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2022年7月16日土曜日

2022年7月15日金曜日

木が石を喰う,,シルバン編集委員会,シルバンNo.7,1996 winter

 木が石を喰う,シルバン編集委員会,シルバンNo.71996 winter






木が石を喰う!・・・「建築進化の原則」から見た木造建築の前途

布野修司

 

 ベトナム・カンボジアへ行って来た。ハノイから入って、フエ、ダナン、ホイアン、ホーチミンとベトナムを下って、プノンペン、シェムリアップというコースである。東南アジアには度々出かけているのであるが、これまで行きにくかったせいもあって、ベトナム・カンボジアは初めてである。ドイモイ(解放)政策で活気に溢れたハノイ(河内)、世界文化遺産に指定されたフエ(順化)、南洋日本人町があったホイアン(會安)、プノンペンの戦争犯罪博物館、それぞれに印象深かったのであるが、ハイライトは、やはりアンコール・ワット、アンコール・トムであった。石の、煉瓦の、あるいは、ラテライト(紅土)の圧倒的建築群である。

 インドシナ半島を縦断してみると、木造文化圏が石、土の文化圏に切り替わっていく様がよくわかる。ベトナム北部から中部にかけて、中国文化の影響圏には木造建築の伝統が生きている。甎との併用の形であるが、南中国の影響を受けながらベトナム独自の木組みをつくっている。ハノイの金蓮寺、燕夫亭、文廟、玄天真武観、フエの王宮や歴代皇帝廟、頼世亭などのいくつかの例を見ただけであるが、斗(ます)や肘木(ひじき)の組方には独特なものがあった。ところが、ベトナム中部に至るとチャンパの領域となる。チャンパは、紀元前2世紀から15世紀まで、その勢力を誇ったチャム族の国で、東南アジア最初のインド化国家のひとつである。ヒンドゥー教を主とし、仏教を従とした。林邑期(      )、環王期(      )、占城期(       )に分けられる。

 普段の行いが悪いのか、ダナンで台風に合い、ミーソンやドンジュアンなどチャンパの遺跡群を観ることは出来なかったのであるが、チャンパの彫刻博物館を観る限り、チャンパ王国の建築は、アンコール・ワット、アンコール・トムのクメール王国と同じ石の建築世界である。

 もちろん、こうした言い方には嘘がある。石造だから残るのであって、多くの木造建築が建てられていたことはチャンパでもクメールでも疑いないところである。石造のチャンディ建築が残る中部ジャワ、東部ジャワでも同じだ。石造であったのは、モニュメンタルな建造物だけなのである。しかし、石造、礎石造の技術を発達させたかどうかということでいうと、石の世界と木の世界はやはり分かれてくる。今回、印象的だったのはラテライトという素材である。ラテライトは岩石ではなく土壌の一種である。雨水によって化学的風化作用が起こり石のようになる。赤くて表面はぶつぶつと穴が空くのであるが巧みに建設材料として使われている。砂岩との取り合わせも見所である。

 シェムリアップでは、二日間、初期のロリュオスの遺跡群から、数多くの遺跡群を見ることが出来た。石の建築の迫力に圧倒されたのであるが、個々の建築の評価とは別に強烈な印象を受けたことがある。

 まず第一に、石の建築というのは壊れ出すと止めどもないということである。多くの遺跡は崩れそうになっている、近寄ると危険な状況にある。所々に木のつっかい棒がしてあるのであるがどうみても効きそうにない。修復と保存の試みがなされているのであるが、なんともみっともない。例えば、アンコール・ワットなど回廊の石の梁が全て折れているのであるが、コンクリートでつない繋いでいるのである。石柱を鉄輪で巻いたり、色々工夫するのであるが、石造の本来と違うから違和感がある。スタッコのレリーフが落ちて、モルタルでやり直すのはいいにしても煉瓦が崩れ出すとどうしようもない。全て解体して積み直すしかないのであるが、造った倍のエネルギーはかかる。

