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2021年3月28日日曜日

現代建築家批評14 家族のかたちと社会のかたち  山本理顕の建築論

 現代建築家批評14 『建築ジャーナル』20092月号

現代建築家批評14 メディアの中の建築家たち


家族のかたちと社会のかたち

山本理顕の建築論

 

山本理顕が執拗に問い続けてきたのは、家族のかたちと住居のかたちである。あるいは社会的な制度と空間の形式である。この建築家にとっての原初的な問いは、デビュー作である「山川山荘」以降一貫し、「GAZEBO」(1986)「ROTUNDA」(1987)「HAMLET」(1988)を経て「熊本県営保田窪団地」(1991)「岡山の住宅」(1992)、そして「東雲キャナルコートCODAN」(2003)まで住居に即してつきつめられ、学校、大学、役場など公共建築へその問いを広げてきた。

 山本理顕の建築家としての基本的構えは、空間の型と生活の型の対応を問うてきた建築計画学のそれと極めて近い。山本理顕が初期の作品をまとめる最初の雑誌特集を『山本理顕建築計画学』[i]と題したのは、彼自身「建築計画学」を意識していたからである。その後、「51C」をめぐって『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』(平凡社、2001)が編まれたりするのもベースが共有されていることを示している。

 山本理顕には、いわゆる建築論あるいは建築家論がない。近代建築の巨匠たちや歴史的な傑作、同世代の建築家についてのまとまった論考はない。また、一般的にいう表現論、技術論の展開もほとんどない。そうした意味では特異な建築家といえるかもしれない。論考の大半は、住居論である。しかし、その住居論は、建築論、都市論へとそのまま接続される同相の構造を持っている。

住居論の中核となる、『住居論』(住まいの図書館出版局、1993年)を含む『新編 住居論』(平凡社ライブラリ、2004年)と『建築の可能性、山本理顕的想像力』(王国社、2006年)の2冊を中心にその骨格、基本概念をみよう。

  

「領域」「閾」「ルーフ」

山本理顕の出発点は、前述のように、「世界集落調査」に基づく「住居集合論」である。そして、それ以前に、自ら「発端であった」[ii]という修士論文をもとにした「住居シミュレーション」[iii]・モデルがある。山本には、当初から住居という誰にとっても身近な空間の配列を執拗に問いつめる基本的視座がある。既に触れたが、その出自としての家族関係(育った家族、住居)と世の中で標準と考えられている(教えられる)家族のかたちと住居のかたちとのギャップが思考の原点にあるのだと思う。

原広司の場合、住居集合の配列を数学的モデルによって説明することに専ら関心があり、一方で、最低限、集落調査における発見を様々なレヴェルで表現あるいは設計手法に直結(還元)する構えがある[iv]。山本理顕は、徹底して原理的である。「領域論試論」[v]は、3つの集落(住居集合)の型を区別する。「ペトレス型」「クエバス型」「メディナ型」という3類型は、住居と住居集合における領域の「明快/不明快」という概念的分類に過ぎないが、実際に調査した集落を分類していることにおいて単なる図式的類型論ではない。3つの住居集合のかたちは実際あり得るのである。

この論文で「領域」という概念とともに「閾(しきい)」という概念が提出され、それをつきつめるのが「閾論Ⅰ」「閾論Ⅱ」である。山本理顕の住居論の中心はこの「閾」論である。

「閾」とは、日常語では「敷居」「入口」のことである。「領域」と「領域」の「境界」が「閾」である。

「領域」とは、何らかの特性を内包する空間であり、「境界」によって閉ざされている「場」である。特性とは「集団」の統一性のことであり、ひとつの「領域」にはただひとつの集団の統一性が実現されている。ひとつの「領域」に複数の集団の統一性を実現することはできない。

以上のように「領域」を規定すると、「ふたつ以上の「領域」が互いに交わって並立することはない」ことになる。しかし、集落(住居集合)がひとつの「領域」であり、個々の住居も「領域」である場合(ペトレス型集落)、「互いに干渉しないで、なお「領域」相互の接触を可能にするような」「空間」「装置」が必要になる。それが「閾」である。「閾」とは、具体的な空間としては「ホワイエ」「風除室」「気密室」のような空間である。

その論の多彩な拡がりを損ねるのであるが、単純化すれば、論旨は以上のようだ。山本は、「閉じられた領域内の秩序を維持し、かつ外部と交流するための空間装置」=「閾」を「仕掛け」と捉える。また、「閾論Ⅱ」は「<ルーフ>に関する考察」と題されるが、「機能を超えた、家族、親族、血縁集団といったスケールを捨象された」「単位」として、「閾によって秩序づけられた閉じた領域のすべてにあてはまる概念」として「ルーフ」という概念を提出し、より柔軟な概念モデルを練り上げている。閉じた領域のすべてにあてはまる「ルーフ」という概念の具体例として挙げられるのが、南インドの建築書「マーナサーラ」[vi]の村落都市のパターンである[vii]。住居、集落、都市をひとつの閉じた秩序として地域に住む人々の世界観=宇宙観の形象とみなす「マーナサーラ」の世界(「曼荼羅都市」の原理)と後に見る「イスラーム都市」の原理の対比は、山本理顕の領域論の鍵である。

 

 プロトタイプの脱構築

「閾」論を基にした山本理顕的住居論の2つのテーゼは以下である。

「家族という共同体は<共同体内共同体>である」。

「住居という空間装置はそのふたつの共同体、家族という共同体とその上位の共同体が出会う場面を制御するための空間装置である」。

 この実に単純なテーゼ、原理と「世界集落調査」が明らかにする多様な住居集合のあり方を前提とすると、日本の住居はあまりにも画一的である。このおそろしいほどの画一性とそれを支える生活像、家族像についてのステレオタイプ化された幻想を鋭く告発するのが「住宅擬態論」[viii]である。そして、家族と住居の擬態について考えさせる設計課題が「愛人の同居する家」であり、「一〇〇人の住宅」である。また、実際の試作品、モデルとして建設されたのが「岡山の住宅」(1992)である。

