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2022年8月7日日曜日

京都の特権, 対談 布野修司×佐伯啓思,『京の発言』6,200703

京都の特権, 対談 布野修司×佐伯啓思,『京の発言』6200703

 

佐伯 まずは、景観や都市計画についてみたとき、京都にいまどのような問題があるか、そして次に、もう少し大きな視点で、日本全体の都市計画や景観問題についてどのように考えていらっしゃるか。最後に、一般的な問題として、現在の建築のムーブメントをどのようにご覧になっているか、どのような感想を持っているか、そのあたりの話を今日は伺いたいと思っています。

でははじめに、基本的なことから教えてもらいたいのですが、京都の都市計画、それから景観についての行政がどういうふうなことになっているかというのを、何かインフォメーションなりをお願いします。

一般的な印象としては、京都は、もう少し文化財なり、あるいは本来美しいものがありうるという、もう少しうまくやればもっと美しい景観を保持できて、しかも美しい街並みを作れただろうという気が、素人としてはするわけです。ところが、どうみてもそうはなっていないし、むしろひどくなってきている。個別の意味では、何かいいものがあるのかもしれないし、街づくりでも頑張っているなぁというところはあると思うんです。小学校を改造して面白いことをやっていたりもしますからね。でも、全体としての調和はとれていないという気がします。その点について、何か行政上の、あるいは法律上の問題、都市計画上の問題はあるんでしょうか。そのあたりについてお伺いしたいと思います。

布野 まず、京都ということで、別に東京と比べて特権的にどうこうということはないんですよ。都市計画法とか建築基準法というのは全国一律ですからね。たとえば、僕が十五年前ぐらいに京都に来たわけですから、そのとき、京町家が街並みとして一定程度残っていたわけですね。それを維持するために改修するという問題が浮上したとき、同じ木造の町家としては建てられないという制度になっているんです。それは全国一律なんですね。だから、たとえば、かつての京町家が並ぶような景観をよしとして、それを維持しようと思っても、そうできない。法的な、建築基準法の防火規定、準防火規定というのがありましてね。戦後まもなく第二次世界大戦で焼けてしまったというので、木造亡国論というのが一世を風靡して、木造建築は防火という観点からどうかという話が出てきたわけです。それを基準に制定していますから、全国一律で防火規程ができているんです。

それで、町家を維持するには、ある種の法の網の目、抜け穴を探すということをやろうと考えた。建築基準法に「その他条例に定むるところ」という規程があるんです。でも、文化財として扱うしかない。文化財として維持するというのは不自然ですよね。そこで人が生活するわけですから。それで結局、一番いい方法は、都市計画を取っ払ってしまうことなんですよ。結論がそうだったんですけどね。要するに、防火規定とか準防火規程とか、なんとか商業地域とか、そういうのをやめてしまう、という話です。防火は消防法の問題で、建築基準法とは関係ないですから、建築基準法を守っているからといって担保されないわけですよ。火事が出たら燃えるわけです。消防署は消防署で、出たら消して見せますよっていうことですからね。そこで結論としては、全体で取っ払ってしまえばいい、ということになった。ところが、その途端に、阪神・淡路大震災があって、立ち消えになってしまったんです。その先に検査制度というのが新たにできて、第三者でやるという話になって、その延長が姉歯問題、といった経緯があるんですけどね。

それはともかく、京都は特権的な都市ではなくて、京都が独自な都市制度を展開できるような法制度的な条件があるわけではないんです。財政的にいっても、日本で七番目か八番目の都市であって、とりたてて豊かというわけではありませんから、ただの地方都市とも言えるんです。

ただし、その中で景観といった場合には、二〇〇五年ですか、景観法というのが制定されました。いろいろ言う人がいますけど、私は、これは使いようがあると思ってるんですね。要するに、法的根拠をもって、今までは、条例よりも建築基準法とか都市計画法の方が上位にあるわけです。建築基準法を守っていれば、条例に勝つ。たとえば、マンション問題が起こったりしたときには、高さだけの話をすれば、基準法を守っている方が勝つわけですね。

ですが、景観という意味でいうと、一応、京都は先進を自負してるんですけどね、歴史的な都市遺産というのがあるから。そういう意味でいうと、さまざまな条例、たとえば美観条例などをつくっていろいろやってきた。それで先頃、景観法というのができたんで、今、それとの整合性をつけている。景観法にのっとったかたちで、いろいろ整備しているわけです。

佐伯 景観法というのは、条例をそのまま法として認めるという趣旨ではなかったですか。

布野 そうではないです。そうではなくて、都市計画法上で、そのまま効力をもつかたちで整備するというのはみんなやっているんです、景観計画というのを立てると、それがそのまま力をもつということになっているんです。

佐伯 だけど、法というのは、先ほどのお話では全国一律でしょう。たとえば、京都独自の条例のようなものを、要するに、法と同じような効力というか強制力をもたせたいわけですよね。景観法というのは。だから、個別の都市ごとの対応をある程度入れていかないと、結局、意味はなくなってしまいませんか。

布野 ですから、あんまり面白い話ではないかもしれないけれど、最初に言ったのはその点で、たとえば、建築というのは、北海道と沖縄ではぜんぜん違うでしょう。だから本来、土地ごとに違って構わないし、景観がそもそもそうですからね。だけど、そうはいかないという枠組みがあるということですよ。一国二制度はまかりならんと。

景観法についていうと、京都市は、もっと小回りが利いて、たとえば金沢のようなところの方が先進的にやれる条件が整っているところがあって、追いつかれたという気がしますね。それで今、「眺望景観」という概念で、それは「借景」ということもあったわけですけど、新たな規制ができないかと考えているんです。ただ、それが容易にできるとは思えないです。たとえば、圓通寺から比叡山が見えるとして、手前はダメですよ、というふうにする。でも、それだけ視圏を制限できるかという問題も出てきますよね。そういうことが果たしてどこまでできるかという問題も出てくるわけです。結局、金沢も条例の方がまだ合意形成しやすいというふうにして、景観法と二本立てでいくというのが賢いんですけどね。

佐伯 この前の景観法というのは、条例を事実上、法的効力をもったものとして扱えるという、そういうものではないんですか。

布野 そうではありませんね。新たに立てないといけないですよ。だから、当然そこでまた合意形成が必要となるから、なかなかうまくいかないんですよ。だから、あまり先に進まないんです。すでに、一、二年経っていますけどね。

それよりも問題は、景観という意味でいうと、ご承知のように、都市の景観を規定するというのは、法制度で、近隣商業地域とか住宅地域などがありますね。わかりやすくいいますと、建蔽率と容積率に関わってくるんですよ。京都市の図面を見たら、景観が読めるわけですよね。たとえば、四条の田の字地区と呼ばれている、都市核部分。そこを見てみると、けっこう不連続なところがあるわけです。当然ですが、色々な利用をしているわけですからね。地主さんが容積率を目一杯使おうと思うとすると、景観がバラバラになるのは当たり前というふうな規定になっているんですね。誰もそんなことを考えずに色々に利用しているわけです。全国のどこの都市もそうですが、みんな今頃になって気がついているわけですよ。

佐伯 それは、商業地区などのゾーンニングの問題ですか。

布野 まず、ゾーンニングの問題ですね。都市計画の手法ってそんなにないんです。ゾーンニングってアメリカからきた言葉で、区画整理、まぁドイツ系ですけどね。ゾーンニングで容積率を規定するという手法。それで、たとえば京都の都心部でいくと、イメージそのものもたぶん分裂しているでしょうね。

佐伯 そこが大きいでしょうね。どういうかたちにするかというイメージが、まったくできあがっていない。

布野 すでに決定されているのは、建蔽率が八〇%の四〇〇ですからね、五階建てのヴォリュームがあるように指定されているんです。烏丸四条あたりの銀行だなんだでビチーっと埋まるように、法制度的には表現されているわけです。ですから、あそこに長く住んでいて、祇園祭をやるときに山車を出すんだからやっぱり町家の高さのスケールがいいと言ったって、そういうのが昔の街並みと言ったって、単純に力だとか相続だという話になると、相続がかかってきたときに手放さないと言ったら、容積を増して売らないといけないから、目一杯使うという話になってるわけですよね。

佐伯 そういう基準というのも全国一律なんですか。

布野 全国一律で、各市が、ここではこうだというのを決めるんです。それを線引きといいます。

佐伯 この地域はこの建築基準を当てはめるっていう。

布野 そうですね。それを五年ごとに改める。なかなかダウン・ゾーニング、容積率を減らすということもできなかったです。やればいいのに。僕はこないだ宇治市でやりましたけどね。いま都市計画審議会の会長をやっていまして、景観問題がおこって、高さと容積を変えるのは、かなり大変ですよ。弁護士に相談したりしてね。

