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2024年7月17日水曜日

「タウンアーキテクト」が選定方法を決め,審査すればよい, 建築ジャーナルNo.1104,200606

 04  審査員の問題

「タウンアーキテクト」が選定方法を決め、審査すればよい

インタビュー・布野修司|滋賀県立大学大学院環境学科教授

コンペの審査員の多くは建築家だ。審査は建築の専門家でなければ不可能だが、選定案が市民に受け入れられない場合もある。その場合の責任もとれない。これらの問題を解決するには、コンペの改善にとどまらない、まちと建築家とのかかわりを根本的に変えるシステムが必要だ。

 

本文178     


コンペの大きな問題の一つは、やはり「審査員」でしょう。審査員は、自分の見識の全てをかけて選定に望むはずです。しかし、その案が必ずしも利用者である住民に受け入れられる訳ではありません。また竣工後、使い勝手が悪く、メンテナンス費用が多くかかることがあります。その時、改修の責任を負うのは発注者の自治体です。審査員に「何でこんなものを選んだのか」と問いつめても、彼らは知らんぷりをせざるを得ない。選定後の責任を負いませんし、それに伴う費用も支払われていないからです。

 さらに審査員は、自治体と提案者である建築家との調整役も担っていません。一方で建築家はコンペで選定された自分の案を絶対視し、設計変更に応じない傾向があります。その時、調整者の不在で、トラブルとなるケースが多々あります。

 これらの問題を解消するために、私は、審査後に審査員をそのまま「建設検討委員会」に移行すべきだと主張しています。設計変更の調整をし、一方で選定時の案の趣旨を守っているかをチェックするなど、少なくとも竣工までは見守るべきです。しかしこうした委員会はあまり実現していません。 

 近年のコンペを見ていると、審査員の顔ぶれに対して、「露骨だな」と思うことがあります。同じ建築家同士が、ときに審査員となり、ときに受賞者となります。まるでコンペが仕事を取り合う互助会システムのようにさえ見えてしまいます。これでは審査員に対する社会的な信用は得られにくのではないでしょうか。では、私のような利害関係のない大学教授など学識経験者が務めればいいかというと、必ず公平な判断ができるわけではない。教え子の建築家を優先して選定する可能性もあるからです。

 

コンペは「公開が基本」

 

私は、公共建築でのコンペにおいて、「公開が基本」だと考えています。10年程前、島根県を中心に実施された公開ヒヤリング方式コンペの審査員を務めたとき、それを実感しました。かかわったのは、「加茂町文化センター(ラメール)」(設計:渡辺豊和)、「悠邑ふるさと会館」(設計:新居千秋)、「メティオプラザ」(設計:高松伸)などです。当時はまだ公開審査が珍しく、これらのコンペは話題となりました。

 審査では、審査員も選定される建築家たちも同じ壇上に上がります。そこでの質疑応答は、会場の市民にすべてオープンにされます。だから、ライバルである建築家同士は、いい加減なことを発言できません。ここでは、従来のコンペが行っている密室に建築家を呼び込んで決定する際の不透明さがないのです。

 しかしこうした公開ヒヤリング型はもちろん、公開コンペ自体が減少しているのが実状です。コストや労力の負担が大きさに、自治体は尻込みしてしまうのでしょう。

 

プロのコーディネーターが必要

 

今後、公共建築のつくられ方は、二極化していくでしょう。一つの方向は、PFIです。自治体としてはPFI事業者がつくるSPC(特別目的会社)に全部ゆだねる方が楽なわけです。ただし、これは文化性の高い建築はつくり得ません。

 もう一つは、ワークショップ形式といった住民参加型のものですが、その実施はとても難しい。最近、話題となった群馬県・邑楽町新庁舎の住民参加型コンペでは、山本理顕氏の案が選定されました。しかし町長か変わった途端に廃案となりました。地方政治の渦中に巻き込まれたわけです。住民参加型は良い方法ですが、自治体、審査員、建築家、住民などの関係が不明瞭なまま実施されるので、頓挫する可能性も高いのです。この手法には、プロフェッショナルなコーディネーターが必要です。それは住民の多様な意見をまとめ、決定する存在です。 

 ところで、コンペに限りませんが、住民の意見を統一し、質の高い建築がつくりやすいまちの規模があるようです。人口で1~3万人、「市」とならない程度がいい。そこの首長が見識を持った建築家であれば、なおよい。役所の職員も意欲を持ち、何か面白いことをしたいという機運が生まれやすいでしょう。

