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2025年6月7日土曜日

基調報告「地域再生とコミュニティ・アーキテクトー被災地の最も深い現場から,無数のコミュニティ・アーキテクトたちを育てよーコミュニ ティ・アーキテクト・ボード設立へ」,サステナブルエリアデザインとコミュニティ・アーキテクト特別研究会研究報告会, 日本建築学会,2011年6月4日

被災地の最も深い現場から、無数のコミュニティ・アーキテクトたちを育てよ。

布野修司(滋賀県立大学)

 

二〇〇四年一二月二六日、スリランカのゴールにいてインド洋大津波に遭遇、危うく命拾いをしたときのことをありありとぞくぞくっとする寒気とともに思い出した。気がつくとバスや車、そして船が転がっていた。自分が居た周辺で五〇〇人が亡くなった。その時書き留めたのが以下である(「スリランカ・ゴールGalleでインド洋大津波に遭遇:現場報告 オランダ要塞に救われた命」『みすず』20053月号)。

転がった 列車の中から 幼児が生還 名前名乗るも 住所を知らず

シュルシュルと 獲物を狙う蛇のよう 運河を登る 津波の早さよ

大車 横転後転 繰り返す 押し流されて 皆スクラップ

悪夢の再現である、否、これはもう全てを超えて言葉もない。加えて、一度起これば全てが瓦解する原発の致命的問題が起こってしまった。世界は人類始まって以来の経験を共有しつつある。


コミュニティ・アーキテクト(まちづくりネットワーク)・ボードの設立へ

求められているのは単なる提案ではない。アクションプランである。既に多くの動きがある中で、それらを長期にわたるサステイナブルな仕組みに作り上げることが問われている。

阪神淡路大震災の後、建築家の責任を強く感じて『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(2000年)をまとめて、地域診断からまちづくりまで一貫して担う職能の必要性を提起した。その後、インド洋大津波に巻き込まれ、復興支援に通う中で、その感をますます強くした。安心・安全のためのまちづくり(都市地域計画)の主体は地域社会(コミュニティ)である。地域社会に基礎をおいたまちづくりを組織する職能、コミュニティ・アーキテクトが必要である。そう考えて、京都コミュニティ・デザインリーグの活動、近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座による人材育成の活動をささやかに展開してきたが、東日本大震災を前にして、繰り返して言うべきは、まちづくりの仕組みの大転換こそが必要だ、ということである。

素朴に自立循環型地域社会の再構築をうたう以下の復興計画案は、いささか地味かもしれない。しかし、脱原発依存、低炭素社会へという大きな枠組みを考える時、目指すべき方向は揺らがないと思う。

復興計画が共通に目指すべき前提として問われているのは、日本の社会、経済、政治、文化、産業、国土など全ての編成の問題であり、東京一極集中の構造を多極分散型に転じていくことである。大災害は常にその社会に潜在している矛盾、軋轢、差別を明らかにする。日本社会の全体があまりに被災地域に多くを委ね強いてきたということが今回の大震災で大きくクローズアップされた。部品産業の問題、日本の食を支える水産業の問題、そして原発・エネルギー問題がまさにそうである。

日本の産業構造の歪みを是正するためには被災地域に大きな投資を行う夢あるヴィジョンが欲しい。また、エネルギー政策として、原子力発電に頼らず自然エネルギーに代替していくことは大きな流れになっていく。多様なエネルギー源が各地域に確保されるシステムが必要であることは誰の眼にも明らかになったのである。

復興は、単なる復旧であってはならず、日本再生、地域社会再生のためのシステム構築でなければならない。復興計画は、自立循環型地域社会(エコハウス、エコヴィレッジ、エコタウン)の具体的な空間のあり方、その形態とそれを実現する仕組みにわかれるが、前者を自ら提案、選び取るのは地域社会であるという仕組みこそが重要であり、地域住民の日常生活を支える持続的な仕組みの構築こそを復興計画の中に組み込むというのが本論の骨子である。

 

1 地域社会(コミュニティ)主体の復興計画 

まちづくり(都市地域計画)の主体は地域社会(コミュニティ)である。安心・安全のためのまちづくりの基礎は地域社会にある。

 災害発生まもなくの緊急事態、倒壊した家屋の下敷きになった人たちの救出や消火など緊急事態に対処する上で第一に拠り所になるのは地域社会(近隣)である。個々の地区における相互扶助活動である。大災害では、消防、警察など災害救助の役割を担う職員を含めて自治体職員も被災者となる。今回の場合、町長を含め、町役場職員の過半が津波に流されてしまうという事態も発生した。また、自治体の危機管理システム、防災体制が完備していたとしても、必ず機能するとは限らない。今回津波に襲われて甚大な被害を受けたのは、日本で最も津波対策を行い、避難訓練もしてきた地域である。そして、災害後の避難生活を支えるのも基本的には地域社会である。地域社会と切り離された形の応急仮設住宅への入居は、阪神淡路大震災の時には単身老人の孤独死など大きな問題を残した。地域と生活基盤の密接な関係を考慮するのは復興計画の前提である。

 さらに、復興計画で徹頭徹尾問われるのは地域における合意形成である。集合住宅の復旧、建替え、区画整理事業、再開発事業など復興のための全ての計画において必要なのは住民のまとまりである。地域社会の安全・安心のために個々人が果たすべき役割が共有されなければ合意形成は困難である。

 以上のようにまちづくりの基礎は地域社会にある、にもかかわらず、地域社会をまちづくりの主体とする仕組みが日本にはない。都市計画審議会等都市計画決定の手続きは形式的で、地域社会の参加は必ずしも保証されていない。自治体の都市計画に関わる施策は縦割りの組織による事業、補助金制度が主体となっており、その枠組みに縛られている。

 

2 コミュニティ・アーキテクト制 

さらに、少子高齢化が進行し、地方中央の格差が拡大するなかで、日本各地で地域社会そのものが衰退しつつあるという大問題がある。何も中山間地域に限る話ではない。人口十万人程度の地方都市の中に、六五歳以上が過半を超える限界集落が存在するのである。復興計画の前提として構想されるべきなのが、地域社会そのものの再生計画である。

