このブログを検索

2021年12月4日土曜日

公営住宅の胎動ー建築士の誕生1949年

 公営住宅の胎動建築士の誕生1949,歴史のうずの中で 空白の10年!?ー建築の1940年代,最終回,ひろば200112


 公営住宅の胎動ー建築士の誕生1949

  

 1949年

 1949年は僕の生まれた年である。しかし、『仮面の告白』(三島由紀夫)の作者のような天才ではないから、生まれた年の記憶なぞない。年表をめくると、何の縁だか既に20年以上もつき合うことになったインドネシアが独立したのがこの年だ。インドネシアは817日が独立記念日である。西欧列強の植民地はそれぞれ独立へ向けて動き始めている。インド、パキスタンが分離独立したのが1947年、ビルマ共和国、セイロン自治国が成立したのが1948年だ。そして、この年、中華人民共和国が成立している。昭和24年生まれは中華人民共和国と同い年ということになる。また、ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国が分かれて成立したのがこの年で、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の分離成立は前年だ。翌1950年には朝鮮戦争が勃発する。北大西洋条約機構(NATO)が条約調印されたのが1949年である。世界は冷戦体制へ向けて、東西対立を決定的にしつつあった。

 日本では、敗戦から4年経たけれど、下山、三鷹、松川事件など列車転覆事故が相次いで起こり、世相は未だ騒然としていた。しかし、19463月から行われていた都会地への転入抑制制限がこの年11日解除されるなど、戦災復興は軌道に乗りつつあった。湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞、フジヤマのトビウオ古橋広之進の活躍など明るい話題もある。法隆寺金堂の壁画が焼失したのがこの1949年であり、日本にも旧石器時代の存在を確認する岩宿遺跡(群馬県)が発見されたのがこの年である。

 

戦後住宅地の原風景

建築界は復興へ向けての助走を開始しつつあった。

まず、住宅の復興がある。3月、戸山ハイツ(東京・新宿)が竣工している。米軍兵舎用の払下げ資材による木造二戸一タイプ全1052戸の住宅団地だ。また、前年の東京都営高輪アパートについで、戦後、東京で二番目の鉄筋コンクリート(RC)造集合住宅、4階建て14棟の戸山ケ原アパートが竣工したのが8月である。この年の代表作を上げるとすれば、こうした公営住宅の胎動をまず上げるべきであろう。木造平屋の公営住宅は全国各地に建設され、戦後住宅地のひとつの原風景となった。





僕が育ったのはまさにこの1949年に建てられた公営住宅である。この我が公営住宅は増改築を繰り返して今日に至っている。当初は、4畳半に6畳、板の間に台所の最小限住宅で、風呂はなかった。ダイニング・キッチンを提案し、戦後日本の住宅モデルとなる1951年の公営住宅標準設計51C型の登場前である。物心ついた頃、父が庭先にセルフビルドで風呂場を建てるのを手伝った記憶がある。僕の住宅遍歴については、『住宅戦争』にさりげなく書いた[1]。つい最近も、「すまいの原風景は、都市を変えるか」と題したミニ・シンポジウム[2]に呼び出され、再び、自らの戦後住居史を振り返る機会があったが、四間取りの民家で生まれ、市営住宅、寮、下宿、アパート、民間マンション、公団住宅、官舎・・よくもまあ色んなタイプの住宅に住んできたなあ、と思う。しかし、なんともヴァリエーションがない、とも思う。戦後日本の貧しい住宅史を自ら身をもって体験してきたという実感がある。


 

全日本造船労働組合会館と新日本文学館



鉄筋コンクリート造のアパートが立ち始めたものの、多くの作品は木造である。清家清の「うさぎ幼稚園」(目黒区洗足)など木造のシェル屋根を使ってつくられた。基準などなく、実物大の模型で実験した上での建設であった。この連載で取り上げたMID同人によるプレモスも池辺陽ら一連の最小限住居も木造である。そうした中に、NAU(新日本建築家集団)による全日本造船労働組合会館(設計:今泉善一)がある。また、新日本文学館(設計:東京建築設計事務所)もこの年である。翌年の八幡製鉄労働組合会館(設計:池辺陽、今泉善一)もNAUのデザイン部会による。

戦前大森ギャング事件に連座したことで知られる今泉善一の全日本造船労働組合会館は、2階建て片流れ屋根の木造であるが、いかにも初々しいモダニズムを感じさせる瀟洒なデザインだ。前川国男・丹下健三の岸体育館(1941年)を思わせる。

 戦後まもなく相次いで結成された諸団体を統合するかたちで設立された(1947年)新日本建築家集団(NAU:The New Architect’s Union of Japan)については7月号で触れた[3]。NAUは、約800人を集めた建築界の大組織であった。初代委員長が高山栄華、第二代委員長が今和次郎、戦後の建築界を背負って立つことになる主要メンバーは参加している。丹下健三もまたNAUのメンバーであった。この大組織が一方で具体的な設計を展開したこと、また、それを目指そうとしていたことはあまり知られていないかもしれない。

 NAUの設計グループの流れは、「所懇」(建築事務所員懇談会、1952年)に受け継がれ、「五期会」の結成(1956年)に結びつくことになる。

 

 農村建築研究会

NAUを中心とする戦後の建築運動の評価、また、浜口隆一の『ヒューマニズムの建築』を中心とする戦後建築の指針をめぐっては他に譲ろう[4]。様々な綱領、スローガンは確認済みである。問題は、既に、戦後建築の初心がどう生きられたかである。

NAUは、1951年には活動を停止してしまう。関西に、NAUKがつくられ、さらにその流れを汲む「新日本技術者集団」が結成されるのであるが、NAUが結成まもなく崩壊したのは事実である。以降、NAUが孕んでいた方向は拡散して行ったと見ていい。もちろん、その背景には、GHQの圧力によるレッド・パージがあり、日本共産党内における路線対立があった。また、朝鮮特需によるビル・ブームが建築家の時間と関心を奪ったという見方も核心をついている。

