このブログを検索

2021年10月30日土曜日

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究 Ⅱ.チャクラヌガラの構成原理

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究(布野修司),科研都城研究(199394)19953


Ⅱ.チャクラヌガラの構成原理*1

 

 

1. チャクラヌガラの空間構成

 チャクラヌガラは、インドネシアでは極めて珍しい格子状の道路パターン(グリッド・パターン)を持った都市である(図1 歴史地図)。ここでは、チャクラヌガラの構成について、建設当初の姿を推測し、考察してみたい。

 

 

 1-1 街路パターンと宅地割

 チャクラヌガラの街路体系は3つのレヴェルからなっている。街路は広いものから順に、マルガ・サンガ marga sanga、マルガ・ダサ marga dasa、マルガ margaと呼ばれている*2。サンガは9*3、ダサは10を意味する。マルガ・サンガはチャクラヌガラの中心で交わる大通りである*4。このマルガ・サンガは正確に東から西・北から南に走り、四辻を形成する。そして、マルガ・ダサが各住区を区画する通りであり、マルガが各住区の中を走る通りである。

 宅地1筆あたりの計画寸法および道路幅の計画寸法について、古い壁の残っている宅地を選んで実測を行った。計測した宅地の東西方向の平均は265m、最大は3044m、最小は2508m、また南北方向は平均2453m、最大は2684m、最小は2155mであった。宅地の計画寸法は東西約26m、南北約24m、一宅地あたりの面積は約624㎡となる。

 古老によれば*5、「プカランガン(屋敷地)の計画寸法は25m×25mであり、宅地を測る単位としてトンバ tomba がある。トンバは槍の長さであり約25m、25mというのはその10倍である。」。また、「1プカランガンは8アレ are800㎡)であり、正方形である。」という*1。「1プカランガンは6 are 600㎡)である。」*2と異説があるが、実測では25m×25mの正方形のプカランガン(屋敷地)は存在せず、当初からほぼ26m×24mで計画されたものと考えられる。

 街路の幅はタクタガン tagtagan の幅も含めて計測した。タクタガンとは街路の両端に設けられた植栽スペースである*3。古老達によれば、「テンボック tembok 壁と道の間には、タクタガンと呼ばれる植裁空間がある。その所有権は王に属する。」*4。「タクタガンの幅は約5mであった。タクタガンの機能の一つとしては、ウパチャラ upacara(祭り)に使う。また別の機能としては、ココナツや砂糖椰子などの果樹を植え果実を収穫した。タクタガンはアダット(慣習法)では、プカランガン(屋敷地)に属しており、プカランガンのなかでは儀式を行うのを禁じた。18678年にかけて中国人がタクタガンを商業地として買い上げた。」*5

 タクタガンは祭祠の行われる場所であり、また植裁が行われ都市景観を演出する祝祭空間として、かつては利用された。しかし、現状では、マルガサンガ沿いのタクタガンはほとんどが中国人所有の商店として利用され、マルガ・ダサやマルガ沿いのタクタガンも宅地に取り込まれている例が多くみられる。

 実測によるとマルガ・サンガは東西の通りで3652m、南北の通りで4405m、マルガダサは、ややばらつきがあるが平均1714m、最頻値で18mであり、約18mで計画されたものと考えられる。マルガは平均で775mであり、約8mで計画されたものと考えられる。またタクタガンの寸法は、マルガ・サンガで1163m、マルガ・ダサで46mであった。これらの数値によるとマルガ・ダサでで四方を囲まれたブロックの東西寸法は、宅地寸法(東西)26m×8+小路(marga8m×3232m。南北寸法は、宅地寸法(南北)24m×10240mになる。また、タクタガンの寸法を4mとしてブロックの寸法に含めると、興味深いことに、232m+4m×2240mとなり、1ブロックの寸法は240m×240mの正方形となる。

 

 

 1-2 住区構成---カラン

 寸法計画の面からは、マルガ・ダサで周囲を囲まれたブロックが1つの住区を構成していたと考えられる。また現在のカランの構成パターンもマルガ・ダサを境界とするものがあり、マルガ・ダサで囲まれたブロックが一つの住区を構成していたと考えられる。

 古老の話によると*6、南北に走る1本のマルガに10づつの宅地が向き合うのが基本である。そして、この両側町をマルガと呼び、2つのマルガで1クリアンを構成する。クリアンとは、バリではバンジャールの長を意味する。また、2クリアンすなわち80宅地で1つのカラン(住区)を形成する、ということである。

 現在、カランはインドネシアの行政組織においてはRW*1に対応する組織となっている。古老の話によると「建設当初、各カランはバリの同一集落出身の人々で構成されていた。またチャクラヌガラは33のカランからなり、各カランに1つのプラがあり、チャクラヌガラの中心寺院であるプラ・メル purameruにそれに対応する祠があった。そして、各カラン毎に長がいた」ということである*2。カランはかつては祭司組織の単位であったと考えられる。

 バリ島にはカランと呼ばれる住区は見られない。バリではカランとはスードラの屋敷地の意味である*3。ピジョー T.G.Pigeaud*4によるとカラン(karang)という語は、チャクラヌガラの王宮で発見された『ナガラ・クルタガマ』*512章「(王家と宗教コミュニティーに属する)領土一覧」の766節に見られる「kalagyans」に起源を持つという。「1.今、描写されていないのはkalagyans(職人の場所)の事である。ジャワのすべてのデサ deshas(村 地域)に広がっている。」という描写がある。

 バリの居住単位はバンジャールと呼ばれている。バンジャールは形式的には集団の単位であり、公共施設の管理・地域の治安維持・民事紛争の解決をおこなう。そして、その長はクリアン・バンジャールと呼ばれた。

 現在、チャクラヌガラのバリ人の間ではバンジャールもカランも使われるが、バンジャールが社会組織の単位であるのに対してカランは土地の単位を意味する。同じ土地出身の地縁集団としての性格を合わせ持つのがカランである。

 

 

