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2021年10月5日火曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説 Ⅳ タウン・アーキテクトの可能性  第8章 タウン・アーキテクトの仕事

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



Ⅳ タウン・アーキテクトの可能性

 第8章 タウン・アーキテクトの仕事

 8-1 アーバン・アーキテクト

 「アーバン・アーキテクト」という言葉が突然創り出され*1、一人歩きし、その挙げ句に闇に葬り去られてしまった。「アーバン・アーキテクト」という命名に僕は全く関知しないのであるが、その言葉が産み出された背景はよく知っている。というより、その主唱者であるかのように見なされて、インタビューを受けたことがある*2。きっかけは「建築文化・景観問題研究会」*である。建築課長(住宅課長)として県や政令指定市に出向する建設省のスタッフと何人かの「建築家」が、主として「景観問題」を議論する場が(財)建築技術教育普及センター*内につくられ、その座長を務めていたのである。

 その主張は、簡単にいうと「豊かな街並みの形成には「建築家」の継続的参加が必要である」ということである。「アーバン・アーキテクト」制と呼ばれる制度の構想は、いかにすぐれた街並みを形成していくか、建築行政として景観形成をどう誘導するか、そのためにどのような仕組みをつくるか、という問題意識がもとになっており、その仕組みに「アーバン・アーキテクト」と仮に呼ぶ「建築家」の参加を位置づけようという構想である。その限りにおいて、「建築界」にそう反対はないと思っていた。

 しかし、実際、どう制度化するかとなると多くの問題があった。建築士法が規定する資格制度、建築基準法の建築計画確認制度、さらには地方自治法など既存の制度との関係がまず問題になる。さらに、それに関連する諸団体の利害関係が絡む。新しい制度の制定は、既存のシステムの改編を伴うが故に往々にして多くの軋轢を生むのである。

 (財)建築技術教育普及センターによる「アーバン・アーキテクト」制の構想は以下のようであった。


 ①アーバン・アーキテクトは自己の活動実績を含め必要事項をセンターに登録、センターはアーバン・アーキテクトのデーター・ベースを構築する(センターは登録料を経費に充てる)。

 ②地方公共団体等が、景観形成やまちづくりに資するために建築の専門家を捜す場合、希望に基づきセンターがデーターから情報を提供する(センターへは情報提供料を納入)。

 ③アーバン・アーキテクトの関与するまちづくり事業については、建設局所管の助成事業との連携を図る。


 この構想ではセンターは人材派遣組織ということになる。また、中央から一方的に地方の仕事に介入するとの印象がある。さらに、「アーバン・アーキテクト」制は、「建築士」の上に新たな資格の制定もしくは新たな確認制度の制定の構想と受けとめられたらしい。(財)建築技術教育普及センターは、「建築士」などの資格試験を実施している機関だからである。そして、その資格の認定を誰が、どういう機関が行うかをめぐって、水面下で熾烈な抗争?があり、さしたる議論もないままに「アーバン・アーキテクト」という言葉は忘れ去られたのである。

 

 a マスター・アーキテクト

 「アーバン・アーキテクト」制の構想は、一方で「マスター・アーキテクト」制の導入と受けとめられた。「マスター・アーキテクト」制というのもはっきりしないのであるが、いくつか具体的なイメージがある。

 「マスター・アーキテクト」制とは、もともとは、大規模で複合的なプロジェクトのデザイン・コントロール、調整をマスター・アーキテクトに委ねる形をいう。住宅都市整備公団の南大沢団地、あるいは滋賀県立大学のキャンパスの計画において、いずれも内井昭蔵*をマスターアーキテクトとして採用された方式がわかりやすい。また、長野オリンピック村建設におけるケースがある。マスター・アーキテクトがいて、各ブロックを担当する建築家(ブロック・アーキテクト)に指針としてのデザイン・コードを示し、さらに相互調整に責任をもつ。もう少し複雑な組織形態をとったのが幕張副都心○の計画である。委員会システムがとられ、デザイン・コードが決定された上で、各委員がブロック・アーキテクトとして、参加建築家の間を調整するというスタイルである。長野の場合、地元建築家とのJV(ジョイント・ヴェンチャー)が義務づけられている。いずれも、新規に計画されるプロジェクト・ベースのデザイン・コントロールの手法である。


 b インスペクター

 一方、阪神・淡路大震災が起こって状況が変化した。街づくり、景観行政、景観デザイン以前に、「建築家」の能力が問われたのである。そして、「アーバン・アーキテクト」などより、「インスペクター(検査士)」の方がテーマになった。景観以前に違反建築や既存不適格の建築を糾すのが先決というわけである。建築士制度の問題としては、「構造技術士」の構想がかねてからある。「第三者機関」による検査制度*が差し迫った課題となると、「アーバン・アーキテクト」をめぐる議論は棚上げされてもやむを得ない。

 何も法制度としての「アーバン・アーキテクト制」が問題なのではない。現行法制度下においても、その構想を具体化する方策は色々ある。むしろ、「アーバン・アーキテクト制」が全国一律の制度として出来上がった瞬間に別の問題が生ずる可能性がある。なぜなら、問題は、各地域で、各自治体で、それぞれ固有の、個性豊かな街並みをどうつくりあげるかであって、そのためにどんな仕組みが必要かなのである。仕組みそのものも個性的で多様であることがおそらく前提となる。本書で「タウン・アーキテクト」(あるいは「シティ・アーキテクト」「コミュニティ・アーキテクト」)という言葉を用いるのは、「アーバン・アーキテクト制」という制度の構想と区別するためである。


 c 環境デザイナー登録制度

 理念と現実のギャップは大きい。「アーバン・アーキテクト」制は基本的には建設省をベースにした発想であった。いきなり制度を考えるより、具体的な実践を展開するのが早い。本来「アーバン・アーキテクト」は、地方自治体ベースの発想である。だから「タウン・アーキテクト」「シティー・アーキテクト」である。「ヴィレッジ・アーキテクト」でもいい。ことは、日本の地方自治のあり方の根幹に関わる。

 「アーバン・アーキテクト」は、そもそもどういう業務を果たすべきか、構想は以下のようにいくつかあった。

 ①公共団体等のまちづくりのうち、街区の景観デザイン、デザインコードの作成、地区施設等のデザインを担当する。

  業務の性格:公共建築の設計

  業務内容:実態調査、基本設計

  業務形態:調査業務委託中心、設計業務委託 

 ②公共団体等のつくる公共建築物の設計について、まちなみ等地域特性への配慮、地域住民の参加等に基づき実施する。地域に根づき長期間にわたり複数の施設を設計していくことが期待される。

  業務の性格:地域ベースの建築家

  業務内容:実態調査、基本設計、実施設計

  業務形態:設計業務委託

 ③公共団体のつくる公共建築物等について、まちなみ等地域の特性に配慮した基本方針を策定し、これに基づき設計を行う建築を選定し、指導し、助言し、評価する。

  業務の性格:プロデューサー、ディレクター

  業務内容:調査業務委託、審査業務、相談業務

  業務形態:調査業務委託、顧問業務

 構想として「アーバン・アーキテクト」は全てに関わる。しかし、①~③のどの業務にウエイトを置くかでその方向は異なる。根本問題は、誰が業務としてどのような報酬を受けるのかである。つまり、義務と権利、責任と報酬の問題である。 

 まず、本来自治体の仕事とそれを業務として受託して行う仕事が区別されるべきである。「アーバン・アーキテクト」の仕事は自治体の仕事とはいささか次元が異なるのである。

 中央がモデルにならないから、県レヴェルで仕組みを考えた。

 島根県における「環境デザイナー支援事業」*がそうである(●)。

 まず、環境デザイン検討委員会なるものが組織された。いわゆる学識経験者からなる。要するに、委員会メンバーは業務とは関わらないのが前提である。一方、環境デザイナーの登録が行われ、これまでの実績、仕事についての希望などが一定のフォーマットによってデータ・ベース化された。今のところ県内に限られているけれど県外にも拡大される予定である。県外については、公開コンペなどのチャンスに応募者を登録していくやり方を考えているが、これまでの県内での実績をもとに登録を拡大していく方法もある。各県で独自の登録制が工夫されればいい。ひとつの問題は、各自治体における指名業者登録との兼ね合いである。また、既存の建築事務所組合など受注組織との関係である。プロジェクトの性格によって、ケース・バイ・ケースのやり方がしばらく必要である。

 具体的な公共事業について、委員会は、様々な形でそのデザインについて意見を述べるが、まずデザイナーの選定について、その方式を提案する。そして、それぞれの方式について、デザイナー選定委員会あるいは建設委員会を組織する。環境デザイン検討委員会とデザイナー選定委員会が区別されるのがミソである。

 最初のケースは、宍道湖大橋の拡幅に伴う橋梁のデザインであった。登録名簿も未完であり、時間の余裕がなかったことから、環境デザイン検討委員会そのものが環境デザイナー選定に当たった。何人かの候補者から実績資料の提出を受け、一人のデザイナーが選定され提案を作成した。既に構造計算も終わり、実施設計が完了していたにも関わらず、当局は柔軟に対応した。選定されたデザイナーには、橋梁のデザインのみならず、橋詰めの公園のデザインにも関わってもらい、一体としてデザインするかたちを採ることができた。一歩前進である。

 2番目の事例は警察署の設計である。情報公開できない内容があるとか県の営繕課の仕事との関係で理想的にはいかなかったが、一応、検討委員会が審査委員会を組織する本来のかたちをつくることができた。しばらくは試行錯誤を続けていく必要がある。

 

 8-2 景観デザイン 

  a ランドシャフト・・・景観あるいは風景

 なぜ「タウン・アーキテクト」なり「シティ・アーキテクト」構想なのか。ひとつのきっかけはこの間の景観行政の展開である。

 景観(風景)条例を制定する自治体はおよそ二〇〇に登る。今後も多くの自治体で景観条例の制定が続くことが予想される。しかし、景観条例とは一体何なのか。あるいは、それ以前に、景観とは一体何なのか。

 景観あるいは風景、英語でランドスケープlandscapeあるいはドイツ語でランドシャフトlandshaftといった概念をめぐっては多くの議論が必要である。しかし、ここでは概念規定をめぐる基本を確認するに留めよう。

 まず確認すべきは、景観あるいは風景がランド、すなわち土地に結びついた概念であるということである。景観あるいは風景は土地に固有なものである。クラウドスケープ(雲景)、シースケープ(海景)という場合も同じであろう。同じような景観はあっても、同じ景観はないのである。景観条例が地域の独自な景観のあり方をうたうのは当然である。

 景観と風景を分ける主張がある。「西欧の景観、日本の風景」*という時、景観は客観的な土地の姿、風景は主観によって受けとめられた土地の姿という区別が前提のようだ。景観が「われわれが見るWe see」、風景は「私が見るI see」という区別もある。ここで確認すべきは、景観にしろ、風景にしろ、共有化された土地の姿が問題となることだ。K.リンチの『都市のイメージ』*がわかりやすい。土地に関する「集合イメージ」が問題なのである。景観条例が成立するのは、景観が地域のアイデンティティに関わる共有されたものだからである。

 さらに確認すべきは、景観あるいは風景は、視覚的な土地の姿のみに関わるわけではない、ということだ 。景観は確かに観ることに関わる。しかし、サウンドスケープ(音景観)という概念もある。例えば、水や風を感じるのは視覚のみならず、聴覚もあり、触覚もある。また、臭いを嗅いだり、舐めてみたりということもある。要するに、景観あるいは風景は、視覚のみならず、五感の全てで関じる土地の姿に関わると規定しておいた方がいい。


 b 景観のダイナミズム

 景観あるいは風景をめぐっては、まだまだ考えておくことがある。ひとつは景観のダイナミズムであり、また、そのレヴェルである。さらに、そのスケールである。

 景観は変化するものである。自然景観が四季によって異なるように、市街地景観も人々の営みによって日々姿を変える。新たな建物が建てられたり、既存の建物が建てられたり、長い間には市街地景観も変化する。この間あまりに急速に変化が起こったが故に、景観が意識されるようになったのであり、その前提は景観は変わらないというのではなく、変わるものだということである。

 あるいは、変わらないものと変わるものを分けて考えておく必要がある。自然景観はそう変わらないものであり、市街地景観のような人為的空間は変わるというのがわかりやすいかもしれない。しかし、大きく自然景観を変えてきたのが近代であり、自然破壊の事例は枚挙に暇がない。また、市街地景観であれ、自然景観を傷つけることによって、あるいは自然景観の中で成り立つのだから、その区別は簡単ではない。ここで言いたいのは景観を固定的に考えるのは不自然だということである。すなわち、景観はダイナミックに変化するものであり、保存(凍結保存)というのは本来不自然だという確認である。問題は、従って、変化の過程であり、その秩序である。

 景観を誰がどこで享受するものか、という問題がある。視覚的景観について言えば、どの場所で見る景観かという「視点場」の問題がある。全ての住民による全ての場所の景観が問題であることは言うまでもないが、景観という場合、上述したように共有され景観が問題となる。

 都市全体の景観、その都市を象徴する視点場からの景観もあれば、地区(コミュニティ)単位で共有された佇まいもある。また、大きな通りに沿ったパースペクティブな景観もある。大景観、中景観、小景観といった区別がなされるのは、むしろ当然である。

 ある土地の姿という時、そもそもその土地がどうアイデンティファイされるかが問題である。景観という観点において、地域はどう設定されるかである。自然景観の特性によって、ある土地なり、地域があるまとまりをもって設定される場合はわかりやすい。かってはそうであった。しかし、都市が一定規模を超えると、また、全国の都市が同じような景観を呈し出すと、そのまとまりが極めて曖昧となる。そこで、景観(土地、地域)のまとまりを地区毎に区別する必要がある。ある街の景観について、ある地区の景観やイメージのみで都市全体を議論するのは地区毎のアイデンティティを無視することにつなるのである。


 c 景観マニュアル

 景観あるいは風景という概念にたどたどしく拘ったのは、正直に言って、景観というものがわからないからである。結局、以上のように、極めて、全体的な概念として考えるしかない、と思えるからである。ストレートに言えば、景観は高さや色だけではない、ということである。高さや色に象徴されるものの背後に、以上のような何か全体的なものが問われているということである。

 そこで景観条例(●事例)である。景観条例とは一体何か。

 よく言われるように、景観条例は、どの自治体のものもそう変わりはない。基本的な方針をうたうだけだから、そう変わりはないのも不思議はないといえる。しかし、以上で確認したような、地域(地区)毎の固有性、景観のダイナミズム、景観のレヴェルやスケールの区別についての基本理念がうたわれるわけではない。「景観が大事である」というけれど、実は何が大事なのかはわからない。問題は、具体的な規定、マニュアルの次元で明瞭になる。景観マニュアルもまた全国どこの自治体でも似たりよったりなのである。

 自然景観を守れ、というのであればある範囲でその施策は共有できる。しかし、どういう建物が相応しいかについてはそう簡単ではない。

 よく問題になるのは、国立公園とか国定公園における形態規制である。国立公園内では、勾配屋根でないといけないという。また、曲線を使ってはいけないという。さらに、原色をつかってはいけないという。なぜそうなるのか。風致地区とか、美観地区でも同じである。ステレオタイプ化されたマニュアルが用意されており、建築確認制度とは別に許認可にあたって「建築家」は規制を受ける。

 「周囲の景観にあった」デザインがいい、という。それが「勾配屋根」であり、「曲線は駄目」であり、「原色は駄目」となる。恐ろしく短絡的思考ではないか。どうも、景観行政といってもそのレヴェルの話に留まり続けているようなのである。

 「陸屋根」が駄目というのであれば、近代建築は一切駄目ということか。「帝冠様式」の時代を思い出す。木造の架構であれば勾配屋根となるのはごく自然である。しかし、鉄筋コンクリート造の建物を全て勾配屋根にしろとは不自然であり、行きすぎればファッショだ。ヴァナキュラーな建築にだって陸屋根はある。やはり地域毎、地区毎に考えるべきではないか。何で曲線は駄目か。自然界は曲線に満ちており、直線の方が不自然だ。色ほど文化的なものはない。日本人は生成(きな)りの色を好む、といわれる。赤、青、黄色の原色は駄目、という。しかし、お稲荷さんの赤(朱)はどうか。緑に映えて綺麗だ、という人たちは多いのではないか。神社仏閣でも、多彩な色を日本でも使ってきたのである。

 何を根拠に形態や色彩を規制できるのか。以上で、まず言いたいのは、一律の規定、マニュアルなどありえないのではないかということである。具体的な判断は個々の場所に即して議論するしかないのではないか。そこで必要とされるのが、「タウン・アーキテクト」のセンスなのである。


 d 景観条例・・・法的根拠

 しかし、問題は別の次元ですぐ明らかになる。仮に、何となく、ある地域(地区)について、共有化された将来イメージが確認されたとしよう。その確認の手続きこそが大問題である。さらに、景観条例制定あるいはそれに基づく景観形成地区といった地域(地区)指定の前提に関わる大問題であるが、それ以前に、景観条例というものが何ら法的根拠をもたない、というさらに大きな問題がある。

 いくつか具体例を挙げよう(●資料)。

 ある県の景観審議会に相次いで「物件」(作品)がかかった。ひとつは七五メートルの高層ビル。京都が六〇メートルで大騒ぎ、ということを考えると、地方都市(京都、金沢と並んで三古都を宣伝文句にうたう)にはいささか不釣り合いだ。しかし、この作品は景観形成地域からほんのわずかだけれど外れていた。もうひとつは当初九階建てで計画されたマンション。これは景観形成地域内であった。このふたつの建物は湖の河口の橋を挟んで南北に位置し、いずれも、この上ない景観を享受する位置に立地する。

 結果だけ言えば、ふたつの建物はいずれも既に竣工している。

 景観審議会は、公開であった。極めて進んでいる県といっていい。いずれのケースも二度も設計者・施工者に対する公開ヒヤリングを行った。七五メートルの高層ビルの場合、あまりにヴォリュームが大きく、交通問題なども予想されることから、代替地を探すのはどうか、というのがオールタナティブであったが、問題にならなかった。建築基準法上の要件を満たしておれば確認を下さざるを得ない。

 面白かったのは、設計者が「周辺環境に配慮すべし」という景観条例は充分遵守した、と繰り返したことである。ヴォリュームそのものがスケール・アウトであればどうしようもない。どうせなら、日本のどこにもない、強烈なランドマークになる「目立つ」デザインの方がいいのではないか、というのが僕の挑発であったけれど、噛み合わない。景観とは一体何なのか。

 マンションの方は、明らかに景観条例違反であった。県がその土地を買い上げて公園化すべしというのが、委員の大半の意見であったが、うまくいかなかった。不思議なことに、階数を切り下げるということで決着がはかられた。それは筋が違うと、景観審議会としては、官報に施主者名を公表することになった。氏名公表が今のところ最大の罰則である。

 施主側にも言い分があった。ほぼ同じ位置にたつのに、高層ビルはOKで当該マンションは駄目だ、というのは納得できない。それに、既存の多くのビルが既に景観を壊しているのではないか、という主張である。

 かくして、この県の景観条例は、その効果が最も期待された「物件    」の    によ骨抜きにされたのであった。

 一体どうすればいいのか。どうせ法的根拠がないのであれば、もっと実効ある仕組みが考えられるべきではないか。


 8-3 タウン・アーキテクトの原型 


 a 建築主事

 建築確認行政に関わるのは建築主事*である。全国の土木事務所、特定行政庁に、約一七〇〇名の建築主事*がいる。

 建築行政といっても、確認行政に限定されるわけではない。都市計画に関わる施策の範囲は多部署にわたる。しかし、ここでは建築主事に限定して考えよう。「タウンアーキテクト」に一番近い存在は建築主事なのである。

 そもそも、「アーバン・アーキテクト」の構想は、建築指導行政のあり方についての反省から発想されたのである。

 建築確認行政は基本的にはコントロール行政であった。かって、警察がその仕事としていたように、基本は取り締まり行政である。建築基準法に基づいて、確認申請の書類を法に照らしてチェックするのが建築主事の仕事である。しかし、そうした建築確認行政が豊かな都市景観の創出に寄与してきたのか、というとそうは言えない。「アーバン・アーキテクト」構想の出発点はここである。

 建築主事が「タウン・アーキテクト」になればいいのではないか、これが僕の答えであった。全国で二千人程度の、あるいは全市町村三六〇〇人程度のすぐれた「タウン・アーキテクト」(「シティ・アーキテクト」)がいて、デザイン指導すれば、相当町並みは違ってくるのではないか。それこそが建築指導ではないか。

 実は、ヒントがあった。デザインにまで口を出す建築主事さんが実際いたのである。建築主事は、街のことをよく知っている。法律制度にも通じている。建築に理解のある、建築を愛する建築主事さんこそ「タウン・アーキテクト」に相応しいのである。

 しかし、そうはいかないという。デザイン指導に法的根拠がないということもあるが、そもそも、人材がいないという。一七〇〇人の建築主事さんは、法律や制度には強いかもしれないけれど、どちらかというとデザインには弱いという。

 もしそうだとするなら、「建築家」が手伝う形を考えればいいのではないか。第二の答えである。その形は様々に考えられる。また、必ずしも一人の「建築家」を想定する必要はない。デザイン・コミッティーのような委員会システムでもいい。

 問題は権限と報酬である。


 b デザイン・コーディネーター

 ある駅前のケース(●島根県出雲市)。突然知事が駅舎のデザインを発表する。神社の形式を模した切妻の屋根だ。一部市民が異を唱えた。しかし、それを議論する場所がない。鉄道線路が高架になり、JRは駅舎のデザインを独自に行う。相互を調整する部署がない。隣地に市の土地がある。市は「地域交流センター」を計画中だ。駅舎とどうマッチさせるか。

 こうしたケースは、日本中にある。

 景観条例は、周囲との調和をうたうけれど、そもそも、個別の建築活動を調整する仕組みが自治体の内部にない。繰り返し指摘される縦割り行政の弊害である。

 問題は、建築主事の問題を超える。都市計画行政と建築行政をつなぐそもそもの仕組みがないのである。

 公共建築の建設を考えてみても、下手をするとバラバラである。学校、美術館、体育館は教育委員会。物産館は商工部。発注者が自治体の中でも異なっている。営繕部が統括すればいいけれど、必ずしも権限を与えられているとは限らない。街がバラバラになるのは、バラバラの仕組みの上に建築行政、都市計画行政が展開されているからである。

 公共建築の設計については自治体内部に営繕部署がある。しかし、各自治体の営繕部もまた必ずしも一貫した仕事を展開する状況にない。ほとんど外部委託する場合も少なくないのである。


 c コミッショナー・システム

 「アートポリス」(●)「クリエイティブ・タウン・岡山(CTO)」(●)「富山町の顔づくりプロジェクト」(●)など、この間、「建築界」で注目を集めた試みは、強力なリーダーシップをもった首長によるものであった。

 一定規模以下の市町村では、都市計画の全体を統合する役割は首長に期待できる。「タウン・アーキテクト」としての首長である。建築市長あるいは建築副市長の制度をもつ市がドイツにはある。

 あるいは建築好きの首長のブレインに「建築家」がつくケースが考えられる。コミッショナー・システムである。

 しかし、いずれも問題がある。首長は任期に縛られる。首長が替わることにおいて、施策の継続性が担保されないことが多いのである。公共建築の設計施工が建設業界の利権に結びついており、首長の交替が支持層の交替に結びつくのである。

 特定の「建築家」によるコミッショナー・システムも同様の問題をもつ。基本的に「建築界」のボス支配に結びつく可能性をもつからである。コミッショナーは余程の見識をもつ「建築家」でなければ、システムはうまく機能しない。

 公共建築の設計については、「設計者選定委員会」のような委員会システムも考えられる。実際、様々な自治体で、そうした委員会がつくられている。いずれにせよ問題は、公平、公開、公正の原理がきちんと機能しているかどうかである。

 しかし、それ以前に「タウン・アーキテクト」が関わるのは公共建築の設計のみではない。


 d シュタット・アルヒテクト(●)

 ドイツの「シュタットアルヒテクト」制も、相当多様なようだ。また、必ずしも制度化されているわけではない。さらに、思ったほど権限もないらしい*3。

 ただ、法体系が違う。都市計画の上位計画権は市町村にあるのである。憲法に明確にうたわれている。市町村の「建築法」があって、その下に州の「建築法」がある。そして、その下に「記念物保護法」がある。

 また、様々なスケールの計画図書が用意されているのも違う。都市開発計画(1:20,000)、土地利用計画(1:10,000)、まちづくり基本計画(1:2,000)、地区詳細計画(1:1,000)。この地区詳細計画が法的拘束力をもっていることはよく知られている。

 シュタット・アルヒテクトに仕事を依頼するのは市町村である。議会が何人かの「建築家」から選定する場合もあれば、市長の知り合いに頼む場合もある。しかし、ほとんどの場合、都市計画局の依頼だという。その場合、コンサルタントといっていいのではないか。日本でもそう変わりはない。

 もちろん、いずれの場合も厳格な中立性が求められる。西欧における公共性の概念の歴史の厚みを思い起こしておく必要がある。

 計画書の作成にはしかるべき報酬が払われる。個々の指導については、費やした時間に応じて報酬を請求する。仕事の内容によって報酬の基準が定められている。指導内容は記録に残すのが原則である。報酬などがまだ曖昧であるにせよ、このあたり、日本の自治体でも試みられ始めた「コンサルタント派遣」の仕組みとそう遠くはないのではないか。

