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2024年10月3日木曜日

特殊講義・大学生協寄付講座 立命館大学・大学コンソーシアム京都「戦争と平和を問い直す」「建築と戦争 」建築とは戦うことである,キャンパスプラザ京都,2012年6月1日

特殊講義・大学生協寄付講座 立命館大学・大学コンソーシアム京都

キャンパスプラザ京都 20120601

戦争と平和を問い直す 
建築と戦争」  建築とは戦うことである

 布野修司(滋賀県立大学)

建築計画学・地域生活空間計画学・環境設計・建築批評

 

[1] 戦後建築論ノート,相模書房,1981615

[2] スラムとウサギ小屋,青土社,1985128

[3] 住宅戦争,彰国社,19891210

[4] カンポンの世界,パルコ出版,1991725

[5] 戦後建築の終焉,れんが書房新社,1995830

[6] 住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,19971025

[7] 廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅰ,彰国社,1998510 [8] 都市と劇場・・・都市計画という幻想,布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,1998610

[9] 国家・様式・テクノロジー・・・建築の昭和,布野修司建築論集Ⅲ,彰国社,1998710

[10] 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000310

[11] 曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容,京都大学学術出版会,2006225

12]建築少年たちの夢 現代建築水滸伝、彰国社、2011610

o  布野修司編+アジア都市建築研究会:アジア都市建築史,昭和堂,20038

o  布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,[植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバート・ホーム著:Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities、京都大学学術出版会、20017,監訳書

o  布野修司編:『近代世界システムと植民都市』,京都大学学術出版会,20052

o  布野修司,カンポンの世界,パルコ出版,19917

o  布野修司,曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容,京都大学学術出版会,2006225

o  Shuji Funo & M.M.Pant, Stupa & Swastika, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007

o  布野修司+山根周,ムガル都市--イスラーム都市の空間変容,京都大学学術出版会,20085

o  布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民、『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』京都大学学術出版会、20105


o   

建築と戦争
国家・様式・テクノロジー
日本建築をめぐるプロブレマティーク

 

1 戦争と建築:帝冠併合様式

 近代建築理念の受容定着

 戦争(戦時ファシズム体制)と植民地

2 丹下健三と広島平和記念館

3 白井晟一と原爆堂計画

 

関連年表

       1928 日本インターナショナル建築会結成

       1928 神奈川県庁舎竣工

       1929     名古屋市庁舎コンペ

       1930     明治製菓本郷店コンペ

       1931     新興建築家連盟結成即解体:東京帝室博物館コンペ

       1932     第一生命保険相互会社本館コンペ:東京工業大学水力実験室 岡村蚊象「新興建築家の実践とは」

       1933     名古屋市庁舎竣工 京都市立美術館竣工:日本青年建築家連盟結成 デザム

       1934     木村産業研究所(前川國男) バウハウス閉鎖 B.タウト来日:軍人会館竣工 築地本願寺 明治生命館:東京市庁舎コンペ:ひのもと会館コンペ

       1935     土浦亀城邸 そごう百貨店(村野藤吾):  パリ万博日本館コンペ

       1936     国会議事堂竣工    2.26事件 落水荘:日本工作文化連盟発足

       1937     東京帝室博物館竣工 静岡県庁舎竣工:パリ万博 日本館(坂倉準三):大連市公会堂コンペ:日支事変

       1938     愛知県庁舎竣工 鉄鋼工作物築造禁止 国家総動員法

       1939     忠霊塔コンペ 若狭亭(堀口捨己) 岸記念体育会館

       1940     建築資材統制:1941     木材統制規制

       1942     大東亜建設記念営造計画コンペ

       1943     在盤石日本文化会館コンペ 惜檪荘(吉田五十八)

       1944     建築雑誌休刊 浜口隆一「日本国民建築様式の問題」

       1945     敗戦

       1946     プレモス74: 1947     NAU結成 『ヒューマニズムの建築』『これからのすまい』

 

虚白庵の暗闇―白井晟一と日本の近代建築

布野修司

プロローグ

白井晟一は、僕の「建築」の原点であり続けている。理由ははっきりしている。僕が「建築」について最初に書いた文章が「サンタ・キアラ館」(1974年、茨城県日立市)」についての批評文なのである。悠木一也というペンネームによる「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた(マッ)()―サンタ・キアラ館を見て―」(『建築文化』,彰国社,19751月号)と題した文章がそれである。・・・・

Ⅰ 白井神話の誕生

僕が「建築」を志した頃、白井晟一という「建築家」は、謎めいた、神秘的な、実に不思議な存在であった。逝去後30年近い月日が流れた今も、不思議な「建築家」であったという思いはますますつのる。・・・

公認の儀式

白井晟一が「親和銀行本店」で日本の建築界最高の賞である日本建築学会賞を受賞するのは1968年である。63歳であった。「善照寺本堂」で高村光太郎賞を受賞(1961年)しているとは言え、建築界の評価としてはあまりに遅い。しかも、受賞にあたっては「今日における建築の歴史的命題を背景として白井晟一君をとりあげる時、大いに問題のある作家である。社会的条件の下にこれを論ずる時も、敢て疑問なしとしない。」という留保付きであった。・・・・

1968

僕が大学に入学したのが、白井晟一が「公認」された1968年である。「パリ5月革命」の年だ。日本では東大、日大を発火点にして「全共闘運動」が燃え広がり、学園のみならず、街頭もまた、しばしば騒然とした雰囲気に包まれた。東大は6月に入ると全学ストライキに入り、ほぼ一年にわたって授業はなく、翌年の入試は中止された。大学の歴史始まって以来の出来事であった。・・・

聖地巡礼

僕が「サンタ・キアラ館」について書いたのは、こうした白井ブームの渦中であった。・・・

Ⅱ 建築の前夜

白井晟一の戦前期のヨーロッパでの活動はヴェールに覆われている。カール・ヤスパース、アンドレ・マルローなどとの関係が断片的にのみ語られることで、様々な伝説が増幅されてきた。白井晟一を「見出し」、建築ジャーナリズム界へのデビューを後押ししたとされる川添登が、その履歴をかなり明らかにしているが、それでも謎は残る。白井晟一は、ヨーロッパで一体何をしていたのか、何故、帰国後、建築家として生きることになったのか、その真相は必ずしも明らかではない。・・・・

建築・哲学・革命

白井晟一の建築家としての出発点は、京都高等工芸高校(1924年入学1928年卒業、現京都工芸繊維大学)に遡る。ただ、入学の段階で建築家として生きる決断はなされてはいない。青山学院中等部の頃からドイツ語を学び、哲学を学びたいと思ってきた。一高入学に失敗した挫折感もあって、建築科の講義には身が入らず、京大の教室にもぐりこんで哲学の講義を聞く。・・・

