋が欲しい。生活の復興と産業の復興は同時。仮設住宅だけでなく、仮設産業施設も必要である。南三陸町の志津川を皮切りに、歌津田の浦、東松原、気仙沼市唐桑と次々に若い学生たちが「番屋プロジェクト」に参加してきた。

南三陸町歌津田の浦の番屋建設は、上述の近江環人(コミュニティ・アーキテクト)および「木興プロジェクト」(近江楽座)をうたう学生たちのプロジェクトである。滋賀県立大学の陶器浩一教授のグループは、気仙沼に見事な「竹の会所」をつくりあげた。東海大学の杉本洋文教授のグループは逸早く公民館を建てた。数多くの建築家たちが、被災地支援に動いてきた。多くの被災地は、地域社会が拠って立つすべてを失った。集まる場所が無いのである。復興まちづくりのためには、その拠点が必要である。求められているのは単なる提案ではない。アクションプランである。しかし、個人として、また個々のグループとしてできることは限られている。問題は、被災地で活動する無数の動きを様々なかたちで支えながら、その支援の仕組みを長期にわたるサステイナブルな仕組みに作り上げることである。

コミュニティ主体の復興計画 

 災害発生まもなくの緊急事態、倒壊した家屋の下敷きになった人たちの救出や消火など緊急事態に対処する上で第一に拠り所になるのはコミュニティ(近隣)である。個々の場所における相互扶助活動である。大災害では、消防、警察など災害救助の役割を担う職員を含めて自治体職員も被災者となる。東日本大震災では、町長を含め、町役場職員の過半が津波に流されてしまうという事態も発生した。自治体の危機管理システム、防災体制が完備していたとしても、必ず機能するとは限らない。東日本大震災で津波に襲われて甚大な被害を受けたのは、日本で最も津波対策を行い、避難訓練もしてきた地域である。しかし、その対策がうまく機能したかどうかは疑問である。

災害後の避難生活を支えるのも基本的には地域社会である。地域社会と切り離された形の応急仮設住宅への入居は、阪神淡路大震災の時には単身老人の孤独死など大きな問題を残した。地域と生活基盤の密接な関係を考慮するのは復興計画の前提である。東日本大震災では、阪神淡路大震災の経験が活かされているように思う。しかし、そこにコミュニティ主体の復興という思想は希薄である。

 いうまでもなく、復興計画で徹頭徹尾問われるのは地域における合意形成である。高所移転、集合住宅の復旧、建替え、区画整理事業、再開発事業など復興のための全ての計画において必要なのは住民のまとまりである。地域社会の安全・安心のために個々人が果たすべき役割が共有されなければ合意形成は困難である。

 以上のように、災害時に関わらず、まちづくりの基礎は地域社会にあるにもかかわらず、地域社会をまちづくりの主体とする仕組みが日本にはない。都市計画審議会等都市計画決定の手続きは形式的で、地域社会の参加は必ずしも保証されていない。自治体の都市計画に関わる施策は縦割りの組織による事業、補助金制度が主体となっており、その枠組みに縛られている。

大きなヴィジョンと小さなプロジェクト 

復興計画のためには大きなヴィジョンが必要である。復興計画が共通に目指すべき前提として問われているのは、日本の社会、経済、政治、文化、産業、国土など全ての編成の問題であり、東京一極集中の構造を多極分散型に転じていくことだと思う。

大災害は常にその社会に潜在している矛盾、軋轢、差別を明らかにする。日本社会の全体があまりに被災地域に多くを委ね強いてきたということが今回の大震災で大きくクローズアップされた。部品産業の問題、日本の食を支える水産業の問題、そして原発・エネルギー問題がまさにそうである。日本の産業構造の歪みを是正するためには被災地域に大きな投資を行う夢あるヴィジョンが欲しい。また、エネルギー政策として、原子力発電に頼らず自然エネルギーに代替していくことは大きな流れになっていくであろう。多様なエネルギー源が各地域に確保されるシステムが必要であることは誰の眼にも明らかになった。日本再生、地域社会再生のためのシステム構築のために、自立循環型地域社会(エコハウス、エコヴィレッジ、エコタウン)の実現への方向性は揺るがない、と思う。もちろん異論もあろうけれど、地域の将来ヴィジョンは地域自らが提案し、自ら選び取るという仕組みこそが重要であり、地域住民の日常生活を支える持続的な仕組みの構築こそを復興計画の中に組み込むことが前提である。

大きなヴィジョンと大規模プロジェクトは異なる。日本の現在の国力、財政事情を考える時、被災地全域に一律平等に大規模な投資を行うことは不可能であろう。もちろん、選択と集中は国策としてあっていい。しかし、復興計画の立案、実施に当たって地区住民の参加を前提とすると、合意形成のためには、小規模プロジェクトを積み重ねるのが基本となると思う。ステップ・バイ・ステップ(段階的)アプローチが必要である。

被災地では、様々な形で、既に自力の復興がなされつつある。間違いなく、最終的に依拠すべきは地域の力である。個々の動きを段階ごとに、一定のルールの下に誘導していくことが基本的指針である。しかし、喫緊の問題は日々の生活であり、日々の復興である。自力による仮設住宅建設、産業拠点建設、仮設の市街地建設は許容されていい。それが段階的アプローチである。

