屋根のシンボリズム,CAL,199404
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2022年7月25日月曜日
2022年7月24日日曜日
最終審問者としての歴史,『科学』特集「建築と法律」,岩波書店,200409
最終審問者としての歴史,『科学』特集「建築と法律」,岩波書店,200409
科学9月号 特集:建築と法律 何がよい建築か
最終審問者としての歴史
布野修司
都市はひとつの作品である。都市に住み、建築行為を行うことは、住民それぞれの表現であり、都市という作品への参加である。そういう意味では、都市は集団の作品である。
都市の建設は一朝一夕に出来るものではない。完成ということもない。人々によって日々手が加えられ、時代とともに変化していく。そういう意味では、都市は歴史の作品である。
建築とは何か、をめぐっては古来気の遠くなるような議論がある。「建築architecture」という言葉の語源は、知られるように、ギリシア語のアルキテクトンである。アルケー(arche 根源)のテクネーtechnē(技術)がアーキテクチャーである。カエサルに捧げられたウィトルウィウスの『建築十書』は、「建築家」はありとあらゆる技術、学問に通じている必要があると言い、「建築」をつくり挙げるための諸原理と方法をこと細かく示している。「建築」には一般に「用」「美」「強」の全てが関わる[i]。
しかし、「建築」の語源を明らかにし、数多の「建築論」を下手くそになぞって見たところで、「何がよい建築か」がわかるわけではない。むしろ、一般的に「建築」を論ずることが、「建築」と非「建築」あるいは「建造物building」を予め区別する特権意識に結びついていることを指摘しておいた方がいい。感覚的価値としての美を定義づけることで「美学」なるものが成立するともに、「技術」と「芸術」が分離し、同時に「建築」と「建造物」も分離されることになった。「建築家」が専ら価値を置くのは「ファイン・アートとしての建築」である。
しかし、全ての建築行為が、都市(建築環境built environment)=「集団的歴史的作品」への参加であるという観点に立てば、その評価の視点や軸は、閉じた「建築」の世界のそれとは自ずと異なる。建築行為は、実に多様な視点、多様な水準、多様な次元で評価できるのであって、「何がよい建築か」について一般的に語ることはできないのである。具体的な建築物の評価をめぐって議論を積み重ねることこそが重要である。
第一に確認すべきは、「よい建築」すなわち多様な水準、次元で評価しうる建築、ということである。様々な方式の設計競技において、総合評価と称して、様々なチェック項目を点数化して総和をとったり、それを総工費で除して比較したりすることが行われるが、「よい建築」とはそうした一元的な評価を超えるものである。「ただ安ければいい」「法律さえ守っていればいい」というわけにはいかないのである。
多様な評価が可能ということは、その建築が多様な価値をもっているということである。個々の建築物がそのために最低限備えるべきは、ディテール(部分詳細)とコンセプト(理念)である。コンセプトがなければ多様な解釈、読解に基づく議論は起きないであろう。また、訪れるたびに(日々)新たな発見があるような、また、周到に考え抜かれたディテールがなければ魅力は薄いであろう。
多様な評価は、当然、社会的評価を含むから、公共性、社会的合理性が大きな鍵になる。私有地だからといって勝手にデザインしていいということにはならない。街並み景観、相隣関係などあるルールが前提されている必要がある。その場所に相応しいルールを自ら提示するのが「よい建築」である。
それを誰が判断するのか(という大問題についてはここでは留保せざるを得ない)。単純に住民の多数決によればいいというわけにはいかない。そこにはある「眼」が必要である。問題はその「眼」を社会的にどう担保するかである
「何がよい建築か」を最終的に判断するのが歴史であることははっきりしている。様々な意味で「長持ちする」建築が「よい建築」である。使い勝手がいい、容易に壊れない、維持管理がしやすい、耐用年限が長い、・・・というだけではなく、変化に対応でき、多くの人に愛される、・・・といった社会的耐用性も当然求められる。歴史に耐え、多くの人々の記憶に保持され続ける建築こそが「よい建築」である。それを如何に鋭く感知して見抜くかが「眼」の問題である。
[i] 『ウィトルーウィウス建築書』、森田慶一訳注、東海大学出版会、1969年、1979年。ウィトルウィウスに依れば、「建築」は、オルディナティオordinatio(量的秩序:尺度モドゥルスに基づいて全体を整序すること)、ディスポシティオdispositio(質的秩序:配置関係を統一的に収めること)、エウリュトミアeurythmia(美的構成)、シュムメトリアsymmetria(比例関係)、デコルdécor(定則:慣習、自然、様式)、ディスプリブティオdistributio(配分:材料、工費)の6つの原理、概念からなる。
2022年7月23日土曜日
