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2022年4月21日木曜日

京都という場所,景観としての京都,田中喬,GA97,1997AUTUMN

 京都という場所,景観としての京都,田中喬,GA971997AUTUMN












 
対談メモ 京都という場所

 Q1 ・・・景観あるいは(都市)風景をキーワードとしたいと思うのですが、まず京都という都市をどう規定するか、について
      京都に「居る」こと 「ここ京都で」 居る聞く写す
                     行う見る作る
                     祈る知る行う

      学びの場としての京都 アカデミアとしての京都?   

 Cf.布野:世界の中心としての京都(基本理念)
   世界都市としての「京都」
   「京都」の特権性・・・センター機能をどう維持し続けるか
    1 天皇の所在地としての京都→?
    2 首都機能→政治首都、経済首都???→遷都 機能移転
    3 文化首都→日本文化の中心
        4  学術の中心→京都学派、ノーベル賞・・・→○○学センター
    5 歴史都市(古都)としての環境(景観)資源
      →観光都市 修学旅行のメッカ
      →世界文化遺産都市
      →小京都連合のセンター
 
 Q2 景観あるいは風景とは Landscape Landshaftとは
        言葉でもって 写す 純粋経験
    we see   I see  風景論とは
    自然 生ある自然 共生 

 Q3 京都の景観とは あるいは景観としての京都とは
    日本の景観としての京都

 Q4 景観問題 景観論争で問われているものは一体何なのか

 Q5 京都の具体的な景観をめぐる問題をめぐって
    問題ー解決の思考法とは

   二分法の発想 紋切り型の議論→思考停止 解決の先送り
       北部保存南部開発 観光か開発か 景観か産業か 
    博物館都市構想
    木都   

      制作 生活・環境構成論 術と論   写生



 世界都市文化センター
    a  研究センター
    b  世界歴史都市会議
    c  世界都市博物館
    d  アーバン・アーキテクト・センター
    e

  Ⅱ 世界木の文化センター
        a 研究センター
    b  木の文化博物館
    c  木の技術研修センター
    d  木の文化保存修復研修センター
    e

  Ⅲ

・そのためには、長期的展望に立ってどういう方向の施策をとるべきか(何に力を入れて市政を進めていくべきか)。

 A 「まち」・・・都市計画 建築行政分野の課題
   「世界文化遺産としての都市環境」施策
   
    → 地区(場所)の固有性へ 歴史の重層 新旧の併存 モザイク
  ◎地区毎のヴィジョンの確立


  Ⅰ  都市デザインボードの確立(長期展望の担保)
    啓発→企画・計画→実践→評価の一貫システム
    
  ←都市デザイン分野における先進的仕組みをつくりあげることが第一の条件

    アーバン・アーキテクト制(都市デザインの一貫性担保)
    市立芸大学長=シティ・アーキテクト
    都市デザインコミッティ・マスターアーキテクト制
    コミッショナー制
    建築市長:地区アーキテクト制
    ハウスドクター制度


 Ⅱ 都市デザインの新展開

   地区計画

   ・(平成の)ニュータウン(新街区)開発

   ・都心再開発モデル
     既存ストック利用のモデル
     町家型都市型住宅モデル

   ・木造街区のモデル


   ・隙間のデザイン
     土木と建築 高架下のデザイン 空き地のデザイン

   ・屋上のデザイン


   公共施設計画
   ・公共事業の発注方式・・・公開ヒヤリング


   住宅政策・・・地域住宅計画

    京都フリンジの整備




   

  Ⅲ 守るべき都市遺産の維持更新システムの確立

  ◎世界文化遺産基金  かね
   世界文化遺産周辺の環境整備のための基金

  ◎都市環境資源(世界文化遺産)のための法整備(条例を外すという特権)

    町家再生条例  
     ①文化財保護法98ー2 83ー3
     ②建築基準法3ー1ー3
     ③建築基準法67ー2
     ④都市計画区域の変更

    独自の美観条例
  
  ◎都市環境資源(世界文化遺産)の維持管理システム
      ひと・もの・わざ・・・技術・技能者・材料
  
   木の技術・保存修復センター(日本の木造文化を守るという特権と義務)
    職人大学構想との連携
    東本願寺等社寺の維持管理システムとの連携
    国際協力との連携
   ・古材バンク リサイクルセンター
   ・景観材料開発