スタイルとしての近代

白井晟一がヨーロッパに向かった同じ1928年に、前川國男もまたパリへ赴く。よくよく因縁の二人である。前川國男は、帰国後の「創宇社」主催の「第二回新建築思潮講演会」での講演「3+3+3=3×3」(1930103日)によって建築家としてデビューすることになる。前川國男は、日本に近代建築の理念が受容されるまさにその過程において建築家としてデビューし、その実現の過程を生きた。・・・

「新興建築家」の「悪夢」

前川國男がこう発言した「第2回新建築思潮講演会」は、山口文象19021978の渡欧送別会を兼ねたものであった。同じ日同じ場所で、山口は「新興建築家の実践とは」と題して講演し、次のように覚悟を語っている。・・・

建築修行

1933年に帰国して、東京・山谷に二ヶ月暮らす、34年、千葉県清澄山山中「大投山房」で共同生活、と「白井年表」は記す。また、「山谷の労働者仲間に加わったり、同じく帰国した市川清敏や後藤龍之介らの政治活動に参加したりするが、まもなく自ら袂を分った」という。レジスタンスをしていたのかと問われて、白井本人は「レジスタンスなどとはいえませんね。あまのじゃくぐらいのことです。思想として戦争に賛成できなかったということでしょう。家の焼けるまで書斎の窓を閉めきって今より充実していたかもしれません」と答えている。・・・・

Ⅲ 建築の精神 

精一杯のソーシャリズム

白井晟一が、戦後はじめて建築ジャーナリズムにその一歩を記したのは「秋の宮村役場」によってである(『新建築』195212月)。「秋の宮村役場」によって、白井晟一に光が注がれる糸口が与えられた。その登場が衝撃的であり得たのは、その作品あるいは造型の特質にかかわる評価以前に、その具体的実践そのものであった。「秋の宮村役場」(1950-51)「雄勝町役場」(1956-57)「松井田町役場」(1955-56)の3つの公共建築、秋田や群馬など地方での仕事、「試作小住宅(渡辺博士邸)」(『新建築』19538月号)に代表されるいくつかの小住宅など1950年代前半の作品は、その後の作品の系譜に照らしても、また、当時の他の建築家の活動の状況からみても、驚くべき量と密度を示しているのである。・・・

原爆堂の謎

白井晟一は、そう多くの文章を残しているわけではないし、発言も多くない。まして、建築のおかれている社会的状況に対して直接的に発言をするのは極めて珍しい。・・・

伝統・民衆・創造:縄文的なるもの

 建築家は何を根拠に表現するのか。1950年代において主題とされたのは、日本建築の伝統の中に「近代建築」をどう定着するか、ということであった。そして、近代建築の理念の中に、日本的な構成や構築方法、空間概念を発見すること、「伊勢神宮」や「桂離宮」に典型化される限りにおける日本の建築的伝統に近代的なるものをみるという丹下健三の伝統論がその軸となり、結論ともなった。しかし、白井の伝統論は全く異なる。ただ単に、日本建築の伝統は「弥生的なるもの」ではなく「縄文的なるもの」である、「伊勢」や「桂」ではなく「民家」である、というのではない。白井にとっての「伝統」「民衆」「創造」は、何よりも、自らの具体的な体験をもとに、また歴史の根源に遡って思索されるものなのである。・・・

Ⅳ 建築の根源

白井晟一を「公認」することによって、特に戦後まもなくから1950年代における白井晟一の仕事を突き動かしていたものを正確に受け止める機会は失われてしまう。「虚白庵」に閉じこもり、自らの自我をみつめる方へ向かった白井晟一自身の問題であったが、白井晟一を「異端の建築家」としてしまった、日本の建築界の根底的な問題でもあった。アリバイづくり、というのはそういう意味である。・・・

木と石

 「西洋の思想や文化に直面せざるをえなかったわれわれが、そのぶ厚い石の壁に体でぶつかり、これを抜きたいという、私には荒唐無稽な考えとは思わなかったのです」と白井晟一はいう。本気でこんな課題設定をした建築家は近代日本にはいない。日本に、「パルテノンでなくてもロマネスクやルネサンス、せめてバロックのような遺産があったら、こんな不逞な希いはもたなかった」「西洋近世建築の程度のよくないものの模倣しかつくれなかった日本に生まれたおかげだ」、などという。・・・・

アジア

 西洋建築にぶつかり、これを抜きたいと思っていた白井晟一が、戦後はじめて洋行するのは、1960年秋である。ドイツは訪れず、イタリア、フランス、スペイン、イギリス、北欧を回った。これは、「白井晟一の精神史において、これは分岐点としての意味をもつ旅であったと見られる。長い年月かれの精神に大きな拘泥として持続していたヨーロッパ、とりわけ文化全体としてのカトリシズムから解放への契機となる。『肝の中から感動させるようなものはヨーロッパにはない。唯此の眼、此の足で、自分をたしかめただけだったかもしれない。之で目的は充分に達した。』帰国した白井は以前にも増して仏教思想、特に道元に情熱的にとりくみ、「書」を行とする生活が明確になる。」・・・

デンケンとエクスペリメント:建てることと考えること

 おそらくは、記録された最後の白井晟一の発言である「虚白庵随聞」において、インタビュアー(平井俊治、岩根疆、塩屋宋六)が、執拗に密教、曼荼羅、宋廟、白磁など、アジア、ユーラシアについての関心を問うた上で、「都市とか地方独特な風土とかではなく、もっとコスミックな広がりをバックにして建築造型をされているというような感じがしているんですが」というのに対して、以下のようにいう。・・・・

エピローグ

白井晟一が亡くなったのは、19831121日である。前川國男は、「日本の闇を見据える同行者はもういない」という弔辞を読んだという。その前川國男が逝ったのは1986626日である。同じ年に「新東京都庁舎」の設計者に丹下健三が決まった。その時のコンペの結果をめぐって僕は「記念碑かそれとも墓碑かあるいは転換の予兆」(『建築文化19865月)という文章を書いた。・・・・

 

 番外:震災復興・地域再生とコミュニティ・アーキテクト

日本建築学会・副会長

復旧復興支援部会 部会長 布野修司(滋賀県立大学)

大災害は、それが襲った社会、地域の拠って立つ基盤、社会経済政治文化の構造を露にする。東日本大震災が露にしたのは、エネルギー、資源、人材など、日本が如何に東北地方に依存してきたかということであり、少子高齢化がいきつく地域社会の近未来の姿である。復旧復興支援は、日本全体の問題である。また、東北各地の復興を考えることは、そのまま日本各地の地域社会の再生を考えることである。