地域の生態系に基づく居住システム:循環と継承 

地域には地域の、また同じ地域でも地区毎に、歴史があり、個性がある。地域は、そこに住む住民の生業のあり方に従ってかたちをもっている。復興計画は、地域の、そして地区の歴史的、文化的、固有性を尊重し、多様性を許容する方法で実施されるべきである。すなわち、被災地全体に画一的なやり方はなじまない。それぞれの町はそれぞれの地形に基づいて復興計画を立案するのが自然である。

前提とすべきは、地域の自然生態系であり、その基盤の上に築き上げられてきた社会、経済、文化の歴史的複合体である。まずは、地域の自然条件を、またポテンシャル(潜在力、復元力)を、今回の被災状況に照らして、またこれまでの災害の歴史も加えて確認することが出発点になる。津波の力が人知をはるかに超えたものであることは誰の眼にも明らかになったのである。

そして、復興計画に地域の自立循環の仕組みが組み込まれるべきである。低炭素社会をめざす自立循環システムと相容れない建設投資が持続性をもたないことははっきりしているのである。水、電気、ガスといったエネルギー循環についてすぐさま地域循環を実現することは、原発問題が示すように容易なことでではない。指針となるのは、一個の住宅であれ、自律型エコハウス(オウトノマス・ハウス)をめざすことである。そのための技術体系は既に準備されている。全ての住戸にソーラーバッテリーを!というのはわかりやすいけれど、それだけで解決というのは短絡思考である。エコハウスの技術をそれぞれの地域で練り上げていく必要がある。

地域の歴史的文化遺産も大きなダメージを受けた。今回全てを押し流されてしまった地区が少なくなく言葉を失うが、地区の固有性を維持していくために、可能な限り復旧、再生するなど、歴史的文化遺産は大きな手がかりとなる。都市は歴史的な時間をかけて形成されるものであり、また、住民の一生にとっても町の雰囲気や景観は貴重な共有財産である。

コミュニティ・アーキテクト制 

少子高齢化が進行し、地方中央の格差が拡大するなかで、日本各地で地域社会そのものが衰退しつつあるという大問題がある。何も中産間地域に限る話ではない。人口十万人程度の地方都市の中に、六五歳以上が過半を超える限界集落が存在するのである。復興計画の前提として構想されるべきなのが、地域社会そのものの再生計画である。

 言うまでもなく、まちづくりの実施主体としての基礎自治体の役割は大きい。しかし、自治体が全ての地区についてその計画を一貫して担うのには限界がある。地域社会の自発的な取り組みを前提として、それをサポートする形が基本である。

 一方、地域社会が自らの要求を自ら地区計画へまとめあげるのにも限界がある。地域社会内部で利害はしばしば対立するし、要求をまとめ上げる時間、エネルギーは大きな負担となる。また、地区計画に関しては専門的知識も必要とされる。

 そこで期待されるのが、「公共」自治体と地域社会の関係を媒介するコミュニティ・アーキテクトなのである。アーキテクトというけれど建築家に限定するわけではない。まちづくりの仕掛人、組織者、支持者(サポーター)など地域社会を維持していくキーパースン的役割を果たす人材の総称がコミュニティ・アーキテクトである。様々なヴォランティア・アソシエーション、NPO(非営利組織)もその中核に含まれる。地域診断からまちづくりへのプロセスを一貫してサポートし、調整する役割を果たす職能が地域社会再生のために不可欠である。コミュニティ・アーキテクトがカヴァーすべき仕事の範囲は、非常時・日常時、身近な住まいから国際的活動まで広大かつ多様である。

 

布野修司/ふの・しゅうじ

 

1949年島根県生まれ/1972年東京大学工学部建築学科卒業/1974年同大学大学院修士課程修了/1976年東京大学工学部助手/1984年東洋大学工学部助教授/1991年京都大学工学部助教授/京都大学大学院工学研究科助教授/2005年滋賀県立大学大学院環境科学研究科教授・日本建築学会建築計画委員会委員長・英文論文集委員長/2010年~滋賀県立大学環境科学部長・研究科長/元『建築雑誌』編集委員長/日本建築学会賞論文賞,1991/日本都市計画学会論文賞,2006/主な著書に『戦後建築の終焉』、『裸の建築家 タウンアーキテクト論序説』、『曼荼羅都市』『建築少年たちの夢』他










2024年8月1日木曜日

布野修司:地域の死と再生ー建築の遺伝子 建築類型・地形・所有と所有・街区組織 場所性・地域継承空間システムと都市建築のフロンティア,『総合論文誌』第10号,2012年

 布野修司:地域の死と再生ー建築の遺伝子 建築類型・地形・所有と所有・街区組織 場所性・地域継承空間システムと都市建築のフロンティア,『総合論文誌』第10号,2012