 再開発事業の場合、シュタット・アルヒテクトの報酬は事業費の中でまかなわれる。あくまでも、第三者として、中立的判断を行うのが原則である。一企業、一事業舎の利益を考えてはならない。シュタット・アルヒテクトは、その都市で民間の仕事を行うのは原則として控える必要がある。実際には、仕事を行うことはもちろんある。


 e コンサルタント・・・NPO(ノン・プロフィット・オーガニゼーション)*●

 もちろん、シュタットアルヒテクトについてはもっと研究する必要がある。また、他の国や地域についても情報が欲しい。しかし、それぞれの地域で、独自の仕組みを考え出すのが本来である。それが本来景観に迫る道である。

  上で少しだけ覗いたように、様々な仕組みの萌芽はある。また、既存の仕組みが有効に機能すればいい、ということもある。「建築審議会」にしろ、「景観審議会」にしろ、「都市計画審議会」にしろ、本来、「タウンアーキテクト」としての役割をもっている筈である。しかし、審議会システムが単に形式的な手続き機関に堕しているのであれば、別の仕組みを考える必要がある。

 「まちづくり協議会」方式も、「コンサルタント派遣」制度もそれぞれに可能性をもっている。阪神・淡路大震災後の復興まちづくり運動にその萌芽がある。「タウンアーキテクト」の嘱託制度もすぐやろうと思えば出来る。NPOのまちづくりの仕組みへの位置づけも一般に認識されつつある。

 一方、コミュニティ自体から仕事を受ける形もあってもいい。コミュニティ・ビジネスの成立可能性も模索されるが、果たして日本ではどうか。


 8-4 「タウンアーキテクト」の仕事

 タウン・アーキテクトの具体的な像を描いてみよう。すぐさまできることは少なくないのである。


 a 情報公開

 建築界に限らず日本社会のあらゆるレヴェルで情報公開(ディスクローズ)が求められている。とりわけ、中央官庁をはじめ地方自治体など行政当局の情報開示は時代の流れである。市民に対して、公平、公正であることを原則とするのであれば、情報公開はその前提とならなければならない。

 まず、最初の指針は情報公開である。

 既存のまちづくりの仕組みにおいても情報公開はすぐさま出来るはずである。都市計画審議会、建築審議会、景観審議会といった審議会システムも公開にすることによって形式的、手続的ではない実質的なものとなる可能性がある。実際、公開されている「景観審議会」もあるのである。まちの景観全体について責任をもつ、少なくとも議論を行って指針を提示する「景観審議会」の会長は、タウン・アーキテクトとして位置づけられていいだろう。景観審議会は、本来、タウン・デザイン・コミッティーとしての役割を持っているのである。

 景観賞●などまちづくりに関わる懸賞制度の審査会も公開でいい。まちづくりに関わる議論を公開することによって、ひとつには、まちづくりの方向をめぐって、また、まちのアイデンティティをめぐって、ある共通の理解を育む機会が得られる。行政当局の位置づけとしては、ひとつの啓発活動である。また、行政内容についての説明責任を果たすことにもなる。

 

 b コンペ・・・公開ヒヤリング方式

 公共建築の設計競技の審査におけるヒヤリングも原則公開としたい。行政側としてはほとんど手間はかからない。公開ヒヤリングを行う場所の設定さえすればいいのである。公開ヒヤリングについては、島根県でいくつか経験がある。「加茂町文化センター」●「悠々故郷会館(川本町)」●「出雲市地域交流センター」●「鹿島町体育館」(●)などである。

 設計競技については、その競技方式をめぐって多くの議論がある。設計料入札が未だに行われつつある現状は、改革すべき多くの問題を抱えていると言わなければならない。しかし、まちのアイデンティティ形成という観点から、公共建築の設計者選定は考えられるべきである。

 特命、指名、公開、あるいはプロポーザル方式、二段階方式といった設計者の選定方式は多様であっていい。ただ、設計料の入札によってその金額の多寡によって設計者を決めるというのは言語同断である。設計の質は設計料によって決して担保されないのである。

 特命指名だから悪いということではない。他の設計者に代え難い能力をもっているとその設計者が認定できれば特命でも差し支えはないのである。問題は誰がどこで認定するかである。一般的には、特命の発注の決定が非公開で行われることに問題がある。また、通常、設計者の決定を行うのは首長であり、議会の承認を得る。議会において特命の根拠が説明できなくて、形の上だけで指名競技が行われるのが疑似コンペである。

 いずれの方式をとるにせよ、全ての設計者選定のヒヤリングを公開とする。これで随分すっきりする。具体的に、指名設計競技の場合を例にとって説明しよう。

 何人かの建築家がある公共建築の指名設計競技に指名されたとしよう。この場合、要求する提案内容は様々であってよい。いわゆるプロポーザル方式も含める。ただ、提案内容ではなく、建築家を選ぶ、あるいは組織体を選ぶという形のプロポーザル方式はとらない。あくまでも具体的な土地について、具体的な建物についての提案があって初めて設計者が選定できるというのが前提である。プロポーザル方式というのは人あるいは組織を選ぶのだという主張があるけれど、既往の実績の評価で設計者を選定するのであれば設計競技は必要ない。建築家にとって設計競技への参加が多大な労力を要することと指名料など設計競技にコストをかけたくないという行政の意向でプロポーザル方式が推奨されるが、全く間違いである。全ての公共建築はじっくりと時間とお金ををかけて練られるべきなのである。

 提案内容のフォーマットについては様々でいいが、後述するように、公開ヒヤリングが一般市民にも開かれたものであることを前提とするとき、専門の建築家だけでなくわかりやすいプレゼンテーションが求められるべきである。「A3」数枚程度でも提案内容は表現できる。どんな設計競技においても、設計競技への参加者は自らの提案内容をわかりやすく提示することは当然である。

 さて、数名から一〇名ぐらいまでの指名設計競技参加者から提案がなされると、通常、ヒヤリングというのが行われる。ヒヤリングを行わないケースもあるけれど、その場合、提出物は相当詳細なものが必要となる。提出物を簡素にするプロポーザル方式による場合、ヒヤリングが原則である。公開設計競技の場合や指名設計競技でも二段階で行われる場合は、一段階目での書類選考はありうる。しかし、最終決定の際にはヒヤリングを前提としたい。審査員の能力の問題とも関連するけれど、提案の意図を直接質疑応答することによって、決定のための正確な情報を確認することが必要だからである。

 ヒヤリングは二〇分から三〇分程度、密室で順次個別に行われるのが通常である。これを公開で全指名競技参加者が同席した上で行おうというのが公開ヒヤリング方式である。時間の関係で数名程度の参加が基本となる。

 審査委員会の委員長が司会を務める。まず、各提案者が提案内容を二〇分程度で説明する。二~三名の補助説明者を認める場合がある。その後、質疑応答を審査委員を含めて行う。一種のシンポジウム、パネル・ディスカッションの形式である。その意義は以下の通りである。

 ①住民の地域における生活に密接に関わる公共建築がどのようであるべきか様々な角度から議論する場となる。まちづくりのイヴェントとして位置づけることもできる。

 ②建築家にとって、自らの提案内容を審査委員のみならず、住民に直接アピールする場となる。まず、他の提案者の提案との差異を強調する必要がある。一方、専門以外の住民、審査員にもわかりやすく説明する必要がある。建築家には負担が大きいが、自己訓練の場でもある。一般の人々に建築の楽しさを理解してもらう絶好の機会となる。

 ③審査員にとって、同じテーマについては共通に聞くことができ、比較できるメリットがあり、時間の節約にもなる。一方、質問の内容は、審査員の関心、判断根拠を提案者、住民に示す機会となる。審査員の見識もオープンに問われるのである。

 本審査は原則非公開でいい。公開で決定することももちろん行われていいけれど、特に建築専門以外の審査員の自由な意見が出にくいことがある。住民投票によって決めることを主張する向きもあるけれど、町並み形成に関わる判断はそれなりの専門的知見とセンスが必要である。また、用地決定などで政治的に対立がある場合、提案内容の質とは別の要素が介入する恐れがある。住民相互が十分に議論する場が保証される場合は住民投票ということも考えられるけれど現状では難しい。例えば、京都の「ポン・デ・ザール(三.五条大橋)」*建設問題で、都市計画審議会の案の閲覧公開に対する意見書は地元住民を中心に賛成多数であったけれど、有識者がマスコミをベースに反対運動を展開するというように、議論の場がない。住民投票制度など、きちんとした決定の仕組みについて情報が周知徹底していることが前提となる。

 本審査は非公開としても、可能な限り詳細な報告書がつくられるのが鉄則である。基本的には公開が精神であるということである。何度かの投票を行った場合、審査員がそれぞれどう投票したかは公開されたかは記録され、講評されるべきである。そうすることにおいて審査員も評価され、その役割も果たすことができるのである。

 しかし、まだまだ現実は厳しい。以下のような事例もある。


 「鹿島町立体育館公開コンペ」「建築専門委員 結果に不満」「町側委員に押し切られた」「運営方法に問題 在り方に疑問の声」という見出しが山陰中央新報の一面を飾った(1996年8月9日)。リード文には、「決定した島根県鹿島町の町立総合体育館の設計案をめぐって、審査した建築専門委員がそろって「町側委員に押し切られた」とし、審査結果に不満を評している。決定案は町側委員が強く支持、建築専門委員は「管理しやすい以外、何の評価もない。他案とのレベルの差は歴然」と主張したが、聞き入れられなかった。」

 建築専門委員のひとりが筆者である。審査委員長を務めた。審査については、報告書に述べる通りである。審査委員長として報告書以外に言うべきことはない。

 ただ、冒頭のような記事が載ることになったのは、報告書の以下のような付記が公開されなかったからである(現在では公開されている)。

 「付記(審査委員長の個人的見解):審査内容、経過についての報告は上記する通りである。審査が慎重かつ公正に行われたことはいうまでもない。しかし、審査結果は、委員長個人の評価判断とは異なったものとなった。審査結果と個人的評価の違いを説明することは、設計競技への参加者、公開ヒヤリングへの参加者、また町民への委員長としての責務と考えて以下に付記する次第である。

 選定された案は、コンパクトにまとめられていること、従って管理がしやすいこと、また、メンテナンスにかかる費用等が他案に比べてかからない(と思われる)こと等、専ら、管理者側の評価を重視して選定されたものであって、他の点についてはとりたてて見るべきものがない。他案にはるかにすぐれた提案が多かったことは、審査評に示す通りである。最終的には、「夢を取る」か「無難な案」を取るかが争点となったが、長時間の議論の末、町側委員、町長以下事務当局の意向および能力として、選定案以外を受け入れることができない、と判断して多数決に従うことにしたのが経緯である。

 選定案は、以下のような欠点がある。実施に当たっては、可能な限り良い施設となるよう、選定された設計者は、当局、町民と協力し合って努力されたい。・・・(以下、箇条書きの要望事項)・・・以上再度慎重な検討をされたい。」

 こう書かざるを得ない案を選ぶ羽目に陥った不徳を恥じるばかりである。そもそも審査委員構成が問題であった。助役、教育長、議長と専門委員2人の構成である。町側委員に建築関係者を入れるように要請したのであるが、「小さな町で建築の専門家はいない、県庁OBの技術者を嘱託として(投票権無し)事務局につけるから」ということであった。町はじめてのコンペであり、しかも公開ヒヤリングをやることを了解してもらっており、とにかくコンペを行うことの意義を優先した判断であった。結果として墓穴を掘った。自らの非力を感じざるを得ない。建築専門家としての判断に徹底して執着すべきだという気も全くないわけではなかったが、仕組みを優先するために多数決には従わざるを得なかったのが経緯である。

 つくづく感じたのは、建築の世界が全く一般に理解されていないということである。教育長にしろ、助役にしろ、議長にしろ、町の中ではすぐれた見識の持ち主である。そうした見識者に、建築のもつ全体として意義がなかなか通じないのである。素朴機能主義的な評価、デザインより機能といった二元論的理解を抜けれないのである。

 もっと問題なのは、行政当局、事務局の管理者的態度、小官僚的発想である。自分たちの仕事が煩雑でないことのみがチェックリストにあげられる。

 さらに痛切に感じたのは、「建築」アレルギーである。スター建築家が、メンテナンスを考えずに「やり逃げ」する。苦労するのは自治体で、「建築家」は責任をとらない。「見てくれだけの建築は要注意!」というのが、常識になっている。当然のことである。

  「何のための公開ヒヤリングか」(山陰中央新報 9月5日)において、脇田祥尚島根女子短大講師がフォローしてくれている。公開ヒヤリングの意義がまさに問われていると、さらなる議論の必要性を訴えているのである。「島根方式」と呼ばれ出そうとしている公開ヒヤリング方式は、これまで比較的うまく行った例が多かった。今回はそれ以前に問題があった。しかし、それでも建築の世界を外へ開くきっかけにはなったと思う。公開ヒヤリング方式の定着を願うばかりである。

             

 c タウン・デザイン・コミッティ・・・公共建築建設委員会

 ところで、設計競技における最大の問題は、実は審査委員会の構成である。審査委員会は、基本的には首長が任命する形をとる。住民(議会)、行政当局(担当部長)、専門家(建築家)、関連団体、有識者等々、あるバランスを考えて組織される。まず、このバランスについてまず問題がある。建築専門家とそれ以外の委員の判断が往々にして食い違うのである。また、専門家といっても、分野は様々で、実務に通じているかどうかで相当違う。まあ、建築界としては審査員の過半は建築界から選んで欲しいというところだろう。実際、審査員の構成が決定に大きく左右するのだから、審査委員会の決定こそが予め問題であることは明らかである。

 第一の問題は、審査委員会が全くテンポラリーに組織されることである。場合によると、設計条件や応募要項に審査員が全くタッチしない場合もある。それでは審査委員はあまりにも無責任である。また、審査が終わると審査委員会は解散し、設計の過程で様々な問題が起ころうと重大な変更がなされようと無関係であることが多い。審査委員会は設計案あるいは設計者の選定のみに関わる場合がほとんどである。すぐれた公共建築を実現するために設計競技の審査委員会はもっと責任をもつべきである。

 そのためには、審査委員会はその建築物が竣工するまで(あるいは竣工後も)は解散しない形を模索するのがいい。設計競技の審査委員会を一種の建設委員会へと接続するのである。

 こうして一定期間、具体的にはあるひとつの公共建築物の設計建設過程について一貫して責任をもつボードが成立する。タウン・アーキテクトないしタウン・デザイン・コミッティーのひとつのイメージがここにある。

 個々の公共建築の建設を肌理細かく行うことは、まちの景観をつくっていく上で極めて重要である。しかし、どのような施設を配置していくかについては上位のデザインが必要である。いわゆる都市計画が必要である。しかし、一般に都市計画というと必ずしもランドスケープ・デザインに関わるわけではない。ゾーニング(都市計画区域の決定)、区画整理、道路整備、公共施設の建設といった手法が一般的にとられるが、ランドスケープ・デザインとしての相互の関連づけは行われない。そこで、まちの景観について、一貫した調整を行う機関が必要となる。

 具体的には、まず、公共建築について、設計者をどう配置していくかがわかりやすい。様々な自治体で設けられている設計者選定委員会がその役目をになう。

 設計者選定委員会は、場合によっては、設計者の選定のための設計競技方式と審査委員会(前述のイメージではこれが建設委員会になる)の組織を提案する。設計者そのものを直接選定するより、その選定方法を決定するという形で二重化しておく方が様々な利害を調整する上でよりすぐれている。

 具体的なイメージは以下のようである。

 高度な技術あるいは特殊な技術を必要とする建築、地域外の建築家の経験蓄積に期待する設計競技方式をとる。公開コンペによって広く英知を求める。地方自治体でも国際公開コンペを行うことも可能である。地域に密着した施設については地域の建築家を優先する。地域外の建築家の参加を求める場合も、地域の建築家との協動(JVなど)を求める。要するに地域性を踏まえ、地域で暮らしていく建築家のあり方が常に具体的にイメージされている必要がある。設計者選定委員会は、個々の町並み形成に相応しい設計者選定の枠組みを提示するのである。

 中央のスター・アーキテクトが地域で仕事をすることももちろんあっていいけれど、タウン・アーキテクトの存在基盤はあくまで地域との持続的関わりが前提とされなければならない。それを担保するのが公共建築の設計者選定を主要な機能とするけれど恒常的に設置されるタウン・デザイン・ボード、あるいはタウン・アーキテクトである。特に、土木構築物にも積極的にデザイナーを登用する役割がこのデザイン・ボードにはある。 


 d 百年計画委員会

 いささか公共建築の設計者選定の問題に立ち入り過ぎたかも知れない。しかし、公共建築のデザインはまちのアイデンティティ形成に大きな力を持っており、そのデザインをめぐる議論の場と方向性は持続的な場がなければ維持できない。首長が替われば都市計画の方針ががらりとかわうのが日本の常である。しかし、まちづくりというのは継続性が極めて重要である。首長や議員の任期に縛られない仕組みの構築が必要である。

 その仕組みとして面白いのが「百年計画委員会」の構想である。それぞれのまちの百年後の姿を思い描く委員会をそれぞれのまちがもつのである。これもタウン・デザイン・コミッティーの役割のひとつのイメージになる。

 奈良町百年計画●あるいは京都グランドヴィジョン・コンペ●ということで、まちの百年後を思い描く試みを行ったことがある。実に有効である。奈良町の場合、各個人の家の百年後がわかる図(1/800の縮尺)を描いたのであるが、個々人の関心も惹きつけることができる。

 まず、面白いのは百年後に残っているものと残っていないものを分けて見る必要があることだ。鉄筋コンクリートの公共建築よりも意外に木造住宅の方が残っている可能性がある。百年後には誰も生きてはいないけれど、各自治体にとって大事なものを評価する作業が百年計画には不可欠である。各自治体には、恒常的に百年後を考え続けるボードが欲しい。まちの賢人会議といったかたちでもいいし、既存の審議会を永続化する形でもいい。


 e タウン・ウオッチング---地区アーキテクト

 もういくつかタウン・アーキテクトのイメージを膨らましておこう。ひとつは、個々の建築設計のアドヴァイザーを行う形が考えられる。住宅相談から設計者を紹介する、そうした試みは様々になされている。また、景観アドヴァイザー、あるいは景観モニターといった制度も考えられる。とにかく、まちの姿の現状について把握するのがタウン・アーキテクトの出発点である。

 まちといっても市町村の規模は様々である。まちの全体の景観とともに地区毎のアイデンティティが重要であることは上述した通りである。そうすると、地区アーキテクトのような存在を想定することができる。地区アーキテクトが集まって、タウン・デザイン・コミッティーが構成されるのである。

 地区アーキテクトはもちろん複数であってもいい。当面、大学の研究室単位で地区を分担する形をとってもいい。地区アーキテクトは、地区の現状をまず調査する。図面や写真として記録する。年に一度調査を行って、変化を報告する。余裕があれば地区の将来像を描き、具体的な建築行為(増改築、建替)についてアドヴァイスを行う。まちの現状を常に把握(タウン・ウオッチング)するのがタウンアーキテクトの出発点である。

 具体的な計画の実施となると、様々な権利関係の調整が必要となる。そうした意味では、タウン・アーキテクトは、単にデザインする能力だけでなく、法律や収支計画にも通じていなければならない。また、住民、権利者の調整役を務めなければならない。一番近いイメージは再開発コーディネーター*であろう。


 f タウン・アーキテクトの仕事

  おそらくは複数からなるタウン・アーキテクツの具体像を想い描いてみよう。

 タウン・アーキテクトは以下のような職務を担う。

 ①まちの景観デザインのあり方について調査を行い、その将来にわたってのあり方についての基本的考え方をまとめる。あるいはそれを議論する場を恒常的に維持する。

 ②まちの景観デザインに関わる公共事業のあり方について自治体に対するアドヴァイスを行う。特に公共建築の建設維持管理について体系化を計る。

 ③公共建築の設計者選定について、その選定方式を提案し、その実施についてアドヴァイスを行う。

 ④住民の様々なまちづくりの活動、建築活動について景観デザインの観点からアドヴァイスを行う。あるいはそのためのワークショップなど様々な仕組みを組織する。

  ⑤地区を定常的に観察し、その将来のあり方についてアドヴァイスする。また、定常的に町のあり方を考えるヴォランティアを組織する。

 問題は、権限と報酬である。条例などによって権限を設定できればいいけれど、地方自治法等との絡みで難しい面もある。考えられるのは、タウン・アーキテクトを自治体の臨時雇員あるいは嘱託とすることである。あるいは建築市長という形がとれればいい。権限はともかく報酬は、何らかの形で保証されなければならない。

 当然、任期制を採る。また、任期中は当該自治体での公共建築の実施設計には当たれないのが原則である。

 

  タウン・アーキテクトの具体像といっても以上はスケッチにすぎない。実際には様々な形態が考えられるであろう。既存の建築関連諸団体との連携も充分とる必要がある。

 一方、最大の問題はまちづくりや景観デザインに関心をもつ「住民」「市民」の「不在」である。あるいは「受動性」である。また、「タウン・アーキテクト」というに値する能力と見識を持った人材の不足である。下手な制度化を考えるより、まずは実例を積み重ねる、そんなところがとりあえずの方針である。

 

 8-5 京都デザインリーグ(●図 地図)

 何から始めるか。身近に、出来ることから、というのが指針である。

京都についてはいくつか決定的な問題を指摘できる。まず、第一にステレオタイプ化された発想(問題の立て方)がある。思考の怠慢といってもいいと思う。「京都の景観問題」というと、まず、建物の高さが問われ、建設するかどうかが問題となる。しかし、どのような高さならいいのか、建設するならどうあるべきか、という方向に議論は進まない。そして、事後?、議論は停止する。

 開発か保存か、観光かヴェンチャービジネスか、博物館都市へ、木造都市へ、京都をめぐる提案は二者択一の紋切り型のものがほとんどだ。提案のみがあって、具体化への過程が詰められることがない。もっと日常的にまちを考えたい。

 そこで思いつくのが、以下にイメージする京都デザインリーグ(仮称)構想である。

  京都に拠点を置く大学・専門学校などの建築、都市計画、デザイン系の研究室が母胎となる。研究室は、それぞれ京都のある地区を担当する。地区はダブってもいいが、地区割会議によって可能な限り京都全域がカヴァーできることが望ましい。

 「京都の景観問題」というと、極く限定された地区や建物しか問題とされない。ジャーナリスティックに問題されるのは、「京都ホテル」や「京都駅」のようなモニュメンタルな建築物である。京都の問題というと山鉾町であり祇園である。議論はそうしたいくつかのハイライト地区に集中して、他は視野外に置かれるのが常である。おそらく、他の都市でも同じ様なことがあるのではないか。まち全体をウォッチングする仕組みが必要である。

 各研究室は、年に一日(春)、担当地区を歩き一定のフォーマット(写真、地図、ヴィデオ等々による地区カルテの作成)で記録する。そして、各研究室は、一日(秋)集い、各地区について様々な問題(変化)を報告する。以上、年に最低二日、京都について共通の作業をしましょう!というのが、提案だ。

 もちろん、各研究室は担当地区について様々なプロジェクト提案を行ってもいい。地区の人たちと様々な関係ができれば実際の設計の仕事も来るかもしれない。それぞれに年一回の報告会で、提案内容を競えばいい。ただ、持続的に地区を記録するのはノルマだ。できたら、記録をストックしておくセンターが欲しい。各自治体のまちづくりセンターはそうした役割を果たすべきであろう。

 まちづくりの大きな問題は、取組みに持続性がないことである。ここで研究室を主体とするのは、持続性が期待できるからである。また、まちにある研究室として持続的にそのまちのことを考えるのは義務かもしれない。一般に、研究者やプランナーは、ある時期特定のテーマについて作業を行い、報告書を書き、論文を書くけれど、一貫して地区に関わることは希である。そこで連携と調整が必要である。そこでデザイン・リーグである。各大学のリーグ戦としてまちの景観を考えるのである。

 京都市立芸大、京都府大、京都工業繊維大学、京都大学、京都精華大学、京都造形大学、立命館大学、成安造形大学、・・・20研究室ぐらいの参加が見込めるであろうか。しかし、それでは全域をカヴァーするのはしんどい。でも京都ということで、全国の研究室が参加すれば、あるいは建築家が組織として参加すればわけない。京都・デザイン・リーグ構想は、タウン・アーキテクト制のシミュレーションとして、どんな町でもすぐさま開始される構想でもある。



*1 「アーバン・アーキテクト」、梅野住宅局長 巻頭言 建築技術教育普及センター・ニュース、一九九四年

*2 日経アーキテクチャー インタビュー

*3 アレキサンダー・シュミット、「美しいまちなみ景観に関する講演会」、建築技術教育センター、一九九七年四月

2021年10月4日月曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説 Ⅳ タウン・アーキテクトの可能性  第7章 「建築家」捜し

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



Ⅳ タウン・アーキテクトの可能性

第7章 「建築家」捜し

 

