ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジー,住総研研究年報19,住宅総合研究財団,1992
Ⅲ チャクラヌガラの構成原理
1.ロンボク島の都市とチャクラヌガラ
1ー1 マタラム
ロンボク島の中心都市といえばマタラムである。西ヌサトゥンガラ州の州都でもある。かってのアンペナン、マタラム、チャクラヌガラ(それぞれ下位行政単位であるクチャマタンを構成する)からなる。アンペナンはオランダの植民地時代に港町として栄えた都市である。マタラム、チャクラヌガラおよびパグダン、パガサンガン、パグダンはいずれもバリのいわば植民都市として建設された。他の都市としては中央ロンボクのプラヤ Praya、東ロンボクのスロン Selongがある。プラヤはロンボク島中部の中心都市はである。プラヤはかつてはササック族のバリ支配に対する反乱の拠点であった。また、スロンはロンボク島東部の都市である。町の中心には大きなモスクがあり、バリの影響が色濃く残されている西部の都市とは異なっている。ジャワ都市などインドネシアのイスラーム都市に近い。ここではロンボク(西ロンボク)を特徴づけるチャクラヌガラに焦点を絞りたい。
クチャマタン・マタラム(7クルラハン)、クチャマタン・アンペナン(7クルラハン)、クチャマタン・チャクラヌガラ(9クルラハン)からなるマタラム市の人口は274、765人(1990年)である*[1]。西ロンボクの他のクチャマタンも含めると858、996人であり、中心都市としての大きさは明らかである。職業別人口構成を見ると農業従事者の数は減少傾向にあり、その他は増加傾向にある。マタラム市では人口増加率を年間3.29%と予想しており、2015年には612733人になる。
1ー2 チャクラヌガラ
チャクラとはサンスクリットで宝輪、ヌガラは国を意味する。その中心の寺であるプラ・メルが建設されたのが1720年、同じく王宮に隣接するプラ・マユラが建設されたのが1744年である。18世紀初頭には都市の基礎がつくられたとみていい。
当初、バリのカランガセム王国は東進を続ける。スンバワにもその勢力を及ぼそうとするのだが、さすがに、既にVOCの影響下にあったスンバワ支配には失敗している。しかし、この間、ササックの王国は完全に支配下に入った。1740年頃のことである。
Ⅰ章で述べたように、18世紀末から19世紀にかけて王国はいくつかの王国に分かれる。19世紀初頭には、西部ロンボクに、パガサンガン、パグタン、マタラム、チャクラヌガラ(カランガセム)の4つが分立したという。東部についてはその支配力はかなり衰えたらしい。19世紀初頭には、西部と東部で異なる社会が形成されるのである。
バリ人の大多数は先の4つの都市に住んだ。4つの都市の周辺には多くのササック族の村があり、また、離れてナルマダ Narmada、リンサール Lingsar、グヌンサリ Gunungsariなどの王宮があった。西は最も重要な港アンペナン、東はロンボク中央の森ジュリン Jurin、北はリンジャニ山を中心とする高地、南はプレサック・クリパン Presak Kuripanと呼ばれる村の範囲がバリの直接支配領域であった。それに対して、東部は地方長官を通じて支配する。そんな形がとられるのである。
チャクラヌガラは、実にきれいな格子状街路パターンの都市であるが、バリのカランガセム王国の植民都市であり、その都市理念をモデルとして建設されたと推測される。ヒンドゥーの都市理念に基づいて建設された都市の中でも珍しく全体が残されている。インドを含めてもそう例がないといっていい。
チャクラヌガラの中心にはプラ・メルが、西端にはプラ・ダレムpura dalem(死の寺)が、東端にはプラ・プセ pura puseh が位置する。この構成は、バリのギャニャールGianyar、カランガセム、クルンクルンKlungkungなどの構成と同じ理念に基づいていると考えられる。中央のプラ・メルに接してパサールがある構成もジャワやバリで見られるパターンとの関連を類推させる。
住区は格子状のパターンによって構成されるが、続いて述べるように、街路には3種類ある。北端を南北に走る街路・中央を南北に走る街路は最も広く、メインストリートとなっており、東西に走る街路沿いにカランガセム最大の寺院であるプラ・メルと王宮がある。その次に広い街路が、南北5個・東西8の正方形区画を形成する。各区画は、南北に走る1番細い街路によって、さらに4つの短冊状街区に分割される。調査によると、現状では宅地の合筆・分筆の結果、若干の変化が見られるが短冊状街区は背割され、さらに南北に10筆の正方形の宅地に分割されている。従って、計画上は1区画80筆の宅地から構成されていたと考えられる。
しかし、現状においてはかなりの変化が見られる。プラ・メルの北側にはモスクがあり、その周辺地区は計画性のない細い路地が入むイスラーム教徒が住む地区となっている。また、東端部にもイスラム教徒が多く住み、サンガを持つバリ的な住宅の個数は少ない。そして、南端部には空き地が多く見られ、一部は畑となっている。しかし、西北部地区は、比較的ヒンドゥー教徒の住民が多く、塀に囲まれ、宅地の北東隅にサンガーをもつバリ的な住居が多くみられ、建設当時のチャクラヌガラの姿を残している。