地域の死と再生ー建築の遺伝子


1. はじめに

 「アジアにおける場所性・地域継承空間システム」というのが与えられたタイトルである。加えて、アジアの近代化と都市・集落およびその場所性、アジアの各地域で継承されてきた空間システム、建築・街区・都市といったスケールの階層性と場所性、アジア型の都市、居住地の持続的な更新システムといったテーマについて論じて欲しいという。いささかピンと来ない。そもそも「アジア」「アジア型」というのがおおくくりに過ぎる。「場所性」「地域」「継承」「空間システム」というのも概念規定の幅が広い。
本稿が手掛かりとするのは「更新システム」である。建築物、それによって構成される居住地区(街区)、そして集落、都市の形態や景観がどう更新されていくのか、そのメカニズムについて考えたい。大きな視点とするのは更新システムにおいて変わるものと変わらないものである。考察の具体的資料とするのは都市組織Urban Tissue研究として展開してきた臨地調査で得られたデータである。オムニバス的にならざるを得ないが、重要と思う点を列挙してみたい。

 要するに、建築と時間、都市と時間、時間の中の都市と建築の問題だと考える。時間(歴史)の中で、建築(空間)はどう変化していくのか、何が継承されるのか、何が継承されないのか、である。結論を予め述べれば、建築の遺伝子としての建築類型、土地の形、その所有の形態、集合の形式(街区形式)、コミュニティ(地域共同体)のあり方が重要だということである。全体を都市(集落)組織と呼ぶが、人類はそれぞれの地域でそれぞれのかたちをつくりあげてきた。それがどう継承されていくのか、あるいは継承されていかないのか、そのメカニズムを深いレヴェルで理解する必要があるということである。

東日本大震災で壊滅的被害を受けた地域(市町村)を見ると呆然とせざるを得ない。全く「白紙還元」されたような土地にどのような再生の契機を見出すことができるのか、継承の芽をどこに見出すことができるのか、あるいは全く新たな「空間システム」、都市(集落・街区)組織をどのように生み出すことができるのか、が問われているのだと思う。

 

2. 廃墟とバラック

 建築と時間をめぐる基本的な問題について考えたことがある[])。第一に取り上げたのがA.シュペアーの「廃墟価値の理論」である。永遠の建築物を自らの名の下に残したいというA.ヒトラーの夢を実現すべく生み出されたのが、永遠の建築を建てるためには予め廃墟となった建築を建てればいい、という理論である。永遠の建築を残したいという建築家の夢は途絶えることはなく、それが不可能であることを知るが故に、廃墟となった自らの作品を予め描く建築家は少なくないのである。

もうひとつ永遠の建築をつくる方法として思い当たるのは、日本の神社(伊勢神宮)の式年造替である。形式保存の手法は、オーセンティシティを絶対化する西欧流の考えからすれば、永遠でもなんでもないということであるが、これは見事な更新システム、継承システムである。

誤解を恐れずに言えば、これは壊して建てるバラックのシステムである。上の論考では次のように書いた。

「仮設的で、アモルフで、廃材を寄せ集めてつくられるバラックは、いってみれば建築の死体である。いったん、死亡宣告を受けて、バラバラに解体された建造物の断片を寄せ集めて、それはつくられる。重要なのは、それが決して、死体置場としての廃墟ではないことである。どんなにみすぼらしいものであろうと、そこで死体の断片は生き返っているのである。そこには明らかに再生への契機がある。」

 

3. カンポン・ハウジング・システム

都市組織研究の出発は、カンポンkampung(都市集落Urban Village)についての調査研究である[])。その全容は、学位請求論文『インドネシアの居住環境の変容とその整備手法に関する研究―ハウジング・システムに関する方法論的考察―』(1987年)、そして『カンポンの世界』(1991年)に譲りたい。

①住居の型と更新システム:「空間継承システム」という点で、第一に指摘すべきは、一見雑然と並んでいるように見える住居群が、それぞれ共通の更新(増改築)システムを持っていることである。そしてそれ以前に原型があり、標準型が成立していることである。原型とはワンルームの小屋掛け(方丈庵)テキスト ボックス:  
図1 カンポン住居の更新プロセス
であり、一部屋さらにテラスが増築され、間口に規定されて標準型ができる。標準型は敷地の条件に応じて道路に沿って増築される(図1)。単純といえば単純である。しかし、ヴァナキュラーな住居集落の空間システムとそれを支える建築形式は基本的には単純である。

②権利関係の重層性:カンポンのコミュニティの維持にとって、極めて重要な役割を果たしているのは土地建物の所有利用の諸関係の重層性である。インドネシアの場合、1960年代前半に近代的な法体系は整備されているのであるが、スラバヤのような大都市の都心でも外部の人間には把握するのが困難な権利関係が複雑に絡み合っている。この点についての評価は分かれる。自治体にとっては徴税の大きなネックになっている。しかし、コミュニティの存続が土地建物の権利関係の規定に関わっていることははっきりしている。クリアランスのための地上げは用意でなく、居住環境整備もコミュニティの同意が予め必要である。

テキスト ボックス:  
図2 ディテールから
 ③コミュニティの力:カンポンのコミュニティの相互扶助(ゴトン・ロヨン)活動、無尽・頼母子講の仕組み(アリサン)、町内会(RT,RW)システム、職住近接・・・は、その持続の基本システムである。しかし、この伝統を継承するコミュニティ・システムは、日本の場合、一貫して衰退してきた。その再生が問われつつある。カンポンの世界も、カンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)の実施によって、新しく移住してくる層ともともとのカンポンガンの、二つの層に大きく分かれつつあり、変容しつつある。コミュニティが変容していくこと事態は自然なことである。