シンポジウム:パネリスト:アジアの都城とグリッド,名古屋世界都市景観会議,グリッド都市のデザイン,西村幸夫(司会),佐藤滋,小林英嗣,アラン・ジェイコブス,アンソニー・サトクリフ,ナーレンドラ・ラジバンシー他,19971008
シンポジウム:パネリスト:アジアの都城とグリッド,名古屋世界都市景観会議,グリッド都市のデザイン,西村幸夫(司会),佐藤滋雄,小林英嗣,アラン・ジェイコブス,アンソニー・サトクリフ,ナーレンドラ・ラジバンシー他,19971008
私のグリッド観
布野修司
グリッドについて、幾人もの(例えばS.コストフのような)碩学が考察してきた以上の考えはない。
グリッド・パターンは、計画的な都市において、今のところ最も一般的である。グリッドは、古今東西どこにも見ることができる。普遍的な手法といっていいだろう。異なる場所での標準的な計画として、あるいは、土地の公平な分配の手段や、不動産を区分けし売りやすくする手段として、グリッドに勝る都市計画的解決法はない。また、真直ぐな道路の防衛上の利点はアリストテレスの時代から認識されてきたし、また直線的な街路パターンは住民を監視するためのの手段であった。画一的で面白味に欠けるのがグリッドである。
しかし、グリッドは必ずしも融通のきかない手法ではない。街路の幅、街区の大きさによって都市景観は異なる。空間の編成もことなる。むしろ逆に、グリッドは非常に柔軟で多様性のある計画システムであり、それ故に多大な成功を収めてきたと考えた方がいいぐらいだ。あらゆるグリッドに共通と考えられるのは、街路パターンが直交的であることであるが、それも普遍的なことではない。地図として、二次元の平面で見ればそうかもしれないけれど、地面が傾斜していれば全く多様な景観が出現する。街区の大きさと形、及びその内部の構造、オープンスペースとその分布、公共建築の表情などによって全く異なるのである。
むしろ、問題は明らかである。グリッドの豊かな可能性を追求することなく導入されるグリッドの手法である。今のところ、グリッドを用いたダイアグラムとコスモロジーに興味を持っている。
I have not special idea on the Grid beyond those
many scholars including S. Kostof
pointed out.
The Grid pattern is generally seen in almost all the
planned cities. That can be said universal method because we can see it in West
and East, past and present. It is used as a standard planning method,
techniques of equivalent land division and speculative planning. There is no
other way superior to the Grid as the method of protection. The straightforward
street system is good to control the activities of inhabitants. People says the
grid is monotonous and not so interesting.
Nevertheless, the grid system is not uniform and
not boring. The cityscapes are different according to the size of blocks and
streets. Space formation can be various based on the local conditions. It is
better to think that the grid system can be seen everywhere because it can
produce the variety. The same orthogonal system becomes completely different if
the grounds decline. The map does not show the real space formation. The grids
differ according to the size and form of the blocks, their internal structure,
the distribution of open space, the quality of public facilities and so on
The problems are clearly understood that the grid
are easily used without thinking the rich possibilities. I myself am interested
in the relation between the grid diagram and cosmology.
