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2025年1月15日水曜日
犂と大工道具と露台ー道具学への準備体操,山口昌伴著『地球・道具・考』栞,住まいの図書館,1997
犂と大工道具と露台ー道具学への準備体操,山口昌伴著『地球・道具・考』栞,住まいの図書館,1997
犂と大工道具と露台・・・道具学への準備体操
布野修司
いたって無趣味である。
無趣味というのは大いにコンプレックスの種である。学生諸君と登り窯をつくって陶芸の真似事を始めたのもそのコンプレックスの裏返しに違いない。料理にはいつか手を染めたいと思うのであるが、一向に身につかない。フィールド・ワークにおいて、何が一番大事かというと、食うことである。しかし、その土地土地の食べ物の名前がなかなか頭に入らない。飲む方は別だけれど、飲めば似たようなものだからたいしたことはない。困ったものだ。
例えば、幼い頃から切手だとかマッチ箱だとかコースターだとか集めてみようとするのだけど、一度として長続きがしたことがない。蝶の採集にインドネシアの島々に出かけるなんて話を聞くと心底うらやましく思う。コレクターにはつくづく向いてない。所有するという欲が希薄なせいであろうか。マニアックな体質はどうも僕にはないらしい。困ったものだと思う。きらきら輝くような才能に恵まれないものでも、こつこつとひとつのことを積み重ねていれば、何事かの仕事ができるかもしれないのである。
そういうわけで絶対続くはずはないと思うのであるが、最近、ちょっとしたきっかけで大工道具を集めだした。といっても、全部あわせても二〇いかない。まさに始めたばかりで、どうなるかわからない。第一、置いておくスペースがない。研究室の本棚に置いているのであるがかさばってしようがない。買っても持って帰るのに骨が折れる。第二に、竹中大工道具館のような立派な展示館もあれば、立派な大工道具研究があるから、集めてどうこうしようということではない。
きっかけは、応地利明先生(京都大学東南アジア研究センター教授)である。僕の尊敬する先生のひとりだ。「先生」というと必ず「先生というのはやめましょうや」と、どんな場所でも、会議の席でも飲み会の席でも、必ずおっしゃる、実に気さくな先生である。本当のことをいうと、先生は照れているのではなくて「先生」を軽蔑しているのである。「先生」というのは、書斎に閉じこもって蔵書の山に埋もれ、文献だけを頼りに専門の狭い枠内でのみ論文を書く人のことをいう。応地先生は全く違う。稀代のフィールド派である。真の意味での先生だから、つい先生と言ってしまう。
フィールドからものを考え、組み立てる、その方法を完全に身体化している、京都大学東南アジア研究センターには、そんな先生が少なくないのであるが、応地先生はそうした一人である。つき合い出して一〇年足らずだけれど、フィールドでは随分教わった。
例えば、車に乗るとする。歩き疲れたわれわれは睡魔に襲われウトウトするのが常である。しかし、応地先生はスケッチ・ノートを離さない。緑の小さな手帳である。赤青黒の三色ボールペンでメモをとり続ける。眼に映ったものを時刻とともに記録し続けるのである。小さな字がびっしり並ぶが、驚くべき事に実に綺麗だ。そのまま誰でも読める資料である。早速真似を始めたのであるが、とても駄目だ。車が揺れるから字が震えて書けない。あとから見ると、自分でも読めないのである。相当の技術が必要で訓練がいる。
応地先生はもともと人文地理の出身で特に農業に強い。原生林がどういうものか、焼畑の痕をどう見分けるか、パンの木がどれで、コーヒーの木がどれで、といちいち教わった。図鑑や教科書だけではなかなか頭に入らないけれど現場で見るのが一番いい。僕らはつい建物に眼が行くのであるが、植栽、樹種が区別できるから、それを記録するだけで地域の生態を理解できる。車で移動している間、僕らが昼寝している間にフィールド・ノートが完成してしまう。
もちろん、応地先生の場合、フィールドに終始しているばかりではない。すぐれた論文が何本もある。つい最近出た『絵地図の世界像』(岩波新書)を読んでみて欲しい。知的な興奮に誘われることは間違いない。中世の日本図に描かれた架空の陸地「羅刹(らせつ)国」と「雁道(かりみち)とは何か。一見荒唐無稽な古地図に描かれた不思議な名前を読み説いていく、その筋道はまるで推理小説を読むようだ。今昔物語の分析など見事なものである。一〇年近くもつき合いながら初めて知る話ばかりだ。フィールドの知は実に奥深い。
話は横道にそれたが、そうした応地先生と一緒にフィールド調査をしていると、手伝わされることがある。犂の測定である。犂を見つけると応地先生は必ず写真をとって長さを測るのである。一体何のために、変な趣味だと最初は訝しく思ったのであるが、話を聞けばなるほどである。大袈裟に言えばアジア各地の稲作文化の系譜を解く鍵が犂にあるのである。
アジアにおける家畜・家禽と言えばまず水牛である。稲作のための役畜として欠かせないもので、極めて重要で神聖視される。東南アジアの各地で、水牛の角や頭部の形態がは様々な形でシンボルとして用いられていることがその特別の位置を示していよう。アジアスイギュウは紀元前3000~2500年ころインド北部高原で家畜化されたといわれる。沼沢水牛と河川水牛の二つにグループに分かれ、東南アジアで飼われるのは沼沢水牛である。半水生の動物である。高温多湿の環境を好み、熱帯作業の水田作業に適している。
水田耕作のためには一般には犂を引かせる。犂には様々な形態があるがインド犂と中国犂の二系列あって、インド犂の系列に連なるマレー犂のタイプは二頭で、中国犂の系列は一頭で引かせる。マレー犂は犂底が短く、犂身と犂底の角度は鋭角である。中国犂は犂底が長く、屈曲して前方に伸びる犂くびきが特徴的である。犂を用いず、水牛を水田に追い込んで蹄で田踏みさせる蹄耕を行う地域がマレー半島、スマトラ、ボルネオ、スラウェシ、チモール、ルソン島の低湿地である。
農耕具が文化(カルチャー)、耕作の根幹に関わっているのは当たり前のことである。
だから、建築の場合、大工道具なのだ、というとそうでもない。いずれアジアの大工道具についてまとめてみたい、という大それた気もないわけではないが、きっかけはカウベルである。ある時、インドネシアのロンボク島だったと思うけれど、応地先生が農夫と交渉してカウベルを入手するところを目撃することがあった。アフリカへ行っても、インドへ行っても、必ずそうするのだという。安く手に入る土産(代わり)だとおっしゃる。よし、まねしようと考えて、大工道具を思いついたのである。土産といっても誰も喜ばないけれど、少なくとも旅(調査)の記念品にはなる。いちいち交渉して手に入れるから思い出も深い。
次の日、全く偶然なのだけれど、あぜ道を鉋一丁持って歩いてくる年老いた農夫に出会った。椰子の幹でつくった手作りの鉋で長さ六〇センチもある。鉄の刃を差しただけの全く単純な鉋と呼べない鉋である。ただ使い込んで椰子の木に艶がでだしている。
譲ってくれというと嫌だという。当然である。仕事に行く途中なのである。相場の見当がつかないので、まあ日本円で五〇〇円ぐらいのつもりで一万ルピアを出した。みるみる顔が紅潮するのがわかった。同時に、本気かというような疑いの眼が向けられるのを感じた。金で大事な仕事の道具を買うのか、という眼では結果的にはなかった。こちらが本気だということがわかると、すぐさま鉋を譲ってくれたのである。農民にとって優に一ヶ月分の収入である。
お金を手にすると、彼は奇声をあげ、畦道を飛ぶように走り去った。あっけにとられたのはこちらの方である。宝くじに当たったか、神様に出会ったかのように思えたに違いない。