 言うまでもなく、まちづくりの実施主体としての基礎自治体の役割は大きい。しかし、自治体が全ての地区についてその計画を一貫して担うのには限界がある。地域社会の自発的な取り組みを前提として、それをサポートする形が基本である。

 一方、地域社会が自らの要求を自ら地区計画へまとめあげるのにも限界がある。地域社会内部で利害はしばしば対立するし、要求をまとめ上げる時間、エネルギーは大きな負担となる。また、地区計画に関しては専門的知識も必要とされる。

 そこで期待されるのが、「公共」自治体と地域社会の関係を媒介する「コミュニティ・アーキテクト」と仮に名づける職能である。アーキテクトというけれど建築家に限定するわけではない。まちづくりの仕掛人、組織者、支持者(サポーター)など地域社会を維持していくキーパースン的役割を果たす人材の総称がコミュニティ・アーキテクトである。様々なヴォランティア・アソシエーション、NPO(非営利組織)もその中核に含まれる。地域診断からまちづくりへのプロセスを一貫してサポートし、調整する役割を果たす職能が地域社会再生のために不可欠である。

 「コミュニティ・アーキテクト」がカヴァーすべき仕事の範囲は、非常時・日常時、身近な住まいから国際的活動まで広大かつ多様である(図1)。

 

3 大きなヴィジョンと小さなプロジェクト 

復興計画のためには大きなヴィジョンが必要である。大きなヴィジョンと大規模プロジェクトは異なる。日本の現在の国力、財政事情を考える時、被災地全域に一律平等に大規模な投資を行うことは不可能であろう。もちろん、選択と集中は国策としてあっていい。しかし、復興計画の基礎、根幹を以上のように考える時、いくつかの原則が確認できる。

復興計画の立案、実施に当たって地区住民の参加を前提とすると、合意形成のためには、小規模プロジェクトを積み重ねるのが基本となる。そして、ステップ・バイ・ステップ(段階的)アプローチが必要となる。実際、被災地では、様々な形で、既に自力の復興がなされつつある。そして、最終的に依拠すべきは地域の力である。個々の動きを段階ごとに、一定のルールの下に誘導していくことが基本的指針である。

復興ヴィジョンがまとまるまで、マスタープランが固まるまで、予算措置の目処がつくまで、建築制限を延長するという動きがある。そして、壊滅的に被災した地区については土地を国が買い上げ公有化し、あるいは特区とし、所有と使用(利用)を分けたあらたな街づくりを試みようという主張がある。それぞれに追求されていいけれど、問題は日々の生活であり、日々の復興である。自力による仮設住宅建設、産業拠点建設、仮設の市街地建設は許容されていい。それが段階的アプローチである。

 

4 地域の生態系に基づく居住システム:循環と継承 

地域には地域の、また同じ地域でも地区毎に、歴史があり、個性がある。地域は、そこに住む住民の生業のあり方に従ってかたちをもっている。復興計画は、地域の、そして地区の歴史的、文化的、固有性を尊重し、多様性を許容する方法で実施されるべきである。すなわち、被災地全体に画一的なやり方はなじまない。

例えば、山や丘を切り拓いて一律高台に居住地を建設すべきであるといった方針が強制されるべきではない。また、海辺には、大堤防を瓦礫でつくるべきだとか、人口台地をつくるべきであるといった一律の指針が押し付けられてはならない。それぞれの町はそれぞれの地形に基づいて復興計画を立案するのが自然である。

依拠すべきは、地域の自然生態系であり、その基盤の上に築き上げられてきた社会、経済、文化の歴史的複合体である。まずは、地域の自然条件を、またポテンシャル(潜在力)を、今回の被災状況に照らして、またこれまでの災害の歴史も加えて確認することが出発点になる。津波の力が人知をはるかに超えたものであることは誰の眼にも明らかになったのである。

そして、復興計画に地域の自立循環の仕組みが組み込まれるべきである。低炭素社会をめざす自立循環システムと相容れない建設投資が持続性をもたないことははっきりしているのである。例えば、仮設住宅は、地域産材である木造を用いて建設するのが基本だろう。木を育て、木を使うことは低炭素社会を目指す循環の仕組みにも適っている。仮設住宅建設には、少なくとも建設資材のリサイクルの仕組みが組み込まれている必要がある。ただでさえ、日本の住宅ストックにはかなりの空家がある。間に合わないから急遽海外からプレファブ住宅を輸入するなどというのは本末転倒である。多少時間がかかっても、地場の大工さん、工務店さんによって建てていく方が持続的な仕組みの構築につながっていくだろう。

水、電気、ガスといったエネルギー循環についてすぐさま地域循環を実現することは、原発問題が示すように容易なことでではない。指針となるのは、一個の住宅であれ、自律型エコハウス(オウトノマス・ハウス)をめざすことである。そのための技術体系は既に準備されている。全ての住戸にソーラーバッテリーを!というのはわかりやすいけれど、それだけで解決というのは短絡思考である。エコハウスの技術をそれぞれの地域で練り上げていく必要がある。

地域の歴史的文化遺産も大きなダメージを受けた。今回全てを押し流されてしまった地区が少なくなく言葉を失うが、地区の固有性を維持していくために、可能な限り復旧、再生するなど、歴史的文化遺産は大きな手がかりとなる。都市は歴史的な時間をかけて形成されるものであり、また、住民の一生にとっても町の雰囲気や景観は貴重な共有財産である。人々の記憶を大切にする再生をめざしたい。

 

5 未来の世界遺産都市をめざして:復興まちづくりコンペティション 

 以上のような指針も、具体性を欠いては意味がない。問題となるのは、財政的裏づけであり、人材である。しかし、できることから一歩ずつ進めるというのも指針である。震災直後から「生活の復興と産業の復興は同時。仮設住宅だけでなく、仮設産業施設も必要」と南三陸町の漁港の仮設の番屋を建てる活動を支援してきた。それにしても個人でできることは限られている。必要なのは、情報を共有するプラットフォームの構築である。

