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2021年9月13日月曜日

近代日本の建築家と都市計画--都市の透視図Ⅳ,『CEL』27号,199403

 CEL』 都市の透視図Ⅰ~Ⅳ

都市計画のいくつかの起源とその終焉--都市の透視図Ⅰ, CEL24号, 大阪ガス,199306 (布野修司建築論集Ⅱ収録)

都市の病理学-「スラム」をめぐって,都市の透視図Ⅱ,CEL25,大阪ガス,199309(布野修司建築論集Ⅱ収録)

風水論のためのノ-ト--都市の透視図Ⅲ,CEL26号,大阪ガス,199311(布野修司建築論集Ⅰ収録)

近代日本の建築家と都市計画--都市の透視図Ⅳ,『CEL27号,199403

住いを考えるこの一冊, 『CEL』,大阪ガス、200607

 

近代日本の建築家と都市計画--都市の透視図Ⅳ

                            布野修司

 

 新しい目標としての都市  

 日本の建築家が都市を対象化し始めるのは、明治末から大正初めにかけてのことである。当時の建築専門誌である『建築雑誌』や『建築世界』といった雑誌を見てみると、盛んに住宅や都市の問題が建築家によって語られ始めるのを見ることが出来る。その背景については、稲垣栄三の『日本の近代建築』(註1)の「九 新しい目標としての都市と住宅」に詳しい。

 明治末年頃、建築界は帝国議事堂をめぐって揺れていた。欧化主義か、日本独自のスタイルか、折衷主義か、あるいは進化主義か、「国家を如何に装飾するか」をめぐる「議院建築問題」(一九一〇~一一年)である。しかし、大正期に入るとテーマはがらりと変わる。日本建築学会の合同講演会のテーマを見ても、「都市計画に関する講演」(一九一八年)、「都市と住宅に関する講演」(一九一九年)と都市と住宅がはっきりメイン・テーマに据えられるのである。しかし、その関心はそう広がりをもったものではなかった。稲垣は、「大正時代の建築は、・・・建築に関する法律の早急な制定という目標を見定め、この課題に取り組むのである。一九一九(大正八)年に、「市街地建築物法」と「都市計画法」が制定されるまで、建築家の社会政策的な関心はほとんどこの二つの法規の成立という目標にだけ向けられたということができる。」と書いている。

 さらに続けて稲垣は次のように総括する。

 「大正時代の建築家の善意は、一九年に公布された二つの総合的な法規を成立させるまでに止まっていて、それ以上に、実際に都市を改造し住宅を供給する事業には及んでいない。大正初期にはほとんど普遍的になった社会的関心は、建築家を未知の世界にかりたて、従来関心の対象とならなかった都市計画や住宅を、旺盛な知識欲をもって処理したのであるが、そこから彼らの行動の原理を導き出したわけではないのである。」

 それでは、建築家は、その後の歴史において、実際に都市を改造し、住宅を供給する事業に取り組んで行くことになったのか。あるいは、自らの行動の論理を導き出し得たのか。大いに疑問がある。

 興味深いことに、法規制のみを自己目的化しようとしているかにみえた当時の建築家のあり方に警告を発する一人の建築家がいた。皇居前の明治生命館、大阪中之島公会堂などの設計で知られる岡田信一郎である。

 「建築家の或る者は、学者である、技術者である、其故に彼は条例の立案編纂に盡力しさえすればよい。決して政治的弥次馬や壮士のやうに、社会的事項の条例実施の事に関与する必要はない。其実施は為政者のことである。決して建築家の参与す可き事ではない。建築家は其嘱を受け条例を立案すれば足ると為すかも知れない。私は是等の高遠にして迂愚なる賢者に敬意を表する。而して彼等に活社会から退隠されんことを勧告する」(註2)というのである。岡田には、「社会改良家としての建築家」(註3)という理念があった。

 大正期の建築論の展開についてはここでは触れる余裕がない。美術か技術か、用か美か、という二元論的議論の平面に対して、「建築を社会活動の入れ物」と捉える岡田信一郎は全く新しい認識を提出していたとみていい。彼にとって、条例をつくっただけでは何の意味もない。問題はその運用である。彼は、その運用における困難を予見し、憂慮する。例えば、建築家の養成が急務であることを訴えるのである。

 実際、条例を制定しても都市行政の実際は制定者をいらいらさせるものであった。「吾人は強ひて現時の我国都市行政の組織を罵らんとするものではない。けれども事実に於て其成績思はしからさるは、全く市理事者の処置宣しきを得ざるを証明し、又之を監督しつつある市会議員の無責任を暴露するものではないか。」(註4)と片岡安をして語気を荒げさすのが実態だった。

 しかし、この苛立ちはその後も深く自らを問うこと無く繰り返され続けてきたように見える。

 

  日本の都市計画を貫通するもの

 日本の建築家が都市を対象化し、具体的なアプローチを始めるのは以上のように明治末から大正期のことであるが、日本の都市計画そのものの起源はもちろんそれ以前に遡る。一般的には、一八八八(明治二一)年の東京市区改正条例の公布と翌年の同条例施行および市区改正設計の告示をもって日本の近代都市計画の始まりとされる。日本の都市計画は既に百年余りの歴史をもっていることになる。

 およそその歴史を振り返る時、石田頼房による時代区分がわかりやすい(註5)。石田によれば、今日に至る日本の都市計画の歴史は以下の八期に区分できる。

 第一期の欧風化都市改造期(一八六八~一八八七年)は、銀座煉瓦街建設(一九七二年)、日比谷官庁集中計画(一八八六年)などを経て、東京市区改正条例へ至る日本の都市計画の前史である。この過程については、藤森照信の『明治の東京計画』(註6)が詳しく光を当てるところだ。

 第二期の市区改正期(一八八〇~一九一八年)を経て、第三期の都市計画制度確立期(一九一〇~一九三五年)において、東京市区改正土地建物処分規則(一八八九年)などを踏まえて、都市計画法、市街地建築物法が制定(一九一九年)され、戦前期における都市計画制度が一応確立される。この時期の震災復興都市計画事業(一九二三年)は、日本の都市計画にとって極めて大きな経験であったといっていい。同潤会による不良住宅地区改良事業、住宅供給事業、また、土地区画整理事業の既成市街地への適用など、具体的な事業展開がなされ出すのである。

 一五年戦争下の第四期戦時下都市計画期(一九三一~一九四五年)は、ある意味では特殊である。国土計画設定要綱(一九四〇年)にみられるように、国土計画、防災都市計画などが全面的に主題となった時期である。しかし、都市計画史の上では、決して空白期でも停滞期でもない。数多くの実験的な試みがなされた時期である。極めて大きな経験となったのは、植民地における都市計画の実践であった。

 戦後については、戦後復興期の経験(第五期 戦後復興都市計画期 一九四五~一九五四年)の後は、一九六八年の新都市計画法、一九七〇年の建築基準法改正が画期になる(第六期 基本法不在・都市開発期 一九五五~一九六八年 第七期 新基本法期 一九六八~一九八五年)。既成緩和策が取られた反計画期の問題(第八期 反計画期 一九八二年~)は、バブル崩壊後、今日における問題でもある。

 問題は、以上のような日本の都市計画の歴史を貫いている課題である。建築家が都市に目覚めて以降、具体的なアプローチが様々に展開されてきたのであるが、残されている課題は依然として多いのである。

 石田頼房は、歴史を貫く日本の都市計画の課題として、まず、外国都市計画技術の影響をあげる。外国とはもちろんヨーロッパの国々である。明治期のお雇い外国人による都市計画技術や建築技術の直接導入以降、常にモデルは欧米にあった。オースマンのパリ改造と市区改正、ナチスの国土計画理論と戦時体制下の国土計画理論、グレーター・ロンドン・プランと首都圏整備計画、戦後でもドイツのB(ベー)-プラン(地区詳細計画)と地区計画制度(一九八〇年)など、ほとんどがそうである。日本のコンテクストの中から独自の手法や施策が生み出されるということはなかったのである。

 さらに、もう少し基本的なレヴェルで日本の都市計画の課題を石田は挙げる。すなわち、都市計画の主体の問題、都市計画の財源の問題、土地問題、所有権と土地利用規制の問題、都市計画の組織の問題である。

 都市計画の主体は誰なのか。誰が都市計画を行なうのか。国なのか地方自治体なのか、行政なのか住民なのか。住民参加論が様々に展開されてきたのであるが、その実態たるや薄ら寒い限りである。国の補助金事業を追随する形がほとんどで、決定プロセスは不透明である。

 都市計画の財源はどこに求められるか。何でまかなうのか。受益と負担の問題は一貫する問題である。都市計画事業が生み出す開発利益の帰属をめぐっては、政、財、官をめぐって癒着の構造があり、実に曖昧なままである。

 土地問題、あるいは土地所有権と利用権、土地の公共性と私有権、所有権と土地利用規制の問題は、都市計画の基本的問題であり続けている。土地私有制は資本主義社会の基本である。土地の売買、建設は基本的には自由である。しかし、都市計画が都市計画として成立するためには、土地の利用についての何らかのコントロールが可能でなければならない。そのためには理念が必要である。例えばその前提となる公共性の概念は日本において極めて未成熟であり、曖昧である。そうした状況に西欧の都市計画モデルを導入するところにまず混乱の源がある。ある意味で、日本の都市のあり方を規定してきたのは、土地への投機行動である。そして、それを規制する法制度である。極端にいうと、そのいたちごっこがあるだけで、結果として無秩序な誠に日本的な都市が出来上がってきたのである。

 