 

東北大学大学院経済学研究科 『東日本大震災復興研究Ⅰ』

河北新報出版センター 20120317





















2024年10月2日水曜日

環境・建築デザイン専攻のこの一年、環境・建築デザイン専攻、滋賀県立大学環境科学部、2008年3月

 環境・建築デザイン専攻のこの一年

 

 

布野修司

環境・建築デザイン専攻・専攻主任

 

 


2007年は、学生たちの活躍が続いた年でした。石野啓太君(4回生)「マチニワ」が日本建築家協会東海支部設計競技で金賞を受賞、日本建築学会Student Summer Seminar 2007で、奥田早恵さん(4回生)「hanasaku」が優秀賞、牧川雄介君(3回生)「しえる」が遠藤精一・福島加津也賞、橋本知佳さん(3回生)「木漏日」が小西泰孝・福島加津也賞を受賞しました。さらに日本文化デザイン会議(神戸大会)の設計競技「日本、一部、沈没」で、岡崎まり、仲濱春洋、中貴志(以上M1)、中村喜裕(4回生)のチームの「Parasitic Town」が最終8作品に残り、さらに公開審査に臨んだ結果、堂々の優秀賞(準優賞)を獲得しました。

学生たちの自主的活動組織」である「談話室」の活動では、山本理顕(518日)、馬場正尊(712日)、佐藤淳(1211日)、中村好文(1214日)と一線の建築家を招いて活発な議論が展開されました。また、昨年度の活動をまとめた『雑口罵乱』創刊号「環境・地域性」が出版されました。滋賀県立大学の「環境建築デザイン学科」の活動を広く社会に発信していく雑誌として、また、上下をつなぐメディアとして育って欲しいと思います。今年からA-Cupという全国規模の建築系のサッカー大会に本格的参加(6月)、幅広い交流関係を構築しつつあります。

人事としては、山本直彦講師が奈良女子大学准教授として41日付で転任になられました。2年という短い赴任でしたが、諸般の事情から送り出すことになりました。今後の活躍を期待したいと思います。入れ替わる形ですが、陶器教授の昇任に伴う准教授として高田豊文(三重大助教授)が着任されました。虎姫高校の出身で、願ってもない人材として、故郷での大いに期待したいと思います。最適設計の構造力学の理論派でありながら、フラードームを手作りでつくる演習など建築構造教育に積極的な素晴らしい先生です。地域防災についても三重県での実績を踏まえて滋賀県での活躍が楽しみです。

開学以来13年目を迎えた「環境・建築デザイン専攻」は、20084月から「環境建築デザイン学科」として独立することになります。2007年の前半は、文部科学省への届け出、また、国土交通省の建築士資格の継続申請で追われることになりました。

「耐震偽装問題」以降、建築界は大揺れです。大学もそうした趨勢と無縁ではありません。建築士法改正で、受験資格について大きな変化が起こりつつあります。日本建築学会あげておおわらわですが、国土交通省の改編の動きは、事態の改善には逆行と言わざるを得ません。国土交通省の住宅局の建築指導課と直接議論しつつありますが、事態は容易ではない状況にあります。とりわけ、建築士の受験資格、大学院の実務実績の問題は大学にとって深刻です。しかし、滋賀県立大学の環境建築デザイン教育は揺るぎないものとして、確固として進んでいきたいと考えています。

独立法人(公立大学法人)化がスタートして2年目、様々な問題を抱えながらも、新たな模索が続いています。ひとつの柱は地域貢献です。文部科学省の「地域再生人材創出拠点の形成」プログラム(科学技術振興調整費)は軌道に乗りました。奥貫隆教授を中心とするその試みは、次のステップをにらんだ動きが必要となりつつあります。「霞が関」の方針に翻弄される研究教育プログラムですが、「近江楽座」(現代GP)から「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)」地域再生学座に至る歩みは、確実に滋賀県立大学の主軸に位置づけられていると思います。奥貫先生が次期環境科学部長に選出されたのは、大きな流れだと思います。

もうひとつ環境科学の研究ベースの柱が期待されます。環境建築デザイン学科としても、環境科学部としての先進的な研究プロジェクトを目指したいと思います。「環境建築」の具体的なモデルを具体化することは大きな課題となっています。松岡拓公雄教授を中心とする学生たちを含んだ設計チームは精力的に工学部新館の実施計画にとり組んでいます。

「大学全入時代を迎え、また、昨今の「建設不信」の風潮の中、環境・建築デザイン専攻の応募者の減少が心配されます。充実した教育研究を展開することが基本ですが、対外的なアピール、高大連携など考慮する必要があります。議論を進めていかなければと考えております。」と昨年書きました。事態は変わりません。環境建築デザインの分野は、しかし、これからますます必要とされる実に魅力的な分野であることに変わりはありません。確実な努力を続けていきたいと考えています。


2024年10月1日火曜日

「軽く」なっていく建築に未来はあるか,居酒屋ジャーナル3,建築ジャーナル,200609

 「軽く」なっていく建築に未来はあるか

 

21世紀の建築は、薄く軽くなっていく。かつてポストモダニズムが強調した個性の表出ではなく、実体感のない建築を打ち出す建築家がもてはやされいる。そんな時代に、建築家が本当につくるべきものは何かを、関西在住の建築家と識者4人が、批評精神旺盛に語る。

本文 187  195 (10788)


――今、建築家の仕事は減少しています。そんな中でも、建築家が手がけていくべき建築はあるのでしょうか。

 

「バラック」に糧がある

 

布野 1970年代のオイルショック後も不景気は大変でで、若い建築家には現在のように住宅設計の仕事ぐらいしかなかった。私が編集長ということになった『群居』では、住宅が中心だった。今でも建築家はもっと本気で住宅に取り組むべきだと思う。

永田 布野さんの場合は、建築家が実際に設計して分かるところを、設計前に、その建築の位置付けなり評価が読めてしまう。だからつくらず、批評活動しているのとちがうかな。

布野 住宅5棟ぐらい手がけたし、やる気はなくはなかったけど、俺よりあいつの方がうまい、というのが分かっちゃうんだよね。

永田 布野さんの若い頃の著作の中で、「家はウサギ小屋でいいじゃないか」と批評していた。ウサギ小屋の中に、未来の建築の可能性を打ち出すものがあるんやと。そして誰よりも先駆けてアジア建築に興味を持ってきちんと論じたことに、私は惹かれるわけ。