 

4. イスラームの都市原理

インドネシアのカンポンに通い続けるなかで、「イスラームの都市性」[])についての重点領域研究に参加することになった。インドネシアがイスラーム圏に属していたという縁である。この研究会がきっかけでロンボク島にしばらく通うことになった。チャクラヌガラというバリの植民都市を発見したことが大きい。以降、ヒンドゥー都市の原理とイスラーム都市の原理の比較が大それたテーマとなった。

イスラーム都市に関わるその後の展開を含めた総括は『ムガル都市―イスラーム都市の空間変容』に譲りたい。本稿の脈略で、継承システムとしてとりあげるべきは以下である。

④相隣関係のルール:「イスラーム都市」は,迷路のような細かい街路が特徴で、全く非幾何学的で,アモルフである。全体が部分を律するのではなく,部分を積み重ねることによって全体が構成される,そんな原理が「イスラーム都市」にはある。「イスラーム都市」を律しているのはイスラーム法(シャリーア)である。また,様々な判例である。道路の幅や隣家同士の関係など細かいディテールに関する規則の集積である。全体の都市の骨格はモスクやバーザールなど公共施設の配置によって決められるが,あとは部分の規則によって決定されるという都市原理である。部分を律するルールが都市をつくるのであって,あらかじめ都市の全体像は必ずしも必要ではないのである。イスラームが専ら関心を集中するのは,身近な居住地,街区のあり方である(図2)。

⑤ワクフ(寄進)制度:コミュニティの持続にとって、最終的に鍵を握るのは財政的裏付けである。イスラームの教えには、平等原理があり、裕福になったムスリムはワクフ(寄進)財として資産をコミュニティに寄付をする仕組みがある。イスラーム世界の、モスク,バーザール,マドラサなどの公共施設を建設する場合に,ワクフ(寄進)制度を基本とする都市計画手法は注目すべきである。

 

5. ヒンドゥーの都市原理

チャクラヌガラから学んだことは諸論文[])にまとめたが、チャクラヌガラは、バリ・ヒンドゥーに基づく都市原理によって構成されている点で、アジアにおけるもうひとつの都市計画の脈略を想起させてくれた。チャクラヌガラは18世紀前半に計画建設されたが、ほぼ同じ時期にインドで建設されたのがラージャスタンのジャイプルである。さらに、ヒンドゥー都市の原型としてタミル・ナードゥのマドゥライの臨地調査を加えてまとめたのが『曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』である。

ヒンドゥー都市の原理とイスラームの都市の原理はある意味では対極的であり、チャクラヌガラもジャイプルも中心部は整然としたグリッドパターンで構成されるが、周辺のイスラーム街区は雑然とアモルフである。

⑥コスモロジーと空間システム:ヒンドゥーの都市原理として継承される基礎となるのはそのコスモロジーである。チャクラヌガラは、各街区に寺院が配置される祭祀都市として、また整然と街区が分割されるヒンドゥー的都市計画がなされたのであるが、それがそのまま空間継承原理につながるかどうかは予断を許さない。バリ・ヒンドゥー社会も現代のグローバリゼーションの波の中にあり、急速に変容しつつある。

テキスト ボックス:  
図3 植民都市の類型
⑦身体寸法と空間システム:バリ・ヒンドゥーの住居・集落・都市を貫くコスモロジカルな秩序として、ミクロコスモスと考えられる身体を基礎とする寸法体系(図3)は、バリ島の景観を維持していく上で極めて有力かつ有効である。バリ島の住居集落の空間構成はこの間急激に変容しつつある。しかし、身体寸法に基礎を置く建築システムが維持される限り、集落景観は自ずと維持されていくはずだからである。

ネパール盆地についての“Stupa & Swastika”は、まさに建築のディテールから都市空間構成まで一貫する秩序(空間システム)があることを明らかにした著書である。

 

6. オランダ植民都市の計画原理

カンポンが実はコンパウンドCompoundの語源であるという有力な説がある(OEDはそう説明している)ことを知ったのはカンポン研究を開始して随分たってからである。カンポンというのは、ヨーロッパ人から見てアジアの都市の極めて閉じた自立的な住区(都市組織)を指す言葉となったというのである。アフリカの集落をコンパウンドというのはカンポンに由来するのである。

それと、インドネシアの宗主国がオランダであり、そのオランダが海禁政策をとる日本と出島を通じてつながり続けたということで、オランダ植民都市研究に赴くことになった。

実は、最初の2年集中したのはイギリスの植民都市である。しかし、ロバート・ホームRobert Homeの“ Of Planting and Planning The making of British colonial cities”(布野修司+安藤正雄監訳:植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバート・ホーム著:アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会,20017月)を知って、我々には親しい近代都市計画の理念と手法を確認、近代世界システムのヘゲモニーを最初に握ったオランダの都市計画の伝統へ向かったのである。その成果の大要は『近代世界システムと植民都市』に譲りたい。本稿の脈絡で確認すべきは以下である。

