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2021年3月18日木曜日

現代建築家批評04 ボクサーから東大教授へ 安藤忠雄の軌跡01

 現代建築家批評04 『建築ジャーナル』20084月号

現代建築家批評04 メディアの中の建築家たち

安藤忠雄は、おそらく現在日本で最も著名な世界的建築家である。建築界における国際的知名度という点では伊東豊雄が安藤に並ぶと言っていいけれど、日本国内のポピュラリティでは群を抜いている。

独学で建築を学び、東大教授になり、さらに文化功労者となった、そのサクセスストーリーは、国民的関心を呼ぶに充分である。

丹下健三、黒川紀章に続く日本の建築家の代名詞が安藤忠雄である。日本の近代建築の歴史において、建築界の中枢を握ってきた学閥(スクール)の系譜を思う時、その存在は極めてユニークである。戦前に蔵前工業高校卒で、逓信省営繕の製図工から「創宇社」を興し、一躍時代の寵児となった山口文象、あるいは同じく独学で建築を学んだ白井晟一のような例があるが、時代が違う。メディアのありようが異なる。並行して、建築アカデミズムの地盤沈下がある。安藤忠雄を国民的スターにしたのはメディアの力である。また、安藤忠雄を必要としたのは時代である。誰もが建築家である、誰もが建築家になりうる、そんな夢を見させてくれるのが安藤忠雄である。

 

ボクサーから東大教授へ

安藤忠雄の軌跡01

布野修司

 

双子の安藤

安藤忠雄は、19419月13、大阪港区で生まれ、旭区の母の実家(安藤家)で祖父母に育てられる。間口2間、奥行き8間という。「空襲で焼け出され、疎開後に戻った大阪で住み始めた家は、下町の典型的な長屋街。良好な住環境と言いがたかったが、高密度ゆえの濃密なコミュニティがあり、何より子供時分の私には、木工所、ガラス工場といった町工場の存在が魅力的だった。」と書いている[1]

デビュー作は『住吉の長屋』であり、長屋で生まれた安藤にとって長屋は原点であるが、彼の作品群に「濃密なコミュニティ」の匂いはしない。安藤自身は、モノをつくる姿勢、作法のようなもの、モノづくりの厳しさ、喜びを知ったという。十代半ば、中学2年生の時に自宅の改造の現場に立ち会い、見慣れた薄暗い住まいが、光の導入によって変化を遂げる過程を眼の当たりにした感動を、建築を志した理由のひとつに挙げる。その生家のファサード写真をみると、なんとなく垢ぬけている。

双子の弟、北山孝雄(北山創造研究所)がいて、さらに下に弟、建築家北山孝二郎がいる。安藤は、1969に安藤忠雄建築研究所を大阪に設立することになるが、ローズガーデン(1977年、神戸市生田区)等初期の作品のいくつかは、弟の孝雄の所属していた、セツ・モードセミナー出身の浜野安宏が代表を務める浜野商品研究所[2]と共に実現したものである。僕らの世代が安藤忠雄の名前を知ったのはローズガーデンである。

北山孝雄は、プロデユーサーとして『神戸大丸界隈計画及びブロック30』、『ON AIR(渋谷)』、『函館西波止場』、『徳島市東船場ボードウオーク』、『亀戸サンストリート』など、実に多彩な活動を展開しつつあり、著作[3]も多い。大工の文さんこと田中文夫[4]棟梁から『大阪人 北山孝雄の 24時間』(1997年、東京ソルボンヌ塾)を頂いたのであるが、意外なつながりに建築の世界の縁を思った。稀代のインテリ大工として知られる大文さんは、その昔、亡くなった建築史家の野口徹[5]さんとともに浜野安宏と仕事をしていたことがあるのである。

建築あるいはまちづくりをプロデュースする双子の弟の存在は、安藤忠雄の仕事を考える上で極めて暗示的である。建築のプロデュースという仕事はこれまで全くなかった職域と言っていいからである。1962年から東京で仕事を始めた北山孝雄を通じたネットワークで多くの知己を安藤は得ることになる。

北山孝二郎は、ピーター・アイゼンマンとの共同作品「コイズミライティングシアターIZM」(1987-90年)でも知られる建築家である。一家の建築家としての才能は疑いがないところである。

 

安藤伝説

安藤は、工業高校を卒業後、独学で建築を学んだ、という。また、工業高校(大阪府立城東工業高校機械科)在学中17歳でプロボクサーとしてデビューしている。弟(孝雄)が突然ボクシングを始めたことに刺激を受け、ジムに通い始め、2ヶ月程でプロのライセンスを取得したという。ボクサー時のリングネームは「グレート安藤」。フェザー級。戦歴はプロ戦績通算831分―231337分け、という説もある。「安藤伝説」のふたつの柱である。真偽を確かめたことはないが、精悍な顔つきでファイティング・ポーズをとる写真が残っている[6]大阪工業大学短期大学部建築科(夜間部)中退というのが学歴であるが、通信教育で図面描きを身につけたのだというそして、友人の紹介でインテリア・デザインを手掛ける。建築事務所での短期勤務歴がある。長沢節が創った美術学校であるセツ・モードセミナーに参加したりしているから、浜野安宏との出会いもこの初期の暗中模索時代であろう。いずれにせよ、安藤は専門的な建築教育を受けていない。彼は、建築を学ぶ源泉として、しばしば旅をあげる。20歳の時に日本一周旅行を行う。また、1965年からヨーロッパへのひとり旅を試みている。ボクシングの試合で得たファイトマネー、設計事務所を転々としながらのアルバイトで貯めたお金を手に放浪して回ったというが、とにかく、建築を見て回りたかった、という。当時、建築界では、神代雄一郎、宮脇檀らがデザイン・サーヴェイを開始していた。1960年代初頭、日本列島のここそこには美しい集落や町並み景観がまだまだ残されていた。その風景に触れたことは安藤の原点であり続けている。

旅が建築家安藤を育てた。

日本一周もそうであるが海外への一般渡航が解禁されたばかりの欧州行にしても、ほとばしり出る青春のエネルギーがなせるわざである。インテリア、家具やグラフィック・デザイン、都市計画の仕事をしながら、建築雑誌を購読し、数多くの「教科書」を読んでいる。大学の講義の無断聴講もしている。太田博太郎の『日本建築史序説』を繰り返し読んだという。また、ヨーロッパへはG.ギーディオンの『時間・空間・建築』を携えていったという[7]

安藤忠雄は、原点において、「建築少年」であった。


事務所開設

1969年、大阪の梅田に事務所開設する。28歳の時である。その直前には大阪市立大学の水谷頴介の主催するTeam URに在籍し、再開発の調査、マスタープランを手伝っていたという。水谷頴介先生とは渡辺豊和さんの紹介で晩年何度か飲んだことがある。関西では知る人ぞ知る名物先生で弟子たちも多い。この水谷スクールに触れたことも安藤の大きな力になることになる。

最初の仕事は、作品年表によれば「小林邸(スワン商会ビル)[8]」(1969-72年)である。ただ、本人が書くところによると事務所に最初に舞い込んだ仕事は「冨島邸」(1973年)である。続いて、1974年には立見邸など5軒、1975年には「双生観(山口邸)」など3軒、立て続けに小住宅を竣工させる。

