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2025年8月23日土曜日

韓国近代都市景観の形成:段煉孺・李晶主編:『中日韓建築文化論壇 論文集』中国建築工業出版社,2021年4月

 韓国近代都市景観の形成:段煉孺・李晶主編:『中日韓建築文化論壇 論文集』中国建築工業出版社,20214

 







韓国近代都市景観の形成

Formation of Modern Korean Urban Landscape

Spatial Formation and Transformation of Japanese Colonial Settlements in Korea

 

 

布野修司

 

 本稿は、布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民著『韓国近代都市景観の形成-日本人移住漁村と鉄道町-』(京都大学学術出版会,20105月)のエッセンスをまとめたものである。本共著の目次は、大きくは、序章 韓国の中の日本と景観の日本化、第Ⅰ章 韓国近代都市の形成、第Ⅱ章 慶州邑城、第Ⅲ章 韓国日本人移住漁村、第Ⅳ章 韓国鉄道町、終章 植民地遺産の現在、である。第Ⅱ章は、韓三建『韓国における邑城空間の変容に関する研究-歴史都市慶州の都市変容過程を中心に-』(京都大学,199312月)、第Ⅲ章は、朴重信『日本植民民地期における韓国の「日本人移住漁村」の形成とその変容に関する研究』(京都大学,20053月)、第Ⅳ章は、趙聖民『韓国における鉄道町の形成とその変容に関する研究』(滋賀県立大学,20089月)の学位論文がもとになっている。

 

 韓国の中の日本と景観の日本化

『韓国近代都市景観の形成』が対象とするのは, 朝鮮(韓)半島の古都慶州,そして日本植民地期に形成された「日本人町」「日本人村」である。朝鮮王朝時代に各地方におかれていた,慶州に代表される「邑城」が植民地化の過程でどのように解体されていったのか,その伝統的な景観をどのように失ってきたのかを明らかにすること,そして「日本人町」「日本人村」がどのように形成され,解放後どのように変容していったのかを明らかにすることをテーマにしている。具体的に取り上げているのは,かつての王都であり,朝鮮時代に「邑城」が置かれていた慶州の他,日本植民地期に形成された「鉄道官舎を核として形成された「鉄道町」(三浪津,安東,慶州,そして「日本人移住漁村」として発展してきた巨文島,九龍浦,外羅老島である。

『韓国近代都市景観の形成』がテーマとするのは韓国における近代都市景観の形成である。焦点を当てるのは,街並み景観,都市施設のあり方,街区構成,居住空間の構成であり,その変容について臨地調査を基に明らかにしている。

19世紀後半,急速に進んだ「開国」によって,朝鮮半島の社会は大きく変動していくことになる。近代都市の形成もその社会変動の一環である。

朝鮮時代の地方に置かれた「邑城」は,開国以降の過程で解体される。もともと,「邑城」は,儒教を国教とした中央集権国家を打ち立て,維持する上で,地方統治の装置として設置された。中心に置かれたのは「客舎」であり,東軒」といった官衙施設であり,その他の宗教施設も商業施設も城壁内には置かれなかった。「邑城」は「地方の中の中央」であった。その「邑城」に植民地化に相前後して日本人が居住し始めると,日本の統治機構のために朝鮮時代の官衙施設などを改築し,あるいは解体新築することになる。そして,土地を取得して,日式住宅」を建て,商店街を形成するようになる。「邑城」は,こうして「韓国の中の日本」となった。

「江華島条約丙子修好条約・日朝(韓日)修好条規)」(1876227日)によって,釜山を開港させられ,「日本専管居留地」が設置されて以降,元山1879年),漢城,龍山1982年),仁川1883年),慶興1888年),木浦,鎮南浦1897年),群山,城津,馬山,平壌1899年),義州,龍巌浦1904年),清津1908年)と次々に「開港場」「開市場が設けられた。そして,「開港場」「開市場」に設けられた「日本専管居留地」「共同租界」,朝鮮半島にそれまでになかった景観(都市形態,街並み,建築様式)を持ち込むことになった。

 しかし、朝鮮時代の伝統的都市や集落の景観と異なる景観がより広範囲に導入されたのは,半島全域を鉄道線路で結んだ鉄道駅とその周辺に形成された「鉄道町」を通じてである。「開港場」「開市場」が置かれ,その後韓国の主要都市となった都市も含めて,半島の各地域の中心都市となった都市のほとんどは,鉄道駅を中心とする「鉄道町」を核として形成された都市である。「鉄道町」は,朝鮮時代以来の集落や街区とは異なるグリッド・パターン(格子状)の街区をもとにした新たな町として整備された。そして,「鉄道町」の中心には,「鉄道官舎」地区など日本人居住地が形成され,日本人が建てた建物が街並みを形成することになった。

そしてもうひとつ,「日本人移住漁村」もまた,「開港場」とは別に,はるかに一般的なレヴェルで,新たな景観を朝鮮半島にもたらすことになった。海岸部に接して密集する形態をとる日本の漁村と丘陵部に立地し,半農半漁を基本とする朝鮮半島の漁村とはそもそも伝統を異にしていた。「日本人移住漁村」の出現は,伝統的な集落景観に大きなインパクトを与えるのである。

開港期に造られた居留地(租界)の都市構造やそれを構成した建築様式を眼にすることは,朝鮮人にとって「近代」との最初の接触経験である。そして,全国的に広く形成された「鉄道町」や「日本人移住漁村」の「日式住宅」やそれが建ち並ぶ街並みは朝鮮人の都市,建築に関わる理念の変化に最も大きな影響を与えることになる。そして,朝鮮半島の居住空間のあり方そのものを大きく変えることになった。

 