・その他グランドビジョン策定に当たって特に留意すべき視点、事項など。

  インパクト・・・どれだけ関心を集められるか

  継続性の担保・・・絵に描いた餅ではしようがない

 ●京都と私
      ・祇園祭・屏風祭り調査                ・東本願寺の維持管理システム
   ・祇園地区土地所有調査                          
   ・京都の聖祠(地蔵堂)調査                          
   ・小京都に関する調査                          
      ・京町家再生研究会                          
   ・町家再生防火手法                          
   ・建築文化特集『建都1200年の京都』                          
      ・京都歩く見る聞く                          
      ・京都アグリフロント                          




2022年4月19日火曜日

木の移築プロジェクト,現代のことば,京都新聞,19970603

木の移築プロジェクト,現代のことば,京都新聞,19970603 


木の移築プロジェクト

 フィンランドのヘルシンキ工科大学、米国のヴァージニア工科大学からたてつづけに建築家、教授の訪問を受けた。学生それぞれ二十人前後が同伴しての訪問である。目的もよく似ている。京都の町を素材に特に木造建築について学ぼうというのである。ワークショップ方式というのであろうか、単位認定を伴う研修旅行である。日本の大学も広く海外に出かけていく必要があると思う。うらやましい限りである。

 修学院離宮、桂離宮、詩仙堂…、二つの大学のプログラムを見せられて、つくづく京都は木造建築の宝庫であると思う。実に恵まれているけれど、時としてその大切な遺産のことを僕らは忘れてしまっている。議論を通じて、日本人の方が木造文化をどうも大事にしてこなかったことをいまさらのように気づかされて恥じ入る。

 フィンランドは木造建築の国だ。だから木の文化への興味は実によく分かる。フィンランドにはアルヴァー・アールトという大建築家の存在があって日本にもファンが多い。建築の感覚に通じるものがあるのである。建築史のニスカネン教授のアールトについての講義はいかにその作品が深くフィンランドの木造建築の伝統に根ざしているかを具体的に指摘して面白かった。建築のグローテンフェルト氏と美術史のイエッツォネン女史の講義も、フィンランドの建築家の作品の中に日本建築の影響がいかに深く及んでいるかを次々に指摘していささか驚いた。

 学生たちはただ観光して歩いているわけではない。両大学ともスケッチしたり、様々なレポートが課せられている。レイ・キャス教授率いるヴァージニア工科大学のプログラムで特に興味深いものとして具体的にものを制作する課題がある。近い将来日本の民家を解体してアメリカに移築しようというのだ。「木の移築」プロジェクトという。プロジェクトの中心は、京都で建築を学ぶピーター・ラウ講師である。民家の再生を手がける建築家、木下龍一氏がサポートする。

 まず、初年度は民家を解体しながら木造の組立を学ぶ。そして、次年度はアメリカで組み立てる。敷地もキャンパス内に用意されているという。米国の大工さん(フレーマー)も協力する体制にあるという。問題は日本側の協力体制である。面白そうだから協力しましょう、という話になったけれど、容易ではない。組立解体の場所を探すのが大変である。解体する民家を探すのも難しい。いきなり今年は実行できないけれど、とにかく何か共同製作しようという話になった。みんなでひとつの巨大な「連画」を描く。場所は何とか確保した。ヘルシンキ工科大学は参加できなかったが日米学生三〇数名が参加する。六月四日が実行の日である。




2022年4月18日月曜日

文明と森,シルバン編集委員会,シルバン6,1996AUTUMN

 文明と森,シルバン編集委員会,シルバン61996AUTUMN






文明と森

布野修司

 世界単位

 「総合的地域研究の手法確立」という文部省の五カ年にわたる重点領域研究の末端に加えさせて頂いている。京都大学の東南アジア研究センターを中心とする東南アジア研究者が主体となる研究プロジェクトであるが、そのタイトルが示す通り、「総合的地域研究の手法確立」がテーマであり、研究対象は東南アジア地域に限定されない。「外文明と内世界」、「地域発展の固有論理」、「地域性の形成原理」などいくつかの班からなるけれど、総括班が主催する「地域間研究」の視点が刺激的である。