以後、市場を乱さないように周到に値切るように心がけている。道具に込められた価値観が様々にわかって興味深い。しかし、カウベルならまだいいけれど、使っている道具を買うのはどうもすっきりしない。仕事の邪魔をしてしまうからである。だから、道具や建材屋に行って買うのであるが、これがあんまり面白くない。北京もバリも似たり寄ったりなのである。道具はやはり使い込んで使い手の命が吹き込まれたものがいい。
墨壷、物差し、風水の羅盤、大工道具にも面白いものが沢山ある。彫刻の施された凝った骨董品もあるけれど、今のところ手元に集まったのは以上のように実際使われていたものを強奪したものだ。ネパール、インド、北京、台湾、韓国、インドネシア・・・数が増えないのは、行くところが限られているからである。
ところで、道具といえば、山口昌伴先生である。応地先生のように僕の尊敬する先生のひとりである。同じようにフィールド派である。とにかく、世界中飛び回るそのフットワークにはいつも驚かされる。週末には、外国のホテルで原稿を書く、というスタイルは真似ができない。実にうらやましいと思う。フィールドを御一緒したことはないけれど、話を聞いたことは何度もある。いつもお酒を飲みながらである。色々なことを教えていただくばかりである。フィールド派にはお酒が好きな人が多い。フィールドで得た情報、見たこと聞いたことを肴に議論をする、実に楽しいことである。
フィールド派といっても、ただ、歩いて、見て、聞けばいい、というものではない。フィールドを通じて鍛えられた眼と、その眼を通じて蓄えられた知が大事である。同じ風景を見ても、ぼんくらな眼には何も映らないのである。山口昌伴先生がすごいのは、なにげないものに宿る命(意味)を一瞬にして読みとる眼をもつことである。また、それだからこそ事物の、とりわけ道具をめぐって、あれほどの量の文章が書けてなおつきることがないのである。
僕の場合、空間や建築の構造的な成り立ちに眼がいって、その実の生活を見ていないことが多い。道具はその点、身体の延長であることにおいて生の意味そのものに直接関わる。山口昌伴先生にいつも敬服するのは、その眼によって、空間を志向しながら空虚しか見ていない自分に気づかされるからである。
ところで、大工道具は以上のように中途半端に始めたばかりであるけれど、東南アジアをもう二〇年近く歩いていて気になるのが露台である。露台といってもいろいろあるけれど、家の内外で使われるベンチや寝台、四本足の台のことだ。あるいは東屋であり、倉である。倉や東屋は、道具とは言えないかもしれないけれど、東南アジアの住文化を考える鍵と思えるのである。要するに、床のレヴェルの使い方の問題に興味があるのである。あるいは、様々な建築形式の意味にまだ興味の中心があるのである。
研究室の若い仲間と翻訳したロクサーナ・ウオータソンの『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(布野修司監修 アジア都市建築研究会訳 学芸出版社)が実に刺激的である。東南アジアのみならず、中国南部から台湾、場合によると日本を含めて、西はマダガスカルから東はイースター島まで拡がる広大なオーストロネシア世界に様々な共通性があるということをウオータソンは説いている。そのひとつの鍵が高床式住居である。
R・ウォータソンは、次のように書く。
「東南アジアの地域社会においてそれぞれ発達してきた建築様式を一瞥してみると、即座にある類似性が鮮明に浮かび上がってくる。その類似性は、距離的には離れていても、共通の起源をもつことを強く示唆している。……まずは、この共有された物理的特徴のいくつかを見ることから始めよう。これらの特徴のうち、最も明らかなのは高床式の基礎を用いていることである。これは、ごく一般的に、東南アジアの大陸部と島嶼部、またミクロネシア、メラネシアにも見られる建築形式の特色である。しかし、さらに東へ視点を移していくと、ポリネシアにおいてこの特徴は消えてしまう。そこでは、建物は、石の基壇上に造られる事が多い。」
しかし、高床式とは一体何なのか。露台に眼をやる時、別の見方が生まれてくるのではないか。
東南アジアの伝統的建築が高床式であることはよく知られた事実である。しかし、例外がある。今日のジャワとマドゥラ島がそうである。また、バリ島がそうである。また、西ロンボクがそうである。他の例外はあんまり知られていないかもしれない。西イリアンとティモールの高地、そして小さな島であるブル島が、高床式住居の伝統を欠いている。東南アジア大陸部の大部分の地域もまた高床式である。例えば、タイ北部の山間地方においては、地床式住居はごくまれであり、高地の寒気に対応するためか、もしくは、ヤオの例のように中国の影響を受けている場合のみである。
東南アジアといっても、大陸部と島嶼部では環境条件は違うし、自然条件や生態学的条件をみると地域ごとに実に多様である。高床式住居というのは、そうした多様な各地域でそれぞれ独自に造られるようになったのであろうか。それとも、どこかに起源があり、それが次第に伝播していったものであろうか。高床式住居はどのようにして生み出されたのか、その起源は何か、あるいは、どこか、興味深いテーマである。
面白いことに、中部ジャワ、東部ジャワの九世紀から一四世紀に建てられた寺院の壁に描かれるのは全て高床式住居である。ジャワの歴史において、かつては高床式建物が一般的であった事を示している。地床式建物の採用は、一般的にインドの影響と考えられる。ヒンドゥー教圏であり続けるバリでは、穀倉を除いて地床式なのである。
ところがよく見てみると、バリにしてもロンボクにしても、地床式というけれど基壇がある。ベッドや露台がある。ロンボクのササック族は、内部空間を約一メートルの高さの土壇で高くしている。そして、ブルガと呼ばれる東屋を持っている。マドゥラ島にしてもそうである。ランガールと呼ばれる礼拝棟は高床である。また、レンチャクという露台を使っている。
どうも高床だとか地床だとか二分法で捉えてもはじまらないのではないか、と最近思い出している。人は地面や床からの高さをどう使っているのか。高床であれ、地床であれ、床面と床から一尺から一尺五寸の高さ、さらに机・テーブルの高さ、どんな地域でも少なくとも三つのレヴェルを使い分けているのではないか。それを解く鍵が露台のような家具である。
こう思いついて、住空間の人類学を道具の側から組み立ててみたいと、ようやく山口昌伴先生の道具学へ本格的に参入する準備体操を終えつつあるかななどと思いはじめているのである。
2025年1月14日火曜日
若林広幸 建築家が市長をやればいい,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ10,日刊建設通信新聞社,19980619
若林広幸 建築家が市長をやればいい,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ10,日刊建設通信新聞社,19980619
布野修司対談シリーズ⑩
新たな建築家像を目指して
若林広幸
常に既成概念の解体を
お茶碗から列車まで
建築家を市長に
若林広幸の名は東京にいる頃からもちろん知っていた。ライフイン京都が鮮烈だった。でも、その印象は、正直にいって、高松伸よりうまい器用な建築家が京都にいるなあ、という程度の印象であった。祇園の建築など今でも若林、高松は混同されるから、その印象は間違っていないかもしれない。
京都に来て、何度か会った。全て酒席であった。何事かを話したのであるが、あんまり覚えていない。建築の話というより、たわいもない話が多かったからであろう。いつも何人かの建築家が同席していたせいもある。ただ、いつも、この人は建築が好きなんだなあ、という印象が残った。
