、『建築雑誌』編集長日誌 布野修司
2002年11月
世の中暗い
景気は悪い・・相次ぐ死・・・・
元気出していこう・・・
2002年11月1日
鈴木一誌さんの『ページと力 手わざ、そしてデジタル・デザイン』(青土社)を読む。先の『画面の誕生』(みすず書房)に続いて、立て続けの上梓である。鈴木さんのこの間のすごく充実した仕事に勇気づけられる。全然次元が違うけれど近刊予定の『アジア都市建築史』も頑張らなくっちゃ、と思う。『近代世界システムと植民都市・・・オランダ植民都市研究』(仮)も朝少し手を入れた。
「ページを生み出す力」について、こうやって一緒に『建築雑誌』の仕事をして頂いているのにあまり深くは考えていないことを嫌というほど気づかされる。
「ひとつひとつの活字を拾うことで行になり、行が集まってページとなる。ページが累積して書物ができる。この過程をページネーションという。ページネーションとは、本の一ページを生み出していく行為でありつつ、同時にページ相互の連続性を誕生させていくことだ。」
まえがきの一節である。編集委員は、それぞれこの過程を追体験しつつある。そして、問われているのは連続性を誕生させる編集内容である。
まず、文字、タイポグラフィーについての論考がある。タイポグラフィーにこれだけの思索が込められてきたことを感動的に思う。ワープロでフォントを選ぶだけの行為に何の疑問も感じなかったのが恥ずかしい。「東大明朝」なるものをめぐる議論も初めて知った。
そして、ディジタル化の問題が論じられる。わかりやすく言えば、印刷工程におけるディジカル化に潜む問題が扱われる。いったい作者とは何か、という問いが冒頭で発せられ、「読者という実践の場では、作品の作者名は集合名詞である」と定義付けられる。デザインとは「情報を公開する技術である」。「大量生産とは二部以上の複製である」といった眼から鱗が落ちるような指摘が随所にある。インキや印刷機の問題から、日本語の特質、音読・朗読への配慮など実に奥深い。
2002年11月2日
奈良の橿原神宮で研究室の卒業生の結婚式。二人とも同じ研究室というのは初めてではないか?新郎の吉村君は團紀彦君のところにいる。新婦の林さんは、東海建設に勤務だ。林さんは台湾出身で京大に学部から入学、修士課程をわが研究室で過ごした。台湾集集大地震9.21(1999年)があって、台湾の調査で修士論文を書いた。翌年が大統領選挙の年でその渦中3月に一緒に、東勢鎮で調査をした。東勢鎮は最も被害の大きかった鎮である。大統領選の直後、国民党を破った陳水扁新大統領がたまたま東勢を訪れ、ミーハーで並んで握手したことを思い出す。台湾の選挙は実に派手で、日本とは全く違う。その4年前に李登輝大統領が当選したときも台湾で調査をしていた。
2002年11月3日
ライデン大学でのワークショップ(International
workshop Mega-urbanization in Asia and Europe:Directors of urban change in a
comparative perspective:Leiden, 12-14
December 2002)の原稿締め切り日が近づいてきてあせる。連日かかり切りなのだけれど、テーマがピンとこない。
目次立ては以下の通り。タイトルは凝り過ぎか?
Never
Ending Tokyo Projects:
Catastrophe?
or Rebirth?: Towards
the Age of Community Design
Introduction
Ⅰ. An Overview of Tokyo:
1.
Tokyo Metropolitan Area
2. The Population of Tokyo
3. A Brief History
of Tokyo
Ⅱ. The Unaccomplished
Tokyo Projects
1 Development of Urban
Planning in Japan
2 The Fundamental Issues
of Japanese Urban Planning System
Ⅲ. Urban
Policy and Strategies of Tokyo: The Problematic:
1 Post Modern City Tokyo: Tokyo at its
Zenith
2 The Tokyo Plan 2000
3 Lessons from Great
Hanshin Earthquake
Conclusion
Supplementary discussion: The Roles and Tasks of Town Architects in
Japan
1.
What
is 'Town Architect'?
2.
Why
'Town Architect'?
3.