 また第二に、樹木は場合によると石に勝つということである。極めて象徴的な遺跡がタ・プロムであった。この遺跡は、フランス極東学院が意図的に手を加えず、そのまま放置している遺跡で、石の建築が歴史を経るとどうなるかがよくわかる。巨大な樹木が遺跡を喰い破っている。樹木の生長が遺跡を破壊しているのである。かえって遺跡らしいというので人気がある。樹木にはとてつもない生命力がある。また、石造に比べれば遥かに解体修理は容易である。石の建築に樹木は勝つのではないか、ふとそんな思いが沸いてくるのである。

 ベトナム・カンボジアには、建築家であり、東洋建築史学の大先達である伊東忠太のいくつかの論文のコピーを携えて行った。「仏領印度支那」、「祇園精舎とアンコル・ワット」、「安南大磊故城発掘の古瓦」などである。中に、「建築進化の原則より見たる我が邦建築の前途」という有名な論文が紛れ込んでいた。帝国議事堂のデザインをめぐって大議論が起こったころの論文である。和風か、洋風か、和洋折衷か、という議論の輪の中で、伊東忠太の主張したのは、日本は独自のスタイルを発展さすべきだという進化主義であった。

 昔読んだ時には、余り興味を持たなかったのであるが、木造文化と石造文化のことを考えながらの旅であったので読み直して実に面白かった。

 伊東は、当時の建築界の状況を「混沌たる」「無政府のような有様」、「暗黒時代」といい、「明治以前の純粋の建築の形式が茲に終結を告げて、今や新しいスタイルがそれに代わって興ろうとしてまだ興らない」「過渡の時代」という。いつの時代でも「過渡期」が意識されるものだけれど、今も同じような状況かもしれない。「混沌たる」「無政府のような有様」はそう変わっていないようにも思える。

 伊東のいう「進化の原則」は、七条からなる。建築は材料(肉体)と意匠(精神)からなり(第一)、相互に関係しながら進化する(第二)ことを前提とした上で、第五に次の場合にスタイルの変化を生ずという。 甲 材料変化するとき

 乙 意匠変化するとき

 丙 強制的若しくは任意的に外部の影響を受くるとき

 また、第六として、スタイルの変化は次の形式に於いて現れるという。

 甲 器械的混合

 乙 化学的融合

 そして、意匠を司る最大の勢力が宗教である(第三)という原則とともに、次のような原則を挙げる。

 第四 スタイルはスタイルを生ず、スタイルは故なくして発生又は死滅せす。

 第七 スタイルの変化は突如に成ることなし、若し材料の変更による場合には、其の間に所謂             即ち              の時代を生ず。

              の時代というのは、材料が変わっても形式は変わらず古式がしばらく続くことをいう。具体的には、木造から石造に変わっても、木造の形式がしばらく用いられることを想起してみればいい。

 伊東忠太は、材料の面からその進化の事例を検討するのであるが、全体として明らかになるのが「木造は石造に進化する」こと、「全ての材料はみな一斉に石材に帰して仕舞う」ということである。その過程に必ずサブスティテューションの時代があるのだけれど、結局、材料の面からの進化の順序は次のようになる。

 第一 泥、石、植物、天幕の時代。原始時代。

 第二 木材時代。

 第三 木石混合時代。

 第四 石材時代。

 第五 鉄材時代。

 いかにも単純な進化論である。日本は第二期にあり、これから第三期に向かおうとする。支那は第三期にある。北米で第五期の動きが始まっている。以前読んだときに余り興味を覚えなかったのは余りに単純だと思ったからである。

 ところが、伊東忠太は第一から第五まで建築が進化していけばいいと考えていたわけではなかった。材料と意匠は違う、材料の変遷と美的価値は違う、というのである。

 「日本は必ずしも第二期から第三期、第四期と秩序的に進化しなければならぬと云う理屈はない。第二期から他の何れの時期に移っても差支えない。其の国の国情と必要な条件とに依って如何なる時期を選ぼうともそれは自由であります。又或特殊の目的に向かっては依然木材を本位として行くことも少しも差支ない話であります。」

