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2024年8月17日土曜日

「方法としての「戦後建築」・・・80年代の建築が語り出される前に・・・」,螺旋工房クロニクル013,『建築文化』,1979 01

 方法としての「戦後建築」 

 

 「近代建築は人間の建築である。その故にこそ近代建築を可能ならしめるものは人間への限りない愛情を本質とする『在野の精神』に対する深い理解と遑しい自信とでなければならない。

 単一人類の実現へと向ふ世界歴史の必然からしてここに言語につくし難い困難な時に恐らく前代未聞の「近代」を辿らねばならない我々の同胞の運命を思ふ時の近代建築の果さねばならない責務の大きさを思はずにはゐられない。ならば機能の満足による調和の実現、云ひかへれば人間性の幸福な発展をあくまで追求する近代建築精神一般はーーー単に建築をその対象とするだけにとどまらずーーー家庭日用生活器具の設計から都市計画、農村計画、国土計画、更に政治経済の凡ゆる人間形成の基本的原理としての意味をもつと考へられるからである。並に我々の近代建築精神の陶治と大方の愛情と理解とを希って我々の貧しい論抄の刊行を決意し、これを「PLAN」と名づける。」*[i]

 

 戦後五〇年を経て、「戦後」は最終的に死語になりつつある。あるいは、完全に歴史になりつつある。しかし、「戦後」の抱えた問題はこれからも繰り返し問われることになろう。戦後建築の初心を表す言葉が「PLAN」である。「近代」あるいは「PLAN」が輝いていたのが戦後間もなくである。七〇年代末に「戦後」評価をめぐる議論があった。昭和五〇年を経て、戦後も三〇年を超えた段階で、「戦後」を歴史的に総括する時期が訪れたということであろう。以下の文章は、「八〇年代の建築が語り出されるまえに」という副題がつけられていた*[ii]。「戦後」という枠組みは、八〇年代末に至ってその解体が確認されるのであるが、その十年も前から既に議論が展開されていたことは記憶されていい。「方法として」「戦後建築」を問題にする意味は意識され続けていたのである。

 

 

 江藤淳と本多秋五の戦後評価をめぐる論争*[iii]が波紋を広げつつある。焦点はもっぱら、ポツダム宣言における無条件降伏の意味、それを一つのクリティカルな争点とする同時代認識をめぐって、戦後(文学)を一挙に無化してしまおうとする、近年とみに「政策」イデオローグ(「治者」のイデオローグ、国家自立のイデオローグ)としての立場を露わにしてきた江藤淳の役割、身振りである。すかさず、真継伸彦、中上健次等のコメントが出され、やがて、秋山駿*[iv]や岡庭昇*[v]、また、南坊義道*[vi]、さらに大江健三郎*[vii]を巻き込みつつある。

 このいわば《ポツダム宣言論争》とでも呼ぶべき応酬は、いたずらに江藤淳の政治的な役割を浮彫りにし、論争それ自体、本多・江藤が「互いにそれぞれの立場で、物語、小説の定型に手玉に取られている」(中上健次)ものにすぎないと言えるかもしれない。しかし、そこに、戦後そのもの、なしくずにされつつある戦後そのものを根底的に問い直す契機が潜在していることは確かである。

 それは、かつて六〇年代初頭の佐々木基一の「『戦後』は幻影だった」に端を発する「戦後文学」論争*[viii]とは位相を異にしつつあるし、六〇年代末以降の戦後批判を経過することにおいて、また、政治的コンテクストと否応なく絡められることにおいて、今日における切実な課題となりつつあるはずである。いわゆる「意匠としての戦後否定」をそれは超えねばならないのである。

 そうした意味で、岡庭昇が、「体制イデオローグである江藤氏がなにやら「ポツダム体制打破」を呼号し、本多氏が擁護にまわっている皮肉さ」を揶揄し、「この論争が共有している(してしまっている)前提を、つまり場の成立そのものを認めない」としながらも、「ただ、思想的に不毛であれ、場そのものが虚構である指摘をとおして、「戦後の敗退」を積極的な契機に切りかえてゆくための、重要な手がかりを提供しているとおもう」と引きとり、大江健三郎が「批評家よ、戦後文学をその最低の鞍部で越えるな、それは誰の得にもならないだろう」という、かつての本多秋五自身の言葉を冒頭に引きながら、「江藤淳の提出した疑義を契機にして、僕はあらためて戦後文学、戦後文学者について読んだり考えたりすることをした」と、より根底的に「日本文学、戦後文学を決して後退のおこらぬ、後退しえぬ一点にまで、はっきり推し進める契機ともなりえるもの」としての竹内の戦後(文学)批判を引き受けようとすることは、真摯で正統な態度というべきであろう。

 江藤淳の論の展開に含まれる多くの矛盾、そのドラスティックな軌跡(転向)、現在担いつつある政治的役割とその内的、外的必然性については、批判者がこぞって指摘するところでもあるし、多言を要しない。矛盾や転向の指摘は、そうした実証的、論理的批判を超えた「尊王攘夷」的「ナショナリズム」や秩序防衛のイデオロギーのアジテーターの役割をますます明らかにするのである。問題はこの江藤淳の戦後批判をどうとらえ直すかである。そこに示される同時代認識をどうとらえなおすかである。

 一方で、大江健三郎と岡庭昇の江藤批判の差異は興味深いと言わねばならない。岡庭が論争の場そのものを認めないのに対して、大江は明らかにその場を前提としながら、六〇年代末の『万延元年のフットボール』をめぐる江藤との決定的対立、絶交(江藤・大江論争)をひきずりながら、反江藤の立場を展開しようとしていることにおいて、結果として、本多(近代文学派)擁護、戦後文学擁護(もちろん、全面肯定ではありえない)を引き受けようとする。そこには、すなわち、世代の差を含めた「近代文学」(派)の評価にかかわる差異があるのである。また大江が、作家として、文学表現の問題としてとらえようとするのに比して、岡庭は、政治的なコンテクストを含めたより広いコンテクストにおいて「戦後の敗退」をとらえようとしているとも言える。したがって、文学論のレヴェルでは、この論争の場そのものとは別の派絡を提示する中上健次を大江に比すべきと言えるかもしれない。しかし、いずれにせよ、それらは基本的には、僕らの同時代認識をめぐって展開されつつあるのである。

 江藤淳の同時代認識は「戦後文学は仇花」あるいは「戦後文学はそもそも存在しなかった」とまで言い切りながら、存在する唯一の尺度として「昭和文学」という範疇を提出するところですでに明瞭に示されてきた。菅孝行*[ix]や岡庭昇*[x]0が、その「昭和文学」というカテゴリーの提出をめぐって執拗な批判の作業を展開してきているのである。すでに、この新たな論争の種はまかれていたといってよい。まさに、そうした脈絡において、江藤淳は新たな攻撃の対象として本多秋五を選んだにすぎないのである。その同時代認識り差異は、菅孝行の次のような方法意識において鮮明に浮かび上がっていると言えるであろう。

 ●彼(江藤淳)は、戦後(あるいは少なく見積もって戦後文学)において「確立された価値の再検討」を通じて、それを否定し、昭和に「確立された価値」の根拠に回帰することになる。すなわち、ここでは連続面が価値に連なり、非連続性が虚妄とされる。

 これに対して、例えば私が、戦後を問題にする立場は、全く異なっている。江藤が「昭和に確立された価値」を自らの尺度としてとり込んでいるのに対し、それを批判の対象と考えるのである。すなわち、「昭和」の連続性を支える、ひとつの「確立された価値の再検討」をめざしている。したがって戦後過程とは、昭和期前半の二〇年間に「確立された価値」を再検討し、その価値の根拠を解体し、新たな未成の価値の根拠を再形成する過程であることによって、昭和=戦前・戦中の過程に対して非連続であるべきものでありながら、それを貫徹しえなかった過程であるとみなすほかはないのである。

 ●昭和に形成された「価値の再検討」の話題は、昭和の廃絶であるというしかないだろう。当然、昭和史をひとつの連続性たらしめているものは、決して普遍的な価値の根拠たりえないし、決して日本の地域的特殊性を、世界性へ到達せしめ得ないという判断を前提としている。

 ●昭和は、まさに廃絶すべき負の対象として連続している、というべきであろう。断じて、昭和は、戦後を否定して回帰すべき、正の価値の根拠として存在しているのではないのだ。(「文学における〈昭和〉の廃絶」)

 

