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2024年9月21日土曜日

Archiーforum 裸の建築家-明日なき建築家-日本の建築家の行方 、 5月26日 5:00pm~7:00 INAX大阪 1Fサロン、200105

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裸の建築家-明日なき建築家-日本の建築家の行方

布野修司

526日 5:00pm7:00 INAX大阪 1Fサロン

 

●略歴      

1949年 島根県出雲市生まれ/松江南校卒/1972年 東京大学工学部建築学科卒

1976年 東京大学大学院博士課程中退/東京大学工学部建築学科助手

1978  東洋大学工学部建築学科講師/1984年  同   助教授 

1991  京都大学工学部建築系教室助教授

 

●著書等

       『戦後建築論ノート』(相模書房 1981

              『スラムとウサギ小屋』(青弓社 1985

              『住宅戦争』(彰国社 1989

       『カンポンの世界ーージャワ都市の生活宇宙』(パルコ出版199107

       『見える家と見えない家』(共著 岩波書店 1981

              『建築作家の時代』(共著 リブロポート 1987

       『悲喜劇 1930年代の建築と文化』(共著 現代企画室)

       『建築計画教科書』(編著 彰国社 1989

       『建築概論』(共著 彰国社 1982

       『見知らぬ町の見知らぬ住まい』(彰国社  199106

       『現代建築』(新曜社)

       『戦後建築の終焉』(れんが書房新社 1995

       『住まいの夢と夢の住まい アジア住居論』(朝日選書 1997

       『廃墟とバラック』(布野修司建築論集Ⅰ 彰国社 1998

       『都市と劇場』(布野修司建築論集Ⅱ 彰国社1998

       『国家・様式・テクノロジー』(布野修司建築論集Ⅲ 彰国社1998

『裸の建築家-タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社2000)等々

 

 

○主要な活動

 

 ◇京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ) 

 ◇建築フォーラム(AF) 

 ◇サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)

 ◇アジア都市建築研究会

 ◇木匠塾 

 ◇

 ◇

●主要な論文     

 『建築計画の諸問題』(修論)

  『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』(学位論文)

 

 


[1]布野修司,前田尚美,内田雄造:「インドネシアのスラムの居住対策と日本の経験との比較」  第三世界の居住環境とその整備手法に関する研究 その1,日本都市計画学会 学術研究論文集 19,1984

 [2]布野修司,前田尚美,内田雄造:「インドネシアのカンポンの実態とその変容過程の考察」  第三世界の居住環境とその整備手法に関する研究 その2,日本都市計画学会,学術研究論文集20,1985

 [3]Shuji Funo:Dominant Issues of Three Typical Kampungs and Evaluation of KIP,1985, Peran Perbaikan Kampung dalam Pembangunan Kota, KOTAMADJA SURABAYA ITS

 [4]Shuji Funo:MINKA and Conventional Timber House in Japan,HABITAT International  PERGAMON PRESS    1991

 [5]Shuji Funo:The Regional Housing Systems in Japan,HABITAT International  PERGAMON PRESS    1991

 [6]布野修司:カンポンの歴史的形成プロセスとその特質,日本建築学会計画系論文報告集,433,p85-93,1992.03

 [7]脇田祥尚,布野修司,牧紀男,青井哲人:デサ・バヤン(インドネシア・ロンボク島)における住居集落の空間構成,日本建築学会計画系論文集,478,p61-68,1995.12

 [8]布野修司,田中麻里(京都大学):バンコクにおける建設労働者のための仮設居住地の実態と環境整備のあり方に関する研究,日本建築学会計画系論文集,483,p101-109,1996.05

 [9]脇田祥尚(島根女子短期大学),布野修司,牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):ロンボク島(インドネシア)におけるバリ族・ササック族の聖地,住居集落とオリエンテーション,日本建築学会計画系論文集,489,p97-102,199611

[10]布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の街区構成:チャクラヌガラの空間構成に関する研究 その1,日本建築学会計画系論文集,491,p135-139,19971

[11]布野修司,山本直彦(京都大学),黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),荒仁(三菱総合研究所),渡辺菊真(京都大学):ジャイプルの街路体系と街区構成ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その1,日本建築学会計画系論文集,499,p113~119,19979

[12]布野修司,山本直彦(京都大学),田中麻里(京都大学),脇田祥尚(島根女子短期大学):ルーマー・ススン・ソンボ(スラバヤ,インドネシア)の共用空間利用に関する考察,日本建築学会計画系論文集,502,p87~93,199712

[13]布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の祭祀組織と住民組織 チャクラヌガラの空間構成に関する研究その2,日本建築学会計画系論文集,503,p151-156,19981

[14]山本直彦(京都大学),布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),三井所隆史(京都大学):デサ・サングラ・アグン(インドネシア・マドゥラ島)における住居および集落の空間構成,日本建築学会計画系論文集,504,p103-110,19982

[15]布野修司,山本直彦(京都大学),黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),荒仁(三菱総合研究所),渡辺菊真(京都大学) 沼田典久(京都大学):ジャイプルの住居類型と住区構成ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その2,508,p121~127,19986

[16]布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)における棲み分けの構造 チャクラヌガラの空間構成に関する研究その3,日本建築学会計画系論文集,510,p185-190,19988

[17]田中麻里(群馬大学),布野修司,赤澤明,小林正美:トゥンソンホン計画住宅地(バンコク)におけるコアハウスの増改築プロセスに関する考察,日本建築学会計画系論文集,512,p93-99,199810

[18]Mohan PANT(京都大学),布野修司:Spatial Structure of a Buddist Monastery Quater of the City of Patan, Kathmandu Valley,日本建築学会計画系論文集,513,p183~189,199811

[19]山根周(滋賀県立大学),布野修司,荒仁(三菱総研),沼田典久(久米設計),長村英俊(INA):モハッラ,クーチャ,ガリ,カトラの空間構成ーラホール旧市街の都市構成に関する研究 その1,513,p227~234, 199811

[20]黒川賢一(竹中工務店),布野修司,モハン・パント(京都大学),横井健(国際技能振興財団):ハディガオン(カトマンズ,ネパール)の空間構成 聖なる施設の分布と祭祀,日本建築学会計画系論文集,514,155-162p,199812

[21]今川朱美(京都大学),布野修司:グラスゴー・シティセンターの街路とグリッド状街区の形成」,日本建築学会計画系論文集,514,147-154p,199812

[22]竹内泰(三菱地所),布野修司:「京都の地蔵の配置に関する研究」,日本建築学会計画系論文集,520,263-270p,19996

[23]韓三建(蔚山大学),布野修司:「日本植民統治期における韓国蔚山・旧邑城地区の土地利用の変化に関する研究」,520,219-226p,19996

[24]山根周(滋賀県立大学),布野修司,荒仁(三菱総研),沼田典久(久米設計),長村英俊(INA):ラホールにおける伝統的都市住居の構成:ラホール旧市街の都市構成に関する研究 その2,日本建築学会計画系論文集,521,p219226 ,19997

[25]闕銘宗(京都大学),布野修司,田中禎彦(文化庁):新店市広興里の集落構成と寺廟の祭祀圏,日本建築学会計画系論文集,521,p175181,19997

[26]黒川賢一(竹中工務店),布野修司,モハン・パント(京都大学),横井健(国際技能振興財団):ハディガオン(カトマンズ・ネパール)の空間構成 その2 住居、ダルマサール、辻と住区構成,日本建築学会計画系論文集,526,p191-199,199911

[27]闕銘宗(京都大学),布野修司,田中禎彦(文化庁):台北市の寺廟、神壇の類型とその分布に関する考察,日本建築学会計画系論文集,526,p185-192,199912

[28]トウイ(京都大学),布野修司:北京内城朝陽門地区の街区構成とその変化に関する研究,日本建築学会計画系論文集,526,p175-183,199912

[29]Mohan PANT(京都大学),布野修司:Social-Spatial Structure of the Jyapu Community Quarters of the City of Patan, Kathmandu Valley, カトマンドゥ盆地・パタンのジャプ居住地区:ドゥパトートルの社会空間構造 ,日本建築学会計画系論文集,527, p177-184, 20001

[30]根上英志(京都大学),山根周,沼田典久,布野修司:マネク・チョウク地区(アーメダバード、グジャラート、インド)における都市住居の空間構成と街区構成,日本建築学会計画系論文集,535, p75-82, 20009

[31]正岡みわ子(京都大学)),丹羽大介,布野修司:京都山鉾町における祇園祭と建築生産組織,日本建築学会計画系論文集,535, p209-214, 20009

[32]トウイ(神戸大学),布野修司,重村力:乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察,日本建築学会計画系論文集,536,p163-170, 200010

[33]闕銘宗(京都大学),布野修司:寺廟、神壇の組織形態と都市コミュニティ:台北市東門地区を事例として,日本建築学会計画系論文集,537, 219-225,200011

[34]韓三建(蔚山大学),布野修司:日本植民統治期における韓国慶州・旧邑城地区の土地所有の変化に関する研究, 日本建築学会計画系論文集,538,149-156p,200012

[35]山根周(滋賀県立大学),沼田典久,布野修司,根上英志:アーメダバード旧市街(グジャラート、インド)における街区空間の構成,日本建築学会計画系論文集,538, p141-148, 200012

[36]布野修司,黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),山本直彦(京都大学),渡辺菊真(京都大学) :ジャイプルの街区とその変容に関する考察ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その3, 日本建築学会計画系論文集, 539,p119-127,20011

[37]Mohan PANT(京都大学),布野修司:Ancestral Shrine and the Structure of Kathmandu Valley Towns-The Case of Thimi, カトマンドゥ盆地の町ーティミの空間構成と霊廟に関する研究 ,日本建築学会計画系論文集,540, p197-204, 20002


裸の建築家・・・タウンアーキテクト論

 

目次                                                       

はじめに・・・裸の建築家

 Ⅰ 砂上の楼閣

 第1章 戦後建築の五〇年                        

  1-1 建築家の責任

  1-2 変わらぬ構造

    a 都市計画の非体系性

    b 都市計画の諸段階とフレキシビリティの欠如

    c 都市計画の事業手法と地域分断

  1-3 コミュニティ計画の可能性・・・阪神淡路大震災の教訓

    a 自然の力・・・地域の生態バランス

    b フロンティア拡大の論理

    c 多極分散構造

    d 公的空間の貧困 

    e 地区の自律性・・・ヴォランティアの役割

    f ストック再生の技術

    j 都市の記憶

 第2章 何より曖昧な建築界

  2-1 頼りない建築家

  2-2 違反建築

  2-3 都市景観の混沌

  2-4 計画主体の分裂

  2-5 「市民」の沈黙

 Ⅱ 裸の建築界・・・・・・・建築家という職能          

 第3章 幻の「建築家」像                    

  3-1 公取問題                      

  3-2 日本建築家協会と「建築家」

  3-3 日本建築士会            

  3-4 幻の「建築士法」   

   3-5 一九五〇年「建築士法」

   3-6 芸術かウサギ小屋か

 第4章 建築家の社会的基盤

  4-1 日本の「建築家」

  4-2 デミウルゴス 

  4-3 アーキテクトの誕生

  4-4 分裂する「建築家」像

   4-5 RIBA

  4-6 建築家の資格

  4-7 建築家の団体

    4-8 建築学科と職人大学

 Ⅲ 建築家と都市計画   

 第5章 近代日本の建築家と都市計画     

  5-1 社会改良家としての建築家

   5-2 近代日本の都市計画

  5-3 虚構のアーバンデザイン

  5-4 ポストモダンの都市論

  5-5 都市計画という妖怪 

  5-6 都市計画と国家権力ーーー植民地の都市計画

  5-7 計画概念の崩壊

  5-8 集団の作品としての生きられた都市

 第6章 建築家とまちづくり

  6-1 ハウジング計画ユニオン(HPU)