Japanese
'Town Architect'
4. The Tasks of 'Town
Architect'
最後に付けたのは“traverse”02号に書いた原稿である。
フランスのヤンYann Nussaumeからメール。原稿の催促である。日本の建築論のアンソロジーを出すから、磯崎の『空間へ』と『建築の解体』について簡単な解説を書いてくれ、と頼まれていたのだけれど延ばし延ばしにしてある。今それどころではない。
2002年11月4日
カリフォルニア大学バークレーのマーシャ先生の来日について、造園の永橋さんからメール
布野先生
こんにちは、永橋為介@コミュニティー・デザイン・センターです。マーシャさんから連絡があり、11月18,19,20日の布野先生とKCDLの学生さん達との打ち合わせのプログラムについての確認のメールが来ました。布野先生にもメールされているかと思いますが、一番最後にに再掲いたします。また、以下のことをお教え下さい、とのことです。
(1)18日の午後に、マーシャさんのプレゼンテーションとなっていますが、その際、2台のスライド・プロジェクターを用意していただけますでしょうか?(その際、スライドを見られる程、暗くなる部屋をご用意いただくことが、の話ですが、また、マーシャさんは16日の夜に来日しますが、17日日曜日中に、スライドをトレイに入れておきたいとのことなので、その2台のプロジェクターに合うトレイを2つ、事前に永橋を通して、お貸しいただけないでしょうか?
(2)KCDLの学生さんもしくはスタッフの方は、この3日間の打ち合わせに何人くらい、いらっしゃるでしょうか?(マーシャさんは、人数分のお土産を用意したいと思ってらっしゃるようです)以上、2つの質問について、11月7日までにお教え願いたい、とのことなので、よろしくお願い申し上げます。なお、以下のプログラムのうち、
Tue. Nov. 19 Site Visits
9:30-12:00
Look at potential test sitesとありますが、マーシャさんのお考えでは、できれば、布野先生から、マーシャさんとの比較研究のためにマーシャさんが京都で対象とする調査地の候補を2つ、ご推薦いただきたい、とのことです。もし、何かお気づきの点がございましたら、永橋の方までご一報下さい。それでは、ご質問の件、よろしくお願い申し上げます。
取り急ぎ、用件のみにて、失礼いたします。
いや、大変である。そろそろ準備しなくちゃ。
2002年11月5日
京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の新拠点、「油小屋」のオープニング。何故、「油小屋」というかというと、綾小路油小路にあるから。油を搾り取られるようでイメージ悪いではないか、というけれど、もう運営委員会で決めました、とのこと。町家タイプで6LDK。京都に興味のあるチームであれば開放したい。
オープニングのプログラムは、昨年度のヴィデオ・コンテストの作品上映。GISによる記録もいいけれど、ヴィデオによる記録も恒例化しそうである。今年の締め切りは22日で、23日が上映会という。
席上、マーシャ先生がいらっしゃるので英語で発表してください、とアナウンスする。
2002年11月6日
小野寺さんより、投稿の連絡。
投稿「裁判における鑑定と調整」を添付します。投稿者の生田さん(75歳)は、大阪工大建築学科卒業。現在、東京簡易裁判所司法委員で、学会の会員、学会の司法支援建築会議の委員でもあります。委員会活動を通じて、建築の先生方がいかに裁判をご存じないかを痛感され、鑑定と調停のしくみ、最新動向を解説したいという主旨の投稿です。何人もの関係裁判官に確認し、慎重に書かれたとのこと。また司法支援建築会議でも了承済みだそうです。次回委員会でお諮りしますが、事務局としては、掲載の線でご検討いただければと思います。
ざっと眼を通す。問題なさそうである。掲載の方向で次回編集委員会で検討したい。
2002年11月7日
必死で英論文仕上げる。
2002年11月8日
大学コンソーシアム京都で、京都市委託研究「変革期にある大学に対する施策」調査研究の会合。アンケートの内容のチェックが主。2回サボったから、議論についていけない。大学のまち京都を考えるいいチャンスだったのに残念。
2002年11月11日
外山義先生死去のメール。絶句。9日未明の突然死という。忙しすぎた、というのが直感。僕もそれなりに忙しいけれど、きつければ適当にサボる。外山さんは真面目だから断れなかったのではないか。キリスト者の子として生まれ、息子さんもその道を歩まれると聞いていた。東大の大学院は同門だから、その仕事はよく知っていたけれど、じっくり話す機会はそうそうなかった。一緒に建築史の見学旅行に行って話し込んだのが最後の思い出だ。無念である。
学位論文の主査とか色々お願いしていたから早速各方面に連絡とる。
2002年11月13日
第17回編集委員会。議題は以下の通り。
1.前回議論の確認 …………………………………………………………(資料1)
2.特集企画について ………………………………………………………(資料2)
○進行状況の確認
・1月号「公共建築の設計者選定」 →4学会座談会が決定。
・2月号「アジアのなかの日本建築」
・3月号「巨大地震を前にして」
○企画案の審議
・4月号(建築デザインの新展開?)
