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2025年5月4日日曜日

裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説, Ⅱ 裸の建築界・・・建築家という職能 第5章 近代日本の建築家と都市計画、建築資料研究社,2000年3月10日

  第5章 近代日本の建築家と都市計画

 

 5-1 社会改良家としての建築家

 日本の建築家が都市を対象化し始めるのは、明治末から大正初めにかけてのことである。当時の『建築雑誌』*や『建築世界』*といった雑誌を見ると、盛んに住宅や都市の問題が建築家によって語られ始めている(註1)。

 「国家を如何に装飾するか」*をめぐる「議院建築問題」(一九一〇~一一年)で明け暮れていた明治末年から大正期に入ると日本建築学会の合同講演会のテーマはがらりと変わる。「都市計画に関する講演」(一九一八年)、「都市と住宅に関する講演」(一九一九年)と都市と住宅がはっきりメイン・テーマに据えられるのである。しかし、その関心たるやそう広がりをもったものではなかった。稲垣栄三(註2)が「大正時代の建築は、・・・建築に関する法律の早急な制定という目標を見定め、この課題に取り組むのである。一九一九(大正八)年に、「市街地建築物法」*と「都市計画法」*が制定されるまで、建築家の社会政策的な関心はほとんどこの二つの法規の成立という目標にだけ向けられたということができる。」と書いている通りである。

 水野錬太郎(内務大臣)、田尻稲次郎(東京市長)、藤原俊男(東京市参事会員)、池田宏*(内務書記官都市計画課長)、関一*(大阪市助役)、福田重義(東京市技師)など、一線の行政責任者、担当者を講演者に含む先の日本建築学会の合同講演会には、大正期における建築家の住宅、都市に対するアプローチの水準がほぼ反映されていると考えられるが、欧米の現況についての情報の報告と建築条例の制定が話題の中心である。当時、建築条例の制定については、建築家として、内田祥三*が最も包括的に整理を行っている。用途地域制については笠原敏郎*がまとめている。池田宏、片岡安*の膨大な論文がまたこの時期のひとつの成果である。

 「大正時代の建築家の善意は、一九年に公布された二つの総合的な法規を成立させるまでに止まっていて、それ以上に、実際に都市を改造し住宅を供給する事業には及んでいない。大正初期にはほとんど普遍的になった社会的関心は、建築家を未知の世界にかりたて、従来関心の対象とならなかった都市計画や住宅を、旺盛な知識欲をもって処理したのであるが、そこから彼らの行動の原理を導き出したわけではないのである。」と稲垣は総括する。

 それでは、建築家は、その後の歴史において、実際に都市を改造し、住宅を供給する事業に取り組んで行くことになったのか。あるいは、自らの行動の論理を導き出し得たのか。

 興味深いことに、法規制のみを自己目的化しようとしているかにみえた当時の建築家のあり方に警告を発する一人の建築家がいた。皇居前の明治生命館*○、大阪中之島公会堂○*などの設計で知られる岡田信一郎*である。

 「建築家の或る者は、学者である、技術者である、其故に彼は条例の立案編纂に盡力しさえすればよい。決して政治的弥次馬や壮士のやうに、社会的事項の条例実施の事に関与する必要はない。其実施は為政者のことである。決して建築家の参与す可き事ではない。建築家は其嘱を受け条例を立案すれば足ると為すかも知れない。私は是等の高遠にして迂愚なる賢者に敬意を表する。而して彼等に活社会から退隠されんことを勧告する」(註3)。岡田には、「社会改良家としての建築家」(註4)という理念があった。

 「建築家は美術家の一であると、すまし反って居るのには、建築其物があまり社会的で在り過ぎる。而して私の考えて居る建築と云ふのは、其んな高踏的態度を許さない、もっと人生に密接の連関したものである。・・・吾々が建築家として実際に建築の事を考へる時に、其美を独り他の社会活動と離して考える必要はない。安寧実用に基く建築の性質上他の社会活動と連関して考えらるべきである。而して美術が、個人の表現であるならば、又其が社会の表現であると見る事も不合理では無くなって来る。此点から、美術の改進は社会改良の一面である。併し、私は、家にはもっと卑近な、現実的な問題を取扱いたいのである。」

 大正期の建築論の、美術か技術か、用か美か、という二元論的議論*の平面に対して、「建築を社会活動の入れ物」と捉える岡田信一郎は全く新しい認識を提出していた。彼にとって、条例をつくっただけでは何の意味もない。問題はその運用である。彼は、その運用における困難を予見し、憂慮する。例えば、建築家の養成が急務であることを訴えるのである。

 実際、条例を制定しても都市行政の実際は制定者をいらいらさせるものであった。「吾人は強ひて現時の我国都市行政の組織を罵らんとするものではない。けれども事実に於て其成績思はしからさるは、全く市理事者の処置宣しきを得ざるを証明し、又之を監督しつつある市会議員の無責任を暴露するものではないか。」(註5)と片岡安をして語気を荒げさすのが実態だったのである。

 しかし、この苛立ちはその後も深く自らを問うこと無く繰り返され続けてきたようにみえる。

 

  5-2 近代日本の都市計画

 日本の建築家が都市を対象化し、具体的なアプローチを始めるのは以上のように明治末から大正期のことであり、都市計画というジャンルが「建築学」の領域として位置づけられるのは少し後のことであるが、都市計画そのものの起源はもちろんそれ以前に遡る。一般的には、一八八八(明治二一)年の東京市区改正条例*の公布と翌年の同条例施行および市区改正の告示が日本の近代都市計画の始まりとされる。日本の都市計画は既に百年余りの歴史をもっていることになる。   

 その歴史を振り返る時、石田頼房による時代区分がわかりやすい(註6)。石田による時代区分を前提として、今日に至る日本の都市計画の歴史を区分すれば以下のようになる。

 

 第一期 欧風化都市改造期(一八六八~一八八七年)

 第二期 市区改正期(一八八〇~一九一八年)

 第三期 都市計画制度確立期(一九一〇~一九三五年)

 第四期 戦時下都市計画期(一九三一~一九四五年)

 第五期 戦後復興都市計画期(一九四五~一九五四年)

 第六期 基本法不在・都市開発期(一九五五~一九六八年)

 第七期 新基本法期(一九六八~一九八五年)

 第八期 反計画期(一九八二年~一九九五年)

 第九期 地域まちづくり計画期(一九九五年~)

 

 第一期の欧風化都市改造期は、銀座煉瓦街建設*(一九七二年)○、日比谷官庁集中計画*○(一八八六年)などを経て、東京市区改正条例へ至る日本の都市計画の前史である。この過程については、藤森照信*の『明治の東京計画』(註7)が詳しく光を当てるところだ。第二期が一八八〇年からの区分とされるのは、既にその動きが始まっていたからである。以下についても同様だ。こうした時代区分はある年を閾として截然と区切れるものではない。

 第三期において、東京市区改正土地建物処分規則(一八八九年)などを踏まえて、都市計画法、市街地建築物法が制定(一九一九年)され、戦前期における都市計画制度が一応確立される。この時期の震災復興都市計画事業(一九二三年)は、日本の都市計画にとって極めて大きな経験であったといっていい。同潤会による不良住宅地区改良事業、住宅供給事業、また、土地区画整理事業の既成市街地への適用など、具体的な事業展開がなされるのである。

 一五年戦争下の第四期は、ある意味では特殊である。国土計画設定要綱(一九四〇年)にみられるように、国土計画、防災都市計画などが全面的に主題となった時期である。しかし、都市計画史の上では、決して空白期でも停滞期でもない。数多くの実験的な試みが行われた時期であり、戦後へ直接つながるものを残している。極めて大きな経験となったのは、後に触れる植民地における都市計画の実践であった。

 戦後については、戦後復興期の経験の後は、一九六八年の新都市計画法、一九七〇年の建築基準法改正*が画期になる。第五期の戦後復興都市計画期を経て、日本は高度経済成長期を迎える。この十数年で日本の町や村は大きくその姿を変えることになる。第六期は、基本法不在の都市開発期である。東京オリンピック*で首都東京が大きく変貌し、大阪万国博*(エキスポ七〇)の会場設計に未来都市の姿が夢見られたそうした時代である。大都市近郊には、数多くのニュータウン建設*が開始されたのが一九六〇年代である。 

 七三年、オイルショックが起こった。建築、都市計画に関わるパラダイムが転換する。量から質へ、新規開発から既存市街地の再開発へ、高層から低層へ。第三次全国総合開発計画(三全総)*は、大規模河川の流域を単位とする定住圏構想をうたった。しかし、八〇年代に入って、風向きが変わる。

 中曽根内閣のもとで、米国ではレーガノミックス、英国ではサッチャーリズムと呼ばれた既成緩和策(デレギュレーション)が取られた。そしてバブル経済の狂乱が日本列島を襲った。石田によれば反計画期(第八期)である。

 バブル崩壊後、今日に至る時代は模索期である。環境問題、エネルギー問題、資源問題などが顕在化することにおいて、明らかにバブル期とは異なる。地球環境計画の時代ということになるかもしれない。また、地域社会をベースとするまちづくりの時代ということになるかもしれない。阪神淡路大震災(一九九五年)が決定的な画期となる。願望を込めて予測すれば、タウン・アーキテクトが根付く時代になるであろう。

 

 まず問題は、以上のような日本の都市計画の歴史を貫いている課題である。建築家が都市に目覚めて以降、具体的なアプローチが様々に展開されてきたが、残されている課題は依然として多い。否、もしかすると、建築家が独自の行動原理を都市というフィールドから引き出してきたかどうかは大いに疑問なのである。

 石田頼房は、歴史を貫く日本の都市計画の課題として、まず、外国都市計画技術の影響をあげる。外国とはもちろんヨーロッパの国々である。明治期のお雇い外国人による都市計画技術や建築技術の直接導入以降、常にモデルは欧米にあった。オースマン*のパリ改造*と市区改正、ナチスの国土計画理論*と戦時体制下の国土計画理論、グレーター・ロンドン・プラン*と首都圏整備計画*、戦後でもドイツのB(ベー)-プラン(地区詳細計画)*と地区計画制度*(一九八〇年)など、ほとんどがそうである。日本のコンテクストの中から独自の手法や施策が生み出されるということはなかったのである。

 さらに、もう少し基本的なレヴェルで日本の都市計画の課題を石田は挙げる。すなわち、都市計画の主体の問題、都市計画の財源の問題、土地問題、所有権と土地利用規制の問題、都市計画の組織の問題である。

 都市計画の主体は誰なのか。誰が都市計画を行なうのか。国なのか地方自治体なのか、行政機関なのか住民なのか。住民参加論が様々に展開されてきたのであるが、その実態たるや薄ら寒い限りである。国の補助金事業を追随する形がほとんどで、決定プロセスは不透明である。また、ほとんどの施策は中央で発想されている。

 都市計画の財源はどこに求められるか。何でまかなうのか。受益と負担の問題は一貫する問題である。都市計画事業が生み出す開発利益の帰属をめぐっては、政、財、官をめぐって癒着の構造があり、実に曖昧なままである。

 土地問題、あるいは土地所有権と利用権、土地の公共性と私有権、所有権と土地利用規制の問題は、都市計画の基本的問題であり続けている。土地私有制は資本主義社会の基本である。土地の売買、建設は基本的には自由である。しかし、都市計画が都市計画として成立するためには、土地の利用についての何らかのコントロールが可能でなければならない。そのためには理念が必要である。例えばその前提となる公共性の概念は日本において極めて未成熟であり、曖昧である。そうした状況に西欧の都市計画モデルを導入するところにまず混乱の源がある。ある意味で、日本の都市のあり方を規定してきたのは、土地への投機行動である。そして、それを規制する法制度である。極端にいうと、そのいたちごっこがあるだけで、結果として無秩序な誠に日本的な都市が出来上がってきたのである。