 岡庭昇も、ほぼその問題意識を共有し、戦後に「近代」を願望する誤謬を正確に指摘しながら、次のように言う。

 ●わたしは、十五年戦争下の時代、つまり戦前の昭和は、明らかに転形期とみなされるべきだと考える。むしろ、日本近代における、最も可能性にとんだ状況だったのではないか。“昭和”とは、ひと言でいえば危機と戦争の時代である。明らかに日本的近代という虚構の支配原理が、危機に直面し、危機をのりこえるために戦争という、よりデフォルメされた形姿をもとめざるをえなかった。言い換えるなら、日常が物語たりえなくなりかけたとき、はるかに物語らしい物語である戦争が用意された。

 ●わたしは、国家は昭和をひとつながりのものとして自立しており、十分にそのことに自覚的である。といった。もしわれわれが、十五年戦争下を転形期としてとらえなおし、よくその思想的な可能性を再評価しなおしつつ、戦後をわれわれの手によって撃つことができなてなら、ついに物語の外に出ることはできない。否「敵」に釣り合うことさえ、できないはずである。(「江藤淳――物語のなかの演技者)

 ●昭和文学などという特殊なカテゴリーは、実は存在しない。日本の近代文学は「昭和」も「戦後」も決定的な転換のメルクマールとはさせないほどに一貫した負性としてある。ただ、あえて昭和文学というカテゴリイをたてるとすれば、「日本近代の文学表現を縦につらぬく「規範」の成熟と衰頽のときという観点においてであり、それはそのまま日本近代というフィクシャスな共同性規範が「露出」した時代という意味で、重要な視座となりうるのである。(「昭和文学の視座」)

 

 こうした、菅や岡庭の方法意識を僕もまた共有する。日本の近代建築をとらえる際に欠かすことのできない視点がそこにあるからである。江藤・本多論争に、建築の現在が引き受けねばならぬ問題への解答の契機も含まれているはずなのである。例えば、川添登が戦前・戦後の連続性を正のものとしてとらえ、近代天皇官僚建築家(吉田鉄郎、丹下健三等)に対して、村野藤吾、堀口捨巳、吉田五十八、白井晟一の再評価を主張し、また戦時体制下における国民建築、国民住居の重要性を強調するのをみれば、問題の偏在は明らかではないか。

 また、「昭和建築」という範疇をつとに提出したのは長谷川尭であった。もちろん、それをネガティブな契機として提出することにおいて、その役割は江藤淳のそれではない。しかし、彼は「大正建築」の再評価、その裏返しとしての「昭和建築」=近代合理主義の建築の否定に急で、「戦後建築」そのものを一挙になしくずしにする役割を担いかけはしなかったか。また、例えば「日本の現代建築」*[xi]1が「戦後建築」をとらえ返そうとするとき、こうした同時代意識をめぐる議論が当然クリティカルに投影されるはずではないのか。

 いま確かに、「戦後」という言葉はひどく色褪せてしまっている。その言葉のうちに含まれていたはずの、それ以前の歴史過程に対する断絶、批判、優位の響きはすでに失われているかのようである。とりわけ、六〇年代末以降の過程において「戦後なるものの幻影の中で太平の夢をむさぼってきた諸制度が根底的に問い直される」なかで、僕らは「戦後」なるものが虚構にほかならないことを嫌というほど思い知らされたのである。今にして思えば、「もはや戦後ではない」という宣言が経済白書によってなされた頃ほど「戦後」が信じられていたときはなかったのである。その頃を起点とする高度成長の終焉、あるいは五五年体制の崩壊といったさまざまな戦後の終焉に立ち会いつつある僕らには、戦後の過程は、ありうべき戦後がなしくずしに無化されていく過程にほかならなかったように見える。そして、そうした眼差しには、むしろ戦前・戦後がのっぺりつながって見えてくるのである。

 僕は、六〇年代の建築に対するささやかな総括を試みながら、その過程に、戦前・戦後を通じて一なる昭和の過程や、さらにそれを含み込む日本の近代の過程をみていた。そこでは、自らの現在を直接的に用意した時代の具体的なコンテクストへのこだわりが先行しており、むしろ問題意識としては、抽象的、一般的に近代批判の問題をたてがちな思考を具体性のなかにつなぎとめようとするもので有ったのであるが、六〇年代の建築のあり様に対する批判は、即、戦後建築批判であり、ひいては近代建築総体に対する批判へつながっていくのである。僕らが担わされている問題はすでに戦前に用意されていたという意識がそこにあった。そうした意識は、すでに一般化されたものといってよいであろう。磯崎新の『建築の一九三〇年代』は、明らかに、そうした意識に貫かれたものである。三〇年代と七〇年代を重ね合わせる意識において、また、三〇年代における「日本的なるもの」をめぐる議論を五〇年代の伝統論の展開へストレートに結びつける視点において、戦前・戦後は一つの過程としてとらえられているのである。

 しかし、こうした歴史意識によって必ずしも僕らに展望が開けるわけではない。それは、あくまで後ろ向きのパースペクティブなのである。もどかしいのは、同じ連続性において終戦の閾をとらえるにしても、ポジティブに捉えるか、ネガティブにとらえるかによって大きく歴史的展望を異にするにもかかわらず、それを明確に区別する指標が定かではない点である。僕らがいま痛切に意識していなければならないのは、六〇年代末以降に一挙に顕在化してきた近代合理主義、科学主義、進歩主義、テクノクラシーに対する批判が、観念のレヴェルではさまざまな反近代の意匠をまとった潮流へ容易に回収されていく構造をもっていたということである。

 戦後的なるものは幻想にすぎなかった。そして、いま僕らはその戦後幻想の解体のはるか彼方にある。しかし、問題はさほど単純ではないのである。確かに、戦後幻想は否定されなければならない。それによって、僕らはすぶずぶの日本の近代を対象化することができる。けれども、戦後幻想の否定によって、ありうべき戦後そのものを否定することは不毛なことではないのか。菅孝行の言うように*[xii]2、戦後幻想が批判された止揚されなくならない理由は、それが、あたかも八・一五以前の歴史過程への非可逆的な総括の所産であることを装いながら、実はすり抜けの虚構であり、戦後性の名において死守されるべきものを解体し、戦前戦中の過程へと順接させるイデオロギー装置にほかならないからである。

 戦後性の名において死守さるべきものとは何か。ありうるべき戦後とは何であったのか。終戦後まもなく、廃墟を前にして幻想されていたものは何であったのであろうか。

 さまざまな反近代の意匠は、反合理のロマンの跋扈を許すことにおいて、戦後批判そのものを無化してしまう。そうしたとき、僕らの批判の原点は宙に舞うのである。ありうべき戦後を、あえて一つ指標としてたてねばならないとすれば、そうした趨勢を見据えるからである。そうでなければ、僕らは日本の近代の重さを暗鬱なる胃の腑の底で反芻するにとどまるだけである。

 建築において、ありうべき戦後が一つの指標としてたつかどうかは知らない。戦後建築に、戦後幻想の解体の彼方においてなおかつこだわらねばならないものがあるかどうかはわからない。しかし、一挙に、より大きな歴史の過程を対象化するまえに、戦後性の名において死守すべきものについて思いをはせておくことは無意味ではないはずである。少なくとも戦後派世代にとって、戦後のもつ意味は計り知れなく大きいはずではなかったか。それは、僕らの想像力が到底届かない衝撃力をもち得ていたのではなかったのであろうか。

 いずれにせよ、僕らは一度は戦後幻想のゼロ地点へ立ち戻ってみなければならないはずなのである。それは決して、心情的な、焼跡や廃墟への追憶やロマン的な回帰ではなく、菅孝行のいう「方法としての戦後」意識、思想の指標としてのありうべき戦後としての理念、抽象をもとにした歴史のレクチュールである。

 もちろん、それは歴史をさまざまに時代区分して、作品や諸表現を文類し直したりする作業とは区別されねばならない。明治一〇〇年とか、昭和五〇年とか、戦後三〇年といった時間のくぎり方それ自体が問題ではないのである。少なくとも、僕にとって「昭和」は現在を批判的にとらえ返すための虚構のフレームでしかない。「ありうべき戦後」も、とりあえずの虚構の指標なのである。それきは単に「戦後」に「昭和」をもち込んだり、「昭和」に対して「大正」を、あるいは「近代」に対して「前近代」を代置することではない。

「現在を批判するのに過去をひき入れ、過去を批判するのに大過去をひき入れる方法は、ただただ過去へむかってユートピアを求めて遡及する倒錯した永遠革命のイメージしか構成することができない」のである。

 やがて、八〇年代の建築についての展望が語り始められるかもしれない。否、ポストモダンやポストメタボリズムにかかわる議論において語り始められていると言うべきであろうか。その際、戦後建築が果たして仇花であったのかどうか確認される必要があろう。戦後建築史も、ようやく(否、すでに)書かれる時期に達したはずである。戦後建築の幻想の解体によって、確かに日本の近代建築の史的展開もよりよく見えてきたのである。そうした史的パースペクティブのなかで、戦後建築は本当に無化されるのであろうか。戦後建築は存在しなかったと言いうるのであろうか。

