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2023年8月28日月曜日

講義:住まいの語り部研修会,タウンアーキテクトの役割と可能性まちづくりの仕掛け人,三重県教育文化会館,平成15年3月5日(水)

 講義:住まいの語り部研修会,タウンアーキテクトの役割と可能性まちづくりの仕掛け人,三重県教育文化会館,平成15年3月5日(水)

住まいの語り部研修会
タウンアーキテクトの役割と可能性まちづくりの仕掛け人

布野修司 京都大学大学院工学研究科 生活空間学専攻 地域生活空間計画講座

 

はじめに 自己紹介

・建築計画→地域生活空間計画

・カンポン調査(東南アジアの都市と住居に関する研究)

・アジア都市建築研究 植民都市研究

   京都コミュニティ・デザイン・リーグ(京都CDL):

・京都GVコンペ 専門委員:・京都市公共建築デザイン指針検討委員

 日本建築学会理事 『建築雑誌』編集委員長: 日本建築学会アジア建築交流委員会委員長

 島根県景観審議会委員: 宇治市都市計画審議会会長 景観審議会委員          

   [1]戦後建築論ノート,相模書房, 単著,1981615

  [2]スラムとウサギ小屋,青土社,単著,1985128

  [3]住宅戦争,彰国社,単著,19891210

  [4]カンポンの世界,パルコ出版,単著,1991725

  [5]戦後建築の終焉,れんが書房新社,単著,1995830

  [6]住まいの夢と夢の住まい・アジア住居論,朝日新聞社,単著,19971025

  [7]廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅰ,彰国社,単著,1998510

  [8]都市と劇場・・・都市計画という幻想,布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,単著,1998610

  [9]国家・様式・テクノロジー・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅲ,彰国社,単著,19987

[10]裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説、建築資料研究社,単著,2000310

 

京都CDLとは

 

タウンアーキテクトとは

何故、タウンアーキテクトか

まちづくりをめぐる基本的問題

◇集住の論理

◇歴史の論理      

◇異質なものの共存原理 

◇地域の論理 

◇自然と身体の論理

◇生活の論理

◇グローバルな視野の欠如

◇体系性の欠如(住宅都市政策)

 

コミュニティ計画の可能性 阪神淡路大震災の教訓

 a 自然の力・地域の生態バランス

 b フロンティア拡大の論理

 c 多極分散構造

 d 公的空間の貧困 

 e 地区の自律性・・・ヴォランティアの役割 

 f ストック再生の技術 

 j 都市の記憶

 

景観デザイン 景観問題とは?
 a ランドシャフト・・・景観あるいは風景 

 b 景観のダイナミズ

 c 景観マニュアル

 d 景観条例・・・法的根拠

景観形成の指針 基本原則

 地域性の原則 地区毎の固有性  景観のダイナミズム 景観のレヴェルと次元 地球環境と景観  中間領域の共有

景観形成のための戦略

    合意形成    ディテールから    公共建築の問題    タウンアーキテクト    まちづくり協議会    景観基金制度

 

タウン・アーキテクトの原型 

 a 建築主事 b デザイン・コーディネーター c コミッショナー・システム d シュタット・アルシテクト

 e 出雲建築フォーラム

 

タウンアーキテクトの仕事

 a 情報公開 

 b コンペ・・・公開ヒヤリング方式

 c タウン・デザイン・コミッティ・・・公共建築建設委員会

 d 百年計画委員会

 e タウン・ウオッチング---地区アーキテクト









京都コミュニティ・デザイン・リーグ(京都CDL)へ


2023年8月26日土曜日

国際シンポジウム:環境のグランドデザイン,基調講演C.アレグザンダー,原広司・市川浩・布野修司(司会),19910226:都市のグランドデザイン,基調講演M.ハッチンソン,木島安史・伊藤俊治・山本理顕(司会),19910227:住居のグランドデザイン,基調講演L.クロール,大野勝彦・小松和彦・安藤正雄(司会),19910228:建築フォーラムAF,松下電器産業19910322

 国際シンポジウム:環境のグランドデザイン,基調講演C.アレグザンダー,原広司・市川浩・布野修司(司会),19910226:都市のグランドデザイン,基調講演M.ハッチンソン,木島安史・伊藤俊治・山本理顕(司会),19910227:住居のグランドデザイン,基調講演L.クロール,大野勝彦・小松和彦・安藤正雄(司会),19910228:建築フォーラムAF,松下電器産業19910322









2023年8月25日金曜日

ナイアガラ・ホテル,at,デルファイ研究所,199402

  ナイアガラ・ホテル,at,デルファイ研究所,199402


ナイアガラ・ホテル   ラワン         東ジャワ インドネシア         布野修司

 