2.チャクラヌガラの空間構成
チャクラヌガラは、インドネシアでは極めて珍しい格子状の道路パターン(グリッド・パターン)を持った都市である。ここでは、チャクラヌガラの構成について、建設当初の姿を推測してみたい。
2-1 街路パターンと宅地割
チャクラヌガラの街路体系は3つのレヴェルからなっている。街路幅が広いものから順に、マルガ・サンガ marga sanga、マルガ・ダサ marga dasa、マルガ margaと呼ばれる*[2]。サンガは9*[3]、ダサは10を意味する。マルガ・サンガはチャクラヌガラの中心で交わる大通りである*[4]。このマルガ・サンガは正確に東から西、北から南に走り、四辻を形成する。マルガ・ダサが各住区を区画する通りであり、マルガが各住区の中を走る通りである。
宅地1筆あたりの計画寸法および道路幅の計画寸法について、古い壁の残っている宅地を選んで実測を行った。
計測した宅地の東西方向の平均は26.5m、最大は30.44m、最小は25.08m、また南北方向は平均24.53m、最大は26.84m、最小は21.55mであった。宅地の計画寸法は東西約26m、南北約24m、一宅地あたりの面積は約624㎡となる。
古老によれば*[5]、「プカランガン(屋敷地)の計画寸法は25m×25mであり、宅地を測る単位としてトンバ tomba がある。トンバは槍の長さであり約2.5m、25mというのはその10倍である。」。また、「1プカランガンは8アレ are(800㎡)であり、正方形である。」という*[6]。「1プカランガンは6 are (600㎡)である。」*[7]と異説があるが、実測では25m×25mの正方形のプカランガン(屋敷地)は存在せず、当初からほぼ26m×24mで計画されたものと考えられる。
街路の幅はタクタガン tagtagan の幅も含めて計測した。タクタガンとは街路の両端に設けられた植栽スペースである*[8]。古老達によれば、「テンボック tembok 壁と道の間には、タクタガンと呼ばれる植裁空間がある。その所有権は王に属する。」*[9]。「タクタガンの幅は約5mであった。タクタガンの機能の一つとしては、ウパチャラ upacara(祭り)に使う。また別の機能としては、ココナツや砂糖椰子などの果樹を植え果実を収穫した。タクタガンはアダット(慣習法)では、プカランガン(屋敷地)に属しており、プカランガンのなかでは儀式を行うのを禁じた。1867~8年にかけて中国人がタクタガンを商業地として買い上げた。」*[10]。
タクタガンは祭祠の行われる場所であり、また植裁が行われ都市景観を演出する祝祭空間として、かつては利用された。しかし、現状では、マルガサンガ沿いのタクタガンはほとんどが中国人所有の商店として利用され、マルガ・ダサやマルガ沿いのタクタガンも宅地に取り込まれている例が多くみられる。
実測によるとマルガ・サンガは東西の通りで36.52m、南北の通りで44.05m、マルガダサは、ややばらつきがあるが平均17.14m、最頻値で18mであり、約18mで計画されたものと考えられる。マルガは平均で7.75mであり、約8mで計画されたものと考えられる。またタクタガンの寸法は、マルガ・サンガで11.63m、マルガ・ダサで4~6mであった。これらの数値によるとマルガ・ダサでで四方を囲まれたブロックの東西寸法は、宅地寸法(東西)26m×8+小路(marga)8m×3=232m。南北寸法は、宅地寸法(南北)24m×10=240mになる。また、タクタガンの寸法を4mとしてブロックの寸法に含めると、興味深いことに、232m+4m×2=240mとなり、1ブロックの寸法は240m×240mの正方形となる。
2-3 住区構成ーーーカラン
寸法計画の面からは、マルガ・ダサで周囲を囲まれたブロックが1つの住区を構成していたと考えられる。また現在のカランの構成パターンもマルガ・ダサを境界とするものがあり、マルガ・ダサで囲まれたブロックが一つの住区を構成していたと考えられる。
古老の話によると*[11]、南北に走る1本のマルガに10づつの宅地が向き合うのが基本である。そして、この両側町をマルガと呼び、2つのマルガで1クリアンを構成する。クリアンとは、バリではバンジャールの長を意味する。また、2クリアンすなわち80宅地で1つのカラン(住区)を形成する、ということである。
現在、カランはインドネシアの行政組織においてはRW*[12]に対応する組織となっている。古老の話によると「建設当初、各カランはバリの同一集落出身の人々で構成されていた。またチャクラヌガラは33のカランからなり、各カランに1つのプラがあり、チャクラヌガラの中心寺院であるプラ・メル pura meruにそれに対応する祠があった。そして、各カラン毎に長がいた」ということである*[13]。カランはかつては祭司組織の単位であったと考えられる。