オイルショックが日本列島を襲う中で、かなりの仕事量と言えるのではないか。大阪には高度成長と大阪万国博覧会Expo70の余韻が残っていたというべきであろうか。

このころ、若い学生たちの関心の舞台は『都市住宅』であった。あるいは『建築』であった。いずれも平良敬一さんが創刊に関わる。4号で終わった『TAU』にも触れたが、若い建築家たち、学生たちを建築ジャーナリズムがとりあげてくれた。遺留品研究所、コンペイトウ・・・などの活躍の舞台が『都市住宅』であった。石山修武、毛綱モン太(毅曠)は、二人で「奇想異館」を掘り起こす連載を行っていた。

毛綱モン太は中でも強烈であった。「反住器」(1972)は衝撃的であり、「給水塔の家」のプロジェクト(毛綱邸計画)(『都市住宅』196910月。「北国の憂鬱」と同時発表)には心が躍った。六角鬼丈の「家相の家」(1970年)、渡辺豊和の「112(吉岡邸)」(1974年)、象設計集団(チーム・ズー)の「ドーモ・セラカント」(1974年)、石山の「幻庵」(1975年)など、ポストモダンの潮流を担う数々の住宅作品が生み出されていたのが1970年代初頭である。

そんな中、冨島邸と二つの計画案を安藤忠雄は『都市住宅』(737月号、臨時増刊 住宅)に載せる。その時にはじめて書いたという文章が「都市ゲリラ住宅」である。この文章については後に触れよう。

『都市住宅』誌に安藤を紹介したのは渡辺豊和である。未だRIAに在籍していた渡辺豊和と毛綱モン太が出会うのは、『文象先生のころ 毛綱モンちゃんのころ』(アセテート、2006年)によれば、安藤が事務所を開設した1969年のことである。安藤ともほどなく交流が成立したのであろう。この渡辺、毛綱、安藤の三人は、やがて「関西の三奇人(馬鹿?)」と呼ばれるようになる。植田実の命名だという。

 

日本建築学会賞受賞

10軒足らずの住宅の設計を忙しくこなしながら、平行して、「住吉の長屋(東邸)」が設計される(1976年竣工)。そして、この「住吉の長屋」は1979年の日本建築学会賞作品賞を受賞する。宮脇 檀の「松川ボックス」、谷口 吉生,高宮 真介「資生堂アートハウス」との同時受賞であった。

安藤の日本建築学会賞受賞は、㈱象設計集団+㈱アトリエ・モビル(1981年、名護市庁舎)、毛綱毅曠(1984年、釧路市博物館・釧路市湿原展望資料館)、長谷川逸子(1985年、眉山ホール)に先立つ。原広司(1986年、田崎美術館)さらに渡辺豊和(1987年、龍神村民体育館)より早い。翌年、林雅子が「一連の住宅」が受賞しているのに比すると、たった一戸の住宅での受賞は異例の評価といっていい。

作品賞は、前年度「該当作品なし」である。1979年度も、「該当作品なし」となりそうであった。総評は、「作品賞の空白が続くことによる今後への影響が憂慮された結果、審査の方針を作品そのものよりは、作品そのものよりは、作品を生み出した設計者の精神、考え方の可能性、制作態度をより重視する方向に変えることによって、該当作品を得ることにしたのである」[9]という。両年度の審査委員長は大江宏である。当時、彰国社で刊行が企画されていた新建築学大系第1巻『建築概論』の編集コアスタッフとして大江先生とは頻繁に会う機会があった。宿がたまたま近かったこともあって深夜にタクシーで送って頂くことも度々であった。直接話されることはなかったが、「総合得点の高い」有力候補の「制作態度」は認められない、という雰囲気であった。退けられたのは「ひろしま美術館」の作者である。

安藤忠雄はラッキーであったといっていい。この受賞が安藤の建築家としての出発点になる大きな転機になったことは、本人が繰り返し語るところであり、また、衆目の認めるところである。安藤評価のきっかけは伊藤ていじの朝日新聞記事(1976108日)だという。賞は人を育てるのである。

「住吉の長屋」、あるいはそれに先立つ「双生観」以降、安藤の作品の傾向はがらっと変わっている。本人が言うように、安藤が初期の狭小住宅で修作を繰り返すなかで、範としていたのはA.ロースであり、その「ラウム・プラン(空間計画)」である。「そっけない四角い箱の内に、複雑多様な空間のドラマを潜ませる建築」を安藤は必死に試みているのである。しかし、「住吉の長屋」において、安藤は「複雑多様」ということを捨ててしまう。このことについても続いて触れよう。

「雨の日にトイレに行くのに傘をささねばならないとは、何という建築家の横暴か」

確かにスキャンダルであった。彼は、いわゆる機能的なプランニングの手法を捨て去った。その代わりに何かを選択した。誰もがそこに近代建築批判の本質を嗅ぎ取った。

顕彰理由は次のように言う。

「全体については内外を打ち放しコンクリート、床を玄昌石、手造りの家具という数少ない材料と工法による住空間は明快な設計意図を反映して格調が高く安定感がある。反面、外壁のインシュレーションの間隔や手摺のない階段、雨の日も光庭を通らねばならないという生活上の問題等々に対する一般的な不安感もある。しかし、都市で失われつつある自然と人間の対応について、このような極限に近い住環境においてもそれを目指して実現させ、完成後も周期的にアフターケアを実行しているという努力に支えられているこの住宅を都市住宅のひとつのあり方として評価し、ここに日本学会賞を贈るものである。」

 

東大教授就任

「住吉の長屋」に続いて、「ローズガーデン」「北野アレイ」(1977年)「甲東アレイ」(1987年)などの商業建築が竣工する。そして、大規模な集合住宅として「六甲の集合住宅Ⅰ」(1983年)に至り、日本文化デザイン賞(六甲の集合住宅ほか)を受ける。

その後の活躍は数々の受賞が示している[10]。安藤ワールドが完成するのは「水の教会」(1988年)、「光の教会」(1989年)においてである。

この過程で、安藤忠雄は、東京大学教授に就任(1997年)することになる。

東京帝国大学―東京大大学の建築学科出身の建築家たちが日本の近代建築をリードしてきたことは言うまでもない。戦前期に遡って、日本の建築家の学閥(スクール)についてまとめた本に村松貞次郎の『日本建築家山脈』(鹿島出版会、1965年)がある。ここでは日本の建築家山脈の全貌に触れる余裕はないが、東京大学にとってみれば、日本のリーディング・アーキテクトをプロフェッサー・アーキテクトとするのは大きな指針である。

戦後建築をリードし続けたのは、前川國男であり、丹下健三である。そして前川―丹下の両スクールから、磯崎新、黒川紀章ら数多くの建築家が育った。1962年に東京大学に都市工学科が出来、丹下健三、大谷幸夫が移るとともに、建築学科に設計計画の講座がつくられ、招かれたのが芦原義信である。そして、槇文彦がそれを継いだ。

全共闘運動の残り火がまだ勢いのある頃、東大に赴任した芦原義信先生と激突!?したのが、我らが「雛芥子」の学年であった。設計製図を習ったのは一年上の陣内秀信、六鹿正治らの学年が一期生、われわれは二期生である。今振り返ると身近な空間の利用と管理をめぐる争い!?であるが、われわれは空間のあり方について多くを学んだ。結果的には、芦原先生はじめ内田祥哉、稲垣栄三、鈴木成文といった先生と親しく交わった。しかし、その上の学年はそうはいかない。学生と教授陣との間には大きな溝が出来ていたように思う。そうした上級生の中に安藤忠雄を東大教授に招いたとされる鈴木博之さんがいた。

芦原、槇に続く、プロフェッサーとして世界的知名度のある建築家が欲しい、と考えるのは自然である。詳細は知らないが、多くの卒業生を排しての安藤忠雄の選出には多くの議論があったのだろう。京都大学にいたから知っているのであるが、当時、京都大学でも安藤忠雄を教授で呼ぼうという動きがあった。しかし、京都大学工学部の場合、教授就任には博士の資格(学位論文を書いている)のが必須であった。

ここでも安藤は、ラッキーであった!?