 都市計画の組織の問題も以上から窺えるように曖昧である。もちろん、その根底には日本の地方自治体の問題がある。ジョブ・ローテーションということで都市計画を担当する部署に一貫性がない。また、都市計画の決定に様々な主体が絡み合い、その決定プロセスを不透明にする構造は変わらず存在してきたのである。

 

 5-3 虚構のアーバン・デザイン

 戦後復興から今日に至る過程をまず一気に振り返ってみよう。建築家にとっての都市と建築をめぐる問題は、上述のように一向に解かれていないのである。

 戦後まもなく日本の建築家にとっての全面的な主題は戦後復興であった。具体的な課題としての都市建設、住宅建設が焦眉の課題であった。戦災復興都市計画には数多くの都市計画家が参加している。

 戦災復興院は、典型的な一三の都市について、建築家に委嘱して調査計画立案作業を行った。一九四六年の秋から夏にかけてのことである。高山栄華*が長岡市、丹下健三が広島市、前橋市、武基雄*が長崎市、呉市などの計画立案に当たった。

 また、東京都は、一九四六年二月に東京都復興都市計画コンペを銀座、新宿、浅草、渋谷、品川、深川といった地区をとりあげて行っている。新宿復興コンペで一等当選したのが内田祥文*、祥哉*兄弟のグループである。この新宿地区計画は淀橋上水場を含んでいたのであるが、東京都庁舎を含むオフィス街を計画しており、今日の新宿新都心の姿を先取りしているのが興味深い。また、早稲田、本郷、池袋、三田の四地区において文教地区計画が立案されている。

 戦後まもなくの東京における復興計画についてこうしたコンペの企画を行ったのは石川栄曜*(一八九三~一九五五年)である。彼は、一九三三年以来、東京都の都市計画を手掛けてきたが、知られるように戦前戦後を通じた都市計画界の最大のイデオローグである。驚くことに、一九四五年八月二七日には、石川が課長をしていた都市計画課は「帝都再建方策」を発表している。東京戦災復興の公式の計画である「東京戦災復興計画」は、一九四六年四月に街路計画・区画整理が、九月に用途地域が、一九四八年七月に緑地地域が計画決定されていくが、それと平行して、いわば復興機運を盛り上げるために復興コンペが企画されたのであった。

 この復興コンペを含む「東京戦災復興都市計画」は、ある理想の表現であった。結果として、実施されなかった計画であり、そうした意味では未完である。否、現実の過程は、その計画とは大きく異なった方向に展開してきたのであった。白紙の上にある理想の図式を描くスタイルがここでも踏襲された。そのモデルは、しかも、ヨーロッパのものであった。都市計画制度も都市計画技術もむしろ戦前との連続線上に前提されていた。欧米諸国が新しい都市計画制度を模索する取り組みを見せたのに対して、日本の場合、あまりにも余裕がなかったのである。

 朝鮮特需によってビル・ブームが始まり、戦災復興が軌道に乗ると建築家の都市計画への関心は相対的に薄れていく。理想の計画案より、高度経済成長へむかうエネルギーが都市の形態を支配して行くのである。こうして、関東大震災直後に続いて、日本の建築家・都市計画家は、理想の都市計画を実践する機会をまたしても失ったのだ、といわれることになる。

 建築家が再び都市への関心を露にするのは、一九六〇年前後のことである。盛んに都市のプロジェクトが建築家によって描かれるのである。菊竹清訓*の「海上都市」、「塔状都市」、黒川紀章*の「空間都市」、「農村都市」、「垂直壁都市」、槙文彦・大高正人*の「新宿副都心計画」、磯崎新の「空中都市」、そして丹下健三の「東京計画1960」などがそうだ。また、メタボリズムをはじめ様々に都市構成論が展開されるのである。アーバン・デザインという領域の確立、都市デザインの方法および発展段階についての整理、建築への時間性の導入とその技術化、槙文彦●の「群造形論」、大谷幸夫*●の「Urbanics試論」、磯崎新の「プロセス・プランニング論」、原広司*○の「有孔体理論」、西沢文隆の「コートハウス論」などがそうだ。六〇年代に至って、建築家が一斉に「都市づいて」行った過程とその帰結については『戦後建築論ノート』(註8)で詳しく書いた。

 「西山夘三は、「六〇年代は日本の建築家が都市に対して眼を開き、かつて戦災のあとの絶好(?)の機会に能力不足で果たせなかった責任の償いをし、〈所得倍増計画〉という華やかな建設のかけ声にのって、大きな成果をかちとる時代であるーーといった期待が語り合われ、少なからぬ人々が意気にもえている」と書いていた。おそらくそうであった。戦時中の中国大陸での経験を別とすれば、建築家は絶好の都市(都市計画)への実践の機会を戦後まもなくに続いて再びもったといえるであろう。」

 しかし、帰結はどうか。

 「アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、建築家の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。・・・しかし、都市へのコミットの回路として、こうしたスタイルが衝撃をもち得たのは、六〇年代初頭のほんのわずかな幸福な時期に過ぎなかった。未来都市のプロジェクトは、ほぼこの時期に集中して提出されたのみで、急速に色あせていくのである。一面から見れば、六〇年代の過程は、彼らの構想力が現実化されていく過程であったといえよう。彼らのプロジェクトが色あせて見え出したのは、現実の過程がそれを囲い込み、疑似的な形であれ現実のコンテクストのなかでそれなりの形態をあたえることによって、追い越し始めたからである。それをものの見事に示したのが、大阪万国博・Expo'70であり、沖縄海洋博であった。・・・」*

 

 5-4 ポストモダンの都市論

 オイルショック*とともに建築家の「都市から撤退」が始まる。若い建築家たちの表現の場は、ほとんど住宅の設計という小さな自閉的な回路に限定されていく。そうした状況を原広司は「最後の砦としての住居」と比喩的に呼んだ(註9)。

 大規模なニュータウンの基本設計など具体的な仕事が当該機関に委ねられ、実践の機会が失われたということもある。しかし、建築家が自ら都市への回路を閉ざした点が大きい。自らの方法論やプロジェクトの提示によって引き起こされる現実の様々な衝突や軋轢を引き受けようとする意欲も余裕もなくなるのである。そういう意味では、建築家たちは二重に都市への回路を閉ざされ、また自ら閉ざしていったのであった。その事情は今も猶変わらない。

 ところが、再び、都市の時代がやってくる。バブル経済の波が日本列島を襲うなか、東京をはじめとする日本の都市は大きく変容することになるのである。建築家は、またしても、また、無防備にも、都市へと駆り立てられていくことになった。民間活力導入のかけ声のもと規制緩和による「反計画」の時代が始まる。建築家の無防備さも、無手勝流も「反計画」の時代に再び受け入れられたように見えたのであった。

 建築家が都市への具体的実践の回路を断たれる一方で、都市への関心はむしろ次第に大きくなっていく。東京論、都市論の隆盛はその関心の大きさを示している。その背景にあったのがバブル都市論である。膨大な金余り現象からの様々な都市改造計画への様々蠢きである。

 バブル期の都市論は、およそ三つにわけることができる。ひとつは剥き出しの都市改造論であり、都市再開発論である。なぜ、都市改造なのか、特に東京をめぐってははっきりしている。一言でいえば、「フロンティアの消滅」である(註10)。一七世紀の初頭には東国の寒村にすぎなかった江戸が世界都市・東京へ至ったその歴史を振り返る余裕はないが、単純にその平面的広がりを考えても過飽和状態に達しつつあることは明かなことだ。東京一極集中がますます加速されるなかで、都市発展のフロンティアが消滅しつつある。そこで、まず求められたのがウオーター・フロントである。また、未利用の公有地である。そして、地下空間であり、空中である。空へ、地下へ、海へ、フロンティアが求められた。そして、それが全国へと波及して行ったのである。

 もうひとつの都市論の流れは、レトロスペクティブ(回顧趣味的)な都市論である。都市化の進展によって失われた古きよき都市の伝統や記憶が次々に掘り起こされていった。都市の中の過去が、自然が現代都市への批判として対置されたのである。もちろん、そうした素朴な回顧趣味は都市改造のうねりに巻き込まれてしまう。水への郷愁がストレートにウオーターフロント開発へ結び付けられたことがそれを示している。

 さらにもうひとつの都市論の流れは、いわゆるポストモダンの都市論である。すなわち、いまあるがままの現代都市、とりわけ、国際化し、ますます人工環境化し、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す仮設都市、東京をそのまま肯定し、愛であげる都市論である。ただただ、今都市が面白い、東京が面白いという都市論である。「純粋観察」を標榜する路上観察の流れもこの系譜である。このポストモダンの都市論の系譜は、レトロスペクティブな都市論をすぐさま取り込む。ポストモダン・ヒストリシズムと言われた皮相な歴史主義的なポストモダン・デザインが都市の表層を覆い出したのである。

 こうしてあえて三つの都市論の流れを区別してみてわかることは、全体としてそれぞれがつながっていることである。レトロスペクティブな都市論は一見都市改造への悲鳴であるようでいて、ポストモダンの都市論を介して過去の都市を疑似的に再現する回路に送り込まれたし、ポストモダンの都市論は、都市改造の様々な蠢きをその華やかさのうちに包み込むものであった。

 

 5-5 都市計画という妖怪 

 そうしてバブルが弾けた。再び、都市からの撤退の時期を迎えつつある。以上簡単に振り返ってみたように、建築家と都市の関わりは、震災、戦災、高度成長経済、バブル経済による建設と破壊の歴史とともにあった。再び、バブルが訪れるまで首をすくめてまつだけなのであろうか。

 おそらく、そうではあるまい。繰り返し繰り返し同じ様な総括がなされるところには致命的な問題点があるとみていい。都市と建築とをめぐるより根源的な方法とアプローチが求められていることが意識される必要がある。

 六〇年代における建築家による様々な都市構成論の模索は何故現実のプロセスの中で試され、根づいていくことがなかったか。ひとつには建築家の怠慢がある。都市計画家、プランナーという職能が未だ成立しない状況において、建築家は自らの理論や方法を実践するそうした機会を自らも求めるべきであった。しかし、そう指摘するのは容易いが、そんなに簡単ではない。都市計画の問題はひとりの建築家にどうこうできるものではないからである。

 日本の都市計画の問題はまずその仕組み自体にある。その一貫する問題は既に述べた通りであるが、端的に言えば、その仕組みが不透明でわかりにくいことである。

 第一、そのわからなさは法体系の体系性の無さに現れている。都市計画に関わる法律と言えば、都市計画法や建築基準法にとどまらず、およそ二百にも及ぶ。それぞれに諸官庁が絡み、許認可の権限が錯綜する。都市計画家であれ建築家であれ、都市計画関連法の全てに知悉して都市計画を行なうことなど不可能である。また、都市計画関連法の全体がどのような都市計画を目指しているのか、誰も知らないのである。

 否、都市計画関連法の全体が自己表現するのが日本の都市の姿だといってもいい。その無秩序が法体系の体系性のなさを表現しているのである。

 第二、都市計画といっても何を行なうのか、その方法は必ずしも豊かではない。都市計画法の規定する内容も、建てられる建築物の種類やヴォリュームを規制するゾーニングの手法が基本である。誤解を恐れずに思い切って言えば、容積率や建ぺい率の制限、高さ制限、斜線制限*、日影制限などのコントロールと個々の建築のデザインとは次元の違う問題である。本来、個々の建築のデザインは近隣との関係を含んでおり、当然、都市計画への展開を内包しているべきものであるけれど、一律に数字で規制することでその道を予め封じられているともいえるのである。

 フィジカルな都市計画の基本となる道路や河川などのインフラストラクチャーの整備や公共建築の建設をみると問題はさらに広がり、日本の政治経済社会の構造に関わる問題につながってくる。建築家ならずとも、都市計画というとうんざりするのは、そうした構造を思うからである。