  6-2 地域住宅(HOPE)計画

  6-3 保存修景計画

  6-4 京町家再生論

  6-5 まちづくりゲーム・・・環境デザイン・ワークショップ

  6-5 X地区のまちづくり

 Ⅳ タウンアーキテクトの可能性

 第7章 建築家捜し                                           

  7-1 「建築家」とは何か

  7-2 落ちぶれたミケランジェロ

  7-3 建築士=工学士+美術士

  7-4 重層する差別の体系

  7-5 「建築家」の諸類型

  7-6 ありうべき建築家像

 第8章 タウン・アーキテクトの仕事

  8-1 アーバン・アーキテクト

    a  マスター・アーキテクト

    b  インスペクター

    c  環境デザイナー登録制度 

  8-2 景観デザイン 

    a ランドシャフト・・・景観あるいは風景

    b 景観のダイナミズム    

    c 景観マニュアル

    d 景観条例・・・法的根拠

  8-3 タウン・アーキテクトの原型 

    a 建築主事

    b デザイン・コーディネーター

    c コミッショナー・システム

    d シュタット・アルシテクト

    e コンサルタント・・・NPO

  8-4 「タウンアーキテクト」の仕事

    a 情報公開

    b コンペ・・・公開ヒヤリング方式

    c タウン・デザイン・コミッティ・・・公共建築建設委員会

    d 百年計画委員会

    e タウン・ウオッチング---地区アーキテクト

    f タウン・アーキテクトの仕事

  8-5 京都デザインリーグ

 おわりに

 

 新たな空間形式の創造・・・土地と建物の根源的関係を見直すタウンアーキテクトとしての建築家の役割

 布野修司(京都大学)

 

 松山巌に『世紀末の一年』(朝日選書、2000年)という仕事があって、その仕事をもとに100年前の日本を考えたことがある(『GA』2000年春号)。20世紀は人類史上最も激しい変化の世紀であった。にも関わらず、あまり変わらない、というより、全く「金太郎飴」だ、という思いがした。人間そう変わりはしない。100年後も、おそらく僕らは同じことを繰り返しているだろう、という思いがある。

 もちろん、この百年間における決定的な変化はある。百年前には飛行機も自動車もなかった。コンピューターについては、その変化を身をもって証言できる。パンチカードからカセット・テープ、CD-ROMまで、この間のめまぐるしい変化は想像を絶する。漢字をコード化して、ワープロソフトのプログラムを書いて喜んでいたのが馬鹿みたいだ。20世紀を主導し、支配してきたのは科学技術である。近代建築を主導してきたのも基本的には建築技術である。従って、来る世紀を占う上でも建築技術のあり方がひとつの鍵となるのであろう。情報技術(IT)が建築を変えるのだ!と扇動する建築家が既に跋扈している。しかし、百年後にも現在と同じような建築物が日本の町並みをつくっていることには変わりはあるまい。 

 

 建築家にとっての基本的テーマは空間の形式である。20世紀は、新たな都市や住居の形式を生み出してきた。その空間形式に未来はあるのか、が問われるべきだと思う。

 

 20世紀において決定的となったのは土地と建築の関係である。すなわち、建築と具体的な土地や地域社会との関係が切り離されてしまったことが大きい。ひとことで言えば、「社会的総空間の商品化」の進行である。建築生産の工業化といった方がわかりやすいかもしれない。工場生産された部品や材料でどこでも同じように建築がつくられる。結果として、世界中で同じような都市景観をわれわれは手にした(しつつある)のである。近代建築は基本的にそうした世界を目指してきたのではなかったか。だから、建築家にとって中心的課題は、依然として、近代建築の理念をどう評価批判するか、なのである。

 もちろん問題は産業社会の編成そのものである。問題は建築の領域を遙かに超えている。脱産業社会が呪文のように捉えられて既に久しいが、必ずしも行く先が見えたとは思えない。近代建築批判の課題は宙づりされたままである。

 ひとつの大きな手がかりは、「地球」という枠組みである。一個一個の建築の設計においても地球のデザインが問われているということである。『戦後建築の終焉』(1995年)で少し考えたけれど、具体的な指針は定かでない。警戒すべきは、なんでもエコロジーと言いくるめるエコ・ファシズムである。自律的(セルフ・コンテインド)な空間単位はどのような規模で成立するのか。おそらく「世界単位」論の言う地域的な圏域がグローバルに確立される必要があり、その圏域の基礎となる空間単位を具体的に提示する役割が建築家にはある、というのが直感である。

 

 日本の建築界については、戦後50年(1995)を契機に考えたことがある。休憩なしの3時間のシンポジウムを3回、司会を務めた。その記録『戦後建築の来た道行く道』(東京建築設計厚生年金基金、1995年)を読み返してほとんど付け加えることはない。この十時間に及ぶ真摯な議論を是非読んで欲しい。通奏低音となっているテーマは、建物の生命(寿命)である。端的に言って、建物をそんなに簡単に壊していいのか、ということである。資源問題、エネルギー問題など地球環境の存続が全体として問われるなかで建築と土地の関係は再度根源的に問い直されることになるであろう。

  具体的な指針としては、『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社、2000年)を書いた。日本の産業社会の再編成が進行する中で、日本の建築界の構造改革(リストラ)も必然である。20世紀後半のスクラップ・アンド・ビルドの時代からストックの時代への転換が起きるとすれば、建築家の役割も変わらざるを得ない。はっきりしているのは、建築を維持管理していく仕事が増加していくことである。また、建築家がタウンアーキテクトとして地域との関係を強めざるを得ないということである。世紀半ばまでには死に逝く世代としては百年の展望は必要ないだろう。

 

建築雑誌2000122001年1月 行く世紀、来る世紀 


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裸の建築家-明日なき建築家-日本の建築家の行方

布野修司

526日 5:00pm7:00 INAX大阪 1Fサロン

日本の建築家は半減してもおかしくない

新たな存在根拠を見据えない建築家に明日はない

戦後日本の建築家は何を課題として,何をなしえたのか

 

 

 結論

  建築家には、新たな空間の形式(基礎空間単位)を提出する役割がある。

  日本の建築界は再編されざるをえない 日本の社会編成 産業構造の転換

   単純化していうと日本の建築家はいらなくなる

   移行期,過渡期において三つの方向

  維持管理,改修,改築

  まちづくり

  海外

 

ネタ

 A布野研究室のアジア都市建築研究

 B京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)

 C戦後日本の建築家

 D建築界の現状

 

Ⅰ.建築デザインの潮流ーーー建築家と住宅の戦後史

 

 1.初期住宅問題と建築家

   

   ●新しい目標としての都市と住宅ーーー住宅改良雑感(後藤慶二)/社会改良家としての建築家/市街地建築物法

      ●文化生活運動の展開ーーー住宅改良と文化住宅の理想/文化生活運動の位相/

   ●民家研究の出自ーーー今和次郎のことなど

   ●戦争と住宅ーーー西山夘三の国民住居論攷

 2.戦後建築の課題としての「住宅近代化」

  

   ●ヒューマニズムの建築ーーー機能主義と素朴ヒューマニズム/近代建築論争/計画化

   ●住宅の近代化ーーーこれからのすまい/日本住宅の封建性

 

   ●伝統論争と住宅

 

 3.住宅産業と建築家

 

   ●都市への幻想ーーー小住宅作家万歳/住宅は芸術である

 

   ●マイホーム主義と住宅デザインーーー「都市住宅」派

 

   ●都市からの撤退--- 最後の砦としての住宅 自閉の回路

               近親相姦の住宅設計

      ●住宅デザインの商品化ーーー商品化住宅の様式化

 

Ⅱ.日本の住宅・・・住まいと町づくりをめぐる基本的問題

 

    ●住宅=町づくり

   ◇建築と都市の分離

   ◇大都市圏と地方

   ◇地域と普遍(国際化)

   ●論理の欠落ーーー戦後住まいの失ったもの 豊かさのなかの貧困

   ◇集住の論理

   ◇歴史の論理

   ◇多様性と画一性

   ◇地域性

   ◇直接性

 

 

 

 

 

参考

建築学生

1.背景
 児童就学数変化、建築産業の動向、建築学科の将来像(大学院含む)を考慮し、建築学科では、今後10年間の中期的視野にたって、学部定員について検討した。

1-1.就学児童数の変化の分析(文部科学省主要教育統計1.学校基本調査 入学者数の推移)
(1)
小学校入学者の数の減少
 現在の大学1回生が小学校入学時(平成元年入学)の入学者数は1,511,870名、10年後(平成10年)の入学者数は約1,217,059名で、約20%の減少である(幼稚園でも同じ比率)。即ち、大学進学率に変化がないとすると、大学入学者の数は今後10年間で20%程度減少すると予測される。

(2)
大学、大学院修士、大学院博士入学者数の過去5年の推移
 大学入学者数、大学院修士入学者数、大学院博士入学者数のここ5年間の推移は表1のようであり、減少はしておらずむしろ微増ないし増加となっている。これらの学生が小学校に入学した当時には、すでに小学校入学者数は大きく減少している。高学歴化の進行や競争率の低下によって進学率が上昇し、実数が減少していないと考えられる。

表1 大学、大学院修士、大学院博士入学者数の過去5年の推移

            大学入学者数    大学院修士入学者数      大学院博士入学者数

   平成  8年   579,148       56,567          14,345
   平成  9年   586,688       57,065          14,683
   平成10     590,743       60,241          15,491
   平成11     589,559       65,382          16,276
   平成12     599,655       70,336          17,023

今後の就学児童の大学進学率がどのように変化するかは分からないが、就学児童数の減少(20%)と大学進学者数の減少が同じとは言えない。上表からは、大学院進学者数の減少比率は、20%をはるかに下回るものと推定される。

1-2.建設(建築部門)需要の変化
 (国土交通省総合政策局情報管理部建設調査統計課 平成13年度建設投資見通し)

(1)
建設投資の動向
・平成13年度の建設投資
  政府投資 293,900億円(前年度比 5.8%減)
  民間投資 377,400億円( 同 3.6%減)
  建築投資 326,200億円( 同 5.7%減)
  土木投資 345,100億円( 同 3.5%減)
・平成13年度建設投資の実質ベース:684,100億円(前年度比4.4%減)
  政府 298,900億円( 同 5.7%減)
  民間 385,200億円( 同 3.4%減)
  建築 332,600億円( 同 5.5%減)
  土木 351,500億円( 同 3.4%減)
・平成12年度の建設投資: 703,600億円(前年度比 0.1%増)
  政府 同 1.9%減の 312,000億円
  民間 同 1.7%増の 377,400億円
  建築 同 0.2%減の 345,800億円
  土木 同 0.4%増の 357,700億円
・推移
  昭和59年度以降、建設投資は前年度比プラスで推移し平成4年度には84兆円  平成6、7年度は80兆円台を下回った(バブル崩壊後の民間建設投資の減少)。
  平成8年度は80兆円台を回復(民間住宅投資の増加による)
  平成10年度以降は70兆円強で推移
  平成13年度は、民間投資、政府投資ともに減少し、70兆円台を下回る見通し
・平成13年度の地域別(10ブロック)建設投資額
  全ての地域で前年度の水準を下回る見通し

(2)
住宅投資の動向
・平成13年度の民間住宅投資
  着工戸数 :120万戸程度(前年度並み)
  投資ベース:199,400億円(前年度比2.2%減:前年度第4四半期の着工の落込み)
・政府住宅投資と合わせた平成13年度の住宅投資全体
  21 900億円 前年度比 2.1%減
・平成12年度の新設住宅着工戸数:121.3万戸(11年度122.6万戸)
  持家   対前年比 8.0%減
  貸家    同 1.8%減
  給与住宅  同 12.8%減
  分譲住宅   11.0%増
・平成12年度の住宅投資:215,400億円(前年度比 1.2%減)