バリ島にはカランと呼ばれる住区は見られない。バリではカランとはスードラの屋敷地の意味である*[14]。ピジョー T.G.Pigeaud*[15]によるとカラン(karang)という語は、チャクラヌガラの王宮で発見された『ナガラ・クルタガマ』*[16]の12章「(王家と宗教コミュニティーに属する)領土一覧」の76編6節に見られる「kalagyans」に起源を持つという。「1.今、描写されていないのはkalagyans(職人の場所)の事である。ジャワのすべてのデサ deshas(村 地域)に広がっている。」という描写がある。
バリの居住単位はバンジャールと呼ばれている。バンジャールは形式的には集団の単位であり、公共施設の管理・地域の治安維持・民事紛争の解決をおこなう。そして、その長はクリアン・バンジャールと呼ばれた。
現在、チャクラヌガラのバリ人の間ではバンジャールもカランも使われるが、バンジャールが社会組織の単位であるのに対してカランは土地の単位を意味する。同じ土地出身の地縁集団としての性格を合わせ持つのがカランである。
2-3 祭祀施設と住区構成
チャクラヌガラの中心に位置するプラ・メルには33の祠があるが、それと対応する33のプラが現在も残っている。プラを持たないカランも見られ、カランとプラの対応関係は崩れているが、かっての姿を推察することができる。
ロンボク島のプラの中で最も大きく、最も印象的なのがプラ・メル*[17]である。最東にあるスワは3つの部分のうち一番重要な区画である。ここには塔や祠などの建物が配置されている。このうち主要な建物は、高くそびえ立つ三つの塔である*[18]。これらの三つの塔を囲むようにして、北側に14棟、東側に16棟の、塔の前に3棟、計33棟の小祠が建っている。それぞれの祠にカラン名が書かれており、チャクラヌガラと周辺の村を合わせた33のカランによって維持管理がなされている。
建設当初は、存在したが、時代の経過によりその住区組織自体が消滅し、現在は存在しないプラも確認された。現存するプラは全部で27である。その結果、祠を維持管理する住区はチャクラヌガラの格子状の都市計画地域外にも存在することが明らかになった。また、1つのプラは、チャクラヌガラの南に位置するクディリ Kediri に有ることが判明した。プラ・メルの小祠を維持管理する住区が変化していないのであれば、格子状の区域外にもプラ・メル建設当初から、バリ人の住区があったことになる。プラの分布を見ると、古老のいう1ブロックが1カランとなるものも多く、各カランに1つのプラという対応関係は見られない。興味深いのは、南のアンガン・トゥル PURA
ANGGAN TELU である。この地域は中心部と同様の町割りがなされている。当初から計画されたとみていい。北は、プラ・ジェロがあり、東はプラ・スラヤがあり、プラ・スエタがある。チャクラヌガラはオランダとの戦争で一度大きく破壊されており、必ずしも現状からは当初の計画理念を決定することはできないが、プラ・メルに属するプラの分布域がおよそ当初の計画域を示していると考えていいと思われる。
チャクラヌガラのマルガ・サンガ以南の地域を旧市街であったと考えると、マルガ・ダサで四方を囲まれたブロック32からなる。王宮のあるブロックを加えると33個になり、プラメルの祠の数に一致する。チャクラヌガラの1カランを建設当初はマルガ・ダサ、もしくはマルガ・ダサとマルガ・サンガで囲まれたブロックで構成する概念があったということも考えられる。
4-4 王宮の構成
チャクラヌガラの王宮は、1894年11月にオランダとの戦争により破壊されている。しかし、C.W.クールによって*[19]、その配置が残されている。それによれば、チャクラヌガラの王宮はバリの王宮に比べると規模が大きく、500m×250mの規模であった*[20](図Ⅲー⑤図⑤)。建物の形式等については、クールの配置図からは不明であるが、上記の文章より、周囲を壁に囲まれ、バリのプリによく似た構成であったことは間違いない。クルンクンの王宮、カランガセムの王宮が参考になる。また、『ナガラクルタガマ』の記述と合わせて王宮を復元することは都市構成を復元する大きな手がかりとなる。
序章で触れたように、このチャクラヌガラの王宮から、『ナガラクルタガマ』がブランディス(J.Brandes)により発見されたのは1896年のことである。著者はマジャパイトの宮廷詩人プラパンチャで、1365年に書かれた。このロンタル文書の中で、首都に関する記述がなされているのは、第2章「マジャパイトの首都(The Capital of Majapahit)」である。その中、8編は王宮の内外の様子、9編は王宮の内部の様子、10編は王宮に参賀する人、11編は王宮内部の様子、12編は王宮外の様子の描写である。本稿では、『ナーガラ・クルターガマ』を資料として14世紀のマジャパイト王国の都の空間構成について見てみるとおよそ以下のようになる。典拠とするのはピジョー T.H.Pigeaud による英訳である*[21]。
