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2026年3月31日火曜日

日中建築住宅産業協議会『日中建協news』掲載 インタビュー連載「日中建設交流史を考える」 第9回:布野修司 先生 2023年9月19日実施

 日中建築住宅産業協議会『日中建協news』掲載

インタビュー連載「日中建設交流史を考える」

9回:布野修司 先生

2023919日実施

 

中国とのかかわり-大学入学まで-

[市川]

まずは布野先生と中国との関係について、大学入学頃までのお話を聞いていきたいと思います。布野先生は1949年生まれですね。

 

[布野]

中華人民共和国の成立年に生まれたことは意識してきました。要するに自分の人生が中華人民共和国の歴史に重なってるわけです。それと、両親が戦時中に中国に行っていたということがあります。親父は出雲市の出身ですが、松江工業高校を出て、現在の日建設計の前身にあたる住友本店臨時建築部に入って、新居浜市の住友鉱業株式会社別子鉱業所に務めていたんですが、19402月に広島西練兵場に召集され、宇品港からハルピンへ行きます。この辺の詳細は知らなかったんですが、最近お袋が死んで、空き家になった実家で妹が当時の資料をいろいろ探し出してくれて、ハルピンにいったということがわかりました。関東軍の郵便隊に入隊したと聞いてはいたんですが、具体的なことを聞く機会を失したとこが悔やまれます。まあ、あんまり話したがりませんでしたけどね。19433月にプサン経由で日本に帰還してからは、千葉県津田沼の東京第87部隊や、天竜川の鉄道橋復旧工事などに従事していたんです。戦後は、松江に戻って、松江市役所に勤めます。最後は、都市計画部長になるんですが、松江で仕事をした菊竹さんとか、芦原さんとか、建築家の話は聞いて育ちました。家には、当時の『新建築』は全冊ありました。

お袋は、島根県でも石見の江津の出身なんですが、朝鮮半島(韓国)の清州に1年くらいいて、清州から北京の東交民巷(外国公使館エリア)に移って師範学校の教師をしていたようです。二人とも全く別々に中国に行ったんですが、終戦後、日本で出会い結婚したんですね。お袋にも中国滞在時のことは断片的なことしか聞けませんでした。僕は1995年にはじめて中国に行くんですが、東交民巷を歩き回ってその様子をお袋に電話したことを覚えています。95年は阪神淡路大震災の年で、中国滞在中にオウム真理教による地下鉄サリン事件もあるなど、最初の中国は僕のなかで1995年と結びついています。

 

大学入学後-全共闘と文化大革命-

[市川]

少年時代、青年時代には中国の存在はほとんど感じず、大学に入ってから意識することが多くなったのでしょうか。

 

[布野]

子どもの頃、中国を意識した記憶はありません。中国について考え出したのは、大学に入ってからですね。1968年に大学に入ったんですが、前年あたりから全共闘運動が全国的に広がっていくんです。その流れと1966年の文化大革命は並行しています。といっても、その実態を知るのは後になりますが、中国で大変なことが起こっていると感じていました。全共闘は文化大革命に対しておおむねシンパシーをもっていたと思います。紅衛兵のスローガンであった「造反有理」は、全共闘のスローガンでもありました。『毛沢東語録』は結構読まれていて、僕も買った記憶があります。

建築学科に進学して以降ですが、日本の共産党の歴史について、先輩からレクチャーを受けたこともあります。日本共産党と中国共産党は、当然、歴史的なつながりがあるわけです。1950年の共産党分裂の際には、「所感派」の徳田球一や野坂参三らは中国に亡命するんですよ。後の話になりますが、「所感派」だったのか、「国際派」だったのか、山村工作隊に参加したのか、しなかったのか、日本共産党との関係をめぐる議論を先輩たちから様々に聞きました。しかし、1960年代末には、共産党は既にそう魅力的ではなかった。共産党の学生組織「民青」は、東大闘争も収集のために武装した上で奮闘するんです。全共闘は基本的にノンポリだったと思っていますが、新左翼と呼ばれる諸派は、アメリカ帝国主義、日米安保体制打倒を叫んで激しい運動を展開していった。マルクス、レーニン、トロツキーそして毛沢東は、その理論と具体的方針をめぐって、われわれは読んだんです。

吉武泰水研究室の建築計画の理論をつくりあげたとされる青木正夫先生は、東北大そして九州大で建築計画研究をリードされるんですが、『実践論・矛盾論』(1937)を念頭においていたといいます。「設計計画」と「使われ方」の矛盾をどう克服するかという問題を立てるんですね。だから、『実践論・矛盾論』は僕も読みましたよ。岩波文庫で、薄くてすぐ読めた。わかりやすいといえばわかりやすいんです。

1976年に近代建築行脚のためにドイツを中心にヨーロッパを回るんですが、ストラスブールを通りかかったとき、大聖堂の前に毛沢東の写真が置いてあって、学生たちがお参りしていました。だから、毛沢東が死んだ年は覚えています。翌年、「四人組」(江青・張春橋・女兆文元・王洪文)が失脚して、文化大革命は終焉するんですね。

 

[市川]

それはすごい。毛沢東が死ぬと天安門広場で盛大な追悼セレモニー(図表1が開かれましたが、ヨーロッパにも余波があったんですね。

 

[布野]

余波というか、国際的共産主義運動、コミンテルン(第三インターナショナル)は、各国の共産主義運動を指導してきたわけで、その瓦解(1943年)以降、中華人民共和国の成立はひとつの希望だったわけです。中国の文化大革命とフランスの五月革命は共鳴関係にあったんですね。ただ、紅衛兵や四人組など文化大革命の実情についてはあとから知る。「批林批孔」という林彪、孔子批判、儒教批判は激しかったですね。歴史の否定、歴史家を追放するといった、とんでもないイデオロギー統括は大学教育にも大きな影を落としてきました。梁思成研究室など歴史派の建築家たちも下放されるんです。

 

 

日本の建築界と中国社会主義のつながり

[市川]

布野先生が受けた建築教育において、中国はどういう存在としてありましたか。社会主義=計画主義でもあるので、建築計画や都市計画の分野ではレファランスなどあったのでしょうか。

 

 [布野]

京都大学の西山夘三先生は共産党員でした。西山先生は、戦前に『国際建築』誌などで、ロシア語の文献の翻訳などをされています。河丸荘助、香川三郎というペンネームですね。京都大学に入学された1930年に「新興建築家連盟」が結成されるんですが、創宇社(1923年結成)が左傾化して以降の社会主義運動の渦中で自己形成されたと思います。「建築家のための建築小史」(1933)は「唯物史観」をベースにしています。在学中のDEZAMの活動も建築運動の歴史に記されています。西山先生の原点は戦前の社会主義運動、ソビエト研究です。戦後も、NAU(新日本建築家集団)結成に関わり、土地の公有化をはじめ社会主義的な主張をされていくわけです。

戦後まもなくの吉武泰水研究室には、霞が関ビルディングの設計を担当した郭茂林さんが助手としていて、台湾とのつながりはありました。はるか後のことになりますが、僕が鈴木研の助手をしていた時にも、黄世孟という台湾からの留学生がいました。彼は、後に台湾の都市計画学会長になります。京都大学の布野研究室には、台湾、中国両方の留学生がいましたが、結構、論争していましたよ。台湾出身の女性と結婚した布野研出身者が4人もいるから台湾との結びつきが強いように思われますが、僕自身は、台湾にもずいぶん通いましたし、中国もそれ以上歩いてきました。

 

[市川]

当時において建築学の先生は、中国に訪問などしていたのでしょうか。

 

[布野]

1972年の日中国交回復を受けて、同年末ごろから建築学会の先生たちが続々と中国を訪問していました。内田祥哉先生や稲垣栄三先生、鈴木成文先生などが相次いで訪問し、1978年ごろには、尾島俊雄先生は長期滞在されますね。

 

[市川]

 1970年代後半には、そうした方々の訪問録をベースにした建築メディアの中国特集が散見されますね。『都市住宅』197511月号の特集「中国──消費都市から生産都市へ」、あるいは『建築雑誌』19761月号の特集「中国建築の現状」などです(図表2

 

[布野]

僕自身は1976年にはじめてヨーロッパに行ったくらいですから、これらの最初期の日本建築学会の中国訪問とは無縁でした。ただ、時代は下りますが、1993年に日本建築学会朝鮮都市建築視察団の一員として、北朝鮮に行ったことがあります。これは1998年に第2回が開催されるISAIA(アジアの建築交流国際シンポジウム)(図表3の準備として行われた表敬訪問ツアーで、九州大学の青木正夫先生や京都大学の西川幸治先生と同行しました。そのときに西山夘三先生とも親交が深かった大阪市立大学の上林博雄先生が、電柱が地中化され、緑が生い茂る大同江南岸のピョンヤンの街並みを見て、「これが社会主義だ!」と感動されていたことを覚えています。僕自身の感想としては、常に案内者がついてまわって、自由に見学させてくれなかったことが印象に残っています。RC造の超高層、柳京ホテルが工事停止になっていて、それを観たいとリクエストしたんですが、バスは常に迂回して見せないんです。金日成総合大学でも議論しましたよ。教授が主任建築家で、学部の学生は現場で実際に建設するというのはすごい体制だなあと思いました。

 

 

留学生との交流と中国調査の開始

[市川]

具体的に布野先生が中国に行かれた頃の話についてお伺いしたいと思います。1976年にヨーロッパに行かれ、1979年頃に東南アジアのフィールドワークをスタートするなど、70年代後半から布野先生の海外調査が本格化していますが、中国の初調査は1995年と、かなりタイムラグがあるように思います。

 

[布野]

僕は、インドネシアの研究が眼に留まって、「イスラームの都市性」(代表:板垣雄三)という重点領域研究(C班:景観 応地利明班長)に入れられたのが縁で、西川幸治に声をかけられ、1991年に京都大学に赴任するんですが、そこにドクター・コース(D1)に、学生が4人いました。いずれも留学生で、中国から2人、台湾から1人(黄蘭翔、台湾大学教授)、韓国から1人(韓三建、蔚山大学教授)でした。いきなり4人の博士論文に関わることになり、3年後にはみんなが書きあげることになるんですが、とても刺激的な経験でした。中国からの留学生は天津出身の孫躍新と西安出身の段煉孺(西安工程大学教授)です。

孫躍新は、お兄さんが渤海新区の区長をするなど、有力な政治家でした。本人は天津外国語大学の日本語学科の出身で、建築は日本で勉強したんです。孫さんは、今でも京都に別宅を持っていて、毎年来日して滞在します。お嬢さんは慶応大学の法学部を出て、日本の商社で国際的な仕事をしています。日本にいる時には、小島康誉らの日中合同調査隊に加わって新疆ウイグル地区のニヤ遺跡の発掘調査に加わったり、日中文化交流に積極的でした。コロナで中断したんですが、最近では、神戸の日中の美術家交流に尽力しています。

1995年の中国行は、現在「アルファビル」という設計事務所を共同主宰している山本麻子(大阪工業大学准教授)さんの修士論文の調査のためで、孫さんに同行してもらったんです。

 

[市川]

中国人留学生がパイプ役となって中国調査が開始するのですね。その際は北京、天津、大連を訪問されているようですが、調査の概要と三都市の印象を教えてください。特に当時の北京は徐々に開発が始まっていく時期だったと思います。

 

[布野]

大連に残っていた旧南満洲鉄道株式会社の社宅を保存したいという依頼があり、そのための調査が主目的でした。満鉄社宅には甲乙丙丁という住居タイプがあったんですが、甲のいわゆる幹部宅に数世帯くらい住んでいる、そんな時代でした。余談ですが、当時の大連市長だった、習近平のライヴァルであった薄熙来とパーティで会って、握手してもらったことがあります。彼は、結局、失脚しますけどね。

北京では主に観光しましたが、東交民巷には真っ先に行ったかな。天安門広場や故宮博物館、十大建築も見たと思います。孫さんの出身地天津では、天津大学の寮に泊まりました。

孫さんの学位論文『中国都市における近代空間の形成過程及びその特性に関する研究―天津の旧城空間、租界空間、新開空間の形成及び相互関連を中心に―』(1993の対象地だったので、疎開地などじっくり見て回りました。お父さんの住んでいる共同住宅にも行ったんですが、階段で煮炊きするような、そんな団地でした。天津では、タクシーは黄色のシャレードだったことを覚えています。北京も天津も、ものすごい数の自転車が走っていました。