 1-3 祭祀施設と住区構成

 チャクラヌガラの中心に位置するプラ・メルには33の祠があるが、それと対応する33のプラが現在も残っている。プラを持たないカランも見られ、カランとプラの対応関係は崩れている(図2)が、かっての姿を推察することができる。

 ロンボク島のプラの中で最も大きく、最も印象的なのがプラ・メル*1である。最東にあるスワは3つの部分のうち一番重要な区画である。ここには塔や祠などの建物が配置されている。このうち主要な建物は、高くそびえ立つ三つの塔である*2。これらの三つの塔を囲むようにして、北側に14棟、東側に16棟の、塔の前に3棟、計33棟の小祠が建っている。それぞれの祠にカラン名が書かれており、チャクラヌガラと周辺の村を合わせた33のカランによって維持管理がなされている。

 建設当初は、存在したが、時代の経過によりその住区組織自体が消滅し、現在は存在しないプラも確認された。現存するプラは全部で27である。その結果、祠を維持管理する住区はチャクラヌガラの格子状の都市計画地域外にも存在することが明らかになった。また、1つのプラは、チャクラヌガラの南に位置するクディリ Kediri に有ることが判明した。プラ・メルの小祠を維持管理する住区が変化していないのであれば、格子状の区域外にもプラ・メル建設当初から、バリ人の住区があったことになる。プラの分布を見ると、古老のいう1ブロックが1カランとなるものも多く、各カランに1つのプラという対応関係は見られない。興味深いのは、南のアンガン・トゥル PURA ANGGAN TELU である。この地域は中心部と同様の町割りがなされている。当初から計画されたとみていい。北は、プラ・ジェロがあり、東はプラ・スラヤがあり、プラ・スエタがある。チャクラヌガラはオランダとの戦争で一度大きく破壊されており、必ずしも現状からは当初の計画理念を決定することはできないが、プラ・メルに属するプラの分布域がおよそ当初の計画域を示していると考えていいと思われる。

 チャクラヌガラのマルガ・サンガ以南の地域を旧市街であったと考えると、マルガ・ダサで四方を囲まれたブロック32からなる。王宮のあるブロックを加えると33個になり、プラメルの祠の数に一致する。チャクラヌガラの1カランを建設当初はマルガ・ダサ、もしくはマルガ・ダサとマルガ・サンガで囲まれたブロックで構成する概念があったということも考えられる。

 

 

 1-4 王宮の構成

 チャクラヌガラの王宮は、189411月にオランダとの戦争により破壊されている。しかし、C.W.クールによって*1、その配置が残されている。それによれば、チャクラヌガラの王宮はバリの王宮に比べると規模が大きく、500m×250mの規模であった*2。建物の形式等については、クールの配置図からは不明であるが、上記の文章より、周囲を壁に囲まれ、バリのプリによく似た構成であったことは間違いない。クルンクンの王宮、カランガセムの王宮が参考になる。また、『ナガラクルタガマ』の記述と合わせて王宮を復元することは都市構成を復元する大きな手がかりとなるがここでは紙数の関係で省略したい。

 

 

2. チャクラヌガラの住み分けの構造

 2-1 住民構成と住区組織

 クチャマタン・チャクラヌガラの人口(1990年)は、およそ74000人である。宗教別の人口構成をクルラハン毎にみると、格子状の町割りに含まれるクチャマタンは西チャクラヌガラ(Cakranegara Barat,東チャクラヌガラ(Cakranegara Timur,北チャクラヌガラ(Cakranegara Utara,南チャクラヌガラ(Cakranegara Selatan)の4つに、ヒンドゥー教徒が数多く居住する(表Ⅰ)。

 各クルラハン毎に宗教別のカラン数をみると、西チャクラヌガラ、東チャクラヌガラでは75%以上がヒンドゥー教徒が主流を占めるカラン、北チャクラヌガラ、南チャクラヌガラでも50%以上がヒンドゥー教徒のカランとなっている(表Ⅱ)。

 具体的な住民分布を見てみると、まずムスリムについて著しい特徴を指摘できる。ムスリムの居住するのは市の周辺部である(図3)。西側については、ほぼマルガで囲われるブロックの境界に沿ってムスリムが居住する。バンジャール・パンデ・ウタラの西の1クリアンはムスリムが居住し、バンジャール・パンデ・スラタンの西にはヒンドゥー教徒が居住する。チャクラヌガラのかっての境界はバンジャール・パンデ・ウタラの西であったことが推測される。カラン・サンパランの北は後にムスリムの居住が行われた地区であろう。南は、アビアントゥボの周囲がムスリム居住区である。そして、カラン・ゲタップが製鉄で知られるムスリム居住区である。カラン・ゲタップは、低所得者層が居住する地区でもある。東のデサ・スガンテンは、4つのカランにわけられるが、いずれもムスリム居住区である。グリッド・パターンは左京でより崩れていることが、こうしたムスリム居住区の分布で理解できる。北についても周辺部にムスリムが居住する。ヒンドゥー教徒の居住区をイスラーム教徒が取り囲んでいる形である。都心部でムスリムが居住するのはカンポン・ジャワとカラン・ブディルの極く一部である。

 中国人は、全域に点々として分布している(図4)。まず、商業地域であるチャクラヌガラの中心部、四辻のあるあたりに集住している。金を扱う商店が中心部に多く見られるが、その経営者のほとんどは中国人である。また、幹線道路沿いに中国人は居住する。主として商業活動に従事するのが中国人である。

 

 

  2-2 住区構成と施設分布

 まず、カランとブロックの関係をみてみると図のようである(図5)。マルガすなわち約20戸を単位とするが、マルガ・ダサを越えて様々な形態と規模をとる。

 モスク、プラといった宗教施設や商業施設等都市施設の分布と各カランの構成から住区構成を見てみると以下のようになる。モスク、プラの分布はイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の分布に関わる。モスクは、上述したムスリムの分布と一致する。また、市の中心部に3つ建設されている。他の宗教施設として、キリスト教会が3つ、中国(仏教)寺院がある。

 パサール(市場)は、中心部の他、およそ東西南北にひとつづ5つあり、生鮮食料品など日常品を販売している。商業施設は、マルガ・サンガの大通りに集中している(図6 商業施設の分布)。