 「或特殊な目的」という留保つきながら「木材本位」でもいいというのである。重要なる建築に対しては木材は到底用いるに耐えないことは前提されているのであるが、伊東にとって問題は意匠(精神)の方であった。建築スタイルの変遷には、器械的混合と化学的融合があり、進化主義、折衷主義、帰化主義が区別されるのであるがここではおこう。スタイルはスタイルを生む、スタイルは独創されることはない故に、既存のスタイルをもとに新たなスタイルを生み出して行くしかないというのが伊東の主張である。自然と思想が進化発達するように建築スタイルも進化していくというのが伊東の進化主義である。

 木材というのは建築材として完全な材料ではない、質が弱くて天然の破壊力に抵抗する力が乏しい、容易に燃焼し腐朽する、要するに永久に形式構造を伝えるのに足りない、というのが伊東の基本認識であった。しかし、一方、その欠点が同時にまた美点として働くので木材悉く不完全というわけでもない、木材で木材に適当な美建築を造る余地は充分にある、ともいう。伊東忠太は公式的な進化主義者ではなく柔軟な現実主義者であったのである。

 ところで、伊東忠太の「建築進化の原則」は果たしてどう捉え直すことが出来るであろうか。

 まず、鉄材の時代、あるいは石材・鉄材の混合としての鉄筋コンクリートの時代というのはやはり時代を制した、20世紀は鉄とガラスとコンクリートの近代建築の時代となった。伊東の「建築進化の原則」は実証されてきたと言っていい。どういうスタイルが生み出されたかというと、四角い箱形のいわゆるインターナショナル・スタイルである。意匠を司る最大の勢力は宗教であるという第三の原則も、工業社会という神が、ヒンドゥー教やイスラーム教や仏教にとって代わったと思えば一応つじつまが合う。

 第七の原則は、してみると、鉄筋コンクリートで歴史的様式を模した、例えば、戦時中の「帝冠様式」(鉄筋コンクリート造に神明造りや社寺の屋根を載せるスタイル)の時代がサブスティチューションの時代ということになるのかもしれない。

 それでは第四の原則はどうか。どうも第四の原則に鍵がありそうである。「スタイルが成立した以上は、互に縁となり因となって進化して行くので、其の間に突然スタイルが発生することも無ければ又突然になることもない」というのであるが、近代建築はそもそも既存のスタイルを否定することによって成り立つ。近代建築は、とすると、「建築進化の原則」を超越することになりはしないか。少なくとも第四の原則には合わない。

 ここで僕らはやはり「進化」という概念の呪縛から逃れるべきではないか。既に、上で見たように伊東忠太は「日本は必ずしも第二期から第三期、第四期と秩序的に進化しなければならぬと云う理屈はない。第二期から他の何れの時期に移っても差支えない。其の国の国情と必要な条件とに依って如何なる時期を選ぼうともそれは自由であります。又或特殊の目的に向かっては依然木材を本位として行くことも少しも差支ない話であります。」といっているのである。むしろ、この認識の方が遥かに柔軟で大きな原理を指示しているのではないか。

 木造から石造へ、という変化は、何故起こったのかを考えてみれば、それは木材が乏しくなったからである。木材が豊富にあるところでは石造は発達しなかった。日本がそのいい例だ。木造から石造への変化は必ずしも進化ではないのである。その土地で利用できる素材を巧みに利用するのがより普遍的な一般原理である。伊東忠太は「進化の原則」を解きながら、条件に応じた材料選択の自由を認めているのである。

 僕らの前には利用できる材料が無数にある。それをどう利用するかは社会全体の選択の問題なのである。地震があるから、石造や組積造、ブロック造は日本に馴染まないというのは一面の指摘である。日本に木材が無ければ、また、石材が豊富にあれば、巧みにそれを利用してきたに違いないのである。

 しかし、それにしても、アンコール・ワットの石の、煉瓦の、ラテライトの遺跡群は鬱蒼とした熱帯林の森の中にある。豊富な樹木に囲まれながら、何故、石が選択されたのか。謎である。同じようにインドから石の文化が伝えられながら、例えば、石造の仏教建築が場所によって木造へと切り替わっていく例もある。「木造は石造に進化する」のではなく、「石造が木造になる」例が仏塔である。中国のように石の世界と木の世界が共存する世界もある。そうして見ると、材料が変わればスタイルが変わるという原則、あるいは材料と意匠の相互関係の原則は重要である。日本で今木造建築と言われるものは一体何なのか。日本の木造建築がその存在感を薄くしているとすれば、材料(肉体)と意匠(精神)の生き生きとした相互関係を失いつつあるからではないのか。