佐伯 それは市が委員会のようなものを立ち上げて、その中に建築家だとか弁護士だとかの識者も入って、一定の結論を下すのですか。

布野 線引きについては、都市計画審議会という公定のがあって、市長が諮問してやるんです。ですが、ツールとしては大したことじゃないわけです。もし、もっときれいなな景観にしようというのなら、そういう制度をつくらないと、ガタガタボコボコになってしまう。京都に限らずどこでも一緒です。だから、どこも東京みたいになるのは当たり前の話ですよ。

佐伯 それをどうやって防ぐか。

布野 いや、「防ぐ」と一致しているのであれば、それはもうそれで進めればいいですが・・・。

 

 

 

佐伯 結局、そこの価値観が当然、人によって違うわけですよね。だから、京都でマンション開発してもいいという人もいるだろうし、巨大商業地区をつくっていいという人もいるし、昔の町家を保存すべきだという人もいる。そこの統一がとれないということが問題で、やはり、その意味では都市計画というのが機能しない、ということになってくるんですかね。

布野 やはりトップ・ダウンで、市長が「都市計画をやめます」と決断すればいいんです。たとえば、祇園祭で山車が回るとこだけは二階建てで、最低そこは維持しますよと、決断すればできますよ。

佐伯 要するに、それしかないわけですよ。でも、市長にしろ、そこまで決断するというのは苦しい。

布野 色んな工夫はありますよ。たとえば、容積率移転するとかね。街中の山鉾町で、それだけの部分を郊外に売るとかね。そういう工夫はやれるはずですけどね、今の仕組みの中で。そこまで思い切ってやったら、すごい市長になりますけど。

佐伯 たとえば、ヨーロッパの都市なんかを見ると、完全にピシッと決まってるでしょう。

布野 いや、だから、ああいう骨格がある場合はですね、景観法ではそれができるわけです。もしそういう合意形成ができて、それで行くということであれば。

あと、財政がらみの仕組みとしては、僕は基金がいると思いますけどね。基金を積んでおいて、もし問題がおこったときには、それを市が買い上げて公園にしてしまうとかね。だから、金の話もつけないといけないんです。金の問題と制度的なものは、単純ですけどやりようはあると思います。

佐伯 たとえば、今の景観法の中でも、中心部に町家があったとして、代替わりで相続税が払えないと言い出した場合に、その次の、そこを何に使うかという、そこまでは制限はできないんですか。せいぜい高さぐらいでしょうか。街並み全体を統一して、一軒一軒バラバラにやるんではなくて、ある地区なり道路、通りなり一つの統一したイメージにしてやるなんてことは、やっぱり今の景観法では難しいんですか。

布野 いや、できますよ、決断すれば。それは、いわゆる伝統的建造物保存地区というやつです。文化財保護法の範疇ですけどね。京都には三つあって、全国には百くらいかな。そういう文化財としてやるやつはあるんです。

佐伯 しかし、三条通りとか烏丸通りなんかは文化財というところまではいかないですよね。

布野 そう、特区として文化財になりうるような町家なんかがそんなにあるわけじゃないでしょう。十戸もないわけですよ。景観法では、そういう保存建物を指定できるんです。だけど、そこまで手を上げて動くことまではしていなくて、まだみんながお互い睨み合ってるというかね。

佐伯 統一した景観をつくるのは非常に厳しいという気はするんですが、ヨーロッパのような、あそこまでピシッと決まったようなものでもなくって、たとえば代替わりで建てる時にもう少し制限をつけて、周りとの調和を考えるとかね。最近は、若干そういう配慮をしているという気がしなくはないんですけど。

布野 美観とかなんとかでね、最終的に裁判沙汰になった時に効力がないとは言いながら、一応、条例としての規制力をもってやってきてはいるんですよ。

佐伯 その場合に、やはり大きな問題は、たとえば戦後の大きな価値観というのは、わたくしの権利、私権から始まって、それが絶対的な出発点となっている。そこから始めてしまうと、公共目的のために私権を制限するか、あるいは法的な形で、どこまで制限できるか、ということになると、若干修正するという話にしかならないでしょうね。

 ところが、本家のヨーロッパなんかをみてみると、アメリカは違うかもしれないけど、ヨーロッパの場合には、都市環境や住宅の外観なんかは、明らかに私権の対象にはなってないわけですね。

布野 社会的なストックとしてね。

佐伯 そうです。社会的ストックであり、公共的規制としてはっきりとしていて、そのことが社会的に了解されている。内心では嫌かもしれないけど、大部分はそれに従うわけです。この違いは何でしょうね。やっぱり歴史的に作られてきた意識の違いなんでしょうか。それとも、自由というものにたいする考え方の違いなんでしょうか。

布野 建築の側からは、よく「スクラップ・アンド・ビルド」と言うんですが、要するに木造亡国論じゃないけども、建てたらせいぜい三十年ぐらいで壊す、ということでやってきた。それが経済成長を支えたところもある、という土建屋的発想でやってきたでしょう。景観という意味では、ストックにならない構造をしてたんです。

一九四五年で切ってみたときには、それ以前はたぶん江戸に連続するような景観だったと見ていいと思いますよ。それがガラッと変わって、これはよく言うんですけど、やっぱり一九六〇年代の十年ですよ、日本の住宅が変わったのは。

一九五九年にプレハブの第一号が出るんです。ミゼットハウスっていうんですけどね。それは庭先に勉強部屋として建てたりとかね。それが、一九七〇年頃、われわれが大学に入る頃に七、八%になる。一九六〇年にフローで六十万戸ぐらいですよ。それは全部、基本的に在来工法といって、大工さんや工務店が建てていたのが、今度は十パーセントが工業化でやるというふうになった。生産の仕組みが変わったんです。一番わかりやすいのは、十年間でアルミサッシが、ゼロ%から百%になった。ということは、部屋が高密化して、クーラーなんかが入ってきた。それと同じ頃に、藁葺き屋根や茅葺き屋根がほぼ消えるんです。だから、住宅を見ているだけで、歴史的な大転換ですよ。

 もう少し言うとね、一九八五年、バブルの頃に、木材の輸入量が五割を超える。木造住宅の割合が五割を切る。それから、賃貸住宅が五割を超えて、集合住宅が五割を超える。そういうように日本の住空間がガラリと変わるんです。それが景観に反映してくる。

佐伯 たしかに、一九六〇年代の高度成長期に、いわゆる郊外住宅ができて、そこに住むのが一つの憧れというふうになった。

布野 一九六〇年代では、たぶんまだ二階建はそんなにないですよ。プレハブでも、最初は平屋でしたから。

佐伯 でも今は、一九六〇年代に夢の住居だったものが、みんな詰まらないものだというふうになってきてるわけでしょ。プレハブでもモルタルでも、コストダウンしたやつは。たぶん同じようなことが、一九八〇年代に作られたものについても、もう少ししたら、あの頃作られたものは全部詰まらないものだ、という話になってくるんじゃないですか。それは大いにありますよね。

 ほとんどの人が、そういう意味で言えば、建築やら都市について、戦後に日本がやってきたことについては満足していないように思えるんですけどね。無残さの方が際立っているような気がする。しかし、何かのメカニズムのなかで、方向を変えることはできるんでしょうか。

布野 いや、京都で、バブルがはじけてからの十年っていうので絶望的になるのは、凄いことが起こって来てるんですよ。要するに、都心でガッピツ?が起こってる。細分化されるのが普通の流れなんですけど、狭い土地が合わさって巨大なマンションが建ったりしているんです。あれが、僕は不思議でしょうがなかった。京都はあまり騒がれなかったんですが、でも凄い勢いでマンションが建ったんですよ。東京もそうですけど、全国的にも史上最高の勢いでマンションが建っていく。その挙句に姉歯問題ですからね。景観が大きく変わるのは、一九八五年の次が二〇〇五年ですかね。そういう流れで大変動が起きているんです。

佐伯 そうですね。今おっしゃたように、明らかにいくつかの流れがある。一九六〇年代の高度成長期、そして一九八五年年前後のバブル、それからここ数年。

布野 そうそう。ほぼそんな感じで、景観にたいするインパクトがあった。だから、古都保存法とか、みんな裏側の危機意識というか、アリバイ作りみたいなもので、施策展開をするんだけど、必ずしも有効には機能していかない。

 

 

 

佐伯 大きな流れとして一貫しているのは、やはり開発型ですよね。ビルをどんどん高層化していくとか、景観は保存しないで、それぞれがバラバラにやっていくとかね。

布野 そうそう。「景観でメシが喰えるか!」というセリフでしょ、ディベロッパーの。

佐伯 いや、でも本当は、景観というのは、全体の付加価値を高めるものなんですけどね。みんなきれいな場所に住みたいでしょうから。

布野 ある都市で、必要な床は誰が考えたって限定されるはずじゃないですか。別に高い建物を建てる必要はないわけです。それに合わせてヴォリューム規制すればいいと思うんだけど、それはできないんですよね。まず根拠が示せない。一律に示すこともできない。要するに、経済の先生に言ったって、絵を描いてくれれば、計算できるしシミュレーションできる、と言うんですけど、ある都市について、高い建物なんかいらないでしょ、と言うのはできないわけです。

佐伯 経済の方からは、そういう論理は出てこないですよ。そこに需要があればできるだけの話でね。たとえば、京都だって、単なる転勤で来た人とか、京都が好きで住んでる人ばかりじゃないですから、そういう論理だけではダメなんですよね。だから、景観を守るというのは、思想的には、非常に難しい問題ですよ。社会の原則というのは、先ほど言った「個人の自由」というものを前提にすれば、市場原則になりますから。

布野 冒頭では、規制とかね、そういう手段しかないと言ったけど、僕がずっと言っているのは、さっき言った伝健地区(伝統的建造物保存地区)みたいな規制も不自然だと思っているんですよ。全部、何年か前のもので担保して、中ではソファーに座って酒飲んで、なんていうのは。それをゆるやかにやる方法として、法的な根拠を問われて挫折してるんですけど、「タウン・アーキテクト」と言って、たとえば、そいつがいいっていったらいい、てことなんですよ。要するに、色にしても高さにしても一律の規定ではない。ヨーロッパはもうちょっと厳しくやっている。そいつがハンコを押さないと建てさせない、という具合に、権限と任期と報酬もけっこう保証されてる。

佐伯 それはコミュニティの委員会かなんかですか?