 

中国人留学生を通じたネットワークの広がり

[布野]

次の中国訪問は、1999年に外務省から講演を依頼されたときのことです。「日本の現代建築」という題で、北京、西安、広州をまわりました。

 

[市川]

外務省から講演を依頼されたのは興味深いですね。

 

[布野]

当時は日本が先進国のモデルだったので、情報収集の意味合いが大きかったのだと思います。1997年に出した『日本当代百名建築師作品選』という本(図表4が目に留まったことが、直接のきっかけです。この本は中国でのみ出版したもので、政治的にセンシティブな作品は差し替えるなど、出版に当たって難しいこともありました。広州の華南理工学院での講演は数百人が聴講する大変な熱気でした。

 

[市川]

この本自体はどのような経緯で出版されたのですか。翻訳者には韓一兵とあります。

 

[布野]

韓一兵(陝西省人民代表大会常務委員会 秘書長、党組書記)の仕掛けだったと思います。彼は布野研究室出身で、母親は中国十大建築師の一人の張錦秋(中国工程院院士)です。父親は韓驥さん、現在は退職されていますが、西安市役所の都市計画局長をやっていて、二人とも建築史家として著名な梁思成の研究室出身です。京都大学で初めて出会った煉孺は、西安市役所で韓一兵の父親の部下だったんです。もうひとり、京都大学の川崎清研究室の留学生白林もそうです。母親の張錦秋は、陝西省博物館の設計などで知られますが、「阿倍仲麻呂記念碑」や日系のホテルなど日本関連の仕事をたくさんしていました。孫躍新、煉孺、韓一平を通じたこのルートが中国との繋がりの軸となって、現在も交流が続いています。

もう一つのキーとなるルートは、昭和女子大学の平井聖先生の下で学位をとった胡恵琴さんです。彼女は僕の著作を3冊(布野修司編『亜州城市建築史』胡恵琴・沈謡訳,中国建築工業出版社,2009年、布野修司編『世界住居』胡恵琴訳,中国建築工業出版社,2010年、布野修司『景観的作法』胡恵琴訳, 中国林業出版社,2019)ほど中国で翻訳してくれています。中国では翻訳も重要な実績の一つだそうで、今は北京工業大学の名誉教授になっています。

 

中国研究の集大成としての『大元都市』

[市川]

2000年代後半から、布野先生自身も中国との交流がかなり増えていますね。

 

[布野]

その頃のキーマンが、滋賀県立大学の布野研究室で学位(『福建・港市の都市組織および住居類型の形成,変容に関する研究』)をとった趙沖さんです。今は福州大学の教授をしています。もともと陸上400mの選手でした。相当有望だったらしく、オリンピックのための強化選手に選ばれなかったということで、日本に留学するんです。アテネ・オリンピック(2004年)の110mハードルで金メダルをとった劉翔と友達で、今でも連絡とりあっています。徳島大学に留学したんですが、徳島大学で非常勤をしていた新居照和さんの紹介で滋賀県立大にくるんです。彼は青島出身なんですが、学位論文は「港市」をテーマにしたもので、泉州、福州、漳州の三都市を対象に論文を書きました。現在は彼がパイプ役となって、中国の民俗建築やヴァナキュラー建築に関する学会などともつながっています。趙さんは中国からモンゴルまで、この頃の僕の海外調査のほとんどに同行しています。

 

[市川]

布野先生は建築計画学の出身ではあるものの、このころの調査範囲を見ると、都市史・都城史研究のほうにシフトしているようにみえます。

 

[布野]

自分では一貫しているつもりです。僕の出身である東京大学建築計画研究室のいわゆる吉武泰水-鈴木成文の系譜では、「住戸計画」というように、学校や病院、地域施設など、施設=制度で区切った研究を行っていました。一方の京都大学の西山夘三研究室では、「地域計画」というように、領域レヴェルでの研究を行っていて、その後のまちづくりにつながるものでした。僕の京都大学の講座名は「地域生活空間計画」で、西山先生が創設され、西川先生が引き継がれた講座なんです。

僕は吉武研究室に入った時から、nLDKという標準化された住居類型が北海道から沖縄まで画一的に建設される時代は終わったと思っていました。あまり知られていませんが、鈴木研究室には、宮内康さん、松川淳子さんが開始した領域論の展開がありました。集まって住むかたち、団地計画、街区計画を如何に論理化するかという問題意識ですね。それをアジアのフィールドに拡大しながら引き継いできたということです。住居集合、街区レヴェルの構成をターゲットとするということで、「都市組織」研究と呼ぶようになります。ただ、都市組織研究の弱いところは、都市全体のインフラなど、土木スケールの計画を組み込んでいないことです。方法的にせいぜい街区レヴェルの話にとどまる、インド都城、中国都城研究は、その弱点をカヴァーする展開です。

胡恵琴さんは、中国建築学会の高齢者施設関係のトップになっていて、日本以上に問題が顕在化している中国の高齢化問題に取り組んでいます。日本大学に移って、煉孺さんのお弟子さんの李慧娟(西安交通大学助手)の学位論文の指導したんですが、高齢者施設がテーマです。

 

[市川]

布野先生の研究の出発点となった住戸計画的な手法は、李さんの高齢者施設研究へと受け継がれているのですね。このころの精力的な研究活動が『大元都市:中国都城の理念と空間構造』(2015) (図表5へとつながるのでしょうか。

 

[布野]

『大元都市』は、初めから8つの都市に狙いを定めたものでした。先ほどの趙沖さんの学位論文は、沿海地域の三都市を対象としたものでしたが、『大元都市』は中原の八大都市を対象としました。最初に、インド都城の系譜として『曼荼羅都市』(2006年)をまとめ、続いてインド・イスラーム都市論として『ムガル都市』(山根周との共著、2008年)を書きます。その頃には、ユーラシアの都城の系譜について見取図ができあがっていたんです。ユーラシアの都城思想は,1つの都市(王都)がコスモロジカルな空間的秩序を表現する地域(A地域:南アジア・東アジア・東南アジア)とそうでない地域(B地域:西アジア・北方アジア)に大きく2分されます。A地域については,さらに都城思想を生み出した核心域とその周辺域に分かれます。その核心域とは,すなわち,古代インド(A1)と古代中国(A2)ですね。そして,イスラーム都市の系譜はそうではない。

残るのは中国都城の系譜だ、ということで狙いを定めて書いたのが『大元都市』(2015年)なんです。『曼荼羅都市』『ムガル都市』『大元都市』をアジア三部作と呼んでいます。

 

 

[市川]

学生や留学生たちの研究成果の集大成として、『大元都市』があるのですね。日本の学生としては、川井操先生(滋賀県立大学)が布野先生の中国研究を引き継がれています。今でも北京の「雑院」を自ら改修するなど、実践的な研究をされていますね。

 

[布野]

大雑院については北京の伝統的住居形態である中庭式の「四合院」が、都市部への人口流入によって極度に高密化したものです。大雑院研究は、川井先生の教え子である安井大揮さんが現場で頑張っています。川井先生自身は、大都市間に取り残された未開発の村落である「城中村」の研究を継続しようとしているようですが、習近平体制の中で、中国でのフィールドワークは外国人にはなかなか難しい状況ですね。北京については、日大に移った成浩源(文化財保存計画協会)くんが学位論文『北京旧城の歴史的街区の変容と居住環境整備に関する研究』(2022年)を書いています。

 

[市川]

2010年代からは、中国のいくつかの大学で教鞭をとられています。布野先生の都市・建築論の中国における受容や、大学でのレクチャーを通じた反応などはいかがですか。また中国では現代建築も盛んですが、印象に残っている作品や注目している建築家はいますか。

 

[布野]

地域に継続的にかかわる建築家のあり方を説く「タウン・アーキテクト」論や「コミュニティ・アーキテクト」論について話したとき、かなり手ごたえがありました(図表6。じつは『大元都市』も翻訳は完了しており、出版の話も進んでいます。大学関係者にはすでに読まれていて、これといった反論も中国側からは出ていないので、定説になりつつあるのではないかと思います。僕のアカデミックな功績としては、核心を突いたものになったと思います。大元都市のレクチャーを西安大学でしたときは、わざわざ杭州の東南大学の学生が聴講しに来ていました。

中国の現代建築の動向についてはあまり詳しくないのですが、北京オリンピックメインスタジアムの「鳥の巣」は、ISAIAの参加者と一緒に見ました。王澍はプリツカー賞をとる以前から注目していて、ISAIAでも会ったことがあります。プリツカー賞の寧波博物館は大味ですが、初期のタウン・アーキテクトとしての比較的小規模な作品群が興味深いです。

 

 

社会主義リアリズムの受容と中国

[市川]

1950年代に話を戻すと、当時の重要な議論として「伝統論争」があったと思います。その前段階として、ヨージェフ・レーヴァイ「建築の伝統と近代主義」の翻訳がなされており(葉山一夫訳、『美術批評』19531月号)、モダニズムを乗り越える新しい建築理論として社会主義リアリズムが注目されていました。戦後建築論の先鞭をつけた布野先生から見た、日本建築界における社会主義リアリズムの受容についてお伺いしたいです。

 

[布野]

社会主義リアリズムに関しては、『新建築』では平良敬一さんやや宮内嘉久さんが問題として取り上げていたと思います。レーヴァイを翻訳した葉山一夫は平良さんのペンネームですよね。ただ、日本では、ロシア構成主義のインパクトに比べれば、スターリン様式への関心は薄かった。社会主義リアリズムに関する全体的な議論は行われなかったと思います。日本の伝統建築論争の方がレヴェルが高かったと思います。いずれにせよ、中国の社会主義リアリズム建築については問題にならなかった。僕自身は、文化大革命に先立つ「大躍進政策」や「人民公社」といった施策については知ってはいましたが、『戦後建築論ノート』(1981年)を書く段階で、ソビエト、中国をとりあげる資料やデータは目に留まらなかったですね。

 

[市川]

スターリン様式や中国の十大建築に対して関心を持ちづらかったのは、同時代の日本の建築とは全く違うものとして見えていたからなのでしょうか。以前のインタビューで、西山夘三さんの薫陶を受けた広原盛明先生にもお話を伺ったのですが(本連載第4回「特別編 : 西山夘三による中国との建築交流活動」)、当時は国内のことに集中していて、中国のことはやはり視界に入っていなかったとおっしゃっていました。1950年代では、建築ジャーナリズムにおいても社会主義に関連した議論が盛んだったように思うのですが、布野先生も広原先生もそこまで中国に対して注目していなかったことが興味深いです。

 

[布野]

中国建築学会の『建築學報』くらいはちらちら観ていたと思いますが、とにかく、建築や都市計画の問題としては、モデルとはならないという判断があったと思います。日本の将来が問題であり、日本の革命戦略をめぐって、共産主義の動向、冷戦構造が大きな問題であったことはいうまでもないことですが。

 

 

ネガティブ・タブーとしてのアジア

[市川]

1990年代半ばに布野先生は『建築思潮』上の磯崎新さんと原広司さんとのシンポジウムで「アジアはネガティブ・タブーだった」と、とても印象深い指摘をされています(図表7。僕が学生の頃の2010年代は、中国・アジアに対する興味関心が沸き立っているような状況で、むしろ交流が盛んな時期でした。当時の中国・アジアを語りづらかったという状況の背景には何があったのでしょうか。

 

[布野]

フィールドへ行くと特に感じるのですが、例えばフィリピンだと旧日本軍に対する集団的記憶が根強くあり、調査をしていると白い目で見られました。調査は基本的には民情調査であり、ある種の「スパイ活動」でもあるので、現地で抵抗をうけることはしばしばあります。学生たちの身勝手な行動が警察沙汰になったことも一度や二度ではありません。海外でのフィールドワークは、問題を共有した共同研究をベースとすべきだとかねがね言うのは相互理解が不可欠だからです。