  



2022年7月14日木曜日

木造文化と職人,シルバン編集委員会,シルバンNO.6,1996 Summer

木造文化と職人,シルバン編集委員会,シルバンNO.61996 Summer





木造文化と職人・・・「職人大学」を目指して

布野修司(京都大学助教授)

 

 木造建築を実際に支えるのは大工さんをはじめとする職人さんたちである。職人さんたちが居なくなれば、木造文化は滅びる。

 職人さんの後継者の育成をめぐっては各地でさまざまな取り組みがなされつつあるが、ひとつの大きな動きが起こりつつある。

 一九九六年初頭、「住専問題」で波乱が予想された通常国会の冒頭であった。見るともなく見ていた参議院での総括質問のTV中継で「職人大学」という言葉が耳に飛び込んできた。村上正邦議員の質問に、橋本龍太郎首相が「職人大学については興味をもって勉強させて頂きます」と答弁したのである。いささか驚いた。今まで興味もなかった急に国会が身近に感じられたのも変な話であるが、首相の国会答弁は、何か大きな動きを感じさせるものであった。

 産業空洞化がますます進行する中で、日本はどうなるのか。日本の産業を担ってきた中小企業、そしてその中小企業を支えてきた極めてすぐれた技能者をどう考えるのか。その育成がなければ、日本の産業そのものが駄目になるではないか。そのために職人大学の設立など是非必要ではないか。

 簡単に言えば、村上議員の質問は以上のようであった。もちろん、膨大な質問の一部であるが、日本の産業構造、教育問題、社会の編成に関わる問題として「職人大学」というキーワードが出された印象である。考えて見れば誰にも反対できない指摘である。「興味をもって勉強させていただきます」というのは当然の答弁だったかもしれない。

 その後、事態は急速に展開した。

 「職人大学」の設立を目指す国際技能振興財団(KGS)が認可されたのは、二月末のことであった。そして、その設立総決起大会が日比谷公会堂で開かれたのは四月六日のことである。大盛会であった。現職大臣四名(労働大臣、建設大臣、通産大臣、自治大臣)と中曽根元首相、国会議員が秘書の代理も合わせると三十有余名、「住専問題」で大変な国会の最中にも関わらずの出席であった。職人二〇〇〇名の大集会というのは、大袈裟に言えば戦後、否、近代日本の歴史になかったことではないか。

 国際技能振興財団(KGS)とは何か。

 一、日本の産業基盤を支える「職人」を育成しよう

 一、われわれの力で「職人大学」を実現しよう

 一、職人のための社会基金(ソーシャル・カッセ)を創設しよう

  一、職人の社会的地位確立のため団結しよう

 という四つのスローガンを掲げるのであるが、その設立の経緯と目指すところを記してみたい。

 KGSには評議員で参加することになったのであるが、それにはそれなりの経緯がある。KGSのひとつの母胎になったのは、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)であり、その活動には当初から参加してきたのである。その設立は一九九〇年十一月。SSFが小さな産声をあげてからほぼ六年の月日が流れたことになる。

 サイト・スペシャルズとは耳慣れない造語だが、サイト・スペシャリスト(日本語にすると現場専門技能家)に関する現場のこと全てをいう。職人、特に屋外作業を行う現場専門技能家の地位が不当に低く評価されている。その社会的地位の向上を実現するために「職人大学」をつくろう、と最初に立ち上がったのが小野辰雄日綜産業社長(SSF副理事長、国際技能振興財団副会長)をはじめとする専門工事業(サブコン)の皆さんであった。横文字を使うなとおしかりを受けるのであるが、新しいイメージの定着を願っての命名である。「職人」という言葉が、威厳をもって定着していれば、サイト・スペシャリストという言葉もSSFも必要なかったかもしれない。