2022年7月22日金曜日
2022年7月21日木曜日
アジア諸都市の都市再生デザインの動向,都市+デザインの動き ①アジア,都市+デザインvol.19,都市づくりパブリックデザインセンター,200306
アジア諸都市の都市再生デザインの動向,都市+デザインの動き ①アジア,都市+デザインvol.19,都市づくりパブリックデザインセンター,200306
アジア諸都市の都市再生デザインの動向
布野修司
アジアの諸都市においても「都市再生」は共通の課題になりつつある。とりわけ、植民都市としての歴史をどう考えるか、その都市核に残された遺産をどう位置づけるかは、今日の各都市の大きなテーマである。都市再生とは何か。何を再生するのか。植民都市における都市遺産の世界史的意義をプラス・マイナス含めて評価し、旧植民都市空間の保全、転用、再生をめぐる現代的問題について、いくつかの事例に即して、「都市再生デザイン」の行方を考えたい。
ニュータウン・イン・タウン:ジャカルタ クマヨラン・バルー
ジャカルタも東京(江戸)同様17世紀初頭にその起源をもつ。18世紀末に約12万人(江戸は約30万人)の人口を抱えたバタヴィアは「東洋の女王」と呼ばれ、オランダ東インド会社の植民都市の中で最も美しい都市とされた。その後の経緯は置くとして、独立後の人口増加はすさまじい。ジャボタペックと呼ばれるジャカルタ大都市圏の人口は2000万人を優に超える。
交通、ゴミ処理、上下水などの整備は依然として大きな課題で、住宅問題も解決されたわけではない。かつてのバタヴィア中心部コタ地区では、市庁舎のあったファタヒラ広場に歴史的建造物を改造した、洒落たカフェができるなどコタ再生に向けての萌芽はあるが、周辺の運河は依然として悪臭を放っている。そんな中で注目すべきプロジェクトが、ニュータウン・イン・タウン・プロジェクトである。
発想の種は都心に位置する広大なクマヨラン空港の跡地であった。何度か乗り降りしたことがあるが、まるで赤い屋根の海に突っ込むような空港であった。周辺はぎっしりとカンポン(都市集落)に取り囲まれていた。滑走路を幹線道路に使うのは当然として、いくつか注目すべき今日的アイディアがある。
ジャワ海に面する一画にバード・ウォッチングのできる広大な自然公園が確保されている。数十万人に及ぶバタウィと呼ばれるジャカルタ原住民の文化を維持していくことが謳われる。周辺の居住者にカンポン型の集合住宅を供給するのが前提とされている。居間や厨房、バス・トイレを共用にする、インドネシア型のコレクティブ・ハウスである。サーヴィス部門を支える層が居住する。そして、全体として自己充足すること、全ての生活が新都市内で完結することが中心理念となる。
経済危機とそれに続く政変が仮になくても、このプロジェクトが成功したかどうかはわからない。しかし、このプロジェクトには強力な理念がある。都市再生に必要なのもいくつかのシャープな理念ではないか。
イスラームの新首都建設:クアラ・ルンプル プトラジャヤ
現在世界一の高さを誇る建築物はクアラ・ルンプルのペトロナス・ツイン・タワーである。クアラ・ルンプルの人口は160万人、周辺を含めて300万人余りの都市だから、世界一の高さは分不相応に思えるが、危機以前の経済発展はそれだけすごかったということであろう。
スズ鉱山開発の拠点として、1850年代末に中国からの移民がクラン川とゴンバク川の合流点に集落をつくったのが町の起りで、クアラ・ルンプルとは「濁り川の交わる所」という意味だ。20年前には、20万人を超える不法占拠者が居住していたけれど、いまや高層ビルが数十本林立する。まるで別の都市のようである。