 

タウンアーキテクトの可能性

 

以前から私は、先に言ったコーディネーターに代わる「タウンアーキテクト」制を提唱しています。直訳すれば「まちの建築家」ですが、「まちづくりを担う建築の専門家」を意味します。必ずしも建築家である必要はありません。欧米では副市長として建築市長を置くことに近いのかもしれない。

 この「タウンアーキテクト」の発想の原型には、「建築主事」があります。たが、彼らは基本的には建築確認業務に従事する法の取締役にすぎない。「建築主事」が不得意なデザイン指導に関して、地域の建築家が手伝う形では、「建築コミッショナー」制が試みられています。「熊本アートポリス」「クリエイティプ・タウン岡山」などで実施されています。ただし、これらも限られた公共建築の設計者選定の仕組みにすぎません。むしろ「タウンアーキテクト」に近いのは、「都市計画審査会」「建築審議会」「景観審議会」といった審議会です。しかし、審議会システムが単に形式的な手続き機関に堕落する可能性が常にあります。

 そこで私のイメージする「タウンアーキテクト」ですが、一定の権限と報酬を与えられ、まちづくりの視点から建築を計画します。首長の任期とは関係なく、仕事を継続できる。一人ではなくとも委員会制にして順繰りに担当させてもいい。またその選び方は、公募か、首長が指名してもよい。

 そして個々の建築の設計者選定法はこの「タウンアーキテクト」に判断させるのです。ある時はコンペ、ある時はPFI、随意契約と、規模や内容、経済状況を検討して、適切な方法を選択します。そしてコンペの場合なら、審査員を務め、案の選定後の施工、竣工後と、トータルな過程で意見を出し、責任を持ち続けます。変なものをつくれば、市民によってリコールされていい。また中立的であるため、その人が建築家である場合は、任期中は対象のまちの建築設計業務を禁じます。

 かつてこのシステムを確立しようと奔走しましたが、既成の制度や権益に抵触するのか建築団体から抗議を受け、つぶされました。そこで、独自に試みているのが「京都コミュニティ・デザインリーグ」です。京都を拠点に置く大学・専門学校などの建築言系・デザイン系の研究室が、京都のある地区を担当し、建築プロジェクトの提案を行っていくというものです。

 また最近では、「コミュニティ・アーキテクト」制の構想を立ち上げようとしています。これは建築に限らず、環境、経済、文化など広い視点でまちを診断し、本当に必要な事業を提案していくというものです。

 現在の建築界には、新しい方法論が必要なことは確かです。「タウンアーキテクト」や「住民参加型コンペ」にしろ、新しい試みにより一つずつ良い建築をつくり出していけば、そこかから突破口が開かれるのではないでしょうか。

 

<プロフィール>

ふの・しゅうじ|1949年島根県生まれ。東京大学大学院博士課程中退。京都大学教授を経て、2006年より滋賀県立大学大学院教授。主な著書に『世界住居誌』『布野修司建築論集』『曼陀羅都市』『戦後建築論ノート』など多数。日本建築学会アジア建築交流委員会委員長、島根県環境デザイン検討委員会委員、宇治市都市計画審議会会長

 

 



2024年7月16日火曜日

対談:NPOこれまでの10年ーーNPOと建築運動,特集 NPO Now,今田 忠,布野修司,建築雑誌,日本建築学会,201008

対談:NPOこれまでの10年ーーNPOと建築運動,特集 NPO Now,今田 忠,布野修司,建築雑誌,日本建築学会,201008 

話し手:

布野修司 shuji FUNO 滋賀県立大学教授

今田忠 makoto IMADA  NPO法人パブリックリソースセンター専務理事

 

聞き手:

饗庭伸 shin AIBA 首都大学東京准教授/編集委員会委員

木下光 hikaru KINOSHITA  関西大学准教授/編集委員会委員

中江哲 tetsu NAKAE 鹿島建設関西支店建築設計部グループ長/編集委員会委員

 

日時:2010528  10:00-12:00

場所:日本建築学会大阪・近畿支部事務局

 

写真:佐野恵津子

テープ起こし担当:佐野恵津子

 

饗庭 NPO法が出来て10年が経ちました。本日は、これまでの10年のNPOの歴史、さらにその前史を振り返ることによって、これからのNPO、特に建築に関わりのあるNPOのあるべき姿が見えてくればと思っております。