 「東南アジアと南アジア」、「東南アジアと中東」、「東南アジアと中国」という形で地域間比較を行いながら、地域研究の方法をグローバルな視野において問いつつあるのである。その中心にいて議論を仕掛けているのは、見るところ、「世界単位論」を提起する(『新しい世界秩序をめざして』 岩波新書)高谷好一氏(滋賀県立大学)だ。将来の世界における地域のあり方を展望するために提出されたのが世界単位という概念だ。世界単位は必ずしも生態学的に自立可能な単位ということではないのであるが、「エコ・ロジック(生態論理)」がその基礎に置かれていることは間違いない。中国は一つの世界単位になる。東南アジア全域も世界単位足りうる。日本は、しかし、世界単位にはならないのではないか。

 「地球環境時代」の行方をめぐっては、構想力豊かなプログラムと共に具体的な実践が必要とされる。「エコ・ロジック」がその鍵を握っていることは疑いのないところである。

 

 地域間比較・・・生態論理

 手元に出席できなかった「東南アジアと中東」を比較する研究討論会の記録(一九九六年四月)が届いた。いくつかのトピックを取りあげれば以下のようである。

 まず、冒頭で、古川久雄先生(京都大学)が「風土の変貌」と題して、東南アジアと中東の比較を試みている。東南アジアは湿潤な世界であり、中東は乾燥の世界である。発生学的風土という視点からみると、中東地域は生態区分が単純で、陸、砂漠、ワジ、ドライステップぐらいしかなく、人間の居住できる場所は古くから限定されてきた。限定された場所に密集して住むことから、隣人関係から、戦闘、交易、支配、服従といった社会的関係の処理の制度を発達させてきた。それに対して、東南アジアは、生態区分が豊富である。まず、森があるが、森といっても多様で、何層にも樹冠の重なる熱帯降雨林、落葉するモンスーン林、また、テラテラした葉をつける照葉樹林などが区別される。また、海も、マングローブの密生する浅海、珊瑚礁の海など様々である。

 生業について見ると、中東は居住可能な場所イコール水のある場所であり、「オアシス農耕牧畜複合」を基本とするのに対して、東南アジアは基本的には採集の世界である。こうした比較は、宗教、規範へと展開されていくのであるが、地域を生態学的な基盤においてまず捉える見方に対して、中東の場合、器としての地域より、人の動きとネットワークが地域性を形づくるのではないか、という議論が提出される。家島彦一氏(東京外国語大学)の「都市とネットワーク」がそうである。

 属地か属人か、という概念フレームは「イスラームの都市性」をめぐって提出されたものであるが、地域をどうとらえるか、という際の大きな軸となる。「イスラーム」が属人的な特性をもち、それを産んだ中東の地域性も属人的なネットワークとして理解する一方、「イスラームの地域性」を問題にするのが大塚和夫氏(東京都立大学)である。世界最大のムスリム人口をもつインドネシアを含む東南アジア地域も、イスラームの地域化として捉えられるという、主張がある。

 舌足らずにしか触れ得ないのであるが、東南アジアと中東に限らず、東南アジアと南アジアをめぐっても、地域とは何か、地域をどう捉えるか、をめぐって、大きな議論が展開されつつあって、実にスリリングである。

 何よりも興味深いのは、専門的な細かい議論よりも、地域の中心を大づかみにするイメージが重視されていることである。中東のイメージは、高谷好一氏によれば以下のようだ。

 断面図をとると、左に地中海、そしてレバントの山脈があり、その背後にダマスカスがある。それから、チグリスの大シリアの平原が拡がり、ザクロスの山があって、後ろにイスファハンがある。最後にペルシャの高原があって、アフガンにつながる。中東全体として都市と遊牧の世界であるが、いくつかに分けるとすると、山国とゾロアスター教のペルシャ、森と遊牧民のトルコ、商人の大シリア、農民のエジプト、というイメージになるのではないか、というのが高谷説である。

