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2024年4月30日火曜日

植民地支配と建築家、書評 西澤泰彦『海を渡った日本人建築家』、SD,199704

書評 西澤泰彦『海を渡った日本人建築家』
植民地支配と建築家 

布野修司

 

 間違いなく労作である。そして、一見ハンディな本のようでていて、とてつもなく重い本である。

 本書のもとになったのは『二〇世紀前半の中国東北地方における日本人の建築活動に関する研究』という学位請求論文(東京大学 一九九二年)である。そこで時間をかけて丹念に掘り起こされた圧倒的な事実が本書を大きく重みづけている。そして、「二〇世紀前半の中国東北地方における日本人の建築活動」が「日本による中国東北地方への侵略・支配に対して、大なり小なり貢献していたのは確かである」という、全体として扱うテーマの大きさが本書をさらに重いものとしている。

 全体は7章からなる。大連軍政署および関東都督府()、満鉄()、満州国政府()、ゼネコンとフリー・アーキテクト()の前半においては、それぞれ「建築組織」と「建築家」群像が克明に調べられ列挙(リストアップ)された上で、主要な建築(活動)が紹介される。そして後半の3章は、建築様式(Ⅴ アール・ヌーヴォーvs中華バロック)、自然条件と建築材料あるいは都市防火と美観(Ⅵ 異境での建築活動)についての考察を踏まえて、総合的考察(Ⅶ 中国東北地方支配と建築)がなされている。

 最初の建築家、前田松韻が東京帝国大学建築学科を卒業直後にダルニー(大連 ダーリニー)に渡ったのが1904年。そして、池田賢太郎、岡田時太郎が続いた。日露戦争とともに中国東北地方における「建築家」の活動が開始される。以後、15年戦争期にかけて、日本人建築家たちがどのような建築を建てたのか、様々なエピソードとともに記述されている。京都府技師であった松室重光が大連市役所を建てる経緯、大連医院の設計をめぐる米国フラー社の途中解約事件、内地に先駆けた集合住宅、大連近江町住宅を設計した太田毅、安井武雄の満鉄時代、遠藤新と土浦亀城の中国東北地方での活動。かって薄暗い書庫で『満州建築協会雑誌』の頁をめくったことを思い出した。とても書かれたものだけからはわからない興味深い事実が随所に記されていて実に刺激的である。

 日本帝国主義の満州支配の拠点であったといっていい大連の南山地区には今猶1910年代から20年代にかけて日本人によって建てられた住宅が今も猶残っている。大連理工学院の陸偉先生と一緒に調査する機会があった。内地に先駆けてアパートメントハウス関東館(1919年)が建てられている。ゾーニング(用途地域性)も内地京都(1924年)に先駆けている。満州が日本の実験場であったという評価も一方でそれなりに了解できた。大連市はこの南山地区を「保存的開発地区」に指定したのであるが、何を保存し、何を開発すればいいのか、僕自身考え続けている。本書全体がそうした問いに関わっている。

 一個の建物ならもう少し簡単かも知れない。朝鮮総督府(韓国中央博物館)のように如何に傑作であろうともPC(ポリティカリー・コレクトネス)問題として、壊されるべき建築はあるのである。しかし、町そのものは生きられることによって自らのものとなるプロセスがある。南山地区は既に半世紀を超えるそうした歴史がある。本書に微かな不満が残るとすれば、究極的にタイトルが示すように日本の「建築家」からの視点が全体として強調され、建設され残された集団としての住宅地や町の方からの視座が隠されてしまっていることである。

 



 

2003年5月  任期満了?  されど、しばらくは居残り作業! 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌              布野修司

 

2003年5月    

 任期満了?

 されど、しばらくは居残り作業!

