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2024年9月20日金曜日

変貌する建国50周年の中国都市・上 北京 中 西安 下 広州, 日刊建設工業新聞,1999年1105

 変貌する建国50周年の中国都市・上 北京 中 西安 下 広州, 日刊建設工業新聞,19991105

 

変貌する建国五〇周年の中国都市

布野修司

 国際交流基金(ジャパン・ファンデーション)と日本建築家協会(JIA)共催の「現代日本建築一九八五-一九九六展」が中国を巡回中である。それに伴う企画として「日本建築の発展と日本文化」と題した講演(建設部建築技術研究院(北京)、華南理工学院(広州))を日本の外務省から依頼された。『日本当代百名建築師作品選』を中国で出版した(一一九九六年)縁である。以下は、北京→西安→広州を駆け足で回ってきたレポートである。



①北京 大雑院から高級公寓まで

 建国五〇周年を迎えた北京は建設ラッシュであった。あちこちで五〇周年記念式典(一〇月一日)に間に合わせようという工事が行われ活気に満ちているように見えた。

 四年ぶりに訪れた北京の変貌には心底驚いた。その象徴が北京随一の繁華街、王府井(ワンフーチン)だ。道路は拡幅され、バスなど必要車両を除いて歩行者天国になっている。四年前には革命以前の通りの面影が残り、長安街からの入口の赤いマクドナルドの店が目立つ程度であったが、今は一体どこの街なのか曰わく言い難い。北京市の幹部が汚職で失脚することになった巨大なショッピング・センターがほぼ完成し、新しい王府井の姿が明らかになりつつある。今となっては、工事中に『乾隆京城全図』に描かれたまさにその場所で発見された清朝の井戸跡が歴史を偲ぶ唯一のよすがである。

 天安門の前を東西に走る長安街の変貌も著しい。中国風の屋根を載せたかってのビル(帝冠様式!)に変わって、石貼りとミラーグラスを組み合わせたポストモダン風のオフィスビルが建ち並ぶ。ほとんどがアメリカ人建築家の手になる。講演(学術報告会)では中国建築技術院の院長以下、研究員、精華大の先生、学生などを前にして、日本建築の歴史を近代中心に僕なりにしゃべった。帝冠様式にももちろん触れた。院長の総括を含め、質疑応答の一つの焦点は新しい長安街のデザインだった。帝冠様式にもポストモダン風にも彼らは満足していないように思えた。

 もうひとつ大きな変化は交通渋滞だ。バンコクほどではないけれど、このままでは深刻な状態に陥るに違いない。北京市城市規劃設計を訪れて、北京市の住宅価格の分布図を見せてもらった。東北が高く、南西が低い。しかし、住宅建設の最前線は郊外へと展開中である。いくつかモデルルームを訪れてみた。びっくりするのは広さである。一五〇平米が標準で、三〇〇平米を超えるものもある。一体、三人家族でこれだけ必要なのか、と思わず尋ねた程だ。中国には、安置工程(四三平米)、安居工程(七〇~八〇平米)、小康住宅(一二〇平米)という区分がある。しかし、政府は昨年末、賃貸住宅を廃止し、住宅建設分野に市場原理を導入することを決定する。その結果が空前の住宅建設ブームである。設備の水準も高い、日本では億ションといっていい高層集合住宅(「高級公寓」)が次々に建っているのである。

 中国では各職場単位毎に住宅が用意され、職住近接が理念とされてきた。大きな大学になるとキャンパスは広大で全てがそろっている。生活はキャンパス内で完結する。しかし、今後は自ら住宅を取得することになる。北京の交通渋滞は、おそらく、職場と住宅立地をめぐる大きな転換が関わっている。

 一方、伝統的な住居、四合院の残る地区は消えつつある。内城では二カ所が保存地区に指定されているけれど、「大雑院」と呼ばれる建て詰まった四合院地区が再開発を待っている。


②西安  中国建築の伝統と現代化

 四合院の町家地区は西安でも消えつつあった。日本人に親しい長安の都の変貌も著しいのである。城外南北をには高層建築が建ち並んでいる。

 長安の都というけれど、現在残る城壁内は明清時代の西安城で、長安城の宮城、皇城部分にすぎない。改めて、長安城の巨大さがわかる。空海が学んだ青龍寺は城壁の外である。長安城の南の境界にあった、玄奘(三蔵法師)が印度から持ち帰った多くの経典を翻訳した慈恩寺(大雁塔)は、遙か城外南である。