 しかし、山本理顕は、「山川山荘」において、既に、ステレオタイプ化した住居の形式に対する批判を試みていた。夏しか使わない別荘という特殊な条件ではあるが、ひとつの住居形式の提示である。吹きさらしの板の間は朝鮮半島の抹楼(マル)を想起させる。あるいは、安藤忠雄の「住吉の長屋」(1976年竣工、79年学会賞)を思わせる。70年代は、ポストモダン世代が相次いで住宅作品を発表した時代である。それは決して「狂い咲きの時代」[ix]ではなく、日本の社会が新たな居住形式をもとめる地殻変動のひとつの表現であった。銘記すべきは、住居という身近な空間形式を徹底して問うことが「建築家」が「建築家」となる出発点であったということである。

「山川山荘」とともに『新建築』(19788月号)に発表された「新藤邸」「窪田邸」「石井邸」は、一見バラバラである。渡辺豊和からは「精神分裂」と言われたという。また、伊東豊雄も「相当見かけのスタイルが違う」という[x]。しかし、山本の「閾論」に基づけばそう違和感はない。「形式としての住居」[xi]としてのいくつかの解答としてありうるからである。山本理顕における「スタイル」の問題、「建築表現」の問題は後にみよう。徹底して、住宅の画一化、ステレオタイプ化を批判する山本理顕が他の建築家―例えば伊東豊雄―と一線を画すのは、単に批判に終始するのではなく、あらたなプロトタイプを提示してみせるところにある。「<アーキタイプ>のない建築、それは私にとって「理想の建築」なのである」という伊東豊雄とも「未だみたことのない建築」をつくりたいという藤森とも違うのである。

「雑居ビルの上の住居」(「GAZEBO」「ROTUNDA」)は、ひとつのプロトタイプの提示である。幹線道路沿いの商業地域において、如何に住居が成立するか、その形式についてのひとつの解答である。その試みは「住吉の長屋」に匹敵するといっていい。全ての空間が経済原則によって支配されるなかで(社会的総空間の商品化)、「ただ最上階だけは渡さない」[xii]という覚悟がこのモデルにこめられている。

そして、戸建て住宅のモデルとして「岡山の住宅」が設計され、集合住宅モデルとして「保田窪団地」が設計された。山本理顕の住居へのアプローチが全くもって「正統的」であることは以上のように明らかである。

 

 細胞都市

 山本理顕の領域論がーまた「建築家」の多くがー前提とするのは、住居という空間単位の集合を拡大、重層していくことにおいて、集落、都市、世界が構成されるということである。土木の分野のように空間を支えるインフラストラクチャー(基幹設備)を重視する立場からすると、まったく異なった組み立てとなるであろうが、山本にとって、インフラストラクチャーも「閾」である。そして、「閾」論、「ルーフ」論は、スケールについては伸縮自在である。従って、その住居論は、建築論、都市論、・・・へ拡大可能である。また、そもそも山本理顕は都市への視座を持っている[xiii]

「緑園都市」の商業地区計画は都市への展開の第一歩であった。そして、山本理顕が提示するのは、「細胞都市」という概念[xiv]である。

 「細胞都市」という概念で具体的にモデルとされるのが「全体の計画が見えない」「アドリブ的」な「イスラーム都市」である[xv]。「イスラーム都市」は、「最終形に向かって徐々に向かって徐々に出来上がっていくような都市ではなく、その都度完成された都市」である。この「イスラーム都市」への関心も「世界集落調査」の第一回「地中海」に遡ることが出来る。山本は具体的な構成原理の詳細に触れることはないが、B.S.ハキームの『イスラーム都市-アラブの町づくりの原理』,佐藤次高監訳,第三書館[xvi] が出版されるのははるかに後のことだから、「イスラーム都市」への着目はいち早い慧眼であった[xvii]

 「細胞都市」とは、「一つの建築が都市の因子であり細胞であるような」都市である。「都市細胞」としての建築は、「一つの建築であると同時に、都市への増殖の契機をその内側に持っている建築」である。

 「全体の計画をまずつくって、その計画に従って個々の建築を制約していく方法ではなく、つまり都市という全体のための部分品であるような建築をつくるのではなく、・・・建築が次から次と連続してゆくときの、その連続のための因子を、自分の中に持っているような建築が考えられればいい」というのが、「緑園都市」の方法である。

 しかし、「緑園都市」の場合、「因子」というのは実に単純である。全ての建物に、隣接する建物に通り抜けできる道をつくる、というのが「連続のための因子」なのである。「通り抜けの道」を個々の建築に用意すればいい、ということではもちろんない。「イスラーム都市」の原理は、もう少し豊かな空間を生み出す仕掛けを持っている。

 

 職寝一体 SOHO

 「熊本県営保田窪団地」「緑園都市」の経験を経て、「東雲キャナルコートCODAN」の機会が与えられる。それを機会に「建外SOHO[xviii](北京)の設計というチャンスも得る。海外(異文化)における設計は、「閾論」の普遍性を試す絶好の機会ともなる。天津の「伴山人家」は潰れたが、「アムステルダムの集合住宅」(2008-)「パンギョ・ハウジング」(2008-)など楽しみである。

 しかし、もちろん、理論と現実は異なる。理念がそのまま実現するとは限らないのがむしろ一般的である。「緑園都市」の場合、「通り抜けの道」を因子としてセットするのが精一杯だったとも言えるのである。