 各地域の、各自治体による復興計画は、いずれ近い将来、実際のまちのかたちになって表現される、結果がわかるコンペティションである。様々な解答があってしかるべきであり、それぞれのまちが世界に誇れるまちに生まれ変わっているかどうかが勝負である。100年後には世界遺産に登録されるようなまちとなっていることが目標となるだろう。ということは、復興計画のプロセスは、世界に発信し続ける内容を持ち続ける必要があるということである。

 地域主体の復興計画をうたい強調してきたのであるが、それがどう国際的に開かれているかは大きな視点、評価軸になる。まさに国際的に生きてきた三陸海岸の遠洋漁業の漁師さんたちの視野が模範となる。今回の震災復旧の支援にどれだけ国境を越えた参加があったかを考えてもそれは明らかである。世界の中の地域、地域の中の世界を見据え、世界に通用する提案が求められているのである。

 国際復興まちづくりコンペの骨格は以下のようである。 

  A コミュニティ・アーキテクト集団の編成

被災地の基礎自治体(市町村)毎に、在住、近在の建築士、建築学会員等を中心に第一次コアを設立、自治体首長および復興計画ボードとの連携関係を確立する。この第一次コアの立ち上げには、当該地域の出身者、これまで当該自治体の都市マスタープラン、基本計画等に携わった経験をもつ都市計画家、コンサルタント、公共建築の設計を手掛けた建築家が関与する。第一次コアをサポートする大学研究室を近接都道府県を第二次コアとして加える。さらに、この地域コアに全国からサポーターを第三次として、また諸外国から第四次として招聘する。このコミュニティ・アーキテクトの集団は、復興計画のヴィジョン、具体的計画、そしてその実行の過程に長期にわたって関与する。

B コミュニティ・アーキテクト・ボード

コミュニティ・アーキテクトのネットワーキングはコミュニティ・アーキテクト・ボードCAB(日本建築学会を想定)が行う。また、CABは、復興会議、国の省庁、関連機関、関連諸団体との調整を行う。

C 国際復興まちづくり会議

各コミュニティ・アーキテクト集団は、復興まちづくり計画とその実現のプロセスを競うことになる。CABは、復興まちづくりのための情報交換と意見交換のためのシンポジウム・会議を定期的かつ持続的に開催する。また、その内容を国内外に発信、ネットワークとその支援体制の組換え、補強を行う。さらに、グローバルな経験交流のための国際会議を組織する(国際建築家協会UIAのような国際機関を想定)。

競われるまちづくりの評価基準は、従って、世界文化遺産登録基準(人類の創造的才能を表現する傑作、・ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの、現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠、・人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例、・特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている、ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落または土地利用の際立った例など)と言えばわかりやすいかもしれないが、被災地を消滅した地域、存続が危ぶまれている地域に適用するわけにはいかない。

共通に求めるべき項目があるとすれば、やはり、地域が自立循環系をどれだけ自らのうちに含みこんでいるかどうかということになる。第一に、それぞれの地域に固有な住居(エコハウス)の型をもつこと、第二に、複数のエコハウスが集合してできる共同住宅さらには街区(エコ・ヴィレッジ)の型をもつこと、第三に街並み景観の全体が地域の自然環境と一体となったアイデンティティをもつことである。

コミュニティ・アーキテクトには、それぞれの地域に即して、既に少なくとも以上の三点について具体的なイメージ、モデルを提示することがもとめられている。コミュニティ・アーキテクトたらんとする若い諸君は失敗を恐れる必要はない。その責任は自分たちの世代がとればいいのである。
















2025年6月6日金曜日

地域再生を目指して:ディテールから 『日本のサステナブルエリアデザインとコミュニティ・アーキテクト~地域主権の計画枠組:制度と担い手~』提起報告書,サステナブルエリアデザインとコミュニティ・アーキテクト特別研究委員会,2009年8月

 地域再生を目指して:ディテールから

布野修司 滋賀県立大学 建築計画委員会委員長

 

「タウンアーキテクト」は、自治体と地域住民のまちづくりを媒介する役割をもつ。そして、まちづくりは、そのまちに住む人々の生活全てに関わる。「タウンアーキテクト」の仕事は、景観の問題や都市計画の問題に限定され、閉じるわけではない。景観の問題は、地域の生活環境の全体の問題であることは、本書で繰り返し触れてきたところである。「タウンアーキテクト」の仕事を包括するのが「コミュニティ・アーキテクト」の仕事である。

 

「タウンアーキテクト」から「コミュニティ・アーキテクト」へ

京都CDLの活動に一区切りつけて、拠点を彦根(滋賀県)に移したのであるが、新たな職場である滋賀県立大学で引き続いて日本の「タウンアーキテクト」のあり方を模索することになった。「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座」という教育プログラム(内閣府「地域再生のための人材育成プログラム」)を新たな仲間と始めることになるのである。

「地域診断からまちづくりまでを一貫して担う人材」を「コミュニティ・アーキテクト」と呼び、「近江商人」になぞらえて「近江環人」と呼ぶのである。「環」は環境の「環」であり、ネットワークの「環」である。あっという間に大学の学則まで変更できたのにはびっくりしたが、それだけ「コミュニティ・アーキテクト」という存在の必要性がかなり広範に共有されているということである。

地域には地域の課題がある。少子高齢社会となって、日本の人口は減少していくことになるが、全国で滋賀県だけは増加するという。京阪神への通勤者が転入することが予測されるのである。しかし、それは県南の県庁所在地大津を中心とした地域のことであって、県北では過疎化が進行し、「限界集落」も少なくない。滋賀県の「南北問題」である。嘉田由紀子知事が、新幹線駅(栗東駅)の新設を「もったいない」と訴えて当選したのは、開発拡大成長路線ではどうしようもない現実があるからである。

