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2024年7月31日水曜日

国立歴史民俗博物館国際シンポジウム「アジアの都市─インド・中国・日本─ Cities in Asia:India, China, Japan」, 平川南,玉井哲雄,妹尾達彦,包慕萍,韓三建,仁藤敦史,モハン・パント,佐藤浩司,高橋一樹,大田省一,黄蘭翔,宮武正登,上野祥史,金東旭,国立歴史民俗博物館,研究棟大会議室,2011年12月3日~4日

 

                  国立歴史民俗博物館国際シンポジウム

 

           アジアの都市 ─インド・中国・日本─            

 

                      Cities in Asia : India, China, Japan

 

国立歴史民俗博物館 研究棟 大会議室

 

■12月3日(土)10:00~17:30

 

10:00~11:30

館長挨拶  平川 南

基調講演  玉井哲雄 日本都市史の構築 ──アジアを視野──

 

 

13:00~17:30

セッションⅠ 中国都城の都市世界  ──宮殿・儀礼空間と都市──

 

基調報告  妹尾達彦   都城の時代の誕生─7・8世紀の東アジア─

 報告1  包 慕萍   元の大都 

 報告2  韓 三建   朝鮮半島の都城

  コメント 仁藤敦史 

 

セッションⅡ インド文明の都市世界   ──寺院・宗教空間と都市──

 

基調報告  布野修司  「転輪聖王」の王都 ─曼荼羅都市の系譜─

 報告1   モハン・パント インド・ネパールの都市

 報告2  佐藤浩司   住宅・集落・都市

 コメント 高橋一樹

 

■12月4日(日)10:00~16:00

 

10:00~12:00

セッションⅢ アジア周縁の都市世界    ──インド・中国の周縁世界と都市──

 

基調報告  大田省一   インド・中国文明周縁世界の都市

  報告1  黄 蘭翔   台湾の亭仔脚(アーケード)

  報告2  宮武正登  日本城郭の「異端児」たち

 コメント 上野祥史

 

13:30~16:00

討論と総括

 総括   金 東旭

 

  全体司会 上野祥史

2024年7月30日火曜日

住宅建築400号記念「そして,『住宅建築』が残った・・・ヴァナキュラー建築の地水脈」,『住宅建築』,200808

  住宅建築400号記念「そして,『住宅建築』が残った・・・ヴァナキュラー建築の地水脈」,『住宅建築』,200808

住宅建築400号記念

そして、『住宅建築』が残った・・・ヴァナキュラー建築の地水脈

布野修司

 

前川国男(19869月)、大江宏(19896月)、天野太郎(19911月)、宮内康(199212月)、吉村順三(19977月)、三浦周治(19988月)、宮脇檀(19991月)、林雅子(20013月)、大島哲蔵(200210月)、藤井正一郎(20048月)、小井田康和(200610月)、石井修(200711月)、村田靖夫(20071月)を追悼し、自ら宮嶋圀夫(878月)、増沢洵(199012月)、浜口隆一(19953月)、みねぎしやすお(19985月)、神代雄一郎(20015月)、そして立松久昌(200311月)と6人の追悼文を平良さんは400号のうちに書いている。「戦後建築」を懸命に生きてきた人たちが次々に亡くなる中で、平良さんの健在が頼もしい。101号から200号まで編集長を務めた立松久昌さんがいないから、余計そう思う。建築ジャーナリズムが「消滅」してしまった現在、『住宅建築』は数少ない救いである。平良さんが編集長に復帰(20065月~)して、『住宅建築』は、やっぱり平良さんの雑誌なんだ、とつくづく思う。少なくとももう100号は平良さんに続けて欲しい。

『住宅建築』には、19844月号に「住まいにとって豊かさとは何か」を書かせて頂いたのが最初である。「戦後建築の初心」に戻って、「建築家は住宅に取り組むべきだ」と、大野勝彦、石山修武、渡辺豊和と四人で『群居』創刊号を出したのが丁度一年前であった。手作りのワープロ雑誌であり、比べるのも烏滸がましいが、『群居』は、2000年、50号まで出し続けて力尽きた(平良さんにアドヴァイスも受けたが、2000部で始めた雑誌はその予言通りじり貧になった)。

その後、「原点としての住宅-「大きな物語」の脱構築のために」(198811月)「「方丈庵」夢-原点としてのローコスト住宅」(199012月)など『群居』で考えたことを書かせて頂き、『住宅戦争 住まいの豊かさとは何か』(彰国社)をまとめることができた。創刊200号記念特大号には、京都に移ったばかりであったが、「座談会:200号まで来た」(布野修司・益子義弘+平良敬一・立桧久昌・植久哲男:199111月)には呼んで頂いた。