 いずれにせよ、僕らもまた、こう言うべきであろう。「戦後建築」をその最低の鞍部で越えるな、と。

 



*[i]前川國男、『PLAN』一「刊行のことば」、一九四七.一二.一 

*[ii] 布野修司、「方法としての「戦後建築」」(螺旋工房クロニクル013)、『建築文化』、一九七九年一月号

*[iii] 江藤淳「“戦後歴史”の袋小路の打開」『週刊読書人』七八年五年一日、「文芸時評」『毎日新聞』七八年八月二九日、「戦後文学は仇花」『週刊読書人』七八年八年二九日、「本多秋五氏の『戦後固定論を駮す――今こそ“神話の時代”に引導を渡すべきだ」『朝日ジャーナル』七八年一〇月二〇日、本多秋五「『無条件降伏』の意味」『文芸』七八年九月ほか

*[iv] 読売新聞「文芸時評」

*[v] 「江藤淳――物語のなかの演技者」『現代の眼』七八年一二月 特集=危機のイデオローグ

*[vi] 「戦後文学は徒花か」『第三文明』七八年一二月

*[vii] 「文学は戦後的批判を越えているか」『世界』七八年一二月 特集=文化――状況へ

*[viii] 戦後文学論争

*[ix] 『延命と廃絶 昭和の時間と文学の党派性』

*[x] 『文学と批評的精神』

*[xi] 『新建築』七八年一一月臨時増刊

*[xii] 『戦後思想の現在』

2024年8月16日金曜日

地域主義の行方,中間技術と建築,螺旋工房クロニクル008,建築文化,彰国社,197808

 地域主義の行方――中間技術と建築――

 

 1

  日本には、ひとつの妖怪が跋扈しつつある、という。

  「日本をひとつの妖怪が行く。地域主義という妖怪が、ふるい日本のあらゆる権力は、この化け物を退治しようと、神聖な同盟をむすんだ。保守と革新を問わず、既成の政党、既成の組織、そして既成の思想集団……」と、やがて「各地域に棲む一人一人によって書かれるべき」地域主義宣言を、玉野井芳郎は、ちょうど一五〇年ほど前に草された一つの宣言になぞらえてみせる。「保守も革新も、だれもよくわからない、既成の思想では仲々理解しがたい」、そういう点で〈地域主義〉には、そのあまりにも有名な宣言の冒頭の名文章を想起させるような何かがあるのだという[1]1。

  〈地域主義〉と呼ばれる思想と諸潮流があらゆる権力と緊張関係を生み出しているかどうかは知らない。おそらく、今のところはそうではあるまいと思う。その力が強大となり、妖怪の物語に一つの宣言を対立させるほど、時期が熟しているとは思えないのである。確かに、それはやがて各地域に棲む一人一人によって書かれるべき質のもの、しかも地面の上に書かれるべき質のものであろう。そうした意味で、その動向にはわかりにくさがつきまとう。〈地域〉とは何か、という基本的な問いに対する解答のひろがりをみても実にさまざまである。〈地域主義〉自体は揺れているのである。そのわかりにくさを妖怪と呼べば、呼べるかもしれない。

  しかし、それにもかかわらず、今日、〈地域主義〉と呼びうるような潮流が現れてくる時代的背景については十分了解しうる。すなわち、端的にいって、その諸潮流は、六〇年代的なるもの(高度成長、産業社会の論理、近代化、工業化、都市化等々)に対する批判(ないし反動)を共通のモメントとしているといっていいのである。そうした意味で、その行方は七〇年代を位置づけるうえで、また八〇年代を占ううえで、極めて興味深いといわねばならないであろう。〈地域主義〉とは何か。それはいかなる形態をとって定着するのか。あるいは定着しないのか。

  現在、日本で〈地域主義〉としてくくられようとする諸潮流は、グローバルにも確認することができる。アメリカにおけるオールタナティブ運動やフランスのエコロジー運動あるいは第三世界におけるさまざまな試みに通底する背景をそこにみることは可能なはずである。その運動のスローガンや主張に、多くの共通の方向性、モメントを見いだすことは困難ではないのである[2]2。

 地域の自立(自主管理)、生態系への注視、環境・資源の保護、第一次産業の再生、反生産主義あるいは反成長主義、分権主義、中間技術の使用……。E.F.レュマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』[3]3を共通の背景として想起すればよいのかもしれない。もちろん、日本におけるさまざまな運動や〈地域主義〉の潮流と、オールタナティブ運動やエコロジー運動との質的差異や位相のずれは興味深い問題である。おそらく、〈地域主義〉という形での知のレベルの結集が先行するところにも、日本の特殊性をうかがうことができるであろう。それが、日本の近代の問直しにかかわっている以上、日本の近代化のもつ歪みや特殊性を引き受けねばならないことは当然なのである。

  日本の近代化の過程において、地域なり地方が今日のように主題化される時期をいくつか見いだすことができる。こうした歴史の遡行は地域という概念を明確化しえないままには、ラフなものでしかないのであるが、例えば、明治末期の『地方(ぢかた)の研究』の新渡戸稲造をはじめとして、柳田国男、石黒忠篤、小田内通敏らの郷土会創立の頃、さらに、昭和初期の、権藤成卿の「農村自治」論、橘孝三郎の「国民社会的計画経済」論等の農本主義思想が展開される頃がそうである。

 いずれも、農村の疲弊、解体に対する危機意識が広範に顕在化してきた時期といえるであろうか。〈地域主義〉の潮流が、柳田国男のアクチュアリティの再発見の動向と並行し、あるいは、それが農本主義イデオロギーへ行きつく危険を批判されたりするのも、先行するそうした時期の問題の構造との同相性を一面においてもっていることを示しているのである。したがって、七〇年代における〈地域主義〉が、日本の近代の構造のなかで、幾度か繰り返しみられるそうした地方や農村の主題化とどのように位相を異にしうるか――例えば、中央と地方、農村と都市のディコトミーとその対立図式をいかに超えるかも、問われていくことになるはずである。

 

 2

  増田四郎、古島敏雄、河野健二、玉野井芳郎を世話人とする地域主義研究集談会が結成され、最初の大会がもたれたのは、一九七六年一〇月(東京)のことである。その後、京都(七六年一一月)、熊本(七七年三月)、青森(七七年一〇月)と大会が開かれることによって、〈地域主義) という言葉自体は定着しつつある。

  七〇年代に入って、〈地域主義〉という言葉に積極的な意義を与えた一人に杉岡碩夫がいる。彼は、中小企業近代化のもつ矛盾に出くわす過程において、その克服の方向を〈地域主義〉という言葉で表現するのである[4]4。彼によれば〈地域主義〉とは、「中央集権的な行政機能や社会・経済・文化の機能を可能な限り地方分散型に移すことであり、その過程でわたくしたちの生活をより自主性のある自由なものに転換していこうという展望、つまり一種の“文化革命”の主張である」[5]5。

 こうした方向性はある意味で明快であり、おそらく多くの共有するところであろう。七〇年代に入って、地方や地場産業、自然や農業へ、近代化、工業化、都市化によってとり残されたものへ、眼差しが注がれ始めたことは、さまざまの分野に共通にみられるのである。地方史や地域史の試みの提唱や地方学の提唱なども、そうした趨勢を示すものであった。また、各地方自治体による都市計画や地域計画の流れは、六〇年代における段階とは明らかに様相を異にしてきている。「都市―コミュニティ計画の系譜の流れ」[6]6において、奥田道大は、その転換を「総合計画」の段階から「コミュニティ計画」の段階への移行として総括しながら、いくつかの方向性を示している。

 こうした趨勢にあって、〈地域主義〉という形での知のシューレの結成は、ネーション・ワイドのコンセンサスの形成といったレベルでまずそれなりの機能を果たしつつある。そして、細分化された諸科学への批判、専門知への自己批判と結びつくことによって、インター・ディシプリナリーな場の設定という機能を果たしつつある。〈地域〉という概念が、そうした領域の設定と、さまざまな局面からの作業を媒介するのである。おそらく、後者の意義により大きなウェイトを置くことができよう。「こんにちの地域主義の潮流は、もしも、その主張のなかに学者や文化人の自己批判がこめられていないとすれば、単に新たな流行の一つをつけ加えたにとどまる」(河野健二[7]7)はずだからである。すなわち、とりわけ近代経済学批判や科学批判、テクノロジー批判などと結びつけて、〈地域主義〉は位置づけられ、理解されるべきなのである。