これまでに『ナガラクルタガマ』の記述を基にしたマジャパイトの首都の復元がステゥッテルハイム Stutterheim*[22]、ピジョー、マクレーン・ポント Maclaine Pont*[23]によりなされている。
ピジョーの案は、文章に忠実に行われている。しかし、実際の都市・建築形態を反映した復元案ではない。また、ジョグジャカルタとの比較も行っている。しかし、ジョグジャカルタの王宮はイスラム国家であるマタラム王国の王宮として1756年に建設された。1520年にマジャパイト王国が滅んだ後、ジャワにはいくつかのイスラム王国が割拠する状態が続いた。それらを統一したのがイスラム・マタラム王国である。都がジョグジャカルタに移るまでに、何度も移動を繰り返している。従って、ジョグジャカルタとの比較は妥当ではない。
ステゥッテルハイムの復元はジャワ島のジョグジャカルタ Yogyakarta とバリのクルンクン klungkung の王宮を参考にしたものである。先述のようにジョグジャカルタのプランを参照するのは適当ではないと考えられる。
マクレーン・ポントの案(図Ⅲー⑧図⑧)は、ジャワ島・ジョグジャカルタの都市プランに見られるアルン・アルン alun-alun と呼ばれる広場が二つある形態を採用している。イスラム化以降の都市の形態を採用するのは必ずしも適当であると思われる。また、王宮に関しては幾重もの区画からなるインド風の復元であり、ジャワ・バリ島にはこのような形式の王宮は見られないことが問題点として指摘される。
『ナガラ・クルタガマ』の中で都市に関する記述があるのは以下の箇所である。
8編1節に
「1. 以下に描写されるのは、王宮の秩序である。すばらしく、周壁は赤煉瓦で、周りを囲んで、厚く、高い。」とある。これより、王宮は城壁に囲まれていたことが分かる。
8編2節に
「2. 東。隣接する建物はすばらしい。panggung(監視塔)は高く、その胸壁はダイヤモンドの様な白いプラスターである。
3. 北に位置して、市場の南の近くに、たいへん長く最高にすばらしい建物がある。
4. Caitora月(三月から四月)毎に、それは王の家臣の集会場となる。(その)南には、神聖な、堂々とした四辻がある。」とある。これより、東に監視塔が、北には集会場と市場と四辻があったことが分かる。また、それぞれの関係は北から順に市場・集会場・四辻である。
12編1節に
「1. 描写されるのは、町の形に従って配置される隣接する区域の秩序である。
2. 東には尊敬されているシバ教のdwijas(司祭)がいる。主要なのは崇拝される神聖なブラフマの王(Brahmaraja)であり、高位である。
3. 南には仏教徒がいる。主要なのは、nawangの崇拝を行う、Nadiの大司祭である。
4. 西には、全てのkshatriyas(貴族)、mantris(首長)、punggawas(選ばれた廷臣)がおり、有名な君主の親類である。」とある。
これより、東にはシバ教の司祭、南には仏教の司祭が、西には貴族・首長・廷臣がいたことが分かる。
12編2節には、
「1. そして、東。広場が間にあって、Wengkerの王子の屋敷地があり、全くもってすばらしい。
2. Shaciと一緒のIndra神は、明らかにDahaの王女と一緒の王子である。
3. 敬意をはらわれるMatahunの守護者は、Lasemの王女で、 分割されていない奥に場所を占めている。
4. 南に位置して、それほど遠くないところに、敬意をはらわれる守護者のkamegetan(別荘)がある。それはすばらしく、堂々としている。」とある。これより、東には広場をはさんでWengkerの王子・Dahaの王子・王女・Lasemの王女の屋敷地、南のそれほど離れていない所には守護者の別荘があったことが分かる。
12編3節に
「1. そこ北には、大きな市場から北に、邸宅がある。印象的であり、すばらしい。」とある。これより、北にはWengkerの王子の弟の屋敷が、あったことが分かる。
12編4節
「1. 北東には、尊敬されているガジャマダ(Gajah Mada)の邸宅がある。彼は、Wilwa Tikta(マジャパイト)のすばらしいpatih(高官)である。」とある。これより、北東にガジャマダの邸宅があったことが分かる。
12編5節に
「1. そして、王宮の南の(地域)には邸宅がある。dharmadhyaksas(司祭)の場所であり、堂々としている。
2. 東はシバ教徒の場所である。最もすばらしいと言われている。仏教徒の場所は、西にあり、すばらしく、よく配置されている。」とある。これより、東には司祭の場所がある。そのうち、東はシバ教徒、西は仏教徒の場所である。
『ナガラ・クルタガマ』に書かれている都市の空間構造の復元案(図Ⅲー⑨図⑨)を示す。『ナガラ・クルタガマ』の記述はすべて王宮を中心としてなされているものとする。従って、本文中の方位は全て王宮からの方位として復元する。「町の形に従って配置される隣接する区域の秩序である。」(12-1-1)という記述があり、都市の全体形は不定形であるので王宮からの方位・距離という形で復元を行った。
