Ⅵ. ヒンドゥーの都市計画
1. 古代インドの都市
インダス文明の都市
インダス文明は、紀元前2350年~1750年にかけて、インダス川流域を中心として栄えた古代文明の一つである。その文化の及んだ範囲は、東西1550キロ、南北1100キロという広範囲におよんだ。その中でもモヘンジョ・ダロ、ハラッパが有名であるが、その他にもロータル、カリバンガンといった都市が発見されている。ここでは、モヘンジョ・ダロ、ロータル、カリバンガンを取り上げ、それらに共通する特徴を明らかにしてみよう。
モヘンジョダロ(Mohenjo daro)(図1-1-1)はインダス川の堤に位置する。都市は大きく分けて西側と東側に分けることができる。西側は要塞地域となっており、大浴場・穀倉・集会場・ストゥーパがあった。東側は市街地ある。発掘された地域では、南北に幹線道路が平行に2~3本走り、その間を細い道が直角や鍵状に結んでいる。
ロータル(Lothal)(図1-1-2)は、東北パンジャーブ地方の港湾都市であり。土着の文明と混合してできた都市であるとされている。南北に長い長方形をした都市である。東北部は、厚い壁で囲まれた要塞部分と考えられる。市域には、モヘンジョダロと同様に南北に走る幹線道路が確認できる。また、ロータルの特徴は、市の東壁に接して、ドッグを持っていたことであった。
ラジャスタン(Rajasthan)北部のカリバンガン(Kalibangan)(図1-1-3)は、西側の要塞の区域と東側の市域から成っている。東側は、長方形の城壁で囲まれている。カリバンガンに見られる都市の特徴は、東の市域と西の要塞とからなる。城壁の内側では、4本から5本の南から北に平行に走る幹線道路が発掘されている。しかし、東から西に、城壁から城壁へと都市を貫通して走る道路は発掘されていない。その代わりに、隣合う2つの南北方向に走る幹線道路を直角につなぐ短い道は発掘されている。
応地利明*1は、インダス文明の特徴は「地形学的二重性」と「準グリッドパターン」にあるという。「地形学的二重性」とはインダス文明の都市はすべて要塞部と市街地とから構成されているということである。すなわち、聖な部分と俗の部分からなっている。土着の文化と混合したロータル以外は、聖の部分は西側に、俗の部分は東側に建設される。インダス文明においては、西が聖なる方位であったと考えられる。
「準グリッドパターン」とは、南北走る幹線に対して直角に交わる小路、もしくは鍵型小路で街区が構成されているということである。インダス文明の都市は、南北に走る幹線と東西に走る幹線が形成するグリッドパターンの都市ではなかった。
アーリア人侵入以降の都市
マウリア王朝の都市
アルタシャストラ(Arthasastra)を編纂したカウテリヤ(Kautilya)の仕えていたチャンドラグプタ(Chandraguputa)王が創始したのがマウリヤ(Maurya)朝であり、その都はパータリプトラであった。そして、その都市形態についてギリシャ人のメガステネース(Megasthenes)が『インディカ』(Indhika)のなかで述べている。
その内容を総合すると以下のようである。*2
① 都市の立地は、ガンジス川とエランノボアス川の合流点であった。
② 都市のプランは四辺形で、その長辺は80スタディア(14.8km)、短辺は15スタディア(2.8km)に達する巨大なものであった。
③ 都市は幅180m、深さ14mの壕で囲まれた環濠集落であり、46の門を有する木柵で囲まれていた。
④ 都市は多数の馬匹と象を含む軍団の駐屯地であると共に、プラッシイイの政治の中心地であった。
その後の発掘調査によっても、パータリプトラは、ほぼ上記のような形態をしていたことが分かっている。
パータリプトラの都市形態は,南北に長い長方形であり、その周りを壕が囲んでいた。また、壕によって南北に分断され、南側が宮城域、北側が市街域であった。しかし、市街域の道路体系については不明である。このように、マウリア期(B.C.322~185)の都市も「地形学的二重性」をもっていた。
バクトリア・ギリシャの影響下の都市(B.C.2世紀~A.D.1世紀前半)
紀元前2世紀から1世紀にかけて栄えたシルカップ(Sirkap)(図1-1-4)の古代都市にグリッドパターンの都市形態が見られる。シルカップは、インダス文明の都市とは違って、完全なグリッドパターンの都市形態を持っている。幹線道路は、南北に走り、狭い道路が直角に幹線道路を横切って東西に走る。東西に走る道路の間隔は、殆ど同じである。シルカップのグリッドパターンはギリシャ文明の影響を受けたものであると言われている。また、南側は丘陵のある町で、特に西南端はアクロポリスである。
しかし、発掘作業が進んでいないため実際に古代インドのグリッドパターンの都市を見つけることは不可能である。現在、グリッドパターンを持っていると推測される古代インド都市は、オリッサ州のシスパルグラ(Sisupalgarh)(図1-1-5)の一つだけである。シスパルグラは1世紀から2世紀にかけて栄えた要塞都市である。それは、1辺1.5キロメートルの正方形の都市である。各辺に2つずつ門、合計8つの門がある。各門から反対側の門へと線を引くと、完全に9つの正方形に分割される。残念ながら、発掘調査が成されていないためそれ以上の事は分からない。
*1 Ohji Toshiaki,The "Ideal"Hindu City of Ancient India as Described in the Arthasastra and the Urban Planning of Jaipur.
