居酒屋ジャーナル4
建築が「文化」として共有されるには
日本では、歴史的背景や文化性を配慮されず、建築は老朽化すれば壊されていく。建築保存運動も成功例はまだ少ない。建築の文化性を社会で共有するには、どんな視点が必要なのか。関西在住の建築家と識者4人が、つくる立場と批評する立場で議論する。
――今、コンピューターを駆使した、実体感のない建築が脚光を浴びています。大学教育の場で学生に対し、建築をどうとらえるべきかと教えられていますか。
大学で何を教えるのか
松隈 学生には、時流ばかり追うのではなく、近代建築まで含めて「建築」を考えてほしいと言っています。私には、まだ近代建築の方法論が学問的にも共有化されていない、という反省があります。その手がかりとして、前川國男や、吉阪隆正、ルイス・カーン、アントニン・レーモンドなどに目を向けてきたわけです。
近頃は、建築の保存運動ばかりやっています。建築の歴史的背景を顧みない「取り壊し」は、まったく生産性のない行為です。その現場に直面すると、建築が持つ文化性を、社会がどう考えているかがよく分かります。
最近とてもショックだったのは、大手住宅メーカーが、吉阪隆正設計の大学セミナー・ハウス(東京都八王子市、1965年)を取り壊して、RC造の宿泊棟を建て始めたことです。この建物は大学の共同施設で、名だたる大学の先生たちが共同運営しているわけです。そういう人たちですら、経済的な論理で「古い建物は使えない」という判断をする。こうした現実に対して、「違う」ということを訴えていかなければなりません。
布野 松隈さんは、そのことを他者のせいにしてしまうわけ?あなたの大学が企画した「前川國男建築展」は素晴らしいものだった。しかし、「前川の精神を生かしてどうすればいいか」ということが、今のあなたの話には欠けている。前川を祭り上げるだけでは意味がない。
横内 あの展示会は、決して建築家・前川を神格化したものではないですよ。建築家の職能というものが、きちっと図面を描いて、建物を長持ちさせることだ、ということを前川の仕事とを辿ることで示されていました。
――前川展も吉阪隆正展も、多くの学生がかかわっています。実際に設計図を読み解き、手と頭を使って模型をつくったことに、とても新鮮な感動を覚えたようです。しかし現実には、経済主導で建築は建てられていきます。前川、吉阪を学んだ学生は、社会に出て仕事を始めたとき、ギャップを感じるのではないでしょうか。
布野 そうした面で、大学は頑張らないとね。
建築の文脈に乗らずに
ものつくる
――ところで、関西の建築家には強烈な個性を持つ人が多いという話がありました。それは建て主側に、建築家を認める雰囲気があるからでしょうか?
横内 そんなことはないですよ。建築のマニアはむしろ東京の方が多いようです。ただ関西には古い建築が残っているので、みなさん、目が肥えています。だから変なものを出すと受けつけない。
永田 建て主が建築家を育てる、というのは大昔のこと。確かにかつては、建築家が、資産家の社長の美学を実現するために力を尽くすことがあった。しかし、今、関西の大金持ちには文化を理解する心などありません。飛行機内を見れば分かります。ファーストクラスに座っていてもスポーツ紙を読んでますよ。
布野 永田さんは、ぎりぎりいい時代を知ってるわけですね。
――私は、永田さんが設計したホテル川久(和歌山県白浜町、1991年)が、あまり理解できないのですが。あの建築は永田さんの本意なんですか?