 戦後建築家と都市

 戦後まもなく日本の建築家にとっての全面的な主題は戦後復興であった。具体的な課題としての都市建設、住宅建設が焦眉の課題であった。戦災復興都市計画には数多くの都市計画家が参加している。

 戦災復興院は、典型的な一三の都市について、建築家に委嘱して調査計画立案作業を行った。一九四六年の秋から夏にかけてのことである。高山栄華が長岡市、丹下健三が広島市、前橋市、武基雄が長崎市、呉市などの計画立案に当たった。また、東京都は、一九四六年二月に東京都復興都市計画コンペを銀座、新宿、浅草、渋谷、品川、深川といった地区をとりあげて行っている。

 この復興コンペを含む「東京戦災復興都市計画」は、ある理想の表現であった。結果として、実施されなかった計画であり、そうした意味では未完である。否、現実の過程は、その計画とは大きく異なった方向に展開してきたのであった。紙の上にある理想の図式を描くスタイルがここでも踏襲された。都市計画制度も都市計画技術もむしろ戦前との連続線上に前提されていた。欧米諸国が新しい都市計画制度を模索する取り組みを見せたのに対して、日本の場合、あまりにも余裕がなかった。

 朝鮮特需によってビル・ブームが始まり、戦災復興が軌道に乗ると建築家の都市計画への関心は相対的に薄れていく。理想の計画案より、高度経済成長へむかうエネルギーが都市の形態を支配して行くのである。こうして、関東大震災直後に続いて、日本の建築家・都市計画家は、理想の都市計画を実践する機会をまたしても失ったのであった。

 建築家が再び都市への関心を露にするのは、一九六〇年前後のことである。盛んに都市のプロジェクトが建築家によって描かれるのである。菊竹清訓の「海上都市」、「塔状都市」、黒川紀章の「空間都市」、「農村都市」、「垂直壁都市」、槙文彦・大高正人の「新宿副都心計画」、磯崎新の「空中都市」、そして丹下健三の「東京計画1960」などがそうだ。また、メタボリズムをはじめ様々に都市構成論が展開されるのである。アーバン・デザインという領域の確立、都市デザインの方法および発展段階についての整理、建築への時間性の導入とその技術化、槙文彦の「群造形論」、大谷幸夫の「        試論」、磯崎新の「プロセス・プランニング論」、原広司の「有孔体理論」、西沢文隆の「コートハウス論」などがそうだ。六〇年代に至って、建築家が一斉に「都市づいて」行った過程とその帰結については『戦後建築論ノート』(註7)で詳述するところである。

 「アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、建築家の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。・・・しかし、都市へのコミットの回路として、こうしたスタイルが衝撃をもち得たのは、六〇年代初頭のほんのわずかな幸福な時期に過ぎなかった。未来都市のプロジェクトは、ほぼこの時期に集中して提出されたのみで、急速に色あせていくのである。一面から見れば、六〇年代の過程は、彼らの構想力が現実化されていく過程であったといえよう。彼らのプロジェクトが色あせて見え出したのは、現実の過程がそれを囲い込み、疑似的な形であれ現実のコンテクストのなかでそれなりの形態をあたえることによって、追い越し始めたからである。それをものの見事に示したのが、大阪万国博・       であり、沖縄海洋博であった。・・・」(註7)

 

 ポストモダンの都市論

 オイルショックとともに建築家の「都市から撤退」が始まる。若い建築家たちの表現の場は、ほとんど住宅の設計という小さな自閉的な回路に限定されていく(註8)。

 大規模なニュータウンの基本設計など具体的な仕事が当該機関に委ねられ、実践の機会が失われたということもある。しかし、建築家が自ら都市への回路を閉ざした点が大きい。自らの方法論やプロジェクトの提示によって引き起こされる現実の様々なコンフリクトを引き受けようとする意欲も余裕もなくなるのである。そういう意味では、建築家たちは二重に都市への回路を閉ざされ、また自ら閉ざしていったのであった。その事情は今も猶変わらない。

 ところが、再び、都市の時代がやってくる。バブル経済の波が日本列島を襲うなか、東京をはじめとする日本の都市は大きく変容することになるのである。建築家は、またしても、また、無防備にも、都市へと駆り立てられていくことになった。民間活力導入のかけ声のもと規制緩和による「反計画」の時代が始まる。建築家の無防備さも、無手勝つ流も「反計画」の時代に再び受け入れられたように見えたのであった。

 建築家が都市への具体的実践の回路を断たれる一方で、都市への関心はむしろ次第に大きくなっていく。東京論、都市論の隆盛はその関心の大きさを示している。その背景にあったのがバブル都市論である。膨大な金余り現象からの様々な都市改造計画への様々な蠢きである。

 この間の都市論は、およそ三つにわけることができる。ひとつは剥き出しの都市改造論であり、都市再開発論である。なぜ、都市改造なのか、特に東京をめぐってははっきりしている。一言でいえば、「フロンティアの消滅」である(註9)。例えば、東京が単純にその平面的広がりを考えても過飽和状態に達しつつあることは明かなことだ。東京一極集中がますます加速されるなかで、都市発展のフロンティアが消滅しつつある。そこで、まず求められたのがウオーター・フロントである。また、未利用の公有地である。そして、地下空間であり、空中である。空へ、地下へ、海へ、フロンティアが求められた。そして、それが全国へと波及して行ったのである。

 もうひとつの都市論の流れは、レトロスペクティブな都市論である。都市化の進展によって失われた古きよき都市の伝統や記憶が次々に掘り起こされていった。都市の中の過去が、自然が現代都市への批判として対置されたのである。もちろん、そうした素朴な回顧趣味は都市改造のうねりに巻き込まれてしまう。水への郷愁がストレートにウオーターフロント開発へ結び付けられたことがそれを示している。

 さらにもうひとつの都市論の流れは、いわゆるポストモダンの都市論である。すなわち、いまあるがままの現代都市、とりわけ、国際化し、ますます人工環境化し、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す仮設都市、東京をそのまま肯定し、愛(め)であげる都市論である。ただただ、今都市が面白い、東京が面白いという都市論である。このポストモダンの都市論の系譜は、レトロスペクティブな都市論をすぐさま取り込む。ポストモダン・ヒストリシズムと言われた皮相な歴史主義的なポストモダン・デザインが都市の表層を覆い出したのである。

 こうしてあえて三つの都市論の流れを区別してみてわかることは、全体としてそれぞれがつながっていることである。レトロスペクティブな都市論は一見都市改造への悲鳴であるようでいて、ポストモダンの都市論を介して過去の都市を疑似的に再現する回路に送り込まれたし、ポストモダンの都市論は、都市改造の様々な蠢きをその華やかさのうちに包み込むものであった。

 

 都市計画という妖怪 

 そうしてバブルが弾けた。再び、都市からの撤退の時期を迎えつつある。以上簡単に振り返ってみたように、建築家と都市の関わりは、震災、戦災、高度成長経済、バブル経済による建設と破壊の歴史とともにあった。再び、バブルが訪れるまで建築家は首をすくめてまつだけなのであろうか。おそらく、そうではない。都市と建築とをめぐるより根源的な方法とアプローチが求められていることがそろそろ意識されてもいい筈なのである。

 六〇年代における建築家による様々な都市構成論の模索は何故現実のプロセスの中で試され、根づいていくことがなかったか。ひとつには建築家の怠慢がある。都市計画家、プランナーという職能が未だ成立しない状況において、建築家は自らの理論や方法を実践するそうした機会を自らも求めるべきであった。しかし、そう指摘するのは容易いのであるが、そんなに簡単ではない。都市計画の問題はひとりの建築家にどうこうできるものではないからである。

 日本の都市計画の問題はまずその仕組み自体にある。端的に言えば、その仕組みが不透明でわかりにくいことである。

 第一、そのわからなさは法体系の体系性の無さに現れている。都市計画に関わる法律と言えば、都市計画法や建築基準法にとどまらず、およそ二百にも及ぶ。それぞれに諸官庁が絡み、許認可の権限が錯綜する。都市計画家であれ建築家であれ、都市計画関連法の全てに知悉して都市計画を行なうことなど不可能である。また、都市計画関連法の全体がどのような都市計画を目指しているのか、誰も知らないのである。

 否、都市計画関連法の全体が自己表現するのが日本の都市の姿だといってもいい。その無秩序が法体系の体系性のなさを表現しているのである。

 第二、都市計画といっても何を行なうのか、その方法は必ずしも豊かではない。都市計画法の規定する内容も、建てられる建築物の種類やヴォリュームを規制するゾーニングの手法が基本である。誤解を恐れずに思い切って言えば、容積率や建ぺい率の制限、高さ制限、斜線制限、日影制限などのコントロールと個々の建築のデザインとは次元の違う問題である。本来、個々の建築のデザインは近隣との関係を含んでおり、当然、都市計画への展開を内包しているべきものであるけれど、一律に数字で規制することでその道を予め封じられているともいえるのである。

 フィジカルな都市計画の基本となる道路や河川などのインフラストラクチャーの整備や公共建築の建設をみると問題はさらに広がり、日本の政治経済社会の構造に関わる問題につながってくる。建築家ならずとも、都市計画というとうんざりするのは、そうした構造を思うからである。

 各自治体における都市計画といっても、各省庁の立案した補助金事業やある枠組みで決定された公共事業をこなすだけにすぎない実態もある。政官財の癒着といわれる構造の中で得体の知れない妖怪が蠢いている。そんな日本で建築家が無力感をもつとしても必ずしも責められないであろう。

 