 1 韓国近代都市の形成

 朝鮮半島における都市の起源は,日本同様,中国に求められる。すなわち,朝鮮半島最初の都市は, 三国,すなわち高句麗・百済新羅の王都に始まると考えられる。そして、朝鮮半島の都市の伝統は,朝鮮王朝時代の都城および「邑城」に遡る(図1①朝鮮時代の府・邑・面)。開国とともに出現することになる「開港場」「開市場」は、全く新たな都市である(図1②)。さらに,日本植民地期における近代都市計画導入が朝鮮半島の都市を大きく変えていくことになった(図1③市街地計画令適用都市)。

テキスト ボックス:      
図1①            図1②           図1③ 

 

 2 慶州邑城

 慶州邑城の空間構成,その骨格をなす街路体系については,朝鮮末期に描かれたと推測される『慶州邑内全図』(図Ⅱ①)と『集慶殿旧基帖』が手掛かりとしてある。テキスト ボックス:  図2① 『邑内全図』城壁内部の幹線道路は,他の「邑城」と同じく東西南北の城門を結ぶ十字街である。『舊基帖』の表記によると,十字路の中心から東門に至る街路は「東門路」,反対側は「西門路」である。中心から南北方向の道路の名称は確認できない。ただ,邑城の南門から南に延びる道路は「鐘路」と呼ばれたことがわかっている。この道沿いに「奉徳寺の大鐘」をぶら下げた鐘楼があったためである。

  『邑内全図』では小路は「客舎」の周辺に集中している。具体的には「客舎」の西側にある慶州邑城で最も広い街路と,「客舎」の東側にある郷射庁,府司,戸籍所,武学堂などの諸機関とを結ぶ接近路がそうである。

 『邑内全図』と地形図を比較してみると,100年を越える時間差があるのにもかかわらず,大きな変化は見あたらない。

 旧邑城とその周辺部を対象にし,土地台帳と地籍図をもとに変化をみると、邑城内部の東部里には国有地が最も広く分布し、終戦までほとんど所有者が変わらない。国有地には,郡庁舎,警察署,法院支庁,官舎などが立地し朝鮮時代の施設を再利用した。東部里における日本人の所有土地は,植民地時代の全期間において大きく増加した。それに対して朝鮮人の土地は大幅に減少した。終戦時点では,査定時に朝鮮人が所有していた旧邑城内土地の5割が減少し,邑城内に居住していた朝鮮人の半数が押し出されたことになる(図2②)。テキスト ボックス:      
図2②
図
図2①                   図2②
また,時期が下がるにつれ,日本人地主の出現が見られる。城内でも,朝鮮人が密集して居住していた北部里には,日本人所有地の増加はそれほど見られない。しかし,城外の路東里と路西里は宅地化が進み,終戦の段階でほぼ全てが宅地化される。ここでは,全体的な朝鮮人所有土地面積は減少していたが,宅地は面積が増加している。

 朝鮮時代の「邑城」には地方統治のための施設のみが集中しており,住民もこれらの施設に務める身分の低い階層が大多数を占めていた。「邑城」に居住しながら「守令」と地元住民の中間関係に立ち,地方官庁の実務を担当していた「郷吏」階層でさえ,本来は「邑城」の中では居住することが許されなかった。「邑城」の城門は,毎日決まった時刻に開閉され,用のない人々の出入りを禁止していた。また,僧侶などの「賎民」は「邑城」への出入りが許されていなかった。朝鮮末期の慶州邑城の光景を撮影した写真に,城門の前に,聖なる場所の入り口に建てる「紅箭門」が建てられているのを見ても,「邑城」は精神的な意味でもヒエラルキー的に区別された場所であった。

  朝鮮時代の地方都市,つまり「邑城」や統治施設が集中する地区は,空間的に中央の直接的な支配下に置かれていた。日本による植民地支配が始まると,空洞化した「邑城」の内部に,それまでの朝鮮人官吏に代わって,日本人官吏が入ってくることになった。官庁に務めていた「邑城」内の住民も失業者となり,他の職をもとめて「邑城」を去って行った。 邑城の内部は,朝鮮時代には「地方における中央」であり,植民地時代には「韓国における日本」であった。

 

 3 韓国日本人移住漁村

「日本人移住漁村」は,補助移住漁村」と「自由移住漁村」に分けられる。各府県,水産組合,「東洋拓殖会社」などによって計画的に移住が行われ,建設されたのが「補助移住漁村」であり,日本政府と「朝鮮総督府」は多大な補助と支援を行った。しかし,そうした多大な措置にもにもかかわらず,「補助移住漁村」の大半は,成果をあげることなく失敗している。これに対して,日本人が任意に移住,定着したのが「自由移住漁村」である。民間の漁民,商人,運搬業者などが主体となり,漁業のための生産・流通・商業の拠点として,また居住地として開発したものである。「自由移住漁村」の中には,失敗し衰退した「補助移住漁村」を引き継いだものもある。「自由移住漁村」の多くは,解放後には韓国の主要漁港として発展している。

韓国の伝統的漁村は主農従漁村あるいは「半農半漁」村が多かった。その大半は,丘陵性山地下端部の傾斜地に位置し,居住地は自然地形に従った曲線的形態を取る。これに対して,「日本人移住漁村」は海を生活の場とする純漁村あるいは「主漁従農」村が大半で,漁業,流通業,商業,加工業が複合する形で発展した。居住地は,海岸道路に沿って形成され,道路幅や敷地の規模は基本的に狭く,高密度に住居が建ち並ぶ都市のような形態をとる。すなわち,「日本人移住漁村」は,朝鮮半島沿岸部に,それまでになかった居住地空間と街並み景観を持ち込むことになった。