1-3.建築産業の変化の分析
 社会の仕組みが、従来型のスクラップアンドビルトからストック有効利用型へ変化しており、そこに新たな建設産業が生まれつつある。(国土交通省の建設経済局調査情報課情報政策室 新建設市場予測検討委員会 平成106月報告書)
(1)
新建設市場の概念
 建築物は竣工後、清掃・点検といった初期機能を維持するための作業を受ける。しかし、各種部材の経年劣化、或いは破損・故障などによって主として物理的耐用力が限界に達すると、修理・修繕等によって当該機能を竣工時点のレベルまで回復しようとする行為が行われる。また、社会潮流の変化に伴って求められる機能が質的に変化したり、要求レベルが高まることなどによって建築物の機能が社会的に陳腐化すると、竣工時点には備えていなかった新たな機能を付加するための工事が行われることが多い。
 以上の観点から、新建設市場を以下のように定義し、さらに「機能の変化のレベル」によって維持・補修・改修の3分野が設定される。
 ・新建設市場の定義 建築物の機能の低下速度を抑制したり、機能を向上させることにより、建築物の物理的・社会的寿命を延ばす活動、およびその周辺活動により形成される市場
 ・3分野
   維持機能のレベルの低下速度を弱める行為。
   補修陳腐化した機能を竣工時点のレベルまで回復させる行為。
   改修竣工時点を上回るレベルにまで機能を高める、或いは新たに付加する行為。
 
(2)
現在市場推計結果(1995年時点の市場規模)
1995年時点の市場規模  総額19.9兆円(名目額)
  民間非住宅 8.8兆円 全体の4割以上
  住宅(官民計) 7.3兆円
  政府非住宅 3.8兆円
・現在市場の分野別構成
  改修 8.0兆円  住宅 3.5兆円 市場総額7.3兆円の半数近く
・民間非住宅 改修(3.4兆円)、維持(3.3兆円)
・政府非住宅 補修(2.0兆円)、改修 その半数程度

(3)
将来市場予測結果 〈アンケート 19971114日~121日、有効回答数1,164
件 〉
(1)総括
1995年時点で19.9兆円を形成する新建設市場は、今後年平均2.2%のペースで拡大
し、2010年には27.6兆円と、1.5倍にまで拡大する(1995年価格ベース)。
・市場分野別の推移
  維持に比して補修・改修の伸びが高い。
  改修 年平均1.9%で堅調に推移する。 既存建築物の機能付加ニーズ
  補修 同3.0%で推移 今後政府非住宅ストックが補修適齢期を迎えるため
  維持 1.6% 基本的に従来通りの傾向
(2)改修市場の詳細
1.
住宅
 スペースの有効活用が最大 約3割
 イメージの向上
 水まわり、空気環境、光・音環境などの快適性の向上 特に空気環境
 バリアフリー化 急激な高齢化の進展
 マルチメディア対応、ホームオートメーション化、セキュリティ 情報ニーズの拡
大、   家事効率向上の必要性や防犯ニーズの高まり
 自然エネルギーの利用 これまでは太陽熱温水器が中心、太陽光発電が普及の兆し
縮小市場 
 震災への対応 新耐震基準で建設された81年以降の竣工ストックは耐震改修の母体
とはなりにくい
 火災への対応 対象となるストックは限定的

2.
民間非住宅
 OA化・快適な空気環境・イメージの向上の市場規模が大きく、これら3分野だけで改修全体の過半を占める。
 今後の推移では、他の二者に比してOA化の伸びは低い。一方、快適な空気環境・イメージ向上は、改修全体の伸び以上のペースで拡大していく。
 この他の分野では、セキュリティ、自然エネルギーの利用、ビルオートメーション化などは年平均3%以上の比較的高い伸びを確保しうる。一方、震災・火災への対応は、住宅と同様にすでに対処済みのものが多いため、縮小していく市場である。


2.建築教育および研究の将来の姿と適正な学部定員
2-1.学部学生定員の変遷
 昭和 年 45
 昭和 年 90名 高度経済成長、第一次ベビーブーム
 昭和 年 95名 臨時定員増加、第二次ベビーブーム
 平成 年 90名 臨時定員返還

2-2.学部定員減少への流れ
 ・就学児童数の減少
 ・産業構造の変化、特に旧来型の建築産業の縮小
 ・事項で述べる、学部教育から大学院教育への重点のシフトの必要性
 ・三回生からの編入枠を、従来からある高専のみでならず他大学にも広げ、目的意識の高い学生を受け入れる。
 ・京都大学との立場、役割 社会に先立って建築分野の今後の方向性を示すためにも,学部教育から大学院教育へのドラスティックな転換を行なうことが望まれる。

2-3.大学院の充実への要請
(1)
高度専門教育と先端的研究の推進
 高度専門教育、特に京都大学は大学院大学としての先端的研究の推進が産業界・社会から強く要請されている。
 建築を基本とした他分野への就職可能性が増大しており、建設産業への対応が出来ない(今年の例では、構造系は求人をこなしきれていない)。建設産業にも、新たな展開がある。高等教育の必要性が増している。

(2)
グローバリゼーションに伴う建築家資格
 グローバリゼーションに伴う建築家資格の国際共通化の観点からは、5年ないしは6年の建築家教育が世界的には標準となっており、これに比較的無理なく対応させるには4年の学部教育と2年の修士課程の教育を融合して対処するのが合理的であり、実状とも適合している。

(3)
新しい研究対象の発生
 建築学の古典的分野に対する社会的要請は少なくなってきているが,環境問題,生活習慣の変化,人口集中化,情報化,グローバル化などにともない,多くの新しい研究対象が発生してきている。京都大学は,単に住居やビルを既定の方法にしたがって建設するための人材を育成するのではなく,上記の新しい要請に対して産業構造を再編し,新しい研究教育の分野を開拓するための人材を育成する使命を有している。
 生活空間再生学 今後の発展のひとつの方向(新たな分野の必要性と大学院重点化)新建設産業

(4)
生涯教育,社会人教育
 終身雇用制の崩壊,高寿命化,教育期間の増加(高年齢化)などの社会的状況を鑑みると,生涯教育,社会人教育あるいは再就職のための再教育の要請は今後高まるものと予想される。さらに,大学と産業界の関係の変化も考えると,社会人教育の充実は必要不可欠である。

(5)
留学生の受け入れ
 グローバル化の観点からは,とくにアジア地域からの留学生のより積極的な受け入れが望まれる。

(6)
世界でも類を見ない高齢化社会の到来に伴う社会構造の変化

(7)
自己責任型社会への転換
 政府主導の規制緩和が、安全に関する分野を含め推進されている。建築分野では、H10年改正の建築基準法において、構造基準、防火規準、衛生基準の一部が性能規定化され、安全に関する国の直接規制の一部分が民間へ委譲された。これにより建設技術の新たな展開が見込まれる一方で、民間が官に頼る体質から脱却し自己責任型社会へと転換できるのか危惧される。建築物の安全に関しては、地震、台風、火災、日常事故といった種々の危険に対して総合的にバランスよく安全計画を行う職能(安全計画コーディネーター)が求められている。このような人材は、大学院レベルの教育で養成すべきものと考える。

(8)
国際調和:グローバル市場の中での日本の建設技術のイニシアティブ
 建設技術は土地に固着した技術ではあるが、一方で建築を構成する材料や部品についてはグローバル化が急速に進み、国内で使用される建築部品の多くは外国産である。これがスムーズに行われるためには、ISO(国際標準化機構)規格などの部品作りやその使い方に一定のルール化が必要である。建築技術としてルールをサポートし、日本の建築技術をルールに整合させるとともに日本の建設技術を国際的に認知させることにより、日本の国益を守り、グローバル化の中で経済摩擦の少ない国際社会を形成することができる。そのためには、学部レベルの建設技術を学んだ上で、規格、基準、規準の意味と目的などを調査・研究し、実践に適用することができる人材が必要であり、それには大学院における教育が適切と考える。

(9)
国際調和:発展途上国への/からの技術相互移転
 いわゆる発展途上国への技術移転は、主として経済原理に基づいてなされてきた傾向があるが、国際倫理に適った在り方に従うべきであろう。それには、近隣諸国・地域と対等な立場で共存できる建設技術基盤づくりが必要である。そのための人材つくりは学部4年では十分とは言えず、修士・博士課程を通じて行うことが適切である。
また、発展途上国からの留学生を受け入れ、母国の建設技術の要となるに足る十分な教育を施すことにより、建設技術のグローバル化に必要な社会基盤を作る人材を輩出すべきである。

(10)
幅広く、全国から人材(大学院生)を受け入れ、新しい血を導入することによる京都大学の活性化を図る。

(11)
学部学生の要望
 現状では、学内の学部学生ですら大学院に進学できず、自らの夢を実現するため大学院浪人をする学生が非常に多く存在する。

(12)
多領域・分野を統合する建築学
 今後はいろいろな分野との交流が必要となり、建築学は(他の分野で活躍するというよりは)他の分野を建築学に引っ張り込むことになろう。建築学は,他分野を単に寄せ集め学際領域をつくるのではなく,包括的に消化できる分野と考えられる。最終的には多くの人々が建築を重要なものと捉え,また建築はそのための求心力として適当なレベルにある。従って、周辺領域での専門教育や実務経験を有する人材にも門戸を開き,建築学の包括性を活かして大学院を充実させることも求められる姿のひとつと考えられる。

3.最終提案
 以上示したように、大学院教育に対する社会的要求は明らかであり、臨時定員の予算定員化(?)および入学定員増を提案するものである。大学院教育へのシフトを教官数を増やさずに実現するためには、同時に学部定員の削減が必要であり、以下のような提案をいたします。

3-1.改組案
(1)
学部定員について
 ・定員を10名程度削減する。
(2)
三回生からの編入枠を、高専のみでなく、他大学に広げ、10名程度確保する。
 ・入学試験は、高専編入と同時に、同じ問題で行う。
(3)
大学院定員の増加
 ・大学院修士定員を、とりあえず建築学専攻(新)で、10名程度増やす。
 ・大学院博士定員も増やせるとよいが、実状からみて可能性を検討する必要有り。
 ・幅広く、全国から大学院生を募る。
 ・増やすべき領域としては、生活空間再生学、環境・生産マネージメント、安全計画、環境保全、福祉、国際融合、生活環境情報、等々。

3-2.具体的な形
(1)
専任講座化
(2)
地球環境学専攻や国際融合創造センターへ異動する教官に対する学生定員を工学研究科にも配置する。
(3)
高等研究員

3-3.問題点
(1)
地球工学との連携
 ・環境地球工学の改組とのからみ
(2)
他大学への波及効果
 ・適正な削減数より控えめに設定するのが安全側か。
(3)
受験生への影響
 ・大学院における教育・研究の充実ということと合わせて入学定員の削減を説明し
ないと、建築に対して受験生が夢を持ちづらくする危険性がある。

2024年9月20日金曜日

変貌する建国50周年の中国都市・上 北京 中 西安 下 広州, 日刊建設工業新聞,1999年1105

 変貌する建国50周年の中国都市・上 北京 中 西安 下 広州, 日刊建設工業新聞,19991105

 

変貌する建国五〇周年の中国都市

布野修司

 国際交流基金(ジャパン・ファンデーション)と日本建築家協会(JIA)共催の「現代日本建築一九八五-一九九六展」が中国を巡回中である。それに伴う企画として「日本建築の発展と日本文化」と題した講演(建設部建築技術研究院(北京)、華南理工学院(広州))を日本の外務省から依頼された。『日本当代百名建築師作品選』を中国で出版した(一一九九六年)縁である。以下は、北京→西安→広州を駆け足で回ってきたレポートである。