布野 いやいや、いろんな形がありうると思うんですけど、京都市だと百五十万人くらいだから、一人じゃ無理ですね。四十二区の小学校区くらいに分けて、日常的に何が起こっているか、タウンウォッチングなんかもやって、どこか悪いところがあったら提案したりもして。四十二だととても足りなかったので、十一区に一人ぐらいは面倒をみるというような仕組みを提案しているんです。ずっと特定の一人がやり続けると利権が発生することもありますから、任期は五年くらいにして、その人がいいと言ったら、真っ赤の建物もいい、と。そういう例を出しながらやってるんですけど、それも、建築士の業界から足を引っ張られていまして。

佐伯 委員会か何かでオーソライズしてできないものですかね。

布野 別に一人でなくても、委員会でもいいんですよ。実際にあるんですよ、建築審議会とか景観審議会とかね。あるんだけど、今の審議会システムは、首長が諮問して、それにたいして答えるという仕組みになってるから、仕組みとしては自主的に動けないんです。

僕は宇治市でやってますけど、勝手に喋ってるんです。だって、あがってきたものをOKするみたいなのは詰まらないから喋ってると、助役が出てきて諮問したことだけやってくださいなんて言う。これは中央でも一緒だと思いますけど、日本の審議会システムを変えないと。

佐伯 では逆に、そういうものを機能させようとすると、全部ある意味で行政指導のもとにおいて、地区によって違うでしょうけど、ある地区では、建て替えにしろ何にしろ許可制にする、と。行政がどういう形で許可するかというと、それは委員会なり何なりが決定する、というような話になってくるんじゃないですか。そうなると、わりと昔のやり方に近いというか、私はそれでいいと思うけど。

布野 いま自治体は、千八百くらいになったのかな、全体で。本来、景観に責任を負うのは自治体でしょ。建築の話で言うと、建築主事さんていうのがいるんですよ。建築を建てるときは、日本の場合は許可制ではなくて確認制なんです。これも問題で、許可制にしてしまえっていう意見もあるんですけどね。その主事が確認する要件というのが、建築基準法なんです。建築基準法を満たしていたら認めざるを得ない。それで粘っていると、業者が訴えられるんです。それで裁判沙汰になると、条例よりも建築基準法の方が勝つ。だから、その主事に力を与えるっていうのが、僕の言う「タウン・アーキテクト」なんです。もちろん法も前提にするけども、デザインや色なんかが気に入らないと、そこで指導もして、たとえば、「あなた、もう少し隣のことも考えなさい」、なんて言う。そういう人が、全国で千八百の自治区があるとすれば、千八百人いればいいんじゃないか、と思うんです。まぁ、東京や京都なんかは、もうちょっと割らないといけないから、千八百ではいけないんですけど。

佐伯 そうですね。

布野 高さを決めてそれに合わせろ、というのはあまり気に入らないんですよ。だって百年くらいかかる話ですからね。隣に高い建物があってそれを取り壊せというわけにはいかないから、建て替えるときには緩やかに、というふうにしておかないと。景観には時間がかかるわけですからね。

 

 

 

佐伯 ただ、やはり一番のおおもとは、景観について主事が決めるにしろ( ? )委員会がやるにしろ、ある程度そこに住んでいる人の合意が必要ですからね。ですが、その合意がいま難しいですよね。京都はそういうことにたいして日本の中で一番敏感であるべきはずの街なのに、京都の美観とは一体何なのか、京都にとっての付加価値は何なのか、ということにたいする合意ができなくなってしまっていますよね。

布野 景観だけの話で言うと、眺望景観とか、合意形成できる理屈というのはいくらでもあると思うんですね。たとえば、大文字が見える範囲は制限しましょうとか、山鉾が通る所は高さを維持しましょうとかね。要するに「視点場」(?)と言いますけど、いくつかポイントを決めて、そこからだけは見えるようにしましょうとか、僕はやりやすいと思うんですけどね。観光客も支持すると思いますしね。ただ、思い切ってやるリーダーシップがなかなか発揮されていないですからね。もちろん、景観だけの話ではやれないですから難しくはあるんですが。

佐伯 もう少し広い意味での、たとえば地下鉄の計画とか、道路整備とか、公共交通機関をどうするかということも含めた、都市環境の整備、都市計画という観点からすればどうですか?

布野 そのレベルもものすごくちぐはぐでね、町家が歯抜けになって駐車場つくって空き地になって、とやっていたら、その後マンションができて人が増えたから、小学校を統廃合してしまった後だから教室が足りないのでプレハブ作ってやっているんですよ。先が読めていないんですよね。都心にはそういう問題がありますね。それから、市電も大失敗ですよね。今度また実験すると言っているじゃないですか。それも、先を見通すことができていないってことですよ。京都全体の理念がないんですね。

佐伯 そもそも都市計画という発想がないんですかね。都市というのは人工的なものですからね。しかも、立派な都市というものを民主主義的につくるというのは不可能なわけで、都市を美しいものにするには、ある意味で上から強引にやる必要がありますからね。

布野 都市計画は基本的に権力と結びつかないと自己実現しないですからね。だから、「みなさんのご意見を」というのは矛盾するんですね。

佐伯 都市計画の思想そのものが「自由」とか「民主主義」という概念に基本的に反するところがありますね。遷都だってそうですよね。みんなで話し合って決めるなんてことはできないです。布野先生のように、これまで色々みてきた立場からすると、都市計画に関しては「自由」とか「民主主義」をある程度制限してしまった方がよいと思われますか。権力によって美しい都市をつくるという価値観と、「自由」とか「民主主義」とかいう価値観のどちらを選ぶかといったら、やはり前者の権力的な都市計画の方が重要だということでしょうかね。

布野 そもそも制限しないと成り立たないですよ。

佐伯 やはり京都の景観だとか都市計画に関して気になるのは、繰り返しになるけれども、京都は伝統的なものが残っている一方で、そこに戦後日本的なものがどんどん流れ込んできていて、大混乱を起こしているというような状況なわけですよね。「戦後日本的なもの」というのは、公共的な観点をほとんど考慮しないで、私権を中心とするような自由と~~(?)を確保しつつ、他方では開発主義的にあらゆるものを経済原則でやっていくということですね。多くの人がそういうものは面白くないという感じを持っているわけだけども、どうやったら抜け出せるか、その道筋が見えない。

一つは、トータルに制限してしまうような、ある種強権的なやり方で規制を加えるというやり方ですよね。ところが、従来の都市計画は、あまり開発されていないところを開発する、つまり近代化する、近代都市をつくるという意味合いが強かったわけですね。そうではなくて、京都の場合は、近代主義に真っ向から反対するような都市計画や規制というものを、それでいて現代的な意味合いを与えるようなことができれば非常に面白いと思うんですけど、そういった道はないのかなと思うんですね。

布野 京都のまちの「かたち」との関係で言うと、露地が多いんですね。だから、家を建てるためには四メートル以上の道路に接しなければならないという基準が建築基準法にあるわけですが、京都の場合はそれに馴染まないわけです。伝統的な袋地で成り立っていて、そこで鬼ごっこや運動会をやっていたと聞きますからね。そういう空間を維持できないという法的な枠組はおかしい。でも、市がやるのは、そうした袋地をなくすためならば補助を出しましょう、という話ですよ。

それから、総合設計制度というのがあって、自分の家の敷地から空地を少し公共に供したら、その分高く建てても構いませんよ、という制度ができてしまったんです。すべて東京的な論理、発想で、一見公共的に緑を増やすという発想で東京ではやっているんですが、京都でそれをやると町並みがガタガタに、高さもガタガタになるわけですよ。

僕は宇治市の都市計画審議会に加わっているんですが、そこで適用は受けませんと決定しないと一律に適用されてしまうわけです。小泉改革のときですよ。慌てて宇治市はやりませんという決定をしましてね。