 7-1 「建築家」とは何か

 原広司の「建築とは何か」を問うより「建築に何が可能か」*1を問うべきだというテーゼにならえば、「建築家」という概念を括弧にくくって、あるいは棚上げして、「建築家」に何ができるか、あるいは「建築家」は何をすべきかこそを問うべきだ。

 磯崎新の『建築家捜し』*という本のタイトルは意味深長である。その内容は、「建築家とは何か」を真正面から問うというより、自らの仕事を回顧し、一区切りをつけようとしたものである。一九九六年に入って、『造物主議論』(鹿島出版会)『始源のもどき』(鹿島出版会)『磯崎新の仕事術』(王国社)、そして『建築家捜し』(岩波書店)と立て続けに四冊の著書を上梓したのであるが、磯崎にとってのある区切り、ひとつの時代が終わりつつあることを暗示していて興味深い。そして、さらに興味深いのは、日本の建築界をリードし続けたその磯崎が、自らの軌跡を振り返って、「建築家」とは一体何者なのかわからない、と言い切っていることである。

 「正直なところ、私には二つのコトが本当にわかっているように感じられなかった。ひとつは、普段に私が自称している建築家であり、もうひとつは日常的にそれについて仕事をしているはずの《建築》である。この二つのコトを排除したら私はなにも残っていないだろう。建築家を自称し、職業として登録している。そして、建築物のデザインをし、建築物についての文章を書き、これに関わる言説をひねり、文化や思想の領域にそれを接続しようとしてもいる。だが、と私は自問していた。本当のところ何もわかっちゃいないんじゃないか。」*2

 磯崎ですらこうである。というより、ここには「建築家とは何か」という問いの平面が仮構されていることをまずみるべきだろう。「建築家」をめぐる、観念的な、あるいは一般的な問いの領域が必要とされているのである。磯崎の「建築家」論には、その現実的な存在形態についての問いが抜けている。社会や生産システムのなかの「建築家」のあり方についての問いである。逆にいうと、「建築家」捜しを続けないと「建築家」がなりたたない現実があるということである。「建築家」の営為をなりたたせる平面、場所を仮構し続けながら、結局わからないといわざるを得ない、のである。


 7-2 落ちぶれたミケランジェロ

 アーキテクトの職能確立の過程で既に分離、分裂が始まっていた。否、むしろ、今日の「建築家」の理念は、第4章で見たような分離、分裂において成立したとみるべきであろう。

 分離、分裂以後、広く流布する「建築家」像が「フリー・アーキテクト」である。フリーランスの「建築家」という意味だ。それは今でも建前として最も拠り所にされている「建築家」像である。すなわち、「建築家」は、あらゆる利害関係から自由な、芸術家、創造者だ、というのである。もう少し、現実的には、施主と施工者の間にあって第三者としてその利害を調整する役割をもつのが「建築家」という規定がある。施主に雇われ、その代理人としてその利益を養護する弁護士をイメージすればわかりやすいだろう。医者と弁護士と並んで、「建築家」の仕事もプロフェッション*のひとつと欧米では考えられている。

 もちろん、こうした「建築家」像は幻想である。いかなる根拠においてこうした「建築家」がなりたつのか。すなわち、「第三者」でありうるのか。その根拠として、西欧的市民社会の成熟、あるいはキリスト教社会におけるプロフェッションの重みが強調されるけれど、「建築家」たちが社会的に存在するにはそれを支える制度がある。建てる論理の前に食う(報酬を得る)論理がある。ジョージ・ダンス*の建築家クラブも、専ら報酬のことを問題としていたのである。

 彼らは、「建築家」という理念の解体を目前にしながら、その理念を幻想として維持するために特権的な制度=インスティチュートをつくったのである。「建築家」は、予め、先の諸分裂に加えて、建てる論理と食う論理の分裂を自らの内に抱え込みながらながら成立したのだといっていい。そして、イギリスにおいて、そうした幻想としての「建築家」像を担保したのは「王立」組織(「王権」)であり、「神」(あるいはデミウルゴス)であった。

 しかし、いずれにせよ、万能人としての「建築家」像の分裂は、近代社会において誰の眼にも明らかになった。その分裂は、多くのすぐれた「建築家」の嘆くところとなる。

 「偉大な彫刻家でも画家でもないものは、建築家ではありえない。彫刻家でも画家でもないとすれば、ビルダー(建設業者)になりうるだけだ」 ジョン・ラスキン*

 「ローマの時代の有名な建築家のほとんどがエンジニアであったことは注目に値する」 W R レサビー*

 「建築家の仕事は、デザインをつくり、見積をつくることである。また、仕事を監督することである。さらに、異なった部分を測定し、評価することである。建築家は、その名誉と利益を検討すべき雇い主とその権利を保護すべき職人との媒介者である。その立場は、絶大なる信頼を要する。彼は彼が雇うものたちのミスや不注意、無知に責任を負う。加えて、労働者への支払いが予算を超えないように心を配る必要がある。もし以上が建築家の義務であるとすれば、建築家、建設者(ビルダー)、請負人の仕事は正しくはどのように統一されるのであろうか。」ジョーン・ソーン卿*

 「歴史と文学を知らない弁護士は、機械的な単に働く石工にすぎない。歴史と文学についての知識をいくらかでももてば、自分を建築家だといってもいいかもしれない。」 ウォルター・スコット卿*

 建築家とは、今日思うに、悲劇のヒーローであり、ある種の落ちぶれたミケランジェロである、とニコラス・バグナルはいう。

 

 7-3 建築士=工学士+美術士

 「建築」あるいは「建築家」という概念が日本にもたらされて以来、日本も西欧の「建築」あるいは「建築家」をめぐる議論を引きずることとなった。あるいは「建築家」という幻想に翻弄されることになった。

 お雇い外国人技術者として日本に招かれたJ.コンドル*は、シビル・エンジニアとアーキテクトの分離を前提として、イギリスからやってきた。しかし、サーヴェイヤーとアーキテクトはJ.コンドルにおいて未分化だったといえるかもしれない。彼に求められたのは、何よりも実践的な技術を教えることであり、「建築家」として実際建てて(実践して)見せることであった。彼の工部大学校における講義は、「造る術」の全般に及んでいる*3。

 J.コンドルを通じて、日本には、なにがしかの全体性をもった「建築家」という理念がもたらされたといってもいいかもしれない。しかし、富国強兵、殖産興業の旗印のもと、予め工学の枠を前提として「建築」が、「技術」の一科として導入されたことは日本の「建築家」を独特に方向づけることになった。美術ですら「技術」として「工学」の一範疇として西欧から導入されたのが日本の近代なのである。

 そうした日本の「建築」の出自において、「建築」の本義を論じて、その理念の受容をこそ主張したのが伊東忠太であった*4。その卒業論文『建築哲学』にしろ、建築学における最初の学位論文である『法隆寺建築論』にしろ、建築を美術の一科として成立させようという意図で書かれている。

 しかし、日本の場合、地震という特殊な条件があった。建築における構造学を中心とする工学の優位はすぐさま明らかとなる。当初から、「建築」は分裂をはらんで導入されたのであった。建築における美術的要素の強調は、建築家の定義をめぐって、せいぜい「建築士=工学士+美術士」といったプラス・アルファーの位置づけに帰着するものでしかなかったのである。素朴な用美の二元論と同相の建築家像の二元論は、大正期の建築芸術非芸術論争*に引き継がれ、いわゆる「芸術派」(自己派、内省派)と「構造派」の分裂につながっていく。明治末から大正期にかけて、住宅問題、都市問題への対応を迫られるなかで、既に見たように「社会改良家としての建築家」という概念も現れる。

 そして、大正末から昭和はじめにかけて、「芸術派」批判として「社会派」が定着していくことになる。しかし、それも、もうひとつ分裂の軸を付け加えるだけであった。「建築家」における「芸術派」「構造派」「社会派」の、相互につかず離れずの三竦(すくみ)みの構造は今日に至るまで生き延びることになる。日本における「建築論」がそうしたいくつかの分裂を背景として仮構されたのは明らかである。


 7-4 重層する差別の体系

  こうして、日本の建築界にはいくつもの分裂が組み込まれていく。日本の「建築家」像を問うのがうんざりするのは、様々な差別が重層するその閉じた構造の故にである。

 まず、建築(アーキテクチャー)と建物(ビルディング)の区別がある。それに対応して、「建築家」と「建築屋」の区別がある。

 あるいは、「建築」と「非建築」の区別がある。数寄屋は「建築」ではない。大工棟梁、職人の世界は「建築家」の世界と区別される。

 「建築」と「住宅」も区別される。さらに「住宅作品」と「住宅」が区別される。そうした区分に応じて「建築家」と「住宅作家」が区別される。

 「構造」と「意匠」が区別される。かって、「意匠」「図案」は婦女子のやること(佐野利器)とされたのであるが、なぜか「意匠」を担当するのが「建築家」だという雰囲気がある。さらに、建築界の専門分化に応じて、様々な区別がなされる。全体として「建築家」と「技術屋」(エンジニア)が区別される。

 「設計」と「施工」が区別される。それに対応して、「建築士」と「請負業者」が区別される。この「設計」「施工」の分離をめぐっては、近代日本の建築史を貫く議論の歴史がある。第3章で見たように、建築士法の制定をめぐる熾烈な闘争の歴史がそうだ*5。戦前における、いわゆる「六条問題」、兼業の禁止規定問題は、「日本建築士会」と建設業界の最大の問題として、戦後の「建築士法」制定(一九五〇年)にもちこされるのである*6。

 さらに、六〇年代における設計施工一貫か、分離かという建築界あげての論争が続く。そして、七〇年代は、日本建築家協会の設計料率の規定が公正取引委員会の独禁法違反に当たるという問題*(「公取問題」)で建築界は揺れ続けた。

 前述したように、法制度的には「建築士」という資格があるだけである。この「建築士」も「一級建築士」「二級建築士」「木造建築士」と差別化されている。資格だから、その業務の形態は、様々でありうる。総合建設業の組織内部の「建築士」、住宅メーカーのなかの「建築士」、自治体のなかの「建築士」など、企業組織のなかの「建築士」がむしろ一般的である。この点、古典的な「建築家」の理念を掲げる日本建築家協会を拠り所とする「建築家」たちも同じである。建築士事務所を主宰する場合、その組織は株式会社であり、有限会社であり、一般に利益追求する企業形態と変わりはないのである。その料率規定が独禁法に問われても仕方がないことであった。その高邁な「建築家」の理想を担保するものはないのである。だからこそ「職能法」の制定が求められ続けてきた、といえるのだけれど、「建築家」という職能を特権的に認知する社会的背景、基盤は必ずしもないのである。

 「建築士事務所」も「組織事務所」と「アトリエ(個人)事務所」に分裂する。実態は同じであるけれど、建築ジャーナリズムが主としてその区別を前提とし、助長しているようにみえる。小規模な「建築士事務所」も、いわゆる「スター・アーキテクト」の事務所から、専ら施主や施工業者に代わって、建築確認申請のための設計図書の作成を業務とするいわゆる「代願事務所」まで序列化されている。

 建築教育に携わる「プロフェッサー・アーキテクト」は唯一特権的といえるかもしれない。「建築家」教育という理念が唯一の統合理念でありうるからである。しかし、実態として大学の空間で、要するに建築の現場から離れて、「建築家」教育ができるわけではない。という以前に、大学の建築教育のなかに以上のような様々なが分裂が侵入してしまっている。また、工業高校、工業専門学校等々を含めて、偏差値社会の編成によって大学も序列化され、産業界に接続されている。

 さらに、「施工」の世界、すなわち建設業界には、いわゆる重層下請構造がある。スーパー・ゼネコンに代表される総合建築業(ゼネコン)がいくつかの専門工事業(サブコン)を下請系列化し、専門工事業者は、また、二~三次の下請業者をもつ。数次の下請構造の末端が「寄せ場」である。ゼネコンのトップの意識のなかでは、「寄せ場」へ至るリクルートの最末端は、まるで別世界のことのようである。しかし、ゼネコンのトップは公共事業の受注をめぐって政治の世界と結びつき、地域へと仕事を環流させる役割を担って最末端に結びついている。そして、そこに建築行政の世界が絡まり合う。

 

 7-5 「建築家」の諸類型 

 こうした重層する差別体系のなかで個々の「建築家」は何をターゲットにしているのか。すべての建築家論の基底において問われるのは、その「建築家」がどこに居て何を拠り所としているかということだ。

 『アーキテクト』*7という面白い本がある。アメリカの建築界が実によくわかる。日本の「建築家」は、欧米の建築家の社会的地位の高さを口にするけれど、そうでもないのである。その最後に、建築家のタイプが列挙してある。日本でも同じように「建築家」を分類してみることができるのではないか。

 名門建築家 エリート建築家  毛並がいい

 芸能人的建築家 態度や外見で判断される 派手派手しい

 プリマ・ドンナ型建築家   傲慢で横柄   尊大

 知性派建築家  ことば好き 思想 概念 歴史 理論 

 評論家型建築家  自称知識人 流行追随

 現実派建築家  実務家 技術家

 真面目一徹型建築家  融通がきかない 

 コツコツ努力型建築家  ルーティンワーク向き

 ソーシャル・ワーカー型建築家  福祉 ボトムアップ ユーザー参加

 空想家型建築家  絵に描いた餅派

 マネージャー型建築家 運営管理組織

 起業家型建築家  金儲け

 やり手型建築家  セールスマン

 加入好き建築家  政治 サロン

 詩人・建築家型建築家  哲学者 導師

 ルネサンス人的建築家

 ここまで多彩かどうかは疑問であるけれど、日本の建築家たちを当てはめてみるのも一興であろう。しかし、もう少し、具体的な像について議論しておいた方がいい。「建築家」の居る場所は、結局は、何を根拠として何を手がかりに表現するかに関わるのである。

 今日、「建築家」といっても、郵便配達夫シュバル*やワッツ・タワーのサイモン・ロディア*のような「セルフビルダー」を除けば、ひとりで建築のすべてのプロセスに関わるわけではない。建築というのは、基本的には集団作業である。その集団の組織のしかたで建築家のタイプが分かれるのである。


  7-6 ありうべき建築家像

 建築界の重層的かつ閉鎖的な差別、分裂の構造をどうリストラ(改革)していくかはそれ自体大きなテーマである。「建築士」の編成に限っても大問題だ。建設業のリストラになると日本の社会全体の編成の問題に行き着く。「建築士法」の改定、「建築基準法」の改正など、具体的に例えばインスペクター(検査士)制度の導入、あるいは街づくりにおける専門家派遣制度などをめぐる議論が構造変化に関わっているけれど、全体的な制度改革は容易ではない。既成の諸団体が重層的な差別体系のなかで棲み分け合っている構造を自ら変革するのは限界がある。また、一朝一夕にできることではないだろう。

  そこで期待されるのが外圧である。日米構造協議、ISO9000*、輸入住宅、WTO(世界貿易機構)、・・・建設産業に限らないけれど、この国は外圧に弱い。しかし、国際的に閉じた構造を外部から指摘されて初めて問題を認識するというのはあまりにも他律的である。もう少し、自律的な戦略が練られるべきだ。指針は、「開く」(情報公開)ことである。

 あまりに日本の「建築家」をめぐる環境にはブラックボックスが多すぎる。その閉じた仕組みをひとつひとつ開いていくことが、日常的に問われている。そして、その問いの姿勢が「建築家」の表現の質を規定することになる。諸制度に対する姿勢、距離の取り方によって「建築家」は評価されるべきなのである。

 既存の制度、ルーティン化したプログラムを前提として表現するのであれば、「建築家」はいらないだろう。これからの「建築家」を簡単に定義するとしたら、以上のように規定すればいいのではないか。すなわち、その依って立つ場所を常に開いていこうとする過程で表現を成立させようとするのが「建築家」なのである。なにも、高邁な「建築家」の理念を掲げる必要はない。高邁な理念を掲げながら、悲惨な現実に眼をつむるのだとしたらむしろ有害である。閉じた重層する差別の構造を開いていくこと、制度の裂け目から出発することが最低限の綱領ではないか。

 例えば、設計入札の問題、例えば、疑似コンペの問題など、少しの努力で構造変革が可能なことも多いのである。

 

 以上のささやかな指針を前提として、いくつか、これからの日本の「建築家」像を夢想してみよう。


 アーキテクト・ビルダー

 C.アレグザンダーの主張するアーキテクト・ビルダー*という概念がある。「建築家」は、ユーザーとの緊密な関係を失い、現場のリアリティーを喪失してきた。それを取り戻すためには、施工を含めた建築の全プロセスに関わるべきというのである。アーキテクト・ビルダーとは、アーキテクトとビルダーの分裂を回復しようという。わかりやすい発想である。

 中世のマスタービルダーの理念が想起されるけれど、あくまでアーキテクトの分離が一旦前提である。日本では設計施工の一貫体制が支配的であり、アーキテクトという概念が根付いていないが故にその主張は混乱を生んだように思う。欧米でもデザイン・ビルドが近年主張され例が増えているからさらに錯綜する。また、C.アレグザンダーは、「盈進学園」の設計で実践してみせたように、建物の規模を問わず、設計施工一貫を担う「アーキテクト・ビルダー」を一般的にありうべき「建築家」の理念として提示するが、一定の規模の建築を超えると非現実的と思える。

 しかし、少なくとも、身近な住宅規模の建築については、個人としての「建築家」が設計施工の全プロセスに関わることが可能である。また、基本的に設計施工一貫の体制が必要であり自然である。大工棟梁、小規模な工務店がこれまでそうした役割を果たしてきたのである。ところが、住宅生産の工業化が進行し、様々な生産システムが混在するなかで、在来の仕組みは大きく解体変容を遂げてきた。その再構築がひとつのイメージになるだろう。大工工務店の世界、二級建築士、木造建築士の世界がアーキテクト・ビルダーという理念のもとに統合されるのである。

 一般的にはCM(コンストラクション・マネージメント)方式*を考えればいい。ゼネコンという組織に頼るのではなく、「建築家」自らと専門工事業(サブコン)が直接結びつくネットワーク形態が考えられていいのである。


  サイト・スペシャリスト

 アーキテクト・ビルダーが連携すべきは職人の世界である。職人の世界も急速に解体変容してきた。建設産業への新規参入が減少し、現場専門技能家(サイト・スペシャリスト)の高齢化が進行するなかで、建設産業の空洞化が危惧される。

 現場でものを造る人間がいなくなれば「建築家」もなにもありえないのであって、職人の世界の再構築が大きな課題となる。その場合、ひとつのモデルと考えられるのが、ドイツなどのマイスター制度*である。

 マイスター制度は、ひとつの職人教育のシステムであるけれど、より広く社会そのものの編成システムである。ポイントは、社会的基金によって職人とそのすぐれた技能が継承されていく仕組みである。具体的には、建設投資の一定の割合が職人養成に向けられる仕組みがつくられる必要がある。

 その仕組みの構築は、社会全体の編成に関わるが故に容易ではない。しかし、職人の世界が社会の基底にしっかり位置づけられない社会に建築文化の華が咲く道理はない。机上の知識を偏重する教育や資格のあり方は、現場の智恵や技能を重視する形へと転換する必要がある。また、現場の技能者、職人のモデルとしてのマイスターが尊重される社会でなければならない。

 重視さるべきは、「職長」あるいは「現場監督」と呼ばれる職能である。おそらく、すぐれた「現場監督」こそアーキテクト・ビルダーと呼ばれるのに相応しいのである。


 シビック・アーキテクト・・・エンジニアリング・アーキテクト

 建築と土木、あるいは、エンジニアとアーキテクトの再統合も課題となる。建築と土木の分裂は、都市景観を分裂させてきたのであり、その回復が課題となるとともに、土木も建築も統一的に計画設計する、そうした職能が求められるのである。

 その出自において「建築家」に土木と建築の区別はない。「建築家」は、橋梁や高速道路、あるいは造園の設計についての能力も本来有していると考えていい。土木構築物の場合、構造技術そのものの表現に終始するきらいがあった。いわゆるデザインが軽視されてきた歴史がある。今後、景観デザインという概念が定着するにつれて、シビック・アーキテクトと呼ばれる「建築家」像が市民権を得ていく可能性があるのである。

 その場合、構造デザイナーとしての資質が不可欠となる。デザイン・オリエンティッドの構造家、アーキテクト・マインドをもった構造家がその最短距離にいるといえるだろう。もっとも、構造技術を含めた建築の諸技術をひとつの表現へと結晶させるのが「建築家」であるとすれば、すべての「建築家」がシビック・アーキテクトになりうるはずである。


 マスター・アーキテクト

 計画住宅地や大学キャンパスなど複合的なプロジェクトを統合する職能として、マスターアーキテクトが考えられ始めている。ここでも、ある種の統合、調整の役割が「建築家」に求められる。

 素材や色、形態についての一定のガイドラインを設け、設計者間の調整を行うのが一般的であるが、マスター・アーキテクトの役割は様々に考えられる。個々のプロジェクトの設計者の選定のみを行う、コミッショナー・システムあるいはプロデューサー・システムも試みられている。

 プロジェクト毎にマスター・アーキテクトを設定する試みはおそらく定着していくことになるであろう。法的な規制を超えて、あるまとまりを担保するには、ひとりのすぐれた「建築家」の調整に委ねるのも有力な方法だからである。ただ、マスター・アーキテクトに要求される資質や権限とは何かを、一般的に規定するのは難しそうである。マスター・アーキテクトと個々の「建築家」を区別するものは一体何かを問題にすると、その関係は種々の問題をはらんでくる。設計者の選定に関わるマスター・アーキテクトとなると、仕事の発注の権限を握ることになるのである。

 もう少し一般的にはPM(プロジェクト・マネージャー)*の形が考えられるだろう。その場合には、デザインのみならず、資金計画や施工を含めたプロジェクトの全体を運営管理する能力が求められる。現代社会においては、とても個人にその能力を求めることはできないように思えるけれど、社会的に責任を明確化したシステムとして、マスター・アーキテクト、あるいはプロジェクト・マネージャーが位置づけられていく可能性もあるかもしれない。

 

 タウン・アーキテクト

 自治体毎に日常的な業務を行うマスター・アーキテクトを考えるとすると、タウン・アーキテクト制度の構想が生まれる。ヨーロッパでは、歴史的に成立してきた制度でもある。

 ある街の都市計画を考える場合、この国の諸制度には致命的な欠陥がある。個々の事業、建設活動が全体的に調整される仕組みが全くないのである。都市計画行政と建築行政の分裂がある。さらに縦割り行政の分裂がある。例えば、鉄道駅周辺の再開発の事例などを考えてみればいい。諸主体が入り乱れ、補助金に絡む施策の区分が持ち込まれる。それを統一する部局、場がない。個々のデザインはばらばらになされ、調整する機関がない。日本の都市景観は、そうした分裂の自己表現である。こうした分裂も回避されねばならないだろう。

 本来、一貫してまちづくりに取り組み責任を負うのは自治体であり、首長である。日常的な都市計画行政、建築行政において、調整が行われてしかるべきである。しかし、首長には任期があり、担当者も配置替えがあって一貫性がない。タウン・アーキテクト制は、一貫して個々の事業、建設活動を調整する機関として必要とされるはずなのである。

 本来、それは建築行政に関わる建築主事の役割かもしれない。全国で二〇〇〇名弱、あるいは全国三三〇〇の自治体毎に能力をもったタウン・アーキテクトが居ればいいのである。

 しかし、建築主事が建築確認行政(コントロール行政)に終始する現状、建築主事の資格と能力、行政手間等を考えると、別の工夫が必要になる。ヨーロッパでも、行政内部に建築市長を置く場合、ひとりのタウン・アーキテクトを行政内部に位置づける場合、「建築家」を招いて、「アーバン・デザイン・コミッティー」を設置する場合など様々ある。

 日本でも、コミッショナー・システム以外にも、建築審議会、都市計画審議会、景観審議会など審議会システムの実質化、景観アドヴァイザー制度や専門家派遣制度の活用など、既に萌芽もあり、自治体毎に様々な形態が試みられていくことになるだろう。


 ヴォランティア・アーキテクト

 タウン・アーキテクト制を構想する上で、すぐさまネックになるのが「利権」である。ひとりのボス「建築家」が仕事を配るそうした構造がイメージされるらしい。また、中央のスター「建築家」が地域に参入するイメージがあるらしい。タウン・アーキテクト制の実施に当たっては一定のルール、その任期、権限、制限などが明確に規定されねばならないであろう。

 ひとりの「建築家」がタウン・アーキテクトの役割を担うのは、おそらく、日本ではなじまない。デザイン会議などの委員会システムなどが現実的であるように思える。しかし、いずれにしろ問題となるのは、権限あるいは報酬である。地域における公共事業の配分構造である。

 期待すべきは、地域を拠点とする「建築家」である。地域で生活し、日常的に建築活動に携わる「建築家」が、その街の景観に責任をもつ仕組みとしてタウン・アーキテクト制が考えられていいのである。

 あるいは、ヴォランティア組織(NPO)の活用が考えられる。建築・都市計画の分野でも、ヴォランティアの派遣のための基金の設立等、既にその萌芽はある。大企業の社員が一年休暇をとって海外協力隊に参加する、そんな形のヴォランティア活動は建築、都市計画の分野でも今後増えるであろう。現場を知らない「建築士」が現場を学ぶ機会として位置づけることもできる。