ところで、この194912月にNAUの下部組織として「農村建築研究会」が設立されている。今和次郎、竹内芳太郎など戦前の民家研究の流れを踏まえながらも、若手研究者が中心となって活動を開始するのである。この研究会から、青木正夫、浦良一、持田照夫など多くの農村建築研究者や民家研究者が育っていくことになる。

戦後の公共建築の設計指針に大きな影響を及ぼすことになるLV(エル・ブイ Le Vendredi(金曜日)に由来する)(東京大学吉武研究室を中心とする研究会)が始動するのは翌年であり、研究者の運動は、建築研究団体連絡会の発足(1954年)に結びついていく。

この時機に何故「農村建築」か。戦後まもなく、日本の全人口の6割は農業人口であった。「山村工作」という日本共産党の革命戦略もその背景に指摘されるけれど、農村復興も大きな課題として意識されていたのである。

こうした農村への関心の流れの中で、例えば、稲垣栄三の「山村住居の成立根拠」が書かれる。農村の変化、その自立の根拠を見続ける眼が存在したことは記憶されていい。日本の戦後は、農村を蹂躙し、日本列島を大きく「土建屋国家」へと改造することになるのである。

 

建設業法の公布

この年の出来事でもうひとつ、建築界の基盤に関わるのが建設業の公布である。

建設業界もまた波乱万丈の1940年代であった。明治以降、殖産興業のための基盤整備によって成長を続けてきた建設産業は、第二次世界大戦によって決定的な打撃を受けた。建設投資は1938年にピークを迎え、以降減少し続ける。1940年代は右肩下がりの時代であった。

敗戦が建設業界に未曾有の大混乱をもたらしたことは言うまでもない。戦時中の建設ブームを支えていた軍施設工事の全面的停止による配給資材の闇ルート流出などの問題に加えて、戦災復旧の応急工事、進駐軍家族のための住宅団地建設、軍接収ビルの修理工事などの膨大な建設需要が混乱に拍車をかけた。ひとり建設業界の好景気に新規参入業者が相次いだ。「雨後の筍のごとく“建設業者”は誕生して、戦前から名の通った大業者を尻目に、俄仕立ての業者が数億円の工事を簡単に獲得するという事態も生まれた」(全建史)のである。1949年の『建設白書』によれば、194711月ごろの進駐軍住宅工事の常時入札参加者101社のうち47社が、また、19485月現在の建設業者472社のうち42.4パーセントの200社が、いずれも、1945年以後創業の新興建設業者で占められていたのである。

 そうした混乱状況にGHQによって建設業界の民主化要求が出される。戦時体制下の「建設工業統制組合」が「建設工業会」として改組発足(1947年)するのであるが、即閉鎖機関に指定される。とりわけ問題になったのは、建設業の親方制度、徒弟制度、下請制度である。GHQの担当官コレットは全国の現場を回り、手厳しい指摘を続けた。要するに、直傭制を執拗に求めたのである。これを「コレット旋風」という。

 そうした背景の中で成立したのが建設業法であった。NAUが「建築界全般を覆う封建制と反動性を打破する」(綱領三)とうたい、丹下健三が論文[5]で、全ての問題が「建設工業機構の封建制」とそれに結びついた「都市の封建的土地支配」にあると書いていたように、建設業界の積年の課題は充分意識されていた。果たして戦後の建設業界はこの課題を克服し得たのであろうか。疑問なしとしない。

 

 建築士の誕生

 日本の建設業は、しかし、驚異的な復元力を示した。1950年代初めには戦前の経済水準を回復した日本の経済復興の進捗とともに、1955年までには戦前の水準を確保するのである。

1940年代から1950年への変わり目は、日本の近代建築史の流れにおいても大きな閾とみていい。そのいくつかの指標が、建設業の公布であり、翌年の、1919年以来の市街地建築物法を抜本改定する建築基準法の制定そして建築士法の制定である。とりわけ、建築士法の制定は、戦後における建築家のあり方を方向づける決定的意味をもつことになる。

 近代日本における建築家の職能をめぐる歴史の詳細は他に譲るが[6]、歴史的な議論の果てに、職能法ではなく資格法として建築士法が成立したのである。

 1949年はまさにその決着がついた年である。争点は、戦前における、いわゆる「第六条問題」、兼業禁止をめぐる問題であった。西欧における建築家像を理念とし、職能(プロフェッション)の確立を支える法・制定を目指す、当時の日本建築士会が兼業の禁止を主張し続けたのは当然である。GHQのプレッシャーもあり、戦後の混乱を反映するように、議論は右へ左へと揺れ動いた。歴史に「たられば」はないにしろ、万が一、職能法として建築士法が成立していたとすれば、戦後日本の建築家のあり方そして建築のあり方は大きく変わったということは出来る。建築士の公布は1950年の524日、施行が7月1日だから、1949年にはその決着はつけられたのである。

 

 おわりに

 当初、この連載を1950年代へ向けて2年間続けるつもりであったが、編集委員会の意向で打ち切られることになった。いささか残念である。

成功したかどうかは読者の判断に委ねられているが、一年一作品によって一月ごとに歴史を振り返る試みはアイディアとして面白いと今でも思う。

 もうひとつ、編集委員会との約束として、出来るだけ分かり易く、具体的な設計に即して書くという方針があった。可能な限り、これまであまり知られなかった作品を取り上げたい、という希望もあり、期待もあった。

 この希望と期待について、約束を果たし得たかというと、はっきりそうは言えない。監修者の怠慢といっていいが、新しい作品を充分に発掘し得たかどうかは疑問である。特に、関西圏から新たな発掘をという期待に答えることが出来なかった。

 それでも、と言い訳を二つお許し頂きたい。ひとつは、海外神社や防空壕など新たな視点で取り上げたものがあるということ。また、どの建築家のどの作品をどの年にとりあげるかの工夫もそれなりにしたつもりであること。実はこの組み合わせの妙が楽しい。ふたつめの言い訳は、そもそも1940年代には、残された、論ずるに足る作品が決定的に少ない、ということである。1950年代以降であれば、もっと組み合わせの妙が楽しめるであろう。