韓国伝統漁村

日本人移住漁村

3① 韓国伝統漁村と日本人移住漁村

韓国の伝統的漁村の大半は,丘陵性山地の下端部に位置し,海岸を前にして背後には丘陵を持つ傾斜地形に集落が形成されてきた。伝統的漁村は,農業を基盤として漁業を兼ねている主農従漁村と半農半漁村がほとんどである。近所に農地があり,食物と飲料水を得やすい土地,そして海風が弱い地形を選んで集落が立地するのが一般的であった。居住地は比較的に平坦なところに石垣を部分的に積み上げ,整地してつくられた。居住地内部を貫く路地は自然地形にしたがった曲線形態であるのが普通である。

テキスト ボックス:  
図3②
韓国の「日本人移住漁村」の分布(図3②)をみると,東海岸と南海岸に形成されたものが大半である。その中で,「補助移住漁村」はほとんど南海岸に集中しているが,「自由移住漁村」は南海岸を主としながら東海岸にも分布している。その形成時期をみると,南海岸が最も早く,続いて西海岸,最後に東海岸に立地したことがわかる。2 

「日本人移住漁村」の立地は,前述のように,,海岸,内陸水路の3つに大別される。特に海を生業と生活の場とする島や海岸に位置する漁村の場合,居住地は山のせまった狭隘地につくられる場合が多い。そのため街路や路地が狭く,家屋が肩を寄せるように密集して建てられ,共同井戸を利用して水を得ていた所が少なくない。こうした高密度な空間利用の集落形態が「日本人移住漁村」の特徴であり,それはそれ以前の朝鮮半島にはなかった形態である。「日本人移住漁村」の住宅は,日本の漁村とほぼ同様である。その特徴をまとめると次のようである(図3③)。

テキスト ボックス:  
図3③ 日本人移住漁村の日式住宅
①漁村は生産と生活の場を異にする。漁民にとっては,海上の生活が主で陸上の生活が従である。陸上にある住居は休息を目的に作られているため,屋敷内には庭や菜園などは見られず,家の中に広い土間を持たない。

②漁民は住居を転々と変える傾向がある。それは家に対する観念が船に対する観念と共通しているためとされる。漁民は経済状態により大きな船を買ったり小さな船に変えたりするが,家もまた同様の感覚で住み替える場合が多い。

③漁民にとって,住居は伝統的な格式を示すものではない。家の大小はその時々の盛衰を示すが,漁民は家を通じて先祖を尊び,先祖の徳を誇るようなことはほとんどない。

④漁民の居住様式に,海上生活の様式が取り入れられる場合がある。船は一般に「表の間」,「胴の間」,「艫の間」に分かれているが,このような船に乗っていた漁民の住居には船住まいの様式がそのまま持ち込まれる場合がある。

 

4 韓国鉄道町

韓国のほとんどの地方都市は鉄道の敷設によって形成された「鉄道町」をその都市核としている。「開港場」「開市場」とともに鉄道沿線に形成された「鉄道町」は,韓国近代都市の起源である。日本植民地期に形成された「鉄道町」の街区構造は,伝統的な朝鮮半島の集落や「邑城」とは大きく異なり,それを転換していく先駆けとなる。また,鉄道の敷設とともに建設された「鉄道官舎」地区は,「日式住宅」が建ち並ぶ,朝鮮半島にそれまでなかった街並み景観を持ち込むことになった。

 

テキスト ボックス:  
図4① 鉄道路線網
 朝鮮半島における鉄道の敷設は,1899918日のソウル-仁川間の京仁線の開通によって始まる。朝鮮の鉄道網において大きな軸線となるのは,京仁線,京釜線,京義線の3線である(図4①)。「鉄道町」の立地についてみると,まず港湾型・内陸型の2つがある。また,既存集落との関係によって,既存集落混合型・既存集落隣接型・開拓型(新町)の3つのタイプを区別できる。そして,鉄道線路と既存集落,新町との位置関係について,線路挟んで両側に既存集落と新町が形成されているもの,線路と既存集落の間に新町が形成されるもの,鉄道駅と新町が既存集落と離れているものの,3つのタイプを区別できる。

テキスト ボックス:    
図4② 鉄道官舎 7等級甲乙
 「鉄道官舎」は,多種多様であったが,基礎となり基準となったのは,京仁鉄道株式会社,京釜鉄道株式会社,臨時軍用鉄道監部による3つの系統である。それらは「朝鮮総督府鉄道局」の標準設計図に集約されていく。大きく,一戸建て型,二戸一型,マンション(集合住宅)型,独身者宿舎型の4つのタイプに分けられる。一戸建て型は,3等級官舎や4等級官舎,そして5等級官舎の一部に用いられた。高級職員向けで,組石造である。最も多く建設されたのは二戸一式型で6等級,7等級甲,7等級乙,8等級官舎として採用された。木造軸組構法で,外装は土壁漆喰塗り,または,板張りで,屋根にはセメント瓦が使われた。このスタイルが「日式住宅」の原型である。

朝鮮半島には,「オンドル」と呼ばれる伝統的な床暖房方式がある。しかし,日本が持ち込んだのは畳の部屋であった。「オンドル」については,朝鮮半島の厳しい冬の気候に対応するために,逆に「鉄道官舎」に用いられる。