 しかし、ここでも問題は、「まちづくりの論理」と業として「食う論理」の分裂である。住民参加を主張し、住民のアドボケイト(代弁者)として自ら位置づける「建築家」は少なくない。しかし、その業を支える報酬は何によって保証されるのか。多くは、行政と「住民」の間で股裂きにあう。あらゆるコンサルタントが、実態として、行政の下請に甘んじなければならない構造があるのである。

  

 こうして可能な限り日本のリアティに引き寄せてありうべき「建築家」をイメージしてみても、袋小路ばかりである。既存の制度をわずかでもずらすことが指針となるのはそれ故にである。今、日本で注目すべき「建築家」、すなわち「建築家」論が可能となる「建築家」は、様々なレヴェルで制度との衝突葛藤を繰り広げている「建築家」なのである。

 しかし、その一方で、「世界建築家」の理念、「デミウルゴス」のイメージは生き続けるであろう。宇宙を創造し、世界に秩序を与える「神」としての「建築家」の理念は、錯綜する貧しい現実を否定し、その実態に眼をつむるために、再生産され続けるのである。


2021年10月3日日曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説 Ⅲ 建築家と都市計画 第6章 「建築家」とまちづくり

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



Ⅲ 建築家と都市計画

第6章 「建築家」とまちづくり


 6-1 住宅=まちづくり・・・ハウジング計画ユニオン(HPU)

 一九八二年、ハウジング計画ユニオン(HPU)という小さな集まりが呱々の声をあげた。当初のメンバーは、石山修武*、大野勝彦*、渡辺豊和*、そして布野修司の四人。その前々年あたりから会合を重ね活動を開始していたのであるが、一九八二年の暮れも押し詰まった一二月に至って、『群居』という同人誌の創刊準備号を出すに至ったのである。編集には当初から野辺公一があたり、準備号は当時はまだ珍しいワープロによる手作りの雑誌であった。活字は一六ドットで、ガリ版刷りの趣であった。これからに小さなメディアを予見すると、流行の雑誌の取材を受けたりした。隔世の感がある。

 その『群居』の創刊のことばは次のように言う。

 「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア「群居」を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出来る限り光を当てること、可能な限りインター・ジャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジアの各地域との経験交流を積極的に取り挙げること、等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」

 「住宅=町づくり」というのがキーワードであろうか。四人それぞれに「建築家はもっと住宅の問題に取り組むべきだ」という思いがあった。戦後まもなく住宅復興は建築家の共通の課題であった。前川國男*の「プレモス」*をはじめ、浦辺鎮太郎*の「クラケンハウス」*など建築家は工業化住宅の開発に取り組んだ。また、住宅のプロトタイプを提案する「小住宅コンペ」*に数多くの建築家が参加した。しかし、戦後復興が軌道に乗り出すと住宅への関心は次第に薄れていく。その経緯は『戦後建築論ノート』(相模書房、一九八一年)に書いた。戦後建築の流れを振り返りながら、建築家による住宅運動の再構築は如何に可能か、などと考えている矢先のHPU結成の誘いであった。

 リードしたのは、既に「セキスイハイムM1」*の設計者で知られ、内田祥哉研究室の流れを汲んで住宅開発に取り組んでいた大野勝彦である。また、「幻庵」*など地下埋設用のコルゲート管を用いた一群の住宅で知られ、『バラック浄土』(彰国社、一九八一年)を書いたばかりの石山修武であった。そして、関西から渡辺豊和が加わるが、彼もまた「ロマネスク桃山台」で果敢に「建売住宅」に挑戦し、「標準住宅001」などの作品をものしていた。

 『群居』創刊準備号(●)には「群居考現行ーアクション・レポート:あるき・乱打夢」と題した活動報告がある。長崎、富山、高知、大阪、台北などシンポジウム活動が中心であるが、「熊谷・子供大工祭」「秋田材住宅開発」「山形・部品化木造住宅」「左官連合会との交流」「DーD方式」「東南アジア住宅調査」など活動は既にアジアへも拡がりつつあった。当初から日本のみならず、「フリーダム・トゥー・ビルド」●(マニラ)「ビルディング・トゥゲザー」●(バンコク)などアジアのグループとの連携を模索する「アジア・ハウジング・ネットワーク」の構想があった。日本の住宅や都市をアジアの拡がりにおいて捉える視点は当初からのものである。

 一九八三年四月に出された創刊号の特集テーマは「商品としての住宅」●である。住宅の問題をその生産、流通、消費の具体的な構造において考える視点も一貫するものである。『群居』は、さらに松村秀一、高島直之、小須田広利、秋山哲一らを加えて、発行が続けられ、二〇〇〇年に五〇号になる。この間のハウジング計画ユニオン(HPU)の軌跡は、『群居』の誌面に記録されてきた通りだ。

 大野勝彦のまちづくりへの取組みは、『地域住宅工房のネットワーク』*『七つの町づくり設計』*にまとめられている。大野は、セキスイハイムM1の設計者として、一般には「工業化住宅」の推進者として知られる。そのシステム志向は一貫する。しかし、そのシステムは工業化構法といったビルディング・システムに限定されない。その最初の著書『現代民家と住環境体』*が示すように、彼が再構築しようとしているのは「現代民家」のシステムである。そして、彼の追及するのはいわゆるシステムのためのシステムではない。あくまで問題とするのは現実の住宅生産システムである。その根にはリアリズムがある。

 まず『都市型住宅』において大野が示したのは、それぞれの地区で、地価に見合った住宅の型が成立する、ということである。その追及は、九〇年代の中高層ハウジング・プロジェクト*に引き継がれている。

  一方、八〇年代の大野が目指したのが、地域住宅生産システムの再構築である。その「住宅=町づくり」という方向はHPU結成のモメントになっている。地域に住宅の設計をベースにしながらまちづくりに関わる工房があり、それがネットワークを組む、というのが構想である。ここでいう「タウン・アーキテクト」構想のひとつの源泉はこの「地域住宅工房」である。

 具体的な展開としては、豊里、喜多方●、檮原・・・・など「七つの町づくり設計」である。そのほとんどは、後に見る「地域住宅(HOPE)計画」(建設省)として展開され、それをリードするものであった。

 石山修武の建築家としてのデビューは「幻庵」である。地下埋設用のコルゲート・シートを用いたパイプ住宅のモデルは河合健二*自邸であるが、傑作「菅平の家」に至るまで石山は執拗にパイプ住宅を試みている。一見奇を衒った「ポストモダン」のデザインに見えるが、その意図は明快である。すなわち、安く大量生産された素材を住宅用に転用しようというのである。そこには既存の住宅のイメージや生産システムに囚われない発想がある。また、徹底した合理精神(真の経済合理主義!)があるといえるだろう。

 その石山流住宅システムは、住宅部品を直接ユーザーに供給するダム・ダン空間工作所のダイレクト・ディーリング(D-D)方式●として展開される。そして書かれたのが『秋葉原感覚で住宅を考える』*である。要するに、電気製品に安売り市場があるように、住宅部品にも安売り市場が考えられないか、ということである。

 同じように住宅部品を市場価格より安く供給するという理念をもとに活動するグループがマニラのW.キースをリーダーとするフリーダム・トゥー・ビルドである。HPU結成間もなく石山をその工房に案内したことがあるが、日本に限定せず広くアジアを見渡せば、より安価な住宅材料、部品が手に入るという直感があった。石山の戦略には台湾(石材)やカトマンズ(家具)が置かれていた。大野勝彦があくまで全体のシステムを問題にするのに対して、石山はシステムの隙間を利用することを目論んでいたといえる。

 部品が揃うとするとあとはそれを組み立てる職人が問題になる。石山にとって最初のきっかけになったのは左官職人との関係であり、その団体「日本左官組合連合会」との接触である。『群居』創刊準備号には、既に「伊豆の長八記念館」●の模型が提示されている。伊豆の長八*とは、伊豆の松崎出身の鏝絵で有名な左官職人である。頼まれもしないのに、そのプロジェクトを提示することから伊豆松崎のまちづくり●が始まる。D-D方式とは位相を異にした、ひとつの施設の設計から、橋や商店の暖簾のデザインへ、という建築家らしいまちづくりの展開である。伊豆の松崎のまちづくりは『職人共和国便り』*にまとめられている。

 小さなものでも具体的にデザインすることによってまちづくりが展開しうる。「鯛をつる恵比寿」を象った貯金箱を置くことから始めた気仙沼のまちづくり●は、まさに石山流である。石山の一連のまちづくりの活動をまとめたものに『世界一のまちづくりだ』*がある。

 渡辺豊和の場合、住宅への拘りは必ずしもない。しかし、都市計画への関心は一貫している。もともとRIA*の山口文象*に学ぶのであるが、独立後しばらく再開発の仕事をしていたことはあまり知られていない。権利変換に手間暇かかる再開発事業におけるヴィジョンの役割を主張するのが渡辺である。阪神淡路大震災後に発表された「庭園曼陀羅都市ー神戸2100計画ー」●は、現代都市への痛烈な批判でもある。計画の具体的内容は以下の7原則を骨子としている。

 ・癒しの都市風景と庭園曼陀羅。

 ・自動車交通の全面廃棄と高速道路跡地による列島縦断連鎖住居の設定。

 ・土地公有化と一戸建住戸の全面禁止。

 ・家庭全エネルギーのソーラー化。

 ・グリーンベルトによる地区の隔離と自給体制。

 ・地区同士による経済的支配、被支配を生じさせないため地区人口を均等化するー都市人口の均質配置。

 ・残余旧市街の緑地返還。

 基本的に自動車を排除した京都グランドヴィジョンコンペの佳作入選案●もその延長にある。建築家の提案スタイルとしては、ある理想、ユートピアを提案する近代建築家のそれである。その限界は様々に指摘されてきたところだ。しかし、ヴィジュアルな提案こそ力をもつのであり、それこそ建築家の役割だ、というのが渡辺の信念である。基本原理の重要性こそ渡辺が主張するところである。

 布野は専らアジアをフィールドとして調査を展開してきた。最大の関心は西欧と異なる都市型住宅の発見である。具体的な実践活動としては、スラバヤのJ.シラス*との共同研究がある。それをベースにしたプロジェクトがルーマー・ススン(積層住宅)プロジェクトである。一言で言えば、共用空間を最大限にとった共同住宅である。広めの廊下は共用の居間(コモン・リビング)の扱いである。様々な用途に使われる。バス・トイレ、台所も一箇所にまとめられている。各階に礼拝室が設けられ、店舗なども自由に設置していい。その活動は「J.シラスと仲間たち」(『群居』●●号、●●年)にまとめた。

 二〇年に及ぶ交流をベースに「スラバヤ・エコ・ハウス」●と呼ばれる実験住宅を建てる機会を得た。小玉祐一郎の仕掛けによる。プランニングの基礎にしたのは上のルーマー・ススン・モデルであるが、省エネルギー技術などによって環境工学的な改良を加えようというプロジェクトである。導入した技術は、

 ①ダブルルーフによる屋根断熱

 ②地域産材としてのココナツ椰子の繊維の断熱材利用

 ③吹き抜け、越屋根による煙突効果利用の通気

 ④クロスヴェンチレーション

 ⑤井水循環による床輻射冷房

 ⑥太陽電池利用

 などである。

 屋根の断熱材としてココナツの繊維で編んだマットを用いたところ、グラスウール並みの性能があることがわかった。ひとつの成果である。

 『群居』の会員は千人程度である。紙面に反映されてきたとおり、地域で活躍する「建築家」が主体である。「地域の眼」という常設の欄があり、地域の問題を継続的に特集してきた。タウン・アーキテクトの実践は既に各地域にある。『群居』はそうした各地の活動をつなぐメディアとして生き続けるであろう。

 

 6-2 地域住宅(HOPE)計画(●資料写真)

 大野勝彦らがドライビング・フォース(駆動力)となって展開された「地域住宅(HOPE)計画(HOusing with Proper Environment)」は、建設省の施策としては画期的なものであった。まず、住宅政策について、地方自治体(市、町)のイニシアチブがある程度認められたということがある。また、何戸供給するかという戸数主義から脱却する方針がとられたことがある。さらに、地域の伝統への関心や地域産材利用というような地域の固有性への視点がある。そしてなによりも、何をやっていいかわからない、それ故創意工夫が問われるという魅力があった。HOPE計画については『群居』●●号にまとめた。

 HOPE計画が開始されて一〇年、ひとつの報告書がまとめられた。そこに、「地域の味方ーーわからなさの魅力」と題して次のように書いた。 


 「HOPE計画に直接関わったことはほとんどないのですが、いくつか身近に見てきました。また、当初より、多大な関心を寄せてきました。何故かと言うと、第一に、何をやったらいいかわからない施策だからです。直感的なのですが、このわからなさがたまらなく魅力的に思えたのです。

 何をやったらいいかわからないということは、何をやるのか、考えねばなりません。考えて計画を立てるのは当たり前のことなのですが、中央で想定した基準やマニュアルに従って仕事をするのが身についてると戸惑います。その戸惑いと自分でたどたどしく考えようとする出発点にまず意味があると思いました。地域を素直に見つめ直すことそれがHOPE計画の原点です。地域の見方、味方が最後まで問われます。

 何をやったらいいかわからないということは、何をやってもいいということにつながります。積極的に独自の施策を打ち出すには好都合です。「何処にもないもの」がHOPE計画では問題です。また、予算は限られているのですが、いろいろなお金を組み合わせると結構使えます。このルースさがまたいいところです。またそこで、色々のやりくりの上手さが問われます。

 HOPE計画は、その基本に「地域の個有性」をうたいます。地域地域で独自の住宅計画を展開するというヴェクトルは、中央で計画立案され、中央から戸数を割り当てられる戸数主義とは全く逆のものです。HOPE計画が中央の施策でありながら、ルースさを持たざるを得ないのはそれ故にです。住宅政策として、HOPE計画を打ち出さざるを得なかったのは、ある見方からすれば、方向性が見えなくなったからだということもいえます。あまりにも安上がりな施策だという批判もあります。しかし、地方自治体に方針を委ねるというのは画期的な施策転換であったことは間違いないところです。住宅というのは、本来、ローカルなものです。

 HOPE計画の策定にあたって、まず興味深いのは組織編成です。コンサルタントを含めて、計画組織の編成にまず地域差がでます。また、持続的にしぶとく展開が行われる地域と一過性のイヴェントで終わってしまう地域とその地域差も興味深いところです。さらに、成功したと思われるある地域の事例がマニュアルとして全国をめぐるのも面白い現象でした。調査研究、シンポジウムや各種イヴェント、様々な顕彰制度、設計競技、公営住宅の設計、挙げてみれば、HOPE計画の手法といってもそう豊かなわけではありません。それでも、地域によって相違が出ます。やはり、人の問題が大きいでしょう。同じ手法でも、集まる人の顔ぶれで表現は全く変わるからです。

 警戒すべきはステレオタイプ化です。地域型住宅として、全国画一的に入母屋御殿が普及していく、そんな事態は避ける必要があります。HOPE計画が年数を重ねてマンネリ化していくのは、ステレオタイプ化が起こるからです。そこには、ルースさがありません。考えるということがありません。創意工夫がありません。」*(『十町十色 じゅっちょうといろ HOPE計画の十年』、HOPE計画推進協議会 財団法人 ベターリビング 丸善 一九九四年三月)。


 「HOPE計画」は、建設省の施策として一九八三年に開始され、この10年で、200に迫る自治体がこの施策を導入してきた。地域にこだわる建築家やプランナーであれば、おそらく、どこかの計画に関わった経験がある筈である●リスト。「バブル建築」の隆盛の中で、あまり注目されてこなかったのかもしれないが、その意義は決して小さくない。

 HOPE計画の内容と各市町村の具体的な取り組みは『十町十色』にうかがうことができる。実に多彩だ。

 「たば風の吹く里づくり」(北海道江差町)、「遠野住宅物語」(岩手県遠野市)、「だてなまち・だてないえー生きた博物館のまちづくりー」(宮城県登米町)、「蔵の里づくり」(福島県喜多方市)、「良寛の道づくり」(新潟県三条市)、「木の文化都市づくり」(静岡県天竜市)、「春かおるまち」(愛知県西春町、「鬼づくしのまちづくり」(京都府大江町)、「ソーヤレ津山・愛しまち」(岡山県津山市)、「なごみともやいの住まいづくり」(熊本県水俣市)等々●○、思い思いのスローガンが並ぶ。「たば風」とは、冬の厳しい北風のことである。「もやい」とは、地域の伝統的な相互扶助の活動のことである。地域に固有な何かを探り出し出発点とするのがHOPE計画の基本である。

 「○○の家」と呼ばれる地域型住宅のモデル設計が各地で行われ、これまでの公営住宅の標準設計をそれぞれの地域で見直す大きなきっかけになった。また、可能な限り地域産材を用いる方向性も各地で共有されるものであった。そして、住民参加、住民の創意と工夫をベースとするのも地域計画の大きな柱である。建設省の住宅政策としてみると一大転換といってもいい。従来の戸数主義、すなわち、中央から建設戸数を各自治体に割り当てるやり方とは百八十度異なり、地域(地方自治体)が住宅建設の主体となる契機を含んでいたのである。

 個人的には、智頭町(鳥取県)のHOPE計画に少しだけ関わった。「智頭杉日本の家コンテスト」の審査委員をした縁である。いささかほろ苦い経験だった。行政主導のプロジェクトは必ずしもうまくいかず、一三戸全て住戸規模が異なる不思議な集合住宅が智頭の駅前に建っている●。智頭には寺谷篤が率いる「智頭町活性化プロジェクト集団」(CCPT)がある。「ログハウスの杉の子むらづくり」「杉下塾」など遙かに行政的な枠組みを超えた運動を展開している。郵便局員が地域を巡回するその「ひまわりシステム」は全国的に話題を呼んだ。

 地域住宅計画の意義は、繰り返せばこういうことだ。

 まず第一に、計画の基本に「地域の固有性」へのこだわりが置かれていることがある。住宅は本来ローカルなものであり、ローカルに多様であることが前提なのである。

 第二に、施策の枠組みがリジッドでないということがある。中央で用意した基準やマニュアルに従って計画するのではなく、創意工夫が前提である。これこれをやれというのではなく、やることを地域で決める。基本的に何をやってもいいのである。何をやってもいいというのは、施策としては、曖昧である。この曖昧さ、融通無碍なところがまずいい。住宅政策としては、方向性を見失ったからである、あるいは、地域の智恵に頼る安上がりの施策だ、といった批判は可能だけれど、計画のフレキシビリティーと地域主体の原則は画期的なのである。

 第三に、計画のための組織づくりがユニークである。というより、各地域で様々な形のまちづくり組織が形成されたのが興味深い。まちづくりの基本はひとであり、人のネットワークこそが計画の質を決定するということである。HOPE計画といっても色々で成功したものばかりではない。一過性のイヴェントとして終わってしまった地域もある。計画が持続性をもつかどうかはやはり人によるところが大きいのである。

 とはいえ、HOPE計画の意義が問われるのはこれからだといえるかもしれない。様々な計画が具体的な街の景観として定着していくのにはさらに時間がかかるからである。十年たって、いくつかの限界が見えだしたのも事実である。大きいこととして計画の手法がそう豊富化されてこなかったということがある。公営住宅の設計、各種シンポジウム、講演会の開催、各種顕彰制度の創出、コンペ、・・・手法は限られ、ステレオタイプ化する傾向もないではないのである。「○○の家」も、地域の固有性をうたいながら、なんとなく似ているといったことも指摘されるところである。

 「地域」の成立根拠がさらに揺り動かされる中で、HOPE計画の可能性はさらに追求される必要がある。しかし、バブル経済の高波は、地域住宅計画の小さな動きを飲み込んでしまったのであった。今、その動きは蘇りつつあるのであろうか。

 HOPE計画が蒔いた種が生き続けているとすれば、それを担い続けている人こそタウン・アーキテクトと呼ぶに相応しい。


 6-3 保存修景計画(●資料写真)

 HOPE計画を立案する上で手掛かりとなるのは、地域のもっている資源である。資源にはもちろん人的資源が含まれる。というより、人こそが第一の鍵だ。うまくいったHOPE計画の背後には必ず仕掛け人がいる。市町村にオルガナイザーとしての人材がいるかいないかはその成否に関わる。そうした人材こそタウン・アーキテクトと呼ばれるに相応しい。

 一方物理的な資源にもいろいろある。まず、自然とその恵みがある。また、その土地に暮らす人々がつくりあげてきた環境がある。さらに、歴史的な出来事とその記憶がある。要するに、地域において歴史的に形成された文化は資源になりうる。その資源は必ずしも固定的ではない。ある日突然埋蔵文化財が発見されたり、突然隕石が落下してきたり、新たな資源が加わることもあれば、人と人の関わりが新たな資源として何か(施設)を産む場合もある。

 一般にわかりやすいのは街並み保存の分野である。歴史的環境の保存を梃子にしたまちづくりの展開に先鞭をつけたのは太田博太郎*、小寺武久*、小林俊彦*らによる妻籠の保存計画である。また、地域文化財という概念のもとに、街並みの保存修景計画を展開したのが西川幸治*とそのグループ(保存修景計画研究会●○)である。

 この運動はやがて文化財保護法における伝統的建造物群保存地区*の指定という制度を産む。また、全国街並み保存連盟という組織の設立(一九七四年)によって全国規模の運動として展開されることになる。妻籠、有松(愛知県)、今井町(奈良県)の三者で結成され、「第一回町並みゼミ」を開催した足助(愛知県)以下、近江八幡(滋賀研)、角館(秋田)、知覧(鹿児島)など七〇団体が加盟する。

 その展開はいくつかの段階を経てきた。妻籠がまさにそうであるように、当初は、歴史的街並み保存と観光開発が関連づけられた。歴史的な景観が失われていくなかで、古き美しき日本の原風景が回顧される、その流れをうまく捉えたのである。

 一般に、歴史的街並みが残る地区というのは、開発圧力から取り残された地区である。あるいは、自ら更新していく活力を失ってきた地区である。経済的開発と保存を両立させるのは容易ではない。そこで、制度的な裏付けによる公的補助の仕組みがつくられることになった。ところが、制度化によって、新たな問題も出てくる。

 伝統的建造物群保存地区の場合、あくまでも文化財としての位置づけが前提である。街並みのファサードはある時代の様式に統一する必要がある。現代的生活には合わないことが多々ある。空調機の室外機や自動車の駐車の問題など共通の問題である。

 例えば、京都の町家街区のようなより一般的な町の場合、文化財としての規定は馴染まない。以下に見てみよう。


 6-4 京町家再生論(●資料写真)

 伝建地区指定による歴史的環境保存は基本的には文化財としての環境保存である。歴史的な街区といっても全てが伝建地区に指定されるわけではない。

  京町家再生研究会が発足したのは一九九二年の祇園祭の日である。当初からメンバーに加えて頂き、いきなり、京町家の再生手法について考えさせられた。すぐさま理解したのは、京町家の再生が容易ではないことだ。特に既存の制度的枠組みがネックになっている面が大きいのである。そこで集中して調べてみたのが制度手法である。以下に基本的な問題をみよう。


 a.町家再生の目的

 『新京都市基本計画』(*1)は、「第3章第1節住宅・住環境の整備(1)京都らしい良質な住宅ストックの形成」において、京町家・街区の再生(ウ)をうたう。「良好な京町家が連坦し伝統的な雰囲気を残す街区については、京都らしさの継承等を目的として新たな地区指定を行い、積極的な防災措置や改善助成などにより、その保全と再生を図る。また、京町家の居住や商業・業務機能への活用を誘導する。」ことが目指されている。具体的な施策としては、京町家の街区の指定と改善助成、および京町家活性化事業(地・家主、民間事業者等と連携しながら町家、長屋等を改修し、居住機能や商業・業務機能として再生・活用を図る事により、京都らしい町並みを整備し、町の活性化を目指す事業)が挙げられる。

 また、「第8章第2節歴史的風土・景観の保全と創造(3)市街地景観の保全と創造」において、歴史的市街地景観の保全(ア)をうたう。また、市街地景観の調和と創造(イ)をうたう。具体的な施策としては、(ア)美観地区制度の指定地区拡大、(イ)景観形成地区制度、(ウ)共同建替、協調建替が挙げられる。

 一方、京都市住宅審議会の答申「京都らしい都市居住を実現する住宅供給のあり方について」(*2)は8つの基本施策のなかに(3)京町家ストック改善の推進(市民文化の継承、都心定住)を挙げ、①居住機能の更新を図るストック改善、②商業機能等の更新を図るストック改善を目標としている。

 何故、「町家再生」なのか。以上からは、大きく二本の柱が浮かび上がる。

 第一は、町家の町並みの再生である。「京都らしい」「伝統的な」京町家の町並みの再生という目的である。京町家が次々に建て替えられ、町並みが崩れてきた現状に対して、京町家の町並みが維持してきた景観を再生していこうというのである。

 第二は、町家の再活用である。ストックとして存在してきた京町家を改善し、他の機能に転換することも含めて、再生・活用し、町を活性化しようという目的である。特に、都心地域のブライト化(人口減少)に対して、町の活力を再生しようというのである。

