オーストラリアの都市と建築 1 グリフィンのキャンベラ,日刊建設工業新聞,19980220
オーストラリアの都市と建築 2 グリーンウエイのシドニー,日刊建設工業新聞,19980306
オーストラリアの都市と建築 3 サルマンのガーデンサバーブ,日刊建設工業新聞,19980327
オーストラリアの都市と建築
布野修司
①グリフィンのキャンベラ
ブラック・マウンテンのテレコム・タワーに上ってみる。キャンベラの全貌が見渡せる。足下に国立植物園、オーストラリア国立大学の森があり、その先に続いてシティ・ヒルの高層ビル群が見える。そして、バーリー・グリフィン湖を挟んで、キャピタル・ヒルの森と建物群が見え隠れする。中央にあるのが四角錐のフレームを頂いた国会議事堂(一九八八年)である。キャンベラは今猶建設中だ。
樹木の間に直線の幹線街路の幾何学模様がくっきりと浮かび上がる。まるで図面を見るようだ。この都市計画の図面を引いた男、それが湖にその名を残すウオルター・バーリー・グリフィン(一八七六~一九三七)である。グリフィンの名は、オーストラリアでは著名だ。湖の畔(ほとり)にある国立首都計画館は言ってみればグリフィン館で、多くの観光客が訪れている。しかし、近代建築の歴史の中では忘れ去られてきた。
グリフィンはシカゴに生まれ、フランク・ロイド・ライトの下で建築を学んだ。そして、その名を一躍著名にしたのが「オーストラリア連邦首都計画」国際コンペ(一九一一~一二年)一等入選である。一種の事件であった。
幹線街路の軸線の焦点には必ず小高い山がある。単純な幾何学ではなく、地形を周到に読みながら軸線を定めていく、ランドスケープ・デザインの原理がある。しかし、彼の計画案がそのまま実現することはなかった。すぐさま問題になったのは人工湖である。恣意的な形には無理があった。さらに、数多くの困難が待ち受けていたのであった。
グリフィンはキャンベラで人生を狂わせたと言えるかもしれない。一等入選以来、その実現過程で様々な政治的力学関係に翻弄され続けるのである。三二年までオーストラリアに釘付けになった。メルボーンなどで数々の仕事を手掛けるけれど、これぞという作品はなさそうだ。その後、インドのラクナウに招かれていくつかの仕事をしている。ラクナウは、パトリック・ゲデスが都市計画に最も力を注いだ町だ。グリフィンは、シカゴでゲデスの講義を聴いたことがあるという。折しも、エドウィン・ラッチェンスの監督の下、ニューデリーが建設中であった。この繋がりが二〇世紀の都市計画史の綾である。彼らは何かを共有していたのだ。そして一方、果たして、一人の人間がひとつの都市を設計できるのか、という問いをグリフィンのキャンベラが投げかけ続けている。
オーストラリアの都市と建築
布野修司
②グリーンウエイのシドニー
シドニーの発祥の地、湾に面したザ・ロックスはヴィクトリア王朝時代の面影を今に残す。七〇年代から保存修景事業が展開され、観光客が蝟集する活気ある空間として蘇った。その一角にグリーンウェイという路地がある。小さな文字が書いてあるだけだから余程注意していないと気がつかない。フランシス・グリーンウェイ(一七七七~一八七三)という建築家が住んでいたのだという。
このグリーンウェイは建築史上実にユニークな建築家といっていい。彼は死刑判決を受けてオーストラリアに流された囚人建築家なのである。経歴は定かではないが、ジョン・ナッシュと同じ住所にいたというから、それなりの訓練を受けた建築家であったことは疑いはない。英国にも三つの作品が知られている。しかし、請け負った仕事がうまくいかず、莫大な借金を背負って破産する。契約不履行は当時の法では死刑であった。
折からグリーンウェイ展(一九九七年)が開かれていた。皮肉というか、ハイドパーク北の、かっての監獄が美術館に改装されていた。しかも、彼が設計した監獄だ。彼はウイリアム・チェンバースの建築書を持参していた。野心満々である。シドニーに到着する(一八一四年)や否やマクエアリー総督に取り入り、総督付き建築家になることに成功したのであった。
展覧会には作品がプロットされた地図(一八三一年)があった。数え上げると四九にのぼる。マクエアリー・フォート、総督邸、最高裁、聖ジェイムズ教会などの他、住宅、倉庫などありとあらゆる施設を建設している。すごい建設量である。シドニーの初期の骨格はグリーンウェイによってつくられたのである。現在の中心街区には超高層ビルが林立する。しかし、グリーンウェイのシドニーを今猶歩いてみることが出来る。キャプテン・クックがボタニィ湾に上陸したのが一七七〇年、アーサー・フィリップ総督がジャクソン港に到着し、英国領としたのが一七八八年、グリーンウェイが活躍したのは一五〇年ほどの前だから、当然といえば当然かもしれない。
グリーンウェイはシドニーに流されて、その名を残した。しかし、幸せだったかどうかはわからない。やがて総督付き建築家の職を解かれ、民間建築家として生きるが、生涯借金苦に悩まされるのである。しかし、小さな路地にその名が残り、一六〇年後に展覧会が催されたのだからもって瞑すべしであろう。
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布野修司
③サルマンのガーデン・サバーブ
シドニー滞在中に「サルマンの息子たちに救われて」という新聞記事が眼にとまった。建築家協会のジョン・サルマン賞が六五周年を迎えるのを記念して展覧会が開かれており、その歴史を振り返る内容だった。賞制定の経緯に細かく触れ、現在の賞の問題点も指摘する鋭い記事だった。一般紙に建築に関する署名原稿が載るのはうらやましい。
シドニーといえばオペラハウスだが、その周辺で一悶着が起こっていた。シドニー湾を囲むようにオフィスビルやコンドミニアムが建ち並び、オペラハウスの景観を駄目にするというのだ。大反対運動が起こった。普通町並みを乱すモニュメンタルな建築が槍玉に上がるけれど、ここでは凡庸なビルの方が駄目だ。建築文化のある水準を示している。
ところで、ジョン・サルマン(一八四九~一九三二年)とは何者か。英国王立建築家協会(RIBA)の会員だった彼がオーストラリアにやってきたのが一八八六年、フランシス・グリーンウェイの時代から半世紀が過ぎていた。彼はオーストラリアの建築界をリードするためにやってきて、その名を冠した賞が創設されるに相応しい仕事をなした。
建築家としてはさしたる実績はない。その名声は専ら都市計画家、あるいは文筆家としてのものだ。冒頭の記事も、三〇年にわたる教育活動、デイリー・テレグラフのコラムニストの実績を主としてあげていた。しかし、彼の名はもう少し、知られていい。「タウン・プランニング」(都市計画)という言葉を世界で最初に使ったのがサルマンなのだ。
一八九〇年にメルボーンで開かれた会議で「都市の配置(レイアウト)」という論文を発表したのが彼だ。こんなことは、日本の都市計画の教科書は教えてくれない。見るところ、オーストラリアにおいては都市計画がまず問題であった。サルマンは、そのキーパースンであり、一九一四年には都市計画協会の会長に就任している。
もちろん、グリフィンのキャンベラ計画にも深く関わった。連邦行政府側の代表者としてグリフィンの案に介入したのがサルマンである。彼の理想としたのは田園都市のパターンである。直線的な幾何学パターンは非人間的だと思いこんでいた節がある。グリフィンのおおらかな軸線構成は気に入らなかった。彼の主張は余程大きかったのであろうか。オーストラリアの町の郊外は、全てくねくねと酔っぱらったような住宅地になっている。
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