佐伯 たしかに規制緩和が必要なところはあるんですが、ところがやるべき規制は全然やらない。小泉改革のなかで、とにかく都市にお金を集中させて、東京を中心にして巨大ビルをいくつも建てて、ということが行われましたからね。日本経済の構造を変えるはずのものだったのが、結局は土建主義的なものに戻ってしまって、それで景気回復させる、という話ですからね。

 建築家というのはこういうことに関心をもたれているのですか。

布野 日々直面していますよ。六本木ヒルズの足下に国際文化会館というのがあるんですが、あれはル・コルビジェの弟子が手がけたんですけどね。それをつい最近、森ビルの圧力を押しとどめて、保存しながら改修するということをやった建築家がいるんです。隣で安藤忠雄が森ビルでまた巨大な建物を手がけている。どちらを取るか、ということが日々問われているんです。

 一方で、コンバージョンと言いますけど、たとえば小学校が少子化で山ほど余っているんですね。それをどのように再利用するか、といった課題がたくさんあるんですね。ただ、これまであまり良い事例がないですし、ストックの質があまり良くないんですね。高度成長とかバブルとかで、耐用年限が低いものが多いですからね。壊した方が金になる、ということでやってきましたからね。

 それから、阪神淡路大震災の際に大失敗したと思っているんです。すべて捨てちゃいましたからね。あのときに、マンションも修復しながらでも十分住める、という経験を積んでおけば、随分違ったと思いますね。一概には言えませんが、姉歯問題でも、修復の技術とかがもう少し一般に認知されていれば、耐震強度云々といっても、補強すれば住めるんだということが常識になる契機になったと思うんです。でも、あの問題は、もっと構造的な問題なのに、彼一人の責任にしましたからね。

 建物も人間と一緒ですよ。介護が必要となりますからね。建てた瞬間から劣化は始まるわけですから、最初は耐震強度を満たしていたって、劣化していくわけです。だから、介護しながら維持していくというのが当然の話なんです。まだまだ多くの人が新築の方を好むわけですよ。そういうサイクルを前提にしなければ、都市計画も安定しません。

佐伯 そういう話を伺っていると、日本人のメンタリティそのものが問題なような気がして、ますます悲観的になってきますね。

布野 いや、あまり大きなことを言わずに、街区レベルで楽しい空間をつくっていこうと考えていくことから始めテイクことが大切なんです。

佐伯 そうですね。自分が活動する範囲だけは責任をもってやる、そういうふうに多くの人が考えるようになればもう少し良くなっていくでしょうね。

布野 地域社会が壊れているから、それこそ拠り所がなくなってしまっていますからね。

佐伯 布野先生はそういうことに関して積極的に発言されていると思うので、どんどん声をあげていってくださればと思います。

(二〇〇七年一月十六日 滋賀県立大学環境科学部環境計画学科 布野研究室にて)

 
















2022年8月6日土曜日

シンポジウム:パネリスト:アーバンアーキテクトをめぐって, エドワード鈴木・隈研吾・葦原太郎・小嶋一浩・平倉直子・元倉真琴・青木仁・原正治,建築技術普及センター,建築文化・景観問題研究会シンポジウムIN高崎,19941201

 シンポジウム:パネリスト:アーバンアーキテクトをめぐって, エドワード鈴木・隈研吾・葦原太郎・小嶋一浩・平倉直子・元倉真琴・青木仁・原正治,建築技術普及センター,建築文化・景観問題研究会シンポジウムIN高崎,19941201











2022年8月3日水曜日

2022年8月2日火曜日

居住と住居のあいだ, 対談 石山修武×布野修司,建築雑誌,日本建築学会,200704

 居住と住居のあいだ, 対談 石山修武×布野修司,建築雑誌,日本建築学会,200704

『建築雑誌』4月号特集「住むための機械の未来」

 対談

 

居住と住居のあいだ

 

 

石山修武[早稲田大学教授]

 

いしやま・おさむ

1944年生まれ/早稲田大学卒業/同大学院修了/著書に『建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる』ほか、共著に『都市・建築の現在』ほか/作品に「観音寺」ほか/「伊豆の長八美術館」で1985年吉田五十八賞、「リアスアーク美術館」で1995年学会賞(作品)受賞ほか

 

 

布野修司[滋賀県立大学教授]

 

ふの・しゅうじ

1949年生まれ/東京大学卒業/同大学院修了/建築計画/工学博士/著書に『曼荼羅都市――ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』『世界住居誌』『近代世界システムと植民都市』ほか/作品に「スラバヤ・エコ・ハウス」ほか/1991年学会賞(論文)受賞 2006年都市計画学会論文賞受賞

 

 

[司会]

新堀 学[編集委員会幹事/新堀アトリエ主宰]

 

松村秀一[編集委員会委員長/東京大学教授]

 

「未来」への視線

新堀――今回の特集は「住むための機械の未来」と題しましたが、まず住宅というところをスタートラインにさせていただきます。

 今回の特集の動機自体を先にお話しさせていただきますと、住宅といった瞬間に思考停止状態に陥ってしまうようなところに少し危機感を持っています。

 例えば、ステレオタイプではない住み方の話、あるいは逆に住宅本来が持っていた考え方の可能性のようなものが見失われているところがあれば、それを発見したいし、あるいは「もう住宅じゃないんだ。生きるという現場でありさえすればいいんだ」という根本的な話でもかまいません。今日は住宅をめぐる現状の輪郭のようなものを押さえていければと思っております。

石山――最近住宅に関して書かれた本のなかで感銘を受けたのは、面と向かって言いますが、松村さんの本[1]でして、非常に面白かった。未来ということに関してこの本が傑作だったのは、最後の未来というところでガンツ構法というのがあるのかなと思ったら、これはないわけで、歴史的に書いているけれども非常にバーチャルな、でも非常にリアルなことを書いておられることですね。

 私はあの本のなかで、未来に関しての考えが非常にリアルだということに逆にびっくりしましたが、本誌でやるべきことは、意識的に楽観性を帯びてどれだけ語り合えるかということに尽きるのではないかと思っています。

松村――人の借り物で恐縮ですけど、ガンツ構法というのはSFに出てくるある種のバイオで、菌の粉のようなものを混ぜると勝手にかたちができていくアリ塚のようなものです。それを自由に操れるおじさんが出てきて、それがガンツと言います。その技術が広がって、森林のなかに入っていき、ブルドーザーで土をかき分けて、その粉を混ぜるとある種のシェルターができていくという構法の話です。

石山――これまでの評論やアカデミックな論述の枠に入っていないのです。今のバーチャルとリアルという大テーマの境界線を、かなり的確にスタイルをつかんでいたと思います。

布野――基本的に私は建築を学んだ最初から住宅にこだわって考えてきたつもりです。いま松村さんと石山さんがお話しされたことで多少関係がありそうだと思うのは、500年ぐらいのスケールで見たときに住宅とその集合、あるいは都市でもいいですが、どう見えるのかということですね。リモートセンシングでインテルサットから俯瞰すると、500年間の人類の居住の実験を見ることができるきた。人類は、住居の形、都市の形をさまざまにうみだしてきたわけです。そこにさまざまな可能性を見る必要がある。

 そのかたちに可能性がないとすると未来はないのではないか。人類が生まれてから住居や集落、都市をつくってきて、そのかたちに答えがないとしたら、未来も読めないのではないか。私はこの間、街区組織とか都市組織、都市型住宅のかたちがどうなるか、ヨーロッパよりアジアについて、ずっと関心をシフトさせていったわけです。

 最大の問題はやはり工業化で、人類の壮大な実験をゴチャゴチャにしてしまったのがこの150年ですね。

石山――先ほどの話とつなぐと、布野さんの考え方は、リアリズムのようなことからおっしゃっていますが、私はそれはもう限界だと思っています。飛躍といったことではなくて、意識したノン(?)フィクションのようなことをどうやって書いていけるかということに尽きると思うのです。それでガンツ構法ということを申し上げたわけです。

 例えば、住むための機械というと、普通われわれ古いインテリゲンチャたちはル・コルビュジエや、せいぜいダイマキシオンハウスなどを考えますが、その系列のなかでいま布野さんがおっしゃったようなことのなかだけで考えていくと、おそらくもう未来がない。

 一番とんがった機械というのは、例えば宇宙船で、地球から離れてフッと浮いて孤立してやっているわけですから、あれに住宅のスタイルを重ね合わせることに意味があるかといったら、これは全然ない。

 宇宙船というものに大変な意味があるとしたら、少し不思議な言い方になってしまいますが、初めて宇宙船で宇宙に出ていったときに宇宙飛行士たちやシステムエンジニアが感じたであろう地球との一体感だと思います。離れてみて、初めて「やっぱり、ちょっとヤバいぜ」という感じになる。それは地球環境や、そういう空疎な概念ではなくて、体や思想そのものでわかってしまったようなことを、おそらく宇宙船があの人たちにもたらしたのだろうと思います。私はああいうものの意味を認めるとしたら、機械というものの未来の可能性はあるのではないかと思います。