 各自治体における都市計画も、各省庁の立案した補助金事業やある枠組みで決定された公共事業をこなすだけにすぎない実態もある。政官財の癒着といわれる構造の中で得体の知れない妖怪が蠢いている。そんな日本で建築家が無力感をもつとしても必ずしも責められないであろう。

 

 5-6 都市計画と国家権力ーーー植民地の都市計画

 こうして都市計画の得体の知れ無さを振り返るとき、時として、ある時代の都市計画が理想のものとして、また、可能性に充ちたものとして想起される。十五年戦争期の植民地における都市計画である。大連、奉天、新京(長春)、ハルピン、撫順、牡丹江、北京、上海、青島、京城、釜山、台北、高雄など、満州、中国、朝鮮、台湾の主だった都市で都市計画が実施されている。大同都市計画*、新京都市計画*など建築家も数多く参加したのであった。また、日本の都市計画法や市街地建築物法にならった法制度も施行されている。朝鮮市街地計画令が一九三四年六月に、台湾都市計画令が一九三六年八月に、関東州計画令が一九三八年二月にそれぞれ公布されたのであった。

 何故、植民地における都市計画が振り返って着目されるかというと、理念がストレートに実現されようとしたかに見えるからである。それまでに蓄積されてきた都市計画の技術や理念を初めて本格的に実践する一大実験場となったからである。

 越沢明は、なかでも新京の都市計画を近代日本の都市計画史のなかで看過できない重要な意味をもつとする(註11)。近代都市計画の理念、制度、事業手法、技術は、日本では一九三〇年代にほぼ確立しており、新京における実践においてそれが明らかに出来るというのである。新京の都市計画については、越沢の作業によっても明かでないことも多い。ただ、理念の実現という観点からみて、その計画の意義が全体として評価されるのである。

 理念をある程度「理想的に」実現させたものは、植民地という体制である。強力な植民地権力の存在があって、初めて、理念の実現が可能となった。都市計画は、その本質において、あるいはその背後に、強力な権力の存在を必要とするのである。植民地の場合、その都市計画の目的ははっきりしている。先の都市計画法も、それぞれ似ているけれども、日本の都市計画法とは全く異なる。その目的とするのは植民地支配のための「市街地や農地の創設と改良」であって、公共の福利や生活空間の創造ではないのである。また、様々な規定の強制力は比較にならないものであった。土地の収用権は、台湾でも朝鮮でも総督が握っていた。区画整理事業にしても強制施行がほとんどである。

 植民地期の都市計画の実験を理想化することは、こうして、都市計画に付随する暴力的側面を覆い隠すことにおいて一方的である。しかし、都市計画の理念の実現に強力なリーダーシップが必要であること、私権を制限する強力な強制力が必要であること、都市計画が国家権力と不可避的に結びつくものであることを確認する上で、植民地における都市計画を振り返っておくことは無駄ではないであろう。

 日本の場合、象徴的なのは後藤新平*であろう。近代日本の都市計画の生みの親とも言われ、東京市長として帝都復興計画を実現しようとした後藤新平にとって、一方で、「機関銃でパリの街を櫛削る」といわれたオースマンが理想であった。しかし、植民地台湾、植民地満州における経験もまた決定的であった。都市計画のひとつの理想をそこで見たに違いないのである。後藤新平はいささかスケールが小さいかも知れない。結局は、帝都復興計画は挫折するのである。

 

 5-7 計画概念の崩壊

 「ミテランのいわゆるグラン・プロジェ*はパリにおいて、オスマンがやり残した部分を補完する作業であったというべきであろう」と磯崎はいう(註12)。首都を壮大に構築する企図は一九世紀の殆どの国家で見られた。国家権力と首都の都市計画の強力な結びつきは、そうした意味では一九世紀的だ。しかし、一九八九年のベルリンの壁の崩壊まで、それは続いたのだと磯崎はいう。ヒトラー、スターリン*、ミテランの首都計画がその象徴だ。しかし、国家というフレームが崩壊し、国境という障壁が無効になるにつれて、都市もまたその姿を消すのだ、というのが磯崎の直感である。

 確かに、国家権力を可視化し、国家理性を象徴する首都という概念は崩壊して行くだろう。強力な国家権力による都市計画のあり方を想起するのはアナクロである。根源的問題はその先にある。おそらく問うべきは近代的な都市計画の方法そのものである。

 「アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、建築家の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。」と書いた。その建築家のイメージは、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける神としての「世界建築家」のイメージである。それを支えるのは素朴な理想主義といっていいが、その理念はすぐさま唯一特権的な存在に結びつく。「世界建築家」を自認し、実践しようとしたのがヒトラーなのである。

 近代都市計画の理念を支えてきたのはユートピア思想である。その起源として挙げられるのは、オーエン*であり、フーリエ*であり、サンシモン*であり、空想的社会主義といわれたユートピア思想である。そして、その思想は社会主義都市計画の理念へもつながっていく。いま、社会主義国の「崩壊」が大きくクローズアップされるなかで、同じように問われるのが、社会主義の都市計画理論であり、また、近代都市計画の理論なのである。

 より一般的には、計画という概念そのものが決定的に問われているといってもいい。計画という概念はもちろん古代へ遡ることができる。しかし、われわれにとっての計画という概念はすぐれて二〇世紀的な概念とみていい。第○次五ケ年計画という形で、社会的意味をもって一つの流行概念になったのは今世紀、それも一九三〇年代になってからである。その発端にあるのがソビエトにおける経済五ケ年計画である。いうまでもなく、国家を主体とするそうした計画は資本主義諸国においても受け入れられていった。今、それが全面的に問われているのである。

 社会に対する働きかけの合理的な体系、一定の主体が一定の目的を達成するために合理的に統合された行動を行うための手段の体系が計画であるとして、主体とは何か(誰が誰のために働きかけるのか)、目的とは何か(何のために働きかけるのか、具体的な形で明確化できるのか)、手段とは何か(合理的客観的に評価できるのか)、そもそも合理的とは何か、社会主義が「崩壊」し、国家や民族というフレームが揺れる中で、全てが揺らぎ始めている。もちろん、計画という概念が依拠する世界観、例えば、数量的統計的世界認識や一元的尺度への還元主義への根底的懐疑が表明されてから既に久しいといっていい。ただ、必ずしも、それに変わる概念や手法を我々は未だ手にしていない。

 

  5-8 集団の作品としての生きられた都市

 ここでわれわれは再び全体と部分をめぐる基本的な問題へたち帰ることになる。全体から部分へか、部分から全体へか、部分の中の全体か、全体の中の部分か、都市と建築をめぐる、あるいは都市と住居をめぐる基本的問いである。

 都市計画の起源というとヒッポダモス*風の都市計画がまず挙げられる。このグリッド・パターンの都市計画は古今東西実に広範にみることができるのであるが、知られるようにギリシャ・ローマの都市計画には別の伝統がある。E.J.オーエンズによれば(註13)、都市を壮麗化し大規模な景観のなかに都市を構想するペルガモンに行きつく流れである。一方がグリッドという形で部分と全体に予め枠組みを与えるのに対して、他方は、自然の地形や景観を前提として、都市全体を記念碑化しようとする。もちろん、単純ではない。植民都市における実験としてヒッポダモス風都市計画が実践される場合、絶えず、危険性があった。都市の立地によっては、大規模な造成が必要となるからである(註14)。

 全体を予め想定した都市計画の伝統として、宇宙論的な都市の系譜がある。都市を宇宙の反映として考える伝統である。宇宙の構造を都市の構造として表現しようとするのが、例えば、中国や日本、朝鮮の都城であり、インドのヒンドゥー都市である。しかし、そうした理念型がそのまま実現されることはまずない。また、理念型に基づいて計画されても、大きく変容して行くのが常である。平安京や長安の変遷をみてもそれは明かであろう。

 王権の所在地としての「都」そして城郭をもった都市、その二つの性格を合わせ持つ都市、すなわち都城について、その都城を支えるコスモロジーと具体的な都市形態との関係をグローバルに見てみると、王権を根拠づける思想、コスモロジーが具体的な都市のプランに極めて明快に投影されるケースとそうでないケースがある。東アジア、南アジア、そして東南アジアには、王権の所在地としての都城のプランを規定する思想、書が存在する。しかし、西アジア・イスラーム世界には、そうした思想や書はない。また、都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、実践的、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ないのである。また、都市構造と理念型との関係は時代とともに変化していくし、理念型と生きられた都市は常に重層的なのである。

 もうひとつの都市計画の伝統を想起しておく必要がある。イスラーム都市の伝統である。イスラーム都市は迷路のような細かい街路が特徴的である。直線的ヴィスタはなく、全く幾何学的で、アモルフである。しかし、都市構成の原理がないかというと決してそうではない。全体が部分を律するのではなく、部分を積み重ねることによって全体が構成されるそんな原理がイスラーム都市にはある。極めて単純化していうと、イスラーム都市を律しているのはイスラーム法である。都市計画に関しては、道路の幅や隣家同士の関係など細かいディテールに関する規則の集積がイスラーム法にあるのである。もちろん、モスクやバザール(市場)など公共施設の配置や城壁の計画といった次元の都市計画はなされるのであるが、街区レヴェルを構成していく場合に予め全体像は必ずしも必要とされないのである。

 このイスラームにおける都市計画の原理はタウンアーキテクト制の構想において大いに参考になる。ディテールのルールの集積という、下からの発想に加えて、ワクフ(寄進)制度がある。篤志家が寄付するワクフによって公共施設が整備される。まちづくり基金の構想に活かせるだろう。とにかく、コミュニティ・ベースのまちづくりへのヒントがイスラーム都市には豊富にあるのである。

 以上のような前近代におけるいくつかの都市計画の伝統から示唆されることは何か。少なくとも言えることは、都市というのは計画されるものであると同時に生きられるものだということである。そのダイナミックな過程を組み込まない限り、あらゆる都市計画理論は無効であるということである。近代日本の都市計画の歴史が教える最大なものも、都市が無数の集団の作品であり、建築家の構想力や空間の創造も生きられてはじめて意味を持つということである。

 

 

 

註1 拙稿 、「初期住宅問題と建築家」 、『群居』創刊号、一九八三年四月。

註2稲垣栄三の『日本の近代建築』(上)(下)(SD選書、一九七九年)の「九 新しい目標としての都市と住宅」に詳しい。

註3 岡田信一郎、「建築條例の実施に就いて」、『建築世界』 一九一六.〇一

註4 岡田信一郎、「高松工学士に与えて『建築家は如何なる生を活く可きか』を論ず」、『建築画報』 一九一五.〇三

註5 片岡安、「都市計画と輿論の喚起」、『建築世界』 一九一九.〇四

註6 石田頼房、『日本近代都市計画の百年』、自治体研究社、一九八七年

註7  藤森照信、『明治の東京計画』、岩波書店、一九八二年

註8 拙稿 「第一章 建築の解体ー建築における一九六〇年代」 『戦後建築論ノート』、相模書房、一九八一年

註9 拙稿 「世紀末建築論ノートⅠ デミウルゴスとゲニウス・ロキ」 建築思潮 創刊号 一九九二年一二月

註10 拙稿 「ポストモダン都市・東京」  早稲田文学 一九八九年

註11 越沢明 『満州国の首都計画』 日本経済評論社 一九八八年

註12 磯崎新 「「都市」は姿を消す」 「太陽」 一九九三年四月

註13 E.J.オーエンズ 松原國師訳 『古代ギリシャ・ローマの都市』 国文社 一九九二年

註14 拙稿 「都市計画のいくつかの起源とその終焉」 『CEL』24 一九九三年六月


タウンアーキテクト論序説・・・建築家の居る場所 まちづくりの仕掛け人

 

目次                                                       

 

はじめに・・・裸の建築家

 

