方法としての「戦後建築」
「近代建築は人間の建築である。その故にこそ近代建築を可能ならしめるものは人間への限りない愛情を本質とする『在野の精神』に対する深い理解と遑しい自信とでなければならない。
単一人類の実現へと向ふ世界歴史の必然からしてここに言語につくし難い困難な時に恐らく前代未聞の「近代」を辿らねばならない我々の同胞の運命を思ふ時の近代建築の果さねばならない責務の大きさを思はずにはゐられない。ならば機能の満足による調和の実現、云ひかへれば人間性の幸福な発展をあくまで追求する近代建築精神一般はーーー単に建築をその対象とするだけにとどまらずーーー家庭日用生活器具の設計から都市計画、農村計画、国土計画、更に政治経済の凡ゆる人間形成の基本的原理としての意味をもつと考へられるからである。並に我々の近代建築精神の陶治と大方の愛情と理解とを希って我々の貧しい論抄の刊行を決意し、これを「PLAN」と名づける。」*[i]
戦後五〇年を経て、「戦後」は最終的に死語になりつつある。あるいは、完全に歴史になりつつある。しかし、「戦後」の抱えた問題はこれからも繰り返し問われることになろう。戦後建築の初心を表す言葉が「PLAN」である。「近代」あるいは「PLAN」が輝いていたのが戦後間もなくである。七〇年代末に「戦後」評価をめぐる議論があった。昭和五〇年を経て、戦後も三〇年を超えた段階で、「戦後」を歴史的に総括する時期が訪れたということであろう。以下の文章は、「八〇年代の建築が語り出されるまえに」という副題がつけられていた*[ii]。「戦後」という枠組みは、八〇年代末に至ってその解体が確認されるのであるが、その十年も前から既に議論が展開されていたことは記憶されていい。「方法として」「戦後建築」を問題にする意味は意識され続けていたのである。
江藤淳と本多秋五の戦後評価をめぐる論争*[iii]が波紋を広げつつある。焦点はもっぱら、ポツダム宣言における無条件降伏の意味、それを一つのクリティカルな争点とする同時代認識をめぐって、戦後(文学)を一挙に無化してしまおうとする、近年とみに「政策」イデオローグ(「治者」のイデオローグ、国家自立のイデオローグ)としての立場を露わにしてきた江藤淳の役割、身振りである。すかさず、真継伸彦、中上健次等のコメントが出され、やがて、秋山駿*[iv]や岡庭昇*[v]、また、南坊義道*[vi]、さらに大江健三郎*[vii]を巻き込みつつある。
このいわば《ポツダム宣言論争》とでも呼ぶべき応酬は、いたずらに江藤淳の政治的な役割を浮彫りにし、論争それ自体、本多・江藤が「互いにそれぞれの立場で、物語、小説の定型に手玉に取られている」(中上健次)ものにすぎないと言えるかもしれない。しかし、そこに、戦後そのもの、なしくずにされつつある戦後そのものを根底的に問い直す契機が潜在していることは確かである。
それは、かつて六〇年代初頭の佐々木基一の「『戦後』は幻影だった」に端を発する「戦後文学」論争*[viii]とは位相を異にしつつあるし、六〇年代末以降の戦後批判を経過することにおいて、また、政治的コンテクストと否応なく絡められることにおいて、今日における切実な課題となりつつあるはずである。いわゆる「意匠としての戦後否定」をそれは超えねばならないのである。
そうした意味で、岡庭昇が、「体制イデオローグである江藤氏がなにやら「ポツダム体制打破」を呼号し、本多氏が擁護にまわっている皮肉さ」を揶揄し、「この論争が共有している(してしまっている)前提を、つまり場の成立そのものを認めない」としながらも、「ただ、思想的に不毛であれ、場そのものが虚構である指摘をとおして、「戦後の敗退」を積極的な契機に切りかえてゆくための、重要な手がかりを提供しているとおもう」と引きとり、大江健三郎が「批評家よ、戦後文学をその最低の鞍部で越えるな、それは誰の得にもならないだろう」という、かつての本多秋五自身の言葉を冒頭に引きながら、「江藤淳の提出した疑義を契機にして、僕はあらためて戦後文学、戦後文学者について読んだり考えたりすることをした」と、より根底的に「日本文学、戦後文学を決して後退のおこらぬ、後退しえぬ一点にまで、はっきり推し進める契機ともなりえるもの」としての竹内の戦後(文学)批判を引き受けようとすることは、真摯で正統な態度というべきであろう。