 だから松村さんがガンツ構法のリアルとアン・リアルの境目のことを書こうとした意欲と、宇宙船の意味のようなものは、意外と近寄っているのではないかと思いますね。例えば、われわれの共通の友人である大野勝彦さんの仕事(セキスイハイムM1[以下、M1])も非常に大事な仕事でしたが、「工業化の果てに」という捕まえ方ではなくて、もう少し視点をずらしてみると、社会的に共有化されるハコをつくれるのかどうかです。これははっきり言って、資本主義ではつくれないですね。

 でも、あのビジョンは一瞬のビジョンだったと思いますが、今でもそれは追いかける可能性は十分にありすぎる。それは彼が言っているガンツ構法と同じなのでしょうね。要するに希望の先としては、ああいうものが共有できるかどうかで、おそらく見果てぬ夢に終わるけれども、そういうものを共有できるかということに、今は焦点が絞られているのではないかと思います。

 

技術とビジョンの射程

松村――石山さんの開放系技術の世田谷村というのは、今のお考えのなかではどのような位置づけになるのでしょうか。

石山――ベースは剣持伶の規格構成材理論です。でも、それのリアリティは今はものすごくありすぎるので、私はもう少しビジョンの方に行こうと思って、それで開放系技術だと考えています。

 それをクローズドシステムなのかオープンシステムなのかという議論に行ってしまうと、もう何も生まないから、私はひとつの理想として「すでにあるものであるのだ」ということを言おうとしました。

布野――『群居』の出発点は、大野さんのハコ(セキスイハイムM1)ですね。都市組織、街区組織と言いましたが、おそらくそちらに行かないといけないという感じはあったわけです。だから「群居」なんです。

 石山さんの話をすると、社会的に共有されるハコへ行きたかったけれど、自分のうちを村にしてしまわざるを得なかったんじゃないですか。古い言い方だけど、個から全体へか、システムか、という議論はずっとあったけれど、結局、自分の家を村にせざるを得なかった、行くところに行ってしまったなという感じがある。そうすると、あえて開放と言わないといけなくなる。世界が閉じてしまっては困る。そういうふうに見えていたのですね。

 しかし、ハコのシステムで世界を覆うというのは原理的には無理ですが、ハコが「群居」する、そのさまざまなかたちにまだ可能性があるという言い方をもう少し議論する必要があると思います。

 日本の住宅はどうか、世界の住宅はどうなっていくかという話だと、個々の建築家のイリュージョンやビジョンといったことで完結しない話がおそらくあるわけでしょう、今回の特集でもね。だから社会主義リアリズムでもなんでもいいけれど(笑)、システム的に考えたときに、例えば、宇宙船の話でいうと、それが本当に完結、自立するのかという問題があるわけです。

石山――そうではなくて、宇宙船という即物をイメージしたら、もうそれでお終いなのですよ。宇宙船というメディアをきちんと思わないと。メディアというよりも、それを使っている人間、宇宙船という機械を使っている人間の方に主体を持っていって、彼にとって宇宙船とか地球はなんなんだろうかという視点がないと、布野さんが抽象的だと感じているようなビジョンは絶対に生まれない。

松村――石山さんがそういう考えになったのはいつごろですか。何か変わったんですか。

石山――最近ではないですが、21世紀になってからではないでしょうか。

松村――『群居』が終わってからですか。

石山――そうですね。自分でキーワードとして開放系と言ってみて、逆に、それに考え方がついていったというか。それとバーチャルなビジョンと両方を等価に見ていかないと、一番最初に申し上げたように可能性は見えてこないだろうということです。

 住宅とは何かとか、都市型住居の可能性といっても、日本で戸建て住宅の未来なんてありっこないのですから。でも、そうではないビジョンを得ようと思ったら、違う方法で見ていかないといけない。だから、先ほど私が「どうしても意図的に楽天的にならざるを得ない」と申し上げたのは、そういうことではないかと思っています。

 

機械と世界と

新堀――少しM1の話をさせてもらいます。今回の特集で中村政人さんという芸術家の方にインタビューしましたが、彼はM1をもう一度使いたいと言っているアーチストで、先ほど言われた話に戻りますと、「M1は無目的なハコというコンセプトの部分に立ち返れる。その自由さがすごく大事だ。なおかつ、それで世界を覆っていくというビジョンが明確に見えるじゃないか」とおっしゃるのです。M1ができ上がってからこれだけ経って、そこにもう一度立ち返ってくる人がいるということは、私にとってはすごくエキサイティングなことです。

私たちは住宅といったときに、敷地が当たり前にあって、そこに対してお金を出して、買い物をしますというサイクルを前提にすること自体に、いま石山先生が言われたように限界感を感じている。そうではない、それこそ、もともとコルビュジエが「住むための機械」と言われたときにパッと広がった世界というのは、その機械を通じて私たちは世界に出ていけるのだという期待感があったような気がするのです。

石山――今おっしゃっている機械というのはもう少し具体的に言うと、コルビュジエのドミノみたいなことを言っているのですか。それともコルビュジエが言っているように、飛行機とか自動車というスタイルを言っているのですか。

新堀――それはコルビュジエ自体が両義的なので、私も厳密に「どちら」と言い切れないのですが、人間は裸でいるとただの裸のサルでも、例えば、裸のサルと世界の間に機械を置くことでこちら側が人間になるというような、先ほど言った一種のイマジナリーなひとつのレイヤーがある。バーチャルと言ってもいいかもしれませんが、それがいま言っている機械というものに一番近いのかもしれないと思います。少し苦しいのですが。

松村――住むための機械という、先ほどから石山さんがおっしゃっているようなビジョンと、その後、現実に進んでいったパッケージした住宅が商品化されていくということと込みで表現されているのではないですか。

新堀――そういうイメージはかなりありますね。「機械」のなかにすでに分裂があるというところはたしかにあります。

石山――私は「じゃあ機械って何だろうか」と言ったら、正確に繰り返しができる、生産できる、その機械をいうのであって、そのラインでいったら可能性はそれほどありません。

 機械はバーチャルなものを生むかもしれないし、要するに未来というのはある種のプロトタイプですね。それがビジョンじゃないとわれわれは生きていけないから、そのときにコルビュジエが言ったような飛行機やドミノなど、そういうものが相変わらず頭のなかにあったり、失礼な言い方にならなければいいですが、ハコとかそういうものがまずプロトタイプとしてあるということは、私はそれほど大事なことではないと思います。

布野――それは私も一緒ですね。大野さん自身も、はっきりおっしゃるかはわかりませんが、早い段階である種転向したわけですよね。地域工房のネットワークと言われ出したときには、おそらく限界をわかっていたからそういう攻め方をしようとされたと思っています。

石山――例えば、コンテナはコンテナリゼーションというシステム、流通というシステムで世界中覆い尽くしてしまっているわけですよ。

 

ハコを超えていく住居

布野――私はこの2,3年間は山本理顕や鈴木成文先生の51Cの議論に付き合わされてきましたが、そのレベルでは家族や社会的な編成が問題になります。国内的には今の高齢化の問題や少子化の問題のなかで、今のハコでよいのかという議論が大きいのですが、基本的に、一人の建築家が回答できる問題ではありません。

新堀――私もあまりないです(笑)。

布野――建築家が用意できるのは、空間の骨格、住区組織や街区組織の方です。空間は、住み手によって、簡単に乗り越えられるものです。建築家という職能の議論になるかもしれませんが、やはり何かを用意する役割がある。もしかすると、それが、新堀さんがおっしゃっている機械かなという気がします。

 もう少しわかりやすく言うと、例えば、スケルトンーインフィルのスケルトンでしょうか。インフラといってもいいですが、、要するに住宅的なある種のストラクチャーを提示する必要性があるでのはないか。スケールはいろいろあって、それは集合住宅だったり、街区レベルだったり、都市全体だったりしますけれど。

 だから「ひとつの住居のプロトタイプをつくって」という議論にはあまり乗りたくないというか、「そんなもの、好きに住めばいいんじゃない?」と思う。それこそ500年間を見ていたら、みんなそこで生きて死ぬわけです。一番大事なのは境界をめぐる所有の争いですよ。地形(ジガタ)が大事で、土地、建物の所有関係をどうセットするかによって上のスケルトンや空間形式が違ってくる。その型で新しい手があるかどうかは興味があります。

松村――布野さんはインドネシアの都市カンポン(密集市街地)を調べられたり、コアハウスやビルディング・トゥギャザーなどをやっていらした頃から、もう……。

布野――問題意識はほとんど変わりませんね。カンポンのように所有関係が「近代法」化されていない世界で、使用と所有がかなりグチャグチャで、家族関係にしてもかなりフレキシブルな場合には、要するにハコではない、M1ではないプロトタイプのようなものをいくらでも思いつくわけです。それは一体どういうものがあるんだろうという興味がずっとある。

石山――私も布野さんに連れていってもらってアジアのそういう地域を見たけれども、外れたところに行くと本当にインフラも何もなくて、例えば、チベットのようなところでは、皆モバイルとコンピュータを持って、変な、われわれより全然新しい生活をしています。インフラがないから、すごくフリーですよ。