  近隣住区に密接に関わる学校は各住区毎に、いくつかのカラン毎に設けられている。

 

 

 2-3 住み分けの構図

  ①カーストの分布

 ヒンドゥー教徒の分布をカースト別に見てみよう。インドの場合と同様、バリでも、ブラーマナ Brahmana、クシャトリア Ksatriya、ウェシャ Wesya、スードラ Sudra4つのカーストが区別される。さらに、ワルナ(Waruna 色)制に似た下位分類を持つとされる。

 ブラーマナの場合、男はイダ・バグース Ida Bagus、女はイダ・アユ Ida Ayu 略して Dayuと呼ばれる。もし、母親が父親より低いカーストに属すと、子供はグスティ Gusti ないしグスティ・バグース Gusti Bagus (女性の場合、イダ・マデ Ida Made もしくはイダ・プトゥ Ida Putu)と呼ばれる。クシャトリアは、極めて複雑になるのであるが、プレデワ Predewa、プンガカン Pengakan、バグース Bagus、プラサンギアン Prasangiang といったタイトル(称号)をもつ。歴史的経緯から、デワ・アグン Dewa Agung、チョコルダ Cokorda、アナック・アグン Anak Agungも用いられる。ほとんどのウエシャは、グスティと呼ばれる。スードラの場合、大半がそうであることから、バリ・ビアサ(Bali biasa 一般のバリ人)あるいはジャバ Jaba と呼ばれる。

 インドの場合、『マーナサーラ』*1のいうように、北がブラーマナ、東がクシャトリア、南がヴァイシャ、西がスードラに振り分けられるのが基本であるが、果たしてどうか。

 まず、ブラーフマの分布(図7)で目立つのが北部である。そして、東部である。また、南の突出部の東北部にも目立つ。左京の南西、右京の中央部にも見られるが、北東部へのブラーフマンの偏りは大きな意味をもっていると考えられる。北東の方角には聖山リンジャニがあり、チャクラヌガラ周辺のプラの分布や構成について報告(1)でみたように、オリエンテーションははっきりと意識されていると見ていいからである。個々の屋敷の東北角にもサンガ(屋敷神)が排されているのである。インドそのものではなく、バリ・ヒンドゥーの方位観がそのまま持ち込まれていると見ていいだろう。

 サトリア、ウェシアについては、称号ははっきり意識されているがカーストについては居住者の認識が極めて曖昧である。特にウエシア意識が希薄である。グスティーと合わせてウエシャと考えると全域に分布するが、どちらかというと左京の分布が厚い。それに対してクシャトリアと答えるものの分布は右京に厚い。称号毎の分布を見ると、アグン、ラトゥといった王家に関わる称号、またチョコルダあるいはデワは、数も限られ、左京の王宮の周辺に分布する。

 以上のように、比較的数の多い、サトリア(図8)とグスティ(図9)には分布の偏りが見られる。サトリアは右京に、グスティは左京に偏っているといっていい。グスティをウェシャと見なせば、インドとは逆であるが、カースト毎の棲み分けははっきりしていたと見ていいだろう。

 スードラ、バリ・ビアサは全域にわたって分布する。ただ、当初は、次に出身地について見るようにカースト毎に、また、称号毎に、まとまって棲み分けられていたことは間違いないところである。

 カラン毎の具体的な棲み分け状況については紙数の関係でここでは省略したい。

  ②出身地とカラン

 チャクラヌガラは、バリ島カランガセム王国の植民都市として18世紀前半に建設された経緯をもつ。バリからロンボク島への移民はどのように行われたのか、また、どのように住区が構成されたのかについては、出身地を聞くことである程度推察できる。聞き取り調査によれば、「各カランの名前は出身地のバリの集落の名前であり、各カランの居住者はその集落の出身者」ということであった。昭和17年発行陸地測量部作成のバリ島地図で、バリ島の地名の確認を行うと*1、確認できたのは以下の13住区である(図10)。

 1.kebu2. Kebon3.Anggantelu4.Seraya5.Mantri6.Jasi7.Tohpati8.Manggis9.Sideman10.Sampalan11.Pande12.Selat13.Rendang

 カランの名称は、バリ島の集落の名称から、取られたということはほぼ間違いないと考えられる。また、集団で移住した人が、自分達の出身地の名前を移住先の土地の名称とすることは、特に植民都市ではよく見られる事象である。

 いつ、移民したのかを明らかにするために、プラ・メルの小祠を維持管理する住区の名前と、バリ島でも確認された13の住区名を比較した。その結果、プラ・メルに維持管理する小祠をもっているのは、PandeSampalanKubuRendangMantriSeraya6つであった。この6つのカランについては、チャクラヌガラ建設当初からにチャクラヌガラに設立された住区であろうと考えられる。

 

 

 2-4 居住空間の構成

 具体的な空間構成をみてみよう。ヒンドゥー地区とイスラーム地区からそれぞれ2マルガを選定した。ヒンドゥー地区は右京のカラン・ジャシ、イスラーム地区は左京のカラン・スラヤである。

 ヒンドゥー地区とイスラーム地区の空間構成の差は一目瞭然である。歩いていても、すぐさまその違いが分かるのである。ヒンドゥー地区は極めて整然としているのに対して、イスラーム地区に入ると雑然としてくる。街路は曲がり、細くなる。果ては袋小路になったりする。住宅もてんでバラバラの向きに建てられる。空間構成とは別の次元であるが、イスラーム地区に入るとすぐさま取り囲まれる。居住密度は高く、コミュニティーの質も明らかに異なっている。

 カラン・ジャシ(図11)を見てみよう。カラン・ジャシの調査街区は、2マルガからなるが、36戸ある。うち、ヒンドゥー教徒の住戸は、33戸で、ブラーフマナ1戸を除いて他はスードラ、バリ・ビアサである。他は、キリスト教の中国人が1戸、ムスリムのジャワ人が2軒ある。

 ヒンドゥー教徒の住居の場合、北東の角にサンガをもつ。サンガは全体に統一感、秩序感を与えている。屋敷地は、必ずしもバリ・マジャパイトの典型的構成をしているわけではない。敷地は様々に分割され、あるいは併合され、その構成は変化してきている。