⑧都市の成立根拠―都市の原型―:産業革命以降の都市がそれ以前の都市と全くその基盤を異にすることはいうまでもない。イギリスの植民都市計画がそのまま近代都市計画につながり、現代にまで直結することは前提である。オランダ植民都市の歴史を追いかけると、その建設のプロセスが都市の起源、その成り立ちを示していることである。

問題は、近代以前の都市のあり方とそれを支える仕組みが大きく異なってしまっていることである。

⑨低地の都市基盤整備:『近代世界システムと植民都市』では、触れているけれど、オランダの都市計画が得意なのは基本は低地、湿地である。明治政府が、デ・レーケ、エッシャーなどオランダの土木技術者を招いたことはよく知られているが、そこで導入された治水技術が継承可能かどうかは、東日本大震災の結果を得て、再評価すべきである。

 

7. 韓国近代都市景観の形成

植民都市研究は何も西欧植民都市が対象となるわけではない。都市計画の理念、手法、原理として、日本植民地都市を扱ったのが『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』である。

以上では触れなかったのであるが、植民都市の本質は、植民(支配)する側の空間システム(原理)である。日本は、朝鮮半島に日本の住宅形式(日式住宅)を持ち込んだ。また、朝鮮社会の地方支配の拠点である邑城を支配の拠点に変換した。近代において、空間の編成を決定するのは基本的に政治力学である。

⑩型の受容と変型:例えば、鉄道町の定型化された住居形式によって、畳の部屋とか押入れ、玄関といった日本の空間システムが朝鮮半島に移入され、韓国の住居は明らかに変わった。しかし、日本の住居の型がそのまま受容されていったわけではない。継承システムの問題としては、その葛藤のメカニズムに注目する必要がある。

 

4. まとめ

  以上、あまりにも紙数が足りない。問題が絞れれば、集中して議論ができると考えるが、これまでの研究展開の中で、本号テーマに関連して議論すべき点を①~⑩にまとめた次第である。

私見ははっきりしている。何か守るべきもの(理念や歴史的記憶や現代的既得権・・・)があって、それを継承すべきであるという議論の流れには組みしないことである。全て変化していく。継承すべきものをある時点、ある形態で固定化する、というのは不自然である。

物理的な存在としての建築物は死す運命にある。その死んだ建築物を再生させる、その仕組みは人の人生の限られた時間をもしかすると遙かに超えるかもしれない。継承システムは、建築の生と死、そして再生システムをいかに構築するかどうかの問題である。地域にその再生のための遺伝子をどう組み込むかが常に問われていると考えている。

 

参考文献

1) 布野修司,『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学),1987  日本建築学会賞受賞(1991)  

2)  布野修司,『カンポンの世界』,パルコ出版,19917

3)  布野修司編+アジア都市建築研究会:アジア都市建築史,昭和堂,20038(『亜州城市建築史』胡恵琴・沈謡訳、中国建築工業出版社、200912)

4) 布野修司編,『近代世界システムと植民都市』,京都大学学術出版会,20052

5)  布野修司編,『世界住居誌』,昭和堂,200512月(布野修司編:『世界住居』胡恵琴訳、中国建築工業出版社、201012月)

6) 布野修司,『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』,京都大学学術出版会,20062月  

7)  Shuji Funo & M.M.Pant, Stupa & Swastika, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007

8) 布野修司+山根周,ムガル都市--イスラーム都市の空間変容,京都大学学術出版会,20085

9) 布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民、『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』京都大学学術出版会、20105

 



[]) 「Ⅰ章 廃墟とバラックー建築の死と再生」(布野修司建築論集Ⅰ『廃墟とバラックー建築のアジアー』彰国社,1998年所収)

[])布野修司:カンポンの歴史的形成プロセスとその特質,日本建築学会計画系論文報告集,433,p85-93,19923月。布野修司,高橋俊也,川井操,チャンタニー・チランタナット,カンポンとカンポン住居の変容(1984-2006)に関する考察,Considerations on Transformation 1984-2006 of Kampung and Kampung Houses,日本建築学会計画系論文集,74巻 第637,pp.593-600,20093月。

[]) 「比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究」(研究代表者,板垣雄三,文部省科学研究費,重点領域研究1988-91)で,C班:景観(班長,応地利明)に参加した。

[]Shuji Funo: The Spatial Formation in Cakranegara, Lombok, in Peter J.M. Nas (ed.):Indonesian town revisited, Muenster/Berlin, LitVerlag, 2002。布野修司,脇田祥尚,牧紀男,青井哲人,山本直彦:チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の街区構成:チャクラヌガラの空間構成に関する研究 その1,日本建築学会計画系論文集,491,p135-139,19971月。布野修司,脇田祥尚,牧紀男,青井哲人,山本直彦:チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の祭祀組織と住民組織 チャクラヌガラの空間構成に関する研究その2,日本建築学会計画系論文集,503,p151-156,19981月。布野修司,脇田祥尚,牧紀男,青井哲人,山本直彦:チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)における棲み分けの構造 チャクラヌガラの空間構成に関する研究その3,日本建築学会計画系論文集,510,p185-190,19988