 それがいいかどうかはまだわからない。でも、遅れて近代化を十分に達しなかった国の具体的な道というのは結構あるのではないかと思います。

 これは松村先生の理論というか、教えてもらっているデータで、要するにもうスペースは十分にあるわけですね。それを住宅と呼ぶか呼ばないかということだけであって、住宅とわざわざ呼んでみても可能性が全然ないと。

 違う呼び方はどうなのかわかりませんが、そういうバーチャルな概念のようなものを出さないと、私は住宅という言葉はそれほど未来を示していないのではないかと思います。「日本の場合は戸建て住宅がちょっとおかしいな」ぐらいのことは、誰でも常識で知っています。だからもし未来があるとしたら、住むための機械というより、古い言い方ですが、住宅という言葉を解体していかないと、本当にわれわれは未来が見えてこない。住宅と言った途端に何かイメージしてしまうのですね。

 

居住世界の変化と職能

松村――いわゆる建築の設計で生きていこうとする人たちは、今までのパターンですと、ほぼ必ず最初は住宅ですよね。例えば、『新建築』住宅特集であったり、最近では『カーサ ブルータス』など、住宅作家というのか何と言うのかわからないけれど、住宅というものを極めてはっきり対象としてとらえているでしょう。

 むしろ住んでいる人よりもはるかにパッケージしたものとしてとらえて、自分が育っていこうという、建築家の世界の方に非常に保守的に残ってくる概念のような気がしますね。それをやって次に行くぞという意味でも、その職能のあり方があるとしたら、そういうことではないかもしれないのに、職業として成立していくときの仕方がそうなるでしょう。

布野――東京の学生はわからないですが、京都あたりで見ていると、まず住宅の設計のちゃんすがあるかどうかという問題があって、例えば、滋賀県立大学の学生は内装や改造を頼まれて、セルフビルドで楽しそうにやっています。

松村――住宅を建てる前に、まず改造から入る。

布野――そういうところでトレーニングをしながら、地域と付き合うという方向には可能性があるかな。私が言っているタウンアーキテクトが地域の世話をするなかで、「建て替えをしますよ」といった住宅の仕事が転がり込むかもしれないという予感はある。

石山――教育のなかからでも絶対に生まれないですね。社会学を教えればそういう人が出てくるかというと、そうでもないと思いますし、私は基本的には教育の問題がものすごくあると思いますよ。住宅の教え方、生活の仕方。要するに教え方というか、伝達の仕方がどうもうまく行っていないというか、もう現実に抜かれてしまっているのに。教える側の問題でしょうね。当然学生も含めて、その循環がありますからね。だからアナザウェイではないですが、違うものを提示しないとだめなんだろうと思います。例えば、これは教えられて非常にびっくりしましたが、機械と思っていた、要するにバッキー・フラーの設計した家がもうすでに古色蒼然として見えるのはなんなんだろうか。ドミノを見ても「なに、このポンチ絵は?」と。そういう感じがすごく大事ではないかと思います。

松村――そういう感じはなんとなくわかりますね。

布野――『群居』で考えてきたことと、そんなにずれていなくて、例えば、東洋大学にいたときは学生が地域ビルダーとして生きていこうとする層が多くて、大野さんの地域工房ネットワークという発想が強かったのです。京都大学では、地域生活空間計画という講座に行ったのでコミュニティデザインリーグというものを始めました。そこではコンバージョンや需要の話もでてくる。建たなくなって建築家が生き延びるために三つぐらいの道がある。ひとつはコンバージョンや改造、メンテナンス、設備、そちらの方向に行くという手ですね。もうひとつは海外に行くことです。中国、インドはこれから市場が開く。これは学生に本気で言っていますが、「設計をやりたければ中国へ行け」と。事実、松原弘典君や迫慶一郎君はバンバン食えるようになっている。インドへ行ったほうがいいと思いますが、最後は「まちの面倒を見ることですよ」と。これがタウン・アーキテクト、あるいはコミュニティアーキテクトの道です。

 要するに地域社会が壊れてしまっている。地域社会と自治体をつなぐ役割が建築家にある。正直、そこで仕事を取らないと飯の食い上げですね。日本の産業構造が変わる大きな転換の過渡期に、一級建築士が何人いるか、建築学科の学生が何人出るか、それを考えると、まちづくりを担う職能としてなんとか食えないかという発想になっているのです。

石山――私はある意味で「住むための機械の未来」という設問の仕方が非常によいと思いました。例えば、環境の未来というと、「明るい未来」「環境が大事だ」って、誰でも言えますよね。でも全部浅いのです。次に構造の未来というと、いま構造は花盛りですよ。とんでもない変な構造が出てきて、なんでもありだという。能力のある構造家はワクワクしていると思いますよ。自分の計算能力をフルに使えるから。

 それから材料の未来というと自然だとか何とか言って、これも結構明るいです。われわれは明るく演技をしないとなかなかできないという、先ほど言いかけましたが、そのあたり分野の問題があるでのはないでしょうか。これは考えすぎているのか……。考えすぎたほうがいいと思いますが、環境の未来という言い方からは絶対未来は出てこない。地球環境って、誰でも気楽に言うのですが。

 

プロトタイプの使命

松村――最後にひとこと「やっぱりこれだ」という結びの言葉をおっしゃっていただきたいと思います。

布野――機械をシステムや空間的な装置と広げてもらえば、やることはいろいろあると思います。セルフビルドで自前で建てられる仕組みさえあれば、それはそれぞれでやればいいし、勝手にやってそれが非常に美しい秩序を持っていれば、例えば、きれいな集落ができるわけですよ。人類はそういうものをつくってきた。それがいびつだから変てこなものができてくる。そのいびつさは何かというと今の仕組みのすべてで、法律にしても、税制にしても、そのいびつな表現がそのままになっているわけだから、街や住まいがいびつになるのは当然といえば当然であるということですね。

 だから未来というのは「そこを変えましょう」ということになるけれど、それだと凡庸な結論だからおもしろくない。(笑)ちょっと考えさせて。これで負けるんだよ、いつも石山さんに。ようするに、どうやったら変えられるかが問題なんです、最初から。

石山――私は自分で実験住宅というか、住宅をつくったわけです。しかも自宅で。それを世田谷村と呼んでいます。これは理屈の固まりみたいにしてつくりましたが、生活し始めたらどうしても修正せざるを得ないのです。

 でもやってみると、私にとっては土をほじくり返してホウレンソウをつくって食べたりするリアリティというのは、理屈のリアリティを超えているのです。つまらない生活学や、そういうことの重要性を言っているのはないですが、私がいま痛感しているのは、未来があるとすれば、やはり私自身のそういうコモンセンスを変えていかなければいけないと。

 だから機械から有機体へとといったようなことではだめなのです。こちらががついていかないわけですから。日常生活が大事だということを言っているわけではなくて、私たちのほうに巣くっている、そういう性向です。住宅を論じていくと、日本に独特の、日本だけにしか通用しない論理でおそらくいろいろな議論がなされてしまっている。日常的にいろいろな国の人と会ったり、いろいろな国の若い人と会ったりすると、今までピュアなものとして感じてきた論理や歴史観が、日本の特殊例だったということを逆に教えられるというか、私はそちらのほうが重要だという気がしますね。

布野――結局、これも紋切り型ですが、やはりやれるところからやるということですね。

 『群居』でずっと考えていたようなことですが、「世田谷村」でもなんでも、その1戸が2戸になって、2戸が4戸になるところのルールで何か実践的なテーマを見つけてということですね。抽象的に環境問題といっても、なかなかかたちにならない。やはり何かモデルをつくって、失敗して、また失敗して、それでもまだやるべきなんでしょうね。

 プロトタイプというのは評判が悪いのですが、何か実験的につくって、それをまねする人が出ればプロトタイプになるわけでしょう。やはり若い人はそういう提案に挑戦してほしい。

新堀――本日はどうもありがとうございました。

200729日 建築会館にて

 

参考文献

1――松村秀一/『住に纏わる建築の夢――ダイマキシオン居住機械からガンツ構法まで』/東洋書店/2006.12









カンポンとコンパウンド Kampung and Compound、traverese22、202203 


https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/270130

 traverese22 

カンポンとコンパウンド

Kampung and Compound

 

Shuji Funo

布野修司

 

 「ある都市の肖像:スラバヤの起源 Shark and Crockodile」(traverse19,2018)で予告した著作をようやく上梓することができた。タイトルは、『スラバヤ物語―ある都市の肖像 時間・空間・居住』(仮)としていたが、最終的に『スラバヤ 東南アジア都市の起源,形成,変容,転生―コスモスとしてのカンポン 』(京都大学学術出版会,2021年)(図①)となった。