布野 何故か、廃墟とバラックに惹かれる。

永田 私も昔からそうです。大阪・

西成のドヤ街を電車で通りかかるとき、すごくいいのよ。バラックのような建物に屋根が1枚しゅっと降り、その下に花がきれいに植えてある。そういう混沌とした世界の中に、私たち建築家がイメージしてものをつくっていく上での糧がある。こういう方向で建築家が考えないから、東京の汐溜から品川に建つような、きれいなだけでつまらないビル群が出来ていく。いくらカーテンウォールのプロポーションを上手く収めても、力のある建築にならない。

 私らは、布野さんが論じる言葉の中のものを、日々、一生懸命図面に描いて形にしようとしている。

――布野さんは、理想とする住まいなり、都市のイメージがあるわけですか。

布野 はっきりあったら、建築家になってますよ。建築をつくるというのは、基本的に暴力ですよ。下手すると、地球を傷つけて、粗大ゴミをつくるのと同じですよ。

 建築の道に進んだ当初から、そのプレッシャーを感じていました。私は東大の吉武泰水先生の研究室に入りましが、入ったときの問題が東大闘争の発火点になった東大医学部の北病棟問題です。吉武先生がツー・フロア一看護単位というシステムを提案したんです。一階にひとつづナースステーションを設けるのが普通だったけど、二回にひとつでいい、という提案。そのとき看護婦さんたちが「労働強化だ」って怒った。合理的な設計として提案したんだけど、・・・吉武先生は、それを真剣に悩んで、自分のプランを全部説明して、一回生の私に「何か提案はあるか」と訊ねられた。先入観のない意見を求めたのでしょう。えらい先生だと思いました。

松隈 布野さんや永田さんの世代は、歴史の証人ですから。1970年安保のときに原広司がどうしたとか、個々の建築家の考えや動きを、若い人に向けてしゃべってほしいですよ。

 

社会性から外れたポストモダン

 

――建築家の力は弱くなってきて、今後どう生きるべきかを問いなおすべき、というのは前回、横内さんが問題提起されました。建築を志したときは、やはり希望を持っていたわけでしょう。

横内 私たちの世代は、松隈さんも同じですが、学園紛争も収まった1970年前半に大学に入学しました。だから先輩より、素直に建築を学ぺた気がします。ポストモダニズムがブームの頃で、刺激的な小住宅、都市住宅がつくり始められた。特にアメリカの建築が華々しくて、学生の私はそれに憧れました。卒業後、アメリカに留学しましたが、その地の先端的なポストモダニズムの建築を見てがっかりしたんです。ロバート・ベンチュリーやチャールズ・ムーアにしても、張りぼてみたいで、これは建築ではないと実感しました。帰国して日本のポストモダニズム建築を見ても、同様に表層的でした。モダニズムが持っていた普遍性や客観性が、ポストモダンの時代になって急に個人的な言語になり、社会から外れていったように思えたのです。そこで信用できる建築家は前川國男しかいないと事務所の門を叩き、5年間勤務しました。

 その後、たまたま妻の実家がある京都の京都芸術短期大学に講師として赴任したとき、あろうことかポストモダニストの権化のような渡辺豊和が上司になった。関西はすごいところだと思いました。安藤忠雄もそうですが、彼らの作家意識は強く、尋常じゃない。そのスピリットは永田さんにもありますよ。

永田 そうかな。

――上司と部下の目指すものが違ったわけですよね。

横内 教育の場でしたから、問題ありませんでした。それより社会の流れが組織的なところに向かう中で、渡辺さんの自分を貫く生き方には学ぶことが多かったですよ。「作家」の覚悟をひしひしと感じました。

永田 関西には作家がわずかしかいないからね。

横内 わずかしかいない人がすごい。

布野 その点、東京は東京芸術大学にしても人材を出していますよ。関西ももっとがんばらないと。横内さんも大学で自分の2世を育ててほしい。松隈さんにも言いたい。前川國男の展覧会が全国巡回し、巨匠の仕事を世の中に再認識させた功績は素晴らしい。しかし、これからは松隈自身のオリジナリティを出した仕事に期待したい。

 

「軽く」に向かう建築に疑問

 

――建築家として、つくりたいもの、つくるべきだと思うものはありますか。

横内 それは分かりませんが、言葉で表現できないからつくっています。私たちの世代は、ポストモダンに対する嫌悪感があります。そこでモダニズムを見直したのはいいが、、ネオモダンのようなものがスタイルだけで出てきている。一方で作家性を否定する。例えば隈研吾の「負ける建築」とか、作家性を否定することで逆に作家性を打ち出すところがある。だから、建築がどんどんと薄く軽く、実体あるものから単なる情報になっていくところに収斂しているような気がします。

布野 アンチポストモダンがネオモダニズムという流れになっている。私に言わせると「バラック」ですよ。山本理顕の仕事は、評価していますが、きれいな「バラック」ですね。伊東豊雄さんは、もう少し、先端を走りたい。

横内 伊東豊雄の建築はそれでも実体感があります。せんだいメディアテークだってやはりごつい。

布野 彼は、身について、ごついのは嫌いですよ。。しかし、建築と成立させるために、ごつさも許容する歳になった。。妹島和世、西沢立衛になると、ピュアにピュアに軽く軽くしようとしてきた。

横内 あの世代はつくる規模が小さいというのもある。

布野 昨年、伊東豊雄とは一緒に飲みました。若き日の彼と、あまり印象は変わらなかった。彼は今65歳で、自在に仕事をしている。安藤忠雄はもとより分かりやすく、「緑が大事」「水が大事」と一般受けが巧みだが、その路線は飽きられるか、スタンダードになるしかない。その点、伊東豊雄はがんばってると思う。コンピューター技術を駆使し、表現の最先端を追求している。制度的に勝負しているのは山本理顕だと思う。私の立場と近いところにいる。そういうことと一切関係なくエコロジー派で仕事をしているのは藤森照信。今、私が日本の建築家で一目置くのは、伊東豊雄、山本理顕、藤森照信の3人ぐらいです(次号に続く)。

 

<顔写真>

布野修司

永田祐三

松隈洋

横内敏人

 

<プロフィール>

ふの・しゅうじ|滋賀県立大学環境学科教授。1949年島根県生まれ。東京大学大学院博士課程中退。京都大学教授を経て、2006年より滋賀県立大学教授。主な著書に『布野修司建築論集』『戦後建築論ノート』など

 

ながた・ゆうぞう|永田北野建築研究所代表。1941年大阪府生まれ。1965年京都工芸繊維大学建築工芸学科卒業。竹中工務店勤務後、1985年永田北野建築研究所設立。1993年村野藤吾賞受賞(ホテル川久)

 

