韓三健、出雲建築フォーラム、空間,空間社,199402
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2022年8月11日木曜日
バンブーハウス,at,デルファイ研究所,199307
バンブーハウス,at,デルファイ研究所,199307
バンブーハウス バリ
布野修司
バリのかっての王国のひとつ、ギャニャールを通りかかったところ、アルン・アルン(広場)いっぱいに仮設の建物が建設されつつあった。聞けば、プリ(王宮)の長が亡くなって、その葬式会場の準備だという。真ん中の広場を四角く囲うように細長い切妻の棟が並ぶ。桟敷である。桟敷といっても本格的で、階段がきちんと一定の間隔でつけられ、桟敷そのものも階段状になっている。仮設とはいえ、古来、一定の形式をもって建てられてきたに違いない、と直感されるつくりであった。際立つのは、屋根を除けば全て竹でつくられていることだ。継手仕口などもきちっとしているのである。
仮設の建造物に竹が用いられることは日本でもあるが、東南アジアでは、一般の住居に竹を使うことも多い。われわれの眼からすれば、一般の住居もまた仮設的に見えるのかもしれないのであるが、竹を建築材料に用いること、それも柱梁など構造材に用いることは、東南アジアでは珍しくない。それどころか、屋根も扉も何も竹でつくられた家もある。やはり、バリに全て竹で出来た住居が建ち並ぶ集落がある。キンタマニへ行く街道沿いの集落である。
竹葺きの屋根は、割って先をとがらしたものを重ねていく。壁はバンブー・マット。日本だと雨仕舞いや隙間風が気になるところだけれど熱帯の気候では快適そうである。
東南アジアでも竹は極めて身近かな素材である。建材としてのみならず、様々な用途で用いられるのは日本と同じである。再びバリの例で言えば、儀礼に欠かすことのできない竹のウンブル・ウンブル(幡)がそこら中に建てられているし、日常の用具にも竹はふんだんに用いられているのである。
石の文化に対する木の文化という対比がよく用いられるが、もうひとつ竹の文化を重ね合わせて考えることができる。明らかに竹の文化といえる広がりが東南アジア世界にあるのである。
竹はヨーロッパにはない。極めて少ない。北アメリカ、オセアニアには少ない。南アメリカには多少ある。竹と言えばアジアとアフリカである。アジアといっても東アジアと東南アジア、南アジアである。東南アジアの竹をみると日本と明らかに違う。日本のように一本一本バラ立ちするのではなく、株のように固まって生えるのである。竹薮といっても随分景観が異なるし、竹に対する感覚も竹製品などを見るとずいぶん違うようだ。
日本にも竹で出来た建物はないかというと京都にあるという。竹について様々な文化を育んできた日本だから、竹を構造材に用いる例があっても不思議はない。ただ、気候が合わないし、耐用年限の問題もある。
やはり、オール・バンブー・ハウスは、東南アジアのものではないか。竹の成長は早い。伸び盛りには一日に一メートルも伸びる。そうした意味では無限の材料といっていいのである。
2022年8月10日水曜日
建築現象の全的把握を目指して: 吉武計画学の過去・現在・未来?、建築雑誌、2003?
建築現象の全的把握を目指して:
吉武計画学の過去・現在・未来?