タイトルは一般に編集者すなわち出版社の意向を尊重することになるが、本書のサブタイトル「コスモスとしてのカンポン」は、京都大学学術出版会の鈴木哲也編集長(専務理事)の強い薦めがあった。本書は鈴木さんと組んだ11冊目の本になる。鈴木さんには『学術書を書く』(鈴木哲也・高瀬桃子共著,2015)『学術書を読む』(2020)という2冊のベストセラーがある。『学術書を読む』には、「良質の科学史・社会文化史を読む」「「大きな問い」と対立の架橋」「古典と格闘するー「メタ知識」を育む」「現代的課題を歴史的視野から見る」という「専門外」に向けての4つの指針が挙げられている。是非手に取ってみて欲しい。


『スラバヤ』は、建築計画学を出自とする著者の建築計画学批判に関わるひとつの決算の書(解答書)である。19791月、はじめてインドネシアの地を踏んでバラックの海と化したカンポンに出会い、戦後日本において建築計画学が果たした役割を思い起こしながら、ここで求められているのは日本と同じ解答ではない、と直感した。以降、毎年のように通い、調査を継続してきたのがスラバヤであり、この40年間に学んだことの全てを盛り込んだのが本書である。スラバヤで活躍したオランダ人建築家の近代建築作品など、スラバヤ、インドネシアそして東南アジアの住居・集落・都市についての基本的情報は収めてある。

「ある都市の肖像」のグローバルな射程については「結」に記した。「時間―空間―居住」「起源・形成・変容・転生」の重層的構成、長めの注カスケードCascadeによる時空の拡張、QRコードによる動画の組み込み(図②)など、起承転結型の学術書を超える挑戦的試みを評価して頂ければと思う。

 

コンパウンド

 ところで、『スラバヤ』がキーワードとする「カンポンkampung」とは、インドネシア(マレー)語で「ムラ」という意味である。「カンポンガンkampungan」というと「イナカモン」というニュアンスで用いられる。そして、カンポン(ムラ)は都市の住宅地について用いられる。「都市村落urban village」というのがぴったりである。

 このカンポン、実は、英語のコンパウンドcompoundの語源だという。 コンパウンドには通常2つの意味がある。第1は,他動詞の「混ぜ合わせる,混合する」,形容詞の「合成,混成の,複合の,混合のcomposite,複雑な,複式の」である。そして,第2は,名詞で「囲われた場所」である。

英英辞書を引けば、compoundnoun)は,an area surrounded by fences or walls that contains a group of buildingsと簡潔に説明される。フェンスや壁によって囲われたsurrounding領域がコンパウンドである。英語で「包む」は、wrap, pack, encase・・・、「取り巻く」はsurround, enclose, circle…などがあり、それぞれニュアンスが異なるが、コンパウンドについて考えることは、<我々(建築)を包み、取り巻くもの>を考えることになる。人間社会を構成する最小の居住単位としての1軒あるいは何軒かの住居の集合体がコンパウンドである。英語には、コンパウンドの他、ホームステッドhomested、セツルメントsettlementが用いられる。他にも,移動性の高い場合はキャンプcamp、さらに,エンクロージャーenclosure,クラスターcluster,ハムレットhamlet,そしてヴィレッジvillageなどがある。

 

カンポン 

学位論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ーーーハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学,1987年)のエッセンスを一般向けにまとめた『カンポンの世界 ジャワの庶民生活誌』(1991)を書いた著者として、その不明を恥じたが、カンポンがコンパウンドの語源であることは、東京外語大学の椎野若菜さんから「「コンパウンド」と「カンポン」―居住に関する人類学用語の歴史的考察―」(『社会人類学年報』262000年)という論文を送って頂いて初めて知った。

椎野論文は、サブタイトルが示唆するように,人類学者として「居住」に関する英語の語源を確認することを目的としている。そして、その骨子は,コンパウンドは,マレー農村を指す「カンポン」を語源とする説が有力で,その英語[1]への借入過程には,西欧諸国の植民地活動の軌跡が関わっている,ということである。


 オックスフォード英語辞典OEDは,コンパウンドは植民地時代以降の慣例にみられるとし,異説を紹介した上で,マレー農村を意味するカンポンがインド英語Anglo-Indian Englishを経て伝わったとするユールとバーネルYule, H. and Burnel, A.C.(1903, William Crooke(ed.)[2]の説を紹介している。コンパウンドは,(1)囲い込み(enclosure,囲い込まれた空間,あるいは,(2)村(village),バタヴィアにおける「中国人のカンポン」のような,ある特定の民族(nationality)によって占められた町(town)の地区を意味する。(2)の例として,1613年のポルトガル人の著書にcamponという綴りが見られるという[3]

 ポルトガル語のcampoの転訛という異説[4]を含めた議論の詳細は『スラバヤ』(Space FormationⅠデサ/村落4カンポンとコンパウンド)に譲ろう。カンポンについて考えることは、世界中のコンパウンドについて考えることに繋がるのである。

 

デサ

現在のインドネシアの行政単位は、農村部(カブパテンkabupaten)はデサdesa(行政村)である。農村部も都市部(コタマジャkotamadya)も下位単位クチャマタンkecamatanからなり,農村部ではデサがクチャマタンの構成単位となる。デサはさらに下位単位ドゥクーdukuhによって構成される。都市部では,クルラハンkelurahanがクチャマタンを構成し,その下位単位となるのがRW(エル・ウェー)(ルクン・ワルガRukun Warga)とRT(エル・テー)(ルクン・タタンガ)である。

デサは,もともと,ジャワ,マドゥラの村落を指す言葉であった。14世紀に書かれたマジャパヒト王国の年代記『デーシャワルナナ』(『ナーガラクルターガマ』)は「地方の描写」という意味である。サンスクリット語で都市コタkotaに対する地方、村落がデサだから、その歴史は古い。それに対して,スンダ(西ジャワ)では,クルラハンが村落という意味で用いられていた。そして,カンポンというのはカルラハンを構成する単位であった。

ジャワの伝統的集落デサについては、『ジャワ・マドゥラにおける現地人土地権調査最終提要』(以下『最終提要』)全3巻(18761889年)[5]という大きな資料がある。土地権についての調査を主目的とするものであったが,調査項目総数は370に及ぶ[6]。これを基にした19世紀以降のデサの特質についての議論も『スラバヤ』に譲るが、結論だけ記すと、共同体的な要素を濃厚に残してきたジャワのデサは,植民地化の過程において、むしろ、その共同体としての特性を強化してきた可能性が高いということである。20世紀初頭の植民地政府の原住民自治体条例によって再編成されたデサは,共同体(ヘメーンシェプgemeenschep(ゲマインシャフト))ではなく、ヘメーンテgemeente(自治体)として規定されている。しかし,資本制生産様式との接触が伝統的な社会構造を弱体化させるのではなく,むしろ共同体的性格は変形強化されたのである[7]

 

隣組と町内会

  このデサが、デサ的要素を色濃く残しながら,都市において再統合されたものがカンポンである。C.ギアツは、ジャワ社会を,デサ,ヌガラ(国家 政府官僚制),パサール(市場)をそれぞれ中核とする3つの社会層からなるとして、インドネシアにおける都市化の歴史を構造的に解き明かすのであるが、都市化の過程で都市に再統合された居住地をデサと区別することにおいて,カンポンと呼ぶ。カンポンは,基本的に「都市村落」であるというのがC.ギアツである。

 C.ギアツは,「カンポン・タイプの居住区はジャワのどこでも都市的生活の特性をもつが,同時に何らかの農村的パターンの再解釈を含んでいる。より密度高く,より異質性が高く,よりゆるやかに組織化された都市環境へ変化したものである。」という。 C.ギアツは,カンポン・セクターの地図を示している(図③)。ブロックを囲むように並ぶ白い四角がレンガ造・石造の家であり,黒い点がバンブー・ハウスである。

 そして、実に興味深いのは、このカンポンの住民組織と日本の隣組・町内会制度が共鳴を起こしたことである。

日本は大東亜戦争遂行のための総力戦体制を敷くために,戦時下の大衆動員の施策として,内務省は19409月に「部落会・町内会等整備要綱」(内務省訓令17号)を発令し,隣保組織として510戸を1組の単位とする隣保班を組織することを決定する。この隣組・町内会制度は,日本軍政下のジャワにも導入される。この隣保組織のありかたは,カンポンのコミュニティ組織として戦後にも引き継がれていくことになるのである。


日本軍軍政当局が隣組tonarigumi制度を導入したのは太平洋戦争末期になってからにすぎない。1944111日に,全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣保組織を設立することを発表し,これに続いて「隣保制度組織要綱」(Azas-azas oentoek Menjempoernakan Soesoenan Roekoen Tetangga)(『KANPOONo.35-2604)が出されるのである[8]

軍政監部は,1月から数ヶ月間,各地で説明会や研修会を各地で開催し,モデル隣組がつくられた。研修会では,江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も行われたという。一般住民に対しても,隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロヨンの精神に根ざすこと,また,イスラームの教えにも一致するものであることなどが宣伝された。組織は瞬く間にジャワ各地に広まっていった。19444月末の調査に拠れば,ジャワ全域の住戸数は8967320戸,隣組数は508745組,字常会数は6477764,832),区の総数は19498であった(表Ⅳ2③)。隣組は平均17.6戸,区(デサ)は平均33字常会ということになる。隣組はジャワの隅々にまでつくられたことになる(倉沢愛子(1992)『日本占領下のジャワ農村の変容』草思社。)。