 高谷説の基本は、結局全ては「エコ・ロジック」にできていると考えるところにある。そして、三つの生態/世界単位類型の組み合わせが考えられている。第一は、砂漠と草原、すなわち乾燥帯。第二が、森。第三が、森が切り開かれた「野」。そして、高谷氏はそれぞれの地域を捉える視角は別々にならなければならない、という。

 森を切る視角はエコロジー。野を切る視角は統治の論理、あるいはイデオロギー。草原、砂漠、海を切る視角は、ネットワークもしくは属人性。野とは、具体的にはインドと中国である。東南アジアは森の世界である。

 

 森と文明の物語

 以上のような議論を頭の隅に置きながら、安田喜憲氏の『森と文明の物語ー環境考古学は語る』(ちくま新書 一九九五年)を読んだ。森こそが文明の盛衰の鍵であるという、森林史観とでもいうべき文明観が示されている。武器とされるのが花粉分析である。花粉というのは皮膜に覆われて強く、腐らないのだという。ボーリングによって各地層に含まれる花粉の種類と量によって、かっての植生がわかる。環境考古学と言われる新しい魅力的分野の成果である。

 かって文明が栄えた地域には豊かな森があった。中東のチグリス、ユーフラテス川流域は古代メソポタミア文明発祥の地として知られる。世界最古の都市文明が成立した場所とされる。この都市文明の成立こそ、森林破壊の第一歩であった、というのが『森と文明の物語』の基調である。

 花粉分析によれば、現在のレバノンからシリア、そしてトルコの地中海沿岸には樹齢六〇〇〇年以上のレバノンスギの巨木が天空高く聳える森があった。上の高谷モデルでいうとレバントの山脈の地域がそうである。そのレバノンスギの森の存在は、紀元前三〇〇〇年に書かれた人類最古の叙事詩『ギルガメシュ』に登場する。ギルガメシュとは、レバノンスギの森を征服したウルクの王の名前である。

 紀元前五五〇〇年頃、大規模な気候変動が起こった。それとともに乾燥化、砂漠化が始まる。従って、冒頭の中東の地域の生態区分は修正の必要はないのであるが、この間の考古学的発見が明らかにするのは、その気候変動によって、すなわち森林資源の枯渇によって滅びた国があることである。レバノンスギの集散地であったと考えられるエブラ王国がそうである。木材は、建築用材として、また、造船用材として、燃料として無くてはならない資源であった。さらに、木棺にも大量に用いられたという。木材資源の争奪をめぐって、エブラ王国は滅びるのである。安田喜憲氏は、トロイ戦争もペロポネソス戦争も森林争奪戦争であったという。

 ヨーロッパ文明と森をめぐっても、興味深い物語がある。知られるように、イギリスでもフランスでも、イタリアでもオーストリアでもドイツでも、一六~一八世紀に森は消滅したということがある。ロンドンから木造建築が消えたのは、一六四四年のロンドン大火からであるが、実際には、森林資源の枯渇があった。ドイツのシュヴァルツバルトの大半は、一九世紀以降植林されたものである。

 ヨーロッパ文明と新大陸の接触によって、南北アメリカ大陸でいかに森林が破壊されたか、イースター島のモヤイの像が何故つくられなくなったのか、等々、森の文明史は数々の教訓を与えてくれる。そこでどう未来を展望するのか。現代文明はあと一〇〇年以内に崩壊するだろうと安田氏はいう。「現代文明の末期には環境難民が多発し、その文明の崩壊、これまでのいかなる文明も体験しなかった地球全体を巻き込んだ破滅的なものになるだろう」というのがそのシナリオである。森の文明を再認識すること、共生と循環、そして平等主義に立脚した新しい文明を創り出すことが展望されるけれど、容易なことではない。

 

 木匠塾

 木匠塾という集まりを開始して六年になる。毎夏、インターユニヴァーシティ・サマースクールと称して、合同合宿のようなことを行うだけだから、どうということはないのだけれど、森のことを考えるいい機会になっている。