布野修司(京都大学大学院)
吉武計画学とはいったい何か、その成果は如何に継承され、また、今後どう展開しようとしているのか。ありきたりの追悼文ではなく、その総括を、というのが編集部の依頼である。筆者は、東京大学吉武研究室最後の大学院生であった。ともにその学の成立を担った青木正夫・鈴木成文両先生以下綺羅星のごとく並ぶ諸先輩ではなく指名をうけたのは世代的に距離があるからである。また、ともに建築計画学の成立に大きな役割を果たした西山(夘三)スクールの拠点であった京都大学に奉職していることもある。とてもその任にあらずとは思うけれど、吉武計画学の継承発展は日々のテーマである。その総括をめぐっては筆者も編集に携わった『建築計画学の軌跡』(東京大学建築計画研究室編、1988年)があり、それ以上の新たな資料を得たわけではないが、以下は、いずれ書かれるべき吉武泰水論のためのメモである。
吉武計画学がスローガンとしたのは「使われ方の研究」である。ベースには西山夘三の「住まい方の研究」がある。西山の住宅調査の手法を不特定多数の利用する公共的空間に拡大しようとしたのが吉武計画学である。使用者(労働者)の立場に立って、という視点は戦後民主主義の流れに沿ったものであった。
第2に、吉武計画学を特徴づけるとされるのは「施設縦割り研究」である。また、「標準設計」である。吉武計画学の成立を中心で支えた研究会LV(エル・ブイ)のごく初期に、住宅、学校、病院、図書館といった公共施設毎に情報を集め、それぞれに集中する専門家を育てる方針が出されている。「標準設計」は、「型計画」の帰着でもあるが、戦後復興のために要請される公共建築建設の需要に応えるためにとられた研究戦略であった。また、各施設について多くの専門家が育つことによって一大スクールが形成されることとなった。
第3に、吉武計画学には「平面計画論」というベースがある。つけ加えるとするともうひとつ「生活と空間の対応」に着目し平面を重視した。素朴機能主義といってもいいが、その平面計画論には、人体にたとえて、骨格として建築構造、循環系としての環境工学に対して、その他の隙間を支える空間の論理を組立てたいという、すなわち建築計画という分野を学として成立させたいという意図があった。吉武先生の学位論文は知られるように規模計画論である。数理に明るいという資質もあるが、まずは論理化しやすい規模算定が選択されたのであった。しかし、その最初の調査が銭湯の利用客に関する調査であったことは記憶されていい。
以上のような吉武計画学の成果はやがて「建築設計資料集成」という形でまとめられる。体系化以前の段階では、フール・プルーフ(チェックリスト)にとどまるのもやむを得ない、というのがその立場であった。
吉武計画学の展開に対して批判が出される。ひとつは「作家主義」か「調査主義」か、という問いに要約されるが、創造の論理に展開しうるのかという丹下研究室による批判である。また、あくまでも「設計」に結びつく研究であることを主張する吉武研究室に対して、性急に設計に結びつける以前に、縦割り研究には地域計画が抜けているという西山研究室の批判である。そして、研究室内部からの空間論の提出である。さらに、吉武計画学には建築を組み立てる建築構法さらには建築生産に関わる論理展開が欠けている。いずれも調査、研究、設計、計画の全体性に関わる吉武計画学の限界の指摘である。筆者が研究室に在籍した1970年代初頭に既に、上記のような限界は明らかであった。オープンスクールの出現や様々な複合施設の登場に対して縦割り研究や制度を前提にしての使われ方研究の限界は充分意識されていた。
まず確認したいのは、戦後の出発点で行われた調査が、銭湯調査を含めて今日でいう都市調査を含んでいることである。都市のあり方を明らかにする中で公共施設のあり方が探られようとしたのであって、逆ではない。縦割り、標準設計、資料収集は時代の産物であり、少なくとも最終目的ではなかった。
また、当初から求められたのは単なるチェックリストではなく、空間と人間の深い次元における関わりである。読まされたのは専ら文化人類学や精神分析、現存在分析に関する書物であった。読書会を組織するように命じられたのだが、わずかな人数の会に毎週熱心に出席された。後に夢の分析に繋がる関心は既にあり、文学作品による空間分析もわれわれに既に課されていた。建築に関わる諸現象の本質をどう捕まえるかという関心は当初から一貫していたという強い印象がある。