2024年7月31日水曜日

国立歴史民俗博物館国際シンポジウム「アジアの都市─インド・中国・日本─ Cities in Asia:India, China, Japan」, 平川南,玉井哲雄,妹尾達彦,包慕萍,韓三建,仁藤敦史,モハン・パント,佐藤浩司,高橋一樹,大田省一,黄蘭翔,宮武正登,上野祥史,金東旭,国立歴史民俗博物館,研究棟大会議室,2011年12月3日~4日

 

                  国立歴史民俗博物館国際シンポジウム

 

           アジアの都市 ─インド・中国・日本─            

 

                      Cities in Asia : India, China, Japan

 

国立歴史民俗博物館 研究棟 大会議室

 

■12月3日(土)10:00~17:30

 

10:00~11:30

館長挨拶  平川 南

基調講演  玉井哲雄 日本都市史の構築 ──アジアを視野──

 

 

13:00~17:30

セッションⅠ 中国都城の都市世界  ──宮殿・儀礼空間と都市──

 

基調報告  妹尾達彦   都城の時代の誕生─7・8世紀の東アジア─

 報告1  包 慕萍   元の大都 

 報告2  韓 三建   朝鮮半島の都城

  コメント 仁藤敦史 

 

セッションⅡ インド文明の都市世界   ──寺院・宗教空間と都市──

 

基調報告  布野修司  「転輪聖王」の王都 ─曼荼羅都市の系譜─

 報告1   モハン・パント インド・ネパールの都市

 報告2  佐藤浩司   住宅・集落・都市

 コメント 高橋一樹

 

■12月4日(日)10:00~16:00

 

10:00~12:00

セッションⅢ アジア周縁の都市世界    ──インド・中国の周縁世界と都市──

 

基調報告  大田省一   インド・中国文明周縁世界の都市

  報告1  黄 蘭翔   台湾の亭仔脚(アーケード)

  報告2  宮武正登  日本城郭の「異端児」たち

 コメント 上野祥史

 

13:30~16:00

討論と総括

 総括   金 東旭

 

  全体司会 上野祥史

2024年7月30日火曜日

住宅建築400号記念「そして,『住宅建築』が残った・・・ヴァナキュラー建築の地水脈」,『住宅建築』,200808

  住宅建築400号記念「そして,『住宅建築』が残った・・・ヴァナキュラー建築の地水脈」,『住宅建築』,200808

住宅建築400号記念

そして、『住宅建築』が残った・・・ヴァナキュラー建築の地水脈

布野修司

 

前川国男(19869月)、大江宏(19896月)、天野太郎(19911月)、宮内康(199212月)、吉村順三(19977月)、三浦周治(19988月)、宮脇檀(19991月)、林雅子(20013月)、大島哲蔵(200210月)、藤井正一郎(20048月)、小井田康和(200610月)、石井修(200711月)、村田靖夫(20071月)を追悼し、自ら宮嶋圀夫(878月)、増沢洵(199012月)、浜口隆一(19953月)、みねぎしやすお(19985月)、神代雄一郎(20015月)、そして立松久昌(200311月)と6人の追悼文を平良さんは400号のうちに書いている。「戦後建築」を懸命に生きてきた人たちが次々に亡くなる中で、平良さんの健在が頼もしい。101号から200号まで編集長を務めた立松久昌さんがいないから、余計そう思う。建築ジャーナリズムが「消滅」してしまった現在、『住宅建築』は数少ない救いである。平良さんが編集長に復帰(20065月~)して、『住宅建築』は、やっぱり平良さんの雑誌なんだ、とつくづく思う。少なくとももう100号は平良さんに続けて欲しい。

『住宅建築』には、19844月号に「住まいにとって豊かさとは何か」を書かせて頂いたのが最初である。「戦後建築の初心」に戻って、「建築家は住宅に取り組むべきだ」と、大野勝彦、石山修武、渡辺豊和と四人で『群居』創刊号を出したのが丁度一年前であった。手作りのワープロ雑誌であり、比べるのも烏滸がましいが、『群居』は、2000年、50号まで出し続けて力尽きた(平良さんにアドヴァイスも受けたが、2000部で始めた雑誌はその予言通りじり貧になった)。

その後、「原点としての住宅-「大きな物語」の脱構築のために」(198811月)「「方丈庵」夢-原点としてのローコスト住宅」(199012月)など『群居』で考えたことを書かせて頂き、『住宅戦争 住まいの豊かさとは何か』(彰国社)をまとめることができた。創刊200号記念特大号には、京都に移ったばかりであったが、「座談会:200号まで来た」(布野修司・益子義弘+平良敬一・立桧久昌・植久哲男:199111月)には呼んで頂いた。

「建築思潮」という名前を貸して頂いた『建築思潮』創刊号(1992年)―これも5号(1998年)で終息してしまった―で「戦後ジャーナリズム秘史」と題してロング・インタビューを行ったことがあるが、その最後に平良さんは次のように言っている。