 「東雲キャナルコートCODAN」は、都市基盤整備公団(現都市再生機構)のプロジェクトである。前身は日本住宅公団であり、日本の戦後住宅のプロトタイプを供給してきた日本最大の公的住宅供給機関である。その歴史的、社会的役割についてはここでは置くが、山本理顕など著名な建築家グループに白羽の矢が当たる必然性があったことは間違いない。半世紀の歴史を経て、その住居モデルが社会のニーズとずれてしまっていることは明らかだからである。

 山本理顕は、「洗面所や浴室のようなウォーターセクションと台所を窓側に寄せる」アイディアを試したかったという。そうすることによって、実際にはオフィスのように使ったり、仲間同士でシェアして大きなユニットに住んだり、多様な住まい方が可能になると考えた。民間の分譲マンションを依頼されて提案したけれど、実現しなかった。「分譲住宅として一般性にかける」、すなわち「分譲住宅は住まいというよりも一種の資産として購入するわけだから、誰にとっても過不足がないといったような一般性がないと売れない」とディベロッパーが考えたからである[xix]

 公団もディベロッパーであることに変わりはないが、賃貸住宅ということで社会的ニーズをより考慮できる余地はあった。また、公団としても、空家を出すわけにはいかない社会的プレッシャーがあった。

 7割をファミリータイプ、3割を提案型とした「東雲キャナルコートCODAN」は、平均倍率24倍という成功を収めた。成功の理由は、必ずしも「プラン」の型にあるわけではない。「職寝一体」「職住混在」がその主要な理由だと山本理顕は冷静に分析している[xx]

 山本理顕は「東雲」において何をなしえたのか。伊東豊雄、曽我部昌史との鼎談「東雲キャナルコートCODANを語る」[xxi]を読むと、悪戦苦闘の様がよくわかる。

 SOHOSmall OfficeHome Office)という住まい方に対しては、住宅市場において「デザイナーズ・マンション」が既に対応してきたところである。「ちょっとおしゃれな」デザインというレヴェルではなく「職寝一体」のモデルというのが山本理顕であるが、「多少はできた」「道半ばだなあ」というのが自己総括である。

 

「51C」批判!?

 日本建築学会の設計競技の審査で一緒だった宇野求に、「今日、理顕さんの「東雲」の見学会があるからいきませんか」と誘われて、工事中の現場を訪れた。行ってみると、鈴木成文先生率いる神戸芸術工科大学の学生たちをはじめごった返しの大盛況であった。簡単なビアパーティもあって議論は弾み、その勢いで、新大塚の鈴木成文邸に雪崩れ込むことになり、朝まで飲んだ。気がつけば横浜であった。

 その日の議論がきっかけになって、シンポジウムが企画され、その議論は、『「51C」 家族を容れるハコの戦後と現在』[xxii]という本になった。その全てをしきったのが田島喜美恵(大阪大学大学院)である。

 大きな焦点は、「51C」[xxiii]の評価であり、もうひとつの焦点は、上野千鶴子を急先鋒とする「建築家」=「空間帝国主義者」批判であった。

 その議論の全体は、『「51C」 家族を容れるハコの戦後と現在』に委ねたい。そこで「「51C」:その実像と虚像―戦後日本の住宅と「建築家」―」という文章を書いた。繰り返したいけれど、紙数がない。結論部を引けば以下のようだ。

「一九七九年に東南アジア諸国を歩き出して、強烈なインパクトを受けたのは、セルフヘルプ・ハウジング(自力建設)あるいはハウジング・バイ・ミューチュァル・エイド(相互扶助)と呼ばれる供給手法である。中でも、コア・ハウス・プロジェクトと呼ばれる住宅供給の方法に眼から鱗が落ちる思いがしたことを思い出す。

コア・ハウス・プロジェクトとは、ワンルームと水回り(トイレと洗面台)のみを供給し、後は居住者に委ねるという手法である。それぞれの経済的余裕に従って、後は勝手に増築する。間取りは自由である。財源が乏しく、やむを得ない創意工夫である。コア・ハウスの形態はプリミティブではあるけれど実に多様である。思ったのは、日本の戦後まもなくの「51C」であり、「最小限住宅」である。オールタナティブはいくらでもあり得たのではないか。

その後、インドネシアで集合住宅のモデルを考える機会があった[xxiv]。結果として、コモンリビング、コモンキッチンをもつインドネシア版コレクティブ・ハウスとなった。nLDKをただ積み重ねたり、並べたりするだけの日本の住宅がむしろ特殊であることは明らかである。

キーとなるのは、集合の論理である。あるいは共用空間である。

51C」以降、鈴木成文の仕事の主テーマは、一貫して、集合と共有空間、「いえ」と「まち」をつなぐ論理をめぐっている。それを充分展開し得たのか、という問いは、同時に自ら引き受けるべきであろう。山本理顕の保田窪団地や東雲の提案が「51C」を超え得ているかどうかは冷静に判断されていい。

上野の近代家族批判はラディカルである。しかし、近代家族という擬制も諸制度によって裏打ちされており強固である。そして、住居もまた極めて保守的である。しかし一方、nLDKという空間単位によって構成される社会が多様化する家族関係、流動化する社会編成に対応できないことははっきりしている。

では、どのような空間モデルが可能なのか。

あらゆる機会において、「建築家」には問われ続けているのである。」



[i] 『山本理顕的計画学7788』、『建築文化』、19888月号

[ii] 『新編 住居論』「はじめに」

[iii] 『都市住宅』、鹿島出版会、19704月号

[iv] 何故、原広司が「世界集落調査」へ向かったか、いくつか推測できるけれど、定かではない。風のように集落を駆け抜ける調査の学術的意味について、随分違和感も持ったし、議論もした。僕のアジア都市研究(都市組織Urban Tissues研究、都市型住宅研究)はその議論の延長上にある。

[v] SD別冊6

[vi] インド古来の『シルパ・シャーストラSilpasāstra(諸技芸の書)』のひとつである。Acharya,P.K. “Architecture of Manasara”, Oxford University Press, 1934.