滋賀県には琵琶湖があり、世界有数の古代湖として、貴重な生物が生息してきた。ところが、次々に絶滅危惧種に指定されつつある。環境問題は近江(滋賀)の大テーマである。また、近畿の水瓶であり、淀川水系の治水・利水問題の要である。県内にダム問題も抱える。

滋賀県立大学では、大学院の教育プログラムである「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座」の開設に先駆けて、「地域に根ざし、地域に学ぶ」をスローガンに学生が地域活動に取り組む「スチューデント・ファーム近江楽座」というプログラム(文部科学省の現代的教育ニーズ取組支援プログラム)があって、地域の様々な課題に取り組んできた。

キャンパスそのものがまずフィールドである。省資源、省エネルギー、自然共生(ビオトープ)、地産地消など環境への負荷の低減、循環型社会実現のための取組みの基地として、木工作業所「もくれん」、古民家の蔵を移築活用したエコハウスがある。そして、近江八幡には「NPO 法人エコ村ネットワーキング」、「(株)地球の芽」による「小舟木エコ村」がある。「湖国菜の花エコ・プロジェクト」は、環境に配慮したバイオディーゼル燃料の可能性を追求してきたが、学生たちも参加する。倉を学生たちのシェアハウスに改造する「豊郷改造プロジェクト」といったプロジェクトもある。

こうして挙げていけば、地域それぞれ数多くの、コミュニティ・アーキテクトのテーマがある。固有の課題を固有の方法で解くのが「コミュニティ・アーキテクト」の手腕である。そして、こうした地域再生の試みは、全国で多様に展開されつつあり、数多くの「コミュニティ・アーキテクト」が既に活躍しつつある。

 

地域の自立へ

日本の地域社会は、急速に変貌しつつある。「景観」の問題以前に、地域社会の存立基盤に関わる数多くの問題を抱えており、その建て直しが急務なのである。地域の景観の貧しさは、地域社会の貧しさの表現である。

実は、「タウンアーキテクト」のような存在が必要だと痛感したのは、「景観」という観点からだけではない。地域の安心・安全のためにも、すなわち防災という観点からも、いざというときに地域を支援する存在が必要だという想いも強かった。阪神淡路大震災の経験が決定的であった。「タウンアーキテクト」論を「裸の建築家」というタイトルのもとに書いたのは、「建築家」が何も出来なかったという、自虐的な想いを込めてのことである。

「タウンアーキテクト」は、「景観」以前に、「都市計画」として、地域再生に取り組む多くの課題を持っている。地域再生とは、地域に住む誰もが活き活きと暮らしていける空間とそれを支える仕組みを持続的なものとすることである。

阪神淡路大震災に学んだことを反芻しながら、地域再生の課題を列挙すると以下のようになる。一言で言えば、地域社会が自立できること、また自律できる仕組みをつくることである。

a 自然の力・・・地域の生態バランス

 阪神淡路大震災以降も日本に限らず世界中で毎年のように災害が起こるが、つくづく思うのは自然の力のすごさである。いくつものビルが横転し、高速道路が捻り倒される。山が崩れて川を堰きとめてしまう。

また、避難所生活を通じての不自由さは自然に依拠した生活基盤の大事さを思い知らせてくれる。水道の蛇口をひねればすぐ水が出る。スイッチをひねれば明かりが灯る。空調機械で室内気候は自由に制御できる。人工的に全ての環境をコントロールできる、というのは不遜な考えである。一方、自然のもつ力のすばらしさも再認識させられる。例えば、家の前の樹木が火を止めた例がある。緑の役割は大きいのである。河川や井戸の水も消火に当たって、その大切さを思い知ったのである。

山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。海を埋め立てる。自然景観を大きく変える都市開発を行ってきたが、そうして造った土地は本来人が住んでこなかった場所だ。災害を恐れるから人々はそういう場所には住んでこなかった。その歴史の智恵をいつのまにか忘れてしまっている。

人工環境化、あるいは人工都市化が都市計画の戦後一貫した趨勢となるなかで、自然は都市から追放されてきた。何度も述べたが、自然の生態バランスに基礎を置いた都市、建築のあり方こそが基本である。 

b 多極分散構造

日本の大都市は、移動時間を短縮させるメディアを発達させひたすら集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。その一方で都市や街区の適正な規模について、われわれはあまりに無頓着であった。

都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。大震災が首都圏で起きていたら、東京一極集中の日本の国土構造の弱点がより致命的に問われたのは確実である。

阪神淡路大震災によって、ライフラインと言われるインフラストラクチャーの多くが機能停止に陥った。阪神間の都市構造が大きな問題をもっていることは、以前から指摘されてきた。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線がない。道路にしてもそうである。それぞれに代替システム、重層システムがなかった。多極分散型のネットワークは、交通インフラに限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要である。エネルギー供給の単位、システムについても同様である。

c 公共空間の豊かさ

災害の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程において明らかになったのは、公共施設、公共空間の少なさ、貧しさである。病院や消防署がダメージを受けるとどうしようもない。避難所として期待される学校もそうだ。地域施設としての公共施設には、非常時を想定した性能が要求されるのである。全体としてクローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。空地が少なくて、仮設住宅を建てるスペースがないのである。また、空き地は防火上も必要である。

地域が豊かであるかどうかは、多様な公共空間が身近にどれだけ用意されているかどうかで測れるであろう。とりわけ必要なのは、社会的弱者のためのスペースである。多くの場合、最もダメージを受けるのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者である。結果として、浮き彫りになるのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会的弱者を切り捨てる階層性の上に組み立てられてきたことである。

社会的弱者のみならず、地域住民にとっても、

d 相互扶助とヴォランティア

目の前で自宅が燃えているのを呆然とみているだけでなす術がないというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながった。

阪神淡路大震災において最大の教訓は、非常時には行政が役に立たないことが明らかになったことだ、という自虐的な声がある。一理はある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明らかである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。行政システムにしろ、産業的な諸システムにしろ、他への依存度が高いほど問題は大きかった。教訓として、その高度化、もしくは多重化が追求されることになろう。