→最終決定
・5月号「環境で格付けされる建築主と設計」
○新企画の審議
・建築計画特集
・建築コスト特集
3.連載について………………………………………………………………(資料3)
・5月号までの執筆者確定
4.検討事項
・投稿について ……………………………………………………………(資料4)
生田義昭氏(東京簡易裁判所司法委員)より「裁判における鑑定と調停」
特集については1~3月号は決定済みだから、4月号を最終決定しないと行けないのだけれど、煮詰まらない。大体、まとめ役の古谷幹事が超多忙である。信じられないぐらいの仕事量である。
布野委員長、皆様、小野寺様
すっかり遅れてしまい申し訳ありません。明日の委員会で別添の4月号特集案(まことに生な状態で、かさねて恐縮ですが)についてご意見いただければ大変幸いです。
古谷誠章
なお、小嶋、塚本、貝島、勝山各氏から、とりあえずのご賛同をいただきましたが、
それをお尋ねした際のつたない説明を以下に流しておきます。
皆様
ご無沙汰しています。かねてより、来年4月号は「デザイン」の特集であると布野委員長に宣言されておりましたが、いよいよ年貢を納めねばなりません。
先々月の委員会の折り、簡単に紹介したのが「新しいデザインは異色の取り合わせから生まれる(ことが多い?)」というテーマで、これを特集の柱にしようかと考えたわけです。
別添の目次案にあげたのはほんのイメージですが、計9事例ほどを、写真×1p、本文2pという構成の各3p組で紹介しようかと思います。内容はとりあえずダミー的に列挙してみましたが、発端として思ったのはたとえば「美術館名人谷口さんがゴミ
工場に挑む意気込み」の凄さ、とか、「伊東さんが妙にのめり込んでいる新奇な構造デザイン」とか、「豊富な経験と失敗のなさを売り物にする日建設計が、世にも初めての実験設備などを作るときの話」とか、「アラップも仰天の鉄骨屋がじゃあこれで縛ればいいじゃん、といった理顕さんの邑楽町」などなど、従来とひと味違う取り合わせが感じられるものを選んでわれわれがつっこんで話しを聞いてみたいと思うのです。実例の取材が出そろったところでそれをみながら座談会と考えています。
というわけで、みなさんのアイデアとご協力を仰ぎたくお願い申し上げます。実例でもその他の項の執筆者案でも、座談会人選でも、あるいは目次自体の改良案でも、何でもとにかくメールでご連絡をお待ちしています。時間がもし許せば、委員会にも出席いただければ尚助かります。
という雰囲気で面白そうなのであるが、決定できるまで対象、執筆者が絞りきれない。それでは、5月号予定の「環境で格付けされる建築主と設計」を繰り上げるか、という案も出たけれど、多少問題もある。困った。新しく出てきたのが以下の岩松案である。
建築雑誌・特集の提案 2002年11月13日 岩松
建築コストと市場~バブル崩壊後の展開と将来~
建築界の中で「コスト」が議論の対象として浮上する背景に、建設の需給関係のギャップが深くかかわっていることが多い。10年前のバブル期には旺盛な民間建築需要により、労務費をはじめとして工事費の高騰が起こった。その結果として当時、公共工事では入札不調が相次いでいる。ところがバブル崩壊で局面は変わった。さらにこの時期に相次いだゼネコン・スキャンダルをきっかけとして、建築コストの「透明性」を追及する世論が吹き出し、コスト縮減の方向に一気にかたむいた。建設コストについての内外価格差の問題提起はそれに一役買った。そして現在、長引く不況による建設需要の低迷により過度なコスト競争(ダンピング)が生じ、生産構造の末端(下請や職人)へのしわよせ、生産組織の弱体化、建築の品質低下等が問題視されている状況がある。
こうした建築コストのデフレ傾向は今までに経験のなかった事態である。バブル崩壊後の10余年を建築コストの面から再評価し、建設業界のとるべき戦略を探る。
≪巻頭インタビュー≫ 6p
建築市場の変化とコスト情報(建築コスト論の歴史) 徳永勇雄(明治大学名誉教授) 6p
≪バブル崩壊後の展開≫ 22p
バブル崩壊後の建設業界~コスト、経営を中心に~(座談会) ゼネコン関係者 6p
地方自治体における入札制度改革の成果(コスト縮減面から) 横須賀市 2p
コスト情報の開示はどこまで進んだか コスト管理小委員会 2p
地場建設企業の現状(企業経営的な観点から) 山崎裕司((株)システムズ) 2p
労務費・賃金の実態と下請・職人の状況 蟹澤宏剛(ものつくり大学) 3p
記録・バブルとその崩壊後の建築コストの変動 編集委員 4p
≪建築コストの将来≫ 12p
建築コストの市場性について(実費ベース契約方式の効用) 江口 禎(武蔵工業大学)
新しいプロジェクト方式と建築コスト管理 関谷哲也(竹中工務店/PM小委員会)