 営林署の製品事業所が使われなくなったので、払い下げてもらったのがきっかけである。岐阜県高根村で開始して、昨年は加子母村でも集まりをもつようになった。

 今年の木匠塾のインターユニヴァーシティー・サマースクール(第六回)は、去年に引き続いて、高根村と加子母村の二カ所で、七月三〇日~八月一〇日の間、開かれた。二カ所になり期間も長くなったのは、参加人数が多くなり、それぞれのグループ毎に独自のプロジェクトが展開され始めたからである。

 高根村の「日本一かがり火まつり」(毎年八月の第一土曜日 今年一〇回目)は魅力的である。今年は、京都造形大学と大阪芸術大学が屋台を出した。また、東洋大学、千葉大学、芝浦工業大学の東京組も、その日高山見学などを組み入れて、かがり火まつりの会場に集結してきた。翌日は、加子母村での懇親スポーツ大会で、翌々日のプレカット工場等の見学などが共通プログラムである。

 加子母村では、高根村と同じように営林署の二棟の製品事業所の改装が今年は開始された。宿泊施設として使うためである。製品事業所のある渡合地区はすばらしいキャンプ場として整備されつつあるのであるが、電気の設備がない。自家発電装置が必要なのであるが、電気のない自然の中で暮らす経験も木匠塾の第一歩である。

 まず問題となるのが虫である。今年は蛾の類の虫の異常発生とかで、夜はたまらない。油断していると口の中に飛び込んできたりする。初めて木匠塾に来るとびっくりするのであるがすぐなれる。また、魚釣りをしたことのない学生が多いのに驚く。それだけ日本から自然が失われているというべきか。嬉々として魚釣りに興じる学生の顔を見ると、複雑な心境になる。とにかく、自然に触れるのは貴重な経験なのである。

 京都大学グループは、三年がかりの登り釜を完成させた。去年は素焼き止まりであったが、今年は釉薬を塗って素晴らしい焼き上がりとなった作品ができた。釜の構造も補強し、ほぼ恒久的に使えるようになった。素人がつくった釜でも一応使えるのが確認できたのは大収穫である。

 もうひとつのプロジェクトは、斜面への露台の建設である。清水の舞台、懸け造りとはとてもいかない。丸太を番線で緊結するプリミティブな手法だ。番線とシノの扱い方は、ロープ結びと並ぶ木匠塾の入門講座である。

 京都造形大学は、昨年の原始入母屋造りを山の斜面に向かって増築していく構えで、草刈り機をつかっての地業に余念がなかった。大阪芸術大学は、念願の風呂をつくるということで準備ができていた。継続的に、ものが出来ていくのは楽しいことである。

 バンガローの設計組立は、来年になりそうであるが、東洋大グループは、昨年のゲルを改良して移動住居として立派に使っていた。創意工夫もものをつくる源泉である。

  まあ、たわいのない遊びのようなものだけれど、森を考えるきっかけにはなる。木匠塾は可能な限り続けていくことになろう。

 



2022年4月17日日曜日

2022年4月16日土曜日

2022年4月12日火曜日

戦後建築の70年「世界資本主義と地球のデザイン」『建築ジャーナル』2015年12月

 戦後建築の70年「世界資本主義と地球のデザイン」『建築ジャーナル』201512

戦後建築の70

 世界資本主義と地球のデザインー求められる大建築理論ー

布野修司

 

 2015(平成27)年、戦後70年目のこの1年は、間違いなく歴史を画する年になる。

 「安保法案」の成立(2015.09.19)が決定的な閾(メルクマール)である。戦後日本を支えてきたもの(「平和憲法(第九条)」に象徴されるこの国のかたち)、その存立根拠が否定されることで、その歴史を戦後の零地点にまで遡行し、改めて、戦前・戦後の連続・非連続を問わざるを得なくなる。

 