最初に東南アジア調査を始めるんですが、東洋大学の研究助成の後、研究を続けられたのはトヨタ財団の研究助成があったからです。トヨタは東南アジアに販路を拡大していたので、経営戦略的にも、「隣人を知ろう」という研究プログラムを展開したんですね。1970年代初頭に田中角栄首相がインドネシア訪問した際には暴動が起きる、そんな緊張関係もあったんです。何故、東南アジアをフィールドにしたかというと、韓国は1970年代には戒厳令が敷かれるなど、日韓関係は全くよくありませんでした。ソウルの地下鉄で写真を撮ったら、フィルムを抜けと言われた経験があります。日中国交回復したとは言え、フィールドワークを展開するはるか以前に、戦後処理、賠償問題が喫緊の課題だったわけです。戦後高度成長期を経て、アジアとの経済的な結びつきが強まり、アジア研究に対して研究費がつくようになったのですが、日本の研究発表会などで「おまえはアジアについて、二度搾取するのか」と言われることがありました。70年代の経済的進出が、戦前の侵略・植民地支配の記憶と重なるのは当然だと思っていました。だからこそ、相互理解が必要で、そのためにフィールドワークが不可欠だ、というのが最初からのスタンスなんです。

 

[市川]

「二度」というのは、一度目は1945年の敗戦以前ということですね。

 

[布野]

そう。「大東亜共栄圏」「近代の超克」を口実に侵略したわけですから。インドネシアは比較的拒否反応は少なく、その後の継続的な調査につながります。山の中の集落へ行くとラジオ体操をしてみせてくれたり、「憲兵さん」とか「班長さん」などの日本語が飛び出したりして、驚きました。ベチャ(輪タク)の運ちゃんが、日本人とわかると、日本の軍歌を謳ったりするんです。インドネシアは、オランダからの独立に際して、宣言文の作成が前田将軍宅で行われるなど日本が関わったことや、スカルノ大統領との関係など、総じて日本に対して好意的だと思いました。フィリピンと違って、日本軍は大きな破壊を行っていないんです。一口にアジアといっても、国によって大きく異なります。

 

[市川]

発言のあったシンポジウムで印象的だったのは、磯崎さんがアジアには極力出ないようにしていたと述べていたことです。その後の活動を見ても、磯崎さんは実際、東南アジアでは作品を残していませんね。一方で、中国ではいくつかプロジェクトをしています。磯崎さんとの付き合いの中で、アジアや中国に対する思いなど、何か感じられたことはありますか。

 

[布野]

僕の著作を磯崎さんに贈った時に、「布野はヨーロッパを体験していないから、全然発想が違う」と言われたことがあります。ヨーロッパの都市・建築体験が肌身に染みた磯崎さんならではの感想でした。ただアジア建築に関しては弱かったみたいで、ペルセポリスの写真をタージマハールと間違えた発言を実際聞いたことがあります。やはりアジアには関心が薄かったのでしょうね。それと、磯崎さんの世代として、アジアを侵略した日本についての負い目はあったと思います。

 

[市川]

インドネシアをはじめとした、アジアの広範な地域を調査している布野先生にとって、中国はどのような存在でしたか。

 

[布野]

日本にとって中国はアジアの中で特別な存在です。四大文明にまでさかのぼってみてもいいのですが、やはりアジア文明の発信源としてあるのはインドと中国ですね。基本的なフレームの理解としては、発信源としての中国と、その周辺地域として、日本を含むアジア諸国があるという認識です。漢字にしても、律令制にしても、度量衡にしても、藤原京以降の都城制度にしても中国からの輸入ですね。もちろん、中国文明を日本流に変容させるわけですが、その起源は中国、インド、ユーラシアに遡るわけですね。そういった意味で、いわゆる王権の所在地の都市の「都城」論は、僕の中で重要な研究テーマだったんです。

 

 

アジア研究を通じた現地支援

[市川]

日本は戦前にアジア諸国を植民地支配していたというネガティブな歴史を持つ一方で、戦後はODAや戦後賠償などを通じてアジア諸国に対して経済的な支援を行っています。インドネシアでも日本のODAによって、「ホテル・インドネシア」といったホテルやオフィスビルが建設されていますね。建築計画や建築史的な視点から、日本のODAや戦後賠償について研究する機会はありましたか。

 

[布野]

ホテル・インドネシアではシンポジウムをやったことがあり、泊ったこともあります。ただODAや戦後賠償を主題とした研究はしていません。ODAをめぐっては、当然、現場で様々な担当者と出会うわけですが、あんまりいい思い出がありません。その背後の構造に様々な問題があると思ってきました。

インドネシアの、いわゆる「カンポン・インプルーブメント・プログラムKIP」といわれる居住環境改善、ルスン(積層住宅)と呼ばれる新たな共同住宅モデルの建設、スラバヤ・エコハウスの建設などを一貫して、J.シラスに率いられたスラバヤ工科大学ITSチームと一緒に関わってきました。建築史については、スラバヤ工科大学にヨセフ・プリヨトモという大家がいます。一歳年上ですが、若い頃、彼らのインドネシアの建築史学会の立ち上げに関わったことがあります。当時のインドネシアには、オランダ植民地時代のダッチ・コロニアル建築がたくさん残っていたのですが、現地の大学を含め全く関心を持たれていませんでした。建築史学会による研究が進められ、現在では状況は変わってきました。

こうした経緯は、20213月に京都大学学術出版会から上梓した『スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転成:コスモスとしてのカンポン』(図表8にまとめています。大学出版会だと、目次の階層性や起承転結など、学術書としての体裁を求められがちですが、この本はそれを嫌って、よく通ったと思いますが、様々な視点を重層させる構成を採っています。東南アジアの都市は、時代ごとにきれいに項目立てすることが難しい。ヴァナキュラーな世界、インド化の時代、イスラームとヨーロッパの到来を重層化する章立てになっています。

この本をまとめるに当たって、2018年夏に、スラバヤで日本建築学会の建築計画委員会のシンポジウムを行いしました。コロナ直前の20201月末にはスラウェシの地震・津波災害の復興計画策定のための調査にスラウェシに行っています。

 

[市川]

戦後賠償やODAの現場に参加した経験はありますか。日本建築学会で開催したシンポジウムで、早稲田大学の尾島先生は、商社の論理で援助国の要求に沿わないかたちで支援が行われることがすごく嫌だったと述懐されています(「戦後空間シンポジウム05:賠償・援助・振興──戦後空間のアジア」2020年)。

 

[布野]

インドネシアでは、研究費を使って現地に小さな住居を建築することがありました。当時は50万円ほどあれば小屋くらいは建てられたんです。大連では、民間の建設会社に依頼されて満鉄宿舎の再開発を進めていました。科研費や民間財団の資金を活用した調査プロジェクトが多いですね。ただ、スラバヤ・エコハウスはいわゆる建設ODAに依っています。ODAではありませんが、最近はJICAに協力して、エジプトのカイロに日本式学校を建てる仕事をしました。報酬は全くもらっていません、ヴォランティアです。当初はこうした吉武研究室流のプロトタイプを示すような仕事は乗り気でなかったのですが、現地に任せてしまうと、校長室がとても大きかったり、職員室がなかったり、いろいろ問題がある。ある程度こちらで主導したほうがいいと思ったわけです。エジプトの教育省営繕局の設計担当者がすべて女性だったことも印象的ですが、そのうち優秀な設計者を日本に呼んで日本の学校建築を見てもらい、学校建築の専門家である長澤悟先生と一緒に案を練りました。100校建設するということでしたが、最初の3校は現場も見ています。

 

 

ISAIAの設立と日中韓の学術交流

[市川]

最後に、日本建築学会がおこなっている「ISAIA(アジアの建築交流国際シンポジウム)」の設立経緯についてもお伺いしたいです。布野先生は深くコミットされていますよね。

 

[布野]

ISAIAはもともと、1986年の日本建築学会100周年事業のひとつとして、日本建築学会の活動の場をアジアに開こうという趣旨から構想されたものです。その準備委員会は、九州大学の青木正夫先生、京都大学の西川幸治先生、東京大学の鈴木成文先生、早稲田大学の尾島俊雄先生など、各大学の当時の若手教授を中心に構成されました。はじめはインドまでを含むアジア全域の学術交流を企図していたようで、多くの先生がアジア各国に派遣されました。僕は鈴木先生の助手として、ISAIA設立の様子を間近で見ていて、最初のシンポジウムにも出席しています。

10年ほど後、その後の動きがなかったので、僕が尾島先生を突きあげるかたちで活動が再開されました。そのときに尾島先生がまずは漢字文化圏で固めようということで、日本建築学会、大韓建築学会、中国建築学会の三学会による第二回シンポジウムが1998年に神戸で開かれました。中川武先生が委員長で、重村力先生が実行委員長でした。僕は2004年の第5回松江でのシンポジウムを実行委員長として担当しました。その後、中国に行くたびに中国建築学会を訪問して、なるべく参加国を広げようとする働きかけをしたんですが、中国と台湾をめぐる問題などがあり、実現にいたってきませんでした。

 

[市川]

政治的な問題が絡むと、学術交流も難しいところがありますね。ともあれ結果として、現在に至るまで堅調に開催されています。

 

[布野]

僕が中心としてかかわっていた時代は、胡恵琴さんが『建築学報』の編集委員でもあったし、中国建築学会には事務局長にいたるまで知り合いも多く、大きなもめごとはありませんでした。ただし三学会合同の論文誌であるJAABE(Journal of Asian Architecture and Building Engineering)の関係では、先生たちが審査委員をしたがらないとか、SCIに登録されないなどさまざまな問題はありました。

 

[市川]

ISAIAを通じて見えてくる、昨今の中国の研究者や学術研究についてはどのような印象ですか。

 

[布野]

どんどんレヴェルが上がっていると認識しています。大会発表でも、英語スキルの低い日本人のほうが見劣りするような発表が増えてきました。三学会が切磋琢磨して、ISAIA自体のレヴェルが上がってきており、今後はアジアに関心のある研究者が欧米からも参加するようになればと思います。

 

[市川]

来年はISAIAが京都で行われますし、今後もより活発な学術交流が続くといいですね(図表9。本日はありがとうございました。


2026年3月30日月曜日

日本の住宅生産と建築家 建築の設計と生産:その歴史と現在の課題をめぐって, A-Forum 、アーキテクト/ビルダー研究会Architect/Builder Study Group、20161115

建築討論10号

AーForumアーキテクト/ビルダー研究会Architect/Builder Study Group共催) 

建築の設計と生産:その歴史と現在の課題をめぐって03

Architectural Design and Build: Its History and the Present Issues 03. 

日本の住宅生産と建築家 建築の設計と生産:その歴史と現在の課題をめぐって03

House Production in Japan's and Architects. Architectural Design and Build: Its History and the Present Issues 03.

