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2021年10月18日月曜日

ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジー Ⅲ チャクラヌガラの構成原理

 ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジー住総研研究年報19住宅総合研究財団1992

 


 Ⅲ チャクラヌガラの構成原理

 

 1.ロンボク島の都市とチャクラヌガラ

  11 マタラム

 ロンボク島の中心都市といえばマタラムである。西ヌサトゥンガラ州の州都でもある。かってのアンペナン、マタラム、チャクラヌガラ(それぞれ下位行政単位であるクチャマタンを構成する)からなる。アンペナンはオランダの植民地時代に港町として栄えた都市である。マタラム、チャクラヌガラおよびパグダン、パガサンガン、パグダンはいずれもバリのいわば植民都市として建設された。他の都市としては中央ロンボクのプラヤ Praya、東ロンボクのスロン Selongがある。プラヤはロンボク島中部の中心都市はである。プラヤはかつてはササック族のバリ支配に対する反乱の拠点であった。また、スロンはロンボク島東部の都市である。町の中心には大きなモスクがあり、バリの影響が色濃く残されている西部の都市とは異なっている。ジャワ都市などインドネシアのイスラーム都市に近い。ここではロンボク(西ロンボク)を特徴づけるチャクラヌガラに焦点を絞りたい。 

 クチャマタン・マタラム(7クルラハン)、クチャマタン・アンペナン(7クルラハン)、クチャマタン・チャクラヌガラ(9クルラハン)からなるマタラム市の人口は274765人(1990年)である*[1]。西ロンボクの他のクチャマタンも含めると858996人であり、中心都市としての大きさは明らかである。職業別人口構成を見ると農業従事者の数は減少傾向にあり、その他は増加傾向にある。マタラム市では人口増加率を年間329%と予想しており、2015年には612733人になる。

 

 12 チャクラヌガラ

 チャクラとはサンスクリットで宝輪、ヌガラは国を意味する。その中心の寺であるプラ・メルが建設されたのが1720年、同じく王宮に隣接するプラ・マユラが建設されたのが1744年である。18世紀初頭には都市の基礎がつくられたとみていい。

 当初、バリのカランガセム王国は東進を続ける。スンバワにもその勢力を及ぼそうとするのだが、さすがに、既にVOCの影響下にあったスンバワ支配には失敗している。しかし、この間、ササックの王国は完全に支配下に入った。1740年頃のことである。

 Ⅰ章で述べたように、18世紀末から19世紀にかけて王国はいくつかの王国に分かれる。19世紀初頭には、西部ロンボクに、パガサンガン、パグタン、マタラム、チャクラヌガラ(カランガセム)の4つが分立したという。東部についてはその支配力はかなり衰えたらしい。19世紀初頭には、西部と東部で異なる社会が形成されるのである。

 バリ人の大多数は先の4つの都市に住んだ。4つの都市の周辺には多くのササック族の村があり、また、離れてナルマダ Narmada、リンサール Lingsar、グヌンサリ Gunungsariなどの王宮があった。西は最も重要な港アンペナン、東はロンボク中央の森ジュリン Jurin、北はリンジャニ山を中心とする高地、南はプレサック・クリパン Presak Kuripanと呼ばれる村の範囲がバリの直接支配領域であった。それに対して、東部は地方長官を通じて支配する。そんな形がとられるのである。


 チャクラヌガラは、実にきれいな格子状街路パターンの都市であるが、バリのカランガセム王国の植民都市であり、その都市理念をモデルとして建設されたと推測される。ヒンドゥーの都市理念に基づいて建設された都市の中でも珍しく全体が残されている。インドを含めてもそう例がないといっていい。

 チャクラヌガラの中心にはプラ・メルが、西端にはプラ・ダレムpura dalem(死の寺)が、東端にはプラ・プセ pura puseh が位置する。この構成は、バリのギャニャールGianyar、カランガセム、クルンクルンKlungkungなどの構成と同じ理念に基づいていると考えられる。中央のプラ・メルに接してパサールがある構成もジャワやバリで見られるパターンとの関連を類推させる。


 住区は格子状のパターンによって構成されるが、続いて述べるように、街路には3種類ある。北端を南北に走る街路・中央を南北に走る街路は最も広く、メインストリートとなっており、東西に走る街路沿いにカランガセム最大の寺院であるプラ・メルと王宮がある。その次に広い街路が、南北5個・東西8の正方形区画を形成する。各区画は、南北に走る1番細い街路によって、さらに4つの短冊状街区に分割される。調査によると、現状では宅地の合筆・分筆の結果、若干の変化が見られるが短冊状街区は背割され、さらに南北に10筆の正方形の宅地に分割されている。従って、計画上は1区画80筆の宅地から構成されていたと考えられる。

 しかし、現状においてはかなりの変化が見られる。プラ・メルの北側にはモスクがあり、その周辺地区は計画性のない細い路地が入むイスラーム教徒が住む地区となっている。また、東端部にもイスラム教徒が多く住み、サンガを持つバリ的な住宅の個数は少ない。そして、南端部には空き地が多く見られ、一部は畑となっている。しかし、西北部地区は、比較的ヒンドゥー教徒の住民が多く、塀に囲まれ、宅地の北東隅にサンガーをもつバリ的な住居が多くみられ、建設当時のチャクラヌガラの姿を残している。

 

 2.チャクラヌガラの空間構成

 チャクラヌガラは、インドネシアでは極めて珍しい格子状の道路パターン(グリッド・パターン)を持った都市である。ここでは、チャクラヌガラの構成について、建設当初の姿を推測してみたい。

 

 21 街路パターンと宅地割

 チャクラヌガラの街路体系は3つのレヴェルからなっている。街路幅が広いものから順に、マルガ・サンガ marga sanga、マルガ・ダサ marga dasa、マルガ margaと呼ばれる*[2]。サンガは9*[3]、ダサは10を意味する。マルガ・サンガはチャクラヌガラの中心で交わる大通りである*[4]。このマルガ・サンガは正確に東から西、北から南に走り、四辻を形成する。マルガ・ダサが各住区を区画する通りであり、マルガが各住区の中を走る通りである。

 宅地1筆あたりの計画寸法および道路幅の計画寸法について、古い壁の残っている宅地を選んで実測を行った。

 計測した宅地の東西方向の平均は265m、最大は3044m、最小は2508m、また南北方向は平均2453m、最大は2684m、最小は2155mであった。宅地の計画寸法は東西約26m、南北約24m、一宅地あたりの面積は約624㎡となる。


 古老によれば*[5]、「プカランガン(屋敷地)の計画寸法は25m×25mであり、宅地を測る単位としてトンバ tomba がある。トンバは槍の長さであり約25m、25mというのはその10倍である。」。また、「1プカランガンは8アレ are800㎡)であり、正方形である。」という*[6]。「1プカランガンは6 are 600㎡)である。」*[7]と異説があるが、実測では25m×25mの正方形のプカランガン(屋敷地)は存在せず、当初からほぼ26m×24mで計画されたものと考えられる。

 街路の幅はタクタガン tagtagan の幅も含めて計測した。タクタガンとは街路の両端に設けられた植栽スペースである*[8]。古老達によれば、「テンボック tembok 壁と道の間には、タクタガンと呼ばれる植裁空間がある。その所有権は王に属する。」*[9]。「タクタガンの幅は約5mであった。タクタガンの機能の一つとしては、ウパチャラ upacara(祭り)に使う。また別の機能としては、ココナツや砂糖椰子などの果樹を植え果実を収穫した。タクタガンはアダット(慣習法)では、プカランガン(屋敷地)に属しており、プカランガンのなかでは儀式を行うのを禁じた。18678年にかけて中国人がタクタガンを商業地として買い上げた。」*[10]

 タクタガンは祭祠の行われる場所であり、また植裁が行われ都市景観を演出する祝祭空間として、かつては利用された。しかし、現状では、マルガサンガ沿いのタクタガンはほとんどが中国人所有の商店として利用され、マルガ・ダサやマルガ沿いのタクタガンも宅地に取り込まれている例が多くみられる。

 実測によるとマルガ・サンガは東西の通りで3652m、南北の通りで4405m、マルガダサは、ややばらつきがあるが平均1714m、最頻値で18mであり、約18mで計画されたものと考えられる。マルガは平均で775mであり、約8mで計画されたものと考えられる。またタクタガンの寸法は、マルガ・サンガで1163m、マルガ・ダサで46mであった。これらの数値によるとマルガ・ダサでで四方を囲まれたブロックの東西寸法は、宅地寸法(東西)26m×8+小路(marga8m×3232m。南北寸法は、宅地寸法(南北)24m×10240mになる。また、タクタガンの寸法を4mとしてブロックの寸法に含めると、興味深いことに、232m+4m×2240mとなり、1ブロックの寸法は240m×240mの正方形となる。

 

 23 住区構成ーーーカラン

 寸法計画の面からは、マルガ・ダサで周囲を囲まれたブロックが1つの住区を構成していたと考えられる。また現在のカランの構成パターンもマルガ・ダサを境界とするものがあり、マルガ・ダサで囲まれたブロックが一つの住区を構成していたと考えられる。

 古老の話によると*[11]、南北に走る1本のマルガに10づつの宅地が向き合うのが基本である。そして、この両側町をマルガと呼び、2つのマルガで1クリアンを構成する。クリアンとは、バリではバンジャールの長を意味する。また、2クリアンすなわち80宅地で1つのカラン(住区)を形成する、ということである。

 現在、カランはインドネシアの行政組織においてはRW*[12]に対応する組織となっている。古老の話によると「建設当初、各カランはバリの同一集落出身の人々で構成されていた。またチャクラヌガラは33のカランからなり、各カランに1つのプラがあり、チャクラヌガラの中心寺院であるプラ・メル pura meruにそれに対応する祠があった。そして、各カラン毎に長がいた」ということである*[13]。カランはかつては祭司組織の単位であったと考えられる。