[vii] これについては、拙著『曼荼羅都市』(京都大学学術出版会、2005年)を参照。

[viii] 『室内』連載。199235,7,9

[ix] 『住宅70年代・狂い咲き』、エクスナレッジムック、2006年。

[x] システムズ・ストラクチュアのディテール(彰国社、2001年)p10.

[xi] 『新建築』、19788月号。

[xii] 「破産都市」

[xiii]  2006徹底討論 私たちが住みたい都市〈編著〉(平凡社)

[xiv] 『細胞都市』、INAX1993。『細胞都市』英語版(システム環境研究所)、1999。『細胞都市』フランス語版(フランス建築家協会/フランス)、1999

[xv] 『細胞都市』、INAX1993(『建築の可能性、山本理顕的想像力』、王国社、2006所収)。

[xvi] Hakim B.S. 1986 “Arabic-Islamic Cities: Building and Planning Principles” London。邦訳は1990

[xvii] 「イスラーム都市」そのものの構成原理をめぐっては、遅ればせながら上梓した『ムガル都市―イスラーム都市の空間変容―』(布野修司+山根周、京都大学学術出版会、2008年)に委ねたい。

[xviii] 「建外SOHO」についても論じたいが紙数がない。1住戸の専有面積が230㎡というから単純には比較できない。持家政策へ転換後のプロジェクトであったが、昨年、100㎡未満という政策転換が行われた。今ならどういう提案が可能か、興味深いところである。

[xix] 「建築の社会性」、『JA51 riken yamamoto 2003』、新建築社、20039

[xx] 「「職寝一体」「職住混在」」、『季刊デザイン』No.5200310

[xxi] 『新建築』、20039

[xxii] 平凡社、鈴木成文・上野千鶴子・山本理顕他、2004108

[xxiii] 公営住宅の標準型を示す記号で1951年のC型という意味。他にAB型があり、「51C」は東京大学吉武研究室(鈴木成文他)によって設計された。

[xxiv] 拙著、『カンポンの世界』、パルコ出版、1991

2021年3月27日土曜日

現代建築家批評13 「制度」と闘う建築家 山本理顕の軌跡

 現代建築家批評13 『建築ジャーナル』20091月号

現代建築家批評13 メディアの中の建築家たち


「制度」と闘う建築家 

山本理顕の軌跡

布野修司

 

日本の第一線で活躍する建築家の中で、最も「正統的」なのが山本理顕である。「正統的」建築家とは、日本の戦後建築(近代建築)の初心を真摯に継承する建築家という意味である。平たく言えば、実に「真面目」な建築家が山本理顕である。以下に触れるが、「邑楽町役場庁舎」をめぐって、「建築家」の社会的存在証明(レゾンデートル)をかけて裁判を起こす、そんな「真面目」な建築家が山本理顕である。

安藤忠雄や藤森照信、伊東豊雄が「不真面目」ということではない-現に伊東豊雄は「邑楽町」裁判の原告側に立って意見陳述にたつ-が、建築家が日常的に遭遇する様々なトラブルに対してその都度「事を構える」のは多大なエネルギーを要するし、マイナスが大きい。スターアーキテクトでも、クライアントの理不尽、不条理に耐えるのが通常の選択である。「建築少年」の夢を生きるのは容易ではない。

山本理顕は常に敢然と闘う。「制度」=施設=インスティチューションInstitutionを如何に超えるか、ステレオタイプ化した空間を支えるシステムに対して、常に異を唱える。戦後建築の初心を最も真摯に受け止め継承する建築家とは、そういう意味であって、しかも「戦後建築」も既に異議申し立ての対象である。山本理顕はその最前線にいる。

地味かもしれない。「奇を衒う」ところがなく、「アートを気どる」こともない。真正面から「建築」に取り組む「理論家」である。「現実派」「社会派」といっていいが、「理想家」あるいは「ラショナリスト」と言った方がいいと思う。社会の中の「建築」、「建築」の中の「社会」のあり方についてのラディカルな問いが思考の中心、原点にある。日本の現実の中で「真面目」に「建築」と格闘する日本の建築家たちには支持絶大である。

山本理顕さんと最初に出会ったのは、当時六本木にあった東京大学生産技術研究所の原広司研究室においてである。三宅理一が案内する外国人建築家を案内して原研究室を「雛芥子」の仲間と訪れたのだが、原さんにアポイントはなかったと思う。突然の訪問に一人図面を書いていた理顕さんは、驚き戸惑いながら僕らに応対してくれた[i]。当時、「雛芥子」の仲間は修士課程に在学していたから1972年から74年の間だ。年表を辿ると、東京芸術大学の修士論文の成果である「住居シミュレーション」[ii]を書いたのが1970年で、1973年に「領域論試論」[iii]を書いているから、原研究室の「地中海周辺」をめぐる世界集落調査の第1回を終えてそのまとめの最中だったと思う。

僕が公共建築の設計計画を中心的な課題としてきた「建築計画学」を出自とするかもしれないが、理顕さんには学生時代からシンパシーを抱いてきた。そして、実際、かなり親しく接してきた。東洋大にいたころは、設計演習の非常勤をお願いして毎週のように会っていた。京大時代にも非常勤講師をお願いして2年ぐらいは来ていただいた。つい最近も滋賀県立大学に来ていただいて[iv]、学生たちに「建築をつくることは未来をつくること」と熱く語ってもらった。

 

 横浜

北京生まれで、横浜育ちである。「モダンリビングには程遠いでたらめな家に住んでいた。家族構成もユニークだった。父親がいない代わりに、祖母と叔母が同居して、さらにその叔母に軽い障害があったりしたものだから、普通の家族の生活に比べればかなりユニークだったと言っていいと思う。」[v]と書いている。この家族構成が家族と住居の関係を執拗に問う山本理顕の原点にあることは疑いがない。

