特殊講義・大学生協寄付講座 立命館大学・大学コンソーシアム京都
キャンパスプラザ京都 20120601
戦争と平和を問い直す
「建築と戦争」 建築とは戦うことである
布野修司(滋賀県立大学)
建築計画学・地域生活空間計画学・環境設計・建築批評
[1] 戦後建築論ノート,相模書房,1981年6月15日
[2] スラムとウサギ小屋,青土社,1985年12月8日
[3] 住宅戦争,彰国社,1989年12月10日
[4] カンポンの世界,パルコ出版,1991年7月25日
[5] 戦後建築の終焉,れんが書房新社,1995年8月30日
[6] 住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,1997年10月25日
[7] 廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅰ,彰国社,1998年5月10日 [8] 都市と劇場・・・都市計画という幻想,布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,1998年6月10日
[9] 国家・様式・テクノロジー・・・建築の昭和,布野修司建築論集Ⅲ,彰国社,1998年7月10日
[10] 裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日
[11] 曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容,京都大学学術出版会,2006年2月25日
[12]建築少年たちの夢 現代建築水滸伝、彰国社、2011年6月10日
o 布野修司編+アジア都市建築研究会:アジア都市建築史,昭和堂,2003年8月
o 布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,[植えつけられた都市 英国植民都市の形成,ロバート・ホーム著:Robert Home: Of Planting and
Planning The making of British colonial cities、京都大学学術出版会、2001年7月,監訳書
o 布野修司編:『近代世界システムと植民都市』,京都大学学術出版会,2005年2月
o 布野修司,カンポンの世界,パルコ出版,1991年7月
o 布野修司,曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容,京都大学学術出版会,2006年2月25日
o Shuji
Funo & M.M.Pant, Stupa & Swastika,
o 布野修司+山根周,ムガル都市--イスラーム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008年5月
o 布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民、『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』京都大学学術出版会、2010年5月
o
建築と戦争
国家・様式・テクノロジー
日本建築をめぐるプロブレマティーク
1 戦争と建築:帝冠併合様式
近代建築理念の受容定着
戦争(戦時ファシズム体制)と植民地
2 丹下健三と広島平和記念館
3 白井晟一と原爆堂計画
関連年表
• 1928 日本インターナショナル建築会結成
• 1928 神奈川県庁舎竣工
• 1929 名古屋市庁舎コンペ
• 1930 明治製菓本郷店コンペ
• 1931 新興建築家連盟結成即解体:東京帝室博物館コンペ
• 1932 第一生命保険相互会社本館コンペ:東京工業大学水力実験室 岡村蚊象「新興建築家の実践とは」
• 1933 名古屋市庁舎竣工 京都市立美術館竣工:日本青年建築家連盟結成 デザム
• 1934 木村産業研究所(前川國男) バウハウス閉鎖 B.タウト来日:軍人会館竣工 築地本願寺 明治生命館:東京市庁舎コンペ:ひのもと会館コンペ
• 1935 土浦亀城邸 そごう百貨店(村野藤吾): パリ万博日本館コンペ
•
1936 国会議事堂竣工 2.26事件 落水荘:日本工作文化連盟発足
• 1937 東京帝室博物館竣工 静岡県庁舎竣工:パリ万博 日本館(坂倉準三):大連市公会堂コンペ:日支事変
•
1938 愛知県庁舎竣工 鉄鋼工作物築造禁止 国家総動員法
• 1939 忠霊塔コンペ 若狭亭(堀口捨己) 岸記念体育会館
• 1940 建築資材統制:1941 木材統制規制
• 1942 大東亜建設記念営造計画コンペ
• 1943 在盤石日本文化会館コンペ 惜檪荘(吉田五十八)
• 1944 建築雑誌休刊 浜口隆一「日本国民建築様式の問題」