 Ⅰ 砂上の楼閣

 

◎第1章 戦後建築の五〇年                        

  1-1 建築家の責任

  1-2 変わらぬ構造

    a 都市計画の非体系性

    b 都市計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

    c 都市計画の事業手法と地域分断

  1-3 コミュニティ計画の可能性・・・阪神淡路大震災の教訓

    a 自然の力・・・地域の生態バランス

    b フロンティア拡大の論理

    c 多極分散構造

    d 公的空間の貧困 

    e 地区の自律性・・・ヴォランティアの役割

    f ストック再生の技術

    j 都市の記憶

 

◎第2章 何より曖昧な建築界

  2-1 頼りない建築家

  2-2 違反建築

  2-3 都市景観の混沌

  2-4 計画主体の分裂

  2-5 「市民」の沈黙

 

 Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能          

◎第3章 幻の「建築家」像                    

  3-1 公取問題                      

  3-2 日本建築家協会と「建築家」

  3-3 日本建築士会            

  3-4 幻の「建築士法」   

   3-5 一九五〇年「建築士法」

   3-6 芸術かウサギ小屋か

 

◎第4章 建築家の社会的基盤

  4-1 日本の「建築家」

  4-2 デミウルゴス 

  4-3 アーキテクトの誕生

  4-4 分裂する「建築家」像

   4-5 RIBA

  4-6 建築家の資格

  4-7 建築家の団体

    4-8 建築学科と職人大学

 

 Ⅲ 建築家と都市計画   

 

○第5章 近代日本の建築家と都市計画     

  5-1 社会改良家としての建築家

   5-2 近代日本の都市計画

  5-3 虚構のアーバンデザイン

  5-4 ポストモダンの都市論

  5-5 都市計画という妖怪 

  5-6 都市計画と国家権力ーーー植民地の都市計画

  5-7 計画概念の崩壊

  5-8 集団の作品としての生きられた都市

 

○第6章 建築家とまちづくり

  6-1 ハウジング計画ユニオン(HPU)

  6-2 地域住宅(HOPE)計画

  6-3 保存修景計画

  6-4 京町家再生論

  6-5 まちづくりゲーム・・・環境デザイン・ワークショップ

  6-5 X地区のまちづくり

 

 

 Ⅳ タウン・アーキテクトの可能性

 

○第7章 建築家捜し                                           

  7-1 「建築家」とは何か

  7-2 落ちぶれたミケランジェロ

  7-3 建築士=工学士+美術士

  7-4 重層する差別の体系

  7-5 「建築家」の諸類型

  7-6 ありうべき建築家像

  

○第8章 タウン・アーキテクトの仕事

  8-1 アーバン・アーキテクト

    a  マスター・アーキテクト

    b  インスペクター

    c  環境デザイナー登録制度 

  8-2 景観デザイン 

    a ランドシャフト・・・景観あるいは風景

    b 景観のダイナミズム    

    c 景観マニュアル

    d 景観条例・・・法的根拠

  8-3 タウン・アーキテクトの原型 

    a 建築主事

    b デザイン・コーディネーター

    c コミッショナー・システム

    d シュタット・アルシテクト

    e コンサルタント・・・NPO

  8-4 「タウンアーキテクト」の仕事

    a 情報公開

    b コンペ・・・公開ヒヤリング方式

    c タウン・デザイン・コミッティ・・・公共建築建設委員会

    d 百年計画委員会

    e タウン・ウオッチング---地区アーキテクト

    f タウン・アーキテクトの仕事

  8-5 京都デザインリーグ

 

 おわりに



 

2025年5月3日土曜日

裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説, Ⅱ 裸の建築界・・・建築家という職能 第4章 アーキテクトの社会基盤、建築資料研究社,2000年3月10日

  Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能

 

 第4章 アーキテクトの社会基盤

 

 4-1 日本の「建築家」

 日本で「建築家」というと一般にどんなイメージをもたれているのか。知っている「建築家」を挙げて下さいというとどんな名前が挙がるであろうか。ひと昔前なら、丹下健三*1あるいは清家清*2、ちょっと前なら黒川紀章*3、今なら安藤忠雄*4であろうか。建築界で著名な磯崎新*5や原広司*6、伊東豊雄*や石山修武*でも一般的にはどうか。驚くほど知られていないのではないか。

 古くは原田康子の『挽歌』*7、近くは渡辺淳一の『ひとひらの雪』*8のようにやたら格好いい「建築家」のイメージが流布されるが、実態はいささか薄ら寒い。日本にそんな格好いい「建築家」は果たしているのか。そもそも日本の「建築家」とは何か。

 一応日本では「建築士」の資格をもつのが「建築家」ということになるのかもしれない。「一級建築士」*「二級建築士」*「木造建築士」*を合わせると八八万人ぐらいになる*9(○表)。しかし、すべてが「建築家」というわけにはいかないし、そうした資格と関係なく「建築家」を自称し、あるいは周囲から認められている場合もある。「建築士」の資格をもった人材は、様々な場所に所属している。総合建設業や住宅メーカー、さらには様々な建材・部品メーカーなど建設産業に関わる諸分野、建築行政の分野などに、むしろ数多く分布する(表)。「建築士事務所」ということになると、「一級」「二級」「木造」合わせて、一三万社ぐらいになる*10。「建築士事務所」といっても、「大手組織事務所」から「アトリエ事務所」まで様々であり、組織の主宰者と組織内の「建築士」との違いもある。

 「建築士」に関わる団体には「日本建築士会」(連合会)*11「全日本建築士会」*12があるけれど、他に「日本建築家協会」(JIA)*13、「日本建築協会」*14がある。また、「日本建築事務所協会」*15がある。職能としての「建築家」の理念を掲げる団体が「日本建築家協会」であり、そこに所属するのが日本の「建築家」ということになるかもしれないが、所属しない「建築家」も少なくない。また、団体に加盟するかどうかが「建築士事務所」の質を実態として区別しているわけではない。

 「建築家」とは何かについて、明確な基準などないのである。建築に関わる全員が「建築家」を自称しうるし、また、定義によってはひとりも「建築家」などいないともいえる。そうしたなかで、「建築家」と非「建築家」(建築屋)を区別する機能を担っているように思えるのが、建築に関するメディア(建築専門誌)*である。建築ジャーナリズムに取り上げられ、そこに作品を発表することにおいて「建築家」として認知されるのである。また、「日本建築学会賞」などいくつかの顕彰制度*○が「建築家」のランク分けに関わっている。

 メディアも顕彰制度も様々に階層化されており、「建築家」は序列化される。しかし、全体としてその評価システムは閉じており、建築業界内の「建築家」という評価は一般に知られることがない。マスコミで、「建築」が取り上げられる場合、「建築家」の名前が示されることがないことが日本の「建築家」の危うさを示している。一般には「建築」ではなく「建物」(建造物)であり、それを建てるのは「建築家」でなく「施主(クライアント)」であり「建設業者」なのである。

 

 4-2 デミウルゴス

 「建築家とは・・・である」と、古来様々なことがいわれてきた。いくつか集めてみたことがある*16。アンブローズ・ビアス*17の『悪魔の辞典』は「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」*18などと皮肉たっぷりである。

 決まって引かれるのが、現存最古の建築書、ヴィトルヴィウス*19の『建築十書』の第一書第一章である。

 「建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」

 「建築家」にはあらゆる能力が要求される、とヴィトルヴィウスはいうのだ。

 「建築家」という職能は相当古くからあった。ごく自然に考えて、ピラミッドや巨大な神殿、大墳墓などの建設には、「建築家」の天才が必要であったはずだ。実際、いくつかの建築家の名前が記録され、伝えられている。最古の記録は紀元前三千年ということだ。例えば、故事によれば、ジェセル*王のサッカラ(下エジプト)の墓(ピラミッド複合体)は建築家イムヘテプ*20によるものである。もっとも、彼は単なる建築家ではない。法学者であり、天文学者であり、魔術師でもあった。

 伝説の上では、ギリシャの最初の建築家はクレタの迷宮をつくったダエダルス*21がいる。彼もただの建築家ではない。形態や仕掛けの発明家といった方がいい。ダエダルスというのは、そもそも技巧者、熟練者を意味する。

 「建築家」の原像としてしばしば召喚されるのがデミウルゴス*である。デミウルゴスを登場させたのはプラトンだ。

 「デミウルゴスは、プラトンが宇宙の創生を語るに当たって『ティマイオス』に登場させられた。宇宙は三つの究極原理によって生成する。造形する神としてのデミウルゴス、眼にみえぬ永遠のモデルとしてのイデア、存在者を眼にみえさせる鋳型のような役割をする受容器(リセプタクル)としての場(コーラ)。デミウルゴスは、可視的な存在としての世界を、イデアをモデルとしての場(コーラ)のふるいにかけた上で生成する役割を担わされている。」*22

 磯崎新の「造物主義」という論文は、デミウルゴス(という概念)*23の帰趨を論ずる形の西洋建築史の試みである。

 「デミウルゴスは、『ティマイオス』においては造物主、グノーシス主義においては神の使者、フィチーノにおいては芸術家、フリーメーソンでは大宇宙の建築家、ニーチェにおいてはツァラストラと姿を変えて語られてきた。そして、今日ではテクノクラートのなかにエイリアンのように寄生しているようにみうけられる。」*24

 デミウルゴスは、元来、靴屋や大工のような手仕事をする職人を指し、必ずしも万能の神のように完璧な創造をするわけではない。グノーシス主義においては「欠陥ある被造物」にすぎない。ここではオイコス(家)に関わる職人としてのオイコドモス、オイコドミケ・テクネ(造家術)と「アーキテクトニケ・テクネ」(建築術、都市術)の系譜を歴史に即して跡づけるべきなのであろう*25

 しかし、宇宙の創生神話と結びついたデミウルゴスのイメージは強烈である。根源的技術(アーキ・テクトン)を司る「建築家=アーキテクト」の概念にも確実にデミウルゴスの概念が侵入している。

 「建築家」は、すべてを統括する神のような存在としてしばしば理念化される。この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強い。ルネサンスの人々が理念化したのも、万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)としての建築家である。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ*26、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠であった。

 多芸多才で博覧強記の「建築家」像は今日でも建築家の理想である。近代建築家を支えたのも、世界を創造する神としての「建築家」像であった。彼らは、神として「理想都市」を計画することに使命感を抱くのである。

 そうしたオールマイティーな「建築家」像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。時々、誇大妄想狂的な建築家が現れて顰蹙をかったりする。「建築家」になるためには、強度なコンプレックスの裏返しとしての自信過剰と誇大妄想が不可欠という馬鹿げた説が建築界にはまかり通っている程である。A.ヒトラー*27がいい例だ。かって、「建築家はファシストか」と喝破した文芸評論家がいたけれど、「建築家」にはもともとそういうところがある。

 

 4-3 アーキテクトの誕生

 「建築家」の社会的な存在形態は、時代とともに推移していく。S.コストフの編んだ『建築家』*28という本が、エジプト・ギリシャ、ローマ、中世、ルネサンス、・・・と、各時代の建築家について明らかにしているところだ。その中では、ジョン・ウイルトンエリーがイギリスにおける職業建築家の勃興について書いている*29

  イギリスで最初に自らを建築家と呼んだのは、イニゴー・ジョーンズ*30(一五七三ー一六五二年)ではなくてジョン・シュートである。一五六三年のことだ。その出自は定かではないが、イタリアで学んだらしい。彼は、ヴィトルヴィウス*31、アルベルティ*32、セルリオ*33を引きながら、ルネサンスの普遍人としての「建築家」を理想化する。描画、測量、幾何学、算術、光学に長けているだけでなく、医学、天文学、文学、歴史、哲学にも造詣が深いのが「建築家」である。ウイルトンエリーは、シュートの理想が受け入れられる社会的背景を明らかにした上で、まずはサーヴェイヤー*が生まれてくる過程を跡づける。フリー・メイソンのロバート・スミッソン*などの名前が最初期のサーヴェイヤーとして知られる。そして、イニゴー・ジョーンズの時代が来る。