父親は、通信関係の技師であったと聞いたような気がするが、その生い立ちについては聞いたことがない。ただ、横浜への拘りは強いと思う。「GAZEBO」は実家であり、事務所も20年ほど前に横浜に移している。

山本理顕は、還暦を超えて、6年務めた工学院大学(2002-2007)を辞し、20074月、招かれてY-GSA(横浜国立大学大学院・建築都市スクール[vi])に移った。横浜生まれで、現在横浜を拠点とする山本理顕にとって自然な選択に思える。今、「建築士法」改正によって、現在、日本の大学の建築系学科は翻弄されている。そうした中で、本来の「建築家」教育を徹底して行うことを宣言した「希望の星」がY-GSAである。

 

 梁山泊

山本理顕は、日本大学理工学部建築学科を卒業後、東京藝術大学の修士課程に入学、終了後(1971年)、原研究室の研究生になった。

何故、原広司研究室だったのか。偶然ではない縁があったのだと思う。あの頃は、あらゆるところに梁山泊[vii]があり、無数の出会いがあった。

いわゆる「全共闘運動」は、1967年の早稲田大学の学費値上げ反対闘争、そして翌年1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、東京大学の医学部インターン問題をめぐる学生への不当処分などを前史とし、日本大学の20億円の使途不明金問題をきっかけに全国に広がる[viii]。山本理顕が卒業したのが68年、東京芸大大学院入学が69年、「院浪」したのであろうか。若き建築史家であれば、この時代のことを徹底して取材して書き残すべきだ。僕には残念ながら今は時間がない。

日大闘争には前史がある。

http://www.geocities.jp/zenkyoutou2002/

を覗いてみてほしい。大変な時代であった。日大全共闘を率いた秋田 明大1947- [ix]は早生まれだから、山本理顕はおそらく同学年か一年先輩である。他に同学年には、都市梱包工房の入之内瑛(1946-[x]、前川國男建築設計事務所の代表取締役を務める橋本功(1945―)[xi]らがいた。

僕は、1970年代末から1980年代にかけて、頻繁に入之内瑛、橋本功の二人と会う機会があった。いささか苦い想い出がある。宮内嘉久[xii]1926-)さんに声をかけられ、『風声』『燎火』を引き継ぐ新たな建築メディア(『地平線』(仮称))を出版しようということで編集委員会[xiii]を重ねていたのである。経緯は省くが、決裂することになった。個人的な総括として、創刊したのが『群居』[xiv]である。

 

 上野の森

東京芸大大学院では山本学治研究室に属した。当時、その周辺には錚々たるメンバーが蝟集していた。井出建(1945-)、松山巌(1945-[xv]、元倉真琴(1946-)らで結成されたグループ「コンペイトウ」[xvi]が同世代である。武蔵野美術大学の遺留品研究所(真壁智治、大竹誠)、東京大学の「ランディウム」(石井和紘)などとともに僕らには有名であった。『建築年鑑』に『建築年鑑』(1968年、宮内嘉久編集事務所、美術出版)の後頁に集められた当時の若者たちを集めた「僕自身のための広告」にその群像を見ることができる。

「コンペイトウ」(井出、松山)と「雛芥子」は、前にも書いたように、『TAU』で出会っている(1973年)。そして、東京芸大の美術学部には、現在アート・ディレクターとして活躍する北川フラム[xvii]1946-)がいた。北川フラムの姉北川若菜は原広司夫人である。

元倉真琴は、東北芸術工科大学を経て20084月母校に戻った。大学院終了後、槇総合計画事務所を経て独立(スタジオ建築計画を設立)したのが1976年である。僕は大学院の頃、夏休みの短い時間ではあるが、一年先輩の初見学(東京理科大学)に連れられて、槇事務所でアルバイトをしていたことがある。そこで元倉真琴に出会った。不思議な縁である。

元倉真琴と山本理顕はヒルサイドテラスの最下階で事務所スペース(フィールドショップ)を共有することになる。槇事務所、「計画設計工房」(谷口吉生、高宮真介)を経て、飯田善彦(1950-)も合流する。

 

 原広司研究室

原広司(1936-)が東洋大学を経て、池辺陽に招かれて東大生産技術研究所に助教授として戻ったのが1969年、東大闘争の真最中であった。その『建築に何が可能か』(学芸書林、1967年)は、建築学生の必読書であり、「雛芥子」の仲間と本郷の製図室の読書会で読んだ。M.ポンティの『知覚の現象学』(みすず書房)も読んだが、同じくらい難解であった。しかし、「建築に何が可能か」という問いは、「全てが建築である」(H.ホライン)というスローガンとともに、建築少年たちをわくわくさせた。RAS[xviii]によるものも含めて「伊藤邸」(1966年)「慶松幼稚園」(1968年) など少なからぬ作品が知られており、その「有孔体」理論は建築学生には実に魅力的であった。

結果的に、山本理顕は原広司の一番弟子となる。一足先に原研究室に入った入之内瑛とともに東大の原研究室を立ち上げたのが山本理顕である[xix]。原研究室からは、宇野求隈研吾竹山聖小嶋一浩曲渕英邦今井公太郎太田浩史南泰裕槻橋修などが次々に育つことになる。

「雛芥子」主催のシンポジウムで原広司と「雛芥子」は直接知り合い、原広司の呼びかけで自主ゼミを始める。原広司の周辺は、北川フラム率いる「アートフロント」を交えてここもまた一つの梁山泊であった。渋谷の桜丘にアートフロントが経営する傘屋という居酒屋があって夜な夜な集った。少しして古谷誠章(早稲田大学)など少し若い世代も研究会に加わるようになった。「雛芥子」が大学院に進んだ頃、東大と東京工業大学は単位互換の制度をもっており、原広司研究室と篠原一男研究室は交流があった。篠原研の後藤真理子は「雛芥子」と同級である。当時、長谷川逸子は篠原研究室の研究生で、時々顔を合わせた。