 

 

      



[1] 安藤忠雄、『建築手法』、A.D.A.EDITA Tokyo2005年。P12

[2]  1962年、クリエーターズリミテッド「造像団」設立。1965年、浜野商品研究所設立。1992に浜野総合研究所と改名。

[3] 『実感思考』、史輝出版、1995年、『街の記憶』、六耀社、2000年、『発想の原点』、北山創造研究所、六耀社、2001年、『24365東京』、北山孝雄+北山創造研究所、集英社、2003年、『このまちにくらしたい うずるまち』、北山孝雄+北山創造研究所、産經新聞出版、2006年など

[4] 田中文夫

[5] 野口徹(1941-87)。主論考『日本近世の都市と建築』(東京大学出版会、1992年)で知られる。北山孝雄は「遺稿集刊行会」の発起人の一人である。

[6] 安藤忠雄、『建築手法』、A.D.A.EDITA Tokyo2005年。P13

[7]  最初の旅にR.バンハムの『第一機械時代の理論とデザイン』を持っていったと言うが、記憶違いであろう。

[8] 『安藤忠雄の建築1 住宅』、TOTO出版、2007

[9] 『建築雑誌』、日本建築学会、19808月号

[10] 1979年 日本建築学会賞(「住吉の長屋」)

1983 - 日本文化デザイン賞(「六甲の集合住宅」ほか)

1985 - 5回アルヴァ・アアルト賞

1986 - 芸術選奨文部大臣賞新人賞(「中山邸」ほか)

1985 - 毎日デザイン賞

1987 - 毎日芸術賞(「六甲の教会」)

1988 - 13吉田五十八賞(「城戸崎邸」)

1989 - フランス建築アカデミー大賞

1990 - 大阪芸術賞

1991 - アメリカ建築家協会(AIA)名誉会員、アーノルド・ブルンナー記念賞(アメリカ)

1992 - 1回カールスベルク建築賞(デンマーク)

1993 - イギリス王立英国建築家協会(RIBA)名誉会員。日本芸術院賞

1994 - 26日本芸術大賞(「大阪府立近つ飛鳥博物館」)、朝日賞

1995 - 1995年度プリツカー賞1994年度朝日賞、第7回国際デザインアワード、フランス文学芸術勲章(シュヴァリエ)

1996 - 8高松宮殿下記念世界文化賞、第1回国際教会建築賞

1997 - ドイツ建築家協会名誉会員、王立英国建築家協会ロイヤルゴールドメダル(RIBAゴールドメダル)、第4回大阪キワニス賞、フランス文学芸術勲章(オフィシエ)

2002 - アメリカ建築家協会ゴールドメダル(AIAゴールドメダル)、京都賞思想・芸術部門受賞

2005 - 国際建築家連合ゴールドメダル(UIAゴールドメダル








2021年3月17日水曜日

現代建築家批評03 メディアの中の建築家たち   タウンアーキテクトの可能性 ポストモダン以後 ・・・建築家の生き延びる道03

 現代建築家批評03 『建築ジャーナル』20083月号

現代建築家批評03 メディアの中の建築家たち 


 タウンアーキテクトの可能性

ポストモダン以後 ・・・建築家の生き延びる道03

 

 『建築文化』の「近代の呪縛に放て」のシリーズで宮内康に出会った(1975年)。当時学生たちに最も読まれた評論集である『怨恨のユートピア』(1972年)の著者であり、憧れの存在であった。そして、研究室(吉武・鈴木研究室)の先輩でもあった。

『怨恨のユートピア』は、「序」に「「建築」から「建造物」へ」(「建造物宣言」)という。そして、冒頭に「変質する建築家像―戦後建築運動史ノート―」を置いて、「建築家」のあり方をラディカルに問うている。そして、「遊戯的建築の成立」など、建築の豊かな世界を予感させる多くの文章が収められていた。

出会いをきっかけとして、同時代建築研究会(当初、昭和建築研究会と称した)を設立することになった(197612月)。設立メンバーは、宮内康、堀川勉、布野修司である。浜田洋介ら宮内康が主宰するAURA設計工房のメンバー、弘実和昭など東京理科大学の教え子たち、「雛芥子」から千葉正継、そして「コンペイトウ」の井出建、松山巌が加わった。

 この同時代建築研究会は、『同時代建築通信』というガリ版刷りの通信を出し続けるが(19831990年)、1992103日の宮内康の死(享年55歳)によって活動を停止する。宮内の後半生は、東京理科大学を解雇された、その不当性をめぐる裁判闘争の日々であった。その記録は『風景を撃て』(相模書房、1976年)にまとめられている。そして、『怨恨のユートピア』を含めて、その全評論をまとめたのが『怨恨のユートピア 宮内康の居る場所』(れんが書房新社、2000年)である。昨年、「前川國男展」(2005-2006年)が青森で開かれた縁で、「君は宮内康を知っているか? 怨恨のユートピアー宮内康の居る場所ー」という文章(『Ahaus0520073月)を書く機会があった。彼は七戸に多くの作品を残しているのである。

 同時代建築研究会は二冊の本を世に問うた。ひとつは『悲喜劇 一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室、1981年)であり、もうひとつが『ワードマップ 現代建築』(新曜社、1993年)であった。

「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」

『ワードマップ 現代建築』の終章で「現代建築家」という文章を書いた。冒頭、チャールズ・ネヴィット編の『パースペクティブズ』(Charles Knevitt, “Perspectives An Anthology of 1001 Architectural Quotations”, Bovis, 1986)を引いて、建築家の定義を列挙した。このチャールズ・ネヴィットは、前述(022月号)の『コミュニティ・アーキテクチャー』の共著者でもある。

 「建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」(ヴィトルヴィウス『建築十書』第一書第一章)。

 という格調高い引用に続いてあるのが、アンブローズ・ビアズ『悪魔の辞典』の「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」である。

 全部引用したいが、いくつか採録すれば以下のようだ。

 「偉大な彫刻家でも画家でもないものは、建築家ではありえない。彫刻家でも画家でもないとすれば、ビルダー(建設業者)になりうるだけだ」 ジョン・ラスキン

 「建築について知っている建築家はほとんどいない。五〇〇年もの間、建築はまがいものであり続けている。」 フランク・ロイド・ライト

 「エンジニアと積算士(クオンティティー・サーベイヤー)が美学をめぐって議論し、建築家がクレーンの操作を研究する時、われわれは正しい道に居る」 オブアラップ卿

 「建築家も医者や弁護士と同様色々である。いいのもいれば、悪いのもいる。ただ、不幸なことに、建築の場合、失敗がおのずと見えてしまう。」 ピーター・シェパード

 「建築家は、社会の、様式の、習俗の、習慣の、要求の、時代の僕である。」「建築家の人生は四五に始まる」 フィリップ・ジョンソン

 続いて、『アーキテクト』(R.K.ルイス 六鹿正治訳 鹿島出版会)を引いた。その最後に、建築家のタイプが列挙してある。

 