 〈地域主義〉にかかわる理論的関心は、多局面にわたっている。『地域主義』の第Ⅰ部「地域主義の課題」では、水、土地、労働力、金融、エネルギー、技術、生産、流通、交通、自治、言語等について問題が整理されているのであるが、地域の自立のためには、地域の生活や生産を支えるあらゆるものが問題となってくるのである。そうしたなかに、槌田敦等の資源物理からのエネルギー論あるいは技術のエントロピー論[8]8、玉野井芳郎の広義の経済学への展望[9]9を含む近代経済学批判の動向、農業の再生をめぐる諸論考など、注目すべき理論的検討をみることができる。エコロジー、中間技術、地場産業、農薬(自然農法、有機農法)、地方自治、自主管理、産直、地域メディアをめぐるテーマが、〈地域主義〉のプロブレマティークを形成しているのである。

  一方、こうした知の結集に対する危惧がないわけではない。むしろ、そうした形のシューレの形成が、本来、問題の根源にあるわからなさを増幅し、訳のわからないわからなさを蔓延させつつあるともいえるのである。〈地域主義〉とは、山本陽三のいうように、「地域主義といった一つの輪があるのではなく、各地にポツポツと、そう名付ければそのようにも思える生活の実践があるといったこと」[10]10であり、五〇年か一〇〇年たって、社会学者や社会史学者が、ある時期のある種の生活の仕方を総括して「地域主義」と名付けるといったもの」、「それを当の実践者が墓の下から、ニヤニヤ笑って見ているといった態のもの」のはずなのである。

 この理論と実践の転倒は、諸外国の運動と決定的に異なる点かもしれないし、それは〈地域主義〉の主唱者たちも十分意識しているところであろう。現在、〈地域主義〉の運動として示されるさまざまな事例や試みは実に多様であり、そのレヴェルも位相も異にする多くのものを含んでいるように思えるのであるが、それは、〈地域主義〉のための諸条件が現実には未熟であることを示しているはずである。〈地域主義〉という妖怪は、その困難性を覆い隠す役割を担う危険ももっているのである。

それに、理論のレベルにおいても、〈地域主義〉には本質的な困難性がつきまとっている、といえる。しかも、それはあらゆる局面で究極的に同一の構造の問題にいきつくといえるだろう。

 清成忠男は、〈地域主義〉において、さまざまな意味において「中間」ないし「媒介」が重視されることを説く[11]11のであるが、それは逆に、そこに共通の問題が存在することを示しているのである。公有でも私有でもなく、共有、巨大技術でも土着技術でもなく、中間技術といった主張がそれである。すなわち、いま問われているのは、「それぞれの〈地域〉が部分であると同時に全体であり、中心でありうるような結合様式」であり、「〈地域〉が諸学のひからびた抽象からよみがえるためには、絶えずこのような逆説に耐えるだけの緊張を保持せねばならない」[12]12のである。

  こうした〈地域〉の概念――部分であると同時に全体でありうるような――は、原広司[13]13がいうような意味で、いまのところ、空間的なイメージを欠いているといわねばならない。〈地域主義〉の行方が気にかかるのは、そうした根源的な意味においてでもある。

 

 3

  建築の分野においても、地域主義あるいはリージョナリズムがこれまで幾度か主題化されてきた。しかし、それは、一般にデザインの問題としてたてられてきたといっていい。戦後まもなくの新風土主義あるいは新日本調、さらに五〇年代初めの伝統論は、世界的視野におけるリージョナリズムの展開と考えられるし、五〇年代末から六〇年代初頭にかけては国内における地方なり地域性がそれなりに話題とされた。また、六〇年代末からのデザイン・サーヴェイの流行は、リージョナリズムの展開とみなすことができる。

  もちろん、民家研究や郷土建築研究、農村建築研究の流れに、建築家の地方や農村への関心を跡づけることは可能であるが(それは、一般的には、計画的ロゴスの史的展開が示すように、農村を近代化し、地方を中央化していくヴェクトルをもったものであったといえるであろう)、今日、言われているような意味で、建築における〈地域主義〉が主題とされてくるのは、七〇年代後半に入ってからといってよい。歴史的環境の保存や住民参加、種々のまちづくり運動の過程において、そうした潮流が現れてきたのである。私たちは、その先駆的な試みを、例えば、象グループの沖縄の仕事に見いだすことができる[14]14。その山原の地域計画と建築活動は、すでにさまざまな場所で紹介され、各方面に強烈なインパクトを与えつつあることはよく知られていよう。

  その計画理念や方法――水系単位の開発、自力建設、「逆格差論」および建築表現へのアプローチに、私たちは多くのことを学ぶことができるはずである。こうしたさまざまの試みを〈地域主義〉としてくくるかどうかは、とりあえず問題ではない。こうした実践に学ぶことのほうが先決であろう。〈地域〉の生活と生産にトータルにかかわるまちづくりの過程で、建築が生み出されてくるその一つの方向性を、それは示しているはずである。私たちのさしあたっての関心は、そうした方向性を確認しながら、建築における中間技術のあり方をさぐることであろうか。もちろん、それが自立的に追求されることはありえない。具体的な活動の過程で、創造されねばならないものであることは言うまでもないことである。

 中間技術(                       )は、適正技術(                 )、代替技術(                 )、生態技術(         )、地域技術(               )、ホーリスティック・テクノロジー、ラディカル・テクノロジー、ソフト・テクノロジーといったさまざまな呼び方をされつつあるものであり、それぞれの呼称がその特性を示しているといえるであろう。E.F.シュマッハーのいう中間技術は、大衆による生産、プルードンの「工・農協同体」を想起させるとされる「農・工構造」の創設への方向性のなかで位置づけられており、巨大技術と伝統技術の中間に位置し、両者を媒介するものとして規定されている。

 玉野井芳郎の整理によれば、小規模性(非資本集約性)、生態系への適合、地域共同体に固有な高度の伝承性と個性の三つがその特性である。

 また、清成忠男の紹介する  ジェクイエ        による中間技術の特徴は、①地域の文化的・経済的条件と両立すること、②労働手段やプロセスは地域住民の管理の下で運用されること、③可能な限り地域の資源を利用すること、④他地域から資源や技術を導入する場合には、地域で何らかのコントロールを行うこと、⑤可能な限り地域のエネルギーを利用すること、⑥生態系にとって健全であること、⑦文化的破壊を避けること、⑧結果が妥当でない場合には、地域が修正可能なようフレキシブルな状況を用意しておくこと、⑨研究や政策は、地域住民の福祉や地域の創造性などの極大化を配慮し運営されるべきことである。

  このような方向性をもった中間技術は、いまのところ、風力発電や太陽熱、地熱の利用、汚水の処理、有機農法といった形で具体的にイメージされているにすぎない。G.ボイルとP.ハーバーは、中間技術の具体的テーマを、食物、エネルギー、シェルター、オートノミー、材料、コミュニケーションの六つにわけて整理している[15]15が、シェルターの項で具体的にイメージされているのは、仮設構造物、ヴァナキュラーな架講、土を用いた建造物、自力建設による住宅である。

  いずれにせよ、建築における中間技術の追求は、興味深い局面をきり開いていくことであろう。五〇年代のMID同人によるテクニカル・アプローチとは、逆の方向性をもつのであろうか。ガジルによれば、中間技術の開発には三つのアプローチがある。一つは伝統技術の改良、一つは、近代技術の適応・調整、最後は、直接それ自体の開発である。その開発がどのような過程を経てなされるのか、その開発の主体はどのように形成されるのか、そして、そうしたプロセスと技術の開発はどのような建築的表現を生むのであろうか。

  〈地域〉の生活と生産にトータルにかかわるまちづくりの過程で、そうした建築における中間技術がどのように生み出され、根づいていくかは〈地域主義〉の行方に、少なからずかかわっているはずである。

 



[1]1 玉野井芳郎、清成忠男、中村尚司、『地域主義』、「序 地域主義のために」、学陽書房、一九七八年

[2]2 宮川中民、「エコロジー運動の展望と課題」、『展望』、七八年七月号。「世界エコロジー運動の新しい潮流」、『朝日ジャーナル』、七八年六月三〇日号

[3]3 『人間復興の経済』、斉藤志郎訳、佑学社、一九七六年

[4]  杉岡碩夫、『中小企業と地域主義』、日本評論社、一九七四年

[5]  杉岡碩夫、『地域主義のすすめ 住民がつくる地域経済』、東経選書、一九七六年

[6]6 ジュリスト総合特集     『全国まちづくり集覧』、有斐閣、一九七七年

[7]7 前掲『地域主義』

[8]8 槌田敦、『石油と原子力に未来はあるか』、亜紀書房、一九七八年

[9]9 『地域分権の思想』、東経選書、一九七七年。『エコロジーとエコノミー』、みすず書房、一九七八年

[10]10 「「ゲリラ」と地域主義」、『地域開発』、一九七七年六月号、『地域主義を考える』、地域開発センター、一九七七年

[11]11 「地域主義における「中間」の意義」、『地域と経済』、一九七七年

[12]12 前掲註  はしがき

[13]13 「地域とインターフェイス」、『世界』、一九七八年五月号

[14]14 「特集 象グループ・沖縄の仕事」、『建築文化』、一九七七年一一月号

[15]15 ラディカル・テクノロジー


2024年8月15日木曜日

蘇る黄金の60年代,建築文化,彰国社,198709

 蘇る黄金の60年代

 