  第一、第二の目的のための施策展開が、京都にとって、特に、都心地区にとって、極めて大きなものであることは言うまでもない。しかし、第一、第二の目的を実現することが必ずしも容易なことではないことも予め意識されるところである。現実のメカニズム(建造物や土地の更新メカニズム)は、むしろ、目指すべき方向とは逆の方向を推し進めてきたのであり、それだからこそ以上が大きな課題として意識され出したという経緯があるからである。地価の問題や相続税の問題など、様々な問題が絡み合っており、「町家再生」という課題は極めて多様な側面からアプローチすべき総合的な課題である。


 b.木造町家の再生

 それでは、何を課題とし、何を目的とするのか。焦点となるのは、既存の京町家、そして、京町家が連坦し「伝統的な雰囲気を」残す街区である。今、存在する町家あるいは木造の町家をどうするかというテーマである。

 ここで、町家再生というときの再生の概念を大きく区別して考えておく必要がある。「町家再生」の第一の目的として、京町家らしい町並みの再生をうたうが、必ずしも、かっての町並みのそのままの再生(復元)が目的とされているわけではない。どちらかと言えば、新しい町家をどう創っていくかに力点がある。ビルに建て替わった街区を元に戻すというのはいかにも非現実的である。新しい町家(都市型住宅)をどう創っていくかは、それ自体別途大きなテーマとされねばならない。

 現在、存在する町家や町家群をどうするかという時に、その保存、あるいは保全がまずテーマとなる。「町家再生」の第二の目的であるストックとしての京町家の改修・再活用に照らせば明らかにそうである。京町家を全く新たに建て替えてしまうとすれば、上記の別のテーマになるだろう。一方、第一の目的に照らして、町家の保存、保全を計ることについてはどういう位置づけが可能か。この点は、必ずしも自明ではない。新しい町家の町並みが時間をかけて造られていくとすれば、かっての町家は当然新しい形に建て替わっていくものとする考え方も成り立つからである。しかし、ここで前提とするのは、「現存する京町家は可能な限り、町並みの核として、あるいはその記憶として、あるいはすぐれた都市生活文化の空間装置として保存、保全さるべきものである」ということだ。第一、第二の目的に照らしても、まずは既存の町家の保存、保全の諸方策を検討することは大きな意味を持つと考えるのである。

 既存の町家の保存、保全をテーマとする時、大きな問題がある。極端にいうと、現行の諸制度の中にそのための方策が全くないのである。例えば、居住者が自ら居住する町家を修繕して住み続けようとすると「建築基準法」による防火規定などのためにそれが不可能なのである。もちろん、こうした言い方には補足が必要である。建築基準法の規定に従ってしかるべき措置を行えば、町家を修繕、改修することは可能である。しかし、その措置において京町家の町家らしい佇まいは失われるのではないかという問題が派生する。再生すべき町家とは何か、町家の何が保存されねばならないのか、という問題が本質的である。

 そこで、既存の制度的な枠組み、特に、現行建築基準法の枠組みに従って、「町家再生」、町家の保存、保全を考えていく以前に、「京町家本来の木造のままで保存、保全する」ことができないか、というテーマを考えてみよう。また、その延長拡大として、「木造町家を新たに建設していく方策はないのか」というテーマを考えてみよう。後者をテーマとすれば、必ずしも、既存の町家や町家群に限定されない。もちろん、現代において「木造町家が可能かどうか」という点は、「町家再生」という大テーマにとってもキーである。


 c.町家再生という行為内容

 京町家の保存・継承の具体策については、チェントロ・ストリコ研究会(代表 三村浩史)による「歴史的都心地区における町家・町並みの保存と継承の具体策(1)(2)」*(住宅総合研究財団 1993年 以下、チェントロ・ストリコと略)に包括的に示されている。ここでは、基本的にそれを前提としよう。ただここでは、町家再生のための具体的な行政手法の検討が主題である。町家再生のための制度手法を検討するために、町家再生という行為内容を分類しておこう。分類の基礎となるのはおよそ以下のような軸である。

 ①保存行為か建築行為か

 ②単体か群(地区)か

 ③木造かその他の構造か

 ①については、下位分類として、全体的保存か部分的保存か、何を保存するのか(ファサード保存、様式保存、・・・)を考えることができるが、建築基準法上の建築行為となるかどうかがポイントである。②については、単体の立地条件や地区の大きさとか特性による下位分類が可能だが、大きくは単体かどうかがポイントである。③については、木造を問題にすることが前提だが、今日木造の定義は必ずしも明快ではない。ここでは、防火構造かどうかが分類のポイントである。

 以上を念頭に置いて、町家再生という行為を分類してみると以下のようになる。

 A.単体保存

 B.地区保存

 C.単体再生

 D.地区再生

 A、Bは、既存の町家が存在するケース、C、Dは、新たに町家を建設するケースである。ここで保存について、もう少し、細かく規定しておこう。建築行為とならない「保存」は、極めて限定的であり、制度的対応は文化財保存という形に限られる。通常、保存行為は以下のような幅をもって考えられている。

 ①保存   Preservation   原形・凍結保存

 ②保全   Conservation   現状保存・維持管理

 ③復原   Restoration Remodelling  

 ④改修   Repair Improvment Rehabilitation 

 ⑤増改築 Enlargement Modification

  ⑥建替   Reconstruction Renewal

  問題はA、Bである。ただ、A、Bの場合も、ここでは「新築」に等しい「建替」も含めた行為も場合によっては含み得る。町家を復元したり、新たに創るケースもありうるからである。

 チェントロ・ストリコは、保存・継承のパターンとして、

イ.原型保存(1)

ロ.変化形活用(2)

ハ.継承的創作(3)

の三つのモードを分け、(A)外観、(B)内部空間の組み合わせとして、以下の三つを区別している。

 ①伝統的木造様式保存・復元(原型保存、内部空間活用)

  A1B1 A1B2 (A1B3)

 ②伝統様式の活用(変化形活用、内部空間創作)

  (A2B1) A2B2 A2B3

 ③継承的創作(原理継承、創作デザイン)

  (A3B1) A3B2 A3B3

 この分類も、既存の町家との関係において考えると以下の三つに整理される。

 ①すぐれた町家の伝統木造様式の外観をできるだけ完全に保存する、あるいは一部保存する。内部空間についても同様であり、その用途にもよるが、できるだけ原型の様式を残す。A1B1 A1B2

 ②すぐれた町家の外観を保存または修復し、住居および事業所として持続的に活用する。内部空間も同様であるが、現代的創作も期待する。敷地によっては、通りに面した部分を保存し、奥を改築する。A1B2 A2B2 A2B3

 ③新しい創作の場合に、伝統的町家・町並みが有してきた空間構成原理を適用する。A2B2 A2B3 A3B2 A3B3 

  主として①②、また、制度手法を考える上では、A1、A2、A3の区別が重要である。


 d.町家再生のための制度手法

 考えられる制度手法を検討してみよう。現行の制度的枠組みは極めて限定的であり、町家再生のための手法も限られるからである。

 チェントロ・ストリコは、京町家の保存・継承施策として、①モデル・カルチャー型、②動態保存・伝統尊重型、③動態保存・改造活用型、④新町家・伝統様式引用型、⑤新町家・創作志向型、⑥断絶型の6つを挙げる。しかし、具体的制度手法との対応を考えると①~③と④~⑥とでは大きく異なる。ここで主として問題とするのは①~③となる。同じく、都市計画的な対応のひとつとして、チェントロ・ストリコが挙げるのが、保存指定のパターンである。具体的には、以下のようである。

 指定1 単体保存

  指定2 連坦指定:一軒以上の伝統的町家の徹底保存。一世紀前の京都の風情の再現。映画のセットとなる界隈。

 指定3 混合創作:外観の伝統を忠実に維持していなくても、京町家の雰囲気をとどめた建築が集まっていて、低層建築の町並み維持している界隈。

 その力点は、指定3にあるようだが、具体的な検討はなされていない。また、指定1、指定2についても、具体的にどのような制度手法を用いるかは不明である。本研究では、その具体的検討がテーマである。

 既存の町家の保存・再生を考える場合、次のような手法がある。既存の制度的枠組みの大幅な変更を伴わないとすれば、以下のいずれかを用いるのが基本である。

 ①文化財保護法98-2および83-3による方法

 ②建築基準法3-1-3によるその他条例の制定による方法

 ③建築基準法38(大臣特認)による方法

 ④都市計画区域の変更による方法

 チェントロ・ストリコの指定1、指定2については①によることが考えられる。すなわち、文化財としての保存(手法Ⅰ)、伝統的建造物群の指定(手法Ⅱ)という手法である。しかし、文化財としての町家の保存のみでは、「町家再生」という目的のためには不十分である。そこで②を用いることが如何に可能かがひとつの焦点になる。②を①の拡大適用と考えて、町家保存再生を計る手法である。しかし、①は、凍結保存、原型保存、様式保存が原則で、狭義の保存が主となる。伝統的建造物群の保存地区の指定も地区は限られてくる。特に、ストック活用を考える場合、①の拡大適用だけでは不十分である。そこで、①は①として、②は、現行法規の解釈では、文化財に準ずるものを条例で指定することが想定されている。しかし、ここでは新たな可能性として、より一般的な町家について「その他条例」を考えるのが適当である。景観資源としての価値を重視した、その他条例になり得る条例の立法化を新たに考えるのである。「京町家保存再生条例」、「京町家群保存再生地区指定」という総合的な立法化もありうるし、景観条例、特別保存修景地区や美観地区等の指定を整備していくことが考えられる(手法Ⅳ)。

 ②による場合、単体の指定は、場合によるとなじまない。そこで単体保存の場合に③が考えられる。両側をビルで囲われているケースなど防火上の規制緩和が可能なケースがある。両側のビルをどう担保するかは問題であるが、ケース毎に③を用いることは原理的にありうる。ただ、町家を一戸ずつ認定するのは行政的に煩些だということがある。より地域に密着した形で、「日本建築センター」*のような評定機関が設置されることが考えられる。③によって、単体保存が可能になれば、それを面に広げていくことも可能となる筈である(手法Ⅲ)。

 ④は、目的に忠実に「京町家保存再生地区」制度を新たに設定する都市計画の変更を伴う手法である(手法Ⅴ、手法Ⅵ)。

 以上を整理すると、検討すべき手法は以下のようになる。

  

 手法Ⅰ 文化財指定・登録による保存

     単体保存:文化財もしくはそれに準ずる町家

 手法Ⅱ  伝統的建造物群保存地区指定による保存

     地区保存:伝統的町並みが残されている地区

 手法Ⅲ 「京町家保存再生認定」による保存(建基法38大臣特認)

     単体保存再生あるいは新町家創生:伝統的町家および新町家

 手法Ⅳ 「景観条例」(「特別保存修景地区」、「美観地区」等)による京町家保存再生地区指定による保存(建基法3-1-3その他条例適用)

     地区保存再生あるいは単体保存再生:伝統的町家群の残る街区、地区

 手法Ⅴ 「京町家群保存再生地区制度」(仮)による保存再生(都市計画区域の変更:防火地域、準防火地域から外す)

     地区保存再生:伝統的町家群の残る街区、地区

 手法Ⅵ 「新町家景観形成地区制度」(仮)による再生(都市計画区域の変更:防火地域、準防火地域から外す)

     地区創生:一般住宅地


 手法Ⅰ、Ⅱは既存の手法、手法Ⅲ、Ⅳは、条例等の新設によって、規制緩和をしようとする手法、手法Ⅴ、Ⅵは、都市計画による手法である。

 具体的に、例えば、手法Ⅲは以下のようにイメージされる。

 ①保存すべき町家の形式(ファサードの様式)が予め景観審議会等デザイン・コミッティーによって、デザイン・コードとして決定される。

  ②規制緩和、適用除外を認定する機関を条例で定める(建築センターに準ずる機関を設置する)。

 ③認定機関は、個別事例毎に規制緩和の評定を行なう。

 手法Ⅳは、手法Ⅱの拡大適用としてイメージされる。


 最も可能性のある結論は、しかし、手法Ⅴ、Ⅵであることは明らかである。しかし、阪神・淡路大震災が全ての議論と提案を振り出しに戻した。

 木造町家の生き延びる条件はますます厳しい。日本の伝統的な町並みが木造町家によって形成されてきたとすれば、木造町家をどう成立させるか、という方法論が無い限り、文化財としてのファサード凍結保存意外に選択の余地がない。ほんとに日本の町はそれでいいのか。


 6-4 まちづくりゲーム・・・環境デザイン・ワークショップ

 一九九八年五月、ヘンリ・サノフ*が京都の出町柳商店街にやってきた。大学のすぐ近くということなので何人かの学生をそのいわゆる「まちづくりゲーム」と呼ばれるワークショップに送り込んだ。題して「ほれぼれ出町づくり ワークショップin出町商店街」(五月二七日~二九日)。プログラム第一日は、講義「コミュニティづくり」と「街並み保全と街並み合わせスライド尺」(町並みに相応しいファサードデザインを用意されたいくつかの中から選択する)、第二日は、講義「建物と遊び場のデザイン」と「アートセンターと遊び場」、第三日は、まち歩きと「デザインゲームづくり」(●資料)。僕自身は、最後の日の、商店街の人々を前にした各グループのプレゼンテーションと懇親会に参加しただけなのだが、およその雰囲気をつかむことはできた。通訳兼任で全体を指導していたのは日本のまちづくり伝道師林泰義*である。

 まずは町を歩く。そして、様々な問題点を議論する。さらに、何事かを提案する。出町柳でのワークショップの手法は、極めてオーソドックであった。そのブレーン・ストーミングによる合意形成の過程は、誤解を恐れずに言えば、KJ(川喜多次郎)法*である。模造紙に参加者の意見を次々に書いて、それをグルーピングしていく。付箋もよく用いられる。

 川喜多次郎*の方法については、地域研究の方法を主題とする極めてアカデミックな国際シンポジウムの基調講演として聞いたことがある。学問と実践の関係、フィールド・サイエンスの基本的なあり方を問うその講演は随分と刺激的であった。演壇一杯に張り出された模造紙にびっしり書き込まれていたのは、東北の過疎の村のむらおこしの事例だった。

  現場で徹底的に議論すれば合意形成は必ずなる。

 信念に充ち、経験に裏打ちされた断言は迫力に充ちていた。帰納法でも、演繹法でもない。現場の共有による解決である。

 C.アレグザンダー*がいう「センタリング・プロセス」*を思い出した。ただ、C.アレグザンダーの場合、もう少し普遍的な価値や理念を前提にしているように思える。ともあれ、そのパターン・ランゲージ以降の展開は、建築家によるまちづくりの方法として検討すべきものである。ヘンリ・サノフの出町柳商店街のワークショップはあくまで「ゲーム」であった。というか「まちづくりゲーム」のオルガナイザーの養成訓練といった趣であった。ほとんどの参加者は居住者ではなく、他所者である。面白かったのは、参加者の提案と商店街の人達のリアクションである。商店街の人達がよりラディカルな提案を切り返したりしたのである。建築家あるいはプランナーがどうまちの人達と関わるのかはまちづくりの基本的問題である。

 サノフは、著書の中で自身が試みたいくつかのゲームを挙げている*1。遊び場、児童センター、野外キャンプ場といった施設の計画、商店街の再生構想、省エネルギー計画などである。そして、「形容詞さがし」(場所の雰囲気を形容詞で表現する)、「ルート選び」(目的に従って歩く道を選ぶ)、「街並みあわせ」(街並みに相応しいファサードを選ぶ)など、ゲームを行う上での具体的な手法を挙げる。

 サノフは「まちづくりゲーム」を所詮シミュレーションにすぎないという。「学習」「経験」に意味があるという。一方、「まちづくりゲーム」を具体的なまちづくりの過程に用いようとするのが林泰義である。彼が一貫して関わってきたのが自らの住む「世田谷区のまちづくり」である。その活動に対して、一九九八年度の都市計画学会賞が授与された。そして、ほぼ同時に、建築フォーラム(AF)がAF賞*を贈った。そのAF賞記念シンポジウムの行事の一環としてJ.シラス*とともにその活動の一端を案内してもらった。

 東京工業大学の土肥真人研究室が企画してくれた「世田谷まちづくりツアー」のコースは、三軒茶屋→太子堂(太子堂まちづくり協議会)→梅ヶ丘→羽根木プレーパーク→深沢→ねこじゃらし公園→玉川まちづくりハウス→東工大百周年記念会館(シンポジウム会場)であった。

 世田谷区で住民参加型のまつづくりが始まったのは区長公選が実施された一九七五年からである。最初の活動が大村虔一・彰子夫妻の主導による「冒険遊び場」*である。「水道道路」を借りて始められた冒険遊び場運動は、羽根木公園に今日に至る拠点を見出す。様々なグループが子どもの遊びを核として広がりを見せる。ヘンリ・サノフのデザイン・ゲームとの出会いは一九八八年のことで、世田谷区の研修プログラムとして取り入れられるのが一九九〇年春である。

 見せて頂いたのは、いずれも極くささやかなプロジェクトである。例えば、三軒茶屋のヴェスト・ポケット・パークは、住民の発意で、住宅一戸分の土地を区が買い上げて公園になった。以後、住民たちによって維持管理されている。あるいは、小学校前の歩道。ちょっと拡幅してフェンスをデザインする。さらに、公衆電話ボックスの設置。身障者や子どもの利用を考えてみんなに使いやすいようにデザインする。「ねこじゃらし公園」と名付けられた一見何の変哲もない公園。住民たちの合意で、かってどこにもあった雑草がぼうぼうはえる公園とした。使われていない公共空地。色々なイヴェントに使わせてもらうことにした(コミュニティ・ガーデン)。J.シラスはしきりに共感を示していた。彼がインドネシアで進めてきたカンポン改善事業(KIP)に相通ずるものを感じたからである。

 身近な環境をみんなで考え、デザインする。まちづくりの原点である。


 6-6 X地区のまちづくり

 O市N区X地区は実在する地区である。X地区全体にはおよそ人口二万人が居住する。大都市の都心に近い居住地だ。といって、歴史はそう古いわけではない。母都市の発展とともに人々が蝟集してきた地区で昭和の初めに耕地整理が為されていて街区は割と整然としている。

 整然とした格子状の街区にT商店街が東西に走っている。南北道路で仕切られ、八番街ぐらいまであるから結構な規模である。一キロは悠にあろうか。しかし、近年商店街は活気がない。シャッターを閉じたままの店が目立っている。

 近くに日本でも有数の「寄せ場」があって、X地区にも、ちらほらホームレスの姿が見られる。X地区を歩けばと町の雰囲気はすぐわかる。ところどころに銭湯があって、下宿屋スタイルのアパートがある。下宿屋スタイルというのは、玄関が共通で靴を脱いで上がるアパートである。トイレ、流しは共通で、風呂はない。地区に銭湯が必要な由縁である。戦前に遡る長屋もまだ残っている。居住環境は、一般的に言えば、そう豊かでないということになろう。

 整然としているけれど路地は細い。街路に樹木はほとんどないが、ここそこに地蔵堂がある。それに目立つのは工場である。特に靴工場など革製品を扱う家内工業が多い。また、日本の各種の店がやたらに多い。市場の一画にはキムチなど韓国の食材が並ぶ。在日アジア人が多く居住するのである。

 しかし、そうした地区の特性や背景はここではおこう。紹介したいのはX地区で多彩なまちづくりが開始されつつあることである。K同盟を中心とするまちづくり組織がしっかりしているのがこの地区の特徴である。もちろん、自治体のサポートもある。そして、住民組織と自治体をつなぐ仕掛け人がコーディネーターとしている。タウン・プランナー、タウン・アーキテクトといっていい。

 T商店街のここそこに目立つ空店舗をリフォームセンターに改造した。店舗や住宅の改修、改造を手掛ける。地域の職人さんを組織し、手伝ってもらう。閉鎖になった保育園を「いきがい学習センター」とした。高齢者、障害者の訓練センターである。木工と陶工分野がある。ただの職業訓練ではない。陶工部門は、素焼きから釉薬・陶器、アートクラフトへとステップアップした。そして、公園の遊歩道や花壇のタイルを制作しだした。まちづくりへの直結である。木工部門も、公園に船の形の遊具をつくった。近所の小学校で絵のコンクールをして、入選作を船のここそこに描いた。京都市立芸術大学や京都造形大学の学生たちもヴォランティアで参加している。

 社会教育センターの中にコンピューター教室もできた。優秀なインストラクターが招請された。小学生から九〇歳までコンピューターを扱う。小学生のCG(コンピューター。グラフィック)作品など馬鹿に出来ないかなりの出来映えだ。おじいちゃん、おばあちゃんも年賀状のデザインに凝っている。

 その社会教育センターの庭に直径数メートルほどのビオトープ*がつくられた。小さな自然が蘇った。

 アイディアが浮かべばすぐ実行である。こうして活動が軌道に乗ってきて、まちづくりの拠点として「Nまちづくりプラザ」がやはりT商店街に開設された。こうなるとまちづくりはさらに広がりを見せる。Jカードという地域で流通するカード・システムが既に開始された。カードには様々な情報がインプットされ、福祉や医療行政とも連携が計られている。生協活動も大きくまちづくりの輪に位置づき始めている。

 まちづくりの主体がしっかりとしていること、その仕掛け人が創意工夫に富んでいること、その二つはまちづくりの鍵である。X地区のまちづくりは大きな可能性を孕んでいるように見える。

 

2021年10月2日土曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説  Ⅲ 建築家と都市計画  第5章 近代日本の建築家と都市計画

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日


裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



 Ⅲ 建築家と都市計画

 第5章 近代日本の建築家と都市計画

 5-1 社会改良家としての建築家

 日本の建築家が都市を対象化し始めるのは、明治末から大正初めにかけてのことである。当時の『建築雑誌』*や『建築世界』*といった雑誌を見ると、盛んに住宅や都市の問題が建築家によって語られ始めている(註1)。

 「国家を如何に装飾するか」*をめぐる「議院建築問題」(一九一〇~一一年)で明け暮れていた明治末年から大正期に入ると日本建築学会の合同講演会のテーマはがらりと変わる。「都市計画に関する講演」(一九一八年)、「都市と住宅に関する講演」(一九一九年)と都市と住宅がはっきりメイン・テーマに据えられるのである。しかし、その関心たるやそう広がりをもったものではなかった。稲垣栄三(註2)が「大正時代の建築は、・・・建築に関する法律の早急な制定という目標を見定め、この課題に取り組むのである。一九一九(大正八)年に、「市街地建築物法」*と「都市計画法」*が制定されるまで、建築家の社会政策的な関心はほとんどこの二つの法規の成立という目標にだけ向けられたということができる。」と書いている通りである。

 水野錬太郎(内務大臣)、田尻稲次郎(東京市長)、藤原俊男(東京市参事会員)、池田宏*(内務書記官都市計画課長)、関一*(大阪市助役)、福田重義(東京市技師)など、一線の行政責任者、担当者を講演者に含む先の日本建築学会の合同講演会には、大正期における建築家の住宅、都市に対するアプローチの水準がほぼ反映されていると考えられるが、欧米の現況についての情報の報告と建築条例の制定が話題の中心である。当時、建築条例の制定については、建築家として、内田祥三*が最も包括的に整理を行っている。用途地域制については笠原敏郎*がまとめている。池田宏、片岡安*の膨大な論文がまたこの時期のひとつの成果である。

 「大正時代の建築家の善意は、一九年に公布された二つの総合的な法規を成立させるまでに止まっていて、それ以上に、実際に都市を改造し住宅を供給する事業には及んでいない。大正初期にはほとんど普遍的になった社会的関心は、建築家を未知の世界にかりたて、従来関心の対象とならなかった都市計画や住宅を、旺盛な知識欲をもって処理したのであるが、そこから彼らの行動の原理を導き出したわけではないのである。」と稲垣は総括する。

 それでは、建築家は、その後の歴史において、実際に都市を改造し、住宅を供給する事業に取り組んで行くことになったのか。あるいは、自らの行動の論理を導き出し得たのか。

 興味深いことに、法規制のみを自己目的化しようとしているかにみえた当時の建築家のあり方に警告を発する一人の建築家がいた。皇居前の明治生命館*○、大阪中之島公会堂○*などの設計で知られる岡田信一郎*である。

 「建築家の或る者は、学者である、技術者である、其故に彼は条例の立案編纂に盡力しさえすればよい。決して政治的弥次馬や壮士のやうに、社会的事項の条例実施の事に関与する必要はない。其実施は為政者のことである。決して建築家の参与す可き事ではない。建築家は其嘱を受け条例を立案すれば足ると為すかも知れない。私は是等の高遠にして迂愚なる賢者に敬意を表する。而して彼等に活社会から退隠されんことを勧告する」(註3)。岡田には、「社会改良家としての建築家」(註4)という理念があった。

 「建築家は美術家の一であると、すまし反って居るのには、建築其物があまり社会的で在り過ぎる。而して私の考えて居る建築と云ふのは、其んな高踏的態度を許さない、もっと人生に密接の連関したものである。・・・吾々が建築家として実際に建築の事を考へる時に、其美を独り他の社会活動と離して考える必要はない。安寧実用に基く建築の性質上他の社会活動と連関して考えらるべきである。而して美術が、個人の表現であるならば、又其が社会の表現であると見る事も不合理では無くなって来る。此点から、美術の改進は社会改良の一面である。併し、私は、家にはもっと卑近な、現実的な問題を取扱いたいのである。」