「建築思潮」という名前を貸して頂いた『建築思潮』創刊号(1992年)―これも5号(1998年)で終息してしまった―で「戦後ジャーナリズム秘史」と題してロング・インタビューを行ったことがあるが、その最後に平良さんは次のように言っている。

「僕は、建築家を主体とした歴史というより、ヴァナキュラーなものに興味がある。ポストモダンという中でも、ヴァナキュラーなものが取り上げられるでしょう。僕は、あれだけは大変興味ある。・・・・既成の、正統な建築史のフレームは、今崩壊しつつある。崩壊しつつある時にポストモダンがでてきたと僕は思う。それは一種の危機の表現だ。建築家だって増えてるでしょう。大衆化してる。前川、丹下どころじゃなくて何万人もいる。何万人か、何十万人か、建築や施工に携わる人たちがいるなかで、そういう人たちがどういう世界をつくるかというのに僕は興味がある。・・・」僕は、最近、ヴァナキュラーなものの本ばっかりやってる。おもしろいんだよ。戦後50年代のセンスはなかなか変わらないよ。二十代の経験は大事だよね。」

『住宅建築』は、はっきりと、現代のヴァナキュラーな世界とその(再)構築を目指している。キーワードは、地域であり、職人であり、技能であり、集落であり、・・・・・・・。平良さんは「批判的地域主義」ともいう。平良さんはこの間太田邦夫先生や鈴木喜一さんと一緒に随分世界を歩いている。『住宅建築』の大きな魅力のひとつは、「集落への旅」である。「日本の集落」(19761983年)、「中国民居(ミンチイ)・客家(ハッカ)のすまい」など「中国民居」のシリーズ(1987年~)から近年の「アジアの集落-その暮らしと空間」(2007年2月~)まで大きな軸になっている。また、「身近な歴史の再発見」「時代を超えて生きる」といった歴史を、近代を見直すシリーズが心強い。さらに、大工棟梁、職人、技能への視線が縦糸として通っている。そして、毎号紙面に登場する設計者とその作品群がひとつのワールドをつくりあげてきた。

「運動体としての『住宅建築』」(20056月号)と平良さんはいう。そして、神楽坂建築塾など若い人たちと協働することに熱心である。『国際建築』『新建築』『建築知識』『建築』『SD』『都市住宅』『店舗と建築』『造形』と戦後建築の歴史を刻む名編集長として知られる平良さんの最後で最長の雑誌が『住宅建築』である。その行き着いた地平は極めて重要である。この運動体のネットワークをどこまで拡げることができるかは、『住宅建築』とともに、建築界の大きな課題であり続けている、と思う。




2024年7月29日月曜日

建築が「文化」として共有されるには 居酒屋ジャーナル4,建築ジャーナル,200610

 居酒屋ジャーナル4

建築が「文化」として共有されるには

 

日本では、歴史的背景や文化性を配慮されず、建築は老朽化すれば壊されていく。建築保存運動も成功例はまだ少ない。建築の文化性を社会で共有するには、どんな視点が必要なのか。関西在住の建築家と識者4人が、つくる立場と批評する立場で議論する。

――今、コンピューターを駆使した、実体感のない建築が脚光を浴びています。大学教育の場で学生に対し、建築をどうとらえるべきかと教えられていますか。 

大学で何を教えるのか

 

松隈 学生には、時流ばかり追うのではなく、近代建築まで含めて「建築」を考えてほしいと言っています。私には、まだ近代建築の方法論が学問的にも共有化されていない、という反省があります。その手がかりとして、前川國男や、吉阪隆正、ルイス・カーン、アントニン・レーモンドなどに目を向けてきたわけです。

 近頃は、建築の保存運動ばかりやっています。建築の歴史的背景を顧みない「取り壊し」は、まったく生産性のない行為です。その現場に直面すると、建築が持つ文化性を、社会がどう考えているかがよく分かります。

 最近とてもショックだったのは、大手住宅メーカーが、吉阪隆正設計の大学セミナー・ハウス(東京都八王子市、1965)を取り壊して、RC造の宿泊棟を建て始めたことです。この建物は大学の共同施設で、名だたる大学の先生たちが共同運営しているわけです。そういう人たちですら、経済的な論理で「古い建物は使えない」という判断をする。こうした現実に対して、「違う」ということを訴えていかなければなりません。

布野 松隈さんは、そのことを他者のせいにしてしまうわけ?あなたの大学が企画した「前川國男建築展」は素晴らしいものだった。しかし、「前川の精神を生かしてどうすればいいか」ということが、今のあなたの話には欠けている。前川を祭り上げるだけでは意味がない。

