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2022年9月15日木曜日

建築学会賞を論ずる,建築学会賞の「権威」,日経アーキテクチャー,日経BP社,19920608

建築学会賞を論ずる,建築学会賞の「権威」,日経アーキテクチャー,日経BP社,19920608

建築学会作品賞を論ずる                           布野修司

                 

 建築界に顕彰制度は数多い。それこそ掃いて捨てるほどある。しかし、一応「権威」あるものというとやはり「建築学会賞」ではないか。その次か並んで、文部大臣賞とか芸術院賞とか外国の「権威」ある賞があって、「最高権威」が「芸術院会員」というのが大方の見方だろう。

 もっとも、建築学会賞が実質的に「権威」をもっているかどうかは疑わしい。業界で一応「権威」があることになっているだけで、世間ではちっとも認知されてないからである。その証拠に一般誌には発表されない。当選者の喜びの談話がTVニュースになる芥川賞とか直木賞とは雲泥の差異である。

 なぜ、建築学会賞が「権威」をもつかというと、賞が乱立するなかで特権的な象徴が必要とされるからである。建築学会賞が、新人賞的だったり、年間賞的だったり、年功功労賞的だったり、結果的に性格を曖昧なままにするのもその象徴効果の保持を機能とするからである。

 いずれにせよ、賞の価値は審査員会の編成と個々の審査員の見識に負うところ大である。その点、建築学会賞の審査過程がオープン化されつつあるのはいいことである。裸の「権威」によるのではなく、内容の積み重ねが「権威」となるのが賞の真っ当なあり方だからである。ただ、建築学会賞が真に「権威」をもつためには、さらに一般に開く回路がどうしてもいると僕は思う。





 

2022年9月14日水曜日

建築ジャーナリズム考,建築批評の不在,日経アーキテクチャー,日経BP社,19920217

 建築ジャーナリズム考,建築批評の不在,日経アーキテクチャー,日経BP社,19920217

建築ジャーナリズム考                            19920217

                 布野修司

                                

 誤解を恐れずに思い切って言えば、建築ジャーナリズムの課題は、それがそもそもジャーナリズムとして成立していないことではないか。もちろん、建築ジャーナリズムといっても様々な媒体がある。一概に断ずることは出来ないけれど、総じて一般に開かれていないのが特徴である。大半は、業界誌・紙、専門誌に留まっている。

 ジャーナリズムというからには、単に、ニュースを要領よくまとめたり、その時々の建築写真を掲載したりするだけのものではないだろう。また、単なる技術的なノウハウを提供するだけのものでもないだろう。重要なのは、建築をきちんと評価する視点である。時代を読む透徹した眼と批判精神が無ければジャーナリズムの名には値しない。

 建築ジャーナリズムは、そうした意味で、本来、論争を提起したり、若い建築家を育てたりする機能をもつ。しかし、例えば、ある種の雑誌で実際に行われているのは、作品掲載の可否、頁数とか順序による、陰湿な建築家の序列づけである。同時発表などという慣習は、建築ジャーナリズムが業界で閉じているひとつの証拠である。

 決定的なのは建築批評の不在である。各メディアは、業界の需要に応じて棲み分かれているのであるが、一般に開かれた建築批評を支えるメディアの創出こそ、もうはるか以前からのテーマであり続けているように僕には思える。




2022年9月13日火曜日

2022年9月11日日曜日

E.ハワードと植民都市ーA.J.トンプソンとパインランズ(南アフリカ、ケープタウン)、地域開発、1999年4月

 
E.ハワードと植民都市ーA>J.トンプソンとパインランズ(南アフリカ、ケープタウン)、地域開発、1999年4月


E.ハワードと植民都市

---A.J.トンプソンとパインランズ(南アフリカ、ケープ・タウン)

布野修司

 

 「田園都市」という理念は、20世紀の都市計画のあり方に最も影響を与えた理念のひとつである。しかし、一方で、世界中で建設された田園都市は基本的には失敗であったと総括される。例えば、その核となる「自給自足」(Self-contained)、土地公有といっ基本理念は、ほとんどの都市で実現しなかったからである。田園都市はほとんどが「田園郊外」にすぎなかった。