プライスデータを活用したコストプランニング 高橋照男・橋本真一(建設物価調査会)
建設業界の価格戦略を中心とした展望(VE等) 上野 孝(鹿島建設建築技術本部)
予定価格制度の起源と今日の問題(公共発注制度のあり方) 岩下秀男(法政大学名誉教授)
産業組織論からの課題 安藤正雄(千葉大学/建築市場特別委員会産業構造小委員会)
【過去の特集】
○
No.905, 1961.11「建築工事の単価問題」
○
No.964, 1966.2 「建築のコスト」
○
No.1103, 1971.2「建築費急騰の記録」
○
No.1331, 1992.8「建築コストの近代化」
大事な問題だけれど、少しテーマの広がりが狭いかな、という印象。様々な意見が出る。とにかく3案とも4月号目指してつめてもらうことになる。
さらに提案されたのが、八坂委員による「構造特集」案。
建築雑誌 2003年11月号 構造特集 私案1 2002.11.13
「21世紀初頭において構造技術に期待する」 鹿島・八坂
将来の構造技術の方向性を模索するために、様々な構造専門家以外からの視点をもって、建築構造技術への期待を多方面から、かつ現実的なものからイメージ的な物まで幅広く照らし出す。(できるか?)建築雑誌他で近年類似の企画があれば(未調査)方向転換。
■構成案
趣旨説明 1p
構造以外の建築関係者の視点 1p*20 vs 構造技術者研究者の応答(1p*3)
アンケート調査 2p
統括座談会1(正統の構造家、研究・設計・材料) 6p
統括座談会2(若手構造技術者、構造専攻の学生) 6p
まとめ(who? )
構造以外の分野 (書ける人が限定されるので多めにあげる、または事前アンケートで調査)
建築関係:プロジェクト企画 行政、民間デベ、PM
農業、製造業各種、流通業、サービス業、不動産業、情報通信
証券化 評価の専門企業、保険会社、不動産業界
設計者 建築設計、インテリア、設備設計、外構造園/環境、生産設計
施工者 総合建設業、設備工事業
専門工事業(外装、型枠、鉄骨、基礎、仮設、設備)
メーカー 建材メーカー(外装、鉄骨、PCa、設備)、
住宅メーカー、重機メーカー
FM 建物管理業
防災 行政、防災関係企業?、インフラ企業(電気・ガス・通信)
情報関係: 構造関係専門ソフト開発、 CADソフト、製品モデル開発
法規関係: 建築関係に精通の法曹家
研究関係: 建築計画、建築史、材料関係、防災(地震、火災)、原子力
文学芸術関係: 文芸、美術、音楽、剛柔、現実的なものと概念的なもの
これは詰める時間がなかった。
続いて、1月号の巻頭座談会。最強のメンバーに集まって頂いた。
公共事業における設計入札問題を考える
仙田 満:日本建築学会会長・東京工業大学教授
篠原 修:土木学会・東京大学教授
加藤 源:日本都市計画学会・日本都市総合研究所代表
蓑茂壽太郎:日本造園学会・東京農業大学教授
■建築・土木・造園・都市計画の実態
■設計入札にふさわしい仕事はあるか
■本当の公共建築をつくるために
■ 質の時代にふさわしいシステムを
かなり中身のある議論ができたと思う。ただ紙数が足りないかもしれない。
2002年11月15日
朝一番で講義。外山義先生葬儀。今年は9月末に、いきつけの店の大将が突然死。55歳。あんまりいいことがない。
ライデンからホテルの案内。原稿催促。えいいいや、と、英語も直さず、pdfファイルで論文送る。とにかく先に全員が読んで来て、議論がメインというのだ。
2002年11月16日
建築雑誌2月号特集「アジアの中の日本建築」座談会。土曜日の16:00ということで時間がやっと合った。テーマ アジアの住居集落研究の課題-アジアの居住空間と住環境整備。メンバーは、以下の各氏。
稲葉 佳子 氏(ジオ・プランニング取締役)
佐藤 浩司 氏(国立民族学博物館助教授)
陣内 秀信 氏(法政大学教授)
畑 聰一 氏(芝浦工業大学教授)
穂坂 光彦 氏(日本福祉大学教授)
司 会は黒野 弘靖委員と田中 麻里委員。
このテーマは、僕の専門領域に最も近いから議論も随分と楽しめた。いい人選だったと自画自賛。田中麻里さんが京都の実家に帰るというので、新幹線でご一緒する。
研究室の宇都宮君からメール。
昨日マーシャさんのコーディネーター永橋さんとお話ししまして、18日の予定を確認いたしました。
18日は、11時にマーシャさん、永橋さんが布野研究室に来られ、僕と布野先生とで後の日程などの確認をして、その後にお昼ご飯を挟んで13時から第2講義室にて学生側の発表と質疑、15時からマーシャさんの講演会、という流れになっています。
その後、懇親会などは予定されているのでしょうか。必要ならばどこか予約を取ります。