横内 あの展示会は、決して建築家・前川を神格化したものではないですよ。建築家の職能というものが、きちっと図面を描いて、建物を長持ちさせることだ、ということを前川の仕事とを辿ることで示されていました。

――前川展も吉阪隆正展も、多くの学生がかかわっています。実際に設計図を読み解き、手と頭を使って模型をつくったことに、とても新鮮な感動を覚えたようです。しかし現実には、経済主導で建築は建てられていきます。前川、吉阪を学んだ学生は、社会に出て仕事を始めたとき、ギャップを感じるのではないでしょうか。

布野 そうした面で、大学は頑張らないとね。

 

建築の文脈に乗らずに

ものつくる

 

――ところで、関西の建築家には強烈な個性を持つ人が多いという話がありました。それは建て主側に、建築家を認める雰囲気があるからでしょうか?

横内 そんなことはないですよ。建築のマニアはむしろ東京の方が多いようです。ただ関西には古い建築が残っているので、みなさん、目が肥えています。だから変なものを出すと受けつけない。

永田 建て主が建築家を育てる、というのは大昔のこと。確かにかつては、建築家が、資産家の社長の美学を実現するために力を尽くすことがあった。しかし、今、関西の大金持ちには文化を理解する心などありません。飛行機内を見れば分かります。ファーストクラスに座っていてもスポーツ紙を読んでますよ。

布野 永田さんは、ぎりぎりいい時代を知ってるわけですね。

――私は、永田さんが設計したホテル川久(和歌山県白浜町、1991)が、あまり理解できないのですが。あの建築は永田さんの本意なんですか?

永田 何でも本意でつくってます。

布野 あれは、最高傑作ですね。村野藤吾賞も受賞した。3回も泊めてもらったからいうわけじゃないけど。

永田 私は、ポストモダンの線がどうだとか、建築に脈絡を持たせません。前川さんとか、磯崎新さん、槇文彦さんのような、何かラインの上にいるのではない。私は自由にやるだけです。大阪西成区に建つバラックに感じ入るようなところで、ものをつくっています。

横内 永田さんは、あえて建築史の上に乗っからないことが、スタンスじゃないかと思います。

布野 それは違うかな。歴史はだいたいでっちあげるもんだと思う。一人が書いたからそうなるということじゃないけどね。

横内 いいえ、歴史っていうのは、連続性や思想性といったことで語られるじゃないですか。永田さんはそこから外れて、ただ芸術としての建築の在り方を追求しているように感じます。大抵の建築家は自分の作家性を位置付けるために、いろんな理屈を考えるわけですよ。関西でいうと、村野藤吾にもそんなところがあった。

布野 建築家を社会的に位置付けるのは、評論家がやること。

横内 安藤忠雄もいろいろ書きますが、彼自身の建築の本質を自分で書くことはありません。渡辺豊和もすごい文筆家だけど、彼のつくる建築は言葉では説明できないでしょ。関西の建築家って、自分で説明しないというところを持っている。

布野 安藤は批判できる。しかし、布野は渡辺を代弁できない。彼の建築は言語化してしまうと簡単すぎる。

 

残るのは、「建築」か「活字」か

 

横内 結局、今から100年後のことを考えたら、その建築が残っていくかどうかということですよ。社会性とか歴史の連続性も含めて。

布野 文献しか残らない。

横内 ひょっとしたら、前川の建築でさえも残っていないかもしれない。そういう意味では、建築とは脆弱なものですよ。やっぱり理論武装しなければ、となる。

布野 前川は展示会をやったから、50年は寿命が延びた。

永田 現実には1000年も経てば、コンクリートの建築など、跡形もなくなっているでしょう。しかし大事なのは、「1万年残る」と思ってつくることです。そこにつくり手は何を託していたのか、ですよ。

布野 新宿の飲み屋で伊東豊雄や石山修武と飲んだとき、「建築か活字か、どちらが残るか」ということがよく話題になったた。  ただ活字の場合は、建築をつくることと違って、あまりお金を稼げない。教師なら物を書きつつ、学生を育てることはできるかもしれない。

永田 横内さんは以前、若い頃に磯崎新の建築を見学したときの話をしましたね。建物の裏側に回れば、張りぼてのように感じたと。彼ら著名な建築家たちは、たとえベニアにペンキを塗ったような建築を建てようが、新しい概念を引っ下げて登場している。その概念は、1000年を越せるかもしれない。

布野 1000年はオーバー。ベニアでいいなら、私も相当いい仕事してる。

永田 ところで、磯崎の大分県立図書館(大分市、1966)はどうなったの?