Home»Featured»日本の住宅生産と建築家 建築の設計と生産:その歴史と現在の課題をめぐって03

── By 権藤智之  松澤静男  泉幸甫  八巻秀房  布野修司  斎藤公男 | 2016/11/15 | Featuredけんちくとーろん010号:2016年冬(10月-12月) | 0 comments

コーディネーター:布野修司、斎藤公男
パネリスト:権藤智之、松澤静男、泉幸輔、八巻秀房

参加者:吉田倬郎、香月真大、中村良和、川井操、篠崎正彦、池尻隆史、安藤正雄、山岸輝樹ほか
記録:長谷部勉

日時:平成28929()1730分~
会場:A-Forum(東京都千代田区神田駿河台1−5−5レモンパート
ビル5階)

主旨
本シリーズ第1回目、2回目では、新国立競技場建築プロジェクト、そして東京オリンピック関連施設を例にとり、デザインビルドあるいは設計施工一括方式を巡る諸問題について議論した。本シリーズを通じた目的は、建築生産方式(=プロジェクト方式=発注方式)の多様化の必要性と課題を確認し、デザイン、エンジニアリング、コンストラクションの創造的協働の未来像を展望することにあるが、コスト高騰、入札不調といった現今の景況下、設計と施工の分離を前提とした伝統的な専業の枠組みが侵されていることがまず議論されてきている。
シリーズ第3回は、「日本の住宅設計生産と建築家」をタイトルに、「町場」における建築家の役割をめぐって議論したい。戦後まもなく住宅設計をめぐる問題は、すなわちどのような住宅をどのように設計し、どのような体制によって建設していくかは、多くの建築家にとって主要な関心事であった。そして、日本住宅公団が設立され、プレファブ住宅メーカーが成立していくと、建築家の住宅の設計に関する建築家の役割は相対的に低下していったように思われる。その後、住宅芸術論、「最後の砦としての住宅設計」論、アーキテクト・ビルダー論、地域住宅工房論などによって議論が提起されてきたが、その帰趨を確認しながら、日本の住宅設計生産と建築家の未来を展望したい。


















布野:アーキテクト/ビルダー研究会(AB研究会)の第3回になります。A-Forumについては齋藤先生から後程紹介いただきますが、A-Forumという大変魅力的な場所の創立を知りまして、私は昨年四半世紀ぶりに東京に戻ってきたのですが、是非参加したいと無理を言いまして、このような研究会(アーキテクト/ビルダー研究会)を持たせていただくことになりました。また、私の建築学会で唯一残った仕事に建築討論委員会があります。ようやくウェブマガジン(『建築討論』http://touron.aij.or.jp/)が立ち上がりまして、日刊、週刊、月刊の出来るようなメディアが構築できました。101日付けで10号になります。今日の議論はそれとも共催の形で掲載させていただきたくお願いしております。本日の全体進行は私がいたしますが、コーディネーターとして齋藤先生にこの場の意味について、お話いただきたいと思います。

齋藤公雄

齋藤公雄

齋藤:皆さんこんばんは。はじめての方も何名かいらっしゃると思います。ようこそA-Forumへ。なぜこの場所が良いかと言う話をすると長くなりますので、皆さんの想像にお任せいたしますが、ご覧のように大変良い場所でして、アーキテクトとエンジニアが交流する場になっているのではないかと思います。私が現在代表を努めておりますが、時々、和田章先生、神田順先生もいらっしゃいます。もうじき3年になりますが、やっといろんな活動を皆さんにお伝えできるようになりました。布野先生の東京凱旋をきっかけにこの春に一度フォーラムをやろうということになりまして、これは基本的に1/月しています。設計と生産をテーマに最近のデザインビルドの問題といいますか、私も大変関心のある東京オリンピック施設について議論してきましたが、それが終わり、研究会に振り替えるということでアーキテクト/ビルダー研究会が発足しました。今日は皆さんの活発な意見を聞いて勉強したいと思います。懇親会は飲みながらというのがスタイルです。会費が高過ぎるのではないかと個人的には思っていますが()

布野:ご案内にも記載させていただきましたが、前2回は安藤正雄先生がリードされました。1 回目は例の新国立競技場問題に関連してデザインビルドをテーマとしました。設計施工の分離を前提にしてきた建築家(日本建築家協会)の立場からは、そういう仕組みで良いのかという問いがありますし、大規模な建築物の場合、建築家とエンジニアがどういう形で想像的な仕事をして行けば良いのかという問題意識もありました。2回目は土木も含め、多様化する発注の形態について議論をいたしました。12回の議論は、先程ご紹介しましたウェブマガジン『建築討論』にそのままアップされているので、ご高覧いただけると幸いです。
今回は、建築の設計と生産をめぐって「町場」、要するに住宅の設計と施工の問題を取り上げたいと思います。前2回は大手のゼネコンあるいは組織事務所の活動が中心になりましたが、「町場」レヴェルにおいてもデザインビルドの問題が昔からあります。ちょっと振り返りますと、住宅の設計の場合、設計だけだけでは食えない、という問題があります。「代願屋」という言葉は今でもあるのでしょうか?大工さん、工務店に代わって建築確認申請書を作成するんですが、40年前で20万円くらいでした。地域の建築家の場合、20万円で食べていくためには年間何棟分の図面を描けばいいかというのが実態でした。
建築家は、地域でどう生きていけばいいのか、というのは本日のテーマに関わります。今でも鮮明に覚えていますが、日本建築家協会が70年代に公正取引委員会から業務独占を指摘されたことがあります。設計料率を決めて特権的に設計料を貰いますという体制が問題にされたわけです。また、日本建築家協会所属の建築家とそれ以外の建築家を差別化するシステムが問題にされたわけです。結果は、ご存知のように、建設省(国交省)で適正な設計料算定の基準が告示としてつくられるようになるわけですが、どれだけ設計料をクライアントから頂けるか、その実態はそう変わっていないと思います。算定基準自体問題です。作業時間で設計料を算定するというのですが、使った時間を全て積み上げれば莫大な量になる。時間があれば時間があるだけ時間を使う、設計というのはそういうものだと思います。また、能力がある建築家は、設計を始めたばかりの建築家よりはるかにかかる時間は少ないでしょう。
亡くなった大谷幸夫先生は、当時、建築家は2級建築士と連帯せよ、工務店と連帯せよ、と発言されていました。「代願」で図面を描くだけの20万円では食えない。デザインビルド、建築設計と生産を含めて、その中で仕事をして行くのが良いのではないかという趣旨でした。ちょうどそれと同じ時期に、クリストファー・アレグザンダーがアーキテクト・ビルダー論を唱えていたわけです。私が東洋大に着任した時には、今日は当時の学生、いまや様々な場所で活躍する皆さんが結構来てくれていますが、大工の息子だったり、板金屋の息子だったり、職人さんの息子だったり、そういう学生が多かった。そうした学生が何を目指して、何を教えれば良いのかを考え...。

齋藤:ちょうど権藤先生がいらっしゃいました。

布野:予定より早く来ていただけました。初めまして。ちょうど座りがいいので、やっぱりトップバッターをお願いいたします。前座みたいな話をしていますので、準備をお願いいたします。
C.
アレグザンダーは、盈進学園の設計を頼まれて、無謀にもセルフビルドをやりましたし、『住宅の生産』という本を書いていました。東洋大に着任した時に、建築に何らかのかたちで関係する親御さんの子弟を預かって、どういう教育をしようかと考えた時にアーキテクト・ビルダーという概念がぴったりきました。京大に移った時はそういう息子は少ないし、大手志向なんで、コミュニティ・アーキテクトに切り替えました()。その辺の総括も含めて議論をして行きたいと思います。
デザインビルドという問題を「町場」レヴェルで考えて来たんですが、現在それが、どうなっているのかというのをまず確認したいと思います。「日本の住宅生産と建築家」という凄いタイトルを付けさせていだいた訳ですが、準備が出来たようですので、まず権藤智之先生からお願いいたします。最初松村秀一先生にお願いしたのですが、「町場」の問題については権藤先生が一番弟子ということでご推薦頂きました。松村先生は次においでいただくことになると思います。権藤先生には、マクロに見た時の「日本の住宅建設と供給主体の歴史的変遷」ついてお話いただきます。それから「家づくりの会」は、住宅設計の分野で首都圏において頑張っている団体ですが、事前打合せも何もしていません、泉幸輔先生からご推薦いただいた松澤静男さんにお願いします。そして続いて、ずっと「家づくりの会」の代表をやられていて、今ではさらに別の展開もされている泉先生。最後に我が弟子の中で、一番アーキテクト・ビルダーとかコミュニティ・アーキテクトに拘って実践している八巻秀房さんにお願いしたいと思います。
大変申し訳ありませんが、それぞれ15分程度でお願いしたいと思います。あとは飲みながら議論したいと思います()。僕が既に15分使っていますので延びるとは思いますが、それでは権藤先生お願いいたします。

権藤智之

権藤智之

「日本の住宅建設と供給主体の変遷」権藤智之

権藤:首都大学東京の権藤と申します。布野先生とは3回程あったことがあります()
大まかに日本の住宅生産の流れを振り返るというお題をいただきましたが、時間も限られているので、対象を戸建住宅にしぼり、現状どのような住宅生産者がいるかと、そうした市場が戦後どのように形成されてきたのかを10年おきくらいでまとめたいと思います。
まず現状について、戸建住宅はストック、フローともに在来構法、木造軸組構法がほとんどです。フローについて見ると、日本の新築戸建における在来構法の割合は70%位です。統計上、70年代後半から木造プレハブが別分類になったり、80年代後半から2×4構法が別分類になったりしていますが、在来構法が7080%くらいの割合を保っています。(-1)

図-1

-1

誰が建てているかを見ると、在来構法はほとんどが新築50戸未満/年の工務店やビルダーが建てています。国交省の資料を見ると14/年間も20%程度います。一方でプレハブ住宅は積水ハウス、大和ハウス、ミサワホーム等々、1万戸/年を超えるか迫るような大企業が10社近くもあるといった対照的な状況です。(-2)

図-2

-2

巨大ハウスメーカー共存

布野:今トータルで新築は何パーセントがメーカーでしょうか?

権藤:共同住宅も含めると、プレハブ住宅の割合は15%程度です。大きい主体と小さい主体が共存しているのが生産者から見た市場の特徴だと思います。(-3)

図-3

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どのように住宅市場が形成されたか

権藤:戦後どのように市場が形成されかたですが、終戦時に、日本の住宅は420万戸の不足と言われました。
建築家も前川國男のプレモスだったり、浦辺鎮太郎のクラケンのようにプレハブ住宅を設計する取り組みを行いました。プレモスは炭鉱住宅にも使われかなりの量が建てられました(-4)

図-4

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住宅金融公庫

権藤:1950年代になると、住宅の三本柱、公庫、公営、公団ができます。戸建住宅に一番影響が大きいのが公庫で、住宅を建てるお金を借りる仕組みを国がつくりました。結果からいうと、1945年から1955年までに建設された住宅433万戸のうち、公営、公団などの政府施策住宅は公庫を含めても120万戸程度でした。7割ほどは民間が自力で住宅を建てていました(山本理奈、マイホーム神話の生成と臨界 住宅社会学の試み、20142月より)。ただ、公庫によって、お金を借りて自分たちで家を建てる流れができますし、これが持ち家政策につながります。
公庫ができると住宅生産者がどう変わるかですが、それまで戸建住宅を建てる人というのは、自分で大工さん、左官屋さん、瓦屋さんといった職人を呼んで工事を直営していました。大工の棟梁がなじみの職人を連れてくるにしても、施主も職人に毎回支払ったり大変だったわけです。公庫ができると、大工という個人ではなく工務店という法人が住宅工事一式を請け負うかたちに変わりました。そうしないと公庫からお金が借りられなかったのです。公庫を使った割合は1960年代通じて20%くらいですが、法人にならないと公庫の仕事は受けられないので多くの工務店が生まれました。また、公庫仕様書に沿った工事をする中で、技術的な底上げも行われました。 (-5)

図-5

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月賦住宅

権藤:公庫と同じように金融が大事という話で、1950年に月賦住宅の大手3社が設立しています。太平住宅、日本電建、殖産住宅の三社です。左側は殖産住宅の広告で「僅か1000円の月賦で建つ」と書いていますが、お金を毎月月賦で積み立てて、住宅費用の1/3がたまると、月賦住宅会社が残り2/3を貸してくれて家が建てられます。この月賦住宅の会社もかなり大きくて、右の折れ線グラフは左側が殖産住宅で、右側が積水ハウスの供給戸数です。殖産住宅は1960年の時点で1万戸/年を超えています。多い時は3万戸/年でした。これも公庫と似ていますが、月賦住宅の指定業者になれば、現金払いの仕事がもらえるので、工務店は指定業者になろうと技術を磨いたり組織をしっかりさせていきます。 (-6)

図-6

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プレハブ住宅

権藤:1960年代になると、現在も大量に住宅を供給している大手プレハブ住宅メーカーが登場します。
左側のミゼットハウスは大和ハウスの最初の住宅で、3時間で建てる611プランしかない住宅です。これは庭先に建てるものでしたが、壁や屋根のパネルの種類も限られていて、大量に建てると量産効果でどんどん安くなって行きます。(-7)

図-7

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セキスイA

権藤:ミゼットハウスの1年後にはセキスイハウスA型が登場します。これは立面を見ていただくと分かりますが、門型の3ヒンジラーメンをしていて、基本的に1方向にしか延長できないシステムです。ここにも同じ部品を大量につくって安くしようという発想が読み取れます。柱は、Cチャン2つを背中合わせにしています。この柱の間にオメガボルトという曲がったボルトを引っかけて両側からパネルを接合する簡易な技術が使われています。(-8)

図-8

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量から質へ

権藤:このように196070年頃にかけてプレハブ住宅が出そろい大量生産に乗り出すのですが、1968年には統計上、総住宅戸数が総世帯数を上回ります。次の1973年の調査時には全都道府県で住宅戸数が世帯数を上回りますから、この時期に数の上では住宅が足りました。家が420万戸足りないという状況から30年弱で、家の数は足りる状況になり、テーマは量から質に変わります。(-9)