*2 『インディカ』の要約は以下の論文による。『都市形態の研究:インドにおける文化変化と都市のかたち』(『SD』臨時増刊号)1969年
:丸山次雄「パータリプトラの都市形態 東インド初期歴史時代の都市形成との関連において」p83.
2. ヒンドゥーの建築書
古代ヒンドゥー教の理想都市については、シルパシャストラ(Silpa
sastra)に描かれている。シルパシャストラとは、都市計画・建築・彫刻・絵画等を扱ったサンスクリット語の文書群のことである。最も完全なものは『マナサラ』(Manasara)であり、他に『マヤマタ』(Mayamata)、『カサヤパ』(Casyapa)、『ヴァユガナサ』(Vayghanasa)、『スチャラディカラ』(Scaladhicara)、『ヴィスバカラミヤ』(Viswacaramiya)、『サナテゥチュマラ』(Sanatucumara)、『サラスバトゥヤム』(Saraswatyam)、『パンチャラトゥラム』(Pancharatram)の9種がある。『マヤマタ』の著者はマヤ(Maya)であると考えられている。マヤは最も評判の高い天文学書『スルヤシッダンタ』(Suryasiddhanta)の編者であると考えられている。内容は『マナサラ』と大差がない。『カサヤパ』は著者名が本の題名に成っている。しかし、著者は人類の先祖の一人で大洪水の時に生き残った7聖人の第一に位置する人であり、神話上の人物である。『ヴァユガナサ』も著者名を書名に用いている。著者は「ヴァイナバ」(Vainava)僧団の創設者である。内容は建築的というよりむしろ宗教的である。『スチャラディカラ』の著者は「アガスタヤ」(Agastya)とされている。この本にしかない項目もあり、彫刻に関しては優れている。その他では『マナサラ』と大差無い。『ヴィスバカラミヤ』は内容的には『マヤマタ』に基づくものが多く、『マナサラ』に近い。『サナテゥチュマラ』は、『ヴィスバカラミヤ』に基づくものであり、『マナサラ』の流れを汲むものである。したがって、シルパ・シャストラに関しては『マナサラ』を参照するのが最適である。『マナサラ・シルパシャストラ』(Manasara Silpa Sastra)という題名であるが、「マナ(mana)」は「寸法」(Mesurement)また「サラ(sara)」は「基準(essence)」を意味し、「マナサラ(Manasara)」とは「寸法の基準(Essence of Mesurement)」の意味である。しかし『マナサラ』とはこの本の題名で有ると同時に、この本の作者の名前であるという説もある。また、「シルパ(Silpa)」とは規範、「シャストラ(Sastra)」とは科学という意味であり、「バストゥ(Vastu)」は建築という意味であり、「バストゥ・シャストラ(Vastu Sastra)」は「建築の科学(Science of Architecture)」の意味である。したがって、本来的には、この本の題名は『マナサラ・バストゥ・シャストラ』(Manasara Vastu Sastra)であるべきであるとされる。成立年代はアチャルヤ(P.K.Acharya)*1によると6世紀から7世紀にかけて南インドで書かれたものであると考えられているが、村田治郎*2は中に述べられている建物形態から近世に増補されたものであると考えている。
都市の形態と内部構成の詳細について述べている他のサンスクリット語の文書は『アルタ・シャストラ』(Arthasastra)*3である。これは理想的な首都についてもっと明確な考え方を示している。『アルタシャストラ』は富国について議論した文書である。著者は紀元前4世紀頃栄えたマウリヤ王朝,チャンドラグプタ1世(ChandraguptaⅠ)の首相であったと信じられている伝説上の英雄カウテリヤ(kautiliya)であると考えられている。この文書は紀元前2世紀から2世紀の間に編纂された。
『マナサラ・シルパ・シャストラ』
『マナサラ』の構成について、アチャルヤの研究*1にしたがって紹介する。
目次は、以下のようになっている。本稿では、寸法体系と都市と王宮について述べている章を取り上げ、マナサラに見られるインドの都市・王宮について考察する。