 計画概念の崩壊

 「ミテランのいわゆるグラン・プロジェはパリにおいて、オスマンがやり残した部分を補完する作業であったというべきであろう」と磯崎はいう(註12)。首都を壮大に構築する企図は一九世紀の殆どの国家で見られた。国家権力と首都の都市計画の強力な結びつきは、そうした意味では一九世紀的だ。しかし、一九八九年のベルリンの壁の崩壊まで、それは続いたのだと磯崎はいう。ヒトラー、スターリン、ミテランの首都計画がその象徴だ。しかし、国家というフレームが崩壊し、国境という障壁が無効になるにつれて、都市もまたその姿を消すのだ、というのが磯崎の直感である。

 確かに、国家権力を可視化し、国家理性を象徴する首都という概念は崩壊して行くだろう。強力な国家権力による都市計画のあり方を想起するのはアナクロである。根源的問題はその先にある。おそらく問うべきは近代的な都市計画の方法そのものなのである。

 近代都市計画の理念を支えてきたのはユートピア思想である。その起源として挙げられるのは、オーエンであり、フーリエであり、サンシモンであり、空想的社会主義といわれたユートピア思想である。そして、その思想は社会主義都市計画の理念へもつながっていく。いま、社会主義国の「崩壊」が大きくクローズアップされるなかで、同じように問われるのが、社会主義の都市計画理論であり、また、近代都市計画の理論なのである。

 より一般的には、計画という概念そのものが決定的に問われているといってもいい。計画という概念はもちろん古代へ遡ることができる。しかし、われわれにとっての計画という概念はすぐれて二〇世紀的な概念とみていい。第○次五ケ年計画という形で、社会的意味をもって一つの流行概念になったのは今世紀、それも一九三〇年代になってからである。その発端にあるのがソビエトにおける経済五ケ年計画である。いうまでもなく、国家を主体とするそうした計画は資本主義諸国においても受け入れられていった。今、それが全面的に問われているのである。

 社会に対する働きかけの合理的な体系、一定の主体が一定の目的を達成するために合理的に統合された行動を行うための手段の体系が計画であるとして、主体とは何か(誰が誰のために働きかけるのか)、目的とは何か(何のために働きかけるのか、具体的な形で明確化できるのか)、手段とは何か(合理的客観的に評価できるのか)、そもそも合理的とは何か、社会主義が「崩壊」し、国家や民族というフレームが揺れる中で、全てが揺らぎ始めている。もちろん、計画という概念が依拠する世界観、例えば、数量的統計的世界認識や一元的尺度への還元主義への根底的懐疑が表明されてから既に久しいといっていい。ただ、必ずしも、それに変わる概念や手法を我々は未だ手にしていないのである。

 ここでわれわれは再び全体と部分をめぐる基本的な問題へたち帰ることになる。全体から部分へか、部分から全体へか、部分の中の全体か、全体の中の部分か、都市と建築をめぐる、あるいは都市と住居をめぐる基本的問いである。

 少なくとも言えることは、都市というのは計画されるものであると同時に生きられるものだということである。そのダイナミックな過程を組み込まないあらゆる都市計画理論はそれだけでは無効であるということである。近代日本の都市計画の歴史が教える最大なものも、都市が無数の集団の作品であり、建築家の構想力や空間の創造も生きられてはじめて意味を持つということである。


註1  稲垣栄三、『日本の近代建築』(上)(下)、SD選書、一九七九年

註2 岡田信一郎、「建築條例の実施に就いて」、『建築世界』 一九一六.〇一

註3 岡田信一郎、「高松工学士に与えて『建築家は如何なる生を活く可きか』を論ず」、『建築画報』 一九一五.〇三

註4 片岡安、「都市計画と輿論の喚起」、『建築世界』 一九一九.〇四

註5 石田頼房、『日本近代都市計画の百年』、自治体研究社、一九八七年

註6  藤森照信、『明治の東京計画』、岩波書店、一九八二年

註7 拙稿 「第一章 建築の解体ー建築における一九六〇年代」 『戦後建築論ノート』、相模書房、一九八一年

註8 拙稿 「世紀末建築論ノートⅠ デミウルゴスとゲニウス・ロキ」 建築思潮 創刊号 一九九二年一二月

註9 拙稿 「ポストモダン都市・東京」  早稲田文学 一九八九年

註10 越沢明 『満州国の首都計画』 日本経済評論社 一九八八年

註11 磯崎新 「「都市」は姿を消す」 「太陽」 一九九三年四月

註12 E.J.オーエンズ 松原國師訳 『古代ギリシャ・ローマの都市』 国文社 一九九二年

註13 拙稿 「都市計画のいくつかの起源とその終焉」 『CEL』24 一九九三年六月

 




 


2021年9月12日日曜日

風水論のためのノ-ト--都市の透視図Ⅲ,CEL26号,大阪ガス,199311

 CEL』 都市の透視図Ⅰ~Ⅳ

都市計画のいくつかの起源とその終焉--都市の透視図Ⅰ, CEL24号, 大阪ガス,199306 (布野修司建築論集Ⅱ収録)

都市の病理学-「スラム」をめぐって,都市の透視図Ⅱ,CEL25,大阪ガス,199309(布野修司建築論集Ⅱ収録)

風水論のためのノ-ト--都市の透視図Ⅲ,CEL26号,大阪ガス,199311(布野修司建築論集Ⅰ収録)

近代日本の建築家と都市計画--都市の透視図Ⅳ,『CEL27号,199403

住いを考えるこの一冊, 『CEL』,大阪ガス、200607

 

風水論のためのノ-ト--都市の透視図Ⅲ                               

                            布野修司

 

 地、水、火、風

 ギリシャ哲学では、地、水、火、風を世界の四大元素とした。「全ては水である、水こそ万物の始源(アルケー)である」としたタレス。「空気」だとしたアナクシメネス。「万物はひとつ」とヘラクレイトスが言うように、一者を追求する構えがギリシャ哲学の基本にある。しかし、そうした単純な一元論に対して、多元論もある。エンペドクレスの哲学がそうだ。彼は、「われは土によりて土を、水によりて水を、空気によりて輝ける空気を、また火によりて破壊的なる火を、愛によりて愛を、おぞましき憎しみによりて憎しみをみるなり」という。人間も他のものも、地水火風の四大元素と愛憎の二つの力からなる合成物なのである。エンペドクレスにしても、宇宙の始まりにおける四元素の始源の状態は混沌とし、混然一体をなしたものと考えられていた。

  地、水、火、風、空というと仏教にいう五大である。識を加えて六大だ。五輪塔形式の墳墓は、わが国独特のものであるが、下から順に地、水、火、風、空の五大要素を示す。それぞれ、四角、円、三角、半円、団(如意宝珠形)で表される。五輪塔墓は、宇宙を象徴的に型どったものである。と同時に、人間の身体をなぞったものでもある。地、水、火、風、空が、順に、膝、腹、胸、面、頂の身体の部分に対応する。地上に座して瞑想する人間の姿に見立てたのが五輪塔の形なのである。

 宇宙の根源を明らかにしようとする思索がこうして洋の東西において同じ要素に行き着くのはそれ自体興味深いのであるが、単純に考えれば、人間にとって、地、水、火、風が極めて本質的なものであるということである。今、我々が住む現代都市は極端に人工化しつつある。人工的に調節された環境が一般化する中で、地、水、火、風と直接触れる機会がどんどん失われつつある。道路という道路はアスファルトで舗装され、運動場には人工芝が植えられる。水は蛇口を捻れば出てくる。火は、表で使うことはできない。焚火やバーベキューは禁止である。地、水、火、風といっても、全てコントロールされたものである。

 我々が今更のようにその存在の大きさに気づかされるのは、自然災害に見舞われた時である。地震、火事、水害、台風、人間の力を超えた自然の猛威の前にはなすすべがないのである。

 

 都城の思想と風水説

 地、水、火、風をどうコントロールするかは、それ故、古来、都市や集落を築く上で大きな問題であった。古来、中国や日本の都城の選地や計画にあたって大きな背景になったのが風水説である。

 知られるように、平城京遷都の詔に「平城の地は、四禽が図に叶い、三山が鎮を作し、亀筮が並みに従う、宜しく都邑建つべし」という。四禽が図に叶う、というのが、いわゆる「四神相応」である。四禽、四神とは、天の四方、東西南北を司る神で、東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武と呼ばれる。この四神相応が都市や住居の立地に最良とされてきた。即ち、東に水が流れ、西に大きな道があり、南に低地あるいは池がある、そして北に丘を負う、という立地である。

 もちろん、四神相応というだけではない。都城の理念を支えたのは風水説のみではない。三山が鎮を作す、というのは道教の神仙思想の影響によるし、陰陽説や仏教などの影響もある。日本の「宮都」を専ら道教との関連で明らかにしようとするのが、例えば、高橋徹の『道教と日本の宮都』(註1)である。また、千田稔が、それ以前に、長安や慶州も含めて東アジアの都城と道教のつながりを指摘している(註2)。

 東アジアの都城の理念に大きな影響を及ぼしたのはもちろん中国である。既に様々な議論があるところだ。中国の都城の理念を極めて簡潔に示すとされるのが、『周礼』考工記の次のような記述である。

 「方九里、旁三門。国中九経九緯。経途●九軌。左祖右社。面朝後市。市朝一夫」

 注釈書によると次のようになる。

 「一辺九里の正方形で、側面にはそれぞれ三つづつの門を開く。城内には南北と東西に九条ずつの街路を交差させ、その道幅は車のわだち(八尺)の九倍とする。中央に天子のいる宮闕の左つまり東には祖先の霊をまつる宗廟をおき、右つまり西には土地の神をまつる社稷をおく。前方つまり南には朝廷を、後方つまり北には市場をおき、その市場と朝廷はともに一夫つまり百歩平方の面積を占める」(註3)。