 路上観察などという趣味も余裕もないのだけれど、路上を歩けばやたら目につくのが工事現場であり、建築解体の騒々しさであり、建築計画のお知らせの看板である。もちろん、産業構造の転換で火の消え入りそうな町ではそんなことはないのであろうが、東京では犬も歩けば工場現場に当たるといった、そんな感じである。東京の全域を観察して歩くわけではないから確かなことはいないのであるが、都心でも郊外でも、そこら中に見られるのが工事現場であり、建設予定の空地である。

 とにかく異常である。「東京異常現象」と題して雑誌『群居』4号で特集を組んでみたのであるが、全くもって遅きに失した感がある。異常も続けば正常となる。自分とは無縁と知りつつ、空地を見ると一万円札が敷きつめているように見えてしまうのは、庶民の悲しい性であろうか。やがて固定資産税や相続税として自らにはね返ってくると思えば、あるいはこのままでは住むところがなくなるではないかと思えば、怒りもこみ上げてくるのであるが、今はただ呆然である。

 ある高名な建築家が設計した建築界ではよく知られた住宅作品が、土地ごと売却され、壊されるという話を聞いた。また一五年ほど前に建てられた、これも建築ジャーナリズムでは著名な建築家の手になる住宅を建て替えて、マンションにする計画の依頼が別の建築家にあったという話を聞いた。建築家の作品も形なしである。土地の価格がすべてであり、建築は零である。この地価狂乱のなかでは、建築の設計という行為は空しく思えてくる。極端にいえば、建築は建ち上がった瞬間に消え去る運命にある。華々しいデザインもジャーナリズムの紙面を飾るのみで、あとはいつ壊されても仕方がない。あるいは土地の値段と建築の値段を比べれば、建てないほうがましだということにもなりかねないのである。

 

 一方、建築業界は活気づいている。小さな設計事務所も仕事が増え、一息ついたという話をよく聞く。職人は足りず、目の回るような忙しさだという。まるで高度成長期のようにビッグ・プロジェクトが打ち上げられ、具体的されつつある。不況になると、密かに地震待望論がささやかれるのが建設業界であるが、それも納まった感がある。震災、戦災、列島改造といった大激変によって生み出される需要を糧に発展した建設業界にとって、この間の東京大改造の諸プロジェクトは、願ったり叶ったりの糧と考えられているのであろう。まさに「土建屋国家」日本である。

 今、東京は確かに揺れ動きつつある。もしかすると、歴史的な大転換の時を迎えようとしているのかもしれない。少なくとも、東京オリンピックの頃の大改造に匹敵するほどの大改造が進行しつつあることは事実である。その象徴が、都庁舎の新宿移転である。都心そのものが、西へ大きく移動しつつあることである。一方で、下町の活性化が声高に叫ばれるのであるが、裏を返せば下町が地盤沈下しつつあるということである。また、殊更に山の手に対して、川の手という言葉がつくり上げられ、大川端や東京湾岸部にビッグ・プロジェクトが構想されるのも、水辺や海辺にしか外延的延長の余地がないからである。都心に開発の余地がなくなるとすれば、開発の余地に従って、都市の重心が移動していくのは資本の動きとしては必然である。ターゲットとされたのは公有地である。また、都心に開発の余地がなくなるとすれば、その再開発が課題とされるのも資本の論理としては必然である。

 国際都市として、世界の一つの中心都市へと脱皮するために、オフィス空間が足りないというのが口実とされるが、背景にあるのは巨大な国際経済のメカニズムであり、莫大な金あまり現象である。内需拡大を国際的に求められるなかで、国内において、とりあえず、最も効率的に利潤をえるために、東京の土地が集中的にターゲットとされ、余剰資金が投入されつつあるのである。壮大なるマネーゲームである。

 東京への一極集中の問題点は、過去幾度となく指摘されてきた。つい先頃も、小松左京の『首都消失』*[1]のような思考実験的SFが話題を呼んだところである。そして、今再び、この異常な地価狂乱を前にして、遷都論、分都論、あるいは展都論(首都圏近郊に首都機能を分散する)がささやかれ始めるのであるが、現実を圧倒的に支配しているのは改都論であり、どうも迫力がない。もう行きつくところまで行って、突然のカスタストローフ(例えば、決定的な水不足や大停電、地震による壊滅)を迎えるしか、この趨勢は止めようがないように思えるほだ。

 しかし、それにしても、歴史は再び繰り返すのであろうか。まるで六〇年代の再来である。建築家が次々に未来都市のプロジェクトを発表し、一斉に都市づいていったのは六〇年代初頭のことであった。そして、今、再びチャンス到来とばかりに、一部の(?)建築家たちは東京改造論のビッグプロジェクト推進の旗振り役を務めつつある。それも、四半世紀前のプロジェクトがそのまま蘇ったかのような印象である。例えば、丹下健三の「東京計画一九六〇」や菊竹清訓の「海上都市計画」は東京湾埋立論や埋立地(一三号地)の新副都心計画において再び光が当てられ、突然リアリティをもったものとして見直されつつあるのである。

 この四半世紀の間、日本の建築界はめまぐるしい変転を遂げてきた。少なくとも、建築に対する見方が高度成長期からオイルショックを経て低成長期へ至る過程で、大きく変換してきたことは、ここで振り返る必要はないであろう。六〇年代初頭に次々と打ち上げられた建築家による未来都市のプロジェクトは、大規模開発が続くなかで現実性を問われながらも、一九七〇年の大阪万国博(エキスポ七〇)までは輝かしいものと考えられていたと見ていい。もちろん、開発に対して保存が鋭く対置され、計画の現実化に当たっては、日照権や公害の問題をてこにした批判が一方で呈示され続けたのであるが、時代の趨勢は楽天的な未来を信じさせていた。しかし、七〇年代に入って、状況は一変する。オイルショックによるエネルギー問題、資源問題の顕在化が決定的であるが、大阪万国博の会場構成に示された未来都市のイメージは、一瞬にして色褪せたものとなったのであった。

 楽天的な未来主義は影をひそめ、建築の巨大主義の問題点や都市計画の理想と現実との圧礫がさまざまに指摘され始める。六〇年代を通じて支配的であった建築の理念、すなわち近代建築や近代的な都市計画の理念が徹底的に問題とされ、それを批判的に媒介することによって、新たな建築や都市のあり方の模索が開始されてきたのが、この間の経緯である。少なくとも建築ジャーナリズムの表層における言説を見るかぎりにおいて、近代建築批判の顕在化以降の建築、都市にかかわるパラダイムの転換は極めてドラスティックであり、以上は大方の共通の認識となっていたといっていいであろう。また、単に言説のレヴェルにとどまらず、現実に建てられる建築物も六〇年代とは全く異なった形を取り始めていたといえるはずである。

 しかし、この間の時ならぬ東京大改造を口実とするビッグプロジェクトの復活は、一瞬のうちにそうした経緯を無化するかのようである。もちろん、今、次々に発表されている諸プロジェクトがすべて実現するかどうかは明らかではない。予断は許されないにせよ、日本経済の動向によっては、画餅に帰す可能性は大きい。それに再開発ということであれば、時間もかかる。さらに、こう地価が急騰すれば、プロジェクトそのものが成り立たなくなるということも出てこよう。むしろ、大半の建築家や都市計画家は冷ややかに事態の推移を見ているというのが、本当のところかもしれない。建築界全体が浮き足だっているわけではないであろう。しかし、まるで六〇年代初頭を思わせる都市プロジェクトの浮上は、この四半世紀の日本の建築の歴史を振り出しに戻すかのように思えることも、事実である。この四半世紀は建築にとって一体何であったのか、そうした問いを反芻させるのである。

 