 

 

2003年5月1日

授業の一環で京都の南区調査。

共同通信に「1500号記念特集」の記事。井手さんから送っていただく。

 

2003年5月2日

最終(第23回)編集委員会。最後ということでかなりの出席率。大崎、石田の両幹事は泊まりがけの構えである。

メインは、12月号の特集「建築を学ぶ若い人たちへ」(仮題)。

・「初学者に読ませたい本」をアンケートでリストアップする。

・アンケート先は、学会役員(支部長含む)、調査研究委員会委員長および運営委員会クラ スの主査、学会賞受賞者とする。

・アンケートの主旨は、建築を学ぶ学生(初学者)に読んでほしい本を、専門書1冊、一 般書1冊を目安に挙げてもらう。自著と教科書は外すことが原則。

・アンケート依頼状を整えメールで依頼する(事務局)。次回委員会まで結果を用意する。

 という作業を急遽行ったのだがアンケートの集まりが悪い。いささか不満。

・実際の誌面では1分野=1ページとし、36分野を掲載する。各分野ごとに推薦理由2/3 ページ、学生からの読後コメント1/3を掲載する。分野の選択は布野委員長が検討する。・単なるブックガイドにならないよう、専門性をきちんと抑えてもらうようにする。

 という方針であるが埒があかない。そこで、委員それぞれに執筆候補を挙げてもらう。かなりの人数が上がる。

 結局最終決定できず、編集委員長と松山さんが預かるかたちで終結。

 まずは打ち上げ会へ(一次会)。

 続いて、二次会。予定通りの大カラオケ・パーティ。何故か伊藤圭子委員の夫君府中市長も飛び入り参加。

 気がついたら夜が更けていた。

 

2003年5月7日
次期編集委員長、神奈川大学の岩田衛先生に決定との報。

 そして、早速、新会長インタビューの日程調整。

 

2003年5月10日~12

 親父の見舞いのために松江行。たまった庭仕事に汗を流す。のどにプラスチックの器具をとりつけ、声が若干出せるようになる。

 

2003年5月13

 島根県しまね景観小委員会。久々出席。11年目になるとかで見直したいとか。財政問題もある由。

 

 

2003年5月14

理事会。その後懇親会。若干の感慨を挨拶。この日掲載された日経新聞の松山さんの記事を紹介する。

 

2003年5月15

「6月号担当の皆様
 標記について、「NPOが生む建築」がボツになったため3ページの空きが出ました。古谷先生と相談した結果、勝山さんの巻頭原稿を1ページ増、座談会を2ページ増とします。座談会には写真を沢山掲載したいと思いますので、下記のご提供をお願いいたします。」

と小野寺さんからメール。こういうこともあるから、しばらくはまだ大変だ。

 

2003年5月16

 10月号座談会。石田幹事による鼎談メモは以下の通り。

建築雑誌20038月号特集「日常環境の心理と行動 -実験室からフィールドへ」

2003年5月16日(金)1820時,建築会館

鼎談テーマメモ

■ 環境心理研究との関わり

        簡単な自己紹介を兼ねて

■ 環境心理研究の現状

        現状認識

        問題点は何か

■ 日常環境における心理と行動

        複雑で多様な環境要素

        生理,適応,個人差,履歴,文化...(個別性/共通性)

        具体的な研究,建築作品,事例

■ 環境と人間をどのように捉えるか?

        標準値にかわる設計の考え方は可能か?

        人間⇔空間⇔建築

        環境⇔人間のモデル

■ 将来展望と課題

        取り組むべき課題は?

        環境心理の研究と教育

        学会での位置付け,役割

        建築設計,設備設計との関係

 鼎談者が親しすぎたのか、若干不発の印象。手を加えていただくことを依頼。

 

2003年5月19

宇治市景観審議会(広原盛明委員長)。バスで市内を一周。傍聴人の発言許可について若干の議論。

 

2003年5月22

宇治市都市計画マスタープラン検討部会(岡田憲夫部会長)。

この間、編集委員会で議題になっていた投稿文について、掲載を決定することにする。田中淡先生の原稿が届いたので6月号である。経緯は以下の通り。なんらかの議論に繋がればと思う。

 