 

布野 私は建築計画学の研究室を出てから、住宅問題とそれに関わる都市問題を中心に、アジアの発展途上地域の住宅やその集合体である街区のあり方の研究を行ってきました。京都大学にいた頃は、「京都CDL(コミュニティデザインリーグ)」というコミュニティアーキテクト制のシミュレーションみたいな取り組みを数年間試みました。滋賀県立大学に移ってからは、近江環人(コミュニティアーキテクトとルビ)という、滋賀のまちづくり人材を育てる大学院の人材育成プログラムを実践しています。建築学会では、エリアデザインとコミュニティアーキテクトに関する特別研究会をやっています。

 

今田 日本生命財団で助成金の仕事をしていました。当時は NPO という言葉はない時代で、全国各地でいろいろな地域活動をしているボランティアグループに対してのお金の支援です。トヨタ財団の人たちとNPOの研究を行っていました。その後94年に笹川平和財団(現在の日本財団)に移り、阪神淡路大震災が起きた翌年に、震災復興のための「阪神・淡路コミュニティ基金」が創設され、そこで3年間助成の仕事をしました。

 

NPOと建築運動 歴史の接点

 

饗庭 都市計画の分野を中心とした「まちづくり」の歴史をを見ると、1970年代から80年代にかけて地域社会の中に「まちづくり協議会」や「住区協議会」のような組織をつくり、行政のパートナーとして一緒にまちづくりに取り組むようになります。当時は地域社会の中でそれが十分に受け止められてきたわけではなく、ややもすると、都市計画のタテワリの下にある自閉した活動になっていました。しかし90年代に入ってNPOという言葉が登場し、現場に持ち込まれることにより、NPOという言葉を軸に地域社会の中で横断的に市民がつながることが出来る可能性が見えてきました。まず、NPOの登場がどういうインパクトを与え、どういう可能性を拡張したのかという辺りからお話いただきたいと思います。

 

今田 NPO という言葉は、日本では1992年頃、当時アメリカに居られた上野真城子さん(現関西大学)が持ち込んだのがはじめだと思います。その頃、市民の行う公益活動の制度を作っていこうという話が出てきて、その中心が佐野章二さん(現ビッグイシュー)でした。佐野さんがまとめられたNIRA(総合研究開発機構)の「市民公益活動基盤整備に関する調査研究」のプロジェクトに私も参加して研究報告ができたのが93年で、その研究報告に基づいて、94年にいろいろな政策提言をしました。「NPO 研究フォーラム」と「NPO推進フォーラム」が93年にでき、NPO法を作る目的で「シーズ・市民活動を支える制度をつくる会」が94年にできます。NPOをめぐるいろいろな機運が高まっていた時期に阪神淡路大震災(951月)が起きて、NPO 法が成立したのが98年です。よく阪神淡路大震災が起きて NPO の動きが出てきたと言われますが、それは違って、それまでに出てきた動きが加速されたということです。

NPO 法は制度ですから、制度の歴史を見てみると、明治時代に民法が制定されて公益法人という制度ができました。「学術、技芸、慈善、祭祀、宗教その他の公益に関する社団又は財団であって、営利を目的としないものは、主務官庁の許可を得て、法人とすることができる」というのが民法34条の条文です。当初は「許可主義」でスタートしました。それが第2次世界大戦後、公益に関しては、社会福祉、教育、医療とバラバラになって、公益法人は分野別の「認可主義」に変わりました。そうした状況の中で1980年代に市民が担う公益活動が出てきました。特にこの頃は、国際協力を行う団体や、住民による福祉活動(暮らしの助け合い)などが多く見られ、90年代になると、地球環境をターゲットにした活動が芽生えるようになってきました。ところがそういった団体を法人化するのは、とても難しかったわけです。法人化は法律に則ってすればいいわけですが、そのためには主務官庁の「許認可(認可?)」が必要で市民活動にはなじまない。官庁の側に「許認可」(認可?)する権限が握られている形ではない法律がほしいということでシーズが中心となってNPO 法制定の活動を始めたのが94年です。それからすったもんだがあって98年に NPO 法が成立し、そこからいろいろな NPO 法人が誕生して現在に至っているわけです。NPOは主務官庁の監督から外れ、所轄庁の「認証」により法人格を取得できることになりました。これは画期的なもので、国家公益主義からはじめて市民公益の制度ができたと言われます。さらにそれから10年後の2008年には、民法の許可主義による公益法人の制度がガラリと変わって新しい公益法人制度ができました。これにより許可主義、認証主義がはずれて準則主義になりました。公証人の定款認証を経て、登記によって成立する、つまり会社設立と同じ手続きで非営利法人が設立できるようになったわけです。