江藤淳の論の展開に含まれる多くの矛盾、そのドラスティックな軌跡(転向)、現在担いつつある政治的役割とその内的、外的必然性については、批判者がこぞって指摘するところでもあるし、多言を要しない。矛盾や転向の指摘は、そうした実証的、論理的批判を超えた「尊王攘夷」的「ナショナリズム」や秩序防衛のイデオロギーのアジテーターの役割をますます明らかにするのである。問題はこの江藤淳の戦後批判をどうとらえ直すかである。そこに示される同時代認識をどうとらえなおすかである。
一方で、大江健三郎と岡庭昇の江藤批判の差異は興味深いと言わねばならない。岡庭が論争の場そのものを認めないのに対して、大江は明らかにその場を前提としながら、六〇年代末の『万延元年のフットボール』をめぐる江藤との決定的対立、絶交(江藤・大江論争)をひきずりながら、反江藤の立場を展開しようとしていることにおいて、結果として、本多(近代文学派)擁護、戦後文学擁護(もちろん、全面肯定ではありえない)を引き受けようとする。そこには、すなわち、世代の差を含めた「近代文学」(派)の評価にかかわる差異があるのである。また大江が、作家として、文学表現の問題としてとらえようとするのに比して、岡庭は、政治的なコンテクストを含めたより広いコンテクストにおいて「戦後の敗退」をとらえようとしているとも言える。したがって、文学論のレヴェルでは、この論争の場そのものとは別の派絡を提示する中上健次を大江に比すべきと言えるかもしれない。しかし、いずれにせよ、それらは基本的には、僕らの同時代認識をめぐって展開されつつあるのである。
江藤淳の同時代認識は「戦後文学は仇花」あるいは「戦後文学はそもそも存在しなかった」とまで言い切りながら、存在する唯一の尺度として「昭和文学」という範疇を提出するところですでに明瞭に示されてきた。菅孝行*[ix]や岡庭昇*[x]0が、その「昭和文学」というカテゴリーの提出をめぐって執拗な批判の作業を展開してきているのである。すでに、この新たな論争の種はまかれていたといってよい。まさに、そうした脈絡において、江藤淳は新たな攻撃の対象として本多秋五を選んだにすぎないのである。その同時代認識り差異は、菅孝行の次のような方法意識において鮮明に浮かび上がっていると言えるであろう。
●彼(江藤淳)は、戦後(あるいは少なく見積もって戦後文学)において「確立された価値の再検討」を通じて、それを否定し、昭和に「確立された価値」の根拠に回帰することになる。すなわち、ここでは連続面が価値に連なり、非連続性が虚妄とされる。
これに対して、例えば私が、戦後を問題にする立場は、全く異なっている。江藤が「昭和に確立された価値」を自らの尺度としてとり込んでいるのに対し、それを批判の対象と考えるのである。すなわち、「昭和」の連続性を支える、ひとつの「確立された価値の再検討」をめざしている。したがって戦後過程とは、昭和期前半の二〇年間に「確立された価値」を再検討し、その価値の根拠を解体し、新たな未成の価値の根拠を再形成する過程であることによって、昭和=戦前・戦中の過程に対して非連続であるべきものでありながら、それを貫徹しえなかった過程であるとみなすほかはないのである。
●昭和に形成された「価値の再検討」の話題は、昭和の廃絶であるというしかないだろう。当然、昭和史をひとつの連続性たらしめているものは、決して普遍的な価値の根拠たりえないし、決して日本の地域的特殊性を、世界性へ到達せしめ得ないという判断を前提としている。
●昭和は、まさに廃絶すべき負の対象として連続している、というべきであろう。断じて、昭和は、戦後を否定して回帰すべき、正の価値の根拠として存在しているのではないのだ。(「文学における〈昭和〉の廃絶」)
岡庭昇も、ほぼその問題意識を共有し、戦後に「近代」を願望する誤謬を正確に指摘しながら、次のように言う。
●わたしは、十五年戦争下の時代、つまり戦前の昭和は、明らかに転形期とみなされるべきだと考える。むしろ、日本近代における、最も可能性にとんだ状況だったのではないか。“昭和”とは、ひと言でいえば危機と戦争の時代である。明らかに日本的近代という虚構の支配原理が、危機に直面し、危機をのりこえるために戦争という、よりデフォルメされた形姿をもとめざるをえなかった。言い換えるなら、日常が物語たりえなくなりかけたとき、はるかに物語らしい物語である戦争が用意された。