永続敗戦

 戦後政治史の脈絡においてはっきりしたのは、白井聡の『永続敗戦論』(2013年)他が指摘するように、「戦後」が終わったということ、「戦後」という歴史の枠組みの終焉が宣言されたということである。「戦後政治の総決算」「戦後レジームからの脱却」は、既に1982年の中曽根政権以降唱えられ続けられてきたのであるが、「新体制」が目指すのは、「戦争を終わらせる」国制ではなく、「戦争ができる」国制である。フクシマ(2011.03.11)を受けて改正された原子力委員会設置法(2012.06)は、「我が国の安全保障に資すること」という条件を付されて、核技術の軍事利用に道を開くものでもある。沖縄の基地の固定化は全く顧みられることはなく、「非核三原則」もなし崩しにされつつある。浮かび上がるのは、戦前・戦後の連続性である。フクシマ(2011.3.11)で、また、新国立競技場をめぐる問題で露わになったのは「無責任の体系」(丸山眞男)である。戦時下に総力戦に突き進んでいったファシズム体制と同相である。実に奇妙なのは、原子力爆弾の投下(広島1945.0806、長崎1945.0809)による敗戦(1945.08.15)によって出発した日本が,徹頭徹尾アメリカ追従、アメリカ依存であり続けてきたことである。何故、保守でナショナリストを自認する勢力がアメリカに追従するのか(「親米右翼」「親米保守」)、その奇妙な捻じれについては、日本社会の基層に戦前に遡る分厚い闇があることを指摘すべきであろう。 

 

戦前・戦後の連続・非連続

 戦後建築の歴史を遡ることによって確認されるのは戦前・戦後が截然と分離されるわけではないことである。確かに、明治以降、西欧から日本に移植された様式建築、折衷主義建築は、戦後に全く設計されなくなる。しかし、稲垣栄三の『日本の近代建築』(1959年)がつとに指摘するように、また実際、その歴史叙述を戦前期で終えているように、日本の近代建築が育ってきた歴史は明治に遡る。そして、およそ1930年代前半には近代建築の理念と方法は共有され、それを実現する体制は成立していたというのが一般的な理解である。建築における近代化、産業化の流れは戦前期から一貫するのである。この近代化、産業化の流れについては、戦後大きく疑問視されることになるが、一方で、克服すべき課題と意識された建設業界をはじめとする重層的下請構造についても温存されたように思われる。「姉歯事件」(構造計算書偽造)そして現在大きくマスコミにとりあげられる「杭打ち偽装問題」など、日本の建設業界の体質はどうしようもなく思われるほどである。

 決定的なのは、戦中期(15年戦争期)である。日本ファシズム体制が形成される中で、日本趣味や東洋趣味の建築様式、あるいは、大東亜建築様式などの概念によって建築様式の統制が行われる。いわゆる「帝冠(併合)様式」がその象徴である。この「帝冠様式」の評価をめぐって、戦前・戦後の連続・非連続の評価も分かれることになる。例えば、長谷川堯は、「帝冠様式」は、近代建築がそれぞれの地域に定着していく過程で出現する「盲腸」のようなものだとし、昭和期の建築を「昭和建築」=近代合理主義の建築と一括して規定し、全否定した上で、「大正建築」あるいは「中世の建築」を評価する構えを採った。

 しかし、屋根のシンボリズムは単にキッチュとして切捨てることのできない建築の方法の問題に関わるし、ポストモダン建築の跋扈において、また、景観規制の問題として、戦後も問われ続けることになる。また、建築における日本的なるもの、あるいは建築と地域性をめぐる議論は、1950年代の伝統論争以降も繰り返し行われることになる。そしてさらに大きな問題は、「建築新体制」(1940年)によって、建築界の全体が総動員体制、翼賛体制に巻き込まれたことである。

 

建築の1960年代

戦後建築は、「戦後民主主義」「平和憲法」の下で、戦争責任の問題を深く問い詰めることはなく、日本ファシズム体制下の建築のあり方、そして、建築家のあり方を否定することによって出発することになる。そして、「帝冠様式」に象徴される様式建築、折衷主義建築を否定することがその前提であった。すなわち、「旧体制」(日本ファシズム体制)に対して、近代建築の理念を実現することがその目標とされた。しかしやがて、近代建築の理念が目指したものと建築(生産)を支える産業化システム(経済合理主義)の関係そのものが問われ始める。こうして、日本建築における連続・非連続の問題はいささか錯綜することになる。