 バリ島にはカランと呼ばれる住区は見られない。バリではカランとはスードラの屋敷地の意味である*[14]。ピジョー T.G.Pigeaud*[15]によるとカラン(karang)という語は、チャクラヌガラの王宮で発見された『ナガラ・クルタガマ』*[16]12章「(王家と宗教コミュニティーに属する)領土一覧」の766節に見られる「kalagyans」に起源を持つという。「1.今、描写されていないのはkalagyans(職人の場所)の事である。ジャワのすべてのデサ deshas(村 地域)に広がっている。」という描写がある。

 バリの居住単位はバンジャールと呼ばれている。バンジャールは形式的には集団の単位であり、公共施設の管理・地域の治安維持・民事紛争の解決をおこなう。そして、その長はクリアン・バンジャールと呼ばれた。

 現在、チャクラヌガラのバリ人の間ではバンジャールもカランも使われるが、バンジャールが社会組織の単位であるのに対してカランは土地の単位を意味する。同じ土地出身の地縁集団としての性格を合わせ持つのがカランである。

 

 23 祭祀施設と住区構成

 チャクラヌガラの中心に位置するプラ・メルには33の祠があるが、それと対応する33のプラが現在も残っている。プラを持たないカランも見られ、カランとプラの対応関係は崩れているが、かっての姿を推察することができる。


 ロンボク島のプラの中で最も大きく、最も印象的なのがプラ・メル*[17]である。最東にあるスワは3つの部分のうち一番重要な区画である。ここには塔や祠などの建物が配置されている。このうち主要な建物は、高くそびえ立つ三つの塔である*[18]。これらの三つの塔を囲むようにして、北側に14棟、東側に16棟の、塔の前に3棟、計33棟の小祠が建っている。それぞれの祠にカラン名が書かれており、チャクラヌガラと周辺の村を合わせた33のカランによって維持管理がなされている。

 建設当初は、存在したが、時代の経過によりその住区組織自体が消滅し、現在は存在しないプラも確認された。現存するプラは全部で27である。その結果、祠を維持管理する住区はチャクラヌガラの格子状の都市計画地域外にも存在することが明らかになった。また、1つのプラは、チャクラヌガラの南に位置するクディリ Kediri に有ることが判明した。プラ・メルの小祠を維持管理する住区が変化していないのであれば、格子状の区域外にもプラ・メル建設当初から、バリ人の住区があったことになる。プラの分布を見ると、古老のいう1ブロックが1カランとなるものも多く、各カランに1つのプラという対応関係は見られない。興味深いのは、南のアンガン・トゥル PURA ANGGAN TELU である。この地域は中心部と同様の町割りがなされている。当初から計画されたとみていい。北は、プラ・ジェロがあり、東はプラ・スラヤがあり、プラ・スエタがある。チャクラヌガラはオランダとの戦争で一度大きく破壊されており、必ずしも現状からは当初の計画理念を決定することはできないが、プラ・メルに属するプラの分布域がおよそ当初の計画域を示していると考えていいと思われる。

 チャクラヌガラのマルガ・サンガ以南の地域を旧市街であったと考えると、マルガ・ダサで四方を囲まれたブロック32からなる。王宮のあるブロックを加えると33個になり、プラメルの祠の数に一致する。チャクラヌガラの1カランを建設当初はマルガ・ダサ、もしくはマルガ・ダサとマルガ・サンガで囲まれたブロックで構成する概念があったということも考えられる。

 

 44 王宮の構成

 チャクラヌガラの王宮は、189411月にオランダとの戦争により破壊されている。しかし、C.W.クールによって*[19]、その配置が残されている。それによれば、チャクラヌガラの王宮はバリの王宮に比べると規模が大きく、500m×250mの規模であった*[20](図Ⅲー⑤図⑤)。建物の形式等については、クールの配置図からは不明であるが、上記の文章より、周囲を壁に囲まれ、バリのプリによく似た構成であったことは間違いない。クルンクンの王宮、カランガセムの王宮が参考になる。また、『ナガラクルタガマ』の記述と合わせて王宮を復元することは都市構成を復元する大きな手がかりとなる。

 序章で触れたように、このチャクラヌガラの王宮から、『ナガラクルタガマ』がブランディス(J.Brandes)により発見されたのは1896年のことである。著者はマジャパイトの宮廷詩人プラパンチャで、1365年に書かれた。このロンタル文書の中で、首都に関する記述がなされているのは、第2章「マジャパイトの首都(The Capital of Majapahit)」である。その中、8編は王宮の内外の様子、9編は王宮の内部の様子、10編は王宮に参賀する人、11編は王宮内部の様子、12編は王宮外の様子の描写である。本稿では、『ナーガラ・クルターガマ』を資料として14世紀のマジャパイト王国の都の空間構成について見てみるとおよそ以下のようになる。典拠とするのはピジョー T.H.Pigeaud による英訳である*[21]

 これまでに『ナガラクルタガマ』の記述を基にしたマジャパイトの首都の復元がステゥッテルハイム Stutterheim*[22]、ピジョー、マクレーン・ポント Maclaine Pont*[23]によりなされている。

 ピジョーの案は、文章に忠実に行われている。しかし、実際の都市・建築形態を反映した復元案ではない。また、ジョグジャカルタとの比較も行っている。しかし、ジョグジャカルタの王宮はイスラム国家であるマタラム王国の王宮として1756年に建設された。1520年にマジャパイト王国が滅んだ後、ジャワにはいくつかのイスラム王国が割拠する状態が続いた。それらを統一したのがイスラム・マタラム王国である。都がジョグジャカルタに移るまでに、何度も移動を繰り返している。従って、ジョグジャカルタとの比較は妥当ではない。

 ステゥッテルハイムの復元はジャワ島のジョグジャカルタ Yogyakarta とバリのクルンクン klungkung の王宮を参考にしたものである。先述のようにジョグジャカルタのプランを参照するのは適当ではないと考えられる。

 マクレーン・ポントの案(図Ⅲー⑧図⑧)は、ジャワ島・ジョグジャカルタの都市プランに見られるアルン・アルン alun-alun と呼ばれる広場が二つある形態を採用している。イスラム化以降の都市の形態を採用するのは必ずしも適当であると思われる。また、王宮に関しては幾重もの区画からなるインド風の復元であり、ジャワ・バリ島にはこのような形式の王宮は見られないことが問題点として指摘される。

 『ナガラ・クルタガマ』の中で都市に関する記述があるのは以下の箇所である。

8編1節に

「1. 以下に描写されるのは、王宮の秩序である。すばらしく、周壁は赤煉瓦で、周りを囲んで、厚く、高い。」とある。これより、王宮は城壁に囲まれていたことが分かる。

8編2節に

「2. 東。隣接する建物はすばらしい。panggung(監視塔)は高く、その胸壁はダイヤモンドの様な白いプラスターである。

3. 北に位置して、市場の南の近くに、たいへん長く最高にすばらしい建物がある。

4. Caitora月(三月から四月)毎に、それは王の家臣の集会場となる。(その)南には、神聖な、堂々とした四辻がある。」とある。これより、東に監視塔が、北には集会場と市場と四辻があったことが分かる。また、それぞれの関係は北から順に市場・集会場・四辻である。

12編1節に

「1. 描写されるのは、町の形に従って配置される隣接する区域の秩序である。

2. 東には尊敬されているシバ教のdwijas(司祭)がいる。主要なのは崇拝される神聖なブラフマの王(Brahmaraja)であり、高位である。

3. 南には仏教徒がいる。主要なのは、nawangの崇拝を行う、Nadiの大司祭である。

4. 西には、全てのkshatriyas(貴族)、mantris(首長)、punggawas(選ばれた廷臣)がおり、有名な君主の親類である。」とある。

 これより、東にはシバ教の司祭、南には仏教の司祭が、西には貴族・首長・廷臣がいたことが分かる。

12編2節には、

「1. そして、東。広場が間にあって、Wengkerの王子の屋敷地があり、全くもってすばらしい。

2. Shaciと一緒のIndra神は、明らかにDahaの王女と一緒の王子である。

3. 敬意をはらわれるMatahunの守護者は、Lasemの王女で、 分割されていない奥に場所を占めている。

4. 南に位置して、それほど遠くないところに、敬意をはらわれる守護者のkamegetan(別荘)がある。それはすばらしく、堂々としている。」とある。これより、東には広場をはさんでWengkerの王子・Dahaの王子・王女・Lasemの王女の屋敷地、南のそれほど離れていない所には守護者の別荘があったことが分かる。

12編3節に

「1. そこ北には、大きな市場から北に、邸宅がある。印象的であり、すばらしい。」とある。これより、北にはWengkerの王子の弟の屋敷が、あったことが分かる。

12編4節

「1. 北東には、尊敬されているガジャマダ(Gajah Mada)の邸宅がある。彼は、Wilwa Tikta(マジャパイト)のすばらしいpatih(高官)である。」とある。これより、北東にガジャマダの邸宅があったことが分かる。

12編5節に

「1. そして、王宮の南の(地域)には邸宅がある。dharmadhyaksas(司祭)の場所であり、堂々としている。

2. 東はシバ教徒の場所である。最もすばらしいと言われている。仏教徒の場所は、西にあり、すばらしく、よく配置されている。」とある。これより、東には司祭の場所がある。そのうち、東はシバ教徒、西は仏教徒の場所である。

 『ナガラ・クルタガマ』に書かれている都市の空間構造の復元案(図Ⅲー⑨図⑨)を示す。『ナガラ・クルタガマ』の記述はすべて王宮を中心としてなされているものとする。従って、本文中の方位は全て王宮からの方位として復元する。「町の形に従って配置される隣接する区域の秩序である。」(12-1-1)という記述があり、都市の全体形は不定形であるので王宮からの方位・距離という形で復元を行った。