図-9 総住宅戸数と総世帯数の推移(住宅・土地統計調査)

-9 総住宅戸数と総世帯数の推移(住宅・土地統計調査)

権藤:住宅は数字の上で足りた1970年頃、パイロットハウス(技術考案競技)が開かれます。これは一種のプレハブ住宅のコンペです。この前には設備ユニット試作競技という3点ユニット(風呂、トイレ、洗面台)やキッチンユニットのコンペもありました。パイロットハウスの目的は、メーカーに開発を促したり、他業種から住宅産業への参入を促すというものでした。ただ、入選したのは現在も住宅建設を手がける大手ゼネコンやハウスメーカーがほとんどで、それ以外は三井造船、久保田鉄工くらいです。例えば、積水ハウスは1971年に着工戸数が1万戸を超えるわけで、1960年頃から出始めたプレハブ住宅メーカーは既に大手になっていました。革新的な技術を開発するぞというよりは、自社工場の設備を増強して、品質を着実に安定させて戸数を伸ばしていたわけです。杉山英男はパイロットハウスの審査評で、プレハブ住宅メーカーの提案の多くが既存の経験の集大成であり「手堅く外野犠牲フライで還したという感じ」と述べています。図(-10)はナショナル住宅建材、今のパナホームの入選案です。左の図の左中央に描かれたハートコアユニットという3点ユニットが技術的には肝ですが、全体はわりと普通な外観で、今でも住宅地を歩けば建っていそうです。ミゼットハウスやセキスイハウスA型とは違ってこの頃には普通の外観になって部品の数も増加して安く大量に、がテーマではなくなります。この時期は欠陥プレハブ問題などもありましたが、プレハブ住宅メーカーが設計、生産、販売など住宅をつくるシステムを確立させ、規模を拡大させていった時期と言えます。

図-10

-10

建築家とプレハブ

権藤:このようにプレハブ住宅メーカーが独り立ちするとどうなるかですが、建築家との仲がぎくしゃくし始めます。前川國男さんがプレモスを設計していた頃、あるいは戦前の蔵田周忠さんや土浦亀城さんの時代は工業化やその一種である乾式工法に憧れがありました。これが1970年代になってパイロットハウスやその次の芦屋浜集合住宅設計競技のころになりますと、建築家からの反発が見られます。パイロットハウスや芦屋浜で審査委員を務めた内田祥哉先生が建築家協会で対談した記事を見ると、内田先生が「数年前は建築家が作品を発表するとき工業化への道を開いたといって紹介していたが、34年前には建築家がそっぽを向いてしまった」と指摘しているのに対して、建築家協会の編集部から、「インダストリアリゼーションに建築家は参加すべきか」、「建築家はアンチテクノロジーのムーブメントにこそ使命を考えるべきだ(いずれも筆者要約)」などと詰め寄られています(内田祥哉『インダストリアリゼーションの波と建築家の職能』建築家’721972年秋)。プレハブ住宅メーカーが大きくなると、建築家とプレハブ住宅や住宅工業化の接点はほとんどなくなるし、批判的な言説も出てくるといった流れかと思います。

図-11 プレハブ戸建住宅着工戸数と新築戸建住宅に占める割合

-11 プレハブ戸建住宅着工戸数と新築戸建住宅に占める割合

木造住宅振興

権藤:再度統計に戻ります。プレハブ建築協会50年史からのデータを元にしたグラフですが1970年代に入ってプレハブ住宅の割合が伸び悩みます。戦後の住宅政策は工業化推進でやってきたわけですが、新設戸建に占めるプレハブ住宅の割合は1974年度の11.3%をピークに再び1桁に戻るなど停滞します。 (-11)
そこで日本の住宅は誰が建てているかという話になり、結局、大半は結局在来構法だと気づくわけです。
そうした流れから1980年頃になると国は木造住宅振興に舵を切ります。大学や建築学会も同じような流れです。1977年に住木センター(日本住宅・木材技術センター)ができ、1980年に日本建築学会で在来構法研究懇談会ができます。1982年にはHOPE計画が各地で始まりますし、各地で地域型住宅研究が盛んになります。1984年には木造住宅合理化を目的とし、いえづくり85コンペが開催され、1986年には他分野の実務家、研究者からなる木造建築研究フォーラムが、1987年には建設省に木造住宅振興室ができました。当時の研究を見ると、木造住宅が地域の職人や部品のネットワークをいかに活用してつくられているかを調べていますし、HOPE計画では各地のネットワークをたばねる設計者や工務店の発掘に力を入れています。地域の職人や部品を使うことによる経済効果や、オープンソースの職人、部品を束ねる工務店、設計事務所のマネジメントに注目が集まっていたのだと思います。(-12)

図-12

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木造住宅の合理化

権藤:1990年代に入ると、いえづくり85の流れだと思いますが、木造住宅合理化の構工法が普及してきます。1990年にはプレカット工場は全国で500カ所くらいありました。そこから工場数も割合も伸びて現在首都圏では、躯体のプレカットは100%に近いのではないでしょうか?他にもクレテックなどの金物工法がこの時期に出てきて、阪神大震災を契機に割合を増やすといったことが起こります。(-13)

図-13 プレカット工場数と利用率の推移(一般社団法人 全国木造住宅機械プレカット協会調べ)

-13 プレカット工場数と利用率の推移(一般社団法人 全国木造住宅機械プレカット協会調べ)

性能向上

権藤:躯体構法の合理化と同じく、1990年頃から在来構法の環境性能向上も本格化します。80年代後半になりますと、1985年にFP工法設立、1987年にOMソーラー協会設立、1988年に新在協(現在の新住協)、1990年にBB工法といった断熱気密だったり、太陽熱利用で差別化したグループが出てきて、首都圏でも設計事務所や工務店がこれに加わります。気付くと断熱気密工法もよく違いが分からないくらい種類が増えてきます。こうした断熱気密関係のグループも沢山ありますが、制度も次から次に出て来ます。
こうなると、先ほどのプレカットなどもそうですが、別に小規模な工務店や設計事務所が工場を持っていなくても、最先端の部材加工や断熱気密工法を使えるようになります。一方で、昔ながらの工務店さんや設計事務所だと、断熱気密の勉強をしたり、新しい制度に求められる書類を揃えたりといった勉強や事務作業に対応できなくなってきます。(-14)

図-14 左:高気密高断熱工法の一覧、南雄三、建築技術、1996年7月号より転載、右:省エネ施策の流れ、南雄三、建築技術2016年1月号より転載

-14 左:高気密高断熱工法の一覧、南雄三、建築技術、19967月号より転載、右:省エネ施策の流れ、南雄三、建築技術20161月号より転載

パワービルダー

権藤:2000年頃からは、在来構法の世界にパワービルダーが出てきます。パワービルダーというのは、土地付きの分譲住宅を34千万円で、年間数千棟規模で売っています。
左の1999年度から2005年度までの大手4社の販売戸数のグラフを見ると各社が年間20004000戸ずつくらい販売していますが、今はこの4社にもう2社を加えた6社が全部一緒になって、年間34万棟の戸建を分譲しています。これは戸建だけなら積水ハウスの23倍の規模です。パワービルダーの特徴は、先ほどプレカット等で見たオープンソースの活用です。近年は内製化の動きも見られますが、少なくとも2000年代は、設計事務所もプレカット工場も不動産仲介も徹底してアウトソースです。また、2000年にできた品確法も性能の証明に使います。戦後、蓄積してきた住宅づくりの資源を徹底的に活用する新しいタイプの住宅生産者といえます。(-15)

図-15

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現在の課題

権藤:以上、ざっと戦後の流れを見てきましたが、現在の課題として一番大きいのは着工数の減少です。広さあたりの着工数が減る中で住宅生産者は地域を絞ってリフォーム等までワンストップで手がけるか、特徴のある住宅や技術で差別化して地域を広げていくかの2択になりつつあると思います。プレハブ住宅は全国、工務店は各地域というイメージでしたが、プレハブ住宅でも地域を絞るようなところが見られますし、工務店でも遠隔地施工に乗り出すところもあります。もう1つの大きな課題は、技術的な成熟によって差別化が難しくなっていることです。1990年頃から断熱気密や合理化工法が本格的に普及したと言いましたが、例えば北海道だと暖かい家というだけではお客さんはなかなか来ません。今まで断熱気密を一生懸命やってきた設計事務所、工務店ほど、対応が難しいかもしれません。プレハブ住宅では、ブランドや品質が差別化のキーワードにされ、在来の世界は地域、職人、国産材といったキーワードをよく聞くと思います。(-16)

図-16

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職人不足

権藤:3点目にアウトソースの限界と書きました。先ほどのパワービルダーは象徴的ですが、プレハブ住宅も現場で施工しているのは工務店だったりするわけです。工務店だって、プレカット工場にせよ、断熱気密の技術的な部分にせよ、外部の知識や技術を使っているところがほとんどです。大工も社員大工を雇用しているところは少ないと思います。そうした中で、在来構法でもプレカット工場に平面図、断面図を渡せば伏図を描いてもらえるとなってくると、自分たちに残った技術は何か答えるのが難しくなってきます。アウトソースで良いような気もしますが、現在のように職人不足になると、自社で大工をかかえないでこれから住宅を建てていけるのか見通しが立てられなくなってきます。1980年代には大工は90万人いましたが、2010年には半分くらいに減りました。特に、2010年には、15から19歳の大工は2150人ですから、若い大工が本当に減っています。10年後今のようにオープンソースを使うだけで家を建てられるかは不透明だと思います。(-17)

図-17

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まとめ

権藤:まとめます。住宅不足の時代に工務店やプレハブ住宅メーカーといった住宅生産者が出そろいます。1970年頃からは、住宅不足が数字の上では解消されて、プレハブ住宅メーカーの位置づけが変わったり、1980年に近くなると、木造に再び注目が集まるといった時期です。1990年以降は、性能向上や合理化が進み、そうした技術が現在一通り揃ったと思います。最後に対照的な2構法と書きましたが、在来構法はオープンな技術です。技術がオープンなままで発達して、今はCADを描けば、耐震性能、温熱性能、見積等々全て出てきます。部品も日々進化していますし、ローンも受けられます。それを徹底的に活用しているのがパワービルダーという新しい生産者だと思います。プレハブ住宅の方は、高度成長期に自社工場、自社オリジナル部品でやってきました。それは規模を前提としていたのですが、縮小期に入ると重たい仕組みが維持できるのかといったところが課題になってきているのではないかと思います。(-18)

図-18

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布野:私は何となくおさらいになりましたが、権藤先生はどういう立場でお話になったのですか?
パワービルダーとかプレファブ・メーカーとか住宅産業の立場なのか、あるいは国交省の制度に焦点を当てたのか?戸建に限定したのではないかと思いますが、日本の住宅生産といいますと集合住宅の問題もあります。職人不足が問題だとか、これからはBIMによって戸建がつくられていくことになるとか、そういう未来予測の話もありました。これから出てくるスピーカーの話はどう位置づけられるか、が問題になると思います。
続いて、「家づくりの会」の松澤さんにお願いします。「家づくりの会」の立ち上がりの初期に、私は呼ばれて、中野サンプラザで、「建築家と住宅」と題する連続講義を5回程したことがあります(「住宅生産の構造と建築家」19890930、「建築家と住宅の戦後史」19891021、「工業化住宅と住宅設計」19891202、「地域住宅計画」19900127、「ハウジング計画論の展開-東南アジアのセルフヘルプ・ハウジング」、19900224)。『群居』で、建築家はどう住宅設計に取り組むべきか、日本の住宅生産はどうあるべきかについてといったことを考えていた訳ですが、内田祥哉先生が全回出席されて驚いた思い出があります。権藤先生の話を聞きながら、大きく状況は変わってきたなあ、と確認することができました。「家づくりの会」の当初は、僕と同じくらいかちょっと上の団塊の世代ですが、地方から東京に来て建築を勉強して、地方に仕事がない、あったかもしれないけど東京により需要があって可能性がある、個別に注文を取るにしてもそう縁があるわけではない、そこでネットワークをつくろうということではなかったんじゃないか、と思います。集団として仕事を取ろうという戦略ですね。『朝日新聞』に広告を打ってユーザーを集める、住宅相談会をする、そして住宅設計のチャンスを得る、こういう粗雑な、雑駁な印象でいいんでしょうか?中野サンプラザは、松澤さんも聞いておられたそうですが?