調査はどうやるんですか?といういかにもうぶな質問に、「とにかく一日中現場にいなさい、そして気のついたことは何でもメモしなさい。あらゆるデータは捨てては駄目です」、という言葉が今でも耳に残っている。
京都大学大学院助教授。生活空間設計学専攻。主な論文・著作物に、『カンポンの世界』,パルコ出版,1991:『住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論』,朝日新聞社,1997年:『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』,建築資料研究社,2000年:『布野修司建築論集Ⅰ~Ⅲ』,彰国社,1998年:『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学、学位請求論文),1987年
日本建築学会賞受賞(1991年)』など。
2022年8月9日火曜日
アジアの都市住居集落研究,学士会会報,1993年ーⅢ
アジアの都市住居集落研究,学士会会報,1993年ーⅢ
アジアの都市集落住居研究のことーーー人間居住の多様な形態
布野修司
今年でもう15年東南アジアを歩いている。東南アジアといってもここ数年は専らインドネシア、ジャワが中心である。地域計画とくにハウジング(住居)計画が専門で、ヒューマン・セツルメント(人間居住)の形態に興味がある。15年とはいえ、その成果は微々たるもので、インドネシアの大都市のカンポン(都市内集落)のフィールド・サーヴェイをまとめたぐらいである。多少とも一般の眼に触れるものとして、『カンポンの世界』(パルコ出版 一九九一年)がある。
●カンポンとマルチ・ディメンジョナル・ハウジング
インドネシアに限らず、発展途上国では、深刻な居住問題を抱えているのであるが、先進諸国におけるこれまでの計画理論では必ずしもうまくいかない。そこで様々な工夫をしたハウジング(住宅供給)が各国で試みられるのであるが、インドネシアでも同様である。カンポンの調査研究を通じて、住宅計画の理論を練り上げるのがこれまでの主要なテーマであった。そして、その成果は、共同研究のカウンターパートであったスラバヤ工科大学のJ.シラス教授を中心として実践に移されつつある。
マルチ・ディメンジョナル(多次元)・ハウジングとJ.シラス教授はそのプロジェクトを呼ぶのであるが、いささかユニークな集合住宅のプロジェクトである。その特徴は、共用スペースが主体になっているところにある。具体的に、リビングが共用である、厨房が共用である、カマール・マンディー(バス・トイレ)が共用である。もう少し正確に言うと、通常の通路や廊下に当たるスペースがリッチにとられている。礼拝スペースが各階に設けられている。厨房は、各戸毎に区切られたものが一箇所にまとめられている。カマール・マンディーは二戸で一個を利用するかたちでまとめられている。まとめた共用部分をできるだけオープンにし、通風をとる。
これだけではイメージできないかもしれないのであるが、日本や西欧の集合住宅とは随分違う。専有するのは、一室か二室で、あとは共有する立体的な「コアハウス」である。一九七〇年代から八〇年代にかけて世界中で盛んに実施された「コアハウス」プロジェクトというのは、簡単な水回りの設備とワンルームだけを供給し、後は、セルフ・ビルド(自力建設)で建てる形のものであったが、それを立体化したイメージだ。
単なるシェルターだけではない。経済的な支えもなければならないし、子供の教育援助も組み込まれている。コミュニティーの質も維持されなければならない。マルチ・ディメンジョナル・ハウジングというのは、経済的、社会的、文化的、あらゆる次元を含み込んだハウジングという意味なのである。