 王宮の東に関しては、仏教の司祭、仏教の主教・シバ教の主教と二つの記述があり、また北に関してもシバの司教とwengkerの王子・Dahaの王子・王女・Lasenの王女の記載されている。どちらも先に記載されている方を王宮に近いものと考える。

 ヒンドゥー・マジャパイトの都市の都市理念の特質として2つのポイントが挙げられる。一つは、四辻と王宮を中心とした都市構成である。また、市と広場を持つ事も特質として挙げられる。この都市構成は、バリ島の都市構成とたいへん類似したものである。バリの都市も四辻と王宮を中心に持ち、さらに広場と市を持つ。

 2つめは都市の全体形を規定せず王宮との距離・方位との関係、すなわち都市形態全体を規定するのではなく王宮との相対関係で都市を規定することである。これは、都市の全体像を先に規定するインドのヒンドゥー都市の計画概念とは異なっている。 

 

 3.チャクラヌガラの住み分けの構造

 31 住民構成と住区組織

 クチャマタン・チャクラヌガラの人口(1990年)は、およそ74000人である。宗教別の人口構成をクルラハン毎にみると、格子状の町割りに含まれるクチャマタンは西チャクラヌガラ(Cakranegara Barat,東チャクラヌガラ(Cakranegara Timur,北チャクラヌガラ(Cakranegara Utara,南チャクラヌガラ(Cakranegara Selatan)の4つに、ヒンドゥー教徒が数多く居住する。

 各クルラハン毎に宗教別のカラン数をみると、西チャクラヌガラ、東チャクラヌガラでは75%以上がヒンドゥー教徒が主流を占めるカラン、北チャクラヌガラ、南チャクラヌガラでも50%以上がヒンドゥー教徒のカランとなっている。

 具体的な住民分布を見てみると、まずムスリムについて著しい特徴を指摘できる。ムスリムの居住するのは市の周辺部である(図Ⅲー⑩図⑩)。西側については、ほぼマルガで囲われるブロックの境界に沿ってムスリムが居住する。バンジャール・パンデ・ウタラの西の1クリアンはムスリムが居住し、バンジャール・パンデ・スラタンの西にはヒンドゥー教徒が居住する。チャクラヌガラのかっての境界はバンジャール・パンデ・ウタラの西であったことが推測される。カラン・サンパランの北は後にムスリムの居住が行われた地区であろう。南は、アビアントゥボの周囲がムスリム居住区である。そして、カラン・ゲタップが製鉄で知られるムスリム居住区である。カラン・ゲタップは、低所得者層が居住する地区でもある。東のデサ・スガンテンは、4つのカランにわけられるが、いずれもムスリム居住区である。グリッド・パターンは左京でより崩れていることが、こうしたムスリム居住区の分布で理解できる。北についても周辺部にムスリムが居住する。ヒンドゥー教徒の居住区をイスラーム教徒が取り囲んでいる形である。都心部でムスリムが居住するのはカンポン・ジャワとカラン・ブディルの極く一部である。

 中国人は、全域に点々として分布している(図Ⅲー⑪図⑪)。まず、商業地域であるチャクラヌガラの中心部、四辻のあるあたりに集住している。金を扱う商店が中心部に多く見られるが、その経営者のほとんどは中国人である。また、幹線道路沿いに中国人は居住する。主として商業活動に従事するのが中国人である。

 

  32 住区構成と施設分布

 まず、カランとブロックの関係をみてみると図のようである。マルガすなわち約20戸を単位とするが、マルガ・ダサを越えて様々な形態と規模をとる。

 モスク、プラといった宗教施設や商業施設等都市施設の分布と各カランの構成から住区構成を見てみると以下のようになる。モスク、プラの分布はイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の分布に関わる。モスクは、上述したムスリムの分布と一致する。また、市の中心部に3つ建設されている。他の宗教施設として、キリスト教会が3つ、中国(仏教)寺院がある。

 パサール(市場)は、中心部の他、およそ東西南北にひとつづ5つあり、生鮮食料品など日常品を販売している。商業施設は、マルガ・サンガの大通りに集中している。

  近隣住区に密接に関わる学校は各住区毎に、いくつかのカラン毎に設けられている。

 

 33 住み分けの構図

  331カーストの分布

 ヒンドゥー教徒の分布をカースト別に見てみよう。インドの場合と同様、バリでも、ブラーマナ Brahmana、クシャトリア Ksatriya、ウェシャ Wesya、スードラ Sudra4つのカーストが区別される。さらに、ワルナ(Waruna 色)制に似た下位分類を持つとされる。

 ブラーマナの場合、男はイダ・バグース Ida Bagus、女はイダ・アユ Ida Ayu 略して Dayuと呼ばれる。もし、母親が父親より低いカーストに属すと、子供はグスティ Gusti ないしグスティ・バグース Gusti Bagus (女性の場合、イダ・マデ Ida Made もしくはイダ・プトゥ Ida Putu)と呼ばれる。クシャトリアは、極めて複雑になるのであるが、プレデワ Predewa、プンガカン Pengakan、バグース Bagus、プラサンギアン Prasangiang といったタイトル(称号)をもつ。歴史的経緯から、デワ・アグン Dewa Agung、チョコルダ Cokorda、アナック・アグン Anak Agungも用いられる。ほとんどのウエシャは、グスティと呼ばれる。スードラの場合、大半がそうであることから、バリ・ビアサ(Bali biasa 一般のバリ人)あるいはジャバ Jaba と呼ばれる。

 インドの場合、『マナサラ』*[24]のいうように、北がブラーマナ、東がクシャトリア、南がヴァイシャ、西がスードラに振り分けられるのが基本であるが、果たしてどうか。

 まず、ブラーフマの分布(図Ⅲー⑭図⑭)で目立つのが北部である。そして、東部である。また、南の突出部の東北部にも目立つ。左京の南西、右京の中央部にも見られるが、北東部へのブラーフマンの偏りは大きな意味をもっていると考えられる。北東の方角には聖山リンジャニがあり、チャクラヌガラ周辺のプラの分布や構成について報告(1)でみたように、オリエンテーションははっきりと意識されていると見ていいからである。個々の屋敷の東北角にもサンガ(屋敷神)が排されているのである。インドそのものではなく、バリ・ヒンドゥーの方位観がそのまま持ち込まれていると見ていいだろう。

 サトリア、ウェシアについては、称号ははっきり意識されているがカーストについては居住者の認識が極めて曖昧である。特にウエシア意識が希薄である。グスティーと合わせてウエシャと考えると全域に分布するが、どちらかというと左京の分布が厚い。それに対してクシャトリアと答えるものの分布は右京に厚い。称号毎の分布を見ると、アグン、ラトゥといった王家に関わる称号、またチョコルダあるいはデワは、数も限られ、左京の王宮の周辺に分布する。

 以上のように、比較的数の多い、サトリア(図Ⅲー⑮図⑮)とグスティ(図Ⅲー⑯図⑯)には分布の偏りが見られる。サトリアは右京に、グスティは左京に偏っているといっていい。グスティをウェシャと見なせば、インドとは逆であるが、カースト毎の棲み分けははっきりしていたと見ていいだろう。

 スードラ、バリ・ビアサは全域にわたって分布する。ただ、当初は、次に出身地について見るようにカースト毎に、また、称号毎に、まとまって棲み分けられていたことは間違いないところである。

 カラン毎の具体的な棲み分け状況については紙数の関係でここでは省略したい。

 

  332 出身地とカラン

 チャクラヌガラは、バリ島カランガセム王国の植民都市として18世紀前半に建設された経緯をもつ。バリからロンボク島への移民はどのように行われたのか、また、どのように住区が構成されたのかについては、出身地を聞くことである程度推察できる。聞き取り調査によれば、「各カランの名前は出身地のバリの集落の名前であり、各カランの居住者はその集落の出身者」ということであった。昭和17年発行陸地測量部作成のバリ島地図で、バリ島の地名の確認を行うと*[25]、確認できたのは以下の13住区である(図Ⅲー⑰図⑰)。

 1.kebu2. Kebon3.Anggantelu4.Seraya5.Mantri6.Jasi7.Tohpati8.Manggis9.Sideman10.Sampalan11.Pande12.Selat13.Rendang

 カランの名称は、バリ島の集落の名称から、取られたということはほぼ間違いないと考えられる。また、集団で移住した人が、自分達の出身地の名前を移住先の土地の名称とすることは、特に植民都市ではよく見られる事象である。

 いつ、移民したのかを明らかにするために、プラ・メルの小祠を維持管理する住区の名前と、バリ島でも確認された13の住区名を比較した。その結果、プラ・メルに維持管理する小祠をもっているのは、PandeSampalanKubuRendangMantriSeraya6つであった。この6つのカランについては、チャクラヌガラ建設当初からにチャクラヌガラに設立された住区であろうと考えられる。

 

 34 居住空間の構成

 具体的な空間構成をみてみよう。ヒンドゥー地区とイスラーム地区からそれぞれ2マルガを選定した。ヒンドゥー地区は右京のカラン・ジャシ、イスラーム地区は左京のカラン・スラヤである。

 ヒンドゥー地区とイスラーム地区の空間構成の差は一目瞭然である。歩いていても、すぐさまその違いが分かるのである。ヒンドゥー地区は極めて整然としているのに対して、イスラーム地区に入ると雑然としてくる。街路は曲がり、細くなる。果ては袋小路になったりする。住宅もてんでバラバラの向きに建てられる。空間構成とは別の次元であるが、イスラーム地区に入るとすぐさま取り囲まれる。居住密度は高く、コミュニティーの質も明らかに異なっている。