第1章 内容紹介 、第2章 建築家の資質と寸法体系 、第3章 建築の区分 第4章 敷地の選定 、第5章 土壌のテスト 、第6章 日時計の作り方と杭 第7章 配置 、第8章 捧げ物 、第9章 村落 、第10章 都市と要塞、第11章 建物の寸法、 第12章 基礎 、第13章 柱脚、第14章 柱礎 第15章 柱、 第16章 エンタプラチャーと屋根、 第17章 結合部 、第18章 建物の一般的特徴、第19章 1階建ての建物、第20章 2階建ての建物、第21章 3階建ての建物、第22章 4階建ての建物、第23章 5階建ての建物、第24章 6階建ての建物、第25章 7階建ての建物、第26章 8階建ての建物、第27章 9階建ての建物、第28章 10階建ての建物、第29章 11階建ての建物、第30章 12階建ての建物、第31章 宮殿、第32章 寺院、第33章 玄関と窓、第34章 あずまや、第35章 邸宅、第36章 住宅の配置と寸法、第37章 住宅の開口部、第38章 扉、第39章 扉の寸法、第40章 王宮、第41章 王の側近、第42章 王権の体制と象徴、第43章 馬車と戦車、第44章 寝台・揺り椅子、第45章 王座、第46章 アーチ、第47章 中央劇場、第48章 装飾樹、第49章 王冠、第50章 装身具と住宅の家具、第51章 シバ、ビシヌ、ブラフマの像、第52章 リンガ、第53章 祭壇、第54章 女神達、第55章 ジャイナ教の偶像、第56章 仏教の偶像、第57章 聖人の偶像、第58章 神祇物の像、第59章 帰依者の像、第60章 グース(ブラフマの乗り物)、第61章 ガルーダの像(シバの乗り物)、第62章 牛(シバの動物)、第63章 ライオン(パルバティの乗り物)、第64章 偶像の寸法比較、第65章 最大のテン・ターラー寸法、第66章 中間のテン・ターラー寸法、第67章 垂直方向の寸法規定、第68章 偶像のワックス仕上げ、第69章 計画寸法を誤った場合の罰、第70章 開眼
アチャルヤの研究によると、このようになっているが異説*4もある。
寸法体系
寸法体系については第3章で述べられている。一部と二部に分かれており、一部は芸術家の系譜について述べている。芸術家は、すべてブラフマの子孫であるとされている。二部は寸法体系について述べている。マナサラに述べられている寸法体系は、すべての物体の最小構成単位である原子から始まる。しかし、実際に使用される寸法は人体寸法である。すなわち、「アンギュラ」(angula)は指の幅、「ヴィタスティ」(vitasti)は手をいっぱいに広げた幅、「ハスタ」(hasta)は腕尺である。また村落や都市をはかる寸法としては「ダンダ」(danda 竿)の長さを用いた。また、寸法体系は8進法を用いている。
野口英雄*5は、『マナサラ』に見られる寸法体系について、「コスモロジー・宇宙観」と寸法の神聖化、身体性と実用性、象徴性の占有、文化伝播に着目して考察を進めている。野口によると、インドの建築寸法は身体寸法に立脚しており、寸法の身体性はタイ・ジャワ島・バリ島にも見られることから、これらの地域との文化における関係を示唆している。
建設プロセス
『マナサラ』では、第九、十章で村落、都市・要塞について述べているが、その前に第三,四,五章でその敷地の選定に付いて、第六章で方位の定め方について、第七章で配置計画の基となるマンダラについて述べている。これは、都市計画のプロセス順に論述されているものと考えられる。
① 敷地の選定を行う:その判断基準は土壌のテストによるたいへん科学的なものである。インドは、乾燥する土地であるので水が一番重要視される。そして、その次に地盤が重要である。
② 方位を求める:これは日時計を用いる。都市・建築にとって方位が大切であることは自明である。建物は東もしくは北東を向くべきで、南東は不吉であるとされている。これは、低緯度なインドで
日差しが建物に直接入るのが良くないためであると考えられる。