しかし、シンガポールと比べると、いささか中途半端に見えなくもない。そこで、マハティール首相が打ち上げたのが、3つの巨大プロジェクト、新国際空港、新首都プトラジャヤ、新情報技術都市サイバージャヤの建設である。ねらいは、経済的、政治的構造改革であり、クアラ・ルンプルの再編である。
中でも興味深いのが新首都として計画されたプトラジャヤである。計画人口は33万人という。これまで、ブラジリア、キャンベラ、チャンディガール、イスラマバードなど近代都市計画理念に基づいていくつかの新首都が計画されたが、プトラジャヤは大いに趣が違う。各建物に中東のモスクを思わせる玉葱形のドームがいかにもイスラーム風に多用されているのである。イスラーム建築に定型はないが、やはり玉葱形がふさわしいというのであろうか。
理念として、インテリジェント・シティ、そしてエコ・フレンドリーをうたう。すなわち、最先端の情報技術が搭載され、紙は用いない。400ヘクタールの人工湖がつくられ、田園都市の理念が採用される。都市再生というより、全くあらたな都市の建設というべきかもしれない。しかしそれにしても、玉葱形のドームと田園都市の結合、空調の効いたモスクと巨大な駐車場の取り合わせにはいかにも違和感がある。
アイデンティティとしての空間形式(街区と町屋):マラッカ オールドタウン
東西交渉史の上で名高いマラッカであるが、20年前はうらぶれた田舎町でしかなかった。フランシスコ・ザビエルが一時葬られたセント・ポール教会など荒れ放題であった。スタダイズ(市庁舎)周辺の歴史的建造物も傷んだままであった。しかし今、マラッカは随分と活気がある。ほとんどの建物はそのままだから、変わったという印象は町のかたちがむしろはっきりしたというのに近い。再生というのはまちの骨格と景観を際だたせることのように思われる。
マラッカはマレー半島における最初の都市である。マラッカ王国の交易拠点として発展し、ポルトガルが奪うのが1511年、その要塞をオランダが占領し(1641年)、英国が引き継ぐ(1795~1957年)。都市のかたちには植民地化の歴史が重層している。
マラッカが歴史的都市としてのアイデンティティに目覚め、ツーリズムの後押しもあって、世界文化遺産登録を目指すまでにいたったのはごく最近である。どの時代の都市を再生するのかが興味深い問題となる。英国時代に大きな改変はなく、オランダ時代の骨格が残されてきたからそれがベースとなる。しかし、ポルトガル時代も無視し得ないし、町を支えてきたのはババニョニャと呼ばれる土着化した中国人たちである。
町を歩くと、ヒンドゥ寺院、モスク、そして中国廟が並んでいる。様々な民族が居住していることがわかる。住宅の多くは連棟式の店舗併用住宅であるが、高床式のマレーハウスもある。こうした多民族社会において何をどう再生するかは大きな争点となる。様々な階層が様々な価値観を持ちながら共住するのが都市である。手掛かりとなるのは骨格となる空間の形式である。また、町のアイデンティティとなるのが景観である。マラッカの場合、その歴史的な町の骨格や景観をくっきりと浮かび上がらせることが選択されたのである。
もちろん多くの問題がある。バイパスがないために大量の車が通り抜ける問題がそうだ。また、海岸部を壁のように塞ぐ住宅開発はオールドタウンの再生の意義を半減させてしまっている。
甦るショップハウス・ラフレシア:シンガポール チャイナタウンの変貌
この四半世紀のシンガポールの変わりようは実に著しい。20年前、チャイナタウンには、種々の屋台が建ち並び、多くの人々が溢れていた。崩れ落ちそうなショップハウスの窓から数多くの顔が通りを見下ろす活気ある地区であった。しかし、その後再開発の波が襲い、チャイナタウンはすっかり変わった。すぐ北に隣接するボート・キーの周辺には超高層のオフィスビルが建ち並ぶ中心業務地区となった。シンガポールは、美しく現代的な都市へと変貌を遂げた。