今回話を聞いてみたいと思ったのはその印象のせいである。真面目に(?)建築の話をするのは初めてであった。
当然だけれど、「京都」が主題になった。京都について考え続けている数少ない建築家であることが、よくわかった。「若林京都市長」も悪くはない、と本気で思う。それに、軽々と建築を超えるのがいい。それこそ「口紅から機関車まで」なんでもござれ、である。建築家にとって、ラピートは実にうらやましい仕事だ。建築は理屈じゃない、というのも好きだ。しかし、京都じゃ苦労するなあ、とも思う。
話は弾んだ。いつもそうなのであるが、テープを止めてからさらに盛り上がったのであった。
◆工業デザインからの出発・・・とにかく、ものがつくりたかった
布野:「たち吉」にいて独立した。若林には工業デザイナーというイメージがある。
若林:僕は工業デザイン科に行ったんだけど、とにかくものがつくりたかった。同じですよデザインは。なんでもやりたいと思ってる。
布野:ものをつくる雰囲気は僕らの時代にはまだあった。特に、京都には。
若林:工業製造関係へ行く方がエリートだった。マジですよ。普通高校はすべり止めだもん。
布野:今、「職人大学」のお手伝いをしてるんだけど、日本はとんでもない国になってきた。ものをつくる人がいない。産業全体が空洞化してる。
若林:京都にぐらい物作りが残らないとまずいよ。
布野:僕は今宇治に住んでてよく見かけるんだけど、京阪宇治の駅舎の仕事が最近の仕事の代表ですか。
若林:必ずしも思うとおりにできなかったんだけど。
布野:切妻の屋根の連続と丸い開口部。誰のデザインだろうと思ってたら若林だった。前の方のビルは似てるけど違うよね。
若林:そう。一緒に出来たらよかったけど・・・
布野:京都もそうだけど、宇治も景観の問題でいろいろうるさいよね。色々苦労があったんじゃないですか。
若林:そうでもないですよ。風致課もスッと通ったし、賞ももらうし、喜んでもらってます。建設費はいつも苦労しますけどね。
布野:バブルが弾けてみんな渋くなった。建築は社会資本なんだから景気に左右されるんじゃ困るんだけどね。
若林:兵庫県の千草町で福祉センターのコンペとったんですよ。民間ですけどね。平成の大馬鹿門(空充秋作)で有名な町ね。
布野:ああ、仏教大学で大問題になって結局町が引き取ったやつね。
若林:しかし、最近あまりいい仕事がないね。僕には公共の仕事あんまり来ないしね。
布野:代表作は、ライフ・イン京都かな。やはり、南海電車ラピートだな。
若林:京都の漬け物屋。オムロンのリゾート・リゼートセンター。あまり注目されなかったけどなかなかいいんですよ。まあこれからでしょう。
◆東京は情報病・・京都の方がじっくり考えられる
布野:もともと京都出身?。
若林:京都生まれの京都育ち。伏見稲荷のすぐそば。下町の長屋みたいなところ。
布野:町中と違う?。
若林:基本的に京都は好きなんだけど、特に町中は人間関係とかごちゃごちゃして、しんどい面がある。
布野:僕も狭いと思うことが多い。デザインのソースとして京都はどう。
若林:スケールがヒューマンでしょう、京都は。東京は疲れる。京都にいる方がじっくり考えられる。東京だといつも追っかけられる気がする。情報病にかかってしまう。
布野:情報も薄っぺらな情報なんだけどね。
若林:じっくり醸成する時間的余裕は京都にある。
布野:東京は官、関西は民。東京は頭でっかち、関西は実務ということもよく言われる。
◆とにかくスケッチ 理屈より感性
若林:あんまり理詰めの方じゃない。感性の方を信頼しますよ。ものをつくるということは非常に曖昧なことですよね。理屈で説明しろといわれると頭がプッツンする。
布野:もともと工業デザインですよね、出身は。
若林:教育がそうだったのかな。とにかく、理屈を捏ねるんではなく、形でしめす。既成概念を崩すこと。崩した上で形にしていくことをたたき込まれた。とにかく手を動かしてスケッチ、スケッチですよ。
布野:今事務所ではCADを使う。
若林:ドラフターは一台もありません。便利だけど困るねえ。若い人はコンピューターの中で考えるから、駄目なんだ。数字で考えちゃう。基本はスケッチなんです。コンピューターはただの道具なんだから。寸法よりバランスが大事なんだ。模型も重要です。決まりさえすれば,CADが早い。
◆格子の美学・・・曖昧な「和」
布野:ラピートのようなデザインと建築の設計は同じなんですか。
若林:一個のお茶碗も一緒。布野:建築家になるといろいろ理屈をつけないといけなくなる。
若林:そうそう。だんだん駄目になる。でも少し理屈言おうか。ポストモダンはもう古いというけど、もともと近代建築の欠けているものを指摘したのがポストモダンだ。地域性、場所性、歴史性が大事だ、ということでしょう。京都はそうした意味で風土がはっきりしている場所だ。京都は、だから可能性がある。
布野:そこで育まれた感性に期待できる、というわけだ。
若林:そう。
布野:しかし、京都というと「和」とか「日本的なるもの」とかいうブラックホールのような議論がある。
若林:そんな難しい話じゃなくて、もっと曖昧だということ。近代の二分法じゃなくて。割り切れない多元的な部分を京都を含んでいる。白か黒かじゃなくてグレーな部分が「和」なんです。安藤忠雄さんのいう日本的なもの、というのはわかりやすい「和」だ。
布野:西欧人にはね。
若林:格子も夜と昼によって違う。音もあれば光もある。安藤さんは一旦壁をつくって自然を引き込むでしょう。内と外の交感というのはない。京都の格子は曖昧なんです。
布野:格子も京格子というけれど色々あって、京都では区別する。すごくセンシティブだ。奈良はもう少しおおらかだけど。
若林:格子の細さによって見え方が違う。間隔も大事だ。パンチングメタルでも同じことでしょう。穴の大きさと間隔によってすごく違う。
布野:お稲荷さんで遊んだことなんか関係ありますか。
若林:あれ上にのぼると行場があって、おどろおどろしいとこがある。千本鳥居を抜けていくとだんだん曖昧になっていく。
布野:わびすきの京都じゃないんだ。
若林:雅も華美もあるじゃないですか。京都には曖昧に両方があるんです。町中に。それが面白い。
布野:京都妖怪論もある。
若林:仁和寺だって極彩色だったし、京都というと枯れたお寺だけではない。激しい京都もあるんだ。
◆杓子定規の景観行政・・・混沌か混乱か
布野:景観行政とのドンパチも、そうした京都観が背景にあるわけだ。
若林:今、自宅を建ててるんだけど風致地区なんです。打ち放しコンクリートは駄目だという。何故だ、というと自然素材として認めてないからだという。
布野:どうしようもなく堅い。紋切り型だ。
若林:隣の石のようなものを吹き付けたマンションはなんだというと、あれにしてくれという。あんなもんは自然じゃないではないか。樹脂だ。
布野:吹き付け剤が自然ですか。困ったもんだ。表面のことしか言わないんでしょう。
若林:打ち放しは駄目だ、というのは絶対理解できない。裁判しようかと思ってるんです。少なくとも大討論会やるべきですよ。
布野:大賛成。機会をみてやろう。国立公園内の規定がきつい。曲線が駄目で、勾配屋根じゃないといけない。
若林:じゅらく壁にしろという、というけど、どこからも見えない、ということがある。
◆京都の虚と実・・・まちづくりにメリハリを
布野:どうすればいい。
若林:俺がチェックする。
布野:そう。誰かに任す手がある。場合によると真っ赤でもいいことあるんだから。
若林:極彩色もあったしね。布野:タウン・アーキテクト制を主張するんだけどみんなあんまり乗ってこない。なんでだろう