③ 配置計画:敷地が決定されると、その上にマンダラを描く。マンダラとは、正方形を等分割し、分割してできた各正方形にヒンドゥーの神々の名前をあてはめた図である。このマンダラはバストゥ・プルシャ・マンダラと呼ばれる。これは、マンダラ上に寝ているとされるせむしの神、バストゥ・プルシャ(図1-2-1)にちなんだ名前である。『マナサラ』には32通りの分割方法が掲載されており、それぞれのマンダラに名前がある。都市や建築の計画によく使用されるのは、64分割のチャンディカ(candika)(図1-2-2)や81分割のパルマ・サディカ(parama-sadhika)(図1-2-3)である。
④ 村落、都市・要塞の計画:『マナサラ』では、村落も都市・要塞も計画手法は同じである。都市は村落の大きいもの、要塞は村落の防衛に重点のおかれたものとされている。
始めに、各辺の中央から向かいの辺の中央に道路が引かれる。こ
れで、中央に四辻が形成される。次に城壁建設・門の設置・道路配置がなされる。道路配置は村落には8パターン、都市にも8パターンある。要塞にも8パターンあるが、立地によってさらに分けられる。そして各パターン毎に名前がある。その後、バストゥ・プルシャ・マンダラの各正方形毎に施設が配置される。一番内側には寺院や集会場や王宮(都市の場合)が建てられる。一番外側の区画には、学校・迎賓館・図書館といった公共施設。そして、この二つの間に住居がある。住居は、カースト毎、職業毎に配置される。そして、火葬場や恐ろしい神々の寺院は城壁外の北西に建設される。また、都市は川や山の近くに建設され、商業機能を持つべきであるとしている。
以上が村落、都市・要塞の建設プロセスである。
都市形態
はじめに規模であるが、最も小さい都市で、100×200 ダンダであり、最も大きなもので 7200 ×14400 ダンダである。また、都市は東西、南北という軸に沿って配置される、川や山の近くに位置する。 都市施設としては外国人との貿易・商業の施設、城壁・濠・城門・下水・公園・公共地・店舗・両替所・寺院・寺院・迎賓館・大学等がある。軍事・防衛目的のため、都市は一般的にかなり要塞化されて造られている。都市はそれぞれ、煉瓦か石によって築かれた壁によって囲まれており、その外に都市に対する攻撃を阻止するだけの幅と深さを持った濠を持っている。また、一般的に各面の中央にメインゲートがあり、多くの場合四隅にも門が有る。壁の内側には、壁に沿って都市の廻りを走る大きな街路があり、それに加えて対面する門を結ぶ2つの大きな街路がある。その街路は都市の中央で交わり、そこに集会用の寺院やホールが建てられる。このようにして、都市は大きく4つのブロックに分けられ、それぞれのブロックは、そのブロックを通り抜ける道によって更に分割される。
都市の中央で交わる道では、道の片側だけに家と歩道があり、それらの家は一階が店舗になっている。都市の外周路もまた、片側だけにしか歩道と家がなく、それらの家は主に学校・図書館・迎賓館といった公共の建物である。他の全ての通りでは、両側に住居があり、家の高さは統一されている。貯水池は、全ての居住地に掘られ、多くの住民に便利なように位置している。同じカースト、職業の人々は大抵同じ場所に住まわされている。様々な宗派の人の場所の分割は、為されているとは言い難い。最良の場所は、一般にバラモン(僧侶)と建築家のためにとられている。
一般的には、都市は上記のような形態をとるが、8つのパターンそれぞれについて詳しく考察する。復元図はアチャルヤによるものである。
「ラジュダニ(Rajudhani)」(図1-2-4)
このパターンは9階級*1ある王の位の中で、最高位の王の都に用いられるパターンである。9階級の王とは上から順に、「チャクラヴァルティン(Chakravartin)」、「マハラジャ(Maharaja)」、「ナレンドゥラ(Narendra)」、「マンダレサ(Mandalesa)」、「パルシニカ(Parshinioka)」、「パッタドゥハラ(Pattadhara)」、「マンダレサ(Mandalesa)」、「パッタブハジュ(Pattabhaj)」、「プラハラカ(Praharaka)」、「アストラグラヒン(Astragrahin)」である。全体の形は長方形であり、都市の中央で交わる大通りがあり、都市の形態に沿って3重に道が走っている。このタイプの都市はいわゆるグリッド・パターンの道路体系ではない。