 大正期の建築論の、美術か技術か、用か美か、という二元論的議論*の平面に対して、「建築を社会活動の入れ物」と捉える岡田信一郎は全く新しい認識を提出していた。彼にとって、条例をつくっただけでは何の意味もない。問題はその運用である。彼は、その運用における困難を予見し、憂慮する。例えば、建築家の養成が急務であることを訴えるのである。

 実際、条例を制定しても都市行政の実際は制定者をいらいらさせるものであった。「吾人は強ひて現時の我国都市行政の組織を罵らんとするものではない。けれども事実に於て其成績思はしからさるは、全く市理事者の処置宣しきを得ざるを証明し、又之を監督しつつある市会議員の無責任を暴露するものではないか。」(註5)と片岡安をして語気を荒げさすのが実態だったのである。

 しかし、この苛立ちはその後も深く自らを問うこと無く繰り返され続けてきたようにみえる。


  5-2 近代日本の都市計画

 日本の建築家が都市を対象化し、具体的なアプローチを始めるのは以上のように明治末から大正期のことであり、都市計画というジャンルが「建築学」の領域として位置づけられるのは少し後のことであるが、都市計画そのものの起源はもちろんそれ以前に遡る。一般的には、一八八八(明治二一)年の東京市区改正条例*の公布と翌年の同条例施行および市区改正の告示が日本の近代都市計画の始まりとされる。日本の都市計画は既に百年余りの歴史をもっていることになる。   

 その歴史を振り返る時、石田頼房による時代区分がわかりやすい(註6)。石田による時代区分を前提として、今日に至る日本の都市計画の歴史を区分すれば以下のようになる。


 第一期 欧風化都市改造期(一八六八~一八八七年)

 第二期 市区改正期(一八八〇~一九一八年)

 第三期 都市計画制度確立期(一九一〇~一九三五年)

 第四期 戦時下都市計画期(一九三一~一九四五年)

 第五期 戦後復興都市計画期(一九四五~一九五四年)

 第六期 基本法不在・都市開発期(一九五五~一九六八年)

 第七期 新基本法期(一九六八~一九八五年)

 第八期 反計画期(一九八二年~一九九五年)

 第九期 地域まちづくり計画期(一九九五年~)


 第一期の欧風化都市改造期は、銀座煉瓦街建設*(一九七二年)○、日比谷官庁集中計画*○(一八八六年)などを経て、東京市区改正条例へ至る日本の都市計画の前史である。この過程については、藤森照信*の『明治の東京計画』(註7)が詳しく光を当てるところだ。第二期が一八八〇年からの区分とされるのは、既にその動きが始まっていたからである。以下についても同様だ。こうした時代区分はある年を閾として截然と区切れるものではない。

 第三期において、東京市区改正土地建物処分規則(一八八九年)などを踏まえて、都市計画法、市街地建築物法が制定(一九一九年)され、戦前期における都市計画制度が一応確立される。この時期の震災復興都市計画事業(一九二三年)は、日本の都市計画にとって極めて大きな経験であったといっていい。同潤会による不良住宅地区改良事業、住宅供給事業、また、土地区画整理事業の既成市街地への適用など、具体的な事業展開がなされるのである。

 一五年戦争下の第四期は、ある意味では特殊である。国土計画設定要綱(一九四〇年)にみられるように、国土計画、防災都市計画などが全面的に主題となった時期である。しかし、都市計画史の上では、決して空白期でも停滞期でもない。数多くの実験的な試みが行われた時期であり、戦後へ直接つながるものを残している。極めて大きな経験となったのは、後に触れる植民地における都市計画の実践であった。

 戦後については、戦後復興期の経験の後は、一九六八年の新都市計画法、一九七〇年の建築基準法改正*が画期になる。第五期の戦後復興都市計画期を経て、日本は高度経済成長期を迎える。この十数年で日本の町や村は大きくその姿を変えることになる。第六期は、基本法不在の都市開発期である。東京オリンピック*で首都東京が大きく変貌し、大阪万国博*(エキスポ七〇)の会場設計に未来都市の姿が夢見られたそうした時代である。大都市近郊には、数多くのニュータウン建設*が開始されたのが一九六〇年代である。 

 七三年、オイルショックが起こった。建築、都市計画に関わるパラダイムが転換する。量から質へ、新規開発から既存市街地の再開発へ、高層から低層へ。第三次全国総合開発計画(三全総)*は、大規模河川の流域を単位とする定住圏構想をうたった。しかし、八〇年代に入って、風向きが変わる。

 中曽根内閣のもとで、米国ではレーガノミックス、英国ではサッチャーリズムと呼ばれた既成緩和策(デレギュレーション)が取られた。そしてバブル経済の狂乱が日本列島を襲った。石田によれば反計画期(第八期)である。

 バブル崩壊後、今日に至る時代は模索期である。環境問題、エネルギー問題、資源問題などが顕在化することにおいて、明らかにバブル期とは異なる。地球環境計画の時代ということになるかもしれない。また、地域社会をベースとするまちづくりの時代ということになるかもしれない。阪神淡路大震災(一九九五年)が決定的な画期となる。願望を込めて予測すれば、タウン・アーキテクトが根付く時代になるであろう。


 まず問題は、以上のような日本の都市計画の歴史を貫いている課題である。建築家が都市に目覚めて以降、具体的なアプローチが様々に展開されてきたが、残されている課題は依然として多い。否、もしかすると、建築家が独自の行動原理を都市というフィールドから引き出してきたかどうかは大いに疑問なのである。

 石田頼房は、歴史を貫く日本の都市計画の課題として、まず、外国都市計画技術の影響をあげる。外国とはもちろんヨーロッパの国々である。明治期のお雇い外国人による都市計画技術や建築技術の直接導入以降、常にモデルは欧米にあった。オースマン*のパリ改造*と市区改正、ナチスの国土計画理論*と戦時体制下の国土計画理論、グレーター・ロンドン・プラン*と首都圏整備計画*、戦後でもドイツのB(ベー)-プラン(地区詳細計画)*と地区計画制度*(一九八〇年)など、ほとんどがそうである。日本のコンテクストの中から独自の手法や施策が生み出されるということはなかったのである。

 さらに、もう少し基本的なレヴェルで日本の都市計画の課題を石田は挙げる。すなわち、都市計画の主体の問題、都市計画の財源の問題、土地問題、所有権と土地利用規制の問題、都市計画の組織の問題である。

 都市計画の主体は誰なのか。誰が都市計画を行なうのか。国なのか地方自治体なのか、行政機関なのか住民なのか。住民参加論が様々に展開されてきたのであるが、その実態たるや薄ら寒い限りである。国の補助金事業を追随する形がほとんどで、決定プロセスは不透明である。また、ほとんどの施策は中央で発想されている。

 都市計画の財源はどこに求められるか。何でまかなうのか。受益と負担の問題は一貫する問題である。都市計画事業が生み出す開発利益の帰属をめぐっては、政、財、官をめぐって癒着の構造があり、実に曖昧なままである。

 土地問題、あるいは土地所有権と利用権、土地の公共性と私有権、所有権と土地利用規制の問題は、都市計画の基本的問題であり続けている。土地私有制は資本主義社会の基本である。土地の売買、建設は基本的には自由である。しかし、都市計画が都市計画として成立するためには、土地の利用についての何らかのコントロールが可能でなければならない。そのためには理念が必要である。例えばその前提となる公共性の概念は日本において極めて未成熟であり、曖昧である。そうした状況に西欧の都市計画モデルを導入するところにまず混乱の源がある。ある意味で、日本の都市のあり方を規定してきたのは、土地への投機行動である。そして、それを規制する法制度である。極端にいうと、そのいたちごっこがあるだけで、結果として無秩序な誠に日本的な都市が出来上がってきたのである。

 都市計画の組織の問題も以上から窺えるように曖昧である。もちろん、その根底には日本の地方自治体の問題がある。ジョブ・ローテーションということで都市計画を担当する部署に一貫性がない。また、都市計画の決定に様々な主体が絡み合い、その決定プロセスを不透明にする構造は変わらず存在してきたのである。


 5-3 虚構のアーバン・デザイン

 戦後復興から今日に至る過程をまず一気に振り返ってみよう。建築家にとっての都市と建築をめぐる問題は、上述のように一向に解かれていないのである。

 戦後まもなく日本の建築家にとっての全面的な主題は戦後復興であった。具体的な課題としての都市建設、住宅建設が焦眉の課題であった。戦災復興都市計画には数多くの都市計画家が参加している。

 戦災復興院は、典型的な一三の都市について、建築家に委嘱して調査計画立案作業を行った。一九四六年の秋から夏にかけてのことである。高山栄華*が長岡市、丹下健三が広島市、前橋市、武基雄*が長崎市、呉市などの計画立案に当たった。

 また、東京都は、一九四六年二月に東京都復興都市計画コンペを銀座、新宿、浅草、渋谷、品川、深川といった地区をとりあげて行っている。新宿復興コンペで一等当選したのが内田祥文*、祥哉*兄弟のグループである。この新宿地区計画は淀橋上水場を含んでいたのであるが、東京都庁舎を含むオフィス街を計画しており、今日の新宿新都心の姿を先取りしているのが興味深い。また、早稲田、本郷、池袋、三田の四地区において文教地区計画が立案されている。

 戦後まもなくの東京における復興計画についてこうしたコンペの企画を行ったのは石川栄曜*(一八九三~一九五五年)である。彼は、一九三三年以来、東京都の都市計画を手掛けてきたが、知られるように戦前戦後を通じた都市計画界の最大のイデオローグである。驚くことに、一九四五年八月二七日には、石川が課長をしていた都市計画課は「帝都再建方策」を発表している。東京戦災復興の公式の計画である「東京戦災復興計画」は、一九四六年四月に街路計画・区画整理が、九月に用途地域が、一九四八年七月に緑地地域が計画決定されていくが、それと平行して、いわば復興機運を盛り上げるために復興コンペが企画されたのであった。

 この復興コンペを含む「東京戦災復興都市計画」は、ある理想の表現であった。結果として、実施されなかった計画であり、そうした意味では未完である。否、現実の過程は、その計画とは大きく異なった方向に展開してきたのであった。白紙の上にある理想の図式を描くスタイルがここでも踏襲された。そのモデルは、しかも、ヨーロッパのものであった。都市計画制度も都市計画技術もむしろ戦前との連続線上に前提されていた。欧米諸国が新しい都市計画制度を模索する取り組みを見せたのに対して、日本の場合、あまりにも余裕がなかったのである。

 朝鮮特需によってビル・ブームが始まり、戦災復興が軌道に乗ると建築家の都市計画への関心は相対的に薄れていく。理想の計画案より、高度経済成長へむかうエネルギーが都市の形態を支配して行くのである。こうして、関東大震災直後に続いて、日本の建築家・都市計画家は、理想の都市計画を実践する機会をまたしても失ったのだ、といわれることになる。

 建築家が再び都市への関心を露にするのは、一九六〇年前後のことである。盛んに都市のプロジェクトが建築家によって描かれるのである。菊竹清訓*の「海上都市」、「塔状都市」、黒川紀章*の「空間都市」、「農村都市」、「垂直壁都市」、槙文彦・大高正人*の「新宿副都心計画」、磯崎新の「空中都市」、そして丹下健三の「東京計画1960」などがそうだ。また、メタボリズムをはじめ様々に都市構成論が展開されるのである。アーバン・デザインという領域の確立、都市デザインの方法および発展段階についての整理、建築への時間性の導入とその技術化、槙文彦●の「群造形論」、大谷幸夫*●の「Urbanics試論」、磯崎新の「プロセス・プランニング論」、原広司*○の「有孔体理論」、西沢文隆の「コートハウス論」などがそうだ。六〇年代に至って、建築家が一斉に「都市づいて」行った過程とその帰結については『戦後建築論ノート』(註8)で詳しく書いた。

 「西山夘三は、「六〇年代は日本の建築家が都市に対して眼を開き、かつて戦災のあとの絶好(?)の機会に能力不足で果たせなかった責任の償いをし、〈所得倍増計画〉という華やかな建設のかけ声にのって、大きな成果をかちとる時代であるーーといった期待が語り合われ、少なからぬ人々が意気にもえている」と書いていた。おそらくそうであった。戦時中の中国大陸での経験を別とすれば、建築家は絶好の都市(都市計画)への実践の機会を戦後まもなくに続いて再びもったといえるであろう。」

 しかし、帰結はどうか。

 「アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、建築家の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。・・・しかし、都市へのコミットの回路として、こうしたスタイルが衝撃をもち得たのは、六〇年代初頭のほんのわずかな幸福な時期に過ぎなかった。未来都市のプロジェクトは、ほぼこの時期に集中して提出されたのみで、急速に色あせていくのである。一面から見れば、六〇年代の過程は、彼らの構想力が現実化されていく過程であったといえよう。彼らのプロジェクトが色あせて見え出したのは、現実の過程がそれを囲い込み、疑似的な形であれ現実のコンテクストのなかでそれなりの形態をあたえることによって、追い越し始めたからである。それをものの見事に示したのが、大阪万国博・Expo'70であり、沖縄海洋博であった。・・・」*


 5-4 ポストモダンの都市論

 オイルショック*とともに建築家の「都市から撤退」が始まる。若い建築家たちの表現の場は、ほとんど住宅の設計という小さな自閉的な回路に限定されていく。そうした状況を原広司は「最後の砦としての住居」と比喩的に呼んだ(註9)。

 大規模なニュータウンの基本設計など具体的な仕事が当該機関に委ねられ、実践の機会が失われたということもある。しかし、建築家が自ら都市への回路を閉ざした点が大きい。自らの方法論やプロジェクトの提示によって引き起こされる現実の様々な衝突や軋轢を引き受けようとする意欲も余裕もなくなるのである。そういう意味では、建築家たちは二重に都市への回路を閉ざされ、また自ら閉ざしていったのであった。その事情は今も猶変わらない。

 ところが、再び、都市の時代がやってくる。バブル経済の波が日本列島を襲うなか、東京をはじめとする日本の都市は大きく変容することになるのである。建築家は、またしても、また、無防備にも、都市へと駆り立てられていくことになった。民間活力導入のかけ声のもと規制緩和による「反計画」の時代が始まる。建築家の無防備さも、無手勝流も「反計画」の時代に再び受け入れられたように見えたのであった。

 建築家が都市への具体的実践の回路を断たれる一方で、都市への関心はむしろ次第に大きくなっていく。東京論、都市論の隆盛はその関心の大きさを示している。その背景にあったのがバブル都市論である。膨大な金余り現象からの様々な都市改造計画への様々蠢きである。

 バブル期の都市論は、およそ三つにわけることができる。ひとつは剥き出しの都市改造論であり、都市再開発論である。なぜ、都市改造なのか、特に東京をめぐってははっきりしている。一言でいえば、「フロンティアの消滅」である(註10)。一七世紀の初頭には東国の寒村にすぎなかった江戸が世界都市・東京へ至ったその歴史を振り返る余裕はないが、単純にその平面的広がりを考えても過飽和状態に達しつつあることは明かなことだ。東京一極集中がますます加速されるなかで、都市発展のフロンティアが消滅しつつある。そこで、まず求められたのがウオーター・フロントである。また、未利用の公有地である。そして、地下空間であり、空中である。空へ、地下へ、海へ、フロンティアが求められた。そして、それが全国へと波及して行ったのである。

 もうひとつの都市論の流れは、レトロスペクティブ(回顧趣味的)な都市論である。都市化の進展によって失われた古きよき都市の伝統や記憶が次々に掘り起こされていった。都市の中の過去が、自然が現代都市への批判として対置されたのである。もちろん、そうした素朴な回顧趣味は都市改造のうねりに巻き込まれてしまう。水への郷愁がストレートにウオーターフロント開発へ結び付けられたことがそれを示している。

 さらにもうひとつの都市論の流れは、いわゆるポストモダンの都市論である。すなわち、いまあるがままの現代都市、とりわけ、国際化し、ますます人工環境化し、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す仮設都市、東京をそのまま肯定し、愛であげる都市論である。ただただ、今都市が面白い、東京が面白いという都市論である。「純粋観察」を標榜する路上観察の流れもこの系譜である。このポストモダンの都市論の系譜は、レトロスペクティブな都市論をすぐさま取り込む。ポストモダン・ヒストリシズムと言われた皮相な歴史主義的なポストモダン・デザインが都市の表層を覆い出したのである。

 こうしてあえて三つの都市論の流れを区別してみてわかることは、全体としてそれぞれがつながっていることである。レトロスペクティブな都市論は一見都市改造への悲鳴であるようでいて、ポストモダンの都市論を介して過去の都市を疑似的に再現する回路に送り込まれたし、ポストモダンの都市論は、都市改造の様々な蠢きをその華やかさのうちに包み込むものであった。


 5-5 都市計画という妖怪 

 そうしてバブルが弾けた。再び、都市からの撤退の時期を迎えつつある。以上簡単に振り返ってみたように、建築家と都市の関わりは、震災、戦災、高度成長経済、バブル経済による建設と破壊の歴史とともにあった。再び、バブルが訪れるまで首をすくめてまつだけなのであろうか。

 おそらく、そうではあるまい。繰り返し繰り返し同じ様な総括がなされるところには致命的な問題点があるとみていい。都市と建築とをめぐるより根源的な方法とアプローチが求められていることが意識される必要がある。

 六〇年代における建築家による様々な都市構成論の模索は何故現実のプロセスの中で試され、根づいていくことがなかったか。ひとつには建築家の怠慢がある。都市計画家、プランナーという職能が未だ成立しない状況において、建築家は自らの理論や方法を実践するそうした機会を自らも求めるべきであった。しかし、そう指摘するのは容易いが、そんなに簡単ではない。都市計画の問題はひとりの建築家にどうこうできるものではないからである。

 日本の都市計画の問題はまずその仕組み自体にある。その一貫する問題は既に述べた通りであるが、端的に言えば、その仕組みが不透明でわかりにくいことである。

 第一、そのわからなさは法体系の体系性の無さに現れている。都市計画に関わる法律と言えば、都市計画法や建築基準法にとどまらず、およそ二百にも及ぶ。それぞれに諸官庁が絡み、許認可の権限が錯綜する。都市計画家であれ建築家であれ、都市計画関連法の全てに知悉して都市計画を行なうことなど不可能である。また、都市計画関連法の全体がどのような都市計画を目指しているのか、誰も知らないのである。

 否、都市計画関連法の全体が自己表現するのが日本の都市の姿だといってもいい。その無秩序が法体系の体系性のなさを表現しているのである。

 第二、都市計画といっても何を行なうのか、その方法は必ずしも豊かではない。都市計画法の規定する内容も、建てられる建築物の種類やヴォリュームを規制するゾーニングの手法が基本である。誤解を恐れずに思い切って言えば、容積率や建ぺい率の制限、高さ制限、斜線制限*、日影制限などのコントロールと個々の建築のデザインとは次元の違う問題である。本来、個々の建築のデザインは近隣との関係を含んでおり、当然、都市計画への展開を内包しているべきものであるけれど、一律に数字で規制することでその道を予め封じられているともいえるのである。

 フィジカルな都市計画の基本となる道路や河川などのインフラストラクチャーの整備や公共建築の建設をみると問題はさらに広がり、日本の政治経済社会の構造に関わる問題につながってくる。建築家ならずとも、都市計画というとうんざりするのは、そうした構造を思うからである。

 各自治体における都市計画も、各省庁の立案した補助金事業やある枠組みで決定された公共事業をこなすだけにすぎない実態もある。政官財の癒着といわれる構造の中で得体の知れない妖怪が蠢いている。そんな日本で建築家が無力感をもつとしても必ずしも責められないであろう。


 5-6 都市計画と国家権力ーーー植民地の都市計画

 こうして都市計画の得体の知れ無さを振り返るとき、時として、ある時代の都市計画が理想のものとして、また、可能性に充ちたものとして想起される。十五年戦争期の植民地における都市計画である。大連、奉天、新京(長春)、ハルピン、撫順、牡丹江、北京、上海、青島、京城、釜山、台北、高雄など、満州、中国、朝鮮、台湾の主だった都市で都市計画が実施されている。大同都市計画*、新京都市計画*など建築家も数多く参加したのであった。また、日本の都市計画法や市街地建築物法にならった法制度も施行されている。朝鮮市街地計画令が一九三四年六月に、台湾都市計画令が一九三六年八月に、関東州計画令が一九三八年二月にそれぞれ公布されたのであった。

 何故、植民地における都市計画が振り返って着目されるかというと、理念がストレートに実現されようとしたかに見えるからである。それまでに蓄積されてきた都市計画の技術や理念を初めて本格的に実践する一大実験場となったからである。

 越沢明は、なかでも新京の都市計画を近代日本の都市計画史のなかで看過できない重要な意味をもつとする(註11)。近代都市計画の理念、制度、事業手法、技術は、日本では一九三〇年代にほぼ確立しており、新京における実践においてそれが明らかに出来るというのである。新京の都市計画については、越沢の作業によっても明かでないことも多い。ただ、理念の実現という観点からみて、その計画の意義が全体として評価されるのである。

 理念をある程度「理想的に」実現させたものは、植民地という体制である。強力な植民地権力の存在があって、初めて、理念の実現が可能となった。都市計画は、その本質において、あるいはその背後に、強力な権力の存在を必要とするのである。植民地の場合、その都市計画の目的ははっきりしている。先の都市計画法も、それぞれ似ているけれども、日本の都市計画法とは全く異なる。その目的とするのは植民地支配のための「市街地や農地の創設と改良」であって、公共の福利や生活空間の創造ではないのである。また、様々な規定の強制力は比較にならないものであった。土地の収用権は、台湾でも朝鮮でも総督が握っていた。区画整理事業にしても強制施行がほとんどである。

 植民地期の都市計画の実験を理想化することは、こうして、都市計画に付随する暴力的側面を覆い隠すことにおいて一方的である。しかし、都市計画の理念の実現に強力なリーダーシップが必要であること、私権を制限する強力な強制力が必要であること、都市計画が国家権力と不可避的に結びつくものであることを確認する上で、植民地における都市計画を振り返っておくことは無駄ではないであろう。

 日本の場合、象徴的なのは後藤新平*であろう。近代日本の都市計画の生みの親とも言われ、東京市長として帝都復興計画を実現しようとした後藤新平にとって、一方で、「機関銃でパリの街を櫛削る」といわれたオースマンが理想であった。しかし、植民地台湾、植民地満州における経験もまた決定的であった。都市計画のひとつの理想をそこで見たに違いないのである。後藤新平はいささかスケールが小さいかも知れない。結局は、帝都復興計画は挫折するのである。


 5-7 計画概念の崩壊

 「ミテランのいわゆるグラン・プロジェ*はパリにおいて、オスマンがやり残した部分を補完する作業であったというべきであろう」と磯崎はいう(註12)。首都を壮大に構築する企図は一九世紀の殆どの国家で見られた。国家権力と首都の都市計画の強力な結びつきは、そうした意味では一九世紀的だ。しかし、一九八九年のベルリンの壁の崩壊まで、それは続いたのだと磯崎はいう。ヒトラー、スターリン*、ミテランの首都計画がその象徴だ。しかし、国家というフレームが崩壊し、国境という障壁が無効になるにつれて、都市もまたその姿を消すのだ、というのが磯崎の直感である。

 確かに、国家権力を可視化し、国家理性を象徴する首都という概念は崩壊して行くだろう。強力な国家権力による都市計画のあり方を想起するのはアナクロである。根源的問題はその先にある。おそらく問うべきは近代的な都市計画の方法そのものである。

 「アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、建築家の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。」と書いた。その建築家のイメージは、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける神としての「世界建築家」のイメージである。それを支えるのは素朴な理想主義といっていいが、その理念はすぐさま唯一特権的な存在に結びつく。「世界建築家」を自認し、実践しようとしたのがヒトラーなのである。

 近代都市計画の理念を支えてきたのはユートピア思想である。その起源として挙げられるのは、オーエン*であり、フーリエ*であり、サンシモン*であり、空想的社会主義といわれたユートピア思想である。そして、その思想は社会主義都市計画の理念へもつながっていく。いま、社会主義国の「崩壊」が大きくクローズアップされるなかで、同じように問われるのが、社会主義の都市計画理論であり、また、近代都市計画の理論なのである。

 より一般的には、計画という概念そのものが決定的に問われているといってもいい。計画という概念はもちろん古代へ遡ることができる。しかし、われわれにとっての計画という概念はすぐれて二〇世紀的な概念とみていい。第○次五ケ年計画という形で、社会的意味をもって一つの流行概念になったのは今世紀、それも一九三〇年代になってからである。その発端にあるのがソビエトにおける経済五ケ年計画である。いうまでもなく、国家を主体とするそうした計画は資本主義諸国においても受け入れられていった。今、それが全面的に問われているのである。

 社会に対する働きかけの合理的な体系、一定の主体が一定の目的を達成するために合理的に統合された行動を行うための手段の体系が計画であるとして、主体とは何か(誰が誰のために働きかけるのか)、目的とは何か(何のために働きかけるのか、具体的な形で明確化できるのか)、手段とは何か(合理的客観的に評価できるのか)、そもそも合理的とは何か、社会主義が「崩壊」し、国家や民族というフレームが揺れる中で、全てが揺らぎ始めている。もちろん、計画という概念が依拠する世界観、例えば、数量的統計的世界認識や一元的尺度への還元主義への根底的懐疑が表明されてから既に久しいといっていい。ただ、必ずしも、それに変わる概念や手法を我々は未だ手にしていない。