 東京大改造のビッグプロジェクトをポジティブに推進する立場においては、この四半世紀は明らかに連続的である。建築や都市についてのヴィジョンをプロジェクトにして提示し、その社会的、技術的実現の可能性を問うスタイルが、彼ら(「世界建築家」としての近代建築家)のものである。そして、そのプロジェクトの実現については現実の諸条件によるが、やがて科学技術の発展がそれを可能とすると考えるのが彼らである。六〇年代初頭における未来都市の諸プロジェクトが具体化されなかったのは、社会的な条件が整わなかったからであり、決して、それ自体に問題があったからではなく、いってみれば早すぎたのである。高度成長期には、重工業に重点的に投資がなされ、社会資本としての建築や都市に資本を行う余裕はなかったのであるが、世界でも一、二を争う経済大国となった現在、ようやく、かつてのプロジェクトを実現する機会が訪れた。今こそ、後世に残る都市の建設が行われる必要がある。おそらく、この間の東京大改造を推し進める建築家の意識は、以上のようであろう。

 もちろん、歴史的にこの四半世紀を評価するのは、後世の歴史家の役割に属することである。われわれに問われているのは、建築の六〇年代についての批判、あるいは近代建築批判の行方である。もし、この間の東京異常現象を前にして、建築家や都市計画家がただ手をこまねいて実態の推移を見守るしかないのだとすれば、それ自体無意味と化すのではないかということである。

 まず確認されるべきことがある。一つは、この間の近代建築批判が必ずしも地についたものではなかったことである。もとより、近代建築批判の課題は、単なるデザインの問題ではない。土地と建築、空間のあり方、あるいはテクノロジーのあり方の根底にかかわっており、それゆえ、すぐさま解答が見いだせるようなそうした課題ではないことは明らかなことであった。しかし、この間の近代建築批判は、単にデザインの問題に終始してきたきらいがある。いとも容易に、アンチテーゼが提示され、多様なデザインが現れてきたのであるが、それらはやがてポストモダンのデザインとして一括され、根底にある問題はむしろ覆い隠されてしまったのである。華々しいポストモダン建築論の展開にもかかわらず、現実の空間のあり方を規定してきたのは、この間の地価狂乱を生み出す、そうしたメカニズムである。近代建築批判の提起、ポストモダン論の展開、そして、ポストモダニズム批判という形で議論の円環が閉じられようとしているのだとすれば、問いは正しく振り出しに戻ったといっていい。現代資本主義社会における空間の生産と消費のメカニズムに対して、それをどのように批判するか、そして、その批判をもとにどのような建築や都市のあり方が構想できるかが、そこでの一貫する課題である。そうした初発の問いと、それがいつのまにか見失われてしまってきたことを今更のように思い起こさせるのが、この間の地価狂騒である。

 さらに、もう一つ確認されるべきことがある。この間の都市論、東京論の隆盛の役割と位置づけについての確認である。個々の論者の論や視点の差異はもちろん問題とされなければならないが、全体として指摘しうるのは、都市批判の視点が希薄化していることである。あるいは、否、都市論をめぐっても、近代建築批判の問題と同じような問題を確認できるであろう。この間の都市を読む諸作業は、それぞれに近代都市のあり方についての批判を、意識的にであれ、無意識的にであれ、含んでいたといっていい。都市が歴史や記憶や自然を重層化させて生きたことを、さまざまに指摘し、再発見していくことは、ますます均質化し、場所との固有なかかわりを失いつつある現在都市に対する批判の作業である。しかし、単にそうした都市の記憶を再発見し、指摘するだけにとどまるとすれば、それだけのことである。問題は、現代の都市を規定しつつある支配的な理論とそれぞれの都市を読む視点が、どうクロスするかである。都市論ブーム、東京論ブームは、都市を読む楽しさを増幅するのみで、その基本的な問いを覆い隠すのである。

 先端技術を駆使した未来都市のためのビッグ・プロジェクトが具体化しつつある一方で、ポストモダンの都市論が専らレトロブームを拡大させつつあるのは奇妙な構図であるが、互いに相補的であることは明らかであるし、もし、歴史が前者の方向にあるとすれば、おそらく、後世の歴史家は、後者を、都市が歴史や記憶を失っていく過程における悲鳴にも似た作業なり現象としてクールに位置づけることになろう。それにしても不思議なのは、今都市において起こりつつあることを記録する構えを取った都市論が、いっこうに浮上してこないことである。都市論ブーム、東京論ブームがいたずらに過去への関心のみを喚起し、都市の楽しさのみをうたい上げることにおいて、都市の負の現実を見ないとすれば、あらかじめそれを覆い隠す役割を担っていると見ていいのである。

 この間の東京一極集中異常現象をめぐって、土地政策、住宅政策など公的施策の問題を指摘するのはある意味では簡単である。公的施策がほとんど無策に近く、またしても後手後手に回ってしまったことについては、うんざりするほどの指摘がなしえよう。まして、この間の大都市圏を中心とした地価狂乱が公有地払い下げによる民活路線によって引き起こされてきたことについては、何をか言わんやである。

 しかし、公的機関の無策や制度の不備を指摘するだけでは、問題の半分を指摘したことにしかならない。暗然として指摘せざるをえないのは、問題の半分がわれわれ自身のうちにあるということである。いうまでもなく、この間の地価狂乱を支えているのが空前の住テクブームであるということである。もちろん、資産をもっている層と資産をもたない層とでは、全く事情が異なっているといってもいい。しかし、わずかの頭金で行われるワンルーム・リースマンションへの投資がいい例であろう。住テクはすでに一般化しているのである。空間の生産と消費のメカニズムを、いってみればわれわれ自身が支えているのである。問題の根は深いといわざるをえないのである。

 問題は、もちろん、ひとり建築や都市計画の分野のみの問題ではない。単純な処方箋がただちに見つかるとも思えない。むしろ、警戒すべきは楽天的な理論がばらまかれることである。かといって、突然のカタストローフやローンの一斉不払いといった事態を夢想するだけでは、ラディカルかもしれないけれど、建築家や都市計画家としては怠惰のそしりを免れない。すでに幾度となく繰り返されてきた結論ではあるが、土地と建築の根源的な関係、空間の新たなあり方と、制度をめぐって具体的なプロジェクトを積み重ねるなかで、試行錯誤を繰り返すほかあるまい。少なくとも再開発なら再開発において、何が起こるのか、批判的に記録しておくことが必要であろう。たかがこの四半世紀の経験ですら、いとも簡単に忘れ去られるのである。




*[1]

2024年8月14日水曜日

ロスト・アイデンティティの世界:建築1979,螺旋工房クロニクル024,『建築文化』,197912

 ロスト・アイデンティテイの建築界

 

 公取問題

  一九七九年九月十九日、公正取引委員会(橋口収委員長)は、日本建築家協会(海老原一郎会長 略称「家協会」)に対して「違法宣言審決」を下した。建築家すなわち建築士事務所の開設者は、独占禁止法にいう事業者か否か、また建築事務所の開設者を構成員とする家協会は事業者団体か否か、をめぐって一九七六年三月一八日の第一会審判以来二三回にわたって争われてきた問題について、一つの結論が出たわけである。

 審決主文*[i]は、各紙で報道されたとおりである。要するに、審判開始時に違反とされた行為、協会独自の報酬規定、建築設計競技規準中の会員の参加制約および賞金、報酬規定、憲章中の報酬競争禁止等を自主的に廃止、排除することにおいて、現在は事業者団体に該当しなくなっており、家協会に対して格別の措置を命じない、というものである。この公取審決に対する家協会の対応を中心とした位置づけは、「公取審決ーー家協会は職能団体の筋を守れたのか」*[ii]や「公取委の審決を受けて」*[iii]などにおいて、すでに出そろっているといえるだろう。

  「家協会としては、憲章や諸規定の改廃という大きな損失と犠牲を出したわけだが、とにかく職能の基本理念が認められた点に意義を認めようとしている。ところが、これを報道した一般紙は、主文の前段に視点をすえ、「建築家協会に独禁法違反の事実」「自由業といえどもカルテル行為があれば事業者と認定」といった記事を一斉に流したため、当の家協会会員をはじめ、建築界全体に大きなショックを与える結果となった。従って、ここ当分の間、日本建築家協会はその総力を挙げて、審決の全貌を正確に周知徹底させ、一般紙によって生じた同協会のイメージダウンの回復を図らなければならないようである。」*[iv]というのが、比較的冷めた一般の反応である。

  指摘されるように、いわゆる「公取問題」は、家協会という団体の事業者性だけに限って争われたものである。審決は、個々の会員の事業者認定については意識的に言及するのを避け、かつて存在したその「カルテル」行為についてのみ焦点を当てたものである。家協会の理念化する建築家像なり職能の問題は、はじめから公取委の関心の埒外に置かれていたといってよい。もともと、かみ合わない論争であり、家協会が法的裏付けのない建築職能論を振りかざすことに、社会的に意味はあるにしても、独禁法に抗するには自ずと限界もあったのである。

 