まつくま・ひろし|京都工芸繊維大学助教授。1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業。前川國男建築事務所勤務後、2000年より京都工芸繊維大学助教授。著書に『近代建築を記憶する』など

 

よこうち・としひと|横内敏人建築設計事務所代表。1954年山梨県生まれ。1978年東京芸術大学建築科卒業。前川國男建築事務所勤務後、1991年横内敏人建築設計事務所設立。三方町縄文博物館設計競技1

 

<案内>

「居酒屋ジャーナル」参加者の募集

あなたも4名の常連とともに、建築界に物申しませんか? 参加ご希望の方は以下の連絡先まで。 

居酒屋ジャーナル担当:〒541-0047 大阪市中央区淡路町1-3-7キタデビル

建築ジャーナル大阪編集部 TEL06-4707-1385 

FAX06-4707-1386

E-mail  oosaka@kj-web.or.jp

 

 

 

 

 

 

2024年9月30日月曜日

防災と景観:「タウンアーキテクト」という職能、藤原禎三先生退官記念論集、200603

 防災と景観「タウンアーキテクト」という職能

滋賀県立大学環境科学部

布野修司

 

 『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』[1]を上梓して、「タウンアーキテクト」という職能の必要、その可能性を世に問うて6年になる。『序説』の最後において、「京都デザイン・リーグ」構想について書き、その構想は、「京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)」設立(2001年4月27日)に結びついた。しかし、「タウンアーキテクト」制そのものについては、確たる展望が拓けたとは必ずしも言えない。「タウンアーキテクト」制の構想は、「アーバンアーキテクト」制の構想[2]1995年)以前に遡るから、「序説」ばかりで10年以上経過したことになる。

 何故、「タウンアーキテクト」あるいは「コミュニティ・アーキテクト」と仮に名づける「職能」を考えるに到ったかについては、『序説』で詳述した通りであるが、大きなきっかけは、「景観」問題である。日本の建築行政は、「取り締まり(コントロール)行政」ばかりで、街並みはちっともよくならない、美しい街並みをつくっていくための建築行政、積極的な「誘導行政」はできないか、というのが出発点における問題意識である。まず議論したのは、法や基準、マニュアルが果たして有効かどうか、である。そして、痛感させられたのは、「景観条例」なり「景観審議会」なるものがほとんど無力であることである。条例違反が官報に氏名公表というだけではあまりに弱い。また、「景観条例」なり「景観(形成)基準」なるものがあまりにも画一的で固定的なことももどかしい。原色は駄目、曲線は駄目、高さが低ければいい、勾配屋根ならよろしい、というのは余りにも単純で短絡的である。そこで考えたのが、地区の景観形成の責任と権限をある人物なり機関に委ねる仕組みであり、それを仮に「タウンアーキテクト」制あるいは「コミュニティ・アーキテクト」制と呼んだのである。

当時の建設省で現実に検討されたのが「アーバンアーキテクト」制である。しかし、この「アーバンアーキテクト」制は、阪神淡路大震災とともに立ち消えとなってしまう。「景観」以前に、「防災」(安心、安全)が重要であり、「検査」こそが問題であるというのが建築行政の流れとなるのである。その後、第三者機関による「確認審査」の仕組みが導入された(1998)ことは承知の通りである。「検査」あるいは「許可」ではなく、「確認」である。行政手間を軽減し、きめ細かい審査のために民間の力を導入するというのが建前であったが、ある意味では、「取り締まり行政」から「確認手続き行政」への後退であった。

 その後「タウンアーキテクト」制がさしたる進展をみない中で、「景観法」の制定・施行(20056月)という画期的な動きがあった。予断はできないが、「タウンアーキテクト」と呼びうるような職能がその法的枠組みの中で位置づいていく可能性があるように思える。「景観法」が規定する「景観整備機構」、「景観協議会」、「景観協定」などには、「タウンアーキテクト」制を実現する大きな手掛かりが用意されているのである。一方、現在「構造書偽装」問題が日本中を揺るがしつつある。また、悪質な「建築基準法」違反、「条例」無視が明るみに出た。建築界は、呆然絶句して声がない。「タウンアーキテクト」が日本に根づいていく日は未だ遠いと言わざるを得ない。しかし、そうした職能がますます必要であるという確信は揺るぎない。

「景観」と「防災」、一見二つは何のつながりもなさそうに思えるが、以上のように密接に関わる。「防災」があっての「景観」である。また、「防災」も「景観」もである。「タウンアーキテクト」あるいは「コミュニティ・アーキテクト」に要求される能力、資質は少なくはないのである。以下、「タウンアーキテクト」という職能をめぐって、振り返ってみたい。

 

「タウンアーキテクト」とは

「タウンアーキテクト」とは何か、何故、「タウンアーキテクト」か、日本の「タウンアーキテクト」の原型とは何か、について最小限要約すれば以下のようになる。

①「まちづくり」は本来自治体の仕事である。しかし、それぞれの自治体が「まちづくり」の主体として充分その役割を果たしているかどうかは疑問である。地域住民の意向を的確に捉えた「まちづくり」を展開する仕組みがないのが決定的である。そこで、自治体と地域住民の「まちづくり」を媒介する役割を果たすことを期待されるのが「タウンアーキテクト」である。その主要な仕事は、既に様々なコンサルタントやプランナー、「建築家」が行っている仕事である。ただ、必ずしもそのまちの住民でなくてもいいけれど、そのまちの「まちづくり」に継続的に関わるのが原則である。そういう意味では、「コミュニティ・アーキテクト」である。

「建築家」は基本的に施主の代弁者であるが、同時に施主と施工者(建設業者)の間にあって、第三者として相互の利害調整を行う役割をもつ。医者、弁護士などとともにその職能の根拠は西欧世界においては神への告白(プロフェス)である。また、市民社会の論理である。同様に「タウンアーキテクト」は、「コミュニティ(地域社会)」の代弁者であるが、地域べったり(その利益のみを代弁する)ではなく、「コミュニティ(地域社会)」と地方自治体の間の調整を行う役割をももつ。

 ②「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」を推進する仕組みや場の提案者であり、実践者である。「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の仕掛け人(オルガナイザー(組織者))であり、アジテーター(主唱者)であり、コーディネーター(調整者)であり、アドヴォケイター(代弁者))である。