若林:結局ね、京都をどうしようという明確なヴィジョンがないんですよ。京都市に。
布野:集団無責任体制。でも、京都のグランド・ヴィジョンの審査したけど、五〇〇以上でてきた。そんななかになんかあると思う。
若林:問題はやるかやらないかでしょう。色々あっていい、混沌が京都の特性だ。京都は混沌では混乱し出している。僕も色々案出してるんだ。
布野:秩序と混沌のバランスが問題なんだ。
若林:風致は秩序を回復しようとしてるけど、あまりに杓子定規でマニュアル秩序だ。ぼくは京都のまちづくりについて誰もあんまり考えてないと思う。京都の建築家というのは色々考えてるようでそうでもないんですよ。
布野:確かに、小さな動きは沢山あるけれどまとまりがないように見える。
若林:外の人だって考えてませんよ。
布野:でも、京都への思いは強い。京都のグランドヴィジョンに応募してきたのは三分の一が外人だ。でも東京は少なかった。
若林:そうでしょう。東京の人だって無責任なところがあるんだ。
布野:外人の京都の捉え方はステレオタイプが多い。実際に住んでる外国人は京都は汚い町だと思ってる。
若林:京都市の方針にメリハリがないのが問題なんだ。木造にするなら徹底すればいい。凍結しろというならやればいい。超高層も欲しければどうぞ。全てが中途半端だ。
布野:地区によってやればいい。僕も思うところはあるけど、なかなか思い切ったことができない構造がある。
若林:アイデアは色々ある。小学校の統廃合にしても、あそこを木造にして職人を育てる。それで町家を維持する。布野:問題はだれがやるかだ。若林が市長やりますか。
若林:いいかもね。建築家が市長やったらいい。過去に素敵な町を残した町はみなアーティストが市長やってますよ。アートがわかる感性がないと駄目ですよ。今度のポン・デ・ザールの話でもセンスが問題だ。
布野:建築家を市長にしろって、キャンペーンしようか。
◆瓦アレルギーはナンセンス
布野:ところで、瓦をよく使いますよね。
若林:好きなんですよ。燻しは、ダイキャストみたいだし。打ち放しコンクリートにあってきれいでしょう。
布野:でも建築家は嫌がりますね。収まりが難しいんだ。
若林:なんかタブーがあるんでしょう、建築界には。
布野:勾配屋根になるからね。帝冠様式を思い出す。近代建築家には耐えられない。
若林:でも土からつくる自然素材でしょう、大昔からある。
布野:山田脩二なんか、瓦使えないのは建築じゃない、という。チーム・ズーの瓦の使い方もありますね。
若林:ああいう使い方もしたいけど、京都だと難しい。伝統的な使い方が基本になる。
布野:風土性、地域性ということで、瓦というのはイージーな感じもある。
若林:下手なんだよ、みんな。近代主義にとらわれている。周りを考えれば、自然に、瓦と勾配屋根がでてくる。京都でも場所による。
布野:祇園の建物は全然違う。高松や岸和郎とは違う。若林は京都に対してはやさしいわけだ。
◆欲求不満が原動力
若林:結局場所ですね。場所で感じたものを表現したい。東京や大阪だと何をやってもいい感じもあるけどね。
布野:東京の作品はデザインを買われたという面があるよね。
若林:ポストモダンということでね。でも、地方都市の方が興味ありますね。都会じゃない田舎ね。面白いものがみつかりそうだ。
布野:何が手掛かりになる。若林:敷地にたったときの直感だよね。千草町の場合は、石積みのすごい伝統がある。また、たたらがあったんですね。要素で使える。
布野:意外にオーソドックスなんだ。
若林:ただ、そのまんまじゃ面白くない。近代的なメタリックなものを石積みにバーンとぶつけるとか。
布野:若林流がでてくる。
若林:都市は都市で要素をみつけるんですけどね。
布野:外国だとどうだろう。
若林:上海でやったけど、同じですね。
布野:ラピートだと製作のプロセスが違うでしょう。
若林:欲求不満かなあ。いつもなんでああいうデザインなんだろう、と思うことがある。ラピートの話の時にも、どうして電車というのはビジネスライクなんだろうと思ってた。話がきた時にはすぐ手が動くんです。
◆シヴィク・デザインへ
若林:最近は土木に興味があるんです。
布野:それはいい。建築家はもっと土木分野と共同すべきだと僕は思ってるんです。建築以上に大きなスケールだし、影響力が大きい。シヴィック・デザインの領域は、建築家は得意な筈だ。
若林:この間も、学園都市について相談を受けたんですけど、何も考えずに宅地造成するんですね。山を崩して谷を埋める。自然を残してやるアイデアはいくらもある。評判はよかったんだけどもう決まっているという。
布野:そういうことが実に多い。計画の当初から参加できれば随分違うはずなんだ。土木は土を動かしていくらだから、なかなかそういかない。
若林:いや無駄ですよ。
布野:土木も変わりつつありますから可能性はあります。ダムとか道路とか、これからは無闇に造れないわけですし。ただ、建築家も実績が欲しいよね。橋梁のデザインは同じですよ。建築と。
若林:お茶碗からラピートまでなんでもやりますよ。
2025年1月13日月曜日
新居照和・ヴァサンティ 多種多様なものの生きる原理,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ9,新居照和・ヴァサンティ,日刊建設通信新聞社,19980407
新居照和・ヴァサンティ 多種多様なものの生きる原理,新たな建築家像を目指して 布野修司対談シリーズ9,新居照和・ヴァサンティ,日刊建設通信新聞社,19980407
布野修司対談シリーズ
新たな建築家像を目指して
新居照和・ヴァサンティ
多種多様なものの生きる原理
水は綺麗にして自然に帰せ
いずれ、インドで仕事をしたい。
新居照和さんとは建築フォーラム(AF)の西成の仕事で知り合った。新居さんがインドで絵と建築を学んだことを知ってアーメダバードへ行く気になった。対談にも出てくるサグラさんにお会いしていろいろ便宜を図っていただいた。実に素晴らしい人たちである。是非、じっくり話を聞きたいと徳島へ出向いて、一日作品をみせてもらった。
アーメダバードは、知られるようにインドの近代建築のメッカである。コルビュジェ、カーンが活躍した。二人と共同したのがドーシである。新居照和・ヴァサンティ夫妻はこのインド第一の建築家ドーシに学んだ。サグラ、ドーシ、そして末吉栄三が新居夫妻の師である。
ほとんど欧米の建築界に眼を向けるなかでインドを修行の場とした新居さんに共感を覚える。そして、地域で全てに全力で取り組む姿勢に打たれる。僕らに欲しいのはグローバルな視野をもった地域での足についた仕事である。作品は今のところ数少ないが、うまいと思う。いずれ活躍の場が広がることは間違いない。スケールの大きい仕事を期待したい。
ユーラシア放浪からインドへ
布野: 関西大学で建築を勉強されてインドへ行かれた訳ですが、何故インドなんですか。
新居: 沖縄出身の末吉栄三先生の研究室にいて随分議論したのがきっかけです。建築学科に行ったのは父親が型枠大工をしていたこともあるんですけど。先生の影響が大きい。一九七八年に研究室でヨーロッパからユーラシアに旅行して、イランとかインドにも寄ったんです。
布野: 末吉先生は七九年に沖縄に帰られて新居さんもインドへ行く前に沖縄へ行かれますね。研究室が移ったかたちですか。
新居: ビザがなかなか下りなかったんです。末吉研究室は住宅都市計画研究室ということで、沖縄の問題とか、大阪のいろいろな不良住宅地区の問題にも取り組んでいたんです。
布野: 七九年初めに僕も東南アジアを歩き出したんですが、アジアへ行くのはまだ珍しかったですね。日本の建築家としてインドへ行くのはかなり変わっている。神谷武夫さんもインドに魅せられて最近本本を出された。ドーシさんには最初の時に合われたですね。