具体的には、ジャカルタのプロガドン地区、スラバヤのデュパッ地区とソンボ地区の三ヶ所でプロジェクトが進行中である。インドネシアでは、こうして新しい形の集合住宅建設が本格化しようとしている。その先端をきっているのがJ.シラス教授である。一九九一年、彼は国際居住年記念松下賞を受賞したのであるが、一九九二年は、スラバヤ市が一九八六年のアガ・カーン賞に続いて、国連の人間居住センター( )の賞を受賞した。その評価はグローバルに高い。教えを乞うてきたものとしてもうれしい限りである。
●ロンボク島のチャクラヌガラ
ところで、ここ二年ほどロンボク島へ通いだした。チャクラヌガラという実にきれいな格子状の街路パターンをした都市を発見したからである。
ロンボク島というと、バリ島の東隣にある小さな島である。知られるように、バリ島とロンボク島の間にはウォーレス線が走る。A.R.ウォーレス(一八二三年~一九一三年)は、鳥類、哺乳類の分布をもとに地球上を六つの地区に分割したのであるが、その東洋区とオーストラリア区の境界が二つの島の間にあり、その線の西と東では、植物も含めて生物相に大きな断絶がある。
そのウォーレスの『マレー諸島』(註1)が最近訳されたのであるが、その中で全四〇章のうち二章がロンボク島に割かれている。バリおよびロンボクという章がもう一章あるからかなりのウエイトである。その一章(第一二章)は「ラジャ(王)はどのように人口調査をしたか」という面白い話だ。聖なるクリス(剣)を造るために、正確に人数分の針を供出しないと災いは去らないといって、針を集めるのである。
ところで、ロンボク島が注目される理由が、少なくとももう一つある。小さな島であるにも関わらず、西部と東部で際だった文化的差異があることである。すなわち、バリ・ヒンドゥーの影響を受けて、ヒンドゥー教徒が多く住む西部地域と敬虔なイスラム教徒が住む東部地域がある、イスラーム化されたインドネシアで珍しいことなのである。
ヒンドゥー教徒の住み方とムスリムの住み方の比較に興味をもって出かけたのであるが、思いもかけない発見となった。調べてみると、チャクラヌガラは、バリのカランガセム王国の植民都市であり、その都市理念をモデルとして建設されたと推測される。興味深いことに、そのチャクラ・ヌガラの宮殿から椰子の葉に書かれた一冊の文書(ロンタル文書)、が発見されたという事実がわかった。ジャワのヒンドゥー王国の年代記で、ナガラ・クルタガマという。一八九四年一一月一八日のことだ。そこには、一四世紀におけるジャワの王都の記述がある。チャクラヌガラを調べれば、ヒンドゥーの都市理念が具体的に明らかにできるのではないかというのが直感であった。
「都城」(王権の所在地としての「都」そして城郭をもった都市、その二つの性格を合わせ持つ都市)について、それを支えるコスモロジーと具体的な都市形態との関係を、アジアからヨーロッパ、アフリカまでグローバルに見てみるといくつかはっきりすることがある。
第一、王権を根拠づける思想、コスモロジーが具体的な都市のプランに極めて明快に投影されるケースとそうでないケースがある。東アジア、南アジア、そして東南アジアには、王権の所在地としての都城のプランを規定する思想、書が存在する。しかし、西アジア・イスラム世界には、そうした思想や書はない。
第二に、都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、実践的、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ない。理念型と生きられた都市の重層が興味深い。また、都市構造と理念型との関係は時代とともに変化していく。
第三に、都城の形態を規定する思想や理念は、その文明の中心より、周辺地域において、より理念的、理想的に表現される傾向がつよい。例えば、インドの都城の理念を著す『アルタシャストラ』(註2)や『マナサラ』(註3)を具体的に実現したと思われる都市は、アンコールワットやアンコールトムのような東南アジアの都市である。
チャクラヌガラは、この第三の例になるのではないか、と少しづつ検討を始めているのである。
●高床式住居
東南アジアの都市や集落や住居のありかたを見てきて、最近では、中国、インドの様子が気になりだしている。東南アジアというのは、何と言っても、中国とインドという二大文明の大きな影響下にあった。湿潤アジアだけでなく、乾燥アジアを見たくなっている。また、イスラーム世界の居住様式も気になる。インドネシアは、世界でも最大のムスリム人口を抱える国だからである。