 『周礼』考工記のこの「左祖右社」、「面朝後市」に加えて、「中央宮闕(宮殿)」、「左右民廛(民家)」の4つの原則が周末漢初から中国で意識されてきたとされるのであるが、解釈についてはまだ問題が残されているようだ。例えば、「面朝後市」の解釈として、「後」が「后」の誤りだとして、市場を立てる皇后と朝廷を立てる天子とを陰陽の関係において捉える説がある。また、朝に朝廷で政事をし、午後に市場へ出かけるといった説も可能らしい。必ずしも朝廷、市場の位置を示さないのである。長安城など実例を見ると、上の解釈は当てはまらないのである。

 中国、朝鮮韓国、日本の都城をめぐる諸説についてはここではおこう。都城の理念型とコスモロジーをめぐっては、陰陽説、道教など、様々な思想の絡まりが興味深い。また、理想型と具体的形態のずれが実に面白いのである。

 

 パマヒイン         

 ところで、風水説というのは中国、朝鮮韓国、日本に限定されるわけではない。東アジアのみならず、フィリピンやタイにも見られる。

 一九八九年一一月にインドネシアで開かれたユネスコの会議のテーマは「発展途上国における伝統的価値と現代建築および人間居住計画の統合」であった。その冒頭、いきなり風水(         )という言葉が飛び出したのが印象的であった。スピーカーはフィリピンのリリア・カサノバ女史であったのであるが、「住宅およびニュータウン開発における社会的文化的価値のインパクト」と題したその講演のなかで、女史はニュータウンの計画において、計画と入居者の生活とがずれていることををいくつかの事例を上げながら説明したのである。その原因は人々が住居に対して持つ伝統的価値、住居観、すなわち風水を理解しなかったからだというのだ。

 フィリピンにおける伝統的住居観については、一九八二年に東京で行ったシンポジウムの折に、フィリピン大のマナハン教授のレクチャーを受けたことがある。カサノバ女史もそのマナハン教授のその時のレポートを引いていたのであるが、例えば次のようだ。

一.建物配置

 a.タガログ地方では、十字形をした家の間取りは縁起が悪い。

 b.家の中に聖者やキリストの肖像を掲げるのはカソリック信者の古くからの習慣である。

 c.精霊が棲むと考えられているいくつかの樹種がある。その樹が敷地にある場合切ってはならない。切れば不幸になる。

 d.地下に居間を設けることは西洋人の近代的概念である。しかし、とりわけフィリピンの迷信深いチャイニーズにとってはタブーである。

二.開口部

 a.ドアは互いに向かい合ってはならない。そうすると繁栄はありえない。

  b.ドアは西を向いてはいけない。西を向くと、死や不健康やいさかいを招く。等々。

三.柱の建立

  a.柱の基礎にコインを埋めるといい。

  b.木の柱あるいは竹の柱は台風に備えて時計周りに建てていく。

  c.ひびの入った柱は使わない。不幸になる。

四.家の立地

 a.袋小路はよくない。 

  b.T字路に直面する家は望ましくない。

 以上は断片にすぎないのであるが、たわいもないと思われるだろうか。理解不可能なこともある。しかし、こうした民俗信仰、慣習に基づいた「迷信」の世界はわれわれにも親しい筈だ。家相、地相の世界である。

 フィリピンではパマヒイン(        )と呼ばれるのだという。そういう民俗信仰であれば、ホンスイと呼ばれる、とタイの建築技術研究所のエカチャイ氏がいう。風水である。インドネシアではどうだ。一般的にカパルチャヤアン(            )という。また、ジャワにはプリンボン(       )がある。

 

プリンボン(      

 

  プリンボンの存在を僕が初めて知ったのは、一九八二年、インドネシアのジャワ、ムラピ山の山麓で調査をしていた時であった。村の長老に建築儀礼について聞いていて、ほとんどバラバラになりそうな分厚い一冊の本を見せられたのである。もう三〇年も使い古されたものであった。KITAB PRIMBON                                  と表紙に書かれていた、そのメモがある。

 プリンボンとは何か。誤解を恐れずに言えば、ジャワにおける家相、地相、風水の説、思想をまとめたものだ。もちろん、その全体はとても理解するところではない。ムラピ山麓で長老の説明を聞いても、ジャワ暦の数の数え方を理解するので精一杯であった。住居を建設するに当たって、節目、節目に日を選ぶ。その吉凶の判断をするデータが書かれているのがプリンボンである。建設の時機、入居の時機等について細かな規定がなされているのだ。もちろん建設に関わることだけではない。人生、生活全般についてプリンボンは説いている。もとになるのは、週五日のジャワ暦、パサラン(       )である。適正な日時を計算することをビンシラン(        )あるいはプトゥンガン(        )という。デサ(村)の慣習法を司どる長がその役割を負う。

 中に門の位置や井戸の位置を決める図がある。敷地の各辺が五分割ないし、九分割されている。九分割による門・エントランスの位置については、例えば次のようである。北側の場合、西から二番目、三番目はよく、それぞれ多くの客を招く、子沢山となるとされる。九番目、北東の角は貧乏になる。南の場合、中央は、多くの死を招くとされるが、四分割目、六分割目は、それぞれ知識や強い意志が得られるとする。東から七番目は裕福になるという。

  井戸の場合も、同様である。入口の位置によって区別され、東西南北および、北東、北西、南東、南西の八つのポイントについて判断が示される。住居への入口に向かって、左手前から反時計回りに一~八の番号がふられるが、一、八、そして五が井戸の位置として適しているとされている。南向きの住居の場合、南西、西、北東がいいのである。

 鬼門、裏鬼門などというのによく似ているというのが、最初の素朴な感想であった。

 その後、このプリンボンが一般の本屋で沢山売られているのに気がついた。村の長老に見せられたものに比べれば随分薄っぺらなのであるが、各種のプリンボンが小さな本屋にも置かれている。ほとんどの本の表紙に占い師の顔写真がある。いくつかの流派があるのである。いずれにせよプリンボンは現在もなお庶民の間に生きている。

 

 カウル・カラン

 ジャワにはスラット・センティニ(              )という古文書がある。一九世紀前半の文書である。そのスラット・センティニは、ジャワの建築についての二つの章からなっており、一方がフィジカルな側面を扱い、他方がノンフィジカルな側面を扱っている。そして、そのノンフィジカルな側面を扱うのが実は今日のプリンボンである。フィジカルな側面を扱うのは、カウル・カラン(             )という。

 このカウル・カランというのは、大工や職人むけに書かれたものであり、プリンボンは一般向けである。

 プリンボンのうち、建物に言及する章は、プトゥンガン(        )と呼ばれる。上述したように、プゥトゥンガンとは、「数えること」である。

 プトゥンガンとは、一般には次のように書いてある。

 「建物を計測する場合。建物の幅と長さの尺度として、ペチャッ(      足幅 身体寸法)を用いて、五つずつ数える。カルタ(     )、カヤサ(      )、チャンディ(     )、レトグ(     )、スンポヨン(         )と数えて最初に戻る。最もいいのは、カルタである。もし、カヤサだとしばしば引っ越す羽目になる。もし、チャンディだとしばしば病気なる。もし、レトグだと厳しい貧困に陥る。もし、スンポヨンだとしばしば死んでしまう。」

 五をモードとする吉凶判断であるが、この使われ方をプリンボン全部について調べたのがJ.プリヨトモである(註4)。

 J.プリヨトモによれば、プリンボンの中のプトゥンガンは、八つのグループに分けられるという。いくつか見てみよう。

 

 A.集落の選定

   方法:ヌプトゥ(数字)の加算。モード七。

   要素:入居者の最初から最後までのアルファベットの数および村の最初から最後までのアルファベットの数(ジャワ語)。

   判断:七で割った余りの数。①    吉。飢えからは開放されるが富裕というほどではない。②         まもなくいい仕事にありつける。③       吉。すぐに金持ちになれる。④       吉。願い事成就。⑤      凶。⑥       凶。 ⑦     凶。

 B.敷地特性

   方法:敷地の物理的性状を調査する。

   要素:敷地の物理的性状

   判断:①敷地が東向きに傾斜している場合。病気にはならないが、結婚生活に問題。②敷地が山に囲まれている場合。その敷地をカウラ・カンビン・バラ(                   )といい、金持ちになり、親戚からも愛される。③敷地の西に山があり、東に水がある場合。その敷地をアングラック       といい、人はしばしば狂う。等々

 C.敷地の測定

   方法:デパ(     尋(ひろ 両手を広げた長さ))による測定。

   要素:敷地境界線。モード四。ブミ(      )、カルタ(       )、カラ(      )、カリ(      )。

   判断:①北西の角から南に向かい、南西の角で終わるのはカルタ。②南西の角から東へ向かい、南東の角で終わるのはブミ。③南東の角から北へ向かい、北東の角で終わるのはカルタ。④北東の角から西へ向かい、北西で終わる場合ブミ。

 以下、D.正門の位置、E.理想の間取り、F.建設時期(主としてオマ)、G.長さ、巾、高さの測定、H.建設時期と続く。

 プリンボンは、基本的にはジャワのものである。しかし、地相、家相の類はどこにでもある。例えば、バリには、アスタ・コサラ・コサリ、アスタ・ブミ、シワ・カルマ(註5)といったロンタル文書(椰子の葉に古バリ語で書かれた文書)がある。文書という形にまとめられるかどうかは地域による。