「僕は、建築家を主体とした歴史というより、ヴァナキュラーなものに興味がある。ポストモダンという中でも、ヴァナキュラーなものが取り上げられるでしょう。僕は、あれだけは大変興味ある。・・・・既成の、正統な建築史のフレームは、今崩壊しつつある。崩壊しつつある時にポストモダンがでてきたと僕は思う。それは一種の危機の表現だ。建築家だって増えてるでしょう。大衆化してる。前川、丹下どころじゃなくて何万人もいる。何万人か、何十万人か、建築や施工に携わる人たちがいるなかで、そういう人たちがどういう世界をつくるかというのに僕は興味がある。・・・」僕は、最近、ヴァナキュラーなものの本ばっかりやってる。おもしろいんだよ。戦後50年代のセンスはなかなか変わらないよ。二十代の経験は大事だよね。」

『住宅建築』は、はっきりと、現代のヴァナキュラーな世界とその(再)構築を目指している。キーワードは、地域であり、職人であり、技能であり、集落であり、・・・・・・・。平良さんは「批判的地域主義」ともいう。平良さんはこの間太田邦夫先生や鈴木喜一さんと一緒に随分世界を歩いている。『住宅建築』の大きな魅力のひとつは、「集落への旅」である。「日本の集落」(19761983年)、「中国民居(ミンチイ)・客家(ハッカ)のすまい」など「中国民居」のシリーズ(1987年~)から近年の「アジアの集落-その暮らしと空間」(2007年2月~)まで大きな軸になっている。また、「身近な歴史の再発見」「時代を超えて生きる」といった歴史を、近代を見直すシリーズが心強い。さらに、大工棟梁、職人、技能への視線が縦糸として通っている。そして、毎号紙面に登場する設計者とその作品群がひとつのワールドをつくりあげてきた。

「運動体としての『住宅建築』」(20056月号)と平良さんはいう。そして、神楽坂建築塾など若い人たちと協働することに熱心である。『国際建築』『新建築』『建築知識』『建築』『SD』『都市住宅』『店舗と建築』『造形』と戦後建築の歴史を刻む名編集長として知られる平良さんの最後で最長の雑誌が『住宅建築』である。その行き着いた地平は極めて重要である。この運動体のネットワークをどこまで拡げることができるかは、『住宅建築』とともに、建築界の大きな課題であり続けている、と思う。




2024年7月29日月曜日

建築が「文化」として共有されるには 居酒屋ジャーナル4,建築ジャーナル,200610

 居酒屋ジャーナル4

建築が「文化」として共有されるには

 

日本では、歴史的背景や文化性を配慮されず、建築は老朽化すれば壊されていく。建築保存運動も成功例はまだ少ない。建築の文化性を社会で共有するには、どんな視点が必要なのか。関西在住の建築家と識者4人が、つくる立場と批評する立場で議論する。

――今、コンピューターを駆使した、実体感のない建築が脚光を浴びています。大学教育の場で学生に対し、建築をどうとらえるべきかと教えられていますか。 

大学で何を教えるのか

 

松隈 学生には、時流ばかり追うのではなく、近代建築まで含めて「建築」を考えてほしいと言っています。私には、まだ近代建築の方法論が学問的にも共有化されていない、という反省があります。その手がかりとして、前川國男や、吉阪隆正、ルイス・カーン、アントニン・レーモンドなどに目を向けてきたわけです。

 近頃は、建築の保存運動ばかりやっています。建築の歴史的背景を顧みない「取り壊し」は、まったく生産性のない行為です。その現場に直面すると、建築が持つ文化性を、社会がどう考えているかがよく分かります。

 最近とてもショックだったのは、大手住宅メーカーが、吉阪隆正設計の大学セミナー・ハウス(東京都八王子市、1965)を取り壊して、RC造の宿泊棟を建て始めたことです。この建物は大学の共同施設で、名だたる大学の先生たちが共同運営しているわけです。そういう人たちですら、経済的な論理で「古い建物は使えない」という判断をする。こうした現実に対して、「違う」ということを訴えていかなければなりません。

布野 松隈さんは、そのことを他者のせいにしてしまうわけ?あなたの大学が企画した「前川國男建築展」は素晴らしいものだった。しかし、「前川の精神を生かしてどうすればいいか」ということが、今のあなたの話には欠けている。前川を祭り上げるだけでは意味がない。

横内 あの展示会は、決して建築家・前川を神格化したものではないですよ。建築家の職能というものが、きちっと図面を描いて、建物を長持ちさせることだ、ということを前川の仕事とを辿ることで示されていました。

――前川展も吉阪隆正展も、多くの学生がかかわっています。実際に設計図を読み解き、手と頭を使って模型をつくったことに、とても新鮮な感動を覚えたようです。しかし現実には、経済主導で建築は建てられていきます。前川、吉阪を学んだ学生は、社会に出て仕事を始めたとき、ギャップを感じるのではないでしょうか。

布野 そうした面で、大学は頑張らないとね。

 

建築の文脈に乗らずに

ものつくる

 

――ところで、関西の建築家には強烈な個性を持つ人が多いという話がありました。それは建て主側に、建築家を認める雰囲気があるからでしょうか?