新居: ええ、建築旅行ですからアーメダバードへ行って偶然会ったんです。僕は四ケ月くらい歩いたんです。ギーディオンもマンフォードもよく頭に入った。ただ、もうヨーロッパの時代じゃないという気がしてた。僕らはアジアのこと知らない。ドーシさんに会って、アーメダバードは環境もいいし、経済的にも楽だし、インドがいいんじゃないか、ということになった。
布野: インドはのんびりしてる。
新居: ヨーロッパからインドへ回ってほっとしたんですね。それに建築が遙かに迫力があるでしょう、アジアの方が。ヨーロッパの近代建築に比べれば。
布野: 僕も七六年にヨーロッパをひとりで近代建築行脚したんですが、例えば、ウイーンでワグナーやロースを見ても、エルラッハのバロック建築の方が迫力ある。そして、インドの建築はそれよりすごい。
アーメダバード:スクール・オブ・アーキテクチャー:ドーシ研究所
新居: スクール・オブ・アーキテクチャーへ一年間通ったんです。でも修士を終えてるからと自由にさしてもらったんです。できるだけ建築を見たい、体験したいというと、ドーシさんは「いいよ、いいよ」という。とにかく見て回ったんです。遺跡なんかゴロゴロしてるんですから。
布野: すごく密度の高い設計教育をしてますね。去年行ってびっくりしました。
新居: デザイン・サーヴェイというか、フィールド・スタディをきっちりやりますね。僕も一年して、ドーシさんの研究所にいってハウジングやセツルメントのスタディをやったんです。スケッチを起こすとか、随分可愛がってもらったんです。
布野: インドで暮らすのは大変だったんじゃないですか。
新居: 家から送ってもらったお金を全部スリに盗まれた。インドに対するシンパシーがあったからすごくショックでした。徳島へ帰ってこいと何度も言われたんですが、でも絶対インドには何かあるということで粘ったんです。ドーシさんの事務所に入れてもらったとき、丁度彼女も入ってきたんです。
布野: ヴァサンティさんはどうしてアーメダバードへ来たんですか。
ヴァサンティ: ボンベイのJJスクール・オブ・アートを出たんですけど、ドーシさんの出身校でもあるんです。ドーシさんはそこからイギリスへ留学してコルビュジェに会うんですね。アーメダバードへ学生の時一度きて、古い町でしょう、この町に住みたいと思ったんです。講師になる話があって、ドーシさんの作品を見てたら、ドーシさんに会って人を捜してるという。信じられませんでした。小さい頃から、絵も好きで、理科や数学が好きだったから、建築が一番いいと思った。
布野: 運命的な出会いですね。当時スタッフは何人ぐらいですか。
ヴァサンティ: 二〇人くらい。五人ぐらいがプロジェクト・チーフかな。いろいろな人が出入りしてた。
布野: どんな仕事をやられたんですか。
新居: カーンのやったインド経営大学(IIT)がありますね。バンガロールのIITをやったんですね。
画家修行 サグラ師の教え
布野: ドーシさんの所は一年半ですか。その後肝炎やられて帰国されますね。
新居: 夜、英語学校に行ったり無理してたんですね。でも、インドが呼んでいるという気がしてまた戻るんです。サグラさんという画家がいて、絵を教えてもらうんです。
布野: お会いしました。お世話になりました。インドで有名な画家ですね。
ヴァサンティ: 帰ってきたのが八二年で、私はスクール・オブ・プランニング(大学院)にいくんです。
布野: すごく沢山絵を描かれてますね。
新居: スケッチ旅行に連れて行ってもらってから面白くなった。一生懸命やるもんだからサグラさんも本気で手ほどきしてくれた。キャンパスで二人で一日中絵を描いてたんです。ドーシさんも、お前ら何してるんだ、と呆れてた。よく言い合いしたりしてたから。二次元の世界に自分の感じたことを出せるのが面白くて仕方がなかった。
布野: 才能あったんですね。うらやましい。
ヴァサンティ:二年後には展覧会したんですよ。写真展もしました。
布野: 二年間絵に没頭して、経済的にはどうしてたんですか。
新居: それが問題。サグラさんが、セザンヌも売れないときは親に無心してた、というんだ。それで仕送りしてもらってたんです。迷惑かけました。身元照会に警察が来たりして、スクール・オブ・ファインアート(大学院)に入りました。結局四年間絵の勉強したことになります。
布野: 日本の建築教育ではとても学べないですね。帰国は八五年ですか。
東京ー沖縄ー徳島
新居: 同じ時期に東大からインド哲学を勉強しに来ていた先生がいて心配してくれましてね。東京のコンサルタントを紹介してくれたんです。日本で戦おう、とは決めてたんです。やるなら、ビジネスの中心東京がいいと思ったんです。
ヴァサンティ: 日本へ行く半年前に結婚したんです。
布野:大変だったんじゃないんですか。日本へ行くのは一大決断ですね。インドの人たちは、イギリス、欧米を向いてますよね。
ヴァサンティ: 日本へ行きたかった。二川さんの「日本の民家」とか見てたし。日本はすごくアイデンティティをもってると思ってた。
新居: 彼女はバイトで、二人で東京暮らしです。多摩ニュータウン。バブル期で忙しかったですね。いつも最終電車でした。突然、インドから来て、コピーのやり方もわからなくて。本屋へ行く時間もない。そういう頃、末吉先生から、お金払えるというんで沖縄へ行ったんです。
布野: ヴァサンティは東京で日本語覚えられたんですね。うまいですね。
新居: 電車なかでいつも勉強している。妻ながら感心しました。
布野: 沖縄では何をやられたんですか。
新居: BCS賞採った石嶺中学校かな。三年居ました。知った人ばかりでした。
布野: ようやく原点へ戻られたわけですね。
地域に根ざして
布野: さて、徳島へ帰られて独立されて、最初は長野の仕事ですね。
ヴァサンティ:敷地がいろいろ変わって大変でした。
新居: 自給自足できますから、ここでは。多少の貯えもあったし。三年間食うや食わずでやってました。三年かけて一軒ですよ。家具のデザインとか他にもいろいろやったんですけどこれからですね。
布野: それから今日見せて頂いた三軒の住宅と他にもあるわけですね。いよいよこれからですね。
新居: まあぼちぼちですね。いろいろ計画案はあるんです。
布野: 二人の関係は、チーフとアシスタントという関係ですか。
ヴァサンティ: 私はモデル・メーカーと子育てかな。今のところ。
布野: 国際交流ということでいろいろ委員に引っぱり出されたりするんでしょう。地元の新聞に原稿書いたり忙しい。
ヴァサンティ: 毎月のように委員会がありますが、思ったことを言ってるんです。
新居: 帰ってから、インド音楽の紹介といった活動に随分関わったんです。プレ・イベントを含めて五ヶ月ぐらい仕事しなかったぐらい。インドの魅力にとりつかれたわけですし、みんなにも知って欲しいんです。ただエスニックということで受け取って欲しくない。異文化を理解するのは大事なんです。
布野: 地域にとって二人の存在は貴重ですね。
合併浄化槽の思想
布野: いま一生懸命取り組んでおられることに合併浄化槽問題がありますね。インドや沖縄での経験もベースになってるんでしょう。
新居: 沖縄は水問題は深刻なんです。柳川へ行く機会があって、石井式合併浄化槽に出会ったんです。その考え方に感心したんです。
布野: 石井勲先生ですね。今日見せていただいたんですが、BODが一PPM以下ですか、かなりの高性能のようですね。あまりにきれいになるんでびっくりしました。鯉の泳ぐ池の水や散水、トイレなどに使って全く問題ない。
新居: 考え方、その原理に感心するんです。自然界というのは多様だということですね。ひとことで言うと。
