布野修司
間違いなく労作である。そして、一見ハンディな本のようでていて、とてつもなく重い本である。
本書のもとになったのは『二〇世紀前半の中国東北地方における日本人の建築活動に関する研究』という学位請求論文(東京大学 一九九二年)である。そこで時間をかけて丹念に掘り起こされた圧倒的な事実が本書を大きく重みづけている。そして、「二〇世紀前半の中国東北地方における日本人の建築活動」が「日本による中国東北地方への侵略・支配に対して、大なり小なり貢献していたのは確かである」という、全体として扱うテーマの大きさが本書をさらに重いものとしている。
全体は7章からなる。大連軍政署および関東都督府(Ⅰ)、満鉄(Ⅱ)、満州国政府(Ⅳ)、ゼネコンとフリー・アーキテクト(Ⅴ)の前半においては、それぞれ「建築組織」と「建築家」群像が克明に調べられ列挙(リストアップ)された上で、主要な建築(活動)が紹介される。そして後半の3章は、建築様式(Ⅴ アール・ヌーヴォーvs中華バロック)、自然条件と建築材料あるいは都市防火と美観(Ⅵ 異境での建築活動)についての考察を踏まえて、総合的考察(Ⅶ 中国東北地方支配と建築)がなされている。
最初の建築家、前田松韻が東京帝国大学建築学科を卒業直後にダルニー(大連 ダーリニー)に渡ったのが1904年。そして、池田賢太郎、岡田時太郎が続いた。日露戦争とともに中国東北地方における「建築家」の活動が開始される。以後、15年戦争期にかけて、日本人建築家たちがどのような建築を建てたのか、様々なエピソードとともに記述されている。京都府技師であった松室重光が大連市役所を建てる経緯、大連医院の設計をめぐる米国フラー社の途中解約事件、内地に先駆けた集合住宅、大連近江町住宅を設計した太田毅、安井武雄の満鉄時代、遠藤新と土浦亀城の中国東北地方での活動。かって薄暗い書庫で『満州建築協会雑誌』の頁をめくったことを思い出した。とても書かれたものだけからはわからない興味深い事実が随所に記されていて実に刺激的である。
日本帝国主義の満州支配の拠点であったといっていい大連の南山地区には今猶1910年代から20年代にかけて日本人によって建てられた住宅が今も猶残っている。大連理工学院の陸偉先生と一緒に調査する機会があった。内地に先駆けてアパートメントハウス関東館(1919年)が建てられている。ゾーニング(用途地域性)も内地京都(1924年)に先駆けている。満州が日本の実験場であったという評価も一方でそれなりに了解できた。大連市はこの南山地区を「保存的開発地区」に指定したのであるが、何を保存し、何を開発すればいいのか、僕自身考え続けている。本書全体がそうした問いに関わっている。
一個の建物ならもう少し簡単かも知れない。朝鮮総督府(韓国中央博物館)のように如何に傑作であろうともPC(ポリティカリー・コレクトネス)問題として、壊されるべき建築はあるのである。しかし、町そのものは生きられることによって自らのものとなるプロセスがある。南山地区は既に半世紀を超えるそうした歴史がある。本書に微かな不満が残るとすれば、究極的にタイトルが示すように日本の「建築家」からの視点が全体として強調され、建設され残された集団としての住宅地や町の方からの視座が隠されてしまっていることである。
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