  5-8 集団の作品としての生きられた都市

 ここでわれわれは再び全体と部分をめぐる基本的な問題へたち帰ることになる。全体から部分へか、部分から全体へか、部分の中の全体か、全体の中の部分か、都市と建築をめぐる、あるいは都市と住居をめぐる基本的問いである。

 都市計画の起源というとヒッポダモス*風の都市計画がまず挙げられる。このグリッド・パターンの都市計画は古今東西実に広範にみることができるのであるが、知られるようにギリシャ・ローマの都市計画には別の伝統がある。E.J.オーエンズによれば(註13)、都市を壮麗化し大規模な景観のなかに都市を構想するペルガモンに行きつく流れである。一方がグリッドという形で部分と全体に予め枠組みを与えるのに対して、他方は、自然の地形や景観を前提として、都市全体を記念碑化しようとする。もちろん、単純ではない。植民都市における実験としてヒッポダモス風都市計画が実践される場合、絶えず、危険性があった。都市の立地によっては、大規模な造成が必要となるからである(註14)。

 全体を予め想定した都市計画の伝統として、宇宙論的な都市の系譜がある。都市を宇宙の反映として考える伝統である。宇宙の構造を都市の構造として表現しようとするのが、例えば、中国や日本、朝鮮の都城であり、インドのヒンドゥー都市である。しかし、そうした理念型がそのまま実現されることはまずない。また、理念型に基づいて計画されても、大きく変容して行くのが常である。平安京や長安の変遷をみてもそれは明かであろう。

 王権の所在地としての「都」そして城郭をもった都市、その二つの性格を合わせ持つ都市、すなわち都城について、その都城を支えるコスモロジーと具体的な都市形態との関係をグローバルに見てみると、王権を根拠づける思想、コスモロジーが具体的な都市のプランに極めて明快に投影されるケースとそうでないケースがある。東アジア、南アジア、そして東南アジアには、王権の所在地としての都城のプランを規定する思想、書が存在する。しかし、西アジア・イスラーム世界には、そうした思想や書はない。また、都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、実践的、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ないのである。また、都市構造と理念型との関係は時代とともに変化していくし、理念型と生きられた都市は常に重層的なのである。

 もうひとつの都市計画の伝統を想起しておく必要がある。イスラーム都市の伝統である。イスラーム都市は迷路のような細かい街路が特徴的である。直線的ヴィスタはなく、全く幾何学的で、アモルフである。しかし、都市構成の原理がないかというと決してそうではない。全体が部分を律するのではなく、部分を積み重ねることによって全体が構成されるそんな原理がイスラーム都市にはある。極めて単純化していうと、イスラーム都市を律しているのはイスラーム法である。都市計画に関しては、道路の幅や隣家同士の関係など細かいディテールに関する規則の集積がイスラーム法にあるのである。もちろん、モスクやバザール(市場)など公共施設の配置や城壁の計画といった次元の都市計画はなされるのであるが、街区レヴェルを構成していく場合に予め全体像は必ずしも必要とされないのである。

 このイスラームにおける都市計画の原理はタウンアーキテクト制の構想において大いに参考になる。ディテールのルールの集積という、下からの発想に加えて、ワクフ(寄進)制度がある。篤志家が寄付するワクフによって公共施設が整備される。まちづくり基金の構想に活かせるだろう。とにかく、コミュニティ・ベースのまちづくりへのヒントがイスラーム都市には豊富にあるのである。

 以上のような前近代におけるいくつかの都市計画の伝統から示唆されることは何か。少なくとも言えることは、都市というのは計画されるものであると同時に生きられるものだということである。そのダイナミックな過程を組み込まない限り、あらゆる都市計画理論は無効であるということである。近代日本の都市計画の歴史が教える最大なものも、都市が無数の集団の作品であり、建築家の構想力や空間の創造も生きられてはじめて意味を持つということである。




註1 拙稿 、「初期住宅問題と建築家」 、『群居』創刊号、一九八三年四月。

註2稲垣栄三の『日本の近代建築』(上)(下)(SD選書、一九七九年)の「九 新しい目標としての都市と住宅」に詳しい。

註3 岡田信一郎、「建築條例の実施に就いて」、『建築世界』 一九一六.〇一

註4 岡田信一郎、「高松工学士に与えて『建築家は如何なる生を活く可きか』を論ず」、『建築画報』 一九一五.〇三

註5 片岡安、「都市計画と輿論の喚起」、『建築世界』 一九一九.〇四

註6 石田頼房、『日本近代都市計画の百年』、自治体研究社、一九八七年

註7  藤森照信、『明治の東京計画』、岩波書店、一九八二年

註8 拙稿 「第一章 建築の解体ー建築における一九六〇年代」 『戦後建築論ノート』、相模書房、一九八一年

註9 拙稿 「世紀末建築論ノートⅠ デミウルゴスとゲニウス・ロキ」 建築思潮 創刊号 一九九二年一二月

註10 拙稿 「ポストモダン都市・東京」  早稲田文学 一九八九年

註11 越沢明 『満州国の首都計画』 日本経済評論社 一九八八年

註12 磯崎新 「「都市」は姿を消す」 「太陽」 一九九三年四月

註13 E.J.オーエンズ 松原國師訳 『古代ギリシャ・ローマの都市』 国文社 一九九二年

註14 拙稿 「都市計画のいくつかの起源とその終焉」 『CEL』24 一九九三年六月

 

2021年10月1日金曜日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説  Ⅱ 裸の建築界・・・建築家という職能  第4章 アーキテクトの社会基盤

 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日

裸の建築家-タウンアーキテクト論序説



 Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能


 第4章 アーキテクトの社会基盤


 4-1 日本の「建築家」

 日本で「建築家」というと一般にどんなイメージをもたれているのか。知っている「建築家」を挙げて下さいというとどんな名前が挙がるであろうか。ひと昔前なら、丹下健三*1あるいは清家清*2、ちょっと前なら黒川紀章*3、今なら安藤忠雄*4であろうか。建築界で著名な磯崎新*5や原広司*6、伊東豊雄*や石山修武*でも一般的にはどうか。驚くほど知られていないのではないか。

 古くは原田康子の『挽歌』*7、近くは渡辺淳一の『ひとひらの雪』*8のようにやたら格好いい「建築家」のイメージが流布されるが、実態はいささか薄ら寒い。日本にそんな格好いい「建築家」は果たしているのか。そもそも日本の「建築家」とは何か。

 一応日本では「建築士」の資格をもつのが「建築家」ということになるのかもしれない。「一級建築士」*「二級建築士」*「木造建築士」*を合わせると八八万人ぐらいになる*9(○表)。しかし、すべてが「建築家」というわけにはいかないし、そうした資格と関係なく「建築家」を自称し、あるいは周囲から認められている場合もある。「建築士」の資格をもった人材は、様々な場所に所属している。総合建設業や住宅メーカー、さらには様々な建材・部品メーカーなど建設産業に関わる諸分野、建築行政の分野などに、むしろ数多く分布する(表)。「建築士事務所」ということになると、「一級」「二級」「木造」合わせて、一三万社ぐらいになる*10。「建築士事務所」といっても、「大手組織事務所」から「アトリエ事務所」まで様々であり、組織の主宰者と組織内の「建築士」との違いもある。

 「建築士」に関わる団体には「日本建築士会」(連合会)*11「全日本建築士会」*12があるけれど、他に「日本建築家協会」(JIA)*13、「日本建築協会」*14がある。また、「日本建築事務所協会」*15がある。職能としての「建築家」の理念を掲げる団体が「日本建築家協会」であり、そこに所属するのが日本の「建築家」ということになるかもしれないが、所属しない「建築家」も少なくない。また、団体に加盟するかどうかが「建築士事務所」の質を実態として区別しているわけではない。

 「建築家」とは何かについて、明確な基準などないのである。建築に関わる全員が「建築家」を自称しうるし、また、定義によってはひとりも「建築家」などいないともいえる。そうしたなかで、「建築家」と非「建築家」(建築屋)を区別する機能を担っているように思えるのが、建築に関するメディア(建築専門誌)*である。建築ジャーナリズムに取り上げられ、そこに作品を発表することにおいて「建築家」として認知されるのである。また、「日本建築学会賞」などいくつかの顕彰制度*○が「建築家」のランク分けに関わっている。

 メディアも顕彰制度も様々に階層化されており、「建築家」は序列化される。しかし、全体としてその評価システムは閉じており、建築業界内の「建築家」という評価は一般に知られることがない。マスコミで、「建築」が取り上げられる場合、「建築家」の名前が示されることがないことが日本の「建築家」の危うさを示している。一般には「建築」ではなく「建物」(建造物)であり、それを建てるのは「建築家」でなく「施主(クライアント)」であり「建設業者」なのである。


 4-2 デミウルゴス

 「建築家とは・・・である」と、古来様々なことがいわれてきた。いくつか集めてみたことがある*16。アンブローズ・ビアス*17の『悪魔の辞典』は「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」*18などと皮肉たっぷりである。

 決まって引かれるのが、現存最古の建築書、ヴィトルヴィウス*19の『建築十書』の第一書第一章である。

 「建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」

 「建築家」にはあらゆる能力が要求される、とヴィトルヴィウスはいうのだ。

 「建築家」という職能は相当古くからあった。ごく自然に考えて、ピラミッドや巨大な神殿、大墳墓などの建設には、「建築家」の天才が必要であったはずだ。実際、いくつかの建築家の名前が記録され、伝えられている。最古の記録は紀元前三千年ということだ。例えば、故事によれば、ジェセル*王のサッカラ(下エジプト)の墓(ピラミッド複合体)は建築家イムヘテプ*20によるものである。もっとも、彼は単なる建築家ではない。法学者であり、天文学者であり、魔術師でもあった。

 伝説の上では、ギリシャの最初の建築家はクレタの迷宮をつくったダエダルス*21がいる。彼もただの建築家ではない。形態や仕掛けの発明家といった方がいい。ダエダルスというのは、そもそも技巧者、熟練者を意味する。

 「建築家」の原像としてしばしば召喚されるのがデミウルゴス*である。デミウルゴスを登場させたのはプラトンだ。

 「デミウルゴスは、プラトンが宇宙の創生を語るに当たって『ティマイオス』に登場させられた。宇宙は三つの究極原理によって生成する。造形する神としてのデミウルゴス、眼にみえぬ永遠のモデルとしてのイデア、存在者を眼にみえさせる鋳型のような役割をする受容器(リセプタクル)としての場(コーラ)。デミウルゴスは、可視的な存在としての世界を、イデアをモデルとしての場(コーラ)のふるいにかけた上で生成する役割を担わされている。」*22

 磯崎新の「造物主義」という論文は、デミウルゴス(という概念)*23の帰趨を論ずる形の西洋建築史の試みである。

 「デミウルゴスは、『ティマイオス』においては造物主、グノーシス主義においては神の使者、フィチーノにおいては芸術家、フリーメーソンでは大宇宙の建築家、ニーチェにおいてはツァラストラと姿を変えて語られてきた。そして、今日ではテクノクラートのなかにエイリアンのように寄生しているようにみうけられる。」*24

 デミウルゴスは、元来、靴屋や大工のような手仕事をする職人を指し、必ずしも万能の神のように完璧な創造をするわけではない。グノーシス主義においては「欠陥ある被造物」にすぎない。ここではオイコス(家)に関わる職人としてのオイコドモス、オイコドミケ・テクネ(造家術)と「アーキテクトニケ・テクネ」(建築術、都市術)の系譜を歴史に即して跡づけるべきなのであろう*25。

 しかし、宇宙の創生神話と結びついたデミウルゴスのイメージは強烈である。根源的技術(アーキ・テクトン)を司る「建築家=アーキテクト」の概念にも確実にデミウルゴスの概念が侵入している。

 「建築家」は、すべてを統括する神のような存在としてしばしば理念化される。この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強い。ルネサンスの人々が理念化したのも、万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)としての建築家である。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ*26、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠であった。

 多芸多才で博覧強記の「建築家」像は今日でも建築家の理想である。近代建築家を支えたのも、世界を創造する神としての「建築家」像であった。彼らは、神として「理想都市」を計画することに使命感を抱くのである。

 そうしたオールマイティーな「建築家」像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。時々、誇大妄想狂的な建築家が現れて顰蹙をかったりする。「建築家」になるためには、強度なコンプレックスの裏返しとしての自信過剰と誇大妄想が不可欠という馬鹿げた説が建築界にはまかり通っている程である。A.ヒトラー*27がいい例だ。かって、「建築家はファシストか」と喝破した文芸評論家がいたけれど、「建築家」にはもともとそういうところがある。


 4-3 アーキテクトの誕生

 「建築家」の社会的な存在形態は、時代とともに推移していく。S.コストフの編んだ『建築家』*28という本が、エジプト・ギリシャ、ローマ、中世、ルネサンス、・・・と、各時代の建築家について明らかにしているところだ。その中では、ジョン・ウイルトンエリーがイギリスにおける職業建築家の勃興について書いている*29。

  イギリスで最初に自らを建築家と呼んだのは、イニゴー・ジョーンズ*30(一五七三ー一六五二年)ではなくてジョン・シュートである。一五六三年のことだ。その出自は定かではないが、イタリアで学んだらしい。彼は、ヴィトルヴィウス*31、アルベルティ*32、セルリオ*33を引きながら、ルネサンスの普遍人としての「建築家」を理想化する。描画、測量、幾何学、算術、光学に長けているだけでなく、医学、天文学、文学、歴史、哲学にも造詣が深いのが「建築家」である。ウイルトンエリーは、シュートの理想が受け入れられる社会的背景を明らかにした上で、まずはサーヴェイヤー*が生まれてくる過程を跡づける。フリー・メイソンのロバート・スミッソン*などの名前が最初期のサーヴェイヤーとして知られる。そして、イニゴー・ジョーンズの時代が来る。

  イニゴー・ジョーンズは、知られるようにもともと仮面劇のデザイナーである。王室の知遇を得てジェームズ一世*のキングス・サーヴェイヤーになる。その結果、グリニッジのクイーンズ・ハウスやコベント・ガーデンのセント・ポール教会など多くの建築を手掛けることになるのであった。このサーヴェイヤーとは何か。アーキテクトとどう違うのか。

 日本語では、監督、調査士、測量士、鑑定士、検査官などと様々に訳される。クオンティティ・サーヴェイヤーというと積算士のことである。家屋調査士、不動産鑑定士、測量技師、積算士、現場監督いずれも建築の実務に関わる。サーヴェイ(測定、調査)することはアーキテクトの重要な仕事である。キングス・サーヴェイヤーとは王室の普請に関わる一切を統括した職能である。当時、現場を指揮したのはマスター・メイソン、石工の親方である。木造主体の日本で言えば大工の親方、棟梁だ。それに対してサーヴェイヤーは新たな職能として登場してくる。キングス・サーヴェイヤーとは王室付き建築家、営繕主任といったところか。幕府で言えば、作事方、普請奉行である。しかし、こうした類推は誤解の元である。イニゴー・ジョーンズには、ジョン・シュートが理想化するようなイタリア・ルネサンスのアーキテクトの理念がある。

 イニゴー・ジョーンズに続くのがクリストファー・レン*34(一六三二~一七二三年)だ。ロンドン大火(一六六六年)後の再建計画で知られる。また、セントポール大聖堂*の設計者である。彼はもともと天文学者だった。経緯があってチャールズ二世のキングス・サーヴェイヤーに任命される。英国の最初のアーキテクトたちが王室と関係をもっていたことは重要である。

 一七世紀から一八世紀にかけて、パラディオニズム*の流行とともにアーキテクトが育ってくる。そうしたアーキテクトがどのような社会的基盤をもって登場してきたかはフランク・ジェンキンスの『建築家とパトロン』*35に詳しい。ウイリアム・ケント(一六八五~一七四八年)、トーマス・アーチャー(一六六八~一七四三年)、ジェイムズ・ギッブス(一六八二~一七五四年)、ロバート・アダムズ(一七二八~一七九二年)、ジョージ・ダンス・ヤンガー(一七四一~一八二五年)、ジョン・ソーン(一七五三~一八三七年)といった今日その名を知られる建築家に共通するのは、イタリアをはじめとする海外での経験である。それを可能にするパトロン、あるいは資産家の出であることはひとつの前提であった。

 ジェンキンスは、建築家の出自について、イニゴー・ジョーンズやウイリアム・ケントなど芸術家、レンに代表される科学者、ジェントルマン、工匠、徒弟の五つのグループを区別している。ジェントルマンには海外経験の多い軍人、大学卒の資産家などが含まれる。植民地は有能なサーヴェイヤーを必要としていた。徒弟とはアーキテクトのもとで修行をつんだものをいう。すなわち、ジョン・シュートが理念化するようなアーキテクトであるかどうかは別として、様々な層からアーキテクトなるものが生まれ、社会的(パトロン)に支えられ仕事を始め出すのである。

 

 4-4 分裂する「建築家」像

 時代は下って、一八世紀後半に至ると、デザイナーであり、サーヴェイヤーであり、学識者であり、そしてそれらを合わせた何者かである「アーキテクト」なるプロフェッションが社会的に認知されてくる。それを示すのが、「建築家」のオフィスや教育機関の設立である。また、「建築家」の諸団体の成立である。

  ジョージ・ダンス Jr.*36、ヘンリー・ホランド等によって「アーキテクト・クラブ」が設立されたのは一七九一年のことだ。W.チェンバース*37、R.アダムズは後に加わるが、そのクラブは極めて排他的であり、メンバーは王立アカデミー会員に限定されたものであった。また、ロイヤル・アカデミー・スクールでゴールドメダルを獲得したものに入会資格は限定されていた。ロイヤル・アカデミーは、チェンバースの発案で一七六八年に設立されている。「アーキテクト・クラブ」は、一種のサロン、ダイニング・クラブであるが、最初の「建築家」の団体が極めて特権的なものとして設立されたことは記憶されていい。そもそも差別化の論理で団体が結成されているのである。

 このあたりは、瀬口哲夫の『英国建築事情』*38によくまとめられている。まずは、新しい職能としての「建築家」と伝統的な工匠の区別が行われる。アーキテクトを任じる側が、工匠、職人と同列に扱われることを疎ましく思い始めるのである。この思い上がりは今日も続いている。アーキテクトはえらい!、のである。さらに、サーヴェイヤーとアーキテクトの区別がはっきりしてくる。キングス・サーヴェイヤーはアーキテクトであってただのサーヴェイヤーとは違う。そして、アーキテクトはサーヴェイヤーより上だという意識が生まれるのである。瀬口は、当時の『一般建築独案内』が「アーキテクトたるに十分な実力のないものをサーヴェイヤーと見なし、このどちらにもなりえないものをクオンティティ・サーヴェイヤーと称すればよい」と書いている事実を紹介する。また、「建築の専門家になる制限をもうけ、その目的に合致しない限り、その名称を許さない」、という考えがあった。名称独占、業務独占というわかりやすい意図である。サーヴェイヤーも対抗する。「サーヴェイヤーズ・クラブ」が設立されるのは「アーキテクト・クラブ」が設立された翌年(一七九二年)であった。一七七四年に建築基準法(ビルディング・アクト)が施行されており、それに基づいた職能が社会的に認知されたことに対応してつくられたのである。

 それではアーキテクトの資格、能力は何によって担保されるのか。いうまでもなく、それを保証するのは諸制度である。アーキテクトの教育、登録、団体が問題になる。「アーキテクト・クラブ」の設立もそうだ。彼等はダイニング・クラブで設計報酬の取り決めを議論のネタにしていたのである。もちろん、「ロイヤル・アカデミー」といった権威も必要である。いわゆるアーキテクのトが誕生し、増えて行くと、すなわち社会的に認知されると、弟子入り希望も増えてくる。また、建築の設計というのはその本質において集団作業を必要とする。すると弟子入り修業をしたなかからもアーキテクトが生まれてくる。一八世紀後半には、そうした徒弟的修業を経て独立するケースが一般的になったようだ。弟子入りに当たっては謝礼を師匠に払う形がとられた。一九世紀前半には、徒弟制を生活の糧にするアーキテクトも現れる。こうなると私塾である。修業年限は大体五年が一般的であった。今日UIA(国際建築家連合)が建築家の資格取得のための教育年限を五年とするのは一八世紀の経験がもとになっている。我国の四年制の大学制度は合わない。大問題である。

 徒弟修業の一方、建築教育機関が生まれる。一七二〇年にはセント・マーチンズ・レイン・アカデミーという製図学校が開設されている。昼はアーキテクトのもとで働き、夜は製図学校に通う形であった。ロイヤル・アカデミーは設立の翌年にはアカデミー・スクールを始める(一七六九年)。英国最初の建築教育機関である。初代建築教授は、チェンバース、二代がジョージ・ダンス・ヤンガー、三代がソーンだ。アカデミー・スクールといっても年六回の講義で、しかも夜間である。オーソリティによる連続特別講演会といったところであろうか。

 カレッジでの建築教育は、キングス・カレッジで始められ(一八四〇年)、ロンドン・ユニヴァーシティ・カレッジが続いている(一八四一年)。両者は一九一三年に一本化され、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジのバートレット・スクール*に統合されている。AAスクール(アーキテクチュアル・アソシエーション)*が設立されたのは一八四七年のことである。建築家が徹底した建築家教育を行う今日のAAスクールからは想像しにくいが、設立の母胎はドラフトマン(製図工)組合である。

 建築教育育機関がアーキテクトの裾野を広げると同時にその職能の内容を規定していく中で、アーキテクトの差別化、序列化が振興していく。瀬口は、アーキテクトの社会的地位のひとつの指標としてナイトの称号を得たアーキテクトを数え上げていて興味深い。ナイト第一号のアーキテクトはクリストファー・レンである。ナイトになるとサーの称号が許される。サー・ロバート・テーラー(一七一四~八八年)、サー・ウイリアム・チェンバース、サー・ジョン・ソーン、サー・ロバート・スマーク(一七八一~一八六七年)、サー・ジョージ・スコット(一八一一年~七八年)らがレンに続く。日本で言えば、文化勲章、文化功労賞を受賞した建築家、芸術院会員になった建築家を数え上げる感じであろうか。サー・エドウイン・ラッチェンス*やサー・ロバートベーカー*などインドや南アフリカなど植民地で活躍したアーキテクトも爵位を得ている。

 ナイトの称号を得、社会的にも認知されるアーキテクトを支える母胎となるのがRIBAである。一八三四年に結成されて、三年後にウイリアム四世続いてビクトリア女王からロイヤル・チャーター(勅許)を授けられた。このロイヤル・チャータード(王室に認知された)というのが彼我の建築家団体の分かれ目である。王立ではないが王室がその職能を認知するという形がとられるのである。英国建築協会(IBA)結成の翌年に設立されたサーヴェイヤー協会もロイヤル・チャーターを受けている(RICS(ロイヤル・インスティテュート・チャータード・サーヴェイヤー))。また、都市計画家の団体もロイヤル・チャータードである(RTPI(ロイヤル・タウン・プランニング・インスティテュート))。しかし、構造家の団体(ISE)、積算士の団体(IQS)、造園家の団体(LI)などはロイヤル・チャーターされていない。日本とは相当異なる。英国にアーキテクトは自らを特権化することに成功するのである。

  同じ分離は、シビル・エンジニア(土木工学者)とアーキテクトの間にも起こる。一七七一年に「シビル・エンジニア協会」が設立され、一八一八年には「シビル・エンジニア協会」が設立されるのである。エンジニアとアーキテクトの関係が決定的になるのは「英国建築家協会」(IBA)の設立からであり、さらにロイヤル・チャーターされてからである。


 4-5 RIBA

  造家学会、日本建築士会がモデルとしたのはRIBA(王立英国建築家協会)あるいはAIA(米国建築家協会)であった。一体RIBAとは何か。

 RIBAは一八三四年に設立された。造家学会に先立つこと五二年、日本建築士会に先立つこと八〇年である。わずか半世紀ほどの違いのように思えるが、以上のように歴史と背景を相当異にする。

 RIBAの設立目的は、しかし、簡潔かつわかりやすい。

 ①市民建築(シビル・アーキテクチャー)の全般的な発展・振興をはかる。

 ②建築に関連する人文科学と自然科学の知識の獲得を促進する。建築は市民の日常生活の利便性を向上させるものであるとともに都市の改善や美化にも大いに貢献するものである。したがって、文明国において建築は芸術として尊重されかつ奨励されるものである

 ここで、「文明国」や「芸術」より、建築が「シビル・アーキテクチャー(市民建築)」とされていること、「都市の改善」や「美化」に関連づけられていることに留意しておこう。タウンアーキテクトの根拠もここに求めうる。

 RIBAは、その権威を担保するためにロイヤル・ゴールド・メダルの設置(一八四八年)し、ディプロマなど各種証明を出す権利などなどいくつかの権限を確保する。追加勅許という形でその権限を獲得していく。すなわち、常に王室との関係を軸にしながらその公共団体としての性格と地位を維持していくのである。その活動を支える基盤は日本の建築学会や日本建築士会とは相当隔たりがあると言わざるを得ない。