布野: 具体的に言うと・・・プラスチックの容器が二万個入っているんですよね。
新居: ランダムにね。複雑な形をした容器の底を刳り抜いたやつを入れるといろいろな空間ができる。バクテリアには好気性のものと嫌気性のものとがあるんですが、好気性のものも多様なんです。多様な空間ができると溶存酸素量のヴァリエーションも多様にできる。多様なバクテリアが共存すればいろいろなものを食べる。食物連鎖も起こる。
布野: 合併浄化槽は多種多様なバクテリアを生息させる空間構造をしている。
ヴァサンティ:バクテリアは選ぶんです、自分の場所は。そして休んだり、食べたりする。人間と一緒で働くだけでは駄目。
新居: 汚物を貯めてメタンガスにするといった試みもありますよね。でもこの方法は自分たちの使ったものはきれいにして自然に帰すというところにあるんです。地下水の涵養にもなる。循環ですね。これから人間が生きていく上で地球環境というのは無視できないテーマだと思いますね。合併浄化槽を考えるだけで、そうしたテーマを考えることができるんです。大地の中に自分たちは生きているという感覚はインドがそうなんです。サグラさんも自分の家はない。大地の上に生きているという感じでした。
蛍が帰る:吉野川第十堰問題
新居: 寒川町というところがあるんです。合併浄化槽設置に熱心なんです。十軒のうちに三軒設置すると蛍が帰ってくるんです。一PPM以下とはいきませんが、五PPMぐらいはきちっと維持管理すればできるんです。
布野: その延長ですね。吉野川の第十堰問題に随分関わってらっしゃるのは。今日見せて頂いて、なんで可動堰が必要なのか、よくわからない。
新居: 第十堰の問題に関心を持つようになったのは地域のさまざまなつながりからですが、水と地域環境は大事だと思っていれば誰でもおかしいと思いますよ。ただ、いろいろ議論はあるんです。代替案もいくつか出されています。建築家としても、第十堰のあるあのすばらしい景観を守る提案をすべきだと思います。
布野: 長良川河口堰や諫早湾の問題と関係ありますね。僕は出雲の出身で中海干拓の問題は気にしてるんですけど、止められない事情が地方自治体にある。公共事業は全面的に見直すべきだと思います。
新居: 公共建築の発注の問題も実は値は同じなんですね。
布野: 建設業界の問題もある。
新居: 矛盾がはっきりしてきても、見直したり中止にしたりできない。
布野: でも自分たちが生きる地域の問題だ。
新居: そうです。建築家として仕事をして行くのは当然ですが、その前に地域で生きて行くわけですから環境問題に関心を抱くのは当然なんです。ましてや醜い構築物ができる。
布野: 建築以上に大きなスケールだし、影響力が大きい。カウンター・プランはどうですか。
新居: 土木のスケールは苦手なんですけどね。河畔林とか水害防備林をつくるとか、段差を少なくしたら、とか議論を開始してるんです。
グローバルに考え、ローカルに行動せよ
布野: 建築家として今後何を目指しますか。
新居: 徳島だけでやろうという気はないんです。よく環境問題で言われているように、シンク・グローバリー、アクト・ローカリー。やっぱりそうかな、と。
布野: 仕事があれば・・。
新居: どこへでも行きますよ。地域を読みとりながら。どうせそんなに仕事ないだろうから、じっくりやりますよ。
布野: 夢としては・・。
新居・ヴァサンティ: インドで仕事したいというのはありますよ。
2025年1月12日日曜日
布野修司著作リスト 1981-2024
著書
単著
◎[01] 布野修司:戦後建築論ノート,相模書房,1981年6月15日(日本図書館協会選定図書)
◎[02] 布野修司:スラムとウサギ小屋,青土社,1985年12月8日
◎[03] 布野修司:住宅戦争,彰国社,1989年12月10日
◎[04] 布野修司:カンポンの世界,パルコ出版,1991年7月25日
◎[05] 布野修司:戦後建築の終焉,れんが書房新社,1995年8月30日
◎[06] 布野修司:住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,1997年10月25日
◎[07] 布野修司:
廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅰ,彰国社,1998年5月10日(日本図書館協会選定図書)
◎[08] 布野修司:都市と劇場・・・都市計画という幻想,布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,1998年6月10日(日本図書館協会選定図書)
◎[09] 布野修司:国家・様式・テクノロジー・・・建築の昭和,布野修司建築論集Ⅲ,彰国社,1998年7月10日(日本図書館協会選定図書)
◎[10]
布野修司:裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説,建築資料研究社,2000年3月10日
◎[11] 布野修司:曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容,京都大学学術出版会,2006年2月25日
◎[12] 布野修司:建築少年たちの夢,彰国社,2011年6月10日
◎[13] 布野修司:景観の作法ー殺風景の日本ー,京都大学学術出版会,2015年1月15日([16])
◎[14] 布野修司:大元都市ー中国都城の理念と空間構造ー,京都大学学術出版会,2015年2月27日
[15] 布野修司:進撃の建築家たちー新たな建築家像をめざして,彰国社,2019年8月20日
◎[16] 布野修司:景観的作法,胡恵琴訳, 中国林業出版社,2019年9月20日
[17] 布野修司:スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転生―コスモスとしてのカンポン―, 京都大学学術出版会,2021年2月28日
編著
◎[01] 布野修司編:建築調書1960ー75,建築文化,彰国社,1977年:雑誌特集
◎[02] 布野修司編:建築 そのプロブレマティーク,建築文化,彰国社,1980年:雑誌特集
[03]
布野修司編:建築戦後35年史,新建築,新建築社,1980年:雑誌臨時増刊
◎[04]
同時代建築研究会編:悲喜劇・1930年代の建築と文化, 現代企画室, 1981年
[05] 布野修司編:日本の住居1985,戦後40年の軌跡とこれからの視座,建築文化,彰国社,198512:雑誌特集
◎[06]
布野修司,藤森照信,松山巌,柏木博編:建築作家の時代,リブロポート, 1985年
◎[07]
布野修司編:建築計画教科書,建築計画教科書研究会(布野修司・安藤正雄・在塚礼子)編,彰国社,
1989年
◎[08]
布野修司編:廃虚からポストモダンまでの40余年,建築文化,彰国社,1988年
◎[09]
布野修司編:見知らぬ町の見知らぬ住まい,彰国社, 1990年(全国学校図書館協議会選定図書,日本図書館協会選定図書)
◎[10]宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993年
◎[11] 布野修司編:建築.まちなみ景観の創造,建築・まちなみ研究会編(座長布野修司),技報堂出版,1994年1月(韓国語訳 出版 技文堂,ソウル,1998年2月)
[12] 布野修司編:建都1200年の京都,布野修司+アジア都市建築研究会編,建築文化,彰国社,1994年
◎[13] 布野修司編:日本の住宅 戦後50年, 彰国社,1995年3月
◎[14] 前川國男文集編集委員会編:建築の前夜ー前川國男文集,而立書房,1996年10月