王宮の東に関しては、仏教の司祭、仏教の主教・シバ教の主教と二つの記述があり、また北に関してもシバの司教とwengkerの王子・Dahaの王子・王女・Lasenの王女の記載されている。どちらも先に記載されている方を王宮に近いものと考える。
ヒンドゥー・マジャパイトの都市の都市理念の特質として2つのポイントが挙げられる。一つは、四辻と王宮を中心とした都市構成である。また、市と広場を持つ事も特質として挙げられる。この都市構成は、バリ島の都市構成とたいへん類似したものである。バリの都市も四辻と王宮を中心に持ち、さらに広場と市を持つ。
2つめは都市の全体形を規定せず王宮との距離・方位との関係、すなわち都市形態全体を規定するのではなく王宮との相対関係で都市を規定することである。これは、都市の全体像を先に規定するインドのヒンドゥー都市の計画概念とは異なっている。
3.チャクラヌガラの住み分けの構造
3-1 住民構成と住区組織
クチャマタン・チャクラヌガラの人口(1990年)は、およそ74000人である。宗教別の人口構成をクルラハン毎にみると、格子状の町割りに含まれるクチャマタンは西チャクラヌガラ(Cakranegara Barat),東チャクラヌガラ(Cakranegara Timur),北チャクラヌガラ(Cakranegara Utara),南チャクラヌガラ(Cakranegara Selatan)の4つに、ヒンドゥー教徒が数多く居住する。
各クルラハン毎に宗教別のカラン数をみると、西チャクラヌガラ、東チャクラヌガラでは75%以上がヒンドゥー教徒が主流を占めるカラン、北チャクラヌガラ、南チャクラヌガラでも50%以上がヒンドゥー教徒のカランとなっている。
具体的な住民分布を見てみると、まずムスリムについて著しい特徴を指摘できる。ムスリムの居住するのは市の周辺部である(図Ⅲー⑩図⑩)。西側については、ほぼマルガで囲われるブロックの境界に沿ってムスリムが居住する。バンジャール・パンデ・ウタラの西の1クリアンはムスリムが居住し、バンジャール・パンデ・スラタンの西にはヒンドゥー教徒が居住する。チャクラヌガラのかっての境界はバンジャール・パンデ・ウタラの西であったことが推測される。カラン・サンパランの北は後にムスリムの居住が行われた地区であろう。南は、アビアントゥボの周囲がムスリム居住区である。そして、カラン・ゲタップが製鉄で知られるムスリム居住区である。カラン・ゲタップは、低所得者層が居住する地区でもある。東のデサ・スガンテンは、4つのカランにわけられるが、いずれもムスリム居住区である。グリッド・パターンは左京でより崩れていることが、こうしたムスリム居住区の分布で理解できる。北についても周辺部にムスリムが居住する。ヒンドゥー教徒の居住区をイスラーム教徒が取り囲んでいる形である。都心部でムスリムが居住するのはカンポン・ジャワとカラン・ブディルの極く一部である。
中国人は、全域に点々として分布している(図Ⅲー⑪図⑪)。まず、商業地域であるチャクラヌガラの中心部、四辻のあるあたりに集住している。金を扱う商店が中心部に多く見られるが、その経営者のほとんどは中国人である。また、幹線道路沿いに中国人は居住する。主として商業活動に従事するのが中国人である。
3-2 住区構成と施設分布
まず、カランとブロックの関係をみてみると図のようである。マルガすなわち約20戸を単位とするが、マルガ・ダサを越えて様々な形態と規模をとる。
モスク、プラといった宗教施設や商業施設等都市施設の分布と各カランの構成から住区構成を見てみると以下のようになる。モスク、プラの分布はイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の分布に関わる。モスクは、上述したムスリムの分布と一致する。また、市の中心部に3つ建設されている。他の宗教施設として、キリスト教会が3つ、中国(仏教)寺院がある。
パサール(市場)は、中心部の他、およそ東西南北にひとつづ5つあり、生鮮食料品など日常品を販売している。商業施設は、マルガ・サンガの大通りに集中している。
近隣住区に密接に関わる学校は各住区毎に、いくつかのカラン毎に設けられている。
3-3 住み分けの構図
3ー3ー1カーストの分布
ヒンドゥー教徒の分布をカースト別に見てみよう。インドの場合と同様、バリでも、ブラーマナ Brahmana、クシャトリア Ksatriya、ウェシャ Wesya、スードラ Sudraの4つのカーストが区別される。さらに、ワルナ(Waruna 色)制に似た下位分類を持つとされる。
ブラーマナの場合、男はイダ・バグース Ida Bagus、女はイダ・アユ Ida Ayu 略して Dayuと呼ばれる。もし、母親が父親より低いカーストに属すと、子供はグスティ