 イスラーム地区のカラン・スラヤ(図12)は、もともと、きちんと街区割りがなされていたと思われる。なぜなら、北部には、整然としたヒンドゥー教徒の屋敷地が存在するからである。しかし、その街区割りは大きく変更されている。細街路が自在につくられ、その街路に沿って住居群が建てられる。袋路も多い。塀で囲まれた屋敷地の中に分棟で配置するパターンと街路を伸ばしていくパターンとは全く対比的なのである。

 

3. チャクラヌガラの空間構造とコスモロジー

 以上をもとに、大胆な仮説を含めて、チャクラヌガラの構成原理をまとめてみたい。考察の前提となるのは以上に明らかにした以下の点である。

 ①街区の計画は明確な寸法計画を持ち極めてシステマティックになされている。

 ②コミュニティーの単位である住区(カラン)の構成も極めて理念的に計画されたものである。プラ・メルと祭祀集団としてのカランの結びつきは都市構成の極めて基本的な原理として考えられる。

 ③バリのカランガセム王国の植民都市として、バリの都市計画(集落)理念が大きな原理となっている。

 ④王宮の構成は、基本的にバリのプリの構成と理念を等しくする。

 ⑤チャクラヌガラの配置はは、周辺のプラの立地から窺える様に、リンジャニ山をメール山とするコスモロジカルな秩序のもとに行われている(報告(1)で見たように、プラ・リンサールは北東に置かれている。東に置かれているナルマダは、リンジャニ山とスガラ・アナック湖の写しである)。

 まず、計画域を特定する必要がある。その設定次第によって構成原理についての読解は異なる恐れがある。

 ⑥計画域は、プラ・メルの小祠に関わるプラの存在する範囲であると考えられる。その場合、東と南、北のグリッドから突出する区域をどう考えるかが問題となるが、少なくとも南の突出部は含まれていたと考えられる。。また、どこまで、マルガ・ダサのグリッドで計画されていたのかが問題となるが、パターンが崩れている左京の大部分は計画されていたと考えられる。

 ⑦右京(マルガ・サンガの東を左京、西を右京と便宜的に呼ぶ)については、マルガ・サンガの四辻の南に4×4のブロックが造られたこと、および北に1×4のブロックが計画されたことは、現在の街路パターンから、また、ヒンドゥー教徒の分布状況から明かである。

 ⑧左京については、グリットの区画が明確ではないが、ブロックの規模および現在の街路状況から、マルガ・ダサを特定できる。右京と左京の間には2マルガの緩衝区画(現在ショッピングセンターがあるクロダン地区)が設けられていた。道幅の広いマルガ・ダサに区画されるブロックは、それから東に4×4ブロック想定できる。北1ブロックは、プリおよびプラ・マユラのブロックである。

 ⑨以上のブロックは、現在のヒンドゥー教徒の分布から、当初から計画されていたと考えてよい。ブロックパターンの崩れた左京にも古い屋敷地壁も残されており、出身地に関するヒヤリングからも計画域はおよそ確認されている。

 問題は、上下の突出部分である。

 ⑩プラ・メルの小祠に関わるプラは、南部の突出部分に存在する。また、ヒンドゥー教徒も南北の突出部分に居住している。とりわけ興味深いのがブラーフマンの分布である。北と東にその分布は偏っている。要するに現在のヒンドゥー教徒の居住域は、その後の開発の度合いは別として、ほぼ当初から計画されていたと考えていいのではないか。

 ⑪バリの集落構成の原理の一つとして、カヤンガンティガの配置がある。プラ・プセ(起源の寺)、プラ・デサ(村の寺)、プラ・ダレム(死の寺)の三点セットのプラが南北に配置されるのである。チャクラヌガラを見ると、西の端にマルガ・サンガに接して、プラ・ダレムがある。また中央部にプラ・メルがある。さらに東の端にも、プラ・スウェタがある。南北と東西の違いはあるけれど、カヤンガンティガの理念はチャクラヌガラにも生かされていると考えられる。

 ⑫バリには、三界観念が広く見られる。宇宙の三層構造、山、平野、海というバリ棟の三つの区分、集落スケールのカヤンガン・ティガ、屋敷地の区分(ナイン・スクエア)、屋根、柱・壁、基壇という区分・・・身体の頭、胴体、足の三区分に至るまで三層秩序が貫かれているという観念がある。チャクラヌガラの南北の突出部分も、頭、胴体、足という三層区分が行われていると考えていいのではないか。

 もちろん、チャクラヌガラが新都市として更地に建設されたということではない。東の突出部には土着の集落があった。また、⑪の集落は先行して存在したと考えられている。少なくとも以上に重層する形で植民都市が計画され、建設されたのである。

 

2021年10月29日金曜日

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究  Ⅰ  ロンボク島の概要

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究,科研都城研究(199394)19953


アジア諸都市の都市組織と都市住宅のあり方に関する比較研究

Ⅰ.ロンボク島の概要*1

 

 

1.自然と生態

 ロンボク島は、南緯8度に位置し、東にはバリ島が西にはスンバワ島が隣接している。東西、南北ともに約80キロメートルの幅をもつ 5435km)。インドネシア語でロンボクというと「とうがらし」という意味であるが、もともとは、島の東部のある地域の名であった。原住民であるササック Sasak 族は、サラパラン Salaparang と呼んでいたという。

 知られるように、バリ島とロンボク島の間にはウォーレス線が走る。A.R.ウォーレス(1823年~1913*2)は、鳥類、哺乳類の分布をもとに地球上を六つの地区に分割したが、その東洋区とオーストラリア区の境界が二つの島の間にある。その線の西と東では、植物も含めて生物相に大きな断絶がある。のみならず、人間活動の形態においても大きな境界がある。大雑把にいって、ウォーレス線の西は、稲と水牛の世界であり、東は芋と豚の世界である。