横内 そんなことはないですよ。建築のマニアはむしろ東京の方が多いようです。ただ関西には古い建築が残っているので、みなさん、目が肥えています。だから変なものを出すと受けつけない。

永田 建て主が建築家を育てる、というのは大昔のこと。確かにかつては、建築家が、資産家の社長の美学を実現するために力を尽くすことがあった。しかし、今、関西の大金持ちには文化を理解する心などありません。飛行機内を見れば分かります。ファーストクラスに座っていてもスポーツ紙を読んでますよ。

布野 永田さんは、ぎりぎりいい時代を知ってるわけですね。

――私は、永田さんが設計したホテル川久(和歌山県白浜町、1991)が、あまり理解できないのですが。あの建築は永田さんの本意なんですか?

永田 何でも本意でつくってます。

布野 あれは、最高傑作ですね。村野藤吾賞も受賞した。3回も泊めてもらったからいうわけじゃないけど。

永田 私は、ポストモダンの線がどうだとか、建築に脈絡を持たせません。前川さんとか、磯崎新さん、槇文彦さんのような、何かラインの上にいるのではない。私は自由にやるだけです。大阪西成区に建つバラックに感じ入るようなところで、ものをつくっています。

横内 永田さんは、あえて建築史の上に乗っからないことが、スタンスじゃないかと思います。

布野 それは違うかな。歴史はだいたいでっちあげるもんだと思う。一人が書いたからそうなるということじゃないけどね。

横内 いいえ、歴史っていうのは、連続性や思想性といったことで語られるじゃないですか。永田さんはそこから外れて、ただ芸術としての建築の在り方を追求しているように感じます。大抵の建築家は自分の作家性を位置付けるために、いろんな理屈を考えるわけですよ。関西でいうと、村野藤吾にもそんなところがあった。

布野 建築家を社会的に位置付けるのは、評論家がやること。

横内 安藤忠雄もいろいろ書きますが、彼自身の建築の本質を自分で書くことはありません。渡辺豊和もすごい文筆家だけど、彼のつくる建築は言葉では説明できないでしょ。関西の建築家って、自分で説明しないというところを持っている。

布野 安藤は批判できる。しかし、布野は渡辺を代弁できない。彼の建築は言語化してしまうと簡単すぎる。

 

残るのは、「建築」か「活字」か

 

横内 結局、今から100年後のことを考えたら、その建築が残っていくかどうかということですよ。社会性とか歴史の連続性も含めて。

布野 文献しか残らない。

横内 ひょっとしたら、前川の建築でさえも残っていないかもしれない。そういう意味では、建築とは脆弱なものですよ。やっぱり理論武装しなければ、となる。

布野 前川は展示会をやったから、50年は寿命が延びた。

永田 現実には1000年も経てば、コンクリートの建築など、跡形もなくなっているでしょう。しかし大事なのは、「1万年残る」と思ってつくることです。そこにつくり手は何を託していたのか、ですよ。

布野 新宿の飲み屋で伊東豊雄や石山修武と飲んだとき、「建築か活字か、どちらが残るか」ということがよく話題になったた。  ただ活字の場合は、建築をつくることと違って、あまりお金を稼げない。教師なら物を書きつつ、学生を育てることはできるかもしれない。

永田 横内さんは以前、若い頃に磯崎新の建築を見学したときの話をしましたね。建物の裏側に回れば、張りぼてのように感じたと。彼ら著名な建築家たちは、たとえベニアにペンキを塗ったような建築を建てようが、新しい概念を引っ下げて登場している。その概念は、1000年を越せるかもしれない。

布野 1000年はオーバー。ベニアでいいなら、私も相当いい仕事してる。

永田 ところで、磯崎の大分県立図書館(大分市、1966)はどうなったの?

布野 建築家の本人が生きている間に保存の対象になった。

――彼の西日本シティ銀行本店(旧福岡シティ銀行本店、福岡市、1971)も含めて、図書館を横内さんは「ポストモダンかどうかは疑問」と首を傾げていましたね。でもあの建物をつくったことで、彼は有名になり、仕事が入ってくるようになった。

永田 彼自身が書いていることと、その建築が全然違うわけよ。

 ポストモダンなんて、私は全く意識しない。とらわれず柔軟に建築を見ていく。だから「よーし、磯崎でも何でも来い!」という姿勢ですよ。

 

<顔写真>

布野修司

永田祐三

松隈洋

横内敏人

 

<プロフィール>

ふの・しゅうじ|滋賀県立大学環境学科教授。1949年島根県生まれ。東京大学大学院博士課程中退。京都大学教授を経て、2006年より滋賀県立大学教授。主な著書に『布野修司建築論集』『戦後建築論ノート』など

 

ながた・ゆうぞう|永田北野建築研究所代表。1941年大阪府生まれ。1965年京都工芸繊維大学建築工芸学科卒業。竹中工務店勤務後、1985年永田北野建築研究所設立。1993年村野藤吾賞受賞(ホテル川久)

 

まつくま・ひろし|京都工芸繊維大学助教授。1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業。前川國男建築事務所勤務後、2000年より京都工芸繊維大学助教授。著書に『近代建築を記憶する』など

 

よこうち・としひと|横内敏人建築設計事務所代表。1954年山梨県生まれ。1978年東京芸術大学建築科卒業。MITに留学後、前川國男建築事務所勤務。1991年横内敏人建築設計事務所設立。2000年三方町縄文博物館で日本建築学会北陸建築賞