 ③「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の全般に関わる。従って、「建築家」(建築士)である必要は必ずしもない。本来、自治体の首長こそ「タウンアーキテクト」と呼ばれるべきである。具体的に考えるのは「空間計画」(都市計画)の分野だ。とりあえず、フィジカルな「まちのかたち」に関わるのが「タウンアーキテクト」である。こうした限定にまず問題がある。「まちづくり」のハードとソフトは切り離せない。空間の運営、維持管理の仕組みこそが問題である。しかし、「まちづくり」の質は最終的には「まちのかたち」に表現される。その表現、まちの景観に責任をもつのが「タウンアーキテクト」である。もちろん、誰もが「建築家」であり、「タウンアーキテクト」でありうる。身近な環境の全てに「建築家」は関わっている。どういう住宅を建てるか(選択するか)が「建築家」の仕事であれば、誰でも「建築家」でありうる。様々な条件をまとめあげ、それを空間的に表現するトレーニングを受け、その能力に優れているのが「建築家」である。

 ④「まちづくり」の仕組みとして、「タウンアーキテクト」のような存在が必要とされる一方、「建築家」の方にも「タウンアーキテクト」たるべき理由がある。「建築家」こそ「まちづくり」に積極的に関わるべきである。第一に、建てては壊す(スクラップ・アンド・ビルド)時代は終わった。新たに建てるよりも、再活用し、維持管理することの重要度が増すのは明らかである。日本の「建築家」はその仕事の内容、役割を代えていかざるを得ないが、ふたつの方向が考えられる。ひとつは、建物の増改築、改修、維持管理を主体としていく方向である。そして、もうひとつが「まちづくり」である。どのような建築をつくればいいのか、当初から地域と関わりを持つことを求められ、建てた後もその維持管理に責任を持たねばならない。いずれにせよ、「建築家」はその存在根拠を地域との関係に求められる。

 

「タウンアーキテクト」の原型=建築主事

 誰が景観を創るのかと言えば、個々の建築行為である。無数の建築行為が積み重なって都市景観は成立している。都市景観は、個々の建築行為を支える法的、経済的、社会的仕組みの表現であり、都市住民の集団的歴史的作品である。問題は、個々の建築行為が一定のルールに基づいた街並み景観の創出に繋がっていないことである。個々の建築行為は、建築基準法や都市計画法などによって、建物の高さや、容積率、建蔽率、・・・などがゾーニング(用途地域性)に従って規制されており、建築主事の「確認」(「許可」制ではない)が要る。単純化すれば、この「確認」制度に鍵がある[3]

そもそもの発想において「タウンアーキテクト」の原型となるのは「建築主事」(建築基準法第4条に規定される、都道府県、特定の市町村および特別区の長の任命を受けた者)なのである。全国の自治体、土木事務所、特定行政庁に、約1700名の建築主事がいて、建築確認業務に従事している。全国で各市町村に2000人程度のすぐれた「タウンアーキテクト」がいて、デザイン指導すれば、相当町並みは違ってくるのではないか。

どのような景観を創り出すのかについて、何らかの基準を一律に予め設定することは不可能に近い。原色の赤は駄目だと言うけれど、お稲荷さんの鳥居の色は緑に映える。曲線は駄目と言っても、自然界は曲線に充ちている。同じ都市でも、旧市街と新たに開発された地区とでは景観は異なるし、地区毎に固有の貌があっていい。勾配屋根を義務づければ、勾配屋根でありさえあれば周辺の環境にいかに不釣り合いでも許可せざるを得ないだろう。基準、規定とはそういうものである。センスある「タウンアーキテクト」に任せてはどうか。建築主事にその能力がないのだとするなら、地域に詳しい「建築家」が手伝う形を考えればいいのではないか。

建築主事を積極的に「タウンアーキテクト」として考える場合、いくつかの形態が考えられる。欧米の「タウンアーキテクト」制がまず思い浮かぶ。最も権限をもつケースだと「建築市(町村)長」置く例がある。一般的には、何人かの建築家からなる委員会が任に当たる。建築コミッショナー・システムである。日本にもいくつか事例がある。「熊本アートポリス」「クリエイティブ・タウン・岡山(CTO)」「富山町の顔づくりプロジェクト」などにおけるコミッショナー・システムである。ただ、いずれも限られた公共建築の設計者選定の仕組みにすぎない。むしろ近いのは「都市計画審議会」「建築審議会」「景観審議会」といった審議会である。それらには、本来、「タウンアーキテクト」としての役割がある。地方分権一括法案以降、市町村の権限を認める「都市計画審議会」には大いに期待すべきかもしれない。しかし、審議会システムが単に形式的な手続き機関に堕しているのであれば、別の仕組みを考える必要がある。

 しかしいずれにしろ、一人のコミショナー、ひとつのコミッティーが自治体全体に責任を負うには限界がある。「タウンアーキテクト」はコミュニティ単位、地区単位で考える必要がある。あるいは、プロジェクト単位で「タウンアーキテクト」の派遣を考える必要がある。この場合、自治体とコミュニティの双方から依頼を受ける形が考えられる。具体的には、各種アドヴァイザー制度、「まちづくり協議会」方式、「コンサルタント派遣」制度として展開されているところである。

 

「タウンアーキテクト」の仕事

 「タウンアーキテクト」の第一の役割は、個々の建築行為に対して的確な誘導を行うことである。またそのために、担当する町や地区の景観特性を把握し、持続的に記録することである。また、景観行政に関わる情報公開を行うことである。さらに、公共建築の設計者選定などの場合には、ワークショップなど様々な公開の場を組織することである。場合によっては、個別プロジェクトについてマスター・アーキテクトとして、デザイン・コーディネートを行うことである。『序説』では、「タウンウォッチング」「百年計画」「公開ヒヤリング」・・・等々各地域で試みられたら面白いであろう手法を思いつくまま列挙している。さらに、「タウンアーキテクト」のイメージや仕事について想像たくましく書いたのであるが、もちろん、絵空事である。問題は、権限であり、任期であり、報酬である。ベースとすべきは、身近な仕事において、また具体的な地区で何ができるかであろう。

 ただ、「タウンアーキテクト」制をひとつの制度として構想してみることはできる。建築コミッショナー制を導入するのであれば、権限と報酬の設定、任期と任期中の自治体内での業務禁止は前提とされなければならない。地区アーキテクト制を実施するためには自治体の支援が不可欠である。地区アーキテクトは、個々の建築設計のアドヴァイザーを行う。住宅相談から設計者を紹介する、そうした試みは様々になされている。また、景観アドヴァイザー、あるいは景観モニターといった制度も考えられる。具体的な計画の実施となると、様々な権利関係の調整が必要となる。そうした意味では、「タウンアーキテクト」は、単にデザインする能力だけでなく、法律や収支計画にも通じていなければならない。また、住民、権利者の調整役を務めなければならない。一番近いイメージは再開発コーディネーターである。