 日本建築家協会と「建築家」

  ある意味では、七〇年代を通じて問われ続けてきた公取問題は、内部告発に端を発したことが示すように、家協会自体の問題であったといいうる。問われたのは、必ずしも建築家とは何かではなく、家協会とは何か、その団体の事業者性だけだからである。理念ではなく、具体的な家協会の存在形態が現実のコンテクストの中で問われたのである。建築界全体の共有化された問題として必ずしも問われなかったように思えるのは、それ故にである。しかし、問題自体は極めて象徴的に、建築をとりまく状況を示しているということはできよう。

  西欧の一九世紀的な建築家の理念と日本の現実との乖離は、明治以降一貫して問われてきたはずであり、その乖離は広がりこそすれ狭まることはなかった、というのが僕らの認識である。それはついに定着することはなかったと言ってもいい。何よりも、家協会の特異な、特権的な存在自体がその乖離を示していたはずである。そして、公取問題を契機として、その理念と現実との乖離は、最終的に家協会の内部矛盾として露呈してきたと考えられるのである。

  いわゆる建築家の理念、職能の理想を掲げ、それを体現していることを自負する家協会が、その矛盾を引き受けるのは当然といえよう。しかし、そうした意味での建築家はすでに解体していると考え、その理念の有効性をすでに根底的に疑ってかかるものにとっては、事業者団体としての届け出を出さなくても済んだから「まずまずの成果」であるとか、「公取委の首脳部にも見識の持ち主」がいて、かろうじて職能の灯が残されたという意識がほとんど問題にならないことはいうまでもない。「自由業にも独禁法のメス」というのが世の趨勢であり、グローバルなプロフェッションの危機において、職能法の成立の見通しも暗い中で、そうした理念が具体的な指針たりえないことはすでに明らかだからである。

 「職能法請願の国会デモをやるというのはいかがなものか。負けっぷりの良いことも武士のたしなみ、デモなどという女々しいことはやらず、敗戦処理として建設省通告による二五条の報酬規定ーことにそのポイントの技術料の適用など、研究すべきではあるまいか(どうなれば廃棄した料率と同じ結果になるのかといった現実性を含めて)」といった見解*[v]や、「入札をしない会」(鬼頭梓*[vi]ほか)の発足がまだしも具体的な対応を示している。

  事業者団体としての届け出を出さなくても済んだ家協会、体質改善した家協会とは何か。現実にいかなる力をもち得るのか。そこには、多くの議論がすでにある。

 理念や精神や倫理の問題を純化させていくのが一つの道であるという。しかし、そうした理念や精神や倫理がいかにもろいものであるかは、歴史の教えるところでもある。

 職能防衛から文化活動へ、ウェイトを移行する(せざるをえない)のだという。確かに文化としての建築という視座は広範に意識化されつつあるといってよい、しかし、ある意味ではそれも言われ続けてきたことである。文化としての建築とは何か。家協会の問題に即していえばそれが、エリート建築家の文化サロンの枠の内にとどまるのか、より広範な問題領域を組織していけるかどうかはこれからの問題である。いずれにせよ、そこでは、これから何ができるか、いかに闘っていくのか、何を創り出していくのかという問いが投げ出されているだけなのである。

  僕らは、すでに、日常的な行為の中で、具体的にそうした問いを問いつつある。全く新たな「建築家」像が生み出されるとしたら、その中にしかない、というのはむしろ前提である。過去の建築家像を理念化すること、安易な建築家幻想は有害ですらある。建築界の分断化された状況の中で、むしろ、関係ない、というのが、とりわけ若い世代の偽らざる実感であろう。そうした意味では、状況は絶望的であるといってもよい。公取問題は、それをこそ確認させるのである。

  それが、僕らの八〇年代を前にした出発点の状況であり、そうした意味でのみそれを記録にとどめておく意義があるといえるであろう。

 

 芸術かウサギ小屋か

  「「芸術」かうさぎ小屋か」*[vii]という軸によって、「近代日本の建築界」を切ってみせたのは堀川勉である。彼は、「歴史の真の争点はいつの時代にあっても隠されている」(花田清輝)、「建築も政治と全く同様に巨額の金銭の移動をともない、権力の物質的装置として機能するために容易にその素顔を窺うことができない」といいながら、次のようにいう。

  「ここで端的に「近代日本が建築界に与えた状況とはいかなるものか」と問うとすれば、それは建築界における様々な分断的状況であると答えることができる。そのうち最大の分断的状況が、建築生産の商品化としての側面と、建築の芸術としての側面への分断である。前者がウサぎ小屋をそれとして意識せずに、資本主義生産にはげむための理論や技術の生産に従事する多数派(ウサギ小屋派=非芸術派)であり、後者がウサギ小屋を漠然と感知しながら、自己の大衆性を認めず自己と大衆を切り離し、ウサギ小屋の存在から眼を逸らせて「芸術」としての建築を疑わない少数派(「芸術」派)である」。

  もちろん、こうした構図はいささか乱暴であり、建築非芸術論争*[viii]の枠を出てないように見えるかもしれない。しかし、堀川が、その「両派が分離することも、あるいは中立の立場でどちらの派にも属さないことも不可能な事情」を、建築をめぐる概念の全体性と部分性において問題にするとき、少し異なった脈絡を提示しているように思えるはずである。彼は、分断的二重構造が一挙に露呈し固定化してきたのは、「芸術の完全なる自立もまた、政治の優位性理論が誤っているように、ありえないことを浮かび上がらせた」一九三〇年代であったという。その時代に「ほとんどの建築家が芸術についての物神崇拝に陥り、芸術と芸術品の区別がつかなくなり、今日のように芸術の抜け殻を愛するようになった」、「ウサギ小屋の生産を理論的に否定できるのは本来彼らだけであり、彼らの責務であったのに、それが不可能であった」というのである。僕らの置かれている状況は、少なくとも、そうした歴史的パースペクティブにおいても確認さるべきものと言えるであろう。芸術とか文化を不用意にもち出しても始まらないのである。

  堀川勉は、「建築の問題が大衆の存在をかかえ込みながら、実は完全にスレ違ったレヴェルで展開されてゆく」今日の状況において、「建築生産が社会的に〈生産ー分配ー消費〉されるべきものであるなら、社会(主義)政策=国家政策=芸術行為であるような建築論(それは建築論ではなくなっている)がまず生み出されなければならない」という。こうした言い方が多くの問題を含んでいることはいうまでもない。しかし、建築家は事業者ではないといった議論の平面を抜け出ることにおいて、はるかにポレミカルである。

 宮内嘉久*[ix]の「持たざる建築家の肌理、反・特権的マイスター論のために」*[x]0が唯一それに答えている。彼は、芸術派対ウサギ小屋派の対立図式に、もう一つの隠れた眼差し、専門職業(プロフェッション)にまつわる「特権」(「この隠微にして魔性の力。それは支配的階級の中からの距離によって測られ、かつ支えられる」)に対して注がれるべき眼差しを付け加える。彼のいう、「特権をもたない建築家」は、今のところ中世の棟梁、ロマネスクのマイスターを理念化することにおいて、いわゆる近代における「特権的建築家」像を裏返しているにすぎない。過去における建築家像を理念化することにおいては、パラレルだ。「はだしの建築家」という理念についても、中国なら中国のコンテクストにおける建築家像を理念化することにおいて、同じような問題を指摘しうる。しかし、そうした眼差しがポレミークをさらに広げることは確かだ。それを具体的コンテクストにおいて問題とする意味は少なくともあるからである。

 

 野武士たち

  建築家の概念あるいはアイデンティティが厳しく問われつつある今日の状況の中で、建築ジャーナリズムの表層で飛び交う、とりわけ若い建築家たちの言説は、状況に潜むそうしたポレミークとは一見無縁であるように見える。彼らは、最も皮相なレヴェルでは、「状況からの自立」、「建築の自立」を標傍しながら、「とんでもない目を疑うような形態」の作品をひっさげて、「わけのわからない建築論」をふり回しているように一見みえる。「平和な時代の野武士たち」*[xi]1と槙文彦は、若い建築家の作品を丹念に見て回った後、彼らをそう呼ぶ。彼は「都市が今日どうしようもないから、また都市と建築を分離して〈芸術的建築〉に向かう姿勢が、そして都市問題は他の人たちのすることとする風潮が、若いジェネレーションにもかなり浸透しつつある状況に私は深く考えさせられてしまう」というのである。「平和な時代」というアイロニカルな規定も、「野武士たち」という呼び方も、総合建築時評と銘打った文章の内容自体も、槙自身の建築界における位置、位相をうかがううえで極めて興味深いものであるが、若いジェネレーションに対するそうした見方は、すでに一般化されつつある。そうした声は次第に強くなりつつあるといってもよい。