また、このタイプは四辻が公園になっている。また公園に面して、シバとヴィシヌの寺院があり、それを取り囲むように王宮(北西)・集会場(北東)・ブラフマ(南東)の住居・司祭の住居(南西)がある。また、その外周にはクシャトリア(貴族)・医者・市場・ヴァイシャ(武士)・貴族・首相の住居が配置される。そのさらに外周には総督府・建築家の住居・宝石職人の住居・貯水池・グランド・兵器職人の住居・スードラ(奴隷)の住居・油業者の住居・乳業者の住居・洗濯業者の住居・仕立て職人の住居・学校・織物職人の住居が配置された。その外周の施設については特定不可能である。最外周には兵士のためのバラックが建てられていた。
「ナガラ(Nagara)」
「ナガラ」は「ラジュダニ」のスケールの小さなものであり、配置計画等は同じである。しかし、道路体系はグリッド・パターンとなっている。
「プラ(Pura)」、「ナガリ(Nagari)」
このタイプは、アチャルヤは復元を行っていない。また本文中の記載が少なく復元することができない。
「ケタ(Kheta)」
このタイプの全体の形は、八角形を半分にした形である。八角形の中心にあたる位置に広場があり、そこから放射状に道路が広がっている。このタイプは王宮を持たない。中心の位置の施設は不明であるが、その外側にはスードラの住居、さらに外側には市場・倉庫があり、城壁の外には川に面して港がある。このタイプは都としての都市ではなく商業都市に適用される都市形態であると考えられる。
「カルバラ(Kharvata)」
このタイプの全体の形は、円形である。都市の中心で四辻を形成する道路が東西・南北に走り、さらに4本の道路が四辻から放射状に伸びている。また同心円状に4本の道路が取り囲んでいる。
中心には寺院が、一重目には公共施設・貴族の住居・クシャトリアの住居・司祭の住居が位置し、その外側にはクシャトリアの住居・芸術家と建築家の住居・ヴァイシャ(武士)の住居がある。
「クブジャカ(Kubjaka)」
このタイプの全体の形は、長方形+半八角形である。道路体系は、基本的にはグリッド・パターンである。半八角形の中心の位置で、大通りが交わり四辻を形成する。四辻には寺院がある。
半八角形の部分には、王宮・貴族の住居・公共施設が位置する。長方形の北側には、芸術家・ヴァイシャ(武士)の住居が設けられ、中央部には、首相とブラフマの住居が設けられる。
「パッタナ(Pattana)」
このタイプは、アチャルヤによる復元案がない。このタイプは大きな商業港を持ち海や川の堤に位置していると書かれており、商業都市に適用される形態であると考えられる。
以上が『マナサラ』に述べられている8つのタイプの都市形態である。
これらの都市形態とチャクラヌガラとの比較であるが、都市形態の面からは「クブジャカ」がいちばんチャクラヌガラに近い。以下共通点と異なる点を述べる。
共通点
①全体構成が東西に長い長方形であること。
②メインストリートが形成する四辻に面して王宮があること。
③メインストリートの北側に1ブロックの居住地があること。
④道路体系がグリッド・パターンであること。
⑤東西8ブロックからなること。
異なる点
①チャクラヌガラは、半八角形の部分を持たない。
②王宮の位置がチャクラヌガラの場合、四辻の北東角である。
③チャクラヌガラは、南北に5ブロックからなる。
④チャクラヌガラには城壁がない。
このように「クブジャカ(Kubjaka)」と呼ばれるタイプはたいへん形態的にはチャクラヌガラに似ている。
王宮
王宮の建設過程も次に、村落、都市・要塞と①,②,③までは同じであると考えられる。都市内に於ける王宮の位置は、第10章で都市の中心が望ましい、と書かれているだけで具体的な位置については述べられていない。第40章では、王宮の内部構成について述べている。王には9階級ありそれぞれに王宮の規模が違う。この章では具体的に「パルマ・サディカマンダラ(parama-sadhika)」を用いて王宮内の建物の位置について述べている。