僕が修士2年生の時、指導教官であった吉武泰水先生が定年を前にして(57歳で)突然筑波大に転勤する「事件!?」が起こった。原研究室に来ないかと誘われたが、僕の方に「本郷」を動けない事情があった。「雛芥子」の仲間の何人かは日本を離れ(海外留学)、また就職し、僕は僕で、原広司の長野県飯田高校の後輩でRAS同人でもあった宮内康が主催する「AURA設計工房」というもうひとつの梁山泊に出入りすることになった。

 

 世界集落調査

 原広司研究室の「世界集落調査」は、1970年代を通じて、「地中海」「中南米」「東欧・中東」「インド・ネパール」「西アフリカ」[xx]5回行われる。山本理顕は、「地中海」「中南米」「インド・ネパール」に参加し、「領域論試論」「閾論Ⅰ」「閾論Ⅱ」の3本の論文を書いている。いずれも『住居論』に収録しているが、その住居論の大きな基礎になっているのが、世界集落調査であることは自らしばしば触れるところである。

この世界集落調査が原広司をはじめ竹山聖など参加メンバーにとっても大きな糧になっていることも明らかである。『建築に何が可能か』以降、原広司の著作は決して多くはない。最も重要な建築論集は『空間<機能から様相へ>』(岩波書店 1987年)であるが、まとまった形で書かれたのは『集落への旅』(岩波新書1987年)であり、『集落の教え100』(彰国社/1998年)である。原広司は、1970年代、3つの住宅作品[xxi]以外にはほとんど設計を行っていない。2度のオイルショックを経験した1970年代はほんとに仕事が無かった。「住居に都市を埋蔵する」という方法意識は、若い建築家たちが心底共有するところだったのである。

原研究室の「世界集落調査」は、神代雄一郎、宮脇檀らが先鞭をつけた「デザイン・サーヴェイ」の延長、すなわち、B.ルドフスキーの「建築家なしの建築」の発見以降の流れに属すと見ることが出来るが、国境を軽々と超え、広大な世界を疾風のように駆け抜けることにおいて、日本の建築界に全く新たな視座をもたらすものとなった。

僕がアジアを歩き始めたのは、1978年に原広司がかつて在職した東洋大に職を得てからである[xxii]。前田尚美、大田邦夫、内田雄三といった諸先生と一緒に「東洋における居住問題に関する理論的実証的研究」という研究プロジェクトを始めることになったのが直接のきっかけであるが、原研究室の「世界集落調査」が大きな刺激になっていた。建築学界全体に大きな影響を及ぼしたことは、僕自身がオルガナイズした「住居集落研究の方法と課題:異文化の理解をめぐって」[xxiii]が示している。

 

「山川山荘」―「愛人の同居する家」―「雑居ビルの上の住居」

山本理顕は、1973年には、「山本理顕設計工場」を設立している。デビュー作と言っていい「山川山荘」が竣工するのは1977年である。建築家修業と世界集落調査は重なっていることになる。実際は、「山川山荘」に先立つ作品として「三平邸」(横浜市金沢区、1976年)がある。この作品について、山本理顕は、次のように書いている[xxiv]

「とにかく、はじめてのことばかりで、何も知らないままつくった建物である。大体、私は大学院を出たあと、すぐ原研究室に行って、そのまま事務所だあ、と勝手に一人で始めてしまったものだから実務経験がなんにもない。恐ろしいことにそれで設計してしまったのである。だから、このアトリエには断熱材が入っていない。知らなかったのである。・・・実務体験なんて、と思っていた。そんなものいくら積んだところで、所詮、行き着くところは知れている。建築の中心的課題とは、無関係なものじゃないかという気分だった。建築は具体的なものとしてある以前に、まず、思考の対象としてあった。ちょうど原研究室の第一回目の集落調査から帰ってきたばかりということもあって、平面図に表れるような空間の配列だと思っていたのである。どうも私の頭の中では徹底的に抽象化されていたらしいのである。」

「山川山荘」から「GAZEBO」(1986年)で日本建築学会賞(1988年)を受賞するまで、山本理顕は、「窪田邸」(大田区南千束、1978年)、「山本邸」(横浜市神奈川区、1978年)、「藤井邸」(横浜市旭区、1982年)など住宅を中心とした設計を細々と続けている[xxv]

この間、そう忙しくなかったのは証言できる。東洋大学で設計製図の非常勤をお願いして、毎週川越まで来てもらっていたのである。僕は専ら即日設計を担当していた。理顕さん以外にも、毛綱毅曠、元倉真琴、宇野求らにも半年交替で来てもらった。2週1課題で、次の週に徹底したジュリーを行う。最初の週は課題を出せば暇と言えば暇で、昼飯は近くの蕎麦屋で日本の建築についてしゃべった。実に楽しかった。そして、課題を考えるのが刺激的だった。

そのストックは数十あるが、傑作が「都市に寄生せよ」[xxvi]であり、「愛人が同居する家」である。「愛人が同居する家」については、山本理顕「住宅擬態論」[xxvii]の中で詳しく書いている。講演にやってきた六角鬼丈が「なんだ!この課題は?」と首を捻っていたことを思い出す。ある種の思考実験といっていいが、現実的諸条件のひとつだけ外してしまうと、著しく建築的想像力は刺激され解放される。「突然土地が50m隆起したとする」「渋谷の駅前に二坪程の土地が手に入ったとする」「パンテオンを地下に埋めて核シェルターとする」・・・次々に二人で課題を考えた。

そうした課題を学生に与えながら、「そろそろ設計しなきゃ」といってエスキスしていたのが「雑居ビルの上の住居」、すなわち「GAZEBO」「ROTUNDA」(1987)である。そして続いて「HAMLET」(1988)が竣工して、初期作品の集大成である『特集・山本理顕的計画学7788』(『建築文化』、19888月号)がまとめられ、その評価が定まることになる。