 若い書き手に期待したこともあって、分かり易く、という点については、編集委員各氏に度々研究室に足を運んでいただくことになった。誠に恐縮至極である。身近な書き手の原稿には全て眼を通し、書き直してもらった原稿もあり、監修者としては全体に自信はあるが、難しいと言われれば、そうかもしれない。編集部から、東京方面では存外評判がいい、と聞いたのが救いである。

 いずれにせよ、自前の足で,自前の写真で、設計する立場からという点については力不足であった。取材に関わる費用や時間については言うまい。見に行けるものが少なかったのである。編集委員会では、来年一年かけて1940年代を再度見直す方針である。以上の点をリカヴァーして頂けることと思う。連載の機会を与えて頂いた編集委員会には感謝したい。また、楽しみに読んでいただいた読者諸氏にはお礼を申し上げたい。

20世紀後半は既に教科書として書かれる時代に達しているのではないか。監修者としては、いつかどこかにまた機会があれば、同じ方式で、1950年代、60年代と続けて一冊の本をものしたいと思う。



[1] 拙著、『住宅戦争』、「第2章 欲望としての住まい」「3それぞれの住宅事情」、彰国社、1989年。

[2] 住宅総合研究財団『すまいろん』主催。陣内秀信、布野修司、中嶋節子。2001101日。

[3] 拙稿:戦後建築のゼロ地点:1945年8月15日:原爆ドーム、『ひろば』、2001年7月号

[4]  拙著、『戦後建築論ノート』、相模書房、1981年。『戦後建築の終焉 世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995

[5]  丹下健三、「建設をめぐる諸問題」、『建築雑誌』、194811月号

[6] 日本建築学会編:第12篇「職能」、『近代日本建築学発達史』、丸善、1972







2021年12月3日金曜日

戦後建築のゼロ地点1945年8月15日,原爆ドーム

戦後建築のゼロ地点1945815原爆ドーム 歴史のうずの中で 空白の10年!?建築の1940年代ひろば200107


 戦後建築のゼロ地点1945815日,原爆ドーム 

廃墟とバラック

そして、日本の建築家たちは、1945(昭和20)年8月15日を迎えた。

8月6日の広島への、8月9日の長崎への原爆投下が決定的となった。ポツダム宣言受諾を余儀なくされた天皇の「終戦の詔」(人間宣言)は、戦後生まれの世代もその後毎夏繰り返し聞くことになる。1945年8月15日は、少なくとも昭和天皇の崩御(1989年)まで「戦後」の起点であり続ける。

「戦後建築」の出発点において、建築家たちの眼前にあったのは「廃墟」である。多感な青年期に敗戦を迎えた磯崎新(1931-)は建築の原点としての「廃墟」について繰り返し触れている。また、「焼跡闇市」派を自認するもう少し上の世代も、出発点としての「廃墟」にこだわる。建築評論家、宮内嘉久(1926-)も自らの評論集の一冊を「廃墟から」と冠するように「廃墟」からの出発に拘るひとりである。

戦災を目の当たりにして、どんな建築も「廃墟」と化す、という圧倒的出来事は建築家の心中深く刻まれた。また、建築は「廃墟」から立ち上がる、という新生のイメージも共有された。敗戦がそれぞれの人生において他に比すべくもない強烈な体験であったことは疑い得ないことである。

半世紀の後、阪神淡路大震災(1995年)は、この「廃墟」の光景を思い起こさせることになった。戦後世代も、戦後建築のゼロ地点、原点を追体験することになるのである。

「廃墟」は、たちまち「バラック」の海で埋まり始める。当然である。人々にはシェルターは必要であり、日々の暮らしは一刻も休むことはない。誰もが自力で家を建てた。そこに戦後建築の原点があるといってもいい。

廃車に切妻の屋根をかけたバス住宅、材木が足りないので、叉首(さす)に組んでつくった三角ハウス、工場の鉄管をありあわせの新聞紙や木片、布などによって塞いだ鉄管住宅。様々な天幕住宅。車のついた移動住宅もある。実に多様なバラックの群である。廃品利用など実に創意工夫に富んでいる。

建築は建てられていずれ壊される。スクラップ・アンド・ビルド(建てては壊す)を繰り返してきたのが戦後建築の歴史である。しかし、果たしてそれでよかったのか、という思いが今ある。

今日、フローからストックへ、既存の建造物を長く大事に使うというのが趨勢である。地球環境問題が意識され、資源の有効利用、リサイクルが声高に叫ばれる。戦後まもなくの自力建設(セルフビルド)、あり合わせのブリコラージュは大いに再評価すべきであろう。

建築の死と(再)生をめぐっては根本的に考えてみるべきだ。「永遠の建築」とは一体何か。果たして可能か。「永遠の建築」を建てるためには予め廃墟と化した建築を建てればいいという、ヒトラーの「廃墟価値の理論」を想起してみよう[1]。一体、建築の寿命は何年であればいいのか、という素朴な問いでもいい。「廃墟」と「バラック」には、建築の原点に触れる何かがある。そこからこそ戦後建築は出発したのである。


 

原爆ドーム

戦後建築史の第1頁に掲げられるのは、前川國男(1905-86)の「紀伊国屋書店」であり、谷口吉郎(1904-79年)の「藤村記念館」である。いずれも1947年の作品で、それまでは見るべきものはない。

しかし、戦後建築の出発を象徴する建築作品を振り返って考えて見ると、やはり、原爆ドームをあげるべきではないか。爆心地近くにあった広島県物産陳列館は一瞬のうちに破壊され、そのまま凍結されて、原爆ドームという新たな機能を担い、世界文化遺産として今日までその姿をとどめている。一度破壊され、世界遺産として甦り、永遠に保存される、建築の生と死をそのまま象徴する作品が原爆ドームである。