 名門建築家:エリート建築家/ 毛並がいい

 芸能人的建築家:態度や外見で判断される/派手派手しい

 プリマ・ドンナ型建築家: 傲慢で横柄/尊大

 知性派建築家:ことば好き/思想・概念・歴史・理論 

 評論家型建築家自称知識人流行追随

 現実派建築家実務家技術家

 真面目一徹型建築家:融通がきかない 

 コツコツ努力型建築家:ルーティンワーク向き

 ソーシャル・ワーカー型建築家:福祉/ボトムアップ/ユーザー参加

 空想家型建築家:絵に描いた餅派

 マネジャー型建築家:運営管理組織

 起業家型建築家:金儲け

 やり手型建築家:セールスマン

 加入好き建築家:政治/サロン

 詩人・建築家型建築家:哲学者/導師

 ルネサンス人的建築家

 

 建築家の一般的イメージに彼我の違いはなさそうである。日本にもそれぞれ顔が浮かぶのではないか。しかし、建築家は単なるデザイナーでも、不動産屋でも、コピーライターでも、ドラフトマンでも、芸能人でもない。いったい何者なのか。


 アーバン・アーキテクト

 アジア各地を歩く一方、ある研究会に招かれることになった。仕掛け人は森民夫現長岡市長、当時、建設省(現国交省)の課長補佐であった。「建築文化・景観問題研究会」((財)建築技術教育普及センター)という。建築行政というのは、建築基準法違反の取り締まり行政ばかりで、町並みはちっともよくならない。よりよい、美しい街並み景観をつくりあげるためにはどうしたらいいか。メンバーは、建設省の若手官僚と新進気鋭の建築家で、森民夫が同級生ということもあって座長を務めることになった。今や都市計画学会の学界の重鎮といってもいい大西隆(都市計画学会会長)、西村幸夫の両東京大学教授なども委員に名を連ねていた。

 その議論の結果、「アーバン・アーキテクト」と呼ぶ制度が実施されることになった。その主張は、簡単にいうと「豊かな街並みの形成には「建築家」の継続的参加が必要である」ということである。いかにすぐれた街並みを形成していくか、建築行政として景観形成をどう誘導するか、そのためにどのような仕組みをつくるか、という問題意識がもとになっており、その仕組みに「アーバン・アーキテクト」と仮に呼ぶ「建築家」の参加を位置づけようという構想である。

 しかし、実際、どう制度化するかとなると多くの問題があった。建築士法が規定する資格制度、建築基準法の建築計画確認制度、さらには地方自治法など既存の制度との関係がまず問題になる。さらに、それに関連する諸団体の利害関係が絡む。新しい制度の制定は、既存のシステムの改編を伴うが故に往々にして多くの軋轢を生むのである。「アーバン・アーキテクト」というのは、どうも新たな資格の制定もしくは新たな確認制度の制定の構想と受けとめられたらしい。(財)建築技術教育普及センターは、建築士試験を実施している機関である。そして、その資格の認定を誰が、どういう機関が行うかをめぐって、水面下で熾烈な抗争?があったらしい。

「アーバン・アーキテクト」制の構想は、一方で「マスター・アーキテクト」制の導入と受けとめられたようである。「マスター・アーキテクト制」というのもはっきりしないのであるが、いくつか具体的なイメージがある。 「マスター・アーキテクト」制とは、もともとは、大規模で複合的な計画プロジェクトのデザイン・コントロール、調整を一人のマスター・アーキテクトに委ねる形をいう。住宅都市整備公団の南大沢団地、あるいは滋賀県立大学のキャンパスの計画において、いずれも内井昭蔵をマスター・アーキテクトとして採用された方式がわかりやすい。また、長野オリンピック村建設におけるケースがある。マスター・アーキテクトがいて、各ブロックを担当する建築家(ブロック・アーキテクト)に指針としてのデザイン・コードを示し、さらに相互調整に責任をもつ。もう少し複雑な組織形態をとったのが幕張副都心の計画である。委員会システムが取られ、デザイン・コードが決定された上で、各委員がブロック・アーキテクトとして、参加建築家の間を調整するというスタイルである。いずれも、新規に計画されるプロジェクト・ベースのデザイン・コントロールの手法である。

 しかし、「アーバン・アーキテクト制」は実現されることはなかった。1995117日早朝545分阪神・淡路大震災が起こり、事態は一変することになった。


裸の建築家:京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)

阪神淡路大震災の被災地を歩き回りながら多くを学んだ。

アーバン・アーキテクト制は吹っ飛んだ。それどころではない、コントロール、検査が先だ。そして導入されたのが第三者検査機関による建築確認システムである。

日本の戦後建築とは一体何であったのか。

そして「建築家」はどう責任をとるのか。まちづくり、景観行政以前に、「建築家」の能力が問われることになった。

阪神淡路大震災に大きなショックを受けて、『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』(建築資料研究所、2000年)を書くことになったが、並行して、『戦後建築論ノート』を改訂する機会を得た。『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(れんが書房新社、1995年)である。

全体的に字句の手直しをしたが、骨子は変わらない。増補したのが第四章「世紀末へ」の「Ⅱ 戦後建築の終焉」と「Ⅲ 世紀末建築論ノート―デミウルゴスとゲニウス・ロキ―」である。

『戦後建築論ノート』を書いて15年、その間の歴史の推移はドラスティックであった。ベルリンの壁が破れ、冷戦構造が解体され、ソビエト連邦が崩壊し、世界の枠組み大きく変わった。建築家の行方は袋小路だったと思う。磯崎新は唯一特権的に「大文字の建築」を論(あげつら)うところに追い込まれていた。『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』の最後は「「地球」のデザイン」である。この課題設定は間違っていなかったと思う。

阪神淡路大震災後5年を経て、「京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)」という実験を始めることになった(2000年)。アーバン・アーキテクト制の挫折が悔しかったことが大きい。広原盛明先生の理解と一大支援を得てそれなりの活動を展開することができた。

京都CDLの7年にわたる活動は『京都げのむ』1-6号にまとめられている。その詳細は省かざるを得ないが、京都において様々な問題があり、活動停止に追い込まれることになった。

タウンアーキテクト

しかし、しつこいというべきか。その後、滋賀県で、近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座を立ち上げることになった。内閣府の地域再生本部の施策に乗ったかたちである。施策そのものには問題が多いが、地域社会が崩壊するなかで、地域再生を担う職能が求められていることは間違いない

『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』で考えたことは大きく変わっていない。ただ、景観を主軸としたタウンアーキテクトの構想に、防災と地域再生の役割を合わせて考えるようになった。景観をめぐっては、景観法ができた。この法律は使えると思う。今のところ大きな動きはないけれど、タウンアーキトクト制とリンクすればいい[]

タウンアーキテクト制あるいはコミュニティ・アーキテクト制の構想の背景には、言うまでもなく、より切実な事情がある。日本の産業構造が大きく転換する中で、建設業界もまた転換せざるをえないのである。スクラップ・アンド・ビルドの時代は終わった。細かい数字はあげないけれど、極端にいえば、日本の建築家は半減してもおかしくない。

そうした中で、日本の建築家はどう生き延びればいいのか。少なくとも三つの方向が考えられる。

ひとつは、建築ストックの維持管理、その再生活用をめざす道である。

ふたつめは、まちづくりである。クライアントの依頼で仕事をするのではなく、自治体と地域社会を媒介する役割を担う。タウンアーキテクトあるいはコミュニティ・アーキテクトとして生きる道である。

みっつめは、海外、中国、インドに行くことである。建設需要のあるところに建築家の仕事はある。これは建築家の宿命でもある。

 

第三者検査機関の設置以降何が起こったか。耐震偽装問題である。そして、建築士法改正があり、建築界は瀕死の状態へ追い込まれつつある。建築家という職能の蘇生の道はあるのか?