  しかし、そうした若いジェネレーションの、一見、無秩序な現れ自体が状況そのものを物語っていることは認めねばならない。「より広い社会的コンテクストを持った戦場」にのぞんで欲しいと槙はいう。都市に踏みとどまっているという自負がそういわせるのであろうか。けれども六〇年代初頭に一斉に都市づいていった建築家が、後退に後退を重ねてきたのは紛れもない事実である。彼は、磯崎新*[xii]2と篠原一男*[xiii]3の「猥雑な都市はどうしようもないから自分の建築は防御型か攻撃型にならざるを得ない」という意見と感慨を、危険な悪影響を及ぼすものであるというのであるが、問題は影響などという次元にはとどまらないのである。また、「社会的コンテクストを持った戦場」へという言い方は、〈芸術派建築〉との抜き難い対立図式を前提とすることにおいても、必ずしも説得力をもたない。その最良の部分においては、〈芸術派〉でも〈社会派〉でもない、そうした図式を越えたところでさまざまな模索がなされていると見ることができるからである。

  若いジェネレーションを「平和な時代の野武士たち」と位置づける槙に対して、より積極的に評価し、位置づけ、その存在の意義を徹底的にとらえ返そうとするのが鈴木博之である*[xiv]4。その作業は、例によって極めて党派的である。雑誌『エピステーメー』から抜書きのような建築論を振り回すエピステーメー派とか、日本においては形態遊戯の域を出ない「ナショナリズム」は、評価が薄い。建築史家としての鈴木のこうした腑分けは、大いに興味深いのであるがここではどうでもいい。問題は彼が「現実の社会に対するアクチュアリティ」において、若いジェネレーションを評価することである。「アクチュアリティをもち、しかも方法論を芸術至上主義的な概念や手法としてアクセサリー化せず、ある意味では強引にアクチュアリティに直結させてしまおうと目論んでいる建築家たちが、今やさまざまに出現しつつあるのである。それぞれの方法論は異なっていようとも、方法論と現実に対するアクチュアルな行動との接続の仕方において、彼らは共通している」という彼の位置づけは、明らかに槙文彦の位置づけとはずれている、あるいは逆のヴェクトルをもつものであるといってもよい。

  また、鈴木は、その共通項を「私的全体性」なる概念でとらえようとしているかにみえる。日本において必要だったのは「国家意志の造形に身を捧げる主流としての建築観か、あるいは私的世界の全体性を確保するアーキテクト像のいずれかだったのである」と乱暴にいいながら、「全体性という概念を世界の立場からではなく、私の立場から据え直したときに、まだまだ豊かな建築的可能性が現れてくるように思われる」というのである。

 こうした鈴木博之の若いジェネレーションの位置づけは大きな問題をはらんでいると思う。私を支える基盤が問題となるとき、国家に私性を対置してもはじまらないのである。私性とは何かがもっと問われてしかるべきであろう。「郊外の住宅地が巨視的にみれば疎外された近代人の巣箱にすぎないとしても、そこには私的な全体が込められている」というのも首をかしげざるをえない言い方である。疎外された近代人の私的全体性とは何か。早速、富永譲の住宅には私的全体性がない、といった訳のわからない批評が出されたりするのもおかしな話である。少なくとも、私的全体性なる概念を国家や世界に対置することによって、若い世代を位置づけることは有効ではないように僕には思われる。

  いずれにせよ、少なくとも建築ジャーナリズムの世界では、絶望的な分断化された状況を背景としながら、ここしばらくの間、そうした若い世代の評価をめぐって議論が続くであろう。皮相なレッテル張りや線引きの争いのレヴェルではなく、新たな建築論の構築を目差して生産的な議論が積み重ねられる必要がある。

 

 閉じた建築言語

  こうした、建築をめぐる議論の場は狭い。極めて限定されているといわねばならない。それをとりわけ象徴的に示したのが山口瞳の「建築文化」*[xv]5と、村松貞次郎の「いわゆる建築以前の文章について」*[xvi]6である。直接的には、いずれも建築家の文章について、日本語としてなっていないという指摘である。これについては、志摩康介の「俗の視界」*[xvii]7が正当な位置づけを与えているのであるが、単に文章レヴェルの問題ではなく、建築をめぐる議論の場の問題として受け止めねばならない、というのがその一つの総括だ。

  「他のジャンルとの共通のボキャブラリーというのが、お互いの恣意的な部分をとり払った後に残る最大公約数であるなら、いまのところ建築の側からその公約数を拡大するほかあるまい」と志摩はいう。また「一般のメディアにおける建築の議論の活性化という部分にも可能性は求められてはいるが、現状は文化全体との強烈な浸透圧の差によって、建築の断片が吸い出されていき、やがては雲散霧消せざるをえないといった観がある」ともいう。

  おそらく、ものとことばをめぐって、根本的な議論がなされることがその一つの前提であろう。いわゆる記号論にしても、篠田浩一郎の「構造的思惟と美学」*[xviii]2が言うように、視覚言語あるいは建築言語と言語との基本的な関係を踏まえる作業を抜きに展開されているのは致命的である。記号論自体が知のファッションと、とり違えられかねない状況の中で、その用語自体を無批判に借りてきても何の意味もないのである。

  知根源的なあり方を問うこと、建築の側からそうした問いを発していくこと、それはある意味では、今日の状況における建築家の一つの戦略でもある。裏返せば、そうした状況に追い込まれているといってもよい。「文化としての建築」といった言い方が盛んに口にされるのも、同じ位相である。しかし、それはいかに可能か。インタージャンルに建築の言葉を開いていくことは容易ではない。それ以前に建築の言葉を研ぎすます必要があろう。そうしたレヴェルにおいてもまた、建築(の領域)のアイデンティティが問われているといえるのである。

 



*[i]

*[ii]  『日経アーキテクチュア』、七九年一〇月一五日号

*[iii]  『新建築』、七九年一一月号

*[iv]  K/B NEWS、『建築文化』、七九年一一月号

*[v]  浦辺鎮太郎、「公取委問題私見」

*[vi]  鬼頭梓

*[vii]  『日本読書新聞』、七九年六月四日号

*[viii] 建築非芸術論: 野田俊彦(一八九一横浜生~一九二九)の東京帝国大学工学部建築学科卒業論文。「建築非芸術論」(『建築雑誌』 一九一五・一〇)「建築非芸術論の続」(『建築雑誌』 一九一六・一二)。素朴な「用美の二元論」が前提される明治から大正にかけての建築界にあって、徹底した合理主義建築論を展開するものとして大きな議論を呼んだ。平行して「虚偽構造」(シャム・コンストラクション)をめぐる議論(建築構造はそのままファサードに表現されるべきだという主張)もあった。

*[ix] 宮内嘉久 一九二六年東京生~。東京大学第二工学部建築学科卒業(四九)。建築ジャーナリスト、編集者。『新建築』『国際建築』の編集を経て、建築ジャーナリズム研究所設立。一貫して建築ジャーナリズムの確立に尽力する。『建築ジャーナル』誌顧問。『廃墟から』『少数派建築論』など。また、『一建築家の信条』『前川國男・コスモスと方法』など前川國男の仕事をまとめることに尽力する。

*[x]  『日本読書新聞』、七九年七月九日号

*[xi]  『新建築』、七九年一〇月

*[xii] 磯崎新 いそざき・あらた。一九三一大分~。建築家。東京大学建築学科卒業。丹下健三に師事する。磯崎新アトリエ設立(六三)。「大分県医師会館」(六三)以降、「群馬県立近代美術館」(七四)「筑波センタービル」(八三)「バルセロナ・スポーツ・パレス」(九〇)など多くの話題作がある。一九七〇年代から八〇年代にかけて、一貫して近代建築批判を展開し、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」など様々なキーワードを提示するとともに日本の建築界をリードした。著書も『空間へ』、『建築の解体』、『建築の修辞』、『建築という形式』など極めて多い。

*[xiii] 篠原一男 一九二五静岡~。東京工業大学建築学科卒業(五三)。同助教授(六二)、教授(七〇)。「久我山の家」で住宅作家としてデビュー。「住宅は芸術である」という金言とともに作品としての住宅の水準を打ち立てる。「から傘の家」「白の家」「地の家」「未完の家」など数多くの傑作を世に問うた。一連の住宅作品で日本建築学会賞(七一)。理論家としても知られ、建築のポストモダンについても発言を続ける。「東京工業大学百周年記念館」「熊本県警察署」など。

*[xiv]  「貧乏くじは君が引く」、『新建築』七九年九月号、「私的全体性の模索」、『新建築』、七九年一〇月号

*[xv]  『週刊新潮』、七九年八月二三日

*[xvi]  au』、七九年三月号

*[xvii]  『建築文化』、七九年一〇月号

*[xviii]  『建築雑誌』、七九年四月号