 カラン・ジャシ(図Ⅲー⑱図⑱)を見てみよう。カラン・ジャシの調査街区は、2マルガからなるが、36戸ある。うち、ヒンドゥー教徒の住戸は、33戸で、ブラーフマナ1戸を除いて他はスードラ、バリ・ビアサである。他は、キリスト教の中国人が1戸、ムスリムのジャワ人が2軒ある。

 ヒンドゥー教徒の住居の場合、北東の角にサンガをもつ。サンガは全体に統一感、秩序感を与えている。屋敷地は、必ずしもバリ・マジャパイトの典型的構成をしているわけではない。敷地は様々に分割され、あるいは併合され、その構成は変化してきている。

 イスラーム地区のカラン・スラヤ(図Ⅲー⑲図⑲)は、もともと、きちんと街区割りがなされていたと思われる。なぜなら、北部には、整然としたヒンドゥー教徒の屋敷地が存在するからである。しかし、その街区割りは大きく変更されている。細街路が自在につくられ、その街路に沿って住居群が建てられる。袋路も多い。塀で囲まれた屋敷地の中に分棟で配置するパターンと街路を伸ばしていくパターンとは全く対比的なのである。

 

 4 チャクラヌガラの空間構造とコスモロジー

 以上をもとに、大胆な仮説を含めて、チャクラヌガラの構成原理をまとめてみたい。考察の前提となるのは以上に明らかにした以下の点である。

 ①街区の計画は明確な寸法計画を持ち極めてシステマティックになされている。

 ②コミュニティーの単位である住区(カラン)の構成も極めて理念的に計画されたものである。プラ・メルと祭祀集団としてのカランの結びつきは都市構成の極めて基本的な原理として考えられる。

 ③バリのカランガセム王国の植民都市として、バリの都市計画(集落)理念が大きな原理となっている。

 ④王宮の構成は、基本的にバリのプリの構成と理念を等しくする。

 ⑤チャクラヌガラの配置はは、周辺のプラの立地から窺える様に、リンジャニ山をメール山とするコスモロジカルな秩序のもとに行われている(報告(1)で見たように、プラ・リンサールは北東に置かれている。東に置かれているナルマダは、リンジャニ山とスガラ・アナック湖の写しである)。

 まず、計画域を特定する必要がある。その設定次第によって構成原理についての読解は異なる恐れがある。

 ⑥計画域は、プラ・メルの小祠に関わるプラの存在する範囲であると考えられる。その場合、東と南、北のグリッドから突出する区域をどう考えるかが問題となるが、少なくとも南の突出部は含まれていたと考えられる。。また、どこまで、マルガ・ダサのグリッドで計画されていたのかが問題となるが、パターンが崩れている左京の大部分は計画されていたと考えられる。

 ⑦右京(マルガ・サンガの東を左京、西を右京と便宜的に呼ぶ)については、マルガ・サンガの四辻の南に4×4のブロックが造られたこと、および北に1×4のブロックが計画されたことは、現在の街路パターンから、また、ヒンドゥー教徒の分布状況から明かである。

 ⑧左京については、グリットの区画が明確ではないが、ブロックの規模および現在の街路状況から、マルガ・ダサを特定できる。右京と左京の間には2マルガの緩衝区画(現在ショッピングセンターがあるクロダン地区)が設けられていた。道幅の広いマルガ・ダサに区画されるブロックは、それから東に4×4ブロック想定できる。北1ブロックは、プリおよびプラ・マユラのブロックである。

 ⑨以上のブロックは、現在のヒンドゥー教徒の分布から、当初から計画されていたと考えてよい。ブロックパターンの崩れた左京にも古い屋敷地壁も残されており、出身地に関するヒヤリングからも計画域はおよそ確認されている。

 問題は、上下の突出部分である。

 ⑩プラ・メルの小祠に関わるプラは、南部の突出部分に存在する。また、ヒンドゥー教徒も南北の突出部分に居住している。とりわけ興味深いのがブラーフマンの分布である。北と東にその分布は偏っている。要するに現在のヒンドゥー教徒の居住域は、その後の開発の度合いは別として、ほぼ当初から計画されていたと考えていいのではないか。

 ⑪バリの集落構成の原理の一つとして、カヤンガンティガの配置がある。プラ・プセ(起源の寺)、プラ・デサ(村の寺)、プラ・ダレム(死の寺)の三点セットのプラが南北に配置されるのである。チャクラヌガラを見ると、西の端にマルガ・サンガに接して、プラ・ダレムがある。また中央部にプラ・メルがある。さらに東の端にも、プラ・スウェタがある。南北と東西の違いはあるけれど、カヤンガンティガの理念はチャクラヌガラにも生かされていると考えられる。

 ⑫バリには、三界観念が広く見られる。宇宙の三層構造、山、平野、海というバリ棟の三つの区分、集落スケールのカヤンガン・ティガ、屋敷地の区分(ナイン・スクエア)、屋根、柱・壁、基壇という区分・・・身体の頭、胴体、足の三区分に至るまで三層秩序が貫かれているという観念がある。チャクラヌガラの南北の突出部分も、頭、胴体、足という三層区分が行われていると考えていいのではないか。

 もちろん、チャクラヌガラが新都市として更地に建設されたということではない。東の突出部には土着の集落があった。また、⑪の集落は先行して存在したと考えられている。少なくとも以上に重層する形で植民都市が計画され、建設されたのである。



*[1] TIM DEPARTEMEN DALAM NEGERI.HASIL OBSERVASI LAPANGAN DALAM RANGKA PEMBENTUKKAN KOTAMADYA DAREAH TINGKAT MATARAM.1991.

*[2] Ide Bagus Alit氏、チャクラヌガラの長老(Pengusap)的存在による。マルガとは道のことでサンスクリットからきている。インドのジャイプールでもマルガは、通りの名およびコミュニティーの単位として使われる。

*[3] バリ語にナワ・サンガ Nawa Sangaという言葉があり、中心と8つの方位を意味する

*[4] 南北がJLSLI Hasanudin、東西がJL.Selaparang

*[5] Lala Lukman氏(元教師)の教示による

*[6]  Ide Bagus Alit氏による。*10 ibid. 

*[7] P.Jelantic氏(元教師)の教示による。

*[8] tagtagとはバリ語で高さの水準、レベルのことである。

*[9]  *13 ibid.

*[10]  *15 ibid.

*[11] *10 ibid.

*[12] エル・ウエー ルクン・ワルガ Rukun Warga 町内会。インドネシアの行政単位。いくつかのRT(*6 参照)からなる。チャクラヌガラの属しているマタラム市はアンペナン・マタラム・チャクラヌガラの3つのクチャマタン kecamatan から成っている。そして、区にあたるクチャマタンの下位単位がクルラハン kelurahan であり、チャクラヌガラは9つのクルラハンからなっている。クルラハンの下位単位がRWである。

*[13]  *10 ibid.

*[14]  吉田禎吾 『バリ島民』p54 1992年 弘文堂

*[15] T.GH.Pigeaud. JAVA IN THE 14TH CENTURY.HAGUE 1960.

*[16] NAGARAKERTAGAMA,ジャワのマジャパイト王国の14世紀の年代記。ロンタル(椰子の葉)文書。

 

*[17] 報告(1)で触れたが、このプラは東西にのびるチャクラヌガラの主要道に面し、周囲は赤煉瓦の高い壁に囲まれて建っている。バリのカランガセム王国の王、アグン・マデ・ヌガラ Agung Made Ngurah によって、ロンボク島の当時の全ての小王国を統合する試みとして、1720年に建立された。ヒンドゥー教のブラフマ神、ヴィシュヌ神、シヴァ神に捧げられたものであり、敷地は、東西方向に三つの部分に分けられ、それぞれブル(Bhur 地)、ブワ(Bwah 人間界)、スワ(Swah 神)からなる。バリの三界概念と同一の概念であり、宇宙の構造を象徴している。

 ブルと呼ばれる一番西には門と丸太をくり貫いて作った鐘をもつバレ・クルクル Bale Kulkul と呼ばれる見張り塔があり、中央に段差があり東側の方が高くなっている。そして敷地の中央にガジュマルの木(ブリンギン beringin :ガジュマルの木は、バリでは神聖な木であるとされている。プラやプリをはじめ、カランの四辻に植えられている)がある。門の形式は、バリのプラに見られるチャンディー・ブンタールと呼ばれる分割門である。中央のブワには参道を挟んで両側に建物とガジュマルの木がある。この建物は、バリの寺院の例から考えると、お供えの準備をしたり、ガムラン音楽を演奏したりするための建物であると考えられる。

*[18] 中央の塔は11層の屋根をもち、シヴァ神を祭る。屋根はアラン・アランと呼ばれるチガヤで葺かれている。チガヤを固定するためには竹釘が使われている。構造材はナンカ Nunka、フタバガキ科のジャック・ウッドであり、細かい彫刻がなされている。その構造は、箱を積み重ねたような形式である。北側の塔は9層の屋根をもち、ヴィシュヌ神を祭る。この塔の屋根は瓦で葺かれている。南側の塔は7層の屋根をもちブラフマ神を祭り、瓦葺きである。構造的には、シバ神の塔と同じである。

*[19]  C.W.Cool. DE LOMBOK-EXPEDITIE.1897 HAGUE.TRANS.E.J.Taylo.with the Dutch in the East.1934 London.P113114

*[20] 註2ー13 Alfons van der Kraan ,Lombok:Conquest,Colonization and Underdevelopment,1870-1940 .Singapor,H.E.B.,1980.

 

*[21]  T.H.Pigeaud. JAVA IN THE 14TH CENTURY VOL.5.HAGUE 1960.

*[22]*2 W.F.STTUTERHEIM.De Kraton van Madjapahit.MARTINUS NIJHOFF 1948.

*[23]*3 H.Maclaine Pont. MADJAPAHIT.OUDHEIDKUNDING VERSLAG,EERSTE EN TWEEDE KWARTAAL.LEIDEN 1924.

