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2023年8月20日日曜日

伊東豊雄論のためのメモランダム,建築ジャーナルNo.1105,200607

 伊東豊雄論のためのメモランダム,建築ジャーナルNo.1105,200607

建築ジャーナリズムと伊東豊雄

 伊東豊雄論のためのメモランダム

リード

建築に限らず、美術の世界でも批評が成り立たない時代と言われる。主題を失い、主役を求めなくなったからだろうか。伊東豊雄らの建築の状況と、建築ジャーナリズムの興亡について考える。

<本文>

伊東豊雄が菊竹事務所を辞し、建築家としてデビューする「アルミの家」(1971年)から「中野本町の家」(1976年)に至る時期、頻繁に顔を合わせる機会があった。『建築文化』誌をメディアとする「近代の呪縛に放て」というシリーズ企画(197678年)のための会合である。伊東豊雄を最年長に、長尾重武、富永謙、北原理雄、八束はじめ、布野修司というのがコア・スタッフであった。まだ大学院に席を置きながら、この集まりに参加させてもらったのは僥倖という他ない。

 オイルショックから近代建築批判へ

 オイルショック(1973年)があり、建物は建たず、掲載に足る作品が少ないことを嘆いていたのが当時の田尻裕彦編集長である。建築ジャーナリズムの中心には『新建築』があり、部数はとるに足らなかったとはいえ、対抗メディアとして『建築文化』があった。いわゆる「『新建築』問題」*が尾を引いていたのは間違いない。建築エスタブリッシュメントの「格付け」を基軸とする『新建築』に対して、建築批評、建築ジャーナリズムの自立を旗標(はたじるし)とした『国際建築』、『建築』が潰れ(1967年)、ひとつの拠り所と考えられたのが、「特集主義」で建築界の問題を掘り下げる『建築文化』である。

そして、一方、平良敬一を軸として『SD』(19651月~)、植田実の『都市住宅』(19685月~198612月)が興され、棲み分けるように『建築知識』(19591月~)があった。この建築メディアの戦後第一次分裂時代を背景として登場してきたのが磯崎新と原広司である。「五期会*」が「60年安保」で活動を停止した後、丹下健三+メタボリズム・グループが日本の建築界をリードするが、その批判、すなわち近代建築批判をてこに登場したのが磯崎原である。また、長谷川堯の『神殿か獄舎か』以降の一連の近代建築批判が若い学生たちを捉えた。

「近代の呪縛に放て」のシリーズにおいて、若い建築家たちの標的はすでに磯崎―原であった。このことを最も意識していたのが、「アルミの家」で颯爽とデビューしていた(若い学生たちにはそう見えていた)伊東豊雄である。石山修武、毛綱モン太(毅曠)、渡辺豊和、六角鬼丈、石井和紘など、夜な夜なこの会の流れに参集した若い建築家たちも同様であった。伊東豊雄はこの時代のことを懐かしそうに振り返るが、その場が実に刺激的で楽しいものであったかは僕も証言できる。

この時代、皆喰えなかった。毛綱など、建て主に会いに行くスーツが買えない、といった状況である。しかし、建築ジャーナリズムは若い世代に優しく厳しかった。『TAU』(商店建築社)という雑誌が創刊され、真壁智治、大竹誠らの遺留品研究所、井出建、松山巌らのコンペイトウが集まった。布野、三宅理一、杉本俊多、千葉政継らの「雛芥子」にも紙面を割いてくれた。メディアが若い世代を育てる。振り返れば、この時代は、メディアと建築家の幸福の時代だったのかもしれない。

 主題喪失、野武士の時代に

 磯崎―原時代は、バブル時代を迎えて終焉を迎える。「ポストモダニズム」建築の跋扈(ばっこ)によって、共有化された主題が消え、主役も必要とされなくなるのである。バブル経済は、多くの外国人建築家を日本に招き、おそらく、明治以降かつてない多様な建築デザインの華が日本に咲いた。磯崎新が「大文字の建築」を論(あげつら)わざるを得なかったのは、それ以外に自らを特権化する術が残されていなかったからである。

かくして、磯崎―原を追随しながら乗り越えようとした伊東ら「野武士」たちの時代がきた。せいぜい、住宅スケールの作品しか仕事の機会がなかった原広司が梅田スカイビルやJR京都駅ビルを設計する機会を得、「野武士」たちもそれぞれに公共建築を設計する機会を得た。また、相次いで日本建築学会賞を受賞することになる。

 伊東豊雄は、当時「状況論から建築論へ」などという奇妙な論文を書くのであるが、この間、最も「状況的」であった、ように思う。「シルバーハット」(1984年)、「レストラン・ノマド」(1986年)は一般ジャーナリズムの関心を集めた。初めての公共建築である八代市立博物館(1991年)以降、堂々たる建築エスタブリッシュメントの道を歩むことになった。そして、「諏訪湖博物館」(1993年)、「大館樹海ドームパーク」(1997年)、「大社文化プレイス」(1999年)を経て、「せんだいメディアテーク」(2001年)に至ることになる。