阪神淡路大震災において、日本にはじめて、ヴォランティア活動が誕する。そして、それが大きな流れとなって、NPO(非営利組織)が日本に根づいていくことになった。

地域を運営し、維持管理していくのは地域住民であり、責任を負うのは自治体である。しかし、地域社会も、自治体も、うまく機能しなくなっているのだとしたら、あらたな仕組みを構築する必要がある。その象徴が「タウンアーキテクト」であり、「コミュニティ・アーキテクト」なのである。

 

ディテールから

「タウンアーキテクト」の仕事が「コミュニティ・アーキテクト」の仕事に広がっていく、あるいは包括されるということを確認したうえで、「景観」について何をすればいいのか、何から始めればいいのか。

景観に関わる法的枠組みは「景観法」によって一応用意されたのであるが、その枠組みに従えばいいということではない。第一、法律は「こうしなさい」と書いているわけではない。「するならこうですよ」「こういうことはできますよ」というだけである。

「景観法」は、「まちづくり協議会」や「景観整備機構」といった組織の設置を認めており、それを活用することは出来るが、誰がどうやって何を始めるのかは自治体や地域住民に委ねられている。本文で触れたように、行政主導のプロセスとして想定されているのは、まず、自治体が「景観行政団体」となり、「景観計画」を立案する。「景観地区」「準景観地区」を定め、「景観協定」などを定めることができる。

行政主導の景観計画については、既に多くのマニュアルもあるし、多くの自治体が「景観行政団体」として名乗りを上げつつある。それぞれの自治体がそれぞれの独自な取り組みを競うことが求められている。っしかし、成果が議論されるにはもう少し時間がかかるであろう。何しろ、景観計画は少なくとも百年の計である。

 しかし、全体的に上からコントロールしたり、指針をつくったり、マニュアルができたということで、必ずしも日本の景観が「よくなる」(変わる)わけではない。問題が「合意形成」であることは、様々な事例が示しているのである。

 ただ、「景観戦争」が勃発してからでは遅い。

この状況は、「景観法」施行以降も変わったわけではない。法的拘束力をもった「景観計画」が成立しているかどうかが問題であり、私権を制限するルールを他から強いるのは容易ではない。

 だからこそ、日常的に地域のことを考える「タウンアーキテクト」の存在が必要なのである。

しかし、何から始めるか、という点に関しては同じである。報告書やマニュアル、提案だけ立派でも仕方がない。

まず、誰もが「建築家」であるという原点に立ち返って考えることである。景観形成の主体は、いうまでもなく、市民であり、住民である。行政、あるいは「タウンアーキテクト」の役割は以上のように大きいのであるが、住民の参加は不可欠である。また、住民こそが主体となり、イニシアティブをとるべきである。

一般的に市民参加型の景観づくりの組織体として、まちづくり協議会のようなシステムが必要となる。景観の問題のみならず、これからまちを活性化するためにどうするのかという議論を重ねながらまちづくりをする。 まちづくり協議会の形態はそれこそ多様でいい。その形態のユニークさが地域に固有な景観を創り出す鍵になるだろう。原則は、システムの透明性であり、公開性である。決定のプロセスが常に公開されていれば、常にチェックが可能である。どんな仕組みをとるにせよ、公開性をもった試行錯誤が積み重ねられて多様な仕組みができるであろう。

出発点は、身近なこと、小さなこと、ディテールからである。

たとえば、「街並み景観として自動販売機やクーラーの室外機、看板が気になる」といったこと、どんな小さなことでもどんどん知恵と工夫を出せばいい。住民ができることは、やはり身近な問題なのである。できることは、もしかすると家の前を掃除することかもしれないし、花壇を作ったりすることかもしれない、とにかく自分でできる身近なことからというのが出発点である。景観法に基づく「景観計画」にしても、小さなことを各都市で様々にゲリラ的に展開したほうがいい。

 この間、「イスラーム都市」について考えている。実際、イスラーム圏のいくつかの都市について臨地調査も行って、『ムガル都市―イスラーム都市の変容―』(布野修司+山根周共著、京都大学学術出版会、二〇〇八年)という本も書いた。

都市計画や景観計画のモデルはヨーロッパだけではない。アラブのイスラーム都市にも学ぶべきことがある。一言で言えば、「ディテールから」という原理である。予め全体計画(マスタープラン)として立案される都市計画の伝統とは異なった伝統がイスラームにはある。『ムガル都市』にかなり詳細に書いたので省略するが、要点は二つである。

ひとつは、相隣関係に関する細かな規定が積み重なって街が出来上がっていることである。イスラームが専ら関心を集中するのは,身近な居住地,街区のあり方である。道路の幅はラクダが通れる範囲とか、ラクダに人間が乗るから、何メーター以下のものを作ってはいけないとか、そういった細かいディテールについてイスラーム法(シャリーア)や様々な判例がある。日本にももちろん民法あるいは建築基準法上の規定はあるが、より細やかである。白紙の上に線を引くような規定ではないのである。上からコントロールするのではなく、身近なルールを積み上げるそういったまちづくりのあり方が模索されるべきである。相隣関係のあり方が鍵である。

もうひとつは、ワクフという寄進制度である。イスラームには、自ら得た富を街に還元(寄付)する教えがある。モスクやマドラサなど主要な都市施設は、一般的にワクフ財によって建設されるのが一般的である。

何も特殊なことではなく、日本でも社寺仏閣に寄進の仕組みはある。まちづくりには本来こうした制度が不可欠である。

 議論をいくら積み重ねてもある段階から先へは進めない、という事態となる。何でもそうであるが、要はお金である。どうしても財政的な裏づけが必要となる。自治体の財源、財政の問題となるが、地方財政には限りがある。

そうした状況の中で、「景観基金制度」というような仕組みを考えられないかと思って『裸の建築家』にも書いた。「景観を壊すな!マンション建設反対」というけれど、先立つものがない。景観問題に口は出すけど、金は出さない、というのではどうにも動きがとれないのである。補助金や他人のお金を当てにするだけでは消極的である。