 

饗庭 1980年代に生まれた「市民が担う公益活動」とその前の時代の市民の活動、例えば賀川豊彦の活動(注1)などがイメージされますが、とは質が違うのでしょうか、両者の連続性はいかがでしょうか。

 

今田 賀川豊彦の活動は、生協の活動に引き継がれています。福祉については戦前から歴史がありますけれども、市民のボランタリーな活動は、やはり80年代がひとつの転機ではなかったかと思います。もうひとつ大きいのは、80年代の半ばくらいに経済界が変わってきたことです。85年のプラザ合意により日本はアメリカに進出して、健全なる資本主義社会は健全なる市民活動がないと成立しないというアメリカの市民社会を実感した。それまで経済界と市民活動は水と油でしたが、この頃、経団連が1%(ワンパーセント)クラブというのを作って、経済界がボランティア団体にお金を流し始めました。その頃はまだ NPO 法がありませんから、どこでどういう活動があるのかがわからない。経団連自身も登記を見て市民活動が把握できるような制度があればいいと考えていましたから、NPO 法の成立には経団連の後押しもあったと言われています。戦後の NPOは、どちらかというと体制に抗議していく市民運動的なものでしたが、抵抗から協働の理念に変わっていったのがひとつの特徴ではないかと思います。

 

饗庭 こういった日本の市民活動の歴史と、社会とのつながりを意識した建築家の運動や団体、つまり「建築運動」と言えるのかもしれませんが、その歴史はどのようにかみあうのでしょうか。

 

布野 建築屋はいまのお話のようなことで動いてこなかったので、ひとことで言うと、かみ合わないと思います。日本の建築運動の歴史は、近代建築運動の展開ということで1920年の日本分離派建築会の結成を起点に書かれますが、本日の座談会の脈絡だと、その前の日本建築学会の設立が最初の運動ということになるかもしれません。建築家が集まって社会的な基盤を獲得するために作ったのが学会の始まりです。いまは日本建築学会、建築家協会、建築士会、事務所協会などに分かれていますが未分化で、どちらかというと職能団体を目指していた。1914年に関西建築士会が開催され、翌年日本建築士会と名前を変えますが、そのころから役割分担が始まります。昭和のはじめから戦後にかけて、職能団体確立の熾烈な闘争を行ったのは日本建築士会です。職能を担保する建築士法を帝国議会に何度も提出しますが通らなかった。問題になったのは設計施工の兼業禁止の規定で、請負(ゼネコン)は反対し続けた。

 1915年に岡田信一郎が「社会改良家としての建築家」という文章を書いていますが、明治末から対象にかけて顕在化した住宅問題、都市問題にどう対応するかが問題でした。結局、1919年に都市計画法と市街地建築物法ができて一段落ということになるのですが、岡田信一郎は「法律を作ったはいいけれども、莫大な人材がいる」と書いて、容易ならざる将来を憂えているんです。。

 一方の近代建築運動は、分離派に続いて逓信省営繕課のドラフトマンが中心となる創宇社が1923年の関東大震災直後にできるんですが、昭和に入って社会主義運動と一体化した動きを始めます。「階級意識」に目覚めた創宇社の「左旋回」といわれます。1930年に諸集団が大同団結する「新興建築家連盟」が結成されますが、2カ月もたずに潰れます。戦後まもなくには、「新日本建築家集団NAU」が建築界をあげて結成されますが、これもレッドパージの圧力によって潰れます。「新日本建築家集団NAU」は、その後小会派に分裂して60年安保までは運動らしきものが続きますが、高度成長期を迎えて以降は表立った建築運動は見られません。強いて言うなら、反万博の運動があります。その頃から日照権運動や公害反対運動などの流れがあります。

建築士法については、戦後まもなくGHQ体制において、再び問題とされます。しかし、1950年に現行の資格法としての「建築士法」の成立によって決着します。

 

■建築的職能とその可能性

 