各チームの幹事さんには昨日の運営委員会で予定の確認などをおこないました。学生側の発表は、
京都女子大:パネルを英語版になおして展示、京大4チーム:パネルは日本語で英語で発表、立命平尾研・京大竹山研・嵯峨芸大・池坊短期大学:日本語パネル展示、学生参加
といった感じです。チームごとの発表形式などは当日変更があるかも知れません。
宜しくお願いします。
2002年11月18日
マーシャ先生、11時に来室。全体スケジュールについてまず打ち合わせ。正式に僕が送ったのは以下のような招請状である。
Dear Marcia:
I am pleased to write in
support of the joint research project you propose, Design in the Neighborhood
Landscape: Collaborative Field Testing.
It is an honor to be included as part of the team for this project. My colleagues at the Kyoto Community Design
League and I feel the timing is right for us all. It is fortunate that you were in Japan when
we were getting started on our Kyoto investigation, and that you have learned
so much about Kyoto’s neighborhoods through your own research.
The ability to engage
multiple actors to collaboratively direct the evolution of a neighborhood is a
challenge in any city regardless of national origin. I fully agree with your approach of
developing and testing methods for measurement of the neighborhood
landscape. The prospect of doing this
cross-culturally is exciting. I am
particularly interested in comparing which parts of the landscape have the most
meaning to citizens to learn where there is commonality and where culture or
the environment cause people to value and use places differently.
I look forward to a successful
collaboration and am anxious to get started.
We are busy preparing for your November visit. Please let me know if there is anything more
you need from me. In the meantime please
know you have my support.
Sincerely,
Dr. Shuji Funo
ジョイント・リサーチ・プロジェクトのタイトルは、Design in the
Neighborhood Landscape: Collaborative Field Testing. 、近隣景観のデザイン:共同フィールド実験という。要するに、これまでも書いたけれど、京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)と彼女のバークレーでの演習をドッキングしようというから、是非やってみよう、と返事した次第。
予定を確認した後、候補地区について検討する。我が研究室は、南区と山科区が担当で広いから、これまでのデータを紹介してあれこれ議論する。小学校区、半径400mを単位にしたいという。
昼食を一緒にとった後、各チームの発表。各チームのパネルは展示してみてもらった。また、英文サマリーも用意した。
まず、山科寺内町チームについて大辻絢子さんが流暢に説明する。続いて、山科円環都市について高橋俊也君がたどたどしく説明。原稿の棒読みがマーシャ先生の微笑みを誘った。次に広冨君が南区、荻原さんが重点田の字地区を説明。それぞれに鋭い質問が飛んだ。永橋さんが通訳をつとめて助けてくれる。マーシャ先生は対象地区についてある程度の印象を持ったようであった。