この数奇なる運命を辿った建築作品の設計者はヤン・レツル(Jan Letzel 1880-1925年)というチェコ人建築家である。レツルは、明治301907)年に来日して、横浜のデ・ラランデ(George DeLalande 1872-1914年)事務所に勤めた後、同じチェコ人のヤン・ホラー(Karel Jan Hora 1881-1973年)とレツル・アンド・ホラー合資会社を設立している。デ・ラランデは、ソウルに朝鮮総督府として建てられ、戦後は韓国国立博物館として使用された後、戦後50年を期して植民地の記憶を清算するために解体されるという、これまた数奇な運命を辿った建築の設計者として知られる。レツルは大正末まで東京に滞在し(1907-1919年、1922-23年)、聖心女子学院本館(1909年)、築地静養軒新館(1909年)、双葉高等女学校(1910年)、松島パークホテル(1913年)、上野静養軒(1917年)など少なくない作品を残している。ただ、現在にまで残るのは、わずかに聖心女学院の正門と原爆ドームだけである。

広島県物産陳列館の設計が依頼されたのは、静養軒主北村重昌の知人であった広島県知事寺田祐之が宮城県知事時代に松島パークホテルを手掛けた縁だという。依頼を受けると(1913年7月)、即設計が行われ、半年後に着工(19141月)、19154月5日に竣工している。

煉瓦造三階建てで、鉄骨で組まれた楕円ドーム(長軸11m短軸8m)は高さ4mあり、中央部は五層分ある。今日の目から見れば、左右対称の構成はとりたてて意を用いているようには見えない。運命の一瞬がなければ、レツルの他の作品同様、その使命を既に終えていたであろう。

竣工後30年経った1945年8月6日午前815分、広島県物産陳列館のほぼ真上で(南東160m高度580m)原爆が爆裂する。館内に居た人は全員即死であった。

戦後しばらくすると原爆ドームの存廃論議が起こる。そして、平和記念公園の構想が具体化する。しかし、原爆ドームの帰趨が最終的に決定するのははるか後のことである。やがて周囲に金網が廻らされ、立入禁止の措置が採られる(1962年)。その後まもなく広島市議会が保存を決定(1964年)、保存募金活動が展開される。第一回保存工事が行われ(1967年)、周辺広場の整備も行われる(1983年)。そして、第二回目の保存工事を経て(1990年)、国が史蹟に指定(1995年)、翌年世界遺産委員会が原爆ドームを世界遺産に登録する、以上が竣工後80年を経て「永遠」の生命を得た広島県物産陳列館の履歴である。


 

戦前・戦後の連続・非連続

戦後建築は、しかし、ゼロから出発したのではない。また、原爆ドームとともに凍結されたままでもない。一個人を考えても、1945815日を期して、がらりと変わってしまうことはありえないことである。「昨日まで八紘一宇を唱えてゐた者が今日急に平和主義者になり切れるものではない。思想上の一八〇度回転は兵隊の廻れ右程たやすい業ではない。」(小坂秀雄[2])のである。

敗戦によって、確かに教育の場は一転する。教科書に黒い墨が塗られ、教師の言うことが一変してしまったことに、いい加減な大人たちの処世を見てしまったのは国民小学校の生徒たちであった。

建築家が敗戦をそれぞれどのように迎えたかは様々である[3]。世代によって、建築界における地位によって受け止め方が違うのは当然であろう。

敗戦による転換を単に外的な条件の変化と見なす態度がおそらく多数であった。「戦時中、わたしはそれに適応した建築のことを色々と考えてゐた。それは戦争が終わってもそのときの構想はある程度まで実現させねばならないであらうとも思ってもゐたが、完全なる敗戦によって日本は平和的文化国家として立ってゆくより外、途がなく、戦争を永久に考へられなくなり、また考へることを許すべきでなくなった今日、戦争があることを予想してわたしが構想した建築様式は殆ど不要に帰した」が故に、「民主主義に立脚した建築様式を構想し、それによって世界文化に寄与するようにしていい」のである(新井格[4])。

もちろん、先に引いた小坂秀雄のように、転換を「並々ならぬ内面的苦悩を経て始めて得られる」と真摯に受け止めていたものも少なくないであろう。しかし、戦前・戦中を通じて、建築界において指導的立場にあり、発言を続けてきた層には概して屈折するところがない。東京帝国大学教授で建築家であった岸田日出刀は、国粋主義や国家主義の台頭で、戦時中は英語が使えず、講義がしにくかったといいながらも、「日本の建築家がその知能のあらん限りをつくして戦争遂行に協力したことは事実であり、またその効果があまりパッとしたものではなかったことも確かであるが、戦時平時を問わず建築は社会と共に生き共に死ぬといふ厳とした事実は、〈太平洋戦争と日本の建築〉という一事象だけからしてからも、はっきりと実証されたわけである」と言い切っている[5]

ヒトラーのお抱え建築家であったA.シュペアが戦後公職を追放され、二度と建築家としての仕事をすることができなかったドイツとは異なり、日本の建築家が永久に追放されるということはなかった。日本とドイツのファシズム体制の差異、建築家の社会的地位の違いが指摘できる。また、建築界においては、戦争責任や転向の問題が表立って問われることはなかった。眼前にはバラックの海が拡がっており、住宅問題への対応は建築家にとって喫緊の要事であった。また、都市復興計画は全力をあげてすぐさま取り組むべき課題であった。


 

ヒロシマ・丹下・村野

広島は戦後日本の出発の象徴である。世界的にもヒロシマ=原爆であり、東西対立が続く戦後の冷戦体制において原水爆禁止、平和運動の象徴でもある。そして、原爆ドームの存在とともに平和記念公園計画が具体化された広島は戦後建築の最初の焦点ともなる。

戦後まもなく、戦災復興院は建築家たちに主だった13都市についてその復興計画立案を委嘱する。戦後日本の都市計画をリードすることになる高山栄華が長岡市、武基雄が長崎市と呉市、そして丹下健三が担当したのが広島市であった。1946年の秋から翌年の夏にかけて作業が行われ、その過程で生まれたのが平和記念公園の構想である。そして1949年に「広島市平和記念公園及び記念館」の設計競技が行われ、このコンペでも一等入選したのは丹下健三であった。