「鉄道官舎」は,解放後も鉄道関係の韓国人によって居住し続けられるのであるが,1970年代から1980年代にかけて一般に払い下げられることになる。共通に見られるのが「出入口(玄関)」の変化である。植民地時代に建てられた「鉄道官舎」は,ほとんど全てが北入りであった。しかし,北からの出入りは,韓国の生活慣習には受け入れられず,南入りに変更されるのである。そしてこの出入口の変化は,「鉄道官舎」の空間構成を大きく変えることにつながる。まず,南側に設けられていた庭が「マダン」に変わる。「マダン」も庭と訳されるが,鑑賞主体の日本家屋の庭とは違って,作業も行われる様々な機能をもった多目的な空間が「マダン」である。「マダン」によって,居住空間の構成は,大きく「道路-玄関-「廊下」-部屋-庭」から「道路-「デムン」-「マダン」-玄関-「ゴシル」-各室」へというかたちに変化する。ここで内部に出現した「ゴシル」は,現代的「マル」といってもいいが,吹きさらしの「マル」ではないから,伝統的住宅には無かったものである。

一方,「日式住宅」の要素で,韓国の現代住宅に受け入れられていったものもある。「襖」「続き間」「押入」などがそうである。韓国の一般的な住宅は,部屋の面積が狭く,「押入」のような「収納」空間は設ける余裕がなかった。「オンドル」を用いてきたためでもある。「襖」によって2つの部屋を1つに繋げる続き間は,一部屋当たりの面積が少ない韓国の部屋の問題点を解決した重要な工夫となる。

 韓国の伝統的住宅では,「アンバン」と「コンノンバン」の間の「デーチョンマル」は「マダン」と同様,多様に使われ,特に,法事などの祭事は「デーチョンマル」と「マダン」を利用して行われるなど,極めて重要な空間であった。しかし,「デーチョンマル」のような一定の広さをもつ空間を確保できなくなると,都市住宅では,「鉄道官舎」で導入された「日式住宅」の空間要素である「続き間」が用いられるようになる。「ゴシル」と「アンバン」の間に取り外せる襖を設置し,2つの空間を繋ぐことで,法事などの家庭の行事を行うようになるのである。現在,「続き間」は,都市住宅を始め,農漁村の田舎の住宅まで広く使われている,「日式住宅」の空間要素がして受容された代表的な空間が「続き間」である(図4③)。テキスト ボックス: 図4 ③ 日誌機銃宅の変容

 

5 日式住居の変容

「日式住宅」の導入によって韓国の住居は大きく変化した。玄関の出現,便所と浴室の屋内化,台所の変化,押入と続き間などの設置などは,「日式住宅」が大きな影響を与えている。一方,韓国の伝統的住宅本来の機能を保ち続けている空間要素もある。代表的なのは,出入口の位置,「マダン」「ゴシル」の出現と部屋の配置である。また,道路の「ゴサッ」化など外部空間の利用方法である。

① 出入口の位置

植民地時代に建てられた「鉄道官舎」は,ほとんど全てが北入りである。北側からの出入は,「鉄道官舎」だけではなく「朝鮮住宅営団」の公営住宅や解放以後建設された大韓住宅公社,ICA住宅,国民住宅の初期モデルにも採用されている。しかし,この北側からの出入は受け入れられず,1960年代前後からはほとんどの住宅で正面入口として南側に出入口が設けられるようになる。北入りの配置は,韓国の生活慣習には受け入れられなかったのである。

三浪津,慶州,安東の旧「鉄道官舎」では,北側にあった出入口のほとんど全てがその位置を変更している。南側への出入口変更が最も多く,地形的な理由で南側に設けられない場合には,東あるいは西側に設ける。当然,出入口の位置変更によって玄関の位置も「デムン」のある位置に移動される。

韓国の伝統的住居空間では,基本的に南入口を重視してきた。すなわち,寒い冬場に北側からの厳しい風を遮断するため,また,敷地と面している畑などに繋げる勝手口の利用のため,さらには,法事の時,先祖の霊が通る死者の通路と認識されているため,北側以外に出入口を設けるのが一般的だったのである。

②「マダン」

居住空間の変容としては,出入口の位置の変更,庭の「マダン」への転用,主屋の増改築,別棟の増築などが重要である。

出入口は,北側から南側へと位置変更が行われると共に「デムン」という名称に変わる。南側にあった庭は多用途空間である「マダン」に変わる。そもそも「マダン」は,韓国の住居の中心空間であり,各棟を連絡させる空間である。全ての「マダン」は,主屋の前面(南側)に位置し,付属棟によって囲まれL字型,コ字型,ロ字型の構成を採り,各棟を連絡している。

一方,「鉄道官舎」では,「マダン」ではなく庭としての機能が与えられた空間が主屋の南側に設けられていた。そして払下げ以後,出入口の位置変更と共に全ての住宅で庭が「マダン」へと変えられる。

こうした庭の「マダン」への転用は,単なる空間の位置や形態の変化ではなく,その空間の機能と意味の違いによる変化である。すなわち,「鉄道官舎」の主屋の南側に設けられた庭は本来室内から眺め楽しむ空間であり,様々な植物を植えるなどの庭園的空間であったが,多様な作業ができる,オープンな多目的空間としての「マダン」へ,陰陽思想の位置づけとしては陽の空間へ変化するのである。住宅に関わる陰陽思想によると,主屋が陰の空間で,「マダン」が陽の空間である。陰と陽の間の円満な循環を図っているためには,「マダン」に植物を植えることや,大きい物を置くなどはよくないとされてきたのである。「鉄道官舎」に導入された庭のような空間は,韓国人の生活習慣にはあまり適合しなかったと考えられる。

③「ゴシル」の出現

「鉄道官舎」は,中廊下によって部屋を繋ぐ中廊下式住宅である。こうした中廊下の形式は,解放後も1960年代まで使用される。しかし,通路の機能を持った中廊下は,「デーチョンマル」を中心としてきた韓国人の生活習慣にはあまり浸透せず,中廊下を拡張することで「デーチョンマル」の代わりとなる「ゴシル」が創出されることになる。