*[24] 古代インドの建築書。古代ヒンドゥー教の理想都市については、シルパシャストラ(Silpa sastra)に描かれている。シルパシャストラとは、都市計画・建築・彫刻・絵画等を扱ったサンスクリット語の文書群のことである。最も完全なものは『マナサラ』(Manasara)であり、他に『マヤマタ』(Mayamata)、『カサヤパ』(Casyapa)、『ヴァユガナサ』(Vayghanasa)、『スチャラディカラ』(Scaladhicara)、『ヴィスバカラミヤ』(Viswacaramiya)、『サナテゥチュマラ』(Sanatucumara)、『サラスバトゥヤム』(Saraswatyam)、『パンチャラトゥラム』(Pancharatram)の9種がある。『マヤマタ』の著者はマヤ(Maya)であると考えられている。マヤは最も評判の高い天文学書『スルヤシッダンタ』(Suryasiddhanta)の編者であると考えられている。内容は『マナサラ』と大差がない。『カサヤパ』は著者名が本の題名に成っている。しかし、著者は人類の先祖の一人で大洪水の時に生き残った7聖人の第一に位置する人であり、神話上の人物である。『ヴァユガナサ』も著者名を書名に用いている。著者は「ヴァイナバ」(Vainava)僧団の創設者である。内容は建築的というよりむしろ宗教的である。『スチャラディカラ』の著者は「アガスタヤ」(Agastya)とされている。この本にしかない項目もあり、彫刻に関しては優れている。その他では『マナサラ』と大差無い。『ヴィスバカラミヤ』は内容的には『マヤマタ』に基づくものが多く、『マナサラ』に近い。『サナテゥチュマラ』は、『ヴィスバカラミヤ』に基づくものであり、『マナサラ』の流れを汲むものである。したがって、シルパ・シャストラに関しては『マナサラ』を参照するのが最適である。『マナサラ・シルパシャストラ』(Manasara Silpa Sastra)という題名であるが、「マナ(mana)」は「寸法」(Mesurement)また「サラ(sara)」は「基準(essence)」を意味し、「マナサラ(Manasara)」とは「寸法の基準(Essence of Mesurement)」の意味である。しかし『マナサラ』とはこの本の題名で有ると同時に、この本の作者の名前であるという説もある。また、「シルパ(Silpa)」とは規範、「シャストラ(Sastra)」とは科学という意味であり、「バストゥ(Vastu)」は建築という意味であり、「バストゥ・シャストラ(Vastu Sastra)」は「建築の科学(Science of Architecture)」の意味である。したがって、本来的には、この本の題名は『マナサラ・バストゥ・シャストラ』(Manasara Vastu Sastra)であるべきであるとされる。成立年代はアチャルヤ(P.K.Acharya*1によると6世紀から7世紀にかけて南インドで書かれたものであると考えられているが、村田治郎*2は中に述べられている建物形態から近世に増補されたものであると考えている。

 都市の形態と内部構成の詳細について述べている他のサンスクリット語の文書は『アルタ・シャストラ』(Arthasastra)である。これは理想的な首都についてもっと明確な考え方を示している。『アルタシャストラ』は富国について議論した文書である。著者は紀元前4世紀頃栄えたマウリヤ王朝,チャンドラグプタ1世(ChandraguptaⅠ)の首相であったと信じられている伝説上の英雄カウテリヤ(kautiliya)であると考えられている。この文書は紀元前2世紀から2世紀の間に編纂された。

*[25] チャクラヌガラはカランガセムの支配だけでなく、クルンクンの支配を受けた時期もあったので、カランガセム・クルンクン県の地名とチャクラヌガラの住区名との比較を行った。

2021年10月17日日曜日

ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジー Ⅱ ロンボク島の住居集落

 ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジー住総研研究年報19住宅総合研究財団1992

 

 Ⅱ ロンボク島の住居集落

 

 1.ロンボク島の住居集落

 

 Ⅰ-3で概観したように、ロンボク島には原住民であるササック族のほか、西に隣接するバリ島から移住しているバリ人および海洋民族であるブギス人、東に隣接するスンバワ島から来たスンバワ人等様々な民族が居住している。

 西ロンボクには、バリの住居集落パターンが見られる。最も典型的なのがチャクラヌガラである。チャクラヌガラの周辺のパガサンガン、パグダン、北西海岸のタンジュン Tanjung にも同様のパターンをみることができる。


 チャクラヌガラでは住居敷地は、正方形に近く、その中に建築物が数棟配置される。北東角に屋敷神を祀るスペースが設けられる。バリの住居と基本的には同じ住居形式である。チャクラヌガラやタンジュンでは、人々はロンボク島移住後もバリ島での生活様式を維持し続けている。ただ興味深いことに、タンジュンでは、屋敷神を祀るスペースが北西角に配置される。ロンボク海峡に臨む海辺に近いために、ロンボク島のリンジャニ山よりもバリ島のアグン山に聖性を与えた結果ではないか。西海岸に位置するヒンドゥー寺院プラ・スガラにおいてもバリ島へのオリエンテーションが重視されている。

 東海岸のラブハン・ロンボク Labuhan Lombok の周辺には、スンバワ人の住居集落をみることができる。地床式が支配的であるロンボクにあって、切妻高床の住居形式は目立つ。

 また、北西部にはブギス人の移住集落をみることができる。海洋民族であるブギス人は、移住・出稼ぎをを頻繁に行うことで知られる。住居の形態はスラウェシ島中南部に見られるものとほぼ同じである。高床式で切妻屋根をもつ。平面は三部屋で構成される。スラウェシ島では炉を高床上に設けているが、ロンボク島のブギス人はかまどを床下に設置する傾向にある。地床式のかまやを住居とは別に設けることが多い。地床式住居が一般的なロンボク島にあって、その形式をかまやにとりいれたと考えられる。

 

 1-1 ササック族の住居

 ササック族の住居は、移住してきたブギス人、スンバワ人等の住居と異なり、ジャワ・バリと同様、地床式住居が一般的である。地床式住居は大きく二つのタイプに分けられる。

 一つはバヤンを中心とした地域一帯に見られるバレ bale と呼ばれる住居である。6本柱の高床の倉庫(イナン・バレ Inan Bale)が住居内に存在するのが特徴である。イナン・バレには、壷などの貴重品、にんにくなどの根菜類などが貯蔵されている。住居内には間仕切りはなく、ベッド、かまど、家具などが置かれる。

 もう一つは、サデを中心にロンボク島各地に見られる住居形式である。この住居は、1.01.5mの土壇上に築かれるのが特徴である。住居前部には、サンコ sankoh(テラス)があり、セミ・パブリックな空間として使用されている。女性による機織り仕事や談笑の行われる空間である。住居内は炊事、就寝のためのスペースとしてプライベートに用いられる。一般にかまどは奥を背にして左側に配置される。ベッドはなく、寝るときには草を編んでつくったござをひいて寝床を作る。

 地床式といっても、両者ともに二つのレヴェルが使い分けられていることが興味深い点である。

 サンコと同様、セミ・パブリックな空間として機能する建物にブルガがある。ブルガは、地床式の住居とは対照的に、6本の柱を持つ高床式の壁のない建物である。バヤンの周辺では、ブルガは住居に対応し、それぞれ平行に配列される。住居とブルガがセットになって、生活空間をかたちづくっているのである。バヤン地域外では、集落全体に数棟しか見られないのが一般的である。機能的にも、集会所や儀礼場として用いられ、パブリックな色彩が強くなる。

 穀倉は、モンジェン Monjeng 、サンビ Sambi 、ゲレン Geleng 、アラン Alang の四種類が区別される。サンビはロンボク島全般で見られる。4本と6本という柱数の違いはあるが、イナン・バレと全く同一の構法によって建てられる。モンジェンは最も規模が小さく、住居のテラスあるいはブルガの脇に配置される。日常に使用する米を貯蔵しておくためのものである。バヤンに数多い。それに対しゲレンは最も規模が大きく、住居と同じ大きさのものも見られる。倉の部分とそれを支える柱の部分が分かれ、ネズミ返しを持つ。柱の膨らみが特徴的である。アランは釣り鐘型の特異な形態をしている。倉の部分と柱の部分が分離しているという点ではゲレンと同様である。


 

 1-2 ササック族の集落

 前述した既往の研究をもとに、また、インドネシア現地研究者の示唆をもとに、ロンボク島全域を可能な限り踏査し、典型的なササック族の伝統的住居集落を選定し調査した。選定したのは、ガンガ Gangga(1)、スゲンタール Segenter()、バヤン Bayan()、スナル Senaru()(行政単位としてはデサ・バヤンに含まれる)、ロロアン Loloan()、サジャン Sajan()、サピット Sapit()、レネック Lenek()、バトゥ・リンタン Batu Rintang()、サデ Sade(10) 、スンコル Sengkol(11)11集落である。

 その他、近年つくられた新村としてレンペグ Rempeg(12)、バヤンの分村の一つとしてカラン・バヤン(13)においても調査をおこなった。

 以下に諸集落の概要を述べる。

(1)ガンガ Ganga

 この集落はロンボク島の北西部山間部に位置する。建築物は整然と平行に配列されている。ブルガや穀倉は数少ない。かまやの存在が確認された。

 住居は1m近い土壇上に築かれている。前部にはテラスが設けられている。高床式住居をみることができた。

(2)スゲンタール Segenter

 この集落は、ロンボク島北部の乾燥地に位置する。集落は木切れを集めてつくられた柵に囲まれる。宗教施設であるモスクは柵外に配置される。柵内では住居とブルガとが整然と平行に並べられる。互いに向き合った住居の列が、ブルガの列を挟み込んでいる。