●わたしは、国家は昭和をひとつながりのものとして自立しており、十分にそのことに自覚的である。といった。もしわれわれが、十五年戦争下を転形期としてとらえなおし、よくその思想的な可能性を再評価しなおしつつ、戦後をわれわれの手によって撃つことができなてなら、ついに物語の外に出ることはできない。否「敵」に釣り合うことさえ、できないはずである。(「江藤淳――物語のなかの演技者)
●昭和文学などという特殊なカテゴリーは、実は存在しない。日本の近代文学は「昭和」も「戦後」も決定的な転換のメルクマールとはさせないほどに一貫した負性としてある。ただ、あえて昭和文学というカテゴリイをたてるとすれば、「日本近代の文学表現を縦につらぬく「規範」の成熟と衰頽のときという観点においてであり、それはそのまま日本近代というフィクシャスな共同性規範が「露出」した時代という意味で、重要な視座となりうるのである。(「昭和文学の視座」)
こうした、菅や岡庭の方法意識を僕もまた共有する。日本の近代建築をとらえる際に欠かすことのできない視点がそこにあるからである。江藤・本多論争に、建築の現在が引き受けねばならぬ問題への解答の契機も含まれているはずなのである。例えば、川添登が戦前・戦後の連続性を正のものとしてとらえ、近代天皇官僚建築家(吉田鉄郎、丹下健三等)に対して、村野藤吾、堀口捨巳、吉田五十八、白井晟一の再評価を主張し、また戦時体制下における国民建築、国民住居の重要性を強調するのをみれば、問題の偏在は明らかではないか。
また、「昭和建築」という範疇をつとに提出したのは長谷川尭であった。もちろん、それをネガティブな契機として提出することにおいて、その役割は江藤淳のそれではない。しかし、彼は「大正建築」の再評価、その裏返しとしての「昭和建築」=近代合理主義の建築の否定に急で、「戦後建築」そのものを一挙になしくずしにする役割を担いかけはしなかったか。また、例えば「日本の現代建築」*[xi]1が「戦後建築」をとらえ返そうとするとき、こうした同時代意識をめぐる議論が当然クリティカルに投影されるはずではないのか。
いま確かに、「戦後」という言葉はひどく色褪せてしまっている。その言葉のうちに含まれていたはずの、それ以前の歴史過程に対する断絶、批判、優位の響きはすでに失われているかのようである。とりわけ、六〇年代末以降の過程において「戦後なるものの幻影の中で太平の夢をむさぼってきた諸制度が根底的に問い直される」なかで、僕らは「戦後」なるものが虚構にほかならないことを嫌というほど思い知らされたのである。今にして思えば、「もはや戦後ではない」という宣言が経済白書によってなされた頃ほど「戦後」が信じられていたときはなかったのである。その頃を起点とする高度成長の終焉、あるいは五五年体制の崩壊といったさまざまな戦後の終焉に立ち会いつつある僕らには、戦後の過程は、ありうべき戦後がなしくずしに無化されていく過程にほかならなかったように見える。そして、そうした眼差しには、むしろ戦前・戦後がのっぺりつながって見えてくるのである。
僕は、六〇年代の建築に対するささやかな総括を試みながら、その過程に、戦前・戦後を通じて一なる昭和の過程や、さらにそれを含み込む日本の近代の過程をみていた。そこでは、自らの現在を直接的に用意した時代の具体的なコンテクストへのこだわりが先行しており、むしろ問題意識としては、抽象的、一般的に近代批判の問題をたてがちな思考を具体性のなかにつなぎとめようとするもので有ったのであるが、六〇年代の建築のあり様に対する批判は、即、戦後建築批判であり、ひいては近代建築総体に対する批判へつながっていくのである。僕らが担わされている問題はすでに戦前に用意されていたという意識がそこにあった。そうした意識は、すでに一般化されたものといってよいであろう。磯崎新の『建築の一九三〇年代』は、明らかに、そうした意識に貫かれたものである。三〇年代と七〇年代を重ね合わせる意識において、また、三〇年代における「日本的なるもの」をめぐる議論を五〇年代の伝統論の展開へストレートに結びつける視点において、戦前・戦後は一つの過程としてとらえられているのである。