王宮は、内陣と外陣とから構成されている。内陣には、戴冠式のパビリオン、兵器庫、倉庫、食堂、台所、風呂、寝台等の王にとって必要な建物があった。外陣には、皇太子・王家の司祭の住居、謁見場、寺等があった。果樹園、池は外陣の中に自由に、馬・牛・象小屋は中央門の近くに設置された。闘鶏場は特別に建てられていた。牢獄は王宮から離れた位置に建てられた。寺院は北東に建てられる。王宮の主門は東面する。アチャルヤは『マナサラ』の記述から王宮を復元している。
以上が『マナサラ』の都市と王宮に関する記述である。『マナサラ』は理念よりもむしろ、建設過程順にならんでいる構成からみても、ローマのヴィトルヴィウスの『建築十書』のような建築工学に重点をおいた建築書であると考えられる。次にアルタシャストラ(Arthasastra)について考察する。アチャルヤは『マナサラ』とヴィトルヴィウスの『建築十書』の比較研究*7を行っている。
『アルタシャストラ』(Arthasastra)
アルタシャストラは国富を追求する事を議論した文書である。著者は紀元前4世紀頃栄えたマウリヤ王朝、チャンドラグプタ1世(ChandraguptaⅠ)の首相であったと信じられている伝説上の英雄カウテリヤ(kautiliya)であると考えられている。この文書は紀元前2世紀から2世紀の間に編纂された。
理想都市の形態と構造については2巻の3章・4章で議論されている。(アルタシャストラの本文はShamasastry,R.,trans. 1976. Kautilya's Arthasastra. 8th ed. Mysore:Mysore Printing and Pubulishing house.1st ed.,1915による。)
第三章 城塞化された市場都市(sthaniya)の建築
1.都市の形態:王国の中心に城塞化された首都(sthaniya)を持つのが望ましい。場所は、目的に最も合うようにする。(中略)、要塞は円型もしくは長方形の形をしている、また濠で囲まれており、水路と陸路の両方に接続している。
2.都市の濠と城壁:要塞を囲んで、濠が3本有って、それぞれ1danda(6feet)の間隔がある。各濠の幅は、14、12、10dandasである。濠から(内側に)4dandas(24feet)離れて城壁が高さ6dandas、幅はその2倍で建てられている。
第四章 城壁内の道路パターンの詳細・公共施設と私邸の空間構成
3.王道とそれらの幅:城壁都市内の土地の区画は、始めに西から東へ王道を3本、南から北へ3本通すことに作られる。(中略)王道、車道(中略)は、それぞれ幅4dandas(約24feet)である。
4.城門:城塞都市 は12の城門から成っている。それぞれには道路と水路そして秘密の抜け道がある。
5.寺院:城塞都市の中心に、Aparajita・Apratihata・Jayanta・Vajiayanta・Siva・Vaisravana・Asvina神の神殿そしてMadiraの神の住居が位置する。
6.王宮:4カースト全ての人々の家々の中央に、城塞都市の内側の中央から北に、東面もしくは北面して王宮が、建設される。王宮は城塞都市の全敷地の9分の1(9番目の正方形)を占める。
7.王宮の北寄りの東側:王の教授達、司祭、生け餐えの場所、貯水池、首相が敷地を占める。
8.南寄りの東側:王室の調理場、象舎、町屋が敷地を占める。
9.隣接した東側:香水・花輪・穀物・酒を扱う商人は、職人やクシャトリアと共に、家を構える。
10.東寄りの南側:金庫、大蔵省、様々な工場が場所を占める。
11.西寄りの南側:森の産物を扱う町屋、兵器庫が建てられる。
12.南に:市・商業・工業・軍の指導監督者が、調理米・蒸留酒・肉を売買する人と同時に、それに加えて、売春婦・音楽家・Vaisyaが住む。
13.南寄りの西に:ロバ・ラクダの小屋と作業場
14.北寄りの西に:乗り物と戦車の小屋
15.西に:毛糸・木綿の糸・バンブーマット・毛皮・鎧・武器・手袋を作る職人が、Sudraと同時に、住まいを構える。
16.西寄りの北に:店舗と病院
17.東寄りの北に:金庫と牛・馬小屋
18.北に:都市の王の主護神、鍛冶屋、宝石職人は、Brahmanと同時に居住する。
何人かの学者が上記に文書を用いてヒンドゥーの理想都市の復元を試みている。イギリスのカーク(W.Kirk)*7、インドのベグデ(P.V.Begde)*8、日本の応地利明*9である。