15:00からマーシャ先生の講義。“Investigating The
Neighborhood Landscape A Field For Knowing and Planning For Change In Your
Neighborhood”という52pに及ぶ冊子を用意して来られた。また、上にも書いたが、スライド・プロジェクター二台を使った熱の入った講義となった。
まず、講義の前に、必ずやるというエクササイズがあった。眼をつむって、深呼吸を繰り返し、記憶を可能な限り遡って、その風景を描きなさい、という。永橋さんが絶妙に通訳して、みんな面白がって描いた。児童心理学の手法で幼児環境の大事さがわかるという。毎年学生に描かすという。似たようなことは僕もやったことがある。
冊子は、フィールド・サーヴェイのためのガイドである。1934年に出版されたRoger Tory Petersonの“Field Guide to Birds”というバード・ウォッチングの本がヒントになっているという。近隣住区の記述の方法について京都とバークレーを比較しながら書いてある。Structure、Nature、Network、 Settingという4部構成である。マーシャさんは修学院近辺に一年ほど住んだことがある。絵がうまくて、ところどころ自分で書いた絵を挟む。味のある絵だ。
夕刻から、渡辺豊和さんも駆けつけて懇親会。
明日は南区、そして田の字地区を歩いてみようということになった。
山口昌伴先生より、新刊『日本人の住まい方を愛しなさい』(王国社)送付。相変わらずの旺盛な執筆活動である。
2002年11月19日
10:00に京都駅集合。マーシャ先生、布野、永橋、大辻の順に集まるものの広富君が急病とかで、地図資料が届かない。まあ、土地勘あるし、春に歩いたから何とかなるだろうと歩き出す。歩き出すとマーシャ先生、みんなにバークレーの調査用帽子を配る。お土産にもってきたのだという。京都駅のすぐ南には古いコミュニティがある。歯抜けのように駐車場が拡がる中で町中と同じような町内の祭りがある。永橋君はかつて三村研の調査を手伝ったとかでかなり詳しい。まず、東へ向かい南へ下って、ジグザグと西の鴨川縁までというコースをとった。マーシャ先生興味津々の様子であった。途中で地図に○を書いて、うなずいている。南区から3~4地区対象にしたいとのこと。
2時間近く歩いて、鴨川まで行って松の木町40番地に至ると、なんともいえない感激の体。
「旦那(ハズ)はここに連れてくるのやめようかな」
とおっしゃる。
「え!」、と問い返すと、
「ここに住みたいと言うんじゃないかしら」
夫君はかの有名な造園家ランディ・ヘスター教授である。マーシャ先生は都市計画専攻だが、現在は夫婦でランドスケープ・デザインを担当しているのである。
しかし、不法占拠地区のバラックに感激するとは変わっている。僕もそうだから同じように変わっていると言うべきか。何故かうれしくなる。
永橋為介君がいい焼き肉店知っているというので、駅に戻る前に昼食。豚肉ばかりのお店であったけれど、確かにうまい。舌鼓を打った。
京都駅で京都CDL運営委員長渡辺菊真、魚谷繁礼、高橋俊也、京都げのむ3号編集長長野亮介君が合流。高橋俊也君など「エッジ・ボーイ」と声をかけられる。昨日たどたどしく、「エッジ」「エッジ」と連発してすっかり気に入られたようだ。
烏丸四条から河原町御池に向かってジグザグに歩く。
マーシャ先生、マンションの林立には顔をしかめながらも、そう興味がなさそう。もう少し生活の臭いが欲しいという。田の字地区の西南の街区がいいのではないかと歩きながら話す。
二時間ほど歩いて、元毎日新聞京都支局、若林広幸事務所の地下でお茶を飲む。長野君が『京都げのむ』3号の特集テーマが「セクシー京都」というので、盛んに「京都の何がセクシーと思うか」と議論を仕掛ける。彼は以後「セクシー・ボーイ」と呼ばれるようになる
マーシャ先生タフである。
19日の調査参加者左から、高橋、魚谷、長野、渡辺、マーシャ、永橋、布野
2002年11月19日
10:00 京都大学の布野研究室でマーシャ先生と永橋君と共同研究プロジェクトについての打ち合わせ。これまでの資料をCD-Romに焼いて渡す。英訳が間に合わないものもあるけれど、日本語の分かる学生もいるし、布野研出身の牧紀男君がいまバークレーでマーシャ先生の講義を聞いているから大丈夫ということになった。
・ フィールド調査を行うのは来年の5月から6月
・ 方法はマーシャ先生のガイドラインをベースとする
・ 対象地区はフリンジとして南区から3~4地区、山科から3~4地区、田の字地区から3~4地区。参加人数が増えればさらに考える。