 

RT/RW


「隣保制度組織要綱」は,隣組を「施策の迅速で適正な浸透ならびに深刻な住民相互間の対立摩擦の削除をおこない,民心を把握し住民の総力をあげて戦力の維持,存続をはかるための,行政単位に基づき行政機関と表裏一体である強力で簡素な単一組織」と規定する(吉原直樹(2000)『アジアの地域住民組織―町内会・街坊会・RTRW』お茶の水書房)。隣組tonarigumi,字aza,常会joukaiは,日本語がそのまま用いられるが,隣組すなわちルクン・タタンガRTは,「ジャワ民族において以前から受け継がれている相互扶助精神に基づく住民間の互助救済など共同任務の遂行に勤めなければならない」(第13項)という。 ルクンとは,ジャワの伝的概念である「調和,和合」を意味する。タタンガは,隣人である。相互扶助精神とは,ジャワではゴトン・ロヨンと呼ばれ,インドネシアの国是とされている。

太平洋戦争末期,わずか1年余りの期間にジャワ全島に及んだ隣組組織が現在のRTの起源である。日本では,戦後1947年になって,連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって隣組制度は禁止される。隣組制度が総力戦体制,体制翼賛体制を支えた「支配と強制」の装置となったが故に禁止する,というのである[9]

一方,インドネシアの隣組制度はどうなったのか?これも詳細は『スラバヤ』に委ねざるを得ないが、RTそして,字azaはルクン・カンポンrukun kampung=airka’エルケーRK’として存続する。税の徴収,住民登録,転入転出確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サーヴィスなどの役割を果たすのである。ただ,公式な政府機関とはみなされてこなかった。1960年にRT/RWに関する地方行政法(Peraturan Daerah Kotapradja Jogjakarta no.9 Tahun 1960 tentang Rukung Tetangga dan Rukun Kampung)が施行されたが,基本的には引き続き,RT/RKを政府や政党からは独立した住民組織として認めるというものであった。RT/RKを政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは,1965930日のクーデター以降の新体制になってからであるSullivan, John (1992) Local Government and Community in Jawa: An Urban Case Study, New York: Oxford University Press.)。

RT/RKは次第に独立性を失っていくが,ひとつの画期となるのは1979年の村落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。地方分権化をうたう一方,中央政府権力の村落レヴェルへの浸透を図るものであった。大きな変化として導入されたのがルクン・ワルガRWという,RTをいくつか集めた新たな近隣単位である。この時点で、RT/RWは,国家体制の機関として組み込まれたのである。

インドネシアの場合,以上のように,強制的に組織化されたRT-RWではあるけれど,自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,それは再び開発独裁体制の成立過程で,再び,国家体制の中に組み込まれることになるのである。カンポンの生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンとなるのは,カンポンに限らない共同体の二面性である。

 

<包むもの/取り囲む>ものという言葉は、ある領域の境界、そしてその外部と内部をめぐる普遍的問いを突きつける。日本の隣組-町内会制度は,戦後改革の過程で解体されてきたように思える。しかし、災害がある度に、そしてCOVID-19のコロナ禍において、共同体における相互扶助と内部規制という二重の機能が孕む基本的問題は問われ続けているのではないか。



[1] そもそも英語の成立自体が興味深い。英語は,古英語,中英語,近代英語に時代区分されるが,中世中期英語以降,ラテン語・フランス語をはじめとして,世界中の諸言語から借入を行っており,英語本来の言葉は20パーセントに満たないという。それ故,コンパウンドの語源もさまざまに詮索されるが,OEDOxford English Dictionary)に依れば,第1義は,中英語(古英語,中英語,近代英語に区分される)の時代から存在するのに対して,居住に関わる第2義は,17世紀後半に英語に借入された,という。

[2] Hobson-Jobson: A Glossary of Colloquial Anglo-Indian Words and Phrases and of Kindred Terms, Etymological, Historical, Geographical and Discursive, Delhi, Munshiram Manoharalal.

[3] Manuel Godinho de Erédiaor Emanuel Godinho de Erédia (16 July 1563 – 1623)‘Description of Malaca, Meridional India, and Cathay (Declaracam de Malaca e da India Meridional com Cathay)’1613).

[4] ポルトガル語campanhacampoの転訛,フランス語のcampagne(country田舎)の転訛という異説もある。フランス語起源説は根拠が明確ではなく,似たような言葉はない。ポルトガルの使用例campanaは,近代ポルトガル語ではcampaignか,campagna(ローマ周辺の平原)であり,使用例champ(1573年の旅行記)campo(イタリア人の文献)は,「広場」「マイダーンmaidan」の意味で用いられており,居住地の意味はないという。ただ、ユールとバーネルは,カンポンというマレー語がポルトガルとの接触以前から存在していたかどうか確かではなく,ポルトガル語の転訛である可能性を全く否定はできないとする。すなわち,ポルトガル語campoははじめcampの意味をもち,それから,囲われた地域,の意味をもつにいたったか,ポルトガルcampoカンポンという2つの言葉は,相互作用した可能性があるとする。カンポンという言葉の語源やポルトガル接触以前の存在は確認できず,ユールとバーネルもこの点は実証できていない(椎名論文註(8))。

[5] Eindresume van het bij Guevernments Besluit dd.10 Juni 1867 No.2 bevolen Onderzoek naar de rechten van den Inlander op den Grond op Java en Madoera, zamengesteld door den chef der Agdeeling Statiseiek ter Algemeene Secretarie.  1830年以降,ジャワ(マドゥラ)は,中部の王侯領を除いて,全てオランダの直轄領となっていたのであるが,植民地政庁は,この直轄領内の808村を選んで186869年にはじめて本格的な土地調査を実施した。その結果まとめられたのが『最終提要』(18761889年)である。土地調査の大きな目的は,私企業プランターの進出を可能にする方向を含めて,土地所有権および利用権を確保することである。その調査は,結果を1870年における農地法の制定に結びつけようとするものであった。

[6] 内藤能房「『ジャワ・マドゥラにおける原住民土地権調査最終提要』全三巻について」,『一橋論叢』,第76巻 第4号,1976年。

[7] まず指摘されるのは,デサにおいて土地の「共同占有」の形態が数多くみられることである。『最終提要』は耕地の占有形態を「世襲的個別占有」と「共同占有」とに大きく二分しているが,「共同占有」形態とは,耕地の使用の主体は個人であるが所有権はあくまでデサに属し,個人による相続や処分が不可能な占有形態である。『最終提要』に依れば,「共同占有」の形態が集中するのが中東部ジャワである。「共同占有」の形態においては,その「持ち分」保有者となる資格が厳しく規定されているのが普通であり,その資格を満たすことにおいてデサの正式のメンバーとして認められる。持ち分については定期割替えが行われることが多い。こうした耕地の「共同占有」形態に象徴される共同体規制は林野についてもみられる。ただ,林野の場合は対外的な規制のウエイトが大きく,デサの構成員については幾分ルースである。

[8] 「郷土防衛,経済統制等の組織および実践単位とし,地方行政下部組織として軍政の浸透を計るものもので,ジャワ古来の隣保相互扶助の精神(ゴトン・ロヨン)に基き住民の互助共済その他の共同任務の遂行を期する」ことを目的とし,「デッサ内の全戸を分ち概ね十戸乃至二十戸の戸数を以って一隣組とする,隣組に組長を置くがその選任は実践的人物を第一とする,隣組は毎月一回以上の常会を開く。さらに字(カンポン)に字常会を設け毎月一回以上の常会を開く,字常会は字長および隣組長その他字内の有識者をもって構成する」という組織化を行うものであった(倉沢愛子(1992))。

[9] GHQがまとめた『日本における隣保制度―隣組の予備的研究』(1948)(GHQ/SCAP, CIE, A Preliminary Study of the Neighborhood Associations of Japan, AR-301-05-A-5, 1948(吉原直樹(2000))。)は,「隣保組織の歴史的背景」(第1章)を幕藩体制下の「五人組」,さらには大宝律令(701年),養老律令(718年)が規定する「五人組制度」まで遡って振り返った上で,「1930年代以降における隣保組織の国家統制」(第2章)そして「東京都の隣保組織」(第3章)を具体的に検証したうえで,「隣保組織の解体」(第4章)を結論付けている。

2022年8月1日月曜日

パネリスト:2007年度日本建築学会大会(九州)特別研究委員会研究協議会「近代の空間システムと日本の空間システムの形成と評価」,「建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えて」,福岡大学8月29日

 パネリスト:2007年度日本建築学会大会(九州)特別研究委員会研究協議会「近代の空間システムと日本の空間システムの形成と評価」,「建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えて」,福岡大学8月29日