 住居はバヤンと同様の形態をとる。穀倉はみることができなかった。

(3)バヤン Bayan

 デサ・バヤンは、稲作中心とした農村集落である。集落規模は周囲の集落に比べかなり大きく、中心部には150世帯ほどの人々が居住している。

 ササック族のうち、ワクトゥ・テルは北部山間部のデサ・バヤンを中心として居住している。デサ・バヤンはワクトゥ・テル発祥の地として知られる。木造の古いモスクをみることができる。

 住居はバレと呼ばれ、内部にあるイナン・バレと呼ばれる6本柱の高床の倉庫が特徴的である。ブルガ berugak(露台)と住居が平行に列をなして配列されている。

 この集落から分村化したワクトゥ・テルの集落が、ロンボク島各地に見ることができる。デサ・サデ Desa Sade 、デサ・レネック Desa Lenek 、 デサ・カラン・バヤン Desa Karang Bayan などがそうである。

(4)スナル Senaru

 ロンボク島北部山間部に位置するこの集落は、行政上はバヤンに属すが、バヤン中心部からさらにリンジャニ山に向かって数キロ奥地に入ったところにある。集落構成要素としてあげられるのは、他の集落と同様にバレ、ブルガ、穀倉である。配置は平行にされ、一つのブルガに対して両側からバレが向きあっている。建築物の棟のラインは、リンジャニ山の方向すなわち北側を向いている。

 住居はバヤンと同様の形態をとる。住居内は一室空間であり、高床式倉庫を内部にもつ。この倉庫は六本の柱によって支えられている。この住居も盛り土の上に建てられるが、段差は20cm程度とデサ・サデなどの住居とくらべかなり低い。

 穀倉は二種類存在する。サンビとゲレン Geleng である。

(5)サジャン Sajan

 ロンボク島北東部に位置する。集落は木製の柵でおおわれる。住居と穀倉が向かい合いながら平行に配列される。住居前面にはテラスが設けられ、2~3段の土で塗り固められた階段をのぼり1m弱の土壇上に建てられた住居に入る。

 穀倉はすべてサンビであった。ブルガはみることができなかったが、住居前面のテラスに高床の小さな露台を置く例がいくらかみられた。

(6)サピット Sapit

 ロンボク島東部の山間地に位置する。斜面に集落が形成されている。ブルガはみられず、集落を構成するのは主に住居と穀倉である。住居は1m近い土壇上に建てられる。すべての穀倉がゲレンであった。

(7)スンバルン Sembalun

 ロンボク島北東部山間部に位置するこの集落には、ブルガはみられない。つまり集落構成要素として挙げられるのは、バレと穀倉のみである。建築物の棟のラインはリンジャニ山の方向を指している。

 住居はサデ、ボンジェルックでみられた形態と同様である。つまり高さ約150cmの土壇が特徴的である。

 穀倉はサンビがその多くを占める。一部にゲレンもみることができた。

(8)レネック Lenek

 ロンボク島東部にあるデサ・レネックは、現在陶芸の村として知られている。集落に隣接して、陶器を乾燥させるための広場が設けられている。集落端部には観光客用のレストランやホテルが建設されている。住居は木造のものが多く、RC造はあまり普及していない。しかしモスクは例外である。デサ・レネックのモスクはRC造で、3重の方形屋根をもつ。内部には4本の柱がみられ、ミフラブも設けられている。従来の木造4本柱こ構造の転用と考えられる。

 道は格子状をなし、道によって区切られた各ブロックに10から20世帯からなる住区が配置されている。

 住区内の建築物の配置パターンは明快である。住居と穀倉が平行に配置されている。以前は住区端部に祭祀施設が置かれU字型の配置をもつ住区もみられたという。現在はそれらの祭祀施設はすべて取り壊され、集落中央部にコンクリートの基壇上に建つ四面開放の祭祀施設が一つあるのみである。穀倉はロンボク島に一般的にみられるサンビであり、現在下の空間は竹壁で囲まれ、居住のために使用されている。

(9)サデ Sade

 ロンボク島南部に位置するデサ・サデには、1993年現在115世帯560人が居住している。デサ・サデは行政的にはクチャマタン・ランビタン Rambitan に属しその周囲にはいくつかの集落が点在しているが、その中でもこの集落は最大規模である。南部の集落の特徴としてあげられるのがその立地である。基本的に平地には建設されず、丘陵に建設される。

 集落形態は極めて特徴的で、丘陵の等高線に沿って住居が配置されている。周囲にみられる集落も同様である。しかし、必ずしも丘陵にのみ集落は建設されるわけではない。サデから約100メートル離れた小規模な分村では、平地集落が見られたが、住居は横一列に配置されていた。平地での直線配列、丘陵での等高線に沿った配列など、住居の配置は素朴な原理によっている。

 構成要素としては、住居、ブルガ、穀倉があげられる。ブルガは各家族が必ずしも所有するわけではなく、その数は少ない。穀倉も同様である。

 住居はバヤンとは異なった形態をとる。土壇が築かれその上に住居が建設される。土壇は二段で構成され、段差は約150cmである。上述したように元来下側のスペースはテラスとしてセミ・パブリックに利用されていたのであるが、現在はテラス部分も竹編壁で囲われている。就寝は男女分かれて行われ、男は下段で女は上段で寝る。

 ブルガは二種類存在する。柱の数によって分類されている。4本柱のブルガ・サクパット Berugak Sakepat と6本柱のブルガ・サクナム Berugak Sakenam である。両者とも主に休憩の場として使用される。しかし後者のみ儀礼の場として使用されることがある。また、建設前の儀礼の際、前者は水牛、牛を殺すのに対し、後者は鶏を殺す。

 バヤンにはみられないアラン(穀倉)がみられるのも特徴的である。釣り鐘型の極めて特異な屋根をもつ。

10)スンコール Senkol

 ロンボク島南部の丘陵地にこの集落は位置する。住居は等高線に沿って配置される。住居はサデにみられたように土壇上にたつ。この集落は木造のモスクが特徴的である。方形の二重屋根が中央の4本柱に支えられて建つ。構法はバヤンにみられたモスクと同様である。ただバヤンの場合屋根材が竹であったのに対し、スンコールではアランアランであった。モスク前面には3m近い深さの身体を清めるための池が築かれている。池のそばにはワリンギンの巨木が植えられている。ブルガは数少ない。穀倉はサンビが数棟みられるのみである。

11)バトゥ・リンタン Batu  Rintang

 ロンボク島南部に位置する。平地に集落が築かれている。アランが数多く存在する。集落は基本的には平行に並ぶ住居によって構成される。住居は向かい合わせて配列され、住居に挟まれるようにアランがランダムに配列される。住居はサデにみられるように、土壇上に建てられている。

12)レンペグ Rempeg

 デサ・レンペグはロンボク島北西部に位置する11世帯の農村集落である。高床式住居と地床式住居が混在する。高床式住居には2種類みられる。一つは床高150cm程度で、平面は2室構成となっている。この集落には1棟しかこの形式の住居は存在しない。この世帯は別に地床式のかまやを所有しており、炊事はそちらで行われる。もう一つの高床式住居は、前面にテラスをもつ。一室空間で、テラス面と住居平面との間には約20cmの段差が設けられている。地床式住居は前部に高床のテラスをもつ。住居内は前後に2分されている。

 ブルガは2棟みることができた。1つは住居に向き合うかたちで配置され比較的小規模のものであったが、1つは規模も大きく集会のための場として利用されている。

13)カラン・バヤン Karang Bayan

 この集落はデサ・バヤンの分村として知られている。彼らは240年前にこの地に移住し、現在の住民は主に第6世代目だといわれている。集落の中心には“始源の石”が置かれ、その近くにルーマー・アダットRumah Adat(慣習法によって建設された住居)と呼ばれる住居が位置している。その周囲には、祭祀用のブルガ、聖域とされる一画がある。その聖域は竹柵によって囲まれており、普段は立ち入ることが出来ない。聖域内にはモスクと、昔祭祀時に使用されていたといわれるかまやがみられる。モスクは木造で約150cmの土壇上に建設されている。背面にミフラブが設けられている。屋根は寄棟で、インドネシアで多くみられる二重の方形屋根は用いられていない。

 住居はRC造のものが多くみられた。伝統的な形態をもつ住居はみられなかった。

 現在、ササック族はそのほとんどがワクトゥ・リマである。その住居集落には必ずしも伝統的形態はみられない。ジャワの都市カンポンと同じ様な住居が支配的になりつつある。

 

 2.住居集落の地域類型

  2-1 住棟形式

 バヤンにみることのできるバレ(住居)は、バヤン、スゲンタール、スナル、ロロアンなどバヤンを中心とする地域一帯に見られる。その他の地域では、バレはみることができず、1m近くの段差をもった住居が一般的である。

 ブルガはバヤン、スゲンタール、スナル、ロロアンといったバヤンを中心とする地域で顕著に見られる。上記のようにバヤン地域外では、集落全体に数棟しか見られないのが一般的である。

 ゲレンとアランについては、その分布に関して明確に地域的な違いがみられる。ゲレンはロンボク島北部・東部に見られる穀倉形態であり、アランは主に南部を中心に分布している。

 

 2-2 集落形式

 集落は建築物が極めて単純に平行に配される形態が一般的である。ただ、建築物の種類に集落ごとに相違がみられる。調査した諸集落は、大きく三つに分けられる。

 1)住居とブルガが平行に配列されるパターン

 2)住居と穀倉が平行に配列されるパターン

 3)住居が丘陵の等高線に従って配置されるパターン

 バヤン、スゲンタール、スナル、ロロアンは1)のパターンをとる。住居がブルガを両側から挟み込むかたちで、それぞれ平行に並べられる。一つのブルガは、一世帯ないしは二世帯によって所有される。

 穀倉の配置には、それぞれ特徴が見られる。バヤンの場合、穀倉はまとめて集落の周縁部に配置されるのが一般的である。スナル、ロロアンの場合は、住居・ブルガと同様平行に配置される。スナルの場合、集落の内部にも穀倉が配置されるのに対し、ロロアンは集落の端部にのみ配置される。スゲンタールには独立した穀倉は見られない。住居内に貯蔵するのが一般的である。