建築士の資格や教育機関の設置基準を強化する動きが加速されつつある。一方、現在国交省で「タウンアーキテクト」を具体的に試行する動きがある。

以下、具体的な建築家に即して考えよう。建築家は果たしてどう生き延びることができるであろうか。

 

 

     


[]拙稿、「タウンアーキテクト」制の可能性―「景観法」の実りある展開をめざして、特集景観まちづくりへのアプローチ、『ガヴァナンス』、ぎょうせい、20046

 

2021年3月16日火曜日

現代建築家批評02 メディアの中の建築家たち  誰もが建築家でありうる ポストモダン以後・・・建築家の生き延びる道02

 現代建築家批評02 『建築ジャーナル』 2008年2月号

現代建築家批評02 メディアの中の建築家たち 


 誰もが建築家でありうる

 ポストモダン以後・・・建築家の生き延びる道02

 

 古典的な建築家の理念、すなわち、設計と施工は分離すべし、施主と施工者の間にあって、第三者として公共的利益を代弁するのがその職能である、という「建築家」の理念は、1970年代半ばの日本で大きく揺さぶられることになった。

  設計料ダンピングを理由に「日本建築家協会(JIA)」を除名された、ある「建築家」の訴えで、「建築家」すなわち「建築士事務所の開設者」は、独占禁止法にいう「事業者」か否か、また建設事務所の開設者を構成員とする「日本建築家協会(JIA)」は「事業者団体」か否か、をめぐって、裁判が起こされたのである(1976年)。いわゆる「公取問題」である。

 そして、1979919日、公正取引委員会によって、日本建築家協会に対する「違法宣言審決」が出された。

 「芸術家としての建築家」「フリーランスの建築家」「世界建築家」というのは幻想であった。「建築家」もただの「事業者」に過ぎない、というのが結論である。実態として、また法的な存在規定として当然のことだ、と当時思った。「建築家」幻想(「芸術家としての建築家」「フリーランスの建築家」「世界建築家」)はしばしば有害である、と思ったし、今でもそう思う。

 それでは、「建築家」とは何か。

 新たな職能像が求められる中で、地域で仕事をする建築家たちがどう生きるかという切実な模索の中で「アーキテクト・ビルダー」は魅力的な理念であった。少なくともひとつの手掛かりになると思った。「アーキテクト・ビルダー」とは、中世のマスター・ビルダーへの回帰ではない。その現代的蘇生である。実際、少なくとも住宅規模の建築においては、設計施工一貫(デザイン・ビルド)の方がはるかにいい建築がつくれる、ということがある。また、住宅設計で「確認申請」用の図面を書くだけ(「代願」)では食えない、という実態があった(ある)。

 

建築をつくらない建築家

 

祖父が大工で、父親も工業高校で建築を学んで県庁所在地とは言え小さな地方都市で建築行政に携わっていた、そんな血筋の息子であったけれど、僕は、建築家になろう(建築学科に進学しよう)などとは夢にも思っていなかった。父親が『新建築』を毎月とっていて、丹下健三はもとより、親父の仕事の関係で著書が送られてくる芦原義信、菊竹清訓の名前も知っていた。しかし、まさか芦原義信という建築家に建築の手ほどきを受けようとは夢にも思わなかった。

 なぜ、僕自身が建築という分野を選択したのか、について書く紙数はここではない。高度成長の余波というか、大阪万国博へ向かう熱気の中で、建築という分野は結構人気があった。バブル期にも建築学科は人気があった。建築という分野は実に景気の動向と密接に関わっている。

 全共闘運動の余韻が色濃く残る教室で、丹下健三の「アーバン・デザイン」という講義を聴いた―最初の2回だけで、後は渡辺定夫先生の代講であった―。スーパースターである建築家・丹下健三の講義であり、「アーバン・デザイン」という科目の新鮮さもあって、そして内容の意外さもあって今でもよく覚えている。

 「日本は60年代に離陸した・・・しかし、ソフト・ランディングできるかどうか・・・君たちはある意味で不幸かもしれない、1980年代には建設の時代は終わっているでしょう」

 ロストウの近代化論が下敷きである。建築家への夢を抱いて建築を学び始めた学生に随分なことをいうなあ、と思った。しかし、丹下健三のこの予言はほぼ当たったのだと思う。オイル・ショックの跡でバブル時代が再び訪れたということを除けば・・・。オイル・ショック以降の70年代から80年代初頭にかけて、建築界には閉塞感が充満していた。現在と同じである。

 当時、日本を代表する前川國男が「いま最も優れた建築家とは、何もつくらない建築家である」と書いた(『建築家』、1971年春号、日本建築家協会)。

 建築を建てることは、確かに一種の暴力である。

 また、長谷川堯は、「建築家は獄舎づくりである」(『神殿か獄舎か』相模書房・1975年、SD選書復刻・2007年)と言いきっていた。

 「建築をつくらない建築家」は、果たして建築家と言えるのであろうか。建築家は果たして「獄舎づくり」に過ぎないのであろうか。1970年代に建築を学び始めたものの心の奥底にはこんな問いが今でもある。

 『戦後建築論ノート』の最後にかろうじて以下のように書いた。

 「住宅の設計を最初の砦としてわれわれがささやかに構想できるのはここまでである。その試みの過程で、われわれはつねに制度の厚い壁に出くわすであろう。具体的にものの形態を規定する法・制度、建築の生産・流通・消費を支える制度、つくり手―作品―受け手の諸関係を支える制度、表現のレヴェルでのコード(大衆のイメージのコード、建築ジャーナリズムのコード)・・・われわれは、そのつど、それに反撃を試みねばならない。そして、そのつど制度への違反そして制度の囲い込みの運動を経験するであろう。

 しかし、つねに、ものの本来的なあり方を見続ける必要がある。建築が様々な制度を通じてしか自己を実現することがないとすれば、制度と空間、制度とものの間のヴィヴィッドな関係をつねに見続けていく必要がある筈である」

 

「建築家なしの建築」

 

ハウジング計画ユニオン(HPU)と『群居』の発行は、その第一歩であった。そして、上述のように、「アーキテクト・ビルダー」という概念が大きな拠り所となった。

 実は、卒業論文のテーマに選んだのがC.アレグザンダーである。その『形の合成に関するノートNotes on the Synthesis of Form(鹿島出版会)』(鹿島出版会、1978年)を英文で読んで、HIDECSというグラフを解くプログラムを書いた。当時『都市住宅』でアレグザンダーの理論が取り上げられていて学生たちは皆読んでいたし、大阪万国博に出展していて『人間都市』(鹿島出版会、1970年)という本も出していた。コンピューターを用いた設計のはしりということもあって、学生たちの間でアレグザンダーは人気があった。