布野 私が「コミュニティアーキテクト」というような職能の必要性を言い出したのは、市民の公益的な活動という流れではありません。姉歯問題をはじめとする安全性の問題、防災の問題、景観の問題があり、まちづくりに手を出さないと建築家は生き延びることができないということなんです。戦後間もなくから、建築運動の流れの中で、住宅の問題に対して、小住宅の設計、工業化工法の開発、日本住宅公団の設立などによる公共的な住宅供給などが取り組まれてきました。しかし、1960年代末から70年にかけて、そういうことを本気で考える建築家の集団はほとんどいなくなっていたと思います。プレハブ住宅が1割を占め、住宅供給の主役に躍り出ていくわけです。しかも、ちょうどオイルショックが起こったことで量より質へとパラダイムが変わっていきます。そういう流れの中でまず考えたのが、C.アレグザンダーのいうアーキテクトビルダーという職能で、設計も施工も自分で責任を持ってやるという回路が必要ではないかと考えた。石山修武さんらと一緒に『群居』(注2)という雑誌を50号まで出して考えてきました。当時は東洋大学にいまして、学生は建築関連の工務店やガラス屋さんや左官屋さんの息子さんが多かった。そういう人たちがどういう立脚点で食べていくか、という視点です。ですから、使命感とか、啓蒙運動といったセンスは当初からありません。強いて言えば、産業構造と建築という社会的空間をつくる人材の配置が常に頭にあるということです。

 

饗庭 市民と何かをしたいというよりは、自分たちで役に立つものを考えて周りに提供していくというのが、現在に建築運動の先にあることなのかと思いました。現在は NPOだけではなく、社会的企業(注3)という選択肢もあります。建築家の内発的な動機は、NPOにはフィットしないけれども社会的企業には向くということはないでしょうか。

 

布野 コミュニティアーキテクトという場合、誰がお金を出すのかというのが基本的問題です。建築家はクライアントとの関係において報酬を得るわけですが、コミュニティアーキテクトが自治体と地域社会媒介するかたちが問題になります。一般的にコンサルタントというのは、国や自治体の下請けでしかない。NPOに期待するわけですが、まずは様々なやりかたで食べていけばいいと思うのですが、最近は、制度設計も必要かなとも思います。コンサルタント派遣とか、様々な試みがあり、その萌芽はあると思います。イギリスのCAVECommittee of Architecture and Built Environment)のようなものも考えられるかもしれません。日本の景観法も、法的根拠を持ってある程度コントロールできる武器を持つことになりました。デザインコミッティのようなものを国と各地方に設け、それぞれの活動がその地域にふさわしい動きなのかふさわしい景観なのかを議論しながら、支援できるようになるといいと思います。全国の業界団体に配分するのもいいですが、もうちょっとうまい仕組みができないかなと思っています。資金があれば多少なりともまちづくり活動ができるのでますが、レポート書いてお仕舞というのでは動きませんね。

 

今田 歴史的に見て、同潤会のような福祉系の住宅に民間の建築家は関心を持たなかったのでしょうか。

 

布野 同潤会の事業には、アパートメントハウス形式の提案など、建築家はかなり積極的に関与したと思います。その試みが戦後に引き継がれれば面白かったと思いますけど、同潤会から住宅営団(注4)になり、公団になる中で途切れてしまいます。同潤会のアパートメントハウス形式の提案が面白いのは、アメリカ的な集団生活のイメージと大正期の文化生活運動の理念が入っていて、共同生活のためのイメージがあった点です。「普通住宅」という木造戸建住宅も手がけていますし、不良住宅地区改良事業も手がけましたから、原点だったと思いますけど、結局は戦後にうまくつながらなかったと思います。

 

今田 第2次世界大戦後の占領政策にはいろいろな意味でいい点と悪い点がありましたが、どちらかというと戦後は戦前より国家の関与が強い制度になっています。日本の戦後の制度を設計したのが、当時のアメリカのニューディールレフトといわれる人たちで、どちらかというと社会主義的発想で日本の戦後社会は占領軍によって設計されました。戦前のほうが自由な発想で仕事ができたわけです。同潤会が営団になり公団になる中で、市民的な芽は、第2次世界大戦後の占領政策の中でかなり摘まれてしまったのではないでしょうか。それが1980年代になってようやく復活したわけです。