・ 各地区をバークレーの学生1人と日本人の学生最低2人で担当する。
・ バークレーの学生は前もって、資料を分析して来日する。
といったとこらが大筋の了解事項だ。
山科については、28日に予備調査するという。また、23日のヴィデオ・コンテクストには参加するという。
後はメールでということで分かれた。
2002年11月20日
ヤーンに、日本語で原稿書いて送る。以下がそうだ。竹山-高松研究室のブノア・ジャケがフランス語に翻訳してくれるという。
磯崎新 『空間へ』、美術出版社、東京、1971
Shin Arata Isozaki: “Towards Space”、1971
布野修司
コルビュジェの『建築を目指して』を想起させるかのような、「空間へ」と題された本書は、磯崎新の処女論文集である。1960年に書かれた「現代都市における建築の概念」から、1968年の「きみの母を犯し、父を刺せ」まで、1960年代に磯崎が書いたほとんど全ての原稿が年代順に並べられている。
1931年生まれの磯崎新の30歳代は、そのまま1960年代に重なる。1960年代は日本建築の「黄金時代」である。丹下健三の「東京計画1960」、菊竹清訓の「海上都市」「搭状都市」など、日本の建築家たちが盛んに都市プロジェクトを提案したのが1960年前後である。磯崎新も「空中都市」というプロジェクトを提案している。1960年にはまた「世界デザイン会議」が東京で開かれた。その時に結成されたメタボリズム・グループである。建築評論家の川添登に率いられた、菊竹清訓、槇文彦、黒川紀章、大高正人たちは、丹下健三に続いて、1960年代を通じて、国際的な建築家となっていく。東京オリンピックが開かれたのが1964年、同じ年、新幹線が開業している。1970年には「未来都市」を唄う大阪万国博Expo’70が開かれた。日本の1960年代は、高度成長の10年であり、未曾有の建設の時代であった。
この時代、磯崎新は、東京大学の丹下健三のもとにあって、その活躍の中心にいた。既に、大分図書館によって日本建築学会賞を受賞し、建築家としてのデビューを飾っていたものの、その仕事の中心は丹下研究室の活動に置かれていた。スコピエの計画(1967年)に続いて、1960年代の後半は、大阪万国博の会場設計に没頭していたのである。
『空間へ』が出版されたのは大阪万国博が終了した直後のことである。彼は、大阪万国博の仕事に心身ともに疲労困憊し寝込んだことを告白している。また、1968年の世界的な大学叛乱が彼に大きなインパクトを与えたことを繰り返し述べている。今日に至るまで、磯崎は折に触れて1968年について語るのであるが、社会的なラディカリズムとアートとしての建築表現の間の裂け目を見たのであった。この『空間へ』は、その直前までの思考の過程を示している。そして、そこには磯崎新の原点をみることができる。
巻頭の「都市破壊業KK(株式会社)」は、痛烈な現代都市批判である。その背後で、都市計画や都市デザインの必要をナイーブに訴えている。あまり知られていないかもしれないけれど、日本で最初に都市デザイナーを名乗ったのは磯崎なのである。そして、意外かもしれないが、『空間へ』に納められたかなりの論考は都市論、都市デザイン論なのである。都市と建築の関係を根源的に考えることが磯崎の出発点に置かれているのである。
全体像を提示することより、プロセスの計画こそが本質であるとする「プロセス・プランニング論」、都市計画の手法を見事に分析し、シンボル配置論の次元を提示した「都市デザインの方法」、さらに、虚像と記号が支配する現代都市の本質を読み解いた「見えない都市」は、今日読んでも鋭い。また、日本の都市空間の特性を明らかにした「日本の都市空間」は現在では古典といってもいい。
しかし、磯崎は『空間へ』を書いてまもなく「都市からの撤退」を宣言することになる。メタボリズム・グループとは意識的に距離を置いていることを書いている。社会変革のラディカリズムと建築表現の絶対的裂け目を見て、アートとしての「建築へ」向かうのである。「建築の解体」が当面の彼の目標となるのである。
1990年代に至って、磯崎は突如中国で「海市」という都市プロジェクトを提案する。再び「都市へ」と向かうかどうかはわからない。しかし、「プロセス・プランニング論」「都市デザインの方法」が決して揺らいではいないようにも思える。いずれにせよ、磯崎が建築と都市との根源的関係を考え続けてきたことは確かであり、そうした意味でも『空間へ』は彼の原点なのである。
磯崎新 『建築の解体』、美術出版社、東京、1975
Shin Arata Isozaki: “Destruction of
Architecture”、1975
布野修司