提案された大アーチこそ実現されなかったものの、広島平和記念資料館は19513月に着工、19558月に竣工する。戦後10年を経て、時の『経済白書』は「戦後は終わった」と宣言する。日本が高度経済成長へ向かって離陸する直前であった。この広島のプロジェクトとともに、丹下は戦後建築を主導する地位を占めていくことになる。

丹下健三の軌跡については、既に多くが触れているのであるが[6]、大きなテーマとなるのは、1942年の「大東亜建設記念造営計画」コンペ、1943年の「在盤谷日本文化会館」コンペから「広島市平和記念公園及び記念館」コンペまで、ほんのわずかの時の流れしかないことである。

戦争遂行のための大東亜共栄圏の神域計画を賛美した同じ建築家が一転平和のための祭典広場を計画する。そんなことがありうるのか、無節操な転向ではないか、というわけである。戦前・戦後の連続・非連続の問題は、上で見たように丹下個人のみの問題に帰せられるものではない。日本のファシズム体制、建築界全体の体質に関わる問題がある。しかし、戦前・戦後の体制、イデオロギーを象徴する建造物の設計者に相次いで同じ建築家が一等当選を果たしたことがその体質をよりセンセーショナルに露わにしたのである。

確かに、神明づくりの屋根はない。しかし指摘されるように、100m道路(平和大通り)に直交して(宮島)―平和記念資料館-平和広場-平和アーチ・慰霊碑-原爆ドームを一直線に並べる構成は「大東亜建設記念造営計画」案と変わりはない。丹下健三の戦時中の活動や言動、そのイデオロギー立場は別として(表立って明らかにされているわけではない)、その設計方法については必ずしも断絶はないのである。

「広島平和記念公園計画」に先だって、1948年に被曝焼失したカトリック教会再建のための設計競技が行われる。「世界平和記念聖堂」コンぺである。結果は、1等当選なし、2等丹下健三、3等前川國男、菊竹清訓であった。結局、審査委員長であった村野藤吾が設計に当たり、1954年に竣工する。この不明朗なコンペの顛末については、石丸紀興が詳細に明らかにするところである[7]

時代は下って1970年代初頭、長谷川堯が、丹下健三vs村野藤吾という対立構図によって、戦後建築の流れを総括する。丹下に代表される近代建築家を「神殿志向」として徹底批判し、建築家本来の仕事を「獄舎づくり」として、その代表である村野藤吾を最大級に評価するのである[8]

戦後10年の間に、広島を舞台にやがて評価を大きく異にする二つの建築作品が建てられた。広島が戦後建築の出発において記憶さるべき由縁である。


 

戦後建築運動の展開

戦後まもなく建築家が何を考え、何を目指そうとしたかについてはこれまで繰り返し触れてきた[9]。わかりやすいのは建築運動の展開である。

例えば、戦後まもなく相次いで結成された諸団体を統合するかたちで設立された(1947年)新日本建築家集団(NAU:The New Architect’s Union of Japan)の行動綱領(1948年)に、戦後建築の指針は示されている。NAUは、約800人を集めた建築界の大組織であった。初代委員長が高山栄華、第二代委員長が今和次郎、戦後の建築界を背負って立つ主要メンバーは参加している。スローガンのみからでも、戦後まもなくの意気込みは伝わってくる。

綱領三「建築界全般を覆う封建制と反動性を打破する」は、「一建築生産組織、経営組織の近代化、二建築生産技術の機械工業化、三伝統の正しい批判及び摂取を基礎とする科学的建築理論の確立・・・」などとうたっている。同じ年、丹下健三は「建設をめぐる諸問題」という長大な論文[10]を書いている。丹下は、その論文において、全ての問題が「建設工業機構の封建制」とそれに結びついた「都市の封建的土地支配」にあるといい、極めて冷静な分析を展開している。丹下もまたNAUのメンバーであった。

建築生産組織、経営組織の近代化というスローガンなど今なお問われている問題である。また、工業化の問題については、半世紀の経験を踏まえた総括が現在では必要であろう。産業社会のあり方、建築生産の産業化をめぐっては、近代建築批判の過程で大きな疑問符が投げかけられてきたからである。いずれにせよ、戦後のゼロ地点において、建築を支える全体制が問題にされていたことは留意されるべきであろう。

建築運動の具体的展開については他に譲りたいが[11]、運動自体が大きな成果を上げたとは必ずしもいいがたい。NAUにしても、1951年には活動を停止してしまうのである。その崩壊の直接的な原因になったのはGHQの圧力によるレッド・パージであるとされる。また、朝鮮戦争勃発とその特需によるビル・ブームがその背景にあるとされる。戦後復興が軌道に乗り、建築家たちは具体的な仕事に忙殺されだすのである。

1920年の分離派建築会、1923年の創宇社の結成に始まる日本の近代建築運動は、1930年の新興建築家連盟の結成即崩壊によって一旦終息し、一五年戦争期には翼賛体制といってもいい建築新体制のもとで小会派のほそぼそとした活動に封じ込められてきた。敗戦によって、いくつかの地下水脈が息を吹き返し、NAUによる大同団結が行われるのであるが、その崩壊までそう時間はかからない。NAUは、その後、関西を中心に運動を持続することになるが、建築界の関心は拡散していくことになる。研究者を主体とする建築研究団体連絡会(1954)、スター建築家の後継を目指す五期会(1956年)などがその後の主だった組織である。

 

戦後建築の初心

その帰趨を振り返って批判するのは容易い。批判する若い世代が最低確認すべきは、戦後建築の初心である。廃墟を前にして、ありうべき建築として構想されていたものは何かを明らかにすることである。

例えば、浜口隆一の『ヒューマニズムの建築 日本近代建築の反省と展望』[12]がある。『戦後建築論ノート』でかなりの頁を割いてそれなりの読解を試みた。その後、『ヒューマニズムの建築・再論-地域主義の時代に-』[13]が書かれ、その読解への応答がなされている。1943年に「日本国民建築様式の問題」を書き、『ヒューマニズムの建築』によって戦後建築の指針を示した浜口隆一の軌跡は貴重である。その評論活動の粋は『市民社会のデザイン』[14]にまとめられている。