Gusti ないしグスティ・バグース Gusti Bagus (女性の場合、イダ・マデ Ida Made もしくはイダ・プトゥ Ida Putu)と呼ばれる。クシャトリアは、極めて複雑になるのであるが、プレデワ Predewa、プンガカン Pengakan、バグース Bagus、プラサンギアン Prasangiang といったタイトル(称号)をもつ。歴史的経緯から、デワ・アグン Dewa Agung、チョコルダ Cokorda、アナック・アグン Anak Agungも用いられる。ほとんどのウエシャは、グスティと呼ばれる。スードラの場合、大半がそうであることから、バリ・ビアサ(Bali biasa 一般のバリ人)あるいはジャバ Jaba と呼ばれる。
インドの場合、『マナサラ』*[24]のいうように、北がブラーマナ、東がクシャトリア、南がヴァイシャ、西がスードラに振り分けられるのが基本であるが、果たしてどうか。
まず、ブラーフマの分布(図Ⅲー⑭図⑭)で目立つのが北部である。そして、東部である。また、南の突出部の東北部にも目立つ。左京の南西、右京の中央部にも見られるが、北東部へのブラーフマンの偏りは大きな意味をもっていると考えられる。北東の方角には聖山リンジャニがあり、チャクラヌガラ周辺のプラの分布や構成について報告(1)でみたように、オリエンテーションははっきりと意識されていると見ていいからである。個々の屋敷の東北角にもサンガ(屋敷神)が排されているのである。インドそのものではなく、バリ・ヒンドゥーの方位観がそのまま持ち込まれていると見ていいだろう。
サトリア、ウェシアについては、称号ははっきり意識されているがカーストについては居住者の認識が極めて曖昧である。特にウエシア意識が希薄である。グスティーと合わせてウエシャと考えると全域に分布するが、どちらかというと左京の分布が厚い。それに対してクシャトリアと答えるものの分布は右京に厚い。称号毎の分布を見ると、アグン、ラトゥといった王家に関わる称号、またチョコルダあるいはデワは、数も限られ、左京の王宮の周辺に分布する。
以上のように、比較的数の多い、サトリア(図Ⅲー⑮図⑮)とグスティ(図Ⅲー⑯図⑯)には分布の偏りが見られる。サトリアは右京に、グスティは左京に偏っているといっていい。グスティをウェシャと見なせば、インドとは逆であるが、カースト毎の棲み分けははっきりしていたと見ていいだろう。
スードラ、バリ・ビアサは全域にわたって分布する。ただ、当初は、次に出身地について見るようにカースト毎に、また、称号毎に、まとまって棲み分けられていたことは間違いないところである。
カラン毎の具体的な棲み分け状況については紙数の関係でここでは省略したい。
3ー3ー2 出身地とカラン
チャクラヌガラは、バリ島カランガセム王国の植民都市として18世紀前半に建設された経緯をもつ。バリからロンボク島への移民はどのように行われたのか、また、どのように住区が構成されたのかについては、出身地を聞くことである程度推察できる。聞き取り調査によれば、「各カランの名前は出身地のバリの集落の名前であり、各カランの居住者はその集落の出身者」ということであった。昭和17年発行陸地測量部作成のバリ島地図で、バリ島の地名の確認を行うと*[25]、確認できたのは以下の13住区である(図Ⅲー⑰図⑰)。
1.kebu、2. Kebon、3.Anggantelu、4.Seraya、5.Mantri、6.Jasi、7.Tohpati、8.Manggis、9.Sideman、10.Sampalan、11.Pande、12.Selat、13.Rendang
カランの名称は、バリ島の集落の名称から、取られたということはほぼ間違いないと考えられる。また、集団で移住した人が、自分達の出身地の名前を移住先の土地の名称とすることは、特に植民都市ではよく見られる事象である。
いつ、移民したのかを明らかにするために、プラ・メルの小祠を維持管理する住区の名前と、バリ島でも確認された13の住区名を比較した。その結果、プラ・メルに維持管理する小祠をもっているのは、Pande、Sampalan、Kubu、Rendang、Mantri、Serayaの6つであった。この6つのカランについては、チャクラヌガラ建設当初からにチャクラヌガラに設立された住区であろうと考えられる。
3-4 居住空間の構成
具体的な空間構成をみてみよう。ヒンドゥー地区とイスラーム地区からそれぞれ2マルガを選定した。ヒンドゥー地区は右京のカラン・ジャシ、イスラーム地区は左京のカラン・スラヤである。
ヒンドゥー地区とイスラーム地区の空間構成の差は一目瞭然である。歩いていても、すぐさまその違いが分かるのである。ヒンドゥー地区は極めて整然としているのに対して、イスラーム地区に入ると雑然としてくる。街路は曲がり、細くなる。果ては袋小路になったりする。住宅もてんでバラバラの向きに建てられる。空間構成とは別の次元であるが、イスラーム地区に入るとすぐさま取り囲まれる。居住密度は高く、コミュニティーの質も明らかに異なっている。
カラン・ジャシ(図Ⅲー⑱図⑱)を見てみよう。カラン・ジャシの調査街区は、2マルガからなるが、36戸ある。うち、ヒンドゥー教徒の住戸は、33戸で、ブラーフマナ1戸を除いて他はスードラ、バリ・ビアサである。他は、キリスト教の中国人が1戸、ムスリムのジャワ人が2軒ある。