 こうした、各地の地相、家相の類は、どのようなつながりをもつのか。あるいは、地域毎に全く固有の体系もつものなのか。その地域による差異は何に因るのか。地域毎に異なる建築のあり方を考える上で興味深いと僕は思う。

 プリンボンとバリのアスタ・コサラ・コサリなどは明らかにつながりがある。敷地分割のやり方が同じなのである。基層文化としてのヒンドゥー文化がふたつを媒介していることは明らかである。遡れば、インドの『アルタシャストラ』(註6)に行き当たる筈だ。ところで、プリンボンと日本の家相とは果してつながりをもつのであろうか。

 

 チャイニーズ・ジオマンシー

 

 ロンドンに行った折、会議の合間をぬって寄ったRIBA(英国王立建築家協会)の本屋でまたまた風水に出会った。出版されたばかりのデレク・ウオルターズの『チャイニーズ・ジオマンシー』(註7)というペイパーバックが山のように積まれていたのである。ヨーロッパでも、風水について、随分、関心が高いのだ。

 そのデレク・ウオルターズの本というのは、実は、デ・フロートの『中国の宗教制度(システム)』(註8)の第三巻第一書「死者の処置」一二章「風水」に注釈をつけたものである。デ・フロートの全六巻にも及ぶ大著は、デュルケムとモース(『分類の未開形態』)にも引用される古典であり、度々復刻されているのだが、興味深いことに、日本でも「風水」の章のみ翻訳がある。『中国の風水思想ーー古代地相術のバラードーー』(註9)である。一九七七年に出版されて、一九八六年に改訂版が出ている。どうやら、風水についての関心は高まりつつあるのかもしれない。村山智順の『朝鮮の風水』(註10)も復刻されているし、韓国でも最近韓国訳が出た。しかし、いささか驚くことに、渡邊欣雄の『風水思想とアジア』(註11)によれば、家相、墓相の専門家はいても、風水についての「研究」はいまのところそう多くはないのだという。

 しかし、その後、風水への関心はますます高まりつつあるようにみえる。風水をテーマとする論考が増えているのである。エコロジー・ブームの中で、風水思想が再評価されつつあるのである。韓国の場合、日本よりさらに関心が高い。風水に関する専門書が陸続と出版され、その評価をめぐって大きな議論が起こっているのである。

  風水の歴史ははるかに遡ることができるのであるが、デ・フロートによれば、その基礎を築いたのは、三世紀の占星家・予言者・占卜家、管● 、郭● である。以後、形勢学派(形と輪郭の影響または力、山岡の形によって指示されている五行や五星の影響と力にウエイトを置く)、福建学派(卦・十二支・十干・星宿にウエイトを置く)という二大学派に分かれながら、今日に至る。

 その今日的読解の作業は、ホットなテーマである。 

 

 現代の風水師

 

 ところで、風水とプリンボンは果してつながりがあるのか。

 プリンボンの起源ももちろん古い。ところが、その歴史となると中国のようにはいかない。その起源に触れるのが、ファン・オッセンブリュッヘンの「ジャワにおけるモンチョ・パット概念の起源ーー未開の分類体系とのかかわりで」(註12)である。モンチョ・パットとは、あるデサ(村)とそこからみてほぼ四方位の方向に位置する四つのデサとの連合体を意味するのであるが、その概念はジャワの分類体系に基礎を置いており、プリンボンを支えるもの、その体系をうかがえるのである。モンチョというのはサンスクリットのパンチャ(ジャワ語のポンチョ=五)から来ており、「輪番で市場となる五つの隣接村落」に由来するという。また、パットは、ウンパット(      四)である。モンチョ・リマ(     五)、モンチョ・ウナム(     六)、・・モンチョ・ウォル(八)、モンチョ・スプルー(         十)という使われ方もする。一説には、モンチョ・リマは、モンチョ・パットの外側の四つの村落さすという。次々に四村づつ村落連合に加わるというのである。

 また、T.G.T.ピジョーの「ジャワの占いと分類体系」(註12)がモンチョパットとプリンボンに触れている。一四世紀(一三六五年)のジャワの文書『ナガラクルタガマ』(註13)にもそうした分類体系を跡づけることができるというから、イスラーム以前には、少なくともプリンボンは遡るわけである。

 さて、分類の未開形態ということでは、ジャワと中国はよく似ている。五行、八卦という四・五分割あるいは八分割とモンチョパット(モンチョリマ)の四・五分割である。

 しかし、このレヴェルで似ていると言っても面白くないだろう。皮相な構造主義人類学は、分類体系にのみ関心を集中する。

 さて、われわれは、普遍的な空間分類の原理を問題にしようというのではない。仮に、風水とプリンボンの直接的な関係が跡づけられるとしても、興味は、その具体的表現としての都市や集落や住居である。

 風を読み、水を読む方法、その内容こそが問題である。こうなると、もう少し、突っ込んでプリンボンを、さらに風水を研究してみる必要がある。いま、建築の世界で忘れ去られているのは、土地土地を見極めて行く眼であり、土地に固有な建築手法である。かって、風水師は至るところに存在していた。その存在を駆逐してきたのが近代建築家である。風水師のような建築家の存在を夢想するのはもはやアナクロなのだろうか。

註1 高橋徹の『道教と日本の宮都』(人文書院 一九九一年)

註2 千田稔 「都城選地の景観を視る」(岸俊男編 『都城の生態』 日本の古代9 中央公論社 一九八七年)

註3 砺波護 「中国都城の思想」(岸俊男編 『都城の生態』 日本の古代9 中央公論社 一九八七年)

註4 以下の記述は、J.プリヨトモによる。J.プリヨトモがテキストとしたのは、”                                   である。                                                                                                                                 

註5                                       

    バリのウンダギ(古老大工)によれば、シワ・カルマは、人間の態度、立居振舞いを規定し、アスタ・ブミは、土地や自然に対するルールを既定する。また、アスタ・コサラ・コサリは、建物についてのルールを規定する。  

註6 カウティリア        、『アルタシャーストラ』『実利論』(上村勝彦訳 岩波文庫) 王宮、城塞、都市について、その配置方法、建設方法が書かれている。

註7                                                                               

註8                                                                                          

註9 牧尾良海訳 第一書房 一九八六年

   村山智順 『朝鮮の風水』(朝鮮総督府 一九三一年 復刻 国書刊行会 一九七二年)

   渡邊欣雄の『風水思想とアジア』 人文書院 一九九〇年

   P.E.デ=ヨセリン=デ=ヨング他著 『オランダ構造人類学』 宮崎恒二他編訳 せりか書房所収 一九八七年

   ナガラクルタガマ については、以下の文献が参照される。







                                                                                 

 

2021年9月11日土曜日

都市の病理学-「スラム」をめぐってーー都市の透視図Ⅱ,CEL25,大阪ガス,199309

 CEL』 都市の透視図Ⅰ~Ⅳ

都市計画のいくつかの起源とその終焉--都市の透視図Ⅰ, CEL24号, 大阪ガス,199306 (布野修司建築論集Ⅱ収録)

都市の病理学-「スラム」をめぐってーー都市の透視図Ⅱ,CEL25,大阪ガス,199309(布野修司建築論集Ⅱ収録)

風水論のためのノ-ト--都市の透視図Ⅲ,CEL26号,大阪ガス,199311(布野修司建築論集Ⅰ収録)

近代日本の建築家と都市計画--都市の透視図Ⅳ,『CEL27号,199403

住いを考えるこの一冊, 『CEL』,大阪ガス、200607

 

都市の病理学-「スラム」をめぐってーー都市の透視図Ⅱ

都市の病理学

「スラム」をめぐって

                                   布野修司

 

 都市の病理というと色々なイメージが湧いてくる。殺人、強盗、誘拐、詐欺、やくざ、非行、離婚、家庭内暴力、売春、不純異性交遊、スラム、浮浪者、ペスト、精神病、麻薬、公害、ゴミ問題、住宅問題、・・・。社会的な病理現象の都市における現れを全て含んだ対象として都市の病理学というのは構想されるのであろうか。都市と犯罪、都市化と家族解体、都市郊外と新興宗教、・・・・興味深いテーマが無数にありそうである。

 

 「スラム」

 都市計画の分野で、都市病理というのは比較的はっきりしている。そもそも近代都市計画は、都市の病理現象としての、衛生問題、住宅問題、都市問題の発生に伴ってきたからである。都市化の速度が急速で、人口増加に都市施設の整備が追いつかない場合、種々の歪みが現れる。住宅問題、交通問題、廃棄物処理問題、環境(公害)問題など、いわゆる都市問題である。産業革命以後の急速な都市化によって、こうした歪みが一気に現れることになったのであるが、その象徴が「スラム」である。 いち早く、都市化の歪みが露呈し、「スラム」が大問題になったのは、イギリスの諸都市である。  一八四五年にエンゲルスによって書かれた古典的論文「イギリスにおける労働者階級の状態」は、マンチェスターのある地区を、例えば、次のように記述している。

 「比較的いい街路でも、狭くて曲がりくねっている。家屋は不潔で、古ぼけて、壊れかけていて、裏通りに沿った家の建てかたは、まったく極度に悪い。・・・正面の壁がまっすぐになっているものは一軒もない。・・・横町や囲い庭へ行くには、二人ならんでは通れないほど狭く、頭上に建物の突き出た道路を通るほかない。・・・ついに家と家とのあいだには、まだ建物でふさげるような場所は一インチも残らなくなってしまった・・・入り口のすぐそばに、ドアのない、非常に不潔な便所があるので・・・コレラの流行したときには、衛生警察がこの囲い庭の住民を立ち退きさせて清掃し、塩素でいぶして消毒したほどの状態にあった。」(註1)

