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2024年9月4日水曜日

「言説」のみで「建築」を語る「限界」、八束はじめ『思想としての日本近代建築』、図書新聞、20051011

書評:八束はじめ著『思想としての日本近代建築』

「言説」のみで「建築」を語る「限界」、八束はじめ『思想としての日本近代建築』

布野修司

 

 大著である。きちんとロジックを追うのはいささか骨が折れる。物理的にも重い。「思想としての日本近代建築」という、「思想」「日本」「日本近代」「近代建築」「建築」のいずれの間にも「・」(中黒)を入れて読みうる奇妙なタイトルの本著は、著者によれば、「思想史的な論考」であって、「建築がどのようなものであったかを具体的に論じるというものではない」。テーマとするのは(全体を通じて浮き上がらせたいのは)、「建築」を通して、「日本」という枠組みの中に成立した「近代」の姿である。

 主として素材とされるのは、近代日本において孕まれ、記された「建築家」による言説であり、「近代建築史」に関わる論文・著作である。しかし、著者自ら認めるように、本書には、文学、美術、哲学、・・等々、実に多くの「ジャンル」の言説もまた、「煩瑣なまでに入れ替わり立ち替わり登場する」。読むのに骨が折れるのはそのせいでもある。しかも、構成を整除しすぎることを警戒したというのである。

 しかし、本著はロジックを弄んでいるのでも、韜晦を決め込んでいるのでもない。かつて同じような作業を試みようとしたことのある評者には、少なくとも、「日本の近代建築」に関わるテーマは網羅され、議論されているように思われる。

 全体は、三部に分けられ、それぞれ三~四章からなるが、大きく「国家・歴史・建築」「地方・モダニズム・住宅」「政治・国土・空間」というキーワードが与えられている。「明治」「大正」「昭和」戦前期が対応するが、記述の縦糸は各章を通じて張られている。

まず、著者は、「建築」「建築史」の起源、その成立を執拗に問う。焦点となるのは伊東忠太の著作・言説である。言説を成り立たせるフレーム、土俵、根拠を問う(メタ・ヒストリー)のは本書に一貫する構えである。

そして続いて「様式」が問われている。日本近代建築史の脈絡において問題にされてきた、「擬洋風」、「議員建築問題」(「国家と様式」論争)、「国民様式」論、「帝冠(併合)様式」等々の問題は本書で一貫するテーマとして論じられている。

著者のこれまでの仕事からはやや意外な気もしたが、評者のように、「住宅の問題」あるいは「計画の問題」に拘り続けているものにとって、第二部が全体的に「住宅」を焦点としているのは興味深くもあり、ありがたい。「風景」あるいは「風土」というキーワードとともに、「住宅」は、「日本」という「空間」を問う大きな手掛かりである。

空間的フレームとしては、具体的に、日本植民地の空間が問題にされている。本書の全体フレームとされるのは「国民国家としての日本」であり、「大東亜」の空間が問題となるのは当然といえば当然である。

本書の可能性と限界は、そのテーマ設定そのものにあるといっていい。日本近代建築史の既往の作業を見事に相対化、メタ・クリティークしてくれている。個々の作業の前提として、一方で必要なのはこうしたパースペクティブである。次元は低い言い方であるが、建築について語られ続けていることはまるで金太郎飴なのである。

しかし、本著から、「建築家」なり「作家」が何を学べばいいのか、ということになるといささか心もとない、というか、もともとそんなことは意図されていないのである。本書は、冒頭に宣言されるように、もとより近代建築史の本ではない。また、近代日本における「建築」あるいは「建築のあり方」を問う本でもない。それを求めようとすれば不満が残るのは当然である。「建築」を「言説」のみにおいて語るのは「限界」がある。

最大の不満は、昭和戦前期で記述を終えていることである。「あとがき」において、評者の名前を挙げ、戦後については、「布野修司氏の仕事(『戦後建築論ノート』『戦後建築の終焉』)があれば今のところで充分ではないかと思っている」と書くが、拙著が不十分であることは明らかである。戦後も60年になる。戦後にまで作業を進めるのは、本書を書いたものの若い世代に向けての義務であろう。

そして言説批判の書として決して小さくない不満は、引用、注、参考文献が入り乱れていることである。もう少し言説のリストを整理してもらえなかったか。何も頁数まで記せとは言わないが、後学のためには残念である。

昭和戦前期における、いわゆる「帝冠様式」「ファシズム建築」「前川國男評価」などをめぐって評者の言説も批判的に取り上げられている。特に「十五年戦争期」の問題は今日的でもあり、掘り下げられる必要がさらにあると思う。その文章を書いた頃、「同時代建築研究会」の仲間と共に戦時中の建築家の活動についてかなり精力的に聴いて回っていたことを思い出す。書かれないことをどう書くのか。同じ頃、著者と、書くこと、見ること、作ることの根源をめぐって議論したのがなつかしい。しかし、議論は決して過去のものではない。景観法が施行される中で、「勾配屋根」が取り沙汰されるのは現在のことなのである。(8月30日)


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