 東ジャワ、スラバヤの南九十キロのところにマランという町がある。十八世紀にコーヒー生産のセンターとして大きくなった都市だ。中心部のアルン・アルン(広場)の回りには、庁舎、学校、教会などオランダ時代の建造物が残されている。気候は年中日本の春のようで過ごしやすい。第二次世界大戦中にはスラバヤに上陸した日本軍がここに軍営を置き駐屯している。沿岸部の大都市住民にとっては高原の避暑地である。あるいはスラバヤに野菜などを供給する後背都市である。

 マラン近郊はかってはヒンドゥー王国の中心地域であった。東ジャワ期のヒンドゥー遺跡が数多く残っている。チャンディ・バドゥット(九世紀)、チャンディ・グヌン・ガンシール(十世紀)、チャンディ・キダル(十三世紀)、チャンディ・ジャゴ(十三世紀)、チャンディ・ジャウィ(十四世紀)、チャンディ・シンゴサリ(十四世紀)などがそうである。

 そのマランの北、一八キロのところにラワン      という町がある。今はスラバヤーマランハイウエイがすぐ側を走っている。ボゴールの植物園のブランチであるプルウォダディ・ガーデンを除いて見るものは少ないのだが、ここにナイアガラ・ホテルというちょっとした掘り出し物の建築がある。ストモ通りにある五階建てのアール・ヌーヴォーのホテルである。

 アール・ヌーヴォーの建築はインドネシアでは珍しいが、こんな田舎にと不思議な気がする。聞けば、一九一八年にブラジルの建築家によって建てられたという。このナイアガラ・ホテルの建設にはどんな物語が秘められているのであろうか。ますます不思議さはつのる。

 以前は大邸宅、マンションであったらしい。エコノミークラスの部屋にはバスがついていない。もともとあった数多くの部屋を利用してホテルに改造したのである。居間がロビーに転用されている。ステンド・グラス、木彫、階段の手摺、相当なレヴェルである。どうやって職人を集めたのか。周辺にはすぐれたクラフトマンが存在していたのであろうか。木彫りの彫刻などは土着の職人のものに違いない。

 一九一八年に五階建ての建造物である。その頃、スラバヤ、ジャカルタだって五階建ての建物はほとんどなかったのである。実に不思議だ。

 屋上に登るとアルジュナ山が東に見える。西には、三六七六mのスメル山がある。ジャワ島は本州の半分ぐらいであろうか、そこに三千メートル級の山が沢山ある。スメル山はもちろん、メール(マハメール)山からきている。須弥山だ。ヒンドゥー教の聖山である。一九一一年、一九四六年と爆発、活火山である。そしてまた、ブロモ山がある。東ジャワで最も美しいとされ有名なカルデラ火山である。屋上からの眺めは抜群だ。名前の知れないブラジルからの建築は絶対意識したに違いない。

2023年8月22日火曜日

『京都げのむ』創刊、ミニレター、室内、20011112

 『京都げのむ』創刊

布野修司

 

前略 ご無沙汰しております。

この度、京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の機関誌『京都げのむ』を創刊致しました。ご紹介、ご批判頂ければ幸いです。

京都CDLについては、拙著『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(二〇〇〇年)の最後に構想を発表したのですがご記憶でしょうか。二〇〇一年四月二七日に設立大会を実施、以後活発な活動を開始しております。簡単に言いますと、大学の研究室を単位とする各チームがそれぞれの地区を担当し、毎年調査するとともに何らかの提案を行い、それを競うという活動です。現在、一四大学二二チームが参加、京都市42地区をそれぞれ二地区ずつ担当しております。

京都げのむ、という命名にはステレオタイプ化した京都論に囚われず、かけがえのない京都の遺伝子を発見したいという思いが込められています。

編集は学生主体ですが、素人離れした出来映えだと思うのですが如何でしょう。当面、春季リーグ(四月)、秋季リーグ(一〇月)に合わせて年二回発行の予定です。『群居』は五〇号で区切りをつけたのですが『京都げのむ』が何号まで続くか楽しみです。是非手に取ってみてください(http://www.kyoto-cdl.com)。     早々

 

 追伸 今度『建築雑誌』の編集長に就任。二〇〇二年一月号から二四号、ご期待下さい。

 

 室内 03-3501-8920

  鈴木様

2023年8月20日日曜日

伊東豊雄論のためのメモランダム,建築ジャーナルNo.1105,200607

 伊東豊雄論のためのメモランダム,建築ジャーナルNo.1105,200607

建築ジャーナリズムと伊東豊雄

 伊東豊雄論のためのメモランダム

リード

建築に限らず、美術の世界でも批評が成り立たない時代と言われる。主題を失い、主役を求めなくなったからだろうか。伊東豊雄らの建築の状況と、建築ジャーナリズムの興亡について考える。