 伊東豊雄とともにリーディングアーキテクトになったのは安藤忠雄である。安藤忠雄は、高卒で東大教授となったというサクセスストーリー、その分かりやすいキャッチフレーズなどから一般の知名度も高く、時代の寵児と言えるほどであったから、1990年代半ば以降は安藤忠雄時代といっていいかもしれない。伊東が東大に戻ってプロフェッサー・アーキテクトになっていたとしたら、安藤時代は来なかったかもしれない。

しかし、いずれにしろ、安藤、伊東とともに建築表現のメディアは一般に開かれることになった。『カーサブルータス』の創刊(1998年)、『SD』(200012月)、『建築文化』(200412月)の廃刊が象徴的である。狭い専門に閉じ続けて来た建築ジャーナリズムは急速に力を失うことになるのである。2001年から2003年にかけて、『建築雑誌』の編集委員長をつとめたが、状況の変化には隔世の感があった。インターネットの普及もあろう、若い建築少年のためのメディアが全く衰退してしまっているのに愕然としたのである。

 「ポストモダニズムに出口はない」という「天の声」とともに、バブルが弾けた後、近代建築批判の深度が真に問われ始めることになる。結果として、「野武士たち」も色分けされるようになった。例えば、コスモロジー派と呼ばれた、渡辺豊和、六角鬼丈、毛綱毅曠が沈黙を余儀なくされるようになる。

「奇観異観」の類は都会的なメディアにはなじまない。工業ヴァナキュラーで突破を図った石山修武にしても、『室内』(2006年廃刊)を場として鋭い批評を吐き続けたが、その造形には棘があり、ファッションとは成り得ない。時代を制したのは、ネオ・モダニズムと呼ばれるきちんとしたディテールの建築群である。この間の変化は、高松伸の作風の変化が象徴しているだろう。

 拡散した建築とメディアの状況

 せんだいメディアテーク以降、伊東豊雄は、憑き物が落ちたように、ふっきれたようである。密着ドキュメント『にほんの建築家 伊東豊雄・観察記』(瀧口範子著、TOTO出版、2006年)を読むと、その自在な心境と仕事ぶりがよくわかる。また、『トッズ表参道ビル』などの商業ビル作品を見ると、その変貌ぶりにギョッとしたりする。

伊東豊雄のこの自在さを支えるのはコンピュータ技術である。また、メディアも気にならないエスタブリッシュメントになった齢(よわい)である。「伊東豊雄現象」という状況が出現しているのだとすれば、あくまで「新しさ」を表現することにこだわり続けているのが伊東でありメディアだからである。昨年、久々に明け方近くまで一緒に飲んだ。若き日の伊東豊雄の印象は変わらなかった。最近の変貌も、原点は「アルミの家」ではないのかとも思った。

 伊東豊雄があくまでデザインの新奇性にこだわり続けているのに対して、空間の型、建築の在り方にこだわり続けているのが山本理顕である。この二人は、建築のモダニズムを真正面から正統に乗り越えようとしているように思う。そして、アンチ・モダニズム、エコロジー派の騎手として、脚光を浴びる藤森照信がいる。

 拡散状況の中でも、きらりと光る深度のある仕事をみたい。そして、それを的確に批評するメディアがほしい。伊東豊雄の作品を現象として扱うのではなく、きちんと批判しきることが今問われている、というのが本特集企画であるが、いきなりの依頼で紙数と時間がない。

『群居』(19822000年)、『traverse(2000)、『京都げのむ』(2001年)とメディアにはこだわってきたが、建築デザインの拡散状況と建築メディアの拡散状況とはおそらくパラレルである。『日経アーキテクチュア』(19764月~)のような情報誌、業界新聞などを除けば、強大な建築メディアが現われることはないだろう。小さなメディアでも強い批評言語を成立させることが当面の指針である。

 

編注

*『新建築』問題;村野藤吾設計の「そごう」の批評をめぐり『新建築』編集部と新建築社代表とが対立、編集部全員解雇となる

*五期会;大谷幸夫らを中心に展開された建築運動

 

ふの・しゅうじ|1949年島根県生まれ。東京大学工学系大学院博士課程退学。東京大学助手、東洋大学助教授、京都大学助教授を経て現在へ。著書に『戦後建築論ノート』(相模書房刊)、『世界住居誌』昭和堂刊)、『曼荼羅都市』京都大学学術出版会刊)ほか多数

 

<キャプション>

一般メディアの中の伊東豊雄

 左|『カーサブルータス』20063月号(マガジンハウス刊)

右|『にほんの建築家 伊東豊雄・観察記』(瀧口範子著、TOTO出版刊)






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