 

 闘う建築家

 日本建築学会賞を契機に公共建築の設計への道が開かれるのは、山本理顕の場合も同じである。次の飛躍の大きなきっかけとなるのが、「熊本県営保田窪第一団地」(1988-1991)である。一方、「名護市庁舎」(1978)「駒ヶ根市文化公園」(1984)「日仏文化会館」(1990)「川里村ふるさと館」(1990年)「加茂町文化ホール」(1992)「埼玉県立近代文学館」(1993)「熊谷市第2文化センター」(1994)と設計競技への応募も活発化している。

 「熊本県営保田窪第一団地」、「岡山の住宅」(1989年)以降、「緑園都市」(1992-94)「東雲キャナルコートCODAN」(2003)へ、住居論―都市論への展開は後にみよう。

「熊本県営保田窪第一団地」は、新聞やテレビを巻き込んで大きな反響を巻き起こした。「外部を通過して部屋相互が結びつけられている」プランニングに居住者はとまどった。居住者のみがアクセスできる中央広場(コモン)のあり方に建築家の横暴だという非難が寄せられた。「デザインのために生活が犠牲にされている」という紋切り型の批判が大勢であった。しかし、少なくとも建築界では建築家の本来なすべき試みとして受け止められた。以降、公共建築を設計する機会に恵まれるようになる。

岩出山中学校」(1996年)のコンペに勝ったのが次のステップになる(1998年毎日芸術賞)。そして、「埼玉県立大学」(1999年)によって、その地位を確固たるものとする(2001年日本芸術院賞)。「公立はこだて未来大学」(2000年)で、木村俊彦とともに2度目の日本建築学会賞作品賞を受ける(2002)。この時、僕は審査員のひとりであった。

中学校、大学という施設についても、山本理顕のアプローチは変わらない。すなわち、施設=制度(インスティチューション )と空間の関係を徹底して問う姿勢は一貫している。

海外での仕事はこれまで少ない。「建外Jian Wai SOHO」(2003)が最初で、生地北京というのも縁であろうか。「アムステルダムの集合住宅」(2008―)「パンギョ・ハウジング」(2009―)など国際的展開はこれからの楽しみである。

岩出山中学校」以降、コンペの勝率は相当高い[xxviii]。その鋭い提起が日本の社会の根を的確に突いていることを示している。しかし、その方向性に大きく立ちはだかったのが「邑楽町役場庁舎」(2005-)をめぐる問題である。また、「城下町ホール(仮称)」(2007-)をめぐる問題である。



[i] 『雑口罵乱』②所収(20089月)の「建築をつくることは未来をつくること」の討論で、山本・布野の出会いが語られている。

[ii] 『都市住宅』、19704月号

[iii] 『住居集合論Ⅰ』『SD』別冊、19733

[iv] 24回 「談話室」主催、滋賀県立大学、2007518日『雑口罵乱』②所収(20089月)

[v] 『新編・住居論』、平凡社、あとがき、2004

[vi] 山本理顕、北山恒、飯田善彦、西沢立衛の教授陣からなる。

[vii] 中国山東省の西部、_(えん)州の南東、梁山の麓にあった沼沢。もと鉅野沢(きよやたく)と称した。宋代、盗賊宋江らが砦を結んだという天険の要地。この故事が「水滸伝」に記されてから、一般に豪傑・野心家の集合する所をいう。

[viii]  古田重二良会頭を頂点とした権威主義的な体制への不満が爆発し、19685月23に日大初めてのデモが行われ、5月27には秋田明大を議長として日大全共闘が結成された。

[ix] 1965崇徳高等学校卒業後日本大学経済学部に入学。1966、大学2年の時、サークル「社会科学研究会(社研)」に所属。大学4年時の1968527日、20億円を越える大学側の経理不正問題の表面化をきっかけにして、それまでの学生弾圧体制に対して学生が立ち上がった日大闘争で全学共闘会議議長となり、全国一の動員を誇った日大闘争を指揮した。「ビラ配りもできない日大で学生運動を始めた男」「リーダーの名は、日大なのに"メイダイ"」。その名はカリスマ性を持って瞬く間に全国の同世代の学生たちに広がった。アジ(agitation)を得意とはしなかったが「大衆」、「自己主張」、「自己否定」、「自然発生」、「大学解体」などの言葉を好んで使い茫洋とした包容力で全国的に名を高めた()Wikipedia

[x] 茨城県生。1968年日本大学理工学部建築学科卒業。1969年東京大学原研究室に入る。1972年建築計画研究所都市梱包工房設立。元日本大学理工学部建築学科講師。昭和女子大学生活環境学科建築コース講師

[xi] 神奈川県生。1970  3月 日本大学理工学部建築学科卒業、19704月前川國男建築設計事務所入所。2000年代表取締役。

[xii] 

[xiii] 他に永田祐三、藤原千春、小柳津醇などがメンバーであった。

[xiv]  本連載01参照。198212月に準備号。19834月創刊。2000年までに50号を出す。石山修武、渡辺豊和、大野勝彦、布野修司の4人で出発し、高島直之、松村秀一が加わった。野辺公一が一貫して事務局を務めた。