 小野社長から相談を受けた内田祥哉先生(前日本建築学会長、SSF理事長、国際技能振興財団最高顧問)の命を受けて、SSF設立当初からそのお手伝いをすることになったのであるが、はっきり言って、この五年間はSSFにとって順調であったわけではない。山あり谷ありであり、建設業界のうんざりするような体質にとまどったことは一度や二度ではない。

 SSFは設立当初、精力的にシンポジウムを開催する。「職人問題」を広く考え、多くの人の理解を求めるためである。

 設立一周年には、ドイツ、アメリカ、イギリスから職人、研究者を招いて国際シンポジウム行った。ヨーロッパのマイスター制度などに学ぶことが多く、SSFではドイツへ調査に出かけてもいる。一周年記念の国際シンポジウムの時には、京都府の建設業協会にお世話になった。作業服のユニフォームのデザインをお借りしたのである。京都府建設業協会はいち早く建設業のイメージでアップ作戦としてSAYプロジェクトを展開中であり、新しいユニフォームのデザインを公募し、試作していたのである。しかし、イヴェントによってすぐさま何かが変わるほど世の中甘くない。どうすれば「職人大学」ができるのか、SSFの理事会は真摯な議論の場であり続けた。

 どんな「職人大学」をつくるのか。自前の大学をつくりたい、これまでにない大学をつくりたい、というのがSSF理事長である内田先生の方針であった。大学の建築学科にいると嫌というほどその意味はわかる。今の文部省の枠の中では目指すべき「職人大学」はできないのではないかという危惧が大きいのである。すなわち、文部省管轄の大学だと必然的に座学が中心になる。机上の勉強だけで、職人は育てることはできないではないか。

 できたら、文部省の大学ではない、もっと新しい形はできないか、と思うけれど、一方で東大と対等な職人大学であってもいい、そんな職人大学が欲しいという意見も強い。文部省も新しい形のカリキュラムを受け入れるのではないかという期待もある。

 大学をつくるということが、如何に大変なのかは、大学にいるからよくわかる。そして、大学で教員をしながら大学をつくろうとすることには矛盾がある。シンポジウムなどでいつも槍玉に挙げられるのであるが、何故、今いる大学でそれができないのか、それこそ大きな問題である。

 言い訳の連続で答えざるを得ないのであるが、国立大がであろうと私立大学であろうと、職人を育てる教育をしていないことは事実である。それを認めた上で、現場を大事にする、机上の勉強ではなく、身体を動かしながら勉強するそんな大学はどうやったらつくれるか、それが素朴な出発点である。

 居直って言えば、偏差値社会の全体が問題であり、職人大学をつくることなど一朝一夕でできるわけはない。少しづつ何かできないかとお手伝いしてきたのである。

 可能であれば、文部省だとか労働省だとか建設省だとか、既存の制度的枠組みとは異なる、自前の大学をつくりたい、というのがSSFの初心である。できたら、自前の資格をつくり、高給を保証したい、それがSSFの夢である。しかし、そうした夢だけでは現実は動かない。また、この問題はひとりSSFだけの問題ではないのである。日本型マイスター制度を実現するとなると、それこそ国会を巻き込んだ議論が必要である。

 この間、水面下では様々な紆余曲折があった。五五年体制崩壊と言われるリストラクチャリングの過程における政界、業界の混乱に翻弄され続けてきたといってもいい。

 SSFの結成当時、バブル全盛で、職人(不足)問題が大きくクローズアップされていた。SSFを支えるサブコン(専門工事業)にも勢いがあった。しかし、バブルが弾けるといささか余裕が無くなってくる。職人問題などどこかへ行きそうである。SSF参加企業のみなさんにはほんとに頭が下がる思いがする。後継者育成を社会的なシステムとして考えるコモンセンスがSSFにはある。

 筆を滑らせれば、「住専問題」などとんでもないことである。紙切れ一枚で、何千億を動かすセンスのいいかげんさには呆れるばかりである。現場でこつこつと物をつくる人々をないがしろにするのは心底許せないことである。