「景観基金制度」が出来ても、まちの全体をカヴァーしようとすると薄くなる。ターゲットを絞って、戦略的に施策を展開する。優先順位を決めて順番に基金を回転させていくそんな仕組みが各都市毎にできればいい。場合によると、ナショナル・トラスト的な形も必要になるかもしれない。ここでも、多様な基金集めのやり方が問われるであろう。また、小さなお金をいかに有効に効果的に使うか、その創意工夫が問われるであろう。

 お金の話で締めくくるのは本位ではないが、言いたいのは、「景観で飯が食える」世界のほうが、「景観」を売り飛ばす世界より、遥かに豊かで健全である、ということである。

 








 

2025年6月3日火曜日

地球環境時代の都市デザイン、特集 温暖化への対応 日本のテクノサイエンス、科学、200805

温暖化にいかに対応するか──技術・都市・ 環境(仮)

「生態系的都市」(仮)4500程度

 

地球環境時代の都市デザイン

布野修司

 

 地球環境問題が喧しく論じたてられ、様々な対応策が論じられるにも関わらず、いっこうに事態の進展が見られないのは実に不思議である。そして、そこにこそ現代の根源的危機があるのもはっきりしている。

 第一、危機を危機として認識しない底抜けの楽天主義がある。あるいは危機を疑う懐疑主義がある。第二、裏返しで、危機を危機として煽るだけのエコ・ファシズムがある。あるいは、エコという名に値しない「偽装エコ」が横行している。第三、この二つによって「不都合な真実」が隠されてしまっている。第四、隠された「真実」として、危機を危機としてそれをビジネスとする、あるいは危機であろうとなかろうと格差、差異を利潤の原動力とする世界資本主義の自己運動がある。第五、危機を危機として意識するものの、対処の仕方がわからない、対処ができないという問題がある。これが最も身近な問いである。

石油依存の社会、車依存の社会が決定的に問題であることははっきりしている。しかし、車に乗るな!と言われても、そうはいかない。根源的にはライフスタイルの問題であると頭で理解はできても、最早身体がついて行かない、そんな事態に立ち入ってしまっている。すなわち、地球大の問題と個々の身体の問題が直接絡まり合って、解くに解けないのが現代である。

 ここでは、地球環境時代の都市について考えたい。「日本の風土に合わせた都市のデザインをどのように考えていくのか」というのが与えられたテーマである。物質循環、エネルギー循環といった観点からの論考は他に譲ることになるが、もとより、理論モデルを立て、シミュレーションをして、数値目標を導き出すなどは不得手である。しかし、事態が、50%削減が不可避という方向であるとすれば、解決は、単なる数値合わせ、CO2排出権取引といった次元にはない、ことははっきりしている。

もう30年もスラバヤ(インドネシア)のカンポン(都市村落)に通っている。カンポンとはムラという意味である。都市の住宅地なのにカンポン(ムラ)という。詳述する余裕がないけれど、そこには自立的なコミュニティがある。貧しいけれど、職住近接の活気に満ちた世界がある[i]

そうしたカンポンの世界でスラバヤ・エコ・ハウスと呼ばれる実験集合住宅を建てた。椰子の繊維を断熱材に用い、井戸水を太陽電池のポンプで汲み上げて床輻射冷房の装置を組み込んだ。こうしたモデル集合住宅、モデル住宅地が各地で試みられる必要があると心底思う。とりわけ、今後人口が増えるのは熱帯地域である。そこで皆が一斉にクーラーを使い出したらどうなるか。インドネシアの友人たちと議論を重ねて設計した、自然エネルギーを最大限に生かしたモデル集合住宅がスラバヤ・エコ・ハウスである。

「しかし、何故、エコ・ハウスをわれわれだけに押し続けるのですか?日本ではクーラー使わないのですか?」という無数の声がある。

今のところ筆者は、何も言えずに、黙るしかない。

都市といえども、それを構成する都市組織のあり方、具体的には街区のかたちや住宅のかたちが問われる。そのあり方を念頭に、世界の都市史を大きく振り返って、素朴な直感をメモしてみたい。

 

大転換の1960年代

 都市の歴史を大きく振り返る時、それ以前の都市のあり方を根底的に変えた「産業化」のインパクトはとてつもなく大きい。都市と農村の分裂が決定的となり、急激な都市化、都市膨張によって、「都市問題」が広範に引き起こされることになった[ii]。しかしながら、今日の都市をとりまく状況は、さらに桁外れに危機的となりつつある。その決定的な転換の閾は1960年代にある。

日本列島の景観の変化が象徴的にそのことを示している。1960年代初頭、日本にアルミサッシュの住宅はゼロである。全て木製建具であった。1970年その普及率は100パーセントとなる。クーラー(空気調整機)が普及し、日本の住宅の機密性があがったということである。日本の都市の人工環境化は以来とどまることを知らない。日本にプレファブ(工業化住宅)住宅の第1号ミゼットハウスが販売されたのが1959年である。1970年には年間新築戸数の14パーセントをプレファブ住宅が占めた。現在は20パーセントを超える。住宅は建てるものではなく、工場で作られたものを買う時代になった。この10年で、日本中から藁葺き茅葺きの民家がほぼ姿を消した。1960年代は、間違いなく、日本の住宅史上最大の転換期である。東京オリンピックを期に、高速道路網が東京につくられ、百尺規定が撤廃されて、最初の超高層建築霞ヶ関ビルが建ったのは1968年である[iii]

第二次世界大戦が終わった頃、すなわち20世紀半ば頃までは、都市景観に大きな変化はなかったといっていい。東京で言えば、江戸の雰囲気がそこここに残されていた。

CO2削減の基準年を1990年代のどこに置くのか、といった議論はあまりにも姑息で近視眼的である。都市を含めた社会システムの全体を問題にするのであれば、少なくとも1960年代の初頭、あるいは第二次世界大戦終戦直後に遡って、そこを出発点と考えるべきだと思う。