  イニゴー・ジョーンズは、知られるようにもともと仮面劇のデザイナーである。王室の知遇を得てジェームズ一世*のキングス・サーヴェイヤーになる。その結果、グリニッジのクイーンズ・ハウスやコベント・ガーデンのセント・ポール教会など多くの建築を手掛けることになるのであった。このサーヴェイヤーとは何か。アーキテクトとどう違うのか。

 日本語では、監督、調査士、測量士、鑑定士、検査官などと様々に訳される。クオンティティ・サーヴェイヤーというと積算士のことである。家屋調査士、不動産鑑定士、測量技師、積算士、現場監督いずれも建築の実務に関わる。サーヴェイ(測定、調査)することはアーキテクトの重要な仕事である。キングス・サーヴェイヤーとは王室の普請に関わる一切を統括した職能である。当時、現場を指揮したのはマスター・メイソン、石工の親方である。木造主体の日本で言えば大工の親方、棟梁だ。それに対してサーヴェイヤーは新たな職能として登場してくる。キングス・サーヴェイヤーとは王室付き建築家、営繕主任といったところか。幕府で言えば、作事方、普請奉行である。しかし、こうした類推は誤解の元である。イニゴー・ジョーンズには、ジョン・シュートが理想化するようなイタリア・ルネサンスのアーキテクトの理念がある。

 イニゴー・ジョーンズに続くのがクリストファー・レン*34(一六三二~一七二三年)だ。ロンドン大火(一六六六年)後の再建計画で知られる。また、セントポール大聖堂*の設計者である。彼はもともと天文学者だった。経緯があってチャールズ二世のキングス・サーヴェイヤーに任命される。英国の最初のアーキテクトたちが王室と関係をもっていたことは重要である。

 一七世紀から一八世紀にかけて、パラディオニズム*の流行とともにアーキテクトが育ってくる。そうしたアーキテクトがどのような社会的基盤をもって登場してきたかはフランク・ジェンキンスの『建築家とパトロン』*35に詳しい。ウイリアム・ケント(一六八五~一七四八年)、トーマス・アーチャー(一六六八~一七四三年)、ジェイムズ・ギッブス(一六八二~一七五四年)、ロバート・アダムズ(一七二八~一七九二年)、ジョージ・ダンス・ヤンガー(一七四一~一八二五年)、ジョン・ソーン(一七五三~一八三七年)といった今日その名を知られる建築家に共通するのは、イタリアをはじめとする海外での経験である。それを可能にするパトロン、あるいは資産家の出であることはひとつの前提であった。

 ジェンキンスは、建築家の出自について、イニゴー・ジョーンズやウイリアム・ケントなど芸術家、レンに代表される科学者、ジェントルマン、工匠、徒弟の五つのグループを区別している。ジェントルマンには海外経験の多い軍人、大学卒の資産家などが含まれる。植民地は有能なサーヴェイヤーを必要としていた。徒弟とはアーキテクトのもとで修行をつんだものをいう。すなわち、ジョン・シュートが理念化するようなアーキテクトであるかどうかは別として、様々な層からアーキテクトなるものが生まれ、社会的(パトロン)に支えられ仕事を始め出すのである。

 

 4-4 分裂する「建築家」像

 時代は下って、一八世紀後半に至ると、デザイナーであり、サーヴェイヤーであり、学識者であり、そしてそれらを合わせた何者かである「アーキテクト」なるプロフェッションが社会的に認知されてくる。それを示すのが、「建築家」のオフィスや教育機関の設立である。また、「建築家」の諸団体の成立である。

  ジョージ・ダンス Jr.*36、ヘンリー・ホランド等によって「アーキテクト・クラブ」が設立されたのは一七九一年のことだ。W.チェンバース*37、R.アダムズは後に加わるが、そのクラブは極めて排他的であり、メンバーは王立アカデミー会員に限定されたものであった。また、ロイヤル・アカデミー・スクールでゴールドメダルを獲得したものに入会資格は限定されていた。ロイヤル・アカデミーは、チェンバースの発案で一七六八年に設立されている。「アーキテクト・クラブ」は、一種のサロン、ダイニング・クラブであるが、最初の「建築家」の団体が極めて特権的なものとして設立されたことは記憶されていい。そもそも差別化の論理で団体が結成されているのである。

 このあたりは、瀬口哲夫の『英国建築事情』*38によくまとめられている。まずは、新しい職能としての「建築家」と伝統的な工匠の区別が行われる。アーキテクトを任じる側が、工匠、職人と同列に扱われることを疎ましく思い始めるのである。この思い上がりは今日も続いている。アーキテクトはえらい!、のである。さらに、サーヴェイヤーとアーキテクトの区別がはっきりしてくる。キングス・サーヴェイヤーはアーキテクトであってただのサーヴェイヤーとは違う。そして、アーキテクトはサーヴェイヤーより上だという意識が生まれるのである。瀬口は、当時の『一般建築独案内』が「アーキテクトたるに十分な実力のないものをサーヴェイヤーと見なし、このどちらにもなりえないものをクオンティティ・サーヴェイヤーと称すればよい」と書いている事実を紹介する。また、「建築の専門家になる制限をもうけ、その目的に合致しない限り、その名称を許さない」、という考えがあった。名称独占、業務独占というわかりやすい意図である。サーヴェイヤーも対抗する。「サーヴェイヤーズ・クラブ」が設立されるのは「アーキテクト・クラブ」が設立された翌年(一七九二年)であった。一七七四年に建築基準法(ビルディング・アクト)が施行されており、それに基づいた職能が社会的に認知されたことに対応してつくられたのである。

 それではアーキテクトの資格、能力は何によって担保されるのか。いうまでもなく、それを保証するのは諸制度である。アーキテクトの教育、登録、団体が問題になる。「アーキテクト・クラブ」の設立もそうだ。彼等はダイニング・クラブで設計報酬の取り決めを議論のネタにしていたのである。もちろん、「ロイヤル・アカデミー」といった権威も必要である。いわゆるアーキテクのトが誕生し、増えて行くと、すなわち社会的に認知されると、弟子入り希望も増えてくる。また、建築の設計というのはその本質において集団作業を必要とする。すると弟子入り修業をしたなかからもアーキテクトが生まれてくる。一八世紀後半には、そうした徒弟的修業を経て独立するケースが一般的になったようだ。弟子入りに当たっては謝礼を師匠に払う形がとられた。一九世紀前半には、徒弟制を生活の糧にするアーキテクトも現れる。こうなると私塾である。修業年限は大体五年が一般的であった。今日UIA(国際建築家連合)が建築家の資格取得のための教育年限を五年とするのは一八世紀の経験がもとになっている。我国の四年制の大学制度は合わない。大問題である。

 徒弟修業の一方、建築教育機関が生まれる。一七二〇年にはセント・マーチンズ・レイン・アカデミーという製図学校が開設されている。昼はアーキテクトのもとで働き、夜は製図学校に通う形であった。ロイヤル・アカデミーは設立の翌年にはアカデミー・スクールを始める(一七六九年)。英国最初の建築教育機関である。初代建築教授は、チェンバース、二代がジョージ・ダンス・ヤンガー、三代がソーンだ。アカデミー・スクールといっても年六回の講義で、しかも夜間である。オーソリティによる連続特別講演会といったところであろうか。

 カレッジでの建築教育は、キングス・カレッジで始められ(一八四〇年)、ロンドン・ユニヴァーシティ・カレッジが続いている(一八四一年)。両者は一九一三年に一本化され、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジのバートレット・スクール*に統合されている。AAスクール(アーキテクチュアル・アソシエーション)*が設立されたのは一八四七年のことである。建築家が徹底した建築家教育を行う今日のAAスクールからは想像しにくいが、設立の母胎はドラフトマン(製図工)組合である。

 建築教育育機関がアーキテクトの裾野を広げると同時にその職能の内容を規定していく中で、アーキテクトの差別化、序列化が振興していく。瀬口は、アーキテクトの社会的地位のひとつの指標としてナイトの称号を得たアーキテクトを数え上げていて興味深い。ナイト第一号のアーキテクトはクリストファー・レンである。ナイトになるとサーの称号が許される。サー・ロバート・テーラー(一七一四~八八年)、サー・ウイリアム・チェンバース、サー・ジョン・ソーン、サー・ロバート・スマーク(一七八一~一八六七年)、サー・ジョージ・スコット(一八一一年~七八年)らがレンに続く。日本で言えば、文化勲章、文化功労賞を受賞した建築家、芸術院会員になった建築家を数え上げる感じであろうか。サー・エドウイン・ラッチェンス*やサー・ロバートベーカー*などインドや南アフリカなど植民地で活躍したアーキテクトも爵位を得ている。

 ナイトの称号を得、社会的にも認知されるアーキテクトを支える母胎となるのがRIBAである。一八三四年に結成されて、三年後にウイリアム四世続いてビクトリア女王からロイヤル・チャーター(勅許)を授けられた。このロイヤル・チャータード(王室に認知された)というのが彼我の建築家団体の分かれ目である。王立ではないが王室がその職能を認知するという形がとられるのである。英国建築協会(IBA)結成の翌年に設立されたサーヴェイヤー協会もロイヤル・チャーターを受けている(RICS(ロイヤル・インスティテュート・チャータード・サーヴェイヤー))。また、都市計画家の団体もロイヤル・チャータードである(RTPI(ロイヤル・タウン・プランニング・インスティテュート))。しかし、構造家の団体(ISE)、積算士の団体(IQS)、造園家の団体(LI)などはロイヤル・チャーターされていない。日本とは相当異なる。英国にアーキテクトは自らを特権化することに成功するのである。

  同じ分離は、シビル・エンジニア(土木工学者)とアーキテクトの間にも起こる。一七七一年に「シビル・エンジニア協会」が設立され、一八一八年には「シビル・エンジニア協会」が設立されるのである。エンジニアとアーキテクトの関係が決定的になるのは「英国建築家協会」(IBA)の設立からであり、さらにロイヤル・チャーターされてからである。

 

 4-5 RIBA

  造家学会、日本建築士会がモデルとしたのはRIBA(王立英国建築家協会)あるいはAIA(米国建築家協会)であった。一体RIBAとは何か。

 RIBAは一八三四年に設立された。造家学会に先立つこと五二年、日本建築士会に先立つこと八〇年である。わずか半世紀ほどの違いのように思えるが、以上のように歴史と背景を相当異にする。

 RIBAの設立目的は、しかし、簡潔かつわかりやすい。

 ①市民建築(シビル・アーキテクチャー)の全般的な発展・振興をはかる。

 ②建築に関連する人文科学と自然科学の知識の獲得を促進する。建築は市民の日常生活の利便性を向上させるものであるとともに都市の改善や美化にも大いに貢献するものである。したがって、文明国において建築は芸術として尊重されかつ奨励されるものである

 ここで、「文明国」や「芸術」より、建築が「シビル・アーキテクチャー(市民建築)」とされていること、「都市の改善」や「美化」に関連づけられていることに留意しておこう。タウンアーキテクトの根拠もここに求めうる。

 RIBAは、その権威を担保するためにロイヤル・ゴールド・メダルの設置(一八四八年)し、ディプロマなど各種証明を出す権利などなどいくつかの権限を確保する。追加勅許という形でその権限を獲得していく。すなわち、常に王室との関係を軸にしながらその公共団体としての性格と地位を維持していくのである。その活動を支える基盤は日本の建築学会や日本建築士会とは相当隔たりがあると言わざるを得ない。