「デーチョンマル」によって2つの部屋が分離されていた伝統的な韓国住宅は,「ゴシル」の出現と共に,「ゴシル」を中心とし,各部屋が「ゴシル」に面する構成へと変化した。外部空間としての「マダン」は主屋を始め各棟と接している。そして内部空間に「デーチョンマル」の代わりの空間として表れた「ゴシル」は,主屋の中で部屋は勿論台所,ユニットバス,「チャンゴ창고」に直接面し,内部空間の動線をコントロールしている。「ゴシル」は,動線のコントロールだけではなく家族の食事空間,法事,団欒の空間などに使われる複合的な機能を持っている。

以上のように,現代版の「マル」であるゴシルは,韓国住宅において複合的な機能を内在化する独特な空間となるのである。

④道路の「ゴサッ」化

「鉄道官舎」地区は,各宅地が副道路によって囲まれ,「ゴサッ」を創る配慮は全くなされていない。それは,「鉄道官舎」地区だけではなく全国の住宅地でも同様である。街路の「ゴサッ」化は,「鉄道官舎」地区に限らず,韓国の各都市の居住地で見られる。「ゴサッ」は,失われつつあるコミュニティ空間の代償であると考えられる。


2025年8月22日金曜日

書評/種田元晴 『立原道造の夢見た建築』 鹿島出版会(2016年9月20日) 今,夢見る建築とは? | 2017/04/27 |WEB版『建築討論』 012号:2017年夏(4月ー6月)http://touron.aij.or.jp/2017/04/3845

 書評/種田元晴 『立原道造の夢見た建築』 鹿島出版会(2016920日) 今,夢見る建築とは? | 2017/04/27 |WEB版『建築討論』 012号:2017年夏(46月)http://touron.aij.or.jp/2017/04/3845

http://touron.aij.or.jp/2017/04/3845



立原道造(1914~1939)、享年24歳。僕(評者)の24歳などほとんど何もなしえていなかったに等しい。もうその3倍近く生きてきたけれど、この夭折の詩人・建築家の生の密度は想像もできない。
だからというわけでもないけれど、若くして多産なその仕事について、これまで考えることがなかった。もちろん、その名は知っていた。角川版の『立原道造全集』全六巻(1971~73)が出たのは大学院の頃である。
立原道造の同世代の建築家一人である吉武泰水(1916~2003)の研究室に僕は所属していた。直接教わらなかったけれど生田勉(1912~1980)は駒場の図学の先生だった。丹下健三(1913~2005)の「アーバン・デザイン」の講義は聞いたし、大江宏(1913~1989)には『新建築学体系第1巻 建築概論』(1982年)の編集会議で1年にわたって随分親しく教えを受けた。浜口隆一(1916~1995)には何度かお会いして、その『ヒューマニズムの建築・再論―地域主義の時代に―』(建築家会館叢書、1994年)には僕の『戦後建築論ノート』を随分長々と20頁に亘って引用して頂いている。本城和彦(1915~2002)には、アジアを歩き始めた頃お世話になった。インドネシアで開かれた国際会議にご一緒する機会もあった。
言いたいのは、立原道造の青春時代をともに生きた諸先生の雰囲気は多少わかるということである。要するに、立原道造は僕の父親世代である。ただ、太平洋戦争も戦後も立原道造は生きることがなかった。
学生の頃は、戦前・戦後の連続・非連続の問題に関心を集中させており、1939年に亡くなった立原道造に関心を向ける余裕がなかった。それに日本浪漫派に傾倒した作家という評価も影響したと思う。今も手元にあるけれど、橋川文三の『増補 日本浪漫派批判序説』(1965年、1974年第17刷)を見ると、「日本ロマン派が悪名高い「東洋的ファシスト」「帝国主義その断末魔の刹那のチンドン屋、オベンチャラ、ペテン師、欺偽漢、たいこ持ち」(杉浦明平)であったことは知られている」といった所に線が引いてあるのである。



提供:太田邦夫

●大きな物語

著者種田元晴、刊行時34歳、もとになった学位論文執筆時は30歳、序によれば、塾講師をしている学生時代に『国語便覧』によって立原道造を知ったというから、ほぼ立原道造が建築を学んでいた同年代の時期にその仕事を受け止めたことになる。この共鳴共感は、果たして人生のある特定の年代のものなのか、時代のものなのか、あるいはその両方のものなのか、興味を持った。
この際、『立原道造全集』(筑摩書房版は2006~2010年刊行)をじっくり読んでと思ったけれど叶わなかった。専ら、立原道造については本書をガイドとすることになる。予め評者失格である。
学位論文を大幅に書き直したというけれど実に読みやすい。立原道造の建築に関わる基本情報が的確に整理されている。今後、建築家・立原道造に関する定本になるであろう。学位論文は手にしていないけれど、推測するに、本書の第二章「透視図に込められた物語」における28の透視図の分析と第三章「建築を包む理想の山」における詩における山と村の出現頻度の分析を中心としたものではなかったかと思う。本書は、それを含みこんだ大きな物語を語っている。