<本文>

伊東豊雄が菊竹事務所を辞し、建築家としてデビューする「アルミの家」(1971年)から「中野本町の家」(1976年)に至る時期、頻繁に顔を合わせる機会があった。『建築文化』誌をメディアとする「近代の呪縛に放て」というシリーズ企画(197678年)のための会合である。伊東豊雄を最年長に、長尾重武、富永謙、北原理雄、八束はじめ、布野修司というのがコア・スタッフであった。まだ大学院に席を置きながら、この集まりに参加させてもらったのは僥倖という他ない。

 オイルショックから近代建築批判へ

 オイルショック(1973年)があり、建物は建たず、掲載に足る作品が少ないことを嘆いていたのが当時の田尻裕彦編集長である。建築ジャーナリズムの中心には『新建築』があり、部数はとるに足らなかったとはいえ、対抗メディアとして『建築文化』があった。いわゆる「『新建築』問題」*が尾を引いていたのは間違いない。建築エスタブリッシュメントの「格付け」を基軸とする『新建築』に対して、建築批評、建築ジャーナリズムの自立を旗標(はたじるし)とした『国際建築』、『建築』が潰れ(1967年)、ひとつの拠り所と考えられたのが、「特集主義」で建築界の問題を掘り下げる『建築文化』である。

そして、一方、平良敬一を軸として『SD』(19651月~)、植田実の『都市住宅』(19685月~198612月)が興され、棲み分けるように『建築知識』(19591月~)があった。この建築メディアの戦後第一次分裂時代を背景として登場してきたのが磯崎新と原広司である。「五期会*」が「60年安保」で活動を停止した後、丹下健三+メタボリズム・グループが日本の建築界をリードするが、その批判、すなわち近代建築批判をてこに登場したのが磯崎原である。また、長谷川堯の『神殿か獄舎か』以降の一連の近代建築批判が若い学生たちを捉えた。

「近代の呪縛に放て」のシリーズにおいて、若い建築家たちの標的はすでに磯崎―原であった。このことを最も意識していたのが、「アルミの家」で颯爽とデビューしていた(若い学生たちにはそう見えていた)伊東豊雄である。石山修武、毛綱モン太(毅曠)、渡辺豊和、六角鬼丈、石井和紘など、夜な夜なこの会の流れに参集した若い建築家たちも同様であった。伊東豊雄はこの時代のことを懐かしそうに振り返るが、その場が実に刺激的で楽しいものであったかは僕も証言できる。

この時代、皆喰えなかった。毛綱など、建て主に会いに行くスーツが買えない、といった状況である。しかし、建築ジャーナリズムは若い世代に優しく厳しかった。『TAU』(商店建築社)という雑誌が創刊され、真壁智治、大竹誠らの遺留品研究所、井出建、松山巌らのコンペイトウが集まった。布野、三宅理一、杉本俊多、千葉政継らの「雛芥子」にも紙面を割いてくれた。メディアが若い世代を育てる。振り返れば、この時代は、メディアと建築家の幸福の時代だったのかもしれない。

 主題喪失、野武士の時代に

 磯崎―原時代は、バブル時代を迎えて終焉を迎える。「ポストモダニズム」建築の跋扈(ばっこ)によって、共有化された主題が消え、主役も必要とされなくなるのである。バブル経済は、多くの外国人建築家を日本に招き、おそらく、明治以降かつてない多様な建築デザインの華が日本に咲いた。磯崎新が「大文字の建築」を論(あげつら)わざるを得なかったのは、それ以外に自らを特権化する術が残されていなかったからである。

かくして、磯崎―原を追随しながら乗り越えようとした伊東ら「野武士」たちの時代がきた。せいぜい、住宅スケールの作品しか仕事の機会がなかった原広司が梅田スカイビルやJR京都駅ビルを設計する機会を得、「野武士」たちもそれぞれに公共建築を設計する機会を得た。また、相次いで日本建築学会賞を受賞することになる。

 伊東豊雄は、当時「状況論から建築論へ」などという奇妙な論文を書くのであるが、この間、最も「状況的」であった、ように思う。「シルバーハット」(1984年)、「レストラン・ノマド」(1986年)は一般ジャーナリズムの関心を集めた。初めての公共建築である八代市立博物館(1991年)以降、堂々たる建築エスタブリッシュメントの道を歩むことになった。そして、「諏訪湖博物館」(1993年)、「大館樹海ドームパーク」(1997年)、「大社文化プレイス」(1999年)を経て、「せんだいメディアテーク」(2001年)に至ることになる。