 RIBAの活動は多岐にわたるが、その主要なものは以下のようだ。コミュニティー・アーキテクトの派遣という活動もきちんと位置づけられている。

 ①アーキテクト資格試験の実施

 ②アーキテクトの専門的再教育

 ③各種建築賞など顕彰制度

 ④図書館の運営 設計図面のコレクション

 ⑤アーキテクトに対する技術的データなど各種情報提供

 ⑥顧客相談サーヴィス

 ⑦コミュニティ・プロジェクトの実施 コミュニティ・アーキテクトの派遣、支援

 ⑧アーキテクト任用のための契約上の枠組み設定

 ⑨アーキテクトの倫理規定の制定

 ⑩各種イヴェントの実施

 こうあげると、我が国の建築関連諸団体も同じ様な活動を展開しているようにも思える。しかし、RIBAを中心とする英国のシステムと日本の仕組みの違いは千里の径庭がある。建築士の資格は、「建築技術教育普及センター」、各種基準は「日本建築学会」、建築士の集まりは「建築士会」、建築士事務所の集まりは「建築士事務所協会」、そして、「建築家」を理念化する「日本建築家協会」という複合的関係を建設省が中央でコントロールする体制が日本である。

 RIBAを中心とする英国の建築システム、アーキテクト資格、登録法、建築教育、アーキテクトの任用制度、アーキテクトの職能倫理等々については、これまで度々引用してきた瀬口哲夫の『英国建築事情上・下』が詳しい。単に制度を紹介するのではなく、実状に迫ろうとする労作である。RIBAの取組から多くのことを学ぶことが出来る。

 しかし、RIBAの理念や規約、組織形態を単に翻訳してもはじまらない。一世紀を超えた日本の建築の歴史がそれを示している。

 

 4-6 建築家の資格

  建築家とは何か、と真正面から問うと、ヴィトルヴィウス流の理念が反復される。しかし、世界各国で現実の形態は様々である。各国、各地域の建築家の社会的基盤をめぐる比較文化論は興味深いところだ。それぞれに建築をつくる仕組みがあり、建築家の役割や社会的地位も異なるのである。

 それはそうとして、建築家が国境を超えるとするとどうなるか。建築の先進地域としてルネサンス・イタリアがあり、そこで修業すること、少なくともイタリアの建築を見聞することが草創期の英国のアーキテクトの条件であった。RIBAの会員であったJ.コンドルによって英国流のアーキテクトの概念をもとに出発したのが我が国の建築家(建築士)である。いきなり時代は飛んで、現在グローバリゼーションの流れの中で、建築家の国際資格が問題になりつつある。

 大きなきっかけはEC(欧州共同体)の統合、EU(ユーロピアン・ユニオン)の出現である。既に市場統合がなされ(一九九三年一月)、共通通貨ユーロが使用に先立って為替市場で売買され始めている(一九九八年一月)。

 市場統合にあたって前提されるのが、人、物、資本、サーヴィスの自由移動である。国境における出入国管理、検問、関税など自由化の障壁になる諸制度は一九八五年の「域内市場白書」によって青写真が描かれ徐々に撤廃されてきた。そして、アーキテクトの資格は、弁護士、医者などとともに人の自由移動に関わり、サーヴィスの自由化の前提として共通化が計られることになったのである。 

 EC委員会においてアーキテクトの資格共通化の方針が出されたのは一九六七年のことである。当時の加盟国は、結成時(一九五七年)のベルギー、ドイツ、フランス、イタリア、ルクセンブルグ、オランダの六ヶ国。その後、英国、アイルランド、デンマーク(七三年)、ギリシャ(八一年)、スペイン、ポルトガル(八六年)が加盟して現在一二ヶ国になるが、最終的な指令が採択されるのは八五年である。ヨーロッパでも諸制度の調整に二〇年近くも要した。いかに建築家の社会的基盤が異なっているかの証左である。建築家の資格をはじめ、建築に関わる諸制度がまちまちなのは、建築の生産が基本的にローカルであることの反映でもある。

 まず問題となったのは、建築教育の年限である。五年が支配的だが六年(スペイン)もある。しかし、オランダは四年だ。結局EC指令は四年とされたが、将来的には五年が勧告される。例外はドイツの高等専門学校の三年で、実務経験を加えるというのが条件となった。

 アーキテクトの資格に実務経験を含めるかどうかも問題となった。ドイツ、ベルギー、イギリスのように二~三年の実務経験を強制する国もあるが、大半は必ずしも実務経験を課していない。日本のように実務経験といってもその内容を問わない国もある。

 アーキテクトの中にシビル・エンジニアを含めるかどうかも問題となった。イタリア、ギリシャなどでは区別されていないのである。英国では、シビル・エンジニアとアーキテクトは歴史的な過程を経て分離していが、そのモデルとなったイタリアでは分化していないのである。イタリアにカルトラバ*のような構造デザイナーが育つ土壌があることがよくわかる。一方、フランスではシビル・エンジニアはアーキテクトの仕事はできない。

 資格試験や登録制度の有無、アーキテクトの仕事の範囲や業務独占に関わる規程など実に多様である。そこで結局、ECはアーキテクトの資格の相互認定ではなく建築教育に関わる卒業資格の相互認定を行うことになる。年限は全日制で最低四年。内容的には、建築設計の全般に関わって大学の学位が水準とされた。

 英国の場合、アーキテクトの登録資格が完全に対応する。すなわち、英国アーキテクト登録カウンシル(ARC)の認定を受けた、大学、ポリテクニーク、カレッジ等の建築教育機関およびRIBAの試験に合格したものは相互認知の認定の対象になる。フランスの場合は、アーキテクトの登録制はあるが、相互認定の対象になるのは基本的には二四の大学の建築学部の卒業資格である*39。イタリアは、建築の学位と国家試験合格が相互認定の条件であるが、他にビルディング・コンストラクションのエンジニアの学位と国家試験合格の条件も認められている。ドイツの高等専門学校については、4年の実務経験の証明書をつけることが条件となる。

 米国の場合、建築、建築家に関わる制度については各州に権限がある。全米建築家登録委員会(NCARB)*が全米共通の建築家登録試験(ARE)をするなど一方で統一化は進められているが、各州独自の法、仕組みがある。例えば、カリフォルニア州では、AREの他に、州独自の耐震設計、障害者対策、省エネルギー規定などに関わる面接試験が実施される。カイフォルニア州では建築の学位あるいはアーキテクトの直接監督下で六〇ヶ月の実務経験が受験資格とされるが、ニューヨーク州の場合、建築の学位プラス三年以上の実務経験が必要である。業務資格について個人しか認めない州と協同方式など組織を認める州がある。組織の代表者については様々な条件が設けられる。また、業務制限が行われる州と「アーキテクト」という称号制限のみ規定する州がある。そこでEUと同じように各州間の相互認定の問題が生じる。受験資格の最低年齢、必要実務期間などが取り決められる。

 米国では大学の建築学部の設置は、米国建築教育審議会(NAAB:ナショナル・アーキテクチュラル・アクレディテーション・ボード)が行う。文部省など中央官庁によって設置が認可されるのではなく、自主的な基準と審査期間によって認定する(アクレディテーション)方式*が定着している。NAABは、建築学性の組織(AIAS)、建築教員の組織(ACSA)、全米建築家協会(AIA)*、そしてNCARBの代表により構成されている。この点にも大きな彼我の違いがある。

 米国においては、エンジニアとアーキテクトの職能ははっきり分けられ、専門技術者(プロフェッショナル・エンジニア)の登録制度がある。基本的に各州独自の制度をもっているが、全米技術者・測量士試験委員会(NCEES)による共通試験などかなり統一化が進んでいる。その母胎になるのが、建築、土木に限らず、他の工学分野を含んで、全米専門技術者協会(NSPE)が組織されている。

 こうして、欧米の建築、建築家をめぐる諸制度は、当初それを移入しようとしたにも関わらず、日本のそれとは相当異なる。そうした中で日本の建設市場の閉鎖性が指摘され、建築家の資格などが非関税障壁として非難される。日本は、建築の分野でも世界貿易機構(WTO)*に対応せざるを得ないのである。

 一九八五年のEC指令を受けて、各国で様々な対応がなされてきた。これまでなかったなかったアーキテクト登録法がつくられた国(オランダ)もあれば、教育年限を変更する国もある。各国の対応をまってさらに見直しが予定されるが、ECに設けられた諮問委員会は、建築教育期間五年、実務経験二年の方針を既に出している。

 日本社会の閉鎖性が様々な局面で問われる中で、建築、建築家のあり方も問われつつある。それではEC指令に照らすとき日本の建築家資格、建築教育の内容はどうか。

 建築教育四年というのはかっての教養課程(一.五年~二年)が自由化され形式的には問題なさそうであるが、その実態はどうか。特に五年の勧告に従うとなると、大学院を加えて対応する必要がある。そして、仮に大学院を前提にするにしても、教育内容はどうか。見るところ、建築家教育に程遠い現状がある。

 EC諮問委員会の推奨する実務経験も大きな問題である。日本の場合、実務経験を条件とするけれど自己申告制で内容が問われないのである。

 EUあるいは米国流の諸制度が共通基準とされれば、日本の建築界のパニックは必定である。西欧の諸制度をモデルとする立場にとっては、外圧は追い風である。それに対して、建築は固有の文化に関わる、本来ローカルなものだという、かねてよりの立場もある。日本はどの方向を選択するのか。

 日本にとって気になるのは、韓国、中国の動向である。

 韓国の建築士制度は一九六三年の「建築士法」に基づく。建設交通部長官が実施する建築士資格試験によって資格が得られる。以前は日本同様一級、二級の二つの等級を設けていたが一九七七年の改正以降「建築士」に一本化されている。建築士の数は約八千人(一九九四年)である。人口に比して極めて少ない。社会的地位は高いとみていい。「建築士」とは別に、その前提となる資格に「国家技術資格法」に基づく技術士、技士一級、技士二級がある。専門大学を卒業すると技士二級、四年生大学を卒業すると技士一級の受験資格が得られる。そして技士一級取得後七年の実務経験を経ると技術士の受験資格が得られる。

 「建築士」の受験資格は、建築士予備試験の合格者の他技術士資格と関連して以下のような場合がある。すなわち、建築分野技士一級取得後七年以上建築の実務経験を有する者、建築分野技術士取得者、建築分野技士一級取得後五年以上建築士補として勤務した者、外国の建築士等資格を取得した後通算五年以上建築の実務経験のある者である。

 建築士予備試験がの科目は、建築構造、建築施工、建築計画、建築士資格試験の科目は、建築法規と建築設計である。大学卒業後、試験のみで資格を得る道もあるが資格取得者の数を見ると極めて難しいことがわかる。日本に比べると実務経験が重視されており、厳しく階層化されているといえる。

 一九四九年の中華人民共和国建国以降の中国の場合、相当事情が異なる。一九八五年までは、技術職名制度が採られていた。すなわち、エンジニアについては、高級工程師、工程師、助理工程師、技術員、設計技術者については、高級建築師、建築師、助理建築師、技術員のそれぞれ四段階の職位が区別されていただけである。

 八五年に専門技術職務の認定制度が導入され、専門技術師の招聘制度が採られる。技術員は、大学専科または中等専門学校卒業後見習い一年、考査に合格、助理建築師は、修士または第二の学士を取得、考査に合格/学士または大学本科卒業、見習い一年、考査に合格/中等専門学校卒業、技術員四年、建築師は、博士取得、考査に合格/修士または第二の学士を取得、助理建築師二年/学士または大学本科卒業、助理建築師四年、高級建築師は、博士取得、建築師二年/大学本科卒、建築師五年というのが資格条件である。

 ところが、中国は新しい建築師制度の導入に踏み切る。一九九四年十月、遼寧省沈陽市で建築師登録試験を試行するに至るのである。試験の現場には全米建築家登録委員会(NCARB)、王立英国建築家協会(RIBA)、香港王立建築家協会の関係者が立ち会った。モデルになったのは米国の建築家登録試験である。中国は、米国、英国などとの間での建築家資格の相互承認を睨んで、建築師制度の整備を行うことを決定するのである。一九九四年に国際建築家連盟(UIA)に職能基準委員会がつくられ、一九九九年六月の第二一回北京大会で国際的標準案が通過することになった*。

 さながら、中国,EU、米国による日本包囲網である。二一世紀を眼前に迎えて、日本の建築士制度は果たしてどうあるべきか。


 4-7 建築家の団体

  建築家の社会的基盤をうかがう指標としては、以上のように建築家の資格のあり方、それを認定する機関のあり方、建築家の教育の在り方などがある。そうした諸制度を背景として、建築界には様々な団体が組織される。建築家に関わる各種団体のあり方も各国それぞれである。

 英国の場合、RIBAが中心である。しかし、スコットランドには王立スコットランド建築家協会(RIAS)、北アイルランドには王立アルスター建築家協会(RSUA)がある。英国の歴史が反映しているとみていい。

 RIBAとは別に積算士協会(IQS)*、王立調査士協会(RICS)*、さらに調査技士協会(SST)*がある。建築調査士(ビルディング・サーヴェイヤー)や建築技師(アーキテクチュラル・テクニシャン)は、住宅など小規模な建築の設計に従事している。建築活動に従事するのはいわゆるアーキテクトだけではない。アーキテクトの世界とは別にあるいは競合的に建築活動を行う一群の存在があるのである。

 アーキテクトの資格登録は、上で見たように、英国アーキテクト登録審議会(ARC)によって行われる。ARCはRIBAとは別である。RIBAと同様、建築調査士連合会(IAAS)からもメンバーが送られる。IAASのような団体も英国に存在するのである。さらに、ARCには、自治体技術者協会(IMCE)、技術者協会(SE)、公認調査士協会(CSI)、構造技術者協会(ISE)、建設業協会(IB)からも委員が送られている。

 建築に関わる裾野は広い。英国建築界には英国建築界の構造があるのである。アーキテクトの職能、業務範囲、内容は英国においても必ずしも一定不変ではない。プロジェクト・マネージャー(PM)の出現やデザイン・ビルド(設計施工)の形態の増加など時代の変化に対応することは常に要請されているとみていい。

 ドイツでは、各州の法律に基づき建築家会議所に登録される。地方分権の伝統のある連邦国家の特性を反映している。建築を支えるローカルな特性、構造とグローバルな共通基準の設定の問題はいまどこでも問われている。ドイツもひとつのモデルである。マイスター制度を基礎にした教育システムも偏差値教育に偏した日本とは相当異なる。

 建築家会議所は建築家の会費によって運営されるが、職能団体ではない。職能団体としては、ドイツ建築家協会(BDA)*がある。一九〇三年の設立だから日本建築士会設立に十年ほど先立つ。BDAの会員は、専業アーキテクトに限定される。いわゆるフリー・ランスの建築家である。設計事務所の主宰者は会員になれるが、所員はなれない。設計責任がとれないという理由からである。会社組織の主宰者は条件付きで会員となれるが、個人かパートナーシップで活動する建築家が会員の主体である。より純化、特権化した組織と言えるかもしれない。約八万人の登録建築家のうちBDAの会員は六パーセント(四八〇〇人、一九九四年)を占めるにすぎないのである。

 BDA以外に、ドイツ建設マイスター・建築家・技術者協会(BDB)がある。全ての建築家に門戸を開いた資格者団体である。他に、ドイツ自由建築家協会(VFA)があるが、造園、インテリアなどの分野を含んでいる。建築家会議所と平行して各州に技術者会議所が設けられている。


 4-8 建築学科と職人大学

 この間理工学系部の再編成に伴って、日本中の大学から”建築学科”という学科名が消えていくという事態が続いている。大学院重点化ということで、新しい専攻の名が求められたということもある。やたらに増えているのが、「環境」(「文化」「国際」)という名のつく学科である。”建築学科”という名前が消えていくのは寂しいことではあるが、日本における”建築”を取り巻く環境が大きく変わり、建築界が構造改革せざるを得ないこと、また、それに伴い”建築学科”も変貌せざるを得ないのは当然である。

 成長拡大主義の時代は終わったのであり、建設活動はスローダウンせざるを得ない。農業国家から土建国家へ、戦後日本の産業社会は転換を遂げてきた。建設投資は国民総生産の二割を超えるまでに至る。”建築学科”は一九六〇年代初頭から定員増を続け、各大学に第二の建設系学科がつくられた。しかし、今や、”建築学科”はさらには必要ない。建設ストックが安定しているヨーロッパの場合、建設投資は一割ぐらいだから、極端に言うと、半減してもおかしくない。”建築学科”の崩壊(定員割れ)と呼びうる現象の背景には、日本の産業構造の大転換がある。

 しかし、”建築学科”の崩壊は、より深いところで進行している。単に量(建設量、建設労働者数、学生数)の問題であるとすれば、淘汰の過程に委ねるしかないだろう。ストック重視となれば、維持管理の分野がウエイトを増してくる。”建築学科”のカリキュラムも見直しが必要となる。しかし、問題はそれ以前にある。「建築家(建築士)」の現場離れの問題が本質的である。現場の空洞化、”職人”世界の崩壊の問題である。さらに、建設技術における専門分化の徹底的な進行の問題がある。建築という総合的な行為があらゆる局面で見失われつつあるのである。

 日本の”建築学””建築学科”は「工学」という枠組みの中で育ってきた。学術、技術、芸術の三位一体をうたう日本建築学会は工学分野ではかなり特異である。しかし、建築の設計という行為が学術、技術、芸術の何れにも関わる総合的な行為であることは洋の東西を問わない。大きな問題は”建築学科”の特質がなかなか一般に理解されないことである。大きく視野を広げれば日本の教育体制の全体が関わっている。いわゆる偏差値社会の編成である。高校、大学への進学率が高まり、ペーパー・テストによって進学と就職が決定される、そんな一元的な社会が出来上がった。建設産業の編成としては、”職人”世界から”建築家(建築士、建築技術者)”世界への流れが決定的になった。学歴社会は、大工棟梁になるより一級建築士になる方がいい、という価値体系に支えられている。結果としてわれわれが直面するのが建設産業の空洞化である。

 一九九〇年一一月二七日、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)●という小さな集まりが呱々の声を上げた。サイト・スペシャルズとは耳慣れない造語だが、優れた人格を備え、新しい技術を確立、駆使することが出来る、また、伝統技能の継承にふさわしい、選ばれた現場専門技能家をサイト・スペシャリストと呼び、そうした現場の専門技能家、そして現場の技術、工法、機材、労働環境まで含んだ全体をサイト・スペシャルズと定義づけたのである。建設現場で働く、サイト・スペシャリストの社会的地位の向上、待遇改善、またその養成訓練を目的とし、建設現場の様々な問題を討議するとともに、具体的な方策を提案実施する機関としてSSFは設立された。スローガンは当初から’職人大学の設立’である。主唱者は日綜産業社長小野辰雄*氏。中心になったのは、専門工事業、いわゆるサブコンの社長さんたちである。いずれも有力なサブコンであり、”職人”の育成、待遇改善に極めて意欲的であった。

 顧問格で当初から運動を全面的に支援してきたのは内田祥哉元建築学会会長。内田先生の命で、田中文男大棟梁とともに当初から僕はSSFの運動に参加してきた。それからかなりの月日が流れ、その運動は最初の到達点を迎えつつある。具体的に「国際技能工芸大学」が開学(二〇〇一年四月予定)されようとしているのである。バブルが弾け「職人大学」の行方は必ずしも順風満帆とは言えないが、SSFの運動がとにもかくにも大学設立の流れになった。

 SSFの主唱者小野辰雄氏はもともと重量鳶の出身である。その経験から足場メーカーを設立、その「3Mシステム」と呼ばれる支保杭と足場を兼ねる仮設システムを梃子として企業家となった。その活動はドイツ、アメリカ、アジア各地とグローバルである。その小野氏がどうしても我慢がならないことが現場で働く職人が大事にされないことである。当時はバブル経済華やかで職人不足が大きな話題であった。3K(きたない、きつい、給料が安い)職場ということで若者の新規参入がない。後継者不足は深刻であった。そうした中で、職人が尊敬される社会をつくりたい、そのために”職人大学”をつくりたい、というのが小野氏以下SSF参加企業の悲願であった。

 最初話を聞いて大変な何事かが必要だというのが直感であった。そこで藤沢好一、安藤正雄の両先生に加わって頂いた。また、土木の分野から三浦裕二(日本大学)、宮村忠(関東学院大学)の両先生にも加わって頂いた。当初はフォーラム、シンポジアムを軸とする活動であった。海外から職人を招いたり、マイスター制度を学びにドイツに出かけた。この間のSSFの活動はSSFニュースなどにまとめられている。

 議論は密度をあげ、職人大学の構想も次第に形をとりだしたが、実現への手掛かりはなかなか得られない。そこで兎に角何かはじめようと、SSFパイロットスクールが開始された。第一回は佐渡(真野町)での一九九三年五月三〇日(日)から六月五日まで一週間のスクーリングであった。その後、宮崎県の綾町、新潟県柏崎、神奈川県藤野町、群馬県月夜野町、茨城県水戸とパイロットスクールは回を重ねていく。現場の職長さんクラスに集まってもらって、体験交流を行う。そうした参加者の中から将来のプロフェッサー(マイスター)を見出したい。そうしたねらいで、各地域の理解ある人々の熱意によって運営されてきた。現場校、地域校、拠点校と職人大学のイメージだけは膨らんでいった。カリキュラムを考える上では、並行して毎夏、岐阜の高根村、加子母村を拠点として展開してきた「木匠塾」*(一九九一年設立 太田邦夫塾長)も大きな力になった。

 そして、SSFの運動に転機が訪れた。KSD(全国中小企業団体連合会)との出会いである。SSFは、建設関連の専門技能家を主体とする、それも現場作業を主とする現場専門技能家を主とする集まりであるけれど、KSDは全産業分野をカヴァーする。”職人大学”の構想は必然的に拡大することになった。全産業分野をカヴァーするなどとてもSSFには手に余る。しかし、KSDは全国中小企業一〇〇万社を組織する大変なパワーを誇っている。

 KSDの古関忠雄会長の強力なリーダーシップによって事態は急速に進んでいく。「住専問題」で波乱が予想された通常国会の冒頭であった(一九九六年一月)。村上正邦議員の総括質問に、当時の橋本首相が「職人大学については興味をもって勉強させて頂きます」と答弁したのである。

 「産業空洞化がますます進行する中で、日本はどうなるのか。日本の産業を担ってきた中小企業、そしてその中小企業を支えてきた極めてすぐれた技能者をどう考えるのか。その育成がなければ、日本の産業そのものが駄目になるではないか。そのために職人大学の設立など是非必要ではないか。」

 ”職人大学”設立はやがて自民党の選挙公約になる。

 その後、めまぐるしい動きを経て、(財団)国際技能振興財団(KGS)の設立が認可され、その設立大会が行われた(一九九六年四月六日)。以後、財団を中心に事態は進む。国際技能工芸大学というのが仮称となり、その設立準備財団(豊田章一郎会長)が業界、財界の理解と支援によってつくられた。梅原猛総長候補、野村東太(元横浜国大学長)学長候補を得て、建設系の中心には太田邦夫先生(東洋大学)が当たられることが決まっている。一九九七年にはキャンパス計画のコンペも行われ、用地(埼玉県行田市)もあっという間に決まった。今は、文部省への認可申請への教員構成が練られているところである。

 国際技能工芸大学(仮称)は、製造技能工芸学科(機械プロセスコース、機械システムコース、設備メンテナンスコース)と建設技能工芸学科(ストラクチャーコース、フィニッシュコース、ティンバーワークコース)の二学科からなる4年生大学として構想されつつある。その基本理念は以下のようである。

①ものづくりに直結する実技教育の重視

②技能と科学・技術・経済・芸術・環境とを連結する教育・研究の重視

③時代と社会からの要請に適合する教育・研究の重視

④自発性・独創性・協調性をもった人間性豊かな教育の重視

⑤ものづくり現場での統率力や起業力を養うマネジメント教育の重視

⑥技能・科学技術・社会経済のグローバル化に対応できる国際性の重視

 具体的な教育システムとしては、産業現場での実習(インターンシップ)、在職者の修学、現場のものづくりを重視した教員構成をうたう。

  教員の構成、カリキュラムの構成などまだ未確定の部分は多いがSSFの目指した”職人大学”の理念は中核に据えられているといっていい。

 もちろん、設立される”職人大学”がその理念を具体化していけるかどうかはこれからの問題である。巣立っていく卒業生が社会的に高い評価を受けて活躍するかどうかが鍵である。

  何故、文部省認可の大学なのか。”職人”の技能””工芸”を日本の教育システムのなかできちんと評価してほしい、という思いがある。人間の能力は多様であり、偏差値によって輪切りにされる教育体制、社会体制はおかしいのではないか、という問題提起がある。だから、ひとつの大学を設立すれば目標達成というわけにはいかない。実際、続いて各地に”職人大学”を建設する構想も議論されている。

 ただ、数が増えればいいということでもない。問題は”職人大学”がある特権を獲得できるかである。具体的に言えば、”技能””工芸”に関わる資格の特権的確保である。”職人大学”の構想もそうした社会システムと連動しない限り、しっかり根づかないことは容易に予想される。さらに、日本型のマイスター制度*が同時に構想される必要がある。総工事費の何パーセントかを職人養成に当てる、そうした社会システムの実現である。