• 1945 敗戦
• 1946 プレモス74: 1947
NAU結成 『ヒューマニズムの建築』『これからのすまい』
虚白庵の暗闇―白井晟一と日本の近代建築
布野修司
プロローグ
白井晟一は、僕の「建築」の原点であり続けている。理由ははっきりしている。僕が「建築」について最初に書いた文章が「サンタ・キアラ館」(1974年、茨城県日立市)」についての批評文なのである。悠木一也というペンネームによる「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた量塊―サンタ・キアラ館を見て―」(『建築文化』,彰国社,1975年1月号)と題した文章がそれである。・・・・
Ⅰ 白井神話の誕生
僕が「建築」を志した頃、白井晟一という「建築家」は、謎めいた、神秘的な、実に不思議な存在であった。逝去後30年近い月日が流れた今も、不思議な「建築家」であったという思いはますますつのる。・・・
公認の儀式
白井晟一が「親和銀行本店」で日本の建築界最高の賞である日本建築学会賞を受賞するのは1968年である。63歳であった。「善照寺本堂」で高村光太郎賞を受賞(1961年)しているとは言え、建築界の評価としてはあまりに遅い。しかも、受賞にあたっては「今日における建築の歴史的命題を背景として白井晟一君をとりあげる時、大いに問題のある作家である。社会的条件の下にこれを論ずる時も、敢て疑問なしとしない。」という留保付きであった。・・・・
1968
僕が大学に入学したのが、白井晟一が「公認」された1968年である。「パリ5月革命」の年だ。日本では東大、日大を発火点にして「全共闘運動」が燃え広がり、学園のみならず、街頭もまた、しばしば騒然とした雰囲気に包まれた。東大は6月に入ると全学ストライキに入り、ほぼ一年にわたって授業はなく、翌年の入試は中止された。大学の歴史始まって以来の出来事であった。・・・
聖地巡礼
僕が「サンタ・キアラ館」について書いたのは、こうした白井ブームの渦中であった。・・・
Ⅱ 建築の前夜
白井晟一の戦前期のヨーロッパでの活動はヴェールに覆われている。カール・ヤスパース、アンドレ・マルローなどとの関係が断片的にのみ語られることで、様々な伝説が増幅されてきた。白井晟一を「見出し」、建築ジャーナリズム界へのデビューを後押ししたとされる川添登が、その履歴をかなり明らかにしているが、それでも謎は残る。白井晟一は、ヨーロッパで一体何をしていたのか、何故、帰国後、建築家として生きることになったのか、その真相は必ずしも明らかではない。・・・・
建築・哲学・革命
白井晟一の建築家としての出発点は、京都高等工芸高校(1924年入学1928年卒業、現京都工芸繊維大学)に遡る。ただ、入学の段階で建築家として生きる決断はなされてはいない。青山学院中等部の頃からドイツ語を学び、哲学を学びたいと思ってきた。一高入学に失敗した挫折感もあって、建築科の講義には身が入らず、京大の教室にもぐりこんで哲学の講義を聞く。・・・
スタイルとしての近代
白井晟一がヨーロッパに向かった同じ1928年に、前川國男もまたパリへ赴く。よくよく因縁の二人である。前川國男は、帰国後の「創宇社」主催の「第二回新建築思潮講演会」での講演「3+3+3=3×3」(1930年10月3日)によって建築家としてデビューすることになる。前川國男は、日本に近代建築の理念が受容されるまさにその過程において建築家としてデビューし、その実現の過程を生きた。・・・
「新興建築家」の「悪夢」
前川國男がこう発言した「第2回新建築思潮講演会」は、山口文象(1902~1978)の渡欧送別会を兼ねたものであった。同じ日同じ場所で、山口は「新興建築家の実践とは」と題して講演し、次のように覚悟を語っている。・・・
建築修行
1933年に帰国して、東京・山谷に二ヶ月暮らす、34年、千葉県清澄山山中「大投山房」で共同生活、と「白井年表」は記す。また、「山谷の労働者仲間に加わったり、同じく帰国した市川清敏や後藤龍之介らの政治活動に参加したりするが、まもなく自ら袂を分った」という。レジスタンスをしていたのかと問われて、白井本人は「レジスタンスなどとはいえませんね。あまのじゃくぐらいのことです。思想として戦争に賛成できなかったということでしょう。家の焼けるまで書斎の窓を閉めきって今より充実していたかもしれません」と答えている。・・・・
Ⅲ 建築の精神
精一杯のソーシャリズム