 RIBAの活動は多岐にわたるが、その主要なものは以下のようだ。コミュニティー・アーキテクトの派遣という活動もきちんと位置づけられている。

 ①アーキテクト資格試験の実施

 ②アーキテクトの専門的再教育

 ③各種建築賞など顕彰制度

 ④図書館の運営 設計図面のコレクション

 ⑤アーキテクトに対する技術的データなど各種情報提供

 ⑥顧客相談サーヴィス

 ⑦コミュニティ・プロジェクトの実施 コミュニティ・アーキテクトの派遣、支援

 ⑧アーキテクト任用のための契約上の枠組み設定

 ⑨アーキテクトの倫理規定の制定

 ⑩各種イヴェントの実施

 こうあげると、我が国の建築関連諸団体も同じ様な活動を展開しているようにも思える。しかし、RIBAを中心とする英国のシステムと日本の仕組みの違いは千里の径庭がある。建築士の資格は、「建築技術教育普及センター」、各種基準は「日本建築学会」、建築士の集まりは「建築士会」、建築士事務所の集まりは「建築士事務所協会」、そして、「建築家」を理念化する「日本建築家協会」という複合的関係を建設省が中央でコントロールする体制が日本である。

 RIBAを中心とする英国の建築システム、アーキテクト資格、登録法、建築教育、アーキテクトの任用制度、アーキテクトの職能倫理等々については、これまで度々引用してきた瀬口哲夫の『英国建築事情上・下』が詳しい。単に制度を紹介するのではなく、実状に迫ろうとする労作である。RIBAの取組から多くのことを学ぶことが出来る。

 しかし、RIBAの理念や規約、組織形態を単に翻訳してもはじまらない。一世紀を超えた日本の建築の歴史がそれを示している。

 

 4-6 建築家の資格

  建築家とは何か、と真正面から問うと、ヴィトルヴィウス流の理念が反復される。しかし、世界各国で現実の形態は様々である。各国、各地域の建築家の社会的基盤をめぐる比較文化論は興味深いところだ。それぞれに建築をつくる仕組みがあり、建築家の役割や社会的地位も異なるのである。

 それはそうとして、建築家が国境を超えるとするとどうなるか。建築の先進地域としてルネサンス・イタリアがあり、そこで修業すること、少なくともイタリアの建築を見聞することが草創期の英国のアーキテクトの条件であった。RIBAの会員であったJ.コンドルによって英国流のアーキテクトの概念をもとに出発したのが我が国の建築家(建築士)である。いきなり時代は飛んで、現在グローバリゼーションの流れの中で、建築家の国際資格が問題になりつつある。

 大きなきっかけはEC(欧州共同体)の統合、EU(ユーロピアン・ユニオン)の出現である。既に市場統合がなされ(一九九三年一月)、共通通貨ユーロが使用に先立って為替市場で売買され始めている(一九九八年一月)。

 市場統合にあたって前提されるのが、人、物、資本、サーヴィスの自由移動である。国境における出入国管理、検問、関税など自由化の障壁になる諸制度は一九八五年の「域内市場白書」によって青写真が描かれ徐々に撤廃されてきた。そして、アーキテクトの資格は、弁護士、医者などとともに人の自由移動に関わり、サーヴィスの自由化の前提として共通化が計られることになったのである。 

 EC委員会においてアーキテクトの資格共通化の方針が出されたのは一九六七年のことである。当時の加盟国は、結成時(一九五七年)のベルギー、ドイツ、フランス、イタリア、ルクセンブルグ、オランダの六ヶ国。その後、英国、アイルランド、デンマーク(七三年)、ギリシャ(八一年)、スペイン、ポルトガル(八六年)が加盟して現在一二ヶ国になるが、最終的な指令が採択されるのは八五年である。ヨーロッパでも諸制度の調整に二〇年近くも要した。いかに建築家の社会的基盤が異なっているかの証左である。建築家の資格をはじめ、建築に関わる諸制度がまちまちなのは、建築の生産が基本的にローカルであることの反映でもある。

 まず問題となったのは、建築教育の年限である。五年が支配的だが六年(スペイン)もある。しかし、オランダは四年だ。結局EC指令は四年とされたが、将来的には五年が勧告される。例外はドイツの高等専門学校の三年で、実務経験を加えるというのが条件となった。

 アーキテクトの資格に実務経験を含めるかどうかも問題となった。ドイツ、ベルギー、イギリスのように二~三年の実務経験を強制する国もあるが、大半は必ずしも実務経験を課していない。日本のように実務経験といってもその内容を問わない国もある。

 アーキテクトの中にシビル・エンジニアを含めるかどうかも問題となった。イタリア、ギリシャなどでは区別されていないのである。英国では、シビル・エンジニアとアーキテクトは歴史的な過程を経て分離していが、そのモデルとなったイタリアでは分化していないのである。イタリアにカルトラバ*のような構造デザイナーが育つ土壌があることがよくわかる。一方、フランスではシビル・エンジニアはアーキテクトの仕事はできない。

 資格試験や登録制度の有無、アーキテクトの仕事の範囲や業務独占に関わる規程など実に多様である。そこで結局、ECはアーキテクトの資格の相互認定ではなく建築教育に関わる卒業資格の相互認定を行うことになる。年限は全日制で最低四年。内容的には、建築設計の全般に関わって大学の学位が水準とされた。

 英国の場合、アーキテクトの登録資格が完全に対応する。すなわち、英国アーキテクト登録カウンシル(ARC)の認定を受けた、大学、ポリテクニーク、カレッジ等の建築教育機関およびRIBAの試験に合格したものは相互認知の認定の対象になる。フランスの場合は、アーキテクトの登録制はあるが、相互認定の対象になるのは基本的には二四の大学の建築学部の卒業資格である*39。イタリアは、建築の学位と国家試験合格が相互認定の条件であるが、他にビルディング・コンストラクションのエンジニアの学位と国家試験合格の条件も認められている。ドイツの高等専門学校については、4年の実務経験の証明書をつけることが条件となる。

 米国の場合、建築、建築家に関わる制度については各州に権限がある。全米建築家登録委員会(NCARB)*が全米共通の建築家登録試験(ARE)をするなど一方で統一化は進められているが、各州独自の法、仕組みがある。例えば、カリフォルニア州では、AREの他に、州独自の耐震設計、障害者対策、省エネルギー規定などに関わる面接試験が実施される。カイフォルニア州では建築の学位あるいはアーキテクトの直接監督下で六〇ヶ月の実務経験が受験資格とされるが、ニューヨーク州の場合、建築の学位プラス三年以上の実務経験が必要である。業務資格について個人しか認めない州と協同方式など組織を認める州がある。組織の代表者については様々な条件が設けられる。また、業務制限が行われる州と「アーキテクト」という称号制限のみ規定する州がある。そこでEUと同じように各州間の相互認定の問題が生じる。受験資格の最低年齢、必要実務期間などが取り決められる。

 米国では大学の建築学部の設置は、米国建築教育審議会(NAAB:ナショナル・アーキテクチュラル・アクレディテーション・ボード)が行う。文部省など中央官庁によって設置が認可されるのではなく、自主的な基準と審査期間によって認定する(アクレディテーション)方式*が定着している。NAABは、建築学性の組織(AIAS)、建築教員の組織(ACSA)、全米建築家協会(AIA)*、そしてNCARBの代表により構成されている。この点にも大きな彼我の違いがある。

 米国においては、エンジニアとアーキテクトの職能ははっきり分けられ、専門技術者(プロフェッショナル・エンジニア)の登録制度がある。基本的に各州独自の制度をもっているが、全米技術者・測量士試験委員会(NCEES)による共通試験などかなり統一化が進んでいる。その母胎になるのが、建築、土木に限らず、他の工学分野を含んで、全米専門技術者協会(NSPE)が組織されている。

 こうして、欧米の建築、建築家をめぐる諸制度は、当初それを移入しようとしたにも関わらず、日本のそれとは相当異なる。そうした中で日本の建設市場の閉鎖性が指摘され、建築家の資格などが非関税障壁として非難される。日本は、建築の分野でも世界貿易機構(WTO)*に対応せざるを得ないのである。

 一九八五年のEC指令を受けて、各国で様々な対応がなされてきた。これまでなかったなかったアーキテクト登録法がつくられた国(オランダ)もあれば、教育年限を変更する国もある。各国の対応をまってさらに見直しが予定されるが、ECに設けられた諮問委員会は、建築教育期間五年、実務経験二年の方針を既に出している。

 日本社会の閉鎖性が様々な局面で問われる中で、建築、建築家のあり方も問われつつある。それではEC指令に照らすとき日本の建築家資格、建築教育の内容はどうか。

 建築教育四年というのはかっての教養課程(一.五年~二年)が自由化され形式的には問題なさそうであるが、その実態はどうか。特に五年の勧告に従うとなると、大学院を加えて対応する必要がある。そして、仮に大学院を前提にするにしても、教育内容はどうか。見るところ、建築家教育に程遠い現状がある。

 EC諮問委員会の推奨する実務経験も大きな問題である。日本の場合、実務経験を条件とするけれど自己申告制で内容が問われないのである。

 EUあるいは米国流の諸制度が共通基準とされれば、日本の建築界のパニックは必定である。西欧の諸制度をモデルとする立場にとっては、外圧は追い風である。それに対して、建築は固有の文化に関わる、本来ローカルなものだという、かねてよりの立場もある。日本はどの方向を選択するのか。

 日本にとって気になるのは、韓国、中国の動向である。

 韓国の建築士制度は一九六三年の「建築士法」に基づく。建設交通部長官が実施する建築士資格試験によって資格が得られる。以前は日本同様一級、二級の二つの等級を設けていたが一九七七年の改正以降「建築士」に一本化されている。建築士の数は約八千人(一九九四年)である。人口に比して極めて少ない。社会的地位は高いとみていい。「建築士」とは別に、その前提となる資格に「国家技術資格法」に基づく技術士、技士一級、技士二級がある。専門大学を卒業すると技士二級、四年生大学を卒業すると技士一級の受験資格が得られる。そして技士一級取得後七年の実務経験を経ると技術士の受験資格が得られる。

 「建築士」の受験資格は、建築士予備試験の合格者の他技術士資格と関連して以下のような場合がある。すなわち、建築分野技士一級取得後七年以上建築の実務経験を有する者、建築分野技術士取得者、建築分野技士一級取得後五年以上建築士補として勤務した者、外国の建築士等資格を取得した後通算五年以上建築の実務経験のある者である。

 建築士予備試験がの科目は、建築構造、建築施工、建築計画、建築士資格試験の科目は、建築法規と建築設計である。大学卒業後、試験のみで資格を得る道もあるが資格取得者の数を見ると極めて難しいことがわかる。日本に比べると実務経験が重視されており、厳しく階層化されているといえる。

 一九四九年の中華人民共和国建国以降の中国の場合、相当事情が異なる。一九八五年までは、技術職名制度が採られていた。すなわち、エンジニアについては、高級工程師、工程師、助理工程師、技術員、設計技術者については、高級建築師、建築師、助理建築師、技術員のそれぞれ四段階の職位が区別されていただけである。

 八五年に専門技術職務の認定制度が導入され、専門技術師の招聘制度が採られる。技術員は、大学専科または中等専門学校卒業後見習い一年、考査に合格、助理建築師は、修士または第二の学士を取得、考査に合格/学士または大学本科卒業、見習い一年、考査に合格/中等専門学校卒業、技術員四年、建築師は、博士取得、考査に合格/修士または第二の学士を取得、助理建築師二年/学士または大学本科卒業、助理建築師四年、高級建築師は、博士取得、建築師二年/大学本科卒、建築師五年というのが資格条件である。