 本年1月、経済学を専攻する北海学園大学の川端俊一郎教授から、建築雑誌編集委員宛に「日本と中国の最古の木造建築に使われたモジュール『材』」と題する短い論文が送られてきた。中国五台山の南禅寺と仏光寺、日本の法隆寺が、北宋の将作監・李誡の編纂した『営造法式』にみえる「材」(方桁の)をモジュールとして設計されており、前者が唐尺(1尺=約29.6㎝)、後者が南朝尺(1尺=約24.5㎝)を基準尺とすることを述べた短文である。川端氏は、この論文を委員会に投稿してきたのではない。その手紙には「ご笑覧ください」とだけ記してあるのだが、むしろ編集委員会を騒然とさせたのは、同封されてきた以下の2編の論文であった。

 ・「法隆寺移築説への拒絶反応 -日本建築学会論文集の査読委員が不採用とした理由  の検討-」『北海学園大学学園論集』第113号、20029月(以下、論文①と略称)

 ・「南朝尺のモジュール『材と分』による法隆寺の営造」『計量史研究』Vol.24-No.2、 日本計量史学会、200212月(以下、論文②と略称)

 じつは、この問題は若山滋前編集委員長の代にまで遡って本誌と関係している。20012月、奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏が、法隆寺五重塔心柱の最外層年輪が西暦594年に遡ると発表し、古代史・建築史の専門家に大きな衝撃を与えた。その最外層年輪は樹皮に近いシラタ部分にあたり、常識的にみて、心柱の伐採年代は594年以降数年程度に納まるだろうから、『日本書記』天智天皇九年(670)に記された斑鳩寺全焼の後に法隆寺西院伽藍が再建されたとする定説との時間差があまりにも大きく、法隆寺非再建説に有利なデータが出現したかにみえたからである。しかし、大半の研究者は冷静を装い、「心柱の転用説」や「部材放置説」を示唆するにとどまっていた。さらに多くの部材の年輪データを集成しない限り、実証性の高い解釈を示しえないと判断していたからであろう。

 ところが、建築史学の門外漢である川端氏が、この心柱の年輪年代に着目し、法隆寺は隋朝成立直後に竣工していた「X寺」を移築したものとする独自の推論を展開し始める。氏は同年6月、まず『北海学園大学学園論集』第108号に「法隆寺のものさし-南朝尺の材と分」と題する論文を発表し、その要約論文「法隆寺の木割」を本誌の建築論壇に投稿した。これに対し、当時の編集委員会(若山滋委員長)は「掲載を見送る」という判断を下したため、氏は正式に建築学会に入会し、同年9月、「中国南朝尺のモジュール〈材と分〉による法隆寺の営造」と題する論文を学会論文集に投稿したのだが、査読の結果は「不採用」であった。この結果を受け入れられない川端氏は、ただちに異議申し立てをおこなったが、特別審査小委員会からも異議申し立てを却下された。

 上記論文①は、建築学会論文委員会から「不採用」と判定されたことに対する猛烈な批判であり、論文②は「不採用」と判定された論文が日本計量史学会誌にそのまま採用されたものである。川端氏の主張は論文②に言い尽くされており、その内容は、

 1)心柱の伐採年代からすると、法隆寺は元の法隆寺が焼失するよりも前に、どこか別の  所で造営されており、それが移築されてきた。その「X寺」はおそらく筑紫にあった。

 2)法隆寺の造営尺は北宋の『営造法式』に記す「材分」のモジュールに基づき、しかも  その基準尺は、関野貞が非再建説の拠り所とした高麗尺ではなく、南朝尺である。

という2点に集約できる。今回編集委員会に送付されてきた短文については、2)の「材分」モジュールを法隆寺だけでなく、中国唐代の木造建築にまでひろげて解釈したものである。これら川端氏の持論は、最近、日本経済新聞2003321日の文化欄に「法隆寺のモノサシ」と題して掲載され(図◆)、また同じく320日には北京の清華大学建築学院において講演されており、徐々にその発言範囲を増幅しつつある。