 大手ゼネコンは一貫してSSFに対して冷たい。ゼネコン汚職の顕在化でゼネコンの体質は厳しく問われたけれど、重層下請構造は揺らがないようにみえる。ゼネコンのトップが数次にわたる下請けの構造に胡座をかいて、職人問題、職人大学問題に眼を瞑ることは許されないことである。末端の職人問題については、それぞれの企業内の問題として関心を向けないゼネコンは身勝手すぎるのではないか。SSFの会議では、しばしばゼネコン批判が飛び出す。

 しかし、議論だけしてても始まらない、とにかく構想だけはつくろう、ということで、いろいろなイメージが出てきた。本部校があって、地域校がいる。建築は地域に関わりが深いのだから、一校だけではとても間に合わない。さらに働きながら学ぶこと(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)を基本とするから、現場校も必要だ。カリキュラムも実際につくってみた。

 そうしている内に、具体的にアクションを起こそうということになった。それで生まれたのがSSFスクーリング:実験校である。一週間から十日合宿しながら「職人大学」をやってみようというわけである。

 第一回のスクーリングは新潟県の佐渡であった。SSFの理事企業を中心に職長クラスの参加者を募った。現場の職長さんクラスに集まってもらって、体験交流を行う。何が問題なのか、どういう教育をすればいいのか、手探りするのが目的であった。さらにヴェテランの職長さんの中から「職人大学」の教授マイスターを発掘するのも目的であ

 SSFスクーリング:実験校は、佐渡の後、宮崎の綾町、神奈川の藤野町、新潟の柏崎市、群馬の月夜野町とSSF理事企業と地域の理解ある人々の熱意によって回を重ねてきた。

 SSFの実験校は既にして移動大学である、というのが僕の見解である。粘り強く続けてゆけば、いつか「職人大学」はできるだろう、と思っていた。しかし、世の中いろいろとタイミングがある。

 そうした中で、SSFとKSD(中小企業経営者福祉事業団)との出会いがあった。SSFは、建設関連の専門技能家を主体とする、それも現場作業を主とする現場専門技能家を主とする集まりであるけれど、KSDは全産業分野をカヴァーする。職人大学も全産業分野をカヴァーすべく、その構想は必然的に拡大することになったのである。

 全産業分野をカヴァーするなどとてもSSFには手に余る。しかし、KSDに全国中小企業八〇万社を組織する大変なパワーを誇る。SSFには、マイスター制度や職人大学構想に関する既に五年を超える様々なノウハウの蓄積がある。KSDのお手伝いは充分可能であるし、まず、最初は建設関連の職人大学を設立しようということになった。

 もとより「職人問題」は建設業に限らない。全産業分野に共通する問題である。日本の産業界を支えてきたのは誰か。産業空洞化が危惧される中で、優れた職人の後継者の育成を怠ってきたのは誰か。その提起を真摯に受けとめたのが国会議員の諸先生方にもいた。参議院に中小企業特別対策委員会が設置され、「職人大学」設立の動きが加速されることになるのである。

 こうしてSSFの試みは一気に全産業分野へと拡大することになったのであるが、とりあえず建設業を主に出発を遂げざるを得ない。まず目指すべき第一校は佐渡でという方針が検討されつつある。新潟県、佐渡の市町村会とは既に接触を開始しつつある。

 また、文部省の接触も開始しなければならない。この間、全国工業高校卒業者の受け皿として大学設立の検討が進められてきたのである。

 第二校目は、群馬県月夜野町でという話がある。建設業以外が中心になる。しかし、すべてがこれからである。理事会、評議会も動き出したばかりである。

 最大の問題は財源である。多くの維持会員の支援が必要とされる。

とはいっても手をこまねいているわけにはいかない。動き出さねばならない。KGSの設立後第一回の職人大学スクーリングは茨城県涸沼で開かれた(六月二日~八日)。当面各地でスクーリングを続けていくことになろう。関心のある方には是非協力をお願いしたい(問い合わせ先                 )。

 「職人大学」設立への運動は今始まったばかりだ。前途に予断は許されない。ねばり強い運動が要求されているのはこれまで通りである。 

 