 しかし、制度のみを議論しても始まらない。地域毎に固有の「まちづくり」を期待するのであれば一律の制度はむしろ有害かもしれない。どんな小さなプロジェクトであれ、具体的な事例に学ぶことが先行さるべきである。まずは、①身近なディテールから、というのが指針である。また、②持続、が必要である。単発のイヴェントでは弱い。そして持続のためには、③地域社会のコンセンサス、が必要である。合意形成のためには、④参加、が必要であり、⑤情報公開が不可欠である。

 

シミュレーションとしての京都CDL

「タウンアーキテクト」制のシミュレーション、社会実験として、とにかく何かやってみようということで始めたのが京都CDLである。京都CDLは、当初14大学24チームが参加して出発する[4]京都市全域(上、中、下京区など全11区)を42地区に分け[5]、各チームは大学周辺ともう一地区、あるいは中心部一地区と周辺部一地区の二地区を担当する[6]

 ①各チームが、毎年、それぞれ担当地区を歩いて記録する、そして、②年に二度、春夏に集まって、それを報告する、基本的にそれだけである。具体的には以下のようだ。A 地区カルテの作製:担当地区について年に一回調査を行い記録する。共通のフォーマットを用いる。例えば、1/2500の白地図に建物の種類、構造、階数、その他を記入し、写真撮影を行う。また、地区の問題点などを一枚にまとめる。このデータは地理情報システムGISなどの利用によって、各チームが共有する。また、市民にインターネットを通じて公開する。B 地区診断および提案:Aをもとに各チームは地区についての診断あるいは提案をまとめる。C 報告会・シンポジウムの開催:年に二度(四月・十月)集まり、議論する(四月は提案の発表、十月は調査及び分析の報告を行う予定)。D 一日大行進京都断面調査の実施[7]:年に一日全チームが集って京都の横断面を歩いて議論する。E まちづくりの実践:それぞれの関係性のなかで具体的な提案、実践活動を展開する。始めてすぐに、F 地区ビデオコンテスト:というのが加わった。若い世代には映像表現の方がわかりやすいということである。そして、活動を記録するメディアとして機関誌G 『京都げのむ』[8]が創刊された。

まあ、児戯に近いけれど、具体的な活動の手応えはある。京都であれば、十一区それぞれに「タウンアーキテクト」が張りつけば相当きめ細かい景観創出の試みが可能だというのが実感である。

 

景観法と「タウンアーキテクト」

「景観地区」「景観計画区域」の指定は、誰がどのようにして行うのか。「景観重要建造物」は誰がどのような基準で設定するのか。「景観協議会」「景観整備機構」は誰がオルガナイズするのか。「住民」や「NPO法人」による提案を、誰がどういう基準で認めるのか。「景観法」(仮)には、曖昧な点が多い。もちろん、この曖昧さは前向きに捉えた方がいい。現行制度でも、「特別用途地域性」など、やる気になれば使える制度は少なくない。それぞれの自治体で、独自の仕組みを創り上げることが競争的に問われているのが現在である。

権限と報酬と任期を明確化した上で、個人もしくは一定の集団が都市(地区)の景観形成に責任を負う「タウンアーキテクト」制は、ひとつの答えになる筈である。欧米には、様々な形態はあるが真似をする必要ない。日本独自の、各自治体独自の仕組みを創り上げればいいのである。

①都市(自治体、景観行政団体)は、まず、都市形成過程、景観資源の評価などをもとに、市域をいくつかの地区に分ける必要がある。同じ都市でも、地区によって景観特性は異なる。また、「タウンアーキテクト」がきめ細かく担当しうる地区の規模には一定の限界がある。

②全ての地区が「美しく」あるべきである。景観の問題は、「景観地区」「景観計画区域」「景観形成地区」といった地区に限定されるものではない。「景観法」などが規定する地区指定に当たって、住民やNPO法人の発意を尊重するのは当然であるが、それ以前に、自治体(景観行政団体)が、「景観計画」を明らかにし、全市域について地区区分を明確にすべきである。もちろん、住民参加による「景観計画」の策定、地区区分の設定の試みられていい。「景観整備機構」の役割がこの段階に求められることも考えられるが、権限が完全に委譲されることはないのではないか。本来は自治体(景観行政団体)の責任である。

③全ての地区について、望ましい、ありうべき景観が想定されるべきで、全ての建築行為がそうした視点から議論される必要がある。全ての地区が望ましい景観創出のために何らかの規制を受けるという前提でないと、「景観地区」とそれ以外の地区、指定以前と指定後の権利関係をめぐっての調整が困難を極めることは容易に想定できる。

④「景観創出」「景観整備」は都市(自治体)の全体計画(総合計画、都市計画マスタープラン)の中に位置づけられる必要がある。景観行政と建築行政、都市計画行政との緊密な連携が不可欠である。

⑤まず、それぞれの地区について、その将来イメージとともに景観イメージが設定される必要がある。この設定にあたっては、徹底した住民参加によるワークショップの積み重ねが不可欠である[9]。地区の景観についての一定のイメージが共有されることが全ての出発点である。

⑥それぞれの地区の景観イメージの設定以降、地区の景観創出のためのオルガナイザーであり、コーディネーターであり、プロモーターともなりうるのが「タウンアーキテクト」あるいは「コミュニティ・アーキテクト」である。地区毎に「景観協議会」を自治体(景観行政団体)が直接組織するのは機動性に欠ける。また、行政手間を考えてもきめ細かい対応は難しいだろう。「景観整備機構」が、各「タウンアーキテクト」の共同体として、機能することが考えられるが、固定的な機関となるのはおそらく問題である。

⑦問題は、こうして、「タウンアーキテクト」の権限を建築行政の中でどう位置づけ、保証するかであろう。「タウンアーキテクト」には、首長や建築行政担当者の任期に関わらない担当年限が保証されるべきであり、一方でその仕事を評価する仕組みが用意される必要がある。

 

地域防災システムと「タウンアーキテクト」

 景観形成は、一朝一夕にできるわけではない。大規模な開発や再開発を別とすれば、町は個々の建造物が徐々に建替えられることによって、緩やかに変化していく。「タウンアーキテクト」の景観形成への関わりは、息の長い、時間のかかる仕事とならざるを得ない。

 「タウンアーキテクト」の日常的な仕事となるのは、むしろ、地域環境の維持管理、修景などに関わる仕事である。また、耐震診断を含めた地域診断とそれに基づく防災計画などに関わる仕事である。「タウンアーキテクト」の原型として「建築主事」を想定するのであれば、建造物の安全について一定の役割を果たすのは当然なのである。