『戦後建築論ノート』を上梓したのは1981年である。「1960年代(高度成長時代)の建築」をどう批判的に乗り越えるかを大きく問うた。すなわち、「鉄とガラスとコンクリート」による「四角い箱型(フラットルーフのラーメン構造)」(国際様式)の建築が世界中至る所に蔓延していく情勢とそれを支える近代建築の理念と方法への疑問(近代建築批判)が執筆のモメントである。そして、1973年と1978年の2度のオイルショックが背景にあった。拡大成長から縮小(低成長)へ、高エネルギー消費から省エネルギーへ、高層から低層へ、量から質へ、・・・建築をめぐるパラダイムが大きく転換する中で、新たな建築の方向を見出したいという思いがあった。

 「ポスト・モダニズムの建築」(C.ジェンクス)と一括される建築の新たな多様な表現が産み出されつつあった。わかりやすいのはポストモダン・ヒストリシズム(脱近代歴史主義)と呼ばれる動向である。モダニズムの建築は単調で退屈だから、様式や装飾を復活しようという。しかし、問題は、単なるデザインの問題ではない。建築のあり方を全体として規定している産業化のシステムである。

 1960年代の10年間は、日本建築の、戦後のみならず日本の歴史の一大転換期である。この10年の間に草葺屋根が消えた。アルミサッシュの普及率が0%から100%になった(空間の気密性が高まり空気調和設備が急速に普及した)。工業化(プレファブ)の割合が年間新築住宅の15%を占めるに至った。日本列島の風景は1960年代に一変したのである。

『戦後建築論ノート』は、1960年代初頭に一斉に「都市づいていった(数多くの都市プロジェクトを提案した)」建築家たちが、次第に「都市からの撤退」を迫られ、1970年代に入って住宅の設計という小宇宙に封じ込められるなかで、住宅の設計を「最初の砦」として、何が構想できるかを問い、地域の生態系に基づく建築システム、産業社会から廃棄されていくものの再生などを展望したのであった。

 

戦後建築の終焉

しかし、事態はその展望の方向へは動かなかった。1980年代から1990年代にかけて日本を襲ったのはバブル経済の大波であった。世界資本主義のグローバル展開の過程で、東京は国際金融都市となる。1980年代半ばの東京論の隆盛は、東京が決定的に変質したことによる悲鳴のようなものであったと思う。おそらく、戦後日本が最も「豊かさ」の幻影に酔った時代である。海外から有名建築家が次々に日本を訪れ、ポスト・モダニズム建築の徒花が跋扈することになった。

そして、バブルが弾けた。さらに、阪神淡路大震災(1995.01.17)が起こった。

『戦後建築論ノート』を増補(第四章 Ⅱ、Ⅲ)して『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』を出したのは1995年である。戦後建築界が積み重ねてきたものは一体何だったのか?という阪神淡路大震災の衝撃が大きい。1995年も、日本の都市計画、建築の歴史におけるひとつの閾である。ヴォランティアが出現したのは阪神淡路大震災によってであり、以降、住民参加、ワークショップ型のまちづくりが一般化していくのである。タウンアーキテクト(コミュニティ・アーキテクト)論をまとめた『裸の建築家』を出版したのは2000年である。

増補版では、1970年代、1980年代の日本の建築家の作品と活動をトレースし、その評価を試みた、拡大成長、格差拡大を駆動力とする産業資本主義のオールタナティブをさらに求めたいという問いは同じである。

1980年代半ば前川國男が亡くなった(1986.06.26)。そして、丹下健三が日本に帰還し、東京新都庁舎を設計し、「ポストモダンに出口はない」と発言したのは1980年代末である。戦後建築を担った建築家たちが次々に亡くなっていくことで、戦後建築の終焉が強く、意識されたことがそのタイトルに示されている。

 

建築のグローバリゼーション

そして、振り返れば、戦後建築の基盤は、1990年代初頭に大きく転換していたといっていい。日本では、昭和から平成への移行がある(1989.01.08)が、ひとつの閾となるのは1985年(昭和60年)である。この年、新築住宅戸数のうち木造住宅が5割を下回り、集合住宅が5割を超えた。1980年代は、1960年代に続く、日本建築の転換期である。しかし大きいのは、東欧革命(1989)、そしてソ連邦の崩壊(1991.12.25)という世界史の転換である。「歴史の終焉」が喧伝され、東西冷戦構造が収束した。