2022年7月12日火曜日

岡山・都市・空間ー21世紀の都市づくりに向けての空間活用提案-、岡山建築士、199601

岡山・都市・空間ー21世紀の都市づくりに向けての空間活用提案-、岡山建築士、199601

シンポジウム:地方の時代と建築文化,岡山のまちづくりフォーラム実行委員会, 建築技術普及センター,建築文化・景観問題研究会,岡山,19951110 







2022年7月11日月曜日

阪神大震災と木造住宅3 文化住宅と住宅文化,シルバン,1995年夏

 布野修司:文化住宅と住宅文化,シルバン,1995年夏






阪神・淡路大震災と木造住宅  

文化住宅と住宅文化

布野修司

 

 今回の阪神・淡路大震災において、とりわけダメージの大きかったのが「文化」である。「文化」とは「文化住宅」のことだ。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」という一つの住居形式を意味する。ところが「文化住宅」といっても関東ではまず通じない。他の地域でも同様通じないのではないだろうか。

 「文化住宅」という言葉がないわけではない。もともとは大正期から昭和初期にかけて現れた都市に住む中流階級のための洋風住宅(和洋折衷住宅)を意味した。生活改善運動、文化生活運動が展開され、家族団らんを中心とする居間中心型住宅や椅子座式住宅が盛んに主張された。そうした新しい日本の近代住宅を「文化住宅」と呼んだのである。当時、「文化住宅」の提案設計なども盛んに行われたのであった。

 関西で今日いう「文化住宅」は、以上の文化住宅の流れとは違うようだ。従来の設備共用型の「アパート」あるいは長屋に対して、各戸に玄関、台所、便所がつく形式を不動産業者が「文化住宅」と称して宣伝し出したことに由来するらしい。もちろん、第二次大戦後、戦後復興期を経て高度成長期にかけてのことだ。住戸面積は同じようなものだけれど、専用か共用かの差異を「文化」的といって区別するのである。アイロニカルなニュアンスも込められた独特の言い回しだと思う。

 「文化住宅」とは、一般的に言えば、「木賃(もくちん)アパート」のことだ。正確には、木造賃貸アパートの設備専用のタイプが「文化」である。「アパート」というと、設備共用のタイプをいう。「文化」と「アパート」が対概念である。もっとも、一戸建ての賃貸住宅が棟を連ねるタイプも「文化」といったりする。ややこしい。

 ところで、「文化住宅」のほとんどが木造住宅である。もちろん、木造住宅だからダメージを受けたということではない。繰り返すように木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅の数はもともと多いのである。木造住宅が潰れて亡くなった方も多いけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方も数多い。

 今回の震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかったことは、繰り返し確認されていい。

 しかし、メンテナンス(維持管理)の問題は大きかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。今回の地震の被害が大きかったのは、築後年数の長いものであった。特に倒壊に至ったのは築後一〇年以上経ったものが圧倒的である。外壁仕上げ等から判断して三〇年以上経っていると思われるものは規模に関わらず倒壊率が高い。構法の問題として、土壁が多く、筋交いの本数が極端に少なく壁倍率が低い壁が多いということもあるけれど、蟻害、腐食による老朽化がやはり大きかったと見ていいのではないか。倒壊した「文化住宅」あるいは木造住宅のほぼ全てが蟻害にあっていたと考えられるのである。

 木材の物理化学的な変化は熱や紫外線によって促進されるが、燃焼される以外は反応速度は極めて遅いとされる。問題は老朽菌やシロアリによる食害、生物劣化である。進行速度が速く、強度低下も著しい。被災地域はイエシロアリの生息地で、寒冷地にも強いヤマトシロアリも分布する。建築基準法(施行令49条)では、構造耐力上主要な部分については地面から一メートル以内の防腐措置、および必要に応じての防蟻措置を規定している。しかし、仮に防蟻措置をしていても年数を減るに従って劣化は進行する。築後年数が長いものほど蟻害が増えているのである。

 さらに大きいのは腐食である。外壁下地には防水紙の仕様が規定されているが、年数が経つにつれて漏水し始める。雨樋が破損したり、外壁のクラックから雨水が進入し、腐食が進行するのである。また、内部結露の問題もある。普通、食害を受けるのは土台回りである。しかし、軒回りなど柱上部の被害もある。二階にバルコニーやテラスを設ける場合、雨仕舞いが難しい。「文化住宅」には、二回にアプローチ用の外廊下が設けられるために老朽化を促進したケースが多い。防蟻処理、雨仕舞いは実に重要である。しかし、それ以上に重要なのがメンテナンスなのである。