布野 建築家の本人が生きている間に保存の対象になった。

――彼の西日本シティ銀行本店(旧福岡シティ銀行本店、福岡市、1971)も含めて、図書館を横内さんは「ポストモダンかどうかは疑問」と首を傾げていましたね。でもあの建物をつくったことで、彼は有名になり、仕事が入ってくるようになった。

永田 彼自身が書いていることと、その建築が全然違うわけよ。

 ポストモダンなんて、私は全く意識しない。とらわれず柔軟に建築を見ていく。だから「よーし、磯崎でも何でも来い!」という姿勢ですよ。

 

<顔写真>

布野修司

永田祐三

松隈洋

横内敏人

 

<プロフィール>

ふの・しゅうじ|滋賀県立大学環境学科教授。1949年島根県生まれ。東京大学大学院博士課程中退。京都大学教授を経て、2006年より滋賀県立大学教授。主な著書に『布野修司建築論集』『戦後建築論ノート』など

 

ながた・ゆうぞう|永田北野建築研究所代表。1941年大阪府生まれ。1965年京都工芸繊維大学建築工芸学科卒業。竹中工務店勤務後、1985年永田北野建築研究所設立。1993年村野藤吾賞受賞(ホテル川久)

 

まつくま・ひろし|京都工芸繊維大学助教授。1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業。前川國男建築事務所勤務後、2000年より京都工芸繊維大学助教授。著書に『近代建築を記憶する』など

 

よこうち・としひと|横内敏人建築設計事務所代表。1954年山梨県生まれ。1978年東京芸術大学建築科卒業。MITに留学後、前川國男建築事務所勤務。1991年横内敏人建築設計事務所設立。2000年三方町縄文博物館で日本建築学会北陸建築賞



2024年7月21日日曜日

建築現象の全的把握を目指して: 吉武計画学の過去・現在・未来?, 建築雑誌、2003

 建築現象の全的把握を目指して:

吉武計画学の過去・現在・未来?

 

布野修司(京都大学大学院)

 

吉武計画学とはいったい何か、その成果は如何に継承され、また、今後どう展開しようとしているのか。ありきたりの追悼文ではなく、その総括を、というのが編集部の依頼である。筆者は、東京大学吉武研究室最後の大学院生であった。ともにその学の成立を担った青木正夫・鈴木成文両先生以下綺羅星のごとく並ぶ諸先輩ではなく指名をうけたのは世代的に距離があるからである。また、ともに建築計画学の成立に大きな役割を果たした西山(夘三)スクールの拠点であった京都大学に奉職していることもある。とてもその任にあらずとは思うけれど、吉武計画学の継承発展は日々のテーマである。その総括をめぐっては筆者も編集に携わった『建築計画学の軌跡』(東京大学建築計画研究室編、1988年)があり、それ以上の新たな資料を得たわけではないが、以下は、いずれ書かれるべき吉武泰水論のためのメモである。

吉武計画学がスローガンとしたのは「使われ方の研究」である。ベースには西山夘三の「住まい方の研究」がある。西山の住宅調査の手法を不特定多数の利用する公共的空間に拡大しようとしたのが吉武計画学である。使用者(労働者)の立場に立って、という視点は戦後民主主義の流れに沿ったものであった。

第2に、吉武計画学を特徴づけるとされるのは「施設縦割り研究」である。また、「標準設計」である。吉武計画学の成立を中心で支えた研究会LV(エル・ブイ)のごく初期に、住宅、学校、病院、図書館といった公共施設毎に情報を集め、それぞれに集中する専門家を育てる方針が出されている。「標準設計」は、「型計画」の帰着でもあるが、戦後復興のために要請される公共建築建設の需要に応えるためにとられた研究戦略であった。また、各施設について多くの専門家が育つことによって一大スクールが形成されることとなった。

第3に、吉武計画学には「平面計画論」というベースがある。つけ加えるとするともうひとつ「生活と空間の対応」に着目し平面を重視した。素朴機能主義といってもいいが、その平面計画論には、人体にたとえて、骨格として建築構造、循環系としての環境工学に対して、その他の隙間を支える空間の論理を組立てたいという、すなわち建築計画という分野を学として成立させたいという意図があった。吉武先生の学位論文は知られるように規模計画論である。数理に明るいという資質もあるが、まずは論理化しやすい規模算定が選択されたのであった。しかし、その最初の調査が銭湯の利用客に関する調査であったことは記憶されていい。