 企業や企業家がNPO に対して資金的な支援をする「フィランソロピー」については、90年がフィランソロピー元年と言われましたが、私からすればそれは「ルネサンス」であって、日本における自発的な活動は50年間眠っていたという認識です(注5)。経済の面でもそれまでは国主導の傾斜生産方式による計画経済でしたが、80年代になって日本の製造業が海外に出ていって、フリーマーケットの中で力をつけてきたわけです。

 

饗庭 「ルネサンス」のイメージを具体的にお話ください。

 

今田 フィランソロピーの担い手である企業や企業家のマインドのルネサンスです。お金を出すと言ってもはじめの頃は相手がいなかったのが、NPO 法ができる頃になってようやくそういう団体が増えてきたので、市民社会の変化よりも企業のマインドの変化のほうが早かったと思います。

 

饗庭 同じころ、建築の分野はいかがでしたでしょうか。

 

布野 私は1968年に大学に入っていますので、万博直前とオイルショックの画然とした違いを経験しています。高度成長から低成長へパラダイムががらり変わりました。住宅でいうと、これからは量より質だ、高層から低層だ、新規開発より既存市街地の充実だ、これからは省エネだ、ということになった。「宇宙船地球号」が問題になり、資源は有限だ、地球環境のことを考えてまちづくりをしなければならないということで、当時の第三次全国総合開発計画(三全総)(注6)では流域定住圏ということを提案している。実際、停電も水不足もたびたび起こる。80年代広範にバブルが来るとは、正直言って夢にも思わなかったんです。そのバブルが再び弾ける状況の中で阪神淡路大震災が起きました。そこで最終的に、大きく変わったのかなという気がしています。コミュニティがしっかりしていないとだめだということがわかったし、そこを基盤に考えないといけないということもわかった。しかしその裏返しで、建築家は役に立たないし、責任も取らない。これをどうすればいいか、というところからコミュニティアーキテクト的な職能を考え始めたんです。

 

饗庭 震災後から現在にいたるまでが「ルネサンス」ということかもしれません。具体的にはどういった動きがあるでしょうか?

 

布野 楽観的な立場からすると、誰もが建築家でありうるということです。まちづくりは町の住民ががやるべきで、建築家の概念を拡張すればいい。拡張できないのは建築家のほうが悪いと考えます。建築を勉強したということは、非常な複雑な条件をまとめるトレーニングをしてきているわけで、それが得意なはずです。ですから、まちづくりをどんどんやっていけばいいと思います。例えば、横浜寿町で活動している建築家の岡部友彦()さんは、ドヤ(簡易宿泊所)を改修して外人バックパッカーなどにゲストハウスとして提供して、日雇い労働者にも宿泊や食堂のサービスをするソーシャルワーカー的な動きをしています。みんなで選挙に行きましょうという活動もしてその看板のデザインもする、というようなことをやっていて面白いと思います。京都の宇治市のウトロ地区の街づくりには寺川政司(CASEまちづくり研究所)さんが関わっています。日本の中の韓国の街づくりですが、韓国の建築家とも共同すれば面白いと思います。大企業の例では、竹中工務店(注7)には、ネパールに学校を作るといった本業とは別の活動をしている人たちがいます。そうした余裕のある組織にいる方の活動にはかなり期待を持っています。学会の特別研究委員会では、建築家が関わった全国の事例を集めていますが、いろいろな動きが出ています。大学も企業も、地域の中で一定の社会貢献的な役割を果たすのが自然の流れかなと思います。

 

中江 NPO 法ができてから、現在はまだ過渡期にあると思いますが、実際に壁にぶつかっているということはないのでしょうか。

 

今田 市民の公益活動がしやすくなったのは確かですが、新しい公共を作り出すのに役立っているかというと、必ずしもそうではないと考えています。私は、 NPOは、行政ではできないクオリティーオブライフ(QOL)をどう向上させていくかが鍵だと思います。例えば、社会的に排除された人たちをどう仕事に就けていくか。あるいは行政では守りきれない人の命と尊厳を市民レベルでどう守っていくか。市民活動の意義はそういうところにあると思っていますが、そういう意味ではまだ不十分です。事業をビジネスとして展開できればいいのですが、ビジネスになりにくい海外の支援や人権運動は、広く社会から支えられる寄付の仕組みを作っていかないといけない。そこが決定的に立ち遅れていると思います。