提供:太田邦夫

●都会の風景vs田園の風景

全体は、五章(+終章)からなるが、まず、第一章「出会った建築、焼きつけた風景」では、立川道造の一生が丹念に振り返られる。立原道造は東京の下町、東日本橋(都営新宿線・馬喰横山町駅付近)で生まれ、尋常小学校、府立第三中学校は自宅から通い、旧制第一高等学校時には寮生活をするが、それも現在の東京大学本郷キャンパスの農学部にあったから週末には帰宅する学生生活であったし、1年半後には病弱であることを理由に自宅通学を許されている。そして、東京帝国大学工学部建築学科に入学すると、自宅の2階テラス脇の屋根裏部屋を自室にする。さらに、卒業して石本喜久治の事務所に勤めると、銀座の数寄屋橋にあった事務所に自宅から通った。要するに、立原道造は、その短い一生を東京という大都市で過ごした。
一方、関東大震災罹災後の疎開、奥多摩の御岳山麓での避暑、浅間山麓での夏季休暇、そして修学旅行を含めて、数々の旅に焦点があてられる。長崎を目指した最期の旅(1938年11~12月)では、夜行で奈良へ行き、唐招提寺、薬師寺を見て、夕方京都に向かい、日本浪漫派の代表的人物とされる旧制三校教授芳賀檀(1903~1991)の家に泊まっている。翌々日、京都を発って、山陰線舞鶴経由で松江に至る。松江には11月一杯逗留するが、松江城、山口文象の「小泉八雲記念館」(1933)などを見ている。「長崎ノート」など克明に見聞したものをトレースできるのである。
もちろん、交友関係も含めてその人生における様々なエピソードも豊富に語られるが、構図は、都会の風景vs田園の風景である。冒頭に明快に書かれるが、立原の「原風景」を確認することによって、その田園の建築への志向を裏づけるのが第1章である。最期の旅の東京―京都―松江の山陰線コースは、30年後に、同じ年ごろの僕が通ったルートである。松江を「日本の都会のタブローを完成している」と評しているというが、僕にとっては立原道造を考える大きな手掛かりとなる。しかし、立原道造は、北方気質を自任しており、直前の盛岡への旅の方を遥かに美しい思い出としているという。


●一枚のスケッチ:パースの構図

「一枚のスケッチから」とした序が予め示唆するように、本書は、「無題[浅間山麓の小学校]」(1935年春)を一枚のスケッチとして、その背景にある建築観(立原道造の夢見た建築)を問う構えをとる。この一枚のスケッチは、設計課題「アパートメントハウス」の次の課題(「小学校」)のための下絵という。建築図面というより風景画である。
第2章において、建築学科在学中の一連の設計課題作品についての分析が行われるが、専ら対象とされるのはパース(透視図)である。分析も、パースの視点、構図に集中することになるが、立原道造自身、建築の外観、風景の中の建築の見え方に最大の関心を寄せていたことが指摘される。学友・入江雄太郎に、「・・・外からの眺めの方につい酔ってしまうのです。そんな群落の一角を僕はそのまま風景画のやうにして、光のなかでながめてゐます。建築家失格のところで、僕は、ものを見たりかんがへたりしてゐるらしいのです」と書き送っているという。
著者は、一枚のスケッチ「無題[浅間山麓の小学校]」こそ、立原独自の建築観が色濃く表れていると結論づけ(第二章)、その鳥瞰図の構図がセザンヌの「サント=ヴィクトワール山」に想を得ていることを明らかにする(第三章)。
文芸評論家川本三郎の本書の書評「自然美のなかに建てられる芸術品」(『毎日新聞』2017年1月8日)は、本書の射程、すなわち、文学の世界の関心を惹きつける内容をもっていること、を示しているが、セザンヌの「サント=ヴィクトワール山」に想を得ていることを発見と評している。


●モダニズム建築批判?

ただ、以上において明らかにされるのは、山への憧憬、理想の山に包まれた建築のあり方に魅かれていたことだけである。建築の「方法論」が問われているわけではない。立原道造が「風景画」のような表現を選び取った理由が明らかにされなければならない。
テーマは、立原道造の建築観である。果たして、その建築観は外から眺めるだけの建築観なのか?
立原道造の設計課題作品を一覧すると、モダニズムの建築デザインで一貫しているようにみえる。そして、その立原道造の作品が一年次から3年連続で辰野賞(銅賞)を得ていることは、立原のすぐれたプレゼンテーション能力を示すとともに、1930年代初頭、東京帝国大学建築学科の設計教育がモダニズム建築教育を柱にしていたことがよくわかる。堀口捨巳(1895~1984)、石本喜久治(1894~1963)らの分離派建築会(1920~1928)による様式建築批判の展開があり、山口文象(1902~1978)らの創宇社建築会(1923~31)以降、岸田日出刀(1899~1966)らのラトーなどの小会派の運動が続いて、新興建築家連盟の結成即解体(1930)後の状況である。立原が所属したのは岸田研究室であるが、岸田日出刀が学位論文『欧州近代建築史論』を書いたのは1928年である。ナチスに追われたB.タウトが日本を訪れ、東京帝国大学で講義をしたのは立原道造が1年生であった1934年である。京都帝国大学の少し前(1930~33年)の雰囲気は、3歳年上の西山夘三(1911~1994)を通じて知られるが、その比較は興味深い。西山夘三は、森田慶一を通じて、同じく石本建築事務所に入所(1933年)するが、すぐに応召されて退所しているから立原道造とは出会っていない。
立原の一連の設計課題作品は、実にシャープなモダニズム建築である。そして「すぐにでも建ちそうなリアリティがあった」(吉武泰水)。一枚のスケッチは、しかし、趣を異にする。著者は、突き詰めて問わないが、モダニズム建築のデザインを立原はどう評価していたのか。立原道造の実作は唯一「秋元邸」であるが現存しない。しかし、図面から判断するに、ごく平凡な木造住宅のように見える。そして、自分のための別荘として設計した「ヒアシンスハウス」の図面も、手書きのむしろ味のあるタッチである。
立原の親友であった旧制一高時代の同級生、生田勉は、学生当時は「「何でも機能的にだけ設計すればそれが一番いい建築」だと皆が信じていて、「そのころはみんな白一点ばりで、建築は精神病院みたいに真っ白なのが一番いいことになっていた」」と振り返っている。そして、そうした中で、立原は、ひとりだけ色を塗ったり、石を張ったりしていたという(磯崎新編『建築の一九三〇年代―系譜と脈略』鹿島出版会、1978年)。