「スラム」とは、極めて素朴に、狭小で過密な居住地区をいうが、「スラム Slum 」の語源は、「スランバー Slumber(微睡み)」という英語である。狭小過密で不衛生な居住条件による伝染病など様々な病気の発生、まさに都市の病理の発生が近代都市計画の起源なのである。

 たまたま、一九三一年にハリー・バーンンズによって書かれた『スラムーーーその物語と解決』(註2)という本が手元にある。その四百頁に及ぶ大著には一八三〇年代以降のスラムとその対応策の歴史が描かれているのであるが、ハリー・バーンズはそれを二つの時期、合わせて八つの段階に分けている。スラム対策の歴史といっていいのであるが、その第一の時期の四段階は次のようである。

 第1段階 一八三八年以前:対策なし

 第2段階 一八三八年~一八五一年:エドウィン・チャドウィック「メトロポリスの労働者階級の衛生条件に関する報告」(一八三八年)、公衆衛生法(一八四八年):問題の重要性が指摘され、最初の取り組みがなされる

 第3段階 一八五一年~一八六八年:労働者階級宿舎法(シャフツベリー法、一八五一年):不良住宅の登録 検査 通告、改善勧告開始

 第4段階 一八六八年~一八七五年:衛生法(トレンス法 一八六八年)、公衆衛生法改正(一九七五年):スラム・クリアランスの具体的実践が始まる。

 後の展開は、都市計画史の書物に譲ろう。 

 

 最暗黒の東京

 日本の場合はどうか。いわゆる都市問題が意識され出すのは一八八〇年代から一八九〇年代にかけてのころである。明治維新以降、富国強兵、殖産興業のかけ声のもと資本主義化の道を歩み始めた日本の社会は、明治二〇年代に至ると、急速に都市化が進展する。それとともに様々な問題が露呈する。最もクリティカルなのが「スラム」=貧民窟の形成である。東京の三大「スラム」と言われる、下谷万年町、四ッ谷鮫ケ淵、芝新網町がそうだ。また、大阪は名護町が有名だ。明治二〇年代になると、よく知られるように、そうした貧民窟を対象とするルポルタージュが数多く書かれている。

 『貧天地飢寒窟探検記』(桜田文吾 一八八五年 註3)、『大阪名護町貧民窟視察記』(鈴木梅四郎 一八八八年 註4)、『最暗黒の東京』(松原岩五郎 一八八八年 註5)、『日本の下層社会』(横山源之助 一八九九年 註6)などがそうだ。アカデミックな意味で評価の高いのは『日本の下層社会』で岩波文庫に古くから入ってよく知られているが、面白さは『最暗黒の東京』である。松原岩五郎は、新進の作家であった。新聞のルポルタージュであるが、実際に二年近くも貧民窟に住み込んで書いたものである。半端じゃない。

 「生活は一大疑問なり、尊きは王侯より下乞食に至るまで、いかにして金銭を得、いかにして職を需め、いかにして楽み、いかにして悲み、楽は如何、苦は如何、何によってか希望、何によってか絶望。この篇記する処、もっぱらに記者が最暗黒裡生活の実験談にして、慈心に見捨てられて貧児となりし朝、日光の褞袍を避けて暗黒寒飢の窟に入し夕。彼れ暗黒に入り彼れ貧児と伍し、その間に居て生命を維ぐ事五百有余日、職業を改むるもの三十回、寓目千緒遭遇百端、およそ貧天地の生涯を収めて我が記憶の裡にあらんかと、いささか信ずる所を記して世の仁人に訴うる所あらんとす。」

 冒頭の一節である。「木賃宿」、「住居および家具」、「日雇周旋」、「残飯屋」、「無宿坊」、「夜店」などと三十五項目にわけて、それこそ「最暗黒の東京」が活写されている。松原の記述には、基本的に底辺社会に対するシンパシーがある。そのシンパシーが記述を生き生きとさせるのである。松原の記述する東京の貧民窟には未だプロレタリアの姿はない。賃労働者群が登場するのは少し後のことである。また、社会主義運動が展開するのは、明治30年代になってからである。

 貧民窟をめぐる著作としては、少し、時代が下がると、『東京の木賃宿』(幸徳秋水 一九〇四年)がある。さらに、『貧民心理の研究』(賀川豊彦 一九一五年)、『ドン底生活』(村島帰之 一九一八年)、『下層社会研究』(八浜徳三郎 一九二〇年)などもある。

 「スラム」というと先ずは衛生問題である。伝染病が発生する源になるというので、まずはそのクリアランスが政策的な課題になったのは各国同じである。しかし、「スラム」がクリアランスの対象になったのは単に衛生問題からだけではない。様々な悪の温床ともみなされたのである。極めて具体的なのは社会主義思想の温床と考えられたことだ。松原岩五郎も書いている。「英の同盟罷工、仏の共産党、ないしプロ(プロイセンとロシア)の社会党、虚無党、その事件の起る所以を索ぬれば、必ずそこに甚だしき生活の暗黒なかるべからずと」。

 反体制的勢力、革命の拠点になるが故に「スラム」は排除されねばならない。抹殺されなければならない。社会悪の温床としての「スラム」のイメージはかなり一般的に流布したものである。犯罪や麻薬、家族解体など様々な病理現象が「スラム」に集中したこともマイナス・イメージがまとわりついてきた要因である。「スラム」は、社会を死に至らしめる癌細胞に例えられてきた。

 

 カンポンの世界

 しかし、「スラム」は悪か、果たして病理か、というと大いに疑問である。フィジカルな環境条件を見れば極めて劣悪であり、生存のためにギリギリの条件にあることも少なくなかった。そうした意味で「スラム」は「悪」であり、「病理」であるのであるが、それが社会の矛盾の現れであるにしても、「スラム」そのものが悪というわけではない。 

  発展途上国の大都市をみてみよう。二一世紀には危機的状況を迎えると言われる、人口問題、環境問題、食糧問題、エネルギー問題、その集約的表現が発展途上国の大都市の住宅問題である。世界資本主義の様々な矛盾がそこに見られる。「スラム」の存在がまさにそうだ。しかし、この「スラム」は決してスラムではない。フィジカルには極めて貧しいけれど、社会的にはむしろ健全な共同体組織が根づいていることが一般的なのである。

 都市村落(アーバン・ヴィレッジ)と言われることがある。都市においてもむしろ農村的な文化を保持し続けることが発展途上国の大都市の共通の特徴として指摘されるのである。だから、「スラム」という言葉は一般的には使われない。フィリピンでは、バロン・バロン(barong-barong)、南米ではバリオ(barrios)、北アフリカではビドンビル(bidonvilles)、トルコではゲジェ・コンドゥー(gece kondu)、インドではバスティー(bustee)など、それぞれの地域の固有の概念で呼ぶのが一般的になっているのである。発展途上国の大都市の居住地は実に多様なのである。インドネシアのカンポン(kampung)もそうである。

 カンポンとは、インドネシア(マレー)語でムラのことである。今日、行政単位の村を意味する言葉として用いられるのはデサ(desa)であるが、もう少し一般的に使われるのがカンポンである。村というより、カタカナのムラの感じだ。カンポンと言えば、田舎、農村といったニュアンスがある。カンポンガン(kampungan)とは田舎者のことである。しかし一方、都市の居住地も同じようにカンポンと呼ばれる。都市でも農村でも一般にカンポンと呼ばれる居住地の概念は、インドネシア(マレーシア)に固有のものと言えるであろう。

 カンポンについては、拙著『カンポンの世界』(註7)に譲りたいのであるが、何故、カンポンなのかというと、要するに面白いのである。日本の、のっぺらぼうな居住地が貧しく思えるほど活気に満ちているのだ。

 カンポンは地区によって極めて多様である。そして、それぞれが様々な人々からなる複合的な居住地でもある。カンポンは、民族や収入階層を異にする多様な人々からなる複合社会である。異質な人々が共存していく、そうした原理がそこにはある。

 日常生活は、ほとんどがその内部で完結しうる、そんな自律性がある。様々なものを消費するだけでなく、生産もする。ベッドタウンでは決してない。相互扶助のシステムが生活を支えている。つまり、居住地のモデルとして興味深いのである。

 カンポンは、ジャワの伝統的村落(デサ)の「共同体的」性格を何らかの形で引き継いでいる。ゴトン・ロヨン(Gotong Royong 相互扶助)、そしてルクン(Rukun 和合)は、ジャワ人最高の価値意識とされるのであるが、それはデサの伝統において形成されたものである。そして、それは現在でも、カンポンの生活を支えている。

 カンポンには、ありとあらゆる物売りが訪れる。ロンボン(Rombong 屋台)とピクラン(Pikulan 天秤棒)の世界である。なつかしい。かって、日本の下町にも、ひっきりなしに屋台が訪れていた。

 カンポンの住民組織であるルクン・ワルガ(RW Rukun Warga)、ルクン・タタンガ(RT Rukun Tetannga)というのは、実は、日本軍が持ち込んだものだという。町内会と隣組である。カンポンについての興味はつきないのである。

 

 悪場所論

 以上のように、「スラム」と呼ばれてきた都市の貧困の居住地区がそれ自体必ずしも病理でないとすれば、都市の病理学として、少し別の視角が必要となる。近代都市は、その内部にある意味で必然的に「スラム」を抱え込んだのであり、低賃金の労働力を供給する空間として、「スラム」は必要悪であるといった見方がその一つである。「スラム」を一方的に悪と見なすのではなく、都市の表裏を同時にみる見方は必要であろう。発展途上国の「スラム」の存在も、発展途上国の病理というよりも、先進諸国の含めた世界の構造の病理が露出しているとみなせるからである。