ヒンドゥー教徒の住居の場合、北東の角にサンガをもつ。サンガは全体に統一感、秩序感を与えている。屋敷地は、必ずしもバリ・マジャパイトの典型的構成をしているわけではない。敷地は様々に分割され、あるいは併合され、その構成は変化してきている。
イスラーム地区のカラン・スラヤ(図Ⅲー⑲図⑲)は、もともと、きちんと街区割りがなされていたと思われる。なぜなら、北部には、整然としたヒンドゥー教徒の屋敷地が存在するからである。しかし、その街区割りは大きく変更されている。細街路が自在につくられ、その街路に沿って住居群が建てられる。袋路も多い。塀で囲まれた屋敷地の中に分棟で配置するパターンと街路を伸ばしていくパターンとは全く対比的なのである。
4 チャクラヌガラの空間構造とコスモロジー
以上をもとに、大胆な仮説を含めて、チャクラヌガラの構成原理をまとめてみたい。考察の前提となるのは以上に明らかにした以下の点である。
①街区の計画は明確な寸法計画を持ち極めてシステマティックになされている。
②コミュニティーの単位である住区(カラン)の構成も極めて理念的に計画されたものである。プラ・メルと祭祀集団としてのカランの結びつきは都市構成の極めて基本的な原理として考えられる。
③バリのカランガセム王国の植民都市として、バリの都市計画(集落)理念が大きな原理となっている。
④王宮の構成は、基本的にバリのプリの構成と理念を等しくする。
⑤チャクラヌガラの配置はは、周辺のプラの立地から窺える様に、リンジャニ山をメール山とするコスモロジカルな秩序のもとに行われている(報告(1)で見たように、プラ・リンサールは北東に置かれている。東に置かれているナルマダは、リンジャニ山とスガラ・アナック湖の写しである)。
まず、計画域を特定する必要がある。その設定次第によって構成原理についての読解は異なる恐れがある。
⑥計画域は、プラ・メルの小祠に関わるプラの存在する範囲であると考えられる。その場合、東と南、北のグリッドから突出する区域をどう考えるかが問題となるが、少なくとも南の突出部は含まれていたと考えられる。。また、どこまで、マルガ・ダサのグリッドで計画されていたのかが問題となるが、パターンが崩れている左京の大部分は計画されていたと考えられる。
⑦右京(マルガ・サンガの東を左京、西を右京と便宜的に呼ぶ)については、マルガ・サンガの四辻の南に4×4のブロックが造られたこと、および北に1×4のブロックが計画されたことは、現在の街路パターンから、また、ヒンドゥー教徒の分布状況から明かである。
⑧左京については、グリットの区画が明確ではないが、ブロックの規模および現在の街路状況から、マルガ・ダサを特定できる。右京と左京の間には2マルガの緩衝区画(現在ショッピングセンターがあるクロダン地区)が設けられていた。道幅の広いマルガ・ダサに区画されるブロックは、それから東に4×4ブロック想定できる。北1ブロックは、プリおよびプラ・マユラのブロックである。
⑨以上のブロックは、現在のヒンドゥー教徒の分布から、当初から計画されていたと考えてよい。ブロックパターンの崩れた左京にも古い屋敷地壁も残されており、出身地に関するヒヤリングからも計画域はおよそ確認されている。
問題は、上下の突出部分である。
⑩プラ・メルの小祠に関わるプラは、南部の突出部分に存在する。また、ヒンドゥー教徒も南北の突出部分に居住している。とりわけ興味深いのがブラーフマンの分布である。北と東にその分布は偏っている。要するに現在のヒンドゥー教徒の居住域は、その後の開発の度合いは別として、ほぼ当初から計画されていたと考えていいのではないか。
⑪バリの集落構成の原理の一つとして、カヤンガンティガの配置がある。プラ・プセ(起源の寺)、プラ・デサ(村の寺)、プラ・ダレム(死の寺)の三点セットのプラが南北に配置されるのである。チャクラヌガラを見ると、西の端にマルガ・サンガに接して、プラ・ダレムがある。また中央部にプラ・メルがある。さらに東の端にも、プラ・スウェタがある。南北と東西の違いはあるけれど、カヤンガンティガの理念はチャクラヌガラにも生かされていると考えられる。
⑫バリには、三界観念が広く見られる。宇宙の三層構造、山、平野、海というバリ棟の三つの区分、集落スケールのカヤンガン・ティガ、屋敷地の区分(ナイン・スクエア)、屋根、柱・壁、基壇という区分・・・身体の頭、胴体、足の三区分に至るまで三層秩序が貫かれているという観念がある。チャクラヌガラの南北の突出部分も、頭、胴体、足という三層区分が行われていると考えていいのではないか。
もちろん、チャクラヌガラが新都市として更地に建設されたということではない。東の突出部には土着の集落があった。また、⑪の集落は先行して存在したと考えられている。少なくとも以上に重層する形で植民都市が計画され、建設されたのである。
*[1] TIM DEPARTEMEN DALAM NEGERI.HASIL OBSERVASI LAPANGAN DALAM RANGKA
PEMBENTUKKAN KOTAMADYA DAREAH TINGKAT Ⅱ MATARAM.1991.