また、戦後住宅のあり方についての大きな指針となった西山夘三の『これからのすまい』[15]がある。さらに、住宅については浜口ミホの『日本住宅の封建制』[16]、池辺陽の『すまい』[17]がある。西山夘三の軌跡もまた、丹下健三とともに戦後建築の帰趨を見極める上で貴重である[18]

戦後建築のゼロ地点において、既にその可能性も限界も見えるのではないか。例えば、日本の住宅のあり方をめぐって、戦後建築家たちは何を提起し、何をなし得たのか。

若い世代の新たな読解とその深化に期待したい。

 



[1]  拙稿、「廃墟とバラック-建築の死と再生」、布野修司建築論集Ⅰ『廃墟とバラック-建築のアジア』、彰国社、1998

[2]  小坂秀雄、「敗戦から都市再建へ」、『建築文化』創刊号、19464月号

[3]  拙稿、「第二章 呪縛の構図 廃墟の光芒」、『戦後建築の終焉-世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995

[4]  新井格、「民主主義と建築文化」、『建築文化』二号、19465月号

[5]  岸田日出刀、「建築時感」、『建築文化』四・五号、19468月号

[6]  拙稿、「丹下健三と戦後建築」、布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジーテクノロジー』、彰国社、1998

[7]  石丸紀興、『世界平和記念聖堂 広島に見る村野藤吾の建築』、相模書店、1988

[8]  長谷川堯、『神殿か獄舎か』、相模書房、1972

[9]  拙著、『戦後建築論ノート』、相模書房、1981年。『戦後建築の終焉 世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995

[10]  丹下健三、「建設をめぐる諸問題」、『建築雑誌』、194811月号

[11]  拙稿、「戦後建築運動の展開 第三章 Ⅱ近代化という記号」、『戦後建築の終焉 世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995

[12] 浜口隆一、『ヒューマニズムの建築 日本近代建築の反省と展望』、雄鶏社、1947年

[13]  浜口隆一、『ヒューマニズムの建築・再論-地域主義の時代に-』、建築家会館叢書、1994

[14]  浜口隆一、『市民社会のデザイン』、而立書房、1998

[15] 西山夘三、『これからのすまい』、相模書房、1948

[16] 浜口ミホ、『日本住宅の封建制』、相模書房、1950

[17] 池辺陽、『すまい』、岩波書店、1954

[18]  拙稿、「西山夘三論序説」、布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジーテクノロジー』、彰国社、1998 

2021年12月2日木曜日

大東亜建築様式  1942年 丹下健三「大東亜建設忠霊神域計画」 歴史のうずの中で 空白の10年!? 建築の1940年代

 大東亜建築様式   1942年 丹下健三「大東亜建設忠霊神域計画」 歴史のうずの中で 空白の10年!? 建築の1940年代,ひろば,200104


 大東亜建築様式   1942年 丹下健三「大東亜建設忠霊神域計画」

                                    布野修司

 

   太平洋戦争に突入した日本は、この年戦線を南方へと一気に拡大する。前年128日の真珠湾攻撃と英領マラヤ、コタ・バル奇襲作戦によって英米戦艦群に大打撃を与え、太平洋の制海権、制空権を掌握すると、1月2日マニラ、2月15日シンガポール、3月8日ラングーン、9日ジャワと破竹の勢いで占領する。6月のミッドウエイ海戦、8月のガダルカナル海戦以降、後退戦を強いられていくのだが戦況は伏せられた。占領地は次々に地図上で赤く塗られ、日本の領土がアジアに拡大していくイメージが共有された。11月、大東亜建設の遂行を目的とする大東亜省が発足する。大東亜共栄圏建設の理想が戦争遂行を支え、「欲しがりません勝つまでは」と国民意識が大いに昂揚したのが1942年である。

 この年建てられた伊東忠太の俳聖殿については既に触れた1。見るべき作品はそうない。坂倉準三の飯箸邸、今井兼次の航空碑、吉田五一八の青木邸などが数えられるのみだ。東京市内の大工がバラックの建設訓練を行い、各住戸の窓ガラスの補強検査や灯火管制時の住宅換気方法が問題になる時代である。いささか意外な気がするが、関門海底トンネルがこの年開通している。この年を代表する作品となると、やはり丹下健三の「大東亜建設記念営造計画」案だろう。

 

 南方建築ブーム

 『新建築』は、2月号から「南方の建築」という連載を始める。また、「南方建設へ」というコラムを開始している。「泰国の寺院と塔 バンコック・アユチアの古寺」「浮屋と高床家屋のデテール・チェンマイの家」「アンコールの建築装飾・チャムの建築」「ジャワのボロブドウル仏蹟」「バリー島」といった記事だ。南方への戦線拡大が、南方建築への関心を沸き立たせたのがよくわかる。『建築世界』も7月号を南方建築特集号とし、9月号からは南方圏グラフを連載している。『建築と社会』には大東亜建設をめぐる記事は比較的少ないが、それでも「「南方事情を語る」座談会」(3月号)などが組まれている。

日本建築学会の『建築雑誌』は、大東亜建築グラフ(フィリピン篇8月号、マレー、スマトラ、ジャワ、バリ篇9月号)を掲げ、記事も南方建築、大東亜建設一辺倒の感がある。とりわけ9月号は「大東亜共栄圏に於ける建築様式」という座談会、大東亜共栄圏に於ける建築的建設に対する会員の要望(投稿及回答)を含め、「大東亜建築様式育成の一案」(年岡憲太郎)「大東亜建設の根本理念」(笹森巽)「大東亜建築の指導理念」(山田守)「南方共栄圏建設の構想」(大倉三郎)といった記事がずらっと並んでいる。この『建築雑誌』の「大東亜建築特集」は繰り返し読まれるべきだ。建築と政治、建築と国家、建築と民族・・・建築表現の根源に関るテーマが多くの建築家によって考えられ、語られている。最後に見よう。

 