 現在、ロンボクでは、稲作が盛んだが、もともとは、根菜類をベースとした島といっていい。リンジャニ山の麓の盆地は、にんにくが名物である。

 地形はバリ島によく似ている。中央にインドネシア第二のリンジャニ山(3726m)が聳え、大きく三つの地域に分けられる。すなわち、荒れたサバンナのような風景の見られる、リンジャニ山を中心とする北部山間部、豊かな水田地帯の広がる中央部、それに乾いた丘陵地帯の南部である。気候は、1年は乾季と雨季に分かれ、4月から9月が乾季に、10月から3月が雨季にあたる。

 

 

2.歴史

 考古学的発掘に依れば、紀元前6世紀にはロンボク南部に人類が居住していたとされる*3。ベトナム南部およびバリ、スンバなどと同種の人種であるという。また、ロンボク島の主要な民族であるササック族は、北西インドあるいはビルマ(ミャンマー)から移動してきたとされる。しかし、いずれにせよ、17世紀以前の歴史はよくわかっていない。17世紀初期、カランガセム王国のバリ人が移動してきてコロニーを建設し、西ロンボクを支配した。ここではロンボク島の歴史について、バリのロンボク支配を中心に概観したい。

 ロンボク島の歴史においては、3つの大きな外からの影響があった。それは、①15世紀から16世紀にかけてのジャワ文化の強い影響、②17世紀のバリとマッカサールからの政治的影響、③18世紀初めからのバリの政治的支配の強化である。

 ジャワ文化の影響は文化や宗教の両面に見られる。『ナガラ・クルタガマ』の中に、マジャパイトにロンボク島は属しているという記述が見られる。また、ゴリス(Dr.Goris)は、スンバルン Sembalun 盆地に居住している人々は、自分達はジャワ・ヒンドゥーの子孫であると信じている、ということを指摘している*1。もう一つの大きなジャワからの影響は、イスラーム化の波である。社会学者のバン・エルデ Van Eerde によるとササック族の中には宗教的に三つのグループがあるという*1。いわゆる、ブダ(Bodhas)とワクトゥ・テル(Waktu-telu)とワクトゥ・リマ(Wakutu-lima)の三つのグループである。ブダはリンジャニ山のある北部山岳地帯(バヤンあるいはタンジュン)、また、南部山岳地帯の2、3の村に20世紀初頭には見られたという。ブダは言語・文化・民族的にはササック族であるが、土着の宗教を信奉し続けた。ブダはイスラーム化を逃れて山岳地帯に逃げ込んだ人々だとされる。同様に、ロンボク島の年代記によると、服従したが改宗させられなかった人々がワクトゥ・テルであり、服従し改宗させられた人々がワクトゥ・リマである。

 9世紀から11世紀にかけて、ササック族の王国(Negara Sasak)が存在した。ロンボク年代誌(Babad Lombok)によれば、ロンボク最古の王国は、クチャマタン・サンベリアのラエ村にあったという。その後、クチャマタン・アイクメルのパマタンに王国が生まれる。スンバルン盆地であろうと考えられている。そうした前史があって、ジャワの影響が及んでくる。マジャパイト王国の王子ラデン・マスパイトがバトゥ・パランという国を建てたという。この国が、今日、スラパランと考えられている。また、13世紀には、プリギ国という名が知られる。ジャワからの移住であり、ロンボク島はプリギ島と呼ばれた。また、ブロンガスのクダロ国が知られる。ナガラ・クルタガマは、いくつかの小国の名を記している。マジャパイト王国は1343年にバリに侵攻、その勢力がロンボクに及ぶのはその翌年である。スラパランおよびクダロはマジャパイトに隷属することになる。

 マジャパイト王国崩壊の後、小さな国が林立する。その中で著名なのはラブハン・ロンボクのロンボク王国である。そして、17世紀には、バリ人が侵攻してくることになる。バリ人がロンボクに進入してきた同じ時期、マッカサール人が西スンバワの植民地から海峡を渡り、東ロンボクに居留地を建設した。17世紀の大部分にわたって、ロンボク島はバリのカランガセム王国とスンバワを支配していたマッカサールの争いの場となった。17世紀初頭、カランガセムからのバリ人がいくつかの植民地をつくり西ロンボクに政治的影響を及ぼしていた。同時期に、スンバワからのマッカサール人がアラス Alas 海峡を渡って東ロンボクを支配していた。西ロンボクにササック人の社会はあったが、ササックの貴族や王宮は存在しなかった。一方、東ロンボクには、ササック人のスラパランの王宮と貴族が実際に存在した。

 バリとマッカサールとの間の最初の大きな戦いは、1677年に勃発した。この年にバリ人は西と東を隔てている森を越えて、マッカサールと戦っているササックの貴族を助けた。1678年、バリがサラパランの王宮を破壊すると、マッカサールは総崩れになった。しかし、この勝利が東ロンボクに対する完全な支配を意味するわけではない。この地域に対する完全な支配を行うのに、バリ人は150年かかっている。1678年から1849年の間に、バリ人はだんだんと政治的支配を強めたのだ。彼らの主な敵対者はササックの貴族達であった。ササックの貴族は地方では村を支配していた。長いバリとササックとの争いは、4つの時代に分けられる。第1期は、1678年から1740年で、バリ人は東進を続け、彼らは、スンバワにまで勢力を伸ばしたが、失敗した。しかし、ロンボクを支配することには成功した。ババッド・ロンボク Babad Lombok(ロンボク島の年代期)はササック人の貴族の間の不和を描いている。ササックの貴族の中にはバリ人を東ロンボクに招く者もあった。バリ人は、何人かのササック人の助けを得て、全地域を征服したが、同盟していたササック人の支配する地域にも結局は政治的支配を及ぼした。そしてプラヤ Praya やバトゥクリヤン Batukliyang の独立も終わってしまった。これは、1740年の出来事だった。

 第2期、グスティ・ワヤン・テガ(Gusti Wayan Tegah)がロンボク支配した1740年から1775年である。バリ人は支配を強化したので、ササックが独立をする機会は殆どなかった。この時代、バリに対する反乱はなかった。