 

鉄とガラスとコンクリート

産業社会の進展を加速化し、都市化の水準を格段に変えてしまったのが石油である。すなわち、外燃機関から内燃機関への展開、具体的には、車と飛行機の出現は、移動時間を短縮させ、都市の拡大を飛躍的に促すことにおいて、都市のかたちをそれ以前とは比較にならないほどに変えてしまう。そして、都市の立体化を実現したのが「鉄筋コンクリート造(reinforced concrete construction、略してRC造という)」の「発明」であった。鉄とコンクリート[iv]の「偶然の結婚」と言われる、この「発明」がなかったら、世界都市史は全く異なったものになった筈である。

鉄筋コンクリートは、引張りに強い鉄と圧縮に強いコンクリートを組み合わせる実に都合のいい合成材料である。「偶然の結婚」とは、たまたま、鉄とコンクリートとの付着力が十分強いこと、コンクリートはアルカリ性であり、鉄はコンクリートで完全に包まれている限りさびる心配がないこと、そして鉄筋とコンクリートの熱膨張率が非常に近いこと、という条件があったということである。

1850年頃に、フランスの J. L. ランボーが鉄筋コンクリートでボートをつくったのが最初で、1867年に、J. モニエが鉄筋コンクリートの部材(鉄筋を入れたコンクリート製植木鉢や鉄道枕木)を特許品として博覧会に出品したのが普及の始まりである。J. モニエは1880年に鉄筋コンクリート造耐震家屋を試作する。その後ドイツのG.A.ワイスらが86年に構造計算方法を発表し、実際に橋や工場などを設計し始め、建築全般に広く利用されるようになった[v]

すなわち、鉄筋コンクリートの歴史はたかだか一世紀のことである。そして、われわれにはかつて最強の永遠の素材と考えられた鉄筋コンクリートに対する信頼感はない。塩分を含んだ海砂の問題で明らかになったように意外にもろい。再生コンクリートも模索されるが、その未来は見えない。

ここでも、われわれは一世紀前に遡って、都市空間支える物質的基礎(建築材料)を再考すべきである。

 

都市の死

都市の立体化へ向かっては、もちろん、鉄骨造の発達もあれば、エレベーター技術の開発が不可欠である。いずれにせよ、科学技術の発達によって、都市は垂直的に空間を確保することによって、さらなる集積が可能となった。そして、地域の生態系を超えるキャパシティを持つ都市が世界中に出現することになった。かつて、プライメイト・シティ(首座都市、単一支配型都市)と呼ばれた発展途上地域は、だらだらと繋がり始め拡大巨大都市地域EMR[vi]と化しつつある。

こうしたクライマックスが見えてしまった段階で、想起すべきは都市の生と死の歴史(栄枯盛衰)である。都市が無限に拡大し続けることはあり得ない。エネルギー、資源、食料が有限であることは、既に地球大の規模で確認されつつあることである。

インダス文明は、紀元前2000年頃から衰退し始め、前1800年頃には解体したとされる。衰退の理由として挙げられるのは、まず、インダス川の大氾濫、あるいは河口の隆起による異常氾濫、もしくは河川の流路変更などの自然条件である。また、モエンジョ・ダーロにおける「スラム」化など都市機能が麻痺したことによる都市内的要因である。その衰退は、徐々に進行したとされ、煉瓦を焼くための森林の過剰伐採による気候変化(乾燥化)という説もある。

都市は、そもそも、自然、地域の生態系への挑戦として成立する。その原型としてのオアシス都市を考えてみればいい。オアシスは、単に、水のあるところではない。水を利用して農耕が行われるところがオアシスである。すなわち、オアシスは自然に存在するのではなく、人工的営為によってつくられるのである。オアシスの持続のためには人為が不可欠である。沙漠に埋もれて忘れ去られた数多くの都市があることがそのことを示している。また、オアシスの成立には水の利用について高度な技術、知恵が必要とされる。

都市が今日でも自然、地域の生態系との関係においてのみ存続していることは、台風や地震、ますます増え続ける都市洪水などで思い知らされていることである。

 

地域の生態系に基づく居住システム

さて、ここからが本題である。建築、あるいは土地は、基本的に動かないし、動かせない。基本的には「地(ぢ)のもの」である。プレファブ(工業化)建築は、ある意味で画期的な発明であった。土地土地で採取できる材料(地域産材)によってつくられてきた建築が工場で作られようになるのである。工業材料(鉄、ガラス、コンクリート)でつくられることによって、また、四角い箱形のジャングルジムのような超高層建築を理想とする近代建築の理念によって、世界中の都市が似てくるのは当然の流れであった。

ただ一点、建築は他の工業製品と異なる。99%工場でつくられても、具体的な敷地に置かれて始めて建築となる。建築が「地のもの」、というのはそういう意味である。

環境をめぐる全てが複雑に絡まり合う現代社会において、唯一、共通の指針となるのは、

「可能な限り身近に循環系を成立させる」

ということであろう。「地産地消」というスローガンが共有されつつあるが、食糧にしても、エネルギーにしても、廃棄物にしても、地域を越えたとてつもないシステムが地域の生態系に基づいてきた居住の仕組みをずたずたに切り裂いてしまっていることが最大の問題なのである。

都市についても、同じように言いうる。「日本の風土に合わせた都市のデザインをどのように考えていくのか」と言われれば、地域地域で採れる、あるいはつくられる素材を基礎にして、都市をデザインすること、その原点に立ち返ることが出発点になる。例えば、木材は真剣に見直されていい。しかし、国内自給率が50%を下回って(1985年)既に久しい。日本に木材が育っていないわけではない。食糧同様、その生産流通消費の構造が狂ってしまっているのである。

エコハウスなどと言わなくても、日本の住まいは、そもそも、日本の気候風土にあったかたちで成立し、その伝統を維持してきた。世界中を見渡しても、住居が地域の生態系に基づいて成り立ってきたことは明らかである[vii]