 編集委員会としては、論文委員会で「不採用」と判定された論文について、その判断を蒸し返すつもりはまったくない。基本的に今回送付されてきた「日本と中国の最古の木造建築に使われたモジュール『材』」を掲載するかどうか、を審議の対象とした。率直に言うと、「掲載すべきでない」という意見も相当強かったのだが、あえて掲載に踏み切ったのは、①法隆寺五重塔心柱最外層年輪年代をいかに解釈すべきか、②『営造法式』の「材分」制度が唐代から南北朝にまで遡りうるのか、③南朝尺が本当に復原可能で、かりに可能ならば、その基準尺により法隆寺の木割が説明できるのか、などの重要な問題を孕んでいることを重視したためである。これらの諸問題が現状でどこまで解明されているのかを把握するため、川端氏の論文を掲載するとともに、このテーマと係わりの深い日本建築史・中国建築史の専門家にコメントを依頼することにした。ご多忙のなか、貴重な論評をご寄稿いただいた鈴木嘉吉先生、田中淡先生、山岸常人先生に深く感謝申し上げたい。                   (編集委員会)

 

 今年の京都CDL一日断面調査の予定が送られてくる。

200367日第回京都断面調査要項

「平安袈裟斬西南行(へいあんけさぎりせいなんこう)」

  


■主旨

 「京都断面調査」とは京都を人体に見立て、「CTスキャン」を行うかのように、京都盆地内において任意に設定された帯状断面を機械的に踏査するものである。京都のもつ歴史的文脈や地域性をあえて考慮せず、あくまで図式的に調査領域を設定することで、「京都」に対して我々が抱いている様々な先入観・固定観念を払拭し、そこから見えるもう一つの京都像を浮上させることが目的である。
 今回は「断面調査」の原点に還り、意味や場所性が濃厚に附随する軸線(「~通」や「~川」など)沿いを歩行するのを破棄し、「古代平安都城の対角線」(以下、「袈裟斬線」)という、おおよそ意味を見出せないような帯状断面を設定した。
 京都をまさに「袈裟掛け」に突破することで、「京都」概念をも「袈裟斬り」しようという野心的調査である。
 「袈裟斬った」刹那、見える新たな京都を是非堪能していただきたい。

■調査エリア

 古代平安都城の東北角(現御所)と、西南角(現西京極)を結んで得られる「袈裟斬線」沿い。ちなみに袈裟斬る行政区は、上京区、中京区、下京区、右京区、南区の5つにも渡る。
 
 

■調査日時と調査スケジュール

2003年6月7日(土曜日)

 ※雨天の場合は翌日の8日に、8日も雨天の場合は15日に延期される。

 □調査スケジュール

 10:00 御所内饗宴場広場 集合

 10:30 調査開始

        調査 (昼食は各自でとって下さい

 17:00 桂川沿い堤外児童公園 集合

 17:30 懇親会(桂川河原(桂大橋そば))

 19:30 解散

 

2003年5月23

59回アジア都市建築研究会。講師:重富淳一(大阪大学大学院)。
「ムンバイにおける密集地改善手法としての沿道整備に関する報告 植民地期のPMロードとプリンセスストリートにおける沿道整備事業」 ムンバイにおいて行われた既成市街地の過密化にたいする改善事業、PMロードとプリンセスストリートにおいて行われた改善事業を題材に、都市の形成・過密化から再構造化・改善の過程について報告し、現地の現状について報告する。
 ムンバイは旧大英帝国の植民港湾都市である。旧大英帝国の植民港湾都市においては、その歴史的経緯から人口増加による密集市街地の問題を抱える都市は多い。ムンバイでは、それらの植民都市のなかでも早くから過密化の問題に直面し、改善策が講じられてきた。他の植民港湾都市に先駆けて1896年にムンバイ改善トラストが作られたことや、1910年にボンベイ都市計画法が施行されるなど、当時としては先進的な取り組みがなされてきたのである。この事はムンバイが他の旧植民都市よりも過密化の問題に関して(実験的な)経験を蓄積していることを意味する。 PMロードとプリセスストリート沿道において行われた密集市街地の改善策は、19世紀末から20世紀初頭に執り行われスラムクリアランス的な手法が用いられている。このスラムクリアランス的な手法については、開発時のコスト面及びインパクトについてはゲデスによって批判がなされている。しかし、その改善策に伴う長期的な空間構成の変遷といった観点からの考察はなされていない。それらの事業が行われてから70年から100年経ち、今改めて考察しようとするものである。