 第1期から第2期(1678年~1775年)の時期は、ロンボク島に対するバリ人支配の基盤が整備された時期である。この期間には、多くのヒンドゥー教寺院が建設され、チャクラヌガラ Cakranegara のプラ・メル(Pura Meru)が建設されたのは1720年、またチャクラヌガラのプラ・マユラが建設されたのは1744年建設がなされた。したがって、チャクラヌガラの都市基盤は18世紀初頭から中頃にかけて整備されたと考えられる。しかし、建設当初の姿に関する資料は存在せず、その建設当初の姿は分からない。

 第3期は、1775年から1838年にかけてである。グスティ・ワヤン・テガが1775年に没した後、2つの対立するバリ人の間に争いが勃発した。1800年頃、さらに王宮内での争論が王国の分裂を再び引き起こした。したがって19世紀初めには、4つの対立する公国が西ロンボクに存在した。主要な王国はチャクラヌガラ、マタラム、パガサンガン、パグダンであった。最終期にあたる1838年から1849年、バリは再び統合されたが、この期間、バリの東ロンボクに対する支配力は弱まり、ササック貴族は彼らの地域での独立を果たした。

 第4期は1838年から1849年の間であり、バリ人は再統一を果たした。1838年、敵対する公国の間の対立が最高点に達した。その年の1月、マタラム王国の王、グスティ・クトゥット・カランガセム(Gusti k'tut Karangasem)が、カランガセム軍・イギリス商人の王・ブギス人のイスラム教徒の助けを得て、チャクラヌガラの王、ラトゥ・ヌガラ・パンジ(Ratu Ngurah Panji)に対して戦争を始めた。

 その一方、チャクラヌガラ王は、パガサンガン・パグダン・オランダの商人ランゲ(Lange)・多くのササックの貴族の助けを得た。戦争は、海陸両方で、約6カ月続いた。オランダ商人ランゲ(Lange)の、バリからロンボク海峡を渡ってくる軍隊を止めようとする試みが失敗したために、マタラム(王は戦いで没した)は、徐々に優位になってきた。1838年6月、戦いは決した。マタラム軍は、チャクラヌガラの王宮(puri)を征服し、ラトゥ・ヌグラ・パンジと300人の家来が最後の自殺行為的な攻撃(puputan)で没した。マタラム王は、彼の長男であるラトゥ・アグンⅡ・クトゥット・カランガセム(Ratu Agung2 K'tut Karangsem)に位を譲った。バリの大君主(Susuhunan)であるクルンクンのデワ・アグン(Dewa Agung)が指名したイデ・ラトゥ(Ide Ratu)を空位であるチャクラヌガラ王に据えた。1839年、ラトゥ・アグンは、戦争終結以来、西ロンボクに対する事実上の権力を持っていた。そして、イデ・ラトゥの王位を奪い、その結果、クルンクンのデワ・アグンと敵対した。カランガセム王国のマタラム分王国の下、ロンボクのバリ人が統合されて間もなく、ラトゥ・アグンは、東ロンボクへの進行を行った。そして1849年ついに、王はカランガセムとロンボクの統合を果たした。それは、一方では、オランダ東インド会社との間の紛争を、他方ではクルンクンとブレレン Buleleng ・カランガセムとの間の紛争をうまく利用して、軍隊をバリへ送り、カランガセムのライバルにあたる分家を転覆させ、彼の指名する人物をカランガセムの王位につけたのだ。そして18世紀に存在したカランガセム・ロンボク王国は完全に再構築された。一つ違うのは、グスティ・ワヤン・テガがカランガセム王の領臣で、その上からラトゥ・アグンが支配するということである。

 その後、18世紀終わりには再び東部のササック人の反乱が始まった。バリ人の統治に対する不満も原因の一つであったが、ロンボクの王とクルンクン王の間の争いが最大の原因である。ロンボク王はササック人に対して軍隊をバリに送ることを命令した。1891年、それに反抗してロンボク島東部のプラヤのササック人の間に反乱がおこった。それに対してバリ人は軍隊を送るが、失敗に終わり、1891年9月22日、東ロンボクに対するバリの支配は終結する。その結果、バリは東部ロンボクのササック人に対する防衛ラインを設定せざるをえなくなった。第1の防衛ラインは、ババッド川(図3-1-1)、第二の防衛ラインはババッド川とチャクラヌガラ・マタラム、ババッド川とリンサール・グヌンサリを結ぶライン。第三の防衛ラインは、マタラムとチャクラヌガラであった。これらの都市は、二重に竹で囲まれており、その間に2mの間隔があり、そこに茨が植えてあり、また敵が突破しそうな所には、大砲が備えてあった。東部ササック人は、何度も第一防衛ラインに対して攻撃を試みたが、事々く失敗した。その後、バリ人が攻勢に転じた。

 しかし、1894年にはオランダの軍隊が西部ロンボク上陸し、バリ人はその対応に重点を移さざるを得なかった。そして、バリ人の支配は名目上だけになり、オランダの東インド会社が実質上の政治権力を握るようになった。その後、東部・西部のササック人に対してもバリ人が政治力を失うということが分かり、バリ人はオランダに対して反乱を試みた。1894年の8月25日の早朝のことである。はじめ、バリ軍は優勢に戦いを進めるが、その後、劣勢に転じた。11月にマタラム・チャクラヌガラの王宮が占領され、バリ人のロンボクに対する支配は完全に終結する。またオランダ人の命令により、チャクラヌガラの王宮も破壊され、各宅地の周りを囲んでいた土塀の高さも低くされた。この後、オランダ東インド会社の支配が1992年の日本のインドネシア占領まで続くのである。

 

 

3.ロンボク島の社会

 ロンボク島の原住民はササック族である。全人口は約300万人(1991年)に及ぶのだが、その約9割を占める。残りの1割で主要なのはバリ人である。バリ人は、ほとんどがチャクラヌガラを中心とした西ロンボクに住んでいる。他に、少数だが中国人、ジャワ人、アラブ人、マッカサール(ブギス)人、スンバワ人などがいる。港町、アンペナンには、カンポン・アラブ、カンポン・ブギス、カンポン・ムラユ(マレー)などの名前が現在も残っている。中国人は、アンペナンの他、マタラム、チャクラヌガラを中心に居住している。