◎[15] Herausgegeben von Jaqueline Berndt, Shuji Funo, Hideo Isono, Hiroshi Ymane,Tokuichi Yoshimura(edr.),“Bauen mit
Eigensinn; Japanische Architecture Individualism and
Idiosyncrasy”, Petruschat Verlag, Berlin,1996:Shuji Funo:Japanische Architektur 1945-1989: Auf den Spuren von Kenzo Tange
◎[16] 布野修司編:日本当代百名建築師作品選,布野修司+京都大学亜州都市建築研究会,中国建築工業出版社,北京,1997年(中国国家出版局優秀科技図書賞受賞 1998年)
◎ [17] 布野修司監修:待てしばしはないー東畑謙三の光跡,日刊建設通信新聞社,1999年5月
◎[18] 都市史図集編纂委員会編(曽根幸一,布野修司他),都市史図集,彰国社,1999年9月
◎[19] 『怨恨のユートピア』刊行委員会編:怨恨のユートピア・・・宮内康の居る場所,れんが書房新社,2000年6月30日
[20]
布野修司(編集代表)+ヴィジュアル版建築入門編集委員会(編集担当 神田順):ヴィジュアル版建築入門3 建築の構造,彰国社,2002年7月
[21]
布野修司(編集代表)+ヴィジュアル版建築入門編集委員会(編集担当 小嶋一浩):ヴィジュアル版建築入門5 建築の言語,彰国社,2002年9月
[22]
布野修司(編集代表)+ヴィジュアル版建築入門編集委員会(編集担当 西村幸夫):ヴィジュアル版建築入門10 建築と都市,彰国社,2003年4月
◎[23] 布野修司編:アジア都市建築史, アジア都市建築研究会,昭和堂,2003年8月
[24]
布野修司(編集代表)+ヴィジュアル版建築入門編集委員会(編集担当 神田順):ヴィジュアル版建築入門9 建築と工学,彰国社,2003年11月
◎[25] 布野修司編:近代世界システムと植民都市,京都大学学術出版会,2005年2月
◎[26] 布野修司編:世界住居誌,昭和堂,2005年12月20日
◎[27]
布野修司編:亜州城市建築史,胡恵琴・沈謡訳,中国建築工業出版社,2009年12月
◎[28]
布野修司編:世界住居,胡恵琴訳,中国建築工業出版社,2010年12月
◎[29] traverse編:建築学のすすめ,昭和堂,2015年5月
[30]
世界建築史15講編集委員会:世界建築史15講,彰国社,2019年4月10日
◎[31] 布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
◎[32] 布野修司編:アジア都市建築紀行(アジア都市建築史),韓三建・趙庸薰・林貞我・金聖籠訳、博英社(パク・ヨンサ),2023年11月23日
[33] 布野修司編:はてしなき現代住居 1989年以後,フィルムアート社,2024年5月20日
[34] 布野修司責任編集:『都市美』臨時増刊「Riken
Yamamoto Who?」,河出書房新社,2024年12月20日
共著
[01] 現代版画センター編:現代と声 版画の現在,現代版画センター,19780905
◎[02] 鈴木忠志編:見える家と見えない家,叢書 文化の現在3,岩波書店,
1981年
◎[03] 大江宏編:新建築学体系1 建築概論,彰国社, 1982年
[04] 土曜美術社編:同時代を語る,土曜美術社,198309
[05]
梅棹忠夫・木村尚三郎・竹内均・野田春彦・樋口清之・渡辺茂:大図典VIEW,講談社,1984年
[06]
磯崎新他:劇空間のデザイン,リブロポート, 1984年
◎[07] 栗原彬他編集,文化のなかの政治,叢書
社会と社会学2,新評論, 1985年
[08]
磯崎新編:建築のパフォーマンス,パルコ出版, 1985年
[09]
平凡社編:大百科事典,平凡社, 1985年
[10] 粉川哲夫編:思想のポリティックス,亜紀書房,1986年
◎[11] 池端雪浦 監修,桃木至朗 ・クリスチャン ダニエルズ・深見銃生・小川英文・福岡まどか・石井米雄・土屋健治・立本成文・高谷好一 編集:東南アジアを知る事典,平凡社,1986年
[12]
毛綱毅曠編:記憶の建築,パルコ出版, 1986年
[13]
小阪修平編:地平としての時間,作品社, 1987年
◎[14] 東洋大学創立百周年記念論文集編纂委員会(太田勇 大坪省三 前田尚美編):東南アジアの地域社会,東洋大学, 1987年
[15]
南博編:近代庶民生活誌 ⑥食住,三一書房,1987年
[16]
日本家政学会編:家政学事典,朝倉書店,1990年
◎[17]朝日新聞社編:現代日本 朝日人物事典,朝日新聞社,
1990年
[18]
日本建築学会編:作法と建築空間,彰国社, 1990年(全国学校図書館協議会選定図書,日本図書館協会選定図書)
[19]
水牛くらぶ編:モノ誕生「いまの生活,晶文社, 1990年
[20]
柏木博・小倉利丸編:イメージとしての帝国主義,青弓社,1990年0427
[21] ADD編:ふぇいすとふぇいす,大丸クリエーション,1990年9月
[22]
鈴木博之・中川武・藤森照信・隈研吾 編:建築20世紀,新建築社, 1991年
[23]
佐々木毅・鶴見俊輔・富永健一・中村政則・正村公宏・村上陽一郎編:戦後史大事典,三省堂,
1991年
◎[24] 梅棹忠夫対談集:遊びがすすむ現代の住空間,『世相観察
あそびと仕事の最前線』,講談社, 1991年10月
◎[25] 山谷労働者福祉会館運営委員会:寄せ場に開かれた空間をー山谷労働者福祉会館建設の記録,社会評論社, 1992年
◎[26] 別冊宝島編集部:家は建つ!,JICC出版局,1992年3月
◎[27] 建設省住宅局編:これからの中高層ハウジング,丸善,
1993年
[28]
板垣雄三・後藤明編:事典 イスラームの都市性,第三書簡,1993年
◎[29] 宮崎恒二・伊藤真・山下真司編:インドネシア (暮らしがわかるアジア読本) ,河出書房新社, 1993年:「住居」執筆
[30]
HOPE計画推進協議会編:十町十色,丸善,1994年
◎[31] 東京建築設計厚生年金基金25周年記念出版編:戦後建築の来た道 行く道ー豊かな人間社会を築くための建築の役割ー, 東京建築設計厚生年金基金,1995年3月
◎[32] 日本文化デザインフォーラム編:時感都市計画,栄光教育文化研究社,1995年
[33]
日本建築学会東洋建築史小委員会編:東洋建築史図集,彰国社,1995年
◎[34] 早川和男編:講座
現代居住全5巻 第2巻 家族と住居,東京大学出版会1996年7月
[35]木下誠(翻訳:武装のための教育[統一的都市計画],アンテルナシオナル・シチュアシオニスト3,インパクト出版会,1997年
◎ [36]京都大学東南アジア研究センター編:事典
東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997年
◎[37] AERA編集部編:建築学がわかる,AERA Mook,朝日新聞社,1997年9月10日
◎[38] 中高層ハウジング研究会編:21世紀の集合住宅・・・持続可能で豊かな社会をめざして,
1998年3月
◎[39] 京都市:世界からの提案・京都の未来:国際コンペ全応募作品集(KYOTO VISION Proposals from the World:
International Competition Works Collection),京都市, 1999年3月(編集協力)