①北京 大雑院から高級公寓まで

 建国五〇周年を迎えた北京は建設ラッシュであった。あちこちで五〇周年記念式典(一〇月一日)に間に合わせようという工事が行われ活気に満ちているように見えた。

 四年ぶりに訪れた北京の変貌には心底驚いた。その象徴が北京随一の繁華街、王府井(ワンフーチン)だ。道路は拡幅され、バスなど必要車両を除いて歩行者天国になっている。四年前には革命以前の通りの面影が残り、長安街からの入口の赤いマクドナルドの店が目立つ程度であったが、今は一体どこの街なのか曰わく言い難い。北京市の幹部が汚職で失脚することになった巨大なショッピング・センターがほぼ完成し、新しい王府井の姿が明らかになりつつある。今となっては、工事中に『乾隆京城全図』に描かれたまさにその場所で発見された清朝の井戸跡が歴史を偲ぶ唯一のよすがである。

 天安門の前を東西に走る長安街の変貌も著しい。中国風の屋根を載せたかってのビル(帝冠様式!)に変わって、石貼りとミラーグラスを組み合わせたポストモダン風のオフィスビルが建ち並ぶ。ほとんどがアメリカ人建築家の手になる。講演(学術報告会)では中国建築技術院の院長以下、研究員、精華大の先生、学生などを前にして、日本建築の歴史を近代中心に僕なりにしゃべった。帝冠様式にももちろん触れた。院長の総括を含め、質疑応答の一つの焦点は新しい長安街のデザインだった。帝冠様式にもポストモダン風にも彼らは満足していないように思えた。

 もうひとつ大きな変化は交通渋滞だ。バンコクほどではないけれど、このままでは深刻な状態に陥るに違いない。北京市城市規劃設計を訪れて、北京市の住宅価格の分布図を見せてもらった。東北が高く、南西が低い。しかし、住宅建設の最前線は郊外へと展開中である。いくつかモデルルームを訪れてみた。びっくりするのは広さである。一五〇平米が標準で、三〇〇平米を超えるものもある。一体、三人家族でこれだけ必要なのか、と思わず尋ねた程だ。中国には、安置工程(四三平米)、安居工程(七〇~八〇平米)、小康住宅(一二〇平米)という区分がある。しかし、政府は昨年末、賃貸住宅を廃止し、住宅建設分野に市場原理を導入することを決定する。その結果が空前の住宅建設ブームである。設備の水準も高い、日本では億ションといっていい高層集合住宅(「高級公寓」)が次々に建っているのである。

 中国では各職場単位毎に住宅が用意され、職住近接が理念とされてきた。大きな大学になるとキャンパスは広大で全てがそろっている。生活はキャンパス内で完結する。しかし、今後は自ら住宅を取得することになる。北京の交通渋滞は、おそらく、職場と住宅立地をめぐる大きな転換が関わっている。

 一方、伝統的な住居、四合院の残る地区は消えつつある。内城では二カ所が保存地区に指定されているけれど、「大雑院」と呼ばれる建て詰まった四合院地区が再開発を待っている。


②西安  中国建築の伝統と現代化

 四合院の町家地区は西安でも消えつつあった。日本人に親しい長安の都の変貌も著しいのである。城外南北をには高層建築が建ち並んでいる。

 長安の都というけれど、現在残る城壁内は明清時代の西安城で、長安城の宮城、皇城部分にすぎない。改めて、長安城の巨大さがわかる。空海が学んだ青龍寺は城壁の外である。長安城の南の境界にあった、玄奘(三蔵法師)が印度から持ち帰った多くの経典を翻訳した慈恩寺(大雁塔)は、遙か城外南である。

 現在の南北中軸線上に鐘楼がある。その北東に鼓楼があり、その間に不思議な空間が作られている。「西安鐘鼓楼広場」と呼ばれるその空間は極めてシンプルで正方形の庭が整然と並んでいるだけである。新しいショッピングモールは地下におさめられ、地上に控えめに突きだした五基のピラミッド状のトップライトがその存在を示している。そして、北側にはかっての町並みを意識したファサードが二つの楼をつなぐようにデザインされている。デザインの意図は明らかだ。すなわち、新たに必要な商店街を地下に納めながら容積を確保し、かっての空間の質を保持する、伝統と現代を現実的に解く試みである。このプロジェクトは中国建築学会賞を受けた。

 建築家は張錦秋、中国を代表する女流建築家である。実は清龍寺も大雁塔もその復元、周辺整備(唐華賓舘、唐芸術陳列舘)も彼女の手になる。興慶宮の阿倍野仲麻呂の碑(一九七八年)も彼女のデザインだから日本との縁は深い。それどころか、狭西歴史博物館(一九八三)、法門寺の周辺整備(一九八七)、華清宮の整備など西安の主だった建築は彼女の手になる。もちろん、歴史的な地区の設計だけではなく、新しい団地の設計もこなす。中国建築西北設計研究院總建築師、精華大学教授でもある。

 その張錦秋氏に西安で会う機会を得た。息子の韓一平君が我が研究室出身という縁である。韓君は今全国市長培訓中心都市発展研究所の副所長である。中国各地で街並み保存を展開するのが彼の仕事である。張錦秋氏からは厳しい批判をというということであったが、建築史学の大家梁思成の学生であった時代から文革時代までの話で心地よい宴はあっという間に過ぎてしまった。張錦秋の建築は決して派手ではない。正統派である。中国建築の伝統を深く理解し分析する眼がある。「帝冠様式」のレヴェルを超えていることは言うまでもない。特に外部空間の視覚的分析を基礎とする、建築史家としての出発がその手法を支えている。

 中国建築の伝統では、宮殿、寺院、民居など、全て中軸線を挟んで左右相称の四合院型の構成が基本である。あまりにも形式化され、それに対抗し乗り越えるのは至難のことである、と台湾の李祖源はいう。張錦秋と李祖源は交流があるけれど、張錦秋にとっても最大の課題であり続けている。


③広州 開発と街並み保存

 華南理工学院での講演はものすごい聴衆であった。若い学生を主体に数百人、二重、三重に立席もできた。『日本当代百名建築師作品選』が知られ、「現代日本建築1985-96展」が開かれた直後であったということもあるが、会場の熱気を支えたのは現代日本建築に関する関心である。

 いささか翳りを見せ始めたとはいえ、広州は、上海、北京に続く経済成長率を誇る。旧市街の東の新興開発区、天河には超高層ビルが建ち並ぶ。広大な空き地も拡がり開発を待っている。真ん中に陸上競技場がある。バブルが弾ける直前の幕張を思った。講演後の懇親会で、華南理工学院の建築学院出身の、わずか三八歳という若き副市長と同席したのであるが、その意気や軒昂であった。

 スケジュールの合間に町を見て回る。ひとつの学術的関心はイスラーム地区であった。多くの民族がどのように共生してきたのかが大きな興味である。西安が陸のシルクロードの出発点であるとすれば、広州は海のシルクロードの出発点である。古来多くのイスラーム教徒が住んできた。西安の清真大寺周辺のようにひとつの街が残されているわけではないが、今日もミナレット光塔をもつ懐聖寺が信者の拠点になっていた。

 旧市街には伝統的町家、あるいは騎楼(亭子脚)のある店屋が残されていた。通風のために荒い丸太を横に通した木製の玄関引戸が並ぶ路地はなかなかの風情である。スケールもよく、人々の生活の臭いがぷんぷんしている。しかし、ここでも再開発が進行中である。

 珠江に浮かぶ人工島、沙面にはかっての植民地建築が整然と残されている。一六世紀にポルトガルが訪れて以来、広州は西欧列強の窓口であった。アヘン戦争の結果、英仏の租界になり、以来、中華人民共和国の成立まで外国人居留地であった。建国五〇年を経てもその歴史は街並みとして残されている。

 講演では、日本の近代建築の歴史を僕なりにわかりやすくかいつまんで話したつもりだ。そして、バブルの弾けた日本の課題についても触れた。建設の時代が終わった時のことを考えて下さいというのがまとめのメッセージである。あとで聞かされたのであるが、大変な反応だった。日本の現代建築の専ら宣伝ではないかと思っていたけれど、問題点も含めてわかりやすかったということらしい。

 質疑は、新旧の街並みをどう調和すればいいのか、広州の街づくりをどう考えればいいか、ということが中心であった。また、単にデザインではなく具体的な手法を知りたいということであった。

 広州のアイデンティティを大事にすること、広州全体をひとつのイメージとして考えるのではなく地区の固有性を大事にすること、若い学生が地区に張りついて地区の将来を提案すること、など一般的に答えたけれど、冷や汗ものであった。問題は広州だけの問題ではないのである。

2024年9月19日木曜日

オーストラリアの都市と建築 ①グリフィンのキャンベラ,②グリーンウエイのシドニー、③サルマンのガーデン・サバーブ、日刊建設工業新聞,19980220、19980306、19980327

  オーストラリアの都市と建築 1 グリフィンのキャンベラ,日刊建設工業新聞,19980220

 オーストラリアの都市と建築 2 グリーンウエイのシドニー,日刊建設工業新聞,19980306

 オーストラリアの都市と建築 3 サルマンのガーデンサバーブ,日刊建設工業新聞,19980327


オーストラリアの都市と建築

布野修司

 

①グリフィンのキャンベラ

 ブラック・マウンテンのテレコム・タワーに上ってみる。キャンベラの全貌が見渡せる。足下に国立植物園、オーストラリア国立大学の森があり、その先に続いてシティ・ヒルの高層ビル群が見える。そして、バーリー・グリフィン湖を挟んで、キャピタル・ヒルの森と建物群が見え隠れする。中央にあるのが四角錐のフレームを頂いた国会議事堂(一九八八年)である。キャンベラは今猶建設中だ。

 樹木の間に直線の幹線街路の幾何学模様がくっきりと浮かび上がる。まるで図面を見るようだ。この都市計画の図面を引いた男、それが湖にその名を残すウオルター・バーリー・グリフィン(一八七六~一九三七)である。グリフィンの名は、オーストラリアでは著名だ。湖の畔(ほとり)にある国立首都計画館は言ってみればグリフィン館で、多くの観光客が訪れている。しかし、近代建築の歴史の中では忘れ去られてきた。

 グリフィンはシカゴに生まれ、フランク・ロイド・ライトの下で建築を学んだ。そして、その名を一躍著名にしたのが「オーストラリア連邦首都計画」国際コンペ(一九一一~一二年)一等入選である。一種の事件であった。

 幹線街路の軸線の焦点には必ず小高い山がある。単純な幾何学ではなく、地形を周到に読みながら軸線を定めていく、ランドスケープ・デザインの原理がある。しかし、彼の計画案がそのまま実現することはなかった。すぐさま問題になったのは人工湖である。恣意的な形には無理があった。さらに、数多くの困難が待ち受けていたのであった。

 グリフィンはキャンベラで人生を狂わせたと言えるかもしれない。一等入選以来、その実現過程で様々な政治的力学関係に翻弄され続けるのである。三二年までオーストラリアに釘付けになった。メルボーンなどで数々の仕事を手掛けるけれど、これぞという作品はなさそうだ。その後、インドのラクナウに招かれていくつかの仕事をしている。ラクナウは、パトリック・ゲデスが都市計画に最も力を注いだ町だ。グリフィンは、シカゴでゲデスの講義を聴いたことがあるという。折しも、エドウィン・ラッチェンスの監督の下、ニューデリーが建設中であった。この繋がりが二〇世紀の都市計画史の綾である。彼らは何かを共有していたのだ。そして一方、果たして、一人の人間がひとつの都市を設計できるのか、という問いをグリフィンのキャンベラが投げかけ続けている。 