白井晟一が、戦後はじめて建築ジャーナリズムにその一歩を記したのは「秋の宮村役場」によってである(『新建築』1952年12月)。「秋の宮村役場」によって、白井晟一に光が注がれる糸口が与えられた。その登場が衝撃的であり得たのは、その作品あるいは造型の特質にかかわる評価以前に、その具体的実践そのものであった。「秋の宮村役場」(1950-51)「雄勝町役場」(1956-57)「松井田町役場」(1955-56)の3つの公共建築、秋田や群馬など地方での仕事、「試作小住宅(渡辺博士邸)」(『新建築』1953年8月号)に代表されるいくつかの小住宅など1950年代前半の作品は、その後の作品の系譜に照らしても、また、当時の他の建築家の活動の状況からみても、驚くべき量と密度を示しているのである。・・・
原爆堂の謎
白井晟一は、そう多くの文章を残しているわけではないし、発言も多くない。まして、建築のおかれている社会的状況に対して直接的に発言をするのは極めて珍しい。・・・
伝統・民衆・創造:縄文的なるもの
建築家は何を根拠に表現するのか。1950年代において主題とされたのは、日本建築の伝統の中に「近代建築」をどう定着するか、ということであった。そして、近代建築の理念の中に、日本的な構成や構築方法、空間概念を発見すること、「伊勢神宮」や「桂離宮」に典型化される限りにおける日本の建築的伝統に近代的なるものをみるという丹下健三の伝統論がその軸となり、結論ともなった。しかし、白井の伝統論は全く異なる。ただ単に、日本建築の伝統は「弥生的なるもの」ではなく「縄文的なるもの」である、「伊勢」や「桂」ではなく「民家」である、というのではない。白井にとっての「伝統」「民衆」「創造」は、何よりも、自らの具体的な体験をもとに、また歴史の根源に遡って思索されるものなのである。・・・
Ⅳ 建築の根源
白井晟一を「公認」することによって、特に戦後まもなくから1950年代における白井晟一の仕事を突き動かしていたものを正確に受け止める機会は失われてしまう。「虚白庵」に閉じこもり、自らの自我をみつめる方へ向かった白井晟一自身の問題であったが、白井晟一を「異端の建築家」としてしまった、日本の建築界の根底的な問題でもあった。アリバイづくり、というのはそういう意味である。・・・
木と石
「西洋の思想や文化に直面せざるをえなかったわれわれが、そのぶ厚い石の壁に体でぶつかり、これを抜きたいという、私には荒唐無稽な考えとは思わなかったのです」と白井晟一はいう。本気でこんな課題設定をした建築家は近代日本にはいない。日本に、「パルテノンでなくてもロマネスクやルネサンス、せめてバロックのような遺産があったら、こんな不逞な希いはもたなかった」「西洋近世建築の程度のよくないものの模倣しかつくれなかった日本に生まれたおかげだ」、などという。・・・・
アジア
西洋建築にぶつかり、これを抜きたいと思っていた白井晟一が、戦後はじめて洋行するのは、1960年秋である。ドイツは訪れず、イタリア、フランス、スペイン、イギリス、北欧を回った。これは、「白井晟一の精神史において、これは分岐点としての意味をもつ旅であったと見られる。長い年月かれの精神に大きな拘泥として持続していたヨーロッパ、とりわけ文化全体としてのカトリシズムから解放への契機となる。『肝の中から感動させるようなものはヨーロッパにはない。唯此の眼、此の足で、自分をたしかめただけだったかもしれない。之で目的は充分に達した。』帰国した白井は以前にも増して仏教思想、特に道元に情熱的にとりくみ、「書」を行とする生活が明確になる。」・・・
デンケンとエクスペリメント:建てることと考えること
おそらくは、記録された最後の白井晟一の発言である「虚白庵随聞」において、インタビュアー(平井俊治、岩根疆、塩屋宋六)が、執拗に密教、曼荼羅、宋廟、白磁など、アジア、ユーラシアについての関心を問うた上で、「都市とか地方独特な風土とかではなく、もっとコスミックな広がりをバックにして建築造型をされているというような感じがしているんですが」というのに対して、以下のようにいう。・・・・
エピローグ
白井晟一が亡くなったのは、1983年11月21日である。前川國男は、「日本の闇を見据える同行者はもういない」という弔辞を読んだという。その前川國男が逝ったのは1986年6月26日である。同じ年に「新東京都庁舎」の設計者に丹下健三が決まった。その時のコンペの結果をめぐって僕は「記念碑かそれとも墓碑かあるいは転換の予兆」(『建築文化』1986年5月)という文章を書いた。・・・・
番外:震災復興・地域再生とコミュニティ・アーキテクト
日本建築学会・副会長
復旧復興支援部会 部会長 布野修司(滋賀県立大学)
大災害は、それが襲った社会、地域の拠って立つ基盤、社会経済政治文化の構造を露にする。東日本大震災が露にしたのは、エネルギー、資源、人材など、日本が如何に東北地方に依存してきたかということであり、少子高齢化がいきつく地域社会の近未来の姿である。復旧復興支援は、日本全体の問題である。また、東北各地の復興を考えることは、そのまま日本各地の地域社会の再生を考えることである。
東北大学大学院経済学研究科 『東日本大震災復興研究Ⅰ』
河北新報出版センター 20120317