◎[40] 小林達雄編:ミュージアムの思想ー小林達雄対談集,ミュゼ,1999年4月
[41]
篠原一男編:世紀の変わり目の「建築会議」,篠原一男12の対話,建築技術別冊4,1999年9月1 日
[42]
五十嵐太郎編:建築の書物/都市の書物,INAX出版,1999年10月20日
[43]
日本建築学会阪神淡路大震災調査報告編集委員会編:阪神淡路大震災調査報告 建築編ー10 都市計画 農漁村計画,丸善, 1999年12月
◎[44] 木村一信編、『戦時の文学 拡大する戦争空間』文学史を読みかえる4,インパクト出版会, 2000年2月(書評 井上章一『戦時下日本の建築家―アート・キッチュ・ジャパネスク』)
◎[45] 日本建築家協会監修:素顔の大建築家たちー弟子の見た巨匠の世界01,
02, 建築資料研究社,2001年6月1日:総括シンポジウム 建築家像はどう変わるか? 平良敬一+長谷川堯+大江匡+布野修司(司会)
[46]
Peter J.M. Nas (ed.):Indonesian town revisited, Muenster/Berlin, LitVerlag, 2002
[47]
古山正雄編:対論:空間表現の現在,角川書店,京都造形大学,2003年6月16日
[48]
青木保編:アジア新世紀8 構想,岩波書店,
2003年7月11日
◎[49] AERA編:建築学がわかる,AERA Mook新版,朝日新聞社, 2004年8月10日
〇[50] 鈴木成文・上野千鶴子・山本理顕・他:「51C」家族を容れるハコの戦後と現在,平凡社,2004年10月8日
◎[51] 日本建築学会編:建築を拓く,鹿島出版会,2004年10月25日
[52]
植田 和弘,神野 直彦,西村 幸夫, 間宮 陽介 編:都市とは何か,『岩波講座 都市の再生を考える』第一巻,岩波書店,2005年3月
◎[53] Peter J.M. Nas
(ed.),Directors of Urban Change
in Asia, Routledge Advances in AsiaーPacific Studies, Routledge, 2005
[54]
松隈洋編:前川國男 現代との対話,六曜社,2006年10月
[55] 新谷尚紀,岩本通弥編:都市の生活リズム,
都市の暮らしの民俗学3,吉川弘文館,2006年12月
◎[56]美し国づくり協会:私の美し国づくりー地域から,日刊建設通信新聞社,2006年12月 タウンスケープアーキテクト制の創出へ
◎[57] Shuji Funo
& M.M.Pant, Stupa & Swastika, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007
[58]
中谷礼仁編:川井健二マニュアル,布野修司:200度Cの世界,acetate,2007年12月
◎[59] 布野修司+山根周,ムガル都市ーイスラーム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008年5月30日
◎[60] 池端雪浦 監修,桃木至朗 ・クリスチャン ダニエルズ・深見銃生・小川英文・福岡まどか・石井米雄・土屋健治・立本成文・高谷好一 編集:東南アジアを知る事典,平凡社,2008年
◎[61]長澤泰 ・神田順 ・大野秀敏 ・坂本雄三 ・松村秀一
・藤井恵介編,建築大百科事典, 朝倉書店,2008年
◎[62] 大阪市立大学文学研究科編:文化遺産と都市文化政策,大阪市立大学文学研究科叢書第6巻,清文堂出版,2009年
[63]
建築のあり方研究会編:建築の営みを問う18章,井上書店,2010年
◎[64]
布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民:韓国近代都市景観の形成ー日本人移住漁村と鉄道町ー,京都大学学術出版会,2010年5月
◎[65]
白井晟一:精神と空間,
磯崎新・白井昱磨・布野修司・松隈洋・谷内克信,青幻社2010年9月25日
◎[66]近江環人地域再生学座(編)/森川稔編,地域再生 滋賀の挑戦―エコな暮らし・コミュニティ再生・人材育成,新評論,2011年
◎[67]村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子編:現代インドネシアを知るための60章,布野修司:住居ー地域の生態系にもとづく多様な形態ー(第19章),明石書店,2013年1月30日
◎[68]
布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン:グリッド都市ースペイン植民都市の起源,形成,変容,転生,京都大学学術出版会,2013年2月28日
◎[69] 玉井哲雄編:『アジアからみる日本都市史』,布野修司:「転輪聖王」の王都ー曼荼羅都市の系譜,山川出版社,2013年3月
◎
[70] 君島東彦・名和又介・横山治生編:戦争と平和を問いなおす 平和学のフロンティア,布野修司:6 建築からみた戦争と平和,法律文化社,2014年4月
◎[71]
traverse編集委員会編『建築学のすすめ』(布野修司:序,第3章,第8章コラム,第9章,あとがき)昭和堂,2015年6月18日
◎[72]
布野修司+田中麻里+ナウィット・オンサワンチャイ+チャンタニー・チランタナット:『東南アジアの住居 その起源・伝播・類型・変容』京都大学学術出版会,2017年2月25日
◎[73]日本建築学会編(2018)『建築フィールドワークの系譜 先駆的研究室の方法論を探る』昭和堂,
[74] 黄蘭翔主編『臺灣藝術史進路 世界,東亞及多重的現代視野』国立台湾美術館,芸術家,2020年11月
◎[75]
段煉孺・李晶主編:『中日韓建築文化論壇 論文集』中国建築工業出版社,2021年4月
◎[76]
日本建築学会編:『住まいの百科事典』丸善出版,2021年4月
[77] 布野修司・佐藤俊和・森民夫:『希望のコミューン 新・都市の論理』悟空出版,2024年9月30日
訳書
[01]
吉武泰水監訳:環境の空間的イメージーイメージマップと空間認識,M.W.ダウンズ ダビット. ステア共編,IMAGE AND ENVIRONMENTーCognitive Mapping and
Spatial Behavior, edited by Roger M, Downs & David Stea, Aldine Publishing
Co. Chicago 1973,曽田忠広 林章 布野修司 岡房信共訳,鹿島出版会,1976年
[02]
布野修司監訳:生きている住まいー東南アジア建築人類学(ロクサーナ・ウオータソン著,アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in SouthーEast
Asia,学芸出版社,1997年3月
[03]
布野修司+安藤正雄監訳:植えつけられた都市
英国植民都市の形成,ロバート・ホーム著:アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities,京都大学学術出版会,2001年7月
布野修司 履歴 2025年1月1日
布野修司 20241101 履歴 住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14 1949 年 8 月 10 日 島根県出雲市知井宮生まれ 学歴 196...
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