そして近年、さらに街が変わりつつある。街のあちこちでショップハウスが改装されている。パステルカラーで塗り替えられた町並みは日本人には多少違和感があるが、トロピカルな雰囲気を醸し出して、通りが明るくなっている。急速に再開発を進めてきたシンガポールが、都市建築遺産の保存をテーマにするのは1980年代末である。市役所やラッフルズ・ホテルのようなモニュメンタルな建造物に限らない。チャイナタウンやリトル・インディア、そしてカンポン・グラム(アラブ・ストリート)のような地区全体もまた保存地区に指定された。平行して都市再開発機構(URA)が設立され、居住者の指導を続けてきた。
スタンフォード・ラッフルズは、民族毎に居住区を分けるセグリゲーションを計画方針とする。1822年にタウン・コミッティを組織し、チャイナタウンなどを計画した。基本にしたのがショップハウスの建設である。ヨーロッパのアーケード、中国の亭子脚をルーツとするとされる。ファイブ・フット・ウエイ(カキ・リマ、5本足)という。
60年代から80年代にかけての再開発圧力にも関わらずシンガポールには多くのショップハウスが残されている。その理由のひとつは敷地割りと合ったしっかりした建築の型であったからである。『植えつけられた都市・・英国植民都市の形成』を書いたR.ホームは、これをショップハウス・ラフレシアと呼ぶ。ラフレシアとはラッフルズが発見した世界最大の花の名前だ。ショップハウスを建築のラフレシアというセンスには我が意を得たりである。
カピス窓のある街並み:スペイン植民都市ヴィガン フィリピン
北ルソンにユニークな街がある。石造の大きな邸宅が両側に真直ぐ建ち並んでいる。一見ヨーロッパの町のようだ。しかし、よく見ると2階の窓が障子のようで何とも不思議な雰囲気だ。カピス窓と呼ばれるこの窓は、木格子枠に加工したカピス貝の殻をはめ込んだものだ。
このヴィガンという町は、セブ、パナイ、マニラについで建設されたフィリピンのスペイン植民都市である。アジアの植民都市でここまでかつての姿をとどめているのは極めて珍しい。その歴史的町並み再生の意義が評価され、1999年にユネスコの世界文化遺産に指定された。
ラテン・アメリカのスペイン植民都市は、一般にプラサを中心として格子状に街区をつくり、その回りに教会・行政施設・スペイン人指導階層の住宅などを建てる。その計画指針となったとされるフェリペⅡ世のインディアス法が公布された1573年は、ヴィガン建設開始とほぼ同時期である。
住宅はバハイ・ナ・バト呼ばれる。タガログ語で「石(バト)の家(バハイ)」という意味である。1階は石造、2階は木造という混構造が1般的だが、ヴィガンでは1、2階とも石造(木骨煉瓦造)である。地震と火災のために工夫された住宅形式である。17世紀中ごろに建設が始まるが、数多く建てられたのは19世紀末から20世紀初頭にかけてである。建設の主体は都市富裕層の中国系メスティソであった。
バハイ・ナ・バトの1階には物置や車庫が置かれ、湿気の少ない2階で主な生活が行われる。2階に、サラ(居間、ホール)、食堂、台所、寝室、アソテア(バルコニー)などが設けられ、1階と2階は屋外大階段で結ばれる。中心となるのはサラである。サラは道路に面し、フィエスタ(お祭り)の際には窓から、集った親戚・友人一同でパレードなどを眺める。ヨーロッパ文化と土着の文化が出会って生み出されたのがバハイ・ナ・バトでありヴィガンの町並みである。ここで再生されているのは東西共有の相互遺産である。
多彩な都市の貌:上海 新天地