しかし、こうした歴史意識によって必ずしも僕らに展望が開けるわけではない。それは、あくまで後ろ向きのパースペクティブなのである。もどかしいのは、同じ連続性において終戦の閾をとらえるにしても、ポジティブに捉えるか、ネガティブにとらえるかによって大きく歴史的展望を異にするにもかかわらず、それを明確に区別する指標が定かではない点である。僕らがいま痛切に意識していなければならないのは、六〇年代末以降に一挙に顕在化してきた近代合理主義、科学主義、進歩主義、テクノクラシーに対する批判が、観念のレヴェルではさまざまな反近代の意匠をまとった潮流へ容易に回収されていく構造をもっていたということである。
戦後的なるものは幻想にすぎなかった。そして、いま僕らはその戦後幻想の解体のはるか彼方にある。しかし、問題はさほど単純ではないのである。確かに、戦後幻想は否定されなければならない。それによって、僕らはすぶずぶの日本の近代を対象化することができる。けれども、戦後幻想の否定によって、ありうべき戦後そのものを否定することは不毛なことではないのか。菅孝行の言うように*[xii]2、戦後幻想が批判された止揚されなくならない理由は、それが、あたかも八・一五以前の歴史過程への非可逆的な総括の所産であることを装いながら、実はすり抜けの虚構であり、戦後性の名において死守されるべきものを解体し、戦前戦中の過程へと順接させるイデオロギー装置にほかならないからである。
戦後性の名において死守さるべきものとは何か。ありうるべき戦後とは何であったのか。終戦後まもなく、廃墟を前にして幻想されていたものは何であったのであろうか。
さまざまな反近代の意匠は、反合理のロマンの跋扈を許すことにおいて、戦後批判そのものを無化してしまう。そうしたとき、僕らの批判の原点は宙に舞うのである。ありうべき戦後を、あえて一つ指標としてたてねばならないとすれば、そうした趨勢を見据えるからである。そうでなければ、僕らは日本の近代の重さを暗鬱なる胃の腑の底で反芻するにとどまるだけである。
建築において、ありうべき戦後が一つの指標としてたつかどうかは知らない。戦後建築に、戦後幻想の解体の彼方においてなおかつこだわらねばならないものがあるかどうかはわからない。しかし、一挙に、より大きな歴史の過程を対象化するまえに、戦後性の名において死守すべきものについて思いをはせておくことは無意味ではないはずである。少なくとも戦後派世代にとって、戦後のもつ意味は計り知れなく大きいはずではなかったか。それは、僕らの想像力が到底届かない衝撃力をもち得ていたのではなかったのであろうか。
いずれにせよ、僕らは一度は戦後幻想のゼロ地点へ立ち戻ってみなければならないはずなのである。それは決して、心情的な、焼跡や廃墟への追憶やロマン的な回帰ではなく、菅孝行のいう「方法としての戦後」意識、思想の指標としてのありうべき戦後としての理念、抽象をもとにした歴史のレクチュールである。
もちろん、それは歴史をさまざまに時代区分して、作品や諸表現を文類し直したりする作業とは区別されねばならない。明治一〇〇年とか、昭和五〇年とか、戦後三〇年といった時間のくぎり方それ自体が問題ではないのである。少なくとも、僕にとって「昭和」は現在を批判的にとらえ返すための虚構のフレームでしかない。「ありうべき戦後」も、とりあえずの虚構の指標なのである。それきは単に「戦後」に「昭和」をもち込んだり、「昭和」に対して「大正」を、あるいは「近代」に対して「前近代」を代置することではない。
「現在を批判するのに過去をひき入れ、過去を批判するのに大過去をひき入れる方法は、ただただ過去へむかってユートピアを求めて遡及する倒錯した永遠革命のイメージしか構成することができない」のである。
やがて、八〇年代の建築についての展望が語り始められるかもしれない。否、ポストモダンやポストメタボリズムにかかわる議論において語り始められていると言うべきであろうか。その際、戦後建築が果たして仇花であったのかどうか確認される必要があろう。戦後建築史も、ようやく(否、すでに)書かれる時期に達したはずである。戦後建築の幻想の解体によって、確かに日本の近代建築の史的展開もよりよく見えてきたのである。そうした史的パースペクティブのなかで、戦後建築は本当に無化されるのであろうか。戦後建築は存在しなかったと言いうるのであろうか。
いずれにせよ、僕らもまた、こう言うべきであろう。「戦後建築」をその最低の鞍部で越えるな、と。