設計プロセスを徹底して論理化し、ユーザー、市民の参加を可能にするその方向性と方法に大きな興味をもった。そして、その後もアレグザンダーの軌跡はトレースすることになったが、『パターン・ランゲージ』(鹿島出版会、1984年)にしても、その後の展開は実によく理解できた。『パターン・ランゲージによる住宅の生産』(鹿島出版会、1991年)が書かれ、「アーキテクト・ビルダー」論が提出されたのは実に我が意を得たりであった。後に、建築フォーラム(AF)による国際シンポジウム(地球環境時代における建築の行方:徹底討論、第一日「環境のグランドデザイン クリストファー・アレグザンダー・原広司・市川浩、布野修司(司会)」199122628日)の際に直接議論する機会を得ることになった(『建築思潮』創刊号、学芸出版社、199212月)。

 19791月、初めてインドネシアに出かけることになった。前年5月に東洋大学に赴任し、磯村栄一学長に「東南アジアの居住問題に関する理論的実証的研究」という課題を与えられ、前田尚美、太田邦夫、内田雄造などの先生方と共同研究を開始することになったのである。以降、今日に至るまで「アジア都市建築研究」を展開することになるのだが、アジアのフィールドで考えたことも建築家の職能を考える上で決定的である。

 ひとつはヴァナキュラー建築の世界の豊かさである。「建築家なしの建築」の膨大な世界がある。近代以前に美しい集落や住居を作ってきたのは無名の無数の工匠たちの技である。つい最近大田邦夫先生が『世界のすまいにみる 工匠たちの技と知恵』(学芸出版社、2007年)をまとめられたが、太田先生からは実に多くのことを学んだ。

 R.ウォータソンの『生きている住まい』(布野修司監訳、アジア都市建築研究会訳、学術出版社、1997年)を翻訳したのも、『世界住居誌』(布野修司編、昭和堂、2005年)をまとめたのも太田先生の教えに導かれてのことである。

 

セルフビルドの世界:裸足の建築家

 

 東南アジアを歩き出して、すぐさま、セルフヘルプ・ハウジング(セルフビルド(自力建設))あるいはコア・ハウス・プロジェクトという手法を知った。後者は、スケルトンあるいは一室と水回りだけを供給して後は居住者が仕上げるという手法だ。世界中の国々で、また地域毎に、様々なコア・ハウスが提案されていた。1976年にバンクーバーで第一回の「人間居住会議HABITAT」が開催され、マニラ―東南アジア最大のスラムと言われたトンド地区の北、ダガダガタン地区―を舞台に大規模な国際コンペが行われ、ニュージーランドの建築家たちが一等入選するが、残念ながら実現することはなかった。その敷地に大々的に展開されたのがコア・ハウス・プロジェクトである。一般的には、サイタン・サーヴィスSites & Servicesプロジェクトという。日本語にすれば「宅地分譲」であるが、インフラ整備された土地に建設の手がかりとして、スケルトンだけ、あるいは一部屋だけ供給するのがユニークである。SI(スケルトン・インフィル)(躯体・内装分離)・システムの遙かな先駆けであった。

 誰もが建築家でありうる。

 実際、かつては皆自分たちで家を建ててきたのである。

 バンコクのアジア工科大学(AIT)には、C.アレグザンダーの共同者で『パターン・ランゲージ』の共著者S.エンジェルがいた。彼は、「ビルディング・トゥゲザーBuilding Together」というグループを率いて、ハウジング・プロジェクトを展開中であった。そしてマニラには、W.キースに率いられた「フリーダム・トゥ・ビルドFreedom to Build」というグループがいた。「フリーダム・トゥ・ビルド」というのは、J.FC.ターナーの書いた本からとったものだ。彼は、「ハウジング・バイ・ピープルHousing by People」(John F.C. Turner, Housing by People Towards Autonomy in Building Environments, Pantheon Books, 1976)の著者でもある。彼にもアジアを歩き始めてからすぐに会った。さらに、スラバヤでカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)に取り組む建築家J.シラスに出会った。

 第三世界の住宅問題、居住問題に取り組んだ一群の建築家たちは、もうひとつの建築家像を与えてくれる。誰もが建築家でありうる。しかし、誰もが建築をつくる時間とお金と経験があるわけではない。建築家が住宅建設の手助けをする、そんな住民参加を取り込んだハウジング・システムを組織する建築家は、1980年代にイネイブラーenablerと呼ばれるようになる。1960年代のアメリカでアドヴォカシー・プランニングAdvocacy Planningと呼ばれ、黒人や社会的弱者の代弁者advocatesとしての職能が注目を浴びたが、そしてまた、イギリスではR.アースキンらのコミュニティ・アーキテクト運動(ニック・ウエイツ・チャールズ・ネヴィット、『コミュニティ・アーキテクユア』、都市文化社、1992)が開始されるが、イネイブラーはその延長に位置づけられる。中国で「裸の医者」というのに倣って「裸の建築家Barefoot Architect」という言葉もある。チャールズ皇太子がポスト・モダニズムの建築を激しく批判し、大いに支援したのはコミュニティ・アーキテクトたちであった。C.アレグザンダーは、チャールズ皇太子が設立した建築学校に教師として招かれている。

 

田舎者が住みついた「カンポン」の世界

 

スラバヤのJ.シラスに導かれてカンポンkampungにのめり込むことになった。カンポンとはムラという意味である。カンポンガンkampunganというと「イナカモン」というニュアンスがある。都市なのにムラである。英語ではアーバン・ビレッジと一般的に訳される。物理的には貧困であるが、コミュニティはしっかりしている。KIPがイスラーム圏の最高の建築賞であるアガ・カーン賞を受賞したのは、このコミュニティの力による。

 カンポンについて学んだことは『カンポンの世界』(パルコ出版、1991)に記した。なかでも、鍵となると思ったのはコミュニティの力である。フィジカルには貧しいけれども、コミュニティの組織はしっかりしている。相互扶助の仕組みがカンポンを支えていた。

 カンポンには、ルクン・ワルガRW(町内会)、ルクン・タタンガRT(隣組)という住民組織がある。ゴトン・ロヨンgotong royong(助け合い)を国是とするインドネシアにおいてその基礎単位となるのがRW,RTである。これは日本軍が持ち込んだという学位論文があるが、たった2年半の占領で根付くものでもないであろう。町内会システムが強制的に導入されたのは15年戦争期であり、それがそのまま持ち込まれたことは間違いないが、おそらくインドネシア各地の共同体原理と共鳴しあうことによって維持されたのだと思う。コミュニティを基盤とするまちづくり(居住環境整備CBD)のモデルとなるのがKIP(カンポン・インプルーブメント・プログラム)である。

 カンポンについての調査研究は、結局、布野修司の学位請求論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学、1987)にまとめられた。そして、このエッセンスを具体化する形で、スラバヤ・エコ・ハウスと称する実験集合住宅を建設する機会を得ることになった。

 カンポンというのが英語のコンパウンドcompoundの語源であるという説があることを随分してから知った。アジアを訪れたヨーロッパ人がバンテンやマラッカで都市の囲い地を現地人がカンポンというのを聞いてインドの同じような居住地をカンポンと言うようになり、コンパウンドに転訛して、大英帝国が世界中に広めたのだという。異説もあるが、オックスフォード英語辞典OEDにもそう書いてある。このカンポン=コンパウンドに導かれるように、植民都市研究に赴くことになる。その後の経緯は、『近代世界システムと植民都市』(京都大学学術出版会、2005年)に譲りたい。