 

オーストラリアの都市と建築

布野修司

 

②グリーンウエイのシドニー

 シドニーの発祥の地、湾に面したザ・ロックスはヴィクトリア王朝時代の面影を今に残す。七〇年代から保存修景事業が展開され、観光客が蝟集する活気ある空間として蘇った。その一角にグリーンウェイという路地がある。小さな文字が書いてあるだけだから余程注意していないと気がつかない。フランシス・グリーンウェイ(一七七七~一八七三)という建築家が住んでいたのだという。

 このグリーンウェイは建築史上実にユニークな建築家といっていい。彼は死刑判決を受けてオーストラリアに流された囚人建築家なのである。経歴は定かではないが、ジョン・ナッシュと同じ住所にいたというから、それなりの訓練を受けた建築家であったことは疑いはない。英国にも三つの作品が知られている。しかし、請け負った仕事がうまくいかず、莫大な借金を背負って破産する。契約不履行は当時の法では死刑であった。

 折からグリーンウェイ展(一九九七年)が開かれていた。皮肉というか、ハイドパーク北の、かっての監獄が美術館に改装されていた。しかも、彼が設計した監獄だ。彼はウイリアム・チェンバースの建築書を持参していた。野心満々である。シドニーに到着する(一八一四年)や否やマクエアリー総督に取り入り、総督付き建築家になることに成功したのであった。

 展覧会には作品がプロットされた地図(一八三一年)があった。数え上げると四九にのぼる。マクエアリー・フォート、総督邸、最高裁、聖ジェイムズ教会などの他、住宅、倉庫などありとあらゆる施設を建設している。すごい建設量である。シドニーの初期の骨格はグリーンウェイによってつくられたのである。現在の中心街区には超高層ビルが林立する。しかし、グリーンウェイのシドニーを今猶歩いてみることが出来る。キャプテン・クックがボタニィ湾に上陸したのが一七七〇年、アーサー・フィリップ総督がジャクソン港に到着し、英国領としたのが一七八八年、グリーンウェイが活躍したのは一五〇年ほどの前だから、当然といえば当然かもしれない。

 グリーンウェイはシドニーに流されて、その名を残した。しかし、幸せだったかどうかはわからない。やがて総督付き建築家の職を解かれ、民間建築家として生きるが、生涯借金苦に悩まされるのである。しかし、小さな路地にその名が残り、一六〇年後に展覧会が催されたのだからもって瞑すべしであろう。

  

オーストラリアの都市と建築

布野修司

 

③サルマンのガーデン・サバーブ

 シドニー滞在中に「サルマンの息子たちに救われて」という新聞記事が眼にとまった。建築家協会のジョン・サルマン賞が六五周年を迎えるのを記念して展覧会が開かれており、その歴史を振り返る内容だった。賞制定の経緯に細かく触れ、現在の賞の問題点も指摘する鋭い記事だった。一般紙に建築に関する署名原稿が載るのはうらやましい。

 シドニーといえばオペラハウスだが、その周辺で一悶着が起こっていた。シドニー湾を囲むようにオフィスビルやコンドミニアムが建ち並び、オペラハウスの景観を駄目にするというのだ。大反対運動が起こった。普通町並みを乱すモニュメンタルな建築が槍玉に上がるけれど、ここでは凡庸なビルの方が駄目だ。建築文化のある水準を示している。 

 ところで、ジョン・サルマン(一八四九~一九三二年)とは何者か。英国王立建築家協会(RIBA)の会員だった彼がオーストラリアにやってきたのが一八八六年、フランシス・グリーンウェイの時代から半世紀が過ぎていた。彼はオーストラリアの建築界をリードするためにやってきて、その名を冠した賞が創設されるに相応しい仕事をなした。

 建築家としてはさしたる実績はない。その名声は専ら都市計画家、あるいは文筆家としてのものだ。冒頭の記事も、三〇年にわたる教育活動、デイリー・テレグラフのコラムニストの実績を主としてあげていた。しかし、彼の名はもう少し、知られていい。「タウン・プランニング」(都市計画)という言葉を世界で最初に使ったのがサルマンなのだ。

 一八九〇年にメルボーンで開かれた会議で「都市の配置(レイアウト)」という論文を発表したのが彼だ。こんなことは、日本の都市計画の教科書は教えてくれない。見るところ、オーストラリアにおいては都市計画がまず問題であった。サルマンは、そのキーパースンであり、一九一四年には都市計画協会の会長に就任している。

 もちろん、グリフィンのキャンベラ計画にも深く関わった。連邦行政府側の代表者としてグリフィンの案に介入したのがサルマンである。彼の理想としたのは田園都市のパターンである。直線的な幾何学パターンは非人間的だと思いこんでいた節がある。グリフィンのおおらかな軸線構成は気に入らなかった。彼の主張は余程大きかったのであろうか。オーストラリアの町の郊外は、全てくねくねと酔っぱらったような住宅地になっている。


2024年9月18日水曜日

「建築家」の居る場所,世紀末建築論ノートⅤ,学芸出版社,建築思潮05,1997(『裸の建築家』収録)

 「建築家」の居る場所

 

 日本の「建築家」

 日本の「建築家」とは何か。いささか気の重い問いである。すぐさま、日本に「建築家」は果たしているのか、という問いが返ってきそうなのである。

 一応日本では「建築士」の資格をもつのが「建築家」ということになるのかもしれない。「一級建築士」「二級建築士」「木造建築士」を合わせると八〇万人ぐらいになる*[i]。しかし、すべてが「建築家」というわけにはいかないし、そうした資格と関係なく「建築家」を自称し、あるいは周囲から認められている場合もある。「建築士」の資格をもった人材は、様々な場所に所属している。総合建設業や住宅メーカー、さらには様々な建材・部品メーカーなど建設産業に関わる諸分野、建築行政の分野などに、むしろ数多く分布する。「建築士事務所」ということになると、一級二級合わせて、一五万社ぐらいになるであろうか。「建築士事務所」といっても、「大手組織事務所」から「アトリエ事務所」まで様々であり、組織の主宰者と組織内の「建築士」との違いもある。

 「建築士」に関わる団体というと「日本建築士会」(連合会)*[ii]「全日本建築士会」*[iii]があるけれど、他に「日本建築家協会」(JIA)*[iv]、「日本建築協会」*[v]がある。また、「日本建築事務所協会」*[vi]がある。職能としての「建築家」の理念を掲げる団体が「日本建築家協会」であり、そこに所属するのが日本の「建築家」ということになるかもしれないのであるが、そこに所属しない「建築家」も少なくない。また、団体に加盟するかどうかが「建築士事務所」の質を実態として区別しているわけではない。

 「建築家」とは何か、明確な基準などないのである。建築に関わる全員が「建築家」を自称しうるし、また、定義によってはひとりも「建築家」などいないともいるのである。そうしたなかで、「建築家」と非「建築家」(建築屋)を区別する機能を担っているように思えるのが、建築に関するメディア(建築専門誌)である。建築ジャーナリズムに取り上げられ、そこに作品を発表することにおいて「建築家」として認知されるのである。また、いくつかの顕彰制度が「建築家」のランク分けに関わっている。

 メディアも顕彰制度も様々に階層化されており、「建築家」は序列化される。しかし、全体としてその評価システムは閉じており、建築業界内の「建築家」という評価は一般に知られることがない。マスコミで、「建築」が取り上げられる場合、「建築家」の名前が示されることがないことが日本の「建築家」の危うさを示している。一般には「建築」ではなく「建物」(建造物)であり、それを建てるのは「建築家」でなく「建設業者」なのである。

 

 「建築家」捜し

 原広司の「建築とは何か」を問うより、「建築に何が可能か」*[vii]を問うべきだというテーゼにならえば、「建築家」という概念を括弧にくくって、あるいは棚上げして、「建築家」に何ができるか、あるいは「建築家」は何をすべきかこそを問うべきかもしれない。

 磯崎新の『建築家捜し』という本のタイトルは意味深長である。その内容は、「建築家とは何か」を真正面から問うというより、自らの仕事を回顧し、一区切りをつけようとしたものである。一九九六年に入って、『造物主議論』(鹿島出版会)『始源のもどき』(鹿島出版会)『磯崎新の仕事術』(王国社)、そして『建築家捜し』(岩波書店)と立て続けに四冊の著書を磯崎は上梓したのであるが、確実に磯崎にとってのある時代が終わりつつあることを暗示していて興味深い。そして、さらに興味深いのは、日本の建築界をリードし続けたその磯崎が、自らの軌跡を振り返って、「建築家」とは一体何者なのかわからない、と言い切っていることである。

 「正直なところ、私には二つのコトが本当にわかっているように感じられなかった。ひとつは、普段に私が自称している建築家であり、もうひとつは日常的にそれについて仕事をしているはずの《建築》である。この二つのコトを排除したら私はなにも残っていないだろう。建築家を自称し、職業として登録している。そして、建築物のデザインをし、建築物についての文章を書き、これに関わる言説をひねり、文化や思想の領域にそれを接続しようとしてもいる。だが、と私は自問していた。本当のところ何もわかっちゃいないんじゃないか。」*[viii]

 磯崎ですらこうである。というより、ここには「建築家とは何か」という問いの平面が仮構されていることをまずみるべきだろう。「建築家」をめぐる観念的な、あるいは一般的な問いの領域が必要とされてきたのである。磯崎の「建築家」論には、その現実的な存在形態についての問いが抜けている。社会や生産システムのなかの「建築家」のあり方についての問いである。逆にいうと、「建築家」捜しを続けないと「建築家」がなりたたない現実があるということである。「建築家」の営為をなりたたせる平面、場所を仮構し続けながら、結局わからないといわざるを得ない、のである。

 

 「世界建築家」・・・デミウルゴスの末裔たち

 「建築家とは・・・である」と、古来様々なことがいわれてきた。いくつか集めてみたことがある*[ix]。アンブローズ・ビアス*[x]0の『悪魔の辞典』は「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」*[xi]1などと皮肉たっぷりであるけれど、決まって引かれるのは、最古の建築書、ヴィトルヴィウス*[xii]2の『建築十書』の第一書第一章である。

 「建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」

 「建築家」にはあらゆる能力が要求される、とヴィトルヴィウスはいうのだ。

 「建築家」という職能は相当古くからあった。ごく自然に考えて、ピラミッドや巨大な神殿、大墳墓などの建設には、「建築家」の天才が必要であったはずだ。実際、いくつかの建築家の名前が記録され、伝えられているのである。最古の記録は紀元前三千年ということだ。例えば、故事によれば、ジェセル王のサッカラ(下エジプト)の墓(ピラミッド複合体)は建築家イムヘテプ*[xiii]3によるものである。もっとも、彼は単なる建築家ではない。法学者であり、天文学者であり、魔術師でもあった。

 伝説の上では、ギリシャの最初の建築家はクレタの迷宮をつくったダエダルス*[xiv]4がいる。彼もただの建築家ではない。形態や仕掛けの発明家といった方がいい。ダエダルスというのは、そもそも技巧者、熟練者を意味する。

 磯崎新が「建築家」の原像として召喚するのがデミウルゴスである。

 「デミウルゴスは、プラトンが宇宙の創生を語るに当たって『ティマイオス』に登場させられた。宇宙は三つの究極原理によって生成する。造形する神としてのデミウルゴス、眼にみえぬ永遠のモデルとしてのイデア、存在者を眼にみえさせる鋳型のような役割をする受容器(リセプタクル)としての場(コーラ)。デミウルゴスは、可視的な存在としての世界を、イデアをモデルとしての場(コーラ)のふるいにかけた上で生成する役割を担わされている。」*[xv]5