 ところが、中国は新しい建築師制度の導入に踏み切る。一九九四年十月、遼寧省沈陽市で建築師登録試験を試行するに至るのである。試験の現場には全米建築家登録委員会(NCARB)、王立英国建築家協会(RIBA)、香港王立建築家協会の関係者が立ち会った。モデルになったのは米国の建築家登録試験である。中国は、米国、英国などとの間での建築家資格の相互承認を睨んで、建築師制度の整備を行うことを決定するのである。一九九四年に国際建築家連盟(UIA)に職能基準委員会がつくられ、一九九九年六月の第二一回北京大会で国際的標準案が通過することになった*。

 さながら、中国,EU、米国による日本包囲網である。二一世紀を眼前に迎えて、日本の建築士制度は果たしてどうあるべきか。

 

 4-7 建築家の団体

  建築家の社会的基盤をうかがう指標としては、以上のように建築家の資格のあり方、それを認定する機関のあり方、建築家の教育の在り方などがある。そうした諸制度を背景として、建築界には様々な団体が組織される。建築家に関わる各種団体のあり方も各国それぞれである。

 英国の場合、RIBAが中心である。しかし、スコットランドには王立スコットランド建築家協会(RIAS)、北アイルランドには王立アルスター建築家協会(RSUA)がある。英国の歴史が反映しているとみていい。

 RIBAとは別に積算士協会(IQS)*、王立調査士協会(RICS)*、さらに調査技士協会(SST)*がある。建築調査士(ビルディング・サーヴェイヤー)や建築技師(アーキテクチュラル・テクニシャン)は、住宅など小規模な建築の設計に従事している。建築活動に従事するのはいわゆるアーキテクトだけではない。アーキテクトの世界とは別にあるいは競合的に建築活動を行う一群の存在があるのである。

 アーキテクトの資格登録は、上で見たように、英国アーキテクト登録審議会(ARC)によって行われる。ARCはRIBAとは別である。RIBAと同様、建築調査士連合会(IAAS)からもメンバーが送られる。IAASのような団体も英国に存在するのである。さらに、ARCには、自治体技術者協会(IMCE)、技術者協会(SE)、公認調査士協会(CSI)、構造技術者協会(ISE)、建設業協会(IB)からも委員が送られている。

 建築に関わる裾野は広い。英国建築界には英国建築界の構造があるのである。アーキテクトの職能、業務範囲、内容は英国においても必ずしも一定不変ではない。プロジェクト・マネージャー(PM)の出現やデザイン・ビルド(設計施工)の形態の増加など時代の変化に対応することは常に要請されているとみていい。

 ドイツでは、各州の法律に基づき建築家会議所に登録される。地方分権の伝統のある連邦国家の特性を反映している。建築を支えるローカルな特性、構造とグローバルな共通基準の設定の問題はいまどこでも問われている。ドイツもひとつのモデルである。マイスター制度を基礎にした教育システムも偏差値教育に偏した日本とは相当異なる。

 建築家会議所は建築家の会費によって運営されるが、職能団体ではない。職能団体としては、ドイツ建築家協会(BDA)*がある。一九〇三年の設立だから日本建築士会設立に十年ほど先立つ。BDAの会員は、専業アーキテクトに限定される。いわゆるフリー・ランスの建築家である。設計事務所の主宰者は会員になれるが、所員はなれない。設計責任がとれないという理由からである。会社組織の主宰者は条件付きで会員となれるが、個人かパートナーシップで活動する建築家が会員の主体である。より純化、特権化した組織と言えるかもしれない。約八万人の登録建築家のうちBDAの会員は六パーセント(四八〇〇人、一九九四年)を占めるにすぎないのである。

 BDA以外に、ドイツ建設マイスター・建築家・技術者協会(BDB)がある。全ての建築家に門戸を開いた資格者団体である。他に、ドイツ自由建築家協会(VFA)があるが、造園、インテリアなどの分野を含んでいる。建築家会議所と平行して各州に技術者会議所が設けられている。

 

 4-8 建築学科と職人大学

 この間理工学系部の再編成に伴って、日本中の大学から”建築学科”という学科名が消えていくという事態が続いている。大学院重点化ということで、新しい専攻の名が求められたということもある。やたらに増えているのが、「環境」(「文化」「国際」)という名のつく学科である。”建築学科”という名前が消えていくのは寂しいことではあるが、日本における”建築”を取り巻く環境が大きく変わり、建築界が構造改革せざるを得ないこと、また、それに伴い”建築学科”も変貌せざるを得ないのは当然である。

 成長拡大主義の時代は終わったのであり、建設活動はスローダウンせざるを得ない。農業国家から土建国家へ、戦後日本の産業社会は転換を遂げてきた。建設投資は国民総生産の二割を超えるまでに至る。”建築学科”は一九六〇年代初頭から定員増を続け、各大学に第二の建設系学科がつくられた。しかし、今や、”建築学科”はさらには必要ない。建設ストックが安定しているヨーロッパの場合、建設投資は一割ぐらいだから、極端に言うと、半減してもおかしくない。”建築学科”の崩壊(定員割れ)と呼びうる現象の背景には、日本の産業構造の大転換がある。

 しかし、”建築学科”の崩壊は、より深いところで進行している。単に量(建設量、建設労働者数、学生数)の問題であるとすれば、淘汰の過程に委ねるしかないだろう。ストック重視となれば、維持管理の分野がウエイトを増してくる。”建築学科”のカリキュラムも見直しが必要となる。しかし、問題はそれ以前にある。「建築家(建築士)」の現場離れの問題が本質的である。現場の空洞化、”職人”世界の崩壊の問題である。さらに、建設技術における専門分化の徹底的な進行の問題がある。建築という総合的な行為があらゆる局面で見失われつつあるのである。

 日本の”建築学””建築学科”は「工学」という枠組みの中で育ってきた。学術、技術、芸術の三位一体をうたう日本建築学会は工学分野ではかなり特異である。しかし、建築の設計という行為が学術、技術、芸術の何れにも関わる総合的な行為であることは洋の東西を問わない。大きな問題は”建築学科”の特質がなかなか一般に理解されないことである。大きく視野を広げれば日本の教育体制の全体が関わっている。いわゆる偏差値社会の編成である。高校、大学への進学率が高まり、ペーパー・テストによって進学と就職が決定される、そんな一元的な社会が出来上がった。建設産業の編成としては、”職人”世界から”建築家(建築士、建築技術者)”世界への流れが決定的になった。学歴社会は、大工棟梁になるより一級建築士になる方がいい、という価値体系に支えられている。結果としてわれわれが直面するのが建設産業の空洞化である。

 一九九〇年一一月二七日、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)●という小さな集まりが呱々の声を上げた。サイト・スペシャルズとは耳慣れない造語だが、優れた人格を備え、新しい技術を確立、駆使することが出来る、また、伝統技能の継承にふさわしい、選ばれた現場専門技能家をサイト・スペシャリストと呼び、そうした現場の専門技能家、そして現場の技術、工法、機材、労働環境まで含んだ全体をサイト・スペシャルズと定義づけたのである。建設現場で働く、サイト・スペシャリストの社会的地位の向上、待遇改善、またその養成訓練を目的とし、建設現場の様々な問題を討議するとともに、具体的な方策を提案実施する機関としてSSFは設立された。スローガンは当初から’職人大学の設立’である。主唱者は日綜産業社長小野辰雄*氏。中心になったのは、専門工事業、いわゆるサブコンの社長さんたちである。いずれも有力なサブコンであり、”職人”の育成、待遇改善に極めて意欲的であった。

 顧問格で当初から運動を全面的に支援してきたのは内田祥哉元建築学会会長。内田先生の命で、田中文男大棟梁とともに当初から僕はSSFの運動に参加してきた。それからかなりの月日が流れ、その運動は最初の到達点を迎えつつある。具体的に「国際技能工芸大学」が開学(二〇〇一年四月予定)されようとしているのである。バブルが弾け「職人大学」の行方は必ずしも順風満帆とは言えないが、SSFの運動がとにもかくにも大学設立の流れになった。

 SSFの主唱者小野辰雄氏はもともと重量鳶の出身である。その経験から足場メーカーを設立、その「3Mシステム」と呼ばれる支保杭と足場を兼ねる仮設システムを梃子として企業家となった。その活動はドイツ、アメリカ、アジア各地とグローバルである。その小野氏がどうしても我慢がならないことが現場で働く職人が大事にされないことである。当時はバブル経済華やかで職人不足が大きな話題であった。3K(きたない、きつい、給料が安い)職場ということで若者の新規参入がない。後継者不足は深刻であった。そうした中で、職人が尊敬される社会をつくりたい、そのために”職人大学”をつくりたい、というのが小野氏以下SSF参加企業の悲願であった。

 最初話を聞いて大変な何事かが必要だというのが直感であった。そこで藤沢好一、安藤正雄の両先生に加わって頂いた。また、土木の分野から三浦裕二(日本大学)、宮村忠(関東学院大学)の両先生にも加わって頂いた。当初はフォーラム、シンポジアムを軸とする活動であった。海外から職人を招いたり、マイスター制度を学びにドイツに出かけた。この間のSSFの活動はSSFニュースなどにまとめられている。

 議論は密度をあげ、職人大学の構想も次第に形をとりだしたが、実現への手掛かりはなかなか得られない。そこで兎に角何かはじめようと、SSFパイロットスクールが開始された。第一回は佐渡(真野町)での一九九三年五月三〇日(日)から六月五日まで一週間のスクーリングであった。その後、宮崎県の綾町、新潟県柏崎、神奈川県藤野町、群馬県月夜野町、茨城県水戸とパイロットスクールは回を重ねていく。現場の職長さんクラスに集まってもらって、体験交流を行う。そうした参加者の中から将来のプロフェッサー(マイスター)を見出したい。そうしたねらいで、各地域の理解ある人々の熱意によって運営されてきた。現場校、地域校、拠点校と職人大学のイメージだけは膨らんでいった。カリキュラムを考える上では、並行して毎夏、岐阜の高根村、加子母村を拠点として展開してきた「木匠塾」*(一九九一年設立 太田邦夫塾長)も大きな力になった。

 そして、SSFの運動に転機が訪れた。KSD(全国中小企業団体連合会)との出会いである。SSFは、建設関連の専門技能家を主体とする、それも現場作業を主とする現場専門技能家を主とする集まりであるけれど、KSDは全産業分野をカヴァーする。”職人大学”の構想は必然的に拡大することになった。全産業分野をカヴァーするなどとてもSSFには手に余る。しかし、KSDは全国中小企業一〇〇万社を組織する大変なパワーを誇っている。

 KSDの古関忠雄会長の強力なリーダーシップによって事態は急速に進んでいく。「住専問題」で波乱が予想された通常国会の冒頭であった(一九九六年一月)。村上正邦議員の総括質問に、当時の橋本首相が「職人大学については興味をもって勉強させて頂きます」と答弁したのである。

 「産業空洞化がますます進行する中で、日本はどうなるのか。日本の産業を担ってきた中小企業、そしてその中小企業を支えてきた極めてすぐれた技能者をどう考えるのか。その育成がなければ、日本の産業そのものが駄目になるではないか。そのために職人大学の設立など是非必要ではないか。」

 ”職人大学”設立はやがて自民党の選挙公約になる。

 その後、めまぐるしい動きを経て、(財団)国際技能振興財団(KGS)の設立が認可され、その設立大会が行われた(一九九六年四月六日)。以後、財団を中心に事態は進む。国際技能工芸大学というのが仮称となり、その設立準備財団(豊田章一郎会長)が業界、財界の理解と支援によってつくられた。梅原猛総長候補、野村東太(元横浜国大学長)学長候補を得て、建設系の中心には太田邦夫先生(東洋大学)が当たられることが決まっている。一九九七年にはキャンパス計画のコンペも行われ、用地(埼玉県行田市)もあっという間に決まった。今は、文部省への認可申請への教員構成が練られているところである。

 国際技能工芸大学(仮称)は、製造技能工芸学科(機械プロセスコース、機械システムコース、設備メンテナンスコース)と建設技能工芸学科(ストラクチャーコース、フィニッシュコース、ティンバーワークコース)の二学科からなる4年生大学として構想されつつある。その基本理念は以下のようである。