 

2021年3月15日月曜日

現代建築家批評01 メディアの中の建築家たち メタボリズム批判の行方 ポストモダン以後 ・・・建築家の生き延びる道

 現代建築家批評01 『建築ジャーナル』2008年1月号

現代建築家批評01 メディアの中の建築家たち


 これから何回に分けて建築家について書こうと思う。具体的に、安藤忠雄、伊東豊雄、山本理顕といった建築家を順に取り上げる。全体として、建築家の社会的役割、社会に及ぼす建築の役割が浮かび上がればと思う。今回はそのための前口上である。3回にわたって、建築家の職能について考えてきたことを振り返っておきたい。

 

メタボリズム批判の行方
ポストモダン以後      ・・・建築家の生き延びる道

布野修司

 

出雲から上京し、大学に入学したのは19684月のことである。その年、パリで5月革命が起こり、6月、日大に続いて東大も全学ストライキに突入、10.21国際反戦デーの示威行動に新宿騒乱罪、・・・そして、安田講堂陥落へ、激動の一年であった。島泰三の『安田講堂1968-69』(中公新書、2005年)を読むと、たったの一年が濃密な時間の体験としてありありと思い起こされる。その後も全共闘運動が日本中に広がりをみせる騒然とした中で学生時代を過ごした。そして、高度成長の60年代が終わり、1970年代を迎えると時代は暗転する。2度(1973年、1978年)の石油危機(オイル・クライシス)を経験して、時代の雰囲気は重苦しかった。就職するにも求人はなく、建築も建たなかった。

議論しかなかった。というと嘘になるかもしれない。当時、我々(杉本俊多、千葉政継、戸部栄一、村松克己、久米大二郎、三宅理一、川端直志、布野修司・・・)は「雛芥子」―「遺留品研究所」(真壁智治、大竹誠、・・)、「コンペイトウ」(井出建、松山巌、元倉真琴・・・)といった兄貴分の向こうを張った命名であった―という集団名を名乗り、三里塚の鉄塔のディテール(ガセットプレートの原寸図)を描いたり、民家を移築したり、塹壕の測量をしたり、援農(農作業の手伝い)をしたりする一方で、ドイツ表現主義の映画会をしたり、黒テントの芝居のプロデュースをしたり・・・結構忙しかった。この頃の「雛芥子」の活動を記したのが故坂手建剛編集長が創刊した『TAU』(商店建築社)である(「<柩欠季>のための覚書」、19731)。続けて、「虚構・劇・都市」「ベルリン・広場・モンタージュ」といった原稿を書いたのが筆者の建築ジャーナリズム・デビュー?である。

そんな学生時代に、「近代の呪縛に放て」という『建築文化』の連載シリーズ(197577年)のコア・スタッフに招かれたのは僥倖であった。伊東豊雄をトップに、長尾重武、富永譲、北原理雄、八束はじめ、布野修司というのがメンバーで最年少であった。この企画で、渡辺豊和、毛綱モン太、大野勝彦石山修武、安藤忠雄・・・に出会った。この場で考えたことは、建築を考える原点であり続けている。

連載の最後に「六〇年代の喪歌」(『建築文化』、197710月)という文章を書いた。そして、この文章を冒頭に置いて、『戦後建築論ノート』(相模書房)を書いた。1981年、32歳の時である。建築の1960年代の諸問題を、歴史を遡行する構えをとって論及した建築イデオロギー批判の書である。決して売れはしなかったけれど、様々な反響はあった。「近代の呪縛に放て」というのは田尻裕彦編集長の命名であったが、近代建築批判の課題は広く共有されていたのだと思う。

直近の時代、1960年代をどう乗り越えるか、これが出発点である。そして、『戦後建築論ノート』がターゲットとしているのはメタボリズムである。

 

政治と建築:黒川紀章の死

 黒川紀章が逝った(20071012日)。享年73歳。その最後の一年は、まるで燃え尽きるような一年であった。

振り返ると予兆はあった。年初であったろうか、送られてきた「国立新美術館」(東京都港区、2006年)のオープニング展覧会の大型ポスターの一枚にいささかぎょっとしたことを思い出す。紋付袴に日本刀を手にして真正面を見据えたその思いつめた表情には鬼気迫るものがあった。随分と頬がこけ、どこか身体が悪いのかとも思った。おそらく、「共生新党」の立党による、都知事選への出馬(4月)も衆議院選挙(7月)への出馬も、決意されていたのであろう。

「政治の世界」が、建築家・黒川紀章の最終的に行き着いた場所であった。数多くの作品を残し、芸術院会員(1992年)、文化功労者(2006年)ともなって功なり名を遂げた黒川が、何故、死を賭して「政治の世界」を目指さざるを得なかったのか、その真相はわからない。正直、ドン・キホーテに終わったようにも思える。

建築家と政治は、もちろん、無縁ではない。国家的なプロジェクトに限らず、ごく身近な公共建築を設計する場合を考えても、むしろ密接に関係しているというべきである。事業が政治的諸関係の中で行われる以上その現実的過程に巻き込まれざるを得ないからである。

若くしてデビューして以来、黒川紀章は最も華々しくそういう世界を生きてきた。ODA(政府開発援助)による海外の仕事を含めて国家的なプロジェクトも少なくなく、かねてから政治の世界との付き合いは深い。晩年は1997年に設立された日本における最大の保守系団体である「日本会議」の代表委員であった

スター建築家としての派手な振る舞いの背後で、真偽は常に定かではないが、仕事の獲得の度に政治家との親密な関係が取り沙汰されてきたのが黒川紀章である。東京新庁舎のコンペをめぐって、黒川紀章が週刊誌を舞台に激しく丹下健三批判を展開したことがある。都政をめぐる師と弟子との暗闘として大騒ぎになった。今回の都知事選の出馬についても、石原慎太郎都知事が安藤忠雄を東京オリンピックの施設計画を担当する東京都のマスターアーキテクトに指名したことに対する怒り、嫉妬、反撥がもとになっているという週刊誌報道があった。こうした次元で、取り沙汰される建築界にうんざりしながらも、案外そんなところかもしれない、と思ったりする。してみると、黒川紀章は、一貫して、その生き様を全うしようとしたと見ることもできるのである。

 

「メディア型」建築家

追悼文(産経ニュース、20071016日)のなかで、磯崎新は黒川紀章を「日本では初めての、ただひとりともいえるメディア型建築家」と位置づけている。確かに、死の直前の選挙戦におけるパフォーマンスの数々には「メディア型」建築家の面目躍如たるものがあった。メディアへの露出頻度という点では、安藤忠雄が既に黒川を凌駕しているが、安藤の場合、彼を「国民的」スターにするメディア側の力が大きい。あくまで、ユートピアを目指すアバンギャルドの帰趨に関わる選択として磯崎は黒川を「メディア型」建築家として認めるのである。