応地案は、マンダラを基にしたものである。応地は、ヒンドゥー教の世界観から構成されるマンダラを考慮にいれなければ、インドの都市を理解することはできない、としヒンドゥー教の聖典の一つである『ビシヌ・プラナ(The Vishinu-purana)』(ヒンドゥー教の聖典の一つ)をあげている。「世界はジャンブ(Jambu)大陸を中心に同心円状に7つの大陸から成っている。各大陸は、円形の海に囲まれている。このことから、世界は7つのリング状の大陸と、同数の大陸の間にある海から成っているということが分かる。ジャンブ大陸は、円盤状の形で直径は100,000yojyanas(約1500,000m)である。ジャンブの中央に、メル山が標高84,000ヨジャナス(yojanas)(約1260,000m)でそびえている。メル山は、直径32,000ヨジャナス(約480,000m)の平らな頂上を持っている。」
また、応地はヒンドゥー教では、都市は世界の縮小モデルであると見なされていた、としている。
先に『マナサラ』でみたように、インドの都市計画はバストゥ・プルシャ・マンダラをベースとして行われており、応地案の中の先の2つの復元に対する批判も妥当であると考えられる。したがて、本稿では応地案からインドの理想都市の構成を読み解く。
応地は、復元案に64区画からなる「マンドゥカ(Manduka)」(『マナサラ』では「Candita」)を用いている。それによると、
1.中央は寺院
2.その外の北東は王宮、その他は4階級の住区
3.その外は公共施設・政府の施設。
4.一番外側は、私的な施設。商店が多い。各階級の住居がある。東は貴族・南はスードラ・西は武士。
応地によると同様のコンセプトが、中国の『周礼考工記』(図1-2-13)にも見られるという。共通の特徴として、①都市の形態:4つの角を持つ正方形 ②門:各辺3つ、計12個の門 ③道路体系:2組もしくは3組の道路が東西・南北に走るグリッドパターン ④市域の分割:16の正方形に分割される ⑤ゾーニング:中央と2~3のベルトがそれを囲む。をあげている。違う点としては中央がインドは寺院であるのに対して、中国は王宮や政府の建物である事をあげている。
*1 P.K.Acharya. ARCHITECTURE OF MANASARA MANASARA SERIES 4. Delhi 1934.を参照した。
*2 村田治郎『新訂 建築学体系 4-Ⅱ 東洋建築史』彰国社 昭和32年
*3 Shamasastry,R.,trans. 1976. Kautilya's Arthasastra. 8th ed. Mysore:Mysore Printing and Pubulishing house.1st ed.,1915
*4 M.A.ANANTHALWAR AND ALEXANDER REA. Indian Architecture Vol.1 Architectonics.Delhi 1980.の目次は異なっている。
*5 野口英雄「ヒンドゥの建築寸法(ヴァーストゥ・マーナ)」日本建築学会学術梗概集昭和58年9月
野口英雄「マーナサーラにみるインドの建築寸法」日本建築学会近畿支部研究報告集昭和57年6月
*6 P.K.Acharya.Indian Architecture MANASARA SERIES 2.P134-159. Delhi 1934. ・黒河内宏昌
*7 Kirk,W.1978.Town and country planing in ancient India according to Kautilia's Arthasastra.Scottish Geographical Magaszine 94.
*8 Begde,P.V. Ancient and medieval town planning in India. New Delhi 1978.
*9 OHJI Toshiaki. The "Ideal" Hindu City of Ancient India as Discribed in the Arthasastra and the Urban Plannning of Jaipur.