 

 

 3-1 19世紀の社会構造

 19世紀末の正確な人口は不明であるが、その時代のオランダ人が概算した数値がある。ウィリアムスティン(Willemstijn)が行った調査では総計656,000人(ササック人60万人・バリ人5万人・その他ブギス人、マドゥーラ人、アラブ人、中国人6千人)であった。テン・ハベ(Ten Have)が行った調査では、総計40万5千人(ササック人38万人、バリ人2万人、ブギス人・中国人5千人)であった。バン・デル・クラン(Alfons van der Kraan*1によると実際のところは、この2つの調査の中間で、総計53万人(ササック人49万人・バリ人3万5千人・その他5千人)であったとされている。19世紀のロンボク島ではバリ人の王とバリの支配階級であるトリワンサ(triwangsa)が強大な勢力を所有し、共同体のすべて財産権は王の手にあった。耕作されていない土地の権利は、王の物であった。従って、新しく開墾しようとする農民は王の許可を得なければならなかった。農地には、大きく分けて2つの種類があった。一つは、ドゥルベ・ダレム(druwe dalem)と呼ばれる王が直接所有している土地、もう一つはドゥルベ・ジャベ(druwe jabe)と呼ばれる王宮外に住む人が所有する土地である。ドゥルベ・ダレムには3種類ある。① プンガヤ(pengayah)と呼ばれる土地は、毎年一定の税と賦役の労働という条件で農民が耕していた。そして、土地の譲渡は禁止されていた。② プチャトゥ(pecatu)と呼ばれる土地は、税を納めなくてもよいが賦役のある小さな扶地である。王は、バリの農民(sudra)と信頼できるササック人に与えた。またこの土地の所有権は、王の警護人や職人等にあった。この土地の1年以上の譲渡は禁止されている。③ワカップ(wakap)と呼ばれる土地は、税も賦役も無い扶地である。王はこれらの土地を寺院やモスクや潅漑組織に与えた。そこの生産物は、それらの施設の維持に充てられた。譲渡は禁止されていた。

 ドゥルベ・ジャベにも2つのタイプがあった。① ドゥルベ・ジャベ・バリ(Druwe jabe Bali)は、王がバリの貴族に与えた大きな扶地であった。王は、その土地から税と賦役は集めなかった。さらに、バリの貴族達は税を集め、自分の目的の為に賦役を利用した。② ドゥルベ・ジャベ・ササック(Druwe jabe Sasak)は、ササック人の貴族が所有する土地であり、条件はバリのものと同様であった。

 このような土地所有の方法は、ロンボクの社会に重要な結果を及ぼした。1番目は、西ロンボクでは、バリの権力は2世紀の間に渡って存続していたので、社会政治機構としての村は無くなり、バリの王や貴族が土地を直接統治していた。東ロンボクでは、近年バリの権力が再構築されたところであったので、村はまだ社会政治機構として存在し、ササックの貴族である村の長がいた。それらの長は、バリの地方長官(punggawa)の税徴収人よりも衰退した。2番目は、ササック人の農民の社会的地位が農奴的になったということ。3番目は、バリのスードラ(sudra)には無税の土地があてがわれるというように、ササック人よりバリ人の方が土地の所有に関して優遇されていた。

 このような土地所有制度から、19世紀ロンボク島の社会は、王を頂点にバリのトリワンサ(triwansa)・バリの農民とつながるピラミッドと、敵対関係にはあるがバリの王を頂点にササックの貴族・ササックの農民とつながるピラミッドのふたつのピラミッドから構成されていたことが分かる。しかし、相対的にはバリのピラミッドの方が高い地位を占めていた、と考えられる。また、西ロンボクと東ロンボクでは異なった統治方法が取られていた。西ロンボクの場合、ササックの貴族は存在せず、バリの王および貴族の直接支配であった。一方、東ロンボクの場合、ササックの貴族が存在し、ササックの貴族による支配と、バリの地方長官による支配の二通りの統治機構が存在した。

 このような、バリの帝国主義的な政策のため西ロンボクにおいては19世紀には、ササック人の村落共同体的な集落は存在しなくなっていた。

 

 

 3-2 人口構成

 1990年現在、インドネシア政府の人口統計*2によるとロンボク島の人口は表3-1-1に示すようになっており、合計で858、996人である。また、この表からロンボク島の人口密度がわかり、高い順にマタラム(5718人/k㎡)・アンペナン(5625人/k㎡)・チャクラヌガラ(3519人/k㎡)であり、また最も低いのが北部のスコトン・トゥンガ Sekotong Tengah(113人/k㎡)である。

 次にクチャマタン・マタラム、クチャマタン・アンペナン、クチャマタン・チャクラヌガラからなるマタラム市の人口構成について考察する。表3-1-2は、職業別人口構成でありある。これを見ると農業従事者の数は減少傾向にあり、その他は増加傾向にある。このことからマタラム市は都市化の傾向にあると考えられる。表3-1-3は、過去5年間の人口動向と今後25年の人口予想である。マタラム市では人口増加率を年間3.29%と予想しており、2015年には612733人になると予想している。したがって、人口密度は9985人/k㎡に達する。これは、明らかに超過密状態であり、緊急に対策を講じねばならないと考える。

 以上が、ロンボク島の人口構成である。ロンボク島全体の人口分布は南高北低型であり、また原住民であるサッサク人以外は、西テンガラ州の州都であるマタラム、バリの植民都市であるチャクランガラ、かつてはロンボクの主要港であったアンペナンに住んでいる。また都市部では農業以外の職業に就いている人も増加してきている。

 


2021年10月28日木曜日

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究 目次 はじめに

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究,科研都城研究(199394)19953


アジア諸都市における格子状街区の形態と構成原理に関する比較研究

 チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)を中心として

 

目次                                                                     

 

はじめに                                                                

 

Ⅰ ロンボク島の概要

 1.自然と生態                                                     

 2.歴史                                                              

 3.民族と社会                                                   11

  3-1 19世紀の社会構造                                  11

  3-2 人口構成                                                13

 