以上のような吉武計画学の成果はやがて「建築設計資料集成」という形でまとめられる。体系化以前の段階では、フール・プルーフ(チェックリスト)にとどまるのもやむを得ない、というのがその立場であった。

吉武計画学の展開に対して批判が出される。ひとつは「作家主義」か「調査主義」か、という問いに要約されるが、創造の論理に展開しうるのかという丹下研究室による批判である。また、あくまでも「設計」に結びつく研究であることを主張する吉武研究室に対して、性急に設計に結びつける以前に、縦割り研究には地域計画が抜けているという西山研究室の批判である。そして、研究室内部からの空間論の提出である。さらに、吉武計画学には建築を組み立てる建築構法さらには建築生産に関わる論理展開が欠けている。いずれも調査、研究、設計、計画の全体性に関わる吉武計画学の限界の指摘である。筆者が研究室に在籍した1970年代初頭に既に、上記のような限界は明らかであった。オープンスクールの出現や様々な複合施設の登場に対して縦割り研究や制度を前提にしての使われ方研究の限界は充分意識されていた。

まず確認したいのは、戦後の出発点で行われた調査が、銭湯調査を含めて今日でいう都市調査を含んでいることである。都市のあり方を明らかにする中で公共施設のあり方が探られようとしたのであって、逆ではない。縦割り、標準設計、資料収集は時代の産物であり、少なくとも最終目的ではなかった。

また、当初から求められたのは単なるチェックリストではなく、空間と人間の深い次元における関わりである。読まされたのは専ら文化人類学や精神分析、現存在分析に関する書物であった。読書会を組織するように命じられたのだが、わずかな人数の会に毎週熱心に出席された。後に夢の分析に繋がる関心は既にあり、文学作品による空間分析もわれわれに既に課されていた。建築に関わる諸現象の本質をどう捕まえるかという関心は当初から一貫していたという強い印象がある。

調査はどうやるんですか?といういかにもうぶな質問に、「とにかく一日中現場にいなさい、そして気のついたことは何でもメモしなさい。あらゆるデータは捨てては駄目です」、という言葉が今でも耳に残っている。 

 

京都大学大学院助教授。生活空間設計学専攻。主な論文・著作物に、『カンポンの世界』,パルコ出版,1991:『住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論』,朝日新聞社,1997年:『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』,建築資料研究社,2000年:『布野修司建築論集Ⅰ~Ⅲ』,彰国社,1998年:『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学、学位請求論文),1987  日本建築学会賞受賞(1991)』など。

 

2024年7月19日金曜日

住いを考えるこの一冊, 『CEL』,大阪ガス,200607

 CEL77号 私の一冊:新しい居住スタイル

 布野修司

  『51C」 家族を容れるハコの戦後と現在』、平凡社、鈴木成文・上野千鶴子・山本理顕他、2004108

  新しい居住スタイルに関する(意識に関する)一冊を、と言われて、すぐさま浮かんでくる本がない。本が書かれ、マニュアルが売れる事態が起こっているとすれば、もはや「新しい」段階は終わっているのではないか、などと思う。シェア・ハウスとか、コレクティブ・ハウスとか、カンガルー・ハウスとか、団塊世代の田舎暮らしとか、カルト集団の共同生活とか、外国人の共同アパートとか、風車やソーラーバッテリーのついたエコ・ハウスとか、オフィスをコンヴァージョンした住まいとか、思い浮かべてみると、興味があるのは、新しい居住スタイルよりも、その容器の方である。すなわち、住居形式、居住空間の型の問題である。

住居という容器はそもそも保守的なものだと思う。しばしば、新しい居住スタイルを生み出す阻害要因ともなる。この間、日本の居住スタイルを規定してきたのは、nLDKという居住形式である。あるいはnLDK家族ともいうべき近代家族(核家族)のかたちである。新しい居住スタイルが広範に生まれてきているとすれば、nLDK家族モデルが崩れてきているということになるが、果たしてそうか。

こうした問題を「51C」(公営住宅1951年のC型)にまで遡って議論するのが本書である。いささか理屈っぽいかもしれないが、新しい居住スタイルを考えるテキストとしては、上野千鶴子、山本理顕を軸とする議論が最良だと思う。山本には、他に『住居論』『私たちが住みたい都市』などがある。

 理想の住まいはと聞かれれば、「ホテルのような住まい」と答える。完全サーヴィス付きの住宅である。しかし、一生遊んで暮らせる資産家でなければそんな居住スタイルは無理である。また、住まいの本質でもない、と思う。介護の問題にしても何にしても、サーヴィスされるものとサーヴィスするものとの関係、集まって住むかたちが新しい居住スタイルに関わっているのだと思う。

 




 

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...