永田 何でも本意でつくってます。
布野 あれは、最高傑作ですね。村野藤吾賞も受賞した。3回も泊めてもらったからいうわけじゃないけど。
永田 私は、ポストモダンの線がどうだとか、建築に脈絡を持たせません。前川さんとか、磯崎新さん、槇文彦さんのような、何かラインの上にいるのではない。私は自由にやるだけです。大阪西成区に建つバラックに感じ入るようなところで、ものをつくっています。
横内 永田さんは、あえて建築史の上に乗っからないことが、スタンスじゃないかと思います。
布野 それは違うかな。歴史はだいたいでっちあげるもんだと思う。一人が書いたからそうなるということじゃないけどね。
横内 いいえ、歴史っていうのは、連続性や思想性といったことで語られるじゃないですか。永田さんはそこから外れて、ただ芸術としての建築の在り方を追求しているように感じます。大抵の建築家は自分の作家性を位置付けるために、いろんな理屈を考えるわけですよ。関西でいうと、村野藤吾にもそんなところがあった。
布野 建築家を社会的に位置付けるのは、評論家がやること。
横内 安藤忠雄もいろいろ書きますが、彼自身の建築の本質を自分で書くことはありません。渡辺豊和もすごい文筆家だけど、彼のつくる建築は言葉では説明できないでしょ。関西の建築家って、自分で説明しないというところを持っている。
布野 安藤は批判できる。しかし、布野は渡辺を代弁できない。彼の建築は言語化してしまうと簡単すぎる。
残るのは、「建築」か「活字」か
横内 結局、今から100年後のことを考えたら、その建築が残っていくかどうかということですよ。社会性とか歴史の連続性も含めて。
布野 文献しか残らない。
横内 ひょっとしたら、前川の建築でさえも残っていないかもしれない。そういう意味では、建築とは脆弱なものですよ。やっぱり理論武装しなければ、となる。
布野 前川は展示会をやったから、50年は寿命が延びた。
永田 現実には1000年も経てば、コンクリートの建築など、跡形もなくなっているでしょう。しかし大事なのは、「1万年残る」と思ってつくることです。そこにつくり手は何を託していたのか、ですよ。
布野 新宿の飲み屋で伊東豊雄や石山修武と飲んだとき、「建築か活字か、どちらが残るか」ということがよく話題になったた。 ただ活字の場合は、建築をつくることと違って、あまりお金を稼げない。教師なら物を書きつつ、学生を育てることはできるかもしれない。
永田 横内さんは以前、若い頃に磯崎新の建築を見学したときの話をしましたね。建物の裏側に回れば、張りぼてのように感じたと。彼ら著名な建築家たちは、たとえベニアにペンキを塗ったような建築を建てようが、新しい概念を引っ下げて登場している。その概念は、1000年を越せるかもしれない。
布野 1000年はオーバー。ベニアでいいなら、私も相当いい仕事してる。
永田 ところで、磯崎の大分県立図書館(大分市、1966年)はどうなったの?
布野 建築家の本人が生きている間に保存の対象になった。
――彼の西日本シティ銀行本店(旧福岡シティ銀行本店、福岡市、1971年)も含めて、図書館を横内さんは「ポストモダンかどうかは疑問」と首を傾げていましたね。でもあの建物をつくったことで、彼は有名になり、仕事が入ってくるようになった。
永田 彼自身が書いていることと、その建築が全然違うわけよ。
ポストモダンなんて、私は全く意識しない。とらわれず柔軟に建築を見ていく。だから「よーし、磯崎でも何でも来い!」という姿勢ですよ。
<顔写真>
布野修司
永田祐三
松隈洋
横内敏人
<プロフィール>
ふの・しゅうじ|滋賀県立大学環境学科教授。1949年島根県生まれ。東京大学大学院博士課程中退。京都大学教授を経て、2006年より滋賀県立大学教授。主な著書に『布野修司建築論集』『戦後建築論ノート』など
ながた・ゆうぞう|永田北野建築研究所代表。1941年大阪府生まれ。1965年京都工芸繊維大学建築工芸学科卒業。竹中工務店勤務後、1985年永田北野建築研究所設立。1993年村野藤吾賞受賞(ホテル川久)
まつくま・ひろし|京都工芸繊維大学助教授。1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業。前川國男建築事務所勤務後、2000年より京都工芸繊維大学助教授。著書に『近代建築を記憶する』など
よこうち・としひと|横内敏人建築設計事務所代表。1954年山梨県生まれ。1978年東京芸術大学建築科卒業。MITに留学後、前川國男建築事務所勤務。1991年横内敏人建築設計事務所設立。2000年三方町縄文博物館で日本建築学会北陸建築賞
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