「建築の解体」というラディカルな響きをもつこの書物が出版されたのは1975年であるが、『美術手帖Bijutu Techou: Adversaria(or Notebook) on Art』という月刊誌monthly
magazineに連載が開始されたのは60年代末のことである。前著『空間へ』が1968年までの論考を収めており、従って、本書は、それ以降1975年までの論考を収めた第二の著作となる。
内容は大きく二つに分けられる。
前半は、ハンス・ホライン、アーキグラム、チャールス・ムーア、セドリック・プライス、クリストファー・アレグザンダー、ロバート・ヴェンチューリ、スーパースタジオ/アーキズームについて、その仕事を紹介するものだ。磯崎のライバルと言っていい、あるいは、彼が関心を抱く、いずれも1930年代生まれの、ほぼ同世代の作家、グループ、が選ばれている。
そして、後半は、《建築の解体》症候群(シンドローム)と題され、前半を総括する部分である。アパシー、アイリアン、アドホック、アンビギュイティ、アブセンス(あとがき)といういずれもアルファベットのaで始まる言葉が節の名前headingに掲げられている。
この『建築の解体』は、当時の建築学生にとって教科書のような本であった。世界の若い建築家についての情報が新鮮で、僕も貪るように読んだ。
磯崎がいう「建築の解体」には、二重の解体が含まれていた。ひとつは「建築」そのものの解体であり、もうひとつは「近代建築」の理念や方法の解体である。「建築」そのものの解体とは、一言で言えば、建築が一個の商品となり耐久消費財になっていくことをいう。建築は永遠のものでは最早あり得ず、どんどん新陳代謝していくものとなりつつある。メタボリズムの主張がまさにそうであった。建築は土地や場所との関係を失い、工場で生産され、ただ組み立てられるものとなる。日本では1960年代の10年で、住宅総生産の約一割は住宅メーカーによって供給されるプレファブ住宅になった。住宅は、買うものであって、建てるものではなくなるのである。
しかし、磯崎の関心は「建築」そのものの解体へは向かわない。すなわち、建築の生産システムの全体については結局予め放棄されていたように思える。前著である『空間へ』で悟ったように、社会変革のラディカリズムと建築表現の絶対的裂け目を見て、アートとしての「建築へ」向かうのである。
磯崎がこの本で専ら考えたのは、従って、「近代建築」の解体である。「近代建築」、すなわち「近代建築」批判は、60年代から70年代にかけての若い建築家たちの共通のテーマであった。
そして、その答えは、「革命はとっくに終わっている」(C.アレグザンダー)であった。そして、「主題の不在」ということであった。
例えば、磯崎は次のように言う。
「近代建築が疑うべくもない究極的な主題に設定したテクノロジーが、かならずしもその絶対性を維持できなくなったというべきか。主題が消えてしまったのだ。目的的な空間をテクノロジーを駆使して実現するという、明快でリアリスティックな思考のプロセスが疑問視され始めた。」
「主題の不在」という主題を確認した磯崎は、ポスト・モダンの旗手として、日本のみならず世界の建築家たちをリードしていくことになるが、彼が専ら手掛かりとしたのは形態操作の手法である。一種のフォルマリズムといっていい。自ら感性に適う建築言語が古今東西から寄せ集められ組み立てられていった。分裂症的折衷主義とその手法を名づけたこともある。要するにテクノロジーの論理を廃し、全く、自立した平面に建築の世界を仮に設定し、様々な建築的断片を自在に操って見せたのである。
かくして「建築の解体」が実行され、ポスト・モダン建築の跋扈(ばっこ、蔓延ること)があり、磯崎はひとりそれを抜け出す(他の建築家を差異化する)ために「大文字の建築Architecture with capitol ‘A’」という概念に辿り着くのである。
2002年11月25日
宇治市都市計画審議会。生産緑地の宅地転換が議題だが、今年は若干お茶畑が増えた。それより、建築基準法の改正(総合設計制度第59条の2改訂)への対応に大童である。その説明(報告事項)にかなりの時間をとった。容積率制限緩和について宇治市では「適用除外」が方針である。どうもこの間の「都市再生」方策は東京のみの発想である。12月中にもう一度開いて議決する必要がある。
2002年11月28日
第56回アジア都市建築研究会。山田協太の「コチン」についての報告。かってにスケジュールを変えるから集まりが悪い。
柏木博さんの最新刊『モダンデザイン批判』送付。
2002年11月29日
サイト・スペシャルズ・フォーラムのSSF大賞授賞式のために上京。副理事長として挨拶する。
安藤正雄先生が論文出したという。目出度い。