Ⅱ チャクラヌガラの構成原理

 1.チャクラヌガラの空間構成                               14

  1-1 街路パターンと宅地割                               14

   12 住区構成ーーーカラン                                15

  13 祭祀施設と住区構成                                  16

  1-4 王宮の構成

 2.チャクラヌガラの住み分けの構造                       18

  2-1  人口構成と住区組織                                 18

  2-2  住民構成と施設分布                                 19

  2-3  住み分けの構図                                       19

  2-4  居住空間の構成                                       22

 3.チャクラヌガラの空間構造とコスモロジー            22

 

Ⅲ ロンボクの都市・集落・住居の構成原理

 1.ロンボク島のコスモロジー                               24

   プラの構成とオリエンテーション

   プラ・リンサール

   プラとオリエンテーション

   プラ・スラナディ

   プラ・ナルマダ

 2.都市ーーーインドージャワー比較                         27

 

Ⅳ グリッドの構成原理・・S.コストフの『形づくられた都市』より

 序                                                                 30

 1.直線による計画の性質                                   30

   グリッドと政治

   “よりよき秩序”か、型にはまった手法か

 2.歴史的回顧                                                  37

   古代世界のグリッド

   中世のニュータウン

   ヨーロッパにおけるルネサンス

   アメリカへの道

 3.グリッドの配置                                              49

   敷地

    調査官と理論家

   芸術家としての都市計画家

 4.都市と田園とを調整する機構                             55

   田園のグリッド

   グリッドの延長

 5.閉じたグリッド:骨格、強勢、空地                    59

   壁で囲まれた骨格

   広場の分割

   ブロックの構成

 6.20世紀におけるグリッド                               70

 

Ⅴ アジアの格子状街区パターン

 1.日本の格子状街区パターン                               75

  2.比較考察                                                   83

   都城の計画

   「藤原京」と中国の都城

   条坊制の変化

   平城京と長安城の相似点

 3.東アジアの格子状街区パターン                           87

   都城の理念

    『周礼』考工記にみる都市計画

    『周礼』考工記の影響

    『周礼』考工記に対する批判

   「風水」思想による古代の都市計画

    都城の数字に関する考察

 4.中国に於けるグリッドパターン                           94

 

Ⅵ.ヒンドゥーの都市計画

 1.古代インドの都市

 2.ヒンドゥーの建築書

 3 インドの空間構成 ー都市と王宮ー

 

 


はじめに

  

 本研究は、住区構成のための基本原理を得ることを大きな目的とし、アジア各地の都城の格子状街区パターンを取り上げ研究対象とする。

 具体的には、東南アジアの都市、特にジャワ・バリ・ロンボクの諸都市に焦点を当て、インドとの比較を試みる。また、それを踏まえて、大きく中国・日本との比較考察を試みる。ひとつのねらいは、日本の都城、特に京都における住区構成の比較都市論的視野からの位置づけである。

 大きな視点とするのは、住区構成の基本原理とその変容パターン、そして都市形態とコスモロジーの関係である。格子状パターンといっても、ブロックや道路の規模や配列によって様々である。また、時代とともに理念型としての基本型は変化していく。本研究では、平安京以降の京都の街区パターンとその変遷を一方で念頭に置きながら、格子状パターンのアジアにおけるヴァリエーションを明らかにすることを目的とする。

 インドネシアのロンボク島にチャクラヌガラという極めて明快な格子状の都市がある。極めて特異な例といっていい。その構成原理を明らかにすることを最初の目的とし、バリ、ジャワ、東南アジア、インド、中国と順次比較の視野を広げたい。

 格子状の街区パターンの対極に考えられるのがイスラーム圏の迷路状の街区パターンである。イスラーム圏であるインドネシアをまず焦点とするのは、その特徴をより明快に把握できると考えるからである。 

 格子状の街区パターンというのは、古来、エジプト、ギリシャを始め、各地に見られるのであるが、アジアの場合、その形態は宇宙観と結びつけられる場合が多い。本研究の独自な点は、都市形態とコスモロジーの関係に着目し、これまでにない広い視野で都市の住区構成パターンを比較考察することにまずある。具体的な視点、仮説の特徴は次のようである。

 第一、王権を根拠づける思想、コスモロジーが具体的な都市のプランに極めて明快に投影されるケースとそうでないケースがある。その違いを明らかにする。

 第二に、都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、実践的、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ない。また、都市構造と理念型との関係は時代とともに変化していく。この関係について考察する。

 第三に、都城の形態を規定する思想や理念は、その文明の中心より、周辺地域において、より理念的、理想的に表現される傾向が強い。具体的にアジアの広がりにおいておいて実証したい。

 本研究は一見壮大であるが、格子状住区パターンに的を絞り、具体的な都市同士の比較を積み重ねていくことを特徴としている。

 

 

 管見する範囲では、本研究のような着想の研究はまだない。インドネシアでは、最近、ジャワ北岸(パシシール)地域の諸都市についての研究が開始されつつあるが、緒についたばかりである。本研究を、インドネシア研究者との緊密な連絡のもとに展開し、その刺激になることを役割としたい。

 日本国内では、アジア諸都市についての研究が本格化しつつあるが、今のところ東アジアが中心である。また、南アジア、特にパキスタンについての蓄積が若干ある。本研究を、中国、インド、東南アジアを視野に収めた研究の端緒としたい。

 中国・日本の「都城」については、膨大な蓄積がある。本研究は、先行研究を応用したい。インドについても、ある程度国外研究者による研究がある。中国、インドについての先行研究は、本研究遂行の大きな背景になっている。

 『シルパシャストラ』、『マナサラ』、『ナガラクルタガマ』といった本研究の鍵となる文献は一応翻訳がある。日本でも一九五〇年代後半にその紹介がなされている。本研究では、さらに関連資料を収集しながら、読解する予定である。『マナサラ』の記述とボロドゥールのようなインドネシアのチャンディー建築を突き合わせる研究は、その保存に絡んでなされているが、都市計画についてはこれからのテーマである。


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...