「半世紀昔、私たちは丹下健三チームのスタッフとして東京を湾上に伸展させる構想作りに従事した。これは20世紀最後のユートピア計画であった。もちろん東京はびくともしない。私たちは挫折覚悟でプロジェクトをつくる意義を学んだ。あのころ、岡本太郎と丹下健三が近代芸術におけるアバンギャルドを体現していた。私たちは彼らの手伝いをし、影響を受けた。エポックメーキングだったと称された大阪万博に参加した。近代のユートピアがここで具現化したのだった。ユートピアを目指すアバンギャルドが、それ故に役割をおえた。歴史の皮肉である。建築家として自立する時期にあった私たちは、あらためて態度選択を迫られた。私は建築を建築として思考する道を選んだ。建築を批判的にデザインする。一方、黒川紀章はメディアの中で行動する道を選んだ。社会、政治・経済など、建築を外側から決める枠と組みあうことになる。その面倒な役割を身軽にこなした。」

磯崎は繰り返し大阪万国博Expo70について書く。自らの挫折と建築家としての出発の起点としてのみならず、近代建築史の大きな転換点としてでもある。磯崎は、そこで社会変革(社会的ラディカリズム)と建築(をつくること)の間の絶対的裂け目―決定的深淵―を見たのだという。

「建築を建築として思考する道を選んだ」のが磯崎であり、「社会、政治・経済など、建築を外側から決める枠と組みあうことになる」のが黒川紀章である。ただ、磯崎においても、社会との関わりを否定するわけではない。「広義の建築家の社会的使命を、棲み分け、分担していたのだ」というのである。自らの「東京都新都庁舎のコンペ」(1986年)落選について、「悲観することはない。いいアイデアさえ残れば、自らの手を超えても誰かが実現する」と書くところに、その棲み分け、分担の位相を理解することができるだろう。

東京都知事選の際の黒川紀章のマニフェスト[]は群を抜いていた、と磯崎はいう。「新しいデザインの主題としてのハイパー都市東京を変革するポイントがすべておさえられて」おり、「黒川紀章の半世紀にわたる多面的な活動を集約する内容だった」、そしてさらに「半世紀間、私たちがトラウマのように背負いつづけた東京なる存在への対抗案がここにある」とまでいう。

 

「世界建築家」

黒川紀章の建築家としての出発は、京都大学を卒業し(1957年)、東京大学大学院の丹下研究室に在籍した(195864年)時代に開始される。丹下研究室の「東京計画1960」が発表され、「世界デザイン会議」を契機にメタボリズム・グループ(川添登、大高正人、菊竹清訓、黒川紀章、槇文彦)が結成された1960年から東京オリンピック開催(1964年)へ至る、日本が高度成長への離陸を開始する、まさにその滑走路を飛び立った建築家の一人、その申し子であった。

黒川は、大学院時代に、新東京計画案-50年後の東京(1959)、垂直壁都市(1960)、農村都市計画(1960)、東京計画1960(サイクルトランスポーテーションシステム)(1961)、霞ヶ浦計画(1961)、丸の内業務地域再開発計画(1961)、東京計画1961(へリックス計画)(1961)、箱型量産アパート計画(1962)、西陣地区再開発計画(1962)とたて続けに都市計画プロジェクトを発表している。「東京計画」は、もちろん、丹下研究室のプログラムである。

1950年代末から1960年代初頭にかけて、日本の建築家たちは一斉に「都市づいて」いく。菊竹清則の「海上都市」「塔上都市」「海洋都市」をはじめとして、盛んに都市プロジェクトが発表される。丹下研究室の「東京計画1960」はその代表であり、象徴である。

アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、都市のあるべき姿を提案し、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問う、というこのスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。すなわち、プロジェクトを提案する建築家が立脚するのは、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける神としての「世界建築家」の立場である。黒川紀章の場合、生涯、この立場、スタイルに拘り続けたようにみえる。未完のプロジェクトとなったのはカザフスタンの首都計画である。

都市へのコミットの回路として、この「世界建築家」のスタイルが衝撃力を持ちえたのはほんのわずかな時期に過ぎない。未来都市のプロジェクトは、大阪万国博Expo’70の会場に一瞬の虚構の都市として実現される一方で、急速に色褪せていく。数々のニュータウン計画が具体化される中で、建築家の構想力は現実に問われ始めるのである。

1973年暮れ、第一次石油危機(オイル・クライシス)が世界を襲った。建築家は「都市からの撤退」を余儀なくされることになる。都市プレジェクトどころか建築設計の仕事がない事態の中で、直接的で小規模なプロジェクト(住宅設計)をベースに若い建築家たちは近代建築批判のラディカルな試みを開始し始めた。

原広司の「住居に都市を埋蔵する」という方法意識が共有化される一方で、「世界建築家」のスタイルはその基盤を失う。その象徴である丹下健三が海外に仕事の中心を移し、1970年代を通じて日本国内でほとんど仕事をしていないことは記憶されていい。

 

アーキテクト・ビルダー

黒川紀章の世界観であり、認識論であり、設計方法でもあったメタボリズムは、1960年代を通じて建築界の支配的イデオロギーとなった。そのイデオローグであった黒川紀章の軌跡とその行き着いた地平は感慨深い。また、改めてメタボリズムの行方を再検証する必要があると思う。地球環境という枠組み、限界が明らかになり、循環、リサイクル、再生、コンヴァージョン・・・がテーマとしてクローズアップされるなかで、メタボリズム(新陳代謝)という概念は今猶検討に値する生命力を持っているように思えるからである。メタボリズム以後、次々と現代思想の流行の概念を追いかけてきたように思える黒川紀章においても、メタボリズムと共生の思想は連続して齟齬がない、ように思う。建築イデオロギーとしてのメタボリズムとその帰趨については、『戦後建築論ノート』に譲ろう。乱暴に言えば、メタボリズムは、スクラップ・アンド・ビルドの論理を正当化する役割を担った。あるいは、「社会的総空間の商品化」を促す機能をものであった。メタボリズム批判、すなわち近代建築の根源的批判は、産業社会の論理そのものの批判に行き着く、というのが、『戦後建築論ノート』の基本的構えである。

『戦後建築論ノート』を書いた後、ハウジング計画ユニオン(HPU)というグループに参加することになった。そして『群居』という雑誌を創刊する。1982年の12月号に創刊準備号を出して、翌年4月に創刊、2000年まで50号まで出した。メンバーは、大野勝彦を中心に石山修武、渡辺豊和、布野修司が設立し、野辺公一、高島直之、松村秀一らが加わった。

建築家の仕事、表現の場が住宅の設計という小さい回路に縮小していくなかで、住宅の生産・流通・消費の全過程を対象化し、具体的に活動を展開すべきだ、というのが共有された方針であった。戦後まもなく、住宅の問題は全ての建築家にとって大きなテーマであった。その初心に帰って、戦後の日本の建築家の歩みを総括したいという思いもあった。

『群居』が取り上げ、議論し、記録したテーマは多岐にわたる。住宅=まちづくりを主テーマに、住宅メーカー、職人、ビルダー、ディベロッパー、プランナー、建築家のそれぞれのアプローチを繰り返し取り上げるなかで、新たな職能のイメージとして浮かび上がったのが、C.アレグザンダーの「アーキテクト・ビルダー」であった。








 

 



[] ・任期中の給与は1円・東京都庁舎や、江戸東京博物館東京国際フォーラムの民間売却・オリンピック招致中止・日の丸君が代の強制を改める・築地市場豊洲移転には反対・東京23の市昇格を行ない、行財政権力を強化する・首都機能の一部を移転し、霞が関に緑地を増やす(20073月5)。黒川は、都知事選立候補時の記者会見で、自らの政治思想を反金儲け主義・共生主義と表現し、社会主義に近いとも発言している。