2003年5月26

 毎年行っている留学生向けの授業「日本の都市と建築」。どんどん質問が飛んできて、楽しい。

 ライデン大学のアジア研究所に出した掲載原稿が送られてくる。英語のチェックを受けたものだという。

Tokyo: The Declining Capital

From its origins as a small castle town until the end of the Edo era, Tokyo’s urbanization followed an orthogenetic process. In the mid-seventeenth century Tokyo’s population numbered one million, in a league with London and Paris. By the eve of the Meiji Restoration in 1868 Tokyo resembled a huge urban village. Twice destroyed in the twentieth century – by earthquake in 1923 and aerial bombardment in 1945 – Tokyo emerged as a speculator and builders’ paradise, a true global city, in the 1980s. Today Tokyo proper counts over 12 million inhabitants while one-fourth of the Japanese population lives in the greater metropolitan area. The mega-city, warns the author, is awaiting another catastrophe.

 

By Shuji Funo

 

The politically powerful construction industry was one of the motors of rapid post-war economic growth. Relying heavily on the ‘scrap and build’ method, concrete and steel transformed the Japanese landscape. In the late 1960s, construction accounted for over 20 per cent of GDP. High growth gave way to a period of stable but lower growth in the wake of the 1973 energy crisis; heavy industries lost ground to light industries based on advanced science and technology. The focus of urban development shifted from outward expansion to the full development of already urbanized areas. Money generated by the speculative bubble of the 1980s transformed Tokyo into a global city, wired to the dynamic movements of the world capitalist economy.

 

The postmodern city: Tokyo at its zenith

The urban issues Tokyo faced in the mid-1980s were quite different from those it had faced in the past. The city had reached its limits for horizontal expansion. The ‘Tokyo Problem’ and ‘Tokyo Reform’ became pressing issues for debate: scholars and critics discussed the negative effects of Tokyo’s political, economic and cultural dominance, as well as possibilities for relocating the Japanese capital.

In the 1980s Tokyo’s status as one of the world’s financial centres attracted an unprecedented influx of foreign businessmen and workers. The resulting demand for centrally located office space and 24-hour facilities sparked a speculative building rush that dramatically transformed the cityscape. Western architects with postmodern designs were invited to give Tokyo a fashionable facelift, befitting its status as a global city.

Further urban development necessitated the search for new frontiers. The first frontier was unused public land in the city centre. Downtown properties were snapped up by investors, while large real-estate companies launched re-development projects. Many of these destroyed the fabric of existing downtown communities. The second frontier was the sky: Tokyo still had more space in the air than New York. The Manhattan Project, revived after a long hiatus, is currently renewing the central business district around Tokyo Station. The third frontier was under the ground, the so-called geo front. A project to create an underground city of 500,000 inhabitants was seriously proposed. The fourth and final frontier was the Tokyo waterfront, hitherto the home to dockyards and factories. Under the title ‘Urban frontier’, the World City Exposition Tokyo ‘96’ directed expansion towards Tokyo Bay.