 「文化住宅」は激震地のみならず阪神間に広範に分布している。興味深いことに南面するタイプ(東西軸配置)以外に南北軸配置のタイプがある。激震地区の例、例えば東灘区では、南北方向の壁に筋交いの無い南面タイプに被害が大きかったという。地震の揺れが南北方向に大きかったためとされる。とは言え、南面に大きな開口部を採るために壁量が足りない例も多く、壁のバランスが問題であるのは変わりない。ただ、場所によって、地震波の挙動によって被害の明暗を分けたということもあるのである。

 「文化住宅」の場合、間口は狭小であり、壁量は長手(軸)方向については確保できる。しかし、耐力が足りなかったという問題がある。そして、軸と垂直方向(長手方向)の耐力をどうするかという問題がある。一般には、バルコニーや外廊下を支える柱にブレースを入れるなどの措置が執られてきたのであるが、そもそも、構造的に問題があることをそれは示している。耐力壁が少なかった、柱と土台の結合に問題があった、・・・といった木造住宅の問題は「文化住宅」にも共通だけれど、しかしそれにしても、老朽化の問題がやはり大きかったのではないか。間取りが同じで、同じ箇所に水回りが集中し、その部分のみ老朽化を進行させて被害を大きくした例も少なくないのである。

 激震地からはかなり離れているのに、半数以上が半壊全壊した「文化住宅」街がある。被災度調査をカヴァーした縁から、復興計画のお手伝いを始めている。聞けば、高度成長期に古材を使って不動産会社がリース用「文化住宅」として売り出したという。不在地家主が一〇〇人近い、この三十年で持家取得した世帯が二〇〇近く、応急仮設住宅に住む借家人の世帯が二五〇、権利関係が複雑だ。復興計画もなかなか目途が立たない。

 それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。「文化住宅」に日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになっているからである。

 今回の阪神・淡路大震災は、日本の建築や都市がいかに脆弱な思想や仕組みの上に成り立っているかを明らかにしたのだが、とりわけ強烈に思い知らされたのは日本社会の階層性である。被害を受けた「文化住宅」、あるいは木造住宅の分布は、日本の都市の階層的棲み分けの実態を浮き彫りにしている。また、そうした都心の密集住宅地には、この間、投資が行われてこなかったことを示している。

 「文化住宅」というと、間口の狭い、二間程度の住戸がほとんどである。四・五畳と六畳、あるいは三畳と六畳、玄関を開けるとすぐ一間有り、わずかのキッチンが玄関に隣接する。両方から使える押入で区切られて奥の一間へつながる。そしてトイレが置かれる。あるいは、玄関を入って二間が続いて、奥にトイレとキッチンが設けられる。居住面積は切り詰められている。半間は三尺なく、八二センチくらいしかないことが多い。「文化住宅」の実態とその命名は、日本の住宅文化の象徴といえるであろう。 

 今回の阪神・淡路大震災で、より大きな被害を受けたのは、高齢者であり、障害者であり、要するに社会的弱者であり、住宅困窮者であった。そうした人々の多くが「文化住宅」に居住していた。実に皮肉である。

 戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は日本の社会を支えてきたといっていい。都市の単身者などの流動層、あるいは低所得者向けの住宅の供給は零細事業者による「文化住宅」=「木賃アパート」が担ってきたのである。それが最もダメージを受けた。実に悲しいことである。

 「文化住宅」を如何に再生させるか。「文化住宅」を如何に誇れる日本の住宅文化とするか。阪神・淡路大震災が日本の住宅文化のあり方につきつけた課題はとてつもなく大きい。

 

 多くの避難所が閉鎖されつつある。しかし、まだ一万人を超える人々が避難所生活を続けている。

 復興計画は動かない。

 応急仮設住宅生活の長期化は必至である。

  阪神間には、瓦礫の取り除かれた空地が広がったままである。



2022年7月10日日曜日

2022年7月8日金曜日

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...