 伊東豊雄とともにリーディングアーキテクトになったのは安藤忠雄である。安藤忠雄は、高卒で東大教授となったというサクセスストーリー、その分かりやすいキャッチフレーズなどから一般の知名度も高く、時代の寵児と言えるほどであったから、1990年代半ば以降は安藤忠雄時代といっていいかもしれない。伊東が東大に戻ってプロフェッサー・アーキテクトになっていたとしたら、安藤時代は来なかったかもしれない。

しかし、いずれにしろ、安藤、伊東とともに建築表現のメディアは一般に開かれることになった。『カーサブルータス』の創刊(1998年)、『SD』(200012月)、『建築文化』(200412月)の廃刊が象徴的である。狭い専門に閉じ続けて来た建築ジャーナリズムは急速に力を失うことになるのである。2001年から2003年にかけて、『建築雑誌』の編集委員長をつとめたが、状況の変化には隔世の感があった。インターネットの普及もあろう、若い建築少年のためのメディアが全く衰退してしまっているのに愕然としたのである。

 「ポストモダニズムに出口はない」という「天の声」とともに、バブルが弾けた後、近代建築批判の深度が真に問われ始めることになる。結果として、「野武士たち」も色分けされるようになった。例えば、コスモロジー派と呼ばれた、渡辺豊和、六角鬼丈、毛綱毅曠が沈黙を余儀なくされるようになる。

「奇観異観」の類は都会的なメディアにはなじまない。工業ヴァナキュラーで突破を図った石山修武にしても、『室内』(2006年廃刊)を場として鋭い批評を吐き続けたが、その造形には棘があり、ファッションとは成り得ない。時代を制したのは、ネオ・モダニズムと呼ばれるきちんとしたディテールの建築群である。この間の変化は、高松伸の作風の変化が象徴しているだろう。

 拡散した建築とメディアの状況

 せんだいメディアテーク以降、伊東豊雄は、憑き物が落ちたように、ふっきれたようである。密着ドキュメント『にほんの建築家 伊東豊雄・観察記』(瀧口範子著、TOTO出版、2006年)を読むと、その自在な心境と仕事ぶりがよくわかる。また、『トッズ表参道ビル』などの商業ビル作品を見ると、その変貌ぶりにギョッとしたりする。

伊東豊雄のこの自在さを支えるのはコンピュータ技術である。また、メディアも気にならないエスタブリッシュメントになった齢(よわい)である。「伊東豊雄現象」という状況が出現しているのだとすれば、あくまで「新しさ」を表現することにこだわり続けているのが伊東でありメディアだからである。昨年、久々に明け方近くまで一緒に飲んだ。若き日の伊東豊雄の印象は変わらなかった。最近の変貌も、原点は「アルミの家」ではないのかとも思った。

 伊東豊雄があくまでデザインの新奇性にこだわり続けているのに対して、空間の型、建築の在り方にこだわり続けているのが山本理顕である。この二人は、建築のモダニズムを真正面から正統に乗り越えようとしているように思う。そして、アンチ・モダニズム、エコロジー派の騎手として、脚光を浴びる藤森照信がいる。

 拡散状況の中でも、きらりと光る深度のある仕事をみたい。そして、それを的確に批評するメディアがほしい。伊東豊雄の作品を現象として扱うのではなく、きちんと批判しきることが今問われている、というのが本特集企画であるが、いきなりの依頼で紙数と時間がない。

『群居』(19822000年)、『traverse(2000)、『京都げのむ』(2001年)とメディアにはこだわってきたが、建築デザインの拡散状況と建築メディアの拡散状況とはおそらくパラレルである。『日経アーキテクチュア』(19764月~)のような情報誌、業界新聞などを除けば、強大な建築メディアが現われることはないだろう。小さなメディアでも強い批評言語を成立させることが当面の指針である。

 

編注

*『新建築』問題;村野藤吾設計の「そごう」の批評をめぐり『新建築』編集部と新建築社代表とが対立、編集部全員解雇となる

*五期会;大谷幸夫らを中心に展開された建築運動

 

ふの・しゅうじ|1949年島根県生まれ。東京大学工学系大学院博士課程退学。東京大学助手、東洋大学助教授、京都大学助教授を経て現在へ。著書に『戦後建築論ノート』(相模書房刊)、『世界住居誌』昭和堂刊)、『曼荼羅都市』京都大学学術出版会刊)ほか多数

 

<キャプション>

一般メディアの中の伊東豊雄

 左|『カーサブルータス』20063月号(マガジンハウス刊)

右|『にほんの建築家 伊東豊雄・観察記』(瀧口範子著、TOTO出版刊)