 そして、災害時においても、「タウンアーキテクト」はそれなりの役割を求められる。応急時の仮設住宅供給などもその大きな仕事になるであろう。災害を軸として、その仕事の拡がりを整理すれば下図のようになろう。いささか過大な職能のイメージとなるが、「タウンアーキテクト」が地域社会の信頼を得るためには、それなりの責任を負うのは当然である。

さらに、地域の風土、歴史、文化を継承し、自然と共生した美しい居住環境、まち並み景観、循環型地域社会を形成するために、地域診断(環境、防災、土地利用、景観、資源、エネルギー等)からまちづくり(コミュニティ活性化、環境改善、市街地再生、地域文化育成等)への展開をオーガナイズできる職能が「タウンアーキテクト」である。物理的環境に関わる設計計画のみならず、社会システムや人的ネットワークの構築なども含めた地域社会の総体を再生するリーダー、マネージャーが「タウンアーキテクト」である。「コンピューター・アーキテクト」という言葉が用いられように、アーキテクトの語源に遡って、理想は高く、アルケー(根源)のテクトン(技術)に関わる職能、地域の歴史、文化、社会、経済等に通じ、地域に関わり続ける意欲をもつ人材、フィールドでの発見を大事にし、現場での発想を基本とする人材、問題解決のために様々なネットワークを構築する柔軟かつ広い視野を有する職能が「タウンアーキテクト」である。

 

裸の建築家

しかし、社会的な信頼という意味においては、日本の建築家たちは大いに頼りない。「構造書偽装」問題によって、建築家への不信感は極限にまで増幅されつつあるのである。

「構造建築士」という存在の社会的地位の低さ、そのモラルの欠如が大々的にクローズアップされたが、「構造建築士」という資格はそもそもない。日本にあるのは、「一級」、「二級」、「木造」の「建築士」資格である。設計および設計管理については、「建築家」(建築士、建築士事務所)に全面的に責任がある。建築主、施工者の利潤追求の論理に対して、第三者として、社会的合理性の基盤の上にすぐれた質の空間をよりゆたかな町並みの形成を目指して設計するのが「建築家」であり、下請けの「構造建築士」のせいにして、口をつぐんでいることは許されることではない。

 「構造書偽装」問題を契機として、「構造建築士」という職能の確立、顕名による透明性の確保が主張されるのは当然のことである。しかし、それ以前に、「建築家」の能力、職能こそ厳しく問われる必要がある。「構造」を理解できなくて「建築家」たり得るのか。阪神淡路大震災に対して露わになった建築界の無責任体制については、『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』ではっきり書いたが、事態はまさに「建築家」が「裸の建築家」であることを示しつつあると思えてしかたがない。

 利潤追求を専らとする施主、施工者、それと一体化した建築士(設計事務所)の問題は論外である。確信犯であろう。まず問題は、「建築確認」という制度そのもの(許可制ではない)、そして今回クローズアップされた第三者検査機関による「確認」業務の代行システムにある。自治体の多大な事務量を減らすことを口実に、官から民へ、というけれど、実態は、官僚、「建築主事」の天下りの受け皿システムが用意されただけであり、自治体にも検査機関にも検査能力がない。空前のマンションブームの中で、その限界は予め見えており、それがはっきりしたのである。

 そもそも、耐震強度1.0というのは最低限守る基準である。それを遵守した上で豊かな空間を作り出すのが「建築家」の役割である。また、基準をクリアすればいい、というものでもない。今回、多くの国民を不安に陥れるのは、強度0.5以下のものの建物に退去命令が出されたことである。その根拠は何か。一九八一年の建築基準法改正で、それ以降は大丈夫というが、その神話が崩れたのが今回の問題であり、それ以前に建物は劣化していく、という厳然たる事実がある。自分の住んでいるマンションは大丈夫なのか、全ての国民が不安に思うのは無理はない。

「建築家」は、この不安に答えるべきである。現行のシステムにおいて「裸の建築家」に全責任を取ることはおそらくできない。だとすると、どうしても保険によって、万が一の場合に備えるしかない。これは、ユーザー(マンション購入者、建主)も同様である。絶対安全な建造物がありえないとしたら、自己責任において保険をかけるしかない。また、地震があっても決して死者を出さない仕組み、耐震診断、耐震補強も含めて、「建築家」の役割と責任はとてつもなく大きい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



[1] 拙著、『裸の建築家ータウンアーキテクト論序説』、建築資料研究社、2000年。

[2]「ちぐはぐな町並み開発を防ぐには建築家の継続参加が有効」、『日経アーキテクチャー』巻頭インタビュー、1995410

[3] 第一にha、建築行為に関わる法・制度が遵守されないという情けない実態がある。遵法度が20%に充たない大都市がある(建築確認通知件数のうち検査済証交付件数を遵法度とすると、大阪(13.7%)、京都(16.7%)、福岡(16.8%)、東京(22.1%)・・である(1996年)。)。充たない建築基準法がザル法と呼ばれ、自治体の建築指導課は、違反建築を取り締まるのに精一杯という状況である。全国一律の法規定の問題など様々な問題はあるが、「法は守るべきもの」という一点を確認した上で、この実態は論外としよう。

[4] 京都CDLは各チームの代表(監督)および幹事(ヘッドコーチ)からなる運営委員会・事務局によって運営されている。コミッショナー広原盛明、運営委員長渡辺菊真、事務局長布野修司というのが初代の陣容である。

[5] ベースとしたのは元学区、国勢調査の統計区である。約200区を平均4統計区ずつに分けたことになる。

[6] その謳い文句を並べれば以下のようだ。○京都CDLは、京都で学ぶ学生たちを中心とするチームによって編成されるグループです。○京都CDLは、京都のまちづくりのお手伝いをするグループです。○京都CDLは、京都のまちについて様々な角度から調査し、記録します。○京都CDLは、身近な環境について診断を行い、具体的な提案を行います。○京都CDLは、その内容・結果(試合結果)を文書(ホームページ・会誌)で一般公開します。○京都CDLは、継続的に、鍛錬(調査・分析)実戦(提案・提案の競技)を行うグループです。○京都CDLは、まちの中に入り、まちと共にあり、豊かなまちのくらしをめざすグループです。

[7] 初年度は、八坂神社から松尾大社まで四条通りを歩いた。2002年は下鴨神社から鴨川を桂川の合流点まで歩いた。2003年は、平安京の北東端から南西端まで襷掛けに歩いた。

[8] 京都のまちづくりの遺伝子を発見し、維持し続けたいという思いがその名称の由来である。年に一冊4号まで発行されている。

[9] 宇治市(人口18万人)では、都市計画マスタープランの策定に際して、全市を7区に分け、ワークショップを繰り返したが、市民の潜在能力には素晴らしいものがある。