 2)のパターンが見られるのは、サジャン、スンバルン、サピット、レネックなど北東部から東部にかけての諸集落である。ほとんどの穀倉は、その床下部分が居住部分にあてられている。穀倉の周囲を壁で囲い、内部に炉をきり、床下に露台を設置しそこで寝起きする。

 それに対し、3)のパターンの南部に位置するサデ、ルンビタン、スンコールでは丘陵地に集落が築かれている。乾燥地帯であるロンボク島南部において耕作の可能な平地は貴重であり、耕作の不可能な丘陵に居住するのが望ましいと考えられているのである。形態は非常に特徴的で、丘陵の等高線に沿って住居が配置されるのが極めて特徴的である。

 以上のそれぞれの集落の分布を考えると、この1)2)3)の分類は単なる形態的な分類にとどまらず、それぞれ地域的な分類になっていることがわかる。そしてそれぞれの地域は、それぞれ特徴をもった建築形式をもつのである。

 すなわち、ロンボク島北部では、イナン・バレを持つ住居の存在、建築物の平行配置、住居とブルガの対応関係、および後述するカンプ kampu (祭祀集団の居住する区画)の存在が、その特徴となる。それに対し、ロンボク島北東部・東部では、住居と穀倉の平行配列が、その特徴となる。ロンボク島南部では、住居が等高線に沿って丘陵上に配置されるパターン、またアランの存在が、その特徴となる。

 

 3.デサ・バヤンの空間構造とその構成原理 

 3-1 デサ・バヤンの集落構成

 デサ・バヤンは現在行政上11のドゥスン dusun (住区)によって構成されている。バヤンの圏域は行政上の枠とは異なったレヴェルで広がっているのであるが、その中心は、現在村役場のおかれているバヤン・ティモール(東バヤン)およびバヤン・バラット(西バヤン)である。この東西バヤンについては、カンプ kampu の存在、17世紀に建てられたといわれる木造のモスク、ムスジッド・クノ・バヤン・ブレ Mesjid Kuno Bayan Beleq の存在、マカム・スカダナ Makam Sukadana、マカム・アニャール Makam Anyar といった他集落の名が付けられた墓の存在、ラデン Raden と呼ばれる貴族の存在など、その中心性を特徴づける様々な特性を挙げることができる。


 

 3-1-1 モスク

 モスクはデサ・バヤンの中心に位置する小高い丘の上にある。東側から丘の中腹までのびる小道でアクセスすることができる。丘の上は草で覆われ、斜面には大きな木が生えている。モスクの周囲にはマカムが配置されていることからも、この一帯が特別な場所であることがわかる。

 モスクは4本の柱と竹材を主構造とした木造建築で、方形の上部と下屋の間から光をとる形態をしている。この屋根形態はジャワやバリではタジュク tajuk と呼ばれ、関連性を指摘できる。竹材が屋根に使用される例はデサ・バヤンでは、モスクとマカムにのみみられる。

 平面は正方形をもとに背面にミフラブ mihrab が設けられている。中央には主構造である4本の柱があり、上部の梁からドラム bedug が吊るされている。このドラムはお祈りの時間を告げるために用いられる。ミフラブの前にはミンバール mimbarと呼ばれる聖書台が置かれている。このミンバールには蛇あるいはドラゴンを象徴する装飾が施されている。



 このイメージの背景となり、かつモスク内に置かれる背景となった伝説がある。

 

 かつてバヤンの王が船で旅行した際に、島から遠く離れたところで彼の船に水が入り始めた。王は家来ともども溺れてしまうのではないかと恐れた。彼は叫び、水面上あるいは水面下のどんな力でも、彼の命を助けてくれたならば、娘の一人と結婚させてやると約束した。ドラゴンは彼の約束を聞き、船をムアラ Muara の岸へと安全に運び彼を救った。しかし一度安全に島にたどり着くと、王は約束の結果を考え身震いし、彼女を待つ恐ろしい運命から娘を救いたいと願った。しかしドラゴンは王が彼を騙そうしているとわかると、怒り狂い船を破壊し、多くの人々を殺した。王が許しを請い、ドラゴンの肖像をつくりモスク内にそれを置くことを約束した時初めて、彼の怒りはおさまった。王はバヤンに戻り、約束を達成した。現在まで木製のドラゴンの彫刻がバヤンのモスクでみられる由縁はここにある。

 1972年、1975年とバヤンのフィールド・サーヴェイを行ったスウェーデンの人類学者セデロス S. Cederroth は当時のモスクの状況を教えてくれる。

 

 1972年に彼が初めてバヤンを訪れたとき、ドラゴンは哀れな状態であった。しかし1975年の二度目のフィールドワークの時には部分だけが残っており、以前のものをモデルとし新しく取り替えられていた。前面には鹿、鶏、刈、布、ココナッツ、剣を表した彫刻がほどこされていた。

 バヤンの人々はワクトゥ・テルという名が示すように、3という数を重視している。彼らは世界や生物を、次に挙げる三つのカテゴリーで理解しようとしている。

 1.鹿は、生きている子供に生を与える哺乳動物を示している

 2.ふくろうは卵を生む鳥を示す

 3.苗木や果実によって増える植物はココナッツによって示される

 他の彫刻、例えば米や布は繁栄を象徴するといわれている。一方剣は力と雄大さの象徴として受け取られている。同様にバヤンの人々は世界のほとんどの現象を三つのカテゴリーに適合させるという。1967年までバヤンのモスクには、天井から吊るされた数多くの木製の彫刻をほどこされた鳥があった。この年はロンボクに宗教的な迫害のあった年で、鳥は秘密の場所に移された。この行動は正統派ムスリムによる厳しい批判への反応である。正統派ムスリムにとって偶像崇拝は禁じられており、木製の鳥をモスク内部に飾ることも同様にタブー視された。

 バヤンのモスクは、バヤンを精神的な中心とみなすワクトゥ・テル全てにとって、中心的な聖域である。バヤンの貴族が北ロンボクの主要部分を支配していた王国繁栄期からすると、その影響の範囲は縮小された。しかしデサ・バヤンのモスクと同様の構造、同様の機能を持ったモスクがロンボク島南部のデサ・レンビタンやデサ・スンコルにはまだ存在している。 

 3-1-2 マカム

 マカムはモスクのある小高い丘の周辺に主にみることができる。一般的なマカムでは、装飾の施されていないいくつかの石が、竹や木でつくられた建物に囲われている。マカム・タンジュン・ペタック Makam Tanjun Petak の二つの墓石にのみ彫刻が施されている。マカムは、様々な親族集団の先祖から受け継がれてきたものである。

 バヤンの人々は自らの出自をバタラ・インドラ Batara Indra としている。バタラ・インドラはバリ・ヒンドゥーの神であるばかりか、異教徒であるロンボクのブダの神でもある。

 バタラ・インドラには二人の息子がおり、それぞれグドゥン・ラウク Gedung Lauq とグドゥン・ダヤ Gedung Daya に眠るといわれる。この二人に息子にはそれぞれ一人の息子がおり、名をラデン・スタドリアRaden Sutadriaとティティック・マス・ルンプングTitiq Mas Rempung という。マカム・スンスナン Makam Sungsunanとマカム・リーク Makam Reaq に眠る。

 マカム・スンスナンは、バヤンの最後の王の子孫の住むバヤン・ティモールの向いに位置する。ラデン・スタドリアは長い系譜を持つデサ・バヤンの王の最も古い先祖と考えられている。

 マカム・リークはモスクの西南に位置する。

 バヤンで8年に一回催されるペスタ・アリップ pesta alip  はティティック・マス・ルンプングに敬意を表するものである。アリップには小アリップと大アリップがある。

 小アリップは、マカム・リークの建物を建て替えるために行われる。大アリップは、グドゥン・ラウク、グドゥン・ダヤの二つの建物の建て替えのために行われる。

前者はバヤン・ティムールの貴族などによって祝われるが、後者はバヤン・バラットの居住者によって祝われる。

 大小の区別は、祭礼時に再建される建物の数によるといわれる。またマカム・リークの主であるティティック・マス・ルンプングよりも、二つのグドゥンの魂の方が、古く地位も高いためだとも言われる。

 

 3-1-3 カンプ(祭祀者の所属する神聖な場所)

 モスクと同様カンプもクマリ kemaliq と考えられている。クマリとは超自然的な力によって守られている場所を意味する。カンプは祭祀者の住む公共の場として定義される。祭祀者はその場所や建物を共同体への奉仕のために使用する。バヤン・ティモールのカンプは、特に重要である。バヤンの王がかつて住んでいたからである。最近はプマンク・ブレ pemangku beleq と名づけられる祭祀者とその家族が住んでいる。

 カンプは竹製の壁で4つに分割されている。集落外からこのカンプに入る場合、まずブンチンガ bencingah と呼ばれる4つのブルガのおかれている一画を通らなければならない。これら4つのブルガの形態はいずれも同じであるが、それぞれ異なった機能、ヒエラルキーを持つ。最も重要視されているのはブルガ・アグン Berugak Agung (偉大なブルガ)と呼ばれるブルガであり、重要な祭祀の時にはこのブルガが中心となる。次はブルガ・マラン Berugak Malang (不幸なブルガ)と呼ばれるブルガであり、このブルガは祭祀時に盛大な食事の場となる。他の二つは待合所や集会所として使用されたり、食事の準備に使用されたりする。これらのブルガは、ブルガ・スンバゲ Berugak Sembagek 、ブルガ・ジャンガン Berugak Jangan と呼ばれている。