 都市神殿論というのがある。都市の起源は神殿であるとする説であるが、仮にその説を採るとしても、神殿の前には人が集まり、情報や物資の交換が行われ出すとすれば、そこに俗の世界が形成される。都市を一元的に捉えるのはどうも無理ではないか。都市には、聖なる部分と俗なる部分がある。あるいは、表と裏がある。あるいは、光の部分と闇の部分がある。都市をそのように二元論的に捉える見方もかなり一般的である。

 近世日本の都市には悪場所と呼ばれる場所があった。遊廓や芝居小屋の集まる場所である。人々が集い、遊び、唄い、踊り、それを見て楽しむエンターテイメントの空間はどんな都市にもある。そうした空間は、風紀を乱し、秩序を紊乱させるというので、禁止されたり、制限されたり、監視されたり、取締の対象になった。しかし、一方、そうした空間は、都市に活力を与え、都市生活を魅力あるものにする源泉でもある。芸能の発生は、こうした悪場所と不可分である。

 歌舞伎が河原から発生したように、シェイクスピアの芝居がテムズ川の南岸を根拠地にしたように、悪場所はまず都市の周縁部に立地し、やがて、都市の内部に取り囲まれる過程をとる。芝居小屋、劇場の立地、遊廓や売春宿の立地は、都市の形成史に関して、ある一般的な法則を告げる筈である。

 こうした近代以前の都市の悪場所についていささか図式的に考えてみると、悪場所すなわち都市の病理とは言えないであろう。悪場所も都市の立派な構成要素なのである。

 

 都市と犯罪

 松山巌の『乱歩と東京』(註8)は、実に興味深い本であるが、中でも、印象深かったのは、江戸川乱歩の作品の犯罪現場が同潤会のアパートが立地する地区にぴったりと重なるという分析である。同潤会というと、関東大震災の復興のために設立され、日本で最初の公的な住宅機関となったのであるが、その花形の事業がアパートメントハウスの建設であった。そのアパートメントハウスの建設されたのは、青山、代官山、江戸川といった今では庶民ではとても住めないような都心地域もあるのだが、だいたいは下町であった。鴬谷、下谷、猿江、清砂などがそうである。そして、そうした地区は、あるいはそうした地区に近接する地区は、いわゆる不良住宅地区とされた地区であった。

 「スラム」と犯罪というと、実際に密接な関係があるのであろうか。あるいは、「スラム」と犯罪という組み合わせが作家の想像力を余程かき立てるのであろうか。百年前のロンドンを賑わせた「切り裂きジャック」というと、イーストエンドが舞台だ。周辺はゲットー、一大「スラム」地区である。

 凶悪犯罪は都市にのみ見られるかというとそんなことはない。おどろおどろしい犯罪の舞台は様々である。ただ、犯人が潜むのは、やはり、大都会がふさわしい。匿名性のなかで生きていける条件が大都市にはあるからである。共同体に縛られている限りにおいて、近代的な犯罪は成り立たない。少なくとも、ミステリーが成立するためには、近代都市化が不可欠であったのは間違いないのである。

 都市と犯罪について具体的にいえることがあるであろうか。例えば、校内暴力が多発したのは、人口が急速に膨らんだ郊外であった。例えば、新興宗教の広がるのも大都市郊外地域だと言われる。急激な変化によって、様々な不安定状況が生まれるからであるとされる。果たしてそうか。何故、高島平団地は自殺の名所になったのか。各種犯罪をプロットしてみれば、何かわかるのかもしれない。しかし、特定の場所と犯罪が結びつくことはないだろう。場所性が失なわれることによってむしろ犯罪が多発するからである。都市が犯罪を生むのではなく、社会の病理が都市を犯罪の舞台とするのである。

 

 都市の生と死

 また、視角を変えよう。都市を人間の身体に例えるとどうか。先に「スラム」は癌細胞に例えられたと書いた。悪性腫瘍はやがて人間をして死に至らしめる。そういうことが都市に起こるであろうか。

 ベスビオス火山の爆発で一瞬のうちに溶岩や火山灰の下に埋まってしまった例がある。いわば事故死である。ペストの蔓延で壊滅状態になった都市がある。例えば、五四〇年頃エジプトに発生したペストハビザンティン帝国を大混乱にいれた。コンスタンティノープルでは、一日に五千人も一万人もが死んだという。一四世紀にヨーロッパに大流行した黒死病はものすごい。死者は三人に一人だという。まさに病死である。モヘンジョダロやハラッパなどインダス文明の古代都市は、森林資源の浪費による生態系の変化によって滅びたという説がある。古今東西、都市の栄枯盛衰を見たときに都市の生と死について何か言えることがないか。永遠の都市は果たしてありうるのか。

 一千年を超える都というとそう多くはない。イスタンブール、京都、・・・。日本の都市をみても、その栄枯盛衰はかなり激しいとみていい。近年の例で言えば、重厚長大の産業都市、企業城下町の衰退はその例である。さらに例えば、日本の近代を支えた炭坑の町の勃興と衰退は実にドラスティックである。

 世界の大都市についてみよう。例えば、東京。四百年前には一寒村に過ぎない。それが江戸となり、人口百万の世界でも有数の都市となる、そして、今、一二〇〇万人を超える大都市になった。果たして、どうなるのか。誰でもわかることは、無限に都市が膨張し続けることはありえないことである。

 墓、墓地の問題を考えるとわかりやすい。一千万人の都市がいれば一千万人の墓がいる。世代を重ねて行くのであるから何千万人の墓がいる。墓地のマンションが出来ていく所以である。

 墓地については、死生観の問題もあり、一概にいえないのであるが、まあ、解決がついたとしよう。人が住むとなると一定の限度がある。限度を超えればどうなるか。誰も考えようとしない。なんとなく大丈夫だと思っている。

 東京一極集中は病理か。誰もがそう思っているようでいて必ずしもそうではない。東京一極集中が日本の高度成長を支え、日本を世界の大国に押し上げる原動力となったと考える財界人は多い。しかし、東京は果たして永遠かというと誰にもわからない。地震など自然の災害や戦争で突然のカタストローフに見舞われるかも知れない。温暖化や砂漠化など環境問題でどこかの都市に今にもクリティカルな事態が現れるかも知れない。そう考えると、大切なのは、むしろ、都市の死を見つめることのほうではないかと思えてくる。

 基本は生態学的な基盤ではないか。水や電気、ガス、エネルギー問題を考えてみれば明らかなように、エコロジカルな基盤が欠けるとすれば、都市は死に向かわざるを得ない筈だからである。

 こうして、われわれは「スラム」の問題へ戻る。特に、発展途上国の「スラム」の問題を自らの問題として受けとめない限り、われわれの都市の病理は見えて来ないのである。

 

註1 L.ベネヴォロ 『近代都市計画の起源』(横山正訳 鹿島出版会 一九七六年)より

註2 Harry Barnes,"THE SLUM Its Story and Solution",P.S.King & Son Ltd.,1931

註3 『日本』連載 西田長寿編 『都市下層社会』(生活社 一九四九年)所収

註4 『時事新報』連載 西田長寿編 『都市下層社会』(生活社 一九四九年)所収

註5  民友社 岩波文庫1988年復刻

註6  教文館 

註7 パルコ出版 一九九一年

註8 パルコ出版 一九八四年






2021年9月10日金曜日

都市計画のいくつかの起源とその終焉--都市の透視図Ⅰ

CEL』 都市の透視図Ⅰ~Ⅳ

都市計画のいくつかの起源とその終焉--都市の透視図Ⅰ, CEL24号, 大阪ガス,199306 (布野修司建築論集Ⅱ収録)

都市の病理学-「スラム」をめぐって,都市の透視図Ⅱ,CEL25,大阪ガス,199309(布野修司建築論集Ⅱ収録)

風水論のためのノ-ト--都市の透視図Ⅲ,CEL26号,大阪ガス,199311(布野修司建築論集Ⅰ収録)

近代日本の建築家と都市計画--都市の透視図Ⅳ,『CEL27号,199403

住いを考えるこの一冊, 『CEL』,大阪ガス、200607

 都市計画のいくつかの起源とその終焉--都市の透視図Ⅰ

                            布野修司

  都市という言葉

 都市とは何か。都市といっても古今東西様々である。その形態が多様であるのに加えて、その概念そのものも、地域によって、民族によって、多様である。いくつか見てみよう。

 日本語の「都市」というのは、そもそも「都(みやこ)」と「市(いち)」を合成した言葉、近代語だ。「都」は、いうまでもなく、王権の所在地、天皇、首長の居所である。古代においては必ずしも固定的な場所ではない。「市」というのは、物が交換される市場であるが、物だけでなく、人々の自由な交渉の場でもある。日常の生活や秩序とは区別される「無縁」の空間を意味した。「町(まち)」という言葉は、文字どおり、もともと田地の区画を意味したが、やがて都の条坊の一区画をさすようになったものだ。都、市、町の他にも、津、泊、浜、渡、関、宿など、都市的集住の場を示す多様な語が日本語にある。

 中国語だと「城市」である。府、州、県といった行政単位の中核都市が「城市」である。「都城」というのは「都」について使われた。「城」の字が使われるのがその形態の特徴を示している。中国の都市はそもそも城壁で囲われるものなのである。中国の都城制を日本は導入するのであるが、中国の都市と日本の都市が決定的に異なるのは「城壁」をもたないことである。