「大東亜建設記念営造計画」コンペ

  全国民の眼が南方に注がれ、南方建築への関心がる中で、日本建築学会は大東亜建設委員会(佐野利器委員長)を設置する(3月)。そして、第16回建築学会展覧会を日本橋高島屋(11月4日~8日)を皮切りに、広島、福岡、大阪、名古屋の百貨店を巡回する形で行う。大東亜共栄圏の具体的な建設は建築家の任務である。展覧会は「恰も大東亜戦争の赫々たる戦果に伴って我国威が南方へ弥が上にも大発展を遂げた。この現実の問題に対し、建築技術を通じて大東亜共栄圏建設と云ふ曠古未曾有の鴻業に翼賛せんとするの意図を以て計画」されたのであった。

展覧会第1部のテーマは「南方建築」で、南方建設に携わるものが知悉すべき事柄として「一般統計」「気象統計」「宗教建築」「民家」「現代建築」という分類に従って展示がなされた。第2部は会員作品、そして、第3部が設計競技「大東亜建設記念営造計画」応募案の展示であった。

展覧会の背景、その意図は明らかであろう。設計競技を情報局が後援したのも翼賛体制確立のための情報宣伝活動の一環と見なしたからである。南方建設は具体的な課題としてあり、南方事情を探求する必要があった。そして、もうひとつ大きなテーマとされたのが大東亜の建築様式をどう考えるかであった。

設計競技は、「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スル」のであれば「計画ノ規模、内容等ハ一切応募者の自由」であった。応募者の中には30枚を超える図面を提出したものもいる。審査委員長は佐藤武夫。審査委員は、今井兼次、川面隆三、岸田日出刀、蔵田周忠、谷口吉郎、土浦亀城、星野正一、堀口捨己、前川國男、村野藤吾、山田守、山脇巌、吉田哲郎。川面は情報局からの委員で、病欠の堀口とともに二日(10月6日、15日)とも審査に参加していない。最終審査には村野も参加していない。最初の審査で入選佳作圏内19、B級20、C級24が選別された。応募総数は63である。

丹下の一等当選案は、富士山を左肩に仰ぎ見る霞たなびく山麓に神域を描いた透視図でよく知られている。「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画:主として大東亜建設忠霊神域計画」というのが正式な名称だ。

 二等は、田中誠、道明栄次、佐世治正の「大東亜共栄圏建設大上海都心改造計画案」、三等は中善寺登喜次の「大東亜聖地の計画 富士山麓」、佳作に荒井龍三「民族の碑」、吉川清「忠霊の庭」、伊藤喜三郎、泉山武郎、金忠國「大東亜首都開門計画」、本城和彦、中田亮吉、薬師寺厚、小坂秀雄、佐藤亮「大東亜聖域計画」、百瀬保利「大東亜戦争記念祭典場」が入った。審査員の参考作品として、岸田日出刀の「靖国神社神域拡張並整備計画」、前川國男の「七洋の首都」、蔵田周忠の「或る町の忠霊塔」が展覧会に出品された。

 このコンペを含め戦前期の設計競技については井上章一の『戦時下日本の建築家』2が詳しい。井上の主張は、このコンペのこれまでの評価の否定(大衆性の欠如、時勢からの遊離)、丹下健三批判の不当性をめぐって執拗である。また、コンペの当落、建築におけるモダニズムとナショナリズムの抗争を学閥や学会内のミニポリティックス、正統と異端の葛藤を絡めて面白可笑しく書いて読ませる。この井上の論考については、「国家とポストモダン建築」3で触れた。ひとつだけ付け加えるとすると、坂倉準三、丹下健三というラインが何故モダニスト陣営から距離を置かれたかはもう少し掘り下げる必要がある。坂倉準三が事務所を拠点に国粋主義的文化人を組織し、西澤文隆らをマニラに送るなど具体的な文化工作運動を展開したことはこれまで必ずしも明らかにされていないのである。

 しかし、ここでの問題は丹下の応募案である。これをポストモダンの先駆けと見るか、モダニズムの挫折転向と見るかが争点である。後者が従来の見方であり、建築のポストモダンの時代に到ってその転倒を試みたのが井上である。

 入選佳作案をじっくり見よう。丹下健三案は確かに目立つ。ひとり切妻の大屋根を用い、しかも九本の鰹木風の突起がある。興味深いのは、ピラミッド状(四角錐台)のモニュメント案が二つある中で、丹下が「上昇する形、人を威圧する塊量、それらは我々とかかわりない」と書いて予め高塔形のモニュメント案を予想し、牽制していることである。「西欧の所謂「記念性」をもたなかったことこそ神国日本の大いなる光栄であり」「ピラミッドをいや高く築き上げることなく、我々は大地をくぎり、聖なる埴輪をもって境さだめられた墳墓をもって。一すじの聖なる縄で囲むことに、すでに自然そのものが神聖なるかたちとして受取られた」と丹下は主旨に記している。

 

  金的の狙い打ち・・・見事に外された核心

審査委員長を務めた佐藤武夫によれば、第16回建築学会展覧会のスローガンは「日本国民建築様式の創造的探究」であった4。前川國男を始め、日本の建築家が真摯に問おうとしたのがこの主題である。浜口隆一の論考「国民建築様式の問題」5が戦前期の水準を示している。大きな焦点は明らかに前川國男である。彼はこの「大東亜建設記念営造計画」コンペに自ら「七洋の首都」と題する超高層ビルの林立する首都計画を示している。しかし、その前川が、翌年行われた(1031日締切)在盤谷日本文化会館コンペ(1944年発表)には丹下様の切妻和風建築で応募(2等入選)したのである。

この転換、あるいは転向についてはあまりにもよく知られているから省略しよう。審査委員長を務めた伊東忠太の、平安神宮以降の150を超える作品を見ると実に様々である。築地本願寺や俳聖殿はむしろ例外といえるかもしれない。伊東にとって建築様式は自らの外にあった。帝冠様式は断固退けたが、それぞれの様式は採用しえた。しかし、内なる様式の一貫性に拘ったのが前川國男を代表とする近代建築家たちである。木造建築であれば勾配屋根となるのは自然だ。屋根の在る無しは枝葉の問題だと前川は当時書いている6。しかし、在盤谷日本文化会館コンペには国際主義的な手法をもって応募したものもいたのだから、前川の転換が転向と写っても致しかたない。事実そう見られてきた。