3. インドの空間構成 -都市と王宮-
都市
古代インドの都市の特徴として、応地*1は準グリッドパターンである事があげられるとしている。しかし、シルカップのビルマウンドは、準グリッドパターンの都市計画ではない。アーリア人の侵入以前のインダス文明の都市計画は準グリッドパターンの都市計画であり、またギリシャの影響を受けて建設されたと言われるシルカップのタキシラはグリッドパターンの都市である。
実際に建設された都市は、様々な要素が関係し必ずしも都市理念が反映されているとは限らない。しかし、建築書においてはその建築理念は明確に表される。先述の『シルパ・シャストラ』と『アルタシャストラ』からインドの都市理念を考察する。先に、『アルタシャストラ』によるインドの理想都市の復元案を示した。しかし、『マナサラ』の内容とは異なる点も多い。『アルタシャストラ』は王都に関する書であるので、『マナサラ』の王都のパターンとの比較によりインドの都市構造を明らかにする。比較には『マナサラ』の「ラジャダニヤ(Rajadhaniya)」(図1-2-4)と呼ばれるタイプの王都を用いいる。「ラジャダニカ」は9階級*1ある王の位の中で、最高位の王の都に用いられるパターンであり、ここに王都の理想像が描かれていると考えられる。
『マナサラ』と『アルタシャストラ』で異なる点は、
①道路体系:
・『マナサラ』では完全なグリッドパターンではない。
②ゾーニング:
・『マナサラ』では中央の広場に面して王宮が北西に立地するが、『アルタシャストラ』では王宮は中央には位置しない。
・『アルタシャストラ』の場合、内域帯には4階級すべての住居が設けられるのに対し、『マナサラ』ではクシャトリアとヴァイシャの住居のみ。
③都市施設
・『アルタシャストラ』の場合、城門は12であるのにたいし『マナサラ』では4。
・『マナサラ』には市場の位置が示されているが、『アルタシャストラ』には示されていない。
④都市形態:
・『アルタシャストラ』の場合正方形であるのに対して、『マナサラ』は東西に長い長方形。しかし、これは応地案がマンダラを参考に復元されたものであるからである。他の2案は東西に長い長方形である。応地の描いた『アルタシャストラ』の復元案はあくまでも理念型であると考えられる。
共通点、
①道路体系:
・都市の中央で道が交わり四辻を形成する。
・都市の外周路がある。
②ゾーニング:
・中間帯にある施設の構成、例えば貯水池等。
・全部で同心の4つの帯から構成される。
③都市施設
・都市の中央に寺院がある。
・城壁と濠に囲まれている。
以上の比較から分かるインドの理想都市の構造は、都市の中央で交わるメイン・ストリートがあり、入れ子状のゾーニングがなされている、ということである。また、都市の中心には寺院があり、王宮は中心付近に位置する。
王宮
王宮には王の階級別に9つのタイプ*2がある。ここでは、一番小さいアストラグラヒン王の王宮を例として考察する。規模の大きな王宮も基本的な構成は同じである。『マナサラ』に書かれている記述に従って、「パルマサディカマンダラ(Parama-Sadhika)」上に王宮を復元する。王宮の復元図を図1-3-1に示す。マンダラとはヒンドゥー教の世界モデルである。マンダラの取り方にはいくつか方法があるが、この図では一つの例を示した。寺院の位置は北東とされているだけでマンダラ上の正確な位置は示されていない。王宮は、外陣と内陣から構成されており、内陣・外陣別にマンダラが適用される。規模の大きな王宮では、内陣は一つの区画とし建設されるが、外陣はいくつかの区画に分割される。
形態上の特徴としては、①幾重もの区画から構成されている、②寺院は北東角に設けられる、ことがあげられる。
インドの王宮の空間構成上の特徴として、入れ子構造ということがあげられる。世界の中の都市、都市の中の王宮、王宮の中の内陣にそれぞれマンダラが適用される。都市、王宮、内陣がそれぞれ完結した世界を構成しているのである。
*1 OHJI Toshiaki. The "Ideal" Hindu City of Ancient India as Discribed in the Arthasastra and the Urban Plannning of Jaipur.
*2 9階級の王とは上から順に、「チャクラヴァルティン(Chakravartin)」、「マハラジャ(Maharaja)」、「ナレンドゥラ(Narendra)」、「マンダレサ(Mandalesa)」、「パルシニカ(Parshinioka)」、「パッタドゥハラ(Pattadhara)」、「マンダレサ(Mandalesa)」、「パッタブハジュ(Pattabhaj)」、「プラハラカ(Praharaka)」、「アストラグラヒン(Astragrahin)」である。