New technologies, production systems, and building materials shaped Tokyo’s urban transformation. Since the 1960s air-sealing aluminium sashes have been de rigueur, meaning that all dwelling units are now air-conditioned. So-called intelligent office buildings came into fashion in the 1980s. Domed, climate-controlled stadiums allow football games to be played in the midst of storms. The daily lives of Tokyo’s citizens have become completely divorced from nature; most space in Tokyo is artificially controlled by computer. Electronic conglomerates enjoying symbiotic relations with government are prominent players in this development process. So are the large construction companies, still wielding considerable political power. Tokyo is a temporary metropolis that is constantly changing: in this repeated process of scrap and build, the city is losing its historical memory.

 

‘The 2003 Problem’

Nobody controls a global city like Tokyo; nobody knows who is behind the constant change. Something invisible, which we might call the World Capitalist System, guides the transformation of the Japanese capital.

With the glory days of the bubble economy long gone and Tokyo suffering from economic stagnation and post-bubble debt, a curious phenomenon can be observed. Along the Tokyo waterfront many new office buildings and flats are under construction. The number of high-rise flats newly built in 2002 is said to be unprecedented. Now as before, this construction is driven by the speculative activities of real estate agents and investors. While rumour of ‘The 2003 Problem’ is spreading – companies will move to the waterfront leaving old inner city office buildings unoccupied – predictable oversupply is the result of individual realtors and developers pursuing their own short-term interests, even as they know they will later suffer.

The central government has tried to influence the fluctuating annual number of dwelling units built by reforming tax incentives. The current slogans of the central government are ‘Restructuring’ and ‘Urban rebirth’. What is actually happening, however, is the hollowing out of the inner city. Ishihara Shintaro, governor of Tokyo Metropolitan Municipality, has declared sixteen policy goals, the first of which is to ‘Create an urban city that facilitates a balance of jobs and residences’. It consists of two strategies: ‘Promotion of inner city residence’ and ‘Fundamental reform of the Metropolitan housing system’. The former includes bringing workplaces and residential areas together in the suburban Tama area. The results have thus far been disappointing: the only change for most people has been their place of work. The remaining hope is that old inner city office buildings will be converted into homes.

The central government has established a special board called ‘Urban rebirth’ and has opted to deregulate building codes and urban planning laws to stimulate building activity. Local governments can now rezone areas and make decisions on the restructuring of districts. Most local governments, however, are suffering from financial pressures and lack funds to realize new projects. And while policymakers believe promoting building activity through deregulation is the only way to economic recovery, the idea seems far-fetched.

Tokyo has its natural limits; the city cannot grow indefinitely. Obviously, the city needs powerful leadership and the participation of citizens to implement new ideas. Unfortunately, while formal procedures for citizen involvement have been proposed, they do not function effectively: people seem reluctant to participate when their private circumstances are not affected. Without citizen input, ‘The 2003 Problem’ seems here to stay. Though blackouts and drought already threaten the metropolitan area each summer, the current system of the production and consumption of spaces, however, is controlled by the profit motive, not social or ecological responsibility. Tokyo, on its current course, is awaiting catastrophe.

 

Dr Shuji Funo is professor at Kyoto University and a specialist in the field of Asian design and urban planning. The Architectural Institute of Japan (AIJ) awarded him for his PhD dissertation ‘Transitional Process of Kampungs and Evaluation of Kampung Improvement Program in Indonesia’ (1991). He recently designed Surabaya Eco-House, an experimental housing project, and is now conducting research on Dutch colonial cities.

 

2003年5月30

 京都造形大の授業。吉武先生葬儀。お花を送る。ご冥福を祈る、合掌。

2003年5月31

 任期満了。

 つたない編集長日誌、ご愛読多謝。

 岐阜県加子母村の村役場での木匠塾の打ち合わせに一泊の予定で行く。中津川で藤澤好一先生、安藤先生、藤澤彰先生と待ち合わせ。

2024年4月28日日曜日

2024年4月27日土曜日

1円入札が問う設計報酬の自由,日経アーキテクチャー,19960923

設計料入札など論外

 