東南アジアの伝統的住居というと、高床式住居である。もちろん、例外の地域があって、島嶼部だとジャワ、バリ、ロンボクは、地床式である。諸説あるが、ヒンドゥーの影響だという。小さなブル島もそうだ。大陸部だとヴェトナムの沿岸部を除けば高床式である。これは、中国の影響だという。
高床式住居はどのようにして成立したのか。湿潤熱帯の自然条件にふさわしい住居形式であることは間違いないのであるが、各地域で同じようにつくられるようになったのか、それともある起源があって、それが伝播していったのか。興味深い議論がある。ひとつの有力な説は、オーストロネシア語族、とりわけそのサブ・グループに属するマラヨ・ポリネシア語族と高床式住居を結び付けるものである。原オーストロネシア語を復元する試みの中で、高床式住居に関わる語彙の発生を明らかにできるという。
オーストロネシア語族の原郷はどこかというと中国華南という説がある。あるいは、台湾だという説もある。はっきり指摘されるのは、稲作の発生と高床式住居、高倉が関係することである。高床式住居の伝播が稲作の伝播に伴ったことはほぼ間違いないところだ。ところが、南中国の古代遺蹟をみても、稲作の発生以前に高床式住居が発生していたことは明かである。さらに、高倉といっても北方系の高倉の系譜がある。北方系の高倉は基本的には稲作と関係がない。高床式という床の高さだけを問題とするだけでも、多様な住居のあり方がアジアの空間の広がりの中に見えてくる。
●マル(抹楼)とオンドル(温突)
こんなことを考えながら、今年に入って、韓国、北朝鮮と相次いで行く機会があった。東南アジアを歩きなれているせいであろうか、随分と様子が異なる。木造文化圏とは言っても、石が相当にウエイトを持っているそんな印象である。日本や東南アジアに比べると木材がそう豊かではないのである。もちろん、知識としては知ってはいたのだけれど、具体的に民家や集落を見ると考えることも多い。床の問題について言えば、温突(オンドル)の存在は極めて特異である。温突は、高句麗で生まれ、次第に朝鮮半島全体に広まったとされる。温突に類する床暖房は朝鮮以外にもアジアの東北地域に広く行われている。単に高床か地床かという上の議論がいかにも単純なことがわかる。
しかし、興味深い空間に温突房とは別にマル(抹楼:あるいは大庁:テーチョン)と呼ばれる板の間がある。吹きさらしの高床である。このマルの起源をめぐっても、南方の影響か、中国の寺院の影響かという議論がある。昭和の初めの村田治郎と藤島亥治郎の両大建築史家のやりとりである。マルの起源を中国文化、宮殿建築の模倣転用であるとしたのが村田治郎であるが、その根拠は、板の間がソウルの宮殿建築、両班のような上流階級の住居に多いこと、南鮮の農村部にはマルが少ないことである。それに対して、板の間は古来から使われており、基本的に南方起源であることを済州島の例を挙げながら主張したのが藤島亥治郎である。その議論の中には、朝鮮半島の民家と日本との関連を考える上でも興味深いポイントがいくつもある。
朝鮮半島の住居、集落、都市を駆け足でみてみて、改めて人間居住の多様な在り様を思う。特に、社会主義体制を堅持する北朝鮮の農村や都市、平壤(ピョンヤン)、開城(ケソン)の印象が強烈だったからであろうか。とりわけ、朝鮮戦争で歴史的都市遺産のほとんどが失われた中で、開城が古い町並みを残していることに深い感慨を覚えた。
アジアの空間はとてつもなく広いのであるが、人間居住の多様な形態とそれを生き生きと成り立たせる原理について考えて行きたいと思っている。
註1
宮田彬訳 『マレー諸島』 思索社 1991年
註2 カウティリア 『実利論ーーー古代インドの帝王学』(上村勝彦訳 岩波文庫 年)。カウティリアの記述をもとにした「都城」の復元は、 や によって試みられているが、応地利明は曼陀羅を下敷きにした説を提出している。
註3 マナサラについてはいくつかの研究書が公刊されてきたが、今のところP.K.アチャルヤのものがその集大成になっている。
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