①ものづくりに直結する実技教育の重視

②技能と科学・技術・経済・芸術・環境とを連結する教育・研究の重視

③時代と社会からの要請に適合する教育・研究の重視

④自発性・独創性・協調性をもった人間性豊かな教育の重視

⑤ものづくり現場での統率力や起業力を養うマネジメント教育の重視

⑥技能・科学技術・社会経済のグローバル化に対応できる国際性の重視

 具体的な教育システムとしては、産業現場での実習(インターンシップ)、在職者の修学、現場のものづくりを重視した教員構成をうたう。

  教員の構成、カリキュラムの構成などまだ未確定の部分は多いがSSFの目指した”職人大学”の理念は中核に据えられているといっていい。

 もちろん、設立される”職人大学”がその理念を具体化していけるかどうかはこれからの問題である。巣立っていく卒業生が社会的に高い評価を受けて活躍するかどうかが鍵である。

  何故、文部省認可の大学なのか。”職人”の技能””工芸”を日本の教育システムのなかできちんと評価してほしい、という思いがある。人間の能力は多様であり、偏差値によって輪切りにされる教育体制、社会体制はおかしいのではないか、という問題提起がある。だから、ひとつの大学を設立すれば目標達成というわけにはいかない。実際、続いて各地に”職人大学”を建設する構想も議論されている。

 ただ、数が増えればいいということでもない。問題は”職人大学”がある特権を獲得できるかである。具体的に言えば、”技能””工芸”に関わる資格の特権的確保である。”職人大学”の構想もそうした社会システムと連動しない限り、しっかり根づかないことは容易に予想される。さらに、日本型のマイスター制度*が同時に構想される必要がある。総工事費の何パーセントかを職人養成に当てる、そうした社会システムの実現である。

 

 

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*9 登録者数 一級建築士二七八、一八四人 二級建築士五九五、八三六人 木造建築士一二、四四九人 一九九八年三月三一日現在。

*10 一級建築士事務所八六,四三六社(内個人三三,三一一社) 二級建築士事務所四四,〇六四社(内個人二五,〇二二社) 木造建築士事務所一,二一二社 計一三一,七一二社(内個人五九,二五三社) 一九九八年三月三一日

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*16 拙稿、「現代建築家」、宮内康・布野修司編『現代建築』、新曜社、一九九二年所収

*17 アンブローズ・ビアス Ambrose Gwinnett Bierce 一八四二~一九一四?。アメリカのジャーナリスト、作家。『兵士と市民の物語』(一八九一)など一二巻の全集(一九〇九~一二)がある。『冷笑家用語集』(〇六)を増補して『悪魔の辞典』(一一)。芥川龍之介が日本へ紹介した。

*18 Charles Kenvitt(Ed.):Perspectives An Anthology of 1001 Architectural Quotations, Bovis, London, 1986より

*19 ウィトルウィルス,マルクス Marcus Vitruvius Pollio[生没年不詳]前一世紀の古代ローマの建築家,技術家.アウグストウス帝に献じた『De architectura libri decem,森田慶一訳:ウィトルウィウス建築書』によって知られる.この書は,古代建築の形式や材料,神殿,公共建造物,住宅,都市計画,軍事,天文学,機械などについて論じたもので,ルネサンスの建築家に強い影響を与えた。

*20  イムヘテプ Imhetep エジプト第三王朝のジェセル王に仕えた宰相。ヘリオポリスの神官でもある。サッカラにあるジェセル王の階段ピラミッド及び陵墓群を建設したことで知られる。名前の知られる最古の建築家である。また、医者であったとも言われ、プトレマイオス王朝時代には医術の神と見なされ、ギリシャでは医神アスクレピオスと同一視された。

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*22 磯崎新、『造物主議論 デミウルゴモルフィズム』、鹿島出版会、一九九六年三月、p10

*23 デミウルゴス demiourgos 公共demiosdemos 国家、市民)のために働くものergatesergon 仕事)を意味する古代ギリシャ語。農業以外の活動で生計をたてる者をさし、金属工、陶工、石工などから、占者、医者、楽人などを含んでいた。その後、都市国家の役員の名称となった。

*24 磯崎新、『造物主議論』、p103

*25 田中喬は、「オイコドモス」を建築家、「アーキテクトン」を棟梁と訳す例があるといいながら、「オイコドミケ・テクネ」を「造る術」、「アーキテクトニケ・テクネ」を「使う術」と位置づける。「破壊の現象学」、渡辺豊和との対談、『建築思潮』04、一九九六年二月。田中喬著『建築家の世界 住居・自然・都市』、ナカニシヤ出版、一九九二年。

*26 ミケランジェロ  Michelangelo Bounarroti 一四七五~一五六四。イタリアの彫刻家、画家、建築家、詩人。

*27 Adolf Hitler 一八八九オーストリア・ブラウナウ生~一九四五年。ヒトラーは、一九〇七年、ウイーン美術アカデミーの美術科を受験して失敗している。その後、絵画より建築に興味がむかったとされる。『わが闘争』上下(平野一郎他訳、角川文庫、一九七三年)は、いくつかの箇所で建築への夢を語っている。所詮三流の建築家と筆が滑ったが、建築家として才能があったという評価もA.シュペアー他ある。

*28 S. Kostof(Ed.):"The Architect---Chapters in the History of the Profession", Oxford University Press, 1977

*29  John Wilton-Ely:'The Rise of the Professional Architect in England' in "The Architect"

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*31 ウィトルウィルス,マルクス Marcus Vitruvius Pollio[生没年不詳]前一世紀の古代ローマの建築家,技術家.アウグストウス帝に献じた『De architectura libri decem,森田慶一訳:ウィトルウィウス建築書』によって知られる.この書は,古代建築の形式や材料,神殿,公共建造物,住宅,都市計画,軍事,天文学,機械などにつ

いて論じたもので,ルネサンスの建築家に強い影響を与えた。

*32 アルベルティ Leon Battista Alberti  一四〇四フィレンツェ~七二。イタリアの建築家.あらゆる学問と技術に通じた.いわゆる万能の天才で,それゆえディレッタント建築家と規定される.建築の実際の上では,壁のマッスを強調したモニュメンタルな造形を特徴としている.リミニのサンフランチェスコ聖堂を改造したテンピオマラテスティアーノ(一四五〇~五五)は,ファサードに古代ローマの記念門形式を採用したものとして,また,フィレンツェのサンタマリアノヴェラ聖堂のファサード(一四五六~七〇),同地のパラッツオルチェライ(一四四六ごろ~五一ごろ)は秩序ある壁面構成の例として知られている.その他,マントヴァのサンセバスティアーノ聖堂(一四六〇)および同地のサンタンドレア聖堂(一四七二実施)などがある.理論家としては,一四三五年に『Dellapittura(三輪福松訳:絵画論)』を完成し,一四五二年には『De re aedificatoria(相川浩訳:建築論,一四八五刊)』を完成した。

*33  セルリオ,セバスティアーノ Sebastiano Serlioh[一四七五~一五五四]イタリアルネサンスの建築家,理論家.ボローニャ生れ.B.ペルッツィの弟子.ローマ,ヴェネツィアで活動の後,フランス国王フランソワ一世に招かれてフォンテーヌブローに移り(一五四一),同地で没した.代表作はアンシルフラン館(一五四六着工).著書『Regole generali di architetturaetcdegli edifici(七巻,一五三七~五一)』は建築史上極重要.

*34

*35 佐藤彰・五島利兵衛訳、一九七七年

*36

*37  チェンバース  Sir William Chambers 一七二六ストックホルム~九六。イギリスの建築家・造園家。東インド会社の社員として、極東各地を旅行(四〇~四九)。『中国の建築・家具・衣服・機械器具のデザイン』(五七)『東洋庭園論』(七二)を著す。「キューガーデンズ」「サマセットハウス」など。

*38 瀬口哲夫、『英国建築事情 下』「第一一章 英国のアーキテクトの歴史」、建築ジャーナル、一九九二年

*39 他に私立のエコール・スペシアル・アーシテクチュール、ストラスブールのエコール・ナシオナール・シュペリュール・アート&インダストリーが認定機関になる。


タウンアーキテクト論序説・・・建築家の居る場所 まちづくりの仕掛け人

 目次                                                       

 はじめに・・・裸の建築家

 

 Ⅰ 砂上の楼閣

 

◎第1章 戦後建築の五〇年                        

  1-1 建築家の責任

  1-2 変わらぬ構造

    a 都市計画の非体系性

    b 都市計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

    c 都市計画の事業手法と地域分断

  1-3 コミュニティ計画の可能性・・・阪神淡路大震災の教訓

    a 自然の力・・・地域の生態バランス

    b フロンティア拡大の論理

    c 多極分散構造

    d 公的空間の貧困 

    e 地区の自律性・・・ヴォランティアの役割

    f ストック再生の技術

    j 都市の記憶

 

◎第2章 何より曖昧な建築界

  2-1 頼りない建築家

  2-2 違反建築

  2-3 都市景観の混沌

  2-4 計画主体の分裂

  2-5 「市民」の沈黙

 

 Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能          

◎第3章 幻の「建築家」像                    

  3-1 公取問題                      

  3-2 日本建築家協会と「建築家」

  3-3 日本建築士会            

  3-4 幻の「建築士法」   

   3-5 一九五〇年「建築士法」

   3-6 芸術かウサギ小屋か

 

◎第4章 建築家の社会的基盤

  4-1 日本の「建築家」

  4-2 デミウルゴス 

  4-3 アーキテクトの誕生

  4-4 分裂する「建築家」像

   4-5 RIBA

  4-6 建築家の資格

  4-7 建築家の団体

    4-8 建築学科と職人大学

 

 Ⅲ 建築家と都市計画   

 

○第5章 近代日本の建築家と都市計画     

  5-1 社会改良家としての建築家

   5-2 近代日本の都市計画

  5-3 虚構のアーバンデザイン

  5-4 ポストモダンの都市論

  5-5 都市計画という妖怪 

  5-6 都市計画と国家権力ーーー植民地の都市計画

  5-7 計画概念の崩壊

  5-8 集団の作品としての生きられた都市

 

○第6章 建築家とまちづくり

  6-1 ハウジング計画ユニオン(HPU)

  6-2 地域住宅(HOPE)計画

  6-3 保存修景計画

  6-4 京町家再生論

  6-5 まちづくりゲーム・・・環境デザイン・ワークショップ

  6-5 X地区のまちづくり

 

 

 Ⅳ タウン・アーキテクトの可能性

 

○第7章 建築家捜し                                           

  7-1 「建築家」とは何か

  7-2 落ちぶれたミケランジェロ

  7-3 建築士=工学士+美術士

  7-4 重層する差別の体系

  7-5 「建築家」の諸類型

  7-6 ありうべき建築家像

  

○第8章 タウン・アーキテクトの仕事

  8-1 アーバン・アーキテクト

    a  マスター・アーキテクト

    b  インスペクター

    c  環境デザイナー登録制度 

  8-2 景観デザイン 

    a ランドシャフト・・・景観あるいは風景

    b 景観のダイナミズム    

    c 景観マニュアル

    d 景観条例・・・法的根拠

  8-3 タウン・アーキテクトの原型 

    a 建築主事

    b デザイン・コーディネーター

    c コミッショナー・システム

    d シュタット・アルシテクト

    e コンサルタント・・・NPO

  8-4 「タウンアーキテクト」の仕事

    a 情報公開

    b コンペ・・・公開ヒヤリング方式

    c タウン・デザイン・コミッティ・・・公共建築建設委員会

    d 百年計画委員会

    e タウン・ウオッチング---地区アーキテクト

    f タウン・アーキテクトの仕事

  8-5 京都デザインリーグ

 

 おわりに



布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...