「大東亜建設記念営造計画」コンペとの違いについて指摘しておくべきは三点である。これは実施コンペであったこと、「我ガ国独自ノ伝統的建築様式ヲ基調」とし、チークを主要軸部構築材とする木造建築であったこと、そして、審査委員会が文化勲章受賞者伊東忠太を委員長とし、横山大観ら芸術院会員ら建築関係者以外を含む構成であったことである。

前川は「第16回建築学会展覧会競技設計審査評」7で、「創造一般が伝統よりの創造であるという命題」を掲げた上で二つの誤謬を予め問題にしている。すなわち、擬古主義の誤謬と「日本建築の伝統精神と謂われる材料構造の忠実な表現に出発する構造主義的所謂「新建築」」の誤謬である。そして、丹下案をこの二つの「錯誤を比較的自然に避け得られる「幸福な場合」であった」という。具体的にはこうだ。「歴史に確認されたる形」である「木造神社建築の母型」を「拠り所」とするが、「聳え立つ千木」も「太敷立つ柱」もなく「勝男木」は天窓に変貌しており、単なる擬古主義ではない。「神社は木造に限るべきもの」という意見もあるが、「祭の形式」が国民的規模で行われる将来には棟高60mの神社も可能である。前川の不満は、丹下が神社建築そのものを対象としたことで「今日日本建築の造形的創造一般のはらむ普遍的な問題の核心も亦相當見事に外らされてゐる」ことにあった。また、敷地計画、都市計画の全体の問題点については妥当な指摘をしている。丹下は前年前川事務所の作品として岸体育館を完成させたばかりであった。前川には心底はぐらかされた思いがあったのだろう。

「よく申せば作者は賢明であった、悪く申せば作者は老獪であった。いづれにせ此の作は金的の狙い打ちであった・・・」というのが有名な科白だ。

 

世界史的国民建築

   前川國男には「世界史的日本の建築的創造はまさに伝統の具体的把握によって、世界史的国民個性に鍛え上げられた建築家の実践によってのみ行はれる」という思いがあった。そして「此の事の中には日本伝統建築の創造的な復興の面と外来異質文明の摂取同化との二つの面のある事を否むわけには行くまいと思ふ」のである。前川についてここで詳細に触れる余裕はないが、そのキーワードは「ホンモノ建築」である8。「日本精神の伝統は結局は『ホンモノ』を愛する心」であり、重要なのは「一にも二にも原理の問題」9であった。

日本の近代建築史において繰り返し現れる「日本的なるもの」をめぐっては繰り返さないが、依然として今日の問題でもある。「我ガ国独自ノ伝統的建築様式ヲ基調」とする規定は風致地区指定や国立国定公園の建築規定、景観条例の中に潜んでいる。

 帝冠様式に代表される擬古主義を否定しながら、近代建築の理念につながる手法を日本建築の伝統的手法に見出す、あるいは日本建築の空間手法、建築的比例を近代建築の技術によって実現する、簡単に言えば、議論はこんなところに落ち着いてきた。しかし、問題は日本である。前川の言う「世界史的国民建築」とは何か。「外来異質文明の摂取同化」に関るのが「大東亜建築様式」をめぐる議論である。

 『建築雑誌』の「大東亜建築特集」の中には実に多様な回答がある10。建築は「其地方の住民即ち土民に対して」「其地方が自国の勢力下にあることを具体的に表示する象徴」であるという伊藤述史(「大東亜共栄圏の建築形式」)は、神社風、寺院風、欧州風の三つが並存するなかで「大東亜式建築を考究し特別形式を案出したい」という。山田守は「創造的進化」という。堀口捨己は「大東亜共栄圏では日本様式でありたいと誰もが思っている」が、「日本様式とはどう云うことかということになりますと」「大きな多くの問題がある」という。佐藤武夫は「欧米の直接の継承」でもなく「一時流行しました国際的な共通のものを目指しても居ない」といって「日本の過去の造形文化の遺産をそのまま復古しようと言ふものでもない」、「大東亜共栄圏内に独自な一つの新しい造形文化を創造していこう」という。「神様の表現」「神様の建築」をしようと紙がかった発言をするのが谷口吉郎である。

 そして、丹下健三の解答はこうだ。

 「神の如く神厳にして簡頚、巨人の如く雄渾にして荘重なる新日本建築様式が創造されねばならぬ。英米文化は勿論、南方民族の既成の文化を無視するがよい。アンコール・ワットに感歎することは好事家の仕事である。我々は日本民族の伝統と将来に確固たる自信をもつことから出発する。さうして新しい日本建築様式の確立は、大東亜建設の必然と至上命令に己を空しうした建築家の自由なる創造の賜として與えられる。」

 そして、その表現が「大東亜建設忠霊神域計画」であった。

 

1  拙稿、「強迫観念としての屋根」、hiroba2001年1月号

2 井上章一、『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』朝日選書、1995

3 拙著、『布野修司建築論集Ⅲ:国家・様式・テクノロジー』、彰国社、1998

4 佐藤武夫、「競技設計の審査所感」、『建築雑誌』,194212月号

5 浜口隆一、『新建築』,1944

6   前川國男、「1937年巴里萬国博日本館計画所感」、『国際建築』、1936年9月号(『前川國男文集』、而立書房、1996年所収)

7 『建築雑誌』、1942年12月号

8 拙文、「Mr.建築家 前川國男」、『布野修司建築論集Ⅲ:国家・様式・テクノロジー』所収、彰国社、1998

9 前川國男、「今日の日本建築」、『建築知識』、193611月号

10 拙稿、「近代日本の建築とアジア」、『布野修司建築論集Ⅰ 廃墟とバラック』、彰国社、1998