 磯崎新の「造物主義」という論文は、デミウルゴス(という概念)*[xvi]6の帰趨を論ずる形の西洋建築史の試みである。

 「デミウルゴスは、『ティマイオス』においては造物主、グノーシス主義においては神の使者、フィチーノにおいては芸術家、フリーメーソンでは大宇宙の建築家、ニーチェにおいてはツァラストラと姿を変えて語られてきた。そして、今日ではテクノクラートのなかにエイリアンのように寄生しているようにみうけられる。」*[xvii]7

 デミウルゴスは、元来、靴屋や大工のような手仕事をする職人を指している。必ずしも万能の神のように完璧な創造をするわけではない。グノーシス主義においては「欠陥ある被造物」にすぎない。僕らはここでオイコス(家)に関わる職人としてのオイコドモス、オイコドミケ・テクネ(造家術)と「アーキテクトニケ・テクネ」(建築術、都市術)の系譜を歴史に即して跡づけるべきなのであろう*[xviii]8

 しかし、宇宙の創生神話と結びついたデミウルゴスのイメージは強烈である。根源的技術(アーキ・テクトン)を司る「建築家=アーキテクト」の概念にも確実にデミウルゴスの概念が侵入しているのである。

 「建築家」は、すべてを統括する神のような存在としてしばしば理念化される。この神のごとき万能な造物主としての「建築家」のイメージは極めて根強い。ルネサンスの人々が理念化したのも、万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)としての建築家である。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ*[xix]9、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠であった。

 多芸多才で博覧強記の「建築家」像は今日でも建築家の理想である。近代建築家を支えたのも、世界を創造する神としての「建築家」像であった。彼らは、神として理想都市を計画することに使命感を抱くのである。

 そうしたオールマイティーな「建築家」像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。時々、誇大妄想狂的な建築家が現れて顰蹙をかったりする。「建築家」になるためには、強度なコンプレックスの裏返しの自信過剰と誇大妄想が不可欠という馬鹿げた説が建築界にはまかり通っている程である。A.ヒトラー*[xx]0がいい例だ。かって、「建築家」はファシストか、と喝破した文芸評論家がいたのだけれど、「建築家」にはもともとそういうところがある。

 

 分裂する「建築家」像

 「建築家」の社会的な存在形態は、時代とともに推移していく。S.コストフの編んだ『建築家』*[xxi]1という本が、エジプト・ギリシャ、ローマ、中世、ルネサンス、・・・と、各時代の建築家について明らかにしているところだ。その中では、ジョン・ウイルトンエリーがイギリスにおける職業建築家の勃興について書いている*[xxii]2

  イギリスで最初に自らを建築家と呼んだのは、イニゴー・ジョーンズ*[xxiii]3(一573ー一652年)ではなくてジョン・シャテである。一五六三年のことだ。その出自は定かではないが、イタリアで学んだらしい。彼は、ヴィトルヴィウス*[xxiv]4、アルベルティ*[xxv]5、セルリオ*[xxvi]6を引きながら、ルネサンスの普遍人としての「建築家」を理想化する。描画、測量、幾何学、算術、光学に長けているだけでなく、医学、天文学、文学、歴史、哲学にも造詣が深いのが「建築家」である。ウイルトンエリーは、もちろん、シャテの理想が受け入れられる社会的背景を明らかにした上で、まずはサーヴェイヤー(監督 測量士)が生まれてくる過程を跡づける。フリー・メイソンのロバート・スミッソンなどの名前が最初期のサーヴェイヤーとして知られる。そして、イニゴー・ジョーンズの時代が来る。

 時代は下って、一八世紀後半に至ると、デザイナーであり、サーヴェイヤーであり、学識者である「建築家」のプロフェッションが社会的に認知されてくる。それを示すのが、「建築家」のオフィスや教育機関の設立である。また、「建築家」の諸団体の成立である。

 ジョージ・ダンス*[xxvii]7、ヘンリー・ホランド等によって「建築家クラブ」が設立されたのは一七九一年のことである。チェンバース*[xxviii]8、アダムズは後に加わるのであるが、そのクラブは極めて排他的であり、メンバーは王立アカデミー会員に限定されたものであった。一種のサロン、ダイニング・クラブであるが、最初の「建築家」の団体が極めて特権的なものとして設立されたことは記憶されていい。まずは、新しい職能としての「建築家」と伝統的な「建築家」の区別が行われるのである。さらに、サーヴェイヤーとアーキテクトの区別がはっきりしてくる。「サーヴェイヤーズ・クラブ」が設立されるのは一七九二年のことであった。一七七四年に建築基準法(ビルディング・アクト)が施行されており、それに基づいた職能が社会的に認知されたことに対応してつくられたのである。

  同じ分離は、エンジニアとアーキテクトの間にも起こる。一七七一年に「シビル・エンジニア協会」が設立され、一八一八年には「シビル・エンジニア協会」が設立されるのである。エンジニアとアーキテクトの関係が決定的になるのは「英国建築協会」(RIBA)の設立(一八三四年)からであり、ビクトリア女王が王立の名を与えて(一八六六年)からのことである。

 

 落ちぶれたミケランジェロ

 アーキテクトの職能確立の過程で以上のような分離、分裂が始まっていた。否、むしろ、今日の「建築家」の理念は、以上のような分離、分裂において成立したとみるべきであろう。

 以後、広く流布する「建築家」像が「フリー・アーキテクト」である。フリーランスの「建築家」という意味である。今でも建前として最も拠り所にされている「建築家」像である。すなわち、「建築家」は、あらゆる利害関係から自由な、芸術家としての、創造者としての存在である、というのである。もう少し、現実的には、施主と施工者の間にあって第三者的にその利害を調整する役割をもつのが「建築家」という規定である。施主に雇われ、その代理人としてその利益を養護する弁護士をイメージすればわかりやすいだろう。医者と弁護士と並んで、「建築家」の職能もプロフェッションのひとつと欧米では考えられている。

 もちろん、こうした「建築家」像は幻想である。いかなる根拠においてこうした「建築家」がなりたつのか。すなわち、「第三者」でありうるのか。その根拠として、西欧的市民社会の成熟、あるいはキリスト教社会におけるプロフェッションの重みが強調されるけれど、「建築家」たちが社会的に存在するにはそれを支える制度がある。建てる論理の前に食う論理がある。ジョージ・ダンスの建築家クラブも、専ら報酬のことを問題としていた。

 彼らは、「建築家」という理念の解体を目前にしながら、その理念を幻想として維持するために特権的な制度=インスティチュートをつくったのである。「建築家」は、予め、先の諸分裂に加えて、建てる論理と食う論理の分裂を自らの内に抱え込みながらながら成立したのだといっていい。そして、イギリスにおいて、そうした幻想としての「建築家」像を担保したのは「王立」組織(「王権」)であり、「神」(あるいはデミウルゴス)であった。

 しかし、いずれにせよ、万能人としての「建築家」像の分裂は、近代社会において誰の眼にも明らかになった。その分裂は、多くのすぐれた「建築家」の嘆くところとなる。

 「偉大な彫刻家でも画家でもないものは、建築家ではありえない。彫刻家でも画家でもないとすれば、ビルダー(建設業者)になりうるだけだ」 ジョン・ラスキン

 「ローマの時代の有名な建築家のほとんどがエンジニアであったことは注目に値する」 W R レサビー

 「建築家の仕事は、デザインをつくり、見積をつくることである。また、仕事を監督することである。さらに、異なった部分を測定し、評価することである。建築家は、その名誉と利益を検討すべき雇い主とその権利を保護すべき職人との媒介者である。その立場は、絶大なる信頼を要する。彼は彼が雇うものたちのミスや不注意、無知に責任を負う。加えて、労働者への支払いが予算を超えないように心を配る必要がある。もし以上が建築家の義務であるとすれば、建築家、建設者(ビルダー)、請負人の仕事は正しくはどのように統一されるのであろうか。」ジョーン・ソーン卿

 「歴史と文学を知らない弁護士は、機械的な単に働く石工にすぎない。歴史と文学についての知識をいくらかでももてば、自分を建築家だといってもいいかもしれない。」 ウォルター・スコット卿

 「建築家とは、今日思うに、悲劇のヒーローであり、ある種の落ちぶれたミケランジェロである」とニコラス・バグナルはいう。

 

 建築士=工学士+美術士

 「建築」あるいは「建築家」という概念が日本にもたらされて以来、日本も西欧の「建築」あるいは「建築家」をめぐる議論を引きずることとなった。あるいは「建築家」という幻想に翻弄されることになった。

 お雇い外国人技術者として日本に招かれたJ.コンドルは、シビル・エンジニアとアーキテクトの分離を前提として、イギリスからやってきた。しかし、サーヴェイヤーとアーキテクトの分離はJ.コンドルにおいて未分化だったといえるかもしれない。彼に求められたのは、何よりも実践的な技術であり、「建築家」としての実践であった。彼の工部大学校における講義は、「造る術」の全般に及ぶのである*[xxix]9

 J.コンドルを通じて、日本には、なにがしかの全体性をもった概念として「建築家」がもたらされたといってもいいかもしれない。しかし、富国強兵、殖産興業の旗印のもと、予め工学の枠を前提として「建築」が「技術」として導入されたことは日本の「建築家」を独特に方向づけることになった。美術ですら「技術」の一範疇として西欧から導入されたのが日本の近代なのである。

 そうした日本の「建築」の出自において、「建築」の本義を論じて、その理念の受容をこそ主張したのが伊東忠太であった*[xxx]0。その卒業論文『建築哲学』にしろ、建築学における最初の学位論文である『法隆寺建築論』にしろ、建築を美術の一科として成立させようという意図で貫かれているのである。

 しかし、日本の場合、地震という特殊な条件がさらにあった。建築における構造学を中心とする工学の優位はすぐさま明らかとなる。当初から、「建築」は分裂をはらんで導入されたのであった。建築における美術的要素の強調は、建築家の定義をめぐって、せいぜい「建築士=工学士+美術士」といったプラス・アルファーの位置づけに帰着するものでしかなかったのである。素朴な用美の二元論と同相の建築家像の二元論は、大正期の建築芸術非芸術論争に引き継がれ、いわゆる「芸術派」(自己派、内省派)と「構造派」の分裂につながっていく。明治末から大正期にかけて、住宅問題、都市問題への対応を迫られるなかで、「社会改良家としての建築家」(岡田信一郎)という概念も現れる。そして、大正末から昭和はじめにかけて、「芸術派」批判として「社会派」が定着していくことになる。しかし、それも、もうひとつ分裂の軸を付け加えるだけであった。「建築家」における「芸術派」「構造派」「社会派」の、相互につかず離れずの三竦(すくみ)みの構造は今日に至るまで生き延びることになる。日本における「建築」論がそうしたいくつかの分裂を背景として仮構されたのは明らかである。

 

 重層する差別の体系

  こうして、日本の建築界にはいくつもの分裂が組み込まれていく。日本の「建築家」像を問うのがうんざりするのは、様々な差別が重層するその閉じた構造の故にである。

 まず、建築(アーキテクチャー)と建物(ビルディング)の区別がある。それに対応して、「建築家」と「建築屋」の区別がある。

 あるいは、「建築」と「非建築」の区別がある。数寄屋は「建築」ではない。大工棟梁、職人の世界は「建築家」の世界と区別される。

 「建築」と「住宅」も区別される。さらに「住宅作品」と「住宅」が区別される。そうした区分に応じて「建築家」と「住宅作家」が区別される。

 「構造」と「意匠」が区別される。かって、「意匠」図案は婦女子のやること(佐野利器)とされたのであるが、なぜか「意匠」を担当するのが「建築家」だという雰囲気がある。さらに、建築界の専門分化に応じて、様々な区別がなされる。全体として、「建築家」と「技術屋」(エンジニア)が区別される。