 国情が違うアメリカと比べるのはあまり適切ではないですが、NPO 4万できたといってもやはり知れています。日本の非営利法人で寄付金控除の対象になる団体は100ぐらい、その他の制度まで全部合わせても1000もないと思いますけど、アメリカでは100万ありますから、基本的に市民が行う公益活動はまだまだ弱いと言えます。社会的企業では、日本には消費生活協同組合はあるけれども、生産協同組合がない。ガバメントと住民のガバナンスをバランスさせて住民による経済的、社会的自治を進めていくことがこれからの課題だと思います。

NPO 法は、当初は市民活動促進法という法律を用意しましたが、自民党守旧派の抵抗などで結局成立しませんでした。しかし、いままた市民活動法にしたほうがよいのではないか、という議論がなされています。公益的な活動に市民がどう参加していくかという制度の問題は、これから大きく動いて転換期に入るのではないかと思います。

 

■社会の基盤をどうつくるか

 

饗庭 「建築家の概念を拡張できないのは建築家が悪い」とのことでしたが、個人の問題はもちろんあるとして、社会の基盤、つまり制度的な問題、例えば建築士の資格法の問題はいかがでしょうか?

 

布野 資格法の問題はずっとあって、職能法はなかなか成立しない。日本の建築界がそういう体制になっていないから、百年河清を待つような話かもしれません。そういう中でも、建築家が食べていけて、面白いまちづくりが出てくればいい。そのためには、一律な制度ではなく、いろいろな助成が可能な仕組みができればいいと思います。しかし現状はそれができにくいようになっていて、なかなかサステイナブルにいかない。私もまちづくりで何回か助成をもらいましたけれども、いただいて1年か2年の活動ならいいのですが、サステイナブルにいかない。

学会も社団法人ですから、社会になにか還元しないといけないわけですが、我々自身の問題として、少なくともひとつの地域でボランティアのまちづくり活動をやるというのが第一歩かなと思います。また、緩やかでもいいからやはり情報交換の場としてコンソーシアムみたいなものを学会レベルで作るべきだと思います。

 

今田 建築に関して言えば、点としてはいろいろな試みをされていて、例えばグループホームとか、コーポラティブハウスなどの新しい試みは結構あるので、一人一人の建築家の方々は、市民マインドを持って仕事をされている方も多いと思います。しかしそれは点ですね。例えば、阪神淡路大震災の後で、専門家ボランティアというのがあって、建築家だけでなく、弁護士とか司法書士の方たちが携わっていましたが、やはり続いていません。そういう活動をサステイナブルに支援できる仕組みというのは、どうしたらいいのか。

あるプロジェクトをサステイナブルに支えていくというのはアメリカでもあまりできません。最初の23年はベンチャーキャピタルみたいなところがお金を出して、その後はビジネスとして展開して、ビジネスでの継続が難しい場合はそれを社会全体で支えるという寄付の文化が必要になります。

 

木下 寄付の文化が私たちの社会に根付く可能性はあるのでしょうか。

 

今田 日本でも寄付はみんなしています。例えば、阪神淡路大震災の時もいろいろなところから寄付が集まったし、世界各地で災害があると寄付が集まります。私は、NPO 法人パブリックリソースセンターというところでネット募金の寄付サイトの運営をしていますが、災害などが起きるとネット上でもお金が集まります。しかし阪神淡路大震災の時も、「私の寄付したお金はどこへ行ったのか」という苦情がけっこうありました。寄付の実態を調べて寄付白書を作ろうという動きもありますが、各団体各事業のアカウンタービリティが重要です。それと情報発信力を強化することによって、かなり寄付は集まると思います。寄付をする人は税制にあまり関係なく寄付をしますから、制度の問題も大事ですが、市民団体側がいかに共感を得られる活動をしてそれを発信していくかという部分が大きいと思います。

 

今田 アメリカの財団には、インディペンデント財団とコミュニティ財団があって、インディペンデント財団は大金持ちが社会貢献のために設立する財団で、コミュニティ財団は、コミュニティの人がコミュニティの開発のために寄付をして自分たちで支え合う仕組みです。アメリカで一番古いコミュニティ財団の「クリーブランド財団」が開発したレキシントンビレッジという郊外の住宅群は、戸建ての低所得者のためのアフォーダブル住宅です。地域計画を立案して、銀行などからの融資も引き出して、環境の悪い地区を財団自らが再開発して住宅地に変えました。そうした市民の寄付で成り立つ仕組みのコミュニティ財団が、アメリカには350くらいあります。

 