何故、日本でエコハウス=地域の生態系に基づく居住システムが実現しないのか、と言えば、冒頭に戻っての堂々巡りである。そうした方向を否定してきたのが産業化の流れである。それ故、またしかし、エコハウス=地域の生態系に基づく居住システムの実現は、過去に戻ることを意味しない。また、誤解を恐れずに言えば、単に法制度的な枠組みの改変の問題でもない。確かに、居住あるいは建築をめぐる日本の制度的枠組みには、日本の都市を鉄と・ガラスとコンクリートで画一的に固めてしまえばいいといった、どうしようもないところがある。そして、エコハウス・オリエンティッドな環境経済学的な仕組みも最大限追求されるべきである。しかし、全く新たな世界史的な実験と考えなければ展望は見いだせないと思う。それよりも何よりも、百の議論より、身近な一歩である。


布野修司先生
 平素は社としてお世話になっております。突然のメールで失礼いたしますが、私は、岩波書店の雑誌『科学』を担当しております田中と申します。
 『科学』085月号において、地球温暖化への日本の対応について特集したいと考えております。構成案としては末尾のように考えておりますが、どうしても技術的な話が多く、違った角度からの論考も織り交ぜたいと考えております。
 先生には、そうしたものの1つとして、都市のあり方について、4500字程度の論考をご執筆いただけないかと希望しております。
締切としては、314日(金)でご検討いただけると幸いでございます。
 内容としては、先生にお任せしてよいと考えております。構成案に示した「生態系的都市」というのは、あてずっぽうで、先生のホームページに記載されていた言葉を勝手につなぎ合わせたものです。
 都市については、花木啓祐氏(東大)に、エネルギーや物質循環などの側面でお願いしておりますので、先生には、より建築に則した論考を考えていただければと思っております。
 温暖化がすすむとして、日本の風土に合わせた都市のデザインをどのように考えていくのか、といった方向で考えていただくのはどうか、と思っております。
 漠然としていて恐れ入ります。お電話で相談した
いと思ったの
ですがタイミングがうまくあわず、メールにてまず
はお願いをさ
しあげる次第です。
 ご検討をどうぞよろしくお願い申し上げます。

 岩波書店
 田中太郎

『科学』085月号 (敬称略、流動的な内容ですのでお手元に留めてください)
特集:温暖化にいかに対応するか──技術・都市・ 環境(仮)

[技術]
総論(新エネルギーを含めて) 山地憲治(東大)
省エネ 永田豊(電中研)
炭酸ガス貯留 藤井康正(東大)
 [コラム]
 ・IPCCの議論 杉山大志(電中研)
 ・地底の二酸化炭素の科学 赤井誠(産総研)
 ・家庭のエコ 山岡寛人(元高校教師)
 ・産業 製鉄 鵜沢政晴(鉄鋼連盟)
     セメント 北村勇一(セメント協会/太
平洋セメント)

[都市]
総論 花木啓祐(東大)
生態系的都市 布野修司(滋賀県立大)

[環境]
日本の適応策(農業、防潮堤) 原沢英夫(環境研)
森林の吸収 松本光朗(森林総研)
 [コラム]
 ・バイオ燃料 北林寿信(農業情報研)
 ・農業とメタン 八木一行(農業環境技術研究所)
 ・海洋吸収:地球科学の視点から 中澤高清(東
北大)

[社会]
排出権 岡敏弘(福井県立大)
CDM
 明日香壽川(東北大)


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岩波書店『科学』編集部
田中太郎
1018002
東京都千代田区一ツ橋2
電話:0352104435(直通)
          4000(代表)
ファックス:0352104073
電子メール:tarotan@iwanami.co.jp
HP
http://www.iwanami.co.jp/kagaku/
12
月号特集「富士山噴火の危険性––噴火予知と災
害対策」発売中
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[i] 拙著、『カンポンの世界』、PARCO出版、1991

[ii] 拙稿、「都市のかたちーその起源、変容、転成、保全ー」、『都市とは何か』『岩波講座 都市の再生を考える』第一巻、岩波書店、20053

[iii] グローバルにも、大きな閾となるのは1960年代といっていい。既に兆候は現れていた。「都市化」は、「産業化」の度合に応じる一定のかたちで引き起こされてきたのではない。「工業化なき都市化」、「過大都市化」と呼ばれる現象が、工業化の進展が遅れた「発展途上地域」において一般的に見られた。結果として、1960年代初頭には、世界中に数多くの人口一千万人を超える巨大都市(メガロポリス)が出現しつつあった。

[iv] コンクリートそのものは、建築材料として古代ローマから用いられてきた。広くはセメント類、石灰、セッコウなどの無機物質やアスファルト、プラスチックなどの有機物質を結合材として、砂、砂利、砕石など骨材を練り混ぜた混合物およびこれが硬化したものをいう。セメントとは、元来は物と物とを結合あるいは接着させる性質のある物質を意味するが、その利用そのものは古く、最も古いセメントはピラミッドの目地に使われた焼石膏CaSO4H2O と砂とを混ぜたモルタルである。

[v]日本では、1891年の濃尾地震で煉瓦造の耐震性が決定的に疑われ始めていた。1903年の琵琶湖疎水山科運河日岡トンネル東口の支間7.45mの弧形単桁橋が日本最初の鉄筋コンクリート造土木建造物である。そして、真島健三郎が佐世保鎮守府内のポンプ小屋を建てたのが1904年である。東京帝国大学に「鉄筋コンクリート構造」という科目が開講(佐野利器担当)されるのは、サンフランシスコ大地震が起こった1905年である。そして、06年には白石直治が神戸和田岬の東京倉庫を鉄筋コンクリート造で建てた。本格的な鉄筋コンクリート造建築の最初のものは、その白石直治の東京倉庫 G 号棟(1910年完成)と言われている。

[vi] Extended Metropolitan Region. 拙稿、「メガ・アーバニゼーション」、『アジア新世紀8 構想』、岩波書店、青木保編、2003

[vii] 布野修司編著、『世界住居誌』、昭和堂、2005







 

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...