 しかし、そうした中で注目すべき田園都市がケープ・タウンに建設されたパインランズ(Pinelands)である。アパルトヘイト体制のなかでの白人居住区として、ひとつの完結した都市のイメージを維持してきたように見える。設計したのはA.J.トンプソン。彼はパーカー・アンウイン事務所の所員であった。その構想はストレートにE.ハワードにつながっている。そして、以降今日に至るまで、徹底したセグリゲーションが法制化される中で、パインランズは存続してきた。この事実は何を意味するのか。

 

 パインランズの建設

 パインランズ・ガーデン・シティの建設を発想し、推進したのは、事業家で連邦内閣の一員であったリチャード・スタッタフォードである。「スラムがケープの品位を落とす」、「伝染病の危険がある」という、貧困者の居住問題に対するその関心は、解決策としての田園都市の理念に向けられる。1917年に彼はレッチワースを訪れ、ハワードに会う。

 余程強烈な印象を受けたのであろう、時の首相 F.S.マランに接触、田園都市建設を政府に訴えている。議会はガーデン・シティ・トラストの設立に賛成し、400haの土地を寄付することになる。スタッタフォードは、「ヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカ全てにとってのモデル」を提供する、と意気込んでいたという。しかし、自給自足、公的所有、周辺グリーンベルトなどは必ずしもスタッタフォードの頭になかったようだ。周辺の土地の取得を自治体に委ねる利益追求型土地開発だという評価がなされてもいる。いずれにせよ、貧困者、黒人のための住宅建設は後の課題とされていた*1

 

 A.J.トンプソン

 南アフリカ建築家協会の助言でトラストは地元の建築家によるコンペを行う。その結果、ジョン・ペリーの案が選ばれる。しかし、R.アンウインに欠陥を指摘され、替わってトンプソン・ヘネル・ジャイムズ事務所が推薦される。南ケンジントン大学の美術学校で建築を学んだトンプソンがアンウインの事務所に入ったのは1897年の3月とされる。1905年からレッチワースの設計に参加、1907年にはハムステッドの事務所で働き、1914年の事務所閉鎖まで勤めている。アンウイン事務所の番頭さん、実務家である。彼はいわば「田園都市」を輸出する最適任者として指名されるのである。

 トンプソンがケープ・タウンを訪れたのは、1920年のことであった。トンプソンの任務は住宅建設とインフラ整備である。トンプソンの案は基本的にはペリーの案を基礎にしている。 構造の類似性は明らかである。また、その中心地区はレッチワースに似ている。クルドサックも用いられている。19246月半ばまでに95戸完成、入居さらに翌年2月までに12戸が竣工している。こうして、パインランズは、南アフリカ最初の公式の都市計画事例になった。ハムステッド・ガーデン・サバーブに先行するのである。

 トンプソンは現実主義者であった。黒人に対する住宅供給については費用の点で拒否する。彼は契約終了後、南アフリカでいくつかプロジェクトを手掛けるが、プランを見る限り、今日でいう一般的な宅地開発だ。

 1927年には南アフリカを去り、ナイジェリアに赴く。ラゴスの政府土地測量部で働いた後、1932年帰国、事務所を経営、1940年に62歳で死んだ。

 

 アパルトヘイト・シティ

 田園都市の理念は以上のように南アフリカに直輸入される。オーストラリア、インド、マラヤなども同じような試みがある。アデレードでコーネル・ライト・ガーデンを設計し、マラヤに招かれ、最後はローデシアで自殺したCC。リードのような興味深い都市計画家もいる。しかし、南アフリカの場合、パインランズの建設はその特有の都市政策とリンクしていた。

 1923年の原住民(都市地域)法とパインランズの建設は全く平行しているのである。南アフリカの諸都市は白人の入植者によって建設された。白人たちは、黒人労働者を必要としたが、徹底した排除へ向かう。農村ー都市移動を制御し、白人の都市に黒人が隔離されて住むことになる。原住民(都市地域)法が意識的な都市セグリゲーションの全国規模の始まりであり、そして、1950年の集団地域法が決定的となった。ゾーニングの思想が徹底される中で存続したのが白人の田園都市パインランズなのである。

 

 田園都市をめぐっては、さらに大きなテーマがある。田園都市思想の形成にとって決定的であったのが植民地の経験とそのモデルであったというテーマである*2

 

*1 John Muller: Influence and Experience: Albert Thompson and South Africa's Garden City,Planning History Vol.17 No.3,1995

*2 Robert Home:Of Planting and Planning The Making of British colonial cities, E & FN Spon, 1997