布野 日本でコミュニティ財団的な可能性は考えられないですか。普通の町では町内会費とかがあり、昔はそれをコミュニティの中で使っていました。滋賀県の小さな村などでは結構な額になっており、それを使わせてもらおうかという話も出ていたりします。

 

今田 日本では昔、公共工事も自分たちでやってしまうこともありました。貯めているお金をどういうふうに地域に使っていくか、その仕組みを考えていくといいと思います。京都には、公益財団法人 京都地域創造基金という市民が市民運動を支える財団ができています。これは、新しい法律で財団法人が300万円でできるようになったので、みんなから集めて作ったものです。政府は新しい公共と言っていますけれども、公的資金と民間の資金をどうミックスしてサステイナブルなまちづくりをしていくか、その仕組みを考えていく必要があります。

 

布野 近江環人ではサービスラーニングといって、地域貢献しながらそこで学習するみたいなアイデアも出ています。学生が実際に蔵を改造してシェアハウスにするとか、そういう動きはあります。財源が問題なのですが、滋賀のある地域の町内会では300万円どころではなく、億単位でお金を貯めていますので、うまくつなげられればと考えています。実際に地方の場合は、地域再生のために大学の若い「学生力」に期待しているのは確かです。先ほど個々人が地域でやれと言いましたが、大学も企業もそうですけれども、地域の中で一定の社会貢献的な役割を果たすのが自然の流れかなと思っています。

大学は潰れない限り若い人材を供給できますので、大学の機関、地域まちづくりセンターみたいなところがうまくつないでいく。イベント的ではない展開をすべきだと思います。あとは、団塊世代のリタイア組をうまく活用するといいと思います。

 

饗庭 NPOと建築運動の歴史を振り返ることから、建築系のNPOの立ち位置を確認することができ、さらには具体的な社会の基盤や制度のあるべき姿に踏み込むことができました。本日はありがとうございました。

 

 

註布野修司×今田忠

 

布野修司(ふの しゅうじ)

1949-  建築・都市研究家、評論家。東京大学建築学科卒業。東洋大学助教授、京都大学助教授を経て滋賀県立大学教授。1982年から2000年まで住まい・まちづくりの同人誌『群居』の編集長。著作=『戦後建築論ノート』『布野修司建築論集123』など。

 

今田忠(いまだ まこと)

1937-   NPO法人パブリックリソースセンター専務理事。日本生命保険相互会社、日本生命財団、笹川平和財団主席研究員を経て、99年まで阪神・淡路コミュニティ基金代表。

著作=『NPO起業・経営・ネットワーキング』、共著『フィランソロピーの思想』『NPOと行政の協働の手引き』。『日本の NPO ―NPOの歴史を読む、現在・過去・未来

 

 

1 賀川豊彦

1888-1960 神戸の貧民街で伝道をする牧師から社会運動家となる。大正、昭和前期の日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動の指導に当たり重要な役割を担った。

 

2 『群居』

1982年に創刊された、住宅政策などを扱う草の根型まちづくり季刊誌。

 

3 社会的企業(ソーシャルエンタープライズ)

環境、福祉、教育などの社会的課題に取り組む事業体。市場メカニズムを活用して得る利益は、その社会的な目的のためにビジネスやコミュニティに再投資される。

 

 

4 住宅営団

日中戦争の激化の中で同潤会の発展的後身として19415月に設立。戦時下社会政策の住宅版を狙ったが、1947GHQによって閉鎖の指定をされる。1955日本住宅公団が設立され以後の住宅供給を担った。

 

5 『日本の企業家と社会文化事業大正期のフィランソロピー』

山岡義典、川添登共著、東洋経済新報社、1987年。経済優先の思想に対置しうるのはフィランソロピーの思想であるとし、日本的な活動を模索した企業家たちの思想と行動を明らかにした書。

 

6 第三次全国総合開発計画(三全総)

国土庁の担当で1977年に閣議決定。あらたな大規模プロジェクトを打ち出さず、大都市への人口と産業の集中を抑制しつつ、地方復興で過密過疎問題に対処し、人間居住の総合環境の形成を図るため定住圏構想を中心に据えた。

 

7 竹中工務店設計部の有志が調査のために訪れたネパールのフィリム村(標高約1600m人口約800人の山村)で子供たちに学校をプレゼントするプロジェクトを立ち上げ、ボランティアの手で建設が進められた。