松澤静男

松澤静男

「家づくりの会と設計施工」松澤静男

松澤:資料を持参しましたが、「家づくりの会」が毎月出しているニュースなどです。
A3
サイズの大きなものは「家づくりの会」の中につくったKINOIE SEVENのパンフレットです。建築家7人のグループで積極的に自分たちの個性を売り、受注をして行こうものです。後でお話しますが、工務店さん等と一緒に進めようとしています。
「家づくりの会」は30(1982)くらい前に発足しまして、私が入ったのはそれから5年後くらいになるのですが、自分達が研鑽して行こうということ、食えない時代だったので、建主との出会いの場所をつくろうとしました。それから10年、15年は他にライバルもなく、建築家として活動しているとそれが評価され、人が集まったので、仕事が順調に受注でき建築家の住宅が増えて行く流れができましたが、様々なプロデュース会社などが出来て、ネットでいろんな情報が得られるようになったので、セミナーを開催しても誰も来ない時代に変わって来ています。
最近は建主との出会いの場をつくることが難しくなってきました。(-19)

図-19

-19

40数名会員がいますが、それぞれが先程言いましたプロデュース会社にも所属していますし、「家づくりの会」で受注することが難しくなりました。初期のころは、30/年くらいの受注があって、会の運営をまかなってきましたが、最近は年間一桁に近いところまで減ってしまっています。
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年前位になりますが、8万円/軒とか10万円/軒とかで代願仕事をしたことがありましたが、いまでもそれくらいの金額で皆さんやられているようです。3階だったり、いろんな条件がついて60万円/軒くらいになることもあります。1ヶ月に何軒も出来てしまいますから、私たちより稼いでいるかもしれません。記憶に残っているのは代願専門の事務所が10年程前にあり、そこはかなり利益を上げていました。下請けをしていれば食えるが、元請けをすると食えない時代が続いていたので、会に入ることによって、その中で仕事を受注していけたらということも入会きっかけの一つですが、入会の1番の理由は、先輩達がしている事が面白く、現場もみることができ、勉強になることでした。
今は家づくり学校を開いていますが、独立したけどあまり仕事がないような、若い人たちが体験する場が少ないので、仕事にも繋がってきません。私たちが良かったのは、最初の10年位がバブルの時代に入っていたからで、その後は先の読めない時代に入ってしまいました。
私たちがしっかりしていれば年間20万戸程度の注文住宅をつくる層はあると思いましたが、流石にリーマンショック以降から、仕事の受注が苦しくなってきています。
相談窓口、見学会とか、建築家選びで迷ったらと、ホームページを開設したり、いろんなことをしていますが、情報が多い時代ですから、なかなか人を集めることが出来なくなってきています。大塚事務局から始まり、現在は路面店のギャラリーがありますが、なかなか機能していません。(-20)

図-20

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その他の活動として研鑽活動をしています。私たちにとっては勉強になるのですが、食って行けない人たちにとっては、まだまだ苦しい状態です。建築道場、木の研究会等いろいろつくっていますが、活動としましては、住宅の設計にならないとグループが元気にならない。そういう中でKINOIE SEVENをつくりました。(-21)

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個性を出したいということや、ただ建築家がいい家つくりますよというだけでは、仕事の受注は難しい。7人で他は入れませんよと会でも宣言していて、今は8人になりましたが、やる気のある人だけでやりたいので、定例会に来ない人は入れていません。私たちが中心に木の家をつくるということで、山の人達や製材業者、工務店も入っています。(-23)
工務店などのエネルギーに吸収されないようにしながら、出来る限り私たちが中心でやろうとしています。

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これは発足当時の資料ですが、前列が僕らで後列は協力会社。台風の合間に青空でジャンプしろということで、その写真を取るためだけに、集まった訳です。(-24)

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コピーライターがキャッチコピーをつくり、それに乗って活動しています。
かつて建築家が増えた時期でもあったように思います。大学院を出たらすぐに建築事務所をつくる時代。そういう時代に裾野は広がり、若い人の活動は広がったのですが、徐々に仕事が取れなくなってきています。頂点は有名建築家が、その下の価格の高い層は大手ハウスメーカーそして地域で頑張っている工務店、その下に私たちや地域の工務店がいて、その下のローコストが若い建築家の仕事になっています。さらにその下のリノベーションもどんどん建築家に流れてきていると思います。
若い方に良い住宅を提供するということになってきているのですが、なかなか十分な設計をさせて貰えない。それも直したいということでKINOIE SEVENはちょっと高いけど良いねというところを狙った訳ですが、なかなか難しくて、工務店や林業関係者と協業しながら、少しでも品質を保ちながらちょっと高くてもいいよというところで動いています。(-25)

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建築家はこんな写真を撮るのに30回位飛んでいるのです。(-26)

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ここからはメンバーですけれど一人一人の個性を出そうということで、木の家といえば伝統工法や林産地仕様になりがちですが、KINOIE SEVEN建築家の木の家なのです。(-27〜図-33)

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こんなことで、KINOIE SEVENの活動をしているわけです。課題としては、建築家に頼むというところに持って行きたい訳ですが、先程申し上げた通り、工務店、製材所でも協和さんとか大きいところと組んでいますし、23日前も和歌山に行き、あるグループとお付き合いしたいと申し入れてきましたが、なかなか財務の面で動ききれていない状態です。お金の面で僕らがなんとかがんばらないと、と思いますし普通だと工務店に依存することになりがちですが、僕らの場合は7人が10万円ずつ出し、協賛工務店には5万円ずつお願いして、このチラシやホームページなどをつくりました。僕達が受注した場合は、家づくりの会の事務局に設計料の一部を納めて事務局運営費に充ててもらっています。工務店さんからは、1%いただき、広告宣伝費にしています。運営費にはしていません。次の仕事を得る為に工務店さんに受益者負担で動いていただいている訳ですが、基本的には工務店とか業者さんには、会場と集客をお願いして、僕らが企画とイベントをしながら、動かしています。その中で仕事を生み出しつくっています。ホームページに紹介して次に繋げるよう動いています。最近は1人女性が入りましたが、15人位まではいいかなと思いますが、12名位が限界かと思っています。そういうグループがいくつかできて来て、仕事を生み出しながら活動できればいいなと思っています。
アーキテクト・ビルダーということで、設計と施工の関係ですが、意外と工務店とくっつきながら、
工務店からお金を出してもらっていますが、スタンスは変えないようにしています。お金は出してもらっているが、ある程度自由に動いています。例えば、受注に協力したA工務店には見積を出しますが、コストがあわなければ他にお願いする事もあります。非常に難しい話でできればそこに依頼したいのですが、甘えができるので、スタンスを変えずに進めています。毎月1回の定例会を開催し、工務店さんにも出席いただいていますが、前回の定例会では建築家のメンバーだけが集まって、工務店との付き合い方を話しています。
昔と違って、建築家が独立した建築家としていられるというのは住宅の部門では難しくなってきていて、良い仕事をして生き残ろうとするとお互いに協力しないといけなくなってきている。
大きなところは比較的力があるので、いろんな企画や動きをして努力していますが、僕達位の規模だと生き残りが大変なものですから、お互いに協力しながらやっていきたいと思っています。実際の仕事量は思った程はありませんが、集まって活動することにより、工務店もスキルアップしますし、僕達もスキルアップしてきます。KINOIE SEVENとしては建築家と工務店の関係を推し量りながら、進めています。

布野:23質問させてください。松澤さんの仕事は全部「家づくりの会」経由ですか、あるいはKINOIE SEVENの仕事ですか?それ以外の仕事もされているのですか?工務店と契約しているのですか?それとも建築主とは設計契約をして進めているのですか?基本的にアーキテクトの立場を取っているのですか?

松澤:基本的には建築主との設計契約から始めます。KINOIE SEVENブランドというのはありませんが、8人それぞれのブランドで動いています。

布野:それでは、泉先生にお願いします。工務店と建築家の関係について、「家づくりの会」とは別に様々な動きをされてきています。

泉幸輔

泉幸輔

建築家と工務店の協同 泉幸輔

泉:はじめまして泉と申します。日大の生産工学部で教授をしながら設計屋をしています。今日は僕がいろいろやっていることを3つお話ししたいと思います。一つ目は松澤さんが話してくれた「家づくりの会」の活動です。松澤さんがほとんど紹介してくれたんですが、まずやったのは、建築家と建主の出会いの場をつくることです。それから研究活動をやってきました。独りで事務所をやっていると情報が限られるので、様々な情報を共有化するのが目的です。それから、学校をつくりました。社会に対して批評的で、主体的立場をとれる建築家の育成が目的です。設計は、自分たちが飯を食うためにやらなくてはなりませんが、アトリエ建築家としては批評的な精神を持っていないと意味が無いと考えるものですから、そういう若手を育てたいと思ってきたんです。それから、松澤さんが説明したKINOIE SEVENというような、建築家のブランド化も試みてきています。また、部品の開発もやりました。木製防火戸の準防火地域における木製でファイヤーテンパーという網入りでないペアガラスの防火戸の開発をしました。松澤さんも一緒にやってきましたが、第1作が今年の暮れには出来上がります。結構な影響があると思います。リフォーム研究会等「家づくりの会」は様々に活動を広げて来ています。大げさに言うと、ハウスメーカーに対抗するのが「家づくりの会」の設立趣旨なんです。
2
番目は僕自身の活動ですが、これも大げさに言うとゼネコンやデベロッパーが供給するマンションにどうやって対抗するかということなんですが、自分たちが気に入った集合住宅をつくりたいという活動です。3番目は工務店との協同です。これは最後に話したいと思います。(-34)

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プロフェッショナル協同の集合住宅

1番目は松澤さんがうまく話してくれたので割愛します。2番目は「職能の共同による集合住宅の建設」と書いた活動です。デベロッパーの場合は、企画、設計建設から販売までワンセットでマンションを供給するわけです。会計士、弁護士もついている。しかし、僕らが集合住宅をやろうとなると、弁護士や、会計士や、不動産の仲介者と協働する必要がある。そこで、不動産の仲介者や会計士、弁護士などの専門家とチームを組んでやろうと考えたんです。遺産相続をするためにマンションを建てるということが良くあります。その場合、その人が持っている資産全体の管理をしなければなりません。賃貸住宅の場合は優良な入居者がいないと荒れてしまいますから、そういう入居者をちゃんと紹介している会社が必要です。建築家だけではとてもすべてできないわけですから、いろんな人達が集まった。デベロッパーの場合はどうしても利益が目的になりますよね。お金を儲けるためにマンションを建てる。僕らのチームは、自分の働いた分だけお金をいただくとうことなんですね。
デベロッパーの場合は出来るだけ大きくつくろうとしますが、建築家がつくる場合は外部空間を広くゆったりとして緑が多い集合住宅をつくろうとします。普通、そういうマンションだと戸数が減るわけですから、収支計算があわなくなります。家賃を上げないといけなくなる。ところが、僕がチームでつくった集合住宅は自慢ではありませんが、都内だと13000/坪くらいでも収支は取れてしまう。周辺では、9000/坪くらいでも成立するんです。収支計算の絡繰りをきちっと研究するとそういうことが可能になります。(-35)

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先程、布野先生がおっしゃったアレグザンダーの直営工事みたいなものをずいぶん若いころからいろいろやって来たものですから、自分の親しい職人さんが沢山いたし、そうやってつくったのが、泰山館(たいさんかん) (-36)という集合住宅です。

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これは僕が40歳の時ですが、独りで設計したとしたら出来なかったと思いますが、周りに弁護士や公認会計士やいたから出来たんです。25年前です。
これは木造の集合住宅です(-37)。建築家は、よく周りの環境に併せてつくると言いますが、大きくつくるのがこつです。実はこの場合、もう少し大きくつくれるんです。ここに中庭をつくり、蛍が飛ぶというと、目白警察の裏なんですが、家賃は高くても入居者がいるんです。

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戸建集合住宅で間取りは全て違います。ビオトープの池があり、蛍が来るんです。こういった集合住宅をつくる時には、やはり収支計算が重要です。オーナーを損させる訳には行きませんから、シミュレーションを繰り返し、家賃収入や工事費が幾らとかいうことをいろんな要件を解き明かし、最終的な計画を決定して行きます。