提供:太田邦夫提供:太田邦夫

●田園志向

第四章(田園を志向した建築観)では、山への憧憬を含めて、田園へ志向が様々な手掛かりをもとに明らかにされる。
明治末期から大正期にかけて、産業革命による都市化の進展が日本社会を大きく変えていく過程で、東京、大阪、名古屋が肥大化していく一方、農村あるいは地方の衰退が明らかになっていく。そうした中で、新渡戸稲造の『地方(じがた)の研究』や柳田國男の「郷土研究」、建築における「民家研究」が展開されるのであるが、文学の世界でも、失われてきた日本、民族、農村、田園はひとつの大きなテーマになる。文学史に関わる議論は本書で振り返られることはないが、立原道造が文壇の『白樺』派などの「田園志向」の流れの中にいたことは疑いない。ただ、著者が指摘するE.ハワードのガーデン・シティ論(『明日の田園都市』)と立原の関係はほとんどないといっていいのではないか。根拠とするB.タウトの講義をどう聞いたかは不明であるし、一般に流布していた内務省地方局有志編纂の『田園都市』(1907年)は、セネットの『田園都市』を基にして農村興新を目的に編まれてものであり、とてもE.ハワードの理念、理論を伝えていると思えないからである。また、卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」とは直接関係ないと思えるからである。
専ら、ここで議論されるのは、立原道造の「田園」vs丹下健三の「都市」である。北方気質の立原道造vs南方気質の丹下健三という対比もなされる。丹下健三の「都市」というのは、もちろん、戦後の軌跡を踏まえた対比である。
著者の評価は、予め、丹下健三の向かった方へ、ではなく、立原道造が夢見た建築の方へ、である。神子久忠の書評「80年前の建築思想がいま現代に」(『建築士』2017年3月号)は、その方向をよしとする。
透視図レヴェルの分析として実に興味深いのは、丹下の「大東亜建設忠霊神域計画」と「無題[浅間山麓の小学校]」の比較である。
しかし、「本郷の喫茶店で立原と話していたとき、彼は突然、どうもシンメトリーで、軸線のすっと通ったデザインのほうがいい、と言い出したんだ」(『風声』第8号、1979年)という大江宏の証言もある。
ここでも、建築そのものが問題にされているわけではない。

●芸術家コロニー

問題の焦点は、こうして、卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」ということになる。このプロジェクトは、「本計画は浅間山麓に夢みた、ひとつの建築的幻想である」と説明される。B.タウトの「アルプス建築」を思わせる。「優れた芸術家が集って、そこに一つのコロニイを作り、この世の凡てのわづらひから高く遠く生活する。それは隠者の消極的な遁世の思ひでなく寧ろ返って低い地上の生活にかゞやかしい文化の光を投げかけやうとする積極的な意欲から―」と続けられる。一種のユートピア計画とも思える。ドイツのヴォルプスヴェーデやダルムシュタットの芸術家村がモデルになっているとも指摘される。幻想ではあるが、地域区分、道路計画、施設配置、小住宅(約千戸)を中心とする集落計画の指針は示されている。
第五章(想いの結晶・芸術家コロニー)は、卒業設計の過程を追いながら、その構想の源、とりわけ敷地の設定について関心を集中させる。そして、芸術家コロニーの敷地の設定に大きく関わる大江宏と立原道造の関係をクローズアップする。
誤解を恐れず要約してしまうと、立原道造の卒業設計に託された夢は、大江宏の「追分の山荘」(1962)によって引き継がれ、多くの若い建築家が集う場として実現していったのである、というのが著者の読み解く大きな物語である。

●日本浪漫派と立原道造

もちろん、田園志向の、自然志向の建築プロジェクトの素朴な夢が引き継がれて、実現していったという物語で閉じるわけにはいかない。立原道造の建築の夢がどのように孕まれたのか、という問題は残されている。
著者は、もちろん、立原道造と日本浪漫派との関係に触れる。戦後、日本浪漫派批判の口火を切ったと言っていい杉浦明平(1913~2001)(『暗い夜の記念に』)は、立原道造の旧制一高の一年先輩で親友であり、立原の詩集を編むなどその功績を戦後に伝えた文学者であるが、立原道造を徹底的に批判しているのである(「立原道造における進歩性と反動性」宮本則子編『国文学解釈と鑑賞別冊 立原道造』(至文堂、2001年)所収)。立原道造が芳賀檀らに急接近して、血と大地、民族をうたうナチスの建築に魅せられ、日本ファシズムに傾倒していったことは明らかにされている。
15年戦争期、日本の建築界の動向は、モダニズム建築(様式)と日本(回帰)建築(様式)の対立抗争の構図として捉えられるが、「近代主義・自由主義あるいは社会主義的な傾向と、右傾した思想に結びつく浪漫主義的・復古主義的、あるいは国家主義さらには軍国主義的な傾向との間を大揺れに揺れていた」(浜口隆一)。日本の戦後建築を主導することになる丹下健三は明らかに後者に傾斜していく。磯崎新に言わせれば、丹下健三を日本浪漫派にオルグしたのが立原道造である。
日本浪漫派にインヴォルブされた立原道造についての以上のような批判に触れながら、著者は、主として立花隆・鈴木博之の対談「立原道造の建築と文学」(宮本則子編『国文学解釈と鑑賞別冊 立原道造』(至文堂、2001年)所収)に依拠にしながら、むしろ、立原道造は「日本浪漫派」的なるものに対して「アンチ」であった、少なくとも、戦時体制に向かう趨勢に対して「違和感」をもっていたと主張する。
立花隆の主張の要点は、芸術家コロニーは、「小住宅は住む者の気分的個性に従って、各戸が自由な立体図を持たねばならない」とするように、ファシズム的に決定されていない、という点である。しかし、「このコロニイにあっては住む者が何より先に選ばれたる芸術家であらねばならない。従って彼はまた優れた趣味と気分感情とを持つであらう」という個人=芸術家の趣味と気分感情が問題であり、「そしてまた互に共感と友情はこのコロニイに住む者同士のあひだに、常に保たれなければならない」という「共感」と「友情」、さらに最善の場合に予想される「調和と諧調」なるものによって想定されている社会(国家)が問題である。