以降、世界資本主義の流れが加速化していくことになる。そして、1990年代に入って携帯電話が一気に普及し、ICT技術が世界のインフラストラクチャーになっていく。

増補部分の最期に主要に論じたのは、磯崎新の「デミウルゴス論」「大文字の建築」論、原広司の「均質空間論」「様相論」である。である。建築(生産、体制)の産業化に対する磯崎の「建築の解体」論、主題不在論、手法論、引用論…は、近代建築批判の大きな力になった。しかし、その批判は、一瞬の切断、仮構された平面での「建築」の自律性の主張に過ぎなかった。「大文字の建築」を殊更言い立てても、最早、どんな建築家であれ、特権的ではありえない。あらゆるデザインは、グローバリゼーションの波に飲み込まれることになるのである。

巨大な資本の流れが、世界中のタレント建築家を集め、CAD,CAM,BIMといったコンピューター技術が可能にした「アイコン」建築と呼ばれるようになる新奇な形の超高層建築や大規模建築が世界中に蔓延していくことになった。建築家そのものがブランド化し、作品ともども消費されていく状況の出現である。北京オリンピック(2002年)から上海万博(2010年)にかけての中国、リーマンショック(2008.09.15)以前のドバイがその象徴である。

 

地球のデザイン 

21世紀の初頭、アメリカ合衆国の一人勝ちの状況が現れる。世界の警察を任じ、アメリカ合衆国が世界を制覇したかに見えた。そうしたなかでセプテンバー・イレブン(2001.09.11)起こった。イラク戦争が仕掛けられ、イスラーム勢力の抵抗も拡大していくことになり、世界各地でナショナリズムが抬頭することになった。中国が経済大国となり、アメリカの相対的地位が低下、世界秩序は機軸を失いつつあるように見える。そうした中で、どういう建築が構想できるのか。

フクシマ3.11の年、『現代建築水滸伝 建築少年たちの夢』(2011年)という本を書いた。僕より年上の建築家たち9人(集団)(安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和、象設計集団、原広司、磯崎新)についての建築家論である。建築は楽しい、楽しかった、もっと楽しい筈だ、という思いに駆られて書いた本だ。本当は、若い世代についてももう一冊書いて、その可能性をエンカレッジしたいのだけど、未だ果たせていない。

アメリカ合衆国、中国、ロシア、EUが角突合せ、イスラーム国(IS)の伸長が大量の難民を生み出すなど、世界が蕩けていく中で、世界資本主義は自己運動を続けていくだろう。各国はそれをそれぞれに制御しようとするだろう。その過程で、ナショナリズム間の対立は激化していくだろう。そうした中で、我々に必要なのは、世界の枠組みであり、世界史の理論、そしてそれに基づいた大建築理論である。

『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』では、「地球」という枠組みについて触れて締め括った。今のところ、それを繰り返すしかない。戦後、石炭から石油にエネルギー資源が変わったのは1960年代初頭である。そして、1970年代のオイルショックを通じて、地球が有限の「宇宙船地球号」であることが共通の認識になった。そして、温室効果ガスによる地球温暖化の問題が具体的な問題を引き起こしつつある。さらに、人類が制御不可能な原子力発電の放棄が絶対である。いずれも、「地球」の存続という枠組みに関わっている。

「これからの建築の展開を枠づけるのは「世界」であり、「地球」であり、「宇宙」である。…具体的に振出しに戻って、「住宅の設計を最初の砦」としたとして、そこから「地球」のシステムを問うことなど容易なことではない。だがしかし、「より豊かな部分からなる<全体>へ向かうための、地域的、場所的部分を表現してゆこうという方法」を求めるにあたって、当然問題になるのは「全体」なのである。…いずれにせよ、「日本」というフレームが失効したことは確認した方がいい。あらゆる建築的営為において、遺伝子として、「地球」のデザインというプログラムが組み込まれているかどうかが問われる、そんな時代が今始まりつつあるのである。」













布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...