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ここではギャラリーをつくりました。そうすると関係ない人が入ってきます。そしてここは良いねといい、私もこういうものをつくりたいとおっしゃるのです。そうすると仕事になります。第三者を集合住宅に入れると仕事になるんです。

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これは新しい集合住宅です。既存の建物がある敷地に新しいものを加えました。建て替え更新をしながら街の良い環境をつくりたいと思いました。既存のものに新しいものを付加しながら、そこに中庭をつくるというやり方です。

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建築家と工務店の協同

泉:三番目ですが、これは34年前からやっているのですが、工務店との協同する活動です。地域工務店の弱点はデザインと広報だと思います。設計が下手で広報が下手なんです。でも最近はデザインが上手くなってきています。OMソーラーハウスの影響が大きいと思います。奥村昭夫先生の門下というか、東京芸大系の建築家が協力してセミナーを開いているので、上手いデザインをする工務店が増えています。
それから『チルチンびと』という住宅雑誌があるんですが、そういうところでセミナー活動をして皆さんの設計力を上げています。しかし、基本的にデザインと広報が弱い。
建築家、特に若手建築家には仕事が無い。何か問題があった時、例えば設計瑕疵があった時にどうにもならなくなる。お互いが手を組んだ方が良いと思うし、昔から設計施工一体、手を組んだ方がいいと言ってるんです。建築家と工務店の相互が仕事の発注や受注に関係なくお互いに協力できる関係は無いか追及してるんです。普通は、建築家が設計して工務店が請負をするわけですね。しかし、それ以外に、もっと違う協力関係が無いかということなんです。
どういう仕事があるかというと、まず、工務店が受注した仕事の設計をすることが考えられます。この場合、いろいろな問題が出てきますし、建築家側はやりたくない仕事が結構あります。それから、工務店の営業設計の協力という仕事もあります。つまり、建主が来た時に工務店は案をつくらなければなりません。空振りになるかもしれませんが、どんどん図面を描いて提案するわけです。それが営業のお手伝いになる。さらに、工務店の設計力アップの為の指導や講習会を開催する。僕らの首をしめることになるかもしれませんが、建築家が食えることと日本の住宅が良くなるとは関係ない話ですから、建築家が食えなくなっても工務店が良いものをつくって、ちゃんとした価格で売ってくれれば良い訳ですからどんどんやるべきだと僕は思っています。それから、展示場をつくったりもします。これまで56軒の展示場をつくりました。
僕の事務所を卒業した人達でも、飯を食えない連中が沢山いる。一般的に、個性的でデザインの上手いボスのところで育った人は飯が食えないのが多いんです。親分の個性が強いんです。そういう人達はできるだけ工務店と組みあわせてあげたいなと思っています。(-41)

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対等な立場でお互いに協力しあうことにより、良い住宅づくりを目指す。建築家と工務店それぞれの間でこういうことをすれば上手く行くんではないかと思うんです。『チルチンびと』という雑誌が媒体となっている「工務店の会」というのがあります。全国で60数社が入っています。もうひとつ僕が関っている会に「地球の会」というのがあります。「地球の会」というのは日本の中でもデザイン力のある工務店の集まりです。意欲的な工務店は建築家を欲しがっています。僕らのところを卒業した連中が、こういったところと協力関係をつくれば良いと思っています。
建築家は予算に併せて適切な納まりで設計することが重要なんです。一般に建築家はだらしないので、バンバカバンバカ予算をオーバーしてしまいます。工務店は困ります。一方、工務店の方は適切な予算で設計しても材料や納まりを尊重しないということがあります。例えば、設計では天井はフラットなのに、工務店の親父が俺は格天井にしたいといって、変えてしまうということが良くあります。工務店が適切な利益を出せるように設計して上げないといけないし、工務店側は適正以上の利益を得ようとしてデザインや機能をおとしめないようにしなければならないと思います。工務店と建築家が人間的な信頼関係をどうつくっていくか、工務店と建築家が一緒になって仕事ができると良いなと思っています。

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布野:ありがとうございます。建築家という理念は、ちっとも揺らいでいない感じですね。むしろ、今では建築家が工務店を指導しないといけなくなっている状況でしょうか。昔は、例えば、篠原一男先生が住宅設計すると、それを施工してくれるちゃんとした工務店があってそれを実現することができた。今は、工務店の実力が落ちているかもしれない。後で議論しましょう。
最後になりましたが、八巻さんの方からお願いします。八巻さんは、東洋大学の布野研究室の3期生です。八巻さんはちょっと毛色が変わっていて、卒業してから勤めたことがありません。最初は「人民の為に住宅設計をやるんだ」といって、住宅消費者連盟とかなんとかに入った。その後、大野勝彦さんのところにいた山中文彦さんと一緒にやったりしながら、今は自分で活動しています。僕が布野先生の言っていることを一番実践しているといっているというので話してもらうことにしました。

八巻秀房

八巻秀房

「アーキテクト・ビルダーの実践」八巻秀房

八巻:私、株式会社山の木の八巻と申します。布野研究室の初期のころのOBです。
今日は私が最後ということで、私が卒業したころに「家づくりの会」の泉さんや松澤さんを憧れの眼差しでみていた先生方なので、その先生方を差し置いて話すことはできないと、「私は、前座に持って来てください」と布野先生にお願いしたのですが、忘れられていたみたいですね。
アーキテクト・ビルダーということで、先生からご指名をいただいたので、私の活動を振り返ってみました。原点は、82年から84年にかけての修士論文「木造住宅生産組織に関する研究」です。
この頃は生産組織のグループが6つの大学で始まりまして、安藤(正雄)先生、吉田(倬郎)先生、深尾(精一)先生初め、松留(愼一郎)さんと、熊谷と秩父で怒濤のごとく大野(勝彦)先生も参加されまして、フィールド調査をやりまくる感じでした。松留さんに夜お酒を飲んでいると「酒なんか飲んでいる場合じゃない。早くデータをまとめて」と言われたことを思い出します。
その時に感じたことですが、熊谷や秩父は非常に伝統的な町で、生産組織が非常に生き生きと生産していましたし、生産組織が関係性を持ちながら、祭りの中では主役を演じていました。
特に木造住宅について、そういう調査をしました。それが私の研究の原点です。
その後90年代から大野勝彦さんの設計の担当だった山中文彦さんと都内で設計事務所を立ち上げました。最初は何をやるか二人とも迷っていました。先程松澤さんも言われていましたが、なかなか利益が出ない。一生懸命図面を描いても工務店に提示して見積金額がまったくあわず、それを調整して行く間に設計が何だかわからなくなってしまう。
山中さんは、大野さんのところで住宅の開発を行っていたり、私は、現場管理をしていたこともあり、設計だけではなくて施工もやろうということになり、主に山中さんが設計をし、私が施工及びコーディネートをすることになりました。
その頃、ちょうどHOPE計画が立ち上がり、大野勝彦さんが書かれた「地域住宅工房のネットワーク」1988年だったと思います。当時、この本が非常に輝かしく響いてきて、私達もできるだけ地域で地域らしい住宅をつくろうと思い始めました。しかし、なにせ東京だったもので、東京で地域とは何だということになりました。たまたま知人の紹介で、山形県の金山町という杉の産地の山林所有者と知り合いになり、現地を訪ねました。
素晴らしく良い杉があるということに気付きました。しかも大工さん達の技能が優れていたのでその技能を活かし、金山町の木材を金山町で刻み、首都圏で組み立ててもらおうと。それで大工さんは刻んで野地板を葺いて、雨がかからない状態まで上棟工事をしてもらいます。その後は首都圏の大工さんに引き継いで行くということで、木材産地の生産組織の人々と首都圏の生産組織の人々を結びつけながら、山形県の優良な材料を使って首都圏で家をつくるということを始めました。
私たちは自分たちのできることをやろうと、このリレー方式による産直住宅は、16年間位で90棟程建てました。これも設計と施工をやりながらつくっていました。
その後、両親も歳を取って来たので、埼玉県の坂戸市にある実家に帰り、独立し、その隣町の東松山市で活動を始めました。
その時に何を考えたかというと、私がずっとイメージして来た大学の研究の原点である地域型住宅のことでした。
その時に地域の風土や地域らしさ、地域に合った住宅とは、どのようなものかと、山中さんと一緒に模索しました。その中で最初にやったことは、地域でやる以上仕事を取って行くための準備でした。東松山市は、実家の隣町ではありますが、縁もゆかりもつながりが無い状態でした。仕事を得る手段が全くなかった状態で仕事をとろうと考えた時、まず人と人との繋がりを自分達でつくって行かなければならないと、つまり地域の中で、自分達が思っている考え方に共感してくれる人をとにかく集めるしか考えつかなかったのですね。その時私が考えたのは、地域の中で自然循環できるようなコミュニティをつくることでした。(-43)

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それで地域の中で地域色のあるイベントとか、ペレットストーブを間伐材で燃やして地元の食材で鍋パーティーを開いたりしました。
これは東松山で2010年から2011年にかけて、地元の杉材を使った「ひきいるハウス」というモデルハウス(-44)をつくりました。

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東松山から一番近いときがわ町の地域材を出来るだけを使って行くことによって、木材の産地の人達と生産の人達の繋がりが出来るのではないかと思いながら、真壁の在来工法でつくりました。
この中で今はイベントをするようになりました。これは月に1度開催している「ピッカリひきの市」という市場です。(-45)

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「協同組合 彩の森とき川」というときがわ町内の組合がやる伐採見学会で、立ち木を伐採して、それを希望者には1本差し上げる。その中で家をどのようにその木を使って行くかということを考えます。この場合は梁に使っています。出来るだけ地域の材料を使って行こうと思っています。
これはモデルハウスの前にあるのですが、地域でエネルギーもつくって行こうということで、完全にオフグリッドです。自分達の電気は自分達で使うと。ソーラーパネルでつくった電気はバッテリーに蓄電しまして、全てソーラーパネルからの電気でまかなっています。(-46)

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地域の中で少しずつ仕事ができるようになったので、その中で、町並みの中で古民家を再生する仕事もぼちぼち出てきました。
これは大規模なリフォームですが、現在は、地元の小川町で古民家の再生などもしています。(-47)

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ひとつひとつつくって来たコミュニティがひとつひとつ芽生えてきて、今は古民家再生を通じて、大野勝彦さんもおっしゃっていましたが、まちづくりへ繋げてゆくようになれば良いと思い活動を続けています。
2008
年から、布野研究室の後輩の飯島昌之さんと共同で設計を始めました。飯島さんは、長野県諏訪市在住で、設計事務所(MIDworks一級建築士事務所)を営んでいます。弊社の仕事を共有し、設計作業を分担しています。飯島さんは、都市計画事務所に勤務後、大工として古民家の移築、再生をして来た経歴があり、設計ばかりでなく、施工やまちづくりまで経験と知識が豊富で、まさに、今回のテーマであるアーキテクト・ビルダーです。お互いにめざすところが近いので、仕事場は遠隔ではありますが、常に打ち合わせを密にし、共同作業をしています。ですから、お見せした実例は、全て共同で生み出したものです。

布野:15分とリクエストしながら言うのも変ですが、3人の建築家の仕事を15分ではもったいない気がしました。八巻さんの場合は、住宅というスケールでは初心を貫いて仕事をしてこられたように思います。建設業登録しているんでしょ?設計契約もするの?

八巻:建設業登録しています。設計契約もしますし、建設業ですから工事もします。

布野:ちょうど19時ですので、後は誌上で議論すれば良いと思いますが、せっかく権藤先生に来ていただきながら、どんな立場で話しているのかという挑発的な質問をしましたし、それから松澤さんが言った、食えないながらやっているなかで、リノベーションがあるといったことも気になります。権藤先生にお聞きしたいのは、「日本の住宅生産と建築家」と謳った時に、日本の建築家というのは今のお三方の様に頑張って行けばいいんでしょうか?それから量の問題として、戸建の話だったんですけど、マンションとか集合住宅は今80万戸/年間ですか?その内の6割位が集合住宅だと思います。だれが建設していけばいいのか?メーカー、パワービルダーはどういう役割を担って、工務店、職人さんは消えて行くだけなのか、その辺りの読みをどうですか。

権藤:現実的に設計事務所が現在の住宅市場で担う量は少ないと思います。設計事務所の仕事としては、3名の方がやられているようなプロトタイプやモデル、原型をつくるということかなと思います。どうマネタイズするかは問題だと思いますが、設計事務所業界全体がどこかの方向に向かうということではなく、様々な方向にそれぞれの事務所が向かうのではないでしょうか?