1円入札が、アイロニーとして行われたとしたら、あるいは談合へのプロテストとして試みられたとしたら、かろうじて意味があるのかも知れない。しかし、昔からこの手の話は耐えないのだからしゃれにもならない。古い話だけれど、警視庁が9万円で落札されたのは本当なのか。『日経アーキテクチャー』をはじめ、建築ジャーナリズムは、この際、徹底して設計入札の実態を明らかにして欲しい。

 設計入札など論外である。

 設計入札に応じる建築家など論外である。

 設計入札が設計という業務に馴染まないことは明かだ。にもかかわらず、それが無くならない設計業界の体質は絶望的である。徹底的に実態を洗い出して設計入札反対のキャンペーンを展開して欲しい。

 確認すべきは、設計入札の問題と設計報酬(の自由)の問題は次元が違うということだ。設計者は設計の内容によって決められるべきで、設計料の多寡によって予め決められるべきではない、という単純なことだ。極端な話、しかるべき手続きで決定された後、設計者が納得すれば(利益の社会的還元というのであれば)設計料零ということだっていい。

 問題は、しかるべき手続き、の問題だ。基本的には設計競技によるしかない。方法は様々にある。そのプロセスの公開性が担保されさえすれば、どんなやりかたでもいい。

 公共施設の場合、国民の血税を使うわけだから、それなりの時間と智恵を使うべきだ。単年度予算の制度や行政手間といった小官僚の都合によって、設計入札が採用されているのが根本原因である。公共発注の実態を徹底的にルポルタージュして欲しい。『日経アーキテクチャー』には、その使命がある。






 

2024年4月26日金曜日

住まいの大切さを力説,居住福祉 早川和男著,共同通信,19971116

 「住居は人権である」というのがかねてからの著者の主張である。「健康で文化的な生活」を営むためには「安全・快適で安心できる住居」がなければならない。本書の第2章「健康と住居」にも、住居が「貧困」であるが故に引き起こされる傷病について多くの事例があげられている。「狭さはストレスとして現れ、家族の人間関係をおかしくする。不眠、抑うつ症状、精神分裂症状、あるいはケンカ、離婚などの家庭崩壊にいたることもある」などというのは極端にしても、住居の大切さが力説されている。

 著者は、毎年、釜ケ崎に越冬パトロールに出かけるのだという。冒頭にその経験が語られている。「寄せ場」や大都市の地下コンコースを住処とする「ホームレス」を目の当たりにすると、まさに「住居は人権である」という主張は実感できる。しかし、一般にわが国において、住居についての権利意識は薄い。住居の取得は住宅市場のメカニズムに委ねられるだけだ。そこで著者が提出しようとするのが、「居住福祉」という概念、「住居は福祉の基礎」というテーゼである。

 阪神・淡路大震災の経験が決定的であった(第1章「阪神・淡路大震災に学ぶ」)。最も多くのダメージを受けたのは、高齢者、障害者、在日外国人等々、要するに社会的弱者である。老朽化した住居の密集する地区が最も被害を受けた。隠されていた現代日本の「住宅問題」が露わになった。

 そこで「居住福祉」をどう展開するか。「高齢者と居住福祉」(第3章)の問題、わが国の居住政策への批判(第4章「居住福祉原論」)など、海外の事例、制度の紹介を豊富に加えて論じられている。そして具体的な行動指針が提示される(第5章「居住福祉への挑戦」)。鍵となるのは運動である。広範な「居住権運動」「居住福祉」運動が組織されねばならない。そこで大きなネックとなっているのが居住者の受動性なのである。



2024年4月23日火曜日

大腸癌 直腸癌 4月23日 術後半年 診断

 10:20 予約時間

8:30 いつものように歩いて西国分寺 バスで多摩総合医療センター 9:14 再診受付

10:00 早めに呼出し。

 CTスキャンデータを見せられたけれど、肺、胃、肝臓、大腸その他、実に奇麗で転移は全くなく、問題ありません!

 今後は、3ヶ月毎の定期健診。次回は、7月8日 9:00

都市をめぐる書物・人物・キーワード、建築文化、199602