[xv] 作家、評論家。1984年、評論『乱歩と東京』で日本推理作家協会賞受賞。建築論、都市論などで知られるがその後小説も書く。1993年、『うわさの遠近法』でサントリー学芸賞96年、小説『闇の中の石』で伊藤整文学賞1997年、『群集』で読売文学賞受賞。2000年、小説『日光』で三島由紀夫賞候補、乱歩と東京―1920都市の貌 PARCO出版、1984 のちちくま学芸文庫、双葉文庫/まぼろしのインテリア 作品社, 1985 「百年の棲家」と改題、ちくま学芸文庫 /世紀末の一年 一九〇〇年=大日本帝国 朝日新聞社, 1987 のち朝日選書 /都市という廃墟 二つの戦後と三島由紀夫 新潮社, 1988 のちちくま文庫 /ミステリー・ランドの人々(川村湊との共編) 1989 作品社 /国会議事堂白谷達也写真) 1980 朝日新聞出版/うわさの遠近法 青土社 1993 のち講談社学術文庫、ちくま学芸文庫 /新潮日本文学アルバム 江戸川乱歩(鈴木貞美と共著) 1993 新潮社 /偽書百選(垣芝折多名義) 1994 文藝春秋 のち文春文庫 /うその学校(池内紀との共著) 1994 筑摩書房/闇のなかの石 文芸春秋, 1995 /肌寒き島国 「近代日本の夢」を歩く 朝日新聞社, 1995/銀ヤンマ、匂いガラス 毎日新聞社, 1996/群衆―機械のなかの難民 読売新聞社、1996 朝日新聞社, 1999/路上の症候群 1978-2000 中央公論新社, 2001 (松山巖の仕事 1) /手の孤独、手の力 中央公論新社, 2001 (松山巖の仕事 2)明治の文学 石川啄木(編)筑摩書房 2002. /ラクちゃん 偕成社, 2002/くるーりくるくる 幻戯書房, 2003 /住み家殺人事件 建築論ノート みすず書房, 2004/建築はほほえむ 西田書店, 2004 /私たちが住みたい都市 徹底討論 身体|プライバシー|住宅|国家 工学院大学連続シンポジウム全記録(上野千鶴子との対談が収録、山本理顕編) 平凡社 2006 猫風船 みすず書房, 2007

[xvi] 井出建さんに依れば、「芸術祭」のパンフにその名を用いたのが最初だという。後に大学院に入学してきた桜井淳(桜井淳計画工房所長)、工藤卓(近畿大学九州工学部)が加わった。

[xvii]  新潟県高田市出身。株式会社アートフロントギャラリー代表。女子美術大学芸術学部芸術学科教授京都精華大学客員教授。新潟市美術館館長。父は良寛研究家の北川省一。「フラム」は本名であり、ノルウェー語で「前進」を意味する。

[xviii]  原広司、香山寿夫、宮内康、三井所清典ら。中村さん調べてください。

[xix] 東洋大時代の原研究室の面々にはアトリエ・ファイを支えることになる小川、また山谷明などがいる。

[xx] 『住居集合論』地中海地域の領域論的考察 (1973年刊) 中南米地域の領域論的考察 (1975年刊) 東欧・中東地域の形態論的考察 (1976年刊) インド・ネパール集落の構造論的考察 (1978年刊) 西アフリカ地域集落の構造論的考察 (1979年刊)。『住居集合論』Ⅰ、Ⅱ(2006年、鹿島出版会、復刻)

[xxi] 1972年 粟津潔邸/1974年 自邸/1979年 松欅堂

[xxii] 1979年の1月から2月にかけてインドネシア、タイに出かけた。そして、続いて、原研究室に在籍していた宇野求とフィリピンとマレーシアへ行ったのがアジア研究の出発点である。

[xxiii] 日本建築学会:『住居集落研究の方法と課題Ⅰ 異文化の理解をめぐって』(主査 布野修司,分担 編集 全体総括),協議会資料, 建築計画委員会,1988年。『住居集落研究の方法と課題Ⅱ 異文化研究のプロブレマティーク』(主査 布野修司分担 編集 全体総括),協議会記録,建築計画委員会, 1989

[xxiv] 「設計作業日誌7788―私的建築計画学として―」、「特集/山本理顕的建築計画学7788」『建築文化』、彰国社、19888月号

[xxv] 日本交通の専務に「山本理顕設計工場」の専務になってもらって、家賃など払っていたのだという。

[xxvi] 「ある日あなたは突然家族も家も失った。身寄りもなにもない。あなたは誰にも頼らずたったひとりで生きていくことを決意する。・・・都市に寄生して生きていく。・・・そのための装置をデザインせよ。」。この課題については、『住宅戦争』(「第4章もう一つの住まいへ」、彰国社、1989年)で紹介している。

[xxvii] 『室内』連載を『住居論』に採録したもの。「愛人が同居する家を設計せよ」『室内』、19929月号

[xxviii] 山本理顕のコンペ戦績:1990佳作入賞:日仏文化会館設計競技/1993最優秀賞受賞:岩出山町立統合中学校建設基本設計競技/1995優秀賞受賞:横浜港国際客船ターミナル国際建築設計競技最優秀賞受賞/1995埼玉県看護福祉大学(仮称)エスキースコンペ/1996最優秀賞受賞:広島市西消防署設計提案競技/1996優秀賞受賞:長岡文化創造フォーラム(仮称)コンセプトデザインコンペ/1997優秀賞受賞:砂丘博物館(仮称)設計業務技術提案競技/1997最優秀賞受賞:(仮称)函館公立大学整備事業設計構想提案/1999最優秀賞受賞:江東区東雲地区開発事業簡易公募型プロポーザル/2000最優秀賞受賞:(仮称)和歌山市立大学設計構想提案競技/2000最優秀賞受賞:Jian Wai SOHO マスタープランコンペ/2002最優秀賞受賞:(仮称)横須賀市美術館・横須賀型資質評価方式/2002建築設計候補者選考最優秀賞受賞:邑楽町役場庁舎等住民参加型設計提案競技/2004最優秀賞受賞:福生市新庁舎基本設計者選定プロポーザル/2005最優秀賞受賞:小田原城下町ホールエスキースコンペ/2006最優秀賞受賞:Pan-Gyo Housing International Project< Competition by Invitation (Unjung Block)/最優秀賞受賞:Namics研究施設設計提案競技