布野:量的には、空き家がいっぱいある訳で、ただでさえ食えないのに、新築の需要が減るのは皆目に見えている訳ですよね。私の冒頭の説明では、代願では駄目だから、施工が一緒じゃないとならないというのが30年前の問題意識で、建築家は仕事の領域を広げていく必要があるということだったんですが。建築家であれば、プロトタイプとかモデルを提示する役割は揺らがないと思いますが、地域で生きていくことはいかに可能なのか。俯瞰的に見た時に、建築学科を沢山の方が卒業して行く訳ですが、どういう役割分担になっていくんでしょうか。

権藤:八巻さんのように施工するのはありえると思います。これだけ制度が複雑になる中で施主寄りにたったコンサルは必要だと思いますし、それをしつつ設計の水準を維持するには、リスクはありますが、施工も請け負ったり、施主の直営にしてコンサル料をとったりといったことがありえると思います。最後の方のスライドで少し書きましたが、同じ地域でやっていくなら、これまでやってきた以外の仕事もして、それが新築受注のためのサービスではなく利益をあげていくことが必要だと思います。ただ、新築が減っていく中で、これまでの新築中心で厳しくなるのは設計事務所も工務店もプレハブ住宅メーカーも同じなので、これからどこか別の市場を狙うと同時に、自分の市場に誰かが入ってくる可能性も出てくると思います。

布野:無理矢理頼んでおいてすみません。後でいろいろ手を入れてくださいね。もー飲みたいんですけど、折角いらっしゃっているんで、先ず吉田卓郎先生。この前から大規模なものだけではなく「町場」の問題もやれとかおっしゃっていたのでそれをテーマにしたつもりなんですが。

吉田倬郎

吉田倬郎

吉田:工学院大学をやめて2年半になる吉田です。布野先生や安藤先生とは、布野先生が東洋大学にいらしたころ、木造住宅生産組織研究会などのいろんな集まりを私の学校でたびたびやったことがあります。今日のテーマがアーキテクト・ビルダーあるいはデザインビルドということで、今日のフォーラムを楽しみにしていました。設計と施工を一つの個人なり組織が責任を持ってやっているからデザインビルドであるしアーキテクト・ビルダーであると思いますが、最後八巻さんが、こういうことについて一つの方向を示してくださったのかなと思いました。
松澤先生や泉先生は工務店と良い関係をつくることによって良い設計が実践出来るということを紹介いただきました。それはそれで良いと思うのです。アーキテクト・ビルダーとか地域とか言わなくても良い設計をしている設計者はいい工務店と仕事をしている。しかし、今日のテーマとはちょっと違うかなと思って聞いていたんですが、そういう意味では最後の八巻さんが、日本の今、アーキテクト・ビルダーを実践しているひとつの事例なんだなーと感じ、得心できた次第です。かつ、布野先生の初期のお弟子さんだということで良かったですね。
そういう方向が、もともと日本にあった建築は棟梁がつくっていたという伝統にもつながるといえる。デザインビルドそのものだったとも考えられる訳ですが、それが見えなくなった今の時代に、そうした日本の建築づくりの伝統がどのような形で残っているのかなーという課題を、改めて感じます。設計者がどんな良い形で工務店とのチームをつくってやっても、そういうかたちではアーキテクト・ビルダーではない。それはそれで良いのですが、ただ、日本らしいアーキテクト・ビルダー、昔の棟梁の伝統を受け継げば今の時代こうなんだということを八巻さんがやっておられると感じました。今後のご発展を期待したいと思います。

泉:僕らは極端に言うとデザイン至上主義の一番良い時代に生きてきましたが、これからはそんなことは出来ないと思う。実感として感じます。これからはリノベだと事務所の中でもいうことがよくあるんですが、それを間に受けてそっちの会社に就職してしまった所員がいる。九大を卒業したやつなんですけど。松澤さんが言ったことはそうで、実際、僕らの仲間にもリノベ研究会があって、現在のところは一番下の仕事になっている。

布野:そーなんですか。今や、リノベ時代じゃないんですか?

泉:もちろんリノベをどう捉えるか、不動産との関係をどうつくっているかにもよりますが、実際
東京でリノベに手を出している建築家はそのほとんどが食えない連中だと思います。

布野:香月さんその辺りはどうですか

香月真大

香月真大

香月:いやでも若手ってほとんどリノベの仕事しかありませんからね。最近は観光事業が流行っているし集合住宅を転用して1棟丸ごとホテルにするような案件が出て来ているし、それらでは利益も結構取れますが、結構きついですよ。

泉:設計者としてリノベをするのは限界がある。左官屋をやりながらリノベとか。

布野:リノベをやっている建築家は、実は工事を丸投げしてしまっている、っていうか建設会社の顧客対応とかデザイン部門だけで使われているから食べられない。だから、それこそデザインビルド的に内装はなんとか自分でやるという形に持って行けば別展開もあるかと思います。それは松村さんがいらっしゃる時にプレファブと併せて議論したいと思います。

泉:今まで僕らがやっていた設計施工分離方式だと立ち行かなくなるとは思いますし、どういう形があるかというのを今日は聞きたい。

香月:リノベの設計だけではなく、実際に企画とか運営も含めて不動産も含めてやっていかないとリノベの設計だけでは回らない。僕は家業が不動産屋をしているので、不動産の賃貸のことから企画して提案して、設計して利益をとっていますが、賃貸のことから考え、リノベの設計だけやる若手は死にそうな感じになります()

布野:中村良和さん、セキスイハイムのJKK(住環境研究所)を率いられていますが、今日の議論をどう思いますか。中村さんも、登山家としてのアクシデントがなければアーキテクト・ビルダーを大工の息子として目指していたと思ってますが、今日の「家づくりの会」あるいは八巻さんの活動を見て、または自分が引き受けている立場からコメントはありませんか?

中村良和

中村良和

中村:僕も布野先生が東洋大にいらっしゃる頃の研究室に所属していました。その頃は大工の息子で、将来は住宅に関って行こうということで、若造的に見ても、大工職方のシステムが壊れていってるとの想いで、当時、布野先生にいろんな質問をしたことを覚えています。
JKK(住環境研究所)はセキスイハイムを作った大野勝彦先生が積水化学から一歩引いた形で住環境を研究して行こうと設立された組織で、現在でも生活者目線で考えるというDNAを継いでいます。本日の議論をお聞きして感じたことは、戸建住宅スケールの場合、戦前の職方システムが変質・崩壊してきた戦後の住宅需給構造の中で、建築家・設計者があるべき需給構造の再構築にどう向き合うのか、といった問題意識が重要だということ。
その時に現在、生活者・施主側から見たときに建築家・設計者はどういう役割をしてくれるのかが不明瞭であることが大きな課題と感じます。
住宅スケールの時に建築家と言われる方はお施主さんから見て何をしてくれる方かというのが非常にわかりにくくなっているし、いろんなパターンがある。本日、説明していただいた取組み事例や吉田先生のご意見のようにデザインや設計だけのスタンスでなく、施主の代理人的に全てをマネジメントして、最適解としての住宅を具現化してくれるといった棟梁的なイメージが判りやすいと思いました。
そういった一般の生活者・施主からの建築家・設計者の位置づけといったことも、改めて整理する必要があると思いました。
布野:さすが社長さんって感じですね。あとは安藤スクールから池尻隆史先生、あるいは、大学の若手の先生である、川井操先生、篠崎正彦先生が来られていますが、何かありませんか?

川井操

川井操

川井:滋賀県立大学の川井です。
先日『建築討論』の企画で、僕の方で担当させていただいているものがあって、京都の建築家であり、布野先生のお弟子さんである魚谷繁礼、森田一弥さんたちと議論をしました。京都はインバウンドが増えていますので、町家のリノベーションを宿泊施設に転用したり、空き家数個を合体させて大型の宿泊施設にしたりとか、住宅にとらわれずにリノベーションの中で、食べているんです。要するにまちづくりに展開してるんです。町を存続させる為にも非常に面白い話ですし、建築家は住宅をつくるだけではなく、時代のニーズに併せて、設計の可能性はまだまだ残っていると勇気付けられました。今日の話を聞いて、改めて現在の建築家の職能のあり方を考え直す時期だと若いながら思いました。

篠崎正彦

篠崎正彦

篠崎:東洋大の篠崎です。いまの話とはぜんぜん逆で、最初に布野先生が『群居』の話とか建築士の設計料率の話をされましたが、あのころと今の状況は何が変わったのかといいますと、今の話を聞いて何も変わっていないのではないかとあらためて思いました。
さっき香月さんがおっしゃった設計者と工務店とディベロッパーの領域がどうとりあっているのか、職能的にはどうなのか、あるいはチームをつくった時に誰がどういう形でまとめているのかという職能の話は昔から議論されていますし、建築家は食って行くために料率をちゃんとして金を貰って食えるようにしないといけないというのが独占禁止法にかかり、結局今も設計だけでは食えないという話はお題目だけみると今日は同じに聞こえました。では70年代や80年代とは何が変わったのかというと、実務をしていないので何が同じで何が変わったのかというのが見えなかった。

布野:松村先生がもう建築の時代ではないと言っています(八束はじめ・布野修司対論シリーズ第五回箱の産業から場の産業へ-日本の住宅生産:過去・現在・未来-https://www.aij.or.jp/jpn/touron/5gou/tairon05.html『建築討論』005)。彼は、建築学科はもう名前を変えた方がいいとまでいいます。私は、建築は建築だと思っている。そういえば昔から食えなかったなというのはありますが、日本に限れば、空き家も沢山ありますし、状況は相当違っていると思います。何か起こっているのではないかと思って今回のテーマをセットした訳ですが、泉さんは変わらず仕事をしているというのを確認できたし、このような丁寧な仕事が大規模な建築にもやれていればいいんですが、どうもそうなっていない。大組織の空洞化の方が問題かもしれません。少なくても身近なレヴェルでは、建築家はこのまま生き延びるのもあるし、その意義もありそうだ、建築は建築だ、但し、仕事の機会は無くなってきている。

布野:池尻さんお願いします。

池尻隆史

池尻隆史

池尻:僕は東大阪の大学にいるのですが、結構空き家の密集地とか不良な住宅で今後どうしたらようかという相談を受けることが目の前にあります。今日皆さんのお話を聞いてきれいな新築で家を建てたいという方の話をされているような気がしますが、世の中もっと凄いものがどうもいっぱいあるみたいで、ストックも大切ですが、既存市街地だと新築はこれからも必要だと現場を歩いていていて思うのです。そうとうまずいものがまずいまま使われていることもありますし、それを更新する方法の構築に建築家側がもっと入る必要があると思います。住民の話を聞いても建築家の職能は理解されていなし、どこに持って行っていいかわからないという状況です。そういうところに仕事があるといいなと思っています。

松澤:ちょっと言い訳しますが、リノベがどうのとか言いましたが、僕の仕事も5年前位から半分位はリノベなんです。だから世の中の動きはわかっているんです。空き家対策も。でもやってみて残さなくいいものをかなり残しています。何故かといいますと建主さんの危機意識が凄いんです。昔はマンションから戸建に移ろうと思った人がもう移れないからリノベーションなんです。特に戸建はきちんと直せないんです。例えば2000万円の家でしたらリノベーションの設計をして見積をとると新築の8割位の金額になっている。2割の為にどれくらい程度を落とすのかというのは辛い問題です。いまは景気が悪いのでリノベーションと言っていますが、空き家がどうのとか言っていますが、バブルになったらバタバタ壊す。だからあまりそんなことに左右されたくないと思っています。リノベは大切だと思っています。

布野修司

布野修司

布野:引き続きの議論はアルコールを入れながらということで、おわりましょう。今日はありがとうございます。
安藤先生からの企画からは少し外れたかと思いますが、長く続ける為のネタということで。

安藤:これはこれで続けましょう。

(原稿整理 長谷部勉:文責 布野修司)

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...