●「方法論」

それに、しばしば「建築家はファシストか」「空間帝国主義者」と非難されるが、立原道造が「建築家失格」を自覚し、全体計画を放棄し、一枚のスケッチあるいは風景に包まれた「芸術コロニイ」のイメージの提出にとどまるのだとすれば、日本浪漫派に対する「日本ロマン派は、いわば解体期におけるインテリゲンチャのデスパレートな自己主張のパトロギーから生れ、イロニイと退廃をその自覚的方法として表現したものであり、とくに、昭和十年前後におけるおける都市インテリゲンチャの退行的な行動様式の極端な一翼を形作るものであった」(橋川文三)といった批判は、杉浦明平の激しい批判も含めた身近な仲間たちの証言から明らかにされるように、立原道造に対するものでもある。ロマン主義運動一般は「夢想とユートピア的理想」への逃避であり、「田園志向」についても日本浪漫派と「農本主義」あるいは「郷土主義」との関係は指摘されたところである。
問題は、建築の方法論である。立原道造の建築に関わる論考は少ない(わずか3点)が、卒業論文である「方法論」がある。また、未発表原稿「建築衛生学と建築装飾意匠に就ての小さい感想」では、「算式の氾濫した建築構造学には、既に今日以後にその進歩と寄与を期待しません」と言い、計画学の必然性を主張しているのである。本書に対する不満があるとすれば、この「方法論」の内容についての言及がほとんどないことである。結果として、立原道造の見た建築の夢として「田園を志向した芸術家コロニー」を強調するにとどまることになっている。
無理もないと言ってもいい。難解である。というより、具体的な建築の方法が語られているわけではないのである。いわゆる「建築論」、哲学的用語を駆使したメタ方法論の展開である。

●立原道造が生きていたら

立原道造の「方法論」については既に様々な言及がある。磯崎新は、日本浪漫派に傾倒した立原が生きながらえて戦中の五年間に建築家としての活動を続けたら、「なまぐさい国家的像の表象と取り組むことになっただろう」という。生田勉は、「もし仮に立原が生きていたとすれば、丹下さんとは全然違った立場には立つだろうけれども、お互い打てば響くというような対蹠的な立場に立って、互いに相補うというとへんだけれども、二人が一緒に活動できたらばどんなに面白かったろう」と丹下健三とよく話したという。また、八束はじめ(第四章「近代の超克」の諸相『思想としての日本近代建築』岩波書店、2005年)は、一方で、小説を書くことになったのではないかとも言いながら、立原に見られて、丹下・浜口に見られないのは現象学的関心であり、アヴァンギャルド的資質を欠いており、構成主義的モメントは稀薄であるという。また、「日本趣味」の反動ともアヴァンギャルドのモダニズムとも歩調が揃っていない、ともいいいながら、丹下、浜口という系列とは別な、空間論の系譜を引き取ろうとしたのではないか、という。
冒頭に断ったように、立原道造のテキストについて、僕は眼を通していない。「方法論」のレクチュールについては著者とともにのちの課題としたい。ただ、本書以外に、議論を展開する材料が残されているわけではない。
丹下健三の日本浪漫派への傾倒が指摘され、大ぴらに議論されるようになったのは1960年代末から1970年代にかけてのことである。角川版の『立原道造全集』の出版もそうした時代背景に関係がある。磯崎新の『建築の一九三〇年代―系譜と脈絡』(鹿島出版会)が上梓されたのは1978年であり、僕らの同時代建築研究会が『悲喜劇・一九三〇年代』(現代企画室)を上梓したのは1981年である。(石田純一郎の本書の書評「転換期の手触り」(『住宅建築』2017年4月号)が建築界の立原評価について触れている)。
建築における戦前・戦後の連続・非連続をめぐる問題は、基本的には解かれていない。というか、繰り返し問われるべきプロブレマティークを孕んでいる。世界各地でナショナリズムが台頭する中で、日本でも戦前回帰の動向は明確な趨勢となりつつある。本書が、そうした流れの中で読まれることは意識されるべきであろう。

●「ヒアシンスハウス」の方へ

問題は、「立原道造が夢見た建築」を今問うことである。著者は、上述のように、立原道造・大江宏のラインにみた。あるいは、立原道造・生田勉のラインに見ようとするのが「ヒヤシンスハウス」の復元である。

提供:太田邦夫

著者紹介:
種田元晴
1982年東京都生まれ。2005年法政大学工学部建築学科卒業、2012年大学院工学研究科博士後期課程修了。博士(工学)。一級建築士。東洋大学ライフデザイン学部人間環境デザイン学科助手を経て、現在、法政大学、東洋大学、桜美林大学非常勤講師。種田建築研究所勤務。2010年、日本図学会研究奨励賞、立原道造「無題[浅間山麓の小学校]」鳥瞰図の構図について- 立原道造の田園的建築観に関する研究 –で2017年日本建築学会奨励賞。

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...