東日本大震災復旧復興支援部会・連続シンポジウム報告
「復興の原理としての法、そして建築」
復旧復興支援部会部会長 布野修司
復旧復興支援部会の発災後1年間の活動については、1周年記念シンポジウムで報告[i]した通りであり、また、本誌9月号「研究年報」においても、その概要はまとめられているところである。2012年度については、北上復興ステーションと15チームの調査研究活動を軸として支援活動を展開しつつあるが、活動の全体と復興計画の方向性を見据えた議論を深めるために連続シンポジウムを行ってきている。本稿では、「復興の原理としての法、そして建築」と題して2012年3月23日に開催したシンポジウムについて報告したい。
『朝日新聞』(○月○日)でその概要が取り上げられるなど反響は大きく、『法学セミナー』(日本評論社)で2回(2012年7月号、8月号)にわたって、その議論の詳細がまとめられた。建築学会が憲法学者を招いてシンポジウムを開催するのは,初めてのことではないかと思う。以下に、経緯、概要と共に、その骨子を記録しておきたい。
シンポジウムの主旨、目的は次のようである。
「本シンポジウムは、震災からの復興という場面で、どのような過程に基づく、どのような内容の意思決定がなされねばならないか、また、どのような「建築」がなされねばならないか、を考察することを課題とし、建築家・建築学者と法学者との対話を通じて、この課題にアプローチすることを目的とするものである。」
すなわち、ストレートに言えば、復興の原理としての法、拠って立つべき法的根拠を明らかにしたい、ということである。シンポジウムは2部構成。第1部は「公共建築と民主主義」と題して、「大震災後、「建築」と「意思」の再構築が迫られている。個々の建物はもちろん、街全体、さらには、土地そのものが破壊された中で、私たちは、そこに何を「建築」すべきなのか。また、そのための「意思」はどのように造られなくてはならないのか。このような問題を考えるためには、あきれるほどに根本的で抽象的な問題群を考えなくてはならない。そこで、まずは、公共建築、そして、そのための意思決定、民主主義のありよう、その現状について、考えてみたい。」という主旨で、山本理顕が基調講演、パネリストのコメントを求めるスタイルをとった。第2部は、「地域社会圏・復興のための住宅・プライバシー」と題して、「大震災からの復興のためにやらなくてはならないことは、山ほどある。漁船、港、畑といった産業インフラ、道路や橋、上下水道などの都市インフラの復興はもちろん、町や村などの地方公共団体それ自体を0に近い状態から復興させなくてはいけない地域もある。そういう意味で、復興のために議論しなくてはならない「各論」は、あまりにも多い。ここでは、「復興のための住宅」というテーマで「各論」を展開してみたい。」という主旨で、住宅の問題に絞って議論を展開した。 パネリストは、山本理顕(建築家)、松山巖(小説家・評論家)、内藤廣(建築家)、駒村圭吾(慶應義塾大学・憲法学)、 石川健治(東京大学・憲法学)、モデレートしたのは、気鋭の木村草太(首都大学東京・憲法学)である。総合司会は、復旧復興支援部会の宇野求(建築家・東京理科大学)幹事が務めた。
議論は極めて興味深い展開となった。
山本理顕の基調講演は、仮設住宅地の空間構成のあり方を指摘する中で、日本の住宅政策の歴史に遡り、さらに「1家族1住宅」というわかりやすいフレーズで指摘できる日本の空間編成の原理を全体として問うものであった。その主張は『地域社会圏モデル』(2010年)『地域社会圏主義』(2012)にまとめられており、少なくとも私にはよく理解でき、大いに共鳴するところであるが、その基底にあるのは、建築家の役割であり責任についての使命感である。
憲法学を担う石川、駒村のコメントは実に刺激的であった。単に無知であっただけと言えばそうであるが、憲法学は構築の学として建築学として実に似ているのである。多くのタームを憲法学と建築学が共有しているというのは遅すぎる発見であった。山本理顕が持ち出したノモスnomos(法)とその語源であるネメインnemein(分配、配分、所有)をめぐっては、憲法学における議論の圧倒的な積み重ねの歴史があった。問題の所在が瞬時に整理されるのは驚きでもあり、眼から鱗の爽快感さえ得ることが出来た。
問題は、空間の編成の問題である。
誰が、その権利をもち、どういう秩序を編成するのか、が問題なのである。
焦点となったのは、プライバシーという概念である。プライバシーの概念は、私と共同体、国家の関係に関わって、空間の編成に大きく関わる。完全に議論は同じ土俵で展開しうる、これはとてつもなく大きな発見であった。
パネル・ディスカッションは、従って、真に白熱したものになった。
ひとつは、空間の秩序が憲法論の中で位置づいているかどうか、という問題である。近代法学のカテゴリーとしては、「人」と「物」しかないというのは決定的である。空間の論理を如何に社会化するか、建築学の基盤として空間の編成の問題を如何に法的に担保しうるのかは、実にわれわれの存立根拠に関わるのである。
もうひとつは、国家と空間編成の主体の問題である。復興計画を立案し、実行するのは国家なのか。復興計画の主体は基礎自治体であるとするが、国家や都道府県の憲法学的位置づけはどうなるのか。
さらに、既に基調講演をめぐって議論になったが、地域コミュニティとプライバシーと国家の関係はどうなるのか。
プライバシーの問題は、復興計画に限る問題ではない。社会のあらゆる局面にプライバシーをめぐる議論が関わっていることが明らかになったように思う。当然の確認であるが、それを確認することによって、繰り返し浮かび上がるのが建築家の職能の問題である。本シンポジウムで提起されたなかで建築界が受け止めるべきなのは、「文化専門職」をめぐる議論である。「文化専門職」とは何か。建築家は「文化専門職」たりうるのか。これについては千里とは言わないけれど、経庭があるように思った。そして、もうひとつ、わが国の憲法学が大きな枠組みの中で論点のみを緻密化せざるを得ない状況にあることは、よく理解できた。
詳細な議論は『法学セミナー』に委ねたい。
地べたを這うような復興支援活動に取り組みながらも、大きな問題提起をすべきではないか、できるのではないか、というのがシンポジウム全体から私が受けたアジテーションである。