 「設計」と「施工」が区別される。それに対応して、「建築士」と「請負業者」が区別される。この「設計」「施工」の分離をめぐっては、近代日本の建築史を貫く議論の歴史がある。建築士法の制定をめぐる熾烈な闘争の歴史がそうだ*[xxxi]1。戦前における、いわゆる「六条問題」、兼業の禁止規定問題は、「日本建築士会」と建設業界の最大の問題として、戦後の「建築士法」制定(一九五〇年)にもちこされるのである*[xxxii]2

 さらに、六〇年代における設計施工一貫か、分離かという建築界あげての論争が続く。そして、七〇年代は、日本建築家協会の設計料率の規定が公正取引委員会の独禁法違反に当たるという問題(「公取問題」)で建築界は揺れ続けた。

 冒頭に触れたように、法制度的には「建築士」という資格があるだけである。この「建築士」も「一級建築士」「二級建築士」「木造建築士」と差別化されている。資格だから、その業務の形態は、様々でありうる。総合建設業の組織内部の「建築士」、住宅メーカーのなかの「建築士」、自治体のなかの「建築士」など、企業組織のなかの「建築士」がむしろ一般的である。この点、古典的な「建築家」の理念を掲げる日本建築家協会を拠り所とする「建築家」たちも同じである。建築士事務所を主宰する場合、その組織は株式会社であり、有限会社であり、一般に利益追求する企業形態と変わりはないのである。その料率規定が独禁法に問われても仕方がないことであった。その高邁な「建築家」の理想を担保するものはないのである。だからこそ「職能法」の制定が求められ続けてきた、といえるのだけれど、「建築家」という職能を特権的に認知する社会的背景、基盤はないのである。

 「建築士事務所」も「組織事務所」と「アトリエ(個人)事務所」に分裂する。実態は同じであるけれど、建築ジャーナリズムが主としてその区別を前提とし、助長しているようにみえる。小規模な「建築士事務所」も、いわゆる「スター・アーキテクト」の事務所から、専ら確認申請のための設計図書の作成を業務とするいわゆる「代願事務所」まで序列化されている。

 建築教育に携わる「プロフェッサー・アーキテクト」は唯一特権的といえるかもしれない。「建築家」教育という理念が唯一の統合理念でありうるからである。しかし、実態として大学の空間で、要するに建築の現場から離れて、「建築家」教育ができるわけではない。という以前に、大学の建築教育のなかに以上のような様々なが分裂が侵入してしまっている。また、工業高校、工業専門学校等々を含めて、偏差値社会の編成によって大学も序列化され、産業界に接続されている。

 さらに、「施工」の世界、すなわち建設業界には、いわゆる重層下請構造がある。スーパー・ゼネコンに代表される総合建築業者がいくつかの専門工事業者(サブコン)を下請系列化し、専門工事業者は、また、二~三次の下請業者をもつ。数次の下請構造の末端が寄せ場である。ゼネコンのトップの意識のなかでは、寄せ場へ至るリクルートの最末端は、まるで別世界のことのようである。しかし、ゼネコン・トップは公共事業の受注をめぐって政治の世界と結びつき、地域へと仕事を環流させる役割を担って最末端に結びついている。そして、そこに建築行政の世界が絡まり合う。

 

 「建築家」の諸類型 

 こうした重層する差別体系のなかで個々の「建築家」は何をターゲットにしているのか。すべての建築家論の基底において問われるのは、その「建築家」がどこに居て何を拠り所としているかということだ。

 『アーキテクト』*[xxxiii]3という面白い本がある。アメリカの建築界が実によくわかる。日本の「建築家」は、欧米の建築家の社会的地位の高さを口にするけれど、そうでもないのである。その最後に、建築家のタイプが列挙してある。日本でも同じように「建築家」を分類してみることができるのではないか。

 名門建築家 エリート建築家  毛並がいい

 芸能人的建築家 態度や外見で判断される 派手派手しい

 プリマ・ドンナ型建築家   傲慢で横柄   尊大

 知性派建築家  ことば好き 思想 概念 歴史 理論 

 評論家型建築家  自称知識人 流行追随

 現実派建築家  実務家 技術家

 真面目一徹型建築家  融通がきかない 

 コツコツ努力型建築家  ルーティンワーク向き

 ソーシャル・ワーカー型建築家  福祉 ボトムアップ ユーザー参加

 空想家型建築家  絵に描いた餅派

 マネージャー型建築家 運営管理組織

 起業家型建築家  金儲け

 やり手型建築家  セールスマン

 加入好き建築家  政治 サロン

 詩人・建築家型建築家  哲学者 導師

 ルネサンス人的建築家

 ここまで多彩かどうかは疑問であるけれど、日本の建築家を当てはめてみるのも一興であろう。しかし、もう少し、具体的な像を議論しておいた方がいい。「建築家」の居る場所は、結局は、何を根拠として何を手がかりに表現するかに関わるのである。

 今日、「建築家」といっても、郵便配達夫シュバルやワッツ・タワーのサイモン・ロディアのような「セルフビルダー」を除けば、ひとりで建築のすべてのプロセスに関わるわけではない。建築というのは、基本的には集団作業である。その集団の組織のしかたで建築家のタイプが分かれるのである。

 

  制度の裂け目

 建築界の重層的かつ閉鎖的な差別、分裂の構造をどうリストラ(改革)していくかはそれ自体大きなテーマである。「建築士」の編成に限っても大問題である。建設業のリストラになると日本の社会全体の編成の問題に行き着く。「建築士法」の改定、「建築基準法」の改正など、具体的に例えばインスペクター(検査士)制度の導入、あるいは街づくりにおける専門家派遣制度などをめぐる議論が構造変化に関わっているけれど、全体的な制度改革は容易ではないだろう。既成の諸団体が重層的な差別体系のなかで棲み分け合っている構造を自ら変革するのは限界がある。また、一朝一夕にできることではないだろう。

  そこで期待されるのが外圧である。日米構造協議、ISO9000、輸入住宅、建設産業に限らないけれど、この国は外圧に弱い。しかし、国際的に閉じた構造を外部から指摘されて初めて問題を認識するというのはあまりにも他律的である。もう少し、自律的な戦略が練られるべきであろう。指針は、開くことである。

 あまりに日本の「建築家」をめぐる環境にはブラックボックスが多すぎる。その閉じた仕組みをひとつひとつ開いていくことが、日常的に問われている。そして、その問いの姿勢が「建築家」の表現の質を規定することになる。諸制度に対する姿勢、距離の取り方によって「建築家」は評価されるべきなのである。

 既存の制度、ルーティン化したプログラムを前提として表現するのであれば、「建築家」はいらないだろう。「建築家」を簡単に定義するとしたら、以上のように規定すればいいのではないか。すなわち、その依って立つ場所を常に開いていこうとする過程で表現を成立させようとするのが「建築家」なのである。なにも、高邁な「建築家」の理念を掲げる必要はない。高邁な理念を掲げながら、悲惨な現実に眼をつむるのだとしたらむしろ有害である。閉じた重層する差別の構造を開いていくこと、制度の裂け目から出発することが最低限の綱領ではないか。

 例えば、設計入札、例えば、疑似コンペ、少しの努力で構造変革が可能なことも多いのである。

 

 以上のささやかな指針を前提として、いくつか、これからの日本の「建築家」像を夢想してみよう。

 

 アーキテクト・ビルダー

 C.アレグザンダーの主張するアーキテクト・ビルダーという概念がある。「建築家」は、ユーザーとの緊密な関係を失い、現場のリアリティーを喪失してきた。それを取り戻すためには、施工を含めた建築の全プロセスに関わるべきというのである。アーキテクト・ビルダーとは、アーキテクトとビルダーの分裂を回復しようというわかりやすいことばである。

 中世のマスタービルダーの理念が想起されるけれど、あくまでアーキテクトの分離が一旦前提とされるべきであろう。日本では設計施工の一貫体制が支配的であり、アーキテクトという概念が根付いていないからその主張は混乱を生んだように思う。また、C.アレグザンダーは、盈進学園で実践してみせたように、建物の規模を問わず、一般的にありうべき「建築家」の理念として提示するのであるが、一定の規模の建築を超えると非現実的と思える。

 しかし、少なくとも、身近な住宅規模の建築については、個人としての「建築家」が設計施工の全プロセスに関わることが可能である。また、基本的に設計施工一貫の体制が必要であり自然である。大工棟梁、小規模な工務店がこれまでそうした役割を果たしてきたのである。ところが、住宅生産の工業化が進行し、様々な生産システムが混在するなかで、在来の仕組みは大きく解体変容を遂げてきた。その再構築がひとつのイメージになるだろう。大工工務店の世界、二級建築士、木造建築士の世界がアーキテクト・ビルダーという理念のもとに統合されるのである。

 一般的にはCM(コンストラクション・マネージメント)方式を考えればいいだろう。ゼネコンという組織に頼るのではなく、「建築家」自らと専門工事業(サブコン)が直接結びつくネットワーク形態が考えられていいのである。

 

  サイト・スペシャリスト

 アーキテクト・ビルダーが連携すべきは職人の世界である。職人の世界も急速に解体変容してきた。建設産業への新規参入が減少し、現場専門技能家(サイト・スペシャリスト)の高齢化が進行するなかで、建設産業の空洞化が危惧される。

 現場でものを造る人間がいなくなれば「建築家」もなにもありえないのであって、職人の世界の再構築が大きな課題となる。その場合、ひとつのモデルと考えられるのが、ドイツなどのマイスター制度である。

 マイスター制度は、ひとつの職人教育のシステムであるけれど、より広く社会そのものの編成システムである。ポイントは、社会的基金によって職人とそのすぐれた技能が継承されていく仕組みである。具体的には、建設投資の一定の割合が職人養成に向けられる仕組みがつくられる必要がある。

 その仕組みの構築は、社会全体の編成に関わるが故に容易ではない。しかし、職人の世界が社会の基底にしっかり位置づけられない社会に建築文化の華が咲く道理はない。机上の知識を偏重する教育や資格のあり方は、現場の智恵や技能を重視する形へと転換する必要がある。また、現場の技能者、職人のモデルとしてのマイスターが尊重される社会でなければならない。

 重視さるべきは、「職長」あるいは「現場監督」と呼ばれる職能である。おそらく、すぐれた「現場監督」こそアーキテクト・ビルダーと呼ばれるのに相応しいのである。

 

 シビック・アーキテクト・・・エンジニアリング・アーキテクト

 建築と土木、あるいは、エンジニアとアーキテクトの再統合も課題となるであろう。建築と土木の分裂は、都市景観を分裂させてきたのであり、その回復が課題となるとともに、土木も建築も統一的に計画設計する、そうした職能が求められるのである。

 その出自において「建築家」に土木と建築の区別はない。「建築家」は、橋梁や高速道路、あるいは造園の設計についての能力も本来有していると考えていい。土木構築物の場合、構造技術そのものの表現に終始するきらいがあった。いわゆるデザインが軽視されてきた歴史がある。今後、景観デザインという概念が定着するにつれて、シビック・アーキテクトと呼ばれる「建築家」像が市民権を得ていく可能性があるのである。

 その場合、構造デザイナーとしての資質が不可欠となる。デザイン・オリエンティッドの構造家、アーキテクト・マインドをもった構造家がその最短距離にいるといえるだろう。もっとも、構造技術を含めた建築の諸技術をひとつの表現へと結晶させるのが「建築家」であるとすれば、すべての「建築家」がシビック・アーキテクトになりうるはずである。

 

 マスター・アーキテクト

 計画住宅地や大学キャンパスなど複合的なプロジェクトを統合する職能として、マスターアーキテクトが考えられ始めている。ここでも、ある種の統合、調整の役割が「建築家」に求められる。