上海は、おそろしく元気なまちだ。浦東新区に「東方明珠電視塔」など超高層が林立する様は壮観である。超高層の数では東京も脱帽であろう。一方、上海の貌というと西洋建築の建ち並ぶ外灘(バンド)である。その夜景は上海の往時を偲ばせる。上海は日本租界を含めて各国の租界がつくられた町だ。異国情緒が漂ったかつての雰囲気は未だに残っている。また、未だ1920年代から30年代に開発された里弄住宅(石窟門住宅)が建ち並ぶ地区もある。超高層が林立する谷間に低層の居住区がまだまだ点々と存在しているのである。里弄住宅もまた上海の貌である。
そして、上海のニュースポットとなっているのが「新天地」である。「新天地」は、人民公園の西側を南に下がった廬湾区の1画にある。心底仰天したのは、「一大会址」に「スターバックス」が入っていたことだ。グローバリゼーションの象徴といえるのではないか。超高層建築の多くもアメリカ人建築家の設計である。「一大会址」とは中国共産党第1次全国代表大会会址のことである。1921年7月、当時フランス租界であったこの場所、李漢俊(後に脱党)の住宅に毛沢東ら13名が集まった。19世紀半ばに住宅地として開発された地区で、これまで煉瓦造の建物が建ち並んでいた。煉瓦造の住宅に次々と手が加えられ、洒落たブティックやレストランに変貌しつつある。新旧の取り合わせのデザインがいかにも受けそうな雰囲気を醸し出していた。未だ工事中だが、既に観光名所になりつつあるらしく、バスガイドが観光客を引き連れて巡っている。まさに「新天地」として、若い世代を惹きつけているのである。
「新天地」だけではない。蒋介石夫人の宋美齢が使った書斎(宋慶齢故居)は、「カフェ・アールデコ・ガーデン」となっている。かつて英国人の屋敷であった瑞金賓館はアジア・レストランに変貌している。租界建築が次々にリニューアルされているのも上海のひとつの貌である。
解体された旧朝鮮総督府:ソウル
歴史的な建造物は大事に使え、という指針はどこでも正しいとは限らない。1994年6月、旧朝鮮総督府、中央国立博物館が光復(解放)50周年を迎える1995年8月15日に解体爆破することが決定された。旧朝鮮総督府は1916年に着工され、25年に竣工した。大変な傑作だったと思う。しかし、その建築はもうない。
壬辰倭乱(文禄の役)の際、秀吉によって焼かれ、1867年に復元された景福宮の敷地に日本は総督府を建てた。その地に決定されたのは「日帝断脈説」によるという。朝鮮人民が反抗するのを恐れ、気脈を断つために風水説にいう要所に杭を打ち込み、建物を建設したという説である。景福宮という、ソウルの、朝鮮のシンボルというべき敷地に植民地支配の拠点を建てる行為はいかにも戦略的であった。
この朝鮮総督府建設に対してひとりの日本人が声をあげたことは救いであった。柳宋悦が「今日光化門と勤政殿との間に実に厖大な西洋建築が総督府の手によって建ちつつある。然も位置はやや西側に片寄って、旧時の秩序を少しでも、省みる事がない。さしも大きな正殿も今日は門を通して見る事さえ出来ぬ。今日では既に勤政殿の全景を正面から見る如何なる位置もなくなったのである。何たる無謀の計画で之があろう。やがて之が正殿を毀し、光化門を棄てる前兆でないと誰が保証し得よう。」と書いているのである。
柳の「失われんとする一朝鮮建築のために」は、英訳され、朝鮮語訳される。反響を呼んで大きな効力をもつことになる。光化門は解体されず、移築されることになった。
70年後、今度は旧朝鮮総督府が槍玉に挙がった。そして、さすがに爆破は中止されたが多額の費用をかけて解体された。どんなに傑作であれ、壊されられなければならない建築はある。台湾総督府が、今も大統領府として使い続けられているのと実に対比的である。ソウルでは、かつての都市を取り戻すために解体こそが必要とされたのである。
2003年4月14日
2022年7月20日水曜日
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