 南西の一画には3つの建物が見られる。一つはサントレン santren と呼ばれる建物で、結婚式の最後の儀式が行われる。さらにかまやがある。木造寄棟の建築物で、祭祀時に参加者が食す御飯を調理するために使用される。祭祀時以外には使用することができない。また、中に入ることも許されない。あと一つはブルガで、この建築物は先述のブルガ・マランにおいて行われる食事を一時的に置いておくために使用される。日常の生活に用いるのは西側の建物である。南東の一画はカンプの中心となる場所である。ここにはその昔バヤンの王が住んでいたとされる住居が残っている。現在は空き家で誰も住んでいないが、内部には剣などの貴重品が数多く収納されている。

 北東部には、雑草で覆われた何もないオープン・スペースがある。このエリアはプンチリンガン penciringan と呼ばれる。バンガラン bangaran と呼ばれる小さな石を見つけることができる。この石は、ワリン・グミ walin gumiと呼ばれる役職者が中心となる儀礼に結びつけられる。この儀礼の目的は、その場所に住む邪悪な精霊の退去、そしてそこで生活しようとしている人々を傷つけないようにとお願いすることにある。ペスタ・アリップの準備の一部として、機織り住居がこの場所に建てられ、儀礼の間先祖の墓であるマカム・リークを飾るために使用される特別な白い衣服が、この住居の中で織られる。ペスタ・アリップが終わりに近づくと、この住居は取り壊され、近くの川に投げ捨てられる。

 

 以前は古いバンヤン樹  waringin が北側入口の西側に立っていた。そしてグンドゥン gundem として知られる公共の会合はこの木陰で行われた。最近はこのような会合はブルガ・アグンで行なわれる。この古いバンヤン樹はかなり前に枯れてしまったので、現在新しいバンヤン樹が植えられている。

  バヤン・ティモール以外にもこういったカンプはみられる。そこにはバヤン・ティモールと同様にプマンクが居住し、公共の会合を行い、重要な儀礼が行われる。ただし規模はかなり小さい。バヤン・バラットに一つ、カラン・バジュに二つのカンプをみることができる。

 

 3-2 バヤン・ティモール・グブック・テンガの構成

 バヤン・ティモールは8つのRTによって構成される。グブック・テンガ Gubuk Tengah が、その中心RTである。その一画に、祭祀集団の長およびその家族の居住するカンプがあり、集落の祭祀の際に中心的役割を果たす。祭祀集団の長はプマンク pemangku と呼ばれる。バヤン・ティモールの全戸数208戸(1992年)のうち、グブック・テンガには30戸が住む(図Ⅱー⑪)。

 グブック・テンガは集落内を走る歩道によって境界づけられる。そのほとんどは整然と並ぶ住居とブルガによって占められ、カンプは北端中央に位置する。東端には、共同の便所兼水浴び場がある。このRTの東側には水路がその境界に沿って走っており、食器の洗浄や衣服の洗濯が行われている。

 

 3-2-1 住居の空間構成

 もともとデサ・バヤンの伝統的住居といえばイナン・バレをもったバレであった。また、バレとブルガとは密接な関係をもつ。ブルガを男の空間、バレを女の空間と呼ぶこともある。右・左、内・外が男・女に結び付けて考えられている二項対立の原理、つまり双分観が、バレに対する空間認識に大きく影響を及ぼしていると考えられる。

 バレは、基本的にイナン・バレを中心とし、三つの部分に分けられ使用される。奥を背にして右側には、かまどが配置され、炊事・食事の空間となる。瓶や稲なども置かれている。左側は、奥と手前に分かれてはいるが、ベットが置かれ就寝の空間として機能する。イナン・バレの周囲には、戸棚・机・椅子などが置かれる。しかし、現在グブック・テンガに見られる住居のほとんどは、バレの様な1室空間ではなく、多室空間である。住居の増築・改築が繰り返し行われ、イナン・バレを持つものは数少ない。全住棟数45棟のうち、建設中のもの4棟、空き家3棟を除くと、イナン・バレを持つものはわずか7棟である。住居としては機能していないが、その他にカンプ内に2棟バレがある。一つは炊事場として、もう一つは祭祀の家として機能している。以上の9棟の内1棟は、イナン・バレを持つが、屋根は瓦葺き、壁は煉瓦にモルタル塗、土台はコンクリートという様に、外見は全く伝統的なものと異なっている。

 現在のグブック・テンガの住居のうち、最も一般的に見られる平面形式はタイプ(TYPE A3)である(図Ⅱー⑫)。平入りでまずL字型の居間にアプローチし、その両側に寝室が並べられる。机や椅子は、表に面した位置に配置される。入口部分にテラスが設けられ、その右部分に寝室が付設される。次に多いのが、非常に簡素な2室住居(TYPE B1)である。入口は左側の部屋に設けられ、右側の部屋は寝室として機能する。この形式の住居には切妻屋根をもつものが多く、規模もかなり小さい。その他 TYPE B1 の寝室部分が分化した(TYPE B2)や、TYPE A3 に見られる三分構成の原型と考えられる(TYPE A1)や(TYPE A2)などのタイプも見られる。

 

 3-2-2 建物の所有関係

 伝統的には一世帯につきバレ、ブルガ、穀倉が一つずつ所有されており、かまどは住居内に設けられていた。しかし、現在ではその関係はかなり崩れている。

 まず穀倉を見ると、グブック・テンガの住民によって所有される穀倉は総計21棟ある。そのうち敷地内にあるものは6棟と数少ない。穀倉の床下部分には、木切れが置かれたり、牛がつながれたり、露台が設けられている。露台が設けられているものは2棟ある。これらの穀倉を所有している住居はともにブルガを所有していない。ブルガの機能が穀倉床下の露台によってまかなわれていると考えられる。

 つまり、穀倉は集落端部に設けられる形態が一般的であるが、集落内に設けられる場合、床下部分が様々なかたちで利用される。ブルガの機能がまかなわれる場合もある。

 ブルガを所有している住居は、34棟数えられる。9割近くの住居がブルガを所有していることになる。ロンボク島北西部のタンジュンから移り住んできた人々はブルガを利用する習慣をもっていない。ブルガの総数27棟のうち1世帯によって所有されるものは16棟、2世帯以上によって所有されるものは7棟、公的な機能に使用されるものは4棟(カンプ内)見られる。またこのうちかまどを付設するものは7棟である。必ずかまどは南側に設けられる。これは葬式においてブルガに安置された死体は、必ず北側から運び出されるという事実と関係している。

 かまどの所有パターンは多様である。バレに代表されるように住居内にかまどを所有するもの(6戸)、住居とは別にかまやをもつもの(5戸)、住居に付設して所有するもの(11戸)、ブルガに付設して所有するもの(10戸)、他の世帯の所有するかまどを使用するもの(6戸)と5つのパターンが見られる。バレだけに注目すると、7戸のうち4戸は伝統的な形式を残し現在も住居内にかまどを所有しているが、1戸はかまやをもち、1戸はブルガに付設し、1戸はバレに付設している。

 いずれにしても、かまどは住居外部に設けられる傾向にある。伝統的には住居内部で行われていた炊事行為が、現在は住居内部から排除されている。

 

 3-2-3 日常時のブルガの空間利用

 集落の空間構成にとってブルガは極めて重要である。ブルガの利用状況は集落の生活空間の使われ方をうかがう大きな手掛かりである。

 ブルガの利用状況を分析した結果を以下に示す。

 1)利用状況はブルガによって様々であるが、行われる行為は大きく次の6つに分けられる。(イ)睡眠、(ロ)食事、(ハ)炊事/食事の準備、(ニ)作業、(ホ)休息、(ヘ)懇談。ただし、ブルガで食事が行われることは希で、来客時あるいは儀礼時を除くと、ブルガで食事が行われることはない。

 2)時刻の影響を受ける。1日の生活のサイクルの中で、朝昼夕と一旦使用人数が減少する。これは炊事・食事の時間と対応している。また、夕方、ガムランの演奏が行われると、夕方あるいは夜の使用頻度が極めて高い。

 3)使用頻度は、所有世帯数とも関係がある。一般に2以上の世帯が所有するブルガの方が、1世帯のみが所有するブルガに比べ、使用頻度は高い。

 4)所有世帯の住居の平面構成と、ブルガの使用頻度には関係が見られない。つまりブルガは住居の多様な変化にもかかわらず、日常的な生活空間の中心的機能を果たしている。

3-2-4 儀礼時の空間利用

 ブルガおよびバレの空間利用は、儀礼時によりいっそう明確となる。

 40代後半の女性が前夜に亡くなり、19931230日にバヤン・ティモールで葬式が行われた。まず午前10時から、仮設の炊事場の建設が始まる。11時から食材の準備、しゃもじ・おたまの作成が開始される。実際に調理を始めるのは13時からであった。葬儀は16時から行われ17時すぎには埋葬が終わった。その後ごく親しい人たちだけで会食が行われた。

 死者は頭を北に向けブルガに横たえられ、遺族は住居の前面テラスに座っている。ここでも、ブルガと住居とが対比的な関係にあった。親族以外は仮設建築や他のブルガ、木の根元といった場所に、男性・女性と分かれて位置している。ブルガに男性が、すぐ横の空地に女性が、というように、ブルガが男性の空間として位置づけられているのがよく分かる。

 またカラン・バジョに隣接するカンプにおいて19931220日にプマンク交代の儀礼が行われた。カンプ内の3つのブルガが儀礼の主な舞台となった。ここでも儀礼の場面ごとに、男性と女性とは異なった場所に位置していた。南側のブルガに女性、北側のブルガに男性という組み合わせ、あるいはブルガに男性、そのブルガの東に位置するバレのテラスに女性という組み合わせ、同じブルガの南半分に女性、北半分に男性という組み合わせを見ることができた。つまり場所自体が男性・女性に帰属するわけではないが、儀礼の様々な場面で男性・女性の空間利用の明確な分離が確認された。