 素材や色、形態についての一定のガイドラインを設け、設計者間の調整を行うのが一般的であるが、マスター・アーキテクトの役割は様々に考えられる。個々のプロジェクトの設計者の選定のみを行う、コミッショナー・システムあるいはプロデューサー・システムも試みられている。

 プロジェクト毎にマスター・アーキテクトを設定する試みはおそらく定着していくことになるであろう。法的な規制を超えて、あるまとまりを担保するには、ひとりのすぐれた「建築家」の調整に委ねるのも有力な方法だからである。ただ、マスター・アーキテクトに要求される資質や権限とは何かを、一般的に規定するのは難しそうである。マスター・アーキテクトと個々の「建築家」を区別するものは一体何かを問題にすると、その関係は種々の問題をはらんでくる。設計者の選定に関わるマスター・アーキテクトとなると、仕事の発注の権限を握ることになるのである。

 もう少し一般的にはPM(プロジェクト・マネージャー)の形が考えられるだろう。その場合には、デザインのみならず、資金計画や施工を含めたプロジェクトの全体を運営管理する能力が求められる。現代社会においては、とても個人にその能力を求めることはできないように思えるけれど、社会的に責任を明確化したシステムとして、マスター・アーキテクト、あるいはプロジェクト・マネージャーが位置づけられていく可能性もあるかもしれない。

 

 タウン・アーキテクト

 自治体毎に日常的な業務を行うマスター・アーキテクトを考えるとすると、タウン・アーキテクト制度の構想が生まれる。ヨーロッパでは、歴史的に成立してきた制度でもある。

 ある街の都市計画を考える場合、この国の諸制度には致命的な欠陥がある。個々の事業、建設活動が全体的に調整される仕組みが全くないのである。都市計画行政と建築行政の分裂がある。さらに縦割り行政の分裂がある。例えば、鉄道駅周辺の再開発の事例などを考えてみればいい。諸主体が入り乱れ、補助金に絡む施策の区分が持ち込まれる。それを統一する部局、場がない。個々のデザインはばらばらになされ、調整する機関がない。日本の都市景観は、そうした分裂の自己表現である。こうした分裂も回避されねばならないだろう。

 本来、一貫してまちづくりに取り組み責任を負うのは自治体であり、首長である。日常的な都市計画行政、建築行政において、調整が行われてしかるべきである。しかし、首長には任期があり、担当者も配置替えがあって一貫性がない。タウン・アーキテクト制は、一貫して個々の事業、建設活動を調整する機関として必要とされるはずなのである。

 本来、それは建築行政に関わる建築主事の役割かもしれない。全国で二〇〇〇名弱、あるいは全国三三〇〇の自治体毎に能力をもったタウン・アーキテクトが居ればいいのである。

 しかし、建築主事が建築確認行政(コントロール行政)に終始する現状、建築主事の資格と能力、行政手間等を考えると、別の工夫が必要になる。ヨーロッパでも、行政内部に建築市長を置く場合、ひとりのタウン・アーキテクトを行政内部に位置づける場合、「建築家」を招いて、「アーバン・デザイン・コミッティー」を設置する場合など様々ある。

 日本でも、コミッショナー・システム以外にも、建築審議会、都市計画審議会、景観審議会など審議会システムの実質化、景観アドヴァイザー制度や専門家派遣制度の活用など、既に萌芽もあり、自治体毎に様々な形態が試みられていくことになるだろう。

 

 ヴォランティア・アーキテクト

 タウン・アーキテクト制を構想する上で、すぐさまネックになるのが「利権」である。ひとりのボス「建築家」が仕事を配るそうした構造がイメージされるらしい。また、中央のスター「建築家」が地域に参入するイメージがあるらしい。タウン・アーキテクト制の実施に当たっては一定のルール、その任期、権限、制限などが明確に規定されねばならないであろう。

 ひとりの「建築家」がタウン・アーキテクトの役割を担うのは、おそらく、日本ではなじまない。デザイン会議などの委員会システムなどが現実的であるように思える。しかし、いずれにしろ問題となるのは、権限あるいは報酬である。地域における公共事業の配分構造である。

 期待すべきは、地域を拠点とする「建築家」である。地域で生活し、日常的に建築活動に携わる「建築家」が、その街の景観に責任をもつ仕組みとしてタウン・アーキテクト制が考えられていいのである。

 あるいは、ヴォランティア組織(NPO)の活用が考えられる。建築・都市計画の分野でも、ヴォランティアの派遣のための基金の設立等、既にその萌芽はある。大企業の社員が一年休暇をとって海外協力隊に参加する、そんな形のヴォランティア活動は建築、都市計画の分野でも今後増えるであろう。現場を知らない「建築士」が現場を学ぶ機会として位置づけることもできる。

 しかし、ここでも問題は、「まちづくりの論理」と業として「食う論理」の分裂である。住民参加を主張し、住民のアドボケイト(代弁者)として自ら位置づける「建築家」は少なくない。しかし、その業を支える報酬は何によって保証されるのか。多くは、行政と「住民」の間で股裂きにあう。あらゆるコンサルタントが、実態として、行政の下請に甘んじなければならない構造があるのである。

  

 こうして可能な限り日本のリアティに引き寄せてありうべき「建築家」をイメージしてみても、袋小路ばかりである。既存の制度をわずかでもずらすことが指針となるのはそれ故にである。今、日本で注目すべき「建築家」、すなわち「建築家」論が可能となる「建築家」は、様々なレヴェルで制度との衝突葛藤を繰り広げている「建築家」なのである。

 しかし、その一方で、「世界建築家」の理念、「デミウルゴス」のイメージは生き続けるであろう。宇宙を創造し、世界に秩序を与える「神」としての「建築家」の理念は、錯綜する貧しい現実を否定し、その実態に眼をつむるために、再生産され続けるのである。



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*[vii] 原広司、『建築家に何が可能か』、学芸書林、一九六八年

*[viii] 磯崎新、『建築家捜し』、岩波書店、一九九六年七月、p12

*[ix] 拙稿、「現代建築家」、宮内康・布野修司編『現代建築』、新曜社、一九九二年所収

*[x] アンブローズ・ビアス Ambrose Gwinnett Bierce 一八四二~一九一四?。アメリカのジャーナリスト、作家。『兵士と市民の物語』(一八九一)など一二巻の全集(一九〇九~一二)がある。『冷笑家用語集』(〇六)を増補して『悪魔の辞典』(一一)。芥川龍之介が日本へ紹介した。

*[xi] Charles Knevitt(Ed.):Perspectives An Anthology of 1001 Architectural Quotations, Bovis, London, 1986より

*[xii]

*[xiii]  イムヘテプ Imhetep エジプト第三王朝のジェセル王に仕えた宰相。ヘリオポリスの神官でもある。サッカラにあるジェセル王の階段ピラミッド及び陵墓群を建設したことで知られる。名前の知られる最古の建築家である。また、医者であったとも言われ、プトレマイオス王朝時代には医術の神と見なされ、ギリシャでは医神アスクレピオスと同一視された。

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*[xv] 磯崎新、『造物主議論 デミウルゴモルフィズム』、鹿島出版会、一九九六年三月、p10

*[xvi] デミウルゴス demiourgos 公共demiosdemos 国家、市民)のために働くものergatesergon 仕事)を意味する古代ギリシャ語。農業以外の活動で生計をたてる者をさし、金属工、陶工、石工などから、占者、医者、楽人などを含んでいた。その後、都市国家の役員の名称となった。

*[xvii] 磯崎新、『造物主議論』、p103

*[xviii] 田中喬は、「オイコドモス」を建築家、「アーキテクトン」を棟梁と訳す例があるといいながら、「オイコドミケ・テクネ」を「造る術」、「アーキテクトニケ・テクネ」を「使う術」と位置づける。「破壊の現象学」、渡辺豊和との対談、『建築思潮』04、一九九六年二月。田中喬著『建築家の世界 住居・自然・都市』、ナカニシヤ出版、一九九二年。

*[xix] ミケランジェロ  Michelangelo Bounarroti 一四七五~一五六四。イタリアの彫刻家、画家、建築家、詩人。

*[xx] Adolf Hitler 一八八九オーストリア・ブラウナウ生~一九四五年。ヒトラーは、一九〇七年、ウイーン美術アカデミーの美術科を受験して失敗している。その後、絵画より建築に興味がむかったとされる。『わが闘争』上下(平野一郎他訳、角川文庫、一九七三年)は、いくつかの箇所で建築への夢を語っている。所詮三流の建築家と筆が滑ったが、建築家として才能があったという評価もA.シュペアー他ある。

*[xxi] S. Kostof(Ed.):"The Architect---Chapters in the History of the Profession", Oxford University Press, 1977

*[xxii]  John Wilton-Ely:'The Rise of the Professional Architect in England' in "The Architect"

*[xxiii]

*[xxiv] ウィトルウィルス,マルクス Marcus Vitruvius Pollio[生没年不詳]前一世紀の古代ローマの建築家,技術家.アウグストウス帝に献じた『De architectura libri decem,森田慶一訳:ウィトルウィウス建築書』によって知られる.この書は,古代建築の形式や材料,神殿,公共建造物,住宅,都市計画,軍事,天文学,機械などにつ

いて論じたもので,ルネサンスの建築家に強い影響を与えた。

*[xxv] アルベルティ Leon Battista Alberti  一四〇四フィレンツェ~七二。イタリアの建築家.あらゆる学問と技術に通じた.いわゆる万能の天才で,それゆえディレッタント建築家と規定される.建築の実際の上では,壁のマッスを強調したモニュメンタルな造形を特徴としている.リミニのサンフランチェスコ聖堂を改造したテンピオマラテスティアーノ(一四五〇~五五)は,ファサードに古代ローマの記念門形式を採用したものとして,また,フィレンツェのサンタマリアノヴェラ聖堂のファサード(一四五六~七〇),同地のパラッツオルチェライ(一四四六ごろ~五一ごろ)は秩序ある壁面構成の例として知られている.その他,マントヴァのサンセバスティアーノ聖堂(一四六〇)および同地のサンタンドレア聖堂(一四七二実施)などがある.理論家としては,一四三五年に『Dellapittura(三輪福松訳:絵画論)』を完成し,一四五二年には『De re aedificatoria(相川浩訳:建築論,一四八五刊)』を完成した。

*[xxvi]  セルリオ,セバスティアーノ Sebastiano Serlioh[一四七五~一五五四]イタリアルネサンスの建築家,理論家.ボローニャ生れ.B.ペルッツィの弟子.ローマ,ヴェネツィアで活動の後,フランス国王フランソワ一世に招かれてフォンテーヌブローに移り(一五四一),同地で没した.代表作はアンシルフラン館(一五四六着工).著書『Regole generali di architetturaetcdegli edifici(七巻,一五三七~五一)』は建築史上極重要.

*[xxvii]

*[xxviii]  チェンバース  Sir William Chambers 一七二六ストックホルム~九六。イギリスの建築家・造園家。東インド会社の社員として、極東各地を旅行(四〇~四九)。『中国の建築・家具・衣服・機械器具のデザイン』(五七)『東洋庭園論』(七二)を著す。「キューガーデンズ」「サマセットハウス」など。

*[xxix] 当初の講義は、建築の歴史と構築(ビルディング・コンストラクション)であった。

*[xxx] 拙稿、「近代日本における「建築学」の史的展開」、『新建築学体系1 建築概論』、彰国社、

*[xxxi]  日本建築学会編、『近代日本建築学発達史』、第一二編「職能」

*[xxxii] 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、一九九五年、「第三章 近代化という記号」「Ⅱ 近代化という記号 戦後建築運動の展開」

*[xxxiii]  R.K.ルイス、『アーキテクト』、六鹿正治訳、鹿島出版会