 西欧ではどうか。ギリシャのポリス、ローマのキウィタスがすぐ思い浮かぶ。ラテン語のキウィタス civitas は、シティー city 、シテ cite 、チッタ citta などの語源であるが、日本や中国の都市の概念と異なる。キウィタスとは、第一義的には、自由な市民の共同体を指す。また、その成員権(市民権)をもつものの集まりをいう。そして、その成員の住む集落やテリトリーを含めた地域全体を指す。そうした意味では、キウィタスは、都市というより「国(くに)」=都市国家と言った方がいい。キウィタス群がローマ帝国をつくり、ローマ市民の一部が各地に送られて、形成したのがキウィタス類似の「植民市(コロニア)」である。

 ポリスは、同じように都市国家と訳され、キウィタスに対応する語とされるが語源は不明である。城壁都市を指す場合、その中心のアクロポリスのみを指す場合、城壁がなくてある領域を指す場合と色々らしい。ギリシャ・ローマの都市については後に見よう。

 ラテン語には、もうひとつウルプス urbs という語、概念がある。農村に対する「都会」という意味だ。アーバン urban の語源である。ウルプスというのは、もともと、エトルリア地域で他と聖別された区域としての「ローマ市」を意味したのであるが、次第に一般的に使われるようになったという。さらに、オピドゥム oppidum という語がある。「城砦」を意味する。ただ、ウルプスと同じように使われるという。

 ペルシャ語では、シャフル、トルコ語ではシェヒル、もしくはケントという。シャフルは、王権、王国、帝国という意味の語源をもつ。インドには、ナガラ(都市)、プラ(都市、町)、ドゥルガ(城塞都市)、ニガマ(市場町)といった語、概念がある。インドネシアでは、一般にコタという。サンスクリットの城砦都市を意味する語が語源だという。面白いことに、ヒンドゥーの影響の強い、ロンボク島にチャクラヌガラという都市がある。また、ヌガラというと、東南アジア一帯使われているが少しづつニュアンスが異なるように見える。ジャワでは、内陸の都市国家を意味し、大陸部では沿岸部の交易都市を指すようだ。また、バリやロンボクでプラというと寺のことであり、プリというとその祭祀集団をいう。都市という語の広がりを追ってみるのも、その多様性を確認するとともに、共通の本質を明らかにする興味深いテーマである。

 

都市の発生

 ところで、都市はどのようにして発生したのか。

 古来、採集狩猟の時代から、人々は集落を形成してきた。しかし、都市の発生にはある契機があった。穀物栽培のための定住である。都市の発生は一般的には農耕の発生と結びつけられて理解されるのである。天水利用による農耕の開始によって定住的な集落がつくられる。決定的なのは、潅漑技術の発展による生産力の増大であった。集落規模は急速に拡大し、その数が増すとともにそれを束ねる、ネットワークの中心としての都市の誕生に至るのである。

 古代の都市文明は、いずれも、栽培植物としての穀物をもっている。「肥沃な三日月地帯」として知られるメソポタミアは、大麦、小麦である。考古学的な遺構によると、潅漑技術が発明されたのは紀元前五千数百年頃だという。それとともに集落の規模は飛躍的に大きくなり、またその数も増えた。そうした中から、ウル、ウルクなどといった都市が生まれてくるのである。バビロニア南部のシュメールの地に最初の都市国家が勃興したのは、紀元前四千年紀末ないし三千年紀初頭だという。

 古代エジプトの場合、メンフィスなど現在と同じ場所に古代都市が造られており、その実体はよくわからないらしい。ただ、興味深いのは、城壁をもたないことだ。また、ネクロポリス(埋葬都市、死者の都市)が造られているのも特徴的である。クフ王等三大ピラミッドで著名なギザはネクロポリスである。

 インド亜大陸に最初に都市が出現したのは、前二千三百年頃である。インダス川流域のハラッパー、モヘンジョ・ダーロの二大都市に代表される諸都市がそうだ。インダス文明は紀元前千七百年頃から衰退し消滅するが、紀元前六世紀頃に再びいくつかの都市が現れている。マウリヤ帝国の首都パータリプトラがその代表である。インドの場合、興味深いことに、都市の建設方法を記す書がある。カウティリアの『実利論』がそうである。また、『マーナサーラ』といった建築理論書が残されている。こうした都市計画の理論書についても後でみよう。

 中国における城郭都市の出現は、紀元前一千五百年の殷代のことだという。それ以前は、邑(ゆう)という都市国家的集落が中心であった。紀元前四、三世紀になると黄河下流域でいくつかの巨大城市が発生する。斉の臨し(りんし)、超のかんたんがそうである。国都としては前漢の長安、後漢・曹ぎの洛陽、北ぎの洛陽、隋唐の長安、洛陽については、わが国の都城、宮都との関連で我々には親しいところである。

 

 古代ギリシャの都市

 都市はどのようにして建設されるのか。都市計画の起源はどこにもとめられるのか。

 都市の発生というと、自然発生のニュアンスがあるが、明らかに計画された都市がある。というより、都市というのは基本的に人工的な構築物であり、計画されるものである。自然の生態系の中でその秩序と共存するヴァナキュラーな集落と都市はその本質において対立的だ。とすれば、都市の発生と都市計画の発生は同時ということになる。都市は古代世界の基本的な「制度」のひとつとして成立した。都市は、その起源において、文明と同義であり、野蛮やカオスとは正反対なものであった。

 以上のように理解すれば、都市計画ははるか以前から存在してきたのであるが、一般に都市計画の歴史というと、決まって挙げられる名前がある。ミレトスのヒッポダモスである。ヒッポダモスこそ最初の都市計画家ということになっている。都市計画の始まりについてはあまりよくわかっていないのである。

 ヒッポダモス風の都市計画というと、グリッド(格子状)・パターンの都市である。そして、都市計画というとまずはグリッド・パターンの都市計画が問題とされる。しかし、ヒッポダモス以前にヒッポダモス風都市計画がなかったかというと決してそうではない。知られるように、エジプトのカフーンやエル・アマルナの労働者集落は規則正しいパターンをしている。東トルコのゼルナキ・テベ(前九世紀~前六世紀)やアッシリア時代のパレスティナのメギドもミレトスに先立つ。

 ヒッポダモスの名が有名なのは、アリストテレスが「都市計画を考えだした人」として言及したからである。ただ、ヒッポダモスがミレトスの設計に関わったかどうかは明かではないらしい。アリストテレスは、ヒッポダモスを理想的な都市のあり方について思索した一風変わった社会・政治理論家といい、ペイライエウスを設計したといっているだけだ。また、植民市トゥリオイまたロドスの建設に関わったことが知られるだけである。また、考古学的発掘から、ヒッポダモス以前に、グリッド・パターンの都市計画が存在したことは、ミレトスとともにグリッド・パターンの都市の先駆とされる古スミュルナの発掘からも明らかだという。

 何故、グリッド・パターンなのであろうか。ギリシャに限らず、植民都市において、グリッド・パターンが採用されることが多い。新大陸に西欧列強が建設した植民都市を思い起こしてみればいい。特に、土着の文化を根こそぎにする施策をとったスペインによる植民都市がそうだ。ギリシャのこの都市計画の伝統も数多くのコロニア建設の経験に基礎を持っていることはまず間違いがない。都市計画の技術的問題、土地分配の問題を考えても、そのパターンの採用はむしろ自然である。

 それはともかく、われわれは、ここで少なくとも、もう一つの都市計画の流れを思い起こしておく必要がある。自然の地形をそのまま用いる都市の伝統は一方であるのである。ギリシャの都市計画については、E.J.オーウェンズの『古代ギリシャ・ローマの都市』(松原國師訳 国文社 一九九二年)が概観しているのであるが、全てがグリッド・パターンの都市ではない。多くの植民都市の建設でその実験が試みられるのであるが、全ての植民都市がグリッド・パターンというわけではないのである。

 E.J.オーエンズによれば、ヘレニズム期に入って、都市計画は新たな段階をむかえる。アレクサンダー大王の東征とともに東方ヘレニズム世界に多数の規則正しいギリシャ植民市を生むのであるが、都市計画は統治の手段でもあった。そうした中から、その威信を誇示するために都市を壮麗化する動きが起こってくるというのである。

 グリッド・パターンの都市の建設には絶えず危険性があった。都市の立地によって、大規模な造成が必要となるからである。白紙の上にグリッドを描くのは簡単でも、現実には多くの困難を伴うのだ。一方、自然の地形を用いる伝統的都市には壮大なパースペクティブを生み出す可能性があった。小アジアを中心に、支配者たちは、都市を自らの業績の永遠の記念碑として残すために、大規模な景観の中に都市を構想し始める。都市の遠近法的風景は決して新しいものではなかったが、意識的な実験が盛んに行われ出すのである。アリンダ、アッソス、ハリカルナッソスなどの名前が挙げられる。

 こうした都市の記念碑化、美化、壮麗化の頂点に立つのが小アジアの西海岸のペルガモンである。町そのものが断崖の頂と南斜面に立地するペルガモンは、地形を逆にとって壮麗な景観を作り出すのに成功した。「ペルガモン様式」と「ヒッポダモス風」は都市計画の二つの異なった起源であり、伝統なのだ。


 

 

 

 

2021年9月9日木曜日

対談 平良敬一・布野修司 建築ジャーナリズムの戦後50年 

 建築ジャーナリズムの戦後50年,旭硝子株式会社,対談 平良敬一・布野修司,GA,1995SPRING

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