*[2] Ide Bagus Alit氏、チャクラヌガラの長老(Pengusap)的存在による。マルガとは道のことでサンスクリットからきている。インドのジャイプールでもマルガは、通りの名およびコミュニティーの単位として使われる。
*[12] エル・ウエー ルクン・ワルガ Rukun Warga 町内会。インドネシアの行政単位。いくつかのRT(*6 参照)からなる。チャクラヌガラの属しているマタラム市はアンペナン・マタラム・チャクラヌガラの3つのクチャマタン kecamatan から成っている。そして、区にあたるクチャマタンの下位単位がクルラハン kelurahan であり、チャクラヌガラは9つのクルラハンからなっている。クルラハンの下位単位がRWである。
*[17] 報告(1)で触れたが、このプラは東西にのびるチャクラヌガラの主要道に面し、周囲は赤煉瓦の高い壁に囲まれて建っている。バリのカランガセム王国の王、アグン・マデ・ヌガラ Agung Made Ngurah によって、ロンボク島の当時の全ての小王国を統合する試みとして、1720年に建立された。ヒンドゥー教のブラフマ神、ヴィシュヌ神、シヴァ神に捧げられたものであり、敷地は、東西方向に三つの部分に分けられ、それぞれブル(Bhur 地)、ブワ(Bwah 人間界)、スワ(Swah 神)からなる。バリの三界概念と同一の概念であり、宇宙の構造を象徴している。
ブルと呼ばれる一番西には門と丸太をくり貫いて作った鐘をもつバレ・クルクル Bale Kulkul と呼ばれる見張り塔があり、中央に段差があり東側の方が高くなっている。そして敷地の中央にガジュマルの木(ブリンギン beringin :ガジュマルの木は、バリでは神聖な木であるとされている。プラやプリをはじめ、カランの四辻に植えられている)がある。門の形式は、バリのプラに見られるチャンディー・ブンタールと呼ばれる分割門である。中央のブワには参道を挟んで両側に建物とガジュマルの木がある。この建物は、バリの寺院の例から考えると、お供えの準備をしたり、ガムラン音楽を演奏したりするための建物であると考えられる。
*[18] 中央の塔は11層の屋根をもち、シヴァ神を祭る。屋根はアラン・アランと呼ばれるチガヤで葺かれている。チガヤを固定するためには竹釘が使われている。構造材はナンカ Nunka、フタバガキ科のジャック・ウッドであり、細かい彫刻がなされている。その構造は、箱を積み重ねたような形式である。北側の塔は9層の屋根をもち、ヴィシュヌ神を祭る。この塔の屋根は瓦で葺かれている。南側の塔は7層の屋根をもちブラフマ神を祭り、瓦葺きである。構造的には、シバ神の塔と同じである。
*[19] C.W.Cool. DE LOMBOK-EXPEDITIE.1897
HAGUE.TRANS.E.J.Taylo.with the Dutch in the East.1934 London.P113~114
*[20] 註2ー13 Alfons van der Kraan
,Lombok:Conquest,Colonization and Underdevelopment,1870-1940
.Singapor,H.E.B.,1980.
*[24] 古代インドの建築書。古代ヒンドゥー教の理想都市については、シルパシャストラ(Silpa sastra)に描かれている。シルパシャストラとは、都市計画・建築・彫刻・絵画等を扱ったサンスクリット語の文書群のことである。最も完全なものは『マナサラ』(Manasara)であり、他に『マヤマタ』(Mayamata)、『カサヤパ』(Casyapa)、『ヴァユガナサ』(Vayghanasa)、『スチャラディカラ』(Scaladhicara)、『ヴィスバカラミヤ』(Viswacaramiya)、『サナテゥチュマラ』(Sanatucumara)、『サラスバトゥヤム』(Saraswatyam)、『パンチャラトゥラム』(Pancharatram)の9種がある。『マヤマタ』の著者はマヤ(Maya)であると考えられている。マヤは最も評判の高い天文学書『スルヤシッダンタ』(Suryasiddhanta)の編者であると考えられている。内容は『マナサラ』と大差がない。『カサヤパ』は著者名が本の題名に成っている。しかし、著者は人類の先祖の一人で大洪水の時に生き残った7聖人の第一に位置する人であり、神話上の人物である。『ヴァユガナサ』も著者名を書名に用いている。著者は「ヴァイナバ」(Vainava)僧団の創設者である。内容は建築的というよりむしろ宗教的である。『スチャラディカラ』の著者は「アガスタヤ」(Agastya)とされている。この本にしかない項目もあり、彫刻に関しては優れている。その他では『マナサラ』と大差無い。『ヴィスバカラミヤ』は内容的には『マヤマタ』に基づくものが多く、『マナサラ』に近い。『サナテゥチュマラ』は、『ヴィスバカラミヤ』に基づくものであり、『マナサラ』の流れを汲むものである。したがって、シルパ・シャストラに関しては『マナサラ』を参照するのが最適である。『マナサラ・シルパシャストラ』(Manasara Silpa Sastra)という題名であるが、「マナ(mana)」は「寸法」(Mesurement)また「サラ(sara)」は「基準(essence)」を意味し、「マナサラ(Manasara)」とは「寸法の基準(Essence of Mesurement)」の意味である。しかし『マナサラ』とはこの本の題名で有ると同時に、この本の作者の名前であるという説もある。また、「シルパ(Silpa)」とは規範、「シャストラ(Sastra)」とは科学という意味であり、「バストゥ(Vastu)」は建築という意味であり、「バストゥ・シャストラ(Vastu Sastra)」は「建築の科学(Science of Architecture)」の意味である。したがって、本来的には、この本の題名は『マナサラ・バストゥ・シャストラ』(Manasara Vastu Sastra)であるべきであるとされる。成立年代はアチャルヤ(P.K.Acharya)*1によると6世紀から7世紀にかけて南インドで書かれたものであると考えられているが、村田治郎*2は中に述べられている建物形態から近世に増補されたものであると考えている。
都市の形態と内部構成の詳細について述べている他のサンスクリット語の文書は『アルタ・シャストラ』(Arthasastra)である。これは理想的な首都についてもっと明確な考え方を示している。『アルタシャストラ』は富国について議論した文書である。著者は紀元前4世紀頃栄えたマウリヤ王朝,チャンドラグプタ1世(ChandraguptaⅠ)の首相であったと信じられている伝説上の英雄カウテリヤ(kautiliya)であると考えられている。この文書は紀元前2世紀から2世紀の間に編纂された。