 現在の南北中軸線上に鐘楼がある。その北東に鼓楼があり、その間に不思議な空間が作られている。「西安鐘鼓楼広場」と呼ばれるその空間は極めてシンプルで正方形の庭が整然と並んでいるだけである。新しいショッピングモールは地下におさめられ、地上に控えめに突きだした五基のピラミッド状のトップライトがその存在を示している。そして、北側にはかっての町並みを意識したファサードが二つの楼をつなぐようにデザインされている。デザインの意図は明らかだ。すなわち、新たに必要な商店街を地下に納めながら容積を確保し、かっての空間の質を保持する、伝統と現代を現実的に解く試みである。このプロジェクトは中国建築学会賞を受けた。

 建築家は張錦秋、中国を代表する女流建築家である。実は清龍寺も大雁塔もその復元、周辺整備(唐華賓舘、唐芸術陳列舘)も彼女の手になる。興慶宮の阿倍野仲麻呂の碑(一九七八年)も彼女のデザインだから日本との縁は深い。それどころか、狭西歴史博物館(一九八三)、法門寺の周辺整備(一九八七)、華清宮の整備など西安の主だった建築は彼女の手になる。もちろん、歴史的な地区の設計だけではなく、新しい団地の設計もこなす。中国建築西北設計研究院總建築師、精華大学教授でもある。

 その張錦秋氏に西安で会う機会を得た。息子の韓一平君が我が研究室出身という縁である。韓君は今全国市長培訓中心都市発展研究所の副所長である。中国各地で街並み保存を展開するのが彼の仕事である。張錦秋氏からは厳しい批判をというということであったが、建築史学の大家梁思成の学生であった時代から文革時代までの話で心地よい宴はあっという間に過ぎてしまった。張錦秋の建築は決して派手ではない。正統派である。中国建築の伝統を深く理解し分析する眼がある。「帝冠様式」のレヴェルを超えていることは言うまでもない。特に外部空間の視覚的分析を基礎とする、建築史家としての出発がその手法を支えている。

 中国建築の伝統では、宮殿、寺院、民居など、全て中軸線を挟んで左右相称の四合院型の構成が基本である。あまりにも形式化され、それに対抗し乗り越えるのは至難のことである、と台湾の李祖源はいう。張錦秋と李祖源は交流があるけれど、張錦秋にとっても最大の課題であり続けている。


③広州 開発と街並み保存

 華南理工学院での講演はものすごい聴衆であった。若い学生を主体に数百人、二重、三重に立席もできた。『日本当代百名建築師作品選』が知られ、「現代日本建築1985-96展」が開かれた直後であったということもあるが、会場の熱気を支えたのは現代日本建築に関する関心である。

 いささか翳りを見せ始めたとはいえ、広州は、上海、北京に続く経済成長率を誇る。旧市街の東の新興開発区、天河には超高層ビルが建ち並ぶ。広大な空き地も拡がり開発を待っている。真ん中に陸上競技場がある。バブルが弾ける直前の幕張を思った。講演後の懇親会で、華南理工学院の建築学院出身の、わずか三八歳という若き副市長と同席したのであるが、その意気や軒昂であった。

 スケジュールの合間に町を見て回る。ひとつの学術的関心はイスラーム地区であった。多くの民族がどのように共生してきたのかが大きな興味である。西安が陸のシルクロードの出発点であるとすれば、広州は海のシルクロードの出発点である。古来多くのイスラーム教徒が住んできた。西安の清真大寺周辺のようにひとつの街が残されているわけではないが、今日もミナレット光塔をもつ懐聖寺が信者の拠点になっていた。

 旧市街には伝統的町家、あるいは騎楼(亭子脚)のある店屋が残されていた。通風のために荒い丸太を横に通した木製の玄関引戸が並ぶ路地はなかなかの風情である。スケールもよく、人々の生活の臭いがぷんぷんしている。しかし、ここでも再開発が進行中である。

 珠江に浮かぶ人工島、沙面にはかっての植民地建築が整然と残されている。一六世紀にポルトガルが訪れて以来、広州は西欧列強の窓口であった。アヘン戦争の結果、英仏の租界になり、以来、中華人民共和国の成立まで外国人居留地であった。建国五〇年を経てもその歴史は街並みとして残されている。

 講演では、日本の近代建築の歴史を僕なりにわかりやすくかいつまんで話したつもりだ。そして、バブルの弾けた日本の課題についても触れた。建設の時代が終わった時のことを考えて下さいというのがまとめのメッセージである。あとで聞かされたのであるが、大変な反応だった。日本の現代建築の専ら宣伝ではないかと思っていたけれど、問題点も含めてわかりやすかったということらしい。

 質疑は、新旧の街並みをどう調和すればいいのか、広州の街づくりをどう考えればいいか、ということが中心であった。また、単にデザインではなく具体的な手法を知りたいということであった。

 広州のアイデンティティを大事にすること、広州全体をひとつのイメージとして考えるのではなく地区の固有性を大事にすること、若い学生が地区に張りついて地区の将来を提案すること、など一般的